京大バリストと「無期限停学」処分を考える《2》 熊野寮という特別空間

400名を超える学生が暮らす自治寮「熊野寮」には「自由」の空気が流れている。これだけの大所帯なので運営も一筋縄ではいかないだろう。社会や政治に強い興味のある学生も、そうでない学生も暮らす空間は、学生「自治」の最後の砦かも知れない。議論の中で私は「法政大学が監獄大学になるのに10年も要さなかった。京大は確実に権力からタ―ゲットにされていると思う。このまま行けば5年後この場所はないかも知れません」と懸念を述べた。この意見にはKさんも同意され、戦後経験したことの無い、弾圧と反動が今起こっていることについての認識で一致した。

 

議論は終息をみそうになかったが、頃合いを見て気を利かせた卒業生が缶ビールを差し入れしてくれた。熊野寮食堂に冷房はない。当日も扇風機が回っていたが滲み出る汗を抑えるまでの効果はなかったのでビールには助かった。懇談会はあらたまった「閉会」を宣言することなく「もう帰らんと家に着かれへんから」、「明日試験なので勉強して来ます」といって一人抜け二人抜け、また知り合いの顔を見つけた学生が、他の席に移動して行ったりで流れ解散となった。

この日驚いたのはKさんが実に多くの学生を良く知っており、またKさんも学生から認知されていることだった。ビールを数本開けた頃Kさんは「どうですか、この雰囲気は」と私に尋ねた。「いいですね。昔を思い出して懐かしいです」と私が答えると、Kさんは「ここにいた時代は、私の人生にとって何物にも代えがたいんですよ。ここで出会った友人たちが結局人生の中で最も重要な友人となりました」と隠し立てせず思いを語って下さった。

私はよくその気持ちが理解できるような気がした。ここで誤解を招かないように、Kさんの人となりについて若干触れておく必要があるだろう。Kさんは大学卒業後いくつかの企業で先端技術の関連業務に従事していた(現役時代は世界中を飛び回り先端技術者として世界にその名を知られていた)。定年後も独自でコンサルタント業をいとなんでいる。クライアントには海外の企業も多いそうだ。つまり彼は一般的な意味で「社会的に成功した」人物であり、仕事も趣味もない単なる「懐古主義者」とは全く異なる人物であることを強調しておく必要があろう(現役時代の収入は相当なものだったと想像される)。

そのKさんから思いを綴った下記の文章を頂いた。

京大正門には同学会やサークルの立て看板に混じって、ノンセクトの学生が出したと思われる立て看板が有った。「封鎖はオカシイ、でも停学処分はもっとオカシイ、学生に窓口がないなら実力行動は1つの手段だ」とありました。

1970年全共闘運動の終焉の年に京大に入った私にとっては、とうとう来るべきものが来たかであった。文部官僚がじわじわと大学を追い詰め、とうとう本丸に手を出してきました。広範な市民的活動が求められていると思います。

この事件に関しては既に京大当局は同学会を告訴して 関与した中核派が6名逮捕されたが、検察は3月に不起訴にしています。

詩人であり事業家でもあった故堤清二さんは戦後すぐの学生時代に共産党員になり分裂を経験したり、ご尊父との確執があったりして非常に懐の深い人でした。彼が社会思想関連の対談中で「やはり関西では 京大の存在が大きい」なる旨の発言をしています。

戦前京大は河上肇をなどのファシズムに抵抗した多くの知識人、社会主義者を輩出した。大学の自治を守ろうとした滝川事件は有名です。戦後では天皇事件をはじめ、以降綿々と継続しているリベラルの伝統は周知のことです。反原発の原子力研究者が無傷でいられたのも京大らしいといえます。その京大でおおきな反動が起こってきている、全容に迫ろう。

40年以上も前だが京大教養部で学生運動の片隅にいた。当時は三派全学連や全共闘の「実力闘争」は衰えてはいたが、京大では学生運動はそれなりに存在感を示していて、構内はそれぞれの革命を主張する人達でが入り乱れていた。日本共産党と新左翼系は鋭く対立していたが、まもなくその中で中核─革マル─青解の三つ巴の内ゲバが始まった。彼らとは少しはなれて、京大ではブント系が教養部と各学部でゆるくまとまり反帝国主義の旗の元、同学会を日共から奪還したりしてきた。全共闘の崩壊、連合赤軍の破綻、米中友好、などを経て、運動方針をめぐる本質的な亀裂が進行して深刻な事態になってきた。

そんな中で理不尽な暴力を受けたことはあったが、幸運なことに自身が相手の物理的な打撃を目的としたテロに手を染めることはなかった。自分史を語るのが本稿の目的ではないのだが、近年の学生運動を述べるための今の学生と環境を少し比較しよう。

◇経済生活
学費 1970年=12,000円/年 → 2005年=535,800円/年  35年で44.7倍。
この間に、給与5.0倍、白米12.6倍 学費に関してとんでもない値上げが継続してきたことは間違いない。給与との実感では学費は約10倍になっているはずだ。

当時家から定期的な送金がなかった私は自主管理寮にはいり生活費を抑えながらアルバイトを繰り返して何とか食べていた。さすがに学生運動家には無理だろうが、アルバイトだけで郷里へ送金していた人も寮には居たそうだ。文系であれば可能だっただろう。70年代初頭くらいまではこのように社会的な流動性が担保されていたと言えるのではないか。家の経済状況が相当悪い人でも国立大学にそれなりに入っていたことが解る。

現在の学費、入学金、下宿代などを考えると国立大でも入学時に約百万円かかることになる。京大以外ではほとんどの自主管理寮がなくなっているのだから、今大学進学志望者と、その家族は経済的に追い詰められていると思う。まるで新しい封建制が確立しているようだ。

 

◇学生生活
半世紀前との決定的な違いは その余裕のなさだ。当時は文系の学生などは、学生運動やサークル運動に参加しなければそれこそ 「デッカンショ」の世界で、一日中好きな勉強や読書にいそしむことができた。いまやどの講義も出席が単位習得と連動して厳しく管理されている。また英語教育を強化するとして、自習型のコンピューターシステムが導入されて課外での負担も増えているようだ。総じて今京大生はむやみに拘束されて疲れはてて不活発になっている。 (つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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干されたベッキー、続く茨の道

「ゲスの極み乙女。」のボーカル川谷絵音の不倫疑惑が報じられ、休業を経て芸能活動に復帰したタレント・ベッキーが、復帰と同時に再開していたツイッターが、再び“休止状態”となった。そこには「報道されないナーバスな理由」が横たわっているという。

「ベッキーは1月に『週刊文春』誌面に個人的なLINEのやりとりが掲載されてから自分のスマホがハッキングされている可能性があるとして怯えており、ほぼプライベートでは、自分でインスタグラムやツイッターに投稿していません。本人が知らないところで、スタッフが肩代わりして書いていたのですが、これも『中傷のコメントが多すぎるし、ベッキーのスケジュールなどハッキングされるとどこに漏れるかわからない』として事務所サイドとしては、スタッフに『ベッキーの住居情報や、個人携帯の盗聴防備などセキュリティはしっかりしてほしい』と口を酸っぱくして言い含めていたようです」(芸能ジャーナリスト)

とくに7月末から何度も何度も送られてくる『川谷元夫人に謝罪せよ。川谷元夫人に謝罪せよ』と繰り返すメールは、迷惑メールとしてカットしても、アドレスを何度も入ってくるという代物でベッキーの耳にも届いていた。7月24日には、「27時間テレビ」(フジテレビ)に明石家さんまが電話出演させる粋な計らいを見せたが、「これも、『今、○○にいるだろう』と居場所を特定するようなブラックメールに怯えているベッキーの様子がさんまの耳に入り、元気づけようとして電話出演させたのでは…と囁かれています」(同)

ベッキー側は、いたずらメールやベッキーの個人メールを流出させようとするスパイウェアの駆逐などについて警察に相談する寸前だとも伝えられるが、「まだ犯罪要素を構成するメールが来てない」(事務所筋)として、被害届けの提出は見送っているそうだ。事務所に「ベッキーのツィター休止理由は」と聴いたが「担当者は不在」としている。16時52分(広報は富岡さん)

一説には、「ブラックメールを操って、タレントが活動できないようにしてもてあそぶネットカルト」にベッキーが追われているという説もある。

果たして、ライバル芸能プロダクションの策略か。それともアンチファンの嫌がらせか。

「いずれにしても、『27時間テレビ』でさえも視聴者からクレームが数十本入った。復帰はすんなりとはいかない」(放送作家)

「今度は、『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』(TBS)で中居正広に弁解の機会をもらったように、中居に『SMAP解散について』インタビューする役でもやるといい。恩返しということで、イメージがいいのでは」(同)

いろりの前でベッキーが中居に解散の理由を聞くわけか。そうしたウルトラC案に頼らざるをえないほど、まだまだ好感度が上がらず、ベッキー復帰へは茨の道が続く。

(伊東北斗)

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京大バリストと「無期限停学」処分を考える《1》

 

昨年10月27日、京都大学でバリスト(バリケードストライキ)が京都大学同学会(大学自治会に相当するが、京大当局は現同学会を公認していない)によって行われた。バリストは1つの学舎を午前中だけ封鎖し、その後当局職員や、バリストに反対する学生たちにより解除された。京大当局は威力業務妨害で京大生を含む6名に対しての被害届を警察に出し、6名は逮捕拘留された(6名とも不起訴)。京都大学が警察権力を利用するのは1958年以来だという。

「自由」の学風が全国に知れ渡っている京大だが、「ついに21世紀型安倍ファシズムとの並走を隠すことなく露骨に表出し始めた」と関係者は深い懸念を示している。そんな中、京大当局は、4学生の無期停学処分を発表した。

過日京大の熊野寮でOBを含めてこの問題についての私的な議論の場が持たれ、私も参加を認められたので取材に赴いた。

熊野寮で行われた懇談会には熊野寮出身で既に還暦を超えた卒業生Kさんをはじめ、1952年生まれの京大OBで俸給生活をへて自由人となり、再び京大に入学した外見上は「学生」のイメージとはやや異なる現役学生のLさん他、今回「無期停学」の処分を受けた学生や数名の現役学生が集まった。また卒業後間もない若者たちも参加した。

Kさんが司会役となり進んだ議論の中で京大に再入学したLさんは「京大当局1958年以来の半世紀ぶりの学生運動に対する処分を決行した。私は大学の自治と学問の自由への重大な侵害である今回の処分に反対します。7月14日京都大学は総長名で昨秋同学会が行った反戦バリストの処分を発表した。参加した同学会役員4名の無期停学処分であり、学内への立ち入りを禁止する厳しい内容だ」と京大当局の姿勢を厳しく批判した。70年代の京大を知っているLさんにすれば目前の弾圧には、言い知れぬ隔世の感を超える危機感を抱いていることが伝わった。

Kさんは司会に徹するだけでなく、「無期限停学」の被処分者となった同学会の学生とも活発に討論していた。Kさんはバリストに反対の立場ではなかったようだが、その戦術や総括についてはKさんなりの思いも強かったようで、被処分学生との間では闊達な議論が行われた。

 

一方バリストに対する学生の評価は、必ずしも高い物ではない、という側面も明らかになった。熊野寮で暮らす学生は、「ストをすることは同学会から聞いていたが あのようなものとは思わなかった。正直おかしいと思う」と語った。「あのような」とは外人部隊(他大学からのスト参加者)が多く、中核派が影響力を持っている大学の旗が並んだことと、事前に通知なしで封鎖と授業妨害が行われたことを言う。中核派の活動のように見えたことだろう。(同学会はストライキで安倍―山極体制と戦うとは通知していた)。これに対して「無期停学」被処分者の回答は、事前にストの全容を公開すると弾圧されるので 其の時期、詳細内容は発表できなかったと釈明したが違和感を述べた学生に納得されてはいないようだった。また「反戦のためにバリストをする意味が解らない」との疑問もあった。

この問かけに対してKさんは「同学会は学生の疑問に向き合う必要がある。反戦と現在学生がおかれている状況の関連を丁寧で精緻な論理で説明して、その意味を理解してもらわなければならないのだろう」と同学会の今後を見据えたアドバイスを表明し、それについて「無期停学」被処分者は納得していた様子だった。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
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《冤死の淵で》平沢貞通氏(帝銀事件) 支援者への手紙から浮かび上がる実像

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。3人目は、帝銀事件の平沢貞通氏(享年95)。

◆まるで少年のように

1948年1月に東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒殺され、現金や小切手が盗まれた帝銀事件は、日本を代表する冤罪事件として語り継がれてきた。この事件の容疑で死刑確定したテンペラ画家の平沢貞通氏は、獄中で40年も無実を訴え続けた末に1987年5月、95歳で無念の獄死を遂げたが、現在も遺族が雪冤を目指し、東京高裁に第20次再請求中である。

私は6月10日付けの当欄で、そんな平沢氏を30年に渡り支援した石井敏夫氏という男性が4月に81歳で亡くなったことを報告した。平沢氏が生前、獄中で数多くの絵画を描いていたのは有名な話だが、そのために画材を差入れし続けていたのが、宇都宮市で洋品店を営んでいた石井さんだった。石井さんは全国各地で平沢氏の個展も開催するなどしており、平沢氏にとっては、まさに生きるための支えのような存在だった。

平沢氏が生前、石井氏に出した手紙を見ると、そのことはよくわかる。たとえば、次の手紙は、石井氏が平沢氏に対し、初めて画材の差し入れを申し出た際、平沢氏から届いた返事の手紙である。

〈御手紙によりますと、画紙を御差入れ下さいます由で恐れ入ります。厚く御礼申上げます。御厚情御親切に御甘えいたしまして申上げますが、実は今御茶の水駅下車、神田スルガ台下、交差点の文房堂発売のドローイングブロック(美濃判位の大きさの白画用紙、二、三十枚綴り〉が使いきって了って困っておりますので、若しもこれが御入れ賜わり得ましたら何よりの喜びで御座居ますが……
「厚かましい」と御怒りなく御許し下さいませ。乍末筆 御尊父様にもよろしく!!〉

この手紙が出された年月日は不明だが、平沢氏は当時60代になっていたという。それでいながら、まるで少年のように石井氏からの画材差し入れの申し入れを喜んでいる様子が窺える。

◆獄中でも芸術を追及

平沢氏は満足のいく絵が描けると、てらいなく無邪気に喜び、次のように手紙で石井氏に報告していた。

〈お慶び下さい!! 見事成功!! 観山師ならずとも、恩師大観先生でも「とうとうやったな!! よし良し……」と必ず御歓び、御褒め下さることと思う成功で、未だ日本画家では何人も、唯一人も出来なかったことをやってのけたのです!!(・・・略・・・)この向うへ《進入して行く運動的表現=即山派の屋根が向うへ突き進んで雲の中へ入って行く姿》が、日本画家のデッサンでは描けないのです。そこは大観師も「洋画の良い領分」として認めていられたのです。(・・・略・・・)出来ましたらすぐ電報で御知らせいたしますから、面会宅下げで御受取りに来て頂きたく御願い申上げます〉

「観山師」とは下村観山、「大観先生」とは横山大観のことで、いずれも日本画の大家だ。平沢氏は横山大観の弟子だった。それにしても、この喜びようを見ると、平沢氏にとって、絵を描くことが何よりの生きがいだったことがわかる。そして、その生きがいをもたらしていたのが石井氏だったのだ。

平沢氏が獄中で綴った「書き残しの記」

◆遺筆となった年賀状

しかし80代になった頃から、さすがの平沢氏も高齢には勝てず、次第に体を弱らせていく。

〈一九七四年七月二日払暁、眩暈を起こし倒れ、寝床に入いり、脈搏を測かりました。《「ヒー・フー・三ツ」と数へ、「四ツ」目に結滞》のくり返しなのです。寝ずの番の先生が気付かれて、医務に電話して下さって、医師先生二人御来診下さって、注射して下さいました。(・・・略・・・)この現襲せる病状から診ますと、いつ心臓麻痺が来るか不明ですので、平素から気になっておりました小生無き後を御願申上げておきたいと存じます〉

平沢氏がこのような書き出しで始まる「書き残しの記」なる文章を書いたのは、82歳になっていた1974年のこと。心臓麻痺の発作を起こして倒れたことを報告すると共に死後のことについて、関係者たちに様々なお願いをした事実上の「遺書」だった。

平沢氏が晩年に拘禁されていた宮城刑務所仙台拘置支所

さらに時は流れて80年代になると、90歳を超えた平沢氏の老衰は進み、右目の視力はほとんど失われ、絵も描けなくなり、ずっと床についている状態となった。そして1987年の正月、次のような年賀状が届いたのが、平沢氏から石井氏のもとに届いた最後の手紙になった。

〈謹賀新年 六十二年 元旦 八王子市三ノ二六ノ一 子安町 平沢貞通〉

もはや、この程度の文字しか書けないほど平沢氏は弱り切っていたのである。この年賀状が石井氏のもとに届いた約4カ月後、平沢氏は危篤状態となり、それから約1カ月は持ちこたえたが、5月10日午前8時45分、ついに息を引き取った。そして養子縁組していた平沢武彦氏が用意していたマンションに引き取られ、平沢氏は逮捕されてから実に39年ぶりに畳のある部屋で休むことができたのである。

今年4月に亡くなられた石井氏は、生前の平沢氏を支えたのみならず、この歴史的冤罪を後世に語り継ぐうえでも重要な役割を果たされたと私は思っている。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここでは紹介し切れなかった平沢氏の遺筆や生前に描いていた絵画が多数紹介されている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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女優魂ゆえ? 柴咲コウが実業家と破局した理由

柴咲コウが交際していた実業家と破局した理由が不明だと業界関係者たちはささやいている。

 
柴咲コウ『続こううたう』(初回限定盤)ビクターエンタテインメント2016年7月20日発売

「相手の男性はブランド和牛の魅力を世界に発信する事業を手掛け、『和牛王』の異名を取っており、売り上げも順調。趣味はトライアスロンというアクティブな一面もあり、行動派。すでに両親への挨拶をすませていると聞いていたので驚いた」(芸能ジャーナリスト)

理由のひとつは、「元彼の妻夫木聡が忘れられなくて、マイコとの結婚発表がショックだった」ともささやかれているが、これは信憑性が低い。

「どちらかというと、結婚する確率としては、ざっくばらんに誰が相手でも合わせることができる元サッカー選手の中田英寿のほうが高かった。ですが、柴咲は気が変わりやすいし、いい女優になるためには波乱万丈な生き方を求めるタイプ。さらに、女優業に命をかけている仕事人。自分を理解してくれる男性ともっといい出会いがあると踏んだのではないか」(同)

別れた男性は、すでにふたりが住むための一軒家の設計まで視野に入れていたとされる。

「ふたりは数年前から知り合いだったが、今年の1月から交際を始めていた。男性のほうはいそいで結婚したがったが、根っからの女優である柴咲は、来年から主演するNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で郷土資料を読み込むなどして、このドラマに賭けていて、交際する時間が十分にとれなかった。それで相手男性の不満が募ったのではないか」(同)

柴咲は役作りに集中すると、まったくほかのことが目に入らなくなるのは業界ではつとに知られている。

「男性のほうが本当は『女性は家庭に入って』という考えだったらしいけど、サバサバしている性格の柴咲は『一生、女優という仕事を続けたい』という気持ちが強かったんです。それで『それなら別れましょう』と彼女のほうから切り出したとされます」(同)

事務所のスターダストの広報に「破局の理由は?」と聞いたが、折り返しの連絡はなかった。(8月12日19:35)

「つぎの恋は、女優稼業を理解してくれる男性との出会いを柴咲は望んでいます」(プロダクション関係者)

今回、残念ながら別れた実業家は、どちらかというと優しくて女性の意見を聞くタイプ。来年演じる「おんな城主」ではないが、やはり強気で男性をリードするほうが柴咲の性根にあっているのかもしれない。

(伊東北斗)

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藤本勲物語──日本キックボクシング半世紀の生き証人【後篇】

「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

全日本キックのリングでの交流戦チャンピオン対決で、川谷昇(岩本)に勝利し、敵地で目黒ジムが輝く(1992年6月27日撮影)

◆小4年の担任の先生に励まされ、走ることに熱中する

藤本氏が語る若き日のエピソードには時代の背景が映し出されるようなドラマがありました。

藤本勲氏の本名は藤本洋司。勲という名は同じ空手仲間の平田勲から頂いたと言います。

1942年(昭和17年)1月、島根県生まれ。4才の時、父親を病気で亡くし、母の実家である山口県長門市に移り、高校卒業まで暮らしました。

小学生の頃は草履で片道5kmを走って通い、鼻緒が切れても裸足で野道を走って通った小学校時代でした。走ることが好きで速く、小学校4年の時、担任の先生に「お前は濱村秀雄(戦後の陸上競技選手)のようになれるぞ」と励まされ、スポーツに、走ることにより頑張る気になったのが人生の節目となったのでした。

◆高校時代、「何かで日本一になろう」と水泳、陸上、野球、そして空手の道へ

中学生になると一年生から野球を始め、より一層長距離走が強くなり、体育系の優秀さで山口県の水産高校に推薦で入学しました。

高校では「何かで日本一になろうと思って幅を広げ、水泳、陸上、野球、何でもやった」と言います。

テレビでボクシングの日本ライト級チャンピオンの石川圭一さんの試合観て「ボクシングっていいなあ」と思ってボクシングもやりたくなるも、すぐ入門出来るジムも近くには無かったので、まず空手から格闘技の門をくぐりました。

MA日本キックボクシング連盟代表となった頃。フライ級チャンピオン.山口元気(山木)を讃える(1994年頃撮影)
日本キックボクシング協会復興で古巣に戻るが、「断腸の思い」と語った苦渋の会見(右端が藤本氏)(1996年3月8日撮影)
瀬戸幸一(仙台青葉ジム会長)とはキック創生期からライバルであり、苦労を共にした仲でもあった(1996年5月25日撮影)

◆洋菓子会社とキックの見事な両立で、営業部長にまで昇進!

藤本氏は母親の手で育てられましたが、母方の実家では比較的恵まれた生活環境があり、「勉強すれば大学行かせてやる」と言われていましたが、成績は優秀(本人談!)でしたが勉強は嫌いで、そのまま普通に高校卒業して大阪の船会社に就職しましたが、視力が弱くて航海士の免許が取れず転職に踏み切りました。

そして、ある製菓会社に再就職するも倒産し、そこの先輩の紹介で洋菓子専門の長崎屋に再々就職。お客さんとの触れ合いが得意で営業成績が良く、性に合った天職でした。

デビュー戦となったキックボクシングの試合に出ることを会社に申し出ても、営業成績抜群により否定的な声は聞かれず、タイ遠征も試合出場も優遇され、会社からは長崎屋の社名入り刺繍入ったガウンも贈られ、協力的な後ろ盾抜群の中、リングに上がりました。

後に東日本営業部長に昇進。ジョーク言っての対面販売が好きで、羽田空港でも店舗を持っていた長崎屋店頭にも立ちました。

◆キックの生みの親、野口修氏宅に沢村忠と共に泊まり込み合宿していた「ジャックナイフの藤本」

現役時代のキャッチフレーズは「ジャックナイフの藤本」。同門でも容赦ない膝蹴りを顔面に繰り出し、周囲からも“えげつない”と言われるほど貪欲に攻めました。膝蹴りのほか、後ろ蹴りも使いましたが、驚かす繋ぎ技としても得意でした。
それらはみんな空手で身に付けた技が実っていました。

デビューした頃は、キックの生みの親、野口修氏の家が合宿所となり、当初は沢村氏とともに泊まっており、タイ選手が泊まることがあると「蹴りやヒジ打ちなど技術論でバカにされると、互いによくわからない言葉でケンカしていた」と言います。

そんな時代では珍しい高価なビデオ機器が野口氏の家にはあり、モノクロのムエタイ試合観て技術盗む努力をしていました。

試合のダメージで、ムチ打ち症で入院したことがあり、退院したばかりで試合観に行ったところ、ピンチヒッターに駆り出され、1ラウンドKO勝ちしたこともあったという、非常識なピンチヒッターも日常茶飯事のような創生期のキック興行でした。

藤本ジム落成懇親会で有志一同と鏡割り(左から3人目)(2005年4月17日撮影)

◆51戦40勝(32KO)11敗で生涯戦績を終え、育てる側へ転身

過去、日本プロスポーツ大賞功労賞は2回獲得しており、1969年(昭和44年)2月、タイでランカーを倒した試合と、1986年(昭和61年)には、長きに渡り、日本チャンピオン多く誕生させたことでの受賞でした。

藤本氏は東洋王座を獲った翌年には結婚して娘さんも誕生したことで、ある決心が芽生えていました。

いつも重い相手と戦ってきたことから、体に故障が増え、自身が幼児期に父親を亡くしている影響から、娘のため、片親になっては可哀想と、家族を守ることを真剣に考え、「我が身ひとつで、入院していい覚悟で試合していた気持ちも萎えたらもう試合はできないと思った」と言います。

古くからの目黒ジムの聖地に再建した藤本ジム(2006年1月5日撮影)

当時は極端にトレーナーが不足していたのもひとつの理由で、第二の沢村忠を育てる必要性も感じていて、引退を決意しました。そして1970年12月5日の大阪での試合をラストファイトにして、判定負けでしたが、自身のけじめとなった試合でした。

これまで51戦40勝(32KO)11敗の生涯戦績となりました。

◆育てた選手は数知れず、 起こした事件も数知れず

キックボクシングそのものが歴史が浅く、経験を積んだトレーナーは空手やボクシング経験者しかおらず、藤本氏は翌年初頭にはキックボクシングの本格的トレーナーと言える第一人者となりました。

過去、育てた選手は数知れず、テレビに映る時の「沢村選手のセコンドに着く、眼鏡かけた背の高い藤本トレーナー」は放送でも度々、TBSの石川顕アナウンサーが実況合間の余談に拾われ、全国的に静かな知名度がありました。

1993年に、当時加盟していたMA日本キックボクシング連盟で、連盟改革の為、代表理事に藤本氏が選ばれ就任。そのため、試合でのユニフォームを着てセコンドに着くことはできなくなり、後に日本キックボクシング協会復興に伴う移行などもありましたが、幹部として役員席に着く立場は残り、目黒ジムから藤本ジムに移行した際には、より責任ある立場に置かれましたが、「今まで大好きなキックをやれてこれて幸せだった。今後も死ぬまでキックに専念する。でもまたセコンドやりたいね。」と本音も漏らしていました。

ジム内でのミット持ちは今も健在(2006年1月5日撮影)

こんな紳士的な藤本氏も、酔った勢いで起こした事件は数知れず、タイではレストランの警備員にフレンドリーに握手を求めつつ、ふざけて寸止めの膝蹴り。笑顔から本気モードの顔色に変わった警備員とやり合う寸前で、周囲の仲間が止めに入って事なきを得たこともあり、他にもその場に立ち会わされた選手から聞く武勇伝が、本当にあった怖い話のように実感させられます。

優しい面では、ジムでは誰かひとり、目に止まったり頑張った選手に「お前だけにいい物やる」と言って長崎屋で仕入れたお菓子をあげる気前の良さを見せつつ、いろいろな選手に「お前だけに」と言っていたので、誰も自分が特別と思わずも大胆不敵な優しい会長に感謝しているようでした。

瀬戸会長同様に、創生期からの対抗ジムとして、やり合った仲。千葉ジム・戸高今朝明会長と(2014年8月10日撮影)

藤本氏は永いキック人生で、日々ジムにいると垣間見れる選手らのいろいろな想い出があって、「亀谷長保(日本フェザー級チャンピオン、6度防衛の実績)は練習後、着替えた後も1時間ほど他の選手の練習も見てから帰っていた程の研究熱心だった」とか、隆盛期には喧嘩の絶えないジム内や、昭和50年代の低迷期には興行のメドも立たず、「試合も組めないのに練習に来ていた選手もいて、当時は切ない思いだった」という藤本氏でした。

◆二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指す

現在は、タイ殿堂のラジャダムナンスタジアムのチャンピオンを誕生させたことで先代野口里野会長へ恩返しができたことに安堵し、そのチャンピオンになった石井宏樹は亀谷長保に並ぶ、目黒ジムで5本の指に入る名選手と言います。今後は二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指しています。

藤本氏の武勇伝がいかに多く、また人脈多きキックの人生か、また想い出に残る昭和の名選手の裏の姿も多く見ているので、新たに藤本伝説を伺っていこうかと思います。(了)

伊原信一代表より紹介され、久々にマイクを持って御挨拶の藤本勲氏。デビュー50周年の想いを語る(2016年7月3日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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前回五輪の年から冤罪を訴える広島元放送局アナ 最高裁審理が異例の長期化!

リオ五輪もいよいよフィナーレが近づいてきたが、4年前から今日まで1つの目標に向かって頑張ってきたのは、アスリートばかりではない。当欄で何度か紹介した広島の放送局「中国放送」の元アナウンサー、煙石博さん(69)もその1人だ。

マイクで冤罪を訴える煙石さん

煙石さんは2012年10月11日に、広島銀行大河支店の店内で女性客が記帳台の上に置き忘れた封筒から現金6万6600円を抜き取り、盗んだという容疑で逮捕された。その日から4年近く無実を訴え続けているが、1審・広島地裁で懲役1年(執行猶予3年)の有罪判決、2審・広島高裁でも控訴棄却の判決を受け、現在は最高裁に上告中だ。

事件の詳細については、以前配信した後掲の関連記事もご参照頂きたいが、解析された銀行店内の防犯カメラの映像に煙石さんがお金を盗む場面は映っていなかったのをはじめ、この事件に有罪証拠はないに等しい。そもそも、「被害者」の女性客が記帳台の上に置き忘れた現金6万6600円が入っていた(はずの)封筒は、お金が1円も入っていない状態で記帳台の上に残されており、「その封筒に本当にお金が入っていたなら、犯人が誰であれ、お金だけ抜き取って封筒を元の場所に戻したりするだろうか・・・」という根本的な疑問が存在する明白な冤罪事件だ。にも関わらず、煙石さんは4年近くも雪冤を果たせないでいるわけだ。

冤罪を訴えるチラシを配る支援者

◆公正な裁判を求める署名は6000筆を突破

もっとも、この事件を取材してきた私は、煙石さんを取り巻く状況が次第に好転しているように感じている。支援者らが集めている「煙石博さんの上告審の公正な裁判を求める請願署名」は7月の時点で6280筆に達し、すでに最高裁に提出されている。去る8月7日、煙石さん本人と支援者らが広島市の本通商店街で行った街頭行動でも1時間に満たない時間で1000枚のチラシが配布され、新たに115名の署名が集まったという。

「街頭行動は6回目ですが、署名してくれる人や話を聞いてくれる人が回を重ねるごとに増えてきています」と語るのは、「煙石博さんの無罪を勝ちとる会」の小森敏廣事務局長。この日、マイクで無実を訴えた煙石さんも「こうやって街頭活動をしても、以前に比べて声をかけてくれる人が増えました。『やはり(お金を盗んだというのは)違うらしい』ということがクチコミで広がっているのを感じます」と状況が好転している手ごたえを口にする。

そして実を言うと、ある客観的なデータからも煙石さんの状況が好転していることが窺えるのである。

◆上告から1年8カ月以上続く審理

最高裁が統計によると、公表されている直近5年の「最高裁での審理期間が2年を超える被告人」は、平成22年度は42人(同年度の上告中の被告人の総数は588人)、同23年度は32人(同679人)、同24年度は12人(同555人)、同25年度は4人(同487人)、同26年度は1人(同417人)だ。このデータから読み取れることは、まず何より最高裁における刑事事件の審理期間がどんどん短縮され、上告してから2年以上も結果が出ないケースはほとんどなくなっているということだ。

では、そんなデータを持ち出し、私が何を言いたいかというと、実は煙石さんに対する最高裁の審理が長期化しているのである。

煙石さんは2014年12月11日、広島高裁に控訴を棄却され、即日上告しているのだが、それからすでに1年8カ月が経過している。私はこれまで様々な冤罪事件を取材してきたが、最高裁での審理期間がこれほど長期に及んだ事件として記憶に残っているのは、控訴審までの結果が死刑か無期懲役の事件だけだ。それ以外の多くの事件では、無実を訴える被告人が上告してから1年もしないうちに上告棄却の決定を受け、有罪が確定している。その現実を踏まえると、控訴審までの結果が執行猶予付きの有罪判決である煙石さんの審理期間がここまで長期化しているのは、異例のことだと言っていい。

◆注目は公判が開かれるか否か

裁判所に何か期待すると、裏切られることが多いので、安易に楽観的な予想をするのは控えたい。しかし、少なくとも最高裁が煙石さんの事件を「特別な事件」として認識しているのは間違いないと思う。

最高裁は通常、書面のみで審理し、地裁や高裁が行っているような公判審理は行わない。最高裁は「控訴審までの結果が死刑の事件」と「控訴審までの結果を覆す可能性がある事件」に限り、弁護人と検察官に弁論をさせる公判を開くのが慣例だ。したがって、煙石さんが最高裁で逆転無罪を勝ち取るなら、まずは最高裁がそのような公判を開くというニュースが報道されるはずだ。

この事件の行方を少しでも多くの人に注目して頂きたい。


[参考動画]冤罪を訴える煙石博さん(元中国放送アナウンサー) 2016.8.7広島市本通商店街

[関連記事]
◎広島の元アナ「冤罪」窃盗事件で「公正な裁判を求める」署名が1500筆突破!
◎高まる逆転無罪の期待──上告審も大詰めの広島元アナウンサー冤罪裁判

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)
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藤本勲物語──日本キックボクシング半世紀の生き証人【前篇】

「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその雄姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

富山勝治のセコンドに付く、テレビ放映時代でもお馴染みの光景(左端が藤本氏)(1982年1月7日撮影)

◆現役生活は4年半、トレーナー歴は45年

先日、7月3日の新日本キックボクシング協会興行、MAGNUM.41に於いて伊原信一代表より、キックボクシング生誕二人目のキックボクサー、藤本勲氏のデビュー戦から満50周年を祝う労いの言葉が藤本氏に贈られました。

1998年5月に目黒ジムから藤本ジムに移行して会長歴は18年ですが、これを含む目黒ジムでのトレーナー歴は45年。引退後もトレーナーやジムオーナーとしてキックボクシングに関わり、業界歴としては一番長いキャリアを持つことになります。

現役生活は4年半でしたが、1966年(昭和41年)6月のデビューからキックと共に生き、業界のあらゆる姿を見てきた生き証人となります。

富山勝治引退試合にて、テレビ時代のスターが終わった日(1983年11月12日撮影)

伊原代表も現役時代は目黒ジムで藤本氏の指導を10年以上受けた選手でした。また、多くの目黒ジム所属の名チャンピオンも全員が藤本氏から指導を受けた経験を持つでしょう。

◆1966年──剛柔流の空手家からキックボクシング界へデビュー

デビュー戦となった1966年(昭和41年)6月21日、沢村忠氏の道場仲間という空手選手からキックボクシングの試合に誘われて自身も剛柔流の空手家として、空手が一番強いと信じての出場も、4日間程度の“キックボクシング”と呼ぶにも不透明な時期、ルールも把握していない中での対策練習だけで藤本氏は出場。

対戦相手も橘五郎という空手家でしたが、キックボクシングの練習経験は橘五郎氏が2ヶ月ほど早く、その差とラウンド制の不慣れな中、ペース配分を誤り藤本氏は1ラウンド終了間際のKO負けのデビューでしたが、驚いたのは自身の敗北より、後に控えたカードの沢村忠氏の16回ダウンしてKO負けした壮絶な試合を観てムエタイの凄さを実感。

キックボクシングを正式に始める決意をすると、すぐに目黒ジムに入門しました。

◆1967年──キックボクシング史上初のテレビ放送された試合でKO勝利の王座奪取

藤本氏は翌年2月26日に木下尊義(目黒)と同門による日本ヘビー級王座決定戦を争い、4ラウンドKO勝利で王座奪取しました。

その日は日本で初めてキックボクシングが放送された日で、メインイベントは沢村忠氏の試合でしたが、生放送のため、試合順でセミファイナルに出場した藤本氏の試合が先に放送され、事実上この試合がキックボクシング史上最初のテレビ放送された試合という密かなエピソードになりました。

格闘技の祭典、ブッチャーとの対面で(1988年4月2日撮影)
世代が変わった平成の時代に、飛鳥信也チャンピオンのセコンドに付く(1992年6月27日撮影)

◆1969年──東洋ミドル級王座決定戦でタイ人選手に勝利!

2ヶ月後の東洋ヘビー級王座決定戦はKO負けで奪取成りませんでしたが、この創生期は3階級制で67.5kg超えはすべてヘビー級。藤本氏がそのウエイトだったにも関わらず、180cmの長身であることから当時の目黒ジムの野口里野会長から「藤本は背が高いからヘビー級でやれ」と強引で不可解なヘビー級出場でした。

後の1969年1月にはプロボクシングと同リミット設定の7階級制に変更され、藤本氏はミドル級にランク改訂(日本王座そのまま保)へ。同年2月26日にはタイ遠征中、ルンピニースタジアムで、ランカーだったコクデーノーイに得意の膝蹴りで5ラウンドKO勝利したことで、自身の現役生活の中でもベストバウトと言える想い出の試合となりました。

そして同年6月、東洋ミドル級王座決定戦で、ポンピチット・ソー・サントーン(タイ)に判定勝利し東洋王座奪取に成功と、それまで苦しい体験も経験しつつ、ここまでは重量級としての期待に応える成長を見せていきました。(つづく)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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デジ鹿再開2周年! 一日一本〈タブーなき言論〉をこれからも!

ご愛読いただいている「デジタル鹿砦社通信」は2012年1月1日に産声を上げた。それに先立つ2011年12月29日の事前告知には、
「鹿砦社にとって2011年は、社長・松岡利康、『紙の爆弾』編集長・中川志大に対する、刑事告訴の不起訴処分が確定、壊滅的打撃を被った6年前の「名誉毀損」逮捕事件での松岡の執行猶予も終結、昨年にも増して増収増益を果たし、不死鳥のように蘇った年でありました。
 出版不況が深まるばかりの昨今でありますが、小手先のことで、乗り越えられるものではありません。時には体も張る気構えで、〈スキャンダリズム〉の立場から〈タブーなき言論〉を発信するという姿勢を堅持してきたからこそ、鹿砦社の今はあるのです。
 3.11東日本大震災、原発事故という、天変地異と人災が起こり、多くの人々が己の行く道を探しながら、呻吟しています。この試練に、言論のあり方は容赦なく問われてくるでしょう。
 そのような根本に立ちながら、デジタル鹿砦社通信は、大きなネタから小さなネタまで、堅い話題から柔らかい話題まで、毎日お届けします。
 2012年1月1日に正式オープンいたします。
 ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします」
 と意気込みが紹介されている。 

2012年1月から2014年7月まで「第一期」の「デジタル鹿砦社通信」をお届けしてきたが、諸般の理由でライターと編集長を一新し、2014年8月18日、つまり2年前の今日から「第二期」というべき体制で「デジタル鹿砦社通信」は再スタートを切る。

2年前の今日のコラムを担当させていただいたのは不肖私で、その日の題は「橋下大阪行政は『美味しんぼ』への恫喝『抗議文』を撤回せよ!」であった。福島第一原発事故から2年が経過していた当時、大阪の市長は橋下徹で鹿砦社は反・脱原発に特化した季刊誌『NO NUKES voice』の発刊直前だった。お蔭様でこの2年間鹿砦社は元気で、『NO NUKES voice』も徐々に存在感を高めつつある。

そして「第二期」に入ってからは、私を除いて非常に優秀ライター陣が集い、他のメディアでは目にすることのできない多彩な情報が提供されてきた。事件モノを丹念に取材し、貴重な報告を続ける片岡健氏。芸能・社会ネタからAVまで幅広いカバーエリアが圧巻のハイセー・ヤスダ氏。裏社会や事件モノ、芸能などどれほどの人脈があるのかとその本性は謎に包まれた伊東北斗氏。「裏社会、事件、政治に精通。自称『ペンのテロリスト』の末筆にして松岡イズム最後の後継者を自認する小林俊之氏。キックボクシングの取材歴32年、ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家までした猛者堀田春樹氏は文章のみならず写真も秀逸だ。

写真家ながら解析鋭い文章にも冴えを見せ、今後の大成が期待される大宮浩平氏は執筆陣の中では最若手のホープだ。9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材を続け、本コラムでは原発問題を中心とした投稿が多い白田夏彦氏。著者不祥ながら、毎回「ここまでやるか!」とその圧倒的なボリュームと、パロディーの超大作を提供してくれる「屁世滑稽新聞」(毎回力作ばかりなので最近お目にかかれないのが寂しい)。そして芸能界の裏情報と言えば星野陽平氏の名前を忘れるわけにはいかない。やさしい文体ながら、ピリッと批評が効いた伊東太郎氏の更なる活躍も期待される。原発広告問題を専ら追求する渋谷三七十氏の存在も心強い。佐野宇氏は常に硬派な問題提起を行う。

かように、芸能・事件・社会問題・原発からキックボクシングまで。よくまあこれだけ好き勝手書けるメディアがあるものだ、と我がことながら感心する。しかしそれはたまたまの偶然ではなく、冒頭紹介した告知の中で「時には体も張る気構えで、〈スキャンダリズム〉の立場から〈タブーなき言論〉を発信するという姿勢を堅持してきたからこそ、鹿砦社の今はあるのです」と2011年の「戦闘宣言」が示す精神を継承してきたからに他ならない。

他のライターはいざ知らず、私が本コラムを担当させて頂くに当たり、松岡社長からは、特段のリクエストはなかったが、唯一「顰蹙を買う記事を書くように」というアドバイスがあった。ぶったまげたが、気がつくと私のコラムは、足りない知識や経験をかき集め、精一杯考えた末に書いているつもりなのに、読み返せばどれも「顰蹙を買う」記事ばかりだと気がつき、複雑な気分に支配されている。

鹿砦社は芸能から社会科学・人文科学まで幅広い書籍を世に出しているが、そのスピンオフである「デジタル鹿砦社通信」は今後も多様な個性と、「タブーなき言論」、幅広い話題を提供し続けて行きたいと考える。

わずか2年の間に日本社会は随分急激に変化した。何がどのように変化しているかをしっかり見定め、しかしながら変化の内容を熟知しても、不要な変化に流されることなく、抗うべき荷は抗う。吹けば飛ぶような小さなコラムではあるが、腰の据わった言論活動を続けてゆきたい。今後もより一層「デジタル鹿砦社通信」をよろしくお願いいたします。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 衝撃出版!『ヘイトと暴力の連鎖』!
 「世に倦む日日」田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』
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《冤死の淵で》竹内景助氏(三鷹事件)  獄中で書き残した虚偽自白への道程

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。2人目は、三鷹事件の竹内景助氏(享年45)。

◆脳腫瘍で獄死

国鉄三鷹駅構内で無人電車が暴走して商店街に突っ込み、6人が死亡、20人が負傷する惨事になったのは、1949年7月15日の夜だった。捜査当局は当初から、人員整理に反対する労働組合などの犯行と断定。そんな思い込みに満ちた捜査の結果、9人の共産党員と事件前日に解雇を通達された非共産党員の竹内景助氏が実行犯として起訴されるに至った。そして裁判では、共産党員9人は無罪とされた一方、当初容疑を認めた竹内氏が単独犯だったと認定され、1955年に最高裁で死刑判決が確定する――。

竹内氏は獄中で自ら膨大な「再審理由補足書」も執筆した。支援する会のHPより購入できる

これが下山事件、松川事件と共に国鉄三大ミステリー事件と呼ばれる三鷹事件のあらましだ。竹内氏はその後、再審請求をするが、雪冤を果たせないままに1967年、脳腫瘍のために45歳の若さで獄死したのだった。

私が編集を手掛けた書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)でも、「三鷹事件再審を支援する会」世話人の大石進氏がこの事件について、内実に鋭く迫った渾身の原稿を寄稿してくれている。その文中で紹介された竹内氏の遺筆では、虚偽の自白に陥るまでの取り調べの過程が実に生々しく綴られている。

◆恫喝と脅迫を駆使した取り調べ

〈岡光警部はいきなり「やい、この野郎、あんなでかい事故を起しやがって、ひどい奴だ、もう駄目だぞ、観念して謝れ、さあ神妙に白状して詫びろ」と頭から怒鳴りつけられました〉
〈八月十日夜頃から平山検事の調べ句調が、俄然脅迫めいて来まして(・・・略・・・)「検察庁で検挙し起訴した事件で無罪となったなんてことは先づ無いんだ(・・・略・・・)証拠は毎日集っているんだ(・・・略・・・)裁判は自白しなくても証拠で認定されるのだ。君達がやったと云ふ証拠がいくらでもあるよ。君を見たと云ふ証人も、既に裁判官に証言しているし。」と云ひ(・・・略・・・)元気に反対する気も薄らいで来ました〉

このような恫喝と脅迫を駆使した取り調べに対し、次第に気力を奪われていった竹内氏。そんな状態の中、次のような悪辣な攻撃もうけたという。

〈「事故後丁度一と月目だね、今頃丁度此の人達が、こんな死に方をしたんだ、此の写真を見給へ、死んだ人をどう思ふかね。」と云って、惨鼻な死体写真を二十枚以上も、私の目の前に突き出しました〉

こんなおぞましい取り調べの中、竹内氏はついにこんな心境に陥っていく。

〈検事が喋った誘導や暗示によって、私の知識の中には、いつでもウソの自白をすることが出来る状態になりました。そして一っそウソでも自白して、どうせ有罪にされるなら情状を酌んで貰って軽くして貰おうかな、といふ考へが頭を掠めるようになりました。〉

「三鷹事件再審を支援する会」のHPでは再審の動向が適時報告されている

◆義憤と感激に涙して・・・

以下、ついに竹内が虚偽の自白に陥る場面である。竹内氏は悩みに悩んだ末、一緒に検挙された共産党員らを助けるため、自分1人で罪を被ることを決意したのだが、そんな考えから虚偽自白に陥った複雑な心情が克明に記されている。

〈私は生涯の断を決する為に苦悶しました(・・・略・・・)罪なくして罪を負ふのかと考いると、我乍ら自分が哀れにもなりました(・・・略・・・)そして「あの事件は私がやったのです。一人でやったのです。之から真実を申しますから、飯田さん達、他の諸君を直ぐ釈放して下さい。」と高い処から飛び降りるような心地して、悲憤と感激に涙して喋りました〉

この竹内氏の手記は、有名な刑事弁護士で、竹内の弁護人も務めた布施辰治氏宛てに書かれたものである。そして実を言うと、大石氏は、この布施辰治氏のお孫さんである。そういう背景もあり、前掲書「絶望の牢獄で無実を叫ぶ」で大石氏が寄稿してくれた原稿は時代背景、関係者の人間模様まで克明に再現された貴重な読み物になっている。

なお、2011年に竹内氏のご遺族らが東京高裁に再審請求し、現在も再審請求審が続いている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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