4月1日から商品やサービスについて、消費税込みの価格を示す「総額表示」が義務化されたが、案の定な展開になっている。昨年秋頃、ツイッター上で「#出版物の総額表示義務化に反対します」というハッシュタグをつけるなどして騒いでいた人たちがいつのまにか、どこかに消えてしまっているのだ。

彼らは当時、「出版物が総額表示を義務化されると、消費税率変更の際にカバーの刷り直しや付け替えを余儀なくされ、少部数の本が絶版になったり、小さな出版社が潰れたりする恐れがある」などと危機感をあおっていたはずだ。しかし、いつのまにかフェイドアウトしてしまったのは、実際はそこまで心配する必要のない話だと気づいたからだろう。

一体、いつまでこういうことを繰り返すのだろう……と私は正直、げんなりせずにいられない。過去にも同じような例をたびたび目にしてきたからだ。

日本書籍出版協会と日本雑誌協会はHPで出版物の総額表示に関するガイドラインを発表した

◆思い出される「ぼったくり防止条例」や「裁判員制度」が始まる時の騒動

たとえば、思い出されるのが、2000年に東京都が全国で初めて、性風俗店や飲み屋でのぼったくり防止条例を施行した時だ。これは当時、新宿・歌舞伎町などで酷いぼったくり事件が相次ぎ、社会問題になっていたのをうけて作られた条例だった。

この条例が施行される前、メディアでは「有識者」たちが条例の不備を色々指摘し、「こんな抜け穴だらけのザル法では、悪質なぼったくり業者は取り締まれない」と読者や視聴者を不安に陥れるようなことを言っていたものだった。

だが、実際に条例が施行されると、新宿、池袋、渋谷、上野という規制対象地域の路上からは、風俗店や飲み屋の客引きが一斉に姿を消した。条例ができた効果により、ぼったくり業者が激減したわけである。私は当時、歌舞伎町のぼったくり業者にそうなった事情を取材したが、彼はこう説明してくれた。

「条例に不備があろうが、ザル法だろうが、そんなのは関係ない。ああいう条例ができたということは、お上が『これからはぼったくり業者を厳しく取り締まる』という意思表示をしたということだから。そうなれば、俺たちはこれまで通りの商売を続けるわけにはいかない。警察がその気になれば、法律なんか関係なく誰だって捕まえられるんだから」

私はこの説明を聞き、深く得心させられた。警察に理屈など通用しない。この現実を知っているぼったくり業者たちからすれば、メディアに出てくる「有識者」たちが解説する「条例の抜け穴」など机上の空論に過ぎないわけである。そして机上の空論で騒ぎ立てていた「有識者」たちは何事も無かったように消えていった。

2009年に裁判員制度が施行された時も同じようなことがあった。制度の施行が間近に迫った時、またメディアでは「有識者」たちが、「裁判員の呼び出しを拒んだら罰則があるというのでは、苦役の強制であり、徴兵制と同じだ」とまで言って、読者・視聴者の不安を煽ろうとしていた。

しかし実際に制度が始まってみると、裁判員の呼び出しを辞退する人はいくらでもいるし、それで罰せられた人がいたという話はまったく聞かない。私はこれまで様々な裁判員裁判を取材し、判決後にある裁判員たちの会見にも出席してきたが、裁判員たちは「参加して良かった」「良い経験になった」と前向きな感想を述べる例が多いのが現実だ。

そしていつしか、裁判員裁判について「徴兵制と同じだ」とまで言っていた「有識者」たちはどこかに消えてしまったのだった。

◆権力に物申す「言論」というのは結局……

そしてまた今回の「#出版物の総額表示義務化に反対します」騒動である。書店に並んだ書籍は4月1日以降もそれ以前と変わらず、新旧の価格表示が混在したたままだが、それで何か問題が起きたという話はまったく聞かない。出版社側も帯やスリップに消費税込みの価格を表示することで、今後消費税率が変わってもカバーの刷り直しや付け替えはせずに済むようにして、事足りているようである。

こうしてこの問題について不安を煽り、騒いだ人たちはどこかに消えてしまったのである。

誰もがそうだというわけではないが、権力に物申すのが好きな人たちの中には、事実関係をほとんど調べず、思い込みだけでものを言っている人が少なくない。「#出版物の総額表示義務化に反対します」と声高に叫んでいた人たちは、そのことを改めて証明した。今後も新しい制度や法律ができるたび、彼らは懲りずに同じ行動を繰り返すはずなので、しっかり観察させてもらいたい。

▼片岡 健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

◆「西成」は売れる?

最近、西成(ここでは「釜ヶ崎」界隈を示す)で動画を撮影するYouTuberが増えている。有名(?)YouTuberに紹介され客が増えたと喜ぶ店がある一方、他の客の顔を撮られては困ると断る店もあるようだ。店の紹介だけでなく、公園で酒盛りする人やセンター周辺の野宿者の生活を面白可笑しく撮るものも多い。刺青を堂々と見せる人、ムショ帰りと話す人、泥酔してクダをまく人……西成には様々な経歴、過去をもつ人、ひと癖もふた癖もある人が多いが、それはこの街がどんな人をも受け入れる懐の深さがある証拠だ。

しかし、そうした人たちを撮って視聴数を伸ばし、広告代を稼ぐYouTuberは、彼らに動画をYouTubeにアップすると説明したり、許可を得ているのだろうか。実際、動画に映る人に聞くと、知らないという人もいるが、問題はないのだろうか?

◆暴力野郎が「平和を守ろう」というようなもの

こうした一部のYouTuberと同様に、この町の人情味の厚さや懐の深さを利用しながら、センター解体と新たなまちづくりを進めようとしているのが、大阪維新の「西成特区構想」だ。

大阪市は3月30日、センター解体後の跡地の利用計画について、新たな戦略を発表した。資料には「新今宮エリアの魅力が認知され、訪れて楽しいエリアになるようなイメージ向上を図るにあたり、新今宮の魅力を伝える新たなコンセプト『新今宮ワンダーランド』と、キャッチコピー『来たらだいたい、なんとかなる』を参詣曼荼羅(さんけいまんだら)をイメージしたポスターや、人気スポットを紹介したリーフレット、WEBサイトで積極的に展開していきます」とある。

西成は「不思議の国」「おとぎの国」「ワンダーランド」か?! 福島から始まった聖火リレーで、「踊って楽しもう! イエーイ!」と白けた演出でひんしゅくを買った電通の考えそうなことだ。

それにしても何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ。これまでは確かにそれが出来た。日雇労働者の寄り場であり、生活に困窮した人が「あそこに行ったらどうにかなる」と目指してきたのが、JR新今宮駅前にどんと構える「あいりん総合センター」(以下センター)で、そこに行けば、仲間と会え、仕事も見つかり、飯を安く食え、仲間とワイワイ騒ぎ、洗濯も出来てシャワーが浴びられ、娯楽も楽しめる……それこそ「来たらだいたい、なんとかなる」だった。

もちろんセンターだけでなく、町全体も。しかし今、その肝心要のセンターを暴力的に閉鎖し、周辺の野宿者を強制的に立ち退かせようとしているのが、大阪市だ。センター解体したあとの広大な跡地でひと儲けを企む連中が、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ。遅筆で有名な大作家が、原稿を急かされるたび奥さんをボコボコに殴り逃げられ、DVの事実を暴露されるや、「憲法9条を守ろう」「平和を守ろう」と叫ぶようなものだ。

「新今宮ワンダーランド」のHPより

◆西成の魅力の上っ面を掠め取るジェントリフィケーション

神戸大准教授の原口剛さんは、現在西成で進められるジェントリフィケーションについて、先の強制排除など直接的な排除のほかに、家賃や土地の値段が上がることで住みにくくなることや、街の雰囲気が変わることで、長く住んでいた人たちが住みづらくなる「雰囲気による排除」があると指摘する。

そして、この「雰囲気による排除」にかかわる重大な問題として、「たんに『人情がなくなる』のではなく、一方で『人情』がやたらと強調されたり演出されたりしながら、他方で人情が潰されていくという事態」が起こり得るとし、肝心なのは「生きられる人情」と「売りになる人情」の違いであると指摘する。

「そもそも『人情』というのは、センターで労働者が集まって日常を過ごすとか、そういったことも含めて、いろいろな生活の営みの中で、じっくり長い時間をかけて培われてきたものです。これに対してジェントリフィケーションというのは、実は何ひとつ発明することができない。例えば『人情』の上澄みだけ吸い取って、それを商品化して『下町らしさ』というパッケージにして売り出すということです。そうして『売りになる人情』へと仕立てながら、そもそも『人情』を生み出した担い手を追っ払ってしまう」と。

ここ数年「釜ヶ崎」や「西成」「人情」「下町らしさ」を売りにした店が増えるなか、原口氏が「言葉にならない叫び」と呼ぶ暴動さえ「「西成ライオット(暴動)ビール」として売りに出されるようになった。しかし、そこからは確実に一部の人たちが排除されていることを忘れてはならない。

街中に建てられたおしゃれ過ぎる建物

◆消されていく西成の臭いと色

私の店は西成の真ん中を南北に走行する阪堺電車というチンチン電車のガード近くにあるが、かつてそこは「ションベンガード」と呼ばれていた。ガード脇に公衆トイレがあるからか、ガード脇のニセアカシアの木のそばで立小便をする人が多かったからか……。

ポスター剥がされ落書き消され、真っ白にされたションベンガード

「街をカラフルに」と描かれた壁画。良く見ると野宿出来ないようになっている

ガードの両壁にはかつて「狭山闘争に決起しよう」だの「86春闘に勝利しよう」などのポスターが貼られたり、「ケタオチ飯場○○」と、悪質業者の名前が落書きされていた。壁からポスターが剥がされ、落書きが消され、ペンキで真っ白に塗られたのは数年前だ。倒れそうなニセアカシアの木も切られ、あたりはすっかり様変わりしてしまった。町中の足立酒店の自販機も撤去され、道端で酒盛りする人も減り、西成警察署裏の屋台が撤去され、屋台の客からホルモンを貰い、肥え太った野良犬もいなくなった。この町特有の臭いや色が徐々に消されてきた。

西成出身のラッパー・SHINGO★西成が「町おこし」のため手がけた南海電鉄の壁に描いたアートな壁画はペンキ代を募り、子どもらと描いたのに、南海電鉄高架下の一角はセンター仮庁舎を作るため無残に解体された。「白黒な街を虹色の街に」と謳っていたが、SHINGOちゃん、西成の労働者が黒やグレー、カーキ色を好んで身に着けるのは、建設現場で油や汗や汚れても、汚れが目立たないためでもあるし、生活保護費削減で、洗濯や風呂の回数減っても、何日も同じ服着ていられるからでもあるんやで。

同上

◆差別と暴力を覆い隠すミヤシタパークの「西成チューハイ」

 

渋谷の宮下公園に関する、ねる会議さんのツイート(2020年8月13日付)

野宿者を暴力的に排除して作られた東京渋谷の「MIYASHITA PARK」では「西成チューハイ」なるものが「売り」に出されているという。記事を見ると、別々に出された焼酎と炭酸を自分で割って飲むというスタイル……それって西成で有名な立ち飲み屋難波屋から始まった難波屋チューハイではないのか。しかし、難波屋でも釜ヶ崎でもなく、なぜか「西成チューハイ」とネーミングされ売りにだされている。

ここにもさんざん野宿者を暴力で叩き出し、さらに中に入れる人と入れない人を差別的に分けながら「でもぼくには西成に知り合いがいる」(「I have black friends」)と言うような胡散臭さが見て取れる。もう一度言おう! 野宿者を暴力で叩き出しながら、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ!

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。太平洋戦争が熾烈をきわめるなか、天皇はどこかでアメリカに一撃をあたえるまで、講和の条件はないと考えていた。それは国体の護持という思惑、言いかえれば保身であった。昭和天皇に批判される責任があるとすれば、戦争を長引かせたこの身勝手な思惑であろう。

◆台湾沖航空戦のまぼろし

 

昭和19年(1944)6月19・20日に戦われた、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わった。日本海軍は空母3隻を喪失、艦載機400機を失い、機動部隊を基幹とした艦隊を構成できなくなったのだ。

太平洋戦争において、決定的な役割を果たした空母機動部隊をもってする海戦は、もはや日本海軍にとって不可能となり、サイパン島も上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

このとき、天皇は逆再上陸によるサイパン奪還を、嶋田軍令部総長に対して、二度にわたって要求している。天皇の戦略的な勘は生きていたというべきであろう。まさにここが太平洋戦争の正念場だった。その希望はしかし、かなわなかった。すでに機動部隊が崩壊し、制海・制空権ともにアメリカに握られていたのだ。

サイパン失陥はそのまま、アメリカ軍をして東京空襲を可能とさせる(初空襲は昭和19年11月24日)。8月にはテニアンが陥れられ、いよいよアメリカ軍の空爆が秒読みとなった。

このころ、昭和天皇が戦争指導に熱意をうしなったことは、前回述べたとおりだ。海戦と島嶼攻防の敗北に意気消沈したところで、講和工作を本格的にはじめていれば、あるいはアメリカの東京空襲は計画だけに終わったかもしれない。

ところが、意気消沈した昭和天皇を驚かせる、そしてにわかに活気づける報告が10月に訪れたのだ。台湾沖航空戦の「大勝利」である。

 

昭和19年10月12日~15日にかけて、台湾沖で行なわれた航空戦(捷号作戦)の「戦果(大本営発表)」は以下のとおりである。
【撃沈(アメリカ軍の損害)】 航空母艦11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦1隻
【撃破】航空母艦8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・駆逐艦1隻・艦種不詳13隻
【撃墜】112機(基地における撃墜を含まず)
【日本軍の損害】飛行機未帰還312機

もうこれは、ほとんどアメリカ海軍太平洋艦隊の壊滅を意味すると思われた。19隻もの空母を撃沈、ないしは撃破したのである。

だが、フィリピン近海に十数隻の空母をともなうアメリカ艦隊が現れたとき、大本営はしばらく混乱したが、別の新手が出現したものと、台湾での戦果を疑わなかった(一部の軍幹部は「戦果」に懐疑的であった)。
じっさいの損害は、以下のごとくである。

《双方の損害》
【日本軍】 航空機 312機
【アメリカ軍】 航空機89機、搭乗員約100名
※空母2隻が小破・巡洋艦3隻が大破・駆逐艦2隻が損傷(うち1隻は衝突事故によるもの)

じっさいには、アメリカ艦隊をわずかに傷つけたにすぎなかった。その反面、300機以上の日本機が失われたのは事実だった。誤報の理由も明らかだった。

数日にわたる空海戦には夜間戦闘もあり、経験不足の日本機パイロットは、アメリカ艦船の近くで水柱が上がったのを見て、ことごとく撃沈・撃破と思い込んでいたのである。爆弾は信管に水圧がかかっただけで破裂し、大げさな水柱があがる。それにしても、あまりの「戦果」の違いである。

この「戦果」の結果、つづくレイテ作戦ではアメリカの上陸部隊の壊滅、および戦艦隊によるレイテ湾突入が企図されたのだ。

この時期の昭和天皇は、あきらかに一種のギャンブル脳になっていたと思われる。

緒戦の劇的な戦果、向かうところ敵なしの皇軍。ガタルカナル・ミッドウェイ以降も、負けが込むにつれて、緒戦の快哉が忘れられずにいたはずだ。勝利の脳内麻薬が忘れられなかったのだ。

マリアナ海戦とサイパン陥落で、その敗戦の理由に冷静な分析を加えていれば、あるいは講和路線への転換もあったかもしれない。少なくとも、本土が本格的に空爆に晒される前に、講和戦略に転換することも可能だった。故事に言う「勝敗は時の運」ではなく、敗戦には合理的な理由があるのだ。

 

じつはミッドウェイにおける空母機動部隊の敗戦の理由は、緒戦のインド洋作戦でも露呈していた問題なのだ。

攻撃機の爆装から雷装への転換に時間がかかること、したがって装備を転換しているときに襲われた結果が、3空母の同時被爆であり、それも急降下爆撃による飛行甲板のダメージという、空母にとっては致命的なものだった。

この急降下爆撃の威力も、南太平洋の海戦で判明しているにもかかわらず、日本海軍は伝統的な雷撃(爆装から雷装)にこだわって勝機を逸したのである。

もうひとつ、日本海軍航空部隊の致命的な弱点は、ゼロ戦や一式陸攻などにみられる防御システムの脆弱性だった。旋回力(空戦能力)や航続距離を重視するあまり、搭乗員の防御(機銃の弾丸を防ぐ鋼板)を犠牲にした結果、開戦いらいのベテランパイロットたちを失ってきたのだ。

予科練(中学3年から受験可能)を基盤に、中学生を殴って鍛えるという教育方法にも限界があった。対するアメリカ軍は、心身ともに優秀な大学生をパイロットに育成し、その生命を強度な防御力をもったグラマンやロッキード機、日本機の到達できない高空を巡航する「空の要塞」と呼ばれる爆撃機など、戦術思想においても大きな違いがあった。その戦術思想の差こそが、昭和17年中盤以降の戦況となって顕われたのである。

そして戦争が長期化することで、工業力・人口・物資の差が歴然となってくる。その意味では、昭和天皇が開戦にあたって講和戦略を云々していたのは慧眼であった。にもかかわらず、時の運をたのむ戦略観に陥ってしまったのだ。

はたして、レイテ沖海戦においては、その彼我の物量の差が明らかになった。

アメリカ海軍がこの海戦(陸軍のフィリピン上陸支援)に動員した艦船は、空母35隻、戦艦12、巡洋艦26、駆逐艦141、航空機1000機、ほかに補助艦1500隻である。

対する日本海軍は、空母4隻、戦艦9、巡洋艦19、駆逐艦34、航空機は基地発進をふくめて600であった。ほぼ大敗といえる、その結果も記しておこう。

【日本の損害】空母4・戦艦3・巡洋艦10・駆逐艦9
【アメリカの損害】空母3・駆逐艦3

※フィリピンのサマール沖で、大和を基幹とする戦艦がアメリカの小型空母を攻撃するも、ぎゃくに航空機の反撃に遭う。上の写真は日本の戦艦の砲弾を浴びる米艦隊を背景に、反撃に出ようとするアメリカ機。

レイテ沖海戦の結果、日本海軍は艦隊を組むこともままならない。ほぼ崩壊状態となった。このとき神風特別攻撃隊が組織され、航空機の攻撃では唯一の戦果をあげた。その攻撃を聞かされた昭和天皇は「そこまでしなければならなかったか。しかし、よくやった」と感想をのべたという。神風自爆攻撃は、大元帥の裁可を受けたのである。

やがて沖縄は鉄の暴風に見舞われ、本土の各都市も高高度からの無差別攻撃にさらされる。それでもなお、昭和天皇は戦争の幕引きをしようとはしなかった。

◆戦争を長引かせた責任

東京が空襲を受けるようになった昭和20年(1945)2月14日、近衛文麿元総理は、敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めた。

ところが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと答え、これを拒否したのである。

そしてこのときの判断次第では、それ以降の敵味方の損害はなかった可能性もある。このとき、天皇が早期終結を受け入れ、命じていれば、少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはずである。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。日中戦争の泥沼化のなかで、暴走する軍部(関東軍)およびそれを統制できない政権に懐疑的だった天皇は、開戦劈頭(へきとう)の「大勝利」に浮かれた。そして、大元帥としての軍事的才能を開花させるのだ。

◆開戦前から和平への道を模索する

 

日米開戦が決定的になった時期、昭和天皇は講和への外交工作を気にかけている。

「戦争終結の手段を初めより充分考究し置くの要あるべく、それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき方策を樹つるの要あるべし」(『高松宮日記』天皇から木戸幸一への下問)と、開戦前に講和工作を模索しようとしていたのだ。

この天皇の要求を、軍部も無視していない。

開戦に当っての大本営政府連絡会議の「腹案」には、独ソ講和によって日独伊三国が英国を降伏させ、ソ連を枢軸側に引きこむ。蒋介石専権の打倒および米豪の海上交通路を遮断し、アメリカをして戦意喪失させる、という希望的展望が盛り込まれている。

さらには具体的に、前掲の天皇の意を受けて、スウェーデン、ポルトガルを通じたローマ法皇庁への外交戦略も付加されている。開戦後も連合軍のシチリア上陸時に、ドイツがルーマニアの油田を失う可能性が論じられ、日本として独ソ妥協を講じられなければ、戦争方針を変更しなければならないことが検討されている(『真田穣一郎日記』)。

これらの戦争戦略、外交政策による戦争の早期終結が実現しなかったのは、戦争の性格がそれまでにない、総力戦に変わっていたからにほかならない。

総力戦とは国民経済(生産と消費)の戦争経済(軍需に集中)への転換であり、それは軍事技術・兵器の高額化と大量化に促されたものだ。

その意味では、昭和天皇が開戦にあたって、和平への道を模索していたのは、講和が容易だった日清・日露戦争、あるいは第一次大戦を限定的に戦った歴史から考えていたものにすぎない。

総力戦の時代には政治(外交)が後景化され、軍事(戦闘)が最優先になる。政治と軍事が逆転するのだ。そしてそれは、兵器の大規模化と国民の総動員によって、国家の崩壊まで突き進む。このことを天皇は理解していなかった。いや、天皇自身が総力戦に呑み込まれていくのである。

◆龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」

 

開戦劈頭、日本は海軍が真珠湾にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃滅し、陸軍もマレー上陸から怒涛の進撃を開始する。開戦三日目には、イギリス東洋艦隊(戦艦プリンスオブウェールズ、レパルス)を航空作戦で壊滅させた。

2月にはシンガポール陥落(英軍降伏)、バンドンでオランダ軍が降伏。海軍もインド洋で残存英国艦隊(空母ハーミスほか)を壊滅させ、艦隊決戦となったスラバヤ沖海戦、バダビア沖海戦においても、米・豪・蘭・英の連合軍を敗走させた。赫赫たる勝利である。

龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と天皇は喜びを述べている。じつは天皇自身が、イギリス艦隊の動き(出港)に注意するよう、戦争開始前から軍部に指示をしていた。南部仏印進駐時やイギリス艦隊の動向など、軍事的な才能さえ感じさせる発言が残されている。

フィリピンのコレヒドール要塞の攻略に手こずったとき、天皇は大本営陸軍部を執拗に督励し、追加部隊の派遣を要求している。まさに大元帥として、戦争を指揮し、督戦しているのだ。

◆陸軍機は使えないのか?

 

米豪の交通を断つ目的で、日本海軍はニューブリテン島にラバウル基地をつくり、さらにソロモン諸島に戦線を延ばした。ニューギニアの攻略を目的とした陸軍とのあいだに、齟齬が生じるようになってしまう。昭和17年の南太平洋における戦いは、天皇にとって陸軍と海軍の提携が気になって仕方なかった。

「ニューギニア方面の陸上作戦において、海軍航空隊では十分な協力の実を挙げることができないのではないか。陸軍航空を出す必要はないか」(田中新一『業務日誌』)。

陸軍はこのとき、中国の重慶攻撃のために爆撃機を南方から撤退させる計画を進めていた。しかも陸軍機は、洋上での航法に慣れていなかった。編隊からはぐれてしまうと、海上で迷子になったまま帰還できない爆撃機も少なくなかったのである。

ガダルカナル島の飛行場が米軍に奪われると、天皇は三度目の督促をする。

「海軍機の陸戦協力はうまくいくのか、陸軍航空を出せないのか」(「実録」)と。

このガダルカナル島の苦戦を、軍部以上に気にかけていたのは昭和天皇だった。

「ひどい作戦になったではないか」(「実録」)と、感想をのべている。

珊瑚海海戦、南太平洋開戦で海軍が得た勝利も「小成」と評価はきびしい。開戦当初の勢いからすれば、アメリカの戦意を喪失させる大勝が待ち遠しかったのである。

◆日露戦争の教訓から注意を喚起するも

 

学者的な几帳面さで、歴史にも通じていた昭和天皇は、困難な時期にも軍事的な天才ぶりを見せている。海軍がガタルカナル島の米軍飛行場を、夜間艦砲射撃しようとした(天皇に上奏)さいのことだ。

「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初島八島の例あり、注意を要す」(『戦藻録』)と釘を刺したのだ。

日露戦争の旅順閉塞戦のとき、戦艦の初瀬と八島が機雷によって沈没した、ある意味では貴重な戦訓を、海軍の永野修身軍令部総長に伝えたのである。

この天皇の警告は、的中してしまった。海軍にとって二度目の艦砲射撃(一度目は戦艦金剛と榛名)だったが、同じような航路をとってガタルカナルに接近した戦艦比叡と霧島は、待ち構えていたアメリカ軍の新鋭戦艦のレーダー砲撃の餌食となったのだ。夜間攻撃であれば、いちど成功した航路をたどりやすい。アメリカは用意周到にこれを狙い、昭和天皇も歴史に学ぶ者にしかない直感で、危機を感じ取っていたことになる。

昭和17年6月には、ガタルカナル島攻防(撤退)とならんで太平洋戦争のターニングポイントになるミッドウェイ海戦で、海軍も致命的な敗北を負った。

この年の12月、昭和天皇は陸海軍とも「ソロモン方面の情勢に自信を持っていないようである」「如何にして敵を屈服させるかの方途が知りたい」「大本営会議を開くべきで、このためには年末年始もない」と軍部を突き上げた。

そして実際に、12月31日に大本営会議が開かれた。ガタルカナル島撤退後、どこかで攻勢に出なければならない、という天皇の焦りが感じられる。

◆決戦をもとめる天皇

昭和18年になるとアッツ島玉砕をはじめ、アメリカ軍の反転攻勢がめざましくなる。

「どこかの正面で、米軍を叩きつけることはできぬか」(『杉山メモ』)という言葉を何度も発している。

昭和天皇の発言だけを見ていると、軍部にやる気が感じられないかのようだ。いや、軍部は戦力的な手詰まりに陥っていたのだ。太平洋上に延びきった前線では、アメリカ軍との戦いよりも、兵士たちは飢えと感染症に苦しんでいた。輸送船が潜水艦に狙われ、海軍は前線の補給のために駆逐艦を使わなければならなかった。

昭和19年の元旦には「昨日の上奏(上聞)につき」として「T(輸送船)北上につき、敵の牽制なるやも知れず『ニューブリテン』西方注意すべし」と、侍従武官を呼びつけて警告している。この年も大晦日まで、軍務にかかる上奏を受けていたことになる。

それはともかく、実際にアメリカ軍は輸送船団を陽動部隊にして、日本軍の注意をニューブリテン島に惹きつけておいて、ニューギニア北部に上陸していたのだ。昭和天皇の細かい注意力は、数千キロ離れた戦場に向けられていたのである。

 

しかし全般的に、昭和天皇の戦争指導は減退してゆく。

敵機動部隊(スプルーアンス提督が率いる15隻の空母部隊)がサイパンに近づくと、天皇はサイパン失陥で東京がB29の爆撃範囲に入ることを考え、海軍に不退転の決戦をもとめる。

「このたびの作戦は、国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦のごとき立派なる戦果を挙げるよう作戦部隊の奮励を望む」(「業務日誌」)と。

しかるに、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わる。空母3隻を喪失、艦載機400機を失ったのである。そしてサイパン島も、上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

意気消沈した天皇は、吹上御所で夜ごとにホタルの灯をながめていたという。このときこそ、昭和天皇は戦前からの持論であった「講和交渉」を始めるべきであった。

結果論で批判しているのではない。みずから語った日本海海戦に比すべき戦いに負け、サイパンが陥落したのだから、東京空襲の災禍は誰の目にもわかっていた。国家を崩壊させる総力戦の威力を、しかし天皇は徐々に知ることによって「和平」のタイミングを逸し、国民を絶望的な戦いに巻き込んでしまうのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

NHK大河ドラマ「青天を衝け」のイントロに、北大路欣也ふんする徳川家康が登場して、お茶の間の好評を博している。

第5回「栄一、揺れる」(3月14日放送)では、「今日も出てきましたよ」とあいさつし、興味ぶかいことを語った。

北大路家康は「『士農工商』、もう教科書にその言葉はありません」と語り、図版アニメの「士農工商」図は、士とその他に変形した。江戸時代に武士階級とその他しかなかった身分制度を表現したものだ。

この意外な史話解説は、ネットでも話題になったという。以下はネットニュースからだ。

SNSでは「えっ……教科書に士農工商ってもうないの!? びっくりだわ」「士農工商ってもう教科書に載ってないって徳川家康が言ってたけど、本当?」「士農工商てもう教科書に載ってないの? 北大路家康が言ってたぞ」といった驚きの声が上がったほか、「現代の教科書を知ってる徳川家康」「最新の教科書もチェックしている家康」「家康公、最近の教科書事情にもお詳しいw」などと感心していた。(ヤフーニュース 3/14 20:45配信)。

本通信でも、鹿砦社「紙の爆弾」の記事における「士農工商ルポライター稼業」(昼間たかし)をめぐって、解放同盟から「差別を助長する表現」との指摘をうけて、部落の歴史で江戸時代の身分差別について触れてきた。「紙の爆弾」2021年1月号にも「求められているのは『謝罪』ではなく『意識の変革』だ」を発表した。

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈前編〉(2020年11月12日)
◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈後編〉(2020年11月17日)

そのなかで、士農工商に触れた部分をまとめておこう。

江戸時代の文書・史料には、一般的な表記として「士農工商」はあるものの、それらはおおむね職分(職業)を巡るもので、幕府および領主の行政文書にはない。したがって、行政上の身分制度としての「士農工商」は、なかったと結論付けられる。

むしろ「四民平等」という「解放令」を発した明治政府において、「士農工商」が身分制度であったかのように布告された。すなわち江戸時代の身分制が、歴史として創出されたのである。

またいっぽうでは「解放令反対一揆」を扇動し、動員された一般民において、「士農工商」とその「身分外」の部落民に対する排撃が行なわれ、そこに近世いらいの部落差別が再生産されたのである。

上記の記事にたいして、江戸時代になかった士農工商が明治時代に「確立された」のは「納得できない」などの批判もあったが、その批判者から根拠となる史料が示されることはなかった。

教科書から「士農工商」という表現・文言が消えたのは、北大路家康が言うとおり事実である。東京書籍の「新しい社会」(小学校用)の解説(同社HP)から、長くなるが引用しておこう。

Q 以前の教科書ではよく使われていた「士農工商」や「四民平等」といった記述がなくなったことについて,理由を教えてください。

A かつては,教科書に限らず,一般書籍も含めて,近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」,「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。しかし,部落史研究を含む近世史研究の発展・深化につれて,このような実態と考えに対し,修正が加えられるようになりました(『解放教育』1995年10月号・寺木伸明「部落史研究から部落史学習へ」明治図書,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房など)。
 修正が迫られた点は2点あります。
 1点目は,身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということです。史料的にも従来の研究成果からも,近世諸身分を単純に「士農工商」とする表し方・とらえ方はないですし,してきてはいなかったという指摘がされています。基本的には「武士-百姓・町人等,えた・ひにん等」が存在し,ほかにも,天皇・公家・神主・僧侶などが存在したということです。この見解は,先述した「農民」という表し方にも関係してきます。
 2点目は,この表現で示している「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということです。武士は支配層として上位になりますが,他の身分については,上下,支配・被支配の関係はないと指摘されています。特に,「農」が国の本であるとして,「工商」より上位にあったと説明されたこともあったようですが,身分上はそのような関係はなく,対等であったということです。また,近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ,先述した身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあったということです。
 これらの見解をもとに弊社の教科書では平成12年度から「士農工商」という記述をしておりません。
 さて,「士農工商」という用語が使われなくなったことに関連して,新たに問題になるのが「四民平等」の「四民」をどう指導するかという点です。
 「四民平等」の「四民」という言葉は,もともと中国の古典に使われているものです。『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とあります。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味です。ここで「士農工商」は,「国を支える職業」といった意味で使われています。そこから転じて「すべての職業」「民衆一般」という意味をもちました。日本でも,古くから基本的にはこの意味で使われており,江戸時代の儒学者も職業人一般,人間一般をさす語として用いています。ただし,江戸時代になると,「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方も出てきます。この用法から,江戸時代の身分制度を「士農工商」という用語でおさえるとらえ方が生じたものと思われます。
 しかし,教科書では江戸時代の身分制度を表す言葉としては,「士農工商」あるいは「士と農工商」という言葉を使わないようにしています。以前は「四民」本来の意味に立ち返り,「天下万民」「すべての人々」ととらえていただくよう説明してきました。しかし,やはりわかりにくい,説明しにくいなどとのご指摘はいただいており,平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにしました。
 「四民平等」の語は,明治政府の一連の身分政策を総称するものですが,公式の名称ではないので,この用語の理解自体が重要な学習内容とは必ずしもいえません。むしろ,以前の教科書にあった「江戸時代の身分制度も改めて四民平等とし」との記述に比べ,現在の教科書の「江戸時代の身分制度は改められ,すべての国民は平等であるとされ」との記述の方が,近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せたとも考えております。  
(「四民」の語義については,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房p.15-24を参考にしました。)

もともと「士農工商」(律令とともに中国から伝来した概念)は、古代における士が貴族階級であり、その他に農工商の職業があるという社会像を表したものだった。士や農が上位にあり、商人が卑しいとするものでもない。

だが、儒教的かつ農本主義的な幕末の国学思想において、受容しやすいものだった。あるいは天皇を頂点とする身分制社会を再生産した明治政府において、武士が上位にあり農民がその次に尊重される社会像、工業よりも商業を下位に置く世界観が、そのまま江戸時代いらいのものとして、部分的に継承されたのである。

富国強兵殖産興業という明治政府のスローガンとは、もって異なる身分制(天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民)はしかし、一般国民に受け容れられた。差別は政策ではなく、人間の意識のなかに宿るものなのだと、歴史的に論証できる。部落差別は近代的な市民社会観が定着することにより、江戸時代よりも過酷なものとして表象されてくる。そこに水平社運動の発生する理由があったといえよう。

歴史学が社会に果たせる役割があるとすれば、興味本位の歴史のおもしろさを紹介するだけでなく、部落史研究のような社会の根源を規定する「差別」や「排外主義」の歴史的な根拠。あるいは、為政者によって意識的につくられる階級や階層、かつてはブルジョア階級、今日では「上級国民」の成立理由を明らかにしていくことであろう。評判の北大路家康は、その成果なのである。そして渋沢栄一という日本資本主義の父と呼ばれる人間像が、どのようにイデオロギーとして表象されるのか、興味をもって見守りたいものだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆本当に「国民のほとんど」がLINEを利用しているのか

SNSのLINEから個人情報が漏洩していた件で、総務省はLINEの使用を、取りやめたそうだ。ある新聞によると「国民の多くが使っている」との表現も見られるLINE。広く普及していることは認知していたが「国民のほとんど」といわれるほど、皆さんが利用していたとは少々驚いた。

けども本当に「国民のほとんど」が利用しているのか、との疑問も捨てきれない。わたしの知人のなかにはLINEを利用しているひともいるが、大半はLINE世界とはまったく接点のないひとだからだ。

SNSには主たるものだけでもFacebookやTwitter、Instagram、LINEなどがあり、この4つともを利用している方も少なくないだろう。

◆無償サービスの危険性

端的に言って、SNSは危険である。理由を述べよう。

発信を仕事や業務にしている人にとって、SNSは利用価値の高いネット上の道具であろう広告費の削減が達成できて日々発信内容の更新ができる。しかし、発信と無縁な方がこの世界に足を踏み入れると、無意識のうちに「みずからの素性や嗜好、毎日の生活を暴露する」行為に及んでしまう。聞かれもしない私生活を写真やことばで晒してしまうのだ(「個人情報保護法案」をぶっ潰すのがSNSだともいえるかもしれない)。

それぞれのSNSは、発信形態や登録者同士の通話機能、データ互換機能など特性や危険性を充分に理解して使えば、便利な側面はある。ただしそれは、ほとんどの場合、仕事や業務に限定されるといってよく、そうでない場合には危険性が高まると考えてよい。

危険性とは、それぞれのサービスがいずれも「無償」で利用できることから想像が可能だ。無償のサービスであっても利用約款は存在するはずだが、そんなものを熟読してから利用する人は、ごく少数であろう。当然ながら運営会社に利用者の情報は登録され、運営会社は利用者間の情報交換(その中には「秘密」にしておきたい内容も含まれる)を閲覧するることができる。データも保存される。

そういった認識をもって、SNS利用者は日々利用をしているだろうか。わたしはまったくSNSを利用しないので、細かい操作性を知らないし、約款も読んだことはない。初対面の人と名刺交換をすると「TwitterのアカウントやLINEはなさっていらっしゃらないのですか」とたびたび聞かれた記憶がある。その程度にSNSの利用者は浸透している証拠だろう。わたしはメールアドレスと電話番号を他人に伝えても、さらに繋がり(しがらみ)が要求されそうなSNSでの関係など持ちたくはないし、日々どころか日に何回も自分の感情や、出来事を他人様に知らしめたいと皆目思わない。

◆無償サービスであるSNS事業は本当に社会的なインフラストラクチャーなのか?

ただでも街中に監視カメラがくまなく設置され、都市部ではトイレ以外では、ほぼどこにいても監視カメラで勝手に姿を撮影される。この時代に、わざわざ考えていることや、感情の起伏を発信しなければならない理由が、わたしにはない。LINEは連絡網のような機能の利便性が高いらしく、個人から商店、企業から、はては官公庁までが利用しているそうだ。でも、利用者の皆さんは、利用約款を読んだことがおありであろうか。

個人や企業の利用は、置いておくとして、官公庁が私企業の提供する無料サービスを、かくも無防備かつ無前提に利用することに問題はないのだろうか。私企業であるから、業績が傾けば当然業務の停滞や、倒産だってあり得るし、マーケットとしての旨味がなければ、サービスの撤退だって他国では現実に起こっている。SNSではないが、みずほ銀行の度重なるトラブルを見ていれば、システムの危うさは理解されよう。無償サービスであるSNSを、社会的なインフラストラクチャーのように捉えるのは、危険すぎる。

◆「愚行」を増殖させるSNS依存症

そして何よりの落とし穴は、SNSは強度の「依存性」を帯びていることである。個人の利用者でTwitter中毒になり、生活が歪んでしまったひとを少なくない数みてきた。中には自死してしまった人もいる。人間の生育を阻害することしか頭にない文科省は、この危険なSNSを含むPCならびにネット利用教育を小学校から行うという。このような政策を「愚行」と呼ぶ。Twitter依存症になると、感情の制御ができなくなり、攻撃的言辞を容易に発信してしまう傾向がある。

必要のないかたは、SNS使用を控えることをお勧めする。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『NO NUKES voice』Vol.27

すでに歴史上の人物だから、その人となりから紹介すべきところだが、やはりこの人については、戦争責任というテーマは避けがたい。

とりたてて国家主義的であったり、議会や国民をないがしろにした人ではない。むしろ天皇機関説を是認していた(美濃部達吉への軍部の干渉のときに)ように、立憲君主制をよく理解していたと評価すべきであろう。

だがしかし、昭和天皇の「戦争指導」は、かれが尊敬する明治大帝と同様に、みずから大本営を仕切るものだった。いやそれ以上に謁見と上奏、そして下問のみならず意見、そして提案をするものだった。その意味では、道義的責任をこえて戦争指導責任が問われてしかるべきである。

◆最高責任者という意味では、超A級戦犯である

 

1975年10月31日に行なわれた日本記者クラブ主催の「昭和天皇公式記者会見」において、太平洋戦争の戦争責任について問われたとき、昭和天皇は次のように答えている。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」

ここでいう文学方面は、生物学や食品学を専門とする学者天皇としての、研究ジャンルに関する摂理ともいえる。あるいは戦後の文学的・歴史学的なテーマとしての「文学者の戦争責任」を意識してのものとも考えられるが、少なくとも「法律論的」なものではなく、道義的なものも明言しなかった。

だが、昭和天皇は陸海軍の大元帥、つまり最高責任者として将官を任命し、正規軍艦には菊の御紋を冠する立場にあった。

いや、立憲君主制のもとでは「お飾りにすぎなかった」と擁護する法律家や歴史家も少なくない。一時期の古代王朝を除いて、天皇は形式的に律令制を統治したに過ぎず、時々の政権に利用されてきたのだと、歴史を知る人は言うかもしれない。

だがそれも、本連載で明らかにしてきたとおり、時の為政者と対立・協商・抵抗をくり返しながら、天皇制(禁裏と政治の結びつき)を維持してきたのである。そして昭和天皇は、ほぼ完全に天皇親政となった明治の法体系のもとで、主権者として君臨した人物なのである。

◆昭和天皇の戦争指導

昭和天皇は『独白録』や『昭和天皇実録』、あるいはマスコミインタビューなどで、自分が判断をしたのは2.26事件の反乱軍鎮圧(勅命)と終戦の御前会議(いわゆる聖断)の二度であると言明している。

なるほど、御前会議においては政府側から、あるいは枢密院から「発言をしないように」、政策決定の責任を天皇に負わせない「配慮」があり、黙って臨席するだけだった。

しかし大本営会議においては、皇居(御学問所・御書斎)における上奏と下問と同じように、天皇の質問は歓迎されている。上奏も大本営会議(天皇臨席時)も、いわば作戦計画を天皇に説明する場なのだから、天皇からの質問があって当然である。

この「質問」がしばしば「疑問」となり、さらには質問が「なぜ陸軍は南方に飛行機を出せないのか」などという作戦上の要求に変わったとき、大本営は作戦計画の再検討を余儀なくされた。

ここにわれわれは、昭和天皇の戦争指導を見ないわけにはいかない。これは後述して、詳しく解説したい。天皇の名によって戦争が行なわれ、国民が大君の召集令状によって徴兵され、そして現人神への忠勤で戦死した「道義的責任」だけではない。軍人としての戦争指導責任が、問われなければならないのだ。

◆天皇の叱責と人事権

 

天皇は政策決定・変更権はもとより、実質的に人事権をもにぎっていた。

日中戦争勃発時の関東軍の専横を、昭和天皇は「下剋上だ」と批判していたという。初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』には、その息づかいにいたるまで、天皇の軍部と政府への不信が明らかにされている。

以下の例は、張作霖事件の処置(犯人不明のまま、責任者を行政処分)への疑問である。張作霖爆殺事件が関東軍の謀略(下剋上)であることは、東京でもわかっていた。問題はその処分をできない、東京政府のだらしなさである。

公文書たる『実録』においてすら、田中義一総理に「齟齬を詰問され、さらに辞表提出の意を以って責任を明らかにすることを求められる」とある。

ようするに、お前が責任者なのだから、犯人を究明できないようなら総理大臣を辞めろ、と言っているのだ。このあと、田中義一内閣は弁明に務めようとするが、天皇に「その必要なし」と返され、そのまま総辞職する。天皇は最高権力者として、人事権を握っていたばかりか、冷厳に執行していたのだ。

帝国議会においては、総理大臣(首班指名)は枢密院(西園寺公望が取り仕切る)が推薦し、天皇が「大命」をくだす。つまり任免権そのものを体現していたのである。

太平洋戦争前、軍部のとりわけ陸軍にたいする不信感は大きかった。

昭和天皇による、張鼓峰事件(ソ連兵に対する威力偵察)の際の言葉が残されている。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖事件の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」(『西園寺公と政局』)。

昭和14年(1939)の陸軍大臣板垣征四郎の上奏に対する下問を覗いてみよう。

「山下奉文、石原莞爾の親補職への転任につき、御不満の意を示される。またドイツ国のナチス党大会に招聘された寺内寿太郎の出張につき……不本意である旨を伝えられる」

昭和天皇がナチス嫌いだったことが、この寺内寿太郎の一件でわかる。皇太子時代(18歳)で初めて外遊(訪欧)したとき、日英同盟下にあったイギリス(およびイギリス領・香港やシンガポール、エジプトなど)が歓待してくれたこと、ドイツは第一次大戦の敵対国であることから、好感を持っていなかったと思われる。

山下奉文には天津租界封鎖問題という別件があり、石原莞爾には東条英機との対立により、勝手に任地をはなれた件が問題にされたのだ。ちなみに、東条英機は天皇のお気に入りだった。

昭和15年の上奏・下問においては、中国戦線での作戦計画に積極的な発言をしている。奏上した杉山元参謀総長への下問である。

汪兆銘政権(親日派)承認後の対中国(蒋介石政権)戦争に関して「重慶まで進行できないか否か、進行できない場合の兵力整理の限度と方法、占領地域の変更の有無、南方作戦の計画等につき御下問になり、また南方問題を慎重に考慮すべき旨を仰せになる」(実録)。

重慶まで行けないか、重慶を陥落させよというのは、蒋介石政権を打倒するという意味である。かなり無理な要求だ。

そして「南方作戦」「南方問題」とは、アメリカが中国を支援する援蒋ルート(インドシナ)を断つために、南部仏印(ベトナム)に進駐した件である。けっきょく、これがアメリカを硬化させ、日本の中国権益からの撤退を要求されることになる。

◆対英米戦争は、7月には天皇に説明されていた

 

昭和天皇に対英米戦争が避けがたいと説明(永野修身海軍軍令部総長)されたのは、少なくとも昭和16年の7月末だとされている(『木戸幸一日記』)。

政府および陸海軍においては、その8月に、若手将校や若手の官僚を100名以上あつめて(総力戦研究所)の講評を行なっている。そこでは、日米総力戦の軍事・外交・経済にわたる分析研究(机上演習)の結論が出ている(『昭和16年夏の敗戦』=猪瀬直樹の名著である)。

その結果、日本の戦争経済の破綻とアメリカの増産体制の確立。すなわち、日本の完全な敗戦が明確となるのだ。この研究では、戦争末期のソ連参戦まで割り出されている。講評を聴いた東条英機は「やはり負け戦か」と呟いた。

その前年5月には、軍部独自の対米図上演習研究会において、アメリカによる石油禁輸から4~5か月以内に会戦するべし、という結論が先にあった。

日米開戦は不可避という軍部の説明に、昭和天皇はその場合の見通しを要求している。

有名な「支那事変は一カ月で片付くと言ったが、4か年の長きにわたり、いまだ片付かんではないか」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって5カ月と申すか?」(杉山参謀総長への下問『平和への努力』)という言葉である。

すくなくとも、この時点で昭和天皇は日米開戦、対英米戦争に懐疑的だった。
しかるに、じょじょに覚悟を決めたものか。あるいは覚悟を要する戦争に、あたかも呑み込まれたかのごとく豹変するのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

「児童虐待」をテーマにした映画「ひとくず」のロングラン上映が各地で続いている。

 

映画『ひとくず』より。画像クリックすると公式HPへ

映画は、空き巣を稼業とするカネマサ(金田匡郎)が、空き巣にはいった部屋で、少女鞠(まり)に出会うところから始まる。カギをかけられ、電気も止められ、食べ物もない部屋にうずくまる鞠に、幼いころ母親にトイレに閉じ込められた自分を重ね合わせるカネマサ。鞠を救いたいとの思いは募るが、現在の行政の仕組みではなかなか救えないことを知る。鞠の胸にアイロンを押し付けたのは、鞠の母親凛の愛人。それを止めることのできない凛をカネマサは怒鳴りつける。しかし、その凛の背中にも虐待の跡をみつけてしまう。「虐待の連鎖」。

監督、脚本、編集、プロデューサー、そして主演カネマサを演じた上西雄大さん(56歳、大阪出身)も幼い頃、実父が実母に暴力をふるう場面を見て育ったという。映画を作るきっかけとなったのは、別の企画の取材で話を聞きに行った精神衛生士・楠部知子さんから、虐待の実態を知らされたことからだった。

日本における児童虐待相談の件数は、2016年度で12万2578件、26年間増え続けている。胸などにアイロンを押し付けられ火傷を負う子どもは鞠だけではないこと、性的虐待も多いことなど。「アイロンをあてるとき、熱くなるまで待つ訳じゃないですか?その時の子どもの恐怖を思うと辛くて辛くて……」と監督。その思いをどうにかしたい、鞠のように虐待された子を救ってあげたい、そうした思いから一晩で台本を書き上げたという。そして「この作品を世に出すことが、虐待をなくしていくことにつながるのであれば」との思いで映画を作った。

しかしこの作品は、虐待の実態を知ってもらったり、啓蒙するために作ったのではないという。じつは虐待の加害者もまた虐待の被害者であるケースも多く、そうした「連鎖する虐待」の中に置かれた人たちが、その中で人間の愛、良心、家族の暖かさ、優しさを知り、変わっていけることを描きたかったという。「もし映画を観て感動してもらえるなら、その先に虐待について目を向ける思いが宿ってもらえることを願っている」と、上映後には「児童相談所対応ダイヤル」189(イチハヤク)を印した缶バッチをお客さんに配っている。

映画『ひとくず』より。画像クリックすると公式HPへ

◆子どもの愛しかたがわからない親たち

 

上映後に配られた「児童相談相談所対応ダイヤル189」を印した缶バッチ。画像クリックすると公式HPへ

映画を見る前に、杉山春さんの「ネグレクト」を読んでいた。ネグレクト(育児放棄)も虐待の1つだ。10代の若さで親になった雅美と智則は、ともに幼い頃、親から育児放棄されて育ってきた。雅代や智則の母親も雅代や智則が嫌いだったり憎んでいる訳ではない、ぎりぎりに生活する中で、子どもに愛情をかけてあげることが出来なかった親たちだ。そんな親に育てられた雅代も智則もまた、子どもを育てる術をしらない。映画「ひとくず」で、凛が「どうやって子どもと接したらいいか、愛情注いだらいいか、わからないの」と泣き叫んでいたように。

雅代と智則も、子どもの育て方、愛情の注ぎ方を知らず、うまくいかない子育てに悩み、途方に暮れても、親や社会に助けを求めることもできないできた。そして段ボールに入れた3才の娘を餓死させてしまう。杉山さんは、逮捕された二人の裁判を取材する過程で、二人の親や周辺の関係者にも取材を広げ、痛ましい事件の背景を探っていく。

◆虐待が起こる背景

虐待が起こる背景は様々だろうが、カネマサ、凛、鞠、そして雅代、智則を見る限り、経済的環境(貧困)も深く関係していると思われる。以前、関西で貧困問題などに取り組む司法書士の徳武聡子さんが、家庭の経済的状況と子どもの言葉量が比例すると話されていた。経済的に余裕のある家庭では、親が子どもと会話する量も多く、子どもが覚える言葉も増える。一方で、経済的に貧しく、ダブルワークで働く親などは、家に戻っても疲れはて、子どもにかける言葉も少なくなる(もちろん経済的に貧しくても家庭で子どもに十分声をかけてやれる親もいる)。「めし」「早く、寝ろ」「うるさい」…いや、それすら発せられないかもしれない。

 

映画『ひとくず』より。画像クリックすると公式HPへ

逮捕された雅代も智則も、真奈ちゃんの言葉を教えることはなかった。幼児は「ご飯よ」と言えば「ゴハン」「いただきます」と言えば「いただきまちゅ」と言葉を覚えていくのではないか。真奈ちゃんが亡くなるまで覚えた言葉はたった1つ、智則の母親が教えた「おいちい」だった。

「ネグレクト」では、雅代と智則が裁判を通じ、徐々に変わっていく様が鮮明に描かれている。とくに智則は、獄中で様々な本を読み、言葉を覚え、自身の内面を見つめ直し、何故わが子を死なせてしまったかを考えていく。一審では、検察官の質問に「ちょっと覚えてないです」と繰り返していた智則が、判決後、どうしても控訴したいと弁護士に訴える。理由は、量刑不当ではなく、無理やり殺意があったとした判決には納得できないからだという。

「裁判上認められなくても、一人でも多くの人に当時の私たちの気持ちを理解してもらいたい」と、二審では、当時の自分の考えを必死で言葉にし、何故真奈を死なせてしまったかを証言していく。「二人にとって裁判は、おそらく生まれて初めて自分自身の心の奥をのぞき込み、考え、他者に向けて言語化していく作業だったはずだ」と杉山さんは書いている。

◆「虐待の連鎖」を断つために

「ひとくず」の主人公カネマサも、「バカやろ」と相手を口汚く罵倒するしかできない男だった。母親の愛人に虐待を受け続けてきたカネマサは、庇ってくれなかった母親に「死ぬまで憎み続けてやる」とつきつける。

「虐待の連鎖」は、どうしたら断ち切っていけるのか?映画「ひとくず」では、かつて母親の愛人を殺したカネマサが、今度は凛の愛人を殺すという、無茶な形で断ち切っていくが……。

「虐待がこんなに酷いと告発したいのではなく、そんななかにもある人間の愛、良心、家族の温かさをみつけてほしい」と監督が願っていたものは、映画でどう描かれたのか。カネマサの実母への憎しみは、鞠、凛親子と出会い、どう変わっていったのか?映画では、描かれていないが、私は、カネマサが刑務所で何を考えていたか、ぜひとも知りたいと思った。

エンドロールの後に描かれる希望、赦し、出所後のカネマサを迎えたのは鞠、凛、そして……。


◎[参考動画]映画『ひとくず』アンコール上映版予告編(2021年1月31日)

◎『ひとくず』公式HP https://hitokuzu.com/

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

3月5日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

武装闘争は、どのような思いで実行されたのか。そしてそれを、どのように考えるのか。今回、東アジア反日武装戦線を取り上げたドキュメンタリー作品が完成した。それが、2000年代初頭に釜ヶ崎で日雇い労働者を撮影していた韓国のキム・ミレ監督作品『狼をさがして』だ。

© Gaam Pictures

◆「東アジア反日武装戦線」とメンバーのその後

東アジア反日武装戦線とは1970年代、明治以降の帝国主義を批判し、企業爆破を実行したグループ。この名称は同志が使用できるようにされていたため、各「部隊」は自分たちを「狼」「大地の牙」「さそり」と名乗った。

1968-69年の全共闘を経て、大道寺将司(だいどうじまさし)さんは70年、帝国主義の研究会を発足させる。キューバ革命などに関しても学ぶなか、武装闘争の路線が固まっていく。あや子さんも研究会に加わった。72年、東アジア反日武装戦線の名称が決まり、大道寺将司さん・大道寺あや子さん・片岡利明(かたおかとしあき・現在は益永)さん・佐々木規夫(ささきのりお)さんらのメンバーは、「狼」を名乗る。74年、小冊子『腹腹時計』を発刊。同年8月14日、太平洋戦争でアジア人民を殺した「大犯罪人」たる昭和天皇・裕仁が乗車する列車を爆破する「虹作戦」実施のための行動が開始されたが、完遂できなかった。その翌日、韓国では、在日韓国人で朝鮮総連活動家・文世光(ムン・セグァン)が大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)を暗殺しようとする。「狼」は、これに刺激を受けて30日、三菱重工業東京本社ビルを爆破、8名が死亡、376人の負傷者が出た。その後、11月25日に帝人中央研究所を爆破。

いっぽう71年、齋藤和(さいとうのどか/かず)さんは浴田由紀子(えきた/えきだゆきこ)さんらと知り合い、のちに「大地の牙」を結成。同「部隊」は74年10月14日、三井物産の本社屋「物産館」を爆破、16人の負傷者が出た。その後、12月10日に大成建設を爆破。

翌75年2月28日には、「狼」「大地の牙」「さそり」合同で、間組本社と間組大宮工場とを爆破、5人の負傷者が出た。

「大地の牙」は75年4月19日に、オリエンタルメタル製造の本社と韓国産業経済研究所も爆破している。

大道寺将司さんに会った黒川芳正(くろかわよしまさ)さんは74年に「さそり」を結成。宇賀神寿一(うがじんひさいち)さんや桐島聡(きりしまさとし)さんとともに12月23日、鹿島建設のプレハブハウス工場の資材置場を爆破。75年には2月28日以外にも、4月28日に間組京成江戸川作業所を爆破して1人の負傷者が出、5月4日にも間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場を爆破した。

逮捕後、75年のいわゆる「クアラルンプール事件」で佐々木規夫さんが、77年の「ダッカ日航機ハイジャック」で大道寺あや子さんと浴田由紀子さんが釈放。大道寺将司さんは死刑確定の後、2017年5月24日に多発性骨髄腫のため東京拘置所で病死。益永利明さんは確定死刑囚として東京拘置所に、黒川芳正さんは宮城刑務所に収監されている。大道寺あや子さんと佐々木規夫さんは国際、桐島聡さんは全国指名手配中。斎藤和さんは取調中に服毒自殺。宇賀神寿一さんは懲役18年が確定した後、2003年6月11日に出所した。浴田由紀子さんは95年にルーマニアで身柄を拘束・日本に移送されて懲役20年が確定し、2017年3月23日に出所している。

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◆「東アジア反日武装戦線」を辿る

『狼をさがして』は、2004年8月の、釜ヶ崎で亡くなった仲間の慰霊祭の場面から幕を開ける。山谷でも同様の「イベント」があるが、おそらく15日に実施される「釜ヶ崎夏祭り慰霊祭」だろう。1972 年、「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)」によって始められ、活動家や日雇い労働者を弔うものだ。作品には、喜納昌吉(きなしょうきち)さん作詞・作曲の『花』を歌う人も映し出される。監督は韓国の建設産業史をめぐって釜ヶ崎を訪問し、そこで「資本と国家にあらがう人たち」を目にして、東アジア反日武装戦線を知る。

評論家で東アジア反日武装戦線メンバーの支援活動もおこなう太田昌国(おおたまさくに)さんは、旅先で集めた絵はがきやパンフレットを大道寺将司さんに送っていた。太田さんはFacebookなどにも、「私にできたことは少ない。ほとんどなかった、と言ったほうがよい。旅行が叶わぬ彼に、せめても旅先から絵葉書を送った」と記す。新潟県松之山温泉近くに広がる雲海の絵葉書や観光案内書を送った際には、大道寺将司さんから以下のような句が返ってきた。

雲海に落人(おちゅうど)の影消えにけり

マスコミは当初、「思想もない爆弾魔」「爆弾マニア」として報道したという。だが本作には、東アジア反日武装戦線メンバーの主張も取り上げられている。「日帝中枢に寄生し」ている企業に対し、「世界の反日帝闘争」に参加する仲間と連帯し、「新大東亜共栄圏」を実現しようと海外や発展途上国の植民地化をもくろむ者たちを打倒すること。それこそが、「戦死者を増やさぬ唯一の道」だという。だが、1人ひとりの感覚や心情は、素朴なものだったりする。それにショックを受け、共感を抱く人が多く存在してきたし、現在も存在し、本作によってそれを知る人もいるだろう。女性の運動を経て、大道寺将司さんの妹となって支援を続けた大道寺ちはるさんも登場する。

1975年に「狼」グループの一員として逮捕され、87年に出所後、福祉の仕事に携わっている荒井まり子さんも登場。姉は「公安警察の尾行をまこうとして亡くなった」そうだ。荒井さんは獄中でも「東アジア反日武装戦線獄中兵士」を名乗っていたが、密かに猫や他の人との交流も楽しんでいたらしい。荒井さんの母親も、支援者という「友だちを増やしてくれたから、今もまわりにお友だちがいっぱい」などと口にする。

電光掲示板や派手なアニメの看板などが乱立する東京では、東アジア反日武装戦線が単なる殺人者として露骨に嫌悪されていると説明されるシーンもある。ただし実際には、ほとんどの人は詳細などまったく知らず、また忘れ去られている部分もあるだろう。

また監督は、大道寺将司さんの故郷、北海道釧路市にも足を運ぶ。

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◆朝鮮・中国・アイヌ侵略と彼らの犠牲

韓国の監督作品として観るからこそ、印象に残るシーンもある。荒井さん親子が朝鮮民謡『アリラン』を歌い、哀愁を語らう。朝鮮から強制連行された方々を追悼する様子も描かれる。

東アジア反日武装戦線の主張にも当然、日帝による「35年間に及ぶ朝鮮の侵略・植民地支配」への批判が含まれる。自らは「日本帝国主義者の子孫であり」これを「許容、黙認し、再び生き返らせた、この認識より始めなくてはならない」というものだ。

「大地の牙」が爆破した大成建設の前身は、大倉財閥系の企業だ。大倉財閥は軍需産業で成長し、東アジア反日武装戦線は「大成建設が1922年に信濃川水力発電所で朝鮮人労働者を大量に虐殺した」ことも、爆破の理由にあげている。韓国の新聞『東亜日報(トンアイルボ)』によれば、「惨殺された者100人以上」ともいう。

同様に「大地の牙」によるオリエンタルメタル社・韓産研爆破の日程として選ばれた4月19日とは、1960年3月15日の韓国大統領選挙における不正を糾弾し、民衆デモが発生。大統領を下野させたこのデモのなかでも最大規模だった「革命の日」の日程に合わせたものだ。

齋藤和さんは学生時代、「朝鮮革命研究会」に相談役として加わり、その後、日雇い労働をしながら4回韓国へ渡航。彼の友人の中野英幸(なかのひでゆき)さんは、歴史を知ることなく、本気でないなら、恥ずかしいので支援はやめてくれといわれたことが心に残っている。

また、東アジア反日武装戦線は朝鮮同様、アイヌへの侵略の歴史にも言及していた。本作では、アイヌのイベントの様子も取り上げられている。筆者には以前、アイヌへの侵略と北海道への進出の歴史に先祖が関わった知人がおり、残された記録を目にしたことがあった。彼らは「アイヌと友好的に関わった」などと主張していた。そんなことも思い出した。まったくアジア侵略と同様だ。

さらに、「さそり」が爆破した鹿島建設には、戦時中に強制連行した986人の中国人労働者が、過酷な労働や虐待による死者の続出に耐えかね、1945年に一斉蜂起し鹿島組の現場責任者らも戦後に重刑を宣告されたことが背景にある。事件後の拷問も含め、45年までに400人以上の中国人労働者が死亡した。

彼らの犠牲のうえで、現代のわたしたちは「平和で安全で豊かな小市民生活を保障されている」と、東アジア反日武装戦線は訴える。

本作には、8月15日の「反『靖国』行動」と、それに対する右派の様子も映し出されていた。

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◆「すべての人が対等に生きられる世界」に向かうために

だが、東アジア反日武装戦線メンバーが、「非合法・武装闘争として実行」したことに対する「自らの反革命に落とし前をつける」と語るシーンなどもおさめられている。監督は、武装闘争について、冷静なスタンスを変えない。

浴田由紀子さんの出所は最近で、筆者も集会に参加したので、よく覚えている。『週刊金曜日』に報告文も寄稿した。その際、浴田さんは、「世の中を変えたいと思い、これだけ長く刑務所にいた女性は、ほかにいないと気づいた。(当事者として)犯罪者・出獄者の気持ちを理解する私が、出獄した女性たちが助け合い、人間性を奪う刑務所に行かずに済むネットワークをつくりたい。これがわたしの新たな役割」「当時、大切な人・大切なこと・自分もないがしろにしたことが一番の間違いだった。開かれた世界で自由に交流し、人間らしい日常をわたしから実践したい」と語っていた。

内田雅敏弁護士は本作で、「日本・天皇の戦争責任に関し、十分でないが終わったという認識が強かった時代に、企業の戦争責任を問うて企業爆破をすることで、日本の近現代史における未精算の問題、植民地支配や戦争責任について、徐々に理解されるようになった」という旨のことを述べている。

本作では、「反日亡国論」とは、国家や民族的な結合をなくすことであるというのも説明される。

さまざまな運動とその歴史に関わる筆者としては、武装闘争を単純に批判できない。そこで、本作ラスト近くの京都大学名誉教授・池田浩士(いけだひろし)さんの「暴力は圧倒的にわたしたちの側にない」からはじまる言葉には、ぜひ、耳を傾けていただきたい。そのうえで個人的には、やはり現代日本においては、武装闘争は倫理・道徳的な視点からというより、市民の共感や賛同を得られないものは運動にはなりえず、それは運動として成功しないという考えから否定的ではある。

個人的には、救援連絡センターの山中幸男さん、足立正生さんをはじめ、知人・仲間が多く登場し、そこも楽しませていただいた。現在、救援で働く宇賀神寿一(シャコ)さんがパーキンソン病であることを、本作で初めて知った。エンドロールに意外な方の名前も連なっていた。運動関係者の方なども、ぜひ最後までじっくりと、ご覧いただきたい。

最後に。「世界同時革命」はわたしたちの知る以外でも一部実行され、一部実現し、現在にいたると筆者は考えている。現在、政治に嘘がまかり通り、新自由主義は暴走し、格差は拡大し続けている。わたしたちは今こそ、東アジア反日武装戦線や60年代以降の運動に改めて注目し、今と未来を変えるために彼らからも学ぶことができるだろう。知り、行動する。本作で語られる「闘う人々と一緒に、お互いの国も世界も変えて、すべての人が対等に生きられる世界」「先祖がアジアの人々に対しておこなった過去の誤りを正し、償う」ことを実現するために、「自分も今のままではいけない、平和も豊かさも否定し、疑い、自己否定の時代の反日武装戦線の立場」を生かすことができるのではないだろうか。

キム・ミレ監督 © Gaam Pictures

【映画情報】
『狼をさがして』
(2020年/韓国/モノクロ・カラー/DCP/74分)

監督・プロデューサー:キム・ミレ
出演:太田昌国、大道寺ちはる、池田浩士、荒井まり子、荒井智子、浴田由紀子、
内田雅敏、宇賀神寿一、 友野重雄、実方藤男、中野英幸、藤田卓也、平野良子ほか
企画:藤井たけし、キム・ミレ
撮影:パク・ホンヨル
編集:イ・ウンス
音楽:パク・ヒュンユ
配給・宣伝:太秦株式会社

公式サイト:http://www.eaajaf.com
2021年3月27日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)

1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。映画評・監督インタビューなど映画関連としては、『週刊金曜日』『情況』『紙の爆弾』『デジタル鹿砦社通信』などに寄稿してきた。2000年代以降、ブント(共産主義者同盟)の知人も多い。K-POPと韓流ドラマ好き。訪韓1回、訪朝3回。『neoneo』向けにも朝鮮関連のドキュメンタリー、ドラマ評などを執筆してきた。月刊『紙の爆弾』2021年4月号には「パソナが淡路につくる『奴隷島』(仮)」寄稿。

最近、こちらでは新型コロナウイルスに関して書き続けてきたが、個人的に長期化への覚悟はできた(というのも妙な表現だが)。今回は、テーマを変更し、今村彩子監督ドキュメンタリー映画『きこえなかったあの日』を紹介しながら、災害時をはじめとする生活を背景に、人と人とのコミュニケーションについて改めて考えたい。

©2021 Studio AYA

◆「障害」とは何か

本作は、2011年の東日本大震災から幕を開ける。宮城県亘理郡亘理町に暮らす加藤褜男(えなお)さんは、津波の警報がきこえず、近所の人の車に乗せてもらって避難。菊地藤吉(とうきち)さんと信子(のぶこ)さんも、近所の人の声がけで高台に避難した。その後、加藤さんの家も菊地さんの家も津波で流されたのだ。

先日、ネット番組『Abema』で、障害者の兄弟姉妹である「きょうだい児」の特集が組まれた。そのなかでタレントが、「ある意味、障害は多かれ少なかれ誰にでもある」という旨の発言をする。それに対し、きょうだい児の方も、うなずいていた。

また近年、障害の「害」は「否定的で負のイメージが強い」との理由で、「障がい」という表記が見られるようになった。ただし、筆者の知る障害者団体メンバーの方は、「実際に生活していて『障害』がある。だから、『障害』と記すべき」という意見も聞いた。調べてみると、「東京青い芝の会」は邪魔・妨げを意味する「碍」の使用を提唱してきたが、ひらがなでは「『社会がカベを作っている』『カベに立ち向かう』という意味合いが出ない」と言う。

実際、社会は声が大きくなるマジョリティーに合わせて形成されている。そのため、マイノリティであればあるほど、生きづらくなっているのだ。実際、東日本大震災でも、本作によればいわゆる健常者の2倍障害者が亡くなっているそうで、これも朝日新聞の報道によれば「住民全体に占める死者・行方不明者は1%弱。障害者は2倍に上り、被害が際だっている。23日にあった障がい者制度改革推進会議で、内閣府が報告した。津波で大きな被害を受けた岩手・宮城・福島3県の沿岸37市町村に住む障害者は約15万人。内閣府が障害者関係の27団体に確認したところ、約9千人のうち2.5%にあたる約230人が死亡、または行方不明になっていた」という。

さらに、手話通訳のいない公共施設も多い。そこで、家族に同行してもらう必要があったりする。

©2021 Studio AYA

◆口話教育の問題と、それを超えていく加藤さんのコミュニケーション

『きこえなかったあの日』には、何人かのキーとなる人が登場する。その1人が前出の加藤さんで、彼は聾学校で口話の教育を受けたため、受けた教育全体としては大変不十分なものとなっていた。そのため、彼は読み書きもできなかった。口話教育の問題に関しては
《鼎談》排除の歴史と闘うための書籍『手話の歴史』/映画『ヴァンサンへの手紙』
〈1〉『手話の歴史』翻訳本誕生の背景
〈2〉手話を禁じた「ミラノ会議」の影響
〈3〉ろう者の人権尊重や本当の意味での「選択の自由」を求めて
で、触れさせていただいているので、ご参照願いたい。

ただし、加藤さんはかなり積極的で、愛嬌もあり、みんなに愛される。手話通訳士の岡崎佐枝子(さえこ)さんのもとにも足繁く通う。加藤さんはコミュニケーションを十分に取れる相手が限られるためにさびしいのかもしれないと、岡崎さんは感じている。

いっぽうで、13年の鳥取県を皮切りに手話言語条例が成立していく。手話言語条例とは、「〈1〉『手話の歴史』翻訳本誕生の背景」でご説明したように、「日本語と同等の言語として手話を認知させ、ろう者が手話言語による豊かな文化を享受できる社会を実現する」ことを目指すもの。プレスシートで全日本ろうあ連盟の石橋大吾さんは、「『福祉』の中でのみ語られてきた手話を、福祉という扱いではなく『言語』として扱う」「1人でも多くの方々に自分の身近にもきこえない人が暮らし、手話言語を必要としていることや、手話言語は音声言語と対等な言語であることを知っていただき、手話言語への理解が広まり、きこえない人の人権が尊重された共生社会の実現が私たちの願い」と語る。その必要性が高まっていったわけだ。

加藤さんのコミュニケーションは拡大していき、得意の大工仕事で人を助け、さまざまな集会所に顔を出す。独特の手話は手話を解する方にすら伝わりにくいようだが、身振り手振り、そして表情で、誰とでも交流する。

加藤さんの様子を目にしていると、これは手話に限らないということに気づく。外国語学習でも何でも本来は、相手とコミュニケーションを取りたい、だから相手の使用する言語表現を学ぶ。その際、不十分でも、やはり身振り手振り、表情などで補うことは可能どころかむしろ大変重要だということだ。伝え合いたいという意思が大切なのだろう。しかし、マイノリティほど当初の相手が限られる。そこをどうするのかということだろう。その後、加藤さんは、災害公営住宅へと移る。

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◆「震災後、いろんなことを考えた。いろんな思いが湧き出て、それらを教育に取り入れた」

2016年には熊本地震が発生。その際には、熊本県聴覚障害者情報提供センターや対策本部によって、筆談や絵によるコミュニケーションが準備され、手話が活用されて、聴覚障害者のためのポスターも掲示された。

また、18年の西日本豪雨では、一般社団法人広島県ろうあ連盟が聴覚障害者団体として全国で初めて、独自でボランティアセンター「西日本豪雨災害ろう者対策本部災害ボランティアセンター」を設立している。難聴でボランティアを断られてきた人が、受け入れてもらえることを喜び、盛んに活動する姿も映し出された。107日間で383名がボランティアに参加したという。

本作のラストでショックを受ける人もいるかもしれない。だが、それ以上に作品全体からは、事実のみならず希望を受け取ることができる。

今村彩子監督は、ろう者の立場から、コミュニケーションというものの本質を追求し続けているように感じた。それは、16年の自転車ロードムービー『Start Line(スタートライン)』も、月刊『紙の爆弾』に映画評を寄稿させてもらった「ASDときどき鬱」の友人との関係性を描く『友達やめた。』も同様だ。『きこえなかったあの日』のプレスで監督は、取材を通じて「遠慮や諦めから分かったふりをしてしまいがちなろう者にとって、分からないことをそのままにせず、根気よく尋ね返すことの大切さを再認識でき」、専門家にとっては「コミュニケーションをとる上での注意点を知ることができる」ということへの気づきにも触れた。宮城県立聴覚支援学校教諭の遠藤良博さんは、「震災後、いろんなことを考えた。いろんな思いが湧き出て、それらを教育に取り入れた。自分から周りに訴えられる人間になってほしい。手話が通じなくとも、メモ帳を持って行動してほしい。耳のきこえる仲間を作ってほしい」と記す。

わたしが移住した先の田舎には、自然災害によって完全に孤立するエリアがある。その行政区においては、高齢者や障害者もたくさんいるのだ。だが、区長さんが率先して防災の取り組みを進め、現在では全国でも屈指の事例を重ね、メディアの取材も多い。区長は「今こそ顔のみえる関係づくりを」と呼びかけている。

新型コロナウイルスの影響により、マスクで口元が見えなかったり手話通訳を呼びにくいなどの困難が聴覚障害者にとって立ちはだかっているという。人は1人では生きられず、そこには支え合いが必要だ。その際、さまざまな人との多様なコミュニケーションが大切で、日々の工夫、その積み重ねが、妨げがあった過去とは異なる未来を育むのだと思う。


◎[参考動画]予告編

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
フリーライター、労働・女性運動等アクティビスト。月刊『紙の爆弾』2月号の特集「2021年 日本のための7つの『正論」』に、「『弱者切り捨て』に反撃ののろしを上げよう」寄稿。現在では、オルタナティブの活動に注力。

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