ジャズピアニストの河野康弘さん(66歳)と出会ったのは、震災から4年目。2015年10月にTwitterの私のアカウントに「地球ハーモニー」という知らない方からリプが届いた。アカウント「地球ハーモニー」を主宰する河野さんは、矢沢永吉さんのバックバンドや中村雅俊さんの伴奏などを務めたのち、1983年ジャズピアニストとしてアルバムを発表してきた方と知った。また2011年3月11日の震災と原発事故後、東京から京都に移住してきたことも知り、その後、私たちが主催する講演会などで演奏していただいたりしてきた。(聞き手=尾崎美代子)
◆そのとき音楽があったら、共感の輪が広がります
── 河野さんは事故当時は東京でしたね?
河野 はい。JR中央線国立駅近くの自宅に家族と一緒にいました。かなり大きく揺れたので首都圏壊滅と思いました。それまで演奏の旅先で芸予地震、薩摩地震、中越地震に会いましたが、それ以上の揺れでした。テレビで震源地が東北、津波の映像を見て驚いたが、まだ原発のことまでは考えていませんでした。
── 河野さんは91年の湾岸戦争をきっかけに平和と環境問題をテーマに活動するようになったそうですが?原発を考えるきっかけもそのころからですか?
河野 湾岸戦争に日本が参加し残念だったので、平和・環境コンサートを始めました。平和・環境運動が「特定な人」だけの活動のように感じたので、音楽で広範な人が考えるきっかけを作っていきたいと思いました。ダム反対でも、「反対! 反対!」だけでは前に進まない。そのとき音楽があったら、共感の輪が広がります。
演奏活動で福井県敦賀市、福島県田村市に演奏に行った時、周辺に白血病などの病気が増えた話を聞きました。また静岡県牧之原市では神奈川県に住んでいた青年が浜岡原発に就職。息子さんが最新のエネルギーシステムでの仕事を誇りにしてたので御両親も浜岡に移住。移住してから息子の体調が悪くなり、とうとう亡くなりました。原因は原発作業での被ばくだったのです。そんな現実を知り原発は無くしたいと思いました。
◆2011年4月、南相馬の避難所では、匂いもしないし、食事も美味しい。放射能の事がピンとこなかった……
── 福島第一原発が気になりだしたのはいつ頃からですか?
河野 津波が福一を襲い全電源停止になった時です。
── 福島の危険性について考えたのはいつからですか?
河野 葛飾区の浄水場や静岡のお茶からセシウムが検出された頃です。チェルノブイリと同じなのか? もっと酷い状況になるのか?
4月下旬に福島の避難所が落ち着いてきたから、心のケアがして欲しいと演奏を頼まれ、事故後初めて福島へ行きました。福島市で友人に会い、市内から車で飯舘村を通って、南相馬の避難所に行きましたが匂いもしないし、食事も美味しい。放射能の事がピンとこなかった。
連れ合いが心配して「福島へは行かないほうがいいんじゃない」と言い始めたのですが、呼ばれたら行かないわけには行かない、と悩み簡易ガイガーカウンターを購入し、福島へ行った時に放射線量を測りました。高いところでは0.7マイクロシーベルトもあり福島での被ばくを実感しました。
◆2012年2月、37年住んでいた東京を離れ、家族4人で京都へ移住
── 東京の生活はどうでしたか?
河野 連れ合いの体調が悪くなり下痢がずっと続き被ばくが原因では、と思い始めました。本やネットでいろいろ調べ内部被ばくの事を知り、食べ物を西日本、北海道の物に限定。近くのスーパーでは、あまり置いていないので電車に乗って買いに行き、西日本・北海道へ演奏旅行に行った時は現地の食材を家に送りました。
3月21日、金町浄水場からセシウムが検出された時は鹿児島県霧島市にいて水を送ろうと大きなスーパーに行きましたが、まったく無くなかったので山の中の水の販売所に行き買って送りました。
水、食べ物はどうにかなるが、空気だけはどうしようもない。今のコロナと一緒。目に見えない、匂いもしないから。東京には沢山の放射能が降り積もったので無くなる事はありませんのでリスクを減らすには移住をしなければ、と考えました。
ネットで西日本を沖縄まで探し京都の嵐山に良い部屋が見つかり、2012年2月に家族4人(私、連れ合い、息子、義母)で移住しました。東京に37年住んでいたので移住することを知り合いの皆さんに伝えたら、ビックリされました。
── そうですね。小さい子どももいるわけでもないしね。
河野 被ばくの影響が出るのは子どもだけではないんですよね。チェルノブイリでも、最初に亡くなったのはお年寄り。全員に影響があります。
── 京都に来てから変化はありましたか?
河野 連れ合いは体調が良くなりました。あと実は、セキセイインコも連れてきたのです。2001年に飼ったから10年目でしたが、事故後元気がなくなり、止まり木にも上がらなくなりました。ところが京都に来たら、いきなり元気になって止まり木にも上がるようになり驚きました。小さな動物は影響が大きんですね。
── その後、京都、関西のいろんな活動に関わっていったのですね?
河野 はい、いろんな団体から連絡がきたり呼ばれたり、こっちから「一緒にやりませんか?」と声をかけたり……。
── 私に連絡あったのもその頃ですかね?
河野 確か、堺市に避難してきた現代美術家と「原発ゼロ」写真展&ライブをやりたいと思ったときかな?
◆福島だけでなく、首都圏も同じ
── そうでしたかね? ところで河野さんはその後福島へは?
河野 京都へ来てからも福島に行っていましたが、あることがあって、それから行っていません。
2014年に、福島から京都に避難している知り合いからメールがきました。「福島を忘れないでください。でも福島には来ないでください。福島のものを食べないでください」と書いてありました。福島に行くと福島は安全だから福島の子どもたちは避難できない。福島の食材を食べると福島の子どもたちは福島の物を食べなければいけなくなり内部被ばくする。福島だけでなく首都圏も同じ。なのでそれ以降、福島、首都圏へは行かないことに決めました。私の「意思表示」です。医師の三田茂医師も東京都小平市から岡山市に移住し首都圏の被ばく状況、危険性を訴えてくださっています。
── 一方で日本の反原発運動の中では時間が経つにつれ、被ばくの問題への関心が薄れていってる気がしますが?
河野 それは原爆が落とされた時の爆発の被害だけに目を囚われすぎ、その後に続いた被ばくの被害を問題にしてこなかったからです。ビキニ環礁の核実験の問題でも、第五福竜丸だけが取りざたされましたが、あの周辺には約1000漕の日本の船がいたんです。でも漁師の人たちは知らされなかったり、魚が売れなくなるから「被ばく」した事を言わないようにしていました。そして「核の平和利用」と言って原発を作り毎日、放射能が放出され全国の人が被ばく者になり4人に一人がガンになりました。福一事故後は2人に1人がガン。ガンの原因は被ばくが大きな要因になっています。
私は原爆の事を考えていただきたく’97年から被ばくピアノコンサートを始めました。その時は被ばくの事をあまり知らなかったのですが、福一事故後の情報収集で自分も被ばく者である事に気づきました。そして日本のすべてのピアノは被ばくピアノだったのです。そこで2011年7月に浜岡原発の近く牧之原市で現地のピアノを使った「被ばくピアノコンサート」をしました。京都に来てからは毎月「HIBAKU PIANO LIVE」をしています。被ばく情報資料をカバンに入れてあり興味を持ってくださった方にはお知らせしています。
被ばくの問題を皆さまに知っていただきたい。被ばくで福島の人を差別するのでは無く福島の人たちを守っていく為です。このままでは広島がそうであったように、福島が人体実験の場にされてしまいます。
── 今後も一緒にやっていきましょう。ありがとうございました。
◎[参考動画]河野康弘コンサート05052012 My Favorite Things”
▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58