カウアンオカモトという青年の登場によって「性加害」という表現が爆発的に広まったと思う。

彼の証言によれば、しかるべき場所で喜多川氏から「マッサージしてあげる」と言われて、素直にその好意に応じたところ、マッサージする手が上半身から次第に下半身に、そして下腹部の性器にまで達したということなのであるが……。

 

在りし日のジャニー喜多川

しかし、その先がはっきりしない。マッサージの延長行為の末に、カウアン君の性器はしかるべき反応を示したのか、それとも無反応であったのか。もしこの問題が裁判で争われるとすれば、そこが肝であると思われる。

ただ、どちらにせよ、私にはそれが「性加害」と言えるほどの事態であったとは、残念ながら思えない。無理矢理しかるべきでない場所に引きずり込まれて、暴力的に衣服を剥がされてレイプされたというわけではない。

それを「性加害」と言い切ってしまうと、刑法上の犯罪行為であるというイメージを、聞く者の耳に与えてしまう。

さらに不思議なのは、カウアン君がジャニー喜多川の性癖を知らずに、ジャニーズ事務所の合宿所のようなスペースで想定外の行為を強いられて傷ついたという証言をしていることである。

はっきり言って耳を疑う証言である。ジャニーズ事務所でその種のいかがわしい行為が行われているという醜聞は、国民的常識とまでは言わないが、1970年代後半にはもう少なくとも私の周囲には知らない者はいなかった。

ジャニーズ事務所に所属するタレントのファンの間でさえ、その噂は公然と囁かれていた。郷ひろみのファンだった女性は、私に向かって「それが芸のこやしになっているんだから、それでいいんじゃないんですか」と言い切った。彼女の表情から不快感は全く感じられず、むしろ必要枠として評価したいという気持ちが伝わってきた。

そこまで広まった噂の真相をカウアン君が知らずにジャニーズ事務所に身を寄せたとしたら、あまりにも無防備であったと言わなければならない。「自己責任」という嫌な言葉が口をついて出そうにもなる。

今回の騒動に関して「僕には楽しい思い出しか残っていない」と田原俊彦が語っていたそうだが、タレント志望のジュニアの多くもジャニー喜多川の愛玩物となることを覚悟して(あるいは甘受するつもりで)その場に身を置いたと思われる。そこを通らなければ、デビューさせて貰えなかったそうだから。

解散してしまったSMAPの木村拓哉と中居正広はジュニアの時代に在学していた都立代々木高校で、周囲が心配するほどの犬猿の仲であったという。かなり遠くからでもお互いの存在に気づくと、しばらくの間にらみ合っていたというほど険悪な関係であったと、当時同校に在学していた女子高校生が語っていた。2人の不仲の原因が、ジャニー喜多川の寵愛を競う争いであったことは明らかだったという。

その話も、後に2人がSMAPというグループのメンバーとしてデヴューすることになった途端に和解してしまうと「個人的な感情を棄てて仕事に徹する……さすがプロだ」という美談にすり替わってしまったようだが。

SMAP時代の木村拓哉と中居正広

概してジャニタレファンは、鷹揚で包容力に富んでいる。木村拓哉が工藤静香と結婚するというニュースが流れた時、彼のファンの多くは「何であんなヤンキーと一緒になるの!」と激しい怒りを露わにしたが、それでもファンであることをやめようとはしなかった。

カウアン君の突然の告発にも動じる気配はない。逆にカウアン君のことを「被害妄想っていうか、被害者意識が過剰なのよね。かわいそうな人ね」と同情したり、「ああいう人はジャニーズでは例外でしょう」と完全に自分の意識から排除したりする。

その反面、カウアン君を「日本の恥」と切り棄てたデヴィ夫人に対しては「お前こそ。日本の恥だ」「お前だって。元は高級売春婦じゃねえか」「地位と名誉が欲しくて、色仕掛けで某国の大統領夫人にまで成り上がったくせに」と、何もそこまでいと言いたくなるほどの悪罵を投げつける。「吐いた唾は飲まんとけよ」という映画『仁義なき戦い』の名ゼリフを彷彿とさせる言い草ではないか……

しかし、「日本の恥」というデヴィ夫人の表現を、必ずしも不適切だと私は思わない。カウアンは今まで恥ずかしくてとても言えなかった心の傷をジャーナリスト相手に堂々と公表し、ついに国連にまでその「性加害」問題が取り上げられるに至った。

それは確かに「日本の恥」を世界に晒す行為であると言えるだろう。だが、「恥をかけ、とことん恥をかけ」というアントニオ猪木の警句を実践したと解釈すれば、勇気ある行動と言えなくもない。

昭和のプロレスの悪役の如く、未だにマスコミに重宝されているデヴィ夫人としては、憎まれ役は自分の本領と自覚しているに違いない。「日本の恥」という表現は、意地悪な悪女が純朴な青年をイジメている演出に沿ったものであるに違いない。むろん彼女自身の演出である。

そして、ラストシーンは、闇の奥に潜んだまま鬼籍に入ったジャニー喜多川を、死後世界史に稀代の変人として名を連ねることになると、筆者は予想するのである。
そしていつか、彼の名声と共に「性加害」という言葉も軽い恋愛感情を示す表現になっているのではないかと思う。(つづく)

板坂 剛 ジャニーズよ 永遠なれ(全3回)
〈1〉死して尚、放たれる威光
〈2〉「性加害」という表現への疑問

本稿は『季節』2023年秋号掲載(2023年9月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

鹿砦社編集部編『ジャニーズ帝国 60年の興亡』A5判 320ページ 定価1980円(税込み)

【主な内容】
Ⅰ 苦境に立たされるジャニーズ
  2023年はジャニーズ帝国崩壊の歴史的一年となった!
  文春以前(1990年代後半)の鹿砦社のジャニーズ告発出版
  文春vsジャニーズ裁判の記録(当時の記事復刻)
 [資料 国会議事録]国会で論議されたジャニーズの児童虐待

Ⅱ ジャニーズ60年史 その誕生、栄華、そして……
1 ジャニーズ・フォーリーブス時代 1958-1978
2 たのきん・少年隊・光GENJI時代 1979-1992
3 SMAP時代前期 1993-2003
4 SMAP時代後期 2004-2008
5 嵐・SMAPツートップ時代 2009-2014
6 世代交代、そしてジュリー時代へ 2015-2019
7 揺らぎ始めたジャニーズ 2020-2023

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315290/

最新刊! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年6月号

◎鹿砦社 https://www.kaminobakudan.com/
◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0D33BMRD4/

前田和男さんは鹿砦社創業メンバーの一人、現在ただ一人生き残っている方です。当時、創業時の社長・天野洋一(故人)らと『マルクス主義軍事論』などを編纂し、最近では『続全共闘白書』を編纂したことで有名です。

昨年前田さんは、『昭和 街場のはやり歌 ── 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと』を刊行、好評を博しました。このたび、その続編が刊行され届きました。

詳しい内容は省きますが、書店で手に取って、どうぞご購読お願いいたします! または、私への手紙(下記)の末尾に記された前田さんの事務所に直接ご注文ください。

鹿砦社 代表
松岡利康

前田和男『続昭和街場のはやり歌 ── 戦後日本の希(のぞ)みと躓(つまず)きと祈りと災いと』彩流社刊 A5判 240ページ 定価2420円〔税込み〕

前田和男さん(2019年、鹿砦社創業50年インタビューの時のもの)

本に挟まれた前田さんから松岡への手紙 ※書籍のご注文は、〒102-0072 東京都千代田区飯田橋4-10-1 セントラルプラザ507 同文社気付 Tel.03-5228-2140

朝日新聞2023年11月4日付け朝刊読書欄

世界で唯一、広島にだけあった乗り物「スカイレール」が2024年4月30日、26年の歴史に幕を閉じました。

 

「スカイレール」は神戸製鋼所と三菱重工が開発した、モノレールのような軌道に小さなゴンドラを吊り下げて運行する乗り物でした。

1998年8月、積水ハウスなどが開発した約2200世帯、人口7700人の「住宅団地スカイレールみどり坂」のみどり中央駅とみどり口駅(JR山陽線瀬野駅)の1.3km、高低差130mを5分、片道170円で結んでいました。山陽線を通じての通勤客はもちろん、小中学生も登下校の手段として使っていました。

特徴としては、悪天候に強いことがあげられます。西日本大水害2018では被災地に向かうボランティアを輸送するなど活躍していました。また、1998年の運輸白書でも、今後の活躍が期待されていました。

しかし、利用者数が低迷し、赤字が累積する一方でした。それでも、地域の交通手段として貴重であれば、行政の補助などで存続もあり得たでしょう。しかしながら、世界で唯一ということで、部品業者にとってはマーケットが極めて小さい=商売にならない=ということで、部品業者が撤退してしまい、設備の更新が困難になったことが決定だったようです。

2024年3月からは、すでに電気バスが先行して運行しており、瀬野駅までの交通手段となるそうです。確かに、スーパーにも寄るなど、バスの方が便利です。ただ、運賃はバスの方が200円と、スカイレールより高くなっています。

 

筆者は4月28日にスカイレールに乗車しました。この日は、夜勤明けで、かなり眠かったのです。しかし、翌日29日は雨だということで、それなら、今日のうちに行ってみようと思ったのです。

ちなみに安芸区は、筆者の妻の実家もあります。広島市西区の勤務先から自転車で東区の自宅に帰宅した筆者は、妻と二人で、自宅の最寄りの広島駅から山陽線に乗り、瀬野駅へ向かいました。そして瀬野駅で降りると、接続しているスカイレールの「みどり口駅」に向かいました。

このスカイレールはICOCAなどICカードが使えません。この点が不便と感じました。一々、切符を買わないといけないのです。その切符を買うのに並んでいる人がたくさんおられました。

時刻表を見ると15分おきにしか運行していません。前の人が切符を買っているうちに発車時刻が過ぎてしまい、がっかりしてしまいました。それでも気を取り直して、改札に向かいました。切符のQRコードを機械にかざすのがスカイレールの改札方法です。改札を過ぎて階段を上がると、なんと、次から次へとゴンドラが登場していました。混雑しているときには臨時便を運行する。これがスカイレールなのです。

筆者たちがゴンドラに乗り込むと、すぐに出発しました。グーンと上に上がっていく感じがしました。たしかに、ゴンドラからの眺めは最高でした。

「みどり中央駅」で降りると、周囲は瀟洒な住宅街でした。「きれいな家が多いね」と妻も感想を述べました。

みどり中央駅の近くには電気バスの車庫もありました。ただ、駅の周りには商業施設などはなく、たしかにこの点は不便だな、と感じました。みどり中央口駅には町の地図もあり「スカイレールタウンみどり坂」と、文字通り、スカイレールがこの街の象徴だったことを強く感じました。

広島県内もご多分に漏れず、高い場所にある団地の交通手段の確保が焦眉の急となっています。バスは運転手不足。アストラムラインのような軌道系交通の駅までは距離がある。一方で、高齢化の中で、住民の皆様の車の運転が困難になってきている。八方ふさがりの状況もありました。無人運転ができていたスカイレールは、これからを担う交通システムになった可能性もあったのでしょうが、残念ながら、この路線だけだったために、部品業者が撤退してしまったのが痛かったということでしょう。

いずれにせよ、住民の移動の権利を保障するため、今後も県民的な議論を進めるとともに、国にも地方交通の維持へ向けて財源などの面でのバックアップをお願いしたいものです。
 
▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
◎Twitter @hiroseto https://twitter.com/hiroseto?s=20
◎facebook https://www.facebook.com/satoh.shuichi
◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年5月号

◎鹿砦社 https://www.kaminobakudan.com/

出し遅れの告発に水をさすつもりはない。むしろ拍手喝采したい気持ちである。「そんなに嫌だったら何故その時に言わなかったのか」というデヴィ夫人の逆ギレ的批判もまた大いに結構。

 

在りし日のジャニー喜多川

死して尚、賛否両論渦巻くのは天才の証明であると言えるだろう。ジャニー喜多川は天才であったと確認しておきたい。むろん天才が常に正しいとは誰も思ってはいないという前提があっての話であるが。

天才とは時代の常識を覆すことで存在の意義を誇示する人間であり、狂人と紙一重とよく評されるように危険人物である例は枚挙にいとまがない。

彼(彼女)の人生は、正常な市民生活を営むという選択とは無縁である。異常性愛お手のもの。W不倫なんてまだまだ甘い。トリプル不倫か、いっそ無差別不倫でも行けそうな気迫をむき出しにして、モラリストと対立することになる。

ジャニー喜多川の場合、従来の完全無欠なヒーローとは違った新種の《あまり強そうではない、つまり強靭な体力と精神力を見せつけない、要するに女性的、あるいは中性的な、優しさを内に秘めた》美男子像を大量に輩出することで、昭和の後半から日本の大衆にリアルな感動を提供し続けた。その功績は決して過小に評価してはならないだろう。

彼等ジャニーズ事務所出身の俳優兼歌手たちがいなかったら、日本の芸能界から生み出される映画やテレビドラマ、音楽シーンは随分と淋しいものになっていたとは思う。

むろん彼等のうちの誰一人も「桃太郎侍」を演じることは出来なかったし、演じても以前にチラ見したテレビドラマ『華麗なる一族』の木村拓哉も(はるか以前にやはりテレビドラマとして放映された同作品で、同じ役を演じた加山雄三と比べてしまうと)私の目には全くサマになっていなかった。

しかし、その割に原作者の山崎豊子はベタ褒めだったし、女性ファンには好評だったと聞く。そこには性別と世代の違いから生じる美意識の混乱という他はない現象が表れている。ひと口に言えばアイドルの多様化。

いつの時代にも色々なタイプのアイドルがいてそれぞれの好みにあったファンが、彼(彼女)を追いかけてはいた。ただ多様化と言って悪いならバラエティーに富だ大量のアイドル群を増産し続けたのがジャニーズ事務所であることは認めなければならない。

ある時、電車の中で2人の女性が語り合っていたのを思い出す。20代の後半と思われる女性が、熱っぽく語っていた。

「私の青春は嵐だったわ」

嵐の何たるかを知らなかった私は、彼女の青春は嵐のように荒れ狂い、乱れまくっていたのだろうかと想像したのだが、実は違っていた。

彼女の話相手であった年配の女性が次のように語ったのだ。

「そうねえ。私の青春は田原俊彦だったわね」

突出したアイドルがファンの青春に忘れられぬ感情的な発作の痕跡を残すのはよくある話だが、何世代にも渡って青春の通過儀礼を司るアイドルが同じ出所から生み出されたという実績を「伝統芸能」と称されるべきだと考えるのは私だけではないだろう。前時代から伝統芸能の大先輩として国家にまで認知されている歌舞伎もまた男色文化の典型であり、長らく歌舞伎座の2階の客席は「ハッテン場」と称されるゲイの交流場所として知られていた。

今回のジャニー喜多川による「性加害」問題等、歌舞伎の世界では日常茶飯事だったであろうと想像がつく。(つづく)

本稿は『季節』2023年秋号掲載(2023年9月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

鹿砦社編集部編『ジャニーズ帝国 60年の興亡』A5判 320ページ 定価1980円(税込み)

【主な内容】
Ⅰ 苦境に立たされるジャニーズ
  2023年はジャニーズ帝国崩壊の歴史的一年となった!
  文春以前(1990年代後半)の鹿砦社のジャニーズ告発出版
  文春vsジャニーズ裁判の記録(当時の記事復刻)
 [資料 国会議事録]国会で論議されたジャニーズの児童虐待

Ⅱ ジャニーズ60年史 その誕生、栄華、そして……
1 ジャニーズ・フォーリーブス時代 1958-1978
2 たのきん・少年隊・光GENJI時代 1979-1992
3 SMAP時代前期 1993-2003
4 SMAP時代後期 2004-2008
5 嵐・SMAPツートップ時代 2009-2014
6 世代交代、そしてジュリー時代へ 2015-2019
7 揺らぎ始めたジャニーズ 2020-2023

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315290/

◆大村藩の謎は板坂家の謎

そろそろ本題に入る。前述したとおり江戸時代の初期から大村藩の御典医であった板坂家初代の板坂卜庵という人物、いったい何者だったのか。言語学者だった叔父の板坂元が調査したところ、何と「徳川家康から当時は超高級品だった朝鮮人参を直々に拝受、その時着ていた上下(かみしも)の肩衣を脱ぎ、包んで持ち帰った」という嘘か本当か判らないような話が残っていたそうである。

要するに徳川家康に仕えていたのだがすぐに大村藩に出向したわけで、叔父は「多分、監視役も兼ねていたんだろう」と推測していた。それってほとんど忍者のような存在だったってこと?と私は勘繰ってしまった。

大村喜前の棄教と禁教は全国に先駆けて実行されたが、先代の大村純忠が日本初のキリシタン大名として知られていた史実と照らし合わせると、キリスト教への対応は真逆だが、親子とも変わり身の早さが目に付くのが何となくいかがわしい。

「喜前の突然の棄教の理由として、キリスト教が幕府により厳しく取り締まられることを、喜前は見越していたと考えられます。いち早い禁教政策のおかげで全国禁教令を問題なく乗り切りましたが、多くの潜伏キリシタンを生み出すことになり、後に「郡崩(こおりくず)れ」という潜伏キリシタンが大量発覚する重大事件がおこる要因を作りました」(大村市立資料館特別展『解大藩書─大村藩を解く』)

こういう状況だったのなら、幕府側が禁教政策を実施されているか、いつまた藩主の気が変わってキリスト教を容認することになるのではないか。そもそも大村喜前の棄教は偽装では……といった疑念にかられるのは当然だろう。監視役が必要だったという説にも頷ける。

それにしても私の先祖が、その昔、江戸から長崎大村の地まで派遣された『公儀隠密渡り鳥』であったとは、嗚呼……。

◆その日、歴史館にて

長い間、故意に興味の対象から外していた家系という縦軸の共同体が、いきなり私を呼び寄せているような気がして、行ってみた。

コロナ禍まだ治らぬ折り、国論を2分した「ぼったくられ5輪」に対する憤懣も、原発事故や放射能に関する問題は封印されたかのような世相への反発も胸に秘めたまま、遠隔地への移動は現実からの逃避かとも思えたが、現実を解明する鍵は過去にある、現在は過去の結末であるという自説に基づいての旅路だった。

先祖が大村藩でどんな役割を果たしのか、そんなことは調べても判るはずはない。ただ先祖がどこに住んでいたのか、そこはどんな場所だったのかが判ればいい。そこからきっと伝わって来るものがある……と霊感豊かな私は予測していたのだった。

写真提供=小滝勝

写真提供=小滝勝

そしてその通りになった。

市の中心地にあった大村市立史料館に足を踏み入れてから、数分後に私はその場所に行き着いたのだ。その場所、と言っても、史料館内の最も目立つ展示室に設置されていた城下町の立体的な復元図面内の話だが、百を超える武家屋敷の中に板坂俊道という名前が記された札が置かれていた。

この人は江戸時代の最後を飾った14代目、祖父の先代板坂立栄の父親にあたる板坂家の13代目である。この図面は江戸時代末期の状態を復元したものだものなのだろう。

しかし、江戸時代の末期と言えば、大村藩は長州藩と同盟を結び、倒幕運動に加担している。秋田の角舘にまで出兵して徳川の残党を討伐する戦いにまで決起している。

大村藩を監視するために徳川幕府から派遣された初代の子孫たちは、幕末にはどのようにふるまったのか、気になるところであるが、立体図面をじっと眺めていると何となく判ってしまうことがある。

板坂の邸の前には広い河川敷があり、河川敷はそのまま砂浜に連なっている。江戸時代の板坂家の人々は屋敷を出て河に沿った道を海辺まで歩き、左折して海を眺めながら登城したのだろう。

250年を経て、大村の地が故郷となった人々には初代の思惑はもはや風化していたに違いない。

ただこの立体図面を見て、あらためて感じるのは復元されているのは城と家臣の武家屋敷のみで、農家はもちろん町民の家も全くないことだった。そこには当時の農民や町民、つまり一般民衆にとって、城はあまりにも遠い異次元の世界であり、民意は決して支配者には届かないという過去の「現実」が示されていた。

長崎の原爆による惨禍も、隣県の原発に対する反感もそこからは感じられない。当たり前だ。しかし人間には支配する者と支配される者の2種類がある。その結果が原爆や原発であり、あらゆる争いごとが利権の奪い合いに過ぎないことが感じられると、今はただ沈黙するしかないのだろうか。(おわり)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩
〈3〉大村藩の謎は板坂家の謎

▼板坂 剛(いたさか・ごう)さん(作家/舞踊家)
1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年春号 能登大震災と13年後の福島 地震列島に原発は不適切

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0CWTPSB9F/

◆滅びゆく家系の末端で

長崎の板坂家の跡を継いだ男性が軍医となって戦地で死亡した後、未亡人となった女性は大村に住み続けたようだが、何故か板坂の名を棄てて旧姓に戻ったため、長崎の板坂家は消滅した。

軍医の死は戦死としては扱われないのだろうか。彼が靖国神社に祀られているという話は聞かない。

父が江戸時代から続いた医師の家系に終止符を打って家を出たのは、南京での受難の思い出と共に軍医になった従兄への複雑な思いがあったのではないかと想像がつく。

「とにかく自分は子供の頃から、軍隊やら戦争やらにアレルギー反応があったんや」

とある時、父は私に言った。そう言った時の淋しそうな横顔が忘れられない。

『大村藩の医療史』によれば初代の板坂卜庵(ぼくあん)という人物以降、14代目になる祖父の先代板坂立栄なる御方まで、江戸時代から続いた大村藩の御殿医(大名お抱えの医者)に連なる家系が、私を守って断絶することが100%確実になった今、父が抱いた感慨が脳裏に伝わってくる。

父は自由人だった。

「医者にはならない」と祖父に告げた時、父は祖父の手でボコボコにされて気絶してしまったそうだが、もし父が親の意向に従って医者になるような人だったら、ボコボコにされる役目は私が演じなければならなかったかも。

家系を背負う重圧に対する鬱陶しさは、自分がその家系にふさわしくないという先入観を抱いていた私のようなコンプレックス・マニアには、幼少の頃からすでにやりきれない精神的苦痛となってつきまとっていた。

幸い家からの離反、家族との決別がトレンディーであった時代が青春期であったので、何の苦もなく家系等意識の外に追いやることは出来たのだが……。

もちろん私が家系から遠ざかった理由は他にもある。もしかしたらこちらの方が重かったような気もする。その理由は大村藩である。

◆暗い過去を秘めた大村藩

今でこそ長崎は遠い昔の「異国情緒」を残したレトロな地方都市として粋な観光地の雰囲気も漂わせてはいるが、元々は大村家の領内にあった場末の漁村にすぎなかったという。長崎を貿易港として開港したのは、後に日本で初めてのキリシタン大名と呼ばれた大村純忠という人物だが、本当に彼がキリスト教にかぶれたのか、南蛮貿易を独占したいための方策だったのか判然とはしない。

なにしろ当時のキリスト教は貿易とセットで世界を支配しようとする布教活動を行っていたと思える節(ふし)が多々ある。はっきり言って「八紘一宇」(世界を一つの家とすること。太平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いた標語=『広辞苑』)や「一帯一路」(中国共産党による新たな「覇権主義」)と似たようなものだろう。最近では織田信長はイエズス会に殺されたという説まで出現して、歴史(過去)は進化するものだと痛感する。

今風に言えば陰謀論だが、ことの真相はともかく大村純忠の所業は、結果だけ見れば滅茶苦茶だった。自分自身がキリスト教徒になるだけでなく、家臣はもちろん領民全部にキリスト教徒となることを強制し、仏教徒であった父純前の位牌を焼却、領内の神社や寺院を次々に破壊したという。主としてポルトガルから来日した宣教師たちが純忠にしつこく進言した結果であることも確認されている。

驚くべき事実は、にわかクリスチャンであるはずの信者の手で、虐殺された僧侶もいるという……この時代のクリスチャンはテロリストと化したのだった。

即ち急激な時代の変化に過剰な反応を示す軽薄な人々による同調圧力は、決して今に始まったことではなくむしろこの国の伝統芸能と考えるべきなのかもしれない。
大村純忠のキリスト教への転向が、利権目当てであったという疑惑は今さら解明する術もない昔話だが、純忠の死後豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川幕府の禁教令に順応した純忠の息子喜前はあっさり棄教、キリスト教に対する禁教令を発布することになる。

ここで息を吹き返した神社・お寺さん諸氏が今度はキリスト教徒を迫害するようになる。

キリシタンの長い受難の歴史が始まる。アホかと言いたくなるような変節だが、大村喜前の主体性のない生き様は、秀吉の九州侵攻に手を貸してその覇権先となり、バテレン追放令にもすんなりと同調し、更に元締めが徳川に移行すると、幕府が禁教令を発するのを察知していち早く大村藩全体にキリスト教を禁じる処置を取るというあざとさに示されるように、徹頭徹尾自己保身が優先課題になっている。

そのために住民同士が殺し合い、建造物を破壊するような混乱状態が生じても意に介さない政治姿勢には頭が下がる。しかし今の日本の現状に比べて、あながちひどい時代だったとも言い切れないのはどうしたものか。

すべての問題を選挙でどれだけ票を集められるかを基準に判断する政治家たちの自分の地位を守ることしか考えていないように見える姿は、まるで大村喜前そのものではないか。

もちろんそんな政治家に追従する大衆が悪いのだといえばそれまでの話ではあるが、安倍政権すら倒せなかったわれわれ日本の老害世代に、大村藩の殿様や領民を笑う資格はないということである。(つづく)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩

▼板坂 剛(いたさか・ごう)さん(作家/舞踊家)
1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年春号 能登大震災と13年後の福島 地震列島に原発は不適切

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0CWTPSB9F/

◆家系という負の遺産を背負って

1980年代の中頃まで、私の本籍地は長崎県の大村市だったが、実は敗戦後の大村にはすでに「板坂」を名乗る人は住んでいなかったという。

私の祖父は熊本医科大学を卒業して医師となり、何故か満州に渡って開業医として大成功したそうで、そこには骨肉の相続争いがあったらしいが、その種の史実には全く興味がないので割愛する。

更に満州から南京に転出した祖父は、南京でもまた奇跡的な成功に恵まれて大邸宅に住んでいたという話である。しかしその話に、疑問を感じないではいられない。

満州の撫順にあった祖父の病院に、戦場で重傷を負った陸軍の軍人がかつぎ込まれた時の逸話が、戦後出版された当該元軍人の回想録に記されていた。

「板坂光君(私の父である)という少年が庭先で遊ぶ声で目を醒ました」

腕か脚を切断するほどの手術の後、麻酔から覚めた時のことを書き記した文章だったと記憶する。この部分だけ読めば単にノスタルジーをかきたてられるエピソードだが、この当時の満州では日本人の医者は中国人の患者を診察しなかったという秘話など耳にすると、さもありなんと思えてしまうのが悲しい。

さて問題はこの時「板坂光君(私の父である)という少年」が何歳だったのかということなのだが、陸軍の軍人が負傷して祖父の病院にかつぎ込まれたのは満州事変の発端となった柳条湖事件(1931年)以降のことであろう。父は十代半ばだったと思われる。

父の出生地が撫順であり、1918年の生まれであることを考えれば、祖父が満州に渡ったのは、満州事変より十数年も前だったことになる。その後、満州から南京に移転したのがいつだったのかは判らないが、交通の便も悪く、社会情勢も安定していない南京市内にわざわざ移り住み、しかも広大な邸宅に居を構えることが出来たのは何故なのだろうか。

そして当然と言えば当然の結果ではあるが、1937年の上海事変の際、中国全土で盛り上がった抗日気運に乗って、祖父の邸宅は蒋介石の軍隊に襲われ、家族はすべてを失って無一文で帰国しなければならなくなった。

その間の経緯については、祖父も父も私には何も話してはくれなかった。思い出したくもないということなのだろうか。2人の死後、叔母にあたる女性から「子供たちまで庭に引きずり出され、銃を突きつけられた時には殺されると思った」と当時を回想する話を聞かされた。相当に緊迫した状況だったようだ。

しかしここでも私には疑問に思えることがある。関東軍が満州で事を起す十数年前、まだ満蒙への開拓移民団さえ組織されていない時代に本土を離れて満州に赴き、開業医として成功していた。にも拘らず、満州国がようやく成立し日本の植民地国家となるのかと思えた頃、逆に日本人にとっては未知の領域に等しい南京をハイリスクな旅の目的地に選んだ理由が判らない。

まるで日本軍の侵略コースを先取りしたかのような道程が何を意味するのか……まさか軍の要請に従ったとは思いたくないが、在留邦人が危険な目に遭っていることを口実に軍が出動するのは侵略者の常套手段である。

祖父の一家が南京から追放された数日後、その報復であるかのように南京は日本軍機による無差別爆撃を受け、4か月後には日本軍は南京を占領した。そして南京大虐殺が始まる。

祖父一家は侵略の口実を作るための囮だったのかとも思える。当時の南京で祖父と同じ目にあった日本人は大勢いたはずだが、彼等に対する迫害が日中戦争を正当化する理由のひとつになったことは確かだろう。(つづく)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩

▼板坂 剛(いたさか・ごう)さん(作家/舞踊家)
1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年春号 能登大震災と13年後の福島 地震列島に原発は不適切

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0CWTPSB9F/

横浜副流煙事件の「反訴」で、被告A妻(3人の被告のひとり)の本人尋問が行なわれる公算が強くなった。しかし、A家の山田弁護士は、A妻の体調不良を理由として出廷できない旨を主張している。最終的に尋問が実現するかどうかは不透明で、3月11日に原告と被告の間で裁判の進行協議が行われる。

副流煙の発生源と決めつけられた音楽室と、「被害者」宅の距離を示す現場写真

裁判では、作田医師が被告3人のために作成した診断書が争点になっている。これら3通の診断書は患者が自己申告した病状に重きを置いて、化学物質過敏症、あるいは「受動喫煙症」の病名が付された。それを根拠として、約4500万円を請求する前訴が提起されたのである。従って診断書が間違っていれば、提訴の根拠もなかったことになる。

つまり診断書の作成プロセスが問題になっているのだ。言葉を返ると、患者の希望に応じて作成した診断書に効力はあるかという問題である。

この「反訴」の発端は、2017年の秋にさかのぼる。

横浜市青葉区のすすき野団地に住むミュージシャン藤井将登さんは、自室で煙草を吸っていたところ、副流煙が原因で、化学物質過敏所に罹患したとして、上階の斜め上に住むAさん一家(A夫、A妻、A娘)から、約4500万円の損害賠償請求を受けた。しかし、将登さんが喫煙していた部屋は、防音構造が施されている音楽室で、煙は外部にもれない。しかも、喫煙量は1日に2、3本程度だった。さらに将登さんは留守がちだった。A家が主張する副流煙の発生源に十分な根拠がなかった。

それにもかかわらず原告(「反訴裁判の被告」)は、将登さんの煙草が原因で、化学物質過敏症になったと主張し、高額な金銭を請求したのだ。

裁判所はA家の訴えを棄却した。控訴審でも、A家の訴えは一切認められなかった。

将登さんは勝訴の確定を受けて、2022年3月にA家が起こした裁判はスラップに該当するとして、損害賠償裁判を起こした。これが現在進行している「反訴」である。この裁判の原告には、将登さんの他に、妻の敦子さんも加わった。さらに3人の診断書を交付した作田医師については、被告に加えた。

裁判は順調に進み、証人調べの人選の段階に入った。藤井さん側は、A夫の尋問を求めたが、A夫の山田弁護士は体調不良を理由に出廷はできないと主張した。しかし、藤井敦子さんは、A夫が戸外を歩いている場面をビデオに撮影して、山田弁護士の主張が事実に基づかない旨を主張した。

しかし、平田裁判官は山田弁護士の意見を重視して、A夫の尋問は行わない決定を下した。

これに怒った将登さん側は、平田裁判官に対する忌避を申し立てた。忌避の審理には、上級裁判所での審理も含めて、約1年を要した。結局、忌避そのものは認められなかったが、平田裁判官はA夫の尋問を決めた。

山田弁護士は、やはりA夫の尋問は難しい旨を説明した。医師の診断書も提出した。そこで藤井さんの側は、代案としてA妻の尋問を求めたのである。平田裁判長は、判断に迷ったようだが、最終的にそれを認めた。

こうしてA妻の尋問が実現する公算が高くなったが、山田弁護士はA妻の体調不良を理由に、出廷できないと主張している。既に述べたように、裁判の進行協議は3月11日に行われる。

作田学医師が交付したA妻の診断書。根拠なく副流煙の発生源を特定している

※このところ一部の市民団体が化学物質過敏症の患者数を誇張して報じている。化学物質が人体に有害な影響を及ぼすことは、紛れもない科学的な事実で、規制も必要だが、実際の患者数については慎重に検討しなければならない。誇張があってはならない。横浜副流煙事件のような「冤罪」を生む可能性があるからだ。

たとえば市民団体代表の加藤やすこ氏は、「あたらしい年は香害のないきれいな空気で過ごしたい」(『週刊金曜日』2月9日)の中で、化学物質による被害の実態について次のように述べている。

香害に関する情報発信などを行うフェイスブック「香害をなくそう」は、2022年に移香で困っていることについてWEBアンケートを実施した。

回答者600人のうち、「家の中に入る人や、近隣からの移香や残留で、家の中が汚染される」は、90.9%で、「外出先の空間や人から移香して汚染される」は90.0%……

有病率を明記しているわけではないが、香による被害を殊更に強調している。数値に客観性があるのか否かを慎重に検討しなければならない。

この件については、別稿を準備している。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

黒薮哲哉『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』(鹿砦社)

おばんです。ちょっと言わせてください。あのですね、大阪万博をこのまま強行すれば、東京五輪の時以上の過労死者や自殺者がでますよ。新国立競技場の現場で若い現場監督が自殺したではないですか? 現場監督は、大きな現場の全体を把握してないと勤まらない。店に来る職人さんが少し大きな現場に入ると、監督が良いか悪いか、よくわかると言います。今日ある場所でコンクリ打ちするからミキサー車が入るというのに、入る予定のゲート付近に、ほかの業者が資材を山積みしているなんてことがあるそうです。「何やってんだ!ミキサー車来てるぞ、早く片づけろ!」と怒鳴り声が飛ぶわけです。

これは福島第一原発の収束・廃炉作業の現場を知るなすびさん(被ばく労働ネットワーク)も言ってました。福一の現場ではそれこそ毎日多種多様な作業が行われています。ある工事を行う作業員が現場にいくと、別の作業をやっている人たちがいて、自分たちはそれが終わるまで、被ばくしながら待たなくてはならないとか……。

広い現場の全体を把握できる人間がいないということです。しかも万博の現場、なかで作業が遅れているのを見せたくないためか、周囲をぐるりを囲む大屋根が先にできましたが、そうすると、中の工事に資材を搬入するなどの作業がやりにくい、やりにくい。違いますか?

◆ゼネコンの人間は、コンクリ打ったり、鉄骨組んだりできません

あと、万博の建設現場に中に入るゲートが少ないですね。以前、大阪の堺市で大きな電気関係の工場現場があったのですが、誰も行きたがらない。何故かというと、現場へ入るゲートが一本しかないため、行き帰り、とくに早く帰りたい帰り道、ゲートが混んで混んでなかなか出れないらしい。職人さんはキツイ仕事終えて早く一杯やりたいので、現場から戻るのに何時間もかかる現場はいきたがらない。
 
あと、皆さん、万博は大手ゼネコンが請け負うから、優先的に仕事が進むはずと考えていませんか? ゼネコンの竹中、大林に勤める人間がとつぜんコンクリ打ったり、鉄骨組んだりできませんよ。現場で働くのは下請けの作業員、その人数は限られていますよ。その人たちを奪い合うわけですよ。

さっき言ったように、キツイ仕事終わったら早く帰りたい、いっぱい飲みたい、風呂浸かってゆっくり休みたいと思うのが普通でしょう。だって人間だもの……(相田みつお風)。

誰が、帰りに何時間もかかる現場に行きたいと思いますか? 例えば、釜ヶ崎で、手に専門職をもたず、穴掘りなど土工の仕事しかできない人でも、当然ですが、労働者としての「誇り」があります。

阿倍野ハルカスの現場に穴掘りの土工さんとして入った人でも(失礼な言い方ですが、この人たちがいないと現場は始まらない)、「ママ、あのハルカス造ったの、俺だぜ」と自慢するのです。

それが、造っても半年ほどで解体する万博の現場に、「おれ、すごいだろう」と自慢して入れる人はどれくらいいますか? それなら、「能登に行って仮設住宅作って、えらい喜ばれたわ」という現場の方がナンボやりがいがあることか?

だから万博の現場に人は集まりません。首に縄着けて引っ張っていくのなら話は別ですが……。それでも金借りた、昔親方に世話になったなどの理由で現場に行かざるを得ない人、めっちゃ大変ですわ。私だったら単価が多少安くても能登の片づけ作業、解体作業そして仮設住宅造りにいきますわ。

だって、人として、人のためになることをやりたいじゃないか(相田みつお風)。


◎[参考動画]【万博間に合う?】「手が足りない」「めっちゃ急かされる」建設作業員たちの本音 工期遅れで残業やむを得ない状況も…大阪・関西万博の会場建設の現状(MBS NEWS 2024/02/11)

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

尾﨑美代子著『日本の冤罪』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

◎鹿砦社HP https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000733

広島市長、教育勅語引用の抗議に反論 『使い方とかけ離れた議論』」と1月19日付の朝日新聞の記事を目にした。

見出しだけではさっぱり意味が分からない。まさか「平和都市」を標榜する原爆被爆地の市長が、21世紀に「教育勅語」を真顔で持ち出すことなどはあるまい、とは思ったが時代が時代であるので、真相がわからない。広島市役所に電話をしてことの次第を聞いた。

◆広島市長は「温故知新」の解説例として「教育勅語」を利用した?

広島市の代表番号に電話をかけ、問い合わせ内容を伝えたら、教育委センターに繋がれた。

── お待たせしました。広島市研修センターのキョウゴクと申します。

鹿野 お邪魔します。市長が職員の研修に「教育勅語」を使っていると報道で知りました。事実でしょうか。

── はい。

鹿野 どのように「教育勅語」を使っているか、教えて頂けますか。

── 研修の中でということですかね。

鹿野 はい。

── 市長としましては職員研修の中で、市長が大事にされている考えがありまして、それが「温故知新」という考え方なんですけど。それでまあ、先輩が作り上げたものや良いものはしっかりと受け止めて、後輩に繋ぐことが重要であるということともに、一つの事象の中に「良い点と悪い点」が混在していることもあるので、全体を捉えて「良い」とか「悪い」を判断するのではなく、中身をよく見てから、多面的に物事を捉えることが重要です、ということを説明する中で、その中で、教育に関する一例として「教育勅語」を紹介している、と伺っております。

鹿野 ということは「温故知新」を解説される例として「教育勅語」を利用されているということでしょうか。

── ええ。

鹿野 引用されている「教育勅語」を市長はどのように解釈なされているのでしょうか。

── 解釈をしているというのは……。市長としましては、まず「教育勅語」そのものを評価する、ということではないんですけども。また研修の中ではですね、「教育勅語」自体は国会において排除などが決議されたもの、とは紹介はしているのですが、そういったものであったとしても自ら検証をすること、考えてみることを通じて「温故知新」を極めることに繋がるのではないか、と考えているのが市長の思いの一つではあるんですよ(注:太字は筆者)。

鹿野 「教育勅語」はそれほど長い文章ではありませんが、どの部分を「温故知新」と関係あると考えて引用なさっているのでしょうか。

── どの部分をということですかね? 新人研修で引用している部分ですけども、

「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ……」

この部分を載せているという状況です。

鹿野 それは「温故知新」とは関係ない部分です。

── あ、あ、あ、貴重なご意見ありがとうございます。

鹿野 「爾臣民父母」からの部分は、父母に敬意をもって、兄弟仲良くして、という文章です。

── ええ。

鹿野 当該部分の言葉はそれ以外の解釈は出来ません。

── あ、ああ。貴重なご意見ありがとうございます。

鹿野 意見ではありません。日本語ですから。文字通りに理解すれば「温故知新」とはまったく関係がありません。

──  あの「教育勅語」自体を一例として取り上げるために、一部を抜粋してここに載せている、ということだと思うのですけども。

◆「良いものです」とか「悪いものです」と画一的にとらえて判断することではなくて……

鹿野 市長は「温故知新」を大切にしているので、それを説明する資料として「教育勅語」の一部を使っている。

──  いや、あのー、こちらがお伝えしたいのは「温故知新」の考え方が市長にとっては大切だということですけど、その中で一つの事象があった時に、その事象を、たとえば「良いものです」とか「悪いものです」と画一的にとらえて判断することではなくて、中身を自分の目で検証する行為。で、多面的に物事を考えることが重要だということを説明するということで、そういったことを受講者に伝えたいということで、例としてですね、一部抜粋という形ですが、全文を載せるということではなく抜粋して、「教育に関する勅語」を一例として紹介しているということです。

鹿野 市長は正しいかそうでないか「自分で検証しなさい」と研修対象者の方に語っている。

── ええ、そうですね。

鹿野 わたしは市長が語っていること(自分で検証する)を今しているのです。そもそも「温故知新」をどのように理解なさっていますか。

── 以前学んだことですとか過去、昔の事柄をもう一度調べ直したり、考え直すことによって、新しい道理とかそういった知識を深堀したり、とかですね、そういったことかなと思ううんですが。間違ってますでしょうか。

鹿野 「温故知新」四文字です。理解の幅はあるかもしれませんが、文字通り解釈をすれば、「故きを温ねて新しきを知る」との故事と解釈いたします。

── 文字通りの意味ということですね。

鹿野 「温故知新」を大切にしている市長が、先ほど聞いた部分を引用されたうえで、研修をなさっている。

── そうですね。講義をしているということです。

◆「教育勅語」は世界的に民主主義が勃興していている状況を、日本語にして民主主義を謳ったもの?

鹿野 引用された「教育勅語」が「温故知新」とどのように関連するのですか。

── どの部分が、ということですかね。

鹿野 引用されている箇所は「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟……」ですね。

── ええ、ええ。

鹿野 この部分のどこにも「故きを温ねて新しきを知る」部分は見当たらないのではないですか。

── あ、ああ、そういうご理解をされているということですね。

鹿野 いえ、理解ではなく文言だけを読んでです。この部分をどう理解すれば「故きを温ねて新しきを知る」を見いだせるのか分からない。

── 「教育勅語」は戦争が終わった後に、日本人を戦争に持ち込んでいく、という表現が正しいかどうか、あれなんですけども。そういった中で「教育に対する勅語」が戦争が終わった後に、国会において排除等が決議された過去のものということ、を伝えてはいるんですけども。その中で「教育勅語」の言葉の一部を引用しているんですが、抜粋してあるものと、その上に英訳も書いてあるんですよ。実際の資料の中には。市長としましては英訳文とですね、幕末から明治期にかけて世界的に民主主義が勃興していく時代にかけて、「教育勅語」を日本語に訳して漢文調にしたと、説明をしているのですが。(注:太字は筆者)

鹿野 ということは、「教育勅語」は世界的に民主主義が勃興していている状況を日本語にして、民主主義を謳ったものだと、取りあげられていらっしゃるのですか。

── うーん、そういう……どういったらいいでしょうか。

鹿野 あなたのおっしゃったことを復唱しているだけです。

── あの……お伺いしたいいですけれども、よろしいですか?

鹿野 はい。

── あなた様の希望としましては現在「教育に関する勅語」を広島市において新規職員採用研修で一部を引用している、という状況があるのですが、その引用を止めてほしいということですか?

鹿野 いいえ。先ほど来申し上げている通り、お尋ねをしたくて電話しています。まったく意味が理解できない。だからわたしの疑問点をお尋ねしているだけです。

── 疑問を感じているということですか。

鹿野 わたしは、わからないのです。

── は、はあ。それは「教育に関する勅語」を一部引用している箇所が、「温故知新」に合う考え方ではないからわからないと。

鹿野 いいえ。「温故知新」を市長が大切にしていることも電話するまで知りませんでした。

── あ、あ、はい。繰り返しで申し訳ありませんが、あなた様がわからないと言われているのは、「教育勅語」を引用している部分について、なぜこの部分を引用していることが分からない、ということですか。

鹿野 先ほど仰った「教育勅語」は一度国会で排斥された歴史があること、及びわたしは「教育勅語」全文を暗記しております。その経緯を鑑みて「教育勅語」を、どのような意図で引用されどのような目的で研修でお使いになったか、それが知りたいのでお尋ねしています。

── 研修資料にそのように使っているとお伝えしました。

鹿野 はい。ただ市長が「温故知新」を大切にされているから、その資料にだと。

── はは、そこで「教育勅語」とどう繋がっているかが分からい、ということですか。

鹿野 そうです。

── (しばらく無言)

鹿野 いかがでしょうか。

(中略)

── この文(「教育勅語」)からは「温故知新」が読み取れないということですね。

鹿野 引用箇所として教えて頂いた部分に、日本語の解釈上「温故知新」に関わる文言はありません。

── こちらが引用している部分について「温故知新」に関わる部分はない?

鹿野 「こちら」ではなく、市長が引用しているのではないですか。

── ええ、そうです。(無言)

◆「教育勅語」の文章の全ての主語は「朕」ですから

鹿野 再度伺いますが「教育勅語」から引用している箇所に、「温故知新」と結びつく部分はありますか。

── 引用している部分が直接「温故知新」のものかどうかは解釈が、感じ方や捉え方はあると思うんですけど。「教育勅語」自体が過去に国会で排除等の決議がされたものであったとしても、それ自体をも自ら検証して考えるという行為が「温故知新」を極めてゆくことに繋がるんじゃないか、という思いを込めて説明をしていたんですけども(注:太字は筆者)。

ただ、引用箇所についてのご意見を今頂きましたので、それはこちらの職場の中でもでも共有はさせていただきたいと思います。

鹿野 はじめのお答えと違いますね。一度国会で排斥されたものであって、もう一度検証することによって「教育勅語」の正当性があると市長は考えていると。

── 自ら考えてみることが「温故知新」を極めることに繋がっているということで……・

鹿野 天皇の命令により人々を従わせた文言が、敗戦により国会で排斥された。「教育勅語」がです。その中にもう一度価値を見出せ、ということですね。

── いいえ「朕は」という部分は除いた部分で……(注:太字は筆者)。

鹿野 そのような解釈は無理です。この文章の全ての主語は「朕」ですから。

── ご意見ありがとうございます。

鹿野 意見ではありません。もう結構です。

※   ※   ※   ※

勅語(文部省より全国の諸学校に交付されたる教育に関する勅語)

まったく話にならない。「主語」の意味すら理解していない広島市役所の職員は、市長の行為にもかかわらず「教育勅語」を研修で用いることの正当性を、職務上の義務であるかのように、支離滅裂な回答を続けた。

まさか、とは思ったが広島市長は新人職員研修に、なんの躊躇もなく「教育勅語」を利用している。しかも調べてみると松井一実は広島市長に就任した翌年の2012年から昨年まで10年以上「教育勅語」を使い続けている。

わたしの問いに応じた教育センターの「キョウゴク」氏の言葉は、あたかも「教育勅語」の不当性を指摘することが不当であるかのように、不思議。不満気であった。キョウゴク氏の応対は新人職員研修が論理破綻した人間を創り上げることの証左と見るべきか。

「教育勅語」には評価すべき点などまったくない。なぜならば、本文でいくら美談が述べられようとも、この文章全体の主語が「朕(天皇)」だからである。天皇は私人や一般の公人、貴族とも違い、明治憲法上「不可侵」であり「神」扱いされていた存在だから(こんな基礎的な事実は繰り返す必要もないだろうが)天皇の発語は批判を許さない、絶対語だったのだ。

時代錯誤も甚だしい、皇国史観の片鱗(教育勅語)を平然と原爆を落とされた広島市長が使い続けるている。第二次世界大戦敗戦による「戦後」は、広島市においても広島市民みずからのの手(市長選挙)で蹂躙され、時代は既に「戦中」である。呆れてしまうが、呆れている場合か。

広島市長、松井一実が「教育勅語」を10年以上にわたり職員研修に利用している事実は、まず広島市民によって、最大級に指弾されなければならない。

◎[関連記事]これで「平和都市広島」を名乗れるのか? 新人研修に「教育勅語」を11年以上使用してきた松井一實市長にびっくり仰天!(さとうしゅういち)

▼鹿野健一 (しかの・けんいち)
1965年兵庫県西宮市生まれ。複数の企業と大学に勤務の後、現在はフリーライター。国際情勢・政治・教育・冤罪・原発などに関心を持つ。反原発季刊誌『季節』副編集長。単著『大暗黒時代の大学』(鹿砦社)。共著『オイこら!学校』(教育資料出版会)、『1970年端境期の時代』、『抵抗と絶望の狭間/1971年から連合赤軍へ』(鹿砦社)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年2月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2023年冬号

« 次の記事を読む前の記事を読む »