京都大学立て看規制から見える社会の終焉

11月25日付けの朝日新聞によれば、京都市は京都大学に対して同大吉田キャンパスの立て看板が「京都市の景観を守る条例」に違反する旨の行政指導を行っているという。

11月25日付け朝日新聞

◆京大もいよいよ来るところまで来た

「京都市の景観を守る条例」を使うとは、また姑息な言い訳を探し出したものだ。「自由な学風」と言われた京都大学も「大学総右傾化」に漏れず、いよいよ学生自治の最終的破壊に取り掛かり始めた。

京大では昨年半日だけの「バリケードストライキ」が行われたが、それに関わった京大生は、まず無期停学になり、次いで「退学処分」になった。京大生、学外者を含めて、京大には氏名を明示して「京都大学敷地内への立ち入りを禁止の通告」と仰々しい貼り紙がある。この手の氏名まで特定しての「立ち入り禁止」のお触れは、明治大学で目にしたことがあるが、たった半日の「バリケードストライキ」で退学プラス敷地内立ち入り禁止処分を出すとは、京大もいよいよ来るところまで来たと言えよう。

現在の京大山極壽一総長は霊長類の研究者として知られており、総長就任の直前に元京大教授だった方にうかがったら「山極は本物のゴリラですわ」と好意的に評価されていた。どちらかといえば政治とはあまり縁がなく、純粋な研究者との印象が強かったようだ。

京大だけでなく、全国の大学で大学自治の喪失、「産学共同」の名のもとに大企業の学内侵入(あるいは招聘)はもう当たり前のように進行しているので、学生に「自治」や「権利」などと話をしてみても反応するのは100人に1人いるかいないか、というのが今日の状況だ。純粋な表情で無垢そうな体の細い若者たちは、全体におとなしく、声が小さく、選挙権を得ると自民党に投票する傾向がある。

そこにもってきて「京都市の景観を守る条例」を引き合いに出すとは、京大当局と京都市の連携がなに恥じることなく愚かな方向に邁進していることのあかしだ。京大当局の本音は「学生自治を完全に破壊しつくして、学外からの研究費獲得のためのより良い環境づくりを進めたい。そこで京都市さん、一肌脱いでもらえまへんやろうか」だ。京都市は「簡単なことどす。任しておくんなはれ」と「景観を守る条例」を引き合いに「京大はん、ちょっと立て看なんとなんとかなりまへんやろか?」と京都伝統のうち最も悪い部分を丸出しに「芝居」を打つ。

見え見えだ。京都に暫く住んでみれば行政と地域や市議会と企業などの関係で、京大―京都市で繰り広げられる「芝居」のようなことがしょっちゅう起こっていることは勘の鋭い人ならすぐにわかる。

◆IT化で進行する「本来の大学のありようの放棄」

京都は狭い盆地の中に多くの大学が集中し「大学のまち」と呼ばれることがあるほど学生が多い。近年観光旅行客の増加で影が薄くはなったが、京都市内の大学生人口比率は相当高く、学生が居ることを前提に成り立っている商売(主として賃貸マンション)も少なくない。一時は大学の郊外志向時代があり同志社大学や立命館大学などの私立大学は京都市外に広いキャンパスを求めたが、東京でも都心回帰が起こっているように、同志社は文系学部をすべて元の(今出川)キャンパスに戻したり、京都学園大学(名前は京都学園だが所在地は亀岡市だった)が念願の京都市入りを果たしたり市内への流入を目論む大学も少なくない。

それにしても大学の「景観」や美しさとは、立て看板一つない、貼り紙一つない、学生活動も低調で、入学したらすぐに「キャリア」という間違った英単語で指導される「就職活動に目が向けられる様子にあるのだろうか。新しく建てられた大学の教室にはLANケーブルの端子とコンセントが標準装備された机を目にする。当然パソコンの利用を前提としてのことだ。わたしにはあの設計が、「本来の大学のありようの放棄」に思えて仕方がない。講義中にパソコンを開かせる大学教員の神経がわからない。

講義中のパソコン使用は、工学や電子工学など一部の理系講義を除けば、わからない意味をインターネットで調べる「カンニング」の推奨であり、「考えること」、「調べること」を放棄させているのではないか。もっともパソコンを使わせなくても大教室でのマスプロ講義は昔から真剣な学問の対象とはなりえなかったけれども。そして「景観条例」は企業の宣伝を規制するために作られた条例ではなかったのか。

◆大学の主人公は「学生」から「カネ」へ

大学の主人公は「学生」であるはずだ。それがいつのころからか、学生の体だけは確かに学内にあるけれども、本質は「カネ」が主人公の位置を奪いとった。京大だけでなく、若者が手なずけられやすくなった時代を歓迎し、安堵している向きも経済界や与党を中心に多かろう。しかし、彼らは必ず高いツケを払わされる運命にある。いやこの社会全体が間もなくとてつもない負債の返済を迫られる。

未来があるはずの若者ならば、どんな状況であろうが「不満」や「不条理」を感じ取るのがヒト種の動物的な生理反応だ。そんなものに国境はない。若者が現状に安堵し、肯定し始めるのは、とりもなおさず社会の後退と終焉への思考なき暴走を意味するのではないか。それを期待し喜んでいる大学当局。例によって私の「考えすぎ」悪癖にすぎないか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代─京都 学生運動解体期の物語と記憶』定価=本体2800円+税
タブーなき『紙の爆弾』12月号 安倍政権「終わりの始まり」

中島岳志的「リベラル保守」という欺瞞 

朝日新聞検索画面

◆左翼と右翼は「どっちもどっち」か?

「リベラル保守」を自称する東京工業大学教授の中島岳志氏が2017年4月24日配信のAERAの西部邁との対談記事でこう述べていた。

西部 一方で、左翼の論客の言葉だってネトウヨと同等に乱雑で、内容としては反知性的なオピニオン、つまり「根拠のない臆説」が増えている。右翼だけが反知性主義だというのは、朝日の偏見です(笑)。
中島 朝日を最も攻撃しているのも、また左翼です。ちょっとでも理想と違うと糾弾する。どっちもどっちです

もともとリベラル・左翼嫌いでリベラル・左翼論壇に登場しない西部氏の発言はこの際どうでもいい。問題は中島氏である。中島氏は朝日新聞の紙面やデジタル版によくインタビューに登場する人物だ。

朝日新聞関係者とおそらく親密な関係にある中島氏が「朝日を最も攻撃しているのも、また左翼です」として、前後の文脈から推測するに「ネトウヨ」「右翼」と「どっちもどっち」と言っているのだ。朝日新聞とつながりがあるからなのかどうかわからないが、身内贔屓ではないか。

以前中沢けい氏に関する記事で言及した『帝国の慰安婦』の日本語訳を出版したのは朝日新聞出版だが、この本の学術的な不備や欠陥を指摘したら「ネトウヨ」「右翼」と「どっちもどっち」になるのだろうか。補足すると中島氏は中沢けい氏と同じく「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」の賛同人だ。中島氏の認識は論壇非主流派でも論理的に整合性のある指摘をする人たちを軽視することになりかねない。

◆悲惨過ぎるアジア主義者たち──頭山満から日本会議への水脈

中島岳志『アジア主義 西郷隆盛から石原莞爾へ』(潮文庫2017年7月)

中島氏は著書『アジア主義』(潮出版社)において、葦津珍彦の書いた「永遠の維新者」という本を取り上げている。これは西郷隆盛を論じた本で、中島氏によると「現代民族派の古典とされ、右翼関係者の間では必読の書」で「アジア主義者たちが西郷を敬愛する論理が、きわめてクリアに描かれて」いるそうだ。葦津珍彦は西郷隆盛を継承したのは頭山満(葦津が師事した人物)をはじめとする玄洋社であるとし、西郷隆盛と同時に頭山満らを高く評価している。それにならってか中島氏は『アジア主義』で全体的に頭山満や玄洋社をやや肯定的に描いている。

しかし、玄洋社は大隈重信を暗殺しようとして爆弾テロをしかけた来島恒喜が所属していた組織だった。

頭山満にしても天皇機関説問題の時には「機関説撲滅同盟」という物騒な名前の団体を結成している。この団体主催の機関説撲滅有志大会での決議内容は以下の通りである。

一、政府は天皇機関説の発表を即時禁止すべし
二、政府は美濃部達吉及其一派を一切の公職より去らしめ自決を促すべし

来島にしろ頭山にしろ「ちょっとでも理想と違うと糾弾する」どころではない。
ちなみに頭山満を敬愛してやまなかった葦津珍彦は戦後右派学生運動に巨大な影響を与えている。藤生明『ドキュメント日本会議』(ちくま新書)によると、右派学生運動の指導者の1人であった椛島有三はある時期から葦津珍彦の理論に影響を受けて今までの憲法無効論を放棄し、運動の路線転換を図ったのだという。椛島はこう書いている。

藤生 明『ドキュメント 日本会議』(ちくま新書2017年5月)

「国難の状況を一つ一つ逆転し、そこに日本の国体精神を甦らせ、憲法改正の道を一歩一歩と前進させる葦津先生の憲法理論に学び、探求し、『反憲的解釈改憲路線』と名付けて推進していくことになった」

ラディカルな無効論から現行憲法の存在を認めたうえでコツコツと骨抜きをしていく路線への転換。これが息の長い着実な草の根運動へとつながっていく。

椛島有三は現在日本会議事務総長をつとめている。葦津珍彦の流れは学生運動のみならず、戦後の右派運動の本流となっているのだ。

中島氏の著作は、彼の言うところの「アジア主義」にたいして大きな勘違いをひき起こすのではないかと思われる。中島氏はメディア露出が多いため、その危険性は大きい。「アジア主義」「リベラル保守」という用語が過去をマイルドに偽装するものであってはならないだろう。

他にも中島岳志の著作に関しては、『博愛手帖』というブログの管理人が“新しい岩波茂雄伝?”と題して中島氏の『岩波茂雄 リベラルナショナリストの肖像』(岩波書店)に関して詳細な批判をくわえている。岩波茂雄に関する他の関連著作を読み込んだうえでの大変緻密な読みで非常に参考になる。ご一読いただけると幸いだ。

▼山田次郎(やまだ・じろう)
大学卒業後、甲信越地方の中規模都市に居住。ミサイルより熊を恐れる派遣労働者

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』12月号 安倍政権「終わりの始まり」

〈われわれの「いちご白書をもう一度」〉を歌いたい ── 11・12同志社大学学友会倶楽部主催・芝田勝茂さん(児童文学作家)講演会、100名の参加で大盛況! 芝田さん、45年振りのキャンパスで語る!

あつっぽく講演する芝田さん
講演レジメ(全員に配布)

このかんたびたびお伝えしてきましたように、11月12日、京都の同志社大学今出川キャンパスで、「70年安保・学生運動、そして児童文学……過ぎ越し45年を振り返り いま生きてあることの意味を問う」と題し、私の先輩にして児童文学作家の芝田勝茂さんの講演会が開催されました。講演の内容は、別紙のレジメに沿って話されました。

学友会倶楽部は、全学自治組織「学友会」解散後、OBの、いわば親睦組織として発足し、毎年今の時期に大学の行事としてなされるホームカミングデーで講演会を開いてきました。今回で5回目となりますが、単にゲストを招いて講演していただくだけでなく、1年に1度ではありますが、集まって、学生時代から培ってきた志を確認し、お互いの現在の活動を知り、また励まし合うということだと私なりに理解しています。

代表は、1964年度生の堀清明さん。堀さんはかつて大きな事故に遭いお体が不自由な中で頑張ってこられ、また今年は2カ月余り入院され、退院されたのは講演会の1週間前でした。かつて「若きボリシェビキ」(古い!)の時代は、人一倍過激で怖い方だったと聞きます。

そのように先輩が頑張っているのに、後輩が安閑としているわけにはいかないでしょう。

ということで、今年は私の発案で、学生時代直属の先輩だった芝田勝茂さんをお呼びすることになりました。

お呼びするに際し、実に37年ぶりに再会しいろいろ話しました。懐かしさと共に、お互いに生き延びてきたことを喜び合いました。

芝田さんは、1971年の三里塚闘争で逮捕され、長い裁判闘争を抱え、生活面含め苦労されながら児童文学の作品を書き続けてこられました。今回、私(たち)の求めに応じ、「初めてで最後」の学生時代の話をされました。一時期、共に活動したこともあり、当時を想起し、ほろっとするところもありました。

ところが、11・12が近づいてくるにしたがい、「はたしてどれだけの方が参加してくれるだろうか」との強迫観念にさいなまれました。宣伝・広報活動にも最大限努めました。同日、10・8羽田闘争50周年記念集会など複数のイベントが重なり、参加者が分散することも懸念されました。実際に、「10・8記念集会に行くよ」と言った方も何人かおられました。ええい、たとえ実行委員だけだったとしても、われわれのできる最大限の取り計らいで芝田さんをお迎えしようと腹を括りました。

そんなこんなで当日朝まで眠れない日が続きました──。

しかし、それは杞憂でした! 当日、会場には続々と参加者が押し寄せてくれました。涙が出そうでした。実行委員も含め100人ほどの参加者でした。10・8記念集会などとバッティングしなかったらなあ……と思いましたが、そんなことを言っていても仕方がありません。

私が最初の挨拶と司会・進行を努めさせていただきました。

開会の挨拶をする松岡

芝田さんのお話は、学生時代の体験から始まりましたので、肯けることばかりでした。やはり学生時代に共に議論し共に行動したことは身に付いています。

芝田さんにしろ、3年前に遙かアメリカからお招きした矢谷暢一郎さん(現・ニューヨーク州立大学教授、学生時代は学友会委員長)にしろ、人一倍の苦労をされました。おふたりに共通しているのは逮捕・勾留、有罪判決を受けたということです。そのご苦労が今に結実しています。私も逮捕・勾留、有罪判決を受け、それなりの苦労はしましたが、それがいいほうに結実しているかどうかはわかりません(苦笑)。

この日、芝田さんの単行本未収録の短編小説3篇を小冊子にし、レジメと共に参加者全員にお配りし喜んでいただきました。また、「S・Kさん」として再三再四くどいほど登場する『遙かなる一九七〇年代‐京都』の完成を目指しました。元々、長年かけて準備してきていたものですが、だらだらしてなかなか進捗しませんでした。ここは、11・12に向けて完成させようと、共著者の垣沼真一さんと意を引き締め編集作業に努めました。なんとか間に合い11月1日に完成し、署名したものを直接芝田さんにお渡しすることができました(奥付の発行日は11月12日)。

この本の底流には、芝田さんの思想が在ります。それは、
「俺は、虚構を重ねることは許されない偽善だといったんだ、だってそうだろう、革命は戯画化することはできるが、戯画によって革命はできないからな」(本書第三章「創作 夕陽の部隊」より)
という言葉に凝縮されています。

この作品について芝田さんは直前のフェイスブック(11月7日)で、
「……1973年にノートに殴り書きされた『夕陽の部隊』は、暗黒の闇がすぐそこに来ている刻に、一群の若者たちが得体の知れない怪物と闘う話だ。彼らの論理は、確実な敗北を前にして、ひとはいかに生きるのかという、ある種の美学にすぎないように思える。現世に、なにがしかの獲物の分け前を求めるのではなく、夕陽の金色の残照に、どのように煌めくのかという、それだけのために、醜怪の極に向かって突っこんでいく、最後の突撃隊。だが、『敵』とはいったい、誰のことなのだろう?……主人公の青年が、その後に辿り着いたところ、そこでどんなことがあったのかをも含めて、今の若い方々にも聞いていただければ、と思う。決してノスタルジーを語るつもりはない。それらのすべてが、『今』に意味を持っているのかを、わたしも知りたい」
と書かれています(『夕陽の部隊』は『遙かなる一九七〇年代‐京都』に再録されています)。

荒井由美の時代の名曲「いちご白書をもう一度」(1975年)からも42年経ちました。世に出たのは、芝田さんや私が失意のなか京都を離れる頃です。月日の経つのは速いものです。〈われわれの「いちご白書をもう一度」〉を歌いたい──。 

最後になりますが、私の無理を聞き入れ「初めてで最後の講演」をしていただいた芝田さん、本講演の実行委員のみなさん方、会場に足を運んでいただいた皆様方に、心よりお礼申し上げます。

多くの方々で埋め尽くされた会場

(松岡利康)

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』定価=本体2800円+税

われわれの「いちご白書をもういちど」―― 11・12(日)同志社大学学友会倶楽部主催・芝田勝茂(児童文学作家)さん講演会へのご参集をお願いいたします! 鹿砦社代表・松岡利康

今や児童文学の世界で確かな地位を築かれた芝田勝茂さんは、私の学生時代の2年先輩にあたります。1970年代前半のことですので、遙か昔のことです。

芝田さんは1968年に同志社大学(文学部国文学専攻)に入学、この頃は、70年安保闘争、教育学園闘争華やかりし時代で、芝田さんも時代の渦に巻き込まれていきます。そうして70年に入学した私と出会い、一時期を共に過ごし、70年代初めに盛り上がった学費値上げ阻止闘争、沖縄-三里塚闘争を共に闘いました。

芝田さんは71年の三里塚闘争(成田空港反対闘争)で逮捕され、以後長い裁判闘争を強いられます。しかし、裁判と生活のために京都を離れ上京、働きながら徐々に児童文学の作品を書き始めます。そうして1981年『ドーム郡ものがたり』でデビュー、83年『虹へのさすらいの旅』で児童文芸新人賞を受賞、そして90年『ふるさとは、夏』で産経児童出版文化賞を受賞し、以降40点近くの作品を出版、児童文学作家としての地歩を固めていきます。

また、私も学費値上げ阻止闘争で逮捕-起訴され、裁判と生活に追われ、芝田さんともなし崩し的に連絡が途絶えていきました。最初の作品『ドーム郡ものがたり』の出版直後一度東京でお会いした記憶がありますが、学生時代以来会ったのはそれ一度でした。

今回、学生時代から45年、81年に一度会ってからも35年ほど経って、なにかの巡り合わせか、同志社大学が年に一度行うホームカミングデーに学友会倶楽部主催の講演会にお招きすることになり再会しました。これも運命でしょうか。

「学友会」とは、各学部自治会、サークル団体を統括する自治組織で、60年安保、70年安保という〈二つの安保闘争〉をメルクマールとして全国の学生運動、反戦運動の拠点となり、同志社大学はその不抜のラジカリズムで一時代を築いたところです。残念ながら2004年に自主解散し、かつてそこに関わった者らで作られたのが「学友会倶楽部」です。いわば親睦組織のようなものですが、かつての記録集を出版したり、5年ほど前からホームカミングデーで講演会を行っています。

芝田さんは、当時運動に関わり逮捕-起訴された者のほとんどが身バレすれば社会的に不利益を蒙り生きにくくなることからそうであったように、出身大学名や学生時代の活動なども誰にも語らず過ごして来たそうです。

今回、学生時代のことを語るのは「最初で最後」だということですが、共に一時期を過ごしたこともあり、興味津々です。われわれにとっての「いちご白書をもういちど」といえるでしょうか。

この講演会に間に合わせるべく、私なりに当時のことを書き綴った『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』という300ページになる分厚い本を上梓しました。この底流となっているのは芝田さんと共に過ごした70年代初めの物語と記憶です。こちらもご購読よろしくお願いいたします。

なお、11・12芝田勝茂さん講演会ですが、入場料は無料、先着100名のご参加の方に、単行本に未収録の芝田さんの短編小説3篇を収めた小冊子を進呈いたします。貴重です(将来的にプレミアがつくかもしれません〔笑〕)。

11・12(日)芝田勝茂さん講演会(同志社大学学友会倶楽部主催)
芝田勝茂さん 略歴と著書

三里塚とパレスチナから、人間の心・尊厳、闘争の手段を再考する

元プロレタリア青年同盟・元国鉄下請労働者の中川憲一さん © 2017 三里塚のイカロス製作委員会

人の心や尊厳と、それを守るための闘争の手段とを問うような映画上映&トークと集会が開催された。わたしは、9月30日にドキュメンタリー映画『三里塚のイカロス』を観て監督と出演の方のトークを聴き、10月1日には「『エルサレム! 今、ハンダラ少年は何処に?』第2次インティファーダ17周年 10.1パレスチナ連帯集会」に参加したのだ。

◆ 「命をかけてカヌーに乗る権利があるが、心通わせる運動がしたい」という思い

『三里塚のイカロス』の代島治彦監督は、大津幸四郎監督とともに手がけた前作『三里塚に生きる』後の2013年、辺田部落の農民の妻となったHさんの自殺に対して『不条理』を感じ、強い憤りを覚えたことが本作制作のきっかけとなったという。『三里塚に生きる』を観て「運動は『魂の救済』へと向かわねばならない」と考え、大津幸四郎さんが撮影を担当していた小川伸介監督『日本解放戦線・三里塚の夏』なども観ていたわたしは、『三里塚に生きる』の映画評を雑誌に寄稿し、新作の完成も心待ちにしていた。

© 2017 三里塚のイカロス製作委員会

『三里塚に生きる』は三里塚芝山連合空港反対同盟に参加した農民を中心に描いていたが、『三里塚のイカロス』では支援の活動家が主に取り上げられている。その中で、Hさん同様、農民の妻となった女性たちも多く登場するのだ。

作品パンフレットでは、反対同盟事務局次長の島寛征さんは、1967年の「強制外郭測量阻止闘争」で、機動隊が「座り込みをしている反対同盟の農民を蹴飛ばしたり、ぶん殴ったりし」た、と語っている。共産党はスクラムを解いて歌を歌ったが、68年の「三里塚空港実力粉砕現地総決起集会」では新左翼はすでにヘルメットにゲバ棒で武装していた。『三里塚の夏』では、「三里塚空港粉砕全国総決起集会」で反対同盟の青年行動隊もカマと竹槍をもって武装する姿が映し出されている。ただし、反対同盟の中には葛藤があった。

『三里塚に生きる』では、機動隊3人が死亡した東峰十字路事件を経て、青年行動隊リーダー・三ノ宮文男さんが自殺した当時を仲間が振り返る。パンフで島さんは、「『ここで生きていこう』という運動に死人が出る。少なくとも農民は、この頃から闘争の矛盾に気づきはじめます」という。その後、援農と妻たちの話題に移り、産直の「ワンパック」運動にも触れている。ちなみにわたしたちは以前、四ツ谷の「自由と生存の家」でここの野菜を含めて送ってもらい、販売して得た収入を「自由と生存の家」に暮らす人々にカンパするなどしており、現地のイベントにも参加していた時期があった。そこには運動とは無関係に父親とともに移住してきた青年が、農的な暮らしに精を出す姿もあり、希望を感じたものだ。

ところで本作では、空港が開港され、移転を余儀なくされた際に悩み苦しむ元支援の妻たちの思いも拾い上げられる。そしてHさんが移転を苦に鬱病を発症し、亡くなってしまう。そのような中、話し合いでの「秘密交渉」による前進が試みられるが、読売新聞の報道によって事実は「ねじ曲げられ」、反対同盟幹部(の一部)と新左翼党派から「秘密交渉」を試みた人々が自己批判を迫られる。中核派では「三里塚で主流派になり、日本の革命的左翼全体の主流派にならければならない」という意図が持ち上がり、生活と命が踏みにじられていく。結果、反対同盟において「永続闘争」は否定され、終息の仕方が話し合われるようになる。パンフで島さんは、「時代は変わっても政府と住民のいざこざは今後もどんどん起きる訳ですよ」「砂川米軍基地拡張反対闘争からはじまって、いまの沖縄の米軍基地問題まで、そこで生きる住民が一番損をしている訳ですよ。三里塚はどうかっていうと(中略)闘争の犠牲を代償にしたことで、その後は農業を持続できる体制ができたり、地元での仕事が増えたり、住民はあまり損をしない形になったと思う。」とも語っているのだ。そして沖縄の辺野古では、三里塚を教訓に、非暴力が貫かれていると代島監督はいう。

上映後、出演者である元第四インター・平田誠剛さんと代島監督のトークがあった。そこで平田さんはまず、「みんなそれぞれ傷を持っていたりするが、わたしと同じように、終わっていない、続いていると聞き、それがうれしかった」と、監督に感謝の言葉とともに述べた。また、「中核のやり方を統制し、反対運動を続けていくのは難しかった。それはわたしたちの責任だろうと思う。第四インターだけでなく、わたし個人も、関わった人も」とも口にする。さらに、「わたしは福島に生き続ける。今は、ほとんどいわき市にいて、三里塚闘争の経験を生かしながら、単なる類推でなく人々の共感、ともに歩む生き方を、恥ずかしいけどしているかなと感じている。(このことをカメラの前で語らなかったのは)いうべきことにあらずと思っていたから。代島監督は埴谷雄高の(4兄弟が窮極の「革命」について語る)『死霊』を読み直しているといっていたが、わたしはドフトエフスキーの(無神論的革命思想の「悪霊」に憑かれた人々の破滅を描く)『悪霊』を再読している。19世紀に限らず、今だって人間に起こりうること。わたしはあまりこのようなことを改めていいたくないが、それぞれ(このようなことを)抱えているとわかっていなければいけないと思う。逃げずに踏みとどまり、『おもしろい』闘いを続けたい」「三里塚の経験があって、焦らなくなった。心通じ合える瞬間みたいなものがあり、それだけでも十分と思うこともある。支援として、福島に尽くし足りないわたしが悪い」「俺たちは命をかけてカヌーに乗る権利があるし、これからも生きていく。第4インターはトロツキストで、後ろから弾が飛んでくることがわかっても、ともに闘う戦線をつくり、反撃しない思想。だが、わたしは立派なトロツキストでない。パクられた仲間のほとんど字を書けない母親の手紙に泣いた。俺たちが継ぐものはそういうものであり、そのようにやりたい」などとも語った。

農民の方々や支援に参加していた方の複雑な思いはあるだろうし、わたしは近隣の出身なので地元の人々が現在抱く思いも聞いている。いずれにせよ、現在、社会運動に携わっている立場として、闘争の意味をさまざまな視点から問い直す作品は意義深い。また、個人的には大友良英さんのファン歴も長く、ドキュメンタリー映画のコアをこのように音楽で表現できる人はほかになかなかいないだろう。

元革共同(革命的共産主義者同盟)中核派政治局員の岸宏一さん © 2017 三里塚のイカロス製作委員会

◆ 尊厳と「存在」とをかけた闘いを、誰が断罪できるのか

そして、たまたま翌日に開催されたのが、「『エルサレム! 今、ハンダラ少年は何処に?』第2次インティファーダ17周年 10.1パレスチナ連帯集会」だ。近年、この連帯集会にも参加しているのだが、今回は「ハンダラ少年」が取り上げられた。ハンダラとは、1975-87年頃、ナジ・アル=アリによって描かれた、パレスチナ難民を描写したイラストの登場人物。「正義と自己決定のためのパレスチナ人民の闘争の強力な象徴」であり、「難民キャンプの子供のように素足で、わたし(ナジ・アル=アリ)を『間違い』から守るアイコン」「彼の手は、アメリカの方法による解決策に対する拒絶反応として、背中に隠されている」。ナジ・アル=アリは10歳の時にレバノンの難民キャンプに収容され、ハンダラ少年も10歳として描かれており、パレスチナに自由と尊厳とが取り戻されるまで成長することも振り返ることもない。

講演で中東近現代史研究家の藤田進先生は(アメリカなどによる国際連合の決議を経て分割され)イスラエルに侵略されるパレスチナの情況を語り、「最後に譲れないものは、人間の尊厳、物質的なものよりもプライド」と強調した。尊厳がなくなると人間は存在できなくなる。物理的に破壊されても、(パレスチナの暮らしに根づき平和や生命の象徴とされてきた)オリーブの木は生えて、抵抗運動がまた始まり、人間としてのプライドが強く打ち出されるものだともいう。

ナジ・アル=アリは絵を描き続け、1987年頃から93年頃まで続いた第1次インティファーダ(抵抗運動・民衆蜂起)がヨルダン川西岸とガザ地区で始まった頃にあたる87年に暗殺されたが、犯人は逮捕されていない。彼の本を監修した(『パレスチナに生まれて』いそっぷ社)藤田先生は、「ハンダラ少年はパレスチナだけでなく全アラブ社会、全イスラム社会、そして世界へと広がり、多くの人を惹きつけている」と説明する。パレスチナでは虐殺が繰り返され、ハンダラ少年は背中だけで顔を見せないが、その後ろ姿は抑圧された人々にエールを送り続けるのだ。そして、彼は常に事態を見つめており、ノーコメント。「そのハンダラ少年の見つめるディテールが、この絵を見るものの現実・置かれている事態・苦しみとつながる。抵抗の眼差しが描かれているのだ」とも藤田先生はいう。そして、パレスチナのあちこちに、ハンダラを描いた子どもたちの落書きがあるそうだ。

たとえばオイルの絵では、石油を入れるブリキ缶を伸ばしたものを用いた掘っ立て小屋が建てられている。藤田先生は、「国連の金で難民収容の家を造られているが、最初はテントで、その後に泥造りのものになる。ただし、狭くて不潔で住み心地が悪いため、たとえ劣悪で貧弱なものしか造れずとも人々は改造を試みるのだ。いっぽう、湾岸産油国はリッチ。そしてここに描かれた夫婦は、故郷の土地やオリーブ、暮らしのことを語り合っているのだろう。レバノンにイスラエルが侵攻してPLO(パレスチナ解放機構)の拠点だったベイルートの難民キャンプがつぶされ、国際政治による大弾圧の時期の中での思いが想像される」と説明する。

ナジ・アル=アリがハンダラ少年を描いたオイルの絵(撮影=小林蓮実)
イスラエル軍がパレスチナ人に住宅をダイナマイトで破壊した現場で配布した警告ビラについて説明する藤田進先生(撮影=小林蓮実)

また、第1次インティファーダの終わり頃、93年に突然、オスロ合意(イスラエルとPLO間の協定だが、2006年のイスラエルによるガザ地区・レバノン侵攻で事実上崩壊)が結ばれ、一方的にパレスチナの平和が「強行」される。その際に、イスラエル軍がパレスチナ人に住宅をダイナマイトで破壊した現場で配布した警告ビラも紹介。ビラには、「この家は住人の1人がテロリスト協力者のため破壊された。つまり報復攻撃だ。テロリストと協力者は破壊と絶望を増すだけであり、このようにならないように気をつけろ」という旨のことが書かれている。藤田先生は、「アメリカの圧倒的な支援を受け、最新鋭の、通常兵器でなく戦略兵器を住民弾圧に用いるイスラエルの軍事力と、抵抗グループのそれとの非対称。抵抗メンバーなどは、トイレにも行かせてもらえず、垂れ流しの中、人間としての尊厳を奪われ、怒りと抵抗が起こっている」と語るのだ。

そして、「第2次大戦後、国際連合ができ、対立があっても、人間の自由と尊厳のために維持せねばならないものがあるという、平和のロジックを世界は共有した。イスラエルをつくったユダヤ人にも生活があり、家庭を築いており、土地が必要であることをパレスチナ人は否定できない。だからこそ、話し合いを始めることがパレスチナ人の大きな念願。イスラム、アラブ社会では、宗教が違っても、隣人同士としての関係をつくるという考えが根本にあった。アラブの関係を動揺させるアメリカのやり方に対しても、違和感が世界に広がり始めたのだ。そして、イスラエルの将来に絶望する人々はイスラエルから外へ出ている」とも加えた。

会場からの「神風特攻隊と抵抗運動の共通点」などに関する質問に答え、現地で活動していた足立正生さんは、「神風特攻隊とリッダ闘争(パレスチナ解放のための日本人青年による決死の闘争)とは、180°異なる。そうでない後者は人間の尊厳を求める側から、虐殺と困難を強いられた側からの個人的な決起。国家テロこそなくさないかぎり、人道主義も人権もへったくれもない。人民や民衆を弾圧する政治こそがテロだ。生き延びるかの抵抗の闘いはテロではない。占領と抵抗抜きにして、『暴力』を否定できるのか。それは、尊厳の一部ではないか」と問いかける。

ほかにもいくつか質問があり、藤田先生も、「アメリカのバックアップを受けてユダヤ人だけの国を造ろうとすれば、アラブ全土を治めないかぎり安心しない主体となる。ただし、そのイスラエルの中にも、共存を考える人が現れている。だからこそ、アラブとユダヤ人の共存の話し合いに舵をきるべきだ。まずは、イスラエル内の左翼や民主主義者との対話を構築せねばならない。また、リッダ闘争は政治と武力闘争を力尽くで押さえ込まれた『お手上げ状態』から起こった。ルサンチマンに近い武力の闘争だ。神風特攻隊は、天皇制国家・国民国家から起こったものだが、アラブの自爆はパトリオット、自分の故郷を思う気持ちから起こっているもの。生活空間を守るための最後の手段として選択されており、女性の救急隊員などですら『自爆テロ』をおこなう。占領に抵抗する『暴力』を、はっきりと批判したり断じきれるのか。冷静では考えられないことだ。非暴力とは別に、人間の尊厳を蹂躙するものに対して激しく闘う心、リスペクトの闘いがイスラム世界にある。これをさせないためには、軍事力でなく、彼らが求める話し合いに応じることだ」と繰り返す。

また、サラームという言葉は平和と訳されるが、「宗教は違っても人間同士共存すべきだというイスラムの論理。人間のダメさ加減をアッラーの教えを忠実に守ることで乗り越えるというもの、そういった意味でアッラーの奴隷になるということ」と説明した。

撮影=小林蓮実

最後に、「世界から支援されているという意識が生まれ、現在、強力に非暴力抵抗活動が進められている」という意見が会場からあったが、足立さんは「それが民衆の抵抗の抑圧に使われており、現在も自爆攻撃はある」と口にしたのだ。

力をもたない側、尊厳を奪われている側は、命をすでに奪われていることと同じ状態にさらされる。そんな人々の最後の選択としての抵抗運動の形。国内などでは理解も得られず有効でない方法かもしれないが、リッダ闘争に参加した岡本公三さんを支援するオリオンの会では、「秋葉原事件」は抵抗運動かどうかという議論がなされたことがあった。答えは出ていなかったが、事件当時わたしは、彼は化け物ではないし理解できると考えたものだ。無差別殺傷を肯定はできないが、それは自分だったかもしれないと、これにかぎらずさまざまなときに考える。

わたしたちの、そして世界の人々の尊厳のために、いろいろな問題に対して対話を実現させること。そのために自分は何ができるのだろうか。そんなことをいつも思う。

◎『三里塚のイカロス』オフィシャルサイト http://www.moviola.jp/sanrizuka_icarus/
横浜シネマリンにて上映中。10/21(土)より名古屋シネマテーク、フォーラム仙台、メルパ岡山で公開。ほか全国順次公開予定

◎JAPAC blog(Japan Palestine Project Center)http://japac.blog.fc2.com/


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編(moviolaeiga 2017年7月24日公開)


◎[参考動画]証言で紡ぐ成田空港反対闘争~「三里塚のイカロス」代島監督インタビュー(OPTVstaff 2017年9月6日公開)

▼ 小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年生まれ。フリーライター、労働運動等アクティビスト。
○『紙の爆弾』11月号 特集「小池百合子で本当にいいのか」
「『追悼文見送り』でも隠せない 関東大震災 朝鮮人虐殺の〝真実〟」寄稿。
○現代用語の基礎知識 臨時増刊号ニュース解体新書(自由国民社)
「従軍慰安婦問題」「靖国神社参拝」「中東の覇権争い」「嫌韓と親韓」を執筆。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

韓国〈民衆歌謡〉の「サム☆トゥッ☆ソリ」11月に京都、滋賀公演決定!

京都在住の読者の方から「サム(生)☆トゥッ(志)☆ソリ(歌)」公演のご案内を頂いた。チラシとDVDをお送りいただいたが、私は「サム☆トゥッ☆ソリ」の名前を目にするのも初めてだ。

韓国からやってくるグループなので、サムルノリを用いた楽団かなと、勝手に思い描きながらDVDを再生したら、全然違う。「サム☆トゥッ☆ソリ」は日本にはない「民衆歌謡」というジャンルの楽曲を奏で、歌うカルテットだ。「民衆歌謡」はチラシの説明によると、「韓国における音楽ジャンルの一つで韓国における民主化運動や労働運動、学生運動などの闘いの中から作られた歌」と解説されている。

◆ 日本にはない「民衆歌謡」

でも、肩に力が入っていて、背筋を伸ばして聴かないと、怒られるような堅苦しい雰囲気は微塵もない。昨年東京で行われた公演のダイジェスト映像からは、雰囲気としては日本の(このジャンルももう残っているのかどうか、不確かだが)「フォークソング」のコンサートを思わせる、ゆったりしながら、喜怒哀楽を歌う雰囲気が伝わってくる。

「サム☆トゥッ☆ソリ」が歌うのは、恋愛や演歌ではない。日本にはない「民衆歌謡」とは、民主化運動や、光州事件、学生運動などの中から生まれてきた闘争のうたの数々だ。そう考えればなぜ、いまこの国に「民衆歌謡」がないのかが、逆に理解させられる。運動の中から出てきた歌を、それほど政治に深いかかわりを持たない人びとでも、なんとなく耳にして知っている、そんな歌が韓国にはいくつもある。

もう20年近く前になるが、韓国人留学生たちと時々カラオケに遊びに行った。「この歌はね、光州事件の時にできた民衆の歌の歌なんですよ」、「これはね。虐殺されたデモに参加していた学生を追悼する歌です」と教えてもらった。いったいどどれくらいの「民衆歌謡」が現在もカラオケに収められているのか、最近の事情には疎いけれども、どうして韓国の「労働歌」や「学生運動」から生まれた歌はあるのに、この国の歌はないのだ、と驚くとともに少し不快になった記憶がある。国際的に歌われてきた「インターナショナル」や「ワルシャワ労働歌」の日本語版も見当たらない。楽曲一覧が載った分厚い冊子の後ろの方で、結構なページ数を占めるハングルの楽曲の中には「民衆歌謡」のメロディーが収められている。おかしいなと思った。

でも、この国で生まれ、この国に根付いた「労働歌」や「学生運動」の歌がそもそもあるのかどうかという、至極基本的な問答にすぐ突き当たった(もちろん運動展開の方法や文化背景の違いも無視はできないが)。それ以前に、いま(20年前にしても)「労働運動」や「学生運動」が「ある」といえるのかどうか。私が目にした光景だけからいえば、20年前、この国に「労働運動」や「学生運動」は皆無ではなかった。しかしそれはすでに圧倒的な劣勢だった。いまや法政大学や同志社大学を先頭に、かつて学生運動の一大拠点だった大学は、学内での集会やビラ配りを理由に学生を逮捕したり(法政大学)、大学敷地内に交番を設置し、学長が「戦争法」に賛成したり(同志社大学)、わずか半日のバリケードストライキを行った学生を退学処分としたり(京都大学)、この国の大学に「大学自治」などはもう実質、死滅している。

◆ この国のマスメディアはなぜ、お隣韓国の運動の姿を報道しないのか?

他方、韓国の大学を訪問した際、ある大学では「無期限バリケードストライキ」の最中だった。キャンパスの入り口に結構おしゃれな学生が見張りとして立っていて、最低限数の職員しか学内に入れない。私は通訳を兼ねて同行してくれた友人が、その筋では結構名前が通っていたらしく、「バリスト」を学生たちに笑顔で迎えてもらった。面会した職員の方は「何分こういう状態でして。お迎えするのにお恥ずかしいです」と言われたので「何をおっしゃっているんですか。学生が生き生きしている証拠です。韓国も国立大学の大学法人化など、日本の愚策同様の新自由主義政策を大学にも導入しようとされていますが、それは大いなる間違いです」と話したら、この日本人なにをいっているんだ、という呆れた表情が彼の目に明らかに浮かんだことが思い出される。

近いところでは朴槿恵を倒した民衆のデモは多い時にはソウルだけで100万人に達し、少子高齢化、格差の拡大などこの国同様の問題を抱えながらも韓国の労働運動はいまだ健在である。そういった姿がこの国のマスメディアで国民の目に触れることはほとんどない。中東やアラブ、欧州のデモは報道しても、お隣韓国の運動の姿をマスメディアは無視する。なぜか。

この国の政権やマスメディアは、韓国国民が決起している姿をこの国の人びとには見せたくないのだ。奴らはこの国の人びとが韓国の運動に影響されたら、学ばれたら困るのだ。

◆ 本コンサートチケットを5名の方にプレゼントします!

でも、見なくても聞けばわかる。11月16日(木)京都テルサホール、11月18日(土)滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで「サム☆トゥッ☆ソリ」のコンサートが行われる。料金は前売りが一般3,500円、学生・障がい者2,000円(当日は500円増)だ。お問い合わせは「サム・トゥッ・ソリの会」高田さん(Tel.090-4763-0751)もしくは京都音楽センター(Tel.075-822-3437)へ。

尚、デジタル鹿砦社通信読者5名の方に本コンサートのチケットをプレゼントします。チケットご希望の方は下記の田所のメールアドレスに、住所、氏名、年齢、電話番号を明記の上、お申し込みください。
tadokoro_toshio@yahoo.co.jp

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

「サム☆トゥッ☆ソリ」コンサート2017 11月16日(木)京都、11月18日(土)滋賀
「サム☆トゥッ☆ソリ」コンサート2017 11月16日(木)京都、11月18日(土)滋賀
最新刊『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

映画『被ばく牛と生きる』── 原発、資本主義、そして「命」を再考する

政界再編に混乱、一喜一憂の声はあがる。ただし、わたしたちは学んでいる。安倍と小池は結びつていることを知っている。むしろ、「本当の」政策や思想の傾向が白日の下に晒された。やれることを1人ひとりがやるだけだ。

わたしは、この動きが始まる9月27日よりも前の週末に松原保監督ドキュメンタリー映画『被ばく牛と生きる』を観ており、これを書いているのは27日よりも後のことだ。希望の党の「原発ゼロ」を疑い、むしろ自民と希望で改憲が容易になることをおそれなければならないだろう。

さて、個人的に福島第一原発関連のドキュメンタリー、劇映画を20本くらい観ている気がする(数えていないのでそこまで多くはないかもしれないが)。もちろん、鹿砦社が『NO NUKES voice』を発刊し続けるように、映画もまた作られ続けているのだ。

映画『被ばく牛と生きる』より 「希望の牧場」の吉沢正巳さん © 2017 Power-I, Inc.

◆「経済的な価値が豊かさなのか」という監督の問い

2011年3月11日の福島第一原発の事故を受け、同年5月12日に「原発から半径20km圏内において生存している家畜が、当該家畜の所有者の同意を得て、苦痛を与えない方法(安楽死)によって処分されること」が原子力災害対策本部長である首相からの指示を受けた福島県知事より同県内の居住者に対して周知するよう指示され、12年4月5日に「生存している家畜及びその子孫(以下「対象家畜」という。)が捕獲され、その所有者が特定できない場合、その所有者が正当な理由なく一定期間内に対象家畜の引渡しを受けない場合その他対象か地区を処分する必要がある場合は、苦痛を与えない方法(安楽死)によって処分されること」などが同様に指示された。

20km圏内は11年4月22日に「警戒区域」とされた場所で、この地域の牛は11年3月11日には約3,500頭のうち1,700頭が死亡、1,800頭が「放れ牛」となったという予測が立てられていた。本作は、それでも牛を生かし続けることを決意した畜産農家の人々を5年間にわたって記録したものだ。

残された牛たちを集めて莫大なえさ代の負担や死体の処理までを覚悟する人、それを、寄付を通じて応援する人々、居住制限地域で暮らしながら牛の命を守る人、1日おきに60km離れた避難先の二本松市から通い続ける人、科学的な研究調査に取り組む人などが現れた。ただし、12年4月の発表では安楽死処分が839頭、捕獲が731頭となっている(いずれかの数値は正確でないかもしれない)。

監督は、「経済的な価値が豊かさなのか、それが幸福を生むのか」という疑問を投げかける。また、「反原発や動物愛護を声高に叫ぶのでなく、傾聴するドキュメンタリーとなった」とも語っているのだ。そして、命の尊さを主張し、牛を殺さずに研究対象として生かし、その研究の価値を認めて関係者に国家が予算を割くべきだと考えている。

◆「殺処分は証拠隠滅」という吉沢さんの叫び

原発関連で畜産農家や動物を描いた映画作品を、ほかにも何本か観た気がする。印象的だったのは、牛だけでなくダチョウ・猫・犬と人を描くことで人と大地の絆を描いたジル・ローラン監督ドキュメンタリー『残されし大地』、酪農家を描いた園子温監督劇映画『希望の国』などだろうか。

本作は、まず、わかりやすいナレーションの入り方などがテレビドキュメンタリー風だと感じながら観ていた。すると、松原監督はテレビ番組などを多く手がけてきた方だった。ナレーションは竹下景子さんだ。

心に残っているのは、「若い頃、政治活動をしたことがある」とナレーションで説明された吉沢正巳さんと、重大な決断をせざるをえないところまで追いこまれた柴開一さん。

吉沢さんは、300頭以上の牛を生かし続け、牧場名を「希望の牧場」に変更している。「希望の党」誕生に憤っている1人かもしれない。牧場の経営者は兄であり、代表(牧場長)ではあっても土地や牛に対する賠償金を受け取ることもできない。

渋谷のスクランブル交差点付近をはじめ全国を「決死救命を! 団結!」「原発爆発」などのメッセージ(プラカード)を掲げた宣伝カーでまわり、「被ばく牛の殺処分は、被災者に対する棄民政策」「浪江町では2度と米が作れない。償いを求めて闘いたいと思う。津波で爆発する原発のせいで、あそこはチェルノブイリになってしまった。わたしたちの無念をわかってください。原発なくてもやっていける。日本の安全について、みんなで考えよう」「牛は被曝の生きた『証人』。餓死・殺処分の目にあったたくさんの牛、街を追い出された人々のこと、命を見捨てた無念を、東京のみなさんにわかってほしい」と繰り返す。

そして、「殺処分は証拠隠滅」「仮設住宅でくたばった人、棄民だろ!」という。埼玉県に避難した鵜沼久江さんは、「吉沢さんに助けていただけなかったら殺処分されていた。できれば埼玉で、自分で育てたいが、それができないから悔しいね」とつぶやく。

映画『被ばく牛と生きる』より © 2017 Power-I, Inc.

その後、牛に斑点が現れる。この牛を経産省前テントひろばで見かけたことがあるような気もするが、記憶が定かでない。

映画『被ばく牛と生きる』より © 2017 Power-I, Inc.

そういえば、わたしが3.11の1年後に向けて二本松市に拠点を移した大堀相馬焼協同組合を取材した際には、「どこの媒体に真実を話しても書いてもらえない、書けるか」と繰り返しいわれ、わたしも意地になって憤りのメッセージを細かく拾い上げたということがあったのを想起した。また、3.11直後の被災地ボランティアでは、原発の影響の規模(範囲)がわからず、現場に入ってしまえばなし崩し的にかなりの無茶をする人はいたし、金が入れば問題も囁かれた。そんなことも改めて思い出した。

◆では、わたしたちは、どのような選択をし、行動をとるのか

故郷を奪われ、あたりまえにあった生活を奪われる。3.11前には2度と戻らない。その悲痛な叫びを少しずつでも理解したい。そのような気持ちがある。事実をより明確にし、国家や企業の責任を認めて十分に対応し、命と研究のことを真剣に検討し、汚染土壌を詰めたフレコンバッグの処理や廃炉の問題に対しても現実的に対処していかなければ未来はない。わたしたちは、情報や知識を収集し、よく見極め、今日も1歩1歩進まなければならないだろう(疲れたら休みながら、助け合いながら)。

ところで本作の話題に戻ると、わたしだったら、たとえば吉沢さんと柴さんの日常もできるだけとらえ、この2人(家族)に絞り込んで取材したいと考えそうだ。今度、監督にインタビューが可能になるかもしれないので、広く多くの方をカメラにおさめたこと、反原発以上に伝えたかったことなどについて、深くたずねてみたい。


『被ばく牛と生きる Nuclear Cattle』オフィシャルサイト(2017年10月28日より東京・ポレポレ東中野にてロードショー)
 
▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年生まれ。フリーライター、労働運動等アクティビスト。『紙の爆弾』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『教育と文化』『労働情報』などに寄稿。
◎『neoneo』での著者記事
音楽で人を包む、尾道の『スーパーローカルヒーロー』
「いのちを肯定する」というメッセージを届けたい『スーパーローカルヒーロー』主演ノブエさん&田中トシノリ監督 

最新刊『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか
『NO NUKES voice』13号 望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

琉球の風2017報告〈3〉誰一人アウェイにならない熊本×沖縄チャンプルー

宇崎竜童さん
比嘉真優子さん

 

昨日の本コラムでご紹介した順番とは異なるが、宇崎竜童さんと宮沢和史さんがステージで暴れる前に、ネーネーズ、キヨサク(MONGOL800)、比嘉真優子、HYはすでに演奏を終えていた。

まだ終演の夜7時までかなりの時間がある。この時刻でこれだけのミュージシャンの演奏を聴く現場の聴衆たちは、どうなっていただろうか。

おそらく、主催者の精密な「読み」に基づく会場全体を包む雰囲気の行方がぴったりと(あるいは狙い以上に)ヒットしたのだろう。例年会場を埋める聴衆は常連の演奏をどちらかと言えば穏やかに聞く。

内心ワクワクしながらも、会場全体が立ち上がって、飛んだり、跳ねたりとなることはあまりない。アップテンポの曲でも、渋い島唄でもどちらかといえば、踊りだす人もいるけれども、多くの方々は座って手拍子で聞いている。

◆キヨサク、HYらがステージに登場して

ところが、今年は16時前までにキヨサクと、HYがステージに登場した。キヨサクはウクレレ1本で「小さな恋のうた」を奏で、島袋優(BEGIN)とウクレレで共演した。南国調の涼しい風と聴衆が「ウズウズ」するのが手に取るようにわかる空気の下地を作った。

キヨサクさん(MONGOL800)
島袋優さん(BEGIN)

HYは登場するなり爆発的な勢いで演奏をはじめ、彼らを待つステージ近くのファンは大喜びで踊りだす。そこへ宇崎竜童と宮沢和史が続くとどうなるだろうか。これぞまさに「チャンプルー」の恐るべき導火線効果である。

HYとネーネーズのチャンプルー!

何かが起これば、即爆発する、いや爆発したい2000を超えるひとびとの熱がステージ付近にいるとはっきり体感できる。「チャンプルー」爆薬装填作戦は予想を超える。

どんなことが起きるのか。HYが演奏中の聴衆はこんな感じだが、

HYの新里英之さん&仲宗根泉さん

2時間後にはこうなる。

新里英之さんとかりゆし58のチャンプルー!

◆トリにまわったかりゆし58の全開

前川真悟さん(かりゆし58)
新屋行裕さん(かりゆし58)
宮平直樹さん(かりゆし58)

トリにまわったかりゆし58はそれまで登場したミュージシャンが織りなしてきた「限界値を超える」聴衆の期待を見事に何倍にもして、聴衆に投げ返す。ボーカル前川真悟は全開だ。

「ハイサーイ!沖縄の人による、沖縄の人の音楽が、熊本の人の、熊本の人による、熊本の人たちが喜ぶイベントにこうやって、「琉球の風」にきました、かりゆし58です。よろしくおねがいします!」

「沖縄からは、海を隔てて何千キロも離れてるのに、自分たちの生まれた町の旗を掲げて、こんなにも喜んでくださる熊本の人たちのパーティーです。誰一人awayにすることなく、兄弟たちのホームパーティーにしたいのですが、ライブをはじめてもよろしいでしょうか?」

この入りは完璧だ。問いかけに聴衆も大声で応える。もう前列だけでなく会場に座っていられる人はない。特段の事情のある方を覗いて聴衆オールスタンディング状態だ。

HYの新里英之を呼び入れて演じる「アンマー」でステージは聴衆を、聴衆はステージを互いに制圧(こういった物々しい言葉はふさわしくない「互いに固く肩を組んだ」と言い換えよう)した。

▼前川真悟の語りは「天才」だ!

「近所で生まれ育って、4人でやってるバンドで最初にギターとか楽器を弾き始めたのが、中学生のころだから、もう20年前になります。20年まがりなりにも音楽にぶら下がって生きてきました。そういう話からすると、いまステージの上には20年の4人分。80年分の時間が乗っかってるわけです。そこにさらに時間を積み重ねたいと思います。HYからヒデ! そしてきょう「琉球の風」に響いた音楽のほとんどを支えてくれたヨシロウ!ヒデもヨシロウも年齢が近いから、いまステージ上の時間が120年になりました。「琉球の風」を立ち上げて、親みたいに可愛がって育てた知名定男さんは50年歌って続けてます。きょうのステージ上に立った人たちの、音楽に注いだ時間を足したら、何百年、下手したら千年に手が伸びるくらいの時間がのっかってるわけです。それが1曲5分足らずの中に注ぎ込まれて、目に見えないまま、風と時間と、あなたの心にながれていく。それが音楽です。何百年分の積み重ねを1つの曲にまとめて、そしてミュージシャンに与えられたのは、ステージ上の20分が僕らの寿命です。今日あなた方からもらった、音楽の寿命をまっとうしたいと思います」

ラップ調の語りはトレーニングすればある程度うまくはなるが、基本才能だ。前川真悟の語りはあるの種「天才」を感じざるを得ない。

◆エンディングで「島唄」解禁!

そして、いよいよエンディングだ。ステージと観客席の間には照明や音響、そして安全確保のために柵が設けられている。通常、聴衆は座って舞台を眺めるので、その前を横切るときは、邪魔にならないよう、腰をかがめて小走りで駆け抜けるが、聴衆が総立ちになったから遠慮なくステージの前に立てるようになる。本人の出番ではあえて演奏しなかった「島唄」を宮沢和史のボーカルを皮切りに次々と、ミュージシャンが歌い継いでいく。

◆来年はいよいよ10回目。また熊本で会いましょう!

「今年は最高だね」、「今までで一番素晴らしかったよ」、「会う人会う人みんな、最高だって」。終演後、出演者と関係者のみで行われた懇親会の席であちこちから同じような声が聞かれた。全員がボランティアで構成される実行委員会。委員長の山田高広さんは前日から会場に泊まり込み、想像を超える激務の疲れを微塵も見せず笑顔が絶えない。

懇親会ではミュージシャンが、これでもかこれでもかとセッションや出し物を披露する。みんな知名さんの健康を祈っている。宴は続く。最後まで見届けようと時計を見たらもう日付が変わっていた。出演者のかなりは、さらに3次会に繰り出すという。「プロ」は違う。

この日を良い日和にしてくれた、天気の神様、音楽の神様、ボランティアという名で無償の笑顔を絶やさなかった人間という名の神様、そして聴衆というなによりの神様に感謝をして、熊本を後にした。

「琉球の風」来年はいよいよ第10回を迎える。また熊本で会いましょう!

▼田所敏夫(たどころ としお)[文・写真]
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 

「琉球の風2017」記念エコバッグをデジ鹿読者10名様にプレゼント!
写真のエコバッグは毎回「琉球の風」の会場で先着1000名様にプレゼントしているものです(版画=名嘉睦稔、題字=龍一郎、鹿砦社提供)。少し余分がありますので、このデジタル鹿砦社通信をご覧になっている方10名様にプレゼントします。ご希望の方は私宛メールアドレス(matsuoka@rokusaisha.com)にお申し込みください。(鹿砦社代表・松岡利康)

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)
『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』通常版(「琉球の風」実行委員会=編)

琉球の風2017報告〈2〉宇崎竜童、知名定男、宮沢和史 朽ちることなき魂たち

◆「声が出るか、それだけが心配なんだけどね」(宇崎竜童)

オープニングでステージに勢ぞろいしたメンバーは笑顔で一度楽屋に引き上げた。あれ? 宇崎竜童さんの姿は見落としたのかな? あの印象深い姿、そばにいればきづかないはずはないのだが。しばらくしてもう一度楽屋を覗くと、宇崎さんはどなたかと打ち合わせをしている。やっぱり自分の見落としだったな。と思い直し、打ち合わせが終わった宇崎さんにご挨拶にうかがった。

「いやーきのうから体調が悪くてね。オープニングは勘弁してもらったんですよ。いまも薬飲んだんだけど……」と、相当に体調が悪いようだ。

「ステージだけはね。なんとかやりますよ。声が出るか、それだけが心配なんだけどね」

弱音を吐かない宇崎さんがここまで言うのだからかなりしんどいに違いない。

◆「きょう島唄は歌いません。腹に力が入らないと歌えないからね」(知名定男)

体調の話では、知名定男さんも3月に大腸がんの手術を受けてから、初めてのステージだった。この日の知名さんは一味も二味も違っていた。優しさと喜びの中に鬼気迫る歌声。知名さんお一人での演奏では「好きにならずにはいられない」も飛び出すし、宮沢和史さんのステージではセッションでデビュー曲を歌う。HY、ネーネーズその他のミュージシャンのバックで何度三線を弾いていたことだろうか。

オープニング前にお話を伺った時には、「きょう島唄は歌いません。島唄は腹に力が入らないと歌えないからね。手術のあと抗がん剤治療がようやく終わったんだけど、まだ本調子ではないですね。味覚が鈍っていて味がわからない。タバコだけはうまいんだよね」と話していた知名さん。「ご病気のことは記事にしてもいいですか」と伺うと「まあ、いいんじゃないですか」とお許しいただいていたが、なんのことはない。宮沢和史さんとのセッションのなかで自分から「今年は大腸がんになっちゃって」と暴露してしまっていた(それを聞いて心配するでもなく笑いで返した聴衆も見事だった)。

◆「2曲目、サングラスでいくから」(宇崎竜童)

宇崎さんは出番が近づくと、舞台のそでで発声練習を始めた。やはり声に不安があるのだろう。「1曲終わったらすぐ引き上げて、2曲目、サングラスでいくから」とスタッフに声をかけ、ステージに歩を進めていった。

宇崎さんは知名さんと異なり、一切体調のことは語らなかった。そして、そでから数メートルしか離れていないが観衆の声援に迎えられたステージの中央は「別世界」なのだろう。

宇崎さんは暴れまくった。例年歌う「沖縄ベイブルース」を封印して、あえてアップテンポの攻めの姿勢だ。高い音域の声も通っている。聴衆の中で宇崎さんの体調不良に気が付いた人はいなかっただろう。

◆「今年は元気になりましたよ。去年とは全然違います」(宮沢和史)

大御所2人と正反対に、昨年と別人のように元気になった人がいた。宮沢和史さんだ。毎年さして長い会話を交わすわけではないが、同世代として「50代の体の不調」について言葉を交わすのが、私的にはひそかな楽しみなのだが、良い意味で今年は完全に裏切られた。

顔を覚えていて下さった宮沢さんと握手をすると「今年は元気になりましたよ。去年とは全然違います」と好調ぶりを強調。こちらは順調に右肩下がりに年齢を感じる毎日、同年齢相哀れみながらも、必死で頑張る姿をお互いに確認しようと思っていたら、なんのことはない。念入りな準備運動を仕上げて上ったステージでは走り回る、飛ぶ、跳ねる。これじゃあ20代のThe Boomの時より元気じゃないか!

宮沢さんのこんなにはじけた姿は初めて見た。でも彼は「人物」だ。オープニングでは第一列に姿を見せればよさそうなものだが、さりげなく第一列から少し下がり、沖縄のミュージシャンを際立たせていた。事前リハーサルで決めていたのではなく、きっと宮沢さんの配慮だろう。楽曲のすばらしさもさることながら、人間として誠実で、立派な人だと会うたびに感銘を受ける。

「歌うのが結構ストレスになっていましたね」と去年語っていた宮沢さん。この日は幸せを全身で表現していた。そして彼は「琉球の風」をわがものとして愛していることが言葉の端々に伺えた。声の艶がさらに円熟味を増したように感じる。

艶や後ろ姿や高音の伸びが全盛期(35年ほど前)の沢田研二にどこか似ているような気がしたので、演奏が終わった宮沢さんに「もしお嫌いだったら失礼ですけど、沢田研二さんにちょっと雰囲気が似てきましたね」と無謀にも語り掛けたら、肩を引き寄せられ、「それって、いい意味ですよね?」といたずらっぽい目つきで聞かれた。「もちろん。いまの沢田研二さんじゃないですよ。全盛期のね」と返したら。背中をポンポンと叩かれた。宮沢和史、稀にみる好漢である。

▼田所敏夫(たどころ としお)[文・写真]
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 

「琉球の風2017」記念エコバッグをデジ鹿読者10名様にプレゼント!
写真のエコバッグは毎回「琉球の風」の会場で先着1000名様にプレゼントしているものです(版画=名嘉睦稔、題字=龍一郎、鹿砦社提供)。少し余分がありますので、このデジタル鹿砦社通信をご覧になっている方10名様にプレゼントします。ご希望の方は私宛メールアドレス(matsuoka@rokusaisha.com)にお申し込みください。(鹿砦社代表・松岡利康)

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)
『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』通常版(「琉球の風」実行委員会=編)

琉球の風2017報告〈1〉「今年は空気感が違う」 沖縄の魂が熊本に集う一日!

オープニングではステージに所狭しとミュージシャンたちが集まった
ミス沖縄2017の町田満彩智(まちだ・まあち)さん
開演前の会場「今年は空気感が違う」

9月24日熊本フードパルで9回目を迎えた「琉球の風~島から島へ~2017」が行われた。暑くもなく寒くもないすごしやすい天候の下、例年にも増して、多くの聴衆があっという間の6時間を堪能した。

会場は芝生の上に座る自由席なので、至近距離からステージを眺めることは容易であるが、この日入場を待つ列の先頭には朝6:30分から人が並び始めた(!)。会場を待つ最先頭の女性は「鹿児島からHYを見に来ました」と5時間以上の待機にも疲れの様子はない。

12時、ミス沖縄の方々が出迎えるなか、開場が始まると入り口からどんどん走ってくる人たちの姿が。広い会場でも少しでもステージに近い場所でミュージシャンの顔が見たいのは当然の気持ちだろう。

◆1週間前に前売り2000枚完売!

入場直後の聴衆の数は正確にはわからないが昨年、一昨年よりも目算でははるかに多い。実行委員会によると1週間前に前売りの2000枚は完売していたという。天気予報でも好天が予想されたうえ、今年は常連の大御所に加え、6:30から開門を待つファンを惹きつけたHYとMONGOL800の出演が明らかに観客数の増加に繋がっていたことだろう。

鹿砦社もスポンサーとして可能な限りの応援をしながら、毎年楽しませていただける貴重なイベントだ。まずは総合プロデューサー、知名定男さんにご挨拶に伺う。知名さんは楽屋外の屋外テントの机に「琉球の風」を始めた東濱弘憲さんの遺影とともに座っている。ここは知名さん毎年の定位置だ。

総合プロデューサーの知名定男さん(右)と鹿砦社松岡社長。東濱弘憲さんの遺影とともに

◆雰囲気も顔ぶれも素晴らしすぎる!

テントの横の合同楽屋では、和気あいあいと出演ミュージシャンたちが歓談を交わしたり、音合わせをしている。既にアルコールに手が伸びている人の姿もちらほら。宮沢和史、島袋優(BEGIN)、ネーネーズ、かりゆし58、HY、MONGOL800のキヨサク……。おいおい!これだけの顔ぶれが一部屋に揃うことは「琉球の風」の楽屋をおいて、ほかにどこかあるだろうか!

雰囲気も顔ぶれも素晴らしすぎる!

◆「琉球國祭り太鼓」のエイサーで喜びの地響きとともに開演!

13:00、「琉球國祭り太鼓」約50名のエイサー、地響きとともに「琉球の風」は開幕した。例年参加ミュージシャンからは異口同音に「ここは特別」、「こんなに楽しいイベントはない」と耳にするが、今年は最初から会場の空気感が違う。会場全体が開演前から数的な多さだけでない「喜び」のようなものに包まれている。エイサーを演じる「琉球國祭り太鼓」のメンバーの笑顔が素敵だ。

「琉球國祭り太鼓」メンバーの笑顔が素敵だ
「琉球國祭り太鼓」のっけから盛り上がる
会場で本を購入した人にもれなく無料で書家、龍一郎さんがお好みの言葉を書いてプレゼント!

鹿砦社も「島唄よ風になれ!『琉球の風』と東濱弘憲」を販売するブースを出し、松岡社長以下関係者が顔を揃える。ステージの字幕はじめ、鹿砦社関係のロゴなどの多くを手掛ける書家、龍一郎さんは本を購入した人に無料で色紙にお好みの言葉を書いてプレゼントするという特典付きだ。

メンバーがそろったところで、「これさ、ちょっとどうかと思うんだよね」ミュージシャン出演順の表を見ながら松岡が首をかしげる。ネーネーズ、キヨサク、HY、宇崎竜童、宮沢和史らビッグネームの出演順が比較的早い時間に割り振られている。たしかに盛り上がるミュージシャンがどうしてこんなに早く出てくるのだろう? もっとあとのほうがいいんじゃないのかなぁ、と一同松岡の意見に同意したのだが、そこには進行表上の文字面での出演順だけではない、もっと奥の深い意図が隠されていたことをステージが進む中で誰もが理解するようになる。

「琉球國祭り太鼓」の演奏に続いて、出演ミュージシャン全員が舞台に揃い、いよいよ本格的なオープニングを迎える。ステージの横には所狭しとミュージシャンたちが集まり、冗談が飛び交う。名前は秘すが、この日ステージで数々のセッションに絡み大活躍をした○○○さんはすでに出来上がっている。大丈夫か? と思うような状態だが、ステージに出るとそんな姿は微塵も見せない。司会に促されて出演者が順にステージへ出てゆく。

◆「琉球の風」初登場 HYの新里英之さん&仲宗根泉さん!

今回初登場のHYのお二人にオープニングが終わった直後にお話を伺った。

「ウチナーンチュでよかったなって思いました。いつも沖縄でステージをやるときは、来てくれる人も沖縄の人が多くて、いつもどおりみたいな感じなんですけど、違うところ(熊本)でスタッフとかミュージシャンも沖縄の人で安心感があるし、それを誇りにも思います」(仲宗根泉)

「これが沖縄の魂、力だよという生きざまを感じて、音楽で時代を繋げてきたと感じました。知名定男さんをはじめ、僕たちは30代。きょう一番若い子は21歳もいて、お客さんも小さい子からおじいちゃんおばあちゃんまでひとつになる瞬間は素晴らしいなと思います」(新里英之)

この日2000人以上の観客を総立ちにさせることになる、HYの二人は既に楽しそうに興奮気味だった。

「琉球の風」初登場! HYの新里英之さん&仲宗根泉さん
2017年9月25日付け熊本日日新聞
「琉球の風2017」記念エコバッグをデジ鹿読者10名様にプレゼント!

「琉球の風2017」記念エコバッグをデジ鹿読者10名様にプレゼント!
写真のエコバッグは毎回「琉球の風」の会場で先着1000名様にプレゼントしているものです(版画=名嘉睦稔、題字=龍一郎、鹿砦社提供)。少し余分がありますので、このデジタル鹿砦社通信をご覧になっている方10名様にプレゼントします。ご希望の方は私宛メールアドレス(matsuoka@rokusaisha.com)にお申し込みください。(鹿砦社代表・松岡利康)

▼田所敏夫(たどころ としお)[文・写真]
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)
『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』通常版(「琉球の風」実行委員会=編)