東京タワーを右手に桜田通りを北上し、飯倉交差点、つまりは右折すれば東京タワーにたどり着くその交差点を過ぎるとき、左手奥に見える異様な建造物。都心のタクシードライバーは、これに関する知識をきっと用意している。好奇心旺盛な乗客がそれを目にすれば「あれはなんだ!」と質問するに違いないからだ。

霊友会釈迦殿(れいゆうかいしゃかでん)は、その名の通り宗教法人霊友会の本部施設であり、同会ホームページによれば「釈尊との心の会話を交わす場として建立」され、そこでは「在家のつどい、妙一会お花まつり、節分会など、さまざまな行事が行われている」とのことだ。「特徴ある釈迦殿の外観は“合掌”をイメージしています」とも記されている。

竣工は1975年(昭和50年)。延床面積は25,720㎡。地下6階、地上3階の鉄筋コンクリート造。設計施工は竹中工務店。同社設計部の岩崎堅一と絹川正が設計を担当した。岩崎堅一は、有楽町センタービルディング(通称“有楽町マリオン”)や横浜市大倉山記念館といった大規模な設計に携わる建築家であり、受賞歴も多い。また、武蔵工業大学(現東京都市大学)工学部建築学科教授を経て現在は名誉教授を務めるなど、若手育成にも関係する人物だ。

この建造物の特徴として、まずはその“巨大”さを挙げるべきだろう。「ピラミッドの巨大さは、ただ体積が大きいのみならず、それがほとんど実用性を感じ得ない“モニュメント”であることによってより強く感じられるのだ」という話を聞いたことがあるが、釈迦殿についても同じことが言えるのではないか。私がこれを指して“建造物”と呼ばざるを得ないあたりからもその巨大さを感じ取ってもらうこともできるかもしれない。

 

造りとしては、大屋根を支持する28本の柱が目を引く。それらは道を形づくっており、したがって参道の役割を果たしている。柱や床材には御影石(花崗岩)が用いられており、ピカピカに磨かれた石の重みがダイナミックで荘厳な空間を支えている。御影石もその種類によってずいぶん趣が違うものだが、ここに用いられているのは中国の山東省を産地とする“中国マホガニー”もしくは米国サウスダコタ州の“ダコタマホガニー”ではないだろうか。いずれも安価なものではない。参道空間の天井は低く、また装飾はシンプルに統一されており、どこかミニマルな思想を感じさせる。これは、重い扉を押し開けた先にあるメインホールとのコントラストを生むための構造であり、法悦への導入だろう。

実は10年ほど前にもここを訪れたことがあるのだが、そのときの道連れ、自称“B級映画ハンター”によれば「宗教団体はとにかく信者を集めなきゃいけないから、まずはヴィジュアルで攻めてくる」のだという。なるほどそんなものなのか知らん。

 

▼[撮影・文]大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

 

『第8回世界盆栽大会 in さいたま』に行ってきた。開催していたのが4月28日から30日までと限定されていたにも関わらず、世界中から「盆栽フリーク」が大挙してやってきて、歩くのも混乱が生じるほどの好評だった。

盆栽は、中国で生まれ、日本へは遣隋使・遣唐使に始まる中国の先進文化導入のプロセスでもたらされたと考えられている。

中唐の詩人、白楽天は、洛陽に構えた住宅につき、その住宅のなかに盆花を暖室に入れるという詩句を挟んで、当時の呼称と冬の激寒からの保護法を観察したとされる。また、鎌倉時代には、『西行物語絵巻』の中で、方丈(僧侶の居住棟)の縁先を飾る盆山(石付き盆栽の呼称)をうつしとどめたことは場所としての寺院、様式としての石付きの二面で、盆栽が登場した由来を雄弁に語っている。

さいたまには「盆栽村」がある。これは、東京から被災して逃れてきた盆栽職人たちが作った村だ。かつて東京の団子坂(文京区千駄木)周辺には、江戸の大名屋敷などの庭造りをしていた植木職人が多く住んでいたとされる。

明治になってから盆栽専門の職人も登場。関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた盆栽業者が、壊滅した東京から離れ、盆栽育成に適した土壌を求めてこの地へ移ることになる。1925年には彼らの自治共同体として大宮盆栽村が生まれ、最盛期の1935年頃には約30の盆栽園が存在した。

 

 

 

 

大宮盆栽村は、いまも名品盆栽の聖地として知られ、日本だけでなく世界から多くの愛好家が訪れている。そうした縁から国際的な大会がさいたまで行われているのだが、今は「BONSAI」は、中国やタイ、ミャンマーやメキシコあたりで爆発的な人気を誇っている。

「盆栽を教えてくれる職人を講師として送って欲しい」という要請が、世界の各国から殺到しているのだ。だから実は「盆栽職人」になりたがる人たちは日本人よりも外国人のほうが多い。

盆栽村にちらばる園に行ってみるといい。外国人たちがさまざまな言語を駆使して、盆栽の手入れをしている。彼らは仕事で生計をたてるのだから必死だ。物見遊山で盆栽を見にきた私たちとはまったく真剣さがちがう。

 

さて、日本の盆栽は、幕末の開港をきっかけとして、世界規模で展開されていた植物探査(プラントハンティング)の波にのり、西欧に運ばれた。しかし、それらの奇異を誇示する姿は、盆栽になじみがなかったことを背景に「自然に反する奇異なもの」という印象をばらまいたようだ。しかし、それから日本では、美術盆栽、自然美盆栽へと向上し、西欧人も関心をしだいにもってきたので、ひとつの文化を形成した。

1964年、東京五輪と1970年の日本万国博覧会に際して来日した世界の人たちは、特設された盆栽水石の名品展を訪れて、帰国した将兵へのみやげ話として盆栽へのあこがれを語った。なお、その自慢げな話しの裏には、自分の国には存在していない日本的な芸術観への開眼が感動とともにこめられていただろうと推測できる。

会場では、盆栽が売られていたが、数十万円もする盆栽がつぎからつぎへと売られていた。

どうも「BONSAI」を世界遺産として登録する動きがあるらしいが、ぜひ実現してほしいし、日本文化が広がるきっかけになれば幸いである。

 

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

『紙の爆弾』最新号!森友、都教委、防衛省、ケイダッシュ等今月も愚直にタブーなし!

宮沢和史さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

気取らない、威張らない、爽やか。元THE BOOMの宮沢和史さんだ。彼は昨年1年間体調不良で、ステージで歌う活動を「休養」していた。それでも震災後の昨年10月2日熊本で行われた「琉球の風」に駆けつけて「今日だけはどんなことがあっても歌わせてくださいと僕のほうからお願いしました!」と全国のファンには極秘(?)で「島唄」を熱唱してくれた。

一昨年は顔色がさえず、体が辛そうだった。本人曰く「ヘルニアで動くのも苦しい」状態だったそうだ。昨年はずいぶん元気になっていて、ご本人も「だいぶ元気になりましたよ。ステージで歌わないのが休養になったみたいですね」と明るく話してくれた。それでもまだ指のしびれがとれることはないとのことだった。

◆宮沢和史さんが「島唄」に込めた想い

4月1日付朝日新聞デジタルより

4月25日から防衛局による「辺野古の海破壊行動」が激化しているが、それに対するささやかな抗議として、宮沢さんの「島唄」にまつわる逸話をご紹介する。

以下は4月1日付の朝日新聞デジタルに掲載された記事からの抜粋だ。

沖縄の音階と三線(さんしん)を全国に広めた「島唄」。ラブソングのように聞こえる歌に込められた本当の意味は?

「THE BOOM」のボーカリスト、宮沢和史さん(51)は山梨県出身。沖縄音楽の魅力にとりつかれたきっかけは、1989年のデビューから間もない頃、土産にもらった沖縄民謡のカセットテープだった。 「バブルの空気に居心地の悪さを感じて、日本から世界へ発信できる音楽を探していたとき、大地につながりをもつ沖縄民謡に日本の原風景を感じたんです」

90年、アルバムのジャケット撮影のため、初めて沖縄の土を踏む。翌年には沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館を訪れ、ひめゆり学徒隊生存者の話を聞いた。住民を集団自決に追いやったものに対してだけでなく、沖縄戦に無知だった自分自身にも腹が立った。人々が息絶えたガマ(洞窟)の中に自分もいるような恐怖を覚え、資料館の外へ出ると、さとうきびが静かに風に揺れていた。

宮沢さんは振り返る。「牧歌的な光景と、その下で行われた殺戮(さつりく)とのギャップが信じられなかった」伝えなければと思った。自分には音楽がある。「体験を話してくれた方に恥ずかしくない曲を作ろう」。そう考えて一気に書き上げたのが「島唄」だ。

「ウージ(さとうきび)の森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」。単純に恋の始まりと終わりを描いたとも取れる一節は、ガマの中で自決した二人の幼なじみの男女をイメージしているという。「レ」と「ラ」がない琉球音階で作られた曲の中で、このフレーズだけは通常の西洋音階にした。「何が誰がそんな状況に追い込んだのかを思うと、沖縄の音階はつけられなかった。ヤマトの音階にした」

◆今年も9月に熊本「琉球の風」で「島唄」を

私は沖縄の知人から聞いて、「島唄」に込められた意味を知ってはいたけれども、上の記事にある通り、宮沢さんご自身がそのことを語るようになったのは21世紀に入って以降で、それまではメロディー、歌詞ともに卓抜した名曲として世界にも広がっていた。

さて、肝心の「島唄」であるが下記が、ほぼ宮沢さんの意図に近いだろうと思う。巧みの技である。パッパラパーのバブル時代でもこの歌詞には抵抗を感じる人が多くはなかっただろう。しかし表の歌詞を翻せば、これはまがうことなき「反戦歌」だ。しかも琉球(沖縄戦)から、大日本帝国の暴虐を撃つ視点には勇気も要ったに違いない。だから宮沢さんは今も大枠で「島唄」の歌詞を語ることはあるけれども、この時代状況に対する発言は極めて慎重だ。それでいい。彼はこれだけ大きな仕事をやってのけたのだから、「島唄」をクースー(泡盛の古酒の意)のごとく、磨き上げていってほしい。今年も9月には熊本の「琉球の風」で「島唄」を聴くのが楽しみだ。

「島唄」を歌う宮沢さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

沖縄で続く中央政府の暴虐に対して「島唄」の歌詞を送る。

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
(1945年春、でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された。)

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
(でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている。)

繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう
(多数の民間人が繰り返し犠牲となり、人々の哀しみは、島中に波のように広がった。)

ウージの森で あなたと出会い
(サトウキビ畑で、愛するあなたと出会った。)

ウージの下で 千代にさよなら
(サトウキビ畑の下の洞窟で、愛するあなたと永遠の別れとなった。)

島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
(でいごの花が散る頃、沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、平穏が訪れた。)

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
(平和な時代のささやかな幸せは、波間の泡の様に、はかなく消えてしまった。)

ウージの森で 歌った友よ
(サトウキビ畑で、一緒に歌を歌った友よ。)

ウージの下で 八千代に別れ
(サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

海よ 宇宙よ 神よ 命よ
(海よ 宇宙よ 神よ 命よ 万物に乞い願う。)

このまま永遠に夕凪を
(このまま永遠に穏やかな平和が続いてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の涙(なだば)
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

◎[参考動画]島唄 本当の意味(kesigomuify2010年5月22日公開)

「琉球の風〜島から島へ〜」Facebook

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』(「琉球の風」実行委員会=編)

 

東京大学のすぐ近くに本郷館という建物があった。日本最古の木造三階建てとして知られたその建物は、かつて下宿として活躍し、その最後まで学者や物書きに愛され続けた名建築だ。風呂なしキッチンなしトイレ共同。わずか3畳のスペースに、オットマン付きのイームズ・ラウンジチェアとB&Oの大型スピーカーを置いて生活していた摩訶不思議な友人を訪ねたことを思い出す。2011年に本郷館が取り壊された時、非常な喪失感とともに私は涙を流した。

二度とこの気持ちを味わうことはしたくない。いつか取り壊されてしまうその前に写真に収めれば、己の精神衛生管理に役立つはずだ。そんな思いでちまちまと古建築を撮影しているのだが、ここではその“古建築アーカイブ”活動の一部を紹介する。第1回は『JR原宿駅木造駅舎』としよう。

◆関東大震災の翌年1924年に竣工

原宿駅が日本鉄道の駅として開業したのは1906年(明治39年)。当時の駅舎は現在のものよりも代々木駅寄りに建てられており、貨物列車の営業も行っていたという。1920年(大正9年)の明治神宮完成、1923年(大正12年)の関東大震災を経て、1924年(大正13年)に改めて建設されたのが現在の駅舎だ。東京都内に現存する木造駅舎としては最も古いものであり、その特徴的な外観は初めて訪れた者の注目を集めること必至である。

ファサード(建物の正面)を含む外壁に用いられているのは、“ハーフティンバー様式”という建築技法で、壁(白色であることが多い)から覗く材木のラインが特徴的だ。イギリスやドイツ、フランスの木造建築に見られる様式だが、特に15世紀から17世紀に建てられたイギリスの住宅に用いられていることが多い。このハーフティンバー様式と、屋根に載った尖塔や時計の装飾とが相まって、原宿駅木造駅舎は“ヨーロッパの田舎町”風の趣を醸している。小ぶりで可愛らしいデザインの建物がものすごい数の乗降者を迎え送り出しているその姿を眺めていると、健気で微笑ましい感じがして面白い。設計したのは鉄道省公務局建築課の長谷川馨。同氏の作品である2代目横浜駅舎にも原宿駅同様の尖塔が付いていたというが、残念ながら取り壊されている(現在の横浜駅は3代目)。

◆この駅舎は残してほしい

2017年6月8日、東京オリンピックが開催される2020年までに原宿駅を改良し、新駅舎を建設するという計画が発表された。降者数に比し原宿駅舎は小さすぎるのだろう。他にも事情があるのかもしれない。しかし改良が進められるにしても取り壊しは避け、なんとか現在の駅舎を残してほしいというのが筆者の願いだ。連続したデザインで新駅舎と接続し、駅としての機能を新駅舎に移すということでも構わない。建築を含む都市の景観はそこに暮らす人々の感性に直接影響するものなのだから、都市計画に従事する人間や建築家はそのことをよく理解し、より真剣に扱ってほしいと思う。

 

 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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〈原発なき社会〉を求める声は多数派だ!『NO NUKES voice』11号!

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

山口組が分裂した2015年8月以降、「任侠」という言葉は暴排の彼方に消えかかっているが、ヤクザ映画の古典を見ると、なるほどヤクザがメンツのために殺しをいとわない生き物だというのがよくわかってくる。

ヤクザ映画の大部分は、組織を逸脱せざるを得ない存在がアウトローとしてどのように現実に立ち向かうか、ということが描写の課題となっている。アウトローとして生きることを志向し続けていくのであれば、組織とのつながりが感じられる。しかし暴力を行使すれば組織という概念が吹き飛んで、残るのは「暴力を行使した一個人」だけとなる。最終的に組織から離れてしまう主人公の姿が描かれるのが『博奕打ち 総長賭博』(1968年東映 山下耕作監督)である。鶴田浩二を主演に据えた『博奕打ち』シリーズの第四作。作家・三島由紀夫も絶賛したという作品だ。

昭和の初めの東京が舞台で、有力ヤクザの一つである天竜一家の総長・荒川が倒れ、後継の総長を決める必要が生じた。主人公・中井信次郎(鶴田浩二)は総長の跡目に推されるも元々は外様という立場ゆえ辞退、兄弟分で服役中の松田鉄男(若山富三郎)を総長に推薦する。しかし荒川の兄弟分である仙波多三郎(金子信雄)は天竜一家に跡目争いを起こして混乱させ組を乗っ取ってしまおうと画策していたので、松田が総長となることを承知せずに、中井や松田より格下の石戸幸平(名和宏)を推挙し総長とした。

松田は、石戸が正式に新総長と決まった後に出所した。松田は自分より格下の石戸が総長となることに不満を爆発させ、松田と石戸には険悪な空気が漂う。中井は、仙波が天竜一家で跡目争いが起きるように仕掛けている張本人であることを察知していたので、争いをやめるよう松田を説得したが、松田は石戸と対立してしまう。対立抗争に巻き込まれて中井の妻・つや子(桜町弘子)は死ぬ。

一方仙波は跡目争いが進行していくのを見てほくそ笑んでいた。仙波は石戸の新総長襲名披露の日、刺客を石戸に放ち暗殺する。次いで中井に「石戸を暗殺したのは松田だから始末しろ」と命じる。中井は兄弟分である松田をかばい切れず殺害した後、一連の事件の黒幕である仙波を斬る。

中井には天竜一家の構成員それぞれの思惑で板挟みにならざるを得ない辛さ、兄弟分である松田を斬らなければならない悲哀、仙波を除こうという確固たる意志、が感じられる。冷静な中井に対して松田は激情家で、格下にも関わらず総長の跡目を継いだ石戸を斬りに行こうとする程である。キャラクターの違う二人に加えて、命を狙われても新総長として現実に立ち向かおうとする石戸、どこまでもあざとい仙波、という四人が描き出す人間模様が物語の核となっている。

ヤクザ映画では「組織」と「暴力」が重要なキーワードとして提示されている。組織の中にいるヤクザが境遇について葛藤し、最後には暴力で敵を倒していくところが観客の胸を打っていた。しかし本作は違う。本作での組織は「天竜一家」であるが、中井が松田や仙波を殺害する背景に天竜一家の影響は見られない。中井個人の勝手な振舞いによって松田や仙波が消されていくのだ。中井自身が組織の一員だから、松田や仙波を殺したのではなく、あくまで中井個人の始末のつけ方として描かれるのである。

もっとも、はじめから中井は自分の意志によって動いているわけではない。跡目が石戸だと知って激高する松田をなだめ、仙波が組を乗っ取る算段を立てていると知っても事を荒立てないよう行動する。組織のためであり組織の一員である自覚が中井にあるからこその行動である。実際に中井は序盤で以下のように言っている。

「一家として決まったことをのむのが渡世人の仁義だ。白いもんでも黒いと言わなくちゃあならねぇ」

これは中井に天竜一家のヤクザとして組織を背景に生きているという自負がある段階での台詞だ。

中井は仙波を殺害するラストシーンで非常に印象深いセリフを吐く。叔父貴分にあたる仙波に「俺を殺すのか、お前の任侠道はそんなものなのか」と毒づかれたとき、「任侠道、そんなもんは俺にはねぇ。俺はただの人殺しだ」と言うのだ。過去に組織を慮って行動していた人間とは思えぬ発言である。中井から組織の影響が見られなくなった転換点は仙波から松田殺しを命じられた時だろう。中井は松田と仙波を殺害することのみ考え始め、組織の中で生きていくという志向は失われてしまっている。任侠道が見えなくなり、中井に残ったのは人殺しというアイデンティティだけである。終幕で中井に見ることができるのは本人の意志で暴力を行使し、組織と完全に解離してしまった一人の男であるということだ。

そして、本作には「切なさ」という要素も絡んでくる。中井は組織の為に奔走した。暴れ馬のような松田と跡目を継いだ石戸をなんとかなだめようとする。松田と石戸への説得はうまくいかず、つや子は総長の跡目争いに巻き込まれて死に、石戸は暗殺される。結果として中井は松田を殺さなくてはならなくなる。最終的に中井が黒幕の仙波を殺すことで溜飲が下がるかといえば全くそんなことは無い。本作の登場人物全員に救いが無い点はなんとも悲劇的である。組織と暴力に翻弄されるヤクザの姿を描いた作品は数多いが、登場人物の心の揺れを描き出したものは少ない。

主人公・中井信次郎の組織から離れていってしまう際の心の揺れ動きは、抑圧された境遇に泣く現代人にも理解できる点があり、1968年の公開から半世紀近くが過ぎた今日でも、共感を得られる作品となっている。

かくして、この時代からヤクザは本質は変わっていない。今年もまた、小さな利権を求めて日本のどこかで音が鳴る(発砲される)のだろう。

(伊東北斗)


◎[参考動画]博奕打ち 総長賭博(予告編)1968年東映 山下耕作監督 笠原和夫脚本 鶴田浩二主演

 

大高宏雄『復刻新版 仁義なき映画列伝』

社会人になり、編集プロダクションに入ったときの最初の先輩が、のちにミステリー作家になる北森鴻氏だった。1991年3月に入社して数日後、「呑みに行こう」と連れて行ってもらった先は、なんと路上の屋台だった。

「好きなもの、食っていいぞ」という北森先輩はその夜はとても饒舌で、「俺はいつか作家になる。おまえが先に売れれば俺はだいぶ楽になるなあ」と酔いがまわり、いくぶん上機嫌でいくつかのミステリー小説のプロットを語ってくれた(もちろんのちに作品になるものがたくさんあった)。

雑誌やスポーツ新聞や受験雑誌にスポーツや芸能、受験情報やイベント情報などの記事を書き散らしている編集プロダクションにあって、北森氏の才能は群を抜いていた。

北森氏は原稿を当時、シャープペンで書いていたが、400字10枚を20分足らずで書き上げる速さ。僕はひそかに「ジェットの執筆」と呼んで尊敬していた。だがお互いの信頼関係は少しずつヒビが入り始める。

なぜかといえば、「作家になる」と宣言していた北森先生は編集者としてもライターとしても恐ろしいほど才能がありながらも、編プロでの仕事を少しずつ減らしつつあり、嘱託のような生活をし始めた。会社も「作家になりたいのだ」と主張する北森氏に配慮して、仕事量を調節していた。

いっぽうで僕は編集プロダクションで手前みそだが、のしあがりつつあり、中心的存在へと確実にステップアップしていった。この編プロは編集と執筆が同時に求められるタイプの会社で、読者がおもに小学生や中学生の雑誌だったから、とにかく「わかりやすく書く」ことが求められていた。北森氏ものちに「編プロ時代のライター修行が作家になってから役にたった」となにかで書いていた。今、小説の文体を読み返していて、僕もそう思う。

「会社からフェイドアウトしていくのに、北森氏は優遇されすぎている」と感じた僕は、ことあるごとに北森氏とぶつかり合い、ある日を境にそれきり北森氏の飲み会にはまったく誘われなくなった。

心が狭い僕は、会社が行う北森氏の送別会にわざと長時間の取材を入れて、 これみよがしに送別会に欠席した。今から思えば、やっていることはまるでガキで、これから何年も出席しておけばよかったと悔いることになる。それが95年のことだ。
このとき、明らかに僕は北森氏が「狂乱廿四孝」で第6回鮎川哲也賞を受賞した現実に打ちのめされていた。

北森氏は、それまでつちかった取材でのデータエッセンスを執筆につぎこんで、何度読み返してもおもしろい話を書き上げていた。仕事は受賞して2年ほどがスケジュールが埋まり、明らかに僕より何十歩も先をいっていた。

「朝型」で朝7時ごろ出社して夕方5時には帰るという生活をしていた北森氏は、「夜型」の僕とはよく仕事がゆきちがい、何度も北森氏の自宅に電話して取材をどう進めるかという指示をあおいだ。その電話番号を、僕はいまだに忘れることができない。

これは今年になってはじめて知ることになるのだが、北森氏は、僕が要領が悪くて、なかなか仕事ができない時代に、よく僕のことをかばってくれたそうだ。そうした状況を無頓着ながら知らず、何度もできが悪い原稿でよく北森氏に罵倒されていたものだから、とっくに嫌われていると思っていた。

北森氏とつぎに話したのは、だいぶ間があいて、2005年。その編プロが20周年のパーティを開いたときだ。

相変わらず饒舌に過去のライター時代の話をおもしろおかしく周囲にしている北森氏に挨拶しつつ、当時、編集者として竹書房という会社に流れ着いた僕は、過去のことを一切忘れて挨拶するや否や反射的に「うちにも書いてください」と言ってしまった。

北森氏はビールをつぐ手を震わせていた。うまくつげなくてジョッキから泡がこぼれ出てきた。ビール瓶をテーブルに置くと北森氏は口を開いた。
「お前とはまだ早いだろう」
それが上下関係にあったとはいえ、過去に同じ会社でしのぎを削った元編集者兼ライターだからしばらく「編集者ー作家」という関係になるのは時間をおこう、という意味だったのか、それとも「時間がたったからもう少しお互いを理解してからにしょう。だいぶ間があいたことだし」という意味で言っていたのかは今となってはわからない。
北森氏は2010年1月25日、山口市内の病院であまりにも唐突に亡くなってしまったからだ。享年48歳。

北森氏が言ったことで忘れられない言葉がある。

「ばれなければ何やってもいい。ただし、ばれたときの責任はお前がぜんぶとれ」と。仕事上のアドバイスだ。北森氏は、会社をやめ際に僕がかけた言葉をきちんと覚えていた。

「おまえ『食えなくなったら出版社に営業して、仕事をとってあげる』って俺に言ってくれたよな」

北森氏は、僕のこの何気ない一言に、最後まで感謝していたそうだ。もちろん、北森氏が食えないとなれば、さんざんぱら出版社を秘書的にまわって営業する覚悟が僕にはあった。だが、悲しいかな、もう伝えることはできない。

作家・北森鴻氏が学生時代にアルバイトしていた居酒屋「味とめ」

北森氏が急に旅立たれてから、もう7年がすぎようとしている。

僕らがいた編プロは「中二時代」「中一時代」「中学三年生」という旺文社の雑誌を作っていた。そこのモデルだった女性がプロゴルファーになったときに、「もと雑誌モデルだった美人ゴルファー」として写真を週刊誌にもちこんだことがある。もちろん、本人に了承を得て、だ。

このとき「昔お世話になったモデルの過去の写真を週刊誌に売るのはどうか」とスタッフの中でただひとり反対したのが北森氏だ。

北森氏はよく「僕らは情報の被害者だ。僕らは情報の〝加害者〟にならないといけない。発信する側になって、その場所に居続けないとならないんだ」と強く言ってた。今僕は「記者」という立場でさまざまな取材をしているが、北森氏に見せても恥ずかしくない原稿を書きたいと思う。

そして今、北森氏に原稿のアドバイスをもらっていた僕は「僥倖」としかいえない時代をすごしていたのだとせつに思う。

北森氏にこう謝罪したい。

「嫉妬からあなたと距離をとってしまい、すみませんでした」と。

そして僕は、北森氏が学生時代からバイトしていたおいしい三軒茶屋の名店「味とめ」にこれからも何度も行き、北森氏の「生き証人」である女将さんから何度も彼の話を聞いて、うまい酒を呑むだろう。

それが僕にできる贖罪ですよ、北森先輩。先輩、またどこかで会いましょう。

生まれかわって、また仕事で組むことがあったら、今度は必ず「送別会」に出ますから(笑)。あのときの心が矮小だった僕を許してくださいね。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン!

若い頃エロ本のお世話になった人というと、およそ1985年以前が中心というデータが出版の取り次ぎ会社にある。

今や書店からほぼ完全に姿を消し、コンビニの棚の隅にひっそりと息づいているだけのエロ本は、斜陽化が進む出版界においてもレッドリストの筆頭に入る絶滅危惧種、昭和最後の名残なのだ。

「東京五輪・パラリンピックまでにコンビ二の棚からエロ本はなくなるという噂が出版界では広がっています。諸外国に対する配慮からですよ」(全国紙社会部記者)

エロ本の息の根を止めたのはインターネットだった。出版不況がいわれ始めてはいたが、まだまだ本が売れていた20世紀末、エロ本業界では局部のスミ消しがモザイクに変わり、薄消し競争で内容が過激化して逮捕者まで出していた。その過激なコンテンツが〝自炊職人〟たちの手によって、ネット上に無料で大量に撒かれ始めたのだ。これでは誰もカネを出してくれない。

「ネットサーフィンを初めて、自分が作っている本の名前で検索結果を見て凍りつきましたよ。一所懸命人集めて、会社のカネとはいえ大枚払って撮影して、何度も大切に使っていた写真が、タダでばらまかれているんですもん。一瞬怒りましたが『ああ、こりゃもう誰も買ってくれなくなるな』とすぐに悟りました」(編集者)

でもその頃のネットはまだ通信速度が遅く、動画配信には負担が重すぎた。だからエロ本は、当時普及し始めていたDVDを付録に付けた。部数は伸びたが、外すと途端に落ちるので、DVD付録は必須になった。やがて読者は本体の写真よりも付録のDVDを重視し、エロ本書店が多かった神保町の駅のトイレには、DVDだけ抜かれれたエロ本が散乱していたという。

そして光ファイバーの登場で動画送信がスムーズになると、YouTubeの勃興とともに無料エロ動画サイトが乱立する。毎月お気に入りを探して書店に行って1000円の本を買ってDVDをセットするより、ネットにつないでAVアイドルの1分サンプルや、無修正の海外ハードコアの方が簡単便利実用的しかもタダ。勝てるわけがない。

そんなエロ本の動向を先取りしたジャンルが「性生活告白本」だった。20世紀末に隆盛を誇った、文字ばかりの本なのだが、読者層は70代男性、つまりは年金生活者。彼らが若かったころの思い出を綴った本で、昭和初期の性風俗を知る上での格好の資料でもあったのだが、よほどのマニアでなければ若者は買わない。その告白本を支えていた読者は、今ではもう80代から90代。こうしてこのジャンルは、ひっそりと書店の棚から姿を消した。

そして2020年の『東京五輪・パラリンピック』がやってくる。外国人が立ち寄るコンビニにエロ本が置いてあるのは、国の品位にかかわる。ちなみに東京都庁が毎月指定している〝不健全図書〟に、エロ本はない。コンビニでのエロ本は、置く棚を他の本とは別にする〝分別販売〟を東京都が推進し、業界も遵守しているので、うっかり不健全図書に指定すると雑誌の業界団体がうるさい。

ところが出版関係者が心配しているほど「東京五輪」はエロ本がコンビ二から撤廃されるお題目になっていない。

不健全図書の指定を管轄する「東京都庁・青少年治安対策本部総合対策部青少年課」に「東京五輪までにコンビ二からエロ本が全部撤去されるという噂が出ていますが」と聞くと「そんな話はでていません。確かに、コンビ二からエロ本を撤廃しろという都民のかたのご意見はちょうだいしたことがあります」とのこたえ。

しかしコンビニは書店ではない。エロ本も経済誌も弁当もジュースも、回転率と利益率で判断される商品のひとつだから、棚の効率が悪ければ他の商品が取って代わられる。エロ本を棚から撤去するのは、各チェーン店担当者のお心ひとつだ。絶滅寸前の書店売りエロ本に至っては、数は減っても過激なままだったので、すぐさま警察から呼び出しが来る。

「最後に桜田門(警視庁)に呼び出された時はキツかったですよ。いつもは担当部署の方の指示どおりに始末書を書くのですが、その時は取調室に案内されて座った瞬間『お前、警察なめてんのか!』。ビビりましたよ。あんなに本気の担当者を見たのは最初で、多分最後。『今度なんかあったら、そのまま行くからな』で、社に戻って必死に善後策を検討しました。その後は事なきを得ていますが…」(前出)

ここでひとつ豆知識を。書店売りのエロ本は、モザイク修正が始まった頃から、自主規制で〝18禁〟マークをつけることになった。それに対してコンビニ売りは、18禁を置くのが望ましくないのでマークをつけず、その代わり〝小口止めシール〟という、立ち読みができない姿で売られていた。そして18禁の書店売りはわいせつ図画で警視庁が、コンビニの小口止めは青少年への有害図書で都庁が、それぞれ取り締まるという協定が今でも生きている。

こうしてエロ本の読者は、ネットリテラシーの低い中高年が購買層のメインになった。そういう中高年男性が、コンビニで弁当とお茶とエロ本を買う姿は悲哀を誘うが、エロ本業界はさらに悲哀の底にある。今の部数では、自社でコンテンツを制作する予算がないので、AVメーカーから動画はもちろん、静止画(AVメーカーが広報用に撮る写真)まで借りてきて本を作っている。しかも超低予算で「他の企画と抱き合わせでないと商売にならない」とは某編集プロダクションの編集長。部数はそこまで落ちているのだ。

「コンビニでは2万部売れればいいほう。書店だけのエロ本は1万部切っています。5年前の半分ですよ」(取り次ぎ関係者)

エロ本の作り手には、ここに来て、決定的な試練が待っている。権利関係の管理が厳しくなってきたAVメーカーが、出版社に素材を提供しなくなる可能性があるのだ。

「女優を強制出演させているという批判が集まる中、AVメーカー側はいま肩身が狭い。AV女優にも肖像権があるという判決が出て、簡単に宣材(宣伝用の動画や現場のスチール写真など)を出版社に貸しだしできなくなっています」(編集プロダクション社員)

都庁や警察が動かなくても、読者の高齢化と素材の枯渇から、エロ本はやがて自然消滅する運命にある。しかもそれは、遠い日ではない。

▼高山 登(たかやま・のぼる)
長くエロ本編集に携わる。編集好きが高じてDTPソフトで表紙まで仕上げる編集機械。ライターとしての守備範囲は広く、芸能スポーツ以外は何にもで首をつっこむが、軍事と特撮とかわいい動物にはそれなりの薀蓄を持つ。社命で経営まで関わった事があり、一時Excel恐怖症から鬱になるが、最近復帰した。
◎プロデュース/ハイセーヤスダ

 

大高宏雄『昭和の女優 官能・エロ映画の時代』

昨年、ラオスからタイに行って来た。
仕事仲間が「ラオスに何があるのですか」と聞いてきた。いい質問だ。
その質問はそのまま村上春樹の本となっている。
そしてタイのウドンタニを経由してバスで揺られてラオスに入り、メコン川をまたぐ「平和の橋」を通り、首都のビエンチェンに到着した。

 

ここには本当に何もない。
「何もない」ことが僕に精神的な安らぎを与えてくれる。

おそらく、僕の記憶では今のラオスは、昭和年代の日本に値するのだろうと思う。ようやく長いタイとの戦争が終わり、車が走り、道路が整備された。
ここでは少女や少年が10歳程度からもう働いている。学校に行くよりも、そのほうが有効的な時間の使い方だからだという。

ここではインフレが起きていて、じつは食べ物は100円以下。マッサージだって500円程度だ。単位は「キープ」なのだが、日本政府の怠慢で換金すると銀行では、25%ほどが手数料でとられてしまう。そうした意味では、タイのほうが日本円が使えて便利だろう。

しかしそれにしてもラオスは軍が政治を仕切っているからか治安がよく、町でも不良らしきものがまったくない。

ラオスでは夜のマーケットで、さまざまな屋台がメコン川沿いに並んでいた。印象的なのは「地雷を解体して、その部品でネックレスやキーホルダーなどを作っていた連中がいたこと」だろう。

ラオスの歴史は悲惨のひとことだ。とくにフランスに侵略されて、子供や女性など多くの人たちが有無を言わさずに殺された。
 
そうした侵略から立ち上がり、繁栄へと突き進むのはいいことのように思う。だがその一方で、「中国資本」がつぎつぎと入ってきて土地を買いあさり、イオンのようなデパートをいくつも作ろうとしている。

こうして世界の都市は、どこも平均的になっていき、日本だろうとミャンマーだろうと地球の裏側にあるような国でもイオンのようなショッピングモールが建ち並ぶのだろうか。だとしたら悲しい出来事である。

ラオスの魅力をもうひとつだけ語る。東南アジアの中で唯一、海を持たず国土の約70%が山間部を占める緑豊かな国ラオスでは、2000年代に入り観光産業に注力し、今では年間300万人以上の外国人観光客が訪れるようになったゆえ「観光客プライス」というものが存在する。だからツアーリスト向けのレストランはパリ、東京なみに髙い。

ビエンチェンの『NEW ROSE HOTEL』という一流ホテルに宿泊したが、ここいらでは月に1万円もあれば裕福な暮らしができる中、さらに裕福だと思われるここでは、チップという概念があまりないが、差し出せばとても喜ばれた。また、ナイトマーケットでは、ダーツを投げて風船を割るゲームがあったり、焼きそばが激安で売られていたりもする。

メコン川に兵士がいた。おそらく国境を無理矢理に渡ってタイに行こうとする人を止めるためだろう。かつて、貧しい国だったころに違法に国境を越えようとする人はたくさんいただろうが、今はそんなことはない。

ラオスは発展途上だが、立派にインフラが進んでいる。頭がいい人は、ここに住んでTシャツや短パンなどを大量に買い込んで日本に輸出しているようだ。なにしろ月1万円で暮らせる国。僕らの年では、月に年金が6万円前後という計算だから、ここでは36万円の暮らしが月にできる計算になる。ここで暮らすのも悪くない。もちろん愛する女房が納得すればの話だが。

この旅の最中に、「メコン川で待つ」などとハッカーらしき人から居場所を特定するメールが多数入ってきた。これはこれですべては警察に提出してあるが、弁護士も今入っており、捜査が始まる寸前だ、とだけ報告しておこう。いずれにしろ、僕はたくさん武器をもっている。それは、ある複数の「組織」なのだが、いずれここで明らかにしていこう。

また、タイでは不思議な経験をいくつもしたが、それもまた次回に展開することにする。いずれにしても、ラオスは物価が日本の6分の1、タイは日本の3分の1。月に6万円の年金でも十分に暮らせる。老後を贅沢に暮らしたいむきは、「移住」を検討してみてもいいのではないだろうか。

 

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』

脱原発は多数派だ!『NO NUKES voice』11号

昨日、水道橋で古い友人M氏と会った。彼は日本人だが、台湾マフィア「竹聯幇(ジュリェンパン)」と合流して縦横無尽に凌ぎをしている。

「台湾の企業なら、いくらでも恐喝して金がとれるよ」というM氏だが、別に台湾の企業に恨みなどない。

この友人がマフィア入りするとき「立ち会ってくれ」と言われて断ると、幹部に土下座するような「儀式」の写真を見せられて「お前が困ったらいつでも敵の玉をとってやる」と、眉毛のない顔で笑った。

そのような台湾マフィアは今、一見すると堅気になり、輸入商や下着メーカーなどに化けてはいるが、一皮むけば「恐喝屋」だ。

それも表向きは警察に一掃されて「きれいな街」がそこにあるという。笑わせてはいけない。台北の街は売春婦だらけだし、麻薬の売人もはびこっている。表に出てこないだけだ。そんなわけでそのような事情を理解しつつも、この「表向きマフィアが消えた街」の観光を楽しんだ。

ある街で、ランタン、つまり「天灯」を飛ばす風景を見た。「天灯」とは、諸葛孔明が発明したとされる熱気球の一種で、平陽で孔明の軍が司馬仲達の軍に包囲された際に、天灯によって救援を要請したと言われているのだ。

台北は特定の地域でいつでもこの「天灯」を飛ばすことができる。観光客たちは「試験に合格しますように」と願いごとを書いていた。

さらに台湾ではさわかやな光景を見た。

十分(シーフェン)駅と大華(ダーファー)駅の間にあり、台湾のナイアガラとも呼ばれている「十分瀑布(シーフェン ブーブー)」では、実にマイナスイオンあふれる空気に触れてリフレッシュした。基隆河の上流に位置する多くの滝の内の1つであり、平渓線沿線の名所として知られており、多くの観光客が訪れている。

このとき、僕たち観光&取材は「ある尾行」に気がついた。その詳細は、後に譲ることにしよう。

ところで、例の緊迫感のない「民進党」代表の女性のみならず「国会議員」の二重国籍がつぎつぎと発覚して問題になっている。一度、「二重国籍」の人を洗い出して、どちらかの国籍に統一しないと税金を重く科すようなことをしないと、本当に誰がどんな意図で入国してくるかわかったものではない。

知らず知らずのうちに、沖縄の土地が中国人に浸食されている。買いたたかれているのだ。さらに、東北地方の水も中国人が買い占めている。日本の企業のITのパテントも台湾の企業が買い始めたと、東芝の人に聞いた。うかうかしていると「全員、上司が中国人」という事態になりかねない。

台湾を歩くと「美しい国」だが、日本の猿まねをしているのに気がつく。商品の陳列も、電気製品の売り方もまたしかり。アパレルもまたしかりだ。しかも、南国ゆえに朝の11時からしか店が開かない。怠けものこと、この上ない。私は怠け者は大嫌いだ。いまだに寝ないで仕事している身としては、最低の人種と見る。

そのように台湾人は話にならないが、台湾は美しい。ボーッとするにはいい場所だろう。知的な街はまず発見できないが、老後にはおすすめだ。

機会があれば、最近知り合った「台湾で企業を恐喝している半グレ」を紹介しよう。元関東連合だが、こいつこそ頭脳だけで稼ぐナイスガイだ。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』

 

日本最後の遊郭飛田新地、そこに暮らす人びと、数奇な歴史、新地開業マニュアルを取材した渾身の関西新地街完全ガイド!

山口組弘道会系右翼の総長が言う。
「台湾はマフィアが一掃された。もうしのぎにはならないから我らも組む相手を変えなくてはならない」

そして彼らの足はミャンマーに向いた。しのぎにならないなら、僕も取材の対象としては追跡しない。したがって台湾への興味はすでに僕の中にはない。

だが、それでも日本の爪痕が残る台北の旧市街は、昭和の街並みを彷彿させてノスタルジアが漂う。蒋介石も「国を建て直した御仁」か「侵略者か」という評価が分かれているようだが、国を建て直した男として僕は見ている。

ただし、このところ台湾で起きるテロを見てみると、どうやらアメリカが仕掛けているような気もしている。つまり、台湾が政治的に中国じゃなくてアメリカを頼るような工作が行われているのではないか、という点だ。

前出のヤクザ系右翼団体総長はこう言う。
「今の政府が日本寄りである限り、俺らも台湾人を攻撃しない」と。

すると裏を返せば、台湾が中国寄りになり、先鋭化して領土問題などが起きると、軒並み「在日の台湾人狩り」を始めるのだという。

具体的には、右翼団体総長のターゲットはとり急ぎ、民進党の蓮舫代表となったようだ。

総裁は言う。
「あいつは本当は中国国籍だよ。だから国籍を聞かれても玉虫色の回答しかできないんだ」

そして総裁は、民進党の本部に街宣をかける予定だという。

いっぽうで僕は、台湾のどの企業だろうと揺さぶりをかけられる中国高官を、あるジャーナリストの紹介でしてもらった。

彼によると「台湾は崩壊に向かっている。アメリカ寄りの考え方をする連中を中国サイドに与したい人たちの間でつな引きが行われ、その隙間にイスラム教徒が入り込んで混乱を招くだろう」
 
こんな危険な国には二度とは行きたくない。ただ、非常に評価が高い台湾の屋台にもう二度と行かないかと思うと少し淋しい気もしないでもないが、こと自分のまわりを見回す限り、台湾人は詐欺師ばっかりなので、ややホッとする今日この頃だ。

ただ、台湾の旧市街は、日本の記憶があり、懐かしかった。もはや日本の猿まねで喰っているこの国にコンクリート建築を教えたのは日本であるが、台湾人たちが感謝すらしていないのは、かの野党代表の態度を見れば火を見るよりもなんとやらである。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

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