長崎・平戸「天気見の男」山崎家の忘れられた系譜を探る旅

昨年の秋、長崎の平戸市を巡る旅に出た。
平戸湾は、こじんまりしており、湾を囲む陸地は1日でまわることのできる観光スポットが集中している。具体的には「平戸オランダ商館」(復元されている)や「平戸城」や「松浦史料博物館」や「平戸ザビエル記念協会」などだ。

まちがいなく、平戸はある時期、「FIRAND」と外国人に呼ばれ、日本全体の貿易の中心だった。その端緒は1609年、オランダから船が2隻やってきたことだ。当時の松浦藩主の松浦隆信は歓迎し、幕府にかけあいオランダ人に商館建設の許可を与えた。

1611年にオランダ商館は住まいと倉庫を新築し、1616年には倉庫と防波堤を作り、さらに1618年の大増築で、まるで要塞から敵を守る「ルパン三世カリオストロの城」ばりの塀が築かれた。

今もオランダ堀やオランダ井戸、そして民家とオランダ倉庫の境界線を表す壁やオランダ埠頭らが残っている。

今、復元されているオランダ商館は、倉庫なのだが、これはもともとは1639年にできた巨大な石造りの倉庫であり、日本で初めての洋風建築物だ。ここには、約2万個もの砂岩切石や48センチ角の大きさの柱などが使われて、外観や造りはオランダの建築物に酷似している。

まあ、観光ガイド風に紹介するとこうなるが、今、このあたりでは残念かな、地元の暴走族が激増している。僕が肉眼で見ただけでも、夜深くに爆音でかっとばす暴走族風バイクは、数台も見かけた。地元の飲食店のスタッフは言う。
「夜になると、くしゃみすらも街中で響きそうなほど静かなこの街で爆音が響いていて、眠れない人が急増しているのは残念ですね」


ここらへんの名物は平戸牛、あごだしラーメン、そして魚ならなんでもうまい。よく、長崎の人が「東京の寿司屋には行かない」と言っていたが、納得できる。


さて、僕自身は、この平戸にやってきた目的は、ここの平戸に「江戸時代、日本で初めての天気予報をしていた山崎氏がいた」ということだ。この平戸にある遠見公園という場所で、江戸時代に、「天気見」、つまり山のてっぺんから雲を見て天気予測をしていたという記録が残っているという。

特別に気象機器がない文政二年(1819)、大船頭だった山崎家では、約200年にわたる間、孫三代にわたって「天気記録」が残された。その記録とは「日の出るとき、赤きは風、黒きは雨、青白きは風雨としるべき」という具合に、今の天気予報の先駆けともいえるものだ。

この「天気見の男」の記録について、僕はいつか小説に書き記そうと思う。いつか、どこかでこの男の記録に諸兄たちはお目にかかるであろう。

ゴールデンウィークに行く場所がない諸兄はぶらりと出かけてみてはいかがだろうか。歴史上では重要ながら、忘れられた「時代の顔」がそこにある。

(小林俊之)

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!
抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

私の若禿げ克服法──ハゲは隠さず刈り込むことで世界が変わる!

女性が化粧をはじめとした「外観」に注意を払うのは自然な身だしなみとされる。女性だけでなく、男性も近年は「スルスル肌」が好まれるようで、体毛やヒゲの脱毛までを請け負う業界が結構繁盛しているようだ。「へー」と間抜けに感嘆するまでだが、そこまで「脱毛」っていいもんなんだろうか。

◆心理的負荷を与える「脱毛現象」01──抗がん剤投与による「脱毛」現象

人為的に「脱毛」をしなくとも、深刻な心理的負荷を与える「脱毛現象」がある。1つは男性(一部女性)の「ハゲ」であり、他方は抗がん剤投与による「脱毛」だ。

抗がん剤投与による「脱毛」現象が、実は抗がん剤投与終了後に何年も継続しており、それに悩んでいる人が多数いることが最近の調査で判明している。数年たっても抗がん剤投与以前の半分も発毛が見られず、それに悩んでいる人の数が相当数に上るという。

年齢にもよるが、若年癌が増加傾向にある中で、抗がん剤投与後の女性が頭髪の様子を気にするのは無理もないだろう。だから、がんに限らず薬剤の副作用によって脱毛を強いられた人には「かつら」や「ウイッグ」が実生活の上で有効だと思う。そのような方々はただでさえ、体の調子が思わしくないのだから、少しでも心理的負担を減らし日常生活での気がかりを軽減されるのが賢い選択だと思う(もちろん、本人がそう考えれば、だが)。

◆心理的負荷を与える「脱毛現象」02──男性の「若ハゲ」

一方同様の現象でも男性の「ハゲ」の場合は少し事情が異なる。これは自分自身が経験したことなので「その寂しさ」をしっかりと噛みしめながら回顧できる。「若ハゲ」はたしかに強い心理的ストレスをもたらす。私の場合、もとは「こんなに太くてクセのある髪の毛なんか、減ればいいのに」と思うほどの剛毛かつくせ毛で、毎朝頭髪を整えるのに相当苦労していた。

「願いは叶った」のかどうか知らないけれども、まだ20を少し超えた頃、額の生え際が少し後退し出しているのに気が付いた。髪の毛全体も以前ほどの剛毛ではなくなっていて、鏡を2枚用いて頭のてっぺんを見ていると、頂上部分に生え方の薄い部分がある。

この時は、ショックだった。まだ20を少し超えたばかりで「もうハゲかい」と、何ともいえない寂しさを感じたことを今でも記憶している。ご経験のある読者の方々にはお分かりいただけようが、「ハゲ」を発見した時のショックは、「外見がカッコ悪くなる」という理由もあろうが、私の場合「ハゲ=老い」の象徴という概念があったので、この年でもう「老化」が始まったのかというショックが大きかった。外見を気にするような細かな感性を持ち合わせていない私は「ハゲ」て毛髪が薄くなった自分の姿よりも、既に老化に向かっている自分の身体に激しく動揺したものだ。

とはいえ、これといって対策は講じなかった。自然に抜けるものは仕方ない。当時でも「脱毛予防剤」や、「育毛を促す」怪しい器具は販売されていたし、アデランスをはじめとする業者の広告は派手に展開されてはいたが、それらへの関心は一度も湧いたことはなかった。

◆自然の摂理にもかかわらず、露骨に感じた「ハゲ差別」

でも、「ハゲ差別」は露骨に感じた。人の体のありようについて、ことに女性の風貌についてコメントすれば、それが否定的な内容であれ、賞賛する内容であれ「女性差別だ」とする極端にも思えるほどの「フェミニズムコード」が存在するが、男性の「ハゲ」について、直接ではなくとも、コソコソ「あの人、最近薄くなったわね、かわいそうに」と陰口を叩かれることは、深刻に当人を傷つけるのだがいまだに「ハゲ差別」についての、真剣な議論は見当たらない。

いや、「ハゲ」程度で真剣な「対応コード」など作る必要がある!などと私は思っていないけれども、気の弱い男性たちはご経験のない方々が考えられないほど「ハゲ」を悩み、その解決に膨大な投資をしている。

厚労省認可の「育毛剤」が発売されてかなり時間がたつが、あれはどれほど効果があるのだろうか。私は試したことはないので判らない(正直に言えば興味もない)。育毛剤を家で頭に振りかけるくらいなら、職場や周りの人たちに気が付かれることはないだろうが、最大の悲劇は「分かりやすいかつら」を使用してしまったケースだ。

◆出来の悪いかつらほど残酷なものはない……

自分が若年性の「ハゲ」を経験したためか、私は男性の「かつら」利用者はいとも簡単に見出すことが出来る。「あーあ高いお金を払って……」と同情を禁じ得ないのだけれども、出来の悪いかつらほど残酷なものはない。「このひと生え際見えないわ。高い金払ってかつら買ったんだろうなー。外したらこんな感じでハゲているのかなー」と意地悪い想像が勝手に膨らむ。

また、各種「増毛法」商法もいかがわしいことこの上ない。抜け毛が多くなって薄くなった頭髪の対処として、残っている1本1本の髪の毛に、根元から3本の人口毛を結びつける増毛法がある。これは残っている髪の毛が抜けない限りは1本が4本になるのでボリューム感を維持できるが、もとの1本が抜けた時は一気に4本が抜けることになり、普通の脱毛よりも頭髪減少がさらに顕著に現れる。そうなればまた仕方なく残り少ない毛髪にまたしても3本の人口毛を結びつける施術を繰り返さなければならない。でも自然毛はどんどん抜けてゆくから、いずれはこの対処法は効果を失ってします。

ああ、気の毒な我が「ハゲ」被害者よ!気に病む人たちは何百万円も出費している。

◆私の妙案──禿げを隠さず刈り込めば世界は変わる!

私ははじめこそ、気が滅入ったが、ある時、妙案を思いついた。薄毛は伸ばしてハゲ部分を隠そうとすると、とても目立つ。逆に短く髪の毛を刈り込むと思いの外目立たない。2ミリから5ミリほどの超短髪に散髪屋で刈り込んでもらうと、周囲から見た印象もほとんど「ハゲ」ではなくなる。頭髪を洗う手間も省ける。

前述のように抗がん剤投与などにより、脱毛が余儀なくされている人を除き、「ハゲ」た男性諸君! 一度超短髪をお試しあれ。かつらや、いかがわしい増毛法に吸い上げられる際限ない経費が一瞬で止められる。さっぱりして、気分が変わること間違いない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7
タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!

原稿を「叩く」──「叩く」ことは「書く」行為か? 

読者の皆さんにお読みいただいている駄文は、私が「書いた」原稿のはずである。完成した原稿はそれが書籍であれ、PC上の文章であれ文字羅列でありその意味において読む側からすればさほど大きな違いはない(私自身も感じない)けれども、「書いている」はずの私はしばらく前からいたく違和感がある。

ご想像の通り私はこの原稿をPCで「書いている」。しかし頭の中では文章を構成する頭脳を使ってはいるが、手の動作はボールペンを握って紙に文字をしたためているのでなければ、鉛筆で原稿用紙に鉛の黒色で意思を表しているのでもない。私の手はひたすらPCのキーボードを「叩いて」いる。

なるほど下書きを終えてプリントアウトしてみれば、それは紙の上に印字となって現れていて「原稿を書いた」ような気分に少しはなる。が次に原稿を「叩き」始めるとまた違和感が湧いてくる。もっともそんなことを気にしていてはこの時代全く仕事にならず、直ぐにお払い箱になることは必定なのだけれども、「書く」といいながら「叩いて」いる手の動きとの不整合に対する気持ち悪さのようなものが年々つのって来る。

これが携帯電話だと「叩く」ではなくボタンを「押す」となる。モバイルPCを持っていない私は取材先から荒っぽい原稿を携帯電話で編集者へ送ることがある。指先の不器用さと不慣れ、さらには年々進行する老眼の為に小さな画面の携帯電話をのぞき込んでボタンを「押し」ながらの作文作業は煩わしいものの、予想変換機能のお蔭で少々の原稿であればさほどの苦労なく作文することが出来る。

◆「書き殴って」いた昔より「書いている」意識が希薄になってきた

日々「書き殴って」いたのは学生時代であった。発表するあてもなく誰に聞いてもらえるはずもなく、聞いてほしいとすら思わない内面の発露をノートに「書き殴って」いた。愛用していたボールペンは指に馴染み心地よくノートの上を滑ってくれた。悶々としながら夜明けまでノートに向かい続け、指が痛くなることを気にもせず「書き殴って」いた。

その内容は忘れたし、どうでもよい。問題はあの時の「書き殴って」いたという体感が、今でも私には残っているが、逆に人様に価値もない文章をお読み頂いている今日、私には「書いている」という意識が希薄になってきていることだ。

私はひたすら「叩いて」いる。取り上げるテーマにより自分の気持ちの入り具合が異なるからキーボードを「叩く」スピードなり、個々のボタンを「叩く」圧力に多少の違いがあるのは自覚する。しかしどう考えてもこれは「書く」行為ではないのではないか、という思いが確信近く高まってきている。

◆PC文法で作文する習慣に違和感を覚えなくなっていく

例えばPC文法とでも呼ぶべき新しい文法がある。正式とされる日本語文法では段落を変える時には一文字空けて次の文章を書き始めるが、PC文法においては「一文字開け」ではなく文章と文章の間に1列の間を取るのが一般化してる。まだ分析されてすらいない数多の光線が際限なく眼球に飛び込んでくるPC画面にあっては、たしかにこの体裁の方が読みやすい。しかし正式な文法からすれば、明らかに逸脱した形態だ。小論文の試験でこの体裁の文章を書けば、それだけで大きな減点を食らうことは間違いない。

しかしそう難じながらもPCで作文をする際は私自身もPC文法で作文する習慣に違和感を覚えなくなってきている。

思えば紙に向かって書いている時も、対象がノートであるか、原稿用紙であるか、便箋であるかによって私の文体と筆圧は自然な調整が働いていた。それがPCを「叩く」ようになり、おしなべて抑揚のないものになりつつあるのではないかとの不安がある。

このことをある人に話したら「じゃあ原稿用紙に書いたらどうだ」とアドバイスを受けたことがある。たしかに試してみる価値がありそうだけれども、差し当たり迫りつつあるあれこれを前にしてPCを「叩く」前に、一度「書く」実践は未だに果たせていない。最大の課題は「叩く」ことにより出現した「原稿」がどんどん内容の薄いものになりつつあるのではないかという実感と懸念である。もちろんそこには普遍的な身体と技術の問題だけではなく、私自身の不勉強という根源的な欠落があることも承知してはいる。

「書く」代わりに「叩く」ことに象徴されるように、最新テクノロジーに依拠した生活では指の使い方が極めて単純化されるのと反比例に出来上がった作品はそれなりの体をなしているというパラドクスが支配する。

◆手を使わなければ、体を使わなければ、という不安感が増してくる

手を使わなければ、体を使わなければとの不安感が増してくる。だからリンゴを剥いてみる。どうやらまだ大丈夫そうだ。玉ねぎはどうだろう。皮をむき千切り(スライス)を試みる。トントントンとリズミカルに刻めるだろうか。どうやらまだ可動域はそれほど減ぜられてはいないようだ。大根の桂剥きを試す。ちょっと怪しい。以前よりはぎとる皮の幅が厚くなっている。皮では満足できず大根をどんどん剥いてゆく。

自動車に乗る。ドアは鍵を開けずともノブを握るだけで解錠される。エンジン始動は鍵を差し込み右側に廻し、アクセルを踏みこむのではない。電気機器のようにスイッチを押せば発動する。そうそうこの車種にあってはエンジン始動の際はブレーキを踏むのが基本だ。パーキングモードにすればどれほどアクセルを踏んでもエンジンに気化したガソリンは注がれない。安全で燃費効率が高いことは疑いがない。

自動車なんて最初から理解を超えた複雑機器でそれを操作するのに両手両足を使っていたのが片足を使うだけになった、と言えばそれまでだ。

でも怪しい。確実に自分が怪しい。「叩いている」自分と「鍵を差し込みアクセルの踏込みなし」に発動する自動車を操作する自分と「書いている」自分。この差は埋められるのだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎ネット爆弾に気をつけろ!──知らぬ間に自分が「真っ裸」にされているSNSの世界
◎2016年のジャパン・カオス──2026年正月に記された日系被曝難民家族の回想記
◎菅直人VS安倍晋三裁判──請求棄却判決の不当とねじれ過ぎた真実

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!
抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

長崎平戸「御部屋坂」で増え続けるネコたちと隠れキリシタン弾圧の歴史

長崎県平戸市大久保町の、崎方公園。この公園の中に、平戸港が見渡せる小高い山の中腹にあるフランシスコ・ザビエル記念碑がたたずむ。近くには「平戸最初の教会堂跡」と記された碑や、ザビエルが滞在した木村氏の居跡とされる碑がある。このフランシスコ・ザビエル記念碑へと登る途中にある通称「御部屋坂」の周辺に、昨年の夏ごろからネコがやたらと集まってくるようになった。

「日中というか夕方までは、100匹以上のネコがゴロゴロ寝ていたり、ネコどうしが遊んでいたりしているのですが。夜になると数十匹も集団になって、フランシスコ・ザビエル記念碑の方面に登っていく。いったい、なんのために集まって『行進』を始めるのかわかりません」(地元の飲食店スタッフ)

そう、このあたりは隠れキリシタンが弾圧された傷痕がそこかしこに残る。ザビエルがネコ好きだったという記録は発見されていない。いったい、このエリアとネコがどう因縁づけられるのか。これには、1614年に、徳川家康が発布した「キリスト教禁止令」による迫害が関連している。

1550年8月、宣教師のフランシスコ・ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。これによりキリシタンが平戸に広まった。

しかし、1614年の1月、徳川家康はキリシタンの禁令を発布、長さ行きからも宣教師がすべて追放された。平戸においてキリシタンを敵視していた松浦藩の平戸藩主、松浦鎮信(法印)は5月に亡くなるものの、跡継ぎの藩主、松浦隆信は幕命によって長崎の教会堂を焼却し、キリシタン信者を捕らえています。

「このとき、地元の人が言うには、このザビエル祈念碑がある付近の家屋には「信者の隠れ廃墟」がたくさん立っていた。隠れキリシタンは、ごく小さな集落単位で秘密組織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたりしていたとされる。

「1635年2月、幕府のキリシタン弾圧が進む中、通称『平戸の大殉教』で27名が殉教するのですが、隠れキリシタンを弾圧から守った、平戸の強信者の家のひとつに、未亡人が捨てネコを数十匹も飼っている通称『ネコ屋敷』がありました。記録はもうないそうですが、言い伝えによるとこの未亡人は弾圧を受けて御部屋坂を登って崎方公園に向かう道を走って逃げる途中で、殴る蹴るの拷問を受けて、ついでにネコも焼き払われたそうです。そのときの因縁でネコが集まっているのかもしれません」(同)

1587年7月24日(天正15年6月19日)に発令された「バテレン追放令」では、神父たちは平戸に集まり、対策を練ったという。隠れキリシタンとネコの異常な増殖と、深夜にザビエル祈念碑に向かう「ネコの行進」には、キリシタン弾圧の歴史が凝縮されている。

平戸観光協会のスタッフは言う。
「確かにネコはあのあたり、増えすぎて問題になっています。地元の人には『ネコを捨てないでください』と呼びかけているので、平戸市の人が捨てているとは考えにくい。夜の行進について、私は見たことはありません」

さて、この「ネコが行進する御部屋坂」が伝える教訓とはなんだろうか。

(伊東北斗)

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』7日発売!

何度死んでも本当は死なない「笑点」歌丸師匠の真顔話が遺言のようで気にかかる

落語が大好きなわたしですが、最近気になるのは何といっても歌丸師匠の体調です。「笑点」大喜利の進行も病欠がしょっちゅうですし、腸閉塞や床ずれにもなっていらしゃるようです。

それでも笑点に出演した時は、天敵、円楽から「まだ生きてる!」、「歌丸死んだ!」ネタをこれでもかと投げかけられます。それを見て笑ってるんですから、わたしも残酷なもんだなーと反省したりします。でも、聞いたところによると円楽と歌丸師匠の間ではこの「自虐ネタ」を推奨しよう!という協定がかなり前に結ばれていたそうです。

『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』(2010年9月小学館)

その歌丸師匠、10月18日には東京新宿で行われたイベントに車いすで登場されたそうです。体調は?と聞かれたら「ダメです」と即答されて、笑いをとっていました。さすが噺家ですね。

そして10月19日の朝日新聞にはこんな真面目な話も出ていました。

今や、芸歴60年以上。落語芸術協会の会長にもなった歌丸さんが「だいぶ後で気がついた」ことがある。「人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや」。涙や怒りはあっても、「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所」と感じている。

今の日本の政治家は「怒り顔」や「ぼやき顔」が目立ち、「油断できない」と話す歌丸さん。最近は、メディアで自身の戦争経験を語る。「今、日本は色んなことでもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字もしてもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない」
(「涙や怒りはあっても笑いがない、それが戦争 桂歌丸さん」2015年10月19日付朝日新聞)

◆円楽の「歌丸殺し」ネタは残酷なようで愛情に満ちている

本当は歌丸師匠、こんな話したくはないんだと思います。だって「人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや」とご本人がおっしゃっているじゃないですか。笑わせたいはずですよ。

一方「歌丸殺し」常習犯の円楽は、短いやり取りの中にもにも冴えを見せますね。昔ビートタケシが「権力批判で笑いがとれるか」と開き直ったことがありましたけど、権力批判だって、頭脳と芸があれば笑いの対象にできることがタケシには判らなかったのでしょうね。タケシは円楽の足元にも及びません。

円楽の「歌丸殺し」ネタは残酷なようで愛情に満ちている、だから見ている人間も笑えるんです。だってもう本当に死にそうな人に向かって「死ね」っていって笑わせるのは、愛情と冴えがなければ無理ですよ。

それに対してタケシは非情というか、この人の笑いは対象を貶めるのが一つのパターンですね。自分が馬鹿やる芸もできますけど。基本権威主義者なんですよね。タケシは。だから映画の監督なんかをやりたがる。

貶める「笑い」をタケシが確立して、世間も肯定しちゃってから、お笑い芸人の質が落ちましたね。「とんねるず」や「ダウンタウン」を「新しいタイプの芸人だ」なんて、とんちんかんな評価がありましたけど、こいつらの芸は基本「貶め」ですよね。タケシが敷いた路線の上を安全運転しているだけ。

悪いけどわたし「とんねるず」と「ダウンタウン」を見て、一度も笑えたことがないんですよ。いや本当に(「中川家」の方が数段面白いとおもいます)。「ダウンタウン」の松本が、クソ偉そうに「遺言」を出版した時に立ち読みして、やっぱりこいつは芸人じゃない。わかっていないなと思いました。「遺言」書くほどの仕事してもいないくせに一流気取りの松本。笑えるのはその己知らずのアホさ加減だけです。

さんまなんか最低ですね。今年は本物のさんまも不漁らしいですけど、この男自分で笑うしか芸がない。あんな低俗な笑い方につられた大竹しのぶには落胆したものでしたが、こいつもわたしが死ぬまでに1度くらい面白い芸をして欲しいものです。

さて、歌丸師匠の真面目なお話しが、ちょっと気にかかるんです。遺言のように聞こえてしまうのはわたしだけでしょうか。歌丸師匠は何回死んでも本当には死なないんです。

面白くもない「お笑い芸人」を張り倒す勢いの歌丸師匠の話にはジーンとさせられました。

(伊藤太郎)

するな戦争!止めろ再稼働!『NO NUKES voice vol.5』創刊1周年記念特別号!

ネット上の「猫優位現象」──なぜツイッターユーザーには猫好きが多いのか?

犬と猫を比べると実際に飼育されている数は犬が猫を圧倒している。でもツイッターの画面は猫であふれている。なぜなのだろうか。猫の画像だけでなく、「ねこ」をハンドルネームの一部に使っている方も多い。試しに新たなアカウントで「neko」が使えるものを探してみても簡潔な名前で使用可能なものはまず見当たらない。

「猫」がお好きな方は、純粋な「猫」愛玩家からかなり社会的な発言をなさる方々まで幅広く、「反原発」、「反戦争」を主張される方の中にも猫画像を時に取り入れたり、猫好きの方々が多い。


◎[参考動画]人が入っているような猫

◆ネット上で平和の象徴は「鳩」じゃなくて「猫」!

何故かしら「鳩」は平和の象徴のように言われているが、今日Twitterの中では「猫」こそが平和と癒しの象徴と言っても過言ではないだろう。

Twitterに限らずネット上では「猫」が「犬」を圧倒しているようだ。Googleで「犬」を検索すると88,000,000件がヒットするが「猫」で検索すると187,000,000件が表示される。「猫」は「犬」に2倍以上の差をつけてネット上を席巻していることになる。ちなみに各国語で「犬」と「猫」を検索エンジンにかけた際のヒット数を下記に示す。

中国(百度) ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?犬=39,400,000   ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?猫=19,500,000
韓国(NAVER) ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?犬=165,000,000   ? ? ? ? ? ? ? ? ?猫=11,900,000
イタリア(Google)(yahoo) ? ? ? ? ? ? ? ? ? 犬=700,000,000   ? ? ? ? ? ? ? ? ?猫=34,500,000
英語(Google)(yahoo) ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?犬=1,300,000,000   ? ? ? ? ? ? ? ?猫=1,970,000,000

このように言語により傾向は様々なので世界的にネット上で「猫」が「犬」を圧倒しているということではないようだ。それにしても上記の数字と比較で日本語使用者及び日本のネット上では「猫支配」が顕著だといえよう。このような数字を示した国は他にない(ここには掲載しなかったが仏語では「犬」=chien、「猫」=chatであるが、chat内にはいわゆる「おしゃべり」を含むサイトが多く見受けられたことから比較対象としては妥当ではないと考え外した。ちなみに仏語の犬=16,100,000で、猫=439,000,000である)。

ネット上の「猫優位現象」について私が調べたところ、「これだ!」と言う明確な分析はまだ見つかっていない。ちなみに中国や韓国では猫を愛玩用として飼うことはあるが日本程一般的ではないことから、「犬」優位の説明がつくだろう。イタリアと英語圏の現象にを解説するだけの知識を私は持ち合わせない。

Twitterを私は利用していないけれども、頻繁に利用している知人に聞くとやはり「猫」関連のハンドルネームや猫の画像、動画は頻繁に目にするという見解で一致している。情報技術の先端の中で表出してきた日本独自の「猫優位現象」。これを解読すれば本が1冊書けるかもしれない。


◎[参考動画]おやつちょうだい!可愛い猫のおねだり

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎就職難の弁護士を貸付金強要で飼い殺すボス弁事務所「悪のからくり」
◎「医薬分業」や「お薬手帳」で利を得ている者は誰なのか?
◎病院経営の闇──検査や注射の回数が多い開業医は「やぶ医者」と疑え!
◎私が出会った「身近な名医」高木俊介医師は精神科在宅治療のパイオニア

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』10月号発売中!

[総力特集]安倍晋三の核心!
体調悪化、原発回帰、カルト宗教、対米追従、芸能人脈、癒着企業の深層と真相

江戸川乱歩賞──池井戸潤氏はなぜ呉勝浩氏受賞に異を唱えたのか?

日本推理作家協会は5月18日、第61回「江戸川乱歩賞」の選考結果を発表。受賞作に檎克比朗さんの『道徳の時間』を選出した。選考委員は有栖川有栖さん、池井戸潤さん、石田衣良さん、今野敏さん、辻村深月さんが務めていた。なお、檎克比朗氏は、デビューにあたり作家名を呉勝浩として同作をリリースする。

同賞は1945年、探偵小説を奨励する目的で、江戸川乱歩の探偵作家クラブへの寄付金を基に創設。歴代受賞者に、西村京太郎さん(第11回『天使の傷痕』)、斎藤栄さん(第12回『殺人の棋譜』)、東野圭吾さん(第31回『放課後』)、池井戸潤さん(第44回『果つる底なき』)などが輝いている。
先輩が誘ってくれるので、初めて、この授賞式に参加できる運びとなった。

◆授賞式会場で浮かび上がった人気作家の栄枯盛衰

9月10日、午後6時から帝国ホテルの「富士の間」で行われた「第61回江戸川乱歩賞授賞式」では、人気作家の栄枯盛衰がはっきりと浮かび上がっていた。「道徳の時間」で受賞した呉勝浩氏は「選んでいただいた先生がた、ありがとうございます。もうこれで江戸川乱歩賞を受賞することはないかと思うと、残念です」と殊勝なコメントを残し、選考委員を代表して、登壇し、呉氏を押していた辻村美月氏が「妊娠しています」とコメントすると場内は喝采が起き、ほんわかしたムードが漂った。

「道徳の時間」で江戸川乱歩賞を受賞した呉勝浩氏を囲んで

ひととおり、式典が終わり、檀上に並んでいた選考委員のベテラン作家たちもパーティの輪の中に入っていったが、もはや時代をリードしている感がある池井戸潤氏(選考委員・第44回江戸川乱歩賞を受賞)を、担当編集者や太鼓持ちのような出版コーディネーターらが囲いこみ「まったくほかの人が入ってこれない」スクラムを組む始末。
「あれじゃあ名刺交換すらできないよ。せっかくインタビューを申し込める布石を打とうと思って挨拶しようと思っていたのに」(週刊誌編集者)

それもそのはずで、「半沢直樹」シリーズ以来の池井戸潤作品の映像化対象としての人気は続いている。企業テロを発掘とする金融ミステリー『株価暴落』(文春文庫)がWOWOWで、コミカルな設定で政界を題材にした『民王』(文春文庫)がテレビ朝日系列でドラマ化。さらに日本テレビ系列では、銀行の不祥事追及をエンタテイメントに仕上げて好評だった『花咲舞が黙っていない』の第二シリーズが放映された。テレビ局に企画力がないのか、脚本化の質が落ちたのか、今や池井戸氏抜きでテレビドラマが成り立たないほどなのだ。
「正直、池井戸氏にゴマをすりたいテレビ制作会社のプロデューサーも何人かもぐりこんでいたが、まったく話かける隙間すらなかったようですね」(脚本家)

それにしても同じ選考委員をやった作家でも、石田衣良氏や有栖川有栖氏などの周囲には、なかなか人が寄ってこないのも栄枯盛衰を感じさせた。
「石田さんも有栖川さんもいい作品を出しているが、映像化されないと、作家は、もうどうしようもないでしょう。今はテレビドラマや映画化されてなんぼ、という評価ですから。今野敏氏が日本推理作家協会の会長になったのも、小説が多数、映像化されて人気を博している面は否定できません」(推理作家)

◆「映像にしやすい作品が受ける時代」に迎合する危険を指摘する池井戸潤氏の真意

そしてそのような映像化される作品が受ける時代において、受賞した呉氏の「道徳の時間」は大阪芸術大学の映像学科出身であり、物語は小学校で公開殺人をした事件が冤罪かどうか、ドキュメンタリーを撮るカメラマンの視点で語られる。
「池井戸氏は、呉氏の受賞に反対していたと公言しています。それは『映像にしやすい作品が受ける時代』に迎合すると危険だと主張しているような気がします」(同)

池井戸氏は選評でこう書く。
『他の選考委員からも指摘があったことだが、文章がよくない。大げさな描写は鼻につくし、誰が話しているかわからない会話にも苛々させられる。さらに、最後に語られる動機に至っては、まったくバカバカしい限りで言葉もない。だが選考会でもっとも問題になったのは主要登場人物の背景である。ここでは詳しく書かないが、これは決して看過できない部分であり、さらにこの小説に通底するキモの部分である。』

しかし、パーティに来ていた脚本家は言う。
「とはいっても、映像化しやすい作品を書く作家が登場すると、池井戸先生自身は困るわけで、本能的にライバルをつぶしたかったのかもね」

太鼓持ちのような各出版社の編集者に囲まれていた池井戸氏は、談笑していたが、記者には、心の底からの笑顔に見えなかった。

会場で出版関係者に囲まれぱなっしの池井戸潤氏(右から二人目)

(鈴木雅久)

◎付録つきファッション雑誌の覇者、宝島社のビジネスにかげり?
◎募集して「放置」の竹書房新人賞──日本推理作家協会作家が語るその真相
◎『週刊女性』の幼稚なミス発見。週刊誌の劣化が始まる!
◎「テロの危機」煽れば増える「警備利権」と警察天下り

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』10月号発売中!

芥川賞の又吉直樹「タメ口記者騒動」“炎上”の原因は「大マスコミへの不信」

するな戦争!止めろ再稼働!『NO NUKES voice vol.5』創刊1周年記念特別号!

鬼才・インベカヲリ★のきらめく写真群の秘密と編プロ時代

ものすごい勢いで「表現者」として、かなり高みに上っていく才気あふれる撮影家として、「インベカヲリ★」を語る。その少女は僕が経営する編集プロダクションに新人社員としてやってきた。少女は、おそらく村上春樹の「1Q84」が映画になった場合、スクリーンにて『ふかえり』を演じそうなほど摩訶不思議なオーラを漂わせていた。要するに、言語も、ふるまいも、不思議なほど説明できない魅了に覆われていたのだ。

おおよそ、素直に仕事をこなし、言われた仕事は確実に処理していたし、編集者としてはライターやデザイナーに好かれていたほうだ。僕は彼女の悪口というものを聞いたことがなかったからだ。が、ある日、この少女は自分を被写体にして、『選挙は出ません』というキャッチコピーをつけたポスターを作ってきて、会社の事務所にピタリ、と貼り付けた。

インベカヲリ★「やっぱ月帰るわ、私。 」(赤々舎2013年11月)

このとき、少女は20歳。のちに、撮影家として業界を席巻することになる「インベカヲリ★」だ。

いっぽう、僕のほうはというと、経営者という立場に馴染めず、資金繰りの不調を抱えて連日、嘔吐と頭痛に耐えていた。要するにメンタル的に参っていたのだ。このとき、僕は「この少女を、編集者として抱えていていいのだろうか」という疑問に唐突にさいなまれる。自分を被写体にしてポスターを作るようなコは、「編集者」として適していない。むしろ「アーティスト」を目指していくべきだと考えた。くわえて、初めてロケに行かせたら、撮った写真が初めてにしては、あまりにも画角も光量も的確だった。たぶんレストランの外観を撮ったものだと思うが、その画角は、被写体に対する愛に充ち満ちていた。簡単に言うと、僕は彼女の写真に魅入ったのだ。

それからしばらくして、おそらくなんのプランもないまま、思いついくままに、僕は少女にほかの道に進むように説得したと思う。こんなに言葉を並べて人を説得したのは、僕にとっておそらく生まれて初めてだっただろう。ただ、僕としては少女を手元において、その才能を「編集者」のような実需に埋没させて、ひからびさせるのが怖かったのだ。

「少女」は、さまざまな賞をとり、海外でも評価されていくのだが、注目するかぎり、僕が「ほかの道を探したほうがいい」と示唆したのはショックだったようだ(それは、彼女自身のインタビュー記事で確認した)。

このとき、僕の目には、少女がサイト紹介の原稿を書き(この時代は、サイト紹介をするムックが流行していた)、行ってもさして精神的な糧にならぬ飲食店の取材をし、僕の気ままな命令を受けて銀行に行ったり、郵便局に行ったりと(いかにもつまらなさそうに)雑務をこなす生活に辟易しているように見えた。その時代を彼女が「もっとも輝いていたとき」(これもインタビューで彼女が語っていた)とするなら、僕はおおよそ人を見る目がなかったのだろう。もともと経営者になる器ではなかったのだ。

インベカヲリ★が撮る写真は、実は「生きる」ということに絶望しながら、「生きる」ことに執着している人たちの物語だ。詳しくは、ホームページを観てほしいが、彼女が「新潮45」の8月号に書いているように、インベカヲリ★は、被写体になる人たちの話をじっくり聞いてから、撮影に入ることにしているようだ。そこには、「被写体も表現者なのだ」という確個たる信念を感じることができる。時代がインベカヲリ★を呼んだのだ。そして、彼女が時代を呼んでいく。

僕が彼女に「この仕事(編集)には向いていない」と説得したのを、リストラと捉えたようで、ずいぶん苦しい思いをしたそうだ。

だが勝手なことを言えば、おそらく僕は本能的に、彼女を「いったん仕事がない状態」にした場合、なんらかの表現者となって再び世の中に出現することをうっすらと予感していたにちがいない。撮影家になるとはたぶん、1割くらいしか思っていなかったが。

彼女が会社から去り、もともと持っていたホームページに、モノクロームの写真があり、タイトルが「夏の蝶々儀式」と書かれていた。実に不思議な構図の写真だった。ただ僕そのものは「始まったな。表現者としての人生が」と思ったものだ。

機会があれば、おそらく僕は彼女のギャラリーに足を向けるだろう。

だが僕は今、表現者としてはとっくに彼女に追い抜かれている。少なくともイーブンになるまで、ギャラリー行きはお預けになりそうだ。なぜなら彼女をリストラしたのは、どう美しく弁解したとしても、ほかならぬ僕自身なのだから。

◎[HP]インベカヲリ★ http://www.inbekawori.com/

(小林俊之)

◎警察が「ぼったくり」を刑事事件化したことでヤクザのさらなる地下潜行が始まる
◎塩見孝也『革命バカ一代』で思い出したベテラン警備員『ゲンさん』たちの物語
◎「工藤會壊滅ありき」で福岡県警が強引に人権を無視し続ける邪な理由
◎ライターが撮影を担う時代の到来と、写真塾の展覧会から得る刺激

“民主主義って何だ?”7・15を忘れない「SEALDs」の闘い──独裁者を撃つ反骨の砦『紙の爆弾』!

 

『火垂るの墓』から考える──住み慣れた街に戦火が襲い、家族を失うということ

私にはこの島国での戦争体験は勿論ない。取材の関係で紛争当事国や戒厳令が敷かれた国に滞在した経験はあるが、自分が生まれた国で戦争を経験したことはない。

私の親世代は戦争中や戦争直後の生まれが多く、祖父母はいずれも戦前の生まれだった。だから戦争についての話は幼少時より度々聞かされていた。私の父母は男兄弟が多かった。叔父達は概して非政治的で、中には戦後も「皇国史観」から脱することの出来ない人もいたけれども、原爆直撃を受けた経験や、食べ物がなくとにかくひもじい思いが辛かった記憶は皆が異口同音に語ってくれた。

祖母は明治の生まれで女学校を卒業していた。当時としては「高学歴」の部類に入るだろう。祖母は私が幼少の頃から古い写真を持ち出しては「敏夫ちゃんね。戦争の時には本当に恐い思いをみんなしたのよ」と自身が「愛国婦人会」のタスキをかけた写真を見せながら私に語ってくれた。祖母の言葉はいつも穏やかだったけれども、幼少の私に向けて語られる言葉はいつも「反戦」の意気に満ちていた。家父長制が殊のほか強い封建的な家風だったので、祖母が戦争を語ってくれるのは祖父が外出中か、その場に居ない時だった。

祖父はと言えば戦争中は造船技術者だったので、徴兵を逃れることができ戦死を免れた。祖父は元気な時分には戦争を語らなかったが、晩年になり(当時は中曽根が首相だった)テレビで国会を眺めていると「このままではいずれまた戦争になるのう」と私に語り掛けてくれた。もとより左翼思想の片鱗も持ち合わせない祖父であったが「今、国会で自民党にはっきり反対できるのは共産党だけじゃのう。このままいけばまた戦争じゃのう。そうなったら敏夫、外国に逃げろ」が口癖だった。

野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』(1968年新潮文庫)

◆慣れ親しんだ地が舞台の「火垂るの墓」に号泣

野坂昭如による「火垂るの墓・アメリカひじき」を文庫で読んだのは高校時代だっただろうか。幼少時を過ごした西宮や芦屋、三ノ宮を主たる舞台とする短編小説「火垂るの墓」に私の想像は膨らんだ。慣れ親しんだ地名がこれでもかと登場し、そこで繰り広げられる悲劇は他人事とは思えなかった。祖父母と両親をはじめとした年長者から散々伝え聞いていた戦争談は、体験していないものの私にとって「原体験」と言ってよいほど血肉化していた。夜間、普段は聞かない自衛隊の飛行機が飛ぶ音を聞けば「戦争が起きたんちゃう?」と真顔で親に聞いていたほどだった。子供特有の過剰な恐がり方と言えばそうとも言えるが、今から思えばあの時代にあってもかなり異質な子供だったと思う。

1988年に「火垂るの墓」はアニメ作品化されているが、既にテレビ視聴を止めていて、情報に疎かった私がそれを知ったのは数年後の事だった。レンタルビデオ屋から借りてきた「火垂るの墓」のパッケージには野坂昭如が「アニメ恐るべし」とコメントを書いている。

ビデオ再生を始めてから私が声を押し殺し号泣し出すまで数分もかからなかったろう。阪神大震災で壊れてしまって今はないけれども、阪急三宮駅の丸い柱を目にした時、そこで主人公が息絶えるシーンから映画は始まるのだけれども、自分が見知っている、私にとっては幼少の幸せに満ちた思い場所でこれからあの「火垂るの墓」が繰り広げられると思うと胸苦しくさえあった。

果たして舞台は芦屋川の春、桜満開の場面や京阪神が焼野原になる場面へと展開してゆく。余談だが野坂は戦争中に西宮から神戸のどこかに住んだことがあり、そのため、私が幼少期を過ごした阪急今津線の仁川駅周辺の商店を描いた作品もある。その商店は私が幼少の頃まだ営業していて、個性的な薬屋のおじさんや駄菓子屋のたたずまいは野坂の描いた作品どおりであって、それを今でも忘れずに覚えている。

そういった個人的経験が複合的に重なっていることもあろうが、野坂昭如原作、高畑勲監督の手による「火垂るの墓」は私にとっては忘れることの出来ない映画作品の一つである。傑作だと思う。

◎[参考動画]『火垂るの墓』予告編(1988年)
◎[参考動画]『火垂るの墓』予告編(1988年)

◆「火垂るの墓」がテレビ放映されるのは明日8月14日で最後になるかもしれない

日本テレビ系列は毎年夏になると「スタジオジブリ」の新作が公開さえるのに合わせて「火垂るの墓」を8月に放映することがままあった。日本テレビも製作委員会に入っているので、日ごろの報道姿勢とは関係なく「そろばん勘定」がそうさせていたのだろうか。

昨年「映画部門の閉鎖」を発表したジブリは「思い出のマーニー」を2014年7月公開したが、今年の夏ジブリの新作公開はないが8月14日に「火垂るの墓」が放映されるそうだ。21日には「おもひでぽろぽろ」、28日には「平成狸合戦ぽんぽこ」と3週連続で高畑勲監督作品を流す予定だという。

ひょっとすると「火垂るの墓」がテレビで流されるのはこれが最後になるかもしれない、そんな嫌な予感がする。

私のつたない言葉では伝わらない「戦争」。それも自分の住み慣れた場所が戦争にまきこまれたら、自分の家族が戦争で亡くなったらどうなるのか……。若者にはくどい言葉を退屈に聞かせるよりも、「火垂るの墓」を観て、感じてもらう方が訴求力があるだろう。

「戦争が来るよ」、「被害に遭うのは君たちだよ」と語り掛けてソッポッを向かれるのは致し方ないのだろう。私の思いや伝達力が弱いのだ。

若者に限らず、こんな時代だから「火垂るの墓」をご覧になることをお勧めしたい。

◎[参考動画]『火垂るの墓』予告編(1988年)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎ヒロシマ70年──被爆者の「戦争責任」発言を中学校長が制止するこの国の行方
◎《6.8公判傍聴報告》やっぱり不当逮捕だった!火炎瓶テツさんら3人全員釈放!
◎廃炉は出来ない──東電廃炉責任者がNHKで語る現実を無視する「自粛」の狂気

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!

ライターが撮影を担う時代の到来と、写真塾の展覧会から得る刺激

90年代にこの出版業界へ僕は来た。だがまさかライターがカメラを持たされて、「写真も撮ってこい」と言われるような時代が来るとは、想像もしなかった。今、ライターの仕事は増えている。インタビュー相手のブッキング、場所の選定、そして撮影だ。昔はライターが撮影する素材なんて期待されていなかったが、今は写真のクオリティを求められるようにもなってきた。もはや「撮影」はライター仕事としてついででは、ない。そして僕は一眼レフを購入した。
僕の「一眼レフ」の操作歴は、2004年12月でいったんストップしている。

あるインタビューのときに僕の愛すべき名機「ペンタックス・スーパーA」はシャッターがおりなくなった。週刊誌の仕事をしていて、その「一流企業の犯罪」を告白する男性の写真は貴重だった。2時間後に写真を焼いておかなくてはなからなかった。まだフィルムの時代だ。今じゃあ用心深く、カメラは予備を入れて2つもっていくが、「メインカメラ事故時に使う、緊急時用のミニカメラ」を持っていなかった僕は、コンビニに駆け込み、「写るんです」を買ってなんとか入校した。編集長はお冠だ。だが、このときから「もうカメラは扱わない」と決めた。要するにカメラマンを雇えばいいのだ。そしてそうした身分で居続ければいいとさえ傲慢に思ったのだ。

だがついに「ニュース記者」がカメラを、プロのカメラマンばりに撮影しないといけない時代となったのだ。やはり、一度逃げたものは追いかけてくるものだ。

「カメラなんかライターに求めてんじゃないよ」と僕は古いつきあいの編集者のA氏に言った。するとこうメールが来た。

————————————————————————-

作家志望者は先哲の芥川/直木賞作家や売れっ子のそれを
落語家は志ん朝や文春のそれを
絵描きはダリやシャガールからそれを
映画監督は黒沢や小津やゴダールやトリフォーからそれを
学ぼうとするのですが、
「ライター」として求められる「撮影」について撮りかた分析や研究するつもりはない、ということでしょうか。

「それ」とはプロのエッセンスですが要するに。

「ない」としたらとても悲しいことです。
「ある」としたら武器になるんのですが。

————————————————————————-

だったら、研究してやろうじゃないか。
プライドも、腐った理屈も、そこらに捨ててきた膨大な取材リストも、つちかってきた人脈も、怠惰だがつきあってくれる古いパソコンも、長く先輩に鍛えられたペンでの表現も、現場から持ち帰ってきた一枚の写真で輝きを失うのなら、撮影を磨いてやろうじゃないか。

「吉永マサユキ・森山大道 resist写真塾9期生修了展」

そうした「撮ってやらあ」という心境にたどりついたのが6月の末だ。そんな中、いつもいつも招待されるので行けなかった撮影家の吉永マサユキ氏と、森山大道氏が主宰する「resist写真塾」の卒業生が作品を展示している「吉永マサユキ・森山大道 resist写真塾9期生修了展」に行ってきた。言っておくが、吉永氏も森山氏も、もはや「レジェンド」と呼べる世界的に評価されたカメラマンだ。この2人が06年に「社会性のある写真作家の養成」を目的とした写真塾をたちあげた。結果的に、この塾はプロカメラマンとしては通ると光を放つ登竜門となる。

何度か写真展にお邪魔したが、やはりこれだけ魂をファインダーに集中している人たちと対峙するには、やはり、自分もなにか表現する上で「勝負」しているような、強いクリエイターとしての情熱をもってしてやっと写真と拮抗するような、そんなシビアな空間を五感は覚えていた。

一度、幸いにも僕はかつて「編集者」として主宰している吉永氏と仕事でご一緒したことがある。その圧倒的な一枚の写真への画角へのこだわりは、これまで出会ったどの撮影家よりも際立っていた。

そして あれから7年の月日がたった。
卒業生の写真群を、寸評するほどの土壌は自分にはない。
ただ、真剣にファインダーを向けた結果が、展示場のヒルトピア アートスクエアのそこかしこで観客の視線を釘づけにしていた。

写真を撮る、ということは、プロとして要求される場合は、「フォトショップ」(という写真加工ソフト)で多少、色や明るさの調整もする、という意味である。
要するに、ライターが撮影も兼ねる、というのはそういうことだ。

展示会では、「繋がり」というタイトルですれちがう老婆を撮った鈴木達朗さんの写真が一番、インパクトがあり、目に焼き付いた。
この塾では、映画監督の行定勲氏が講義をしていて、かなり鋭い講義をしている。
購入したパンフレットに、こんな言葉が残っていた。
『僕はどっちかというとその、偶然にシャッターを押した瞬間が、自分の中でそれを見たときに、あ、この風景は自分の何かと一緒だとか、自分のものだ、という風に感じられるものがいいですね。いい写真というのは、自分の中に保管しているものがいっぱいあるんですね。そういうのってやっぱり自分の中の原風景と繋がってくるというか。ということは、結局自分が何者であるか、ていうことをやっていると思うんです。映画もそうなんです。自分は何者であるか、ってことは、相当突き詰めないとわかりようがないですね。じゃあ自分が何者であるかを知る術はなにかっていうと、他者なんですよ。映画を作っていて、辛い部分でもあるし、すごい部分でもあるんですけど、他人が、自分を何者であるかということを決定づけるんですね。(以下略)』

今、自分が何者かを他者が判断するツールは、テレビでもラジオでも、雑誌でもなくネットである。そうした状態の中で求められるデジタルの現場の写真と「現場で起きた」ことの伝達は、表現として、自分の立つべき場所を教えてくれる。

そして、付け加えるなら、おそらくライターが、写真でもなく、テキストをフォームに流し込む「デザイン」の部分まで担う時代が来るだろう。現実として、もはや「デザインを編集者がやる」というのは編集の現場ではあたり前になりつつある。ライターがデザインをするのは編集プロダクションの常識だ。ライターが写真に乗り出し、カメラマンの仕事はぐんと減った。今度、「システム変更」の憂き目であるのはデザイナーであると思うが、いずれにしても、「写真家の時代」はまだまだ終わらないことを、クオリティ高きこの「resist写真塾」の卒業生たちの写真は教えてくれる。そして、ひとりのクリエイターとして、刺激を与えてくれた吉永氏には、感謝している。そして、卒業生たちに幸あれ、だ。

(小林俊之)

※写真=「吉永マサユキ・森山大道 resist写真塾9期生修了展」より

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』は毎月7日発売です