上記『人権と利権』は5月23日発売以来話題を呼び圧倒的な勢いで売れています。ちょうど、いわゆる「LGBT理解増進法案」が国会に上程され審議に入るということもあったかと思いますが永田町界隈でもよく読まれていたようです(このこともあってか編者の森奈津子さんは参議院に参考人として呼ばれています。この件では賛否ありますが、ここでは触れません)。発売直後にAmazonから700冊余りの注文が来、これが捌けると在庫がなくなりAmazonでは古書業者が高値で出品し定価の倍近くになっているほどです。

こうした情況に不快感を覚えたのか、発売から1カ月近くにもなって突然Colabo仁藤夢乃代表が、同書(特に表紙、グラビア)を非難し、そしていつものように彼女の周辺から、対談者の一人で、「女性に対する暴力を想起させる表紙」について「謝罪」した加賀奈々恵さんに誹謗中傷が集中しています。甚だ遺憾であり怒りを禁じえません。私たちは断固加賀さんを守り共に在り続けます。全国でも特にLGBT化が進む埼玉県で、覚悟を決め、女性・女児の人権、安心・安全のために、たった一人でLGBT化(具体的には公衆トイレから女性トイレをなくし「ジェンダーレストイレ」化)に異を唱えた加賀さんの志に連帯します! 加賀さんのツイッター(およびyoutube)にアップされた意を決した加賀さんの凛々しさを見よ!


◎[参考動画]加賀ななえ【政策の変遷について/埼玉県LGBT条例基本計画パブリックコメントについて】(2023年2月26日)

当然私たちとしては理不尽な攻撃に対して最後まで加賀さんを見放さず守ることは言うまでもありません。当社への抗議は今のところファックスが1枚来ているだけです。

ここで、表紙について少し説明させていただきます。

【1】仁藤代表が仰るような、Colaboのバスの画像を「切り刻まれ」たというのは全くの誤認です。バスは、取材班メンバーが4月末に駐車場を突き止めそこに赴いて撮影したものでネットから採ったものでもありません。その写真をグラビアと共に、表紙のバックに使っています。本文で記事に採り上げているからです。そのどこがいけないのでしょうか? バスに「肖像権」があるのでしょうか? 私たちが昨年そのバスに傷つけたというツイートもありましたが、昨年私たちの取材班は動いておらず悪質なデマです。

現地に赴くということは、基本的に当社がよくやっている手法で今に始まったことではありませんし、当社に限らず他社の週刊誌などでもよくやっている初歩的な取材方法です。鹿砦社として最近では東電の幹部、原発事故の関係者や「大学院生リンチ事件」(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)関係者を直撃したりしています。

【2】バスの前のガラスが割れているのは、LGBTの象徴であるレインボーのガラスが割れている様子で、特段意味はないです。見る人によって受け取り方はいろいろあるとは思います。決して「女性に対する暴力を想起させる表紙」を目論んだわけではありませんが、加賀さんがそう感じられたのであれば残念です。男目線と女目線では感じ方が異なるのかもしれません。「派手目に」やればやったでアレコレ言われ、また綺麗に大人しくやれば目立ちませんし、むずかしいところではあります。

【3】本書は月刊『紙の爆弾』という雑誌の増刊号ですが、雑誌は決められた発売日を1日も遅らせることはできず、今回は特に「緊急出版」ということでかなりタイトなスケジュールでした。『紙の爆弾』など他の雑誌も同様にタイトですが、多人数が寄稿したりするので、表紙のチェックについて『紙の爆弾』は編集長1人の独断で、他の雑誌も2~3人がチェックするだけです。寄稿者全員に回していれば取次搬入日に間に合わなくなります。例えば『世界』という雑誌がありますが、寄稿者全員がチェックするわけでないことは当然です。その表紙にも好き嫌いはあるでしょうが。加賀さんバッシングに加担している太田啓子弁護士は、実は鹿砦社発行の反原発雑誌旧『NO NUKES voice』(誌名変更し現在『季節』)に座談会で登場されたことがありますが、太田弁護士に事前に表紙を見せたことはありません。

【4】今回は5月18日に取次搬入で、23日に発売でした。加賀さんら寄稿者・対談者らには18日発送、19日か20日に届きご覧になったと思います。逆に言えば、それまで加賀さんに表紙をご覧いただくことはありませんでした。また、他の方々の原稿の内容も、いたずらに別の方々に見せることはできませんから見本が届くまでは知る由もありません。

【5】表紙、グラビア、他の方々の対談や寄稿の内容については、5月19日 or 20日に見本をご覧になるまで加賀さんは一切ご存知なかったし、一切の責任は鹿砦社にありますので、誹謗中傷や文句があれば鹿砦社の私松岡にお願いいたします。お名前、ご連絡先などを明記の上、メールmatsuoka@rokusaisha.comかファックス0798-49-5309にてお送りください。

◇    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

もう少し言わせてください。加賀さんを誹謗中傷する人たちは仁藤代表はじめ果たして『人権と利権』の内容をよく読んだ上で批判しているのでしょうか? 「言論には言論で」というではありませんか。仁藤代表は著書も多く反論本を出版できる環境も能力もあるのですから、きちんと反論されたらいかがでしょうか。Colaboに繋がる人たちに「大学院生リンチ事件」(しばき隊リンチ事件)に直接・間接的に関わった人たちもいます。ここでも私たちは地を這うような取材/調査を元に6冊の本にまとめ出版しましたが、1冊も反論本はありませんでした。

最近鹿砦社に対し「ヘイト出版社」、本書編者・森奈津子さんに対し「差別者」と詰っている者がいます(杉並から差別をなくす会・谷口岳)。本書において私は、
「こうした風潮に異を唱える者に対しては『差別者』『レイシスト』『ヘイター』などと口汚い悪罵を浴びせ、謝罪と沈黙を強いる。本書出版後、当社や森奈津子、あるいは対談者らに対して、そうした悪罵が投げつけられるかもしれない」
と“予言”していますが、現実化しつつあるのは極めて遺憾です。

尚、本書についての私の問題意識、なぜ本書を出版するに至ったのかなどについては本書巻末の「解題」において申し述べていますのでぜひご一読いただきたく望みます。

株式会社 鹿砦社 代表
松岡利康

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)。最寄りの書店でお買い求めください

前回「トランス女性は女性ですか?〈2〉」では、男性器をお持ちだが心は女性であるというトランス女性活動家・尾崎日菜子氏による衝撃のツイートをご紹介した。

「あたしとか、チンコまたにはさんで、『ちーっす』とかいって、女風呂はいってんのやけど、意識が低すぎ? あと、急いでるときのトイレは男。立ちションの方が楽やからね」

まだ、性自認問題が広く知られる前の2012年のツイートだったので、尾崎氏にも多少の油断があったのだろう。

これが発掘されて本格的に炎上したとおぼしき2017年には、尾崎氏は逆上ギレツイート。

「俺が女湯に入ったのは事実やけど、痴漢行為を一回もしたことはないわ」

だが、「なーんだ、痴漢行為はしてないんだ! よかった!」と納得する人がいるわけもなく、炎上は続いた。

その後、尾崎氏は「あのツイートはフィクション」と弁解したという。「俺が女湯に入ったのは事実」って断言してたのに、発言、変わりすぎでは?

こんな調子なので、炎上はおさまることはなく、いつの間にか尾崎氏はツイッターアカウントを削除していた。

ウェブ魚拓サイト「archive.today」で最後に尾崎氏のツイートが記録されたのは、2021年7月2日(https://archive.is/2oZll)。おそらく、この頃に、尾崎氏はツイッター上から姿を消したのだろう。

[左]チンコを股にはさめば女湯OKというご認識らしい[右]チンコを股にはさんで女湯に入るのは痴漢ではなく当然の権利というご認識らしい

さて。
我が国の最高学府・東京大学には、清水晶子教授というお偉い先生がいらっしゃる。この方が「トランス女性は女性です(だからチンコあっても女湯に入ってOK)」派の親玉と言っても、おそらく過言ではないだろう。

性自認至上主義を批判した東京大学の三浦俊彦教授、武蔵大学の千田有紀教授に対する集団バッシングでは、リーダー的な役割を果たしたのが、この清水教授だった。お偉い先生なので、清水教授の周囲には、子分のような学者・知識人がワラワラ存在し、「右向け右、左向け左」とばかりに、敵とみなした学者・知識人・文化人を寄ってたかって叩くのである。

なお、私が学者先生たちに集団ネットリンチされることなく、予防ブロックされる一方であるのは、私を学者・知識人・文化人ではないと認識したうえでの対処なのだろう。そんな「雑魚」に反撃されては赤っ恥であると恐怖し、頭のよろしい先生方が「予防ブロック」でコソコソしていらっしゃるのだとすれば、頭がいいのも大変だ。

ただし、これは、浅学の徒である私が学界の外からながめた所感であるので、事実と反する点があったら、LGBT活動家と共闘しておられる学者先生の皆様にご指摘いただければ幸いだ。

[左]私を予防ブロックしている学者の一人。歴史学者・呉座勇一氏の仕事をつぶしたことで知られる「オープンレター事件」の中心的人物・さえぼうこと北村紗衣教授(武蔵大学)。[中央]なにを恐れていらっしゃるのか、ノンバイナリー(身体男性)の高井ゆと里准教授(群馬大学)も私を予防ブロック。[右]「あんた、だれ?」レベルで存じあげなかった西田彩先生は、複数の大学で講師をなさるトランス女性だと聞く

 

清水教授は私の批判に対してブロックしてきたのであり、予防ブロックではないという点は、教授の名誉のために申し添えておきたい

清水晶子教授は、チンコを股にはさんで女湯に入った尾崎日菜子氏の味方である。味方であるがゆえに、歴史ある学術雑誌「思想」(岩波書店)2020年3月号に、「埋没した棘 ―― 現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」という尾崎氏擁護の論文を発表された。

重要な事実なので、もう一度、念を押しておきたい。

「東大の清水晶子教授は、チンコを股にはさんで女湯に入った尾崎日菜子氏を擁護するために、歴史ある学術雑誌『思想』(岩波書店)2020年3月号に、『埋没した棘 ―― 現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために』と題した論文を発表した」

※岩波書店公式ページ「思想」2020年3月号 

私は実際に「埋没した棘」を読んでみた。17ページの論文を要約、だれにでもわかる表現に変換して内容を要約すると、こうである。

「レズビアンでも白人と黒人がいるように、女性の中にもまんこがある人とチンコがある人がいますよねっ」

「同じカテゴリーに属する女性でも、まんこ持ち女性がチンコ持ち女性を怖がるのって、まんこ持ちゆえの『傷つけられやすさ』を戦略として使っているってことね! でも、それ、よくないネ」

「チンコがある女性は、すでにまんこがある女性に埋没して、女子トイレや女湯に入ってるよ! 気づいてないのなら、最初からそんなことは気にするな!」

「尾崎日菜子氏がチンコを股にはさんで女湯に入ってもトラブルにならなかったっていうことは、周囲の女性たちに女性だと思われていたということ。だから、問題ないね!」

「つまり、埋没していれば(周囲に気づかれなければ)、棘は棘として他者を傷つけることはないってこと。女湯の尾崎日菜子氏は埋没した棘! 股にはさんだチンコも埋没した棘!」

「以上!」

え……? 私がアホすぎて、誤読してるの? これ、東大教授が綴り、岩波書店の「思想」に掲載された論文ですよね?

しかし、どう読んでも、「股にはさんだチンコは埋没した棘!」という結論なのである。もし、これが私の誤読ならば、清水教授から直接「あなた、間違っていますよ」とご指摘いただきたいと思うし、素直にそれを受け入れる気持ちもある。

ただ、それでも、チンコを股にはさんだ尾崎日菜子氏が女湯でトラブルにならなかったという点に関しては、絶対、女性たちは怖くて見て見ぬふりをしていただけだと、私は思う。

女子トイレで女装家に出くわした女性たちだって、よく言っているではないか。「怖くて見て見ぬふりをしてしまった」と。

実際に、女子トイレでは、これらのツイートで語られているような気持ち悪い事件だって起きている。

[左]男性だって、自分より体格がよく力もありそうな不気味な全身タイツ男とトイレで遭遇し、ツーショットを求められたら、自分の身を守るために要求に応じてしまう可能性もあるのでは? [右]「嫌がって逆上されると怖い」……まさにその通りである

全身タイツに女装した男が数年前からたびたび商業施設の女子トイレに出没し、そこで自撮り。時にはその場に居合わせた若い女性たちとツーショットを撮るが、後に女性たちが「怖くて従うしかなかった」と証言しているのだ。

こちらのブログ記事には、顔はぼかしたうえで、その全身タイツ女装男と女の子たちのツーショット写真が掲載されている。

全身タイツ女装また女子トイレへ行き炎上(2023.2)
(ウェブ魚拓 https://archive.md/Qirc5

[左]新宿区議をつとめた経験もあるトランス女性政治家・よだかれん氏のご認識も、このレベル。[右]尾崎日菜子氏のお写真。本当に女湯で埋没できましたか?

尾崎氏への援護射撃だったはずの清水教授の「埋没した棘」は、炎上を鎮めるどころか、いわばガソリンの役割を果たした。それは、炎上中だった尾崎氏にぶっかけたガソリンだったのだ。

以来、「尾崎日菜子さんは、女湯に入ったというツイートはフィクションだとすでに断言しているのに、いつまでもしつこく蒸し返すのは、どうなんですかっ?」という怒りの声に対しては、私はこうこたえている。

「あのツイートだけなら、尾崎氏がフィクションだと明言した後には、炎上も少しずつ鎮まっていった可能性はあります。しかし、最大の問題は、清水晶子東大教授がチンコを股にはさんで女湯に入るという犯罪を肯定し、『埋没した棘』という論文を書き、それをまた岩波書店が『思想』に掲載してしまったことでしょう」

私は、ふと思う瞬間がある。自分は「埋没した棘」を誤読しているのではないか、と。あるいは、「埋没した棘」自体が、私の見た悪夢の一部だったのではないか、と。そんなときには、こちらのレビューを読み、そして、おのれの正気を確信する。

清水晶子氏著『埋没した棘』の読書感想文  Moja Mojappa(@MojaMojappa)

清水晶子「埋没した棘」を読んで。 千石杏香(@Sengoku_Kyouka)

なお、Moja Mojappa氏は性自認女性の身体女性で異性愛者、千石杏香氏は両性自認の身体男性でバイセクシュアル。そして、私はXジェンダーの身体女性でバイセクシュアル。私を含め、異なる属性の三人が、同じようなツッコミを入れているという点は、読者諸氏にもご留意いただきたいと思う。

◎LGBTのダークサイドを語る
〈1〉トランス女性は女性ですか?[上]http://www.rokusaisha.com/wp/?p=46763
〈2〉トランス女性は女性ですか?[下]http://www.rokusaisha.com/wp/?p=46815
〈3〉チンコは股にはさめば女湯OK! http://www.rokusaisha.com/wp/?p=46978

▼森 奈津子(もり・なつこ)
作家。1966年東京生。立教大学法学部卒。1990年代よりバイセクシュアルであることを公言し、同性愛をテーマにSFや官能小説、ファンタジー、ホラー等を執筆。
ツイッターアカウント:@MORI_Natsuko

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)。最寄りの書店でお買い求めください

◆ウェスカー‘68

菫(すみれ)ちゃんとの再会は、偶然とはいえ五里霧中にあった「革命家の卵」にはとても幸運な出会いになった。

「Bちゃんはアホやなあ」! と“True Colors” 「あなたの本当の色は美しい」を歌ってくれる「俳優の卵」菫ちゃん。

彼女と過ごす時間、それは互いの志や夢が凍(こご)えないよう「卵」を温め合う孵化促進の時間、「卵同士」のとても大切な恋時間になった。

「アホやなぁ」に背中を押され、また1968年という熱い政治の季節が秋頃にはさらに熱気を加える幸運もあって、「戦後日本の革命」に向かって私は前に進むことができた。

 

“ウェスカー‘68”のポスター

その年の10・21国際反戦デー闘争は、東京では社学同による防衛庁突入闘争や騒乱罪の適用された新宿駅一帯の群衆を巻き込んだ学生、市民一体の大衆的暴動として、関西では大規模な御堂筋デモとしてますます闘いの火に油を注ぐものになっていった。もちろん私は御堂筋デモの中にいた。

この頃になると「しゃんくれ」で知り合った立命社学同系学生ら政治の話ができる仲間ができた。でもいかんせん彼らは他大学の学生、私は組織のない根無し草に変わりはなかった。

東大、日大全共闘の闘いは全学バリケード封鎖に向かい「バリケード封鎖維持か解除か」を巡り日大では刃物や凶器を持った体育会系右翼学生との暴力的衝突、東大では組織をあげての共産党系民青解除派との闘いを同伴しながら闘争は激烈化していた。学生たち自身の創造物である東大、日大闘争の行方は他人事とは思えなかった。私は居ても起ってもおれない気持ちで推移を見守っていた。でも当事者でもない私は傍観するしかなく、ましてやまだ「革命家の卵」の私にはどうしようもなかった。

「卵からの孵化」は菫ちゃんのほうが早かった。

「スミレの花咲く頃」は多くの少女達がスターを夢見る宝塚歌劇団の歌だが、「菫ちゃんの花」は晩秋の演劇イヴェント“ウェスカー‘68”で大きく花咲いた。この舞台で「いい役に抜擢されるのが目標」と言っていた菫ちゃん、彼女は見事に目標達成、大役を射止めた。

それは東大、日大闘争も天王山を迎えた時期、彼女にとっては演劇人生の天王山、10月下旬から11月中旬にかけての頃のお話し。

“ウェスカー‘68”-それは労働者階級出身という英国劇作家、アーノルド・ウェスカーを招いて日本の主要都市で行われたウェスカー作品の演劇と作家を交えたシンポジウムが同時に行われる演劇イヴェント、東京では新宿紀伊国屋ホールでやるというビッグイヴェントだった。そんな晴れ舞台に菫ちゃんは立つことになった。

菫ちゃんからチケットをもらった、「観に来てね、きっとだよ」!-「ゼッタイ行くよ」! 

まるで自分が出演するみたいにはやる胸を押さえながら私は彼女の舞台を観にいった。四条通りをちょっと入った所、たしか大丸百貨店関連のけっこう大きな劇場だった。演劇もウェスカーという劇作家もよくわからない私は、へえ~、こんな大舞台に菫ちゃんが出るんやと正直、驚いた。

 

スミレの花咲く頃

演目はA.ウェスカーの左翼色の強い代表作「大麦入りのチキンスープ」、そして題名は忘れたが併演のもう一本。彼女は「大麦入りの……」では端役、でも併演の舞台で主人公の恋人役に抜擢された。

併演のその作品は、ドイツの若い兵士が軍を脱走し恋人と森に逃げ込むという反戦劇だった。

脱走兵士と森の逃避行を共にする恋人役を演じる菫ちゃん、舞台の彼女はまるで別人だった。

軍規を破って脱走という国家反逆行為に及んだ恋人とあえて行動を共にする、そんな恋する強いドイツ娘になりきる菫ちゃん、私は劇の進行よりもそのドイツ娘だけを見ていた。

兵営脱走に伴う苛酷な運命を恋人と共にするドイツ娘、苦境の恋人を愛おしむ切ない感情や恋人の決断を支える強い意志、また葛藤、それらをセリフの言いまわしとちょっとした身の仕草など自然体で表現する、その菫ちゃんの演技はまるで波乱の純愛渦中のドイツ娘が目の前にいるよう、舞台のドイツ娘に愛おしささえ覚えた。

「ゼッタイ舞台女優になる」! と言っていた菫ちゃん、なるほどこういうことだったのかと少しわかった気がした。

演劇後のシンポジウムでは菫ちゃんはマイクを持って会場の声を拾う大任もこなした。これにも私は驚かされた。劇団は彼女にシンポジウムでも重要な役割を与えたのだ。晴れの舞台を終え、生き生きと会場からの様々な意見を拾っていくスーツ姿の菫ちゃんはほんとうに輝いていた。演劇論のよくわからない私だったけれど、それがとてもカッコよくて我が事のように晴れがましかった……スゴイよ、菫ちゃん!

「卵からの孵化」では私より一歩前に出た菫ちゃん。「あなたの色はきっと輝く」、それを実際の形で私に見せてくれたのだ。そんな彼女に私はちょっと嫉妬した。

この日から彼女は私の「よきライバル」になった。菫ちゃんには負けられない! そう思った。

◆東大安田講堂籠城を求められて

「よきライバル」に刺激をもらった“ウェスカー‘68”からほどなくして私は、11月22-23日にかけて東大安田講堂前での日大、東大闘争勝利全国学生総決起集会に誘われたわけでもないのに同志社赤ヘル学生らと共に上京、参加した。どうしても自分の身を東大、日大の闘いの現場に置きたかった、身体がうずいて仕方なかった。それまでのデモ参加とは違う、自分でも抑えられない衝動に突き動かされた。

名目は集会だったが実質的にはバリ解除派の民青系学生らとの対決示威だった。私もそれを意識した。対する相手も黄色のヘルメットにゲバ棒で武装した実力部隊が結集、でも小競り合いはあったけれど全面的衝突には至らなかった。

しかしながら安田講堂前で開かれた総決起集会、日本全国から結集した赤、白、青、緑のヘルメット学生が党派を超えて一堂に会し講堂前広場を埋め尽くすその光景は壮観だった。これだけの学生が全国で闘っているのだ、自分たちがこの日本を変える! そんな熱い志の大きな塊みたいなものを実感した。その中に自分がいることが誇らしかった。

私はといえばいまだに誰からも誘われない一志願兵だったが、そんなことは問題じゃない。京都から常に行動を共にした同志社の赤ヘル学生たち、特に文連サークル系の学生の中には顔馴染みもできた。彼らは観光研、広告研といった文化サークルの学生、プロ活動家ではないが一応は学友会傘下組織の一員だ。個人で来ている私を向こうは変な長髪4回生だなと思ったかもしれない。でもそんなことはかまわない。みんなで闘うこと、勝利することが重要、その中に自分がいればそれでいい。

東大闘争は年末から年始にかけ「入試実施か中止か」を巡って大紛糾の末、明けて‘69年1月14日「入試実施のため機動隊導入も辞さず」と加藤総長代行が言明、これに対抗し1月15日には“全国労農学総決起集会”が安田講堂前で持たれ、17日に加藤代行はついに「機動隊出動を要請」、18-19日にかけての安田講堂バリケード死守戦へと事態は進む。

私は前年11月の時のように当然のごとく“全国労農学総決起集会”参加のため同志社赤ヘル部隊と一緒に上京した。

総決起集会後の事態の展開は、バリ封鎖解除に導入される機動隊との激突、攻防戦になることはわかっていたが、地方からの支援学生は集会参加だけでまさか安田講堂に立てこもることになるとは考えもしなかった。しかし17日夜になって地方からの支援学生にも安田講堂死守戦参加を求められた。それは逮捕が前提の籠城戦、しかも騒乱罪適用の10・21闘争の弾圧ぶりから起訴、長期拘留が予想されると説明を受けた。

各自の決心が問われた。政治に転進して以来、私の志が最も試された時だった。

誰からも指図を受ける立場にない私だったが、私には籠城戦参加以外の選択肢はなかった。もちろん躊躇がなかったといえば嘘になる、でも逮捕、投獄の不安よりも東大のバリケード死守の闘いに身を置くことの方が私にはもっと大切なことだった。

そしてたぶん、「菫ちゃんに負けてたまるか」魂も作用したと思う。“True Colors”を歌ってくれる恩人を裏切るような真似はしたくない! そんな気持ちもあったのは確かだ。

一夜明けるとやはり人数は減っていた。でも同志社からの学生は10人ほどが残った。それも観光研、広告研など政治と無縁の文化サークル所属の学生が多かった。「上等じゃないか」! と思った。

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)

◆自己犠牲という花は美しい

安田講堂籠城戦のことを書くと単なる武勇伝になりかねないのでそれは控える。ただ私の心に響いた一場面だけには触れたいと思う。

我々の世代の歴史を語ること、正しく伝える必要があると思うからだ。

我々は全共闘世代と一括りに言われるが、多くは過激派、極左、暴力分子など否定的な評価、それには「連合赤軍事件」や「内ゲバ殺人」による印象の悪さもあるが、私たちの闘いの未熟さ不十分さにも要因があるのは事実だ。「愛することと信じることはちがう」と水谷が歌ったのもその辺のことを言ったのだろう。だから当事者の多くは語れない、語ろうとしない。

でも全国であれだけの学生、無名の若者が立ち上がったこと、青春の熱気、正義感に満ちていたこと、それも事実なのだ。逮捕起訴、長期拘留覚悟の安田講堂籠城戦にあれだけ多くの若者が残ったのも「大義に殉じる志」があったからだ。そんな同世代の良心を私は信じたい。だから、その一端だけでも当事者として語っておきたいと思う。

 

東大安田講堂死守戦

当時の安田講堂籠城戦で胸を熱くした体験が一つある。

私たち同志社の学生は講堂ホールに昇る階段を受け持った。機動隊が階段を上ってきたら劇薬を投げ、鉄球状の小さな球ころを階段に撒く役目だったが一日目は何もすることがなかった。そこで二日目、私は勝手に持ち場を離れ、バルコニーに出て闘う東京の赤ヘル学生達の持ち場に行ってみた。そこは「激しい戦場」だった。

地上からの高圧放水をベニヤ板で防ぎながらレンガ、コンクリート片や火炎瓶を投げる、頭上のヘリコプターからは催涙液がバルコニーに向かって散布される。みんなはずぶ濡れだ。そんな中でまだ高校生のような童顔の学生が機動隊に向かって叫んでいた。

「お前らは金のためにやってるんだろ! 俺たちは違うぞっ」

私はエライ単純な論理やな~と思ったが、なぜか心に響いた。それがあの時の私たちの心情を単純明快に表現してくれてる言葉だったからだ。

あのバルコニーでの闘いは、まさにそれだった。

1月の冬の身を切るような寒風にさらされながら放水を浴びれば全身ずぶぬれ、ふだんなら誰もそんな目には遭いたくはない。交代時には部屋に小さな石油ストーブがあって束の間の暖をとれた。みんなぶるぶる震えている。口がガチガチ震えて声も出せない。でも服が乾く間もなくリーダーの「次ぎっ」という指示でバルコニーに飛び出る。私も経験したが、いったん暖をとったらお終いだ。また水を浴びに寒風の外に出るというのはかなりの決心がいる。登山で疲れて重たいリュックを降ろし座り込めば、もう立ち上がれなくなる、あれと同じだ。ジャンパーからまだ湯気が立っている状態で放水の待つ外に出ていくのは簡単じゃない。あの時、誰かがリーダーに「もうイヤだ、アンタが行けばいいだろ!」と言ったら誰も立ち上がれなかったかもしれない。

でも誰もそんなことは言わなかった。「次ぎっ」の指示に黙々と従って、躊躇なくバルコニーに出ていった。些細なことかもしれないが、あれは間違いもなく「大義に殉じる自己犠牲」だった。それが誰の心にもあったのだと思う。

大義に殉じる自己犠牲、「自己犠牲という花は美しい」! 私はそのことをあの現場で体験し、実感できた。個々人は豪傑でも英雄でもないひ弱な人間かもしれない、でも個々の志が一つの塊になったとき、皆が英雄になる、美しい花になる!

私が今日までこの道を続けて来られたのもこの時の体験は決して小さくない、そう思っている。同世代のために、このことだけは語っておきたい。(つづく)

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く

〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

情報には国境がなく、知ろうとする意思さえあれば、名も知れぬ国の天気や画像や中継動画までをも確認することができる時代にわれわれは生きている。一見このような情報流通形態は、過去に比べて情報や出来事、事実や真実に近づきやすいような恩恵をもたらしているかの如き錯覚に陥る。

しかし、日本国内のテレビ、新聞を中心とする既成の報道・ジャーナリズムの退廃ぶりが極限に近いことはご承知の通りだ。また目的意識的な情報探索に乗り出さなければ、情報の宝庫であるはずのインターネットも従来の家電製品と同様の果実しかもたらさない。つまり「鋭敏な情報収集」を心掛けなければ、インターネットも役には立たないのである。

御存知の通り「デジタル鹿砦社通信」は日々身近な出来事から、エンターテインメントまで多様なテーマをお届けしている。このほどそこに新たな視点を加えることとした。鹿砦社の視点から「世界」を見通す試みだ。

欧米中心情報発信から抜け出して、多元的な価値観に立脚し世界を眺めると、いったい何が浮かび上がってくるのか?われわれの認識は歪んではいまいか? そのような問いに対する試みを展開しようと思う。(鹿砦社国際取材班)

ウルグアイのネットメディアCDP(ジャーナリズムのデジタル連合=coalicion digital por el periodismo)に4月12日、黒薮哲哉氏のインタビューが掲載された(聞き手はビクトル・ロドリゲス氏)。以下、同記事の日本語全訳を紹介する。

「日本では、主要メディアと政府との距離が非常に近い」(黒薮)。

南米ウルグアイのジャーナリスト、ビクトル・ロドリゲス氏

日本のメディアの実態、そこで働くマスコミ関係者の仕事、そして権力とメディアのプラットホームの関係は、地球の反対側ではほとんど知られていない。

しかし、黒薮哲哉のような独立系ジャーナリストは、数十年にわたり、日本の主要メディアの権威と外見の背後にある事実を調査し、報告することに多くの時間を費やしてきました。

複数の情報源によると、日本のジャーナリズムは誠実さと厳格さの長い伝統を持つ一方で、メディアの多様性と多元的な視点を欠き、政府によるさまざまな報道規制、デジタルメディアの影響力拡大、フェイクニュースといった問題に直面している。

日本国内での通信プロセスはどうなっているのか、ラテンアメリカからの情報はどの程度取り上げているのか、「日出ずる国」のメディア関係者の課題は何か? 黒薮哲哉氏にお話を伺った。

── 黒薮さん、この度はお話をお聞かせいただきありがとうございます。日本はアジアで最も報道の自由がある国のひとつとされており、ジャーナリストは調査報道の自由を持っています。この認識は事実でしょうか。また、21世紀の日本で、ジャーナリスト、伝統的なメディア、デジタルメディアの表現の自由の実態はどのようなものでしょうか。

黒薮哲哉氏

黒薮 日本は、憲法で表現の自由が完全に保障されている国です。しかし、矛盾したことに、私たち日本人がこの貴重な権利を享受するのが非常に難しい実態があります。この矛盾を説明するために、まず最初に、海外ではあまり知られていない、日本のマスコミに特有の問題について説明しましょう。

日本ではマスコミと政府の関係が、非常に近くなっています。たとえば、安倍晋三元首相と、650万部の発行部数を誇る読売新聞の渡邉恒夫主筆は、しばしばレストランで飲食しながら、政治や政策についての意見交換をしていました。

他の新聞社やテレビ局の幹部も同じことをやっていました。政府の方針について情報収集するというのが、彼らの口実でした。

両者の密接な関係の中で、政府はマスコミを経済面で支援する政策を実施してきました。例えば、一般商品の消費税は10%ですが、新聞の消費税は8%に軽減されています。

また、政府は公共広告に多額の予算を費やしています。例えば、2020年度の政府広報予算は約1億4千万米ドル(注:185億円)でした。これらの資金は、広告代理店やマスコミに支払われています。

しかし、最大の問題は、いわく付きの新聞の流通システムを政府が保護していることです。新聞販売店には、一定部数の新聞を購入する義務を課せられています。

例えば、新聞の読者が3,000人いる販売店では、3,000部で間に合います。しかし、4,000部の買い取り義務を課します。これは、独占禁止法違反にあたりますが、何の対策も講じられず、50年以上も放置されたままです。

私は1997年からこの問題を調査してきました。雑誌やインターネットメディアで、日本の新聞の少なくとも2~3割は一軒も配達されていないとする内容のレポートを繰り返し発表してきました。

私の計算によると、新聞業界はこのようにして少なくとも年間7億600万ドル(932億円)の腐った金を懐に入れています。新聞社は、販売店に損害を与えるだけではなく、広告主をも欺いています。

また、テレビ局の多くは新聞社グループに属しているため、日本のテレビ局もこの問題は報じません。政府も各省庁もこの問題については厳しく指導してきませんでした。

このように日本のマスコミは、国家権力によって保護されているのです。すでに述べたように、日本は法的には完全な表現の自由を持つ国です。だれもジャーナリズム活動を暴力で弾圧することはしません。

しかし、新聞やテレビの記者は、公権力機関が守ってくれる莫大な経済的利益を失いたくないため、彼らを強く批判するようなニュースは扱いません。

公権力にとって不都合なニュースを暴露しようとする新聞やテレビの記者は、記者としての地位を失い、営業部や広告部に異動させられるリスクを背負います。

公権力に批判的なフリージャーナリスト、評論家、大学教授らは、新聞に自分の作品を掲載する機会がほとんどありません。

週刊誌や月刊誌はかなり質の高いジャーナリズムを展開していますが、発行部数が少ないので影響力がありません。われわれは公式には表現の自由を保障されていますが、この腐敗した狡猾な仕組みのために、それを享受することができないのです。

── 報道における表現や視点を多様化する必要性を感じますか?それはなぜですか?

黒薮 日本では、表現や視点の多様性を広げることが非常に重要です。新聞社は政府によって実質的に保護されているため、新聞報道は非常に偏ったものとなっています。

例えば、自民党政権と統一教会は、過去50年間、非常に密接な関係にありました。統一教会は、信者から多額の献金を集め、韓国の本部に送金していました。

しかし、2022年7月に安倍晋三元首相が狂信的なこの宗教団体を憎むテロリストに暗殺されるまで、主要メディアはこの問題を報道していませんでした。

この問題を調査し、雑誌や自身のウェブサイトで報道していたジャーナリストは、鈴木エイト氏だけでした。彼は、安倍首相が暗殺されるまで、主要メディアで自分の意見を表明する機会がありませんでした。

このように、日本ではジャーナリズムが非常に制限されています。幸い、インターネット時代になって、さまざまな視点を提供する独立したメディアが増え始めています。

── 報道の仕事という観点から、アナログからデジタルへの移行をどう見ますか。この新しいコミュニケーション方法がメディアの健全性を奪うと思いますか、それとも利すると思いますか。

黒薮 インターネットの時代になっても、マスコミ報道はあまり変わっていません。簡単に言えば、ジャーナリズムのプラットフォームが紙から電子に移行しただけのことです。

しかし、私のようなフリーランスのジャーナリストにとって、インターネットはとても利用価値が高いものです。例えば、わたしが扱ったことのあるテーマのひとつに新聞の偽装部数問題に関連した新聞社の腐敗があります。

当初、この問題に関心を持つメディアは皆無でした。そこでわたしは、この問題を報道するために、約20年前にウェブサイトを立ち上げました。

その結果、雑誌を持つ出版社がこの問題に関心を持ち、一緒に調査報道をするようになったのです。また、弁護士の中にもこの問題に取り組む人が出てきました。

なぜなら、この問題は新聞販売だけでなく、日本のジャーナリズムの質の問題でもあるからです。この虚偽の発行部数の問題はまだ解決していませんが、数年後には必ず解決すると確信しています。

── 日本は先進的なテクノロジーで知られています。メディア関係者やジャーナリストは、この強みを活かして、ニュースや情報を視聴者に届ける方法を革新することができます。新しいテクノロジーの影響を受けた日本のジャーナリズムの現状をどのように定義しますか。

黒薮 新聞については、海外と大きな差はありません。日本では長年、新聞は紙媒体が中心でした。日本新聞協会のデータによると、2022年の日刊紙の発行部数は2,869万4,915部です。

そのため、インターネットへの移行は、新聞の読者離れのリスクをはらんでいます。新聞社の経営者は、電子新聞の導入に消極的でした。その結果、日本では際立った電子新聞の技術は開発されていません。

ラジオやテレビの世界では、いくつかの新しい動きがあります。例えば、AI(人工知能)が、アナウンサーそっくりの声でニュースを読み上げます。

また、バーチャル映像も利用されています。例えば、近い将来予想される大地震の被害状況をバーチャルリアリティ映像で表現します。

しかし、わたしは、ジャーナリズムにバーチャルリアリティを導入することは、フェイクニュースにつながるので反対です。かつては写真や動画が事実の重要な証拠となりましたが、今はそうではありません。

── 新しいテクノロジーと近代的な交通手段によって、地球の片側からもう片側への距離が短縮されています。ニュースの伝達も早くなりました。しかし、日本についての情報には、ばらつきがあります。日本ではラテンアメリカのことがどの程度報じられ、どの程度知られているのでしょうか。

黒薮 ラテンアメリカからのニュースはあまり報じられていません。マスコミは、大統領選挙、政治的事件、スポーツなどは報じますが、民衆の生活や社会運動に関するニュースは取り上げません。

クーデターの後、ペルー全土に広がった抗議運動

例えば、昨年12月7日にペルーで起きたクーデターに関して言えば、クーデターの首謀者らを擁護する立場からの報道はしましたが、それに対する民衆の抵抗や警察・軍隊の残虐な暴力については取り上げませんでした。

もう一つ例を挙げます。世界のほとんどの国がキューバに対する経済封鎖に反対しているのに、日本のマスコミは全く報道していません。

わたしは、ラテンアメリカの情報をインターネットを通じて得ています。しかし、ほとんどの日本人は英語やスペイン語を使うことができません。そのため、主要メディアからの情報に頼らざるを得なくなっています。

── Covid-19のパンデミックは、ほぼすべての分野とセクターに強く影響しました。報道においても、取り上げるニュースや取材活動だけではなく、メディアそれ自体の存続なども、その影響から逃れることができていません。日本のメディアやメディア関係者は、ポストパンデミックの現実をどう受け止めているのでしょうか。

黒薮 新聞社やテレビ局は、Covid-19のパンデミックの際にも、仕事のやり方を大きく変えることはありませんでした。というのも、彼らは毎日、ニュースを発信する必要があったからです。これに対して、多くの出版社はリモートワークという新しい働き方を採用しました。

編集者は自宅で作業し、インターネットで会社とコミュニケーションします。出社は週に1日か2日だけ。この働き方は、会社のコスト削減につながることもあり、Covid-19以降も続いています。

── 日本の視聴者は高齢化しており、メディアは若い視聴者を獲得する方法を探さなければならないと言われています。それは事実でしょうか? そうであるとすれば、新しい世代に情報を伝えるためにどのような戦略が採用されているのでしょうか。また、現在の日本では新しい人材育成のプロセスはどうなっているのか。

黒薮 わたしは、視聴者が高齢化しているとは思いません。高齢化しているのは、新聞の購読者です。高齢者はインターネットの使い方を知らないので、新聞から情報を得ます。

その結果、高齢者は印刷された新聞から、若い世代はインターネットから情報を得る状況になっています。

しかし、紙媒体の新聞とインターネットの内容自体は、あまり変わりません。というのも、主要メディアは、紙媒体の新聞に掲載した記事をインターネットに掲載する傾向があるからです。

日本ではジャーナリストの育成は遅れています。わたしは、ジャーナリストを教育する方法が異常だと思います。若い記者は、警察や政治家、官僚と親密な関係を築き、個別に情報を入手できるようになるよう指導されています。ラテンアメリカで、そんなことをやりますか?

── 日本の法務省のデータによると、2021年の日本のラテンアメリカ系の人口は約6万4,000人(ブラジルを除くスペイン語圏)です。日本のメディアは彼らに特化した紙面を設けて、地域や国、政府などの問題について情報を提供しているのでしょうか。

黒薮 10年ほど前まで、『プレスインターナショナル』という新聞がありました。スペイン語版とポルトガル語版の2種類を発行していました。しかし、現在は両方とも廃刊しています。

島根県の地方紙「山陰中央新報」(日刊)は、不定期にポルトガル語のニュースを掲載しています。島根県には、約9,000人のブラジル人が住んでいます。

日本に住むラテンアメリカの人々は、インターネットを通じて母国のニュースにアクセスすることが出来ます。しかし、スペイン語やポルトガル語で日本国内のニュースを見ることはほとんどできません。

── 日本の情報公開法は、ジャーナリストやメディアの取材・調査活動をおこなう上で、どのような利点と欠点があるのでしょうか。

黒薮 日本には、情報公開法があり、請求があれば公開しなければなりません。わたし自身もよくこの制度を利用しています。しかし、公権力の不祥事が分かる公文書は、プライバシー保護を口実に公開されません。

── ジャーナリストやメディアは報道に関して、どのような課題を抱えていますか。また、編集の独立性やメディアの多様性は、現在の日本におけるジャーナリズムの発展にとって十分なものだと考えていますか。

黒薮 日本のメディアの最大の問題は、その多くが公権力から独立していない点です。その結果、ジャーナリズムは政府の広報に変質しています。唯一の希望は、グローバル化の時代に、独立したメディアがインターネット上で生まれていることです。

◎出典:https://siquesepuede.jimdofree.com/2023/04/12/kuroyabu-en-jap%C3%B3n-la-distancia-entre-los-principales-medios-de-comunicaci%C3%B3n-y-el-gobierno-ha-sido-muy-estrecha/

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

4月25日発売!黒薮哲哉『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

地方都市のベッドタウン、団地に暮らす中学生にとって、ラジオから流れる音楽やそれらを演奏するミュージシャンは、間違いなく「別世界」。都市で開催されるコンサートにでも出かけない限り、直接メロディーを耳にしたり、本人の姿を目にするチャンスは皆無だった。日本のミュージシャンであれ、外国のミュージシャンであれ等距離で「別世界」。レコード屋かラジオ、テレビだけが接点として「別世界」と繋がっている日々の記憶を共有できる読者は少なくないのではないだろうか。

「別世界」の住人はどんな人たちなのだろう。「別世界」ではどんな人間関係が織りなされているのだろう。もう少し年齢を重ねたら、あるいは「別世界」の片隅でも覗くチャンスが訪れるのだろうか。それとも「別世界」は太陽と地球のように等距離を保ちながら、永遠に接点を持つことはないものか。

「別世界」には多種多彩なひとびとが暮らしているのを知っていても、その中で坂本龍一氏は、わたしにとって別格の存在だった。どうして坂本氏がわたしにとって別格の位置を占めるに至ったかの経緯は、この際省こう。でも坂本氏が「別世界」住人の象徴的存在であったとしても、多くの読者は疑問には思われないのではないか。70年代半ばからあっという間に「世界のサカモト」に上りつめた人物、いったい何を言いたいのかほとんど訳が分からなかったが『戦場のメリークリスマス』でデビッド・ボウイと共演し、有名なあの旋律を産み出した坂本氏。

坂本氏のステージではなかったが、たしか矢野顕子のコンサートでキーボードを弾いている姿を目にしたのが、初めてだっただろうか。わたしは大阪の私立大学に通う大学生だった。ステージと客席の間に物理的な仕切はないが、やはりステージ上のミュージシャンと数千人観客の間には、太陽と地球同様の距離があるものだな、と感じた記憶がある。

時は流れて1999年10月10日、千葉県成田市の某ホテルである著名人を囲むパーティーが開催されていた。わたしは当時の職場の同僚二人と一緒に、そのパーティーの末席に座っていた。参加者は200名ほどであっただろうか。ところどころに政財界や芸能界の著名人の姿を確認できたが、予期しないことにいわば主賓席に当たる位置に坂本氏の姿があった。わたしは当時の同僚に「このパーティーが終わったら、わたしが坂本龍一を口説くから」と小声で伝えた。

いったい当時のわたしは何を考えていたのだろうか。しかし、迷いはなかった。パーティーが終了すると坂本氏は数人の政治家や、財界人と歓談していたがやがて会場の外に向けて歩み始めた。わたしは名刺を手渡し手短に自己紹介を済ませると「数分だけお時間を頂けませんか」と坂本氏にお願いをした。坂本氏はきょとんとしながらもわたしの要望に応じて、わたしの「お願い」を聞く時間をわたしに与えてくれた。わたしの要求は乱暴極まるものだった。簡単にいえば「わたしの職場にお越しいただきピアノ演奏をしてください」だ。こんなことをよくぞ誰にも相談もせず急に思い立ち、ずうずうしくもご本人に頼んだものだな、と今になってはあきれ返るばかりだが、あの時のわたしにはそれが不可能には感じられなかった。

坂本氏と筆者

「世界のサカモト」にはタイトなスケジュールが組まれているのが常識で、わたしの依頼は半年強あまり先のこととはいえ、唐突に過ぎるものだ。なんの所縁も、知人もいない、片田舎の大学職員が突然現れてそんな要求をして坂本氏の方がむしろ驚いていたのではないだろうか。即答はなかったが坂本氏はわたしのお願いをしっかり聞いてくれ、後日連絡するからと約束してくれた。

それから坂本氏のマネージャーと幾度かメールのやり取りをして、ピアノ演奏は諸般の事情で難しいが、「全面的に協力をする」との答えを頂いた。太陽と地球の距離が急速に変化した瞬間だった。結果わたしは約1週間近くかなりの時間坂本氏にお世話になることができた。そう多くの時間話をしたわけではないが、下世話な話「ノーギャラ」でわたしのお願いに応じて頂けた。

あれはわたしの空想の時間だったのだろうか。23年が経て現実感は限りなく薄い。しかし空想ではなかった。思い起こせば「何だ!この音響は!」と怒られもしたし、機嫌がいい時には「僕にはフィールドが好きだから、ここの学生さんと一緒にフィールドワークをするのも面白いよね」と持ち掛けてくれたり…。

中学生時代の「別世界」がいっときわたしの人生の実時間と合流した。そこには坂本氏の絶大なご好意があった。

数年前にがんに罹患しても坂本氏は治療時以外仕事を休んでいた様子はない。昨年「これが最後になるかもしれない」とみずから語ったNHKで収録をしたコンサートを世界配信していた。部分的に視聴したがわたしは最後まで、見ることができず、途中で視聴を止めた。

田舎の中学生が憧れた「別世界」を実時間に転嫁してくれた坂本氏が逝った3月28日わたしは強烈な胃痛と体調不良にあえいでいた。わたしの体はときにそのような反応をするのだ。坂本氏のTwitter、Facebookには“January 17 1952-March 23 2023 “ が。

わたしの中に残っていた、アドレッセンスの全史と残滓がMarch 23 2023で完結した。


◎[参考動画]Merry Christmas Mr. Lawrence / Ryuichi Sakamoto – From Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。著書に『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社)がある。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『季節』2023年春号(NO NUKES voice改題)福島第一原発事故 12年後の想い

◆「裸のラリーズ」脱退

1968年の5月頃、私はバンドを辞めることを水谷、中村に告げた。「同志社学館での出会い ── ジュッパチの衝撃の化学融合」から約半年が経っていた。

それは中村の高校の同窓というドラムの加藤君が入って練習場も桂の彼の家に移った頃、「裸のラリーズ」がミュージシャンとしての本格活動に入る時期でもあった。

その頃、学生運動は佐世保闘争の高揚を経て東大医学部闘争の激化から東大卒業式は祝典中止に追い込まれ、後に東大全共闘結成に至る。中国は文化大革命の真っ最中、パリでは世界を揺るがすフランス五月革命の胎動が始まっていた。

1968年という熱い政治の季節の開始を告げる時期、私は居ても起ってもおれない気持ちだった。

私はミュージシャンとなること、ベースギター練習に打ち込むモチベーションを持てなくなっていた。このままでは本格的にバンド活動を開始するみんなに迷惑をかけるだけ、私は脱退の意を水谷、中村に告げた。彼らは私の意を理解し、それを快く受け入れてくれた。彼らも心に「革命のヘルメット」を宿す人間だった。

辞める時、水谷が「それ僕にくれないかなあ」と言っていた私のお宝、細身の五つボタン、黒のコーデュロイ上着をプレゼントした。ベース・ギターもバンドに譲った。それらは政治転進の私には不要のものだった。

こんな風にミュージシャンとして何の貢献もないまま私は「裸のラリーズ」を去った。

その後の私はデモや政治集会に参加、組織に属さない孤独にもがく日々が続いたが1969年1月の東大安田講堂死守戦で逮捕、起訴後の拘留を経て秋に保釈後、ようやく赤軍派に加入、翌年3・31「よど号ハイジャック闘争」で渡朝に至る。このことは別途、触れるとしてその後のラリーズとの関わりについて少し書いておこうと思う。

2019年、誰知ることもなく逝った水谷孝、その死はHP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」の立ち上げで皆が知ることとなった。‘90年代初頭の活動停止後、どこで何をしていたのか、家庭を持ったのかどうかさえ世間で知る人はいない。「裸のラリーズ」だけを遺して神秘に包まれたままこの世からふっと消えた水谷、実に水谷的な人生全うの仕方だ。彼は自分のことを全く語らなかった人だが水谷亡き今、私の知る彼のことを少しでも書き残しておきたいと思う。

◆脱退後、そして「よど号」渡朝後の「水谷と私」

バンドを脱退してからも水谷、中村らとは会えば「やあ、どうしてる」という関係は続いた。

ある日、「ゴールデンカップスにゲバルトをかけよう」との水谷からの召集令状を受けた。相手は秋の同志社学園祭に出演するゴールデンカップス、学生会館ホールでやる前座がそのゲバルト舞台ということだった。

私は誰かにハモニカを借りて出演、黒セーターに黒ジーンズ、赤い布きれをネクタイ風に首に巻き付けた「左翼」スタイル、そして自衛隊の戦闘靴で決めた。この時、琵琶を持って参戦という変わり者がいたが久保田真琴(夕焼け楽団)だったように思う。例によって事前練習も打ち合わせもない「裸のラリーズ」式ぶっつけ本番、私は水谷の即興的な唸るギターに合わせハモニカを延々吹きまくった。文字通りのアドリブ。いつ終わるか果てしもない即興演奏、どう終わったかも記憶にない。

「ゴールデンカップスにゲバルトをかける」 ─ きれいなお決まり音のグループサウンズ撃破の轟音とアドリブ演奏 ─ 自分たちの音楽理念で挑む! これが水谷式のゲバルトだ。ホールの聴衆はあっけにとられたことだろう。ゴールデンカップスが兜を脱いだかどうかは知らないが、前座をわきまえない果てしのない轟音アドリブ演奏はさぞかし「迷惑」ではあっただろう。

「裸のラリーズ」公式アルバムの“’67-’69 Studio Et Live ”の最初に収録の“Smokin’ Cigarette Blues”という曲がある、あれが学園祭でのゲバルト出演、アドリブ演奏であろうとほぼ確信している。この曲を聴くと騒音の背後で唸っているハモニカ風の音が私の記憶の中の感覚、水谷の轟音ギターに応じイメージが膨らむままに吹いていたあの即興感覚が蘇る。水谷が精選したたった3枚の公式音源、その一曲にラリーズの原点、「オリジナルメンバーによる唯一のもの」としてこれを入れてくれたのだとしたら、それは私への水谷なりの「義」なんだろうと勝手に感謝している。いまは確かめる術はないが……


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Smokin’Cigarette Blues (Live)

その後は激化一途の政治闘争の渦中にあって水谷、中村らと会う機会はなく、「裸のラリーズ」も私の頭からは消えていった。

渡朝後のピョンヤンで「その後のラリーズ」を知ったのは‘79年の『ぴあ』11月号に掲載されたイベント紹介記事、青山ベルコモンズ「裸のラリーズコンサート」。告知にはサングラスの水谷の写真が! 「おお、まだやってんだ」とアングラバンドとして生き残ってたことが正直嬉しかった。その時は「まあ、細々とやってんだろうな」くらいの感覚だった。

二度目は‘90年代初期? ピョンヤンで会ったテリー伊藤と一緒に訪朝の前衛漫画家・根本敬さんから「幻の名盤」なんとかで「裸のラリーズ」テープ、“’67-’69 Studio Et Live”をプレゼントされたこと。この時も「アングラの名盤に入ってんだ」、そこそこ健闘してるじゃないか程度の認識だった。

そんな私の認識を大きく変えたのは、2000年代に入ってのピョンヤンでの英労働党EU議員、Glyn Fordとの出会い。彼から「貴方達の中にギターやってた人がいるよねえ」と言われて、もしかして私のこと? 日本でバンドやってたことがあると話すと、彼から“Les Rallizes Dénudés”じゃない? 「実は自分の友人にファンがいる」と聞かされた。

これには正直、驚いた。「へえ~、海外にまでファンがいるんだ!」 ── 世界的バンドになったのか! これは仰天の事実だった。以降、G.Fordとは訪朝の度に会うようになり、ネオナチ反対運動をやってる彼の友人、「裸のラリーズ」ファンの依頼ということで私のサインを送ったりするようになった。G.Ford自身はローリング・ストーンズ愛好家、東大留学経験で宇井純とも親交あったという私とほぼ同世代、英プレミア・サッカー同好の士でもある。

[左]Glyn Ford英労働党EU議員(当時)とピョンヤン市内のイタリアン・レストランで会食。[右]随行カメラマンのクリシニコーヴァさん(2009年)

 

LadyGaga“LES RALLIZES……”

世界的支持者といえば、あのレディ・ガガが“Les Rallizes Dénudés”ロゴ入りTシャツ写真姿を彼女のインスタグラムに掲載、知人から送られたその数枚を見たがとてもカッコよかった。超ビッグなレディ・ガガを惚れさせた水谷の凄さを見せつけられた思いだった。

訪朝した雨宮処稟さんからも「ラリーズ初代ベーシストですよね」と言われた。彼女の著書の中にプレカリアートの一人が「部屋を閉め切って布団を被って轟音ラリーズを聴く」話があった。“生きづらい”若者には「救いの轟音」なのだとラリーズの功績を再認識させられた。

労働者ユニオン代表だった小林蓮実さん、派遣で働く彼女の友人にもラリーズ支持者がいるとも聞いた。

2010年代にFさんという「裸のラリーズ」熱烈支持者の女性から手紙やメールでラリーズの詳しい情報を得られるようになり、彼女からの「ロック画報」No.25特集号で「その後のラリーズ」の全貌をほぼつかめ、「水谷の偉業」を知ることになった。そのFさんは‘13年に表参道付近にある「Galaxy ── 銀河系」で「裸のラリーズ・ナイト」を主催、私がメッセージを送ることになった。根本敬×湯浅学対論も持たれ、21世紀に入っても冷めやらぬラリーズ支持者の熱気を感じたものだ。

こうした人々との交流の中で「ラリーズ」公式音源、映像ほか“yodo-go-a-go-go”など非公式音源も入手、ピョンヤンにいる私の中に時間と空間を越えて「裸のラリーズ」が蘇った。

結成50周年の2017年秋には、椎野礼仁さんの仲介でBuzz-Feed Japan、神庭亮介記者の電話取材を受け、私のラリーズ体験を語ったが、それはネット配信されけっこう反響があったと神庭記者から伝え聞いた。

結成50年を経て取材が来る、活動停止後20余年も経たバンドの記事を待つ熱狂的支持者がいる。布団を被ってラリーズを聴くプレカリアートの若者がいる。レディ・ガガがロゴ入りTシャツ姿をインスタグラムに載せる。「裸のラリーズ」サポーターは百人百様だが、バンドは彼らの胸に永遠に生きている。

それもこれも水谷孝のなせる業、偉業だと痛感させられる。

「誰のものでもない自分だけのものを」! そんなバンド「裸のラリーズ」を水谷はこの世に産み遺していったのだ。

◆“yodo-go-a-go-go” ── 愛することと信じることは……

 

”yodo-go-a-go-go”ジャケットに記された「溺れる飛べない鳥は……」の日本語表記と謎のローマ字表記

英国製海賊版とされるアルバム“yodo-go-a-go-go”、でもこれには水谷が関与していると言われている。私は「水谷の関与」を確信している。

確信の根拠は、まずアルバム・タイトルに“yodo-go”を選んだこと、またジャケット写真に「よど号ハイジャック」を想起させる「煙が上がる駐機中の飛行機」を配したことだ。「よど号」メンバーがオリジナルメンバーにいたことは知られているが、わざわざ“yodo-go”タイトルの海賊版を創る物好きはいないだろう。

それにこのアルバムには私が参加したであろう演奏“Smokin’ Cigarette Blues”が収録されていることも水谷の関与を臭わせるものだ。

私が何より「水谷の関与」を確信するのは、アルバムの裏ジャケットに記された「謎のメッセージ」にある。

日本語表記には「溺れる飛べない鳥は水羽が必要」と記されているが、小さなローマ字表記ではそれが“Oboreru Tobenai Tori wa MIZUTANI ga Hitsuyo”と「水羽」を“MIZUTANI”に置き換えてある。これは水谷らしい謎かけだ。

私はこれを「溺れる飛べない鳥」には「水谷」という「水羽」が必要、と解釈している。つまり「溺れる飛べない鳥」のために「水谷」は在る、飛べるかも知れないし飛べないかも知れない、でもせめて溺れないように「水羽」くらいは提供することはできる。それが水谷の「裸のラリーズ」、「飛べない鳥のための革命」なのだ、と。

「愛することと信じることはちがう」、これは水谷の歌詞に出てくる言葉だ。「おまえの言葉の中に愛を探したことは いつのことだった!」とか「いまではおまえを信じることはできない」そして「僕の腕の中におまえは死んでいる」、そんな歌詞をいろんな楽曲で水谷が歌っている。

歌詞によく出てくる「おまえ」は「革命」を指すと評した人がいる。

1969年から‘70年年初冬に同志社放送部のスタジオで収録されたCD“MIZUTANI/ Les Rallizes Dénudés”には轟音ノイズのこのバンドには珍しいフォークっぽい美しくも悲しみをたたえたメロディに乗せて上記のような歌詞がいろんな曲で歌われている。


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – 記憶は遠い(愛することと信じることはちがう)


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Otherwise My Conviction

このアルバム収録時のことをギター参加の久保田真琴が「ロック画報」(ラリーズ特集号)で語っている。少し長いがその頃の水谷を知る上で重要な当事者証言だから引用する。聞き手は、ラリーズ・ファンでもある音楽評論家の湯浅学。

久保田 もう、学校もぐしゃぐしゃな時代でロックアウトされてたんだけど、キャンパスでバタっと出会ってね。……それで、聞いたら、まあ、「つかれちゃった」と。たぶん、学生運動のことでいろいろあったんだろうと思うんだけどね。

湯浅  ……・

久保田 う~ん……だからよど号の事件はいつだっけ?

湯浅  70年の3月31日です。

久保田 ええ~、そうなんだ。じゃあ、もう、よど号が行く前にいったん解散してたんだ。

湯浅  みたいですね。そのあたりに分かれ目がどうもあったらしくて。

久保田 だから、彼はやっぱりミュージシャンを選んだんだな。まあ、そういうことですよ。そう……そうか、私はなんか、頭の中では、あの録音はもう、よど号が行っちゃった後っていうイメージがあったんだけど、違うんだね。

 

水谷の歌うマイクスタンドの前に「赤軍派」のヘルメットがぶら下がってる。場所は京大西部講堂か?

同志社での“MIZUTANI/ Les Rallizes Dénudés”収録直前の1969年は1月の東大安田講堂落城以降、全国の大学のバリケードは警察機動隊によって解体され、拠点を失った学生運動は混迷期に入る。立命全共闘だった『二十歳の原点』の高野悦子さんなど多くの自殺者が出た年でもある。混迷突破をめぐる党派内部の混乱もあって1968年にはあれほど熱かった政治の季節、革命の前途は一転してうすら寒くも暗澹となりゆく時期、しかし余熱はくすぶっていた。

赤軍派はそんな余熱を革命の熱気に換えようという組織だった。ある公演舞台(京大西部講堂?)で水谷の歌うマイクスタンドの前に「赤軍派」のヘルメットがぶら下がってる写真があるが、彼が心を寄せていた可能性はある。でも赤軍派拠点だった同志社キャンパスは久保田の言うように「ぐしゃぐしゃな時代」、水谷に何があったか知る由もないが「つかれちゃった」という状況にあったのだろう。私はこの年のほとんどを安田講堂逮捕後の獄中にあって現場を知らない。

1969年の京都、水谷周辺の時代の空気感、それが水谷の歌う「愛することと信じることはちがう」という季節感なのだろうと私流に解釈している。

それは私にもある程度、想像はできるあの時代のひりひりした空気感だ。

案の定、時代は「連合赤軍の同志粛正」、「中核・革マル戦争」のように新左翼諸党派の「内ゲバ殺人」へと流れていった。革命は何のため? 誰のため? を忘れた革命、党派利害第一、党利党略に翻弄され「いまではおまえを信じることができない」革命に堕ちて行く。

「僕の腕の中にお前(革命)は死んでいる」 ── 水谷はミュージシャンとして「溺れる飛べない鳥のための革命」を自分の使命とし、「裸のラリーズ」で水谷の革命をやる、そう心に決めたのだ。

雨宮処稟さんの著書に出てくる「布団を被ってラリーズの轟音を聴く」プレカリアートの若者は、そんな水谷の言う「溺れる飛べない鳥」の一人なのだろう。

「愛することと信じることはちがう」、それは革命とは言えない。「愛することと信じることは同じ」と言える革命はきっとあるはずだ。あきらめずに地面を掘り続ければ、必ず水は出てくる、私もあの時代を生きた一人、今もそれを追求途上にある。

だから私は“yodo-go-a-go-go”裏ジャケットに記された謎かけのようなメッセージを私に対する水谷の決意表明だと受けとめ、ならば私は私の革命を続ける責任があると肝に銘じる。

「裸のラリーズ」の楽曲で私のイチ推しは“yodo-go-a-go-go”所収の名曲“Enter The Mirror”だ。“’77 LIVE”にも同曲があるが断然こちらがいい、私にとっては珠玉の名曲、「私の裸のラリーズ」だ。

この“Enter The Mirror”を聴きながら「愛することと信じることは同じ」革命を追求する責任が自分にはあるのだということを私は忘れないようにしている。

「鏡よ鏡 天国でいちばんカッコイイのは誰? それは“裸のラリーズ”」 ── 天国にあってもそんな水谷孝であろうことを確信しながら……


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Enter the Mirror

P.S.

“Enter The Mirror”にまつわるお話しとして……

水谷との関連でぜひ触れねばならないが収まりどころがないので「追記」にそれを書く。

「オルフェ」という1950年代の古いフランス映画がある。詩人ジャン・コクトーの創った映画だ。私には珠玉の名曲”Enter The Mirror”はこの映画を想起させる。

死より恐ろしい刑罰に美しく毅然と!“死神の女王”(映画「オルフェ」より)

鏡の外は現実の人間世界、鏡の中に入ればそこは「死者の世界」、「死に神の女王」は「鏡の外」の世界の詩人を愛してしまう、それは「鏡の中の世界」では許されない御法度とされる行為、しかし「鏡の中」の法廷で「死に神の女王」は詩人への愛を否定せず自分の愛を貫く、そして「死より恐ろしい刑罰」の待つ刑場へと向かう、毅然と美しく! 

コクトーの詩を好んだとされる水谷、“Enter The Mirror”は「死に神の女王」を意識した楽曲、私は勝手にそう解釈している。私は水谷がこの「死に神の女王」に自分を重ね合わせているのではないかと思えて仕方がない。(つづく)


◎[参考動画]ORPHEE / ORPHEUS (1950) with subtitles

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

前回、『戦争は女の顔をしていない』の書評の第1回目から日が経ち、申し訳ない。続きを書く前に、上映しているうちに早めにアップしておきたい『REVOLUTION+1』完成版の映画評を先にお届けしたい。

 

足立正生監督(左)

◆瑞々しい「足立節」を堪能せよ!

これは足立正生監督の6年ぶりの新作で、2022年8月末に密かにクランクインし、8日間の撮影から制作されたという。ピンク映画の手法の経験なしでは、このスピード感で誕生しえなかった作品だ。クランクインから1月後、強行された安倍晋三国葬当日にダイジェスト版の緊急上映をおこなった。今回の上映は、完成版となる。

安倍晋三元首相を撃った山上徹也氏を主人公に、「民主主義への挑戦」ともいわれた彼の行動の背景を、それでも足立監督ならではという表現によって描写した。監督は83歳になるそうだが、瑞々しい感性は変わらない。わたしは実は、足立・若松ファン歴がおそらく30年ほどとなるが、どの作品を鑑賞したことがあるかの記憶は曖昧だ。

『REVOLUTION+1』も、もちろん足立節が炸裂。山上氏は、わたしの周囲では直後から「テロリストの鑑」といわれていたし、育った家庭がややこしさを抱えながらロスジェネと呼ばれて搾取され続ける世代としても、理解できるような気がする部分があった。報道を眺めても、その後の影響は膨大と考えざるを得ず、SNSでは「山神様」などという表現も目にする。

足立監督が山上氏を撮ると耳にした際、「やはり」と感じた。なぜなら、1972年5月30日の「リッダ闘争」3戦士の1人である岡本公三氏を支援する「オリオンの会」でも、「テロとは何か」「現在の革命にどのような形がありうるか」というような話題が常にのぼっていたからだ。まさに、その先にあって、なおかつ誰も予想できなかったかもしれないのが、山上氏の登場だった。彼自身の語りとは無関係かもしれないが。

◆社会や世界を変革する「星」たれ!

3月11日、東京上映初日のユーロスペースでの舞台挨拶兼トークには、足立正生監督、主演のタモト清嵐氏、イザベル矢野氏、増田俊樹氏、飛び入りのカメラマン・髙間賢治氏が登場。司会進行は太秦の代表・小林三四郎氏で、増田氏が足立監督の「映画表現者は、現代社会で起こる見過ごせない問題に、必ず対時する」という言葉を紹介していた。

監督は作品を観た人には「これまでの作品とは異なり、わかりやすいといわれる」と語っており、実際わたしも本や絵はそのような方向性が意識されていたようには思う。足立監督といえばシュルレアリスム(【Interview】「僕らの根っこはシュルレアリスムとアヴァンギャルド」~『断食芸人』足立正生(監督)&山崎裕(撮影))。シュルレアリスムとは、「思考の動きの表現」であり、「奇抜で幻想的な芸術」だ。

ただし、本作から何を読み取るのかは、観る側に委ねられているはずだ。主人公・川上達也の苦悩の本質、彼が抱く「星になる」という希望、暗殺の実行によって彼が得たものなどには想像の余地がある。

個人的には、安倍どころか中曽根以降、否、戦後、否、明治以降に、彼の苦しみは翻ると改めて考えさせられた。1人が銃弾によって、そこに風穴をあける。「星になる」こととは、復讐を果たすことであるいっぽうで、社会や世界を変革する1人になることでもあるだろう。そして彼は、「生きるということ自体」を取り戻したのではないか。いっぽうで、わたしが復讐を果たすべき相手は誰なのか(比喩的にでも)。

主演のタモト氏は、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』にも出演していた方。初日のトークでも、森達也さんの『福田村事件』に主要キャストなどを連れ去られた話がすぐに出るが(笑)、井浦新氏ファン歴がさらに長いわたしでも、『REVOLUTION+1』の主演はタモト氏でよかったと思う。観る者に雑念を混入させない、シンプルに没頭させてくれる演技が魅力的だ。

とにかく足立監督は、「やはり、こういうのが好きなのだよな」と、なんというか自由でクリエイティブで少々デタラメな気分を共有させてもらえること請け合いだ。楽しそうに出演する監督やスタッフさんたちも、ウォーリーのように見つけよう。ぜひ、ご覧いただき、何に対して自分は立ち上がるのかを考えたりしてもらえれば幸いだ。

3月11日、東京上映初日のユーロスペースでの舞台挨拶兼トークの様子


◎[参考動画]映画『REVOLUTION+1』 予告篇

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。月刊『紙の爆弾』4月号に「全国有志医師の会」藤沢明徳医師インタビュー「新型コロナウイルスとワクチン薬害の真実」寄稿。映画評、監督インタビューの寄稿や映画パンフレットの執筆も手がける。

『紙の爆弾』2023年4月号

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0BXCMXQK3/

国際化の波が日本にも押し寄せている。ビジネスの世界でも政治の世界でも、国境の感覚が薄れ始めている。その中で浮上しているのが、コミュニケーションの問題である。世界の人口80億人のうち、日本語を話す人口はわずかに1億3000万人程度である。日本語は、グローバル化の中で生き残ることできるのか。

語学教育はどうあるべきなのか。国際化にどう対処すべきなのか。海外で長年にわたって日本語教育に取り組み、牧師でもある江原有輝子氏に、異文化とコミュニケーションの体験について話をうかがった。[聞き手・構成=黒薮哲哉]

◆世界の5か国で日本語を指導

── 海外で日本語を教えるようになるまでの経歴を教えてください。

 

江原有輝子(えはら・ゆきこ)氏

江原 わたしは早稲田大学の文学部を卒業した後、福武書店に入社して教育教材などの編集の仕事に就きました。しかし当時は、女性は結婚したら退職は当然というような社風があり、「この会社には長くはいられない」と思いました。そこで転職を考え、当時、国際交流基金と日本語教育学会がタイアップして設置していた日本語教師養成講座を受講するようになりました。1年目は日本語教育の基礎を学び、2年目には大使館の外国人職員などを対象とした教育実習を行いました。そして1988年に国際交流基金から派遣されて、メキシコシティーへ行きました。

希望する渡航先をきかれ、わたしは「どの国でもいい」と答えました。するとメキシコシティーへ行くように言われたのです。同市にある日墨文化学院(Instituto Cultural Mexicano Japones)で1991年まで日本語教育に従事し、いろいろなレベルのクラスを教えました。これが日本語教師としてのキャリアの始まりです。

── メキシコはスペイン語圏ですが、スペイン語は話せたのでしょうか。

江原 話せませんでした。最初は、午前中はメキシコ国立自治大学(Universidad Nacional Autonoma de Mexico)にある外国人のためのスペイン語講座に通い、午後から夜の9時まで日墨文化学院で仕事をしました。ハードな日程が裏目にでて途中で体調を崩したりもしました。

── 91年にメキシコから日本に帰国された後はどうされましたか?

 

メキシコ大学院大学(出典:ウィキペディア)

江原 お茶の水女子大学の修士課程(日本言語文化専攻)に入学しました。そこで第二言語習得の観点から日本語教育を学びました。在学中にメキシコ外務省の奨学金を得て、1年間メキシコシティーにあるメキシコ大学院大学(El Colegio de Mexico)に留学しました。この大学院で、自分が研究対象にしていたメキシコ人による日本語に関するデータを収集しました。たとえばどのようなレベルの日本語学習者がどのような語学上の誤りを犯す傾向があるかといったことを調べるために、外国人が書いた日本語の作文などを資料として収集しました。

日本語も教えました。日本研究をしている大学院生が7、8人いて、そのうちのひとりはコロンビアの人でした。もうひとりは確かキューバの人だったと思います。ラテンアメリカで修士レベルの日本研究ができるのは、おそらくメキシコ大学院大学だけでした。

── メキシコの次はどの国で日本語を教えましたか?

江原 お茶の水女子大学の修士課程を終えた後、国際交流基金の派遣で今度はドイツへ行きました。さらにその後、ニュージーランドとオーストラリアへ赴任し、政府機関で日本語アドバイザーとして働きました。さらに2019年5月からパラグアイへ行きました。これは国際交流基金の派遣ではなく、日本基督教団の宣教師として派遣されました。ピラポという日本人移住地にある教会の牧師として赴任したのです。日本語は、1年間だけピラポ日本語学校で教えました。

◆言語の違いと異文化

── 江原さんは外国語でコミュニケーションをされてきた期間が長いわけですが、それが自分の日本語力にどのような影響を及ぼしましたか?

江原 わたしの場合、メキシコへ行って初めてスペイン語を学んだわけです。その後、日本に帰ってきた時に、友人たちから以前に比べて話し方が分かりやすくなったと言われました。メキシコへ行く前、日本語でコミュニケーションしているときは、はっきりと要件や主張を伝えなくても分かってもらえる部分がありました。このあたりまで伝えれば相手は、わたしが言いたいことを察してくれると。

しかし、スペイン語はわたしにとっては外国語ですから、限られた語彙や表現で、相手に自分の意図を正確に伝える必要性が生じました。たとえば、水道屋さんに「水が漏れているから修理してほしい」という意思を伝える場合、はっきりと要件を言って、自分が相手に希望することが実現するように、説明しなければなりません。限られたボキャブラリーで、どう言えば相手が分かってくれるかということをいつも考えながら、話していました。その結果、日本語で話すときも、「こういったら分かってくれる」とか、「こういう言い方をした方がいいかも知れない」ということを常に考えながら話すようになりました。

外国人に日本語を教えるときも、限られた語彙で、どう表現すれば相手を理解させることができるかを考えなければなりません。普通の日本人を相手にするように話しても通じません。どういう言い方をすれば、相手は理解できるかを常に考えました。

◆幼児に対する外国語教育、指導者側の問題

── 早期からの外国語教育についてどう思いますか? 幼児期から英語を教えるべきだという考えと、まずは国語を十分に勉強すべきだという考えがありますが。

 

早期英語教育をPRするウェブサイト

江原 中途半端に英語を勉強した日本人の先生が、小学校で英語を教えるのはやめたほうがいいと思います。本当に子どもをバイリンガルにしたいのであれば、外国にいるような環境を準備する必要があります。日常生活の半分ぐらいを英語にする必要があります。それができるのであれば、幼時から子供を英語の環境に置いたほうがいいと思います。

日本語は特殊な言語なので、英語をちゃんと身に着けておくことは大切ですが、だからといって小学生を相手に不正確な発音で、「one, two, threeとか、red, white, yellow」などとやるぐらいなら、むしろなにもしない方がいいと思います。誤った発音を覚えてしまうと、矯正するのにかえって時間と苦労が必要になるからです。

この問題は日本以外の国にもあります。たとえばニュージーランドは、日本と違って小学校とセカンダリー(中学+高校)の教育制度になっており、セカンダリーでは外国語を教えるのが普通です。わたしが2000年にウェリントンに赴任したころは、生徒には5つの外国語の選択肢がありました。日本語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語です。ひとつの学校で全部を教えることはできないので、学校によって教える外国語が異なります。生徒も、自分が選択を希望する外国語のクラスがあるセカンダリーに進学します。

当時、ニュージーランドでは、教育省が小学校からの外国語教育を奨励していました。しかし、特に日本語の場合は教師の資質の問題がありました。フランス語とドイツ語はもともと学校で教えていた言語なので、ある程度、レベルの高い先生がいます。日本語がブームになってきたので、教育省は教える方針を打ち出しましたが、学生時代に日本語を勉強した教師はいませんでした。そこで、「日本語なんか分からなくても教えられるわよ」というような考えの人が、小学校教師を対象とした教え方の教材を制作したのです。

その教材は、「ひらがな」は難しいので、教えなくてもいいことになっていました。ローマ字で代用すればいいとされていました。それが教育省の方針だったのです。そこでわたしと、もう一人の日本人アドバイザーが、「こういうやり方ではだめです」とアドバイスしました。

限りなく日本語の知識がゼロに近い先生が、学校で「イチ、ニイ、サン」とか、「ワタシノ ナマエハ……」といったことをやるわけです。これは日本でよくある幼児を対象にした英語教室とよく似ています。

小学校でこうした教え方をしていると、「変な発音」や「変な表現」が身についてしまうので、本格的に言語の習得を始めたとき、それを矯正するのが大変です。その役割を担うセカンダリーの日本語教師にとっては迷惑なことです。

こうした観点から考えると、日本の小学校で中途半端に英語を教えるのはよくないと思います。不正確な発音や自己流の表現で、たとえばゲームをやるとそれが身についてしまい却ってマイナスになる。後年、矯正するのに大変な手間がかかります。

── 外国語を学ぶときは、最初が肝心だということでしょうか?

江原 はい。わたしはメキシコへ行くまでは、スペイン語をまったく勉強したことがありませんでした。ゼロだったわけです。そしてゼロからメキシコ人にスペイン語を習った。そうするとある時から、同じスペイン語でも、メキシコ人が話すスペイン語と、それ以外のスペイン語国圏の人が話すスペイン語との違いがはっきりと分かるようになりました。

ところが、英語に関しては、わたしは英語圏で7、8年生活しましたが、最初は米語と英語の違いを聞き分けられなかった。その原因は、日本の学校で受けた英語教育により、わたしの耳が「つぶれていた」からだと思うのです。間違った発音を身に付けていたからだと思います。

◆言語の背景にある文化的な土台の衰弱

── パラグアイの日系2世、3世の日本語はどんなレベルなのでしょうか?

江原 パラグアイのピラポへの移住は約60年前に始まりました。1世は今70代から80代です。1世は日本語しか話しません。家の中では、孫とも日本語だけで話します。ですから2世、3世の日本語力は、非常に高いレベルの人が多いです。わたしはそこで1年間、日本語を教えましたが、3分の2ぐらいの生徒は日本の義務教育で使われている国語の教科書をそれぞれの学年で教えることができるレベルでした。

子供たちは、月曜日から金曜日までは、現地の学校へ通学してスペイン語で学び、土曜日には日本語学校にきて日本語を勉強します。日本語学校では、当然、すべての場で日本語を使います。職員会議も日本語でやる。先生は2世と3世の日系人で、日本人はわたしだけでした。

多くの日系人がかなり高いレベルの日本語を使うことができます。しかし、日本文化についての知識は十分ではありません。たとえば森鴎外や夏目漱石は知っているが、太宰治などは名前すら知らない。日本文化のある部分が欠落しているのです。もちろん古文などは読んでいません。そこに何か欠落したものを感じました。教科書を使って問題なく日本語を教えることはできますが、言葉の背景となっている部分の知識が浅くなっているように感じました。

これに対して、日本で育った日本人は、日本についての十分な知識があり、その土台の上に言語が乗っています。ピラポでは、その土台の部分が浅くなっているのではないかと思います。2世、3世の方々ですから当然といえば当然ですが、世代を重ねるごとに土台の部分がさらに脆弱になり、日本語力も徐々に落ちていくのではないかと推測します。そして最後には、現地の公用語であるスペイン語だけになるのだと思います。日本語は消えるわけです。それが他国の日系人に起こったことです。隣国ブラジルには150万人の日系人がいると言われていますが、日本語を話す人はほとんどいません。

◆国際言語ではない日本語

── 日本語の普及は必要だと思いますか?

江原 わたしは、日本語はあまり役に立たない言語だと感じています。日本語を教える仕事は楽しいですが、もしわたしが日本人でなかったら、日本語を勉強しなかったと思います。第一に漢字の習得が大変です。数が多い上に、読み方がたくさんある。音読みと訓読みがあり、それを組み合わせると読み方も変化します。こうしたことを全部覚えて、本を読むのは大変なことです。日本語は、話すことに関してはそれほど難しくはありませんが、読み書きで日本人並みのレベルになるのはとても大変です。学習する外国語としては、非常にハードルが高いのが実態です。趣味でできるような言語ではありません。

これに対して、たとえば英語やスペイン語は、熱心に勉強すれば1年ぐらいで新聞が読めるようになります。頑張れば大学へも入学できます。少なくとも一定のレベルまでは到達できます。しかし、英語を母語とする人が、日本語の授業を聞いてノートを取り、日本語の参考文献を読むのは大変なことです。

── 海外へ出るとすれば、どの国を勧めますか?

江原 あえて言えばメキシコを勧めます。わたしは、自分が最初にメキシコへ行ったことは、非常に幸運だったと思っています。メキシコには、自分の想像とは異なった世界がありました。メキシコでは休日になると、かならず親族が集まってきて、一緒に時間を過ごします。日本にいる時には、「外国では大きくなると独立して親と別居する」と教えられましたが、「外国」と言っても、ラテンアメリカではそれは当てはまりません。

日本との文化の落差が大きな国へ行くと目が開かれて、学びが多いと思います。人生が大きく変わります。実際、わたしの人生はメキシコで変わりました。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

◆音楽界にゲバルトをかける!

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと!──。「山﨑博昭の死」は私にそのことを教えてくれた。

「志」のようなものの芽生え? 向かうべき方向性が見えた、そんな感じだった。

だからといって当時の私に明確な志や行動目標があったわけじゃない。学生運動家が神々しく見えたといってもそれは私とは距離がありすぎた。「10・8羽田闘争」に共感はしても、ベトナム反戦、反安保というスローガンが自分の志になるには私はまだ政治的にあまりに幼すぎた。漠然と「戦後日本はおかしい」くらいじゃ、政治活動にはならない。一言でいって私にはまだ「学生運動の敷居」は高かった。でもそれに近づきたかったし、社会を革命する行動のとれない自分に焦れていた。

1967年10・8闘争はその後も11・12羽田闘争、佐藤首相訪米阻止闘争へと続き「権力の暴力に立ち向かう」意思表示として「ヘルメットとゲバ棒」は、新しい学生運動の誕生を象徴するものとして「戦後民主主義に疑問」の私たち戦後世代の若者の心を捉えていった。それは翌年1月の佐世保闘争(米原子力空母寄港阻止)、その後の東大、日大全共闘結成で頂点に達する……それは後日のこと。

そんな私の1967年晩秋、たぶん11月頃、同志社学生会館ロビーで所在なげに座っていた私に近づいてきた二人の長髪同志社大生、この二人は水谷孝、中村武志 ── この運命的な出会いが次の私の革命への一歩になろうとは! 

彼らからどう話しかけられたかは「記憶に遠い」。なぜ私に話しかけてきたのか? この時のことを中村武志は後にこう語っている。

「結成時のことねぇ……、まず水谷氏とは大学の軽音同好会で出会った。とにかく彼は当時まだ少なかった長髪でカッコよく、独特の雰囲気を持っていて一目で魅了された。たぶん僕から“一緒にバンドをやらないか”って声をかけたと思う。で、ベースとドラムを探さなきゃ、誰かカッコいいやつはいないか、ということになって一緒にキャンパスを探し、若林さんを見つけた。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

当時、私の長髪は肩にまでかかる真ん中分け、細身の黒のコーデュロイ上下、上着は5つボタンの袖がボタンで絞れるカーナビー風ファッション、しかも「お婆ちゃんの鼈甲(べっこう)丸眼鏡」風サングラスに黒ブーツ、全身これ「黒」で決めていた。同志社キャンパスでは嫌でも目立ったと思う。自分で言うのは何だが「誰かカッコイイやつ」という水谷、中村のおメガネにかなわないはずがない、「お顔」はともかく長髪が醸す雰囲気だけは「誰よりカッコよく決める」を自負していたから……一種の私の革命。

水谷、中村とは最初の出会いで瞬時に意気投合した。彼らと話しこんだのはだいたい以下のような感じ、多分に私の主観が入ってると思うけれど……。

いまロック界にも革命が起こっている。「へイジョー」、「紫の煙」のジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドは圧倒的な音の壁を作りだし、“Somebody to Love”がヒットのジェファーソン・エアプレーンはサイケデリックな映像も駆使した幻想的なライブを演出していた。


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Hey Joe (1967)


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Purple Haze – LIVE (1967)


◎[参考動画]The Jefferson Airplane – Somebody To Love (Smothers Brothers, May 7 1967)

それはビートルズ「抱きしめたい」の頃とは完全に異次元のロック。エレキギター、ベースなど電子楽器の駆使であんな音が出せるのだ! ロックの可能性、革新に関する3人の想い、感覚は完璧に共鳴した。当時の日本のロックと言えば、グループ・サウンズ全盛、音楽業界が作りだした商業主義のアイドル・グループばっか、あんなのはロックじゃない。こんな日本の音楽界にゲバルトをかける(ゲバルト=戦闘)! 日本のミュージック・シーンを革命する! 誰のものでもない、自分だけのものを! 

これが私のハートに火を付けた。話す口調はぼそぼそ、でも3人の心と魂はギラギラ。

中村武志は当時を振り返ってこうも語っている。よく雰囲気を伝えているので少し長いが引用する。

「話をしてみると、彼(若林)も僕らと同じような音楽を聴いていて、ただ、楽器は何もしたことがない。でもベースやれ、と。つまり最初から楽器のテク以上に、感性や理念が大事だったってこと。……バンド名も含めて、“日本語でオリジナルをやる”っていうのは、最初から絶対にあった。当時、グループサウンズとかは日本語だったけれども、本当にロックを日本語でやるバンドはいなかったから。水谷さんは詩人で、すでに歌詞を書いていたし、それをロックでやりたかった。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

水谷、中村も「ジュッパチの衝撃」体験者。同志社軽音サークル時代の友人、久保田麻琴(「夕焼け楽団」など主宰)によると、水谷はこんな感じで軽音サークルを飛び出した。

「半年ぐらいで軽音辞めちゃって。気が付いたら、街をヘルメットかぶって、歩いてた。……学生運動にならって、演説っぽい、この軽音楽部は自己批判しろ、みたいな、そんなこと言って退部していった」(「ロック画報」25号 特集:裸のラリーズ)

1967年晩秋の同志社学館での出会いと意気投合、それは三人三様の「ジュッパチの衝撃」、それが化学融合を引き起こした一事変、ある意味これが「裸のラリーズ」の萌芽、その原点。私は勝手にそう思っている。

◆「“らり~ず“でいいのだ」、「”裸のまんま“で行こう!」

同志社学館での意気投合後、バンド結成をめざした3人だが音楽はやらず、3人でつるんでるだけの時間が多かった。私はベースギターすら持ってなかったし、ましてやギター素人だから練習しなきゃとも思わなかった。彼らもそれを要求もしなかった。

ある意味、3人の意思の統合、バンドの方向性の模索期。

中村武志の言葉を借りれば、こういうことだ。

「最初期のメンバーでミュージシャンとして通用するのは水谷さんだけ。僕らはミュージシャンになりたかった訳ではなくて、バンドをやりたかった」(「京都新聞」2022年5月4日付け)

当時、中村は「志望はカメラマン」とも言っていた。

 

「LES RALLIZES DENUDES“FRANCE”DEMOS」

水谷はこんな風にも言っている。フランス在住時の水谷と音楽評論家・湯浅学のファックス会話の一部、全く公式発言のない水谷の希有な資料だ。

「当時、水谷は(現在もそうだが)友人もしくはお仲間はどちらかと言えばミュージシャンより、絵描き、詩人、カメラマンと称する様な連中が大半。モダンジャズの店(“しあんくれ~る“だろう)にたむろしていた。こちらがもし何かに影響を受けたとしたなら、彼らとの遊び、会話、その他諸々からである筈だ。それらは常に刺激的であった。また、常に刺激的であるべきだ」(水谷×湯浅学ファクシミリ交信-1991)

私たち3人はミュージックだけでつながっていたわけじゃないということだ。

「鏡よ鏡、世界でいちばんカッコイイのは誰? それは裸のラリーズ」

こんな呪文が3人の信条。むろん誰も口に出したことはない、でも心は確実にそれだった。

水谷、中村、そして私、この長髪最尖端3人組がつるんで歩くだけで「空気が一変する」、要するにグループとしてとてもカッコイイ。京都の街を3人が歩くときは周囲を睥睨(へいげい)、「下にい、下にい……」の大名行列気分。無意識の意識、あくまでいま思えばという私の主観。それは単なるナルシズムかもしれないし、世間的には傲慢この上ない連中、「鼻につくヤツら」だっただろう。

なにかを声高に議論したこともなければ、そもそも会話自体とても少なかった。水谷の用語は「イカしてる」と「イカさない」、つまりカッコイイかカッコ悪いか、この二つで事は足りた。日常会話なんてダサイ、阿吽(あうん)の呼吸、最低限必要な言葉で成り立つ不思議な「黙示録」グループだった。

恰好にもこだわった。ロック界を革命する人間は誰よりも「イカしてる」、カッコイイ人間でなければならない。

当時、男物のない花柄のシャツがほしくてデパートの婦人服売り場を物色したり、野性味がほしくて米軍放出品の中古着屋をのぞいたりした。私は戦闘服とザック製や強化ビニール製の軍用ショルダーバックを買った。彼らもなにがしかのものを買った。

こんな3人が化学反応すればすでに「新しいバンド」の方向性は決まったも同然。

バンド名「裸のラリーズ」命名経緯についてはよく質問を受ける。

バンドが有名になってから命名に関するいろんな議論が交わされたと聞く。よく言われるのがウィリアム・バロウズの「裸のランチ」が由来だとかetc……。でもそんなややこしいことを考えて命名されたわけではない。事実は至って単純だ。

肌寒い初冬のある日、たしか「モップス」だったか何かの公演を「視察してやろう」とかで夜の京都の街を徘徊していたときに突然として産まれたものだ。別にバンド名を考えようなんて議論をしていたわけじゃない。

3人はハイミナールをやっていて精神ハイ、いわゆる“らりって”た。突然、「俺たちは“らり~ず”」! 的なことを誰ともなく言ったのがきっかけ。私? 水谷? 中村? 記憶はぶっ飛んでいる。“らり~ず”だけじゃ物足りないし語呂も悪い、なら“裸”はどう? 素(す)のまま、飾りっけなし、裸のまんま!-で、「裸のらり~ず」。 

“らりって”て何が悪い!?-「“らり~ず”でいいのだ」、「“裸のまんま”で行こう」! まあそういうことだったのかなあと思う。

正直、この辺の前後事情はまったくの「感じ」でしかない。いわば突然のひらめき、あるいは「神の啓示」としか言いようがない。霊感と言った方がいいのかも知れない。

この時から自分たちを「裸のらり~ず」と称するようになったが、私はこの命名だけで全世界を獲得した気分だった。そんな高揚感を持ったのは事実だ。

いま思えば、この「裸のらり~ず」という命名は「詩人」仁奈さんから教えられた「イメージの言語化」、その賜物かも知れない。たぶんそうだ。

当時の私の感覚では平仮名の「らり~ず」、いまは「裸のラリーズ」で通っているがカタカナの「ラリーズ」じゃ英語の「ラリー」、自動車レースみたいな語感で「らりってる」という着心地がしない。水谷が“Les Rallizes Denudes”とわざわざフランス語表記にしたのもそんな事情からかも知れない。このフランス語の語感は水谷風に言えば、「最高にイカしてる」。でもそんな解釈論議はどうでもいいこと、辞めた私があれこれ言うことではない。

◆萌芽期 ──「裸のラリーズ」の始動

ベースギターは冬に入ってようやく買った。安物だが黒のまあまあカッコイイもの、水谷の知り合いの楽器屋のおばさんに月賦にしてもらった。時折いじくる程度でそれほど練習した記憶はない。バンドの集まれる練習場もなかったが、それを求めようと焦ってもいなかった。

ようやくバンドの練習場が見つかったのは、翌年の2月頃。町内野球チームでバッテリーを組んだ私の幼なじみが草津駅前に百貨店を開き、国道1号線脇に作った倉庫を「これ使えや」と貸してくれることになった。そこに小さなアンプとギターを持ち込み、練習場とした。文字通りのガレージ・ロック。

私はナッシュビル・ティーンズのヒット曲「タバコロード」のベース音を練習曲にした。けっこう曲がカッコよくて初心者にも弾きやすかったからだ。水谷は足踏み式のワウワウペダルを使って音の歪みを試したりしていた。それぞれが勝手にやって3人で音合わせをするということはしていない、まだそのレベルじゃなかった。


◎[参考動画]タバコロード ナッシュビルティーンズ 1964

その頃だと思うが、同志社写真部にいた知り合いの女性が部主催ダンスパーティの演奏をやらないかと私に持ちかけてきた。私は「いいよ」と答え、水谷、中村も「やろう」となった。3人で音合わせも、やる曲の打ち合わせも事前練習もなし、そんな具合でずいぶん無謀な出演だったけれど、私も含めて何の心配も躊躇もなかった。これが初めてのバンドとしてのデビューと言えるが、ずいぶん無茶をやったものだと思う。

どんな曲をやったか全く記憶にない。ただ私がなぜかヴォーカルをとったローリング・ストーンズの“As Tears Go By”(涙あふれて)をやったことだけは覚えている。


◎[参考動画]As Tears Go By – The Rolling Stones 1966

たぶん演奏はハチャメチャだっただろう。案の定、場はシラケにシラケてみんなダンスをやめた。ただ数人の私たちのサポーターだけが勝手に踊ってくれていた。私たち3人はといえば「ダンパがつぶれてざまあ見ろ」の傲慢姿勢、そもそもダンス・パーティなどというもの自体、私たちのバンドとは対極のものだった。最初っから「ゲバルトをかけてやれ」くらいのつもりで引き受けたのかも知れない。出演を斡旋してくれた写真部女子には悪いことをしたと思う。

でもその写真部女子には「写真展に出品する作品のモデルになってくれない?」とまた頼まれて「おう、面白いね」と受け、大津市郊外の琵琶湖畔で3人の撮影会をやった。琵琶湖の西を走る単線「江若鉄道」の線路を背景にしたり、けっこう雰囲気のある写真が撮れた。写真展後、その彼女から線路に座る米軍古着戦闘服姿を捉えた私の大きなモノクロ写真パネルをプレゼントされた。天衝く意気だがまだ何ものでもない当時の「ラリーズ」の雰囲気をよく表しているとてもいい写真だった。彼女には心から「ありがとう」と言った。

いま国内のみならず海外でも一部に熱狂的なファンを持つバンドだから、「裸のラリーズ」萌芽期を捉えた彼女の大量のフィルムはファン垂涎の超「お宝写真」になったはず。事実「そのフィルムなんとか入手できないか?」という記者からの問い合わせも受けた。友人から聞くところによるとその写真部女子は2年ほど前に故人となり、彼女と共にその「お宝映像」も天国に召された。

この時期の唯一とも言える写真が存在する。

それは大学の春休みだったか3月頃、3人で鈍行列車東京遠征をやった時のものだ。遠征目的は「東京の音楽シーン」視察。ロックバンドの出演する劇場などを視察したが「どうってこともないロックだな」というのが3人の評価、新宿紀伊国屋ビルのピットインではモダンジャズの生演奏を聴いたりもしたがこれは刺激的だった。

 

「裸のラリーズ」萌芽期の水谷、若林、中村(下から上へ/『カメラ毎日』1968年6月号掲載)

視察後の夜を新宿の深夜喫茶で過ごしている私たちを見かけ話してきた人物があった。彼は写真家で私たち3人をモデルに撮影したいということだった。私たちは「いいよ」と答え、翌日、彼のスタジオや青山の外国人邸宅のような庭で撮影をやった。プロのカメラマンの依頼だから喜んでいいはずだが、「カッコよく撮れよ」というような対し方だったと思う。

その写真家の名前は大森忠、彼の作品は「グループ」との表題で『カメラ毎日』6月号にモノクロ写真3枚が掲載された。暗くしたスタジオで撮影され、ライトアップで暗闇から浮かび上がるようにピントもぼかし3人を捉えたその中の一枚は、萌芽期「裸のラリーズ」の匂いが香り立つような仕上がりになっている。日本の知り合いのカメラマンから送られたその写真はいま私のお宝映像、あの頃の3人の心意気を時折、切なくも懐かしく思い出させるものだ。

このように1968年は「裸のラリーズ」がバンドとして芽吹く季節として明けていった。

他方、この年初頭の1月には佐世保闘争があり、「プエブロ号事件」直後の朝鮮に向かう米原子力空母「エンタープライズ」寄港阻止の激しい闘いは警察機動隊の過剰な暴力を生み多くの重軽傷者を出したが、これが学生たちへの佐世保市民の大きな共感と支持を呼んだ。片や東大では医学部闘争が激化、これが全学に拡大し東大全共闘を生み、日大がそれに続き党派によらない学生大衆による学生運動、全共闘運動が誕生、1968年は熱い政治の季節に入ってゆく。

この年、「21歳の革命」に向かう渦中にあった私もこれに無縁ではいられなかった。1968年は私に再び大きな転機を促す年となる。(つづく)


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes – Enter the Mirror


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes ’67-’69 Studio Et Live

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

1月26日、大阪・十三のライブハウス「GABU」で、高橋樺子(はなこ)さん(UTADAMA MUSIC)の新曲「さっちゃんの聴診器」の発売を記念したライブが行われた。満員の会場に現れた高橋樺子さんは、大好きだという真っ赤なドレスで「さっちゃんの聴診器」を歌い上げた。

高橋樺子さん

 

高橋樺子シングルCD「さっちゃんの聴診器」2023年01月26日発売 ¥1,000(税込)レーベル:UTADAMA MUSIC

高橋さんは、2007年、関西歌謡大賞でグランプリを受賞したことから、その後、審査委員長を務めた作詞家・もず唱平さんに弟子入り、2011年3月11日の東北大震災と原発事故の翌年、被災地復興支援ソング「がんばれ援歌」(作詞:もず唱平 作曲:岡千秋、三山敏)でデビュー。

もず唱平さんには、実は、一昨年、鹿砦社発行の反原発雑誌『NO NUKES voice』(現『季節』/28号=2021年6月発行)でインタビューさせて頂いた。

もずさんの父親・潔さんは、広島の「旧陸軍被服支廠(ししょう)」の現場監督で働いていたが、8月6日の原爆投下で二次被害にあい、その後原爆症を患われた。

しかし、父親が一生原爆手帳を受けなかったため、治療費などが嵩み、生活が苦しい時期もあったという。そうしたことから、次第に父親とは疎遠になっていく一方で、もずさんは反戦・平和への思いを強くしていった。そんな思いが高橋さんの熱心な復興支援活動などにつながっているのだろう。

もずさんにインタビューした際には、高橋さん、マネージャーの保田ゆうこさんから、震災後、何度も支援物資を被災地に運んだり、被災地で歌った思い出、広島に原爆を投下したB29の出撃地であるテニアン島、サイパン、グアムなど戦跡巡りなどに行かせて貰ったという貴重なお話もお聞きした。

そんな高橋さんは2015年、戦後70年の年に、もずさんが父親から聞いた原爆の体験をもとにした「母さん生きて」(作詞・もず唱平 作曲・鈴木潔)を、平和を訴える祈念歌としてリリースした。

それから7年ぶりの新曲となる「さっちゃんの聴診器」、高橋さんは、新曲にかける思いをこう語った。

さっちゃんとは、大阪の西成区でお医者さんをやっておりまして、いろいろ調べていきますと、研修時代は沖縄にいて、その後、大阪の西成にきて、路上生活者も多い釜ヶ崎という地域で、医師として、労働者の身体だけではなく、心にも寄り添う、献身的に社会貢献活動をされておりました。その矢島祥子さんのことを、私の師匠である、作詞家のもず唱平先生がドキュメンタリーとして、この作品に書きあげ、曲は、矢島祥子さんのお兄さんである敏さんに付けて頂きました。高橋樺子は、これまで『平和』をテーマに歌ってきましたが、今回、新たなスタイルの平和を、この『さっちゃんの聴診器』で沢山の方に聞いて頂き応援して頂きたいと思う曲です。

高橋樺子さん

◆「釜ヶ崎人情」が繋げた縁

もず唱平さんが「さっちゃんの聴診器」を書くきっかけとなったのが、もずさんが作った「釜ヶ崎人情」だった。もずさんの「釜ヶ崎人情」は、釜ヶ崎のカラオケのある居酒屋では「カマニン入れてや」といわれるほど、労働者に親しまれ良く歌われる曲だ。もずさんは、作詞家としてこの曲を初めて作るとき、何度も何度も釜ヶ崎に通い、飲み屋で労働者に話を聞いたという。その「釜ヶ崎人情」が、矢島敏さんともずさんを繋げていった。

「さっちゃんの聴診器」のモデルとなったのは、矢島敏さんの妹・祥子さんで、2007年4月から、西成区の鶴見橋商店街にある診療所で内科医として勤務しはじめた。その傍ら、ボランティアで野宿者支援活動に非常に熱心に取り組んでいた。給料、ボーナスを惜しみなく、野宿者らへの寝袋の購入費などに費やしたという。

しかし、2009年11月16日、西成区内の木津川の千本松渡船場で遺体で発見された。まだ34歳の若さだった。西成警察署は、当初「過労による自死」と断定した。

しかし、共に医師である群馬県の両親が、祥子さんの遺体の状態、痕跡などから、何者かに殺害されたのではないかと疑い、「事件として捜査してほしい」と訴え続け、その後ようやく自殺、事件の両面で捜査すると約束してくれた。ただ残念なことにその後捜査は進んでいない。

両親、敏ちゃんら兄弟は、毎月祥子さんが行方不明になった14日、祥子さんが勤務していた診療所のある鶴見橋商店街で、情報提供を求めるチラシ配りを支援者らと続けている。その前後、釜ヶ崎の居酒屋・難波屋や社会福祉法人「ピースクラブ」でライブを行ってきた。ライブの冒頭、支援者らと必ず歌う曲が「釜ヶ崎人情」だった。

2018年8月7日、NHKが、そうした情宣活動やライブ活動など、遺族や支援者らの活動を取材し、ドキュメンタリー「さっちゃんは生きたかった~大阪釜ヶ崎 女性医師変死事件~」が制作され、放映された、その番組を偶然自宅で見ておられたもずさん、「自分の作った曲が歌われている……」と驚かれると同時に、何かできないかと、遺族に連絡を取り、敏ちゃんらのライブにやってこられた。

初めてもずさんがライブに訪れた日のことを、敏ちゃんはこう話している。

「今日会場にもずさんという方が来られていると聞き、すぐにネットでググり、びっくりしました」。

その後もずさんは、祥子さんの故郷・群馬県で行われた偲ぶ会などにも参加し、遺族のために、何かできることはないかと考え、祥子さんのための歌を作ろうと考えた。

「曲を作るのはあなたしかいないんだ」と作曲を頼まれた兄・敏さん。こうして、もず唱平作詞、矢島敏作曲の「さっちゃんの聴診器」が生まれた。

矢島祥子さんの兄、敏さん(左から二番目)率いる「夜明けのさっちゃんズ」と高橋樺子さん

もずさんは、昨年11月に行われた偲ぶ会でこう話されていた。

昔、新谷のり子さんが歌った『フランシーヌの場合』(1969年)という曲が流行りました。『フランシーヌの場合は、あまりもお馬鹿さん……」と始まる歌を聞いて、多くの人が「フランシーヌって誰?」と思ったと思います。『さっちゃんの聴診器』も同じように『さっちゃんて誰?』と関心を持ってもらえるきっかけになればとの思いで作りました」。『もっと生きたかった この町に もっと生きたかった 誰かのために」。曲のはじめに繰り返されるこのフレーズ、ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたい。一緒に口ずさんで頂きたい。そして若くして亡くなった矢島祥子さんに思いをはせて頂きたい。

「さっちゃんの聴診器」を作詞されたもず唱平さん(右)が、歌に込めた思いを語る

◆沖縄に移住し、新たな音楽活動、そしてラブ&ピースの活動を!

今回の新曲発表ライブのサブタイトルに「私、沖縄に移住しました」とある。そうです。もずさんが温かい場所で作詞活動を行いたいと、昨年事務所を沖縄に移したことをきっかけに、高橋さん、マネージャーの保田さんらも沖縄に移住し、新たなレーベル「UTADAMAMUSIC」を立ちあげた。

「言霊」にかけた「UTADAMA」(歌霊)では、沖縄の島唄と本土のやまとうたの「混血」ソングを目指したいという。その第一弾の「さっちゃんの聴診器」。

「もっと生きたかった この町に もっと生きたかった 誰かの為に……。」

曲のはじめに繰り返されるこのフレーズ、ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたい。一緒に口ずさんで頂きたい。

そして34歳の若さで無念の死を遂げた矢島祥子さんのことを少しでも知って欲しい!

「さっちゃんの聴診器」(作詞=もも唱平/作曲=矢島敏/編曲=竜宮嵐)


◎[参考動画]高橋樺子 ”さっちゃんの聴診器” ~short ver~

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

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