◆青春時代からの目標は、いま……

この通信に昨年秋から「ロックと革命in京都 1964-70」を今年の夏まで掲載させて頂いたが、いま私は「京都青春記」の続編、「ピョンヤン青春記」を生きている。

82歳の現役建築家、安藤忠雄さんはこう言った。

「70歳でも、80歳でも目標がある限り青春です」

十代、二十代の「京都青春記」がLike A-Rolling Stone-転がる石ころのような人生、「目標を求め暗中模索の青春」だったとすれば、七十代「ピョンヤン青春記」、2023年末のいまはようやく「目標に向かう青春」だと言えるようになった気がする。

「京都青春記」からの私の目標とは「戦後日本の革命」だが、それが76歳になった今年、決して遠い目標ではないことが見えてきた。

◆「戦後日本の革命」が問われる時が来た

天皇陛下万歳からアメリカ万歳に変わっただけの敗戦直後の日本に生まれた私たち団塊の世代あるいは全共闘世代は、「アメリカに追いつけ追い越せ」の戦後日本に常に不信感のあった世代だ。大学受験を控え人生選択岐路にあった私は「米国についていけば何とかなる」という戦後日本の生存方式に違和感を覚え、曖昧模糊としたなんとなく平和で民主主義の昼間の日本に背を向けるようになった。

そんな「戦後日本はおかしい」という私の十代、二十代の青春は暗中模索の果てにベトナム反戦、反安保の学生運動に出会うことによって「戦後日本の革命」をめざすようになった。でも私たちの闘いは未熟さ故に敗北、「戦後日本の革命」は未遂に終わった。

米中心の国際秩序は揺るがず、よって「米国についていけば何とかなる」という日本の生存方式を揺るがせることもできず、日本は60年代高度経済成長から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の80年代へと、そしてグローバリズム全盛の90年代から21世紀へとひたすら走り続けることになった。

しかし、いまは違う。

本通信11月5日号に、“2023年を通して「米中心の国際秩序の破綻」、すなわち「パックスアメリカーナの終わり」は、ウクライナとパレスティナでの戦争を通じて世界が眼にすることになった”と書いた。それは「米国についていけばなんとかなる」という戦後日本の生存方式が根本から揺らぐ時代になるということだ。

10月下旬のフジテレビ「プライム・ニュース」では「“世界動乱の時代”の幕開けか」というテーマを取り上げた。「これはアメリカを中心とする国際秩序が破綻していることを映すのか」が番組の問いかけだが、それは言葉を換えれば「米国についていけば何とかなる」時代ではなくなったということだ。

私の問題意識から言えば「戦後日本の革命」が問われる時ということだ。

◆「一丁目一番地に居続ける」のか否かという問題

 

宮家邦彦氏の提言「一丁目一番地に居続ける」

上記「プライム・ニュース」番組最後にキャノングローバル戦略研究所研究主幹、内閣官房参与の宮家邦彦氏は提言ボードにこう書いた。

「一丁目一番地に居続ける」

この意味はいかなる時であっても米中心の国際秩序の恩恵を受ける同盟国という「一丁目一番地に居続ける」、したがって「米国についていけば何とかなる」という生存方式を続ける、そのためには崩れゆく米覇権秩序維持のために「一丁目一番地」の役割、米国のいちばんの同盟国として自身の役割を日本は果たすべきだということだ。

いまそれは具体的にはこう提起されている。

「アメリカがウクライナとガザで手一杯でインド太平洋地域の抑止力が弱っていく、それは困る」と宮家氏は述べたが、その結論は東アジアで「米国の抑止力が弱っていく」不足分を日本が補うべきであるということだ。

「米国の抑止力が弱っていく」不足分を日本が補う、それは具体的に何を指すのか?

結論的に言えば、対中“核”抑止力の不足分を補うことだ。具体的には敵基地攻撃能力保有の目玉、陸上自衛隊に新設のスタンドオフミサイル(中距離ミサイル)部隊の“核” 武装化であり、日本列島の中距離“核” ミサイル基地化、米国側からすれば日本の対中・代理“核”戦争国化だ。

これについてはこの通信で何度も述べたので詳細は省く。

陸自に中距離ミサイル部隊がすでに新設された現時点で残る課題は、自衛隊のミサイルに核搭載を可能にすることであり、そのための鍵はNATO並みの「核共有」のための日米韓「同盟」間での“核”協議体の設置にある。

宮家氏は内閣官房参与の位置にある人物だけに、わが国が「一丁目一番地に居続ける」ために新年には日米韓「核共有」に関する協議体の設置、自衛隊“核”武装化の道筋をつけていくことに積極的に関わっていくことだろう。

それは滅び行く米覇権秩序と運命を共にする道、米国との「無理心中」の道、日本破滅の道になる。

「一丁目一番地に居続ける」のか否か、答は自ずと明らかだ。

まずは「一丁目一番地」から引っ越し、自分の新しい住所を定める。これが「米国についていけば何とかなる」という生存方式からの脱却、自分の足で立ち自分の頭で考える「戦後日本の革命」の第一歩だ。

「ピョンヤン青春記」、来るべき新年はこのことを具体的に考えていく年になるだろう。

若林盛亮さん

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆私のLike A-Rolling Stone ── 転石苔むさず

時は日本が高度経済成長邁進中、1964年の「ならあっちに行ってやる」!─ 長髪高校生17歳の無謀な決心に始まる私のLike A-Rolling Stone「京都青春記」は、1970年3月のよど号ハイジャック闘争を前にした「革命家になる」決意文 ─「(たとえ死んでも)大きな愛の中で断じて生き抜く」をその結論とした。76歳まで生かされた2023年現在はピョンヤンでその「続編」を生きている。

Like A-Rolling Stone ─ ボブ・ディランの歌詞は、「転石」人生に落ちた女、かつては羽振りのよかった高慢ちきな女の零落ぶりを“How does it feel?”「いまの気分はどうだい?」と皮肉り嘲笑する言葉が並ぶが、私の「京都青春記」はその「転石」とはちょっと意味が異なる。

あっちにぶつかり、こっちに転がることによって「転石苔むさず」─「戦後日本はおかしい」の思いは錆び付くことなく一皮、二皮むけながら「戦後日本は革命すべき」へと一歩また一歩、前へ前へと進むことができた。

「いいんじゃない、若林君はぜんぜん悪くないよ」のOKに始まり、「簡単じゃないからいいんじゃないですか」の仁奈さん、「ジュッパチ─山崎博昭の死」の衝撃と日本の音楽界を革命する「裸のラリーズ」水谷孝・中村武志、「学生運動の野次馬」脱皮、「革命家の卵」からの孵化に苦闘中の私が「あなたの色はきっと輝く」を互いに競い合えた「よきライバル」、「俳優の卵」菫(すみれ)ちゃん……多くの幸運な出会いがそれを可能にしてくれた。

「ロックと革命in京都 1964─1970」を書きながら曲折多い「京都の青春」を共にしてくれた人たちへの想いを新たにしたが、いまそれを書き終えて「京都青春記」恩人たちには心からの「ありがとう」! を改めて述べたいと思う。

そして「転石」途上の転換期に唐突な「さよなら」で恩人に不義理を重ねた私の「京都の青春」、ただただ自分のことで精いっぱいだった未熟さを省(かえり)みる、そして「だから私はこの道を歩み続ける責任がある」! この瀬戸内寂聴さんのお言葉を噛みしめ肝に銘じたい。

また「京都の青春」最大の幸運は、あの学生運動の高揚期に出会えたこと、でもそれは敗北と未遂に終わった、だからこそその苦い教訓を糧に「この道を歩み続ける」決意を新たにしている。

そして決意を新たにしながら、「若林、おまえいったい誰のために革命やってるんや?」の問いかけで私の蒙を啓(ひら)いてくれた「京都青春記」以降の「革命家になる」人生最大の恩人、田宮高麿 ── 彼のことをここでは書けなかったが、それは「1970年 ── 端境期の時代」(鹿砦社)をご参照いただくことにして、ここに故人を心から悼みながら最大級の感謝を田宮高麿に捧げたい。


◎[参考動画]Bob Dylan – Like A Rolling Stone

 

Dylan & Suze

◆「絵に描いたような青春」??

私の「京都青春記」を読んで「まるで絵に描いたような青春ですね」と感想をくれた人がいる。

たしかに「革命と音楽と恋」─絵のような花の青春! そう見えるかもしれない。

あれから50余年の年輪を重ねた今だからこそ「若い頃の感情やその意味を穏やかに振り返ることができる」、でも「京都の青春」渦中にあるとき、私の心中はまったく穏やかでなかった。「あっち」には行ったものの「目標がわからない」「自分のものがない」「未来が見えない」暗中模索の時期、私にはある意味「暗闇まっただ中の時代」というのが当時の私の実感だ。

「二十歳、それが人生で最も美しい季節だとは誰にも言わせない」! このポール・ニザンの言葉そのままの青春だったと思う。これは何も私だけじゃないだろうが……。

ついでにいえば恩人にはなぜか女性が多い。「もてたんですね」と言う人もいるが、それもちょっと違う。

あの頃の女性には長髪人間は見るからに「ヤバイ男性」、そんな「お付き合い対象外」の私にいわゆる男女交際、普通のデートなどできるわけがない。にもかかわらず私の恩人に女性が多いのは当時の時代状況と関係していると思う。

「アメリカに追いつき追い越せ」の戦後日本で男性には活躍の機会が広がったけれど、女性は相変わらず「結婚して家庭に入る」── 職場は結婚するまでの腰かけ、料理に裁縫、お花にお茶の稽古事といった「花嫁修業」が若い女性に「望まれる人生」ルートだった時代だった。男は「モーレツ社員の会社人間」! 女は家庭を守る「良妻賢母」! そんな時代風潮に抗し男より早く自我に目覚め自立志向を強める女性が出てくるような時代でもあった。少数ではあれそんな女性には「ならあっちに行ってやる」の私とは奇妙な「魂の親近性」があったと思う。

 

平塚らいてうと雑誌『青鞜』

OKはボーヴォワール、仁奈さんは平塚らいてうや樋口一葉を敬愛し、菫ちゃんには演劇があった。彼女らはある意味、覚醒は私より一歩進んでた女性たち、だから「私の師」とも言えるような存在でもあった。

そういう存在は、男性には水谷孝、中村武志しかいなかった、ただそれだけのことだ。

そういう彼女ら彼らと出会えたこと、震えるような魂の刺激を受け、多くを学べたことは本当に幸運だったと思う。

◆「自分の国」を話せない日本人

小中高校生の頃、「尊敬する人物を書きなさい」というアンケートが私は苦手だった。そう言われても頭に浮かぶ人物が私にはなかったからだ。適当に誰かの名前を書くには書いたが、自分は何にも知らないんやといつもちょっと自分が嫌になった。いま考えれば、それは単なる無知じゃなく、私には尊敬することの「基準」というものがわからなかったのだ。画家のゴッホやモジリアニが好きだ、憧れだというのはあっても、それは「尊敬する人物」とはちょっと違う。

「天皇陛下万歳」の日本から「アメリカ万歳」の日本に激変した敗戦直後の日本では大人たちも自分の価値観が混乱するのも当たり前だった時代だ。「二度と戦争をやってはいけない」「軍国主義はもうまっぴらだ」と子供に言えても、「これだ」という自分のもの、日本に根ざした信念や信条、道徳や倫理を子供に教えられる大人はほとんどいなかった。当然、子供の私には何を尊敬し、何を誇りにするのか、わかるはずがなかった。

いまも日本人は外国に行って、他の国の人間と比べて自分の国のことを話せない、話さない、ただ他人の「お国自慢」を聞いてるだけ、とよく言われる。それは戦後日本のアイデンティティ、誇りというものが相変わらず曖昧模糊状態にあることの反映ではないかと思う。

‘70年代後半の頃、フランスに行ったとき「シノワ(中国人)か?」と声をかけてきたアフリカやアラブ系の若者に「ジャポネ(日本人)だ」と答えたら、「ホンダ、スズキ tres bien(素晴らしい)」! と彼らは親指を立てた。でも私はちっとも嬉しくなかった。「それがどうだっていうの?」、「それだけ?」と苦笑いせざるをえなかった。

朝鮮に来て初めて革命博物館に見学に行った時のことだ。抗日武装闘争館を見て回ったとき、講師の女性は日本の若者に「日本人民も日本軍国主義者の犠牲者じゃないですか」と言った。この言葉には外交辞令でもない真実味はあったが、私はどこかで何かひっかかった。素直に「そうです」とは言えなかった。

「中国人捕虜刺殺要領」を授業中に得々と生徒に語った教師は根っからの軍国主義者でもない「民主主義教育のリーダー」だった日本人だ。反日ゲリラの中国人捕虜を「日本の敵」と信じたからこそ躊躇なく刺殺できた日本人だ。当時の多くの日本兵士がそうだったのだろう。大人になって、つらい戦場では従軍慰安婦と過ごす慰安所での時間が唯一の楽しみだったという老人の話も聞いた。これを戦後世代が一概に非難することはできない、果たして自分たちに戦前世代を非難する資格があるのだろうか?

戦後の日本人はアメリカには頭を下げたけれど、アジアには頭を下げないまま今日まで来た。言葉を換えれば、上述の教師のように「中国人捕虜刺殺と戦後民主主義はイコールで結ばれている」! 極論かもしれないが、これが戦後日本ではなかったのか? 北ベトナム爆撃に向かう米軍機B52が沖縄の基地を出撃拠点にしたのもそういう戦後日本の反映だ。

それはアメリカの価値観(連合国史観とも言われるが)でしかあの戦争を総括しなかったからではないのかと思う。自分の頭で考えた「戦争の反省」、自分の教訓というものがないまま他人の歴史観の受け売りで戦後日本は出発し、“なんとなく平和と民主主義”的な国として曖昧模糊なまま今日まですごしてきたのではないだろうか。

かつて「自存自衛の戦争」論、「米英の理不尽な経済制裁の圧迫包囲網による自滅から自分の国を守る戦争だった」が持論だった安倍元首相は、戦後70周年に米国で行った演説時、「当時の(米英中心の)国際秩序に挑戦した」ことを米国会で反省し、今後の日本は「国際秩序維持に積極的に貢献する」ことを誓い、持論を翻した。「愛国」を売り物にした「右翼」政治家すらこの体たらくだ。

戦後の日本人は自分を知らない、自分がわからない日本人になってしまった。自分がわからないから、自分のこと、自分の国のことを話せない。

私の場合、戦後日本への疑問から「ならあっちに行ってやる」以来のLike A-Rolling Stone青春として極端な形で現象したが、いまの日本人も根っこのところでは大して変わらないと思う。

私が何を言いたいのかといえば、「戦後日本はおかしい」はいまも変わらないし、日本人としてのアイデンティティを確立するためにも「戦後日本の革命」はいまも課題として残り続けているのではないかということだ。

◆「戦後日本の革命」── それはアイデンティティ確立の革命

この連載を始めるに当たって「序文」的に私はこう書いた。

“ウクライナ事態を経ていま時代は激動期に入っている。戦後日本の「常識」、「米国についていけばなんとかなる」、その基にある米国中心の覇権国際秩序は音を立てて崩れだしている。この現実を前にして否応なしに日本はどの道を進むのか? その選択、決心が問われている。それは思うに私たちの世代が敗北と未遂に終わった「戦後日本の革命」の継続、完成が問われているということだ。”

いま「戦後日本はおかしい」は極限にまで来ているように思う。

私は安保防衛問題を自分の研究課題にしているが、いまの日本はかつての「ベトナム反戦」どころじゃない、タモリの言った「新しい戦前」と言われる事態にまで来ている。

その「新しい戦前」の正体は、一言でいって「対中・代理“核”戦争国化」だ。これについては『紙の爆弾』やデジタル鹿砦社通信にいくつか書いたので、こちらを参照いただければと思う。ここは結論的に述べるにとどめたい。

ウクライナ支援を呼びかけたG7広島サミットは、逆にグローバルサウスと呼ばれる発展途上諸国の離反を招き、G7の孤立ぶりを世界に知らしめた。「G7が世界をリードする」時代は終わったのだ。

「核廃絶」を表看板に掲げ、G7各国首脳の原爆資料館参観まで演出したが、採択された「広島ビジョン」は核抑止力強化を謳った。この延長にある8月の岸田首相訪米、日米韓首脳・キャンプデービッド会談では「NATO並みの核使用に関する協議体」として日米韓“核”協議体創設が何らかの形で合意されるだろう。そして反撃能力(敵基地攻撃能力)保有の目玉として新設された陸自の「スタンドオフミサイル(「敵の射程外から撃てる」中距離ミサイル)部隊」への核搭載を可能にする「核共有」の道が開かれるだろう。

 

「核の傘」日米韓で協議体創設、対北抑止力を強化……米が打診(2023年3月8日付け読売新聞)

対中対決の核抑止力強化策としては、米国は自分が撃てば自国が核報復攻撃で甚大な被害をこうむるICBM(大陸間弾道ミサイル)を使うつもりはない、日本列島から届く戦術核ミサイルで代替する腹だ。それの具体化が「核の傘を貸す」、「核共有」に基づく陸自・中距離ミサイル部隊の「核武装化」、つまり日本の対中・代理“核”戦争国化だ。

当然、戦後日本の「決意」、非戦非核の国是は放棄させられる、それが「盟主」米国の「同盟義務履行」の求めだから日本政府は拒否できない。この求めに応じて日本の第一級「安保防衛問題専門家」と言われる人物は「日本の最大の弱点は核に対する無知だ」とまで言うようになった。

ここは政治を論じる場ではない。でも「戦後日本はおかしい」はここまで来ているということだけは訴えたい。ウクライナ戦争で中ロ二正面作戦を強いられ、ますます窮地に陥った米国の焦りは、対中対決最前線とされる日本に対する苛酷な要求として今後、露骨な形で現れてくるだろう。

いまは「覇権帝国の米国についていけばなんとかなる時代じゃない」どころか「覇権破綻の米国と無理心中するのか否か」というところまで来ている。

いま日本はどの道を進むべきか? 「戦後日本の革命」は現実問題として問われてくる! 

自身の運命の自己決定権─自分の運命は自分で決める、自分の頭で考え自分の道を自分の力で開く! 

それは戦後日本の曖昧模糊となったアイデンティティの再確立の道でもあると思う。(完)

このことが「ロックと革命」、「京都青春記」の続編、「ピョンヤン編」を生きる私がかつて共に闘った同世代、そしてこれからの日本に生きる若い人たちに訴えたいことだ。

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”
〈10〉「端境期の時代」挑戦の赤軍派 ──「長髪よ、さらば」よど号赤軍「革命家になる」
〈11=最終回〉連載を終えるに当たってあと一言、いや二言、三言……

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆「端境期の時代」挑戦の赤軍派

「最後の京都」は“Fields Of Gold”-「辛い別れの時」を敢えて明るく、「晴れやかに送り出す時」、「“黄金の世界を歩む”時」にしてくれた最後の恩人の心遣いを胸に私の上京は幸せな旅立ちとなった-ありがとう! ただ前を向いて進もう、互いに! この思いを胸に私は京都を離れた。

列車は午前0時前の京都始発「東京行き」各駅停車鈍行、大学時代からよく東京遠征に利用した懐かしい古い車体、私は数々の青春の記憶を刻む硬い座席に新天地に向かう身を委ねた。何が待っているかは想像できない、でも自分は組織と同志を得てこれから革命の舞台に立つのだ。心配よりも期待に胸膨らむ、そんな感じの旅立ちだった。

東京到着は翌朝正午前、連絡先に電話を入れた、ただならぬ声がして「すぐに新聞を買って読んでから来い」と指示された。朝刊トップにはその日の未明、「大菩薩峠で軍事訓練中の赤軍派全員逮捕!」の見出しが躍っていた。奇しくも赤軍派にとって一大事変のあった11月5日に私は東京に到着することになった。この日の事変が後の「国際根拠地建設」のためのよど号ハイジャック闘争-朝鮮への飛翔、私の今日につながる運命の分岐点、その契機になることになる。私の上京の日が自分の人生を決める契機となる日とは! いま思えば不思議な運命の悪戯??

大菩薩峠事件。警察に急襲され逮捕される赤軍派のメンバー(1969年11月5日)

指定の場所に行くと「そういう事情だからまず救援をやってもらう」と指示を受けた。

赤軍派の救援事務所は王子にあった。「アポロ」と呼ばれていた一軒家の事務所にその日から詰めることになった。当初は電話の応対が基本だった。指導的幹部らはほぼ逮捕状が出ていたので地下に潜行、主立った活動家も同じだった。しかも大菩薩峠で大量逮捕者を出した軍事行動直後だけに警察の追求、監視は厳しく、相互の電話での連絡がいわば生命線、警察の盗聴を前提に連絡先の電話番号は暗号で伝え、逮捕状のある幹部、活動家はみな偽名を使った。初っぱなから「地下活動」の異様な空気の中で私の政治活動が始まった。外出時は常に尾行を警戒した。地下鉄に乗るときはドアの閉まる直前に飛び乗るとか……赤軍派の活動モードは予期通りまさに非日常の生活だった。

ある時、「○○高校の××です。渋谷さんにこれから全校ストライキに突入すると伝えてください」との連絡を受けた。凄くせっぱ詰まった高校生の声、戦場からの報告だった。東京は常時戦場、高校生までが闘っている、そんな強烈な印象を受けた。「渋谷」とは当時の田宮の偽名、山手線各駅の名前を使い分けていたのだ。

後にアポロは西新宿の柏木町に移ったが、そこにも高校生がよく来た。別の高校に通う恋人が大菩薩で逮捕され「救援を手伝う」という女子高生が来た。貝津女子校の生徒とか言っていた。大人しそうで清純な「良家のお嬢さん」風の女子高生だった。私の「ならあっちに行ってやる」時代を想起させる東京の早熟な十代を目にした私はなんとか彼女たちを応援したいと思ったものだ。ミニスカートにブーツという超カッコイイ姉御肌の女子高生もいた。救援事務所は男子高校生には縁のない所だから来るのは女子高生。赤軍派は高校生に人気があると聞いてはいたが女子高生までいて、その現実を目の当たりにした思いだった。新しい世代に人気があるということはとてもいいことだ。これは私の赤軍派への信頼を高めるものだった。

後に小西(隆裕)から聞いた逸話だが、大菩薩峠での軍事訓練対象者を募るオルグ時、大学生は躊躇するものが多かったが高校生はちがったという。赤軍派の方針では、その軍事訓練部隊はそのまま「70年安保決戦」の先陣を切る首相官邸占拠・前段階武装蜂起を担う戦闘部隊になる、だから大菩薩に行くかどうかは「命がけの軍」に入るかどうかの決心を各人に問う性格を帯びた。

その時、ある高校生が躊躇する大学生たちにこう言ったそうだ。「気にしないでください、僕たちがやりますから」と。躊躇する大学生たちを責めるのではなく、むしろ彼らを気遣い慰める態度に出たことに驚きとても感動した、そう小西は話してくれた。「自己犠牲という花」はいつもこのように美しい。

この高校生は1年生、まだ15歳だったという。どうしてこんな高校生が生まれてきたのだろう?

「端境期(はざかいき)の時代」は「1970年」を象徴する言葉として鹿砦社が本のタイトルにしたものだが、革命の端境期は‘69年中盤以降にすでに始まっていた。

端境期とは、毎年3、4月の春期になると前年秋収穫の新米が古米に代わって出回る時期だが、もし前年度が不作や凶作で新米が提供されなければ、古米を食べ尽くした後には飢えと餓死が待つという時期を指す言葉だ。

1970年は「70年安保決戦」の年、しかし「古米が尽きて新米が出なければ餓死が待つ」、そんな革命の端境期だった。

1967年秋の「ジュッパチ-山﨑博昭の死」を契機とし‘68年に熱い政治の季節の始まった革命は、‘69年東大安田講堂死守戦敗退以降、日を重ねる毎に全国大学のバリ解除で学生運動は活動拠点を失い後退局面に入る。そして‘70年には既存の革命勢力は力を失い新しい革命勢力が出なければ「安保決戦など夢のまた夢」どころか「革命の餓死」が待っている、そんな端境期の様相を呈するようになった。このままではいけない! 誰もがそれを感じていた。

こんな時期に革命の舞台に立った私や高校生が赤軍派に求めたのは端境期に現れるべき「古米」に代わる「新米」、革命を餓死から救う新しい革命勢力の逞しい生命力だった。これまでと同じ「ゲバ棒とヘルメット」では餓死が待つだけ、赤軍派の攻撃的路線、「軍」による武装闘争を端境期突破の「新米出現」と期待を寄せ、赤軍派の闘いに一縷の望みを託しこれに全てをかける、そのようなものだったと思う。もちろん何か確信があってのものではなかった、でも少なくとも黙って餓死を待つよりは挑戦すべき価値があると思ったのは確かだ。いまでは想像もつかないだろうが当時はそのような切迫した現実があったのは確かだ。

幕末維新の思想家、革命家、吉田松陰は次のような言葉をわれわれに遺している。長いが引用する。

やろう、とひらめく。

そのとき「いまやろう」と腰を上げるか、「そのうちに」といったん忘れるか。

やろうと思ったときに、なにかきっかけとなる行動を起こす。それができない人は、いつになっても始めることができない。むしろ次第に「まだ準備ができていない」という思いこみの方が強くなっていく。

いつの日か、十分な知識、道具、技術、資金、やろうという気力、いけるという予感、やりきれる体力、そのすべてが完璧にそろう時期が来ると、信じてしまうのだ。

だがいくら準備をしても、それらが事の成否を決めることはない。

いかに素早く一歩を踏み出せるか。いかに多くの問題点に気づけるか。いかに丁寧に改善できるか。少しでも成功に近づけるために、できることはその工夫でしかない。

(「超訳 吉田松陰-覚悟の磨き方」:サンクチュアリ出版)

まだ革命は死んではいない、至る所に残り火は燻っている、この火をかきおこすものは何か? 新たな次元の闘いの勝利でみなに勇気を与えること、それが赤軍派だ、そんな風に考えたと思う。少なくとも私はそんな感じだった。いずれにせよ「新米」をめさす挑戦者が出るべき時期だったことは確かだ。その「新米」創出の一翼を担う、それは光栄なことだ、そんな心意気だった。

しかしながら赤軍派の闘いは「新米」を提供するに至らなかった。2年後の「連合赤軍事件」とその後、世を覆った革命運動への失望と幻滅を招くという「結果」を見てもわれわれ赤軍派の闘いは多くの問題点を含んでいた、その挑戦は失敗だったことは明らかだ。

でも誤解を恐れずに言えば、あの時、赤軍派で闘ったこと自体には何の後悔もない。少なくとも私はそう考えている。龍一郎さん式に言えば、「人生に 無駄なものなど なにひとつない」。

なぜこんなことを言うのかと言えば、当時、赤軍派に結集した若い高校生などの心には端境期特有の「新米を産み出す」という「挑戦者の魂」、松陰の言う「やろう、とひらめく」があったことだけは語っておきたいと思うからだ。事を成すに当たって「挑戦者の魂」はとても重要なことだ。

でも結果的には、この「挑戦者の魂」を活かす力が赤軍派にはなかった、だから赤軍派や当時の革命運動にあった「多くの問題点に気づけるか」「いかに丁寧に改善できるか」、これを休みなく続けていくこと、これが私たちには重要なことだと思う。

かなり先走って総括的な話になったが、ここで言いたかったことは私が上京当時の赤軍派に結集した若者たちの空気感はそのようなものだったということだ。一言でいって、とても前向きな挑戦者精神に満ちていた。これが私の実感であり、赤軍派に加入できたことが喜びだったことはまぎれもない事実だ。

これを若さ故の経験不足、無知故の若気の軽挙妄動と言うこともできるだろう、でもそれでは当時の革命運動の「問題点に気づき」「改善点を見いだす」ことには役立たないと思う。

◆「ベトコンのやった“あれ”だよ」

年が明けて翌1970年初頭、私は「軍」への参加を求められた。「いよいよ来たか」とちょっと緊張したが赤軍に入った以上、私には願ってもないこと、その場で快諾した。具体的には「国際根拠地建設」闘争を担う「軍」への参加だった。

「国際根拠地建設」という新たな方針は、大菩薩峠での軍事訓練失敗、大量逮捕の教訓から国内では「軍」建設には限界がある、ならば国外に「軍」建設、及び軍事訓練拠点を設けるというものだった。軍事委員長の重責にあった田宮が自ら「国際根拠地建設」闘争を率いるとしたのは、この闘いに組織の命運を賭けるという当時の赤軍派の切迫した事情を反映したものだ。私の上京の日が大菩薩事件の日だったことが私の運命を決める契機になったと先に書いたが、それは赤軍派のこのような事情から来るものだった。

国際根拠地建設の「軍」のことを平たく言えば、労働者国家(「社会主義国」と認めないからこう呼んだ)を国際根拠地とし、そこで軍事訓練を受けて帰国、秋の「70年安保決戦」で首相官邸占拠、前段階武装蜂起を貫徹する「軍」ということだ。

「前段階武装蜂起」とはロシア革命のような全人民的武装蜂起に至る前段階、その呼び水となる武装蜂起、いわば先駆け的な武装蜂起のことだと赤軍派は位置づけ、「前段階武装蜂起」を次の革命の高揚を開く決定的闘争、当面の最大目標としていた。

いまいち具体的イメージを持てない私は、行動を一緒にしたある時、中央委員だった中大の前田佑一さんに「前段階武装蜂起ってどういうことをやるんですか?」と訊いた。すると前田さんは「(旧正月テト攻勢で)ベトコンがやった“あれ”だよ」と言って、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)の決死隊が首都サイゴンの米大使館を武装占拠、最後の一兵まで戦って全員戦死した戦いのことを話した。結果的にその戦い以降はベトナム全土が解放戦線側の攻勢に沸き立ち圧倒された米軍の敗色が濃くなったというのが、前田さんの言う「“あれ”だよ」なのだと教えられた。

印象的だったのは、米大使館占拠の際「ベトコンは岩に鎖で自分をくくりつけ撃たれて死ぬまでその場を離れられないようにしたんだ」という前田さんの言葉だった。自分たちがやるのは、そんな壮絶な闘い方、それを「“あれ”だよ」とさらっと言う前田さんに私は「凄いことを平然とよく言えるなあ」と感嘆したことを覚えている。俗に言えば「カッコイイ」と思った。同時に自分に果たしてそんなことができるのかなあ、と漠然と思った。いまいち現実感がなかったが、でもとにかくそういう「軍」に入ったのだということだけはわかった。頭ではわかったけれどどれだけ覚悟が伴ったかははっきり言って自信はない。そんな覚悟の必要性だけは理解した。

 

◆「さらば、長髪」よど号ハイジャック闘争へ

3月頃になって赤軍派委員長の塩見さん、軍事委員長の田宮それぞれと個別に面談を受けた。当初は「武装して船でキューバに行く」という話だった。ゲバラもやったキューバ革命は魅力的だったが、太平洋を越えて船で行くとはちょっと私の想像を超えていた。しばらくして「飛行機をハイジャックして北鮮(当時はそう呼んだ)へ」と変わった。後に小西に聞いたことだが、赤軍派が接触を持った在日キューバ大使館員から「もっと近くにいい国があるじゃないか」と助言されての「北鮮行き」決定だということらしい。

こうして「軍」加入のわれわれは「北鮮」へのハイジャック闘争を決行することを最終的に皆で確認した。私は「船でキューバへ」というよりは実行可能性があるだろうと思った。当初は数十人(候補者がそれだけいたということだろう)が各飛行場から分散して飛び立ち編隊飛行で行くという誇大気味の話まであったが、最終メンバーには9人が残り、羽田からの単独ハイジャックとなった。

ハイジャック決行を前にして私は長髪と「おさらば」した。目立ってはならないという活動上の理由からだったが、私には青春期のアイデンティティそのものだった長髪を切るというのはちょっとした決心だった。でもなぜか躊躇はなかった。京都での恩人たちとの縁結びでもあった私の長髪、でも彼らの恩に報いるためにも越えねばならない一線、「革命家になる」ための決意表明、と言えばカッコよすぎるが、まあそんなものだった。理髪師の方が「ホントに切って大丈夫なんですか」とためらった、私は「けっこうですよ」と答えバサバサ髪の切られていくのを淡々と鏡で見ていた。別に惜しいとは思わなかったが、仕上がりの短髪姿を見て「自分は案外、平凡な顔なんや」とちょっとがっかりした。

この日以降、私はサラリーマン風のヘアスタイルに合う背広とステンコートに着替え、その恰好のまま決行当日の「よど号」に搭乗した。余談だが、このコートは今も大事にわが家に保管されている。あの時の「青春の血気」を思い起こさせる「記念品」だ。

ハイジャック闘争を語ると単なる武勇伝になりかねないので、ここでは触れない。金浦空港での緊迫の三泊四日、韓国当局や機内の乗客とのやりとりなどの逸話に関しては、『追想にあらず』(講談社エディトリアル)に書いたので興味のある方はこちらをお読み頂ければと思う。

ハイジャック決行直前、各自に決意文の提出を求められた。政治文章に不慣れの私だったが、その時の赤軍派理論の知識を総動員して書いた。いま読むと稚拙かつ観念的、主観的で粗雑な抽象論でお恥ずかしい限りのものだ。でもハイジャック闘争決行を間近に控え、気分が高揚していたので、当時の高揚感が反映されているのは事実だ。そういう意味で当時の素直な感情が見える文章、「こんなこと考えてたんや」と23歳に成り立てほやほやの自分を懐かしく想起させる文章ではある。そういう意味で当時の赤軍派の冊子から私の決意文の感情部分、最後の結語だけを記そうと思う。それは「京都青春記」の最後にたどり着いた結語でもある。

我々は断じて生きる。たとえそれが人類の生活史の一片であっても……。生きて生きて生き抜く。たとえ吾が個的生は破壊されても……。私の生が人民に転化、吾が生の炎が人民の深き怨念に点火し人民の生と一体化したとき、私の生はより大きな「愛」、「人類史の創造」という「愛」に育まれ、生き抜くことだろう。寂滅と隣りあわせのチッポケな「愛」なそ糞食らえ! 私は断じて生き抜く、断じて!

「世界赤軍として生き抜く」と題した私の決意文、しつこいくらい「断じて生き抜く」で一貫された結語だが、「吾が個的生は破壊されても」、つまり自分が死んでも人民の「より大きな愛」の中で「生きるのだ」ということを言いたかったのだと思う。別に誰かに習った言葉じゃない、人生にも政治にも未熟な23歳の頭から出てきた言葉だ。おそらく「ベトコンのやった“あれ”だよ」と前田さんから聞いていたこともあって、ハイジャック闘争、あるいは前段階武装蜂起の闘いは「命がけ」になる、漠然とではあれ「死」を意識したとき「自分の死の意義」を考えざるを得なかったのだろう。その結論が「人民の大きな愛の中で生きる」ことなのだということだった。たぶん人間、そういう状況に身を置いたとき誰もが考えることなのだろう。この部分だけは「よくぞ言った」と23歳ほやほやの若林君を誉めてあげたい気になる。下手をすれば自己満足だが、いま自分がこのように生きているかの自省にもなる。

(ただ最後の“チッポケな「愛」なぞ糞食らえ!”だけはいただけない、こう言っちゃいけないと思う。愛に大きいも小さいもないのだから。これは未練たらたらの私情がついぽろり出てしまったのかも。)

田宮は出発宣言を「最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである!」で締めくくった。

後に「よど号赤軍」を象徴する言葉になったが、皆の気持ちを代弁する名文句だと思う。私自身は当時、『少年マガジン』を読んでなかったので、ジョーのことは何も知らなかったけれど……。

こういう心理状態の中、1970年3月31日、私たちは「よど号」に搭乗、早朝の羽田を飛び立った。福岡板付を経て韓国金浦空港での三泊四日の厳しい攻防を経て4月3日、「よど号」は夕闇迫るピョンヤン郊外の美林飛行場に着陸した。ついにわれわれは勝利したのだ。私が闘争で味わった最初の勝利感、その達成感だった。どっと疲れが出て一時宿泊先のピョンヤン・ホテルで三日間ほぼ一日中爆睡した。朝鮮の案内人が「アイヤ~」と驚いていた。

私の「ロックと革命in京都 1964-70」、この「京都青春記」はここで物語としては終わる。このまま終わるのは、なんか尻切れトンボみたいなので、「終章」のような結語、“「端境期の時代」の闘いは終わってはいない“的なものを次回に書いて「京都青春記」を締めくくりたいと思う。(つづく)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”
〈10〉「端境期の時代」挑戦の赤軍派 ──「長髪よ、さらば」よど号赤軍「革命家になる」

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆綾瀬警察署留置の「ズンム天皇」

1969年1月19日午後、東大安田講堂バリケードを破壊し内部に突入してきた機動隊に私たちはたいした抵抗もすることなく全員逮捕された。それは闘いのあっけない幕切れだった。一列に立たされ怒気に満ちた若い機動隊員に集団リンチを受けた。私も観念したがタオルで覆面の長い髪の私を女の子と見たのかヘルメットの上をポコンと鉄パイプで叩かれる程度ですんだ。

そして夕闇迫る頃、手錠をかけられた私たちは装甲車に乗せられた。「闘いは終わったのだ」という虚脱感、「囚われの身」の敗北感のようなものがひしひしと胸に迫った。手錠につながれた仲間達もみな押し黙ったまま、二日間に渡る攻防戦の疲労感もあったのだろう。私たちは精いっぱい闘ったのだ。

 

「よど号ハイジャック犯・若林容疑者」手配写真(綾瀬警察署撮影)

私は綾瀬警察署に留置された。

写真を撮られ指紋をとられた。「犯罪者」にされた侮辱を感じた。このとき撮られた写真は「よど号ハイジャック犯」手配写真に後に使用されたが、それはとても人相の悪いもの、いかにも「凶悪犯」、おそらくふて腐れてカメラをにらみつけていたからだろう。

翌日から取り調べが始まった、担当刑事は少年課の小太りの中年男と「タタキ専門」という若手、「逮捕学生が多くて臨時動員された」と言っていた。完全黙秘が意思統一されていたので私は「黙して語らず」と宣言した、すると刑事はその言葉を調書にそのまま書いた。少年課刑事はなだめすかす役、「タタキ専門」は強面(こわおもて)役、なるほど取り調べとはそうやるのかと思った。

「おい、ズンム天皇、取り調べだ」! 

看守というか留置場担当の警官に東北出身者がいて、私をいつも「ズンム天皇」と呼んだ。真ん中分け長髪に淡いまばらなあご髭の私は彼に言わせれば「神武天皇」、東北のズ~ズ~弁では「ズンム天皇」になる、ちょっと太った人の良さそうな看守で「おい、ズンム天皇」の呼びかけになんとなく親愛感を感じたものだ。

同房のおっちゃんは「下場木(げばぎ)一家の親分」と自分を紹介した。刑務所で服役中に余罪がばれてまた警察に送られてきたのだそうだ。「弱っちゃうよな~、詐欺罪だなんてみっともなくてみんなに言えねえよ。せめて暴行とか傷害だったらいいんだけどね~」とよくぼやいたが、あの世界では詐欺は「恥ずべきこと」らしい。ヤクザ世界の名誉と恥、ちょっと社会勉強をした。この親分とは仲良くなって「学生、出たらウチを訪ねてこいや」とも言ってくれた。下場木一家は栃木あたりのヤクザらしく親分の口調はズ~ズ~弁っぽい愛嬌のある訛(なま)りがあって人がよさそうに見えた。同房の法政の学生とも親しくなったが互いに完全黙秘の身、自分のことは話せないからいつも「親分」が会話の中心になった。

留置場の弁当は極度に量がなく常時、飢えていた。飢餓感とはこういうものかと思うほどで毎晩くらいなにかを食べる夢を見た。食事時間が近づくと自然に唾が出てきて壁の時計ばかりを見た、秒針が妙に遅いとイライラしたものだ。取調室では所持金で店屋物をとって食べられる、空腹にカツ丼はとてもおいしかった。だから取り調べがいつの間にか待ち遠しくなるから不思議だ。他の学生らも「お座敷(取り調べ)まだですか~」と看守に言ったものだ。飢えさせるのも警察の「犯人を落とす」手法の一つかもしれないとも思った。

◆取り調べの怖さ ── いちばん怖いのは自分自身の心の弱さ

留置期限の23日間が終わりに近づくと釈放される学生も出てきて「釈放か起訴か」が気になり始める。「起訴覚悟」とは言え、やはり「早く娑婆に出たい」「出れるかも」という気持ちも芽生える。この時が危ない。担当刑事が「おまえ釈放されたら着替えとか要るし、誰かに迎えに来てもろわなきゃならんだろう」などと話しながら「せめて名前と住所くらい言えや、親か親戚に連絡してやる」と誘いを入れてくる。こうなると「釈放」の二文字が大きく頭の中で踊り始める。「名前と住所くらいはいいか、心証も悪くしない方がいいかも」という甘い幻想が芽生え始める。

「東京には姉が居るし」と私はつい名前と出身地を話した。すると急に刑事の態度が一変、「講堂のどこに居た? 指揮者は誰だ」と突っ込んできた。これで私の目が覚めた。「それは黙秘します」と答えた。すると少年課の刑事は「今頃の琵琶湖は……」とかなんとか郷愁を呼ぶような話をした、タタキ専門の若手は「黙ってたら出れないぞ」と脅しに出た。取り調べも闘争なのだ! そのことを実感した。

姉が東京にいることも話したので姉が面会に来た。私は姉の持ってきたおまんじゅうを一箱ぺろりとたいらげた、そんな私の姿を見て姉はぽろぽろ涙をこぼしていた。

完全黙秘はできなかったけれど最後の一線で踏みとどまることができた。

私は「取り調べの怖さ」を体験した。いちばん怖いのは自分自身、心の弱さであるということ、自分自身との闘争なのだ、と。一言でいって、「起訴を免れたい」「早く出たい」という自分の心の弱さとの葛藤にうち勝つことだが、案外、これが難しいということを身を以て体験した。

当然ながら私は起訴と決まった。留置場を出るとき、仲間の学生達から「がんばれよ!」といっせいに声をかけられた。なにか熱いものがこみあげ、「さあ、これから新しい闘争が始まるのだ」と気を引き締めた。

◆無知からの脱却 ── 資本論に挑戦

私は小菅刑務所(現在の東京拘置所)拘置区に収監された。起訴が決まり私は裁判を控えた「未決囚」になったのだ。

収監前に身体検査があって素っ裸になって肛門の中まで調べられたが、それはとても屈辱的な場面だった。囚人服に着替えると一人前の「囚人」になった。カッコ悪いことこの上ない姿、「世界でいちばんカッコイイ」元ラリーズとかはもう関係のない「囚人No.1115」でしかない人間になる。私は単なる「お尋ね者」になった。

独房は小さな布団を敷ける程度の狭い空間、窓際に小さな机と椅子があって、机の蓋を開けると蛇口付きの洗面台、椅子の蓋を開ければ水洗トイレ、合理的な生活空間になっていた。窓には鉄格子、初めての監獄生活がこれから始まるのだと思った。壁にはペンキで塗りつぶされたなにかで彫った「民族独立行動隊」の落書きが見えた。どういう種類の人間が収容されるのか、よくわかった。

食事は三食を決められた時間にとり、起床、就寝時間も規則的、30分の運動時間もあって、久しぶりに経験する「健全な生活」、かつてのドラッグや不規則な生活でボロボロの肉体が拘置所生活が続く中で肉付きもよくなり健康体を取り戻した。

時間はたっぷりあったので「政治無知」克服のためのいまは学習期間と定めた。いつも政治的無知を痛感していたし、「何のために何をめざして闘うのか」? その解答がほしかった。

 

K.マルクス『資本論』1(岩波文庫1969年1月16日刊)

私はマルクスやレーニンの著作も読んだことがなかったので各党派の機関誌にある指定学習文献を参考にML主義学習を始めた。

マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』『賃労働と資本』『資本論』、そしてレーニンの『国家と革命』『帝国主義論』『何をなすべきか』等々。

レーニンからは、国家の本質が暴力であること、帝国主義の経済的基礎は独占資本にあること、その独占資本の経済活動が植民地獲得要求となり、各国独占資本の不均等発展により植民地再分割戦から帝国主義間戦争が起きること、レーニンはこれを内乱、革命へとしていることを初歩的に学んだ。党派の機関紙が言ってることも、こういうことを根拠にしているのだろう程度にはわかった。

いちばん苦労したのは『資本論』だ。克明丹念に読み込まないととても理解が難しい、ノートにとりながら一日に数頁しか進まないこともあった。なんとか頑張って、搾取の本質が剰余価値生産、剰余労働時間の搾取にあることがなんとなく理解できた。生産力と生産関係間の矛盾が資本主義から社会主義への必然性の根拠であることなど史的唯物論についても学んだ。

これまでの私は17歳の「ならあっちに行ってやる」以降、理知の世界から離れ多分に感性的衝動で考え動いてきた。でも政治は理知を知らずにではできない、だから「理」を学ぼうと思った。理詰めで考えることの大切さ、理知がわかれば社会と革命がわかる、やるべきこともわかる、その妙味も学んだ。まだ「真理に目覚めた」にはほど遠かったが……。

安田講堂逮捕以前から政治的無知、「野次馬」から脱しようと必死の私だったが、やっと獄中生活で学びの機会を得た。それは逮捕、起訴、未決囚となることによって覚悟が据わったからだと思う。もう自分にはこの道以外にはないと腹を据えたら、学習にも精力が注げたのだろう。その意味では東大安田講堂籠城戦に志願したのは正解だった。

「革命家の卵からの孵化」、成長途上の時間、獄中はまさに私の革命の学校になった。22歳になったこの年、生涯で初めて自分の目標を持って学ぶということを知った。

「ならあっちに行ってやる」── 進学校、受験勉強からのドロップアウト以降のLike A Rolling Stone 人生、暗中模索の5年を経て私は「革命の学校」に入学した、そんな感じだったと思う。

「戦後日本はおかしい」から「戦後日本の革命」へ! その帰結が「目的を持って学ぶ」ことだった、いまはそう思える。

もちろんML主義を学習したからといって、革命がわかるわけではない。でもそれは後日の問題、この時は「無知からの脱却」「理知を知る」が先決問題だった。

◆「卵からの孵化」── 赤軍派から勧誘

獄中生活は学習だけが全てだったわけではない。

まさかこうなるとは思ってなかったので、菫(すみれ)ちゃんには何も言わないで上京した。住所も聞いてなかったから手紙も出せなかった。でもきっと「Bちゃんは安田講堂に行ったはず」と考えるだろうと信じた。「やっとここまで来たよ」と“True Colors”の恩人に伝えたかった。留置場で食べ物の夢を見たとき、菫ちゃんとどこかの木の下でおにぎりを食べてる夢も見た。きっと「頑張るんだよ」と激励してくれてるだろう、彼女は舞台女優ステップアップの道を着実に進んでいるはずだ-菫ちゃんには負けられない! そう思って気を引き締めた。ここにいる時間を無駄にしてはいけないと思った。 

私は出所してからの自分の政治生活も考えた。組織のない自分はどうすべきか? 当時、労働者の中に反戦青年委員会をつくる運動があって、牛乳配達労組とか新聞配達労組とかがあったので、まずはその辺からでも始めてみるかとか、いろいろ夢想した。

各党派の機関紙も読んだ。この年の4・28沖縄闘争では大規模な首都決戦が叫ばれたが、警察力によって封殺、大量逮捕者を出しただけで闘いが不発に終わったことを巡って総括論争が起きていることも知った。革命の後退局面打開のため武装闘争を掲げる赤軍派が生まれたことも知った。それはブンド(共産主義者同盟)内部の分派闘争になって同志社の望月上史が反赤軍派に拉致されて脱出途上の建物から落下して命を落としたことを知った。

望月は同志社の活動家で私が一目置いている存在だった。なにか思い詰めたような顔をして迫力あるアジテーションをやる栄養不良気味のちっちゃな姿に「こいつは本気だな」と認めていたからだ。そんな彼が選んだ赤軍派に私は関心を持った。活動家に冷淡だった自分は先達である望月の遺志を無駄にしてはいけない、とも思った。

内ゲバで不遇の死を遂げた望月上史さん

機関誌「赤軍No.4」を読んだが、防御から対峙、そして攻撃へという論法に何か主体的な闘争観を感じたものだ。その武装闘争路線にも「ゲバ棒とヘルメット」からの飛躍意欲を感じたし、何よりも「命がけ」の本気度を感じた。世界革命戦争というスローガンもいまでこそ超主観主義そのものだがフランス5月革命、欧米のベトナム反戦闘争、民族解放武装闘争の世界的高揚の中では決して実現不可能なものとは思えなかった。

9月初めの全国全共闘結成集会での赤軍派の登場が「とってもカッコよかったわよ」と面会に訪れた理知的な東大大学院の素敵なお姉さんのお言葉の信用力もあって、入るなら赤軍派かなと漠然と考えていた。

そして9月30日、私たち同志社「東大組」は全員保釈釈放された。翌日、みなが集まった場で同志社のSからのオルグ、赤軍派参加への勧誘があった。私には願ってもないこと、一も二もなくその場で快諾した。

ついに私は組織に巡り会えた、菫ちゃんに遅れること一年、ようやく「卵からの孵化」へと一歩踏み出せた。もう「一匹狼」、「野次馬」じゃない! 私には同志と組織がある! このことが何より嬉しかった。

いま考えれば、「東大保釈組」の私たちには非転向で獄中8ヶ月、闘争で鍛錬された人間、そんな「革命ブランド」が付けられていたのだろう。でもそれはどうでもいいこと。私に組織と同志ができた、そのことが重要なことだった。

11月に上京し赤軍派に合流することになった。求めよ、さらば道は開かれん! そんな気分だった。

◆ささやかな「出所祝い」

保釈後、しばらくは東京在住の姉の家で過ごした。小菅での差し入れや面会では姉夫婦には世話をかけたからお礼もかねての訪問、そして私は懐かしの本拠地、京都に向かった。

「ロックと革命in京都」── 私を育んでくれた恩人達との「出会いの地」京都、私はその京都を離れ新しい活動舞台に移る。私には「最後の京都」となる1969年の10月の日々、それはとてもありがたい感謝でいっぱいの至福の時間になった、そのことを記しておこうと思う。辛い別れを共に越え晴れやかに送り出してくれた最後の恩人への感謝と感傷を込めながら……。

10月初旬、私は京都に帰還した。

イの一番に菫ちゃんに連絡を入れた。「卵からの孵化」を果たしたいま、誰よりもそのことを報告したい人だった。音信不通の獄中8ヶ月を経て思いの外、意気揚々と帰ってきた姿を見て彼女はとても喜んでくれた。逮捕された私がボロボロになって帰ってくるんじゃないかと心配していたようだった。

その日の夜、菫ちゃんと私はささやかな「出所祝い」をやった。

「お酒飲もか」ということで最新のロックが聴けるというスナックバーに行った。私もこんな日はロックが聴きたいと思った。店は意外に広かった。私たちはカウンター席を避けて二人で横並びに座れる壁際の落ち着いた席に着いた。二人だけの「出所祝い」を誰からも邪魔されたくなかった。

何を話したか「記憶は遠い」。この8ヶ月は自分自身との闘いだったこと、とても貴重な体験になったことを話したと思う。そして何よりもやっと「アホやなあ」を卒業、政治組織の一員になれたこと、「卵からの孵化」を果たしたこと、その「勝利の報告」を! “True Colors”「あなたの色はきっと輝く」を歌ってくれた「よきライバル」への感謝の気持ちを込めて。

「ほんま今日はBちゃんのお祝いの日やね」と言って菫ちゃんは私に乾杯してくれた。私はジン・オンザロック、彼女はジンフィーズかなにか。 

「アホやなあ」から一年以上も経て「Bちゃんよかったね」の祝杯。もう僕たちは卵じゃない、温め合ってきた道はほのかだけれど見えてきた。ほどよいアルコールと店に流れるロックに私たちは酔った。こんなときに喜びを分かち合える人のいることがとても素敵な気持ちにさせてくれた。

薄暗い照明は二人だけの時間を過ごす濃密な空間をつくってくれていた。もう言葉は要らなかった。あの時、流れていた音楽、ブラスロックバンド Blood, Sweat&Tears(血と汗と涙)の“Spinning Wheel”(糸車)、そして壁に掛かっていたAl Kooperのレコードジャケット……あの光景はいまも鮮やかに思い浮かべることができる。

「今日はお祝いの日やね」は、私たちにとって新しい門出、祝祭のドラマチックな夜になった。


◎[参考動画]Blood Sweat & Tears – Spinning wheel

ある日の夜、菫ちゃんが「あしたお休みやから遠足に行こか? 私のおにぎり弁当食べさせたげる」と言った。おそらく留置場での夢の話を私がしたのだと思う、「それええなあ」!で決まり。

翌朝、二人で京都駅を出発した。目的地は私の故郷、草津線沿線の野洲川河原。

国鉄東海道線に乗ってキオスクで買ったお茶を飲みながら草津に向かった。この電車に乗って高校や大学に通ったと話した、「へ~、これに乗ってたんや、懐かしいやろ」── 遠足というのは大人でも気分を浮き立たせる。互いの子供時代の話題になって「“若ちゃん”って呼ばれてたんや、昔は可愛かったんやね」──「ほな、いまはどうなんや」!──「ぜ~んぜん」…… こんなたわいのない話に笑い転げるような無邪気で陽気な気分、こんなのはいったい何年ぶりのことやろ?

草津線は草津駅を始点とし関西線につながるローカルな単線、通退勤時間以外は1、2時間に一本程度のディーゼル単線、次の電車までまだ時間があったので、私の家に行って休憩。彼女は私の父母に挨拶をしたと思うが、OK以外の女性は彼らには初めて、「この子は誰や?」と思ったことだろう。発車時間まで懐かしいわが家の苔の庭を眺めながらボブ・ディランか何かのロック系レコードを二人で聴いた。私の歴史を見てほしくて私のレコード・コレクションも説明しながら彼女に見せた。

のどかなディーゼル車に乗って石部駅で降り、野洲川河原でお弁当を広げた。広い河原には一面、葦(あし)がほどよく茂っていてとてもいい感じ、遠足地には申し分なし。京都育ちの菫ちゃんには鄙(ひな)びた田舎風景は清々しい開放感を与えたことだろう。

河原で彼女の心尽くしのおにぎり弁当を開いた。「この握り方はなんや」とか悪態はついたが、彼女のお弁当はとてもおいしかった。「菫ちゃんの料理はおいしいね」と私は素直に誉めながらおにぎりをほうばり、弁当のおかずに舌鼓をうった。留置所で見た夢は正夢になった。

子供時代のように川に石を投げあったり、おっかけっこをしたりで少女時代に戻ったように彼女もはしゃいだ。二人で遊んだ広々とした河原での遠足の一日、久々に心身共に穏やかでのびのびと、こんな一日を楽しむことのできたのは菫ちゃんのおかげ。

草津駅に着いたのは、もう暗くなってから。駅近くの食堂で夕食をとった。二人の楽しい遠足の一日は終了。でもこれからがまた新しい一日の始まりだった。

◆夜の相乗りサイクリング

夕食後、彼女を駅に見送ろうとしたら、菫ちゃんは私にこう仰せになった ──「京都まで自転車に乗せて行って」! 一瞬「ん?」と思ったが、「エエよ」と私は快諾した。

冷静に考えれば、京都までは国電で30分の距離、滋賀と京都の境には逢坂山越えという難所がある。私は高校時代に三段変速のサイクリング車で京都までツーリングしたりしたものだがけっこう時間がかかった。相乗りで行けばどれくらい大変か、しかも夜道、まともに計算すればちょっと考えものの事態。京都に着くのは深夜? 夜明け? 菫ちゃんはなんでこんな「駄々をこねた」のか?? 私はよく考えもしないで彼女が「乗せて行って」と言うから「エエよ」と答えただけ。いま思えば不可思議このうえないこと、たぶん恋時間というのは計算度外視で成り立つものなのだろう。

私の家に戻り三段変速付きサイクリング車に彼女を乗せた。しばらく行くと「お尻が痛くて京都までもちそうにないよ」と彼女が訴えた。サイクリング車の荷台は狭くて相乗り用にはできていない、仕方なく魚屋の友人から荷台の広い営業用の自転車を借りた。荷物を運ぶには便利だが変速機もない重い自転車、でも彼女のお尻が痛くならないならそれでよし、ただそれだけで再出発した。

そのうえこのとき、便利な国道一号線は味気ない、琵琶湖沿岸沿いの道を行こうとなった。これはこれでまた遠回りの夜の田舎道でもっと大変な道中、いや無謀なコース。でもそんなことは考えなかった。菫ちゃんのために少しでもいい景色を走る、が重要だった。

こうして夜の相乗り京都行が始まった。ひんやりした風を受け背中に彼女の体温を感じながら走る相乗り旅路は快適そのものだった。でもやはりこの自転車はしんどかった。何回か休憩しながら瀬田川河口付近まで来ると目の前には夜の琵琶湖が広がっていた。「ちょっと夜景を見ていこか」と道路脇の土手の草むらに座った。夜は人気のない二人で落ち着ける所だった。

相乗り旅の余韻にひたりながら見る夜景は素晴らしかった。浜大津付近の華麗な光のきらめき、星明かりに浮かぶ比叡山の黒々とした山容、中腹には比叡山国際観光ホテルの灯火も見える。湖面は月の光を帯びて揺らめいていた。琵琶湖はとてもロマンチックな夜の魔力に満ちている。「ほんま綺麗やね」とか二言三言、言葉を交わし、しばらくは無言で私たちは夜景に見惚れた。

このように穏やかな気持ちで故郷の景色を眺めたり、恋時間をもつようなことは、もうこれからはないだろう! そんな思いに私はとらわれた。そう思うと琵琶湖と菫ちゃんに「ありがとう」という気持ちで胸がいっぱいになった。涙がこぼれそうでぐいっと夜空をにらんだ。気配を察したのか菫ちゃんはそっと肩を寄せてきてくれた。ありがとう、私は感謝と愛しさでいっぱい、私と菫ちゃんは時の経つのも忘れてそんな切ない時間を共にした。そこだけは時計の針の止まった空間、二人だけの「時のない」世界。

結局、夜の相乗りサイクリング行は体力的に限界、膳所(ぜぜ)の町まで来て自転車を乗り捨て錦織(にしごおり)駅で京阪電車に乗り換え京都に向かった。京阪三条に着いたとき時計の針はもう10時をはるかに過ぎている……。

「京都まで自転車に乗せて行って」の菫ちゃんも、「エエよ」と即答した私も、あの日は頭がおかしくなっていた。ボブ・ディラン初恋の人スーズの言葉を借りるなら「あのとき二人は離れるのがもう嫌になっていた」、たぶん菫ちゃんの「駄々こね」も私の「エエよ」もそういうことだったんだろう。本当に「離れるのがもう嫌になる」一日になった。

◆“Fields Of Gold”── 軽々しい約束はしない、でも僕たちは……

京都最後の日々── それは二つの卵がやっと孵化を果たした幸福の絶頂、互いに温め合った恋時間がその頂点に達した時、しかしそれが同時に二人の時間の終焉をも意味するという時。

赤軍派加入は私が京都からいなくなるということを意味する。彼女は彼女で京都での演劇女優への道が開けたばかり、ましてや軍事の領域に踏み込んだ赤軍派に参加するとは恋時間の入る余地もない非日常の生活に入るということ、私たち二人の共有する時間が互いの志や夢に向かうためのものである以上、「最後の京都」は辛くても避けられない別れの時。

Stingのつくった素敵なラブソングがある。それは“Fields Of Gold”! 

「軽々しい約束はしない(できない)が でも残された日々 僕たちは……」!

Sting“Fields Of Gold”

この歌詞が京都最後の出来事をそのまま語ってくれている。ちょっと美化しすぎかもしれないけれど、でも心は同じ……

軽々しい約束はしないが

誓いを破ったこともある

でも残された日々 僕たちは

黄金の世界を歩もう

これだけは誓おう

……

きっと君は僕を想う

風が大麦をなでるとき

嫉妬する空の太陽に言うんだ

黄金の世界を歩んだと

輝く世界に生きたと

二人の黄金の世界

11月初め、私は京都を離れ、東京に向かった。

最後の京都は“Fields Of Gold”── 胸は痛む、でももう悔いはない、晴れやかな気持ちで心機一新、新しい門出へと旅立った。(つづく)


◎[参考動画]Sting – Fields Of Gold

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆ウェスカー‘68

菫(すみれ)ちゃんとの再会は、偶然とはいえ五里霧中にあった「革命家の卵」にはとても幸運な出会いになった。

「Bちゃんはアホやなあ」! と“True Colors” 「あなたの本当の色は美しい」を歌ってくれる「俳優の卵」菫ちゃん。

彼女と過ごす時間、それは互いの志や夢が凍(こご)えないよう「卵」を温め合う孵化促進の時間、「卵同士」のとても大切な恋時間になった。

「アホやなぁ」に背中を押され、また1968年という熱い政治の季節が秋頃にはさらに熱気を加える幸運もあって、「戦後日本の革命」に向かって私は前に進むことができた。

 

“ウェスカー‘68”のポスター

その年の10・21国際反戦デー闘争は、東京では社学同による防衛庁突入闘争や騒乱罪の適用された新宿駅一帯の群衆を巻き込んだ学生、市民一体の大衆的暴動として、関西では大規模な御堂筋デモとしてますます闘いの火に油を注ぐものになっていった。もちろん私は御堂筋デモの中にいた。

この頃になると「しゃんくれ」で知り合った立命社学同系学生ら政治の話ができる仲間ができた。でもいかんせん彼らは他大学の学生、私は組織のない根無し草に変わりはなかった。

東大、日大全共闘の闘いは全学バリケード封鎖に向かい「バリケード封鎖維持か解除か」を巡り日大では刃物や凶器を持った体育会系右翼学生との暴力的衝突、東大では組織をあげての共産党系民青解除派との闘いを同伴しながら闘争は激烈化していた。学生たち自身の創造物である東大、日大闘争の行方は他人事とは思えなかった。私は居ても起ってもおれない気持ちで推移を見守っていた。でも当事者でもない私は傍観するしかなく、ましてやまだ「革命家の卵」の私にはどうしようもなかった。

「卵からの孵化」は菫ちゃんのほうが早かった。

「スミレの花咲く頃」は多くの少女達がスターを夢見る宝塚歌劇団の歌だが、「菫ちゃんの花」は晩秋の演劇イヴェント“ウェスカー‘68”で大きく花咲いた。この舞台で「いい役に抜擢されるのが目標」と言っていた菫ちゃん、彼女は見事に目標達成、大役を射止めた。

それは東大、日大闘争も天王山を迎えた時期、彼女にとっては演劇人生の天王山、10月下旬から11月中旬にかけての頃のお話し。

“ウェスカー‘68”-それは労働者階級出身という英国劇作家、アーノルド・ウェスカーを招いて日本の主要都市で行われたウェスカー作品の演劇と作家を交えたシンポジウムが同時に行われる演劇イヴェント、東京では新宿紀伊国屋ホールでやるというビッグイヴェントだった。そんな晴れ舞台に菫ちゃんは立つことになった。

菫ちゃんからチケットをもらった、「観に来てね、きっとだよ」!-「ゼッタイ行くよ」! 

まるで自分が出演するみたいにはやる胸を押さえながら私は彼女の舞台を観にいった。四条通りをちょっと入った所、たしか大丸百貨店関連のけっこう大きな劇場だった。演劇もウェスカーという劇作家もよくわからない私は、へえ~、こんな大舞台に菫ちゃんが出るんやと正直、驚いた。

 

スミレの花咲く頃

演目はA.ウェスカーの左翼色の強い代表作「大麦入りのチキンスープ」、そして題名は忘れたが併演のもう一本。彼女は「大麦入りの……」では端役、でも併演の舞台で主人公の恋人役に抜擢された。

併演のその作品は、ドイツの若い兵士が軍を脱走し恋人と森に逃げ込むという反戦劇だった。

脱走兵士と森の逃避行を共にする恋人役を演じる菫ちゃん、舞台の彼女はまるで別人だった。

軍規を破って脱走という国家反逆行為に及んだ恋人とあえて行動を共にする、そんな恋する強いドイツ娘になりきる菫ちゃん、私は劇の進行よりもそのドイツ娘だけを見ていた。

兵営脱走に伴う苛酷な運命を恋人と共にするドイツ娘、苦境の恋人を愛おしむ切ない感情や恋人の決断を支える強い意志、また葛藤、それらをセリフの言いまわしとちょっとした身の仕草など自然体で表現する、その菫ちゃんの演技はまるで波乱の純愛渦中のドイツ娘が目の前にいるよう、舞台のドイツ娘に愛おしささえ覚えた。

「ゼッタイ舞台女優になる」! と言っていた菫ちゃん、なるほどこういうことだったのかと少しわかった気がした。

演劇後のシンポジウムでは菫ちゃんはマイクを持って会場の声を拾う大任もこなした。これにも私は驚かされた。劇団は彼女にシンポジウムでも重要な役割を与えたのだ。晴れの舞台を終え、生き生きと会場からの様々な意見を拾っていくスーツ姿の菫ちゃんはほんとうに輝いていた。演劇論のよくわからない私だったけれど、それがとてもカッコよくて我が事のように晴れがましかった……スゴイよ、菫ちゃん!

「卵からの孵化」では私より一歩前に出た菫ちゃん。「あなたの色はきっと輝く」、それを実際の形で私に見せてくれたのだ。そんな彼女に私はちょっと嫉妬した。

この日から彼女は私の「よきライバル」になった。菫ちゃんには負けられない! そう思った。

◆東大安田講堂籠城を求められて

「よきライバル」に刺激をもらった“ウェスカー‘68”からほどなくして私は、11月22-23日にかけて東大安田講堂前での日大、東大闘争勝利全国学生総決起集会に誘われたわけでもないのに同志社赤ヘル学生らと共に上京、参加した。どうしても自分の身を東大、日大の闘いの現場に置きたかった、身体がうずいて仕方なかった。それまでのデモ参加とは違う、自分でも抑えられない衝動に突き動かされた。

名目は集会だったが実質的にはバリ解除派の民青系学生らとの対決示威だった。私もそれを意識した。対する相手も黄色のヘルメットにゲバ棒で武装した実力部隊が結集、でも小競り合いはあったけれど全面的衝突には至らなかった。

しかしながら安田講堂前で開かれた総決起集会、日本全国から結集した赤、白、青、緑のヘルメット学生が党派を超えて一堂に会し講堂前広場を埋め尽くすその光景は壮観だった。これだけの学生が全国で闘っているのだ、自分たちがこの日本を変える! そんな熱い志の大きな塊みたいなものを実感した。その中に自分がいることが誇らしかった。

私はといえばいまだに誰からも誘われない一志願兵だったが、そんなことは問題じゃない。京都から常に行動を共にした同志社の赤ヘル学生たち、特に文連サークル系の学生の中には顔馴染みもできた。彼らは観光研、広告研といった文化サークルの学生、プロ活動家ではないが一応は学友会傘下組織の一員だ。個人で来ている私を向こうは変な長髪4回生だなと思ったかもしれない。でもそんなことはかまわない。みんなで闘うこと、勝利することが重要、その中に自分がいればそれでいい。

東大闘争は年末から年始にかけ「入試実施か中止か」を巡って大紛糾の末、明けて‘69年1月14日「入試実施のため機動隊導入も辞さず」と加藤総長代行が言明、これに対抗し1月15日には“全国労農学総決起集会”が安田講堂前で持たれ、17日に加藤代行はついに「機動隊出動を要請」、18-19日にかけての安田講堂バリケード死守戦へと事態は進む。

私は前年11月の時のように当然のごとく“全国労農学総決起集会”参加のため同志社赤ヘル部隊と一緒に上京した。

総決起集会後の事態の展開は、バリ封鎖解除に導入される機動隊との激突、攻防戦になることはわかっていたが、地方からの支援学生は集会参加だけでまさか安田講堂に立てこもることになるとは考えもしなかった。しかし17日夜になって地方からの支援学生にも安田講堂死守戦参加を求められた。それは逮捕が前提の籠城戦、しかも騒乱罪適用の10・21闘争の弾圧ぶりから起訴、長期拘留が予想されると説明を受けた。

各自の決心が問われた。政治に転進して以来、私の志が最も試された時だった。

誰からも指図を受ける立場にない私だったが、私には籠城戦参加以外の選択肢はなかった。もちろん躊躇がなかったといえば嘘になる、でも逮捕、投獄の不安よりも東大のバリケード死守の闘いに身を置くことの方が私にはもっと大切なことだった。

そしてたぶん、「菫ちゃんに負けてたまるか」魂も作用したと思う。“True Colors”を歌ってくれる恩人を裏切るような真似はしたくない! そんな気持ちもあったのは確かだ。

一夜明けるとやはり人数は減っていた。でも同志社からの学生は10人ほどが残った。それも観光研、広告研など政治と無縁の文化サークル所属の学生が多かった。「上等じゃないか」! と思った。

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)

◆自己犠牲という花は美しい

安田講堂籠城戦のことを書くと単なる武勇伝になりかねないのでそれは控える。ただ私の心に響いた一場面だけには触れたいと思う。

我々の世代の歴史を語ること、正しく伝える必要があると思うからだ。

我々は全共闘世代と一括りに言われるが、多くは過激派、極左、暴力分子など否定的な評価、それには「連合赤軍事件」や「内ゲバ殺人」による印象の悪さもあるが、私たちの闘いの未熟さ不十分さにも要因があるのは事実だ。「愛することと信じることはちがう」と水谷が歌ったのもその辺のことを言ったのだろう。だから当事者の多くは語れない、語ろうとしない。

でも全国であれだけの学生、無名の若者が立ち上がったこと、青春の熱気、正義感に満ちていたこと、それも事実なのだ。逮捕起訴、長期拘留覚悟の安田講堂籠城戦にあれだけ多くの若者が残ったのも「大義に殉じる志」があったからだ。そんな同世代の良心を私は信じたい。だから、その一端だけでも当事者として語っておきたいと思う。

 

東大安田講堂死守戦

当時の安田講堂籠城戦で胸を熱くした体験が一つある。

私たち同志社の学生は講堂ホールに昇る階段を受け持った。機動隊が階段を上ってきたら劇薬を投げ、鉄球状の小さな球ころを階段に撒く役目だったが一日目は何もすることがなかった。そこで二日目、私は勝手に持ち場を離れ、バルコニーに出て闘う東京の赤ヘル学生達の持ち場に行ってみた。そこは「激しい戦場」だった。

地上からの高圧放水をベニヤ板で防ぎながらレンガ、コンクリート片や火炎瓶を投げる、頭上のヘリコプターからは催涙液がバルコニーに向かって散布される。みんなはずぶ濡れだ。そんな中でまだ高校生のような童顔の学生が機動隊に向かって叫んでいた。

「お前らは金のためにやってるんだろ! 俺たちは違うぞっ」

私はエライ単純な論理やな~と思ったが、なぜか心に響いた。それがあの時の私たちの心情を単純明快に表現してくれてる言葉だったからだ。

あのバルコニーでの闘いは、まさにそれだった。

1月の冬の身を切るような寒風にさらされながら放水を浴びれば全身ずぶぬれ、ふだんなら誰もそんな目には遭いたくはない。交代時には部屋に小さな石油ストーブがあって束の間の暖をとれた。みんなぶるぶる震えている。口がガチガチ震えて声も出せない。でも服が乾く間もなくリーダーの「次ぎっ」という指示でバルコニーに飛び出る。私も経験したが、いったん暖をとったらお終いだ。また水を浴びに寒風の外に出るというのはかなりの決心がいる。登山で疲れて重たいリュックを降ろし座り込めば、もう立ち上がれなくなる、あれと同じだ。ジャンパーからまだ湯気が立っている状態で放水の待つ外に出ていくのは簡単じゃない。あの時、誰かがリーダーに「もうイヤだ、アンタが行けばいいだろ!」と言ったら誰も立ち上がれなかったかもしれない。

でも誰もそんなことは言わなかった。「次ぎっ」の指示に黙々と従って、躊躇なくバルコニーに出ていった。些細なことかもしれないが、あれは間違いもなく「大義に殉じる自己犠牲」だった。それが誰の心にもあったのだと思う。

大義に殉じる自己犠牲、「自己犠牲という花は美しい」! 私はそのことをあの現場で体験し、実感できた。個々人は豪傑でも英雄でもないひ弱な人間かもしれない、でも個々の志が一つの塊になったとき、皆が英雄になる、美しい花になる!

私が今日までこの道を続けて来られたのもこの時の体験は決して小さくない、そう思っている。同世代のために、このことだけは語っておきたい。(つづく)

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く

〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆どんな歌より若者の歌になった“インターナショナル”

私たちの「日本人村」では日本からの訪朝団をよく迎える。「村」の食堂や市内のレストランで歓迎宴、送別宴をやるが、当時の同世代が来るとき最後に締める歌が“インターナショナル”、これをあの頃のように皆で肩を組んで歌って「ああ~インタナショナ~ル 我~らがもの~」と終わって独特の拍子をつけた拍手で締める、あの頃のように。そうやって歌うと今も気持ちが高揚する。“インター”は我らが世代の歌なのだ。

集会やデモではインター、ワルシャワ労働歌、国際学連の歌、この三つが定番だった。

東大安田講堂死守戦の時、冬空の寒風下で機動隊の催涙弾と放水を浴びながら「砦の上に 我らが世界 築き固めよ 勇ましく」のワルシャワ労働歌の一節そのままに「砦の上に~」が実感を以て胸に迫ってきたものだ。

ロック一筋の私だったが、あの頃はもうボブ・ディランもジミ・ヘンドリックスやピンクフロイドも頭から消えていた。“インターナショナル”がどんな歌よりも若者の歌になった季節だった。いまの若い人には想像もできないことだろうと思うが……


◎[参考動画]「インターナショナル」


◎[参考動画]ワルシャワ労働歌(日本語版)


◎[参考動画]【ロシア語】国際学連の歌 (日本語字幕)

◆初めてのデモで心が震えた

ラリーズを去った後、私は集会やデモに参加するようになった。

初めてのデモはちょっと勇気が必要だった。

デモ前にやる同志社明徳館前集会でのアジテーションを遠巻きにする形で聞き入って、集会後のデモに移るとき「ノンポリ学生」が「遠巻き群衆」からデモ隊列に入るのには気恥ずかしさ、躊躇があった。でも思い切ってデモ隊列に飛び込んだ。渡された赤ヘルメットを被りタオルで覆面すれば「デモ隊一員」になった、それはとても不思議な感覚だった。

今出川通りから河原町交差点に差し掛かって京大からの隊列が合流、デモ隊はふくれあがり、突然、河原町通りを埋め尽くすフランス・デモに移った、立命付近で元のデモ隊列に戻るとき、突然、デモ指揮者は向かいの京都府立医大に逃げ込んだ。道路いっぱいに広がるフランス・デモは違法デモ、逮捕されるからだと後で知った。

同志社明徳館前での学長団交(大学当局との団体交渉)(1971年)

規制に入った機動隊員は想像以上に暴力的だった。足を蹴る、横腹をこづく……女子学生を隊列の中に入れる理由がわかった、端っこの列は暴力を甘受する覚悟が要るのだということ、反抗すれば威力業務妨害で逮捕されることも。「国家権力」への怒りを身体が感じた。

腕組み皆で声を合わせ叫ぶシュプレッヒコール、「アンポ~ フンサイ」! これを何度も唱和するにつれ芽生える仲間感、一体感、そういうものがあることを初めて知った。「ならあっちに行ってやる」以来の私が初めて実感する「仲間」、「連帯」、「団結」に心も身体も熱くなるという感覚、そんな感情が私にあったことが不思議に思えたが、素直に私は嬉しかった。

初めてのデモで私は多くのことを学んだ。ようやく「おかしいと思う現実は変えるべき」「そのためには行動すべき」、社会革命に一歩、足を踏み入れたことを実感した。

初めて角材、ゲバ棒を持ったのは社学同が組織した6・28ASPAC(アジア太平洋閣僚会議)粉砕・御堂筋闘争だった。

この日、社学同拠点校の同志社から8台のバスを連ね約800名もの同志社大生が大阪市大に結集、拍手で迎えられ市大、関大など大阪の学生と合流、そこから大挙して地下鉄で御堂筋に出て広い大通りをゲバ棒と赤ヘルが埋めた。それは壮観だった。

先頭が交番を襲撃、ガラスを砕いた、突然、ワオーッと機動隊が襲いかかってきた。私はてっきり「これからぶつかるのだ」とゲバ棒を身構えた、が、なんと先頭が崩れみんなは逃げ出した、中にはゲバ棒を捨てるものもいる。これにはちょっとがっかりだったが、闘争は深夜まで裏通りでの市街戦になって、投石戦など機動隊との小競り合いが続き、旗を燃やしたり私たちは気炎を上げた。けっこう見物の市民も参戦したりで私は「大衆暴動」というようなものを体感した。けっして学生だけの孤立した闘いじゃないということも。

「ASPAC阻止御堂筋デモに寛刑」(1971年10月8日付け読売新聞夕刊)

東大だけでなく「学生運動不毛の地」と言われていた日大でも全共闘が結成され、党派によらない新しい学生運動が生まれていた。パリではフランス5月革命が燃え盛っていた。

1968年の私は熱い政治の季節の闘いに自分が参加していることを実感できた。

8月に京都でべ平連主催のベトナム反戦国際会議があって、会議後の反戦デモが四条通りの祇園付近に来たとき何ものかが投げた硝酸瓶が私のヘルメットに当たって私の右頬と鼻先が硝酸で焼け、皮膚を焼く異臭と鋭い痛みがあった。付近にいたある学生は背中が焼けただれる重傷を負って病院に運ばれたと後で聞いた。ひりひりする痛みがあったけれど私はデモを続行した。初めてのデモ隊への右翼テロ、初めての負傷を経験した。

その後も秋に伊丹の軍事空港化阻止現地闘争、大阪での大規模な10・21国際反戦デー闘争、また東大闘争支援のため11・22-23安田講堂前全国学生総決起集会に参加、そして翌年1・18-19安田講堂死守戦参加に至る。これは後に触れる。

◆人生に 無駄な ものなど なにひとつない

17歳の無謀な決心「ならあっちに行ってやる」に始まり、二十歳の「跳んでみたいな共同行動」から「裸のラリーズ」結成へ、そして21歳の私がたどり着いたのは社会革命、学生運動。

それはロックと長髪による自分自身の革命、自分を知るための革命を経て「山﨑博昭の死-ジュッパチの衝撃」から社会革命へと連続する私の革命遍歴。それはまるでLike A-Rolling Stone、転がる石ころのような青春遍歴、ある意味「あっちに転がりこっちにぶつかり」の勢い任せ、暗中模索の人生、その当時は自分でもなぜこうなるのかよくわからなかった。

でもボブ・ディラン初恋の人スーズの言う「年齢を経て若い頃の感情や意味、その内容を穏やかに振り返ることができる」年齢になったいま、それは一本の赤い糸でつながるものがあったことがわかる。それは敗戦という急激な変化渦中の日本に生まれた戦後世代特有の体験に基づくものだと、そう思えるようになった

 

『一九七〇年 端境期の時代』(鹿砦社)

私たち「よど号グループ」はここ十年ほどの間に必要に迫られて様々な形で手記を書いてきた。動機は自分たちにかけられた「北朝鮮の工作員」「拉致」疑惑を解く必要性があったからだ。それは自分自身を知る過程でもあった。『拉致疑惑と帰国』(河出書房新社)、『追想にあらず』(講談社エディトリアル)、『一九七〇年-端境期の時代』(鹿砦社)がそれだ。これら手記を書く過程で、これまで記憶の引き出しにしまって置いた個々バラバラの様々な事象、「若い頃の感情や意味、その内容」が自分の人生の中で必然の糸でつながっている、そう思えるようになった。この連載手記、「京都の青春記」もそのようなもの。様々な出来事、出会いがあって今日の私がある、だから残りの人生を自分はどう生きるべきか? それを自己確認する作業でもある。

鹿砦社「今月の言葉」に「人生に 無駄な ものなど なにひとつない」と書に記した龍一郎さんの言葉にはうなづけるものがある。

生まれてこの方、順風満帆の人生だったという人はほぼいないだろう。人生には逸脱も曲折も失敗もある、けれどそれらに「無駄なものなど何ひとつない」、それらがあって現在の自分があるのだから。「失敗は成功の元」-むしろ曲折や失敗は自分の問題点がわかり教訓を得る絶好のチャンスだとさえ言える。もしもそれらが無駄なものと思えるようなら、それは何の更生力もないまま今も漫然と人生を無駄に過ごしていると自ら認めることではないだろうか? でも人間とはそんなもんじゃないと私は信じたい。

龍一郎さんの書「人生に 無駄な ものなど なにひとつない」

◆「人の目を欺いてはいけない」! 戦後日本は「おかしい」から革命すべき対象へ

森羅万象の生起、変化には必ず原因があり、人間の考えや行動、その生起、変化発展には動機、契機、理由が必ずある。

「時空を越える“黒”」で有名なファッション・デザイナー山本耀司、彼の“黒”へのこだわりの原点は、彼の5歳の頃の強烈な体験にあったという。

山本耀司の父親は戦争中、出征途上の輸送船が米軍に撃沈されて戦場に着く前に「戦死」、遺骨も遺品も残らなかった。敗戦後、「元司令官」が「父の戦死」を彼の母親に伝えに来たという。この時、「ケッ!」と5歳の耀司は心の中でツバを吐いた。この時から大人への強烈な怒り、不信感が芽生えたという。戦後、洋裁店経営で家計を支える母を手伝う中、山本耀司はファッション・デザイナーを志した。戦後の日本には欧米から華やかなファッションが流入してきた。そんな時代にデザイナーを志した自分の心構えを彼はこう語った。

「飾り立てるのがファッションかもしれないが、人の目を欺いてはいけない」

軍国主義日本から民主主義日本へと華やかな「転換」を遂げた戦後日本、でも「人の目を欺いてはいけない」-これが“黒”へのこだわり、「時空を越える“黒”」ファッション、山本耀司の立ち位置なのだろう。


◎[参考動画]YOHJI YAMAMOTO pour homme S/S2023

私には山本耀司のような強烈な体験はないが、「人の目を欺いてはいけない」という彼の言葉は、同じ戦後世代としてストンと胸に落ちる。

日本の敗戦から2年、1947年2月生まれの私は、米軍占領下で軍国主義日本から民主主義日本に急転換する混沌とした時期に生まれ少年期を過ごした世代だ。大人たちの頭も時勢の急激な変化についていけなかった時代だった。

私が物心のついた頃、いまも鮮明な記憶に残っている出来事があった。たしか小学5年の頃だ。

授業の合間にある教師が自分の軍隊体験を語り出した。それは中国人捕虜を使って刺殺訓練をやった話だった。

「いいか、刺した銃剣を抜くときはくるっと回転させて抜くんだ」とその教師は「銃剣刺殺要領」を私たち小学生に何の悪気もなく語った。

子供心にも何か違和感を覚えた。でも小学5年生にそれが何かはわかるはずもなかった。いまも鮮明に覚えているということはかなり「衝撃的な体験」だったのだろう。

その教師はといえば、自主的に壁新聞を作るように生徒たちを指導した「戦後民主主義教育のリーダー」的存在だった人だ。私もクラスの壁新聞に家で購読していた毎日小学生新聞を参考にソ連のライカ犬搭載の人工衛星、ガガーリン少佐の有人衛星の世界初成功などの記事を書いた。生徒任せの壁新聞作りは自由でとても面白かった。私にとって「いい先生」だった教師だけに、あの日の授業中に覚えた違和感はいつまでも心に残る衝撃的な体験だったのだと思う。

教師にしてみれば、当時の中国人捕虜は「反日分子=犯罪者」であり、「刺殺」対象として何の呵責も感じない「日本の敵」、刺殺は日本軍兵士として当然の行為だったのだろう。だから生徒たちにも悪びれもせず話せたのだと思う。

中学の社会科で日本史を教えた教師はただただ黒板に年表を書き連ねるだけ、そんな授業をやった。いま思えば、おそらく皇国史観から戦後民主主義史観への激変についていけなかったのだろう、あるいはそれへの「抵抗運動」? おかげで日本史は私のつまらない、嫌いな科目になった。 

大人達の頭の中でも軍国主義の脱却も民主主義の消化も不十分なまま両者が何の矛盾もなく混在していた。

私の父は実直な勤王家で軍服姿の昭和天皇夫妻の写真が戦後も客間に飾ってあったし、戦後すぐの昭和天皇の全国行幸時も「お召し列車」が通過するというので幼い私を連れて線路脇で最敬礼をした。明治生まれの父は戦争末期に徴兵検査を受け丙種不合格、それで徴用工としてコンデンサー工場に動員されあの戦争を生き延びた。戦場から帰れなかった同世代へのひけめ、罪悪感のようなものがあったのだろう。父は息子に何も語らなかった。

一方、母は私に「日本はアメリカに負けてよかったんだよ」と話した。母の兄、醤油醸造業の実家の跡取り息子はビルマ(現在のミュンマー)で戦死、結果として母は自分の長女、私の姉を「将来、婿養子をとって家業を継ぐ」養女として母の実家に差し出さざるをえなかった。そんな母の二重の悲しみがそんな言葉を吐き出させたのだろう。

一家庭の中にも軍国主義日本と民主主義日本が混在、併存する、これが戦後日本のおかしな実相だった。

私自身も記録映画に出てくる特攻隊出撃シーンに「海ゆかば」のメロディが流れると感動で涙がにじんだ。他方で私は姉の聴いていたアメリカン・ポップスの世界に惹かれていた。戦後世代の私の頭の中も混沌としていた。

60年代に入ると世は高度経済成長時代、東京オリンピックで高速道路や新幹線ができ、次は大阪万博へ、テレビ+洗濯機+冷蔵庫の「三種の神器」が家庭の夢となり、一戸建てマイホームを持つことがサラリーマンの夢になった。昼間の日本は「アメリカに追いつき追い越せ」に浮かれていた。

小学校のすぐ横に「忠魂碑」という出征兵士を祀る石塔を囲む小さな森があった。でもそこはアベックが変なことをやるところだから子供は近寄ってはいけないと言われた。「忠魂碑+男女アベック=近寄ってはいけない忠魂碑」-みんな敗戦など忘れてしまったかのような「明るい日本」の象徴??

高校生の頃、ケネディ暗殺があってその暗殺犯がまた警察署内でピストル射殺されて大統領暗殺事件は闇の中に。米国南部の黒人は白人専用の食堂やバスは利用できず、その掟を破れば暴力を受けたたき出されていた。黒人公民権運動の活動家が南部で殺される事件もあった。

少年期に憧れたアメリカは「追いつき追い越す」ほどのものじゃなくなった。

羨ましかったアメリカ中産階級のホームドラマや甘いアメリカンポップ音楽は色あせて、英国の港町リヴァプール労働者階級の息子たちの不良っぽいロックバンド、ビートルズへと私の関心は移った。

ベトナム戦争の激化は「戦後日本はおかしい」をさらに深く考えさせるものだった。憲法9条平和国家の日本は戦争をしない国になったと学校で教わった、でも在日米軍基地はこの戦争の基地になっている、日本は戦争加担国家になった、日米安保のために……。

「ならあっちに行ってやる」と進学校、受験勉強からドロップアウトを決めた17歳の無謀な決心、それは昼間の日本への違和感、「戦後日本はどこかおかしい」── 私の無意識の意識の爆発だったのだろうと思う。

そして「ジュッパチの衝撃」で「戦後日本」は革命すべき対象になった、漠然とだがそう私に意識されたのは確かだ。

◆“True Colors”── あなたの色はきっと輝く

熱い政治の季節の渦中に飛び込んだ私ではあるが、1968年の私はまだ五里霧中にあった。

集会やデモもいつも個人参加、まだ政治を知らず組織に属さない人間が政治活動を続けるのはやはり不自然なことだった。政治を議論する仲間、政治活動を教え、次の集会やデモの意義を教えてくれる組織を持たない人間は「野次馬」以上にはなれない。『朝日ジャーナル』や『現代の眼』といった政治雑誌を読むくらいの私はそんなものだった。

4回生にもなった学生は活動家の政治オルグの対象にならない、ましてやヒッピー風の長髪人間は対象外だろう。かといって自分で訪ねていくことも気が引けた、社学同に入る理由も話せない、まだ「敷居は高い」まま。

ある時、前日のデモで使用したヘルメットを返しに学友会・自治会室を訪ねたことがある。活動家たちはあっけにとられたことだろう。ぽかんとした顔を向けただけ、ヘルメットを返しに自治会室を訪ねる学生なんてやはり「変な奴」なのだ。たぶん私は「声をかけられる」ことを内心、期待したのかもしれない。

当時の私は中途半端な位置にいる自分に焦れていた。一言でいって志と孤独の間を揺れていた。どうしようもない非力さを痛感する日々、依拠すべき同志も組織もないというのは致命的だった。

そんな苦闘中のある日、バイト帰りの河原町正面・市電停留所で「あら~Bちゃん! 久しぶり~」と声をかけられた。見ると以前、私の常連バイト先で事務員をやっていた菫(すみれ)ちゃん(仮名)だった。

「Bちゃん」というのは「ビートルズ」を略した愛称、バイト職場で職人のおっちゃんたちが親愛を込めて呼んだ私のニックネーム、菫ちゃんは昼食時間にバイトの私にもお茶を煎れてくれたりしてた、たった一輪の「職場の花」だった子。一緒に市電に乗ってお互いの近況を話した。一年ほど前に職場を辞めた菫ちゃん、いまは木屋町にある喫茶店で働いているのだとかで「一度来てみて~」と私に言った。

それからはデモ帰りなどに彼女の喫茶店に立ち寄るようになった。デモが終われば所属組織毎に集まって総括したり集団で帰路に就いたりしたが、私には行くところがなかった。そんな孤独を抱える私には恰好の「帰る所」になった彼女の喫茶店、顔馴染みがいるというだけで癒された。

仕事中のウェートレス、菫ちゃんとはそれほど話はできなかったが、ある時、彼女が演劇をやっていることを知った。

京都のある劇団に所属し、いまは若手研究生の菫ちゃんは演劇女優をめざす「俳優の卵」。劇団に通う時間を得るために喫茶店のバイトに切り替え事務員定職を捨てた菫ちゃん、いまは厳しいけど絶対、舞台女優になるんだと楽しそうに意気込みを語ってくれた。地味な事務員服姿からはうかがい知れなかった彼女のアナザーサイド、「へ~え、そうなんや」! ちょっとした驚き、彼女がまぶしく見えた。

菫ちゃんにそんな大きな夢があったんや! なんか感動した。

年末には大きな演劇イベントがあってその舞台でいい役に抜擢されることがいまの彼女の目標らしかった。彼女は「俳優の卵」、なら私はさしずめ「革命家の卵」、なにか急に二人の距離感がぐっと縮まった。まだ何ものでもない「卵」たち、けれど懸命に孵化をめざす「卵」同士、お互い頑張ろうね! そんな感じの二つの魂の接近。

「Bちゃんはアホやなあ」! 

これは菫ちゃんのお言葉。

4回生にもなって就職活動もしない長髪大学生、組織にも属さないのにデモや集会に参加するという私を菫ちゃんは、「Bちゃんはアホやなあ」と言った。同志社大卒男子なら就職先は選り取りみどり、高卒女子の彼女からすれば羨ましい身分、でもそれに背を向けて自分がどうなるかもわからない政治活動をやってる私は「ほんまアホやなあ」ということ。

でもそれは菫ちゃん式の誉め言葉。

長髪人間の私だが、遊び人だとかいい加減な大学生でないことは職場での私の働きぶりで彼女は知っている。彼女もいた私のバイト先は矢野洋行、「貸し物屋」という京都特有のイベント業者、京都三大祭り行事準備や和装展示会、生け花展示会ほか様々なイベント用資材を貸し出し設営もする仕事、私は古都独特のそんな仕事が好きだった。だから学生バイトとはいえ仕事は真面目にやって一応精通した。だから社長の父親、会長の爺ちゃんからは「いつでも来てエエで」と重宝がられ、会社は準社員並みに扱ってくれた。職場での「Bちゃん」の愛称はその賜物、会長も私をそう呼んだ、そのことを菫ちゃんは知っている。

そして「俳優の卵」苦闘中の彼女は夢や志に向かう青春がなめる苦も味わう楽も知っている菫ちゃん。

“TRUE COLORS”というシンディ・ローパーのヒット曲がある。

 悲しそうな目ね

 弱気にならないでほしいの

 難しいよね

 自分らしく生きるって

 …………

 true colors /あなたの本当の色は

 are beautiful /美しい

 like a rainbow / 虹のよう

まるで菫ちゃんが歌ってくれてるような言葉の並ぶ“TRUE COLORS”!

彼女の「アホやなあ」、それは「あなたの本当の色は美しい」-“that’s why I love you”「私の大好きな色」という有り難いお言葉。

もしおかしくなって 耐えられなかったら 私を呼んで すぐ行くから

おかしくなりそうなとき、“you call me up”-いつでも“私を呼んで”、Bちゃんがいつでも訪ねられる人、”because you know I’ll be there”-“すぐ行くから”と私に安心、自信をくれる菫ちゃん。

「アホやなあ」と言いながら、いつしかデモで破れたジーンズを繕ってくれたりするようになった。私は菫ちゃんが次の大舞台でいい役がとれますようにと祈った。

「革命家の卵」と「俳優の卵」、まだ何ものでもない孵化を競い合う「卵」同士、その大きな夢と志はこの先どうなるのかはわからない。でもかまわない、とにかく前に進もう!

「あなたの色はきっと輝く」、そのことを互いに信じて……(つづく)


◎[参考動画]Cyndi Lauper – True Colors (from Live…At Last)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆「裸のラリーズ」脱退

1968年の5月頃、私はバンドを辞めることを水谷、中村に告げた。「同志社学館での出会い ── ジュッパチの衝撃の化学融合」から約半年が経っていた。

それは中村の高校の同窓というドラムの加藤君が入って練習場も桂の彼の家に移った頃、「裸のラリーズ」がミュージシャンとしての本格活動に入る時期でもあった。

その頃、学生運動は佐世保闘争の高揚を経て東大医学部闘争の激化から東大卒業式は祝典中止に追い込まれ、後に東大全共闘結成に至る。中国は文化大革命の真っ最中、パリでは世界を揺るがすフランス五月革命の胎動が始まっていた。

1968年という熱い政治の季節の開始を告げる時期、私は居ても起ってもおれない気持ちだった。

私はミュージシャンとなること、ベースギター練習に打ち込むモチベーションを持てなくなっていた。このままでは本格的にバンド活動を開始するみんなに迷惑をかけるだけ、私は脱退の意を水谷、中村に告げた。彼らは私の意を理解し、それを快く受け入れてくれた。彼らも心に「革命のヘルメット」を宿す人間だった。

辞める時、水谷が「それ僕にくれないかなあ」と言っていた私のお宝、細身の五つボタン、黒のコーデュロイ上着をプレゼントした。ベース・ギターもバンドに譲った。それらは政治転進の私には不要のものだった。

こんな風にミュージシャンとして何の貢献もないまま私は「裸のラリーズ」を去った。

その後の私はデモや政治集会に参加、組織に属さない孤独にもがく日々が続いたが1969年1月の東大安田講堂死守戦で逮捕、起訴後の拘留を経て秋に保釈後、ようやく赤軍派に加入、翌年3・31「よど号ハイジャック闘争」で渡朝に至る。このことは別途、触れるとしてその後のラリーズとの関わりについて少し書いておこうと思う。

2019年、誰知ることもなく逝った水谷孝、その死はHP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」の立ち上げで皆が知ることとなった。‘90年代初頭の活動停止後、どこで何をしていたのか、家庭を持ったのかどうかさえ世間で知る人はいない。「裸のラリーズ」だけを遺して神秘に包まれたままこの世からふっと消えた水谷、実に水谷的な人生全うの仕方だ。彼は自分のことを全く語らなかった人だが水谷亡き今、私の知る彼のことを少しでも書き残しておきたいと思う。

◆脱退後、そして「よど号」渡朝後の「水谷と私」

バンドを脱退してからも水谷、中村らとは会えば「やあ、どうしてる」という関係は続いた。

ある日、「ゴールデンカップスにゲバルトをかけよう」との水谷からの召集令状を受けた。相手は秋の同志社学園祭に出演するゴールデンカップス、学生会館ホールでやる前座がそのゲバルト舞台ということだった。

私は誰かにハモニカを借りて出演、黒セーターに黒ジーンズ、赤い布きれをネクタイ風に首に巻き付けた「左翼」スタイル、そして自衛隊の戦闘靴で決めた。この時、琵琶を持って参戦という変わり者がいたが久保田真琴(夕焼け楽団)だったように思う。例によって事前練習も打ち合わせもない「裸のラリーズ」式ぶっつけ本番、私は水谷の即興的な唸るギターに合わせハモニカを延々吹きまくった。文字通りのアドリブ。いつ終わるか果てしもない即興演奏、どう終わったかも記憶にない。

「ゴールデンカップスにゲバルトをかける」 ─ きれいなお決まり音のグループサウンズ撃破の轟音とアドリブ演奏 ─ 自分たちの音楽理念で挑む! これが水谷式のゲバルトだ。ホールの聴衆はあっけにとられたことだろう。ゴールデンカップスが兜を脱いだかどうかは知らないが、前座をわきまえない果てしのない轟音アドリブ演奏はさぞかし「迷惑」ではあっただろう。

「裸のラリーズ」公式アルバムの“’67-’69 Studio Et Live ”の最初に収録の“Smokin’ Cigarette Blues”という曲がある、あれが学園祭でのゲバルト出演、アドリブ演奏であろうとほぼ確信している。この曲を聴くと騒音の背後で唸っているハモニカ風の音が私の記憶の中の感覚、水谷の轟音ギターに応じイメージが膨らむままに吹いていたあの即興感覚が蘇る。水谷が精選したたった3枚の公式音源、その一曲にラリーズの原点、「オリジナルメンバーによる唯一のもの」としてこれを入れてくれたのだとしたら、それは私への水谷なりの「義」なんだろうと勝手に感謝している。いまは確かめる術はないが……


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Smokin’Cigarette Blues (Live)

その後は激化一途の政治闘争の渦中にあって水谷、中村らと会う機会はなく、「裸のラリーズ」も私の頭からは消えていった。

渡朝後のピョンヤンで「その後のラリーズ」を知ったのは‘79年の『ぴあ』11月号に掲載されたイベント紹介記事、青山ベルコモンズ「裸のラリーズコンサート」。告知にはサングラスの水谷の写真が! 「おお、まだやってんだ」とアングラバンドとして生き残ってたことが正直嬉しかった。その時は「まあ、細々とやってんだろうな」くらいの感覚だった。

二度目は‘90年代初期? ピョンヤンで会ったテリー伊藤と一緒に訪朝の前衛漫画家・根本敬さんから「幻の名盤」なんとかで「裸のラリーズ」テープ、“’67-’69 Studio Et Live”をプレゼントされたこと。この時も「アングラの名盤に入ってんだ」、そこそこ健闘してるじゃないか程度の認識だった。

そんな私の認識を大きく変えたのは、2000年代に入ってのピョンヤンでの英労働党EU議員、Glyn Fordとの出会い。彼から「貴方達の中にギターやってた人がいるよねえ」と言われて、もしかして私のこと? 日本でバンドやってたことがあると話すと、彼から“Les Rallizes Dénudés”じゃない? 「実は自分の友人にファンがいる」と聞かされた。

これには正直、驚いた。「へえ~、海外にまでファンがいるんだ!」 ── 世界的バンドになったのか! これは仰天の事実だった。以降、G.Fordとは訪朝の度に会うようになり、ネオナチ反対運動をやってる彼の友人、「裸のラリーズ」ファンの依頼ということで私のサインを送ったりするようになった。G.Ford自身はローリング・ストーンズ愛好家、東大留学経験で宇井純とも親交あったという私とほぼ同世代、英プレミア・サッカー同好の士でもある。

[左]Glyn Ford英労働党EU議員(当時)とピョンヤン市内のイタリアン・レストランで会食。[右]随行カメラマンのクリシニコーヴァさん(2009年)

 

LadyGaga“LES RALLIZES……”

世界的支持者といえば、あのレディ・ガガが“Les Rallizes Dénudés”ロゴ入りTシャツ写真姿を彼女のインスタグラムに掲載、知人から送られたその数枚を見たがとてもカッコよかった。超ビッグなレディ・ガガを惚れさせた水谷の凄さを見せつけられた思いだった。

訪朝した雨宮処稟さんからも「ラリーズ初代ベーシストですよね」と言われた。彼女の著書の中にプレカリアートの一人が「部屋を閉め切って布団を被って轟音ラリーズを聴く」話があった。“生きづらい”若者には「救いの轟音」なのだとラリーズの功績を再認識させられた。

労働者ユニオン代表だった小林蓮実さん、派遣で働く彼女の友人にもラリーズ支持者がいるとも聞いた。

2010年代にFさんという「裸のラリーズ」熱烈支持者の女性から手紙やメールでラリーズの詳しい情報を得られるようになり、彼女からの「ロック画報」No.25特集号で「その後のラリーズ」の全貌をほぼつかめ、「水谷の偉業」を知ることになった。そのFさんは‘13年に表参道付近にある「Galaxy ── 銀河系」で「裸のラリーズ・ナイト」を主催、私がメッセージを送ることになった。根本敬×湯浅学対論も持たれ、21世紀に入っても冷めやらぬラリーズ支持者の熱気を感じたものだ。

こうした人々との交流の中で「ラリーズ」公式音源、映像ほか“yodo-go-a-go-go”など非公式音源も入手、ピョンヤンにいる私の中に時間と空間を越えて「裸のラリーズ」が蘇った。

結成50周年の2017年秋には、椎野礼仁さんの仲介でBuzz-Feed Japan、神庭亮介記者の電話取材を受け、私のラリーズ体験を語ったが、それはネット配信されけっこう反響があったと神庭記者から伝え聞いた。

結成50年を経て取材が来る、活動停止後20余年も経たバンドの記事を待つ熱狂的支持者がいる。布団を被ってラリーズを聴くプレカリアートの若者がいる。レディ・ガガがロゴ入りTシャツ姿をインスタグラムに載せる。「裸のラリーズ」サポーターは百人百様だが、バンドは彼らの胸に永遠に生きている。

それもこれも水谷孝のなせる業、偉業だと痛感させられる。

「誰のものでもない自分だけのものを」! そんなバンド「裸のラリーズ」を水谷はこの世に産み遺していったのだ。

◆“yodo-go-a-go-go” ── 愛することと信じることは……

 

”yodo-go-a-go-go”ジャケットに記された「溺れる飛べない鳥は……」の日本語表記と謎のローマ字表記

英国製海賊版とされるアルバム“yodo-go-a-go-go”、でもこれには水谷が関与していると言われている。私は「水谷の関与」を確信している。

確信の根拠は、まずアルバム・タイトルに“yodo-go”を選んだこと、またジャケット写真に「よど号ハイジャック」を想起させる「煙が上がる駐機中の飛行機」を配したことだ。「よど号」メンバーがオリジナルメンバーにいたことは知られているが、わざわざ“yodo-go”タイトルの海賊版を創る物好きはいないだろう。

それにこのアルバムには私が参加したであろう演奏“Smokin’ Cigarette Blues”が収録されていることも水谷の関与を臭わせるものだ。

私が何より「水谷の関与」を確信するのは、アルバムの裏ジャケットに記された「謎のメッセージ」にある。

日本語表記には「溺れる飛べない鳥は水羽が必要」と記されているが、小さなローマ字表記ではそれが“Oboreru Tobenai Tori wa MIZUTANI ga Hitsuyo”と「水羽」を“MIZUTANI”に置き換えてある。これは水谷らしい謎かけだ。

私はこれを「溺れる飛べない鳥」には「水谷」という「水羽」が必要、と解釈している。つまり「溺れる飛べない鳥」のために「水谷」は在る、飛べるかも知れないし飛べないかも知れない、でもせめて溺れないように「水羽」くらいは提供することはできる。それが水谷の「裸のラリーズ」、「飛べない鳥のための革命」なのだ、と。

「愛することと信じることはちがう」、これは水谷の歌詞に出てくる言葉だ。「おまえの言葉の中に愛を探したことは いつのことだった!」とか「いまではおまえを信じることはできない」そして「僕の腕の中におまえは死んでいる」、そんな歌詞をいろんな楽曲で水谷が歌っている。

歌詞によく出てくる「おまえ」は「革命」を指すと評した人がいる。

1969年から‘70年年初冬に同志社放送部のスタジオで収録されたCD“MIZUTANI/ Les Rallizes Dénudés”には轟音ノイズのこのバンドには珍しいフォークっぽい美しくも悲しみをたたえたメロディに乗せて上記のような歌詞がいろんな曲で歌われている。


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – 記憶は遠い(愛することと信じることはちがう)


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Otherwise My Conviction

このアルバム収録時のことをギター参加の久保田真琴が「ロック画報」(ラリーズ特集号)で語っている。少し長いがその頃の水谷を知る上で重要な当事者証言だから引用する。聞き手は、ラリーズ・ファンでもある音楽評論家の湯浅学。

久保田 もう、学校もぐしゃぐしゃな時代でロックアウトされてたんだけど、キャンパスでバタっと出会ってね。……それで、聞いたら、まあ、「つかれちゃった」と。たぶん、学生運動のことでいろいろあったんだろうと思うんだけどね。

湯浅  ……・

久保田 う~ん……だからよど号の事件はいつだっけ?

湯浅  70年の3月31日です。

久保田 ええ~、そうなんだ。じゃあ、もう、よど号が行く前にいったん解散してたんだ。

湯浅  みたいですね。そのあたりに分かれ目がどうもあったらしくて。

久保田 だから、彼はやっぱりミュージシャンを選んだんだな。まあ、そういうことですよ。そう……そうか、私はなんか、頭の中では、あの録音はもう、よど号が行っちゃった後っていうイメージがあったんだけど、違うんだね。

 

水谷の歌うマイクスタンドの前に「赤軍派」のヘルメットがぶら下がってる。場所は京大西部講堂か?

同志社での“MIZUTANI/ Les Rallizes Dénudés”収録直前の1969年は1月の東大安田講堂落城以降、全国の大学のバリケードは警察機動隊によって解体され、拠点を失った学生運動は混迷期に入る。立命全共闘だった『二十歳の原点』の高野悦子さんなど多くの自殺者が出た年でもある。混迷突破をめぐる党派内部の混乱もあって1968年にはあれほど熱かった政治の季節、革命の前途は一転してうすら寒くも暗澹となりゆく時期、しかし余熱はくすぶっていた。

赤軍派はそんな余熱を革命の熱気に換えようという組織だった。ある公演舞台(京大西部講堂?)で水谷の歌うマイクスタンドの前に「赤軍派」のヘルメットがぶら下がってる写真があるが、彼が心を寄せていた可能性はある。でも赤軍派拠点だった同志社キャンパスは久保田の言うように「ぐしゃぐしゃな時代」、水谷に何があったか知る由もないが「つかれちゃった」という状況にあったのだろう。私はこの年のほとんどを安田講堂逮捕後の獄中にあって現場を知らない。

1969年の京都、水谷周辺の時代の空気感、それが水谷の歌う「愛することと信じることはちがう」という季節感なのだろうと私流に解釈している。

それは私にもある程度、想像はできるあの時代のひりひりした空気感だ。

案の定、時代は「連合赤軍の同志粛正」、「中核・革マル戦争」のように新左翼諸党派の「内ゲバ殺人」へと流れていった。革命は何のため? 誰のため? を忘れた革命、党派利害第一、党利党略に翻弄され「いまではおまえを信じることができない」革命に堕ちて行く。

「僕の腕の中にお前(革命)は死んでいる」 ── 水谷はミュージシャンとして「溺れる飛べない鳥のための革命」を自分の使命とし、「裸のラリーズ」で水谷の革命をやる、そう心に決めたのだ。

雨宮処稟さんの著書に出てくる「布団を被ってラリーズの轟音を聴く」プレカリアートの若者は、そんな水谷の言う「溺れる飛べない鳥」の一人なのだろう。

「愛することと信じることはちがう」、それは革命とは言えない。「愛することと信じることは同じ」と言える革命はきっとあるはずだ。あきらめずに地面を掘り続ければ、必ず水は出てくる、私もあの時代を生きた一人、今もそれを追求途上にある。

だから私は“yodo-go-a-go-go”裏ジャケットに記された謎かけのようなメッセージを私に対する水谷の決意表明だと受けとめ、ならば私は私の革命を続ける責任があると肝に銘じる。

「裸のラリーズ」の楽曲で私のイチ推しは“yodo-go-a-go-go”所収の名曲“Enter The Mirror”だ。“’77 LIVE”にも同曲があるが断然こちらがいい、私にとっては珠玉の名曲、「私の裸のラリーズ」だ。

この“Enter The Mirror”を聴きながら「愛することと信じることは同じ」革命を追求する責任が自分にはあるのだということを私は忘れないようにしている。

「鏡よ鏡 天国でいちばんカッコイイのは誰? それは“裸のラリーズ”」 ── 天国にあってもそんな水谷孝であろうことを確信しながら……


◎[参考動画]Les Rallizes Dénudés – Enter the Mirror

P.S.

“Enter The Mirror”にまつわるお話しとして……

水谷との関連でぜひ触れねばならないが収まりどころがないので「追記」にそれを書く。

「オルフェ」という1950年代の古いフランス映画がある。詩人ジャン・コクトーの創った映画だ。私には珠玉の名曲”Enter The Mirror”はこの映画を想起させる。

死より恐ろしい刑罰に美しく毅然と!“死神の女王”(映画「オルフェ」より)

鏡の外は現実の人間世界、鏡の中に入ればそこは「死者の世界」、「死に神の女王」は「鏡の外」の世界の詩人を愛してしまう、それは「鏡の中の世界」では許されない御法度とされる行為、しかし「鏡の中」の法廷で「死に神の女王」は詩人への愛を否定せず自分の愛を貫く、そして「死より恐ろしい刑罰」の待つ刑場へと向かう、毅然と美しく! 

コクトーの詩を好んだとされる水谷、“Enter The Mirror”は「死に神の女王」を意識した楽曲、私は勝手にそう解釈している。私は水谷がこの「死に神の女王」に自分を重ね合わせているのではないかと思えて仕方がない。(つづく)


◎[参考動画]ORPHEE / ORPHEUS (1950) with subtitles

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆音楽界にゲバルトをかける!

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと!──。「山﨑博昭の死」は私にそのことを教えてくれた。

「志」のようなものの芽生え? 向かうべき方向性が見えた、そんな感じだった。

だからといって当時の私に明確な志や行動目標があったわけじゃない。学生運動家が神々しく見えたといってもそれは私とは距離がありすぎた。「10・8羽田闘争」に共感はしても、ベトナム反戦、反安保というスローガンが自分の志になるには私はまだ政治的にあまりに幼すぎた。漠然と「戦後日本はおかしい」くらいじゃ、政治活動にはならない。一言でいって私にはまだ「学生運動の敷居」は高かった。でもそれに近づきたかったし、社会を革命する行動のとれない自分に焦れていた。

1967年10・8闘争はその後も11・12羽田闘争、佐藤首相訪米阻止闘争へと続き「権力の暴力に立ち向かう」意思表示として「ヘルメットとゲバ棒」は、新しい学生運動の誕生を象徴するものとして「戦後民主主義に疑問」の私たち戦後世代の若者の心を捉えていった。それは翌年1月の佐世保闘争(米原子力空母寄港阻止)、その後の東大、日大全共闘結成で頂点に達する……それは後日のこと。

そんな私の1967年晩秋、たぶん11月頃、同志社学生会館ロビーで所在なげに座っていた私に近づいてきた二人の長髪同志社大生、この二人は水谷孝、中村武志 ── この運命的な出会いが次の私の革命への一歩になろうとは! 

彼らからどう話しかけられたかは「記憶に遠い」。なぜ私に話しかけてきたのか? この時のことを中村武志は後にこう語っている。

「結成時のことねぇ……、まず水谷氏とは大学の軽音同好会で出会った。とにかく彼は当時まだ少なかった長髪でカッコよく、独特の雰囲気を持っていて一目で魅了された。たぶん僕から“一緒にバンドをやらないか”って声をかけたと思う。で、ベースとドラムを探さなきゃ、誰かカッコいいやつはいないか、ということになって一緒にキャンパスを探し、若林さんを見つけた。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

当時、私の長髪は肩にまでかかる真ん中分け、細身の黒のコーデュロイ上下、上着は5つボタンの袖がボタンで絞れるカーナビー風ファッション、しかも「お婆ちゃんの鼈甲(べっこう)丸眼鏡」風サングラスに黒ブーツ、全身これ「黒」で決めていた。同志社キャンパスでは嫌でも目立ったと思う。自分で言うのは何だが「誰かカッコイイやつ」という水谷、中村のおメガネにかなわないはずがない、「お顔」はともかく長髪が醸す雰囲気だけは「誰よりカッコよく決める」を自負していたから……一種の私の革命。

水谷、中村とは最初の出会いで瞬時に意気投合した。彼らと話しこんだのはだいたい以下のような感じ、多分に私の主観が入ってると思うけれど……。

いまロック界にも革命が起こっている。「へイジョー」、「紫の煙」のジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドは圧倒的な音の壁を作りだし、“Somebody to Love”がヒットのジェファーソン・エアプレーンはサイケデリックな映像も駆使した幻想的なライブを演出していた。


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Hey Joe (1967)


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Purple Haze – LIVE (1967)


◎[参考動画]The Jefferson Airplane – Somebody To Love (Smothers Brothers, May 7 1967)

それはビートルズ「抱きしめたい」の頃とは完全に異次元のロック。エレキギター、ベースなど電子楽器の駆使であんな音が出せるのだ! ロックの可能性、革新に関する3人の想い、感覚は完璧に共鳴した。当時の日本のロックと言えば、グループ・サウンズ全盛、音楽業界が作りだした商業主義のアイドル・グループばっか、あんなのはロックじゃない。こんな日本の音楽界にゲバルトをかける(ゲバルト=戦闘)! 日本のミュージック・シーンを革命する! 誰のものでもない、自分だけのものを! 

これが私のハートに火を付けた。話す口調はぼそぼそ、でも3人の心と魂はギラギラ。

中村武志は当時を振り返ってこうも語っている。よく雰囲気を伝えているので少し長いが引用する。

「話をしてみると、彼(若林)も僕らと同じような音楽を聴いていて、ただ、楽器は何もしたことがない。でもベースやれ、と。つまり最初から楽器のテク以上に、感性や理念が大事だったってこと。……バンド名も含めて、“日本語でオリジナルをやる”っていうのは、最初から絶対にあった。当時、グループサウンズとかは日本語だったけれども、本当にロックを日本語でやるバンドはいなかったから。水谷さんは詩人で、すでに歌詞を書いていたし、それをロックでやりたかった。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

水谷、中村も「ジュッパチの衝撃」体験者。同志社軽音サークル時代の友人、久保田麻琴(「夕焼け楽団」など主宰)によると、水谷はこんな感じで軽音サークルを飛び出した。

「半年ぐらいで軽音辞めちゃって。気が付いたら、街をヘルメットかぶって、歩いてた。……学生運動にならって、演説っぽい、この軽音楽部は自己批判しろ、みたいな、そんなこと言って退部していった」(「ロック画報」25号 特集:裸のラリーズ)

1967年晩秋の同志社学館での出会いと意気投合、それは三人三様の「ジュッパチの衝撃」、それが化学融合を引き起こした一事変、ある意味これが「裸のラリーズ」の萌芽、その原点。私は勝手にそう思っている。

◆「“らり~ず“でいいのだ」、「”裸のまんま“で行こう!」

同志社学館での意気投合後、バンド結成をめざした3人だが音楽はやらず、3人でつるんでるだけの時間が多かった。私はベースギターすら持ってなかったし、ましてやギター素人だから練習しなきゃとも思わなかった。彼らもそれを要求もしなかった。

ある意味、3人の意思の統合、バンドの方向性の模索期。

中村武志の言葉を借りれば、こういうことだ。

「最初期のメンバーでミュージシャンとして通用するのは水谷さんだけ。僕らはミュージシャンになりたかった訳ではなくて、バンドをやりたかった」(「京都新聞」2022年5月4日付け)

当時、中村は「志望はカメラマン」とも言っていた。

 

「LES RALLIZES DENUDES“FRANCE”DEMOS」

水谷はこんな風にも言っている。フランス在住時の水谷と音楽評論家・湯浅学のファックス会話の一部、全く公式発言のない水谷の希有な資料だ。

「当時、水谷は(現在もそうだが)友人もしくはお仲間はどちらかと言えばミュージシャンより、絵描き、詩人、カメラマンと称する様な連中が大半。モダンジャズの店(“しあんくれ~る“だろう)にたむろしていた。こちらがもし何かに影響を受けたとしたなら、彼らとの遊び、会話、その他諸々からである筈だ。それらは常に刺激的であった。また、常に刺激的であるべきだ」(水谷×湯浅学ファクシミリ交信-1991)

私たち3人はミュージックだけでつながっていたわけじゃないということだ。

「鏡よ鏡、世界でいちばんカッコイイのは誰? それは裸のラリーズ」

こんな呪文が3人の信条。むろん誰も口に出したことはない、でも心は確実にそれだった。

水谷、中村、そして私、この長髪最尖端3人組がつるんで歩くだけで「空気が一変する」、要するにグループとしてとてもカッコイイ。京都の街を3人が歩くときは周囲を睥睨(へいげい)、「下にい、下にい……」の大名行列気分。無意識の意識、あくまでいま思えばという私の主観。それは単なるナルシズムかもしれないし、世間的には傲慢この上ない連中、「鼻につくヤツら」だっただろう。

なにかを声高に議論したこともなければ、そもそも会話自体とても少なかった。水谷の用語は「イカしてる」と「イカさない」、つまりカッコイイかカッコ悪いか、この二つで事は足りた。日常会話なんてダサイ、阿吽(あうん)の呼吸、最低限必要な言葉で成り立つ不思議な「黙示録」グループだった。

恰好にもこだわった。ロック界を革命する人間は誰よりも「イカしてる」、カッコイイ人間でなければならない。

当時、男物のない花柄のシャツがほしくてデパートの婦人服売り場を物色したり、野性味がほしくて米軍放出品の中古着屋をのぞいたりした。私は戦闘服とザック製や強化ビニール製の軍用ショルダーバックを買った。彼らもなにがしかのものを買った。

こんな3人が化学反応すればすでに「新しいバンド」の方向性は決まったも同然。

バンド名「裸のラリーズ」命名経緯についてはよく質問を受ける。

バンドが有名になってから命名に関するいろんな議論が交わされたと聞く。よく言われるのがウィリアム・バロウズの「裸のランチ」が由来だとかetc……。でもそんなややこしいことを考えて命名されたわけではない。事実は至って単純だ。

肌寒い初冬のある日、たしか「モップス」だったか何かの公演を「視察してやろう」とかで夜の京都の街を徘徊していたときに突然として産まれたものだ。別にバンド名を考えようなんて議論をしていたわけじゃない。

3人はハイミナールをやっていて精神ハイ、いわゆる“らりって”た。突然、「俺たちは“らり~ず”」! 的なことを誰ともなく言ったのがきっかけ。私? 水谷? 中村? 記憶はぶっ飛んでいる。“らり~ず”だけじゃ物足りないし語呂も悪い、なら“裸”はどう? 素(す)のまま、飾りっけなし、裸のまんま!-で、「裸のらり~ず」。 

“らりって”て何が悪い!?-「“らり~ず”でいいのだ」、「“裸のまんま”で行こう」! まあそういうことだったのかなあと思う。

正直、この辺の前後事情はまったくの「感じ」でしかない。いわば突然のひらめき、あるいは「神の啓示」としか言いようがない。霊感と言った方がいいのかも知れない。

この時から自分たちを「裸のらり~ず」と称するようになったが、私はこの命名だけで全世界を獲得した気分だった。そんな高揚感を持ったのは事実だ。

いま思えば、この「裸のらり~ず」という命名は「詩人」仁奈さんから教えられた「イメージの言語化」、その賜物かも知れない。たぶんそうだ。

当時の私の感覚では平仮名の「らり~ず」、いまは「裸のラリーズ」で通っているがカタカナの「ラリーズ」じゃ英語の「ラリー」、自動車レースみたいな語感で「らりってる」という着心地がしない。水谷が“Les Rallizes Denudes”とわざわざフランス語表記にしたのもそんな事情からかも知れない。このフランス語の語感は水谷風に言えば、「最高にイカしてる」。でもそんな解釈論議はどうでもいいこと、辞めた私があれこれ言うことではない。

◆萌芽期 ──「裸のラリーズ」の始動

ベースギターは冬に入ってようやく買った。安物だが黒のまあまあカッコイイもの、水谷の知り合いの楽器屋のおばさんに月賦にしてもらった。時折いじくる程度でそれほど練習した記憶はない。バンドの集まれる練習場もなかったが、それを求めようと焦ってもいなかった。

ようやくバンドの練習場が見つかったのは、翌年の2月頃。町内野球チームでバッテリーを組んだ私の幼なじみが草津駅前に百貨店を開き、国道1号線脇に作った倉庫を「これ使えや」と貸してくれることになった。そこに小さなアンプとギターを持ち込み、練習場とした。文字通りのガレージ・ロック。

私はナッシュビル・ティーンズのヒット曲「タバコロード」のベース音を練習曲にした。けっこう曲がカッコよくて初心者にも弾きやすかったからだ。水谷は足踏み式のワウワウペダルを使って音の歪みを試したりしていた。それぞれが勝手にやって3人で音合わせをするということはしていない、まだそのレベルじゃなかった。


◎[参考動画]タバコロード ナッシュビルティーンズ 1964

その頃だと思うが、同志社写真部にいた知り合いの女性が部主催ダンスパーティの演奏をやらないかと私に持ちかけてきた。私は「いいよ」と答え、水谷、中村も「やろう」となった。3人で音合わせも、やる曲の打ち合わせも事前練習もなし、そんな具合でずいぶん無謀な出演だったけれど、私も含めて何の心配も躊躇もなかった。これが初めてのバンドとしてのデビューと言えるが、ずいぶん無茶をやったものだと思う。

どんな曲をやったか全く記憶にない。ただ私がなぜかヴォーカルをとったローリング・ストーンズの“As Tears Go By”(涙あふれて)をやったことだけは覚えている。


◎[参考動画]As Tears Go By – The Rolling Stones 1966

たぶん演奏はハチャメチャだっただろう。案の定、場はシラケにシラケてみんなダンスをやめた。ただ数人の私たちのサポーターだけが勝手に踊ってくれていた。私たち3人はといえば「ダンパがつぶれてざまあ見ろ」の傲慢姿勢、そもそもダンス・パーティなどというもの自体、私たちのバンドとは対極のものだった。最初っから「ゲバルトをかけてやれ」くらいのつもりで引き受けたのかも知れない。出演を斡旋してくれた写真部女子には悪いことをしたと思う。

でもその写真部女子には「写真展に出品する作品のモデルになってくれない?」とまた頼まれて「おう、面白いね」と受け、大津市郊外の琵琶湖畔で3人の撮影会をやった。琵琶湖の西を走る単線「江若鉄道」の線路を背景にしたり、けっこう雰囲気のある写真が撮れた。写真展後、その彼女から線路に座る米軍古着戦闘服姿を捉えた私の大きなモノクロ写真パネルをプレゼントされた。天衝く意気だがまだ何ものでもない当時の「ラリーズ」の雰囲気をよく表しているとてもいい写真だった。彼女には心から「ありがとう」と言った。

いま国内のみならず海外でも一部に熱狂的なファンを持つバンドだから、「裸のラリーズ」萌芽期を捉えた彼女の大量のフィルムはファン垂涎の超「お宝写真」になったはず。事実「そのフィルムなんとか入手できないか?」という記者からの問い合わせも受けた。友人から聞くところによるとその写真部女子は2年ほど前に故人となり、彼女と共にその「お宝映像」も天国に召された。

この時期の唯一とも言える写真が存在する。

それは大学の春休みだったか3月頃、3人で鈍行列車東京遠征をやった時のものだ。遠征目的は「東京の音楽シーン」視察。ロックバンドの出演する劇場などを視察したが「どうってこともないロックだな」というのが3人の評価、新宿紀伊国屋ビルのピットインではモダンジャズの生演奏を聴いたりもしたがこれは刺激的だった。

 

「裸のラリーズ」萌芽期の水谷、若林、中村(下から上へ/『カメラ毎日』1968年6月号掲載)

視察後の夜を新宿の深夜喫茶で過ごしている私たちを見かけ話してきた人物があった。彼は写真家で私たち3人をモデルに撮影したいということだった。私たちは「いいよ」と答え、翌日、彼のスタジオや青山の外国人邸宅のような庭で撮影をやった。プロのカメラマンの依頼だから喜んでいいはずだが、「カッコよく撮れよ」というような対し方だったと思う。

その写真家の名前は大森忠、彼の作品は「グループ」との表題で『カメラ毎日』6月号にモノクロ写真3枚が掲載された。暗くしたスタジオで撮影され、ライトアップで暗闇から浮かび上がるようにピントもぼかし3人を捉えたその中の一枚は、萌芽期「裸のラリーズ」の匂いが香り立つような仕上がりになっている。日本の知り合いのカメラマンから送られたその写真はいま私のお宝映像、あの頃の3人の心意気を時折、切なくも懐かしく思い出させるものだ。

このように1968年は「裸のラリーズ」がバンドとして芽吹く季節として明けていった。

他方、この年初頭の1月には佐世保闘争があり、「プエブロ号事件」直後の朝鮮に向かう米原子力空母「エンタープライズ」寄港阻止の激しい闘いは警察機動隊の過剰な暴力を生み多くの重軽傷者を出したが、これが学生たちへの佐世保市民の大きな共感と支持を呼んだ。片や東大では医学部闘争が激化、これが全学に拡大し東大全共闘を生み、日大がそれに続き党派によらない学生大衆による学生運動、全共闘運動が誕生、1968年は熱い政治の季節に入ってゆく。

この年、「21歳の革命」に向かう渦中にあった私もこれに無縁ではいられなかった。1968年は私に再び大きな転機を促す年となる。(つづく)


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes – Enter the Mirror


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes ’67-’69 Studio Et Live

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

◆「一週一善」

ほんの思いつきから始まった自作詩集「仁奈詩手帖」、それはいつしか真剣勝負の共同作業になって結果は思った以上の「価値ある」成功、それは私たちにとても勇気を与えるものだった。

二人でやれば怖いものはない。「思案に暮れていた」ジェロさんと「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」の仁奈さん、二つの魂は確実に接近した。

「案ずるより産むが易し」! 「跳んでみたいな」運命共同体、次なる共同行動は”Smoke gets in your eyes”の夜からすでに温めていた「一週一善」構想。

精神ハイに乗ったあの夜決めたのは「一日一善」の故事にならって私たち式の「一善」、世間の常識を覆す「一つの善行」を「週一」でやろうという企画(実際は、月に2、3回)。おかしいと思う常識を覆すのが私たちの「善行」! 


◎[参考動画]Miles Davis – Smoke gets in your eyes

最初の企画の発案、シナリオは仁奈さん、それは「お嬢さん」脱皮中の彼女らしいユニークな「一善」。

当時の京都でひときわ華やかな四条河原町・高島屋デパート、なかでも高級感あふれる資生堂化粧品売り場が二人の「善行」舞台。

まず「お嬢さん」風のいでたちの「上客」、仁奈さんが資生堂の化粧指導員相手にショウケースから各種カラーの口紅をあれこれ出させ、いちいち説明をさせながら、さてどれにしようかと思案のふりをする。横に付きそうこれもちょっと小綺麗にした私に「迷っちゃうなあ、どれがいい?」と恋人に甘えるかのように意見を求める。ここからがジェロさんの大芝居-「僕には“素(す)のまま“の君がサイコー」! と彼女の唇に優しく「3センチ距離感覚」を実践、ゆっくりとこれ見よがしにやる、彼女もそれを甘く受ける。目の前の資生堂派遣の一級のプロ化粧指導員をして目のやり場に困らせるのが目的。そして挙げ句の果てに「すみませ~ん、やめときます。ごめんなさいね」と二人で売り場を去る。

気合いを入れこれをシナリオ通りにやって、ほぼ想定通りの展開にした。

高島屋から四条通りに出るや二人でにんまりうなずき合った、「してやったり」! おなかの中では大笑い。「あの“3センチ”、ちょっとしつこかったよ」の仁奈さんに「いやあ、あれは演技やない本気」とジェロさん、「バッカ~」と仁奈さんのお叱り受けて初「善行」はめでたしめでたし。

世間的には単なる資生堂の販売員イジメ、でも舞台は天下の高島屋、資生堂ブース、精神ハイとはいえ私たちにはちょっと勇気が必要だった「善行」。

いま思えばこの「善行」は、「アメリカに追いつけ追い越せ」高度経済成長に向かう「昼間の明るい日本」に対するカウンターパンチ。「時空を越える“黒”」ファッションで有名なデザイナー、山本耀司式に言えば、「飾り立てるのがファッションかもしれないが、人の眼を欺いてはいけない」! そんな意味合いだったのだと思う。仁奈さんは「善行」センスも「高品質」!

この頃、新宿花園神社赤テント状況劇場や天井桟敷で唐十郎、寺山修二らも常識を覆す実験劇をやっていた。仁奈さんの「実験劇」はその零細企業版!?

次にやった「善行」は「乞食のおっちゃん二人組」との三条大橋下での夜の酒宴。これは私の発案。

以前、バイト帰りの薄汚れた格好、ぼさぼさ長髪の私が鴨川縁を歩いていたら、「よ~っ、同志!」と呼び止められた。声をかけたのは三条大橋下をねぐらにしている乞食のおっちゃん二人組、誘われるままに彼らと一夜を過ごし友達になった。おっちゃんたちは二人とも「満州引き揚げ者」で戦後の日本になじめなかったのか、何らかの理由で自由気ままな乞食生活をやっている人、犬も一匹飼うという優しさの「余裕」もあるお乞食さん。

富裕家庭子女の「詩人」をこのおっちゃんら「無産階級」が酒宴に招待するという逆転の発想の「善行」。

三条大橋。車の止まってる辺り

お酒はおっちゃんらが木屋町飲食街からポリタンクに集めた「残り物」の「ごちゃまぜビール」、それまでの仁奈さんには縁の遠い人間たちとお酒。「素敵じゃない? よしやろう」と仁奈さんも同意。

若い女性とお酒を呑む機会のないおっちゃんらは「詩人」を大歓迎。コップは使い古したお茶碗のようなものだったが、かまわず仁奈さんはおっちゃんらと「茶碗酒」をガブ呑み、まるで酒豪比べのような酒宴になった。おっちゃんらは「呑みっぷりがエエなあ」と仁奈さんを褒めそやした。ポリタンクいっぱいのビールは飲み放題、「おつまみ」まであって一晩中、酒宴は続いた。

「ここはお国の何百里~ 離れて遠~き 満州の~~」を酔いに任せておっちゃんらと大声で合唱した。軍歌ではあるが彼らには格別の想い入れがある歌なのだろう。ニーナ・シモンを愛する私たちだったが違和感なく一緒に歌えた。戦前世代と戦後世代が一体になった、そんな瞬間だった。

したたかに呑んだあと仁奈さんも段ボールか何かの寝床で寝た、トイレも野外、ちょっと心配だったけれど「お嬢さん詩人」はけろりとしたもの。「気持ちよかったあ~、久々の開放感」! 屈託のないのがこの人のいいところ。

双方満足のとても気持ちのよい「善行」、京都のシンボル、三条大橋下という舞台設定も最高。

翌朝、目覚めて比叡山方向から昇る朝日をみんなで眺めた。その時、おっちゃんの一人が叫んだ。「満州の太陽はもっとでっかいぞ」! 

その一言にさまざまな思いが込められていたのだろう。おっちゃんらが満州で、また引き揚げ時やその後の日本で、どんな思いをしたのか、もっと聞いておけばよかった。なんか自分たちが盛り上がっただけで終わったなあと、ちょっと後悔が残った。

「昼間の日本」にはカウンターパンチ、「夜の日本」にはカンパ~イの「一善」、この頃までが仁奈さんとジェロさん共同行動の「蜜月」時期……だったかもしれない。

三条大橋下。おっちゃんらとの夜の酒宴の場、ギターを弾いてる若者らのように

◆「10・8-山﨑博昭の死」の衝撃

その後も日本海サイクリング野宿放浪、鈍行列車東京遠征で新宿ヒッピー観察……etc.「一善」は続いたがハプニング的な「善行」はそうそう長続きするものじゃない、惰性は免れなかった。

日本海放浪は、夜に蚊の大群に悩まされて野宿は中途挫折で民宿に、新宿で会ったヒッピーはインド哲学や禅など神がかっていたり単なる自由恋愛主義者だったりで「なんかついていけないよね」。

でもこうした日々にも仁奈さんは詩作を続けたし、新しい「文学的発見」をノートに記したり、何であれ新しい体験を自分のものにしていってるようだった。「新しい時代の作家」になる栄養素にしていたのだろう。

他方、私はというと「常識打破の善行」もやってる瞬間は意気軒昂、でも終わってみれば自分に残るものは何もない。まるでハイミナールが切れた後のよう……。刹那主義的行動だけではやはり人間には何か虚しい。

仁奈さんは強くて温かい「同伴者」だった。ときに落ち込む私を気遣って夏のある夜、「ホタル見に行かない?」と鴨川に誘った。舞い上がる無数の蛍火を「きれいだね」とか言いながら「あのホタルだって昼間は誰にも見えないのよねえ」とボソッと私につぶやいたが、あれは「詩人」式の励ましの言葉だったのだろう。

仁奈さんにはめざすものがあって、ジェロさんにはない。これからどこに行くのか? 具体的な目標、志が私にはない、それを痛感させられる日々でもあった。いま思えば、それ自体が私の進歩を促す過程、自分の不足を感じる過程だったとは言えるが、二十歳の私には自分を客観視するそんな心の余裕はなかった。

いつしか季節は秋になった。

そんな時に私の一大転機を促す「事件」が起こった。

忘れもしない1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の闘い、世に言う「ジュッパチ」羽田闘争が起こった。学生運動で初めてヘルメットとゲバ棒が登場、学生たちは警察機動隊と激しくぶつかった。機動隊の警棒に追われ弁天橋から川に転落する学生たち……。

そして激闘さなかに機動隊装甲車に轢かれ一人の学生が命を落とした。

彼の名は京大生・山﨑博昭、まだ18歳だった。

新聞や固い週刊誌など見向きもしなかった私がそれらをむさぼり読んだ。

大学のキャンパスでは活動家を囲んであちこちで議論の輪ができていた。活動家は必死に闘争の意義を訴えていた、だが多数意見は「暴力はよくない! 民主主義の日本なんだから」だった。私はこれに何か納得できなかった。でもそれを口に表すことはできなかった。

一人の学生が死んだということ、ただこのことが私に重くのしかかっていた。

あの日から私の頭と心を占めるのはこのことだった。


◎[参考動画]映画『きみが死んだあとで』予告編

17歳の時のビートルズ「抱きしめたい」はまさに脳天直撃だった。でも「ジュッパチ」はじわじわと心に迫ってくる「衝撃」とでも言うか、何かが私をぐぐ~っと締め上げて来る、そんな感じだった。

私は学生運動にはこれまで冷淡だった。ビラを受け取ってもゴミ箱に捨てた。小中高と同窓だった友人が社学同(社会主義学生同盟)、ブンドの活動家で一回生の頃、オルグらしいことを受けたが心は動かなかった。どうせ学生時代の左翼インテリのイデオロギー行動、大学を卒業すれば就職してそれで終わり、そんなものだろう。とても醒めた目で見ていたと思う。

だが「山﨑博昭の死」はそれを180度、覆すものだった。

学生達は命がけで闘っている! おかしいと思うこと、おかしな社会に真っ向から向き合い、これに正面からぶつかっていった一人の学生が死んだ! 志に殉じる自己犠牲! そんな学生運動家が神々しく思えた。

それに比べ「ならあっちに行ってやる」以降の私のドロップアウト人生、社会に背を向け、顔を背けてきた私、「社会常識」をただあざ笑うだけの私、それは安全地帯からする単なる自己満足? 考えれば考えるほどそんな自分がとても恥ずかしく思えた。

私が初めて意識した良心というようなもの、初めて感じた良心、その鈍痛みたいなもの。うまく言えないが、そんなものだったと思う。

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

まだ何をやるべきかは定かではなかったけれど、はっきりしているのは社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと-めざすのは何らかの社会革命!

「跳んでみたいな」共同行動の季節はとっくに過ぎた。仁奈さんとの「運命共同体」は宙に浮いたものになった。彼女は文学、「作家になる」という目標に邁進する、私は目標、志を立てなければならない。それぞれが自分の道に向かうべき時が来たのだ。

私を観念の世界から行動へと突き動かしてくれた恩人、仁奈さん-「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」-この一言をいまも私は忘れない。

新しい出発のためには必要な別れ。現実はそう簡単に割り切れるものではないけれど……

そんな頃、私の前に現れた二人の同志社大生、水谷孝と中村武志、彼らも「ジュッパチの衝撃」体験者だった。この出会いが私の新しい出発の開始になるとは……(つづく)


◎[参考動画]裸のラリーズ Les Rallizes Denudes 1

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『一九七〇年 端境期の時代』

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

◆“Smoke Gets In Your Eyes”の夜

ビートルズ脳天直撃に始まった17歳の無謀な決心「ならあっちに行ってやる」も「夢見る時代」は私の十代と共に終わった。でも“しあんくれ~る”で燻ってるだけの二十歳、その私の前にポッと現れた「作家志望の詩人」、フランセで「私も跳んでみたいな」ともらした彼女、「思ったより簡単じゃないよ」と応じた私に「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」 さらり反問してきた立命文学部女子。

「思案に暮れる」二十歳の空虚の雲間に射し込む一点の陽(ひ)? 心強い「同伴者」出現? いま思えば、そんな出会いだった。

この「ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁」の翌日、私はいつもの時間帯に“しあんくれ~る”のドアを開けるとすでに「詩人」が私の定番席にご座席。

「昨日はどうも」と彼女、「大丈夫やった?」と声をかける私に「昨夜はご迷惑かけてごめんなさい」ともうふだんの真面目な女子大生風に戻っていた。昨夜の泥酔気味は二日酔いの痕跡もない、この方はつくづくお酒に強い人だと再認識。

昨日の余韻のままに二人でリクエストのニーナ・シモンに聞き惚れた後、店を出るや「私のアパートに行きません?」と誘われた。昨晩、タクシーで送り届けた時に「遅いから泊まっていってもいいですよ」との好意を断った手前もあって「そやね、じゃあ」と彼女の誘いを受けた。

正直言えば、フランセで「跳んでみたいな」と言った彼女に「じゃあ跳んでみる?」とハイミナールを勧めたのが私だったから「泥酔させる目的でドラッグを飲ませた」などと変に誤解されてはと昨晩は「詩人」のせっかくの好意をあえて断った。でも結果的にはそれがよかったのだろう。

途中、夕食代わりの餃子を買ったりして30分ほど歩いたが、彼女の学生アパートは京大のすぐ近くだった。簡単な自炊のできる流しもある6畳余りの部屋には広げればベッドにもなる折り畳み式ソファーがあり、アンプとスピーカー、ターンテーブル各独立、私なぞ「高嶺の花」のトリオ社製小型オーディオセット、レコード立てにはヴォーカル系LP多数、学生下宿というより富裕家庭子女の小綺麗な「お部屋」。

夕食は餃子&彼女が冷蔵庫から取り出したジンと氷でジン・オンザロック。「ハイミナールにお酒はヤバイ、昨日みたいになるよ」と忠告しても「一杯だけならいいでしょ」、酒豪と付き合うのは大変。恵まれて育ったせいか何事にも屈託がない。

簡単な夕食を終えて「詩人」が「ちょっとこれ見ていただけません?」とノート2冊を持ってきた。どうやらこれがアパートに誘った目的らしい。文学門外漢の私はちょっとびびったが、ボブ・ディランの歌詞がいいというくらいはわかる。

ノートに雑然と、しかしきれいな字体で書かれた詩、門外漢が見ても引き込まれる彼女の詩の世界がそこにはあった。「イメージの言語化」、そう彼女の言うノートの詩は難しく考えなくても感覚が自然に反応するような感じ、自分の想いを伝える無駄のない選ばれた日本語が独特のリズムを持って躍っている。

なかでも「ほおっ」と思ったのが“3センチ-あなたとわたしの距離感覚”と題した詩。

彼女の言うには、女性が口吻を受け入れるかどうかの目安、それは「3センチ」という距離、3センチまでの接近を許すということは口吻を受け入れる意思表示。セックスは肉体的欲望のみでも可能だが口吻は違う、それは互いの魂の接近、触れあい、とても素敵な人間的行為なのだというのが彼女の持論、単なる恋情を謳ったものじゃない。「3センチ」という長さの尺度を魂の触れあう人と人との距離感のイメージに換える、そんな「詩人」の言葉の魔力に惚れた。

「なんで口吻は魂なんやろ?」の私の問いに「まあ脳に近いからじゃないんですか」という彼女の即答もカッコイイ、この方はやっぱり「詩人」! そう思った。

「これ詩集にしたらエエんとちがう? ゼッタイいいよ」と迷わず私が言った。当時、新宿などの街頭で手作り自作詩集の立ち売りをやっているのを知っていたから「貴女の詩にはやってみるだけの価値がある」と私は断言した。

「ええっ、ホントですか」……「よお~し跳んでみるかぁ」! 「詩人」の心に火がつき始めた。 

「詩集にイラストを入れよう」と言うと、「えっ、絵が描けるの? そりゃ面白そう」とますます前のめり。

こうして自作詩集の共同制作即決! 

それはなにか行動を渇望していた私には願ってもないことだった。やりたいのは私の方だったのかもしれない。

あの夜、部屋に流れていたプラッターズの歌う「煙が目にしみる」、“Smoke Gets In Your Eyes”という英語歌詞が妙に胸にしっとり沁み入ったことを覚えている。この歌詞の意味するところとは違う意味で「涙がにじみそう」、ちょっと大げさだけれどようやく「長いトンネルを抜け出せる」予感のようなもの、きっとそうだったと思う。

昨日、出会ったばかりなのにトントン拍子に進む思いがけない展開、決してドラッグやお酒の勢いばかりではなかった。「ならあっちに行ってやる」と「跳んでみたいな」の二つの想い、魂の接近!?


◎[参考動画]Platters – Smoke Gets In Your Eyes

◆その名は「仁奈(にな)詩手帖」

ほんの思いつきだったのにもう二人の既成事実になってしまった詩集制作。自主企画、自主制作、自主販売、すべてを自分たちで! 素敵なプロジェクト始動。

「企画立ち上げ」の夜以降は、彼女のアパートが編集会議室兼印刷所になった。

詩集はガリ版印刷とする、ワープロもプリンターもない当時は文字通りの手作り。イラストを入れる以上、青、黒、赤の3色インクのカラフル印刷に。学生運動のアジビラみたいなザラ紙じゃなくアート紙にすべき、A4用紙を半分に折ってきちんと製本する。「貴女の詩は高品質」、だからやるからには最高のものを!

謄写版印刷に必要な機資材は可能な限り立命友人のサークルから借り、不足分は自費購入。「お嬢さん詩人」にお金の心配はない。 

まずはどの詩を採用するか? これは作者自身の選択任せ、私は読者の立場で「いいんじゃない」「う~ん」の反応で選別。表紙のデザインと詩を飾るイラストは私に一任。

肝心要の詩集のタイトルをどうするか? これには二人とも頭をしぼった。

私は「貴女のデビュー作だから貴女の名前を冠するべき、バンドのデビュー・アルバムみたいに」と提案。ところで貴女の名前は何だっけ? その時、互いに名前を知らなかったことに気が付いた。「そういやあそうでしたよねえ」と彼女も笑った。いままで互いに名前も知らずに会話していたことがとても可笑しかった。

 

私の憧れの画家モジリアニの純愛妻、同志であるジャンヌ・エビュテルヌの肖像画

当時“しゃんくれ(しあんくれ~る)”仲間の間では実名、出身、経歴など昼間の世界を無視するポリシーから互いに「呼び名」を通称とした。私は、真ん中分け長髪、ワシ鼻という風貌からアパッチ族の酋長“ジェロニモ”になぞらえて“ジェロさん”が通称だった。貴女もなにか呼び名を考えようとなって思案のあげく「二人を取り持つ縁」のニーナ・シモンにちなんで“ニナさん”に決めた。「カタカナじゃなにか着心地が悪いですね」という「詩人」が考えたのが漢字表記“仁奈さん”。

表紙タイトルは当時、「現代詩手帖」という詩の雑誌名がカッコよかったのでこれを借用して「仁奈詩手帖」はどう? 作者も「うん、いい感じ」でタイトル決定。

表紙を飾る絵は私の憧れの画家モジリアニの純愛妻、同志であるジャンヌ・エビュテルヌさんの肖像画、裏表紙には二人の恩人ニーナ・シモンのアルバム“Nina At The Village Gate”にあるご本人のイラスト画をワンポイントで小さく入れる。

表紙に作者「仁奈」と共にイラスト担当「Jero」の名前併記は彼女の心優しい配慮。

こうして「仁奈詩手帖」編集会議は結束、新しい船出は準備完了。ああでもない、こうでもないと何日も議論に熱中したのは私には久しぶりの快感だった。

◆「新宿が京大にやってきた」作戦

印刷、製本作業をやるのに私はイラストのモデル用にモジリアニ画集とトリオの高音質オーディオセットで聴くためのロック系レコードを部屋に持ち込んだ。「詩人」は「ボブ・ディランがいいですね」と“朝日のあたる家”や“Like A Rolling Stone”、“Just Like A Woman”を好んで聴いた。モジリアニ画集から選んだジャンヌさん肖像画も「強くてきれいな人、とても素敵な女性」と気に入ってくれた。


◎[参考動画]「朝日のあたる家 The House of the Rising Sun」アニマルズ、The Animals


◎[参考動画]Bob Dylan – Like A Rolling Stone

実際の作業に入るとけっこう難しいことがわかった、でも「簡単じゃないからいいんじゃないですか」。

A4用紙一枚の裏表に4つの頁を印刷するから原紙のカッティングも印刷もとても複雑。そのうえイラストを2、3色にすると同じ絵を色分けした部分別に絵を描き、別々に印刷してもピタリ一枚の絵に合うように違う原紙にカッティング、まるで浮世絵版画制作のような作業。これには私も苦労した。文字は彼女がカッティングした。

カッティングと謄写印刷に手間取り、かれこれ1ヶ月弱ほどかけて詩集は完成した。製本の出来栄えは上々、「やったね」と二人はにっこり。

さてお値段はどうしよう? 「高品質詩集」にふさわしい価格としてEP盤レコード(4曲入り)のお値段、たしか¥450に。学生街のコーヒー6、7杯分だからけっこう高価、「高くても買いたい」という人に読んでもらう。あえてハードルを高くした。

そいで販売拠点をどこにする?

京都には新宿のような「若者の街」はないよなあ。でも学生は多い、ならどこの大学にする? あれこれ考えてここからも近い京大キャンパスにした。立命や同志社は知り合いも多いからコネでも売れる、でもそれじゃ面白くない。あくまで「詩の価値」で売るのが「仁奈詩手帖」の販売ポリシー。京大なら「知的レベル」も高い、勉強ができる=文化力が高いとは限らないけれど、「京大学生の文化レベル」に期待しようということで意見一致をみた。

販売担当は仁奈さん、自作詩集の立ち売りだから本人がやるべき。横に男がいると販売実績が落ちるというせこい打算もあったのは事実。仁奈さんの立ち売りで「新宿が京大にやって来た」というイメージにする。(実際はベンチに腰かけ、折り畳み机持ち込み)

実は最初の企画会議の夜に「詩人」のヒッピー風改造も議題になった。

私は「“跳んでみたいな”をやるんやから貴女自身も変えよう」と真面目な女子大生風改造を提案。彼女のヘアスタイルはひっつめ髪を拘束から解き放ち真ん中分けのロングヘアーに、地味ファッションも「跳んでる」風にカッコよく決めるべしと提案。躊躇するかと思った「お嬢さん詩人」、意外にも「そりゃそうですよねえ」と同意。ドラッグとお酒の勢いはあったと思うが決断が早い、それは「詩人」の決意表明でもあったと思う。

こうして「新宿が京大にやって来た」作戦に挑戦。

時期は夏休み前の頃だったと思う。彼女が主役、タバコもぱかぱかふかして「ヒッピーぽい女」を演じる。こうしたことは初めての「詩人」にはちょっと勇気が必要。私は側面サポートに徹する。

どれだけ売れるか心配だったけれど蓋を開けてみれば結果は大成功! 50冊ほどの詩集は2、3週間で完売。

ナンパ目当ての男もいたらしいけれど女子学生もけっこう買ったという。例の“3センチ…距離感覚”の詩なんかがいいと言ってきた京大文学部女子と話が弾んだというからこれはホンモノ。収入は2万円超、当時の大卒初任給が3万円ほどだからかなりの額、仁奈さんの詩の価値が世に認められた最高の証。

作戦終了後、歓喜の祝杯をあげたのは言うまでもない。「カンパ~イ」の達成感は「詩人」だけでなく私のものでもあった。共同作業が運命共同体みたいな絆になったのは確か。

ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁は、私の「ならあっちに行ってやる」、彼女式には「跳んでみたいな」実践へとこんな形で大きな一歩を踏み出させてくれた。ささいな一歩だけれど、あの時は「一歩」が重要だった。

二人でやれば怖いものはない、それは大きな自信になった。(つづく)


◎[参考動画]Nina Simone – Antibes – Juan-Les-Pins – 1969

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

前の記事を読む »