ここで紹介する新潟の冤罪事件が起きたのは1914年だから、あの第一次世界大戦が勃発した年だ。「大昔の事件」と言っても過言ではないが、筆者は今から数年前、その現地を訪ねて取材したところ、無実の罪で処刑された青年の「子孫」に会うことができた。事件取材をしていると、奇跡のような出会いに恵まれることはままあるが、これはとくに忘れがたい経験の1つだ。

◆家族を救うために死刑になった模範青年

その事件が起きた場所は、新潟県中蒲原郡の横越村大字横越という所で、今の地名で言えば、新潟市江南区横越東町にあたる。被害者は、この村で農業を営んでいた細山幸次郎(当時50)という男性だ。2014年12月30日の早朝、この幸次郎が自宅の納屋で頭部を鈍器でめった打ちにされ、死んでいるのが見つかったという事件だった。

その容疑者とされたのは、幸次郎の義母ミタ(同68)、妻のマサ(同45)、長男の要太郎(同23)、次男の幸太(同19)の4人である。つまり、警察はこの事件を家族間の殺人事件だとみたのだが、実はその根拠は脆弱だった。幸次郎の遺体が見つかった時間は雪が降り積もっており、外部の者が細山家に出入りした足跡がなかった。それだけのことで、内部犯と決めつけたのだ。

横越東町の細山家があったあたり

実際には、事件当日はひどい雪で、雪の上に足跡がついても、すぐに消える状態だったから、外部犯も十分に考えられた。今の警察の捜査が何も問題ないとは言えないが、当時の警察の捜査は驚くほど杜撰なものだった。

もっとも、長男の要太郎と次男の幸太は、容疑者として新潟監獄に収監されたのち、父の殺害を自白するに至っている。それは、「予審」で予審判事から厳しく追及されたためだった。

予審とは、旧刑訴法時代、公判をすべきか否かを決めるためなどに裁判官が行っていた手続きだ。しかし実際には、非公開の法廷で裁判官が捜査の延長をしていたようなものだった。その予審の法廷で、まず幸太が「家族4人で父を殺害した」と自白した。すると、今度は長男の要太郎が「他の3人は関係ない。父は自分が1人で殺した」と自白したのだ。

その後、新潟地裁の第一審では、4人全員が無実を訴えたが、幸太の自白が真実と認められ、全員が死刑に。続く東京控訴院(現在の東京高裁に相当)の控訴審では、要太郎の自白が真実と認められ、要太郎のみが死刑維持、他の3人は逆転無罪となった。この判決が大審院(現在の最高裁に相当)で確定し、要太郎は1917年12月8日、東京監獄で処刑されたのだ。

しかし、その捜査は上記したように杜撰なもので、要太郎、幸太共に自白内容は客観的事実との矛盾点が多かった。そもそも、幸次郎は温厚な性格で、子供たちをかわいがっており、要太郎らが父を殺害する動機も見当たらなかった。地域で評判の模範青年だった要太郎は、接見に来た弁護士に、「他の3人を出獄させるため、自分1人で罪を引き受けた。公判へ回れば、事実の真相はわかるものと思っていたのです」と訴えていたという。

◆子孫が語る「事件のその後」

筆者がこの事件の地元・横越東町を訪ねたのは2015年の8月だった。この時点で、事件発生から101年の月日が流れていた。現場は田んぼが広がり、のどかな雰囲気だったが、当然というべきか、現場となった細山家のあった場所はすでに別の家族の家が建っていた。

その家の人に話を聞いてみたが、100年前、自分の家があった場所で、そのような事件が起きたことは全く知らなかった。それも当然だろう。筆者自身、自分の家がある場所やその近所で100年前に起きた出来事など何も知らない。大した収穫もなく、取材を終えることになりそうだと思いきや・・・現地で1人、処刑された要太郎の子孫が今も暮らしていたのだ。

「私が生まれる前のことなんで、詳しいことはわかりませんけど、そういうことがあったとは聞いていますよ。その死刑になった人は、いい子だったんで、なんとかしたいと裁判所に手紙やら何やらを出したけど、ダメだったってね」

そう聞かせてくれた女性Mさんは、要太郎の叔父の娘さんである。この時点で95歳。腰は少し曲がっていたが、話し方はしっかりした人だった。民謡をやっているという。100年前に起きた事件について、このように当事者の血縁者から話を聞けるとは、夢にも思っていなかった。

Mさんによると、要太郎の家族は群馬に移り住んだそうだが、その際、「一番下の弟」がこの地の寺にあった要太郎の墓を掘り起こし、「先祖の墓は自分が守る」と言って群馬に持って行ったという。その「一番下の弟」とは、幸太のことだと思われる。自分の生命を犠牲にして家族を守った兄・要太郎を強く尊敬していたことが窺えた。

「もうそろそろいいですか? 私も忙しいんですよ」

Mさんは迷惑そうにそう言うと、最後はそそくさと家の中に入っていた。自分が100年前の大事件の生き証人だという意識など微塵もなく、淡々と生きている感じの人だった。それがまた良かった。

細山家の近くにある寺の墓地。細山家の墓はここから群馬に移された

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

妻と子供2人を殺害した罪に問われ、今月5日から福岡地裁で裁判員裁判が行われている元福岡県警の警察官、中田充被告(41)について、筆者は同8日の当欄で冤罪の疑いを指摘した。報道を見る限り、めぼしい証拠はなく、動機も曖昧なうえ、むしろ中田被告はこのような犯行を行わないのではないかと疑わせる事情もあるからだ。

さらにこの裁判では、他にも気になることがある。それは、「死刑求刑」を予想する報道が皆無に等しいことである。今回は、この点を切り口に事件を考察してみたい。

◆検察の主張通りなら情状は最悪だが・・・

裁判員裁判では、裁判官、検察官、弁護人が公判前整理手続きを行い、証拠や争点を絞り込み、審理計画を立てる。そして初公判では、裁判でどういうことが争点になり、どういう審理が行われるが明かされる。そのため、被告人が有罪の場合に死刑が適用されるか否かが争点になるようであれば、初公判の時点で普通はわかるものである。

では、中田被告の場合はどうか。

初公判の罪状認否で中田被告は容疑を全面的に否認し、冤罪を訴えており、「被告人は犯人か否か」が裁判の大きな争点であることはわかった。これは大方の予想通りだ。

一方、「中田被告が有罪の場合、死刑が適用されるか否か」が争点になること(あるいは、なりそうであること)を伝える報道は皆無に等しい。これはつまり、検察がこの裁判で死刑を求刑する可能性はほぼ無いことを示している。中田被告が本当に検察の主張通りの犯行を行っているならば、次のように死刑求刑のための材料は揃っているにも関わらずにだ。

(1)殺害した被害者は3人
(2)動機は、「妻との不仲」という身勝手なもの。しかも、妻を殺害しただけでなく、何の罪もない子供まで殺している
(3)妻が子供と無理心中をしたように偽装するなど、極めて計画的かつ悪質
(4)犯行の発覚を防ぐため、妻の姉に「子供が小学校に登校していないので、家に様子を見に行って欲しい」と依頼し、遺族を第一発見者に仕立て上げている
(5)一貫して容疑を否認しており、反省は皆無で、遺族に対する謝罪も一切ない。
(6)現職の警察官が起こした殺人事件として大きく報道され、社会に与えた衝撃は甚大。警察の信頼も失墜させた

親族間殺人は求刑や量刑が軽くなりがちな傾向があるにはある。しかし、これだけの事実が揃っていれば、親族間殺人とはいえ、検察が死刑を求刑しないというのは変である。【※】

中田被告の裁判員裁判が行われている福岡地裁

◆あの「北稜クリニック事件」と同様のケースか?

過去、死刑を求刑しないことが話題になった事件としては、地下鉄サリン事件を実行した元オウム真理教幹部・林郁夫被告の例が有名だ。林被告の場合、改悛の情が顕著であるうえ、自供により事件の全容解明に貢献したことなどから、検察は裁判で死刑ではなく、無期懲役を求刑したとされる。そして実際に、林被告は死刑を免れ、無期懲役判決を受けている。ただ、中田被告は冤罪を訴えており、林被告のケースとは完全に異なるので、参考にならないだろう。

一方、被告人が否認している事件でも、検察が裁判で死刑を求刑せず、驚かせた例が存在する。2000年に仙台市の北稜クリニックで起きたとされる患者殺傷事件だ。

この事件では、同クリニックに勤務していた准看護師の守大助被告(当時29)が同年2~11月、患者の点滴に筋弛緩剤を混入する手口により5人を殺傷したとして殺人罪と殺人未遂罪に問われた。殺害したとされるのは89歳の女性1人だが、殺人未遂の被害者4人の中には、小さな子供が3人いたうえ(1歳の女児、4歳の男児、11歳の女児)、うち1人(11歳の女児)は植物状態に陥っていた。

しかも、守被告は捜査段階に一度は自白しながら、裁判では無実を訴えており、まったく反省していなかった。それゆえに、検察は論告で、死刑を求刑する可能性は高いのではないかと思われていたのだが・・・実際に検察が裁判で求刑したのは無期懲役だったのだ。そして守被告は求刑通りに無期懲役判決を宣告され、確定している。

では、なぜ守被告について、検察の求刑は死刑ではなく、無期懲役にとどまったのか。

よく言われるのが、実は検察も有罪を主張しつつ、内心は守被告が犯人だという確信が持てていなかったからではないか、ということだ。というのも、この事件については、被害者とされる5人が容態を急変させた本当の原因は医療過誤であり、守被告は冤罪だという説が根強くある。実際、検察が守被告に死刑を求刑しなかった事情は他に考えにくく、求刑が無期懲役にとどまったことが守被告の冤罪を裏づけているという意見もあるくらいだ。

結論を言うと、中田被告に対する「死刑求刑」を予想する報道が皆無に等しいことから、筆者が思い出したのが、実はこの守被告のケースだった。つまり、検察がこの裁判で死刑を求刑しなければ、検察は中田被告が妻子3人を殺害したことに確信を持てていないのを露呈したのも同然だと筆者は考えている。そういう意味で、12月2日にあるという検察の量刑に関する最終論告に注目している。

【※】比較対象としては、2010年に宮崎で親族3人(妻、義母、生後5カ月の長男)を殺害し、宮崎地裁の裁判員裁判で殺人罪などに問われた元自衛官の会社員・奥本章寛被告の例がある。奥本被告が犯行に及んだ事情は、同居していた義母が厳しい性格で、普段からきつくあたられ続け、精神的に追い詰められたことだった。奥本被告は犯行後、長男の遺体を近くの資材置き場に埋め、第1発見者を装って警察に通報してはいるが、犯行の隠蔽のために被害者遺族を利用したりはしていない。犯行時は24歳と若く、逮捕後は罪を認めて反省の言葉を述べており、社会に影響を与えるほど事件が話題になったわけでもない。それでも、奥本被告は検察官の求刑通りに死刑を宣告され、その後、最高裁で死刑確定している。

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福岡県警「現職警察官」妻子殺害事件は冤罪か? 証拠なく、動機も曖昧(2019年11月8日)

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

やはり、冤罪なのだろうか。今月5日、福岡地裁で始まった福岡県警の元警察官・中田充被告(41)に対する裁判員裁判の報道を見ながら、そんな思いを強くしている。

中田充被告の裁判員裁判が行われている福岡地裁

2017年6月、当時は現職の警察官だった中田被告は、妻と子供2人を殺害した容疑で福岡県警に逮捕された。この時、事件は「県警史上最悪の不祥事」と言われた。

しかし、このほど始まった裁判員裁判では、中田被告は「事実無根です」「間違いなく冤罪です」とかなり強い言い方で無実を主張。これに対し、検察側は「被告による犯行を直接証明する証拠はない」と明言したという。

もちろん、検察は中田被告を起訴した際、有罪を立証するに足る証拠が揃っていると判断してはいるだろう。しかし、報道を見る限り、「冤罪の疑いが濃厚」と言うのが現時点での私の見解だ。

◆無理心中を装った殺人だとみられたが・・・

では、この事件がなぜ、冤罪の疑いが濃厚だと言えるのか。まず、前提となる事実関係を整理しておきたい。

事件発生は2017年6月6日のことだった。この日の朝、中田被告の妻由紀子さん(当時38)の姉であるA子さんは、勤務中の中田被告から電話で「子供が登校していないと学校から連絡があった。様子を見に行って欲しい」と頼まれた。そして午前9時20分頃、中田被告の家の台所で由紀子さん、2階の布団の上で長男涼介くん(同9)、長女実優ちゃん(同6)がそれぞれ亡くなっているのを見つけた。由紀子さんのそばには練炭のようなものがあり、煙が充満していたという。

一見、由紀子さんが子供2人を道連れに無理心中したような状況だ。しかし、司法解剖の結果、涼介くんと実優ちゃんの首にヒモで絞められたような跡があったばかりか、由紀子さんの首にも圧迫されたような内出血の跡があった。そのことから中田被告が疑いの目をむけられる。そして8日、中田被告は由紀子さんに対する殺人の容疑で逮捕されたのだ。

さらに8カ月余りが過ぎた2018年2月、中田被告は子ども2人に対する殺人の容疑でも逮捕される。つまり、中田被告は、妻の由紀子さんが子供2人と無理心中したように装い、妻子3人を殺害した疑いをかけられたのだ。中田被告は当時、由紀子さんと仲が悪く、同僚に「妻に死んでほしい」と話していたという。ただし、容疑については一貫して否認してきた。

◆有罪を裏づける確たる事実は何も無し

では、検察は裁判で、どんな根拠に基づき、中田被告が犯人だと主張しているのか。毎日新聞が11月5日、ホームページ上で配信した記事によると、検察側は有罪の根拠として主に5点の間接事実を挙げているようだ。しかし、そのいずれもが有罪の根拠としては、はなはだ心許ないのだ。以下、順番に指摘しよう。

〈検察が示した有罪の根拠① 被告が事件当日は家にいた〉
事件当時、中田被告は残業と偽り、家に帰らなくなるほど夫婦関係が悪化していたそうなので、「事件当日に家にいたこと自体が怪しい」という趣旨の主張なのだと思われる。しかし、それだけでは単に「犯行は可能だった」という意味しか持たないだろう。

〈検察が示した有罪の根拠② 携帯電話のアプリに死亡推定時刻の6日未明に被告が活動していた記録がある〉
中田被告は「午前6時45分頃に出勤した際、3人はまだ寝ていた」と証言していたが、3人の死亡推定時刻は、午前0時から6時までの間なのだという。そのため、中田被告が死亡推定時刻に活動していた記録は、3人を殺害するために活動していた記録だと検察は言いたいわけだろう。しかし、そもそも、死亡推定時刻というのは、法医学者によって見解が大きく分かれがちで、事実認定の根拠とするには頼りないものである。

〈検察が示した有罪の根拠③ 妻子の周りにライターオイルがまかれており、被告の勤務先のロッカーに使い残しのライターオイルが保管されていた〉
中田家にあった複数の同種のライターオイルについて、妻の由紀子さんと中田被告がそれぞれ所持していたと考えても説明がつく。そもそも、中田被告が本当にライターオイルを犯行に使ったのなら、勤務先のロッカーに入れておかず、さっさと捨ててしまうほうが自然だ。

〈検察が示した有罪の根拠④ 第三者の犯行がうかがえない〉
家に侵入して犯行に及んだ第三者がいないとしても、由紀子さんが子どもたちと無理心中をしたと考えれば、中田被告が犯人でなくとも説明がつく。由紀子さんの首の内出血について、検察側は「首を圧迫された跡だ」という見解の法医学者を証人出廷させ、由紀子さんの自殺を否定しようとするとみられるが、法医学者の見解は分かれがちなので、弁護側も独自に法医学者の証人を用意できていれば、充分に対抗できるだろう。
 
〈検察が示した有罪の根拠⑤ 妻の首から被告と妻の混合DNAが検出された〉
事件とは何の関係もなく、中田被告のDNAが由紀子さんの首についたと考えても、夫婦なのだから何もおかしくないだろう。

以上、毎日新聞の記事で示されていた検察の主張に基づき、検証してみたが、有罪を裏づける証拠が乏しいのは間違いないと思われる。

◆子供たちまで殺す事情が見当たらない

一般論を言えば、被告人がクロでも有罪の証拠は乏しい場合もある。ただ、中田被告については、無実だと考えたほうがしっくりくる事情もいくつかある。

まず何より、中田被告には、子供を殺さないといけない事情が何も見当たらないことだ。中田被告が由紀子さんと夫婦仲が悪く、離婚も考えていたのは事実のようだが、それは子供たちまで殺す事情にはならないだろう。

第2に、いくら無理心中を装ったとしても、妻の首を圧迫して殺せば、解剖により犯行が露呈する可能性が極めて高い。そのことは、警察官である中田被告がわからないはずがない。こういう言い方は変だが、中田被告が妻子を殺害し、完全犯罪を狙うなら、他のやり方を考えるほうが自然だ。

以上、報道の情報をもとに検証してみたが、筆者は裁判の後半からでもこの事件の取材に動くことを検討中だ。有力な情報が得られたら、当欄で改めて報告させて頂きたい。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2005年12月に栃木県今市市(現在の日光市)で小1の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が失踪し、刺殺体で見つかった「今市事件」。殺人罪に問われた勝又拓哉被告(37)は、裁判で無実を訴えながら一、二審共に無期懲役判決を受け、現在は最高裁に上告中だ。

この事件は冤罪を疑う声が非常に多いが、勝又被告の自白調書の内容を改めて検証したところ、自白が嘘であることを示す形跡が新たに色々見つかった。そのことを3回に渡って報告する。今回はその最終回。

◆自白に基づいて捜索しても、凶器や軍手が見つからないのはなぜか?

今回、検証結果を報告するのは、勝又被告が「犯行後の言動」を供述した2014年6月22日付けの自白調書(作成者は宇都宮地検の阿部健一検事)だ。

調書によると、勝又被告は午前4時頃、現場の林道で有希ちゃんを刺殺し、その遺体を林道脇のヒノキ林に投げ入れると、カリーナEDでその場を離れたことになっている。そしてしばらく車を走らせてから、血のついた軍手や凶器のバタフライナイフを証拠隠滅したことになっているのだが、この場面の供述がまずおかしい。具体的に見てみよう。

《私は、車を止めると、運転席に乗ったまま、その窓から道路脇の林みたいなところに、軍手2つを一緒にポイッて投げ捨てました。私は、有希ちゃんから外したガムテープもその時、ポイッて投げ捨てました。そのガムテープに有希ちゃんの血がついていたか憶えていません。

私は、車を走り出して、2、3分くらいのところで、また車を止めると、運転席に乗ったまま、その窓から、道路脇の林みたいなところに有希ちゃんを刺すのに使ったバタフライナイフを投げ捨てました。そのナイフは、刃のところも、手で持つところも有希ちゃんの血でベットリしていました》

さて、何がおかしいか、おわかりになるだろうか?

問題は、勝又被告が証拠を捨てた場所をこのように明確に供述しているにも関わらず、これらの証拠が何一つ見つかっていないことだ。「血がついた軍手」も、「有希ちゃんから外したガムテープ」も、「有希ちゃんを刺すのに使ったバタフライナイフ」も、警察の大がかりな捜索に関わらず、見つかっていないのだ。

私は、勝又被告がこれらの証拠を捨てたことになっている「道路脇の林みたいなところ」を特定した。その場所の様子を撮影したのが後掲の写真だが、草木が広範囲に渡って伐採されており、大勢の捜査員が大々的な捜索活動を行っていたことがよくわかる。

それでも結局、勝又被告が「投げ捨てました」と供述した物が一切見つからなかったのは、なぜなのか。普通に考えれば、自白が嘘なのだろう。

草木を広範囲に伐採した捜索でも証拠は見つからなかった

◆ランドセルを細かくハサミで切ったはずだが・・・

調書によると、証拠を「道路脇の林みたいなところ」に捨てた勝又被告は、次にこんな行動をしたことになっている。

《私は、公衆便所を見つけたので、有希ちゃんの血がついた手を洗おうと思い、そこに入って、両手を洗いました。右手には、掌も甲も有希ちゃんの血がべっとりついていて、左手にも指と掌の上のほうに有希ちゃんの血がついていました》

このような調書の供述には「公衆便所」が印象的な形で登場するが、実はこの公衆便所も見つかっていない。警察捜査で、公衆便所の1つも見つけられないとは考えにくいから、この公衆便所も最初から実在しなかったのだろう。

そして調書によると、勝又被告は自宅アパートに帰宅後、《もうこれからどうしよう》と不安な日々を過ごしつつ、また新たに次のような証拠隠滅をしたことになっている。

《シャルマン(引用者注・勝又被告のアパートの名称)の部屋には、有希ちゃんのランドセルや服や靴などが置いたままでした。私は、1週間か、2週間くらいかけて、有希ちゃんのランドセルや靴などを細かくハサミで切って、いくつものビニール袋に入れ、それらをシャルマンの前のゴミ捨て場で何度かに分けて、捨てていきました。1週間か、2週間くらいかかったのは、とくにランドセルを細かく切るのに時間がかかったからです。

有希ちゃんの遺体が見つかったということは、すぐにニュースでわかりました。私は、とくにランドセルはそのようなものを私が持っていたと誰にもわからせたくありませんでした。それで、ランドセルは、直径2センチくらいに細かく切っていって、少しずつ捨てていきました》

この供述には、いくつもの疑問がある。

まず、ランドセルを細かく切る程度のことに1週間とか2週間もかかるのか。それに、勝又被告が本当に有希ちゃんを殺した犯人なら、そんな重要な証拠はもっと急いで処分するのではないか。そして、何より疑問なのが、勝又被告がランドセルを細かくハサミで切ったと供述しつつ、「ランドセルにぶら下がっていた物」や「ランドセルの中に入っていた物」を何1つ供述していないことだ。

参考までに、有希ちゃんの母親の供述によると、ランドセルの脇には、(1)青色で、5センチくらいの防犯ベル、(2)ミッキーマウスのキーホルダー、(3)リラックマの小さい人形、(4)白色の毛がついた猫のキーホルダー――の4つがぶら下がっていたという。また、ランドセルの中には、小1の国語、算数、生活の教科書とそれぞれのノート、ブリキ製の筆箱が入っていたとのことだった。

勝又被告がランドセルを切り刻んで処分したように供述しながら、調書中にこれらの物に関する言及が一切ないのは、あまりに不自然だ。

有希ちゃんの母親はランドセルについて、《フタをあけたところに、有希の名前、電話番号、保護者として夫の名前が書いてありました》とも供述している。勝又被告が本当にこの事件の犯人で、ランドセルをハサミで細かく切って処分していたなら、この事実が印象に残っていないはずがない。調書にこの事実が書かれていないのは、勝又被告がこのランドセルを見たことがなかったからだろう。

ハサミで細かく切ったランドセルはアパートの前のゴミ捨て場に捨てたというが・・・

◆ポスターの白いセダンは見ていても、ランドセルは見ていなかった?

警察のポスターには、ランドセルの特徴も色々記載されていたが・・・

さらに調書を読み進めると、また不可解な供述が出てくる。以下の部分だ。

《その後、刑事が5年くらい私のところに来なかったので、もう捕まらないのではないかと思いました。でも、コンビニとか交番前とか、町中のあちこちに、有希ちゃんを殺した犯人の情報提供を求めるポスターが貼られていたのです。それを見るたびに怖い思いをしていました。

怖いので、そのポスターはあまり見ないようにしていましたが、不審車両として、白いセダンの車の絵が載っていました。その白いセダン車は、左後ろがへこんだように描いてあり、私のカリーナEDの左後ろの塗装が剥がれているのとよく似た特徴があったので、自分の車がばれているのではないかと思い、怖かったです》

警察の情報提供を求めるポスターには、たしかに白いセダン車が「不審車両」として紹介されていたが、それだけでない。後ろにポスターの実物を掲載したが、有希ちゃんのランドセルの特徴も色々記載されているのがすぐ目に飛び込んでくるはずだ。勝又被告が本当に犯人で、このポスターを見るたびに怖い思いをしていたなら、ランドセルの特徴を供述していないのはなおさら変である。

この調書の最後では、勝又被告は、《本当のことを話して、凄い楽になりました》と供述し、《もう決心しました。有希ちゃんを殺した罪をちゃんと償いたいと思います》と締めくくっている。しかし、自白調書を検証すれば、勝又被告が取り調べで本当のことなど何も話していなかったことは明らかだ。

それは、なぜなのか。私は、勝又被告がそもそも今市事件の犯人ではないから、犯人が何をしたかを知る由もなく、取り調べで犯行の詳細を語れなかったのだろうと思っている。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて―』(山田浩二=著/片岡健=編/KATAOKA 2019年6月 Kindle版)。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2005年12月に栃木県今市市(現在の日光市)で小1の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が失踪し、刺殺体で見つかった「今市事件」。殺人罪に問われた勝又拓哉被告(37)は、裁判で無実を訴えながら一、二審共に無期懲役判決を受け、現在は最高裁に上告中だ。

この事件は冤罪を疑う声が非常に多いが、勝又被告の自白調書の内容を改めて検証したところ、自白が嘘であることを示す形跡が新たに色々見つかった。そのことを3回に渡って報告する。今回はその2回目。

◆20キロ程度の女の子を抱きかかえて運んだ!?

勝又被告の自白調書には、被害者の吉田有希ちゃんを車で鹿沼市の自宅アパートに連れ込み、様々なワイセツ行為をしたように供述した内容のものもある。その調書にも、自白が嘘だと示す大きな形跡があるのだが、ここで内容を詳しく紹介するのは適切ではないと判断した。

そこで今回は、勝又被告が有希ちゃんにワイセツ行為をした“後”のことを供述している2014年6月21日付けの自白調書(作成者は宇都宮地検の阿部健一検事)の検証結果を報告したい。

この調書によると、勝又被告は自宅アパートで有希ちゃんへのワイセツ行為を終えた後、60キロ以上離れた茨城県常陸大宮市の山中まで車で連れて行き、殺害したことになっている。

だが、有希ちゃんをアパートの部屋から連れ出し、出発するところの供述内容からして、早くも嘘っぽい。

というのも、この調書では、勝又被告が全裸の有希ちゃんの目、口にガムテープを貼り、さらに手首と足首にもガムテープを巻いたうえ、白色のフード付きジャンパーを頭からかぶせると、次のようなやり方で車に乗せたことになっているのだが・・・。

《私は、有希ちゃんを抱きかかえ、部屋から出て、駐車場に止めてあるカリーナEDの助手席に座らせました》

さらりと「抱きかかえ」などと書かれているが、有希ちゃんは当時、20キロ程度の体重があったのだ。そして、勝又被告の自宅アパートは、後掲の写真のような作りで、勝又被告が住んでいたのは2階の奥の部屋だった。

この部屋から体重20キロ程度の女の子を裸のまま抱きかかえ、外廊下や外階段を通って地上の駐車場まで運ぶことができるだろうか? 少なくとも、決して簡単ではないだろう。そもそも、仮に有希ちゃんを抱きかかえて運べるとしても、有希ちゃんに服を着せ、駐車場まで一緒に歩いて行かせたほうがはるかに自然であるはずだ。

勝又被告が事件当時に住んでいたアパート

◆現場の林道までの道のりの供述内容があやふやで・・・

さて、調書によると、勝又被告は午前0時を過ぎてから家を車で出発したように供述している。そして、茨城県常陸大宮市の山中にある殺害現場の林道で午前4時頃に有希ちゃんを殺害したことになっている。

ここで不可解なのは、自宅から殺害現場まで60キロ以上ある道のりについて、勝又被告の供述内容があやふやで、「国道123号線」を通ったこと以外では、何一つ具体的な道順を説明できていないことだ。実際にその供述を見てみよう。

《私は、地図でAと書いたあたりまで来たことは憶えていますが、その先のことはよく憶えていません。運転している最中に色々考えちゃって、わけわかんない道に入ったから、それで、とりあえず、どっか止められるところがないかと探して、今回の場所に行き着きました。そこが、私が有希ちゃんを殺害した場所です。アスファルトで舗装されていない、林道の途中のようなところでした。

私は、「ここだったら誰も来ない。ゆっくり考えられる」と思って、その場所に来ると、車を止めました》

この供述では、勝又被告は途中で道がわからなくなり、やみくもに車を走らせていたら、いつのまにか、現場の林道に到着したようになっている。しかし、この現場に一度でも行けば、この供述は嘘であることがわかる。

それは、現場の林道近辺の写真を見て頂けばわかりやすい。現場の林道は、車通りも人通りもほとんどない山奥の道路からさらに脇道に入り、坂を上ったところにある。その脇道の入り口は次の写真のような状態なのだ。

殺害現場の林道に続く脇道の入り口

このような草木の生い茂った道に、わけもわからないまま車で入っていく人間がいるだろうか?

さらにこの先の上り坂は、下の写真の通りだ。車1台通るのがやっとの狭い道は、落ち葉で埋め尽くされている。どんな場所かを事前に知らず、この道を車で上っていく人間はなかなか存在しないだろう。

何も知らずにこの道を車で上る人間がいるだろうか・・・

◆1000ミリリットルの出血がほとんど採取されていない・・・

調書によると、勝又被告は有希ちゃんを自宅から連れ出した当初、「遠くに連れて行き、そこで解放しよう」と思っていたが、現場の林道に到着後、次のように考えが変わったことになっている。

《このまま、有希ちゃんを解放したら、万が一、私のことなどをしゃべられたら、姉と母とか、妹たちが困ることになる。もうこのまま、殺すしかないと思いました》

調書では、このように考えた勝又被告が、車の助手席に裸のまま乗せていた有希ちゃんを林道に立たせ、胸をサバイバルナイフで10回刺し、殺害した――ということになっているのだが、どんな供述内容だったかを実際に見てみよう。

《私は、両手を使って、バタフライナイフの刃を出しました。私は、左手で有希ちゃんの右肩を押さえると、右手に持ったバタフライナイフで有希ちゃんの胸のあたりを刺し続けました。10回くらい刺し続けました。有希ちゃんが早く楽にならないか、何回か刺せばすぐに死んでくれるんじゃないか、苦しませないように。そう思って、刺し続けました》

勝又被告が犯人か否かはさておき、有希ちゃんの遺体が胸部などを刃物で10回くらい刺されていたのは、この調書の通りだ。

だが、遺体からは1000ミリリットルの出血があったと推定されるにも関わらず、林道では有希ちゃんの血液はほとんど採取されていない。勝又被告の自白の大部分を否定した控訴審判決では、殺害の場所に関する供述も信用性を否定されているが、それも当然のことだ。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて―』(山田浩二=著/片岡健=編/KATAOKA 2019年6月 Kindle版)。

最新刊!月刊『紙の爆弾』9月号「れいわ躍進」で始まった“次の展開”

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

常磐自動車道で悪質な「あおり運転」を行い、被害男性の車を停めさせて殴りつけた男が指名手配の末、ついに逮捕された。この男を追い込んだのが、テレビとインターネットで公開されたドライブレコーダーの動画だ。

私はこの事件に関する報道を見ながら、四半世紀以上前に起きた「あの事件」のことを思い返していた。

◆茨城県警を早期の事件解決へと駆り立てたドラレコの動画

高速道路で蛇行し、真ん中の車線で後続の車を停止させたうえ、運転席の窓を開けさせて、運転手の男性を力いっぱい殴りつける――。

被害男性の車のドライブレコーダーに録画されていたこの動画は、テレビとインターネットで公開され、容疑者の男の凶暴性は世間を震撼させた。

そんな事件は発生9日目、容疑者の男が大阪市内のマンション近くで警察に身柄確保され、ひと段落ついたが、ここに至るまでにドライブレコーダーの動画が大きな役割を果たしたことに異論はないだろう。

この動画は今回、犯行状況の証拠化や、容疑者の特定に役立っただけにとどまらない。世間にインパクトを与え、ひいては、現場を管轄する茨城県警に少しでも早く事件を解決しなければならないという使命感を抱かせた。だからこそ、茨城県警は容疑者を指名手配するなど意欲的な捜査を展開し、それが早期の容疑者検挙につながったのだ。

そんな一連の流れを報道で見つつ、私が思い返した「あの事件」とは、いわゆる「飯塚事件」のことだ。

◆ドラレコの活躍に思い返す飯塚事件

1992年2月、福岡県飯塚市で小1の女児2人が朝の登校中に失踪し、学校から数十キロ離れた峠道沿いの山林で遺体となって見つかった「飯塚事件」では、2年後、失踪現場の近くで暮らしていた男性・久間三千年さん(当時54)が逮捕された。久間さんは一貫して無実を訴えながら、2006年に最高裁で死刑が確定、2008年に死刑執行されるに至った。

だが、有罪の決め手となった警察庁科警研のDNA型鑑定が当時はまだ技術的に稚拙だったことが次第に知れ渡り、今では冤罪を疑う声が非常に増えている。久間さんの遺族も無実を信じ、再審(裁判のやり直し)を請求している状況だ。

では、私がなぜ、あおり運転事件の経緯を見つつ、飯塚事件のことを思い返したのか。

それは、飯塚事件の頃にドライブレコーダーが今くらい普及していれば、久間さんは容疑者として検挙されず、別の人物が真犯人として検挙されていたのではないかと思えるからだ。

◆ドラレコがあれば「真犯人」が検挙されていた可能性も

飯塚事件は、DNA型鑑定のことばかりが注目されがちだが、久間さんの裁判では、ある目撃証言も有罪の有力な根拠とされている。しかし、この目撃証言も疑わしいものだった。

その目撃証言の主は、急カーブが相次ぐ峠道を車で下に向かって走りながら、路上に停車していた「久間さんの車と酷似する車」を目撃したかのように供述していた。その車の停車場所は、道路脇の山林に被害者たちの衣服やランドセルが捨てられていたあたりだったため、この目撃証言は久間さんの裁判で、有罪の有力な根拠とされたのだ。

しかし、この目撃証言の主は、わずか10秒程度すれ違っただけに過ぎないその車やそのかたわらにいた「不審な男」のことを不自然なほど詳細に供述していた。案の定というべきか、再審請求後、弁護側に鑑定を依頼された供述心理学者もこの目撃証言は信用できないと結論づけている。かくいう私もこの目撃証言はまったく信用できないと思うから、飯塚事件が起きた頃、ドライブレコーダーが今くらい普及していれば・・・と、つい思ってしまうのだ。

ありていに言えば、目撃証言の主の車にドライブレコーダーが備え付けられていれば、久間さんとは別の真犯人や、真犯人の車が撮影されていた可能性があると私は考えている。また、久間さん自身の車にドライブレコーダーが備え付けられていれば、久間さんは事件に無関係であることが証明された可能性があるとも思う。タラレバの話をしても仕方がないが、そういう話をしたくなるのは、私がこの事件を冤罪だと確信しているからだ。

この10月で、久間さんの遺族が再審請求をしてから、ちょうど10年になる。再審請求の可否は現在、最高裁で審理されているが、少しでも早く公正な判断が下されて欲しい。

このあたりで「久間さんの車と酷似する車」が目撃されたことになっているが・・・

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。著書『平成監獄面会記』が漫画化された『マンガ「獄中面会物語」』(著・塚原洋一/笠倉出版社)が8月22日発売。

月刊『紙の爆弾』9月号「れいわ躍進」で始まった“次の展開”

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2005年12月に栃木県今市市(現在の日光市)で小1の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が失踪し、刺殺体で見つかった「今市事件」では、殺人罪に問われた勝又拓哉被告(37)が一、二審共に無実を訴えながら、無期懲役判決を受けた。そして現在、勝又被告は最高裁に上告中で、土俵際まで追い込まれた格好だ。

東京拘置所。勝又被告は現在、同所に収容されている

もっとも、裁判のそんな現状と裏腹に、冤罪を疑う声が非常に多いのがこの事件だ。事実関係を見れば、そうなったのはむしろ当然と言える。

何しろ、裁判では、検察側から有力な物証や証言が何ら示されず、勝又被告は事実上、捜査段階の自白のみで有罪とされている。その事実上唯一の有罪証拠である自白にしても、裁判員裁判だった宇都宮地裁(松原里美裁判長)の第一審でこそ信用性を認められたが、東京高裁(藤井敏明裁判長)の控訴審では、次のように大部分が否定されている。

「本件自白供述のうち、殺害犯人であることを自認する部分を超えて、本件殺人の一連の経過や殺害の態様、場所、時間等に関する部分にまで信用性を認めた原判決の判断は是認することができない」(控訴審判決より)

つまり、控訴審の裁判官たちは、勝又被告の捜査段階の自白のうち、自分が犯人だと認めている部分以外は、「信用できない」と判断したわけだ。

そもそも、勝又被告は当初、まったく別件の微罪の容疑(偽のブランド品を販売目的で所持した商標法違反)で栃木県警に逮捕されており、長期に渡る身柄拘束の末、今市事件の容疑を自白し、再逮捕されていた。この経緯を見ただけでも、自白偏重の捜査が行われたのは明白だ。裁判で自白の信用性に疑問が投げかけられたのは案の定の展開でもあった。

さらに裁判では、被害者の吉田有希ちゃんの遺体から、勝又被告とは別人のDNA型が検出されていたことも判明している。そのDNA型については、「殺害犯人のものである可能性が高いとはいえない」(控訴審判決)と片づけられているのだが、そのDNA型が誰のものかは特定されていない。これでは、そのDNA型が「真犯人」のものである可能性を疑われ続けても仕方ない。

◆女の子をさらいに行く前に漫画を借りていた!?

そんな今市事件について、私も当欄で繰り返し冤罪の疑いを指摘してきたが、勝又被告の自白調書の内容を改めて検証したところ、自白が嘘であることを示す形跡が新たに色々見つかった。そこで、その検証結果を3回に渡って報告したい。

今回はまず、勝又被告が被害者の女の子・吉田有希ちゃんを車で連れ去った状況などを供述した2014年6月20日付けの自白調書(作成者は宇都宮地検の阿部健一検事)を見てみよう。

この調書では、勝又被告はまず、《私は、事件の2、3年くらい前から子供の女の子に興味を持つようになりました》と切り出し、《「事件を起こす1カ月くらい前から、小学生の女の子をさらってセックスなどをしてみたい」と思うようになりました》と供述している。そして、鹿沼市の自宅アパートから車で今市市の大沢小学校近くまで赴き、小学生の女の子をさらおうと考えたと述べている。

《大沢小学校を狙ったのは、そこらへんの道をよく知っていて、当時住んでいたアパートから遠かったからです》

調書では、勝又被告はそのように供述しているが、この部分に不自然さは見いだせない。元々は台湾生まれの台湾人である勝又被告(逮捕される数年前に帰化)は、小6の時に来日し、大沢小学校とその隣にある大沢中学校に通っているためだ。勝又被告が大沢小学校周辺に土地勘があったのは確かだろう。

この調書で最初に出てくる問題供述は、事件当日の2005年12月1日の行動に関する以下の部分だ。

《記憶では午後2時から3時頃、下校途中の小学校の女の子をさらいにカリーナED(引用者注・勝又被告が当時乗っていた車)で大沢小学校の近くに行きました》

被害者の有希ちゃんはこの日、下校中の午後3時頃に行方不明になっている。つまり、勝又被告の供述は時間的な辻褄は合っているわけだ。

では、この供述の何が問題なのか。それは、この直前の時間帯の勝又被告の行動と整合しないことだ。

勝又被告が事件発生直前に借りていた「カペタ」の6巻と7巻

というのも、宇都宮市内にあったCDやDVD、漫画のレンタルショップ「ハーマン駒生店」(現在は閉店)の利用履歴には、勝又被告がこの日の午後1時58分頃、2冊の漫画を返却し、新たに2冊の漫画を借りた記録が残っていた。これから小学生の女の子をさらい、セックスしようとしている人間が漫画をレンタルショップで借りてまで読もうとするだろうか。普通、そういう行動はとらないはずだ。

ちなみに、勝又被告がこの時にレンタルショップに返した漫画は、FIを題材にした「カペタ」という漫画の4巻と5巻で、借りたのは同じ漫画の6巻と7巻だ。勝又被告のこの時の関心は、小さな女の子とセックスすることではなく、「カペタ」という漫画に向けられていたことが窺える。

げんに、ハーマン駒生店の利用履歴によると、勝又被告はこの時に借りた「カペタ」の6巻と7巻も、翌日の午後3時32分頃までに返却している。勝又被告が事件当日、この2冊の漫画を借りてすぐに読み始めたことは明白だ。

◆被害者の服装を「覚えていない」という不自然

有希ちゃんの服装は警察募集のポスターで詳細に紹介されていた

調書によると、勝又被告はカリーナEDで大沢小学校のあたりに到着後、女の子が1人で歩いているのを見つけたことになっている。被害者の吉田有希ちゃんだ。そこで、カリーナEDで有希ちゃんの横まで近づくと、運転席の窓からこう声をかけたという。

「お父さんに頼まれて迎えに来たよ。お母さんが大変だから」

きわめてベタで、犯人でなくても容易に思いつきそうなセリフだが、それはさておくとしよう。不自然さを見過ごしがたいのは、有希ちゃんに声をかけた直後の言動に関する次の供述だ。

《有希ちゃんは、「えっ」と言うと、ちょっと後ずさりしました。それで、私は、「信用されてないな」と思いました。私は、運転席のドアを開けて、身体を少し外に出して、有希ちゃんの脇の下に両手を入れて抱きかかえ、運転席を通して助手席に無理矢理乗せました。有希ちゃんは赤いランドセルを背負っていたことは憶えていますが、服装はよく憶えていません》

この供述の何が不自然かというと、勝又被告が有希ちゃんについて、《服装はよく覚えていません》と述べていることだ。

何しろ、この日の有希ちゃんの服装は、黄色いベレー帽をかぶり、アニメ「とっとこハム太郎」の絵が描かれたピンクのスニーカーを履いているなど、きわめて特徴的だった。しかも、事件発生から8年半後に勝又被告が逮捕されるまでの間、栃木と茨城では、後掲のような警察の情報提供募集のポスターが県内のあちらこちらに張り出されていたのだ。

本当に勝又被告が犯人であれば、このポスターで詳細に紹介されている有希ちゃんの服装を《覚えていない》ということはありえない。

▼片岡健(かたおか けん)
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創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

和歌山県紀の川市で4年前、小学5年生の男の子・森田都史くん(当時11)が殺害された事件で、7月16日、被告人の中村桜洲(26)に対する2度目の判決が大阪高裁で宣告される。

裁判員裁判だった和歌山地裁の第一審では、中村は2017年3月、懲役16年の判決を受けている。この時には「刑が軽すぎる!」と批判の声も上がったが、中村は実際、どんな人物なのか。

大阪拘置所で面会したところ、中村は、私がこれまでに会ったどの殺人犯とも異なるタイプだった。

◆逮捕時の報道とは、別人のような風貌に

中村が収容されている大阪拘置所

逮捕された際、警察車両で連行される中村の画像は今もインターネット上に多数流布している。その画像では、中村は坊主頭で、怒ったように頬を膨らませ、いかにも異様な雰囲気だ。

今年2月21日、大阪拘置所の面会室で私が向かい合った中村は、この逮捕当初の画像とは、別人のような風貌になっていた。髪は長く伸び、黒縁めがねの奥の両目はあどけない。グレーのスウェットのズボンの中に、青いトレーナーのスソを入れて着たスタイルは小学生のようだった。

なんとも幼い感じだな・・・それが、私が中村に抱いた第一印象だった。

◆面会室では最初、ニコニコしていたが・・・

第一審判決やそれまでの報道によると、和歌山県紀の川市で暮らしていた中村は、2015年2月5日、自宅近くの空き地で森田くんをナタのような刃物で刺殺。逮捕後、動機について「からかわれたからやった」と供述していたが、無職でひきこもりの中村は元々、自宅の庭でゴーグルをかけ、木刀を振り回すなどの奇行癖があったという。

案の定、裁判では精神鑑定が争点に。裁判員裁判だった和歌山地裁の第一審では、精神鑑定の結果に基づいて、中村は犯行時に統合失調症か、被害妄想による心神耗弱状態で責任能力が限定的だったと判断された。そのために量刑が懲役16年(検察の求刑は懲役25年)にとどまったのだ。

面会してみると、中村が幼いのは見た目だけではなかった。何がうれしいのか、刑務官と一緒に面会室に現れた時から、ずっとニコニコしているのだ。

しかし、私が「逮捕された時、なぜ怒ったような表情をしていたのですか」と質問すると、中村は態度を豹変させた。「あれは、怒っていたんじゃないです」と言い、急に不機嫌そうな表情になったのだ。

「怒っていたのではないなら、なぜ頬を膨らませていたのですか?」と私が重ねて質しても、中村は何も答えず、右手の人差し指で頬をポリポリと掻き始めた。そしてうつむくと、私のほうを見ずに「なんとなくです」とだけ言った。

◆中身も幼い

それ以降は私が何を聞いても、中村は無言で、右手の人差し指で右ヒザの上に何かメモするような仕草をしつつ、私のほうを一切見ようとしなかった。そして結局、刑務官に「もういいです」といい、面会制限時間がくるよりはるか前に面会室を出て行ったのだった。

精神障害のせいもあるのだろうが、中村は見た目だけでなく、中身も幼いように感じられた。もしかすると、小5だった被害者の森田くんと精神年齢は大差なかったのではないか。そんな気すらした。

大阪高裁の控訴審では、高裁が職権で行った精神鑑定で、中村が犯行時に「発達障害の一種で軽度の自閉症スペクトラム」だったとする新たな鑑定結果が出ており、量刑が第一審より重くなる可能性がある。

ただ、検察の求刑は懲役25年だから、たとえ控訴審判決で量刑が重くなっても、中村はいずれ社会復帰する可能性が高い。その時のために、どんな量刑になろうとも、中村には獄中で精神障害をしっかり治してもらいたい。

7月16日、中村の判決公判がある大阪高裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて』(山田浩二=著/片岡健=編/ Kindle版)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

創業50周年!タブーなき言論を! 7日発売!月刊『紙の爆弾』8月号

7月6日掲載の前編に引き続き、鈴鹿殺人事件の冤罪被害者・加藤映次さんの母親である由紀さんのインタビュー後編を公開する。

3月2日「冤罪犠牲者の会」結成総会に参加したご両親

── 殺害後、Tさんの離れにあった2つのキーホルダーから部屋の鍵を抜いて施錠したとされていますが、そのキーホルダーとはたくさん鍵が付けれるタイプのものですよね。そこからTさんの離れの鍵を探して引き抜いたと?

加藤 そうです。キーチェーン・フォルダーはジャラジャラ鍵が沢山つけられるもので、手袋をつけて外すのは無理、素手なら指紋も血もつくはずです。しかもその後、映次の車から見つかった鍵と、証拠として保管された鍵がすり替わった可能性も出てきています。

── 映次さんがTさん宅を出たあとに、Tさんが生存していた可能性がいくつか出ていますね。1つは「あ」メール。映次さんがTさん宅を出たのちに、Tさんの携帯に「あ」と誤送信した人がいて、それが「既読」になっている。つまりTさんか第三者かわからないが、だれか生きた人間が携帯を操作したことになりますね。

加藤 滞在時間は鈴鹿ICを通過した記録があるので確かです。その後に「あ」が既読になっている。裁判では現場を捜査した警官が誤って操作したとなりました。ならば、裁判でその警官が誰か、なぜ重要な証拠を触ったかなどの説明がなければおかしいと思います。

── 凶器も発見されていないそうですね?

加藤 凶器はモンキレンチと特定されていますが、発見されていません。映次はTさんに頼まれ、前日モンキレンチを買って届けています。そのレシートは会社の経費として落とすために、会社の経理に届けてあり、証拠として押収されている。凶器を買ったレシートをわざわざ経理に届けるでしょうか? しかしこのレシートから凶器はモンキレンチとなったのではないでしょうか? 検察側の鑑定は凶器はモンキレンチと限定しているが、弁護側の鑑定医はモンキレンチ以外の傷跡もあると1審で証言しています。

── 現場は相当悲惨な状況だったようですが、映次さんが犯人なら、とうぜん映次さんの服、身体などにも返り血がつくわけですよね?

加藤 映次の車からは血痕も血液反応も出ていません。着ていたスーツはTさん宅を出た あとも着ています。夕方それを着て採用面接をしています。そのあと会ったMさんも気づくはず。彼女は血などには気づかなかったと証言しています。しかしMさんが映次のスーツを捨てたという事にされ、彼女も逮捕されました。そうしないとつじつまがあわないからです。しかし彼女は家族のことなどいわれ、自己保身のために警察のストーリーに沿う供述をして「服を捨てた」と言ったようです。

チラシ

── 映次さんは最初から一貫して否認して裁判員裁判が始まりました。裁判を傍聴したご両親の感想はどうでしょうか?

加藤 裁判員裁判ってこんなものかと思いました。一審の弁護団は、映次の会社関係の弁護士でつくったので、刑事事件に慣れてないこともありますが、「弁護過誤」ではないかという支援者もいました。

その時の思いを映次は手紙で次のように書いてきました。
『帰ることが出来ずごめんなさい!これまでの支援に応えられず本当に申し訳ない思いです。そして、ただ無念です……あまりに酷い判決内容でした。裁判所には幻滅しました。一体どこが公正中立なのでしょうか? 茶番としかいいようがない、有罪の結論ありきの審議だったのは明らかで、検察に迎合した完全な検察救済判決の内容でした。稚拙な独自理論に想像と推認ばかり。空想で無実の人間に犯罪を背負わせるのが、裁判所の仕事なのか? 支離滅裂な検察主張を、更に支離滅裂な裁判所の想像が加わり、完全に荒唐無稽な判決になっている……本当に悔しくて、皆に申し訳なくて戻ってきてから涙が止まりません。何を反省しろと言うのか?反省すべきは冤罪被告を新たに生んだ裁判所だ! 冤罪は最大の罪です。。。』
── 1審で懲役17年、2審は、映次さんのアリバイを示す「“あ”メール」問題が中心的な争点となりながら、判決ではまったく触れられないという異常な事態がおきました。上告審もほとんど審理されずに終わり、刑が確定してしまいましたね?

加藤 控訴審の時に出てきた「“あ”メール」問題は、裁判官はスマホやSNSなどの知識が全くないのだと思いました。チンプンカンプンだから審理のしようがない。一方、控訴審から全員入れ替わった新しい弁護団は、スマホを何台も購入して検証するなどしてくれました。映次自身が専門家ですから、弁護団にアドバイスできることも多かったですが、何しろ身柄を拘禁され、パソコンにもさわれず、自分で何もできないことが本当に悔しい思いだったと思います。

5月24日、支援者らと行った現地調査と学習会

── 裁判全体を通じて考えたことなどありますか?

加藤 日本の司法は中世以下と正直思いました。国民の税金を無駄遣いしているとしか言いようがない。裁判所にいたっては、ほんの一握りの良識のある裁判官が当たり前の判決を出したら、左遷させられるという、本当に異常な世界です。最高裁長官は司法を目指して一生懸命勉強していた初心に戻れよ!と言いたいです。

── ほかにも不可解な点が多々ありますが、紙面の関係上、またの機会にさせていただきます。「加藤映次さんを守る会」が仕事の関係者、親戚、ご近所さんらで作られていて、これを見ても映次さんがどれだけ大勢の人たちに慕われていたかがわかります。ご両親は現在、月に1回、長野刑務所に面会に行くそうですが。

加藤 長野刑務所は長野県北部の須坂市にあります。経済的な問題もあり、車で早朝出発してトンボ帰りです。主に安否確認と家族の近況報告、あと裁判に向けての事務連絡、差入れなどをしてきます。経済的に厳しいのを本人も知っているので現金の差入れは時々しかしません。できるだけ我慢してもらっています。それでも本などはAmazonなどで中古本を探して差入れています。

刑が確定するまではずっと独房でしたが、今は、刑務作業や運動、そして同室の皆と雑談もできるので精神的にはストレスは溜まっていないようです。が、やはり犯していない罪で罰せられている訳なので、外にいる私達がなかなか思い通りに動いてくれないことに不安や不満は持っているかと思います。食事はやはり満足できるものではなく激ヤセしています。でもいつも明るい照れくさそうな笑顔で面会室に入ってきますので、私達もできるだけ明るい話をするようにしています。

映次さんが収監される長野刑務所

映次さんが収監される長野刑務所には毎回車で通っている

── 3月には東京の「冤罪犠牲者の会」の設立総会で、昨日(6月16日)は大阪でアピールしていただきました。これからもこの冤罪事件に関心が広まればと考えています。最後に訴えたいことを?

加藤 この冤罪事件は、幸いなことに息子の無実を信じて多くの方に支援していただいています。ただ報道の温度差で鈴鹿の地元三重県では事件の事も裁判員裁判の事も報道されましたが、他の地域ではほとんど報道されていません。今後「再審請求」をしていくのですが、やはり再審は世論を味方につけ注目を集めないと、いくら犯人じゃない証拠を提出しても裁判官は見てもくれないと思います。文明国家を自負しているこの日本の裁判制度は中世以下です。多くの冤罪犠牲者が地獄の苦しみを味わっています。冤罪犠牲者の会・再審法改正をめざす市民の会等冤罪を支援する組織も立ち上がっています。多くの方に冤罪の恐ろしさを知っていただき、この事件に興味を持って注視していただきたいと思います。

── 今日はどうもありがとうございました。[了]

3月2日「冤罪犠牲者の会」結成総会

《連絡先》〒496-0862 愛知県津島市城山町1-15
◎鈴鹿殺人事件・加藤映次さんを守る会 加藤元博 http://enzai.main.jp/
◎拘置所ブログ 加藤映次、冤罪と闘ってます、刑務所日記 NOW ! http://eiji-enzai.blog.jp/

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

創業50周年!タブーなき言論を! 7日発売!月刊『紙の爆弾』8月号

創刊5周年!〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号 尾崎美代子さん渾身の現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」掲載

6月16日、大阪市大国町の社会福祉法人「ピースクラブ」で、まもなく再審が始まる滋賀県湖東記念病院事件の冤罪被害者・西山美香さんと、主任弁護士の井戸謙一さんをお招きし、講演会を開催した。井戸弁護士の解説、西山美香さんへのインタビュー、質疑応答ののち会場にかけつけた3組4名のかたにアピールしていただいた。

3月に結成された「冤罪犠牲者の会」の共同代表・青木恵子さん、予定を変更し急きょ駆けつけてくださった桜井昌司さん、そして鈴鹿殺人事件の冤罪被害者・加藤映次さんのご両親・加藤元博さん、由紀さんのお二人である。

冤罪・鈴鹿殺人事件を私は、青木さんから聞いて知った。当日講演会場でチラシなど配布するので送ってほしいとご両親に連絡したところ、「直接大阪のみなさんに支援をお願いしに行きたい」ということで、当日愛知県から車で駆けつけていただいた。講演会場とその後の親睦会で、涙ぐみながら支援を訴えていた映次さんの母・由紀さんに、翌日インタビューし、事件の全貌、再審に向けた決意などをうかがった。

6月16日「湖東記念病院事件の冤罪被害者・西山美香さんを囲んで」で発言する加藤元博さんと由紀さん

── 遠いところお疲れ様です。鈴鹿殺人事件の冤罪被害者・加藤映次さんのご両親にお話を伺います。2012年11月13日、鈴鹿市山本町で会社役員のTさん(当時38歳)さんが何者かに後頭部を殴打され殺害された事件で、加藤さんの息子さんの映次さんが殺人容疑で逮捕されました。事件の話をお伺いする前に、映次さんは一人息子さんということで、どんな息子さんですか?

加藤 優しい子です。自分の子供に対しても怒ったり、手をあげたりしたことは一度もないです。じっくりと相手の言う事を聞くタイプです。一見スキンヘッドで怖そうと言われますが、小さい頃から円形脱毛症なんです。免疫の異常で毛髪の組織が攻撃されて起こる“自己免疫疾患”だそうで、元プロ野球選手の森本稀哲(ひちょり)さんと同じです。ひちょりさんも小学1年の時に円形脱毛症になり、ほぼすべての毛髪を失ったそうです。悩んでいた子供時代から、プロ野球で人気を博した元気なキャラクターを確立したとあります。映次も同じようにポジティブな思考、明るい性格です。

現在、長野刑務所に収監されている加藤映次さん

── Tさんと映次さんは、会社の共同経営者と報じられていますが、どういう関係だったのでしょうか?

加藤 Tさんはもともとティールというインターネット通販会社を、映次はワンダーラインというネットワークサービス会社をそれぞれ別個に経営していました。当初はティールがワンダーラインの顧客としてつきあいが始まりました。後にTさんがワンダーラインに共同経営者として加わることになり、Tさんが会長、映次が社長に就任しました。ワンダーラインは名古屋駅前に本社事務所を、愛西市に事務所兼倉庫を持っていました。Tさんは山本町の実家の離れを改装して自宅兼事務所としていました。

── その離れが殺害現場となったのですね。事件当日、映次さんがTさん宅を訪ねたことで映次さんが疑われたのですね?

加藤 映次は、Tさんに高級時計を買うお金を400万円ほど用立てており、それを返してもらうためにです。朝、電話で返してもらえると確認していたそうですが、実際は返してもらえなかった。10時28分頃から10分間ほど滞在しています。流れとしては、Tさん宅へ着いて離れのチャイムを鳴らす、「ちょっと待って」と言われ、しばらく外で待つ、鍵をあけてもらい部屋に入る、Tさんに頼まれ2杯分のコーヒーを淹れる、金を返す返さないで揉める、といっても胸ぐらをつかまれたので映次が振り払った程度です。鈴鹿ICを11時5分に通っていますが、警察・検察が主張するように滞在時間を24分だとしても、果たしてその間に殺人をして、痕跡を消すなど後始末をして、2つのキーチェーンからTさんの離れの鍵を抜き取り、鍵を閉めて・・・とそれだけのことが出来るのか?離れには水設備はないので返り血などの始末が出来るのかと疑問が山ほど残ります。

── 離れには水回りがないので、Tさんはトイレ、シャワーを使う際には母屋に行っていたが、夕方5時過ぎ、トイレなどにきた形跡がないことから、両親が心配し、Tさんの部屋の鍵をあけて入ったら殺害されたTさんを発見したということですね? 離れにはいつも鍵をかけていたのですか?

加藤 Tさんは以前、ヤクザの人たちと関係していたようです。何があったかわかりませんが、非常に用心深く、いつも鍵をかけていたようです。

── 2日後、映次さんが容疑者として取り調べを受けていますが、ほかに取り調べを受けた人はいないのですか?

加藤 ほかに容疑者がいたかどうかは証拠が全面開示されていないのでわかりません。映次はその日深夜遅くに帰宅し、翌朝、鈴鹿署で任意の取り調べを受けています。知人が殺されたので、取り調べにはちゃんと応じようと警察署に行ったのに、最初から犯人扱いだったそうです。着ていた服、下着、持ち物などすべて着替えさせられ押収され、〇の中に官と書かれたトレーナーを着て帰宅しました。映次は、自分が犯人でないことは自分が一番よく知っているから、この状況はありえないと話していました。腹が減ったといい、冷凍のあんかけラーメンと味噌おでんを食べていました。殺人を犯していたら、そんなに風に平気で食べれるでしょうか?

逮捕の約1年前に新築した家の前で家族と写した写真

── Tさん宅を出てからの映次さんの行動を教えてください。

加藤 事件当日、映次はTさん宅を出てから、当時不倫関係にあったMさんと会い、買い物をしたりしたあと、夕方には名古屋本社で採用面接もしている。その後またMさんとドライブなどして過ごしています。そのままホテルに泊まり、帰宅しなかったことも疑われた理由の1つのようです。

── 突然逮捕され、ご両親、映次さんのご家族はどんな様子でしたか?

加藤 私たちは映次が犯人じゃないことは、警察から帰ってきたときの様子やその後の映次の話で確信していました。嫁は14日朝、「今警察が来て映次が連れていかれた!」と泣きながら電話してきましたが、「犯人じゃないから、大丈夫。子供の為にもしっかりしなさい!」と言うのが精一杯でした。私も足がガクガクしていました。

── 映次さんが犯人とされた決め手は何だったのですか?

加藤 いろいろ言われていますが、実際には物証は何も出ていません。殺害現場のTさんの離れに鍵がかけられていたとのことですが、その離れの鍵が映次の車から出てきたことが証拠の一つとされていますが、そもそも鍵がかかっていたのかどうかさえ、両親の証言以外に証明するものはありません。逮捕された日、警察が映次の自宅に来て、敷地内で車の外観や車内を撮影した写真があります。その車が押収されて中から鍵が発見されたそうですが、そのとき映次は鈴鹿署にいたのです。にもかかわらず、車の検証に本人の立ち合いをさせなかったことなど、鍵発見の経緯には腑に落ちないことがいくつもあります。映次は刑事から後で「Tの離れの鍵がお前の車から発見されたぞ」というような事を聞かされ、『ハメラレタ!』と思ったと言っていました。[つづく]

控訴審を闘った名古屋高裁の前で、支援者の皆さんと

《連絡先》〒496-0862 愛知県津島市城山町1-15
◎鈴鹿殺人事件・加藤映次さんを守る会 加藤元博 http://enzai.main.jp/
◎拘置所ブログ 加藤映次、冤罪と闘ってます、刑務所日記 NOW ! http://eiji-enzai.blog.jp/

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

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