滋賀患者死亡事件 西山美香さんを冤罪に貶めた滋賀県警・山本誠刑事の余罪

昨年12月、元看護助手の女性・西山美香さん(38)が大阪高裁で再審開始決定を受けた滋賀県の患者死亡事件。この冤罪が生まれた原因は、2004年の逮捕当時は24歳だった西山さんが滋賀県警の男性刑事に好意を寄せ、虚偽の自白をしてしまったことであるように報道されてきた。

しかし、実はその山本誠刑事は、西山さんの気持ちにつけこんだ悪質な取り調べをしていた疑いがあるばかりか、他の冤罪被害者に対しても暴力をふるうなどの「余罪」があったことが判明している――。

◆初公判の3日前に面会して“自供書”を書かせる

西山さんは、看護助手をしていた2003年、勤務先の病院で男性入院患者の人工呼吸器のチューブを外し、窒息死させたとされて懲役12年の判決を受け、昨年8月に満期出所するまで服役生活を強いられた。しかし再審請求後、弁護団が医師3人に男性の死因を再検証してもらったところ、「致死性不整脈による自然死の可能性がきわめて高い」との意見が示された。これが決め手となり、事実上唯一の証拠だった捜査段階の自白の信用性が否定され、西山さんは再審開始の決定を受けたのだ。

その後、検察が最高裁に特別抗告したが、西山さんが再審無罪に向けて一歩を踏み出した事実に変わりはない。

では、そんな西山さんの気持ちにつけこんだ山本誠刑事の悪質な取り調べの疑いとはどんなものだったのか。

裁判で西山さんが訴えたところでは、西山さんが否認に転じようとすると、山本刑事は「逃げるな」ときつい口調で迫ってきて、時には突き飛ばされたりもした。一方で山本刑事は「ワシに全部任せておいたら大丈夫や」「殺人でも死刑から無罪まである。執行猶予がつくこともあるし、保釈がきくこともある」などと“優しい言葉”もかけてくれたという。

また、弁護士は連日接見に来てくれたが、山本刑事に「起訴前に毎日接見にくるなんておかしい。そんな弁護士は信用できない」などと“助言”され、西山さんはどちらを信用していいか迷ってしまった。そして、多数の自供書を書かされるうちに「否認しても無駄だ」と思うに至ったのだという。

これに対し、裁判の第1審に証人出廷した山本刑事は「自分は過去に一度も裁判で自白の任意性、信用性が争われたことがない」と断言した上、西山さんが訴えるような脅迫や偽計を取り調べで用いたことを否定したのだが――。

実は裁判では、山本刑事が西山さんの初公判の3日前にも不審な行動をしていたことが明らかになっている。勾留先の滋賀刑務所まで面会に訪ね、西山さんに「検事さんへ」という書き出しで始まる次のような“自供書”を書かせていたのだ。

〈もしも罪状認否で否認しても、それは本当の私の気持ちではありません。こういうことのないよう強い気持ちを持ちますので、よろしくお願いします〉

こんなものを書かされたため、西山さんは動揺し、初公判で罪状認否ができない状態にまでなっている。このようなことをする刑事ならば、取り調べで西山さんが訴えるような脅迫や偽計などいくらでも使うと考えたほうが自然ではないだろうか。

山本誠刑事が冤罪被害者に暴行した際に滋賀県警が作成した懲戒処分者名簿
滋賀県警察本部

◆無実の男性を誤認逮捕して暴行も……

さらに西山さんの裁判に証人出廷してから1ヶ月半経った2005年7月中旬、山本刑事には重大な不祥事が発覚している。窃盗の容疑で逮捕した男性を取り調べる際、胸ぐらをつかみ、足を2回蹴るなどの暴行を加えていたというのだ。

しかも、このような暴力取り調べを行ったあとで、実はこの男性は事件と無関係だったことが判明している。つまり、山本刑事は無実の男性を冤罪に貶める捜査に関与したばかりか、暴力までふるっていたのだ。

付言すると、山本刑事がこの無実の男性に暴行したのは、西山さんの裁判で「自分は過去に一度も裁判で自白の任意性、信用性が争われたことがない」と断言した3日後のことだった。こうなると、西山さんの裁判における山本刑事の証言を素直に信じるのは難しい。

ちなみに山本刑事はこの時、特別公務員暴行陵虐容疑で大津地検に書類送検されたものの、起訴猶予処分となっている。一方、滋賀県警はこの件で山本刑事を減給100分の10(1カ月)の懲戒処分にしているが、犯した罪の重大性からすると、甘すぎる処分である感は否めない。西山さんの再審が晴れて始まれば、山本刑事が犯した罪は再審の法廷で改めて裁かれなければならないと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

飯塚事件・確定死刑判決のウソを見抜く

1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人がわいせつ行為をされたうえに殺害され、2008年に無実を訴える男性・久間三千年氏(享年70)が死刑執行された「飯塚事件」で、福岡高裁(岡田信裁判長)は6日、久間氏の遺族が求める再審を認めない決定を出した。

そんな飯塚事件については、これまでDNA型鑑定の杜撰さをはじめ、様々な事実に基づいて冤罪の疑いが指摘されてきたが、実をいうと確定死刑判決(一審の福岡地裁判決)には、事件の事実関係を何も知らない人間が見ても、間違いだとわかる点も散見される――。

飯塚事件の再審を認めなかった福岡高裁

◆存在しない〈一般的な経験則〉により久間氏を犯人に

実際に確定死刑判決から引用すると、次の部分がそうだ。

〈幼女の陰部にいたずらをして、殺害した死体を山中に投棄するという本件事案の陰湿さに照らしてみると、一般的な経験則からいって犯人は一人(それも男)である可能性が高い〉

確定死刑判決がこのような言及をしたのは、単独犯であることを前提にしないと久間氏をこの事件の犯人と認定できないからだ。というのも、科警研のDNA型鑑定では、被害女児2人の膣内容物から検出されたDNA型と久間氏のDNA型が一致したとされている。仮にこのDNA型鑑定の結果が信じられるとしても、犯人が複数なら、「被害女児2人の陰部にいたずらし、膣内にDNAを残した人物」と「被害女児2人を殺害した人物」が別々に存在する可能性も残ってしまうのだ。

それゆえに確定死刑判決は、〈一般的な経験則〉なるものを持ち出し、この事件は単独犯によるものだということにしたのだが、そもそも〈一般的な経験則〉とは何だろうか。

小さな女の子が性的ないたずらをされ、ひいては殺害されて死体を遺棄される事件は数多く存在するが、この飯塚事件のように「2人の小さな女の子が同時に被害に遭っている」ケースはきわめて特殊だ。私は新聞データベースなどで同様の例を探したが、まったく見当たらなかった。そもそも事件自体がきわめて特殊なのに、〈犯人は一人(それも男)〉などという一般的な経験則など存在するわけがない。

◆久間氏が犯人だという思い込みに基づいた事実認定

飯塚事件の主な経過(2018年2月7日付西日本新聞より)

また、次の部分も確定判決からの引用だが、これも事実関係を何も知らない人間が見てもおかしさがわかる認定だ。

〈付近住民の生活道路ともいえるような場所で、午前八時三〇分ころという比較的早い時間帯に右犯行が行われていること(さらに、八丁峠で手嶋が目撃したのが犯人車であるとすると、犯人は被害児童を略取又は誘拐してから約二時間三〇分後には遺留品発見現場及び死体遺棄現場である八丁峠に到着していることになるが、潤野小学校から八丁峠の死体遺棄現場まで自動車で行くだけで前記のとおり三五分ないし五三分かかること)にかんがみると、犯人は右各現場付近に土地勘があり、しかも、これら現場の近隣に居住する人物であると認めるのが相当である〉

これはつまり、犯人が事件の各現場に土地勘があるらしきことを根拠に、犯人は〈現場の近隣に居住する人物〉だと認定しているわけである。この確定死刑判決の見解が正しければ、久間氏はまさに〈現場の近隣に居住する人物〉だから、犯人像に合致することになる。

しかし、事件の各現場に土地勘がある程度のことを根拠に、犯人は〈現場の近隣に居住する人物である認めるのが相当である〉というのは、論理の飛躍も著しい。普通に考えれば、〈現場の近隣に過去に居住したことがある人物〉や〈現場の近隣に友人、知人、親戚が住んでいる人物〉なども現場に土地勘はあるからだ。さらに言えば、現場に縁もゆかりもない人物でも事前に現場を下見したうえで犯行を実行した可能性だってある。確定判決はそんな簡単なことさえわかっていないのだ。

要するに確定死刑判決を書いた裁判官たちは、〈現場の近隣に居住する人物〉である久間氏が犯人だという思い込みに基づいて事実認定をしたのだろう。だからこそ、このような事実関係を何も知らずとも、間違いだとわかる点が判決中に散見されるのだ。

この酷い確定死刑判決により久間氏の生命を奪った裁判官は、陶山博生氏(裁判長)、重富朗氏、柴田寿宏氏の3人。柴田氏は今も現役の裁判官だが、陶山氏は弁護士に、重富氏は公証人に転じている。3人の動向は今後も注視したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!最新『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

《殺人現場探訪14》近く再審可否決定の恵庭OL事件 現場で感じた素朴な疑問

冤罪が疑われている様々な事件で、今年は相次いで判決や決定が出る見通しだ。札幌刑務支所で服役している大越美和子さんが第2次再審請求中の恵庭OL殺害事件もその1つで、近く再審可否の決定が出る見通しだ。裁判の第一審の頃から冤罪を疑う声が多かったこの事件。私は4年半ほど前に現地を訪ねて取材し、関係現場を車で走って回ったことがある。

◆決め手となる証拠は無いに等しい状態だった

北海道恵庭市郊外の農道脇で女性の真っ黒げの焼死体が見つかったのは2000年3月中旬の朝だった。女性はほどなく千歳市の運送会社で働くAさん(当時24)と判明。同年5月、殺人などの容疑で逮捕されたのがAさんと同じ会社で働いていた大越さんだった。

大越さんが服役している札幌刑務支所

大越さんが疑われたのは、以前交際していた会社の同僚男性がAさんと交際を始めていたことによる。警察は男女関係のもつれが殺人事件に発展したとみたわけだ。だが、大越さんは一貫して容疑を否認。そして裁判では、大越さんの犯行を否定する様々な事実が浮上した。

たとえば、現場では数々の足跡やタイヤ痕が見つかっていたが、大越さんのものは1つも見つかっていなかった。また、検察側は大越さんが自分の車の中でAさんの首を絞めて殺害したと主張したが、大越さんの車の中からAさんの指紋やDNA型、尿痕は一切採取されていなかった。決め手となる証拠が無いに等しい状態だったのだ。

しかし2002年3月、札幌地裁は大越さんに対し、懲役16年を宣告。その後も大越さんは無実を訴え続けたが、控訴、上告も退けられ、2006年に有罪が確定。2012年に申し立てた再審請求も実らず、現在も札幌刑務支所で服役を強いられている。

◆1時間ですべての犯行が行えるかというと……

私がそんな事件の現場を訪ねたのは、2013年の夏だった。私がこの時、関係現場を車で走ってみて感じたのは、大越さんを犯人だと考えるには「犯行に使える時間が少なすぎるのではないか」ということだった。

被害女性Aさんの焼死体が見つかった恵庭市郊外の農道

まず、大越さんとAさんは事件当日、午後9時30分ごろに一緒に会社を後にしている。その後、大越さんは夜11時30分頃に会社からそう遠くないガソリンスタンドに車で来店しているのが確認され、そのまま帰宅している。つまり、大越さんが犯人ならば、犯行をこの約2時間の間に終えたことになる。

しかし、会社から遺体発見現場までは約20キロの距離があり、地元の人間でないとわからないような場所のため、到着するまでに30分かそこらはかかった。遺体発見現場からガソリンスタンドまでも同様だ。とすると、仮に大越さんが犯人ならば、被害者を殺害したり、遺体を燃やしたりする犯行に使える時間は長くて1時間。一見、十分可能に思えなくもない時間だ。しかし、それ以前に人を殺したことがあるわけでもない20代の女性がそんなに手際よく、同僚の女性に対する殺害行為や死体損壊行為を完遂できるかと言うと、私は疑問を感じずにはいられなかった。

ガソリンスタンドに着いた時、大越さんの様子が何かおかしかったなどという話はない。さらにその後、大越さんは自宅近くのコンビニで買い物をしているが、その時の様子もごく普通だったようだ。大越さんは裁判で「あの日は退社後、恵庭市内の書店に行き、立ち読みなどをしていた。それからガソリンスタンドに行った」と主張しているが、その主張通りに行動したと考えたほうがしっくりくるように思われた。

◆現在は再審請求に追い風

現在札幌地裁で行われている第2次再審請求審では、弁護側が新たに示した東京医科大学の吉田謙一教授(法医学)の鑑定書により、Aさんが薬物中毒で亡くなった可能性が浮上。さらに主任弁護人の伊東秀子弁護士によると、弘前大学の伊藤昭彦教授(燃焼学)の鑑定により、Aさんの遺体が最初はうつ伏せの状態で燃やされ、鎮火後にひっくり返されて陰部も燃やされていたと判明し、これにより大越さんのアリバイが裏付けられたという。

「遺体をうつぶせで燃やせば、鎮火するまで遺体をひっくり返せませんが、鎮火までには20分以上かかります。大越さんは事件後、ガソリンスタンドに車で赴いていますが、遺体を燃やすのにそんな時間をかければ、ガソリンスタンドに入店した時間に間に合わないのです」

昨年10月には、日本弁護士連合会が大越さんの再審請求を支援する決定を出しており、現在は大越さんに追い風が吹いている状態だ。公正な判断を期待したい。

大越さんの第2次再審請求が行われている札幌地裁

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

本日再審可否決定の飯塚事件 「冤罪」久間氏の命を奪った責任者たちの天下り先

1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人が殺害された「飯塚事件」では、2008年に死刑執行された久間三千年氏(享年70)に冤罪の疑いが長く指摘されてきた。その飯塚事件の再審請求即時抗告審で、福岡高裁(岡田信裁判長)がきょう2月6日の午前10時、再審可否の決定を出す。

当欄で繰り返し紹介してきた通り、久間さんが無実であることは間違いないが、その生命を奪った責任者たちは今、どこで何をしているのか。実名で報告する。

◆警察トップはあの東証1部上場企業の会長に

村井温氏(綜合警備保障のHPより)

まず、捜査段階の責任者から見ていこう。

久間氏は1994年9月、福岡県警にこの事件の容疑で逮捕された。当時、県警本部長を務めていたのが村井温氏だ。その後、村井氏は1997年に実父が創業した大手警備会社「綜合警備保障」に転じて社長を務め、同社を東証一部に上場させた。現在は代表取締役会長だが、ホームページ上で「当面、売上1兆円、その次は業界ナンバー1を目指します」と豪語しており、かなり羽振りが良さそうだ。

私は以前、編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』を制作した際、村井氏に取材を申し込んだが、村井氏は秘書を通じ、「警察時代の職務については、取材を受けないようにしている」と断ってきた。しかし調べたところ、村井氏はそれ以前、「賢者グローバル」という無料動画配信サイトの取材に応じ、福岡県警本部長時代に「1万何千人」もいた部下をいかにマネージしたか、当時の経験が今の会社でいかに役立っているかを笑顔で語っており、誠実さに欠ける人物だと思わざるをえなかった。

村山弘義氏(青陵法律事務所のHPより)

一方、久間氏を起訴した福岡地検の村山弘義検事正はその後、法務・検察の世界では検事総長に次ぐナンバー2のポストである東京高検検事長まで出世した。1999年に弁護士に転身後は三菱電機やJTに監査役として迎えられ、外部理事を務めた日本相撲協会では2010年の大相撲野球賭博騒動の際に理事長代行も務めた。

私は前掲書を制作した際、村山氏にも取材を申し込んだが、やはり断られた。電話で取材を断る理由を尋ねたところ、「理由なんか申し上げることはありません。色々考えて、お断りしたということでございます」とのこと。飯塚事件について何か語るべきことがないのかと尋ねても「そんなことを申し上げることもありません」、冤罪だと思っていないということかと確認しても「はいはい、すみません」という感じで、とりつく島がなかった。

◆確定死刑判決を出した裁判長は頑なに取材拒否

久間氏は捜査段階から一貫して無実を訴えていたが、裁判では福岡地裁の1審で陶山博生裁判長から死刑判決を受けた。その後、久間氏は福岡高裁の2審、最高裁の上告審でも無実の訴えを退けられ、死刑囚となった。

確定死刑判決を宣告した陶山氏は2013年3月、福岡高裁の部総括判事を最後に依願退職し、現在は福岡市を拠点に弁護士をしている。

私は以前、飯塚事件に関する取材を陶山氏に申し入れたことがあり、電話で断られたため、氏が所属する羽田野総合法律事務所の入ったビルの前まで訪ねて再度取材依頼したことがある。しかし、陶山氏は「全然お話するつもりはありません」「黙秘です」「急ぎますので」などと頑なに拒否した。陶山氏にとって、飯塚事件のことは触れられたくない過去であるようだった。

◆執行を決裁の法務省幹部2人は検事総長に上り詰め、複数の大企業に天下り

死刑は、法務大臣の命令により執行される。しかし、その前に死刑執行の可否を検討するのが法務省の官僚たちだ。

私が行政文書開示請求などによって調べたところ、久間さんの死刑執行を決裁した法務官僚11人が特定できた。その名前を挙げると、尾﨑道明矯正局長、大塲亮太郎矯正局総務課長、富山聡矯正局成人矯正課長、坂井文雄保護局長、柿澤正夫保護局総務課長、大矢裕保護局総務課恩赦管理官、小津博司事務次官、稲田伸夫官房長、中川清明秘書課長、大野恒太郎刑事局長、甲斐行夫刑事局総務課長――の11人だ。

小津博司氏(トヨタ自動車のHPより)

このうち、とくに中心的な役割を果たしたとみられるのが、小津博司事務次官大野恒太郎刑事局長だ。2人はいずれも検察官で、久間さんを処刑台に送った後、法務・検察の最高位である検事総長まで上り詰めている。そして退官後も揃って複数の大企業に天下りするなどし、悠々自適で暮らしているようだ。

まず、小津氏は2014年に退官後、弁護士に。確認できただけでも現在はトヨタ自動車、三井物産、資生堂の3社で監査役のポストを得て、清水建設が設立した一般財団法人清水育英会で代表理事に就いている。

大野恒太郎氏(伊藤忠商事のHPより)

一方、小津氏の後を受けて検事総長となった大野氏も2016年に退官後、弁護士に。四大法律事務所の1つである森・濱田松本法律事務所に客員弁護士として迎えられ、伊藤忠商事、コマツで監査役、イオンで社外取締役を務めている。

私は前掲書を制作した際、この2人に対しても、久間さんに関する思いなどを聞くために手紙で取材を申し入れたが、当然のごとく断られている。

小津氏は手紙で返事をくれたが、〈6月16日付のお手紙拝受いたしました。小生に対する取材のお申し込みですが、退官後、このような取材は全くお受けしておりません。この度のお申し出もお受けすることはできませんので、悪しからずご了解いただき、今後の連絡もお控えいただきますよう、お願いいたします。用件のみにて失礼いたします〉と取材を断ることを一方的に告げてきただけで、取材を断る理由すら示さなかった。

一方、大野氏は私が取材を申し込んだ時はまだ現役の検事総長だったが、最高検企画調査課の検察事務官から電話がかかってきて、「今回の取材申し入れに関しては、大変恐縮なんですが、お断りさせて頂きたいということです」と告げられた。大野氏はいかなる理由で取材を断るのかと尋ねると、「とくに賜っておりません」とのことだった。

以上、村井温氏、村山弘義氏、陶山博生氏、小津博司氏、大野恒太郎氏という久間氏の生命を奪った5人の責任者たちの「今」を紹介したが、彼らは飯塚事件の再審可否決定が出る今日をどんな思いで迎えたのだろうか。そして決定をどんな思いで受け止めるのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

「岡口裁判官半裸写真投稿問題」続報 隠ぺい疑惑の東京高裁が嘘の上塗りか

私は昨年11月13日付けの当欄で、〈司法当局は今なお隠ぺい中 岡口基一裁判官「半裸写真投稿問題」の関係文書〉と題する記事を寄稿した。この記事で伝えた問題について、私はその後も司法当局への追及を続けていたのだが、東京高裁が嘘の上塗りをするかのような対応をしてきたので、報告したい。

◆同内容の文書の開示請求を「異なる理由」で退けた東京高裁

この問題の発端は、「ブリーフ判事」の異名で知られる東京高裁の岡口基一裁判官が2016年6月、ツイッターで自らの半裸写真を投稿したことについて、同高裁の戸倉三郎長官から口頭で厳重注意を受けたことだった。この件は各マスコミで報道され、世間の注目を集めた。

この報道をうけ、いち早く動いたのが、大阪弁護士会の山中理司弁護士だった。山中弁護士は2016年6月29日付けで東京高裁に対し、「東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書」の開示を請求したのだ。しかし、山中弁護士がツイッターで明かしたところでは、東京高裁は同年8月2日付けの文書で〈(該当する文書は)作成又は取得していない〉として請求を退けることを伝えてきたという。

ところが、それから3ケ月近く経った9月22日、岡口裁判官がツイッターで再び物議を醸す投稿を行った。それは次のような内容だ。

〈俺の処分の時に作られた膨大な資料は廃棄されずに保存されているだろうか・。ダビデエプロン画像の拡大コピーなど〉

東京高裁が山中弁護士に対し、〈作成又は取得していない〉と回答した文書が実際には存在していたことが、他ならぬ岡口裁判官により公にされたのだ。

私は当時、山中弁護士が上記のような開示請求をしていたことを知らなかったが、この岡口裁判官のこのツイートを見て、その「膨大な資料」をぜひ見てみたいと思った。そこで同27日付けで東京高裁に対し、開示請求を行った。その対象とした文書は、「岡口基一裁判官がツイッターに縄で縛られた上半身裸の写真などを投稿した件に関し、貴裁判所が作成した全文書」だ。表現こそ違うが、山中弁護士と実質的に同じ文書を開示請求したわけだ。

すると、東京高裁は同年12月12日付けの文書で「開示しない」と回答してきたのだが、ここで問題は「開示しないこととした理由」である。それは次のように綴られていた。

〈文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。〉

繰り返しになるが、山中弁護士と私が東京高裁に開示請求したのは実質的に同じ文書だ。それにも関わらず、東京高裁はなぜ、山中弁護士に〈作成又は取得していない〉と伝えた文書について、私には存在することを認めつつ、開示請求を退けたのだろうか。

答えは明白だ。山中弁護士が開示を請求した時点では、岡口裁判官は口頭注意処分を受けた際に作られた「膨大な資料」が東京高裁に存在することをまだツイートしていなかった。そのため、東京高裁は山中弁護士の開示請求については、そのような文書は〈作成又は取得していない〉と回答した。しかし、岡口裁判官のツイートにより、そのような文書が存在するのが判明したあとで開示請求した私に対しては、文書の存在を認めざるをえなかったのだ。

換言すると、東京高裁は山中弁護士に対し、本当は存在する文書が存在しないという嘘を告げ、開示請求を退けていた疑いが浮上したわけだ。

◆新たな開示請求に対し、東京高裁が苦し紛れのおかしな回答

その後、私が最高裁に対して行った苦情の申出は、「苦情申出期間を徒過している」として退けられた。そこで私は2017年11月30日付けで東京高裁に対し、新たな開示請求を行った。その対象とした文書は、以下の2点だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)岡口基一裁判官がツイッターに縄で縛られた上半身裸の写真などを投稿した件に関し、貴裁判所が作成した全文書

(2)東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

言うまでもなく、(1)は、私が2016年9月27日付けで開示請求し、東京高裁が存在することを認めながら開示しなかった文書で、(2)は、山中弁護士が2016年6月29日付けで開示請求したが、東京高裁が〈作成又は取得していない〉として開示しなかった文書だ。これらの実質的に同じ2つの文書について、異なる理由を示して開示しなかった東京高裁が今度はどのような対応をするかを見極めるため、2つの文書を同時に開示請求したわけだ。

すると、2カ月近く経った今年1月下旬、東京高裁から文書(作成日付は今年1月25日)で、(1)と(2)のいずれも開示しないという回答があった。そしてこの文書には、「開示しないこととした理由」がこう続けられていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)の文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。

(2)の文書は、作成又は取得していない

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東京高裁の苦し紛れの回答(※画像は一部修正しています)

つまり、(1)と(2)のいずれについても、「開示しないこととした理由」は前回と同じにしたわけだ。(1)と(2)は、実質的に同じ内容の文書だから、(1)だけが存在して、(2)が存在しないというのは明らかにおかしい。しかし、東京高裁は以前ついた嘘を嘘だと認めるわけにはいかないから、苦し紛れでこのようなおかしな回答をせざるをえなかったのだと思われる。

私は今後もこの問題について、司法当局への追及を続けるので、事態に進展があれば、その都度報告したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

権力の闇を暴く!「盛一国賠訴訟」へご支援、ご協力を!

◆ はじめに
 
2016年9月、大阪市西成区の居酒屋「集い処はな」で桜井昌司さん(布川事件の冤罪被害者)のお話を聞く会を開催しました。小柄な桜井さんは、店の奥で立ったまま話されました。その姿が店の外から見えたのか、途中40代半ば、ラフな短パン姿の見知らぬ男性が突然入ってきて「さくらいさん、ですよね」と確認するように尋ねてきました。それが盛一さんと桜井さんが出会うきっかけとなりました。

男性は石川県出身の盛一克雄(もりいちかつお)さん(47才)と自己紹介し、自分も刑事事件で有罪判決を受けたが冤罪であること、桜井さんのように再審で無罪を勝ち取りたいと熱心に訴えました。有罪判決を受けたあと、職も家族も失い、また地元に居辛いいため、ときおり西成(釜ヶ崎)の安宿に泊まり、1日中、冤罪関連の書籍を読んだりし、どうやって再審を闘えばいいか考えていた。

店の前を通った直前も桜井さんのインタビューの動画を視聴していたため、桜井さん本人に会えたので非常に驚いたと興奮気味に話し、桜井さんに協力して欲しいと訴えました。その後、和歌山カレー事件や狭山事件など冤罪事件を支援する仲間、桜井さん、青木恵子さん(東住吉事件の冤罪被害者)とともに「盛一国賠訴訟を支援する会」を作りました。

盛一さんのデッチ上げ事件発生からこれまでの経緯をまとめました。

◆ 覚せい剤事件のでっち上げと検面調書の非開示
 
2014年3月19日、盛一さんの自宅などに石川県警の家宅捜索が入り、盛一さんは覚せい剤譲り渡しの疑いで逮捕されました。

しかし盛一さんの自宅、会社、盛一さん所有の車両などから覚せい剤は見つからず、覚せい剤譲り渡しについては不起訴となりました。そのご、逮捕後の尿検査で覚せい剤の陽性反応が出たとして覚せい剤使用で再逮捕となりました。

盛一さんは覚せい剤譲り渡しも覚せい剤使用も身に覚えがないため、逮捕後ずっと「やっていない」と否認を続けていました。そのため、接見禁止(弁護士以外は面会できない。のちに母親も許可)のまま400日も拘留され続け、その間に妻や子どもとは離別を余儀なくされ、また盛一さんが代表を務めていた木材会社を失う羽目となりました。

盛一さんは、自分がなぜやってもいない事件をでっちあげられたかを知るため、公判前整理手続きで検察の持つ証拠を開示させました。まず初めに、盛一さんが逮捕される約10ケ月前、覚せい剤使用で逮捕、起訴、のちに有罪判決を受けたA(女)の「員面調書」(警察署で作成される調書)が開示されました。そこには「盛一がB(男。Aの恋人)に覚せい剤を売り渡す場面を2回見た」と書かれていました。しかし盛一さんはAに1回しか会っていないし、Bに覚せい剤を売り渡してもいません。そこで次に盛一さんは、Aの「検面調書」(検察庁で作成される調書)の開示を求めましたた。すると担当検事は「Aが拒んだから、Aの検面調書は存在しない」と返答してきました。

◆「検面調書は存在しない」は検事のウソだった

2015年4月23日から始まった盛一さんの公判で、盛一さんはAを証人として呼びました。そこでAは「盛一さんとは1回しか会っていない」と員面調書の内容(盛一と2回会った)を否定し、「検面調書を拒否した事実はなく、検察庁で検面調書を作成した」と驚くような証言をしました。

しかし残念なことに、2015年5月1日、盛一さんは金沢地裁で有罪判決(懲役2年、執行猶予4年)を受け、すぐに控訴しましたが、2015年10月15日、名古屋高裁金沢支部は控訴を棄却し、有罪判決が確定しました。

納得できない盛一さんは、2016年3月、Aの訴訟記録を閲覧し、そこでAの検面調書が存在していたことを知り、うち3通を入手しました。これを手掛かりに何とか無実を証明出来ないかと考えた盛一さんは、今回の国家賠償請求訴訟を起こし、闘いの一歩を踏み出しました。

そして2017年11月24日、金沢地裁で、盛一克雄さんを原告とする国家賠償請求訴訟が始まりました。

この訴訟は前述したように、2014年、盛一さんが覚せい剤使用で逮捕、起訴され有罪判決(懲役2年、執行猶予4年)を受けた刑事事件について、実際には存在した証拠の開示を求めていたものの、担当検事により「存在しない」とされたため、盛一さんの防御権の行使が妨げられたとして、国家賠償法に基づく損害賠償請求をするものです。

◆ 事件の本質は「警察の闇」を知る盛一さんへの口封じ
 
では、なぜ盛一さんは、こんな酷い目にあうのでしょうか?

実は盛一さんは、若い頃、石川県警の捜査協力者をやらされていた過去があります。警察署で、何も書かれていない真っ白な調書に署名、捺印させられたことが何度もありました。石川県警は盛一さんの署名、捺印した真っ白な調書で虚偽の調書を作成し、それを第三者の逮捕状や家宅捜索連所を請求するときの資料としたと考えられます。

しかし、ある暴力団の抗争に使われた拳銃が、石川県内の某所にあるとして家宅捜索された事件で、盛一さんが署名、捺印した調書が使われたことがあり、その裁判の過程で盛一さん自身が証人として呼び出されそうになったことがありました(結果は中止となりました)。

盛一さんは自分を危険な目にあわせる石川県警に抗議するとともに、以降警察との関係を断つようになりました。また、自分が行ってきたことは間違いと気づき、後日、周囲に「覚せい剤事件などで警察は虚偽の調書を作成して、裁判所から令状を発布させることが多くある」と話したりしました。このような、警察が最も隠したいことを、他人に漏らした盛一さんを口封じする目的で、今回の「逮捕」があったのではないでしょうか。

なぜそう考えるのか? じつは、盛一さんが逮捕後、連行された警察署内の取り調べ室で、扉越しに「バーカ、アホがっ!」と怒鳴る刑事がいました。盛一さんが過去に警察の協力者をやっていた際、何度も飲食をともにした刑事です。

盛一さんは、かつて警察の捜査協力者であったことを深く反省するとともに、警察の違法な捜査や検察の証拠隠しで冤罪が作られることを断じて許してはならないと考え、闘いの一歩としてこの国賠訴訟を起こしました。

この闘いには、冤罪被害者である桜井昌司さん、青木恵子さんも支援を表明され、第一回口頭弁論後の記者会見で桜井さんは「盛一さんの事件は、私や青木恵子さんの無期懲役事件とは違い小さな事件のようだが、警察、検察の証拠隠しを追及する非常に重要な闘いだ。今後も支援していきたい」と述べています。

全国のみなさまにも、この盛一国賠へのご支援とご協力を強くお願い申し上げます。

尾崎美代子(「盛一国賠訴訟を支援する会」事務局)

◎次回裁判◎
2018年2月2日(金)午前11:00~ 金沢地裁第202法廷

裁判終了後「味噌蔵町公民館」(金沢市兼六元町7番19号)で、
桜井昌司さん、青木恵子さん同席での「報告会」を予定しています。
こちらへもぜひご参加ください。

 

◎[参考動画]桜井昌司、青木惠子が冤罪仲間の盛一克雄の支援を表明(寺澤有2017年11月25日公開)
※この裁判にはジャーナリスト寺澤有さんも支援して下さり、2017年11月24第一回口頭弁論後、味噌蔵町公民館で開かれた記者会見を取材し、YouTubeに上記の通りアップされています。視聴してください。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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《殺人事件秘話12》大阪ドラム缶遺体事件の死刑は「最も重い死刑」である

私は、刑罰の重さというのは、刑罰を科される人間の主観で決まるものだと思っている。というのも、たとえば同じ無期懲役判決でも、被告人が20歳の場合と80歳の場合では、明らかに重さが違う。20歳の被告人が無期懲役判決を受ければ人生の大半を獄中生活に費やすことになるが、80歳の被告人が無期懲役判決を受けたとしても、ものの数年で寿命のために服役を終える可能性も小さくないからだ。

死刑にしたって、被告人が20歳か、80歳かではずいぶん重みが違うし、被告人が重い病で余命いくばくもなく、安楽死を望んでいるような場合、死刑には刑罰としての意味がほとんどない。たまに現れる「死刑になりたくて人を殺した」という殺人者に対しては、死刑は国家が自殺志願者の自殺を手伝うような意味合いすら持ってしまう。

こうしたことから、私は「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考えるわけだが、そんな私がこれまでに会った様々な殺人犯の中で「最も重い刑罰」を受けた人物だと位置づけている男がいる。昨年暮れに最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定した大阪ドラム缶遺体事件の犯人、鈴木勝明死刑囚(50)だ。

◆面会室では、とうとうと「冤罪」を訴えてきたが……

「ラジオで自分に関する報道を聞いていると、ありもしないことばかり言っています。警察はひどいですからね。殺人の証拠がないから、ぼくが最初に窃盗で逮捕された時から(自白させようと)殺人のことばかり聞いてくるんです」

2014年の秋、大阪拘置所の面会室。透明なアクリル板越しに向かい合うと、鈴木死刑囚は私に対し、とうとうと「冤罪」を訴えた。鈴木死刑囚は当時、すでに一審・大阪地裁堺支部の裁判員裁判で死刑判決を受けていたが、裁判では無実を主張しており、大阪高裁に控訴中だった。

鈴木死刑囚の犯行とされる大阪ドラム缶遺体事件の内容はおおよそ次のようなものである。

2004年暮れに失踪した大阪の会社社長・浅井建治さん(失跡当時74)と妻・きよさん(同73)の遺体と車が府内の貸ガレージで見つかったのは2009年秋のこと。ドラム缶に入れられた2人の遺体は激しく損傷しており、きよさんのほうは足を切断されていた。

大阪府警は捜査の結果、同11月、当時建設作業員だった鈴木死刑囚が建治さんの車などを盗んだとして窃盗容疑で逮捕。さらに同12月、きよさんの腕時計も盗んでいたとして再び窃盗容疑で逮捕する。そして翌年12月、ついに「本命」の強盗殺人の容疑で鈴木死刑囚を逮捕したのである。

これに対し、裁判で「冤罪」を訴え続ける鈴木死刑囚だが、公判廷で示された事実関係を見る限り、その主張は苦しかった。

まず、鈴木死刑囚は浅井さん夫婦の失踪直後、遺体が見つかったガレージを賃貸していた。遺体が入っていたドラム缶には鈴木死刑囚の指掌紋やDNAが付着。さらに事件当時、鈴木死刑囚は無職で、消費者金融に約300万円の借金を抱えていたうえ、事件後に浅井家にあった高級時計を50万円で質入れして返済にあてていたのだ。

一方、鈴木死刑囚は裁判で「闇金業者の2人の男に脅され、死体遺棄を手伝っただけだ」と主張していたが、その2人の実名すら特定できない……。

そんな苦しい冤罪主張を続ける鈴木死刑囚の実像をこの目で確かめたく、私は取材依頼の手紙を出したうえで面会に訪ねたのだが、鈴木死刑囚は面会中、私の目をあまり見ようとしなかった。捜査や裁判、マスコミに対する批判は口からどんどん出てきたが、終始うつむき加減で、おどおどした話し方なのも気になった。

それでも、「事件をちゃんと伝えてくれるなら、色々話すことも考えます」と言うので、切手やハガキのほか、便箋や封筒も差し入れた。だが、それから5カ月以上も音沙汰なしの状態が続いたのだった。

◆死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかない

鈴木死刑囚からいつまで経っても連絡がこないので、私は2015年2月、「また面会に行きたい」と手紙で鈴木死刑囚に伝えた。すると、ようやく返事の手紙がきたが、それには「捜査機関が真犯人を隠し、私に押しつけた」という主張と共に、「面会はしんどいし、辛いから断る」という意向が書き綴られていた。

〈今は、面会は出来ないです…… また、気持ち変われば、手紙しますので…… 草々〉

最後はそんな弱々しい言葉で結ばれていた鈴木死刑囚の手紙。その文面からは、冤罪を訴え続ける「罪悪感」に苦しんでいる様子が窺えた。そしてこの時、私は改めて面会中の鈴木死刑囚のおどおどした様子を思い出し、確信したのだ。鈴木死刑囚は死刑が怖くて仕方がないのだろう――ということを。鈴木死刑囚は、本当はクロなのに無実を訴えることに罪悪感はあるが、死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかないのである。

私はこれまで、死刑判決を受けた被告人に20人近く会ってきたが、その中でも鈴木死刑囚は誰よりも死刑を恐れている雰囲気が顕著だった。「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考える私は、それゆえに鈴木死刑囚こそが過去に会った死刑囚の中でも「最も重い死刑」の判決を受けた人物だと思うのだ。

死刑が確定した今、鈴木死刑囚は大阪拘置所の獄中で日々眠れぬ夜を過ごしているはずだ。

鈴木勝明死刑囚が収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

大阪「髪染め強要」訴訟 ほとんど報じられない学校側の主張を伝える【後編】

大阪府立懐風館高校の女生徒A子が学校の指導を不服として起こした「髪染め強要訴訟」では、マスコミがこぞってA子の応援団と化し、学校側に対する批判的な報道を繰り広げてきた。その一方、ほとんど報じられてこなかった学校側の主張も決して信ぴょう性がないわけではない。前編に引き続き、被告の大阪府が大阪地裁に提出した2015年12月11日付け準備書面に基づき、学校側の主張を紹介しよう。

◆入学当初は学校側の頭髪指導に従っていたA子

 
懐風館高校のホームページ。掲載された学校生活の写真では、髪が茶色っぽい生徒も散見される

まず、前編のおさらいをしておく。

A子はこの訴訟で「生まれつき茶色い髪について、学校で何度も黒く染めるように指導されて精神的苦痛を受けた」と主張しているが、前編で紹介した学校側の主張によると、A子の髪の地毛の色は「黒」であり、学校側はA子に対し、髪を地毛の色である黒に染めるように指導していたとのことだった。

また、前編で紹介した学校側の主張によると、懐風館高校でA子と同学年の生徒の中には、地毛が茶色であるなどと入学時に申し出た生徒が約40人いて、学校側はこの生徒たちに対しては、「頭髪を黒色に染めるように」という指導は行っていないとのことだった。この主張が事実なら、懐風館高校では、頭髪の地毛が本当に茶色であれば、髪を黒く染めるような指導は行っていないことを裏づける生徒が約40人存在する――ということになる。

そしてA子は入学早々、3人の教師による頭髪検査で「地毛の色は黒なのに、髪の色を明るく染めていた」と認められ、頭髪を地毛の色である黒に染めるように指導されて一度は従ったとのことだった。以上が前編のおさらいで、以下は今回新たにお伝えすることだ。

学校側の主張によると、A子に対し、髪の毛を黒く染めるように指導した2回目は入学した年(2015年)の5月17日のことだという。その前々日の体育の時間中、担当教師がA子の髪の色について、「明らかに黒ではない」と認めたことから、2人の教師が放課後、A子の頭髪を検査した。すると、A子の髪の毛は根元が黒色なのに、毛先に向かって色が異なっている状態だったという。

A子はこの際、「4月に黒色に染めたが、色落ちした」と説明したそうだが、2人の教師は「A子の頭髪の色は、地毛の色と著しく異なっている」などと判断し、再度、髪の毛を黒く染めるように指導したという。

この時、A子の母親から学校に電話があり、「娘の地毛は茶色なのに、中学の時、そのままだと高校に合格しないと言われて、黒く染めた」などと言ってきた。ただ、母親はこの時、A子の髪の地毛の色のことより、「同じクラスには、化粧をしている子がいるのに、それを認めていいのか」などと言っていたという。そして結果、A子は学校側の指導に従い、5月20日には髪を黒く染めて登校していたという。

だが、学校側の主張によると、この後、学校側とA子の間では、髪の毛の色をめぐる攻防が繰り返されるのだ。

◆学校とA子の頭髪の色をめぐる攻防

前出の準備書面をもとにまとめると、学校側がA子に対して行った頭髪指導の3回目以降の内容、それに対するA子の対応は次の通りだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●2015年7月17日
1学期の終業式があったこの日の頭髪検査により、A子はまた髪の毛の根元の色が黒く、毛先に向かって異なる色になっていた。そこで担当教師2人は「2学期が始まる前に黒く染めるように」と指導した。この時、再びA子の母親から学校に電話があったが、母親は髪の色については、とくにこだわっていなかった。

●同8月24日
2学期の始業式があったこの日、A子は上記の教師たちの指導に従い、髪の毛を黒く染めて登校してきた。

●同12月24日
2学期の終業式があったこの日、A子の頭髪はまた根元が黒く、毛先にかけて色が異なっているという状態になっていた。そこでまた担当教師が「3学期までに黒く染めてくるように」と指導した。

●2016年1月8日
3学期の始業式があったこの日、A子は上記の指導を受けたにも関わらず、髪が黒くなっていなかった。そこで担当教師2人は「4日以内に黒く染めてくるように」と指導した。すると夕方、A子の母親が電話してきて、「同じクラスに化粧をしている生徒がいるのに、頭髪はダメなのか」「弁護士と一緒に学校に行き、校長と話がしたい」などと述べた。対応した担当教師の1人が「化粧についても指導している」などと説明したところ、母親は「黒く染めるから、もういい」と電話を切ってしまった。

●同1月12日
A子は髪を黒く染めて、登校してきた。

●同3月15日
3学期の終業式があったこの日、A子の髪はまた根元が黒く、毛先に向かって色が異なっている状態になっていた。そこで担当教師らは「4月11日の新学期までに黒くしてくるように」と指導した。

●同4月11日
1学期の始業式があったこの日、2年生に進級したA子は上記の指導に従い、髪を黒くして登校した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、こうして学校側の主張を時系列に沿って見ていくと、A子は終業式のたびに髪の毛が地毛と異なる色になっており、地毛の色である黒に染めるように指導されていたことになる。あくまで学校側の言い分だが、頭髪検査の際にはいつも「A子の髪の根元の色が黒く、毛先に向かって色が異なっていた」という主張は無下に否定できない内容ではあるだろう。

◆次第に指導に従わなくなったA子

このように学校側の主張によると、A子は髪を何度も明るい色に染め、教師たちに指導されるたびに地毛の黒に染め直すということを繰り返していたが、だんだん指導に従わなくなっていったという。その経緯を見てみよう。

同4月27日、和歌山方面での校外学習の際、またしてもA子の頭髪は茶色になっており、それを見つけた教師は黒く染めるように指導したという。だが、A子はこの指導に従わず、髪の毛が茶色いままで登校し続けた。そして同5月17日、ようやく髪を黒くしてきたが、同6月20日には再び髪を茶色くしていたという。

この時、担当教師は「同6月24日までに髪を黒くしてくるように」と指導したが、A子は「やらへん」と言った。そして同6月24日には、一応、髪を黒くして登校してきたが、染め方が不十分だったという。

そんな経緯を経て、1学期の終業式があった同7月20日、A子はまたも髪の毛を地毛の黒と異なる色に染めていた。そこで担当教師は黒く染めるように指導したが、夏休みに入った同7月27日、A子は逆に極端に茶色く髪を染めていたのを教師らに発見される。しかしA子は「夏休みなのに、なんであかんの」などと言ったという。

そして翌28日、A子の母親から学校側へ不穏な連絡が入る。「昨日、娘が過呼吸で救急搬送された」というのだ。

だが、そんなことがあったにも関わらず、夏休みが終わって2学期が始まると、A子は今度はピアスをつけて登校してきたという。頭髪の色はまだら状態だったが、教師に対しては「黒いやん」「直してるやん」とからかうように言った。そしてその後、A子は頭髪の色に関する学校の指導に従わなくなってしまったという。

◆「先生、訴えるで」「えらい目に遭わしたる」

そんな状態が続く中、同9月8日、ついにA子と学校側の間で決定的なことが起こる。担当教師らに指導を受ける中、A子が薄ら笑いを浮かべながら、「先生、訴えるで」と言い、さらに教師たちに対し、こんな言葉を投げかけてきたというのだ。

「次の手を考えている。教育委員会に言ってもダメだったので」

「T(教師の名前)をえらい目に遭わしたる」

「おかあさんに『Y(教師の名前)は文化祭、一生懸命やってるからおとなしいしといたれ』って言うたけど、もうええ」

この日を最後に、A子は学校に登校してこなくなった。そして1年余りの月日が過ぎた2017年(昨年)10月、今回の訴訟を起こしたというわけだ。

以上は学校側の主張に基づいてまとめたものだ。従って、A子側の反論を聞くことなく、鵜呑みにするわけにはいかない。

ただ、これまでマスコミでは、A子側の主張が大々的に報じられる一方で、学校側の主張を伝える報道はあまりに少なかった。それゆえにあえて、ここでは学校側の主張を詳しく伝えた。

訴訟はまだ始まったばかりで、予断を許さない。私は今後もこの訴訟を取材していくので、適時、新しい情報をお伝えしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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大阪「髪染め強要」訴訟 ほとんど報じられない学校側の主張を伝える【前編】

「生まれつき茶色い髪について、学校で何度も黒く染めるように指導されて精神的苦痛を受けた」

大阪府羽曳野市にある府立懐風館高校の女生徒がそう訴えて昨年10月、大阪府に損害賠償など約226万円の支払いを求めて起こした「髪染め強要」訴訟。ここまではマスコミがこぞって女生徒の応援団と化している印象だ。

報道を1つ1つ紹介していたらきりがないが、いかにマスコミが女生徒側に一方的に肩入れした報道を繰り広げてきたかは、以下のようにインターネット上で配信された記事の見出しを並べただけでもわかるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

教室の席なくされ、進学の夢は遠のき 髪黒染め指導訴訟(朝日新聞デジタル同11月10日)

(社説)黒髪指導 生徒の尊厳を損なう(朝日新聞デジタル同11月6日)

社説 学校の頭髪黒染め指導 理不尽な強要ではないか(毎日新聞ホームページ同11月19日)

地毛茶髪、黒染めで頭皮ボロボロ…アレルギー無視「生徒への暴力だ」(産経WEST同12月19日)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうした報道をうけ、脳科学者の茂木健一郎氏や教育評論家の「尾木ママ」こと尾木直樹氏ら著名人たちも次々に学校側を批判するコメントを発表。さらには、この騒動は海外メディアでも次々に報じられ、日本の学校では生徒の身だしなみについて、厳格なルールを定めているように伝えられた。

一方、こうした騒動の中、学校側は女生徒について、「髪の毛の色は明るかったが、地毛は黒色だと判断し、黒く染めるように指導していた」と主張しているのだが、そのことはほとんど報道されていない。そのため、学校側が悪いというイメージが世間に強烈に印象づけられている。

そこで私は、訴訟が行われている大阪地裁を訪ねて訴訟記録を閲覧し、現時点での女生徒側、学校側双方の主張を確認した。その結果、女生徒側の主張を鵜呑みにし、学校側が悪いと決めつけるのは危険だという思いを抱いた。ついては、ほとんど報道されてこなかった学校側の主張をここで紹介したい。

訴訟が行われている大阪地裁

◆懐風館高校は学校運営の方針として生活指導に重点

この訴訟の原告は女生徒で、被告は大阪府だ。府が提出した同12月11日付け準備書面をもとに学校側の主張を見ていこう。なお、便宜上、これから先は原告の女生徒をA子と呼ぶことにする。

懐風館高校は、羽曳野高校と西浦高校という2つの府立高校が統合されて2009年4月に開学した。設立当初、生徒たちの生活などに乱れがあり、問題行動をする生徒が多かったことから、学校運営の方針として、生徒の生活指導に重点を置き、とくに頭髪や服装、遅刻に対する指導に力を入れるようになったという。それにより、生徒たちの興味や関心を勉学やスポーツに向けさせようとしたわけだ。

では、生徒の頭髪に関する校則は具体的にどのように定められているのかというと――。

〈頭髪は清潔な印象を与えるように心がけること。ジェルなどの使用やツーブロックなどの特異な髪型、パーマ、染髪、脱色、エクステは禁止する。また、ドライヤーなどによる変色も禁止する。カチューシャ、ヘアバンドなども禁止する〉

このような校則がある懐風館高校では、夏休みや冬休み、春休みという長期の休み入る前には生徒の頭髪検査を行っている。その際、髪の色を染めているなどの校則違反をしている生徒がいれば、次回の登校日までに地毛の色に染めるように指導しているとのことだ。また、日常の学校生活においても、頭髪を染色するなどの校則違反をしている生徒がいれば、4日以内に改善するように指導しているという。

これを見る限り、懐風館高校の頭髪に関する校則は厳しく、かつ、学校側は生徒たちに対し、この校則を厳しく守らせている印象だ。

もっとも、A子の髪の色が本人の主張するように生まれつき「茶色」であるならば、校則に引っかかることはない。それにも関わらず、学校側がA子に対し、髪を黒く染めるように強要していたとすれば、重大な人権侵害というほかないだろう。

一方、逆に学校側が主張するようにA子の髪の地毛の色が本当は「黒」であるにも関わらず、A子が黒以外の色に染めていたならば、A子は校則違反をしていたばかりか、髪の色を偽って訴訟を起こしていたことになる。こちらが真実である場合、A子の主張はもはや全面的に信用性を失うと言っても過言ではないだろう。

◆地毛が茶色で、髪を黒く染めさせていない生徒が約40人存在

では、学校側はA子の髪の毛の色について、事実関係をどのように主張しているのか。おおよそ次の通りだ。

A子が懐風館高校に入学した2015年の3月23日、学校側は2015年度の新入生を対象とする説明会を開いている。そして教育内容、年間行事、部活動などについて説明を行ったほか、生徒指導主事の教師が校則について説明を行った。

その中では、(1)懐風館高校は、頭髪指導に力を入れていること、(2)頭髪規制に関する校則の内容、(3)頭髪を染髪などした場合は地毛の色に染色するように指導していること、(4)地毛の色に染色してもそれが色落ちしてきた時には再度、染色してもらうことがあること――などが説明されたという。

そして学校側の主張によると、この説明会では、学年主任の教師が新入生たちに対し、「学校生活を送るうえで、配慮が必要な者は保健室へ来て、申告するように」と伝えた。しかし、頭髪に関し、学校側に配慮を求めてきた新入生はいなかったという。

さらに学校側は念押しするようにこう主張する。

〈なお、入学後のオリエンテーションにおいて、頭髪の地毛が茶色であるなどと申し出てきた約40人の生徒がいるが、これらの生徒に対しては、当然のことながら、頭髪を黒色に染色するようにとの指導などは行っていない〉

この部分は換言すると、こういうことになる。懐風館高校では、頭髪が生まれつき茶色である生徒に対し、頭髪を黒色に染めるような指導はそもそも行っておらず、そのことを裏づける生徒が約40人存在する――。学校側がこの訴訟において、この約40人の生徒が実在することを何らかの形で証明できれば、大きなアドバンテージなりそうだ。

◆入学当初に染髪をしていると認められていた原告の女生徒

では、A子に対し、学校側が髪の色に関する指導を行ったのはいつ頃からのことなのか。

学校側の主張によると、最初は同3月30日、新入生の生徒証に貼付する写真の撮影を行った時だったという。この際、3人の教師が生徒たちの頭髪検査を行ったところ、A子の頭髪の色は著しく明るい状況だった。ただ、髪の毛の根元部分(1センチくらい)が黒く、そこから毛先に行くに従って光っているような明るい色になっており、過去に染髪をしていることが認められたという。

A子はこの時、「中学校で、高校入試のために髪を黒色に染めるように言われた」と答えたそうだ。これをうけ、教師たちは「A子の頭髪は、地毛が黒色なのに、異なる色に染色していたので、出身中学が高校入試で不利にならないように地毛の黒色に染めるように指導したのだ」と理解した。そこでA子に対し、校則や指導方針を説明し、4月2日の登校日までに黒く染めるように伝えたという。

ちなみにこの時、学校側はA子以外にも16人の生徒に対し、髪を地毛の色に染めるように伝えたとのことだ。そしてA子も他の16人の生徒も4月2日の登校日には、髪を黒く染めてきたというのだが――。

学校側の主張によると、これ以降、A子は何度も髪を黒以外の色に染め、学校側の指導を受けて地毛の色である黒に染め直すが、また黒以外の色に染める――ということを繰り返すようになったという。こうした学校側とA子の具体的なやりとりについても、前出の準備書面には詳細に綴られている。

それはあくまで学校側の主張だが、信ぴょう性をまったく感じられない内容ではない。後編では、学校側の主張をさらに詳しく紹介していこう。(つづく)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

《殺人事件秘話11》公判担当検察官が真犯人の目撃者を隠ぺいしたロス疑惑

報道を通じて誰でも知っているような事件であっても、その実相は案外知られてないことが少なくない。その最たるものが、あのロス疑惑だ。

80年代に日本全国の注目を集めたこの事件では、妻を保険金目的で殺害した疑いをかけられた三浦和義さんが裁判で無罪判決を勝ち取ったが、洪水のような犯人視報道の影響で今も三浦さんのことをクロだと思っている人は少なくない。

しかし実を言うと、三浦さんの裁判では、検察官が「三浦さん以外の真犯人を目撃した証人」を隠していたことが明るみに出ているのである。

◆報道の影響で今もクロだと思い込んでいる人が多いが……

のちに「ロス疑惑」と呼ばれる事件が起きたのは、1981年11月のことだった。輸入雑貨商だった三浦さんは妻の一美さんと共に仕事と旅行を兼ねて米国ロサンゼルスに滞在中、駐車場で2人組の男に銃撃され、金を奪われた。一美さんは頭を撃ち抜かれて意識不明の重体に陥り、三浦さんも足を撃たれて負傷。その後、一美さんは一年余りの入院生活を送ったが、回復しないままに亡くなった。

そんな悲劇に見舞われた三浦さんは当初、重体の妻にけなげに尽くす「美談の人」としてマスコミに取り上げられていたが、1984年になり、事態が一変する。週刊文春が同年1月から始めた「疑惑の銃弾」という連載で、三浦さんが一美さんの死により1億5000万円を超す保険金を受け取っていた事実を指摘し、銃撃事件は三浦さんが保険金目的で敢行した自作自演の妻殺害事件である疑いを報道。これに他のマスコミも一斉に追随し、三浦さんは妻を殺害した疑いを連日、大々的に報道されるようになったのだ。

三浦さんはその後、妻殺害の容疑で逮捕され、一貫して無実を訴えながら一審・東京地裁では無期懲役判決を受けた。しかし、二審・東京高裁で逆転無罪判決を受け、2003年に最高裁が検察の上告を退け、無罪が確定する。元々、めぼしい証拠は何もなく、第一審の有罪判決も三浦さんが「氏名不詳者」に妻を銃撃させたとする無理な筋書きだったから、無罪判決は当然の結果ともいえた。それでもなお、今も三浦さんのことをクロだと思い込んでいる人が多いのは、膨大な犯人視報道の影響に他ならない。

だが、先にも述べたように、実際には、検察官はこの事件で、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人を隠していたのである。

◆真犯人の目撃証人を調べていたのは公判担当検事だった……

日刊スポーツ2008年2月24日付

裁判当時、三浦さんを支援していた男性によると、その目撃証人は、事件現場の駐車場で働いていた男性Sさん。弁護側は控訴審段階に現地で雇った探偵の調査により、Sさんの存在を知ったという。

「Sさんは『日本の捜査当局の調べも受け、犯人が現場から車で逃げ去るところなどを目撃したことを話した』と明かしてくれたので、弁護側は当然、検察官にSさんの調書の開示を求めましたが、検察官はそのような調書の存在を頑なに認めませんでした。しかし、裁判官がSさんを公判に召喚することを示唆し、検察官はようやく調書を開示したのです」(男性)

こうして、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人の存在が公判廷で明るみに出たのだが、それと共に重大な事実が発覚したという。

「調書の存在を認めなかった公判担当の検察官自身がこのSさんの調書の作成者だったのです。裁判官はこれをきっかけに検察側に不信感を抱き、裁判の流れは一気に逆転無罪へと傾きました」(同)

このことを知っているか否かで、三浦さんやロス疑惑という事件に関する印象はずいぶん違うはずだ。私はかねてよりこの事実を知っているので、三浦さんのことは当然シロだと思っているし、ロス疑惑はマスコミや捜査機関によるデッチ上げの事件だと思っている。

◆三浦さんの死亡時にも卑怯な物言いをした山田弘司元検事

ロス疑惑の捜査、公判を担当した頃の山田弘司検事(1988年発行の「司法大観」より)

ところで、この証拠を隠していた検事については、許しがたいことが他にもある。というのも、三浦さんは2008年にサイパンを旅行中、日本で無罪確定した殺人の容疑で米国捜査当局に逮捕され、移送されたロス市警で非業の死を遂げたが、その時にこの検事はマスコミに対し、次のようなコメントを寄せていたのだ。

「日本での無罪判決に、釈然としない思いの人がいるのも事実。もう一度、実質的に審理されれば、有罪、無罪の結論はどうだろうと、理由が示されて、納得する人も、もう少し多くなるだろうと思っていた」(朝日新聞東京本社版08年10月12日朝刊)

「20年近く戦った相手だが、こういう事態となり、広い意味での『友人』だったという感じがした。ご冥福をお祈りしたい」(読売新聞西部本社版08年10月12日朝刊)

死んだ三浦さんが反論できないからこその卑怯な物言いである。

この検事の名は、山田弘司(こうじ)氏。三浦さんの公判を担当後は東京高検公安部長、函館地検検事正などを経て、最高検公判部長だった04年9月、58歳で辞職。その後しばらく杉並公証役場で公証人として働いており、このコメントを発したのもその頃だ。

私はこの6年後、山田氏のもとを訪ね、この三浦さんに対する卑怯な物言いや、真犯人に関する目撃証言を隠していたことに関して追及したが、山田氏は曖昧な言葉でごまかそうとするばかりで、自分の犯した過ちに誠実に向き合おうとする様子は見受けられなかった。

こういう人間が出世するのが検察という組織なのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)