大阪府立懐風館高校の女生徒A子が学校の指導を不服として起こした「髪染め強要訴訟」では、マスコミがこぞってA子の応援団と化し、学校側に対する批判的な報道を繰り広げてきた。その一方、ほとんど報じられてこなかった学校側の主張も決して信ぴょう性がないわけではない。前編に引き続き、被告の大阪府が大阪地裁に提出した2015年12月11日付け準備書面に基づき、学校側の主張を紹介しよう。

◆入学当初は学校側の頭髪指導に従っていたA子

 

懐風館高校のホームページ。掲載された学校生活の写真では、髪が茶色っぽい生徒も散見される

まず、前編のおさらいをしておく。

A子はこの訴訟で「生まれつき茶色い髪について、学校で何度も黒く染めるように指導されて精神的苦痛を受けた」と主張しているが、前編で紹介した学校側の主張によると、A子の髪の地毛の色は「黒」であり、学校側はA子に対し、髪を地毛の色である黒に染めるように指導していたとのことだった。

また、前編で紹介した学校側の主張によると、懐風館高校でA子と同学年の生徒の中には、地毛が茶色であるなどと入学時に申し出た生徒が約40人いて、学校側はこの生徒たちに対しては、「頭髪を黒色に染めるように」という指導は行っていないとのことだった。この主張が事実なら、懐風館高校では、頭髪の地毛が本当に茶色であれば、髪を黒く染めるような指導は行っていないことを裏づける生徒が約40人存在する――ということになる。

そしてA子は入学早々、3人の教師による頭髪検査で「地毛の色は黒なのに、髪の色を明るく染めていた」と認められ、頭髪を地毛の色である黒に染めるように指導されて一度は従ったとのことだった。以上が前編のおさらいで、以下は今回新たにお伝えすることだ。

学校側の主張によると、A子に対し、髪の毛を黒く染めるように指導した2回目は入学した年(2015年)の5月17日のことだという。その前々日の体育の時間中、担当教師がA子の髪の色について、「明らかに黒ではない」と認めたことから、2人の教師が放課後、A子の頭髪を検査した。すると、A子の髪の毛は根元が黒色なのに、毛先に向かって色が異なっている状態だったという。

A子はこの際、「4月に黒色に染めたが、色落ちした」と説明したそうだが、2人の教師は「A子の頭髪の色は、地毛の色と著しく異なっている」などと判断し、再度、髪の毛を黒く染めるように指導したという。

この時、A子の母親から学校に電話があり、「娘の地毛は茶色なのに、中学の時、そのままだと高校に合格しないと言われて、黒く染めた」などと言ってきた。ただ、母親はこの時、A子の髪の地毛の色のことより、「同じクラスには、化粧をしている子がいるのに、それを認めていいのか」などと言っていたという。そして結果、A子は学校側の指導に従い、5月20日には髪を黒く染めて登校していたという。

だが、学校側の主張によると、この後、学校側とA子の間では、髪の毛の色をめぐる攻防が繰り返されるのだ。

◆学校とA子の頭髪の色をめぐる攻防

前出の準備書面をもとにまとめると、学校側がA子に対して行った頭髪指導の3回目以降の内容、それに対するA子の対応は次の通りだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●2015年7月17日
1学期の終業式があったこの日の頭髪検査により、A子はまた髪の毛の根元の色が黒く、毛先に向かって異なる色になっていた。そこで担当教師2人は「2学期が始まる前に黒く染めるように」と指導した。この時、再びA子の母親から学校に電話があったが、母親は髪の色については、とくにこだわっていなかった。

●同8月24日
2学期の始業式があったこの日、A子は上記の教師たちの指導に従い、髪の毛を黒く染めて登校してきた。

●同12月24日
2学期の終業式があったこの日、A子の頭髪はまた根元が黒く、毛先にかけて色が異なっているという状態になっていた。そこでまた担当教師が「3学期までに黒く染めてくるように」と指導した。

●2016年1月8日
3学期の始業式があったこの日、A子は上記の指導を受けたにも関わらず、髪が黒くなっていなかった。そこで担当教師2人は「4日以内に黒く染めてくるように」と指導した。すると夕方、A子の母親が電話してきて、「同じクラスに化粧をしている生徒がいるのに、頭髪はダメなのか」「弁護士と一緒に学校に行き、校長と話がしたい」などと述べた。対応した担当教師の1人が「化粧についても指導している」などと説明したところ、母親は「黒く染めるから、もういい」と電話を切ってしまった。

●同1月12日
A子は髪を黒く染めて、登校してきた。

●同3月15日
3学期の終業式があったこの日、A子の髪はまた根元が黒く、毛先に向かって色が異なっている状態になっていた。そこで担当教師らは「4月11日の新学期までに黒くしてくるように」と指導した。

●同4月11日
1学期の始業式があったこの日、2年生に進級したA子は上記の指導に従い、髪を黒くして登校した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、こうして学校側の主張を時系列に沿って見ていくと、A子は終業式のたびに髪の毛が地毛と異なる色になっており、地毛の色である黒に染めるように指導されていたことになる。あくまで学校側の言い分だが、頭髪検査の際にはいつも「A子の髪の根元の色が黒く、毛先に向かって色が異なっていた」という主張は無下に否定できない内容ではあるだろう。

◆次第に指導に従わなくなったA子

このように学校側の主張によると、A子は髪を何度も明るい色に染め、教師たちに指導されるたびに地毛の黒に染め直すということを繰り返していたが、だんだん指導に従わなくなっていったという。その経緯を見てみよう。

同4月27日、和歌山方面での校外学習の際、またしてもA子の頭髪は茶色になっており、それを見つけた教師は黒く染めるように指導したという。だが、A子はこの指導に従わず、髪の毛が茶色いままで登校し続けた。そして同5月17日、ようやく髪を黒くしてきたが、同6月20日には再び髪を茶色くしていたという。

この時、担当教師は「同6月24日までに髪を黒くしてくるように」と指導したが、A子は「やらへん」と言った。そして同6月24日には、一応、髪を黒くして登校してきたが、染め方が不十分だったという。

そんな経緯を経て、1学期の終業式があった同7月20日、A子はまたも髪の毛を地毛の黒と異なる色に染めていた。そこで担当教師は黒く染めるように指導したが、夏休みに入った同7月27日、A子は逆に極端に茶色く髪を染めていたのを教師らに発見される。しかしA子は「夏休みなのに、なんであかんの」などと言ったという。

そして翌28日、A子の母親から学校側へ不穏な連絡が入る。「昨日、娘が過呼吸で救急搬送された」というのだ。

だが、そんなことがあったにも関わらず、夏休みが終わって2学期が始まると、A子は今度はピアスをつけて登校してきたという。頭髪の色はまだら状態だったが、教師に対しては「黒いやん」「直してるやん」とからかうように言った。そしてその後、A子は頭髪の色に関する学校の指導に従わなくなってしまったという。

◆「先生、訴えるで」「えらい目に遭わしたる」

そんな状態が続く中、同9月8日、ついにA子と学校側の間で決定的なことが起こる。担当教師らに指導を受ける中、A子が薄ら笑いを浮かべながら、「先生、訴えるで」と言い、さらに教師たちに対し、こんな言葉を投げかけてきたというのだ。

「次の手を考えている。教育委員会に言ってもダメだったので」

「T(教師の名前)をえらい目に遭わしたる」

「おかあさんに『Y(教師の名前)は文化祭、一生懸命やってるからおとなしいしといたれ』って言うたけど、もうええ」

この日を最後に、A子は学校に登校してこなくなった。そして1年余りの月日が過ぎた2017年(昨年)10月、今回の訴訟を起こしたというわけだ。

以上は学校側の主張に基づいてまとめたものだ。従って、A子側の反論を聞くことなく、鵜呑みにするわけにはいかない。

ただ、これまでマスコミでは、A子側の主張が大々的に報じられる一方で、学校側の主張を伝える報道はあまりに少なかった。それゆえにあえて、ここでは学校側の主張を詳しく伝えた。

訴訟はまだ始まったばかりで、予断を許さない。私は今後もこの訴訟を取材していくので、適時、新しい情報をお伝えしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「生まれつき茶色い髪について、学校で何度も黒く染めるように指導されて精神的苦痛を受けた」

大阪府羽曳野市にある府立懐風館高校の女生徒がそう訴えて昨年10月、大阪府に損害賠償など約226万円の支払いを求めて起こした「髪染め強要」訴訟。ここまではマスコミがこぞって女生徒の応援団と化している印象だ。

報道を1つ1つ紹介していたらきりがないが、いかにマスコミが女生徒側に一方的に肩入れした報道を繰り広げてきたかは、以下のようにインターネット上で配信された記事の見出しを並べただけでもわかるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

教室の席なくされ、進学の夢は遠のき 髪黒染め指導訴訟(朝日新聞デジタル同11月10日)

(社説)黒髪指導 生徒の尊厳を損なう(朝日新聞デジタル同11月6日)

社説 学校の頭髪黒染め指導 理不尽な強要ではないか(毎日新聞ホームページ同11月19日)

地毛茶髪、黒染めで頭皮ボロボロ…アレルギー無視「生徒への暴力だ」(産経WEST同12月19日)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうした報道をうけ、脳科学者の茂木健一郎氏や教育評論家の「尾木ママ」こと尾木直樹氏ら著名人たちも次々に学校側を批判するコメントを発表。さらには、この騒動は海外メディアでも次々に報じられ、日本の学校では生徒の身だしなみについて、厳格なルールを定めているように伝えられた。

一方、こうした騒動の中、学校側は女生徒について、「髪の毛の色は明るかったが、地毛は黒色だと判断し、黒く染めるように指導していた」と主張しているのだが、そのことはほとんど報道されていない。そのため、学校側が悪いというイメージが世間に強烈に印象づけられている。

そこで私は、訴訟が行われている大阪地裁を訪ねて訴訟記録を閲覧し、現時点での女生徒側、学校側双方の主張を確認した。その結果、女生徒側の主張を鵜呑みにし、学校側が悪いと決めつけるのは危険だという思いを抱いた。ついては、ほとんど報道されてこなかった学校側の主張をここで紹介したい。

訴訟が行われている大阪地裁

◆懐風館高校は学校運営の方針として生活指導に重点

この訴訟の原告は女生徒で、被告は大阪府だ。府が提出した同12月11日付け準備書面をもとに学校側の主張を見ていこう。なお、便宜上、これから先は原告の女生徒をA子と呼ぶことにする。

懐風館高校は、羽曳野高校と西浦高校という2つの府立高校が統合されて2009年4月に開学した。設立当初、生徒たちの生活などに乱れがあり、問題行動をする生徒が多かったことから、学校運営の方針として、生徒の生活指導に重点を置き、とくに頭髪や服装、遅刻に対する指導に力を入れるようになったという。それにより、生徒たちの興味や関心を勉学やスポーツに向けさせようとしたわけだ。

では、生徒の頭髪に関する校則は具体的にどのように定められているのかというと――。

〈頭髪は清潔な印象を与えるように心がけること。ジェルなどの使用やツーブロックなどの特異な髪型、パーマ、染髪、脱色、エクステは禁止する。また、ドライヤーなどによる変色も禁止する。カチューシャ、ヘアバンドなども禁止する〉

このような校則がある懐風館高校では、夏休みや冬休み、春休みという長期の休み入る前には生徒の頭髪検査を行っている。その際、髪の色を染めているなどの校則違反をしている生徒がいれば、次回の登校日までに地毛の色に染めるように指導しているとのことだ。また、日常の学校生活においても、頭髪を染色するなどの校則違反をしている生徒がいれば、4日以内に改善するように指導しているという。

これを見る限り、懐風館高校の頭髪に関する校則は厳しく、かつ、学校側は生徒たちに対し、この校則を厳しく守らせている印象だ。

もっとも、A子の髪の色が本人の主張するように生まれつき「茶色」であるならば、校則に引っかかることはない。それにも関わらず、学校側がA子に対し、髪を黒く染めるように強要していたとすれば、重大な人権侵害というほかないだろう。

一方、逆に学校側が主張するようにA子の髪の地毛の色が本当は「黒」であるにも関わらず、A子が黒以外の色に染めていたならば、A子は校則違反をしていたばかりか、髪の色を偽って訴訟を起こしていたことになる。こちらが真実である場合、A子の主張はもはや全面的に信用性を失うと言っても過言ではないだろう。

◆地毛が茶色で、髪を黒く染めさせていない生徒が約40人存在

では、学校側はA子の髪の毛の色について、事実関係をどのように主張しているのか。おおよそ次の通りだ。

A子が懐風館高校に入学した2015年の3月23日、学校側は2015年度の新入生を対象とする説明会を開いている。そして教育内容、年間行事、部活動などについて説明を行ったほか、生徒指導主事の教師が校則について説明を行った。

その中では、(1)懐風館高校は、頭髪指導に力を入れていること、(2)頭髪規制に関する校則の内容、(3)頭髪を染髪などした場合は地毛の色に染色するように指導していること、(4)地毛の色に染色してもそれが色落ちしてきた時には再度、染色してもらうことがあること――などが説明されたという。

そして学校側の主張によると、この説明会では、学年主任の教師が新入生たちに対し、「学校生活を送るうえで、配慮が必要な者は保健室へ来て、申告するように」と伝えた。しかし、頭髪に関し、学校側に配慮を求めてきた新入生はいなかったという。

さらに学校側は念押しするようにこう主張する。

〈なお、入学後のオリエンテーションにおいて、頭髪の地毛が茶色であるなどと申し出てきた約40人の生徒がいるが、これらの生徒に対しては、当然のことながら、頭髪を黒色に染色するようにとの指導などは行っていない〉

この部分は換言すると、こういうことになる。懐風館高校では、頭髪が生まれつき茶色である生徒に対し、頭髪を黒色に染めるような指導はそもそも行っておらず、そのことを裏づける生徒が約40人存在する――。学校側がこの訴訟において、この約40人の生徒が実在することを何らかの形で証明できれば、大きなアドバンテージなりそうだ。

◆入学当初に染髪をしていると認められていた原告の女生徒

では、A子に対し、学校側が髪の色に関する指導を行ったのはいつ頃からのことなのか。

学校側の主張によると、最初は同3月30日、新入生の生徒証に貼付する写真の撮影を行った時だったという。この際、3人の教師が生徒たちの頭髪検査を行ったところ、A子の頭髪の色は著しく明るい状況だった。ただ、髪の毛の根元部分(1センチくらい)が黒く、そこから毛先に行くに従って光っているような明るい色になっており、過去に染髪をしていることが認められたという。

A子はこの時、「中学校で、高校入試のために髪を黒色に染めるように言われた」と答えたそうだ。これをうけ、教師たちは「A子の頭髪は、地毛が黒色なのに、異なる色に染色していたので、出身中学が高校入試で不利にならないように地毛の黒色に染めるように指導したのだ」と理解した。そこでA子に対し、校則や指導方針を説明し、4月2日の登校日までに黒く染めるように伝えたという。

ちなみにこの時、学校側はA子以外にも16人の生徒に対し、髪を地毛の色に染めるように伝えたとのことだ。そしてA子も他の16人の生徒も4月2日の登校日には、髪を黒く染めてきたというのだが――。

学校側の主張によると、これ以降、A子は何度も髪を黒以外の色に染め、学校側の指導を受けて地毛の色である黒に染め直すが、また黒以外の色に染める――ということを繰り返すようになったという。こうした学校側とA子の具体的なやりとりについても、前出の準備書面には詳細に綴られている。

それはあくまで学校側の主張だが、信ぴょう性をまったく感じられない内容ではない。後編では、学校側の主張をさらに詳しく紹介していこう。(つづく)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

報道を通じて誰でも知っているような事件であっても、その実相は案外知られてないことが少なくない。その最たるものが、あのロス疑惑だ。

80年代に日本全国の注目を集めたこの事件では、妻を保険金目的で殺害した疑いをかけられた三浦和義さんが裁判で無罪判決を勝ち取ったが、洪水のような犯人視報道の影響で今も三浦さんのことをクロだと思っている人は少なくない。

しかし実を言うと、三浦さんの裁判では、検察官が「三浦さん以外の真犯人を目撃した証人」を隠していたことが明るみに出ているのである。

◆報道の影響で今もクロだと思い込んでいる人が多いが……

のちに「ロス疑惑」と呼ばれる事件が起きたのは、1981年11月のことだった。輸入雑貨商だった三浦さんは妻の一美さんと共に仕事と旅行を兼ねて米国ロサンゼルスに滞在中、駐車場で2人組の男に銃撃され、金を奪われた。一美さんは頭を撃ち抜かれて意識不明の重体に陥り、三浦さんも足を撃たれて負傷。その後、一美さんは一年余りの入院生活を送ったが、回復しないままに亡くなった。

そんな悲劇に見舞われた三浦さんは当初、重体の妻にけなげに尽くす「美談の人」としてマスコミに取り上げられていたが、1984年になり、事態が一変する。週刊文春が同年1月から始めた「疑惑の銃弾」という連載で、三浦さんが一美さんの死により1億5000万円を超す保険金を受け取っていた事実を指摘し、銃撃事件は三浦さんが保険金目的で敢行した自作自演の妻殺害事件である疑いを報道。これに他のマスコミも一斉に追随し、三浦さんは妻を殺害した疑いを連日、大々的に報道されるようになったのだ。

三浦さんはその後、妻殺害の容疑で逮捕され、一貫して無実を訴えながら一審・東京地裁では無期懲役判決を受けた。しかし、二審・東京高裁で逆転無罪判決を受け、2003年に最高裁が検察の上告を退け、無罪が確定する。元々、めぼしい証拠は何もなく、第一審の有罪判決も三浦さんが「氏名不詳者」に妻を銃撃させたとする無理な筋書きだったから、無罪判決は当然の結果ともいえた。それでもなお、今も三浦さんのことをクロだと思い込んでいる人が多いのは、膨大な犯人視報道の影響に他ならない。

だが、先にも述べたように、実際には、検察官はこの事件で、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人を隠していたのである。

◆真犯人の目撃証人を調べていたのは公判担当検事だった……

日刊スポーツ2008年2月24日付

裁判当時、三浦さんを支援していた男性によると、その目撃証人は、事件現場の駐車場で働いていた男性Sさん。弁護側は控訴審段階に現地で雇った探偵の調査により、Sさんの存在を知ったという。

「Sさんは『日本の捜査当局の調べも受け、犯人が現場から車で逃げ去るところなどを目撃したことを話した』と明かしてくれたので、弁護側は当然、検察官にSさんの調書の開示を求めましたが、検察官はそのような調書の存在を頑なに認めませんでした。しかし、裁判官がSさんを公判に召喚することを示唆し、検察官はようやく調書を開示したのです」(男性)

こうして、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人の存在が公判廷で明るみに出たのだが、それと共に重大な事実が発覚したという。

「調書の存在を認めなかった公判担当の検察官自身がこのSさんの調書の作成者だったのです。裁判官はこれをきっかけに検察側に不信感を抱き、裁判の流れは一気に逆転無罪へと傾きました」(同)

このことを知っているか否かで、三浦さんやロス疑惑という事件に関する印象はずいぶん違うはずだ。私はかねてよりこの事実を知っているので、三浦さんのことは当然シロだと思っているし、ロス疑惑はマスコミや捜査機関によるデッチ上げの事件だと思っている。

◆三浦さんの死亡時にも卑怯な物言いをした山田弘司元検事

ロス疑惑の捜査、公判を担当した頃の山田弘司検事(1988年発行の「司法大観」より)

ところで、この証拠を隠していた検事については、許しがたいことが他にもある。というのも、三浦さんは2008年にサイパンを旅行中、日本で無罪確定した殺人の容疑で米国捜査当局に逮捕され、移送されたロス市警で非業の死を遂げたが、その時にこの検事はマスコミに対し、次のようなコメントを寄せていたのだ。

「日本での無罪判決に、釈然としない思いの人がいるのも事実。もう一度、実質的に審理されれば、有罪、無罪の結論はどうだろうと、理由が示されて、納得する人も、もう少し多くなるだろうと思っていた」(朝日新聞東京本社版08年10月12日朝刊)

「20年近く戦った相手だが、こういう事態となり、広い意味での『友人』だったという感じがした。ご冥福をお祈りしたい」(読売新聞西部本社版08年10月12日朝刊)

死んだ三浦さんが反論できないからこその卑怯な物言いである。

この検事の名は、山田弘司(こうじ)氏。三浦さんの公判を担当後は東京高検公安部長、函館地検検事正などを経て、最高検公判部長だった04年9月、58歳で辞職。その後しばらく杉並公証役場で公証人として働いており、このコメントを発したのもその頃だ。

私はこの6年後、山田氏のもとを訪ね、この三浦さんに対する卑怯な物言いや、真犯人に関する目撃証言を隠していたことに関して追及したが、山田氏は曖昧な言葉でごまかそうとするばかりで、自分の犯した過ちに誠実に向き合おうとする様子は見受けられなかった。

こういう人間が出世するのが検察という組織なのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

捜査機関が被告人に有利な証拠を隠す「証拠隠し」は、冤罪が起きる原因の1つとして批判されてきた。私が過去に取材した様々な冤罪事件を振り返っても、捜査機関による「証拠隠し」の疑いが浮き彫りになった事件はいくつもある。

中でも印象深いのは、10年余り前に東広島市の短期賃貸アパートで会社員の女性が探偵業者の男性に暴行され、死亡したとされる事件だ。私は取材の結果、この事件を冤罪だと確信するに至ったが、取材の過程では「別の真犯人」の存在を示す証拠を警察、検察が隠している疑いも浮上しているのだ。

◆短期賃貸アパートで見つかった遺体

東広島駅近くの短期賃貸アパートで被害女性(当時33)の遺体が見つかり、事件が発覚したのは2007年のゴールデンウィーク中のことだった。遺体はバスルームで発見されたが、服は着たままで、水をはった浴槽に頭から突っ込んでいた。顔面や頭部に鈍器で殴られた跡が多数あり、上唇が裂けるなどした無残な状態だったという。

被害女性の遺体が見つかった短期賃貸アパート

女性は事件発覚の少し前、現場の短期賃貸アパートを契約していたが、そのことは一緒に暮らす家族すら知らないことだった。ただ、事件後に女性の携帯電話がなくなっており、警察は当初から顔見知りによる殺人事件だと疑っていたようだ。そして事件発覚から約2週間後、1人の男性が殺人の容疑で検挙される。広島市でコンビニを経営しつつ、副業で探偵業を営んでいた飯田眞史さんという男性(同51)だ。

なぜ、飯田さんは疑われたのか。事情はおおよそ次の通りだ。

被害女性は事件前、妻子ある男性と不倫関係にあったのだが、そのことが男性の妻にばれ、トラブルになっていた。そして事件発覚の10日余り前、電話帳で探偵業を営む飯田さんの存在を知り、相談にのってもらっていたという。

警察が捜査を進める中、被害女性の携帯電話の発着信履歴や東広島市内のファミレスの防犯カメラ映像などから飯田さんが事件当日も被害女性と会っていたことが判明。さらに現場アパートの室内から飯田さんのDNAも検出され、警察は飯田さんを容疑者と特定したのだ。

飯田さんは逮捕後、事件当日に被害女性と会い、現場アパートに立ち入ったことは認めつつ、殺人の容疑は一貫して否認した。飯田さんによると、被害女性が家族にも告げずに短期賃貸アパートを契約したのも飯田さんの助言だったという。

「被害女性は、不倫相手の妻から慰謝料のほか、印鑑登録証明書の提出を求められており、印鑑登録証明書に記載された住民票の住所から不倫相手の妻に自宅を知られるのを嫌がっていました。そこで短期賃貸アパートを契約し、住民票の住所を一時的に移せば、印鑑登録証明書に記載される住所は短期賃貸アパートのものになると助言したところ、被害女性はその通りにしたのです。そして私は事件当日もアパートの室内で、被害女性に示談書の書き方を教えてあげていたのです」(飯田さんの主張の要旨)

しかし、飯田さんはこのような言い分を警察、検察に信じてもらえずに起訴され、裁判でも広島地裁の第一審では懲役20年の有罪判決を受ける。広島高裁の控訴審では、犯行時の殺意が否定され、傷害致死罪が適用されて懲役10年に減刑されたが、上告審でも無実の訴えを退けられ、懲役10年が確定。現在も山口刑務所で服役生活を強いられている。

飯田さんが服役している山口刑務所

◆被告人には一見怪しい事実があるにはあったが・・・

私がこの事件を取材したきっかけは、獄中の飯田さんから冤罪を訴える手紙をもらったことだった。飯田さんは当時、広島高裁に控訴中だったが、調べたところ、飯田さんには怪しいところが色々あるにはあった。だが、よく検討すると、色々ある一見怪しい事実は、飯田さんが犯人であることを何ら裏づけていないのだ。

たとえば、飯田さんは事件の数日後、埼玉で暮らす不倫相手の女性に現金書留で100万円を送っており、このお金について「事件当日に被害女性から預かったものだが、(不倫相手の女性には)車の購入資金として送った。被害女性には、あとで自分の預金から返せばいいと思った」と説明していた。これなどはかなり怪しさを感じさせる事実だが、よくよく調べてみると、飯田さんは金を送った不倫相手の女性に口止めなどはしておらず、金の送り方も現金書留を使っているなど非常に無防備で、犯人らしからぬ点が散見されるのだ。

また、現場アパートの室内から飯田さんのDNAが検出されたという話については、鑑定資料が血痕なのか、ツバなど血痕以外のものなのかで争いがあるのだが、いずれにしてもきわめて微量のDNAがテレビのスイッチに付着していただけのことだった。飯田さんは事件当日、被害女性に示談書の書き方を教えるためにアパートに立ち入ったことを認めており、このDNAはその時に遺留したと考えても何らおかしくない。

そもそも、飯田さんは被害女性と事件の10日余り前に知り合ったばかりで、被害女性の顔面や頭部を執拗に攻撃し、殺害しなければならない動機があったとも思いがたかった。そんなこんなで私はこの事件について、次第に冤罪の心証を抱くに至ったのだ。

そして取材を進める中、期せずして浮上してきたのが、捜査機関による重大な「証拠隠し」の疑いだ。それはすなわち、飯田さんとは別の真犯人が存在することを示す事実がありながら、警察、検察が握りつぶしたのではないかという疑惑である。

逮捕によって閉店に追い込まれた飯田さんのコンビニ

◆警察が「複数犯」を前提に「黒い車」を探していた謎

「警察はなぜだか、飯田さんの共犯者を探していました」「そういえば刑事が話を聞きにきた時、『あれは一人ではできない犯行なのだ』と言っていました」

私の取材に対し、飯田さんの周囲の人たちは異口同音にそう言った。つまり、警察は飯田さんを容疑者と特定しながら、この事件を複数犯の犯行だと思っていたということだ。

一体なぜなのか。謎を解く鍵は次のような証言だ。

「刑事から『飯田に黒い車を貸さなかったか?』と聞かれたので、貸してないと答えたら、その刑事、今度は『あなた以外で誰か飯田に黒い車を貸せるような人はいないか?』と聞いてきたのです。とにかく刑事は『黒い車』にこだわっていましたね」

これは飯田さんの知人男性から得られた証言だが、同様の証言は他でも複数得られた。これはつまり、警察が何らかの証拠に基づき、この事件は複数犯によるもので、犯行には黒い車が使われたと考えていたということだ。ちなみに飯田さんが乗っていた車の色は「白のスカイライン」である。

私は、おそらく事件現場周辺の「防犯カメラ」の映像などを根拠に、警察は犯人が複数存在し、犯行に黒い車を使っていたと断定していたのだろうとにらんでいる。そこで実際、事件現場周辺でそのような防犯カメラの映像を警察に任意提出した会社などがなかったか探してみたが、残念ながら現時点で見つけられていない。

私は今後もこの事件の取材は続けるつもりなので、もしも気になる情報をお持ちの方がいれば、下記の私のメールアドレスまでご一報頂けたら幸いだ。

kataken@able.ocn.ne.jp
※メール送信の際、@は半角にしてください。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

1月7日発売 2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

前回は2018年の注目冤罪裁判として、「今市事件」と「千葉18歳少女生き埋め事件」を紹介した。この2事件はいずれも第一審で無実の被告人に対し、有罪判決が出て、被告人たちが現在、控訴審で無罪判決を求めて闘っている。

一方、私が取材している冤罪事件の中には、まだ有罪判決は出ていないものの、無実の被告人が無罪を勝ちとるために裁判の第一審を闘っている事件もある。その被告人は名古屋市の喜邑(きむら)拓也さん、37歳。小学校教師だった喜邑さんは2016年11月、勤務していた小学校の1年生の女児に対する強制わいせつの容疑で逮捕され、2017年1月に起訴された。しかし一貫して無実を訴え、現在は名古屋地裁で無罪を求めて裁判中だ。

そんな喜邑さんの裁判は公判があるたび、無実を信じる支援者たちが多数傍聴に駆けつける異例の事態になっており、地元ではすでに冤罪を疑う声が広まっている。全国的にみれば、まだ事件の存在自体を知らない人のほうが多いだろうが、今年中に全国的注目を集める冤罪事件となる可能性は十分なので、冤罪に関心のある人は今から要注目だ。

◆「現場」には約20人の生徒がいながら目撃者はなし

喜邑さんは子供の頃から教師になることを目指していた人で、音楽大学を卒業後は地元の愛知県で一貫して小学校教師として働いてきた。プライベートではエレクトーン奏者としても活躍し、「名古屋のキムタク」と呼ばれた。そんな喜邑さんは、熱心な指導により生徒たちから人気を集め、保護者からの信頼も厚い教師だった。

この喜邑さんが2016年11月、強制わいせつの容疑で逮捕された。容疑内容は、前年度まで勤務していた小学校の教室で2016年1月、1年生の女児の服の中に手を入れ、胸を触った疑い。この時、保護者たちが受けた衝撃は大変大きいものだったようだ。

しかし、喜邑さんは容疑を一貫して否認した。そしてこのように無実を訴えたのだった。

「掃除の時間、教室の事務机で漢字ノートの採点をしていたら、女児がちりとりにゴミをたくさん取っているのを見せてきました。そこで、頭をなでて褒めてやろうとしたところ、手が女児の首からあごのあたりに触れてしまったのです」

この喜邑さんの主張を聞いただけでは、信じていいのか否かわからない人が大半だろう。しかし、「事件」があったときの現場の状況を踏まえれば、喜邑さんが容疑内容のような強制わいせつ行為をしたとは考え難いことはすぐわかる。何しろ、掃除の時間だった現場の教室には、「事件」があったとされるとき、約20人の生徒がいたのだ。そんな場所で、教師が1人の女児の服の中に手を入れ、胸を触る強制わいせつ行為に及ぶということは通常ありえないだろう。

実際、裁判が始まると、「事件」があったとされる現場には、約20人の生徒がいたにも関わらず、検察側は目撃証言を一切示せないなど証拠の乏しさが次第に明らかになった。法廷外でも昨年2月に結成された「喜邑拓也さんを支援する会」が冤罪を訴える街頭宣伝などの支援活動を熱心に繰り広げ、次第に地元では冤罪を疑う声が広まっていったのだ。

昨年9月の公判の際、支援者たちと名古屋地裁に入る喜邑さん(右から4人目)

◆大きなポイントは2月にある認知心理学者の証人尋問

裁判では結局、「被害者」の女児の証言が唯一の直接的証拠となる見通しだ。しかし、弁護人の塚田聡子弁護士によると、唯一の直接的証拠である「被害者」の女児の証言も変遷や矛盾があるという。

「女児はまだ小1で、認知や記憶の能力が高くありませんでした。母親に『こんなことがあったのでは』と誘導的に聞かれ、事実と違う記憶が形成された可能性も十分あります」

弁護側は女児の証言の信頼性について、認知心理学者に鑑定を依頼しているが、その鑑定人も証人として採用され、2月に証人尋問が行われる予定だ。この鑑定が有罪無罪を分ける大きなポイントになりそうだ。

喜邑さんは私の取材に対し、「逮捕勾留されていた時に自白せずに堪えられたのも、いま前向きに進めているのも支援のおかげです」と感謝の思いを述べ、「いまはとにかく無罪をとり、学校に戻りたいという思いです」と語った。支援者の中には、保護者たちも名を連ねているが、「本当にまじめな先生で、逮捕された時は何かの間違いと思いましたが、裁判を傍聴し、改めて無実を確信しました」「早く冤罪とわかって欲しいです」と誰もが喜邑さんの教師復帰を願っていた。

この事件の動向については、今後も折を見て、報告したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

昨年暮れ、当欄で冤罪の疑いを伝えていた「滋賀人工呼吸器外し事件」の西山美香さんに対し、大阪高裁が再審開始の決定を出して大きな話題になったが、今年も袴田事件、大崎事件、日野町事件、恵庭OL殺害事件など冤罪が疑われる数々の再審請求事件で再審開始可否の決定が出る見通しだ。

一方、私が取材している冤罪事件の中には、被告人が第一審で冤罪判決を受けながら、今も無実を訴えて裁判中の事件もいくつかある。その中から、2018年の注目冤罪裁判2件を紹介する。

◆今市事件は2月にDNAの重要審理

まず、当欄では2016年から冤罪事件として紹介してきた「今市事件」。2005年に栃木県今市市(現・日光市)で小1の女の子・吉田有希ちゃんが殺害されたこの事件では、同県鹿沼市の勝又拓哉被告が2014年に逮捕され、2016年4月に宇都宮地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。しかし、有罪証拠は事実上、捜査段階の自白しかなく、当時から冤罪を疑う声は決して少なくなかった。

そんな今市事件では、昨年10月から東京高裁で勝又被告の控訴審の公判審理が行われており、「殺害現場や殺害方法に関する勝又被告の自白内容は現場や被害者の遺体の状況に整合するか否か」「被害者の遺体に付着していた獣毛は、勝又被告の飼い猫とミトコンドリアDNA型が一致するか否か」という2つの争点において、すでに審理が終わったが、いずれの争点においても弁護側が優勢だったという見方がもっぱらだ。

とりわけ12月21日の公判では、藤井敏明裁判長が検察官に対し、「殺害現場について、訴因変更をしなくていいのですか?」と確認をしていたが、一審で有罪判決が出ている事件の控訴審で裁判長が検察官にこのような確認をするのは極めて異例だ。藤井裁判長ら控訴審の裁判官たちが一審の有罪判決の筋書きに疑問を抱いていることは間違いない。

勝又被告の控訴審では、2月にも2度の公判審理が予定されているが、その中では、被害者の遺体に付着していた粘着テープ片から検出された「第三者のDNA」について、真犯人のものである可能性があるか否かなどが法医学者らの証言によって争われる。裁判の結果を大きく左右する審理になるはずだ。

◆2人の被告人に無罪が出てもおかしくない「千葉18歳少女生き埋め事件」

もう1つの注目冤罪裁判は、当欄で昨年11月に紹介した「千葉18歳少女生き埋め事件」だ。

2つの注目冤罪裁判が行われている東京高裁

この事件は2015年に発生した当時、「生き埋め」という残酷な手口がセンセーショナルに報道されて社会を震撼させた。その報道のイメージが強いためか、一審・千葉地裁の裁判員裁判で3人の被告人のうち2人が殺人については無実を主張していたにも関わらず、3人全員に無期懲役判決が宣告されたことに疑問を呈する声はまったく聞かれなかった。

だが、実際には、生き埋め行為は、軽度の知的障害がある実行犯の中野翔太受刑者(すでに無期懲役判決が確定)が他の2人の意向とは関係なく、焦って自分1人で勝手にやったことだというのは、私が当欄の昨年11月10日付けの記事で報告した通りだ。無実を訴えていた井出裕輝被告、事件当時未成年だったA子の2人は、そもそも中野受刑者が被害者を生き埋めにした時には、現場を離れていたのだ。

井出被告とA子はいずれも無期懲役判決を不服とし、東京高裁に控訴中だが、A子の控訴審の公判審理はすでに始まっており、1月18日には第2回の公判が開かれる。井出裕輝被告の控訴審も1月23日に初公判が開かれる予定だ。

2人に対する有罪認定については、様々な疑問がある上、実行犯である中野受刑者自身が「1人で見張りをしている時、掘った穴に入れていた被害者が泣き出したので、焦って砂をかけてしまったんです」と証言しており、生き埋めは自分1人で勝手にやったことだと打ち明けているに等しい状態だ。

井出被告、A子共に控訴審で逆転無罪判決を受けても何らおかしくないだけに、冤罪に関心がある人には要注目の事件だと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

これは12月20日頃ネット上での東京新聞Webの冒頭画面だ。

 

この切り取りの中には、平然としているが、本来かみあわないはずの突合が無理やり詰め込まれている。東京新聞(中日新聞)は明確に原発に疑義を呈している。福島第一原発事故の後に東京新聞は契約部数を増やした。契約増の理由は、事実を伝えない他の全国紙よりも信憑性が高いと評価されたからだ。

ところが、このネット上の記事にはあろうことか「東京電力」の広告が画面中心に登場する。東京電力の広告は東京新聞が選択し、広告掲載契約を結んだものではないだろう。多数の閲覧者があるHPやブログでスポットCMのように、次々とかわるがわる入れ替わる方式の広告表示形態が、ある瞬間このようなマッチングとなっただけのことなのだろう。それにしても媒体の性格やブログの主張している内容と、まったくそぐわない広告が偶然にしても並び立つこの表象は、情報錯乱時代の意味論の視点からは示唆的な光景である。

反自民を標榜するある個人のブログを見ていたら、総選挙期間中しきりに安倍の顔が映し出される自民党の広告が表示されていた。紙媒体であれば、あのような現象はおこらない。反自民を主張するビラや冊子に自民党が広告を出すことはないし、発行元は仮に広告掲載の依頼があろうと断るだろう。

ネット上のスポットCMは媒体性格など関係なしに、おそらくは広告主からポータルサイトに支払われた広告代金にそった頻度で登場するのだろう。画面上での本来の主張との不整合は、いまのところ別段問題にされてはいないようだ。ただし、この画面を見て、「なんかへんだなぁ」とあやしさを感じ取る感性は保持しておきたいと思う。

◆犯行時19歳の死刑執行と光彦君の友人

そしてタイトルの「犯行時19歳の死刑執行 92年の市川一家4人殺害」記事に、「ああ」と声をあげたのは私だけではなかった。辺見庸は自身のブログで12月19日「絞首刑」直後にタイトルも「絞首刑」とし、絞り出すように書いている。

◎さようなら、光彦君・・・

友人が殺されるというのは、つらいものだ。

今朝、光彦君らが死刑に処された。
予感があったのであまりおどろかなかったが、やはりくるしい。重い。
気圧や重力や光りの屈折のぐあいが、このところ、どうもおかしい。

きみは〈やめてくれ!〉〈たすけてくれ!〉と泣き叫んだか。
あばれくるったか。〈お母さん〉と叫んで大声で
泣いたか。刑務官をどれほど手こずらせたか。
それとも、お迎えがきて、あっけなく失神したか。まさか。

きみは何回、回転したか。ロープはどんなふうに軋んだか。
宙でタップダンスを踊るように、足をけいれんさせたか。
鼻血をまき散らしたか。
舌骨がへし折られたときどんな音がしたか。
脱糞したか。失禁したか。目玉がとびでたか。
首は胴から断裂しなかったか。

けっきょく、再審請求も犯行時未成年も考慮されはしなかった。
考慮されたのは、「適正に殺す」ために、
きみのせいかくな体重とロープの長さくらいか。
さて、なぜ、けふという日がえらばれたか、知っているか。
平日。国会閉会中。皇室重大行事なし、だからだ。
国家は、ごく静かな朝に、ひとを「公式に」くびり殺すのだ。

やんごとないかたがたのご婚約、ご成婚、ご懐妊発表の日には
絞首刑はおこなわれない。
おことば発表の日にも、ホウギョの日にも、絞首刑はおこなわれない。
聖人天皇もマドンナ皇后も、死刑はおやりにならないほうがよい、
などというお気持ちのにじむおことばをお話しあそばされたことはいちどもない。
なぜか。

連綿たる処刑の歴史のうえに、ドジンのクニの皇室はあるからだ。
ひとと諸事実(そして愛の)の多面性と多層性について、
光彦君、ずいぶんとおしえられたよ。ありがとう!
ひとと諸事実(そして愛)の多面性と多層性については、
法律もジャーナリズムも、ほとんどの文学も、
まったくおいつかないことをとくと学んだよ。

災厄でしかない国家のなしうるゆいいつの善政とは、死刑の廃止であった。
死刑をつづける国家と民衆は、さいだいの災厄ー戦争をかならずまねくだろう。
にしても愚劣なマスコミ!

今夜はNirvanaを聴くつもりだ。
さようなら、光彦君・・・。

◆辺見庸と東京新聞

辺見と2017年12月19日、日本国から合法的に「殺された」関光彦さんのあいだに、10年を超える親交があったことは以前から知っていた。『いま、抗暴のときに』をはじめ辺見のエッセーには、匿名ながら幾度も関さんが「私の作品をもっとも深く理解する読者」として記されている。でも、死刑にはもとより反対の立場である私は、関さんの挿話を「死刑反対」の意を強くする補完材料として読んだのではない。逆だ。「殺す」とはいったいどういうことなのか、「死刑」判決を受け拘置所でいつ来るともしれない「その日」を待つひとの心のありようを自分は自分のこととして、これ以上ムリだと言い切れるほど思いを巡らしたのか。そして被害者(関さんであれば関さんがあやめた4名の)へどう立ち向かうのか。それらすべてを整理できなくとも、覚悟をもって「撤回のきかない最終回答」として「死刑反対」といいきれるのか、を問われ、鍛えられた命題だった。

一方、東京新聞の記事本文は、
〈法務省は十九日、一九九二年に千葉県で一家四人を殺害し、強盗殺人罪などに問われた関光彦(てるひこ)死刑囚(44)=東京拘置所=と、九四年に群馬県で三人を殺害し、殺人などの罪に問われた松井喜代司(きよし)死刑囚(69)=同=の刑を同日午前に執行したと発表した。上川陽子法相が命令した。関死刑囚は犯行当時十九歳の少年で、関係者によると元少年の死刑執行は、九七年の永山則夫元死刑囚=当時(48)=以来。二人とも再審請求中だった。(中略)
 上川氏は十九日に記者会見し「いずれも極めて残忍で、被害者や遺族にとって無念この上ない事件だ。裁判所で十分な審理を経て死刑が確定した。慎重な検討を加え、執行を命令した」と述べた。(中略)
 日弁連は昨年十月七日、福井市で人権擁護大会を開き、二〇年までの死刑制度廃止と、終身刑の導入を国に求める宣言を採択。組織として初めて廃止目標を打ち出した。
<お断り> 千葉県市川市の一家四人殺害事件で強盗殺人などの罪に問われ、十九日に死刑が執行された関光彦死刑囚について、本紙はこれまで少年法の理念を尊重し死刑が確定した際も匿名で報じてきました。しかし、刑の執行により更生の可能性がなくなったことに加え、国家が人の命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名は明らかにするべきだと考え、実名に切り替えます。〉

東京新聞は「国家が人の命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名は明らかにするべきだと考え、実名に切り替えます。」と結んでいる。この記事末尾を一片の「良心」ととらえるか「いいわけ」と判断するかは見解が分かれよう。本質はそんなことではない。

「死刑」は重大な問題だ。私は確信的に「死刑」」に反対する。その原点の延長線上に「原発反対」も位置し、「原発反対」を旗印にする「東京新聞」への「一定の評価」も付随する。天皇制への異議も同様だ。しかし東京新聞の名前の横に「東京電力」の広告が表示され、関さんへの「死刑」記事が8割がた記者クラブ発表記事として文字化され、最後に<お断り>で結ばれる。この不整合が不整合ではなく、あたかも体裁が整っているかのように完結する(私にとって意味はまったく完結していないけれど)流れが2017年を物語っているように思える。

不整合な一年だった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点

『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』

私はこれまで様々な冤罪事件を取材してきたが、今年は取材してきた冤罪事件にかつてないほど多くの朗報がもたらされた1年だった。逆転無罪判決を受けた事件は2件、再審開始の決定を受けた事件が1件、さらに日本弁護士連合会の再審支援が決まった事件が2件あった。この空前の当たり年をここで総括したい。

◆当欄で冤罪の疑いを報告していた2事件で逆転無罪

まず、3月10日には、最高裁第2小法廷(鬼丸かおる裁判長)で、銀行店内で他の客の置き忘れた現金を盗んだ濡れ衣を着せられていた広島の放送局「中国放送」の元アナウンサー・煙石博さんに逆転無罪判決がもたらされた。

この事件については、私は当欄で裁判が1審段階にあった2013年から冤罪の疑いを報告してきたが、この約4年間、煙石さん本人はもちろん、家族や大勢の支援者が署名集めや街頭宣伝など、無罪を勝ちとるためにたゆまぬ努力をしていた。それが最高裁での逆転無罪という数千件に1件あるかないのか極めて異例の結果をもたらすことにつながったのだと私は確信している。

最高裁で逆転無罪判決を受け、喜び合う煙石さん、弁護人の久保豊年弁護士、支援団体の佐伯穣会長(左から)

次に、3月27日には、当欄でそれ以前に2度、「知られざる冤罪」として紹介していた米子ラブホテル支配人殺害事件で、2審・広島高裁松江支部(栂村明剛裁判長)が被告人の石田美実さんに対し、1審・鳥取地裁の懲役18年の判決を破棄したうえで逆転無罪判決を宣告した。

この事件については、証拠は乏しく、1審で明らかになった事件当日の現場ラブホテルの状況などを見ても、石田さんが無実なのは明らかだった。しかし、事件翌日に23万円のお金を銀行口座に入金しているなど、石田さんには一見怪しく疑わせる事実があり、1審では結局、有罪が出てしまったという事件だった(詳細は今年2月17日の当欄を参照頂きたい)。

2審・広島高裁松江支部も初公判で即日結審し、逆転無罪は難しいのではないかと思っていたので、逆転無罪判決が出た時、私は正直、少し驚いた。しかし判決では、「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという言い方で、一審判決の有罪認定をことごとく否定しており、推定無罪の原則に従った妥当な判断だった。

◆日弁連の再審支援が決まった事件も2件

そして暮れも押し迫った12月20日、大阪から飛び込んできたのが元看護助手・西山美香さんの再審開始決定のニュースだった。西山さんは、2003年に寝たきりの男性入院患者の人工呼吸器のチューブを外し、殺害したとされ、懲役12年の判決を受けて服役した。この事件についても当欄では2012年に紹介しているが、有罪証拠が事実上自白のみで、その自白内容にも不自然な点が多いという明白な冤罪事件だった。しかし、第1次再審請求は実らず、第2次再審請求も大津地裁に退けられていた。

今回、再審開始決定が出た大阪高裁(後藤眞理子裁判長)の第2次再審請求の即時抗告審では、弁護側から患者の本当の死因が「致死性不整脈」であることを示す複数の医師の意見書が提出されており、再審開始への期待が高まっていた。その後、大阪高検が特別抗告し、最高裁で改めて再審可否が判断されることになったのは腹立たしいが、私はこの事件については、最終的に必ず西山さんの雪冤が果たされると確信している。

その他、当欄で紹介していた冤罪事件では、鶴見事件、恵庭OL殺害事件という2つの事件について、日本弁護士連合会が再審請求の支援を決定するという朗報が飛び込んできた。恵庭OL殺害事件については、現在、第2次再審請求審で弁護側の攻勢が続いていると伝えられており、来年は再審開始決定のニュースが飛び込んでくることもおおいに期待される。

以上、今年はこれまで取材してきた冤罪事件に次々と朗報がもたらされ、個人的に大変喜ばしい一年となったが、実は来年以降も朗報が期待できる冤罪事件はいくつもある。それについては、また年明けに書きたいと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

1998年に和歌山市園部で4人が死亡した毒物カレー事件で、殺人罪などに問われた林眞須美死刑囚(56)は今日まで一貫して無実を主張してきた。今年3月、和歌山地裁に再審の請求を棄却されたが、すぐさま即時抗告し、現在も大阪高裁で再審可否の審理が続けられている。

そんな林死刑囚の再審請求をめぐり、密かに興味深いことが起きていた。和歌山地裁の再審請求審に弁護団が「無罪の新証拠」として提出した鑑定書や意見書の作成者である京都大学の河合潤教授(分析化学)が連載中の法律雑誌に、和歌山地裁の再審請求棄却決定に反論する論文を寄稿したのだ。

◆裁判官たちの自信の無さが窺えた再審請求棄却決定

林死刑囚の裁判では、一審段階から「林死刑囚の周辺で見つかった亜ヒ酸」と「犯行に使われた亜ヒ酸」が同一と認められるか否かが常に大きな争点だった。結果、東京理科大学の中井泉教授(分析化学)が兵庫県の大型放射光施設スプリング8で行なった鑑定などをもとに、これらの亜ヒ酸が同一だと認定され、無実を訴える林死刑囚は死刑が確定した。

ところが、林死刑囚が再審請求後、弁護団の依頼を受けた河合教授が中井教授の鑑定データを解析したところ、中井鑑定に関する様々な疑問が浮上。河合教授は解析結果に基づき、「林死刑囚の周辺で見つかった亜ヒ酸」と「犯行に使われた亜ヒ酸」が異なるとする鑑定書や意見書をまとめ、弁護団がこれを和歌山地裁の再審請求審に提出した。そしてこの一連の動きの中、林死刑囚の冤罪を疑う声が世間で広まっていったのだ。

結果、先に述べたように和歌山地裁は今年3月、林死刑囚の再審請求を棄却したのだが、実はその決定書をよく読むと、裁判官たちの自信の無さが窺える。死刑判決の最大の拠り所となった中井教授らの鑑定について、〈証明力が減退したこと自体は否定しがたい状況にある〉と述べるなど、河合教授の鑑定書や意見書で指摘された様々な問題を否定し切れなかったことがわかる記述が散見されるのだ。

河合潤=京大教授(分析化学)の論文

河合教授の論文が掲載された「季刊刑事弁護」92号(現代人文社2017年10月20日)

◆「季刊刑事弁護」の連載で発表

そんな和歌山地裁の再審請求棄却決定について、鑑定人である河合教授が自ら反論した論文が掲載されたのは、現在発売中の「季刊刑事弁護」92号(現代人文社)だ。河合教授は、2015年10月に発売された同誌84号から和歌山カレー事件の鑑定を例に「鑑定不正の見抜き方」という連載を手掛けてきたのだが、92号に掲載された最終回(第7回)で、再審請求棄却決定の内容に詳細に反論したのだ。

たとえば、河合教授は和歌山地裁に提出された鑑定書で、犯人がカレーの鍋に亜ヒ酸を入れる際に使ったとみられる紙コップに付着していた亜ヒ酸が、林死刑囚の周辺で見つかった亜ヒ酸より濃度が高いという矛盾を指摘していた。和歌山地裁の再審請求棄却決定はこの矛盾を否定するため、林死刑囚が周辺にあった亜ヒ酸をいったん、押収されている容器「以外の容器」で保管した後に紙コップに入れ、犯行に及んだ可能性があると指摘した。

しかし、河合教授が同誌に寄稿した論文によると、仮に林死刑囚が周辺にあった亜ヒ酸をいったん「以外の容器」なるものに保管したとしても、それで亜ヒ酸の濃度が高くなることはないという。

また、和歌山地裁の再審請求棄却決定は、河合教授が中井鑑定に関して指摘した問題点について、中井教授が1回しか計測を行っていないことを根拠に〈何ら不自然ではない〉と述べている。河合教授はこれに対し、論文で〈人間ドッグで異常値を示したとき「1回しか計測されていない」から大丈夫といって翌年の人間ドッグまで再検査せずに済ますであろうか〉と喝破しているが、このたとえは分析化学の知識がない人間でもわかりやすいはずだ。

再審請求の審理は非公開で行われるため、公正な審理が行われたのか否かを検証するための情報は通常の裁判に比べて乏しい。鑑定人が自ら裁判所の決定に反論した論文を発表するというのは、この現状に風穴をあける試みだと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

最新刊『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

私はこれまで数多くの殺人犯を取材してきたが、取材させてもらった人物がのちに殺人犯になったという経験も1度ある。木原武士(事件当時42)という人物で、2003年に起きたフリーライター殺人事件の主犯格である。木原とは20年近く前に一度会っただけだが、その時のことは今も忘れがたい。

被害者の染谷悟さん(筆名=柏原蔵書)の著書『歌舞伎町アンダーグラウンド』(ベストセラーズ2003年)

◆インタビュー取材のために訪ねたが……

この事件の被害者・染谷悟さん(同38)は、柏原蔵書(くらがき)という筆名で「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著書があるフリーのライターだった。2003年9月、その刺殺体が東京湾で見つかり、ほどなく都内で鍵会社を経営する木原が2人の共犯者と共に検挙された。主犯格の木原は裁判で2006年に懲役16年の判決が確定したが、染谷さんを殺害した動機は、染谷さんが自分を誹謗する本を出版する計画だと聞いたことなどだとされる。

私がそんな木原に取材させてもらったのは、事件の数年前のことで、たしか1998~1999年頃だった。当時はピッキング被害が続発していた時期で、木原は「防犯アドバイザー」のような形でマスコミに頻繁に登場し、ちょっとした有名人だった。当時20代後半だった私は月刊誌の仕事で、そんな木原の元に成功体験を語ってもらうインタビュー取材に訪ねたのだ。

だが、実を言うと私はこの時、木原のもとに取材に訪ねながら、結果的に何も取材せずに記事を書いてしまったのである。というのも、私はこの日、下調べをほとんどしておらず、木原に対して要領を得ない質問を繰り返した。そんな私に苛立っていた様子の木原はこう言って、過去に取材を受けた雑誌記事のコピーを差し出してきたのだ。

「これを見て、書いてよ。よく書けている記事だから」

本当にその記事をほぼ丸写しにする形で原稿を書いた私もいい加減なものだが、木原は逆らわないほうが無難そうに感じさせる人物だった。

◆面倒見や金離れは良さそうだが……

そんな感じで木原への「取材」は10分程度で終わり、1時間かそこら四方山話をしたのだが、木原からは若い頃に派手に儲けた話や派手に遊んだ話を色々聞かされた。そして適当に話を合わせていたら、木原は「君は27歳か。いいなあ」と、こんなことを言い出したのだった。

「君は今、何をやっても楽しいだろう。俺も27くらいの時はそうだった。30代半ばを過ぎると、いくらお金があっても感動できなくなるんだよ。今、俺が君と替われるんだったら替わりたいもん」

当時は金回りが良かったとされる木原が人生に少々退屈している様子が窺えた。

被害者の染谷さんは元々、木原と良好な関係で、木原から金を随分引っ張りながら裏切り行為を続けて殺害されたように伝えられている。振り返れば、たしかに木原は「面倒見や金離れが良さそう」「怒らせると怖そう」という両方の雰囲気を感じさせる人物で、事件後の報道は得心できるものが多かった。

私は今もたまにこの時の木原の様子を思い出すが、そのたびに下手なことはしないでよかったとつくづく思う。と同時に、46歳になった今の私は、私の若さを羨んだ木原の当時の気持ちがわかるようになった自分に気づくのだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

« 次の記事を読む前の記事を読む »