外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。2人目は、三鷹事件の竹内景助氏(享年45)。

◆脳腫瘍で獄死

国鉄三鷹駅構内で無人電車が暴走して商店街に突っ込み、6人が死亡、20人が負傷する惨事になったのは、1949年7月15日の夜だった。捜査当局は当初から、人員整理に反対する労働組合などの犯行と断定。そんな思い込みに満ちた捜査の結果、9人の共産党員と事件前日に解雇を通達された非共産党員の竹内景助氏が実行犯として起訴されるに至った。そして裁判では、共産党員9人は無罪とされた一方、当初容疑を認めた竹内氏が単独犯だったと認定され、1955年に最高裁で死刑判決が確定する――。

竹内氏は獄中で自ら膨大な「再審理由補足書」も執筆した。支援する会のHPより購入できる

これが下山事件、松川事件と共に国鉄三大ミステリー事件と呼ばれる三鷹事件のあらましだ。竹内氏はその後、再審請求をするが、雪冤を果たせないままに1967年、脳腫瘍のために45歳の若さで獄死したのだった。

私が編集を手掛けた書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)でも、「三鷹事件再審を支援する会」世話人の大石進氏がこの事件について、内実に鋭く迫った渾身の原稿を寄稿してくれている。その文中で紹介された竹内氏の遺筆では、虚偽の自白に陥るまでの取り調べの過程が実に生々しく綴られている。

◆恫喝と脅迫を駆使した取り調べ

〈岡光警部はいきなり「やい、この野郎、あんなでかい事故を起しやがって、ひどい奴だ、もう駄目だぞ、観念して謝れ、さあ神妙に白状して詫びろ」と頭から怒鳴りつけられました〉
〈八月十日夜頃から平山検事の調べ句調が、俄然脅迫めいて来まして(・・・略・・・)「検察庁で検挙し起訴した事件で無罪となったなんてことは先づ無いんだ(・・・略・・・)証拠は毎日集っているんだ(・・・略・・・)裁判は自白しなくても証拠で認定されるのだ。君達がやったと云ふ証拠がいくらでもあるよ。君を見たと云ふ証人も、既に裁判官に証言しているし。」と云ひ(・・・略・・・)元気に反対する気も薄らいで来ました〉

このような恫喝と脅迫を駆使した取り調べに対し、次第に気力を奪われていった竹内氏。そんな状態の中、次のような悪辣な攻撃もうけたという。

〈「事故後丁度一と月目だね、今頃丁度此の人達が、こんな死に方をしたんだ、此の写真を見給へ、死んだ人をどう思ふかね。」と云って、惨鼻な死体写真を二十枚以上も、私の目の前に突き出しました〉

こんなおぞましい取り調べの中、竹内氏はついにこんな心境に陥っていく。

〈検事が喋った誘導や暗示によって、私の知識の中には、いつでもウソの自白をすることが出来る状態になりました。そして一っそウソでも自白して、どうせ有罪にされるなら情状を酌んで貰って軽くして貰おうかな、といふ考へが頭を掠めるようになりました。〉

「三鷹事件再審を支援する会」のHPでは再審の動向が適時報告されている

◆義憤と感激に涙して・・・

以下、ついに竹内が虚偽の自白に陥る場面である。竹内氏は悩みに悩んだ末、一緒に検挙された共産党員らを助けるため、自分1人で罪を被ることを決意したのだが、そんな考えから虚偽自白に陥った複雑な心情が克明に記されている。

〈私は生涯の断を決する為に苦悶しました(・・・略・・・)罪なくして罪を負ふのかと考いると、我乍ら自分が哀れにもなりました(・・・略・・・)そして「あの事件は私がやったのです。一人でやったのです。之から真実を申しますから、飯田さん達、他の諸君を直ぐ釈放して下さい。」と高い処から飛び降りるような心地して、悲憤と感激に涙して喋りました〉

この竹内氏の手記は、有名な刑事弁護士で、竹内の弁護人も務めた布施辰治氏宛てに書かれたものである。そして実を言うと、大石氏は、この布施辰治氏のお孫さんである。そういう背景もあり、前掲書「絶望の牢獄で無実を叫ぶ」で大石氏が寄稿してくれた原稿は時代背景、関係者の人間模様まで克明に再現された貴重な読み物になっている。

なお、2011年に竹内氏のご遺族らが東京高裁に再審請求し、現在も再審請求審が続いている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。1人目は、2008年に福岡拘置所で処刑された飯塚事件の久間三千年氏(享年70)。

久間氏に対する死刑の執行後、拘置所長や担当検察官による死体検視の結果などが報告された文書

◆再審請求を準備中に処刑

〈私にとっての十四年は、単純に十四年という数字ではない。社会から完全に隔離され孤独のなかで人間としての権利と無実という真実を奪われてきた時間である〉

これは2008年の夏、死刑廃止を目指す市民団体「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が死刑囚105人にアンケート調査を行った際、久間三千年氏が所定の用紙に「今、一番訴えたいこと」として綴ったメッセージの一節だ。

当時、福岡拘置所に拘禁されていた久間氏は70歳。1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人が殺害された通称「飯塚事件」の容疑者として検挙され、死刑判決を受けながら、一貫して無実を訴えていた。

A4サイズの用紙の裏面に小さい文字でびっしりと、無実の自分を死刑囚へと貶めた警察や裁判所に対する批判、憤りを切々と綴った文章は気圧されるような迫力だ。その中でも、とりわけ強く私の胸に迫ってきたのは、次の一節だった。

〈真実は必ず再審にて、この暗闇を照らすであろうことを信じて疑わない。真実は無実であり、これはなんら揺らぐことはない〉

読んでおわかりの通り、再審で無罪を勝ち取ることへの強い意欲と自信が窺える文章だ。しかし、久間氏は生きているうちに再審無罪を実現できなかった。このメッセージを書いてから3カ月も経たない2008年10月28日、死刑を執行されたためである。久間氏は当時、再審請求を準備中だった。

絞首台に上がらされる時、目隠しをされ、首に縄をかけられる時、久間氏の恐怖、絶望感はいかばかりだったろうか。

久間氏が処刑された福岡拘置所

◆警察が証拠を捏造した

久間氏の裁判で有罪の決め手になったDNA型鑑定は、足利事件のDNA型鑑定と同様に90年代前半、まだ技術が拙かった警察庁科警研が行ったものであることは有名だ。それが久間氏の冤罪説を世間に広めている一番の要因だが、実際にはDNA型鑑定のみならず、目撃証言や血痕鑑定などその他の有罪証拠も疑わしいものばかりだった。

実を言うと、久間氏本人もそのことは強く訴えていた。再び冒頭のアンケート用紙から該当部分を紹介しよう。

〈事件について、さまざま経過があって、警察が証拠を捏造して逮捕したあの時から14年の月日が流れた〉

〈あの時とは・・警察が座席シートの裏側から血痕を発見したという平成六年四月を指す。ここで注目すべきは、平成四年九月二九日にルミノール検査をした筈の警察がシートの裏側に付着していたという血痕を平成六年四月まで発見できなかったのも不自然なら、その部位のシート表面から、ルミノール反応が全く出ていないのは、全く説明不能という外はない〉

久間氏が事件当時に乗っていた車の座席から血痕が検出された件については、確定死刑判決でも有罪の根拠の1つに挙げられている。しかし実際には、発見経緯の不自然さから「警察の捏造」が疑われている。久間氏本人もそう考えていたのである。

久間氏の処刑後、遺族が申し立てた再審請求は福岡地裁に退けられたが、現在は福岡高裁で即時抗告審が続いている。その過程では、不正捜査を疑わせる事実も新たに次々浮き彫りになっている。一日も早く久間氏の雪冤が果たされることを私は願っている。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、本文中で紹介した久間氏の遺筆の全文が紹介されている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

京都、大阪で男性が相次いで不審死していた事件で、筧千佐子被告(69)が夫の勇夫さん(享年75)を殺害した容疑で逮捕されたのは一昨年11月のことだった。最終的に3件の殺人と1件の強盗殺人未遂の罪で起訴された千佐子被告に関しては、不審死した男性たちから莫大な遺産を相続していた疑惑が大々的に報道されたものだった。しかしその後、千佐子被告の裁判がなかなか始まらず、月日の流れと共に事件は人々の記憶から薄れ始めている。そんな中、改めて現場を訪ねたところ、事件の意外な一面が見えてきた――。

筧勇夫さんと千佐子被告が住んでいた家

◆行き届いた手入れ

千佐子被告と、彼女に殺害されたとされる夫の筧勇夫さんが暮らしていた家は、阪急電鉄京都本線の西向日駅から徒歩で数分の閑静な住宅街にある。さほど大きくない2階建ての家で、築年数はけっこう経っているが、住人が大事に住んでいたことが窺える家だった。

良い言い方ではないかもしれないが、私がこの家に感心したのは、手入れが行き届いていることだった。

というのも、前妻に先立たれた筧勇夫さんは、13年12月に亡くなる直前に筧被告と結婚していたが、筧被告が逮捕されて以降、事故物件となったこの家は空き家のはずである。だが、庭は掃き掃除などがされている形跡が見受けられるし、郵便ポストは不要なチラシなどが入れられないように投函口にきちんとガムテープが張られている。そして何より目を引かれたのは、プランターで栽培された植物が門扉の前に置かれていたことである。そこには、この家の外観が殺風景にならないようにという家への愛着が滲んでいるように思えた。おそらくすべては遺族がやったことだろう。

こんなことを書くと、「その程度のことがどうした・・・」と思われた方もいるだろう。しかし私はこれまで、不幸にも殺人事件の現場となり、事件後は誰も住まなくなった家を色々見てきたが、多くの家は庭の草木が伸び放題だったり、壁にカビが生えているなど、いかにも事故物件らしく荒れた感じになっていた。その経験上、筧さんの遺族が事件後もマメに掃除などをしていることが窺えるこの家は、重大な事故物件にしては珍しく思えるのだ。

手入れが行き届いている

◆表札は今も「筧勇夫」

私がもう1つ気になったのは、玄関に今も「筧勇夫」という表札が掲げられていたことだ。というのも、千佐子被告が逮捕された当初の報道では、この家は筧勇夫さんの死後、千佐子被告が相続し、すぐに売り払ったという情報も伝えられていたからだ。

そこで確認のために謄本を調べたところ、家の所有者は土地、建物共に現在も筧勇夫さんになっていた。どうやら上記のような報道は間違いで、千佐子被告はこの家を売る売らない以前に、相続していなかったようだ。一方で、千佐子被告以外の遺族も相続していないということは、おそらく千佐子被告が筧勇夫さん殺害の容疑で逮捕、起訴されているため、裁判が終わらないことには遺族たちも相続問題に手をつけることができないのだろう。

そんなふうにこの家を見ていると、すでに亡くなった筧勇夫さんの名前の表札が今も掲げられていることは、「千佐子の好きにはさせない」という遺族の思いの表れのようにも思えてきた。また、そもそも遺族は千佐子被告が筧姓を名乗ること自体が嫌なのではないか――とも考えさせられた。千佐子被告は裁判で無罪を主張する見通しだと伝えられているが、いずれにせよ裁判では、何らかの形で筧勇夫さんたちの遺族の思いや考えも法廷に示されるはずだ。その時には、私の推察が当たっていたか否かの答えも出るだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

昨年12月に男子大学生を殴って死亡させたとして、傷害致死罪に問われていた長岡京市のとび職、島﨑翼被告(22)の裁判員裁判で、京都地裁の中川綾子裁判長は今月5日、懲役5年(求刑8年)の判決を宣告した。その公判で明らかになった事件の実相は捜査段階の報道のイメージと大きく異なっていた――。

島﨑被告の裁判員裁判が行われた京都地裁

◆「乱闘」ではなかった

事件が起きたのは、昨年12月13日の深夜2時前だった。京都市中京区の繁華街の路上で被害者の追手門学院大学4年生・大平武紀さん(当時22)のグループが島﨑被告のグループとトラブルになり、島﨑被告に顔を拳で殴られた大平さんが転倒し、頭を打って意識不明状態に陥った。大平さんは病院に搬送されたが、くも膜下出血と診断され、意識が戻らないまま同18日に亡くなった。以上がこの事件のあらましだ。

では、事件の実相が捜査段階の報道のイメージとどのように異なっていたのか。

たとえば、大平さんが亡くなった当初、朝日新聞京都版は2015年12月19日付け朝刊に〈木屋町で乱闘、大学生死亡〉という見出しの記事を掲載し、事件が起きた経緯を次のように伝えていた。

〈13日未明に中京区・木屋町の路上で若者のグループ同士の乱闘があり、殴られて意識不明になっていた大津市の大学4年、大平武紀さん(22)が18日、死亡した〉

大平さん、島﨑被告双方のグループが入り乱れて暴力をふるい合った末に起きた事件だったかのような印象を与える記事である。

だが、公判で明らかになったところでは、大平さんらのグループは島﨑被告らのグループから後述するような因縁をつけられてトラブルになったものの、自分たちからは一切暴力をふるっていなかったという。トラブルになった中で大平さんは着ていたベストを破られ、そのことを抗議したところ、島﨑被告に殴られて転倒し、亡くなった。それが事件の真相で、暴力はふるったのは島﨑被告のグループだけだったという。

大平さんの両親は公判で被害感情や処罰感情を陳述した際、「この事件は喧嘩によって起きたのではありません」「息子は被告人のグループの一方的な暴力で生命を奪われたのです」と裁判官や裁判員に念押しするように述べていた。その言葉の端々には、捜査段階に「若者のグループ同士の乱闘から起きた事件」であるかのように伝えた「誤報」への怒りや悔しさが滲んでいるように思えた。

大平さんの両親の陳述によると、三人兄弟の次男だった大平さんは家族思いのやさしい性格で、弟とはよく服の貸し借りをしており、破られたベストは弟のものだったという。

産経WEST2015年12月18日配信記事

◆因縁をつけたのは被告ではなかった

事件が起きた経緯については、報道によって広まった誤解がもう1つあった。誤解のもとになったと思われるのが、産経WESTが2015年12月18日に配信した〈「目が合った」殴られた男子大学生死亡 京都の繁華街、21歳とび職の男逮捕〉という見出しの記事である。この記事は本文で、次のように事件を伝えている。

〈大平さんは13日午前1時50分ごろ、知人らと数人で京都市中京区大黒町の繁華街にいた際、島崎容疑者を含む数人のグループに「目が合った」などと言いがかりを付けられトラブルになり、島崎容疑者に顔を殴られ、くも膜下出血で意識不明の重体となっていた〉(※原文ママ。正しい表記は「島﨑」)

インターネット上では、この記事に基づき、トラブルのきっかけは島﨑被告が大平さんに「目が合った」と因縁をつけたことだったかのように受け止め、島﨑被告を罵っている人たちの声が散見される。だが、公判で明らかになったところでは、大平さんらに「目が合った」と因縁をつけたのは、島﨑被告ではなく、島﨑被告のグループの別の人物だった。また、大平さんが島﨑被告に殴られる前にベストが破れたのも、島﨑被告のグループの別の人物(「目が合った」と因縁をつけた人物とも別の人物)に押し倒された際のことだったという。

そしてトラブルが続く中、最終的に島﨑被告が大平さんと対峙する形になり、大平さんを殴って死なせてしまった。しかしトラブルを引き起こしたのは、島﨑被告ではなく、あくまで島﨑被告のグループの別の人物たちだったわけである。

◆被害以外の人物にも責任はある

こんなことを書くと、「だからといって、同情できない」などと思う人もいるだろう。しかし、私はこうした事実関係もしっかり押さえておかないといけないと思う。この事件の場合、公判で明らかになった発生の経緯からすると、刑事責任を問われるのは島﨑被告だけだとしても、道義的責任は他の人物たちにもあることが明らかだからだ。個人的には、トラブルのきっかけをつくった人物たちは、大平さんや遺族だけではなく、島﨑被告に対しても何らかの償いをする必要があると思う。

なお、島﨑被告は、ツイッターやフェイスブックに掲載していた写真では、いかにも素行の悪そうな人物に見えたが、法廷では、とても今回のような事件を起こすようなタイプには見えない若者で、神妙に罪を受け止めているように見えた。何をどうしようが、犯した罪は償い切れることではないが、大平さんの母親が意見陳述の際に述べた「一生、うらみます」との言葉を彼も一生忘れることはないだろう。というより、一生忘れられないだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

毎年7月の終わり頃になると、1995年7月30日に東京・八王子市のスーパーでアルバイトの女子高生ら女性店員3人が何者かに銃殺された未解決事件、いわゆる「スーパーナンペイ事件」の現状がマスコミで報道されるのが恒例だ。一方、同じ7月に起きた未解決の銃殺事件でありながら、もはや地元マスコミ以外にほとんど取り上げられない事件が存在する。今から7年前に鳥取市で起きた、その「もう1つの未解決銃殺事件」の今を追った。

◆未解決にもかかわらず発生後7年ですっかり風化しつつある事件

犯人がタクシーに乗り込んだ鳥取駅北口

事件は2009年7月17日の夜9時40分頃、鳥取市立川町6丁目の住宅街で起きた。タクシー運転手の下田和雄さん(当時60)が背後から何者かに銃で撃たれ、搬送先の病院で同11時過ぎに死亡。犯人の男はタクシーを奪って逃走したが、ほどなくタクシーは現場から2キロ余り離れた同市東今在家の路上に乗り捨てられているのが見つかった。車内からは下田さんが使っていた釣銭入れがなくなっていたとう。

他のタクシー運転手の目撃証言などから、犯人は事件の数分前にJR鳥取駅北口のタクシー乗り場で、下田さんのタクシーに乗り込んだとみられた。しかし、鳥取県警は大量の捜査員を動員して捜査を展開したものの、めぼしい証拠や情報が得られず、発生から7年になる今も事件は未解決のままだ。スーパーナンペイ事件のようにマスコミに大きく取り上げられることもなく、事件は風化してしまっている感もある。

実際、現場界隈で住人たちに話を聞いて回ってみても、「あの事件以来、近所の公園でやっていた夏祭りが開かれなくなりましたが、今はとくに怖いとか不安とかいうのはないですね。事件が起きてすぐの頃は犯人も見つからないし、怖い感じがしましたけどね」(現場近くの家で暮らす年配の女性)という感じで、現地でも事件のことは忘れ去られつつあるようなのだ。

◆意外な事実──地元の同僚たちにとってもすっかり過去のものになっていた

下田さんが銃で撃たれた現場

意外だったのは、現場界隈の住人たちはともかく、地元のタクシー運転手たちも事件のことを忘れつつあることだ。私は、下田さんが犯人を乗せたとみられるJR鳥取駅北口のタクシー乗り場で、下田さんと同じ会社に勤めるタクシー運転手を何人か見つけ、下田さんや事件のことを聞いてみた。すると、ある運転手は下田さんについて、「マジメな人だったよ」などと振り返りつつ、「事件があった時は会社のみんなで葬式に行ったけどね。今は会社として、命日にとくに何かやったりはしないね。家族の人たちは何かやってるだろうけどね」と淡々と語った。その語り口からは事件がもう同僚たちにとっても過去のものになっていることが窺えた。

さらに意外に感じたことは、下田さんが所属した会社のタクシーを含む鳥取の大半のタクシーで、運転席と後部の客席を隔てる防犯用の仕切り版が装着されていなかったことだ。どこの地方でも多くのタクシーが防犯用の仕切り版を装着しているこのご時世、タクシー運転手が銃殺される異例の凶悪事件が起き、しかもその事件が未解決の鳥取で、この現状には少々驚いた。

現地の人々に取材してみて、鳥取の人たちは総じて人がよく、初対面の人間にも無警戒かつ親切な場合が多いと私は感じた。しかし、防犯意識は高めないと、同じような悲劇が繰り返されるのではないかと少々心配である。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

去る6月6日、福島県「県民健康調査」検討委員会は、福島第1原発事故当時18歳以下(胎児を含む)だった県民を対象に実施している2巡目(本格調査)の甲状腺検査で、今年3月末時点で30人が甲状腺がんと確定診断されたと発表した。

右から代表世話人の千葉親子氏(元・会津坂下町議会議員)、河合弘之氏(弁護士)、世話人の牛山元美氏(医師)

2巡目の検査は、約38万人の対象者のうち約27万人で完了。「悪性ないし悪性の疑い」と診断されたのは57人(昨年12月末時点は51人)で、このうち30人が手術により甲状腺がんの確定診断を受けた。

この数字を概観すれば、これより前の平成23年度~25年度前後まで実施されてきた1巡目(先行調査)と合わせると131人の甲状腺がんの確定診断者が出たことになる。

さらにいえば、確定診断とは手術実施者のことで、手術をしていない段階で、甲状腺にあるのう胞が「悪性ないし悪性の疑い」と検出された人数は1巡目、2巡目を合わせ173人と発表されている。福島県検討委は、確定診断が昨年12月末時点の16人から30人に増加した原因を不明としているが、「甲状腺がん発生は原発事故の影響とは考えにくい」との見方を変えていない。以下、本稿は「3・11甲状腺がん家族の会設立会見」詳報の最終となる。

◆質問9=原発事故で被ばくした方に対しても、国は被ばく手帳を作っていただければと思います

【Q9】 広島の原爆被爆者です。6歳の時に被爆して、急性放射能障害、原爆ぶらぶら病、目の障害、甲状腺機能障害による甲状腺全摘出手術、肺がん、と6歳の時から余命宣告を突き付けられて70年間、生きてきました。今、福島の子供たちは、そういう状態で、これからの人生を歩んでいかなくてはならないと思うと本当につらいです。

そんな私が、こうして元気で生き延びてこれたのは、2つ要件があります。一つは、被爆者同士の支え合いです。日本被団協を中心とする各地の被爆者の会に行き、支え合ってきました。もう一つは、国の公的医療保障です。原爆被害者擁護法に基づいて、被曝者健康手帳が交付され私たちは医療を無料で受けることができます。この二つによって、厳しい人生をなんとか元気で生きていくことができたと思います。

今回の家族会設立は、皆さまのこれからの支えになっていくと思います。福島では、子供だけでなく、大人の方の甲状腺がんも発生していると聞きます。私の友人の福島在住の方も、甲状腺がんで摘出手術を受けていらっしゃいます。大きな広がりとなっていくためには、子供さんだけでなく大人の方、そのご家族の方々にも、同じように広まっていっていただきたいと思います。

そして、原発事故で被ばくした方に対しても、国は被ばく手帳を作っていただければと思います。そういった観点で、福島では、世代を超えた人たちとのつながりも持っていくことをお考えでしょうか。

【A】(千葉氏) そういうお話は、会の中でもありました。この会は子供だけでなく、大人も対象にしていく体制を作りたいと思っております。また、原発事故の放射線の影響を考えるならば、福島県だけの問題ではないという話にもなりました。今後、もっと充実した会の方針・中身を作っていきたいと思っております。

【A】(河合氏) この会の設立の意味は、そこにありまして、政策提言をきちんとしていきたい。個人で孤立していては、Aさん、Bさんという形では、ダメなのです。患者さんが結束して申し入れや発言をしたりすると、それが社会的勢力の発言として見なされます。そこで、初めて注視され尊重されるようになります。そのための団体、患者の会ということになります。もちろん、その基礎として情報交換し、慰め合い、団結する必要があり、それが第一目的ですが、そのあとに来るものが、きちんと社会的勢力を作り、申し入れをし、自分たちの要求を政党に反映させていくこと、これがこの3・11甲状腺がん家族の会の目的ということになります。

◆質問10=将来的には訴訟を考えていますか?

【Q10】 将来的には訴訟を考えていますか。

【A】(河合氏) 今の所は、考えていませんが、申し入れをして政策要求をして、きちんと通らない場合には、それを敢えて排除することはないと思いますが、今の所は考えていません。

◆質問11=医学論争、疫学論争で裁判をやっていくことが必要ではないか?

【Q11】 因果関係を追及されても、政府は交渉では絶対認めないと思うので、医学論争、疫学論争で裁判をやっていくことが必要ではないか。それは視野に入れていますか。

【A】(河合氏) 視野には入れていますが、きちんとした社会的勢力を作って、きちんと政府に政策を要求することで、その正当な目的が認められないとは限らないと思っています。先ほど、ご家族が言うように、まずは、因果関係を認めてもらうということが大事だと思います。

因果関係を認めない時、それは、損害賠償ということは大よそない、治療だけはしてやるよ、という、その治療も、恩恵的な、家父長的な治療になると思います。だから、きちんと資料を出して、まずは因果関係を認めなさい、国と東電に責任があることを前提に対策を取って下さいとする。何も、モノを下さい、とかお情けを下さいと言うのではありません。きちんとした正当な要求を通すには、被害者がきちんと団結しないといけない。そのための会になります。

◆質問12=癌宣告の時に、医師の方からセカンド・オピニオンのお話がきちんとありましたか?

【Q12】 癌宣告の時に、医師の方からセカンド・オピニオンのお話がきちんとありましたか。患者には、色々な患者会がありますが、その様な紹介を受けることができましたか。癌の状態について、最初に説明はどのくらい時間として受けることができましたか。

【A】(白い服の方) セカンドオピニオンについては、はっきりなかったという記憶があります。患者会の紹介については、甲状腺がんなど全部を含めた患者会の説明はありました。診察時間は、通常は10分くらいであったと思います。

【A】(黒い服の方) セカンドオピニオンについての説明は、私にはありませんでした。患者会についても連絡はありません。診療時間は同じように10分くらいだったと思います。

◆質問13=福島県立医大に対する不審感?

【Q13】 甲状腺疾患を含めた患者の会の紹介というのは、福島県立医大からだと思います。案内をもらって、参加しようと思わなかったのは、県立医大に対する不審からですか。

【A】(白い服の方) 案内を頂き、妻が話を最初聞きにいきました。患者会というよりは、先生の説明会というような感じで、甲状腺がんの子供の親は、そこでは見受けられなかったと聞きました。

【A】(黒い服の方) 通知がくれば参加したかというと、参加したかもしれないが、そういった患者会があるというのも、家族会ができて初めて知った話です。非常にびっくりしました。

◆質問14=再発や手術後の生活の困難さ

【Q14】 再発や手術後の生活の困難について教えてください。

【A】(牛山氏) 今回の県立医大の手術ですが、片側の甲状腺の手術しかしていません。片方を残すと、うまくいけば薬を飲まずに生活していくことができます。しかし、甲状腺がんが再発している方が既におり、疑いの方もいます。ベラルーシでも、結局、もう一つも手術しなくてはいけないという話を聞いています。手術後は、モノが飲み込みにくくなったり、声がかれることがあったりということがあります。後遺症について、今回は直接は聞いていませんが、事例としてはそういうことになります。

【A】(白い服の方) 薬は毎日飲んでいます。やはり、甲状腺を半分とりまして、何カ所かのリンパ節も取りまして、後遺症的にいうと、モノが飲み込みにくいとか、声がかすれて出ないということかがあります。

◆質問15=何が必要で、何が一番足りていないのか?

【Q15】 何が必要で、何が一番足りていないでしょうか。

【A】(白い服の方) 精神的なケアを充実させていただきたいです。

【A】(黒い服の方) 今後望むのは、メンタルのケアをやっていただきたいと思っています。

◆質問16=がん宣告を受けたときのお気持ちは?

【Q16】 がん宣告を受けたときのお気持ちは?

【A】(白い服の方) 10代で癌と言われ、妻も子供もショックでした。

【A】(黒い服の方) 本人は顔面蒼白となり、立っていられないほどのショックで、数日間はふさぎこんでいました。

◆質問17=甲状腺がん家族の会の活動方針は?

【Q17】 今後は、交流会や相談会ということになると思うが、会の活動方針について。

【A】(牛山氏) 設立するということで、今回ワンステップになったわけですが、具体的にはこれからです。[了]


◎[動画]20160312甲状腺がん患者家族会設立記者会見(UPLAN三輪祐児さん公開)

▼白田夏彦[取材・構成]
学生時代に山谷、沖縄などの市民運動を訪問。その後、9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材。現在、業界紙記者。

7月14日衝撃緊急出版!『ヘイトと暴力の連鎖』(『紙の爆弾』増刊)

2016年3月12日、3・11甲状腺がん家族の会が設立された。設立時の正会員は5家族7人、代表世話人には河合弘之さん(弁護士)と千葉親子さん(元会津坂下町議)が就いた。これまでほとんどタブー視されてきた福島での被曝被害の核心を伝える貴重な設立会見を7回に分けて詳報する。第6回は前回に続き福島におられる会員ご家族のお二人と東京の会見会場をスカイプで繋いでの質疑応答。

◆質問4=福島県では声を上げづらい環境にあるといいますが……

【Q4】 福島県では、放射線など、声を上げづらい環境にあるといいますが、そういう中で、家族会がどういう存在になっていくことを期待したいですか?

【A】(白い服の方) 今まで誰にも話すことができなかったわけです。この会ができて、同じ境遇を持つ方とお話ができて、自分たちの様子や相手の様子だとかを話すことができて、今まで何の情報も無かったものですからこれでお互い情報交換をし、少しでも話すことだけでも気持ちが楽になったということが私の中で非常に大きいと思います。

【A】(黒い服の方) 数えるほどしか会は持てていませんが、それぞれ子供たちの状況がこうであったと、情報交換ができるだけでも、家族会が支えになってくれているなと思っております。

◆質問5=どういう形で孤立しがちになってしまうのか?

【Q5】 家族の方にお聞きしたいのですが、孤立している状況があると思うが、どういう形で孤立しがちになっているのか。その思いをもう一度お聞かせ願いたいです。

【A】(白い服の方) 同じ様なことになるかもしれませんが、自分の子供が癌であるということを誰にも言うことが出来ませんでした。子供自身も友達などに言うことができず、学校には伝えましたが、公に相談することができないため、家族だけで悩むということが色々ありました。誰に相談していいかということも正直分からなかった。病院に行った時に医師に話すだけで、他では甲状腺がんを周りの人たちに話すことができなかった状態です。

【A】(黒い服の方) 孤立というか、自分の子供が癌と診断され、赤の他人に相談できるかといえば、多分、そのように出来る人は、なかなかいないと思います。癌を治すのはどうしたらいいのか。『癌=死』というのが強かったものですから、怖かったというのが正直あります。

◆質問6=政府、県、東京電力に訴えたいこと

【Q6】 政府、県、東京電力に訴えたいことがありましたら、お聞かせ下さい。

【A】(白い服の方) 放射線の影響とは考えにくいとという見解がされているが、もし放射線の影響ではないならば、他の原因とは一体何なのか、みんなに、166人の方々に、原因が何なのかを言ってもらいたい。

【A】(黒い服の方) 因果関係が無いと言っているが、本当は、そこには何があるのかということを知りたいです。

◆質問7=東電に関して訴えたいこと

【Q7】 東電に関して訴えたいことはありますか。

【A】(白い服の方) 今のところ思い当たるまでにはないです。

【A】(黒い服の方) 今の段階では、東京電力さんが確たる原因だというところにはないので、その辺はコメントは控えさせて頂きたいと思います。

◆質問8=家族会を設立しなくてはならなくなった具体的な理由

【Q8】 先ほどから、ご家族の孤立が言われていますが、もう少し具体的に、たとえば本来であれば病院だとか行政が、相談、ケアするということがあると思います。今回、家族会を設立しなくてはならなくなった理由を具体的にもう少し教えていただきたい。

【A】(白い服の方) 病院に行った時しか先生に話すことができない。その病院も、非常に混んでおりまして実際、診察時間が5、6分くらいじゃないかと思います。その中で色々聞くということが、ちょっとできない状況でして、あと行政の方にも、相談というのはしていないが、手術後の体調が悪かったりとか、そういうことがありまして、健康増進に関する課がありまして、そこには一度、相談したことがあります。

【A】(黒い服の方) 病院の方から、限られた時間で、忙しくなかなか聞けなかったということもありますが、なんというか、その当時、息子は病気について、病院、行政などにも相談はしないでほしいということを言っていたので、敢えて、相談ということはしていませんでした。(つづく)


◎[動画]20160312甲状腺がん患者家族会設立記者会見(UPLAN三輪祐児さん公開)

▼白田夏彦[取材・構成]
学生時代に山谷、沖縄などの市民運動を訪問。その後、9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材。現在、業界紙記者。

母(当時50)と祖母(同81)を刺殺したとして、殺人罪に問われた横浜市の少年(16)に対する裁判員裁判で、横浜地裁(近藤宏子裁判長)は6月23日、「更生には、刑務所で服役させるより少年院で個別的教育を受けるほうが効果的」と少年を家裁に移送する決定を出した。報道では「殺人罪で起訴された未成年が家裁に移送されるのは、裁判員裁判では初めて」という点がクローズアップされたこの裁判で、筆者の印象に残ったのは、証人出廷した少年の父親(51)の悲痛な様子だった。

少年に対する裁判員裁判が行われた横浜地裁

◆「加害者が自分の息子でなければ・・・」

「私の姉が厳罰を望んでいることについては、気持ちはよくわかります。私も加害者が自分の息子でなければ、当然そういう思いになったはずです」

6月15日に横浜地裁であった初公判。少年の父親は複雑な思いをそう打ち明けた。実の母と妻を殺害された「被害者遺族」という立場でありながら、「加害者の親」でもあることの苦悩がこの言葉に凝縮されていた。

事件が起きたのは昨年5月18日の朝だった。少年は横浜市戸塚区の自宅で、母親と祖母を包丁でめった刺しにして殺害。犯行後は凶器の包丁を水道で洗ってタオルにくるみ、スポーツバッグに入れると、それを持ってJR戸塚駅西口の交番に「人を殺しました」と出頭した。こうして少年は殺人の容疑で逮捕されたのだ。

「日ごろから母と祖母に勉強しないことを叱られていた。事件当日も朝、家を出ようとした際に祖母に『勉強をきちんとしているか』と言われて口論になり、母と祖母の殺害を決意した」

少年は取調べでそう供述していたが、公判では、動機や事件のきっかけについて「興味がない」「知らない」と他人事のような供述に終始。逮捕当初の供述については「動機を言わないと面倒なので、そう言った」と説明し、母と祖母を殺害した思いを聞かれても「特別な感情はない」と言い放ったのだった。

そんな少年について、精神鑑定医は、「他者とのコミュニケーションが難しく、保護的な生活環境で対人関係の構築や共感性を育むことが必要」と証言。加えて、被害者遺族でもある父親が少年法に基づく保護処分を望んだこともあり、横浜地裁は少年の家裁移送を決めたのだが、公判で父親の証言を聞いていると、今回の事件が父親にとってもまったく突然の出来事だったことがよく伝わってきた。

「今思えば、息子は子供の頃、おもちゃの鉄砲で友だちを撃ち、妻に『なぜ、そんなことをしたのか』と聞かれた際に『別に』と言っていたことがありました。しかし普段の生活では、突然怒り出すようなこともなく、わりと活発で、友達もいる子でした。母と妻を刺すとは、想像もつきませんでした」

父親は事件の数か月前から他県に単身赴任しており、この間、2週間に1度家に帰る時以外は妻に電話もメールも一切していなかったという。息子の高校受験についても相談にのることはなかったそうで、家族とのコミュニケーションは乏しかったかもしれない。「息子と全力で向かい合っていれば、事件は防げたのではないかという思いもあります」との言葉からは父親が自責の念に苦しんでいることも察せられた。

◆「息子と一緒に生きていかないといけない」

父親は現在、自宅近くにアパートを借り、少年の妹である中学生の娘と2人で暮らす。働きながら家事全般をこなして娘の面倒をみながら、少年が収容された拘置所にも週1回、面会に通っているという。まだまだ事件の傷が癒えることはないだろうが、少しずつ前に進んでいる様子も窺えた。

「息子は一生、十字架を背負うことになりました。私も時折、気が滅入ることもありますが、これからも息子と一緒に生きていかないといけないという思いが今は強くなっています」

父親のそんな話を聞きながら、自分が同じ立場に置かれたらどう生きるだろうかと想像し、筆者はこの父親に尊敬の念を抱かずにいられなかった。公判では、少年の姿はツイタテで隠されており、表情などは窺えなかったが、母と妻を殺害した息子と共に人生を歩もうとしている父親の思いを少しでも感じ取っていて欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』

広島市の中心部からそう遠くない住宅街に、独特の存在感を醸し出している建物がある。写真(1)の物件がそれだ。家のようにも倉庫のようにも見えるが、側面と背面には窓が1つもない。そして正面に張り出されたプレートには、こんな気合の入った(?)メッセージがしたためられている。

(1)側面と背面には窓が1つもない問題の建物

問題の建物に掲げられたメッセージ

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町内の皆さんへ

長らくお待たせしました。
再開発部の手抜き工事が原因で、心配や迷惑をおかけしましたが、皆さんのご支援のおかげで、未だ原状回復は途中ですが、耐震工事だけは出来ました。
(修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした。)
何卒今後共宜しくお願い申し上げます。

事件番号28ヨ53 A子(※原文は実名)

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この建物があるのは広島市南区の段原地区。このあたりは爆心地とは山で隔てられ、原爆による消失を逃れたが、そのために戦後は道路や下水道などの整備が遅れ、以前は狭く入り組んだ道に老朽化した家が軒を連ねていた。しかし70年代初頭から40年余りかけて再開発され、現在は真新しい家が立ち並ぶ、市内屈指の人気住宅街に生まれ変わっている。

そんな中、この建物の持ち主は、広島市が再開発のために家の建物を仮換地に移動させた工事が〈手抜き工事〉だったために損害を負い、〈未だ原状回復は途中〉の状態だと訴えているのだ。それにしても、〈修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした〉とは、何やら物騒な雰囲気だが・・・。

結論から言うと、この建物はずいぶん複雑な事情を抱えているのである。

◆メッセージの主は最高裁で逆転無罪を獲得

(2)今年初めまではこんなボロボロの状態だった問題の建物

筆者がこの建物に関心を持ったのは昨年秋ごろのことだった。実はこの建物、今年初めまでは写真(2)のようなオンボロのたたずまいで、当時は次のようなメッセージをしたためたプレートが掲げられていた。

〈裁判上修理ができることになりましたので、実行しようとしたら逮捕され投獄されました。「無罪」でしたがくり返さない為にももうしばらくお待ちいただくようお願い致します〉

「無罪」とは一体何のことかと調べてみると、このメッセージの主であるA子さん(83)は最高裁で逆転無罪判決を勝ち取ったという稀有な経験の持ち主だとわかった。関連の新聞報道や最高裁判決(http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=37833)によると、事件の経緯は次のようなものだとされていた。

地元で不動産会社を営んでいるA子さんが別の不動産会社の男性社員(当時48)の胸を両手で突いて転倒させ、後頭部に1週間のケガを負わせたとして逮捕されたのは2006年12月のこと。そしてA子さんは傷害罪で起訴され、広島地裁の一審で罰金15万円、広島高裁の二審では暴行罪が適用されて科料9900円を宣告された。しかし、最高裁の上告審では、2009年7月、「正当防衛」だったとするA子さん側の主張が認められ、無罪を宣告されたのだ。

では、なぜ、正当防衛が認められたのか。

最高裁判決によると、冒頭の建物やその敷地は登記上、A子さんの会社と男性の会社が共有していたのだが、A子さんが建設会社に原状回復や改修の工事をさせたところ、被害男性の会社が工事の中止を申し入れ、サッシのガラス10枚を割るなどして妨害。さらに毎日現場にやってきて、作業員などにすごむなどしたため、工事は中止になったという。そして事件当日、被害男性が「立入禁止」の看板を設置しようとしたためにA子さんとトラブルになり、Aさんが暴行に及んだ――。

最高裁は、事件の事実関係を以上のように認定したうえ、被害男性らが「立入禁止」の看板を設置することは〈違法な行為〉で、〈嫌がらせ以外の何物でもない〉と指摘。さらに男性がA子さんに胸を突かれて転倒したのは、大げさに後ろに下がったことや看板を持っていたことからバランスを崩したためである可能性も否定できないとし、A子さんの暴行は「防衛手段として相当性の範囲を超えたものとはいえない」と判断したわけだ。

最高裁の判決をみると、被害男性やその会社が何やらとんでもない悪者のように描かれている。だが、事件のその後を取材したところ、事件の実相は最高裁判決の内容とかなり異なっているのだ。

◆無罪の根拠がことごとく否定された民事訴訟

(3)廃墟であることは一目瞭然

筆者はまず、A子さん本人に取材を申し込んだのだが、電話口でA子さんは「あれは無罪でも嘘の無罪じゃから。私はおもしろくないんですよ」と最高裁の逆転無罪判決を批判した。そして、「正当防衛もくそもないんよ。私は被爆者で、甲状腺のガンや食道ガンやらやって、手の自由がきかんのじゃけえ、暴力をふるえるわけないでしょう」と被害男性に暴行したこと自体がでっち上げだったかのように訴えた。さらに「要するにヤクザ相手じゃから」と被害男性の会社が暴力団であるかのように言い、「泣き寝入りしたくないけえ、がんばりよるんよ」と被害男性の会社相手に民事訴訟を起こしていると明かしたのだった。

そして結局、取材は断られたのだが、A子さんと夫は被害男性の会社を相手取り、複数の民事訴訟を広島地裁に起こしており、それらの訴訟記録を見たところ、意外な事実がわかった。民事訴訟では、A子さんの暴行を「正当防衛」と認めた最高裁の事実認定を否定するような判決が出ていたのだ。

それは、A子さんが夫と共に2009年、被害男性の会社に嫌がらせ行為をされて損害をこうむったとして、約1億2600万円の損害賠償を求めて広島地裁に起こした訴訟の判決だ。昨年4月に出たその広島地裁の判決は、最高裁が被害男性の会社の人間が建物のサッシのガラス10枚を破損したと認定したことについて、「そのようなことがあったと認める証拠はない」と否定。また、被害男性の会社が改修工事の申し入れを求めたことについては、「その態様は、暴言、脅迫に及ぶなど社会相当性を逸脱するものではない」と違法性も否定した。さらに「被害男性が警察官に虚偽の申告をしたり、公判で虚偽の証言をしたと認めるに足る証拠もない」と判示しており、最高裁がA子さんの暴行を正当防衛だったと認めた根拠はことごとく否定された格好なのだ。

さらに意外だったのは、「暴力団問題」をめぐる事実関係だ。先述したようにA子さんは筆者に対し、被害男性の会社があたかも暴力団であるかのように述べていた。そして民事訴訟でも、同様の主張をしていたのだが、広島地裁の判決は被害男性の会社について、「暴力団と人的関係や取引上の関係を有していることを裏づける証拠はない」と認め、A子さんの主張を否定。それどころか、民事訴訟では、むしろA子さんのほうが暴力団と関係があったことまで明らかになっているのだ。

◆暴力団の構成員も法廷に登場

(4)泥棒も寄りつかなそうだ

「A子さんの書かれている(陳述書)内容をお読みしまして、あまりにも事実と反するし、法廷で話をちゃんとしておくべだと私は思ったのです」

民事訴訟の法廷でそう証言したのは、A子さんの依頼により問題の建物の改修工事をしていた建設会社の経営者Bさんだ。

A子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、実は写真(1)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在する。A子さんはこれらの物件について、約2700万円と引き換えに被害男性の会社の共有部分をすべて自分たちのものにすることを求める訴訟も起こしているのだが、この共有物分割事件の訴訟にBさんは証人として出廷したのだ。

A子さんはこの訴訟で、被害男性の会社の人間たちが暴力団関係者で、様々な嫌がらせをされてきたかのように陳述書で訴えていた。それによると、A子さんの依頼で改修工事にあたっていたBさんらは、被害男性の会社の関係者たちに毎日のように脅かされ、恐れをなして工事を投げ出し、逃げ出したとのことだった。Bさんによると、このA子さんの主張が「あまりにも事実に反する」というのだ。

(5)窓がないのも不気味

民事訴訟で明らかになったBさんに関する事実関係で何より驚かされたのは、Bさん自身が当時、山口組系の暴力団の構成員だったことだ。Bさんの証言によると、A子さんの仕事を請け負った際、A子さんから被害男性の会社について、「地元の暴力団がらみの地上げ屋で、かなりあくどいことをやっている」と聞かされていたという。しかしBさんはこれに対し、「私は大阪のほうで山口組の関係でしたんで、ああ、そんなことは大丈夫です、と胸をたたいた次第です」というのだ。被害男性の会社は暴力団であるかのように訴えていたA子さんこそが暴力団に仕事を依頼していたのである。

「被害男性の会社の社員たちにヤクザ風の雰囲気はまったくなく、工事をやめてくれないかと小さな声で言ってきたが、無視していました」

そう証言したBさんによると、工事を途中でやめた理由は、被害男性の会社に嫌がらせを受けたからではなく、「被害男性の会社が建物の半分の所有権を有していることがわかり、このまま工事を続けて損害賠償を請求されたら、とんでもないことになる」と思ったからだという。

そしてBさんは、さらに衝撃的な事実を明かしている。A子さんは民事訴訟の中で、2度に分けてBさんの会社に1500万円の工事代金を支払っていたと訴え、Bさんの会社名義の1500万円の領収書のコピーも示していたのだが、Bさんはこの1500万円を「受け取っていません」と言うのだ。

「A子さんの会社からもらった着手金は60万円です。それ以降、250万円か300万円くらいの間だったと思いますが、ちょくちょく頂いていました」(Bさん)

このBさんの証言が事実なら、A子さんの会社がBさんの会社に支払った工事代金はせいぜい300万円から360万円程度か。A子さんがこのことについて、どんな税務処理をしているのかは気になるところだ。

◆異様な雰囲気を醸し出すオンボロな建物

(6)敷地は駐車場として貸し出されている

また、先述したようにA子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、写真(1)(2)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在するが、現地で確認したところ、いずれも写真(3)(4)(5)(6)のようにオンボロの建物ばかり。新しい家が立ち並ぶ人気住宅街の中で異様な雰囲気を醸し出している。

A子さんはこれらの物件についても、広島市の仮換地への移転工事が適切ではなかったと主張。夫と共に広島市に対し、約1億8000万円を求める訴訟も起こしているのだが、これらの建物のオンボロぶりを見る限り、すべてが広島市の移転工事のせいだとは思い難いところだ。

A子さんはかなり個性的な生き方をしている人なのは間違いないが、これらの訴訟はいずれも現在、進行中だ。その動向については、今後も折をみて、お伝えしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

2016年3月12日、3・11甲状腺がん家族の会が設立された。設立時の正会員は5家族7人、代表世話人には河合弘之さん(弁護士)と千葉親子さん(元会津坂下町議)が就いた。これまでほとんどタブー視されてきた福島での被曝被害の核心を伝える貴重な設立会見を7回に分けて詳報する。第5回は福島におられる会員ご家族のお二人と東京の会見会場をスカイプで繋いでの質疑応答。

◆震災当時10代だった女子の父親(白い服の方)による自己紹介

私は、中通り地方に住む、震災当時10代の女子を子供に持つ父親です。今まで、子供の病気のことは、周りの誰にも言えず病院の先生と家族で話すだけでした。しかし、この間に甲状腺がん家族の会ができまして、同じ病気の子供を持つ親と子供の手術後の体調やその他の悩み事など、今まで誰にも話すことができなかったことを話すことができました。このことは、本当に良かったと思っております。

また、同じ境遇の人達と話しあうことで気持ちが大変楽になりました。病気の治療のこと、子供の将来のことを周りにいる人達に話せることが、私たち家族にとって大変力になり、また、様々なことを相談できる世話人の方たちも大変力強いと思っております。

そして、定期的に会の人たちが集まり、情報、意見を交わすことなどができれば良いと考えています。私たち家族たちと同じ立場にある方が多くいると思います。是非、この会の方へ勇気を持ってアクセスしていただければと思っております。以上です。
 
◆震災当時10代だった男子の父親(黒い服の方)による自己紹介

私は中通り地方に住む当時、10代であった男子の父親です。突然、息子が癌と言われまして、息子も私もショックが大きく大変つらい思いをしました。今回、こうした家族の会が設立できたということで、本当に気持ちの分かりあえる皆さんとお話しただけでも気持ちの救われる思いでいっぱいです。まだまだ、多くの方がたくさんのことを悩んでいらっしゃると思いますが、是非とも歯を食いしばりこの会に参加して頂ければと思います。

◆質問1=ウクライナでは子供の甲状腺がんと原発事故の因果関係を認めているが……

【Q1】 河合弁護士と牛山医師に質問します。政府が、原発事故と甲状腺がん被害の因果関係を否定しております。そうなると、こちらが立証しなくてはならないわけですが、チェルノブイリ事故を受けて、ウクライナでは事故由来とされる、がん患者1000人以上を治療、入院させている病院がある訳です。

そこの小児科部長に聞きましたが、福島原発直後、日本政府とそこの病院で30回以上行き来して情報交換をしているといいます。

ウクライナ政府はチェルノブイリから100キロ圏、つまりは当時、放射能プルームが飛んでいったとされる地域で発生した甲状腺がんの子供たちの因果関係を認め、病院に受け入れさせている。その小児科部長が言うには、明らかに(原発事故と)因果関係はあると言っていました。それを踏まえ、今回、家族会ではウクライナに調査団を出す考えはおありでしょうか。医師や弁護団とか。そこまでしないと白を切ると思いますよ。政府は。

【A】(河合氏) 急な質問で、答えにくいですが、財政基盤がそこまであるのかという問題もあります。チェルノブイリに調査団を派遣することが、社会的見解、政府見解を変えさせることに効果が出てくるかどうか、費用対効果を考えた上で対策を考えたいと思います。
 
【A】(牛山氏) 私自身は、2013年にベラルーシに派遣され、医学アカデミーで研修を受けさせていただきました。そこで、伺ったお話と日本で言われているベラルーシの実情とは微妙に違っていて、医師らにおいても、当時の資料と最近の資料でお話されることとは違ってきています。だから、非常に難しいと感じています。

しかし、そういう情報交換をしていかないと本当のことは分からない。チェルノブイリも30年経ちやっと分かってきていることがあるので、私たちもそこから学ばなくてはならない。お金が無くても、個人的にやっていかなくてはならないと思っているし、そういう所に行き、勉強したいという医者は他にもいます。

◆質問2=福島の医療現場で最も不審や不安などを感じた対応は?

【Q2】 福島の2人の保護者の方に質問したいのですが、お子さんが治療や手術を受ける時、医師、県立医大の方になるとは思いますが、その中で最も不審や不安などを感じた対応は何でしょうか。具体的な事があれば教えてください。こんなことが一番ショックだったということかあれば上げていただきたい。

【A】(白い服の方) 甲状腺がんが、放射線の影響とは考えにくいと言われました。それでは、逆に何が原因かを詳しく知りたいというのが本当の所です。(原発事故が原因とは)考えにくいとされる中、何度も検査しています。(原発事故が原因とは)考えにくいとされる中、なぜ何度も検査されるのかという思いもあります。原因がはっきりわからない中、再発、転移する可能性があるのか、無いのか、それが一番心配な所です。

【A】(黒い服の方) 最初に癌だと診断された時、息子の目の前で「あなたは癌ですよ」と言われた時は、ものすごくショックでした。もう少し、なんというか、10代思春期の人間に対し、あの言い方はちょっと辛かったのではないかと思いました。私たちも当然のことながら甲状腺がん関係の知識は何もございません。とにかく、わらにもすがる思いで先生の言うことを聞いて、治療すれば大丈夫なのかなと思っておりました。今後、治療が長く続く間、再発する可能性というのも未だ払しょくできない不安材料です。

◆質問3=「過剰診断ではないか?」と言われてしまうのような日本の状況について

【Q3】 国内では、過剰診断ではないか?という言われ方など、どこか患者の方々であるとか、被害者の存在が放り置かれてしまうようなことが出てきていると思います。そういった状況をどう思いますか?

【A】(牛山氏) 本当にその通りです。ご家族や患者さんがどのように感じているのかということを、この会の設立により、やっと聞くことができました。あまりにも、情報が出てこないのです。福島県立医大がまとめているとは思いますが、きちんとケアがされているのかといえば、決してそうではなかったと思います。こうしたことを家族会設立により改善していければと思っています。

【A】(白い服の方) エコー検査の性能が上がるなど、色々言われていますが、機械の性能も向上しているので、見つかるはずもなかったものが見つかるということは、あるとは思います。娘については、比較的大きな状態で見つかりましたので、これは明らかに癌だと分かる状態で見つかっていますので、過剰診断ではないと思います。

【A】(黒い服の方) 早期で癌が見つかっていますが、過剰診断だということを強く感じたということはないです。(つづく)


◎[動画]20160312甲状腺がん患者家族会設立記者会見(UPLAN三輪祐児さん公開)

▼白田夏彦[取材・構成]
学生時代に山谷、沖縄などの市民運動を訪問。その後、9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材。現在、業界紙記者。

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