被害者遺族Yさんの上申書を読み上げる支援者の女性

2010年3月に宮崎市で同居していた妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、養母(同50)を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受け、現在は最高裁に上告中の奥本章寛被告(26)。減刑を求める支援活動が盛り上がる中、被害者遺族までもが最高裁に対し、死刑判決を破棄し、裁判を第一審からやり直して欲しいと訴える内容の上申書を提出する異例の事態となっている。その遺族は、奥本被告が殺害した妻の弟であるYさん。Yさんの視点から見ると、この事件は義兄によって母、姉、甥が殺害された事件ということになる。

「奥本章寛君を支える会」が制作した小冊子『青空―奥本章寛君と「支える会の記録」―』によると、このような事態になるターニングポイントは、原田正治さんとの出会いにあったという。原田さんとは、実弟を保険金目的で殺害された犯罪被害者遺族でありながら死刑制度廃止を訴える活動をしていることで有名な人だ。

原田さんの視点に出会い、奥本被告の支援をしていくことは「償う」ということを共に考えていくこと、行動していくことだと考えるに至った「支える会」の主要メンバーが宮崎を訪ね、奥本被告が殺害した妻の父であるKさん、弟であるYさんとの会談を相次いで実現。Yさんについては、本人の希望もあって奥本被告との面会、奥本被告の実家の訪問などまで実現したという。こうして加害者側と被害者側の交流が進む中、今回の上申書提出に至ったという経緯のようである。

◆死刑と無期は五分五分という気持ちだった

その上申書は、8月に大分県中津市であった「支える会」主催の集会で読み上げられたが、被害者遺族が死刑判決の破棄を求めるという異例の内容だ。筆者が抜粋や要約をするより、Yさんの言葉をそのまま伝えたい。そこで以下、当日読み上げられた全文の書き起こしを紹介する。

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上申書

最高裁判所御中

【上申の内容】

上申の内容は一言で述べると、事件を第一審に差し戻して、もう一度深く審理して欲しいということです。今から自分の考えを述べます。

【第一審の時の自分の考え】

私はこの事件の第一審、宮崎地方裁判所での裁判に遺族として参加して意見を述べました。第一審裁判の通り、3人の家族を一瞬にして失うという事件のあまりもの重大さから強い怒りを感じていました。また、奥本が法廷で、「わからない」と繰り返す様子を見て、反省していないと感じました。そのため、気持ちとしては死刑と無期懲役とが五分五分でしたが、「極刑を望む」と言ってしまいました。

なぜ気持ちが五分五分だったかというと、殺害された母貴子の日頃の言動から、奥本を追い込んでいったのは、そして、最後にあの事件を起こさせてしまったのは、むしろ母貴子のほうではなかったかという思いがあって、被告奥本だけが悪いわけではないということを家族である自分は感じていたからです。母貴子のほうが悪かった部分については、自分のほうから被告奥本に謝りたいという思いもあったくらいです。

つまり、第一審の時も被告奥本は死刑以外にありえないというふうに意見が決まっていたわけではなかったのです。自分は母貴子の暴言が事件の原因になったのではないのか、奥本だけが悪いわけではないのでは、ということがとても気になっていたからです。結局、第一審では奥本の本当の動機はわからずじまいでした。第一審に参加した自分にも、どうして奥本がこのような事件を起こしたのか、その考えははっきりしませんでした。

【今の自分の考え】

その後4年も経ち、自分の境遇も大きく変わりました。この事件で母、姉、甥を亡くし、その後、祖母も亡くし、心のよりどころを失い、孤立感にとらわれてきました。
最近になって、被告人との面会も果たしました。面会の時には、奥本も自分もお互いに素直に話すことはできず、奥本が反省しているのか、謝罪の気持ちがどこまで深まっているのか、今ひとつはっきりとはわかりませんでした。

その後、奥本を支える会の人たちとの出会いもありました。交流を重ね、支える会のみなさんとの会話の内容から奥本の家族の思いも知りました。今回奥本が描いた絵をポストカードにして販売したお金を奥本からの謝罪金の一部として受け取りました。前に述べたように自分の考えとしては、奥本は死刑以外考えられないと確信していたわけではなかったのです。

命は大切で、とても重要なものです。それは奥本の命にしてもそうです。この奥本の命の重要性を考えると、奥本が死刑になるべきとか無期懲役になるべきとか、すぐには判断できないと感じています。

【終わりに】

自分としては、第一審の裁判員裁判をやり直して欲しいと感じています。その中で慎重に、十分な審理、判断をしてもらうことを望んでいます。今、自分は死刑と確信しているわけではありません。死刑か無期懲役かを判断するために、さらに慎重に十分な判断をしてもらいたいと思います。自分自身もその裁判への参加を通じて、気持ちをはっきりとさせたいと思います。

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以上がYさんの上申書の内容だが、当欄でこれまでに弁護人の話をもとに伝えた事件の概要――奥本被告が日々、養母から理不尽な叱責を受けるなどし、心理的に追い込まれていき、犯行に及んだという経緯――が遺族の立場から見ても決して被告人側の一方的な主張でないことがよくわかる内容だろう。

奥本被告が描いた絵で製作されたポストカード

◆ポストカードの製作に夢中の被告

ちなみに、Yさんの上申書の文中に出てくる奥本被告の絵で製作されたポストカードだが、それは中津市であった集会の会場でも販売されていた。暖かみのあるタッチが特徴だが(写真参照)、奥本被告は現在も収容先の宮崎刑務所で被害者への弁済に充てるため、このようなポストカード向けの絵を描くことに夢中になっているという。

そんな奥本被告とはどんな人物なのか。筆者はすでに一度面会に訪ね、その人となりに触れているが、それはまた別の機会に報告したい。

(片岡健)

 

 

 

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中津市であった支援者開催の集会で事件の概要を説明する黒原弁護士(左から2人目)。会では、映画監督・作家の森達也氏(同4人目)も講演した。

2010年3月に宮崎市で同居していた妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、養母(同50)を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受けた奥本章寛被告(26)。すでに上告審も結審し、最高裁の判決を待つばかりだが、その減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族までもが「裁判のやり直し」を求めて最高裁に上申書を提出する事態になっている。

一体どんな事件で、奥本被告はどんな人物なのか。前回に引き続き、弁護人の黒原智宏弁護士が大分県中津市であった支援者主催の集会で説明した事件の概要を紹介する。同居していた養母から自衛隊を辞めたことなどで日々厳しい叱責を受け、実家の両親のことまで非難され、我慢に我慢を重ねる生活だったという奥本被告。自衛隊に再入隊することを決め、厳しい家計を助けるために夜のバイトもして問題を解決しようとしていた中、妻と実家の間で、ある「トラブル」が起きたという――。

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トラブルとは、(長男の)5月の初節句を(奥本被告の実家がある)福岡でするのか、(妻や養母と暮らす)宮崎でするのかということでした。今考えると、大きなトラブルになることではないと思われるかもしれませんが、ここまで述べた背景を踏まえると、トラブルの深刻さがおわかり頂けると思います。福岡の実家を遠ざけようとしていた義理のお母さん側と、なんとか(孫に)会いたいという思いの奥本君の実家側との溝は奥本君が認識している以上に大きくなっていたのです。

メールのやりとりでそのような諍いが起きていたまさにその時、何も知らない奥本君が自宅に帰ってきます。奥本君は「何か起こっているぞ」と思いますが、トラブルの意味がわかりません。節句の意味もわからないし、節句というのが福岡でしなければならないのか、宮崎でしなければならないのかということもわからない。「どちらでやってもいいじゃない」という気持ちでした。しかし、対立は深刻になっていて、義理のお母さんから「あんたはそっちへ行かせないよ。なんで、こっちがそっちへ行かんといけんのじゃ。おかしいじゃろうが」と怒鳴られました。これは平成22(2010)年2月23日の出来事です。

◆養母の侮辱

深夜ということもあり、義理のお母さんも興奮が増し、「(夫である奥本君の)親がお米、お金を送るのは当然じゃろう」と怒鳴りつけ、「あんたのところはうちを舐めとる」「やることはちゃんとやれよ。結婚したら、こんなもんじゃないだろう」「部落に帰れ。これだから部落の人間は」「離婚したければ離婚しなさい。慰謝料ガッツリ取ってやる」という言葉を述べながら、奥本君のコメカミあたりを両手で力の加減をすることなく10数回殴打しました。

ここまでずっと我慢を重ねてきた奥本君もこの時、大きな心の糸が切れてしまいました。自分のことは我慢できる。自分の両親も我慢している。しかし、彼にとって古里の集落は誇りでした。それを悪く言われるのは、耐えられなかったのです。彼は1人、その思いを抱えます。この時、両親や兄弟に相談した形跡は残っていません。

◆「意識狭窄」に追い込まれ……

彼はその後5日間、ずっと孤独に悩みますが、最初に考えたのは自殺でした。自殺すれば、このようなことから逃れられると考えたのですが、「それは解決じゃない」と考え直します。それから、離婚や失踪も考えますが、そのような彼のアイディアを打ち消したのが義理のお母さんの最後の言葉でした。「慰謝料ガッツリ取ってやる」。その言葉が彼には引っかかります。自分がいなくなったら、義理のお母さんは自分の実家に行くに違いない。そうなると、自分の替わりに今度は両親が責められるに違いない……と思い悩みました

今、我々がこんな話を聞いたら、「いやいや、他にも解決方法はあるんじゃないの?」と色々な解決方法が思い浮かぶと思います。しかし、ここに至るまで奥本君はほぼ8カ月に渡って、睡眠時間は1日4時間を超えることなく、土曜日曜も休むことは許されず、そして食事も先ほど述べたような状況でした。選択肢、思考は狭められていました。心理学で意識狭窄というのですが、そういう状況で彼自身が最悪の選択に至ってしまったのです。

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最悪の選択――つまり、妻と生後5カ月の息子、養母を殺害するという選択をし、2010年3月1日未明に実行してしまった奥本被告。黒原弁護士によると、事件が起きるまでのこのような事実経過は第一審の頃から明らかになっているという。しかし、宮崎地裁であった第一審の裁判員裁判では、奥本被告は同年12月7日、「自由で一人になりたいなどと考えて家族3人全員の殺害を決意するに至ったものと認められる」「自己中心的で人命を軽視する態度が著しい」などという内容の死刑判決を宣告された。

そして控訴審段階になり、弁護側は2人の臨床心理士に依頼し、犯罪心理鑑定を実施。それによると、奥本被告は事件当時、精神的に疲弊し、視野狭窄、意識狭窄の状態で、自己の実在を脅かす養母から解放されたいという欲求から3名の殺害を決意したのだと判断された。しかし、福岡高裁宮崎支部の控訴審ではこの鑑定が証拠採用されながら、奥本被告の控訴は棄却され、死刑判決が維持された。この後、上告審段階になり、黒原弁護士に話を聞くなどして事件の詳細を知った人たちが「奥本章寛君を支える会」を立ち上げ、減刑嘆願書を求める支援の輪が広がっていったのだが、そのような事態になったのも事件の経緯を聞けば、多くの人が得心できるのではないだろうか。

では、被害者遺族が最高裁に提出した「裁判のやり直し」を求める上申書とは、どんな内容なのか。それは次回、詳しくお伝えしたい。

(片岡 健)

<参考文献>
奥本章寛君を支える会編『青空―奥本章寛君と「支える会」の記録―』

 

告発の行方2

 

8月30日に「奥本章寛君を支える会」が中津市で開催し、200人以上が参加した集会の様子

2010年3月に宮崎市で家族3人を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受けた男性が現在は最高裁に上告している事件で、その男性の減刑を求める支援活動が盛り上がっている。8月に大分県中津市で男性の支援者らが開催した集会には200人以上が参加。会では、被害者遺族の1人が最高裁に対し、死刑判決を破棄し、裁判を第一審からやり直して欲しいと訴える内容の上申書を提出していることも明らかにされた。

その死刑判決を受けている男性は奥本章寛被告(26)という。すでに上告審も9月8日の公判で弁護側が第一審への差し戻しか、死刑回避を求めて結審し、10月16日の判決公判を待つばかりだが、そもそもどんな事件で、奥本被告はどんな人物なのか――それを何回かに分けてレポートしたい。まずは8月の集会で、弁護人の黒原智宏弁護士が事件の概要について語った要旨を2回に分け、紹介する。

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この事件は平成22(2010)年3月1日未明、母子を含めて一家の3名が殺害された事件です。被害者は被告人・奥本章寛君の妻・くみ子さん(当時24)、長男・雄登くん(同生後5カ月)、義理の母・貴子さん(同50)の3名です。被告人にとって、この3名は同居していた家族でした。

なぜ家族の間で、こんな惨劇が起きたのか。被告人に関わっているすべての人々にとって大変不可思議に思える事件でした。それはとりもなおさず、誰もが奥本君はこういった事件と最も遠いところにある(人物)だろうという思いで、しっくりこなかったからだろうと思います。

◆「29名の社員の中でもピカイチ」

皆さんの周りに、こういう青年がいるだろうかとイメージして頂きたいと思います。いつも明るく、声をかけると、大きい声で挨拶を返してくれる青年。小中高と剣道部のキャプテンをしている人間。会社に入ってからは、社長が「うちには29名の社員がいるが、その中でもピカイチである。どこの現場にも自信を持って送り出せる」と評する青年。これらの人物のすべてを重ね合わせると、奥本章寛君その人になります。仕事も一生懸命でした。最後の仕事は土木作業員でしたが、宮崎とこの地(中津)を結ぶ高速道路、東九州自動車道の一部は奥本君の手によって舗装されています。

そのように仕事にも一生懸命でしたが、家族との間で難しい歪みが生じてしまいました。その背景には、奥本君が元々自衛官で、自衛官だったことが結婚の大きな理由だったという奥さん方の事情があります。(結婚する前に)奥本君は家族で協議の末、自衛官を退官し、宮崎で仕事に就き、妻のくみ子さん、その母である義理のお母さんの貴子さんと同居生活を始めることになりました。しかし、義理のお母さんは娘の幸せを祈る気持ちから、奥本君に自衛官を続けて欲しいという思いがありました。そして、奥本君はことあるごとに「なぜ自衛隊を辞めたんか」「自衛隊を辞めたお前は好かん」と厳しく叱責されます。

そのような同居生活に大きな変化が生じるのは、子供が生まれ、家族が1人増えてからです。アパートでは手狭だということで、家族は一戸建ての借家に引っ越し、4人での同居生活が始まります。4人の中で働き手は当時21歳の奥本君1人でしたので、奥本君は1人で家族4人の生活を支えようと一生懸命働きました。しかし、21歳の青年では大きな収入が得られるわけではありません。生活面、経済面で厳しい中、支えてくれたのは奥本君の古里である福岡県豊前の方々でした。両親が届けてくれるお米や野菜。「使いなさい」と渡してくれるお金。それらを奥本君はすべて、妻のくみ子さんに渡しており、そういう実家の支えがあって、なんとか家族4人の同居生活が始まったのです。

◆厳しい性格だった養母

ところが、義理のお母さんは性格的に厳しいところがあり、ことあるごとに先ほどのように奥本君を叱責します。奥本君は「自衛官を辞めたことがどうして、そんなに悪いことなんだろう」と考えますが、思い当たりませんでした。また、義理のお母さんは「(奥本君の)実家はなかなか援助をしてくれない。手伝ってくれない」ということも述べるようになりました。奥本君は「いや、野菜をもらったりしているじゃないですか」などと内心思いますが、性格上、そのことを口に出せませんでした。彼は「優しさ」「気配り」「気遣い」と共に「忍耐強さ」を備えていて、我慢に我慢を重ねる性格だったのです。

日々、奥本君が仕事を終え、夜自宅に帰ると、すでに家族の食事は終わり、ご飯はジャーからどんぶりに移してあり、それが流しに置いてありました。奥本君にとって、それは両親が届けてくれたお米だから、捨てるわけにはいかない。また、彼は小さい時、お婆ちゃんから言われていた「お米を粗末にしてはいけない。残してはいけない」という言葉を心に秘めていました。ですので、その流しに置いてあるご飯を食べます。そしてご飯の半分はその場でお弁当箱に詰め、翌日、お弁当として仕事に持っていっていました。

奥本君の帰宅時間は段々遅くなり、深夜10時、遅い時は11時を回るようになりました。そして土木作業員ですから、朝は4時に起きて、5時には現場に着いている。彼なりにお母さんとの衝突を避けようとして、そういう生活になったのです。

◆両親のことまで悪し様に言われ……

また、奥本君のご両親が雄登君のために、お古のベビー用品を持って来てくれたことがありましたが、義理のお母さんはこの時、目を合わせようとせず、当初は家にも上げようとしませんでした。子供のお下がりを渡すというのは愛情、親しさの表現であり、喜ばしいと感じるのが一般的だと思いますが、義理のお母さんはそうではなかったのです。そして奥本君のご両親が帰った後、奥本君に対し、「お前の両親は何しに来たんだ」「こんな物はいらん。お下がりはいらん」「バイ菌がついとる。汚い」「雄登がかわいくないんか」「普通は新しい物を買うじゃろうが。常識がないんじゃ」「(お前の実家は)雄登に何もしてくれん。くみ子にも結婚以来、何もしてくれん」と厳しく叱責を重ねました。

そんな中、奥本君はすくすく成長を続ける雄登君をなんとか実家に連れて帰り、両親のみならず、お爺ちゃん、お婆ちゃんに一度見せたいという夢を持っていました。そのチャンスは何回かありました。まず、平成21(2009)年の暮れ頃、家族で築城の航空自衛隊に航空ショーを見に行った時です。そこから豊前の実家までは目と鼻の先だったのですが、義理のお母さんは実家に行くのを許しませんでした。それから平成22(2010)年の1月には、家族で九州をほぼ一周する旅行をしています。その時も国道10号線を車で北上し、豊前の実家のすぐ近くを通るのですが、やはり義理のお母さんは実家に寄るのを許しませんでした。もっとも、この時は奥本君も「(自分の実家に)寄りましょう」という提案すらできませんでした。それは、(養母と自分の実家が)衝突することで家族の空気が悪くなるのを避けよう、みんながイヤな思いになるのを避けようという気持ちだったからです。

そしてこの頃、奥本君は1つの決断をします。「すべての原因は自分が自衛隊を辞めたことにある。ならば、自分が自衛隊に再入隊しよう。そうすれば、家族みんなが仲良くやっていけるんじゃないか」。奥本君はそう考えるようになり、実際に自衛隊のパンフレットを手に入れ、「一緒に自衛隊に入ろう」と友だちを誘い、自衛隊の試験の問題集も手に入れていたのです。また、厳しい家計を助けるため、夜のバイトを始めようと面接を受けに行ったりもしていました。彼はなんとか、問題の改善をしようとしていたのです。

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ここまでの話だけ見ても、奥本被告の減刑を求める支援活動が盛り上がっている事情はなんとなく察せられるのではないだろうか。そして黒原弁護士の話はいよいよ佳境に入る。このように奥本被告が問題の改善のために動き出していた中、今度は妻と実家の間で、あるトラブルが起きたというのだが――ここから先の話はまた次回お伝えする。

中津市の集会で事件の概要を説明する黒原弁護士

(片岡  健)

 

多数の犠牲者を出し、今もまだ行方不明の人が多くいる広島の土砂災害。連日、新聞、テレビが伝える現地の様子は痛ましい限りだが、地元広島では、災害の影響が意外なところに出ている。マスコミの記者たちが公判のたびに多数傍聴に集まっていた2つの事件の裁判で、災害発生以降、傍聴取材する記者が激減しているのだ。

 

8月26日の控訴審第3回公判後に広島弁護士会館で会見する煙石博さん、弁護人の久保豊年弁護士、北村明彦弁護士(左から)

 

◆多数の記者が取材していた2つの裁判だが・・・

まず1つは、昨年の夏ごろ、16~21歳の少年少女ら7人がLINEのやりとりの中で生じたトラブルから別の16歳の少女を集団で暴行して殺害した容疑で検挙された事件。

加害グループの中で唯一の成人だった瀬戸大平被告(22)が8月18日に始まった裁判員裁判で、強盗致死罪などに問われながら「運転手役として引き込まれただけ」と主張し、起訴内容の多くの部分で事実関係を争っている。この事件は発生当初に大々的に報道されたが、証人出廷してくる加害者グループの少年少女が語る犯行内容は報道のイメージ以上に凄惨で、筆者は毎回、何とも言い難い思いで聞き入っている。

もう1つの事件については、当欄ではすでに何度かレポートしている。地元放送局「中国放送」の元アナウンサー・煙石博さん(67)が自宅近くの銀行で先客が記帳台に置き忘れた現金6万6600円を盗んだと誤認されて窃盗罪に問われ、昨年11月に広島地裁で三芳純平裁判官から懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた冤罪事件だ。煙石さんは一貫して無実を訴えており、現在は広島高裁で控訴審が行われている。

いずれの事件も公判開始当初は筆者のみならず、地元マスコミの記者たちも多数傍聴にやってきて、一般の傍聴希望者も多く、傍聴券の抽選も大変な高倍率になっていた。しかし、土砂災害が発生して以降は様相が一変し、瀬戸被告の公判では記者席がいつも半分以上空席に。8月26日にあった煙石さんの控訴審第3回公判に至っては、傍聴席に記者の姿を一切見かけない状態だった。どうやら災害発生以降、いつもは裁判の取材をしている記者たちの多くが災害取材に駆り出されてしまったようなのだ。

◆逆転無罪に良い風が吹く元アナ冤罪裁判

テレビ、新聞のような大手報道機関にとって、何十人もの人が命を落とすほどの災害の様子を伝えるのは、大切なことであるのは間違いない。テレビを見ていたら、いつも裁判所で見かけた若い記者がヘルメットをかぶって登場し、土砂災害の現場から現地の様子をレポートしている姿を見たときには、「よく頑張っているなあ」と単純に感心させられた。とはいえ、何も世の中の人たちが災害情報ばかりを欲しているわけではないだろう。自分のようなフリーのしがないライターが存在する意義はこういう時にこそ見いだせるのだと筆者は思っている。

そういうわけで、上の2つの裁判のうち、煙石さんの控訴審第3回公判終了後に開かれた煙石さんと弁護団の会見を取材した動画を以下に紹介したい。弁護団は控訴審で「煙石さんは、被害者が置き忘れた現金入りの封筒に手を一切触れていない」と立証するため、「銀行店内の防犯カメラ映像を解析した鑑定書」を提出していたが、この公判では鑑定人の尋問を経て、鑑定書の証拠採用が決まり、逆転無罪判決に向けて非常に良い風が吹いている印象だ。会見の動画をご覧頂けば、その雰囲気をきっと感じ取ってもらえるはずである。

 

◎[動画]冤罪:煙石博さんと弁護団控訴審第3回公判後の会見(2014.8.26)
左から煙石博さん、弁護人の久保豊年弁護士(主任)、北村明彦弁護士。広島弁護士会館にて。

(片岡  健)

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悲惨なストーカー殺人事件が起こるたび、マスコミが必ず引き合いに出すのが、1999年に埼玉県で女子大生が刺殺された桶川ストーカー殺人事件だ。先日、三鷹市で女子高生が元交際相手のストーカー男に殺害される事件が起きた際、ストーカー規制法ができるキッカケにもなったこの事件を思い出した人は多いだろう。

この事件で被害女性にふられた弟のため、殺害を命じた「首謀者」とされ、無期懲役判決が確定した小松武史氏(47)にも「冤罪疑惑」があることは今年5月に当欄(http://www.rokusaisha.com/blog.php?p=2572)で紹介したが、実はその後、この事件をめぐって非常に理不尽なことがあった。小松氏の服役先の千葉刑務所が何ら理由を示すことなく、今年の夏ごろから筆者と小松氏の手紙のやりとりを全面的に禁じるという取材妨害を敢行してきたのである。

筆者は、昨年の春ごろからこの事件を再検証する取材を重ねてきたが、現在まで小松氏との面会は千葉刑務所側に一切認められていない。そのため、手紙のやりとりは、小松氏本人から事情を聴くための唯一の手段だった。冤罪事件の取材では、本人取材は非常に重要なことなのに、手紙のやりとりを禁じられ、その機会が完全に奪われてしまったのである。

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以前取材した冤罪事件で、再審請求がなされたというニュースが舞い込んできた。
再審請求したのは、和歌山刑務所で服役中の西山美香さん(32)。西山さんは2003年、看護助手として働いていた湖東記念病院という滋賀県の病院で、意識不明で寝たきりだった男性患者(当時72)に装着された人工呼吸器のチューブを外して殺害したとして翌2004年に殺人容疑で逮捕・起訴された。

逮捕当時24歳だった西山さんは、裁判では無罪を求めて最高裁まで争ったが、2007年に懲役12年の判決が確定。その後、2010年に大津地裁に再審請求したが、翌2011年に棄却されたのち、大阪高裁への即時抗告、最高裁への特別抗告も相次いで棄却された。このほど大津地裁に対して行った再審請求は、2度目の再審請求ということになる。

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元妻を殺害したとして起訴され、「疑惑の男」として全米の注目を集めたドリュー・ピーターソンというイリノイ州の元警察官が今月初め、州の裁判所の陪審団に有罪の評決を下されたというニュースが日本でもテレビなどで報じられて話題になった。報道によると、ピーターソン本人がテレビに出て無実を訴えるなどしたことから、事件は劇場化。亡くなった元妻が生前、ピーターソンにナイフを突きつけられたことなどを訴えていたと知人らが証言した「伝聞証拠」だけで有罪の評決が下されたことも議論を呼んでいるとか。

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和歌山県警の科学捜査研究所(科捜研)の男性主任研究員(49)が鑑定結果の捏造を繰り返していたという疑惑が報じられ、注目を浴びている。報道によれば、この男性研究員は担当した交通事故、無理心中などの8件の鑑定について、上司への説明資料を作成する際に別事件のデータを流用するなどした疑いがもたれているという。

そんな中、この疑惑を熱心に報じている「YOMIURI ONLINE」に8月21日、《和歌山県警鑑定捏造 科捜研職員を書類送検へ》という気になる記事が出た。この記事によれば、和歌山県警はこの研究員を虚偽公文書作成・同行使と有印公文書偽造・同行使の疑いで書類送検する方針を固めたという。つまり、このような多数の余罪があることが疑われる類の事件で、和歌山県警はこの研究員を逮捕せず、書類送検で捜査を終結させようと考えているらしい。そのこと自体がどうかと思うが、この記事の中でさらに気になったのが記事の末尾の以下のような文章だ。

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元検事の市川寛さんのことは多くの方がご存知だろう。
市川さんは佐賀地検の三席検事だった11年ほど前、農協の組合長だった被疑者の男性を取り調べ中に「ぶち殺すぞ!」と恫喝するなどし、自白調書に署名させて起訴に持ち込んだ。しかしその後、良心の呵責に苦しんだ末、組合長の公判で自分の暴言を告白し、無罪判決が出ることに寄与。さらに弁護士に転身後、この事件を冤罪として取り上げたテレビ番組に実名顔出しで出演し、亡くなった組合長の親族に土下座して謝罪したことから一躍、全国的に有名になった。以来、「検事失格」という著書や講演などを通じて検事時代の経験を世に伝え、検察組織の問題を当事者の視点から体験的に語れる人物として注目を浴びている。

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「事実は小説より奇なり」というのは、たしかにその通りなのだろう。生きていると、「小説でもこんなことはないだろう」と感じるような不思議な出来事にしばしば遭遇するものだ。
しかし、筆者は冤罪事件を色々取材するようになってから、この言葉にある種の胡散臭さを感じるようになった。「小説より奇なり」と感じるような「事実」を見聞きしたら、まずはその「事実」が本当に事実なのか否かを疑うべきだと思うようになったのだ。

きっかけは、和歌山カレー事件だった。この事件は14年前の発生当初、「小説より奇なり」と感じるような「事実」がマスコミでずいぶん色々報じられていた。それはたとえば、こんな「事実」である。
この事件の犯人である女性は、事件以前、夫と共謀して様々な手口で保険金詐欺を繰り返していた。その中では、夫にも何度か死亡保険金目当てでヒ素を飲ませたことがあった。夫はそのせいで何度かヒ素中毒に陥って死にかけたが、それが妻の仕業とはまったく気づかず、妻のことを疑うことすらなかった。そして夫婦は騙し取った多額の保険金で一緒に贅沢な暮らしを続けていた・・・。

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