平野義幸さん(当時38歳)は、2003年1月16日、京都市下京区の自宅で火災が発生し、女性が焼死した事件で、その後殺人と現住建造物放火の罪で逮捕されました。平野さんは一貫して無実を主張しましたが、検察は無期懲役を主張、2005年京都地裁は、懲役15年の判決が下しましたが、2006年大阪高裁は審理を行わないまま、平野さんが「反省していない」などを理由に一審判決を破棄し、無期懲役を言い渡しました。その後上告も棄却され、現在、平野さんは徳島刑務所に服役中です。

俳優時代の平野さん

◆「恩人」を殺せるわけがない!

焼死したМさんは平野さんの交際相手でした。三池祟史監督「荒ぶる魂たち」「新・仁義の墓場」などに大地義行の芸名で出演した俳優の平野さんは、事件前の1年間に、兄貴分の男性、親友の俳優(菅原文太さんのご長男、踏切事故で死亡)、妻を立て続けに亡くし、自暴自棄に陥っていました。そんなとき「あんたは絶対俳優やらないとあかん」と励ましてくれたのがМさんで、背中を押された平野さんも再び俳優をやる気になっていました。

火災が起きた日、平野さんは午後から東京で行われる深作欣二監督(2003年1月12日死去)の告別式に出席予定で、その際、映画関係者に自身をプロモートしようと、1階で準備をしていました。平野さんがМさんのいる2階に上がると、階段上付近に灯油ストーブのカートリッジが倒れ、そばにМさんが座り込んでいました。平野さんが「何をしているのか?」と尋ねると、Мさんは「あんた、誰?」などとおかしな様子でした。実は、当時平野さんもМさんも覚せい剤を使用することがあったため、平野さんはМさんがいつのまにか覚せい剤を使用し、おかしくなったのではと考え、何かしでかすとまずいとМさんの手足を縛り、舌をかまないように口にハンカチを詰め、上にガムテープを貼りました。

その後、平野さんが1階で用事をしていると、2階でドーンと音がしたので慌てて上がると、南側ベッド付近でМさんが倒れていました。平野さんはМさんが苦しくて倒れたと思い、口のガムテを取り手足も緩め、こぼれた灯油を拭くため布とごみ袋を取りに1階に降りました。

火災が発生した2階のイラスト(裁判資料より)

◆一瞬で「熱傷死」したМさん

1階で準備していた平野さんが、Мさんのなんともいえない声を聞き、慌てて2階に上ると、Мさんのいた南側ベッド付近に火が見えました。平野さんはМさんをベッドに引き上げようとしましたが重くて上げられなかったため、燃えている物を取り上げ斜め後ろに放り投げ、火を消そうと布団を火に被せましたが、逆に燃え上がってしまいました。平野さんは、1階に下り、風呂の水をバケツに入れ、階段の途中からかけたり、消火スプレーで消そうとしましたが効果がないため、表に駆け出し救助を求めました。その後も、平野さんは、燃えさかる家に何度も入ろうとしたため「このままでは義くん(平野さん)の命が危ない」と、近所の人が数人で「膝カックン」(膝の後ろを押して膝をつかせる)して止めたことが裁判でも証言されていますし、一緒に救助に入ろうとしたWさんら2名の検面調書も存在します。

しかし、検察は、灯油を撒き火をつけ、手足を縛られ動けないМさんを焼死させることができるのは平野さんしかいないと主張、そのため出火場所を、Мさんのいた南側ベッドから「離れた」北側ベッド北西角付近としました。その付近は1階へ降りたり、上の洗濯場に上る階段があり、風通しがよいためよく燃えてはいますが、さらに燃えていた場所がありました。それがМさんの遺体が発見された南側ベッド付近です。

Мさんの遺体は真っ黒に炭化しており、解剖の結果、血中の一酸化炭素ヘモグロビンが105と極端に低く、気管などに煤片などもほとんど混入していないことなどから。出火と同時に瞬時に亡くなった「熱傷死」とされました。無残な亡くなり方ではありますが、一審判決のように「迫りくる炎の恐怖となぜ被告人からそのような目に逢わされなければならないのかという混乱の中で命を落と」した状態でなかったことは明らかです。

平野さん宅のイラスト(裁判資料より)

◆自殺をほのめかしていたМさん

平野さんと弁護団は、裁判でМさんが覚せい剤を使用していたことから精神的な錯乱状態を起こし、発作的に焼身自殺を図ったのではないかと主張しました。というのも、Мさんは平野さんと交際しながらも、「目の前から消えます」「タブーを犯してしまった」「私は死にました。今の私は来世に向かって生きているのです」などと、自殺をほのめかすような言葉を多数ノートなどに書いていたからです。

検察はМさんの遺体が、炎から身を守ろうとする「ボクサースタイル」をとっていないことについて、Мさんの手足が縛られたままだったからと主張しました。しかし、遺体を解剖した安原正博教授は「死に至る時間があまりにも短く、瞬時だったので、そういうスタイルをとっていなくても不自然ではない」と証言、また「手の曲がり方が縛られていたため」という検察の主張についても、「(もしなんらかの形で両手が緊縛されていれば)曲がり方が制約される」と否定的な所見を述べています。さらに「このような熱傷死の場合は、焼身自殺の場合を除外すると極めて少ない」とМさん自殺説を裏付けるような証言も述べていました。

◆自己矛盾した検察の主張で「無期懲役」とは?

検察は、冒頭陳述では、出火点は北側ベッド北西角とし、出火前Мさんがいた南側ベッドと「離れている」から、平野さんにしか放火できないとしていました。しかし「論告求刑」では、Мさんが出火前にいた場所を北側ベッド北西角付近に変更しました。炭化したМさんの遺体から、火災発生から瞬時に焼死したことが鑑定でも明らかになっているからです。検察は、出火点と出火前、Мさんがいた位置は「離れているがゆえに、Мさんの着火行為は否定できる」とした冒頭陳述を、自ら否定せざるをえなくなったのです。

そもそも平野さんに、長年住み思い出の詰まった自宅を放火したり、新たな映画のオファーを投げうってまで、Мさんを殺害するような「動機」はありません。火災後、平野さんも覚せい剤使用で逮捕されましたが、その件で平野さんを担当した検事は、現場検証を何度も行ったうえで「放火で逮捕はない」と断言していました。にも関わらず、その後代わった若い検事がいきなり平野さんを凶悪な「放火殺人犯」にしたてたのです。

確かに平野さんも覚せい剤を使用したり、傷害事件なども起こしています。しかし、過去に悪事を働いた人が、それを理由に、やってもいない事件の犯人とされていいのでしょうか。しかも検察は、平野さんの無実を証明する多くの証拠を未だに隠したままです。例えば、消防署から消防車が出動し、消火活動を行えば、必ず「出勤記録」「活動記録」が作成されますが、検察はそれらを開示していません。実際の火災現場で消火活動にあたった消防隊員らの証言などが事件解明に重要であることは、青木恵子さんの東住吉事件の国賠訴訟で、実際の火災現場で消火活動にあたった消防隊員の証言が事実であったことからも明らかです。しかし、検察は、現場で消火活動に携わっていない消防隊員Tさんを法廷に立たせ、出火場所を「北側ベッド北西角付近」と証言させたのです。

請求の準備に向けたクラウドファンディングが3月2日から開始されました。ぜひ、みなさまのお力をお貸しください。

◎19年間、無実を訴え続ける無期懲役囚に真相解明のチャンスを下さい!◎
平野義幸さんを支援する会/代表:青木惠子
https://readyfor.jp/projects/save_yoshiyuki_hirano 

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年4月号!

1961年、三重県名張市の小さな村でおきた名張毒ぶどう酒事件の第十次再審の異議審で、名古屋高裁が3月3日に再審開始の可否の判断を出すことが分かった。元死刑囚・奥西勝さんは、第九次再審請求中の2015年10月、89歳で病気で獄死、兄の意思を受け継いだ妹・岡美代子さんが第十次再審請求を申し立てたが、2017年10月に棄却、岡さんは異議を申し立てていた。

◆ぶどう酒に毒を入れることができたのは、奥西さんだけだったのか?

村の懇親会で出された毒ぶどう酒を飲み、女性5名が死亡、12名が重軽傷を負ったこの事件で、奥西さんが犯人とされたのは、死亡した女性のなかに奥西さんの妻と愛人がいたことから、「三角関係を解消しようと犯行に及んだ」ととされたからだ。奥西んさんは一旦は自白に追い込まれたが、それ以降は一貫して無実を訴えていた。

物証や目撃証言が乏しいなか、検察は村人から聞き取り調査を行った際、とりわけ会長に頼まれぶどう酒を購入したAさんが、何時に会長宅に瓶を届けたかが焦点となった。結局、Aさんの供述は当初の「午後2時」から、奥西さん自白後に「午後5時」に変わり、ならばその後、公民館にぶどう酒瓶を運び、一人になった奥西さんしか毒を入れることはできないとされた。

さらに、他の村人の証言も、奥西さんの自白を前後して不自然に変遷したが、わずか8戸(当時)の小さな村内で、どうしても犯人を捜す必要にかられ、村人は警察官を交えた「話し合い」で、消去法で奥西さんを犯人にするしかなかったようだ。

しかし、津地裁は、こうしたからくりを「検察官のなみなみならぬ努力の所作」と皮肉を込めて批判し、一審で奥西さんに無罪を言い渡した。これを不服とした検察が控訴、名古屋高裁は、ぶどう酒瓶の王冠についた歯形が奥西さんの歯形と位置するとして、一審・無罪判決を破棄し、逆転死刑判決を言い渡し、1972年刑が上告が破棄され、刑が確定した。死刑囚となった奥西さんは、獄中から第一次から第四次までの再審請求を、自身で申し立てたが、いずれも棄却。その後、日弁連によって弁護団が結成され、再審で次々と奥西さんが犯人でないとの証拠が暴かれていった。

第七次再審請求審で、2005年4月5日、名古屋高裁(刑事1部)小出(金へんに亨)一裁判長は、再審開始と奥西さんの死刑執行の停止を決定したが、検察は、即座に異議を申し立た。2006年12月26日、名古屋高裁(刑事2部)門野博裁判長は、再審開始決定を取り消したが、2010年4月、最高裁は決定を取り消し、名古屋高裁に差し戻した。しかし、2012年5月25日、差し戻し後の異議審・名古屋高裁(刑事2部)下山保男裁判長は、再審開始決定を取り消し、請求を棄却、2013年年10月16日、最高裁もこれを追随した。

◆奥西さん、無念の獄死と第十次再審請求へ

2012年、肺炎を患い、名古屋拘置所から東京八王子医療刑務所に移送された奥西さんは、2015年10月4日、第九次再審請求中に無念の獄死を遂げた。11月6日、兄の意思を受けついだ妹・岡美代子さんにより第十次再審請求が申し立てられた。

これに対して、名古屋高裁(刑事伊津部)山口裕之裁判長は、2年もの間、「三者協議」を開かないまま、2017年12月8日に請求を棄却、その後、異議審を審議する名古屋高裁(刑事2部)・高橋徹裁判長も同様に、2年間「三者協議」を開かず、放置していた。これに対して、弁護団は3回にわたって裁判官らの「忌避」を申し立てたが、高橋裁判長はこれを却下し続けながら2019年11月1日、とつぜん依願退官したのであった。無責任極まりない対応だが、これも3度にわたり「忌避」を申し立てたり、裁判所へ抗議を続けた弁護団、支援者らの活動の成果であることは間違いない。そして、新たな裁判長への交代が、長い審議放置の暗闇に一筋の光を灯すこととなったのである。

◆裁判長交代で、59年ぶりに開示された新証拠

鹿野(かの)伸二裁判長が新たに就任するや、長く放置されていた裁判が慌ただしく動き始めた。弁護団の面談の申し入れに、裁判長もなるべく早くすると答え、12月8日には面談が実現。弁護団は、そこで、申立人の岡さんが高齢であるため、早急な解決を望むこと、ぶどう酒瓶に撒かれた封かん紙の裏側に付着するのりの成分の再鑑定を許可してほしいこと、更に検察官が未提出の証拠開示について、裁判所からも強く開示するよう働きかけてくれるよう訴えた。

2020年1月10日、検察官がようやく提出してきた意見書には、少なくとも7名の村人の9通の未開示の警察官調書があることがわかった。検察はこれらについて「開示する必要はない」と主張したが、裁判所が強く開示を求めたため、3月3日、事件から59年ぶりに、9通の調書が開示された。

9通の調書は、いずれも奥西さんが自白した4月2日よりも前、事故直後の村民の記憶が鮮明な時期に作成されたものだが、そこには、奥西さんの「自白」と矛盾する驚くべき事実が書かれていた。7名のうち女性2名と男性1名は、親睦会の席上で開けられたぶどう酒瓶には、封かん紙がまかれていたと供述していた。奥西さんの自白では、ぶどう酒瓶に毒物を入れるため、火鋏で瓶の外蓋を突き上げて外した際、外蓋にまかれた封かん紙も破れ、外蓋と一緒に落ちたままにしたというものだった。その自白通りならば、親睦会が始まる前に村人が見たぶどう酒瓶は、封かん神はまかれておらず、内蓋が絞められただけの状態であったはずだ。

しかも、これらの村人の供述は、もうひとつの奥西さんを無実とする証拠、すなわち封かん紙の裏側に製造過程で使ったのり(CMC糊)の成分のほかに、家庭で使う選択糊(PVA糊)の成分が検出されていたとする弁護団の新たな証拠とも合致するのだ。

実は、この糊の成分測定は、第十次再審請求時にも実施しており、製造過程と別の成分が検出されたため、鑑定書を提出し「真犯人が別の場所で毒物を入れ、封かん紙を貼り直した証拠だ」と主張していた。しかし、名古屋高裁は、分析結果が誤っていると否定し、請求を棄却していたのである。

弁護団は、新たな裁判長の許可を得て、再度測定を実施した。その結果、前回同様、家庭で使われる選択糊に含まれる成分が検出されたのであった。

◆検察官はすべての証拠を開示すべきだ

審議をさらに進めるために弁護団は、当時、警察から検察へ送致された証拠などを独自に整理し、「送致証拠整理表」を作成した。そこには多数の空白が存在していることがわかった。その空白は未開示の証拠である。中でも、村民らの供述調書と考えられる部分が多数あり、少なくとも村民の未開示の供述調書が50通も存在することがわかった。ここには、当然、奥西さんを無実をとする証拠、つまりぶどう酒瓶が会長宅に届けられた時刻がいつかを明確にさせる証拠などもあるはずだ。

前述したとおり、奥西さんにしか毒を混入できる人物はいないとしたのは、村人らの「ぶどう酒瓶到着時刻」がその後次々と変遷したからだが、その合理的理由は説明されておらず、しかも当初の村民の供述調書も開示されていない。

改めて整理すると、ぶどう酒を親睦会で女性らに提供すると決めたのは会長で、しかも当日朝だ。そして会長に頼まれぶどう酒を購入し、会長宅に運んだAさんが、到着時間を変遷させ、最終的には5時前に運んだとした。その後まもなく会長宅から公民館にぶどう酒を運んだ奥西さんしか、毒物を混入できる人物はいないとされたてきた。しかし、59年ぶりに奥西さんの無実を証明する証拠隠しが明らかになったのだ。検察は直ちにぶどう酒が何時に会長宅に届いたか、正確な時刻を証明する必要証拠を開示すべきだ。警察管にむりやり供述を変えさせられた村民もまた、警察、検察らの犠牲者なのだから。人の心をもった鹿野裁判長には、3月3日、ぜひ、再審開始の決定を岡さんに言い渡していただきたい。


◎[参考動画]映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』予告編(東海テレビ放送配給 2013年1月11日)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

1992年2月20日、福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、犯人として処刑された男性・久間三千年さん(享年70)に冤罪の疑いがあることで有名だ。久間氏は一貫して容疑を否認していたうえ、有罪の決め手とされた警察庁科警研のDNA型鑑定が実は当時技術的に稚拙だったことが発覚したためだ。

私は2016年に編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社・2021年に内容を改訂した電子書籍も上梓)を上梓した際、この事件の捜査や裁判に関わった責任者たちを特定し、この事件にどんな思いや考えを抱いているかを直撃取材したことがある。事件から30年になる今、同書に収録された責任者たちの声を改めて紹介したい。

第3回は法務大臣・法務官僚編(所属・肩書は取材当時)。

◆座右の銘に反する態度で取材拒否した法務大臣

個々の死刑囚の死刑執行の可否については、法務省で審査される。その結果、死刑を執行して構わないと判断された死刑囚については、法務大臣の命令により死刑が執行される。そこで、久間氏に対する死刑の執行命令を発出した法務大臣と死刑執行を決裁した法務省の官僚たちにも取材を申し入れた。

まず、法務大臣だった森英介氏。2008年9月に法務大臣に就任し、その翌月に久間氏に対する死刑執行命令を発した森氏は、取材当時も現職の衆議院議員だった。電話とファックスで取材を申し入れたところ、担当秘書から次のような回答があった。

「森に確認したところ、とくにお答えすることがないと申しております」

公式ホームページによると、森氏の座右の銘は「人生の最も苦しい、いやな、辛い損な場面を真っ先に微笑をもって担当せよ」であるそうだが、森氏の態度はこれに反するように思われた。

◆法務事務次官は強い拒絶の意思が感じられる文面で取材拒否

一方、死刑執行を決裁した法務官僚は計11人存在するが、その中から2人に取材を申し入れた。

まず、法務省の事務方ではトップの事務次官だった小津氏。1974年の検事任官以来、主に法務省で勤務し、最終的に法務・検察の最高位である検事総長に上り詰めたエリートだ。退官後は弁護士に転じ、トヨタ自動車や三井物産の監査役を務めている。

小津氏に手紙で取材を申し入れたところ、次のような返事の手紙が届いた。

〈6月16日付のお手紙拝受いたしました。小生に対する取材のお申し込みですが、退官後、このような取材は全くお受けしておりません。この度のお申し出もお受けすることはできませんので、悪しからずご了解いただき、今後の連絡もお控えいただきますよう、お願いいたします。用件のみにて失礼いたします。〉

言葉は丁寧だが、強い拒絶の意思が感じ取れる文面だ。

小津氏は最高検の次長検事だった2009年、郵便不正事件で無罪判決が確定した厚生労働省元局長の村木厚子氏(のちに同省事務次官)に面会し、謝罪している。久間氏の再審が実現し、無罪判決が出た場合にも潔い態度をとってもらいたいものだ。

法務省。久間氏の死刑はここで決裁された

◆検事総長に代わって取材を断る検察事務官までナーバスに

法務官僚の中から取材対象者に選んだもう1人は、刑事局長だった大野恒太郎氏だ。法務省において、久間氏の死刑執行に問題はないか否かを検討し、死刑執行に必要な文書を起案したのが刑事局だからだ。

大野氏も検事任官後、主に法務省で勤務し、取材当時は小津氏の後任として法務・検察の最高位である検事総長の地位にあった。そんな大野氏に手紙で取材を申し入れたところ、最高検企画調査課の検察事務官から電話がかかってきた。

「今回の取材申し入れに関しては、大変恐縮なんですが、お断りさせて頂きたいということです」

いかなる理由で取材を断るのか尋ねると、「とくに賜っておりません」とのこと。取材を断られたのは予想通りだったが、大野氏はもちろん、周辺の検察職員たちも飯塚事件関係の取材にはナーバスになっている雰囲気が窺えた。

以上、今回まで3回に渡って、冤罪処刑疑惑のある飯塚事件の捜査、裁判、死刑執行に関わった責任者たちへの直撃取材の結果を紹介してきたが、誰もが飯塚事件にやましい思いを抱いていることがおわかり頂けたのではないかと思われる。

この取材結果を最初に紹介した前掲の私の編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』では、久間氏本人が死刑執行直前に綴っていた手記を掲載しているほか、死刑執行手続きに関与した2人の福岡高検検事長が私の取材に応じ、死刑執行の杜撰な内幕を明かしたコメントも紹介している。関心のある方は参照して頂きたい。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

1992年2月20日、福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、犯人として処刑された男性・久間三千年さん(享年70)に冤罪の疑いがあることで有名だ。久間氏は一貫して容疑を否認していたうえ、有罪の決め手とされた警察庁科警研のDNA型鑑定が実は当時技術的に稚拙だったことが発覚したためだ。

私は2016年に編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社・2021年に内容を改訂した電子書籍も上梓)を上梓した際、この事件の捜査や裁判に関わった責任者たちを特定し、この事件にどんな思いや考えを抱いているかを直撃取材したことがある。事件から30年になる今、同書に収録された責任者たちの声を改めて紹介したい。

第2回は裁判官編(所属・肩書は取材当時)。

◆確定死刑判決を宣告した裁判官は強固な姿勢で取材拒否

一貫して無実を訴えた久間氏に対し、裁判の第一審で死刑判決を宣告したのは福岡地裁の陶山博生裁判長だ。この死刑判決を控訴審で福岡高裁の小出錞一裁判長、上告審で最高裁の滝井繁男裁判長が追認し、久間氏の死刑は確定した。この3人の裁判長のうち、滝井氏は2015年2月に78歳で死去しており、残る2人に取材を申し入れた。

陶山氏は2013年3月、福岡高裁の部総括判事を最後に依願退職し、現在は福岡市を拠点に弁護士をしている。

私は以前、本書とは別の仕事で陶山氏に取材を申し入れたことがあり、その時は電話で取材を断られたため、氏が所属する羽田野総合法律事務所の入ったビルの前まで訪ねて再度取材依頼したのだが、「全然お話するつもりはありません」「黙秘です」「急ぎますので」などと頑なに拒否された。

そして今回、改めて取材依頼の手紙を出したうえ、返事を聞くために事務所に電話したのだが、陶山氏は電話にも出てくれなかった。取材拒否の姿勢がいっそう強固になった印象だった。

福岡高裁・地裁の旧庁舎。ここで久間氏は死刑判決を宣告された

◆控訴審の裁判官からは丁重に取材を断る手紙が届いたが……

一方、控訴審の裁判長だった小出氏は2006年2月に名古屋高裁の部総括判事を最後に依願退官。その後は2012年まで専修大学法学部で教授を務め、取材当時は大学生らに奨学金の給与などを行う中山報恩会という公益財団法人で選考委員に名を連ねていた。

手紙で取材を申し入れたところ、小出氏から以下のような返事があった。

〈お手紙の転送を受け、拝見いたしました。ご丁重なお手紙をありがとうございました。

担当した事件については、すべて、立場上、 取材をお受けすることはできないと考えております。これまで、担当した少なからぬ事件について、新聞社、放送局の記者、そのほかのジャーナリストの方々からこのような申し込みをいただいたことがありますが、趣旨如何にかかわらず、すべてお断りして参りました。担当しない事件などについてのコメントを退官後求められることも少なくありませんでしたが、小生としてはこれもすべてお断りしてきております。

そのようなわけで、取材のご希望は一切お受けすることはできませんので、今後はご放念いただきたく、よろしくお願しい申し上げます。

末筆ながら、今後のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。〉

誠実さを感じさせる文面だが、実を言うと、小出氏は名古屋高裁の裁判長だった2005年、世間の多くの人が冤罪と信じる名張毒ぶどう酒事件の奥西勝死刑囚に対し、再審を開始する決定を出した裁判でもある(この再審開始決定は検察官の異議申し立てをうけ、同高裁の門野博裁判長に取り消された)。そのため、冤罪問題に詳しい人たちの間でも小出氏の評判は決して悪くない。

そんな裁判長でも飯塚事件のような酷い死刑判決を追認してしまうところに、事実を見きわめる難しさが示されている。(つづく)

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

1992年2月20日、福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、犯人として処刑された男性・久間三千年氏(享年70)に冤罪の疑いがあることで有名だ。久間氏は一貫して容疑を否認していたうえ、有罪の決め手とされた警察庁科警研のDNA型鑑定が実は当時技術的に稚拙だったことが発覚したためだ。

私は2016年に編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社・2021年に内容を改訂した電子書籍も上梓)を上梓した際、この事件の捜査や裁判に関わった責任者たちを特定し、この事件にどんな思いや考えを抱いているかを直撃取材したことがある。事件から30年になる今、同書に収録された責任者たちの声を改めて紹介したい。

第1回は捜査関係者編(所属・肩書は取材当時)。

◆嘘をついて取材を回避した福岡県警本部長

まず、福岡県警が久間氏の逮捕に踏み切った際、県警本部長を務めていたのが村井温氏。取材当時は実父が創業した大手警備会社、綜合警備保障の代表取締役会長の地位にあった。私の取材依頼に対し、同氏の秘書はこう回答してきた。

「村井は警察時代の職務については、取材を受けないようにしているとのことです」

しかし調べたところ、「賢者グローバル」という無料動画配信サイトには、村井氏が同サイトの取材に応じ、福岡県警本部長時代に「一万何千人」もいた部下をいかにマネージしたか、当時の経験が今の会社でいかに役立っているかを笑顔で語っている動画がアップされていた。村井氏は嘘をついてまで取材を回避したわけで、それはつまり飯塚事件にやましい思いがあるということだ。

◆取材を断る理由も説明しなかった福岡地検検事正

一方、久間氏を起訴した福岡地検の村山弘義検事正はその後、法務・検察の世界では検事総長に次ぐナンバー2のポスト・東京高検検事長まで出世している。1999年に弁護士に転身後は三菱電機やJTに社外監査役として迎えられ、外部理事を務めた日本相撲協会では2010年の大相撲野球賭博騒動の際に理事長代行も務めている。

村山氏に手紙で取材を申し込んだうえ、返事を聞くために電話をしたところ、村山氏本人がこう回答した。

「実は昨日付けで返事を差し上げました。ご要望には沿いがたいということで、取材お断りの趣旨のことが書いてあります」

そこで取材を断る理由を尋ねると、「理由なんか申し上げることはありません。色々考えて、お断りしたということでございます」とのこと。この事件について何か語るべきことがないのかと尋ねても「そんなことを申し上げることもありません」、冤罪だと思っていないということかと確認しても「はいはい、すみません」という感じで、とりつく島がなかった。

後日、入れ違いで届いた返事の手紙には「取材お断りの趣旨」が簡潔に綴られているのみだったが、飯塚事件に関与した過去に触れられたくないという強い意思が感じ取れた。

◆問題のDNA型鑑定を行った科警研技官たちも沈黙

一方、有罪の決め手になったDNA型鑑定を行った科警研の技官は、坂井活子(いくこ)氏、笠井賢太郎氏、佐藤元(はじめ)氏の3人だ。警察庁によると、坂井氏は2007年3月31日付けで、佐藤氏は2011年3月31日付けでそれぞれ定年退職しており、同庁にはこの2人への取材の取次を依頼したが、断られた。

残る1人の笠井氏は取材当時も科警研で勤務していたが、手紙で取材を申し入れたうえ、意思確認のために科警研に電話をしたところ、総務課の職員に笠井氏への取次を頑なに拒否された。そこで笠井氏には再度、返信用の郵便書簡を同封した手紙により、取材を受けるか否かの返事をくれるように依頼したが、音沙汰はなかった。

以上の通り、久間氏を処刑台に送った捜査関係者たちの中には、冤罪処刑疑惑に関する取材に真正面から応じる者は皆無だった。(つづく)

福岡拘置所。ここで久間三千年氏の死刑が執行された

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号!

1995年に起きた東住吉事件の冤罪犠牲者・青木恵子さんが、再審無罪後、国と大阪府に国家訴訟を提訴した件で、昨年9月の結審後、大阪地裁・本田能久裁判長が「和解勧告」を出していた(昨年12月2日付けデジタル鹿砦社通信参照)。国賠訴訟で和解勧告が出されるのは極めて異例だ。裁判長は「私が正しい判決を出しても、また控訴、上告され、裁判が長引き、青木さんの苦しみが続く。だから私たちで裁判を終結させたい」と述べ、青木さんは感動で胸がつまり、すぐには返答できなかったという。

和解には、国と府の謝罪と何故冤罪が起きたかの検証も入るとのことだったため、青木さんは和解に応じ、大阪府も和解を前向きに考えると協議のテーブルに着いたものの、国は、一旦持ち帰って返答するとしていたが、その後の裁判所の呼びかけには一切応じていない。

昨年12月23日の協議に、国が応じず和解が決裂した場合、弁護団が会見する予定だった。この日も国は出廷しなかったが、裁判長が「もう一度説得したい」と申し出、会見は延期となっていた。そして1月12日、いよいよ和解は決裂し、その後の会見で、これまで伏せられてきた和解勧告の中身が公開される予定だった。

14時半から始まった協議は長引き、40分後司法記者クラブの現れた青木さんは少し疲れた様子だった。今日も国は出廷しなかったが、裁判長は再度説得にあたるので、来週まで結論を待ってくれというようだ。しかし、来週は青木さん、弁護団とも多忙であること、決裂はほぼほぼ決まりであることなどから、本日(1月12日)、会見が開かれた。

協議後の記者会見。裁判所が来週まで説得に当たるとなり、疲れた様子の青木さん

◆「青木恵子氏は完全に無罪であり、もはや何人もこれを疑う余地はない」

昨年11月29日、第一回目の和解協議後に店に寄った青木さん。裁判長らから暖かい言葉を貰い、ほっとした様子だった

「冤罪の『冤』の文字は、ウサギが拘束され、脱出することが出来ない状態を表しているが、一説によれば、この文字は、漢(紀元前206年~220年)の隷書の時代から見られるようである……」から始まる「和解勧告」が参加者に配布され、加藤弁護士が説明を行った。昨年11月、裁判所が和解勧告にあたって双方に提出した所見だが、国への説得が続くため、和解条項は公表されなかった。加藤弁護士は「和解はほぼほぼ99%ないだろうと判断している。来週半ばには正式に打ち切りが決定されるとは思っていますが、裁判所のご努力については尊重していきたいと思います」と説明を始めた。

「青木さんは完全に無罪であり、もはや何人もこれを疑う余地はない」

「しかし、青木恵子氏が今もなお苦しみ続けていることは、疑いのない事実である。このような悲劇が繰り返されることを防止するとともに、冤罪により棄損された国民の刑事司法に対する信頼を回復・向上させるためにも、刑事手続きに関わる全ての者が全身全英をもて再発防止にむけて、取り組むべきであることについては、民事責任を争う被告らにおいても、否定されないと信じたい。青木恵子氏も、二度と冤罪が繰り返されない社会の実現を切望して、本件訴えを提訴されたと述べられている」。

次に、和解のために必要な限度で、争点についての所見を示すとして、大阪府に対しては、取り調べ報告書の記載内容だけでも青木氏に対して相当な精神的圧迫を加える取り調べが行われていることが明らかである。国についても、その取調報告書の取り扱いについて(その報告書を見て起訴していること、公判で、弁護団から開示を求められたが拒否していること)、あるいは警察官の証人尋問に関する検察官の対応についての疑問は、同居男性が自ら警察署に赴き、自供書を作成したなど、もろもろ虚偽の事実を述べていた件については、検察官も偽証であることはわかっていたはずだということを意味していること。これらについて裁判所は、被告の国と大阪府に対して連帯して和解金を支払うことを求めるということ。勧告書は最後に「古来繰り返されてきた冤罪による被害を根絶するための新たな一歩を踏み出すべく、当裁判所は、下記の通り和解を勧告する」と締めくくられていた

その後、青木さんが感想を述べた。「和解が成立することを望んでいたが、国が応じないということで本当に許せない思いです。裁判所は異例にも関わらず、和解を出してくれ、私の裁判を終わらせてくれようとしたのですが、国が応じないということで、国はこれからも冤罪を作るんだという、それを自ら発言したのと同じだと思っています。反省も検証もしない、そしてこれからも冤罪を作り続けていく国が本当に許せない。あの人たちはどういう考えなのか! 再審でも、国は『有罪立証をしない、裁判所に委ねる』と言い、自分たちの意見を言わずに終わらせました。そして私が国賠を提訴すると、私の本人尋問で、(国は)1時間必要といっていたが、1つも質問しませんでした。何もかも放棄し、裁判所の和解案にも一度聞きにきただけで、それ以降は協議の席に全く着かなかった。裁判所は再三に渡って説得を試みると言ってくれましたが、それでも応じない。怒りでいっぱいです。判決で私たちは国と大阪府の違法性を認めてもらったら、控訴せずに終え、刑を確定したいと思ってますが、これでまた検察に控訴されたら、再び怒りが沸いてくると思います。こんなおかしい国の態度をもっとマスコミの皆さんも批判して頂けたらと思います」。

昨年8月27日、東京高裁で桜井昌司さんの国賠訴訟で完全勝利判決が下された日、高裁前でアピールを行う青木さん

昨年9月16日長くかかった裁判の終結後に行った記者会見で

◆放火でないと知って「起訴」した検察

国はなぜ頑なに和解に応じようとしないのか? 国は全く悪くないと考えているのか? そうであるならば、弁護団の最終総括から、国(検察)がいかに深く関与し、この冤罪を作ってきたかを検証していこう。

1995年9月10日、任意同行された青木さんと同居男性が、警察の違法な取り調べで「自白」に追い込まれたことは、再審無罪判決で明らかになっていた。「お前がやったんだろう」と怒鳴られながらも、否認を続けていた青木さんを自白に追い込んだのは、男性がめぐみちゃんに性的虐待を行っていた事実を突然ぶつけられたからだ。しかも「息子も知っていた」などと嘘をつかれ、「どうなってもいい、早く房に戻って死にたい……」との思いから自白に追い込まれていった。

この経緯を青木さんは、検察官の取り調べでも訴えていた。弁護人も違法な取り調べについて抗議していた。青木さんの自白が嘘であることを、検察官が知らないはずはない。

しかも警察も検察も、火災が自然発火か放火かを十分捜査していなかった。当初、現場で消火を手伝った住民の多くは「当初炎は50センチ程度でチョロチョロ燃えており、消火器で十分消せると思っていた」と証言しており、警察も「風呂釜の種火が(車両から)漏れたガソリンに引火した可能性がある」と発表していた。

一方、男性の「自白」通りに放火を行えば、50センチの炎がチョロチョロどころか、あっという間に炎上し、大量の黒煙があがり、男性自身大火傷を負うことは、起訴前に警察が行った杜撰な再現実験からも明らかだった。しかし、警察も検察も、 自然発火の可能性をより科学的・専門的に検証することなく、青木さんを娘殺しの放火殺人犯に仕立て、起訴したのである。

◆刑事裁判で青木さん無実の証拠をことごとく隠した検察官

刑事裁判で検察官は、青木さんの無実、あるいは有罪心証を揺るがせる証拠について一切証拠調べ請求を行わなかった。ガソリンスタンド店員の「ガソリンを満タンにいれた」とする供述、青木さんが娘の救出を求めていた事実、男性が消火活動を行ったり、消防士に娘の救出を求めていたことを複数の住民が目撃し、報告書などがあるのに「男性の消火活動しているところを見ていない」という証言のみを提出した。あまりに悪質ではないか。

大阪府警にも重大な責任はあるが、警察を指導・管理すべき立場の検察が、警察の違法な捜査を放置・助長し、青木さんを「娘殺し」の犯人にしたてたのだ。国はその責任をとりたくない。それが今回、国が和解勧告を蹴った理由であり、青木さんが言うように、国は今後も堂々と冤罪をつくり続けると宣言したようなものだ。断じて許さず、今後も裁判を見続けていこう!

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号

筆者は今年も当欄であれこれと冤罪に関する記事を書いてきた。そこでこの1年を総括し、2021年の冤罪ニューストップ5を報告したい。なお、この選考は筆者個人の完全なる独断と偏見によることをあらかじめお断りしておく。

◆第5位 布川事件・桜井昌司さんが国家賠償請求訴訟で勝訴確定

29年の獄中生活を送ったのち、再審で無罪を勝ち取った布川事件の冤罪被害者・桜井昌司さんが国と茨城県を相手に起こしていた国家賠償請求訴訟は今年8月、東京高裁の控訴審で判決があり、村上正敏裁判長は国と県に連帯して約7400万円を支払うように命じた。判決では、一審判決でも認められていた警察捜査の違法性に加え、一審判決では認められなかった検察官取り調べの違法性も認定された。その後、国と県が上告しなかったため、桜井さんの勝訴が確定した。

勝訴という結果は予想通りだったが、一審判決以上に捜査の違法性が詳しく認定されたこと、体調が心配された桜井さんが無事に勝訴を確定させられたことが喜ばしいニュースだった。

◆第4位 飯塚事件で第2次再審請求

1992年に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」で死刑判決を受け、2008年に絞首刑に処された男性・久間三千年さんについては、DNA型鑑定のミスによる冤罪の疑いを指摘する声が根強い。筆者も10年以上この事件を取材してきて、久間さんは冤罪だと確信している。

第1次再審請求は今年4月に最高裁で請求棄却が確定したが、弁護団と遺族は7月に早くも第2次再審請求を実施。この際、久間さんとは別の真犯人とみられる人物を目撃したという男性の証言を新証拠として福岡地裁に提出した。証言内容の信ぴょう性もさることながら、こういう有力な目撃証人が今になって現れるのは飯塚事件が冤罪であることが社会に浸透したことを示している。

長く取材している事件でもあり、個人的に弁護団や遺族を応援したい気持ちもあり、第4位に選んだ。

冤罪の可能性を伝える報道が続出(上段左・まいどなニュース、同右・東スポweb、下段左・日刊SPA!、同右・東洋経済ONLINE)

◆第3位 鶴見事件の高橋和利さんが獄中で死去

高橋和利さんは、1988年に横浜市鶴見区で起きた金融業者の夫婦に対する強盗殺人事件の容疑で検挙され、2006年に死刑が確定した男性だ。捜査段階に自白したものの、裁判では無罪を主張し、死刑確定後も冤罪を訴え続けていた。しかし雪冤の願いはかなわず、今年10月、収容先の東京拘置所で肺炎のために亡くなった。享年87歳。

高橋さんは、世間一般にはあまり知られていないが、専門筋の間では有名な冤罪被害者だった。2017年には日弁連が再審請求を支援する決定をしたことも話題になった。この際、真犯人の可能性がある人物が証拠から浮上したという話もあっただけに、高橋さんの死去により事件の真相が闇に葬り去られることになってしまったのも残念だ。

なお、拙編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社)には、高橋さんが獄中で捜査や裁判に対する批判や怒りを綴った遺稿が掲載されているので、関心がある方はご参照頂きたい。

◆第2位 米子ラブホテル支配人殺害事件の石田美実さんが3度目の控訴審で控訴を棄却される

米子ラブホテル支配人殺害事件については、当欄では何度か注目の冤罪事件として紹介した。今年11月、被告人の石田美実さんは広島高裁松江支部であった「3度目の控訴審」で控訴棄却の判決を受けたが、ここに至るまでに、(1)一審で懲役18年、(2)控訴審で逆転無罪、(3)上告審で控訴審に差戻し、(4)2度目の控訴審で一審に差戻し、(5)2度目の一審で無期懲役――という異例の経過を辿っていた。

検察官が無罪判決を不服として上訴し、そのために冤罪被害者が一度は勝ち取った無罪判決を破棄され、その後も延々と身柄を勾留されて苦しめられているという点において、検察官上訴が制度上許されている日本ならではの酷い冤罪事件だと言える。それにもかかわらず、世間的にほとんど注目されていないので、少しでもこの事件の存在を世に広めたく第2位に選んだ。

そして、いよいよ第1位だが…。

◆第1位 紀州のドン・ファン事件で冤罪説が渦巻く

2018年に和歌山県田辺市の資産家で、「紀州のドン・ファン」と呼ばれた男性(当時77)が亡くなった事件では、55歳年下の元妻・須藤早貴さん(25)が当初から疑いの目を向けられていた。そして今年4月、ついに和歌山県警が須藤さんを殺人などの容疑で逮捕した。

しかし、警察が確たる証拠を確保した様子は見受けられず、そのために早くもメディアでは冤罪の可能性をほのめかす報道が相次ぎ、あのダウンタウン松本人志氏もテレビで冤罪の疑いを示唆するような見解を示した。ひいては、現在はネット上でも冤罪説が渦巻く事態になっている。

このニュースが第1位に選ばれるとは誰も思っていなかったろうが、これは決してウケ狙いではない。このような、かつてならメディアが容疑者を犯人扱いして騒ぎ立てることが確実な事件で、逮捕当初から冤罪の可能性を疑う声が渦巻く現象は、冤罪問題に対する日本人の見識がかなり向上したことを示している。そのような理由で1位に選ばせてもらった。

冤罪の話題など存在しないほうが良いのは間違いないが、冤罪は決して無くなるものではない。来年以降も当欄で埋もれた冤罪の話題を少しでも多く取り上げたいと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』(MC石井しおりさん)に出演中。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)。

◎片岡健のデジタル鹿砦社通信掲載記事 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=26

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年1月号!

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東住吉事件の冤罪被害者・青木恵子さんが、2016年8月再審無罪判決を勝ち取ったのち提訴し闘っていた国賠訴訟は、9月16日弁護団による総括の最終プレゼンと青木さんの最終意見書の陳述を終え結審、来年3月15日の判決を待つばかりとなっていた。そんな中、裁判所が原告、被告(国と大阪府)に「和解勧告」を出すという画期的なニュースが飛び込んできた。

◆「今でも青木さんを犯人と思う」という坂本元刑事

その前に、コロナ禍で傍聴席が制限される中、筆者も傍聴できた最後の2回の法廷の様子を紹介する。

2月12日、青木さんに嘘の自白を強いた大阪府警元刑事・坂本氏の証人尋問が行われた。坂本氏は出廷にあたり、事件当時の取り調べ日誌等を読み記憶を思い直したと話していた。しかし、弁護人の質問に「いやあ、25年も前のことやからね。記憶も薄れてね」などと言い訳し、弁護人が当時の日誌を示すと「書いてあるならそうやろね」などと居直った。

次第にボソボソ小声になり、本田裁判長から「傍聴席の皆さんに聞こえるように、ちゃんと話して下さい」と注意された。また裁判長から「その取り調べ日誌はどうやって書くの?」と聞かれ、坂本氏が「その日の取り調べが終わったあと、もう一人の刑事が書く」と答え、更に「あなたも確認するんでしょう?」と聞かれ「確認する」と答えた。

日誌には、任意同行された9月10日昼過ぎ、青木さんが体を震わせ、寒いんですと訴えたり、げーげーとえづいたと書いてあった。当時青木さんは、突然の火災で愛娘を失い、食事も採れず体重が30キロ台に落ちるまで憔悴。当日も、てっきり火災の原因が判明したと思い任意同行に応じたのに、いきなり「お前が犯人だ」と坂本氏に怒鳴りつけられた。

昼食も食べられず始まった午後からの取り調べで突然、同居男性(事件で一緒に逮捕された)が娘に性的虐待を行っていたとぶつけられた。「お前だけがしらなかった」「息子も知ってたぞ」などと嘘をつき、青木さんを「もうどうでもいい。早く部屋に戻って死にたい」と、うその自供書を書かせるまで追い詰めた。

弁護団の尋問後、青木さん自身も坂本氏に質問した。「あなたは今でも私を犯人と思っていますか?」と聞いた青木さんに、坂本氏は「はい、思っています」とはっきり答えた。

その理由を坂本氏は「あんた、自供書を自分で書いたでしょ」「ほら、きれいな字で」などと、まるで近所のおっさんのような口調で話すので、再び裁判長に「証人はちゃんと証言して」と注意された。

「あなたが書かせたんでしょう」と迫る青木さんに坂本氏は「初日に気持ちよく書いたでしょう」とまで言ってのけた。

ドン! 青木さんが机を叩き、その音に坂本氏が驚く。

「あなた、(取り調べ室で)こうやったでしょう」。もう一度、ドン!

「灰皿が転んで灰が飛んだでしょう」。

自供書を書かされた9月10日と9月14日のことを、青木さんは今でも忘れられないという。

東住吉事件の冤罪被害者・青木恵子さん。2月12日大阪地裁前で

◆「この裁判を最後にして欲しい」と訴える青木さん

9月16日、弁護団がパワーポイントを使い裁判の総括を行ったあと、青木さんが証言席で最終意見書を陳述した。

大阪府警の勝手なストーリーに基づき、娘の保険金目当てに娘を殺した母親、犯人にされたこと。

再審無罪となったが、国・大阪府は反省もせず、検証もせずに今も犯人だ、違法はなかったと認めないこと、

警察、検察の違法性を明らかにして、布川事件以上に踏み込んだ判決を言い渡してください。

何故いい加減な捜査・違法な取り調べをしたのか?

なぜ再現実験をしながらも、起訴できたのか?

もう二度と冤罪に巻き込まれる人を生み出さない、仲間たちのためにも国や大阪府の違法性を明らかにさせたいとの気持ちから提訴したこと、最後に「証拠はあなたたちのものではありませんよ」と国・大阪府の代理人らを睨みつけながら訴え、陳述を終えた。

意見書で青木さんは「一番許せなかったことは、私が取り調べ室で(娘の)写真を見るのは辛いからと答えたあとに、大阪府警の代理人に『お嬢さんの写真なんてお葬式とかでもありましたよね』と言われたことです。お葬式でも見ているのだから取り調べ室でも見ることができるだろうとでも言いたかったのでしょうか。私はなんてことを言い出すのだろうかと信じられなかったです。本気で言っているのかと唖然となり、心底怒りでいっぱいです。坂本さんに『お前がやっていないというのなら、なぜ助けへんやったやん。助けれんかったことは殺したことと同じことやぞ』と言われ続けたうえで写真を見ろと言われる気持ちがかわらないのでしょうか」と訴えた。

現在、青木さんは1枚数円のチラシのポステングと集金の仕事を続けている。集会に呼ばれたり、服役中の冤罪被害者に面会に行くため、自由な時間をつくる必要があるからだ。また昨年、遠方にあった娘の墓を近所に移し、毎週1回お参りに通っている。「娘のお墓に通うことで、私の心は落ち着きます」と意見書で述べた。

今年のめぐちゃんの誕生日(10月11日)は、前日今市事件の総会に出席、翌日千葉刑務所の勝又拓哉さんの面会に訪れたあと帰阪。ケーキを買いお墓に急ぎ、真っ暗な中、ロウソクを灯しお祝いした

長期の服役で壊れた関係もある。実の息子との関係だ。息子は、青木さんの逮捕後、青木さんの両親と暮らし、何度か和歌山刑務所にも訪れていた。逮捕後、めげそうになった時、同じ部屋の女性から「残った子どもはどうするの」と言われ、我に返ったこともあり、「子ども」という言葉が青木さんを奮い立たせるキーワードになっていた。出所後行き来していた息子だが今はつきあいをやめている。

「獄中では、息子のことを考え心配して、早く会いたいとの気持ちをずっと持ち続けていました。だけど刑務所から出られて再会した息子は、すでに29才の大人となり、この26年の空白の時間が、私と息子との親子関係まで奪い去りました。(中略)お互いに分かり合うことが難しく、別々の人生を歩んでいく道を選ぶしかなく、現在はつきあいもなくなりました」と、意見書に辛い思いを語っている。

◆裁判長がはっと青木さんを見た瞬間

青木さんが意見書を陳述する間、裁判長と2人の裁判官はじっと書面を見ていた。しかし、裁判長が「はっ」と顔をあげ青木さんを見た瞬間があった。それは青木さんが以下の部分を読みあげたときだ。「私は、社会に戻れた反面、浦島(太郎)状態となり、何もわからない自分が情けなくなり、携帯電話を覚えるのにも苦労して、高速料金所でETCカードを使うことを知り、買い物に行ってもポイントカードのことを聞かれて、物価もわからずに、何もかもが理解出来なくて、一人では行動できないことに情けなくなり、プライドが傷つき、何度も刑務所に帰りたいとさえ思ってしまったのです」。

無実の罪を着せられ不当に獄中に囚われ、息子、両親にも会えない苦しい刑務所に,再び帰りたいと思ってしまうとは…。あの時、青木さんをじっとみつめた本田裁判長は、何を思ったのだろうか。

結審後の記者会見で青木さんは「裁判所の判決がおかしければ、私は法壇に上がっていく。それで刑務所に入っても後悔しない。そのときはまた取材してくださいね」と話し記者らを笑わせた。「そんなことは絶対にないだろう。この裁判長がそんな判決を出すはずはない」。わたしは、その時そう確信していた。

しかし、そんな裁判長から「和解勧告」が出されたとは?青木さんにお話を伺った。

青木 結審後に弁護士から連絡があり「和解」の話が出ていると聞きました。1回目の法廷で裁判長は「私が判決を言い渡しても、絶対に控訴、上告されてしまいます。この事件は、平成7年に始まり、来年は令和4年となり、長く続いています。これ以上長引かせないためには、和解が良いと考えました」と話されました。他にインターネットなどで、青木さんへの誹謗中傷が酷い。世間に対して「青木さんは完全無罪だ」と訴えたい。そして青木さんが訴え続けているほかの冤罪犠牲者のことにも触れたい」と。私は感動して胸がいっぱいになり、涙が溢れてきて言葉にならなかった。しばらくして「私は裁判官にじかに話されたこともないので、涙がでます。国と大阪府にはちゃんと謝って欲しい。灰色をとって無罪になりたい」と話しました。

また、裁判長の話をメモしていた私に、裁判長は「青木さんの目を見て言いたいんですが」と切り出し、裁判長と目を合わせると「私は、青木さんを『再審で無罪になった人』として裁判にかかわってきました」と話されて、また泣いてしまいました。また、裁判長が「私はいつも柄のカッターシャツですが、今日は白のシャツを着てきました」と話したことがありました。和解に向けた2回目の協議のとき、右陪審の女性はあざやかな黄色のタートルのセーター、裁判長と左陪審の男性は白のカッターシャツと黄色地のネクタイを締めてきました。

私は、青木さんが陳述を終えたあと、裁判長が青木さんの著書「ママは犯人じゃない」を掲げ、「皆で読みました」と話し、2人の裁判官も頷いた場面を思い出した。

裁判長は、白い服を着ていた青木さんに「和歌山刑務所を出た日も白い洋服だったんですね」と聞いた。

青木さんは「いいえ、その日は黄色です。めぐちゃんの好きなひまわりの色です」と答えた。

本の写真がモノクロだったため、裁判長は黄色を白と見間違えたのだ。それに対して裁判長は「すみません」と詫びたが、その後、法廷で青木さんと同じように白や黄色を身に着けるようになったのだ。そう考え、今度は私が泣かずにいられなくなった。

和解協議は、12月23日行われる予定だ。

自宅でくつろぐ青木さん。獄友・西山美香さんや支援者らにプレゼントされたぬいぐるみに囲まれて

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

12月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年1月号!

1992年に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、その犯人とされて2008年に死刑執行された男性・久間三千年さん(享年70)に冤罪の疑いがあることで有名だ。そして近年、一部の人たちがこの久間さんの冤罪処刑疑惑にからめ、あれこれと陰謀論的な説を主張するようになっている。

たとえば、「久間さんは口封じのために死刑執行された」という説や、「警察が足利事件の真犯人を捕まえないのは、飯塚事件で無実の男性を死刑執行したのがばれるからだ」という説だ。

私は10年余り前から飯塚事件を取材してきて、久間さんが冤罪であることは確信しているが、一方でこれらの陰謀論的な説に信ぴょう性が感じられないでいる。私が以前、久間さんの死刑執行手続きに関与した法務・検察幹部らを取材した際のエピソードを紹介しつつ、その理由を説明しよう。

◆死刑執行に関与した検事長2人は「飯塚事件」を知らなかった…

死刑は法務大臣の命令によって執行されるが、法務大臣が死刑執行の命令を出す前後では、法務省と検察庁の多数の幹部が死刑執行の手続きに関わっている。私は、久間さんの死刑執行手続きに関与した法務省と検察庁の幹部の大半に取材したが、中でも印象に残っている人物が2人いる。

1人目は検察OBのA氏だ。A氏は福岡高検の検事長を務めていた2007年、当時の長勢甚遠法務大臣に対し、久間さんへの死刑執行命令を発するように求める上申を行った人物だ。

このA氏に対し、久間さんの死刑執行に関する取材を申し入れたところ、最初は文書で「その事件には関わってないので、お答えできない」と断られ、私は「ごまかしているのかな?」と思った。私は事前に法務省に情報公開請求し、A氏が長勢法務大臣に対し、久間さんへの死刑執行命令を発するように求める上申を行った文書を入手していたからだ。

そこで、この文書をA氏に郵送し、改めて取材を申し入れたところ、A氏は久間さんへの死刑執行命令を発するように長勢法務大臣に上申していたことを認め、電話でこう釈明した。

「あれはたしかに僕の名前になっているけど、執行事務手続きなんで、僕はこの事件のことは何も知らないんだな」

A氏によると、長勢法務大臣に対し、久間さんへの死刑執行命令を発するように求める上申を行ったのは、たくさんの決裁の一部。記録の点検などもしないため、記憶になかったというのだ。その口ぶりは自然で、嘘をついているようにはまったく感じられなかった。

印象に残っているもう1人は、同じく検察OBのB氏だ。久間さんの死刑が執行された2008年当時の福岡高検検事長だった人物である。久間さんに対する死刑執行を指揮したのは福岡高検の検察官だが、同高検の検事長だったB氏は当時の森英介法務大臣が発した死刑執行命令書の名宛人となっている。

しかし、久間さんの死刑執行に関する取材を申し入れたところ、このB氏も電話口で「僕は知らないなあ、その事件」とサラリと言った。飯塚事件のことも、久間さんのことも、そもそも本当に存在すら知らないような口ぶりだった。

私は法務省への情報公開請求により、森法務大臣の死刑執行命令書を受領したというB氏名義の文書も入手しており、その文書には福岡高検検事長の職印も押されているのだが、B氏はそのような文書にも覚えがないという。

B氏によると、検察庁では、そのような事務手続きの決裁文書は事務官が作成しており、福岡高検検事長の職印を押すのも事務官に任せていたそうだ。

福岡拘置所。ここで久間三千年さんの死刑が執行された

◆本質的な問題を見失わせる不確かな陰謀論

とまあ、このように久間さんの死刑執行手続きに関わった2人の福岡高検検事長経験者の話を聞く限り、久間さんの死刑執行は流れ作業的に行われていたことは明白だ。私が久間さんの死刑執行をめぐる陰謀論的な説について、信ぴょう性を感じられない事情はそこにある。法務省や検察庁にとって1人1人の死刑囚の死刑執行は単なる事務手続きに過ぎず、あれこれと陰謀を企てるほど手間をかけているとは到底思い難いのだ。

妙な陰謀論が渦巻くと、本質的な問題が見失われてしまう。久間さんの死刑執行に関し、法務省や検察庁が本当に触れられて欲しくない問題は、むしろ冤罪性の検証をろくにせず、流れ作業的に死刑を執行したことだとみるのが妥当だ。この本質的な問題が見失われないように、不確かな陰謀論が広まらないことを願う。

なお、私は上記の通り、久間さんの死刑執行手続きに関与した法務省と検察庁の幹部の大半に取材したが、その詳細は9月に発行された拙編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集』電子書籍版(鹿砦社)に収録されている。同書では、A氏、B氏も実名で登場するので、関心のある人は参照して欲しい。

▼片岡 健(かたおか けん)

ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』12月号!

ふだんテレビをほとんど観ない私だが、たまには強くお薦めしたい番組がある。たとえば10月21日(木)20:00~21:54に放映予定のフジテレビ『奇跡体験!アンビリバボー』だ。

スペシャル版でいくつかのテーマが取り上げられるが、そのひとつが「築地市場国賠事件」である。

2007年10月、新宿区内ですし店を経営する二本松進氏(当時59歳)が築地市場で仕入れを終えて帰ろうとしたときに築地警察書の警察官に絡まれた挙句、公務執行妨害罪で現行犯逮捕されてしまった事件を同番組で取り上げる。

 

林克明『不当逮捕 築地警察交通取締りの罠』(同時代社刊)

二本松氏が築地市場内で買い物中、妻が乗用車に乗ったまま路上で待っていた。当時の築地市場周辺の道路は、仕入れの車が並列駐車するのは当たり前で、そうしなければ仕入れ作業が成り立たないために暗黙の了解で駐停車が認められていた。

仕入れを終えて車に戻った二本松氏が乗車しやすいように、妻がエンジンをかけてハンドルを右に切って動き出そうとした瞬間、警察官が車の前に仁王立ちになり、「法定(駐車)禁止エリアだ」とひとこと言った。

これをきっかけに、警察官と言い争いになり、警察官は「暴行、暴行、暴行を受けています」と緊急通報。まもなく警察車両が複数現場に到着し、二本松氏を後ろ手にして手錠をはめ、公務執行妨害の現行犯として逮捕してしまったのである。

交通違反(偽装だが)を巡る言い争いなのだから、連れていかれるとしても本来は交通課のはずだが、連行された先は組織犯罪を扱う部署だった。ここで19日間勾留され、不起訴になった。不起訴といっても「起訴猶予処分」であり、前歴がつく。

納得しなかった二本松夫妻は国賠訴訟を起こし、東京高裁の勝利判決(確定判決)まで、事件発生から9年1か月を要したた。その一部始終を描いたのが拙著『不当逮捕 築地警察交通取締りの罠』(同時代社刊)である。

警察相手の国賠訴訟で勝利した稀な事例といえよう。

◆NHK『逆転人生』やテレビ東京『0.1%の奇跡!逆転無罪ミステリー』でも放映

実は、過去にもこの事件はテレビ番組でいくつか取り上げられた。通常、政治問題や社会問題がテレビで放映されるときに私が危惧することがある。ひとつは、オリジナルの記事や書籍が権力を批判する内容だった場合、かなり薄められる恐れがあること。二つ目には、膨大な視聴者のために「面白おかし過ぎる」構成になること。三つ目には、分かりやすさを追求するあまり、話を単純化して詳細な事実関係がうやむやになること。

もちろん、面白くて興味深く分かりやすい番組にするのは大切だとはいえ、以上の三つを心配していた。結果、この「NHK逆転人生」は、きわめて正確だったので驚いた。しかも、かなり細かく複雑な話を分かりやすい流れにし、見ていて面白かった。

翌2020年3月に放映されたテレビ東京『0.1%の奇跡!逆転無罪ミステリー』は、前者よりエンターテイメント性は高かったが、これまた実態からずれるような内容ではなく、もちろん正確であった。このような経過があるため、10月21日(木)20時から放送予定のフジテレビ『奇跡体験! アンビリバボー』にも、かすかな期待を寄せているのだ。

◆なぜ3回もテレビに取り上げられるのか

交通取締りをめぐって車の所有者が逮捕された、言ってみれば歴史上の冤罪事件にくらべれば「地味」な事件が、なぜ3度もテレビ番組の題材になるのだろうか。

まず、二本松夫妻が国賠訴訟で完全勝利していることがあげられる。判決内容では、警察官の証言はまったく認められなかった。言い換えれば、警察官の証言もその供述調書も嘘だといわんばかりの明解な認定だったのである。また、殺人事件や強盗事件など重罪だと制作側も被害者も視聴者にも「重く」のしかかる。それにくらべ交通違反(駐車禁止)にまつわる事件だから、第三者にとっては気が楽(被害者にはとっては重大)だということもある。また、ドライバーや車の所有者にとって「明日は我が身」という身近な点も重要だろう。

さらに重要なのは、この事件は「起訴猶予」という実質有罪処分を受けた冤罪被害者が国賠訴訟で勝利した戦後初の事件の可能性があることだ。ふつうは起訴か不起訴に二分される。しかし不起訴といっても、「嫌疑なし」,「嫌疑不十分」,「起訴猶予」の3種類に分類されている。二本松氏は「起訴猶予」処分だった。

「起訴猶予」とは、有罪の証明が可能でも,被疑者の境遇や犯罪の軽重などを鑑みて検察官の裁量によって不起訴とするもの。ひらたく言えば「有罪だけど、立件して裁判所にもっていうほどでもない」ということである。起訴はされなかったものの、検察段階の有罪処分にされた者が国賠訴訟に勝ったのだ。

では、明白に無罪判決が出た冤罪被害者が国賠訴訟を起こした場合はどうか。最近では今年8月27、「布川事件」の冤罪被害者・桜井昌司氏(74歳)が提起した国賠訴訟で東京高裁は原告勝利判決を下し、9月10日には確定した。

茨城県利根町布川(ふかわ)で1967年に起きた強盗殺人事件で桜井氏は無期懲役が確定し29年間収監され、再審の結果、2011年に無罪となった。2012年、その被害者たる桜井氏が冤罪の責任追及のため国と茨城県を訴えた。そのときから9年もたってようやっと国による賠償が認められたのである。

若い時に逮捕されて29年間も収監され、釈放から15年(逮捕から34年)も経った2011年に再審で無罪確定。その翌年に国賠訴訟を起こして9年。事件発生から実に54年間を擁して国家賠償が確定した。

無罪判決が確定した冤罪被害者の国賠訴訟がこのありさまだった。それに比べ二本松氏の場合、起訴猶予という実質有罪処分で国家賠償請求訴訟(訴訟提起から7年)に勝利したのはめずらしい。

そんなことを思い浮かべながら、10月21日(木)フジテレビ『奇跡体験! アンビリバボー』を観ていただければと思う。

▼林 克明(はやし まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

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