〈生きた現実〉の直撃弾──鹿砦社松岡社長が自身の逮捕経験を「告白」講義

関西大学で共通教養科目の中のチャレンジ科目として開講されている『人間の尊厳のために』の非常勤講師、鹿砦社松岡利康社長の2回目の講義が5月29日行われた。先に本コラムでご紹介した通り、講義1回目は松岡社長(鹿砦社)の社会的活動紹介に中心を据えた内容で、とりわけ高校の同級生であった東濱弘憲さんが熊本で始めた「琉球の風」について詳しく紹介された。

前回の講義では「はじめに─〈人〉と〈社会〉との関わりの中で、〈死んだ教条〉ではなく〈生きた現実〉を語れ!」と題したレジュメが配布されたが、言及された「現実」とは音楽活動(琉球の風)や文化・教養活動(西宮ゼミ)が中心であり、出版社として「人」や「社会」と関わってゆく姿勢の、いわば「前向きな活動」紹介だったと言える。

◆10年前の逮捕経験を静かに語り始めると、空気が変わった

29日の講義でも冒頭は10数分「Paix2(ぺぺ)」の活動を紹介するテレビ番組が上映され、参加学生は「このまま講義は進んでいくのだろう」と感じていたのではないか。

しかし、注意深い学生たちは既に気が付いていたはずだ。この日配布されたレジュメやコピーは先週のそれとは全く内容が異なることに。

「次に、たぶん私がこの教壇に立つことになった経験について語らせて頂きます」と切り出すと、松岡社長は配布資料中朝日新聞朝刊1面に掲載された、自身の逮捕を予告する記事を指し、2005年7月12日に起こった神戸地検特別刑事部による自宅包囲、事務所への連行から、自宅、事務所のガサ入れについて、それまで「琉球の風」や「Paix2(ぺぺ)」を語っていた口調と全くトーンを変えずに語り出した。

配布資料は朝日新聞1面だけでなく、逮捕に批判的な識者談話や有罪判決時の新聞記事、週刊金曜日に何度も掲載された山口正紀氏のメディア批判、さらには裁判の支援呼びかけ人に名を連ねた人々談話などA4両面印刷で4枚、8ページに及ぶ。松岡社長が自身の経験談を語り始める前から熱心にこの資料をめくる学生の姿も散見された。

そして「逮捕されると、全身裸にされて、こんな格好で(実際に命じられた姿勢を体現して)体を調べられるんです。女性も同様だそうです。『裁判所は人権の砦』などと言われますが、有罪も決まっていない逮捕段階で全身裸にされる。これは『被疑者を委縮させる』ためのやり口であり『人間の尊厳』も『人権』もあったものではありません。そして私の場合は『接見禁止』が付きました。弁護士を除く外部の人間と一切の連絡を絶たれたわけです。これは非常に精神的に堪えました。半年余りの拘禁生活で鬱に近い状態になりました。あの状態がもっと続いていればさらに厳しい精神状態になったでしょう」

目の前で講義している人物が、10年前に名誉棄損で逮捕拘留、接見禁止までを食らった人物であることを全学生が認知した瞬間だった。140名ほどが受講する講義だから数名寝ている学生はいるが、私語は一切ない。教室の空気も松岡社長が意識して作り出したわけではないだろうが、それまでとは一変し、緊張が支配する。

◆「輝き」と正反対の「闇」を語ること

さらに、保釈後直ぐに行われたサンテレビによるインタビュー映像が流される。穏やかな表情で、レジュメを目で追いながら、どちらかと言えば小声で話をしている講師はインタビューの冒頭「今のお気持ちを」と問われると「何が何だかわかりませんよ!」と憤然と答えている。インタビュアーに怒っているのではないことは容易に見て取れる。裁判を「自分だけのものではなく闘っていく」との宣言もある。

自身の経験を語るにあたり松岡社長は何度も「生き恥を晒すようですが」と繰り返した。そんなことないじゃないか、司法の暴走被害者が「恥じ入る」必要なんてない、と私は感じたが、彼が語り掛けているのは目前「学生達」だ。主として1年生が受講していることへの配慮もあってか、逮捕拘留から有罪への「生き恥」(松岡流)披露であったが、本来であれば語りたかった(語られるべき)であろう事件の背景や周囲で暗躍した人間たちへの批判は皆無だった。

2回の講義で松岡社長が伝達しようとしたことは「生きた現実」に尽きよう。その「輝き」と、正反対の「闇」。人生論と換言も可能な彼自身の豊穣かつ激烈な経験だったように思う。

◆学生の中で「何か」が確実に動いた

「ちょっと踏み込んだことをすると私のように逮捕されるのがこの世界です。そういう覚悟のない人は踏み込むべきではないし、踏み込むからにはその覚悟を持ってほしい」

口調は相変わらず穏やかである。あくまでも穏やか。それだけにこれほど「ドスの効いた」言葉はない。文字通り「生きた」直撃弾だ。松岡社長が講義中、展開した持論の1つは「安全地帯から何もせずに『表現の自由』だの『言論・出版の自由』というのは簡単で耳触りもいいけども、身を持って実践していくのは並大抵のことではありません」である。

正しく聞こえても実践を伴わない美辞麗句は「空論」に過ぎない。「そんなものは何の価値も迫力もないよ」と彼は繰り返し言外に語っていたように思う。

講義終盤、彼の話は穏やかながら熱を帯びる。静かな熱。あくまで穏やかな語り口。そして「それではこれで私の講義を終わりにしたいと思います」と語ると、教室中から拍手が起こった。

学生の中で何かが確実に動いた瞬間だった。

◎[参考資料]松岡利康=鹿砦社社長によるフェイスブックでの講義報告(2015年5月30日)
https://www.facebook.com/toshiyasu.matsuoka.7/posts/876422795751113

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎関西大学の教壇で鹿砦社の松岡社長が〈生きた現実〉を語る!
◎『噂の眞相』から『紙の爆弾』へと連なる反権力とスキャンダリズムの現在
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関西大学の教壇で鹿砦社の松岡社長が〈生きた現実〉を語る!

松岡利康=鹿砦社社長(2015年5月22日関西大学)

関西大学で共通教養科目の中のチャレンジ科目として開講されている『人間の尊厳について』で5月22日、講師としてついに松岡社長が教壇に立った。浅野健一同志社大学大学院社会学研究科博士課程教授(京都地裁で地位確認係争中)に次いでの登場で、出版人として受講学生に松岡節が披露された。

さて、どんな講義が展開されるやら。鹿砦社、松岡社長が学生にどんな球を投げかけるのか。ど真ん中の直球か、胸元すれすれのブラッシュボールか、と期待半分に案じていたが、内容は至極穏やか、かつ優しさに満ちた講義となった。

◆〈社会〉との関わりの中で〈死んだ教条〉ではなく〈生きた現実〉を語る

配布されたレジュメは「はじめに─〈人〉と〈社会〉との関わりの中で、〈死んだ教条〉ではなく〈生きた現実〉を語れ!」と勢いのある書き出しから始まる。学生運動経験のある松岡社長のことだ、その後にアジビラ風の文章が続くと思いきやそうではなかった。レジュメは出版のあれこれというよりは松岡社長が社会的に手掛けている活動紹介が中心となっている。

したがって講義内容も出版人というよりも松岡社長(鹿砦社)がどのように「社会」と関わっているか、関わりを創造しているか、の紹介に主眼が置かれていた。

◆「人権破壊」としての福島原発事故への衝撃から『NO NUKES voice』発刊

最初に言及されたのが「人権破壊」としての「脱(反)原発」活動への関わりだ。福島原発事故に強い衝撃を受け、また怒った出版人として『NO NUKES voice』を発刊したことがまず紹介された。

『NO NUKES voice』Vol.1(2014年08月25日刊)~Vol.4(2015年05月25日刊)

◆左右問わず生きた思想」を学ぶ場としての「西宮ゼミ」

次いで、鹿砦社本拠地で続けられている「西宮ゼミ」に寄せる思いと意義に言及した。関西で鹿砦社と言えば「西宮ゼミ」と言われるほど浸透した感のあるこの企画も、単なる出版にとどまらず、「左右問わず生きた思想」を学ぶ場として市民に提供してきた意義を述べ、これまでの登場した全ての講師陣が資料で紹介された。

2015年の「西宮ゼミ」は「前田日明ゼミin西宮」。第3回は2015年6月7日(日)14:00よりノボテル甲子園にて開催。ゲストはジャーナリストの田原総一朗さん。お題は「戦後レジームの正体を総括する!」

◆鹿砦社はなぜ、Paix2(ぺぺ)「プリズンコンサート」や熊本「琉球の風」を支援し続けてきたのか?

その後は、これまた鹿砦社が長年応援している女性デュオ「Paix2(ぺぺ)」の紹介だ。「プリズンコンサート」でついに全国すべての刑務所を制覇した「Paix2(ぺぺ)」。その活動を高く評価する松岡社長が支援する意味と出版の結びつきについて思いが語られたが、その真意は次週の講義で更に重みを増し、学生に伝わることになろう。

『逢えたらいいな プリズン・コンサート三〇〇回達成への道のり 』(2012年04月20日鹿砦社)


◎[参考動画]Paix2(ペペ)「受刑者のアイドル 網走刑務所」(2014年12月NHK放送)
◎[参考動画]Paix2(ぺぺ)公式youtubeチャンネル

更にはつい先ごろ7回目の開催となった「琉球の風」への協賛とそれに至る経緯が語られ。主たる講義部分は終了した。どれもこれも「社会」、「人間」との生きた繋がりを示す実践であり、素人が想像する専門職的な出版や編集の話とはほとんど無縁だ。

『島唄よ、風になれ!「琉球の風」と東濱弘憲』(2013年11月25日鹿砦社)


◎[参考動画]「熊本に流れる琉球の風」(2012年9月NHK放送)

これは一般的な出版社社長の講義ではない。自社発行物の紹介が無かったわけではないけれども、月刊誌『紙の爆弾』 に言及することもなければ、出版差し止めの苦い経験も語られなかった。敢えて名づければ「社会派企画出版社」の活動実績報告に近いだろうか。

「琉球の風」を語り終わった後には同イベントの様子を記録したDVDが約30分教室で流された。昼食直後の時間帯ということもあり、講義の最中には安らかにお休みになっている学生諸君の姿も散見されたが、DVDの映像が流れると目を覚まし熱心に見入る姿が印象的だった。

島唄の大御所で琉球の風」総合プロデューサー知名定男さん(写真中央)、「かりゆし58」前川真悟さん(右)、松岡利康鹿砦社代表(2015年5月17日「琉球の風~島から島へ2015」会場にて)

◆次回5・29関西大講義の「松岡弾」がいかなるものになるか?

2回連続の講義の初回、松岡社長はたぶん、学生に「言葉」で伝えようと内心弾倉に込めている弾薬を放ちはしなかった。学生に理解しやすい内容でまずは肩に力を抜いてもらい、胸襟を開いた学生たちに「価値観」を揺さぶる衝撃を次回講義に準備しているのではないか。

松岡社長によると、講義の感想を記した学生の感想文は「琉球の風」DVDの内容に感激した内容が多かったそうだ。学生の多くは初回講義である種の「油断」をしたのではなかと私は目星をつけている。そして、それは松岡社長の狙い通りだ。次回講義の「松岡弾」がいかなるものになるか、恐らく松岡社長の壮絶な過去を知らない学生諸君よりも私の方が楽しみにしているかもしれない。5・29関西大学で何が起こるだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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《大学異論36》「共生」否「強制」で分裂する青山学院大「地球社会共生学部」

青山学院大学で新学部設置に必要な学則改正が適正に行われなかったとして、同大学国際政治経済学部の小島敏郎教授が4月8日、青学と仙波憲一学長を相手取り、学則改正の無効確認などを求める訴訟を東京地裁に起こした。

訴状などによると、問題になったのは今年度開設した「地球社会共生学部」。同学部の設置に対し、学則に定められた教授会の議決を経ずに承認手続きが進められたとし、「仙波学長が新学部の開設を急ぐあまり、大学内部の合意形成に十分な時間を割かなかった。学則の改正は無効で、青学に新学部は存在しない」などと主張している。小島教授によると、既存の9学部のうち、新学部設置を承認しなかったのが法学部など3学部もあるという。

◆箱根駅伝で初優秀した学生の奮闘とは逆に学園内部は大混乱

青学の問題については2014年12月26日このコラムで指摘した。その為か(そんなことがあるはずはないが)正月の箱根駅伝で青山学院は史上初の優勝をしてしまったが、学生の奮闘振りとは逆に学園内部は完全に混乱状態のようだ。以前の記事では青山学院大学(高校・中学を含む)教職員の285人(総数の約2割)の人々が原告になり、同学校法人を相手取り一時金の減額を巡り提訴がなされていたことをご紹介したが、今回は「地球社会共生学部」創設をめぐる争いだ。原告の小島教授は「青山学院に新学部は存在しない」と主張されているが、残念ながら「存在」はしているようなのでその手続きの不当さから「学部の閉鎖」を求めるほうが妥当ではないかという気がする。

◆地球社会共生学部の「羊頭狗肉」──これでよく文科省審査が通ったな!

そもそも「地球社会共生学部」などという名称で、よく文科省の審査が通ったな、というのが私の正直な感想だ。というのは青山学院大学には既に「国際政治経済学部」、「総合文化政策学部」、「社会情報学部」が設置されているからだ。とくに名称だけを聞けば「国際政治経済学部」と同教育内容がどのように異なるのか疑問がわくのは当然だろう。

「地球社会共生学部」は新興宗教の如き響きがある上に学部紹介の文章では「青山学院大学地球社会共生学部では、共に生きる―共生マインドをテーマに、急成長する東南アジアを学びのフィールドの中心として、教養と社会科学の専門性を併せ持った、グローバル人材を育成します。世界の経済は、これまで欧米を中心としていましたが、今後、アジアを中心とした経済に変わろうとしています。また、アジアは世界最大の英語使用圏になると予想されており、コミュニケーション能力の向上が大きなテーマとなっています。社会を生き抜く上で、必要な能力を身に付け、幅広い分野で活躍できる人材を育成するための様々なプログラムを用意し、世界に羽ばたける人材を育てます」と書かれている。この学部はどうやらアジアに特化した教育を目指すらしいことが伺われる。

ならば「アジア」を冠した学部名を何故つけなかったのだろうか。「地球社会共生」と言えば異文化の衝突や宗教問題や南北問題を学ぶのかと思いきや「アジアは世界最大の英語使用圏になると予想されており、コミュニケーション能力の向上が大きなテーマとなっています」と志と学問的視野、さらにはターゲットが極端に狭い。これは要するに「英語を教える」学部だということを回りくどく語っているだけだ。

このような「羊頭狗肉」の学部を創ろうとすれば、当然学内の良識派から反対が出るだろう。出なければおかしい。大学は教学内容を「学則」によって定めるが、まともな執行部構成員は学則変更にだって反対するだろう。にもかかわらずこの学部が開設されたということは、青山学院大学の運営が民主的ではないことを物語る。あるいは執行部構成員や、学長の教養が相当程度低いものであるのかもしれない。

教職員の一時金カットで訴訟沙汰になり、宗教まがいの「地球社会共生学部」を開設した青山学院大学は当面進学がお勧めできない大学である。志望者も箱根駅伝の活躍にもかかわらず減少してゆくだろう。大学で独裁的な経営を行うとそれまで積み重ねてきた歴史や名声がだんだん崩れてゆく例を青山学院はこれから見せてくれるだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎《大学異論23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」
◎《大学異論22》真っ当に誠実さを貫く北星学園大学の勇断に賛辞と支援を!
◎読売「性奴隷表記謝罪」と安倍2002年早大発言が歴史と憲法を愚弄する

浅野健一、小出裕章、松岡利康らの関西大『人間の尊厳』講義に履修者殺到!

4月1日本コラム で紹介した関西大学での『人間の尊厳のために』が4月17日実質上のスタートを切った。

この日に先立つ10日に初回の講義が行われ、講義の進め方などの案内があった。その時点で登録者は80名程度だったが、「履修変更」(学生が一度登録した講義を変更すること)で受講者が140名へと激増したために当初配当された教室では収容しきれず、教室も変更になった。

17日は講義を担当する浅野健一、小出裕章、松岡利康の3氏も揃い、各講師が自己紹介や講義の進め方などを語った。同講義は一方的に講師が話をするだけではなく、学生を5人のグループに分け講義を聴いた上での討論をグループ内で行い、各講師の最終担当回には学生と講師の討論を行うという形式で進められる。

17日は講師の自己紹介の後、学生が予め割り振られていた各グループへと座席を座り直し、グループ内で互いの自己紹介などを行い、共通の興味や関心事を語り合った。

講義前半は講師の話に耳を傾ける静かな進行から、後半は一転して賑やかな教室へと運営がなされ、この講義を運営する新谷教授とそれをサポートする2名の学生スタッフの熱意と手際の良さが際立っていた。

4月17日の講義では全講師が揃って自己紹介や今後の講義の進め方などを説明した(写真右から小出裕章氏、浅野健一氏、松岡利康氏

◆一番大切なはずなのに実は稀有だった「尊厳」をめぐる大学講義

各講師の自己紹介の中で浅野氏は「尊厳という言葉が冠された大学講義は日本では珍しい。私の講義では特に犯罪を犯したあるいは犯したと疑われた人の人権を中心に人間の尊厳を考えていきたい」と語った。

小出氏は京大原子炉実験所3月末に退職したばかりであることから話を切り出し、ホワイトボードに「Nuclear Weapon」、「Nuclear Power plant」、「Nuclear Development」と書きそれぞれが「核」あるいは「原子力」と恣意的な使い方をされていることを示し、「原子力の危険性と社会的な問題について語っていく、皆さんとの議論を楽しみにしている」と語った。

「Nuclear(核)」は同じなのに、なぜ日本では「核兵器(Nuclear Weapon)」と「原子力発電所(Nuclear Power plant)」とで恣意的に呼称が異なるのか?──小出裕章氏

松岡氏は「私は他の2氏のような研究者ではないのでここに立つのが相応しいかどうかわからないが、長年出版に関わった経験から『机上の死んだ教条ではなく、生きた現実』をお話ししていきたい」と意気込みを語った。

前回の記事に対してTwitterで「これは凄い講義だな! 関西大学の学生しっかり勉強しろよ!」と激励を下さった方がいる。講義の内容だけでも充分に関心が高まる『人間の尊厳のために』だが、そこへ学生達がどのような反応を、そして議論を挑んでくれるのか。これからの展開がさらに楽しみになってきた。

▼田所敏夫(たどころ としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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《大学異論35》大学生は立派な「大人」──社会に翻弄されない問題解決能力を!

新学期が始まった。入学式を終え、新たな学校生活をはじめた皆さんに、まずはお祝いを申し上げる。

小中学校や高校の入学式は先週末に集中していたようだが、大学の入学式は近年圧倒的に4月1日から4日が多い。その理由は文科省からの指導で講義科目は必ず前記、後期各15回ずつ実施しなさいというお達しが定着してきたからだ。

大学入学後、新入生には授業のとり方や学生生活の送り方などオリエンテーションが行われるが、それらを悠長に行っていると前期のうちに15回の講義回数を確保することが困難になるので、大学としては入学式は早めに実施したいのだ。そのあおりを受けて上級生のオリエンテーションは3月中に行う大学も珍しくないほどだ。

◆「一般教育」の消失──カリキュラムを組む自由度は増したものの……

大学で学んだことのある40代半ば以上の年齢の方にはご記憶があろうが、かつて大学の科目は「一般教養」と「専門科目」に分かれていてそれぞれ決められた単位数を履修しないと卒業することができなかった。が、文部省が「一般教育の大綱化」を打ち出して以来「一般教育」という概念は実質上消え去り、各大学がそれぞれの創意によりカリキュラムを組む自由度が増した。さらに講義科目は通年(前記後期)受講して4単位を得るのが一般的だったが、現在はほとんどの大学が半期で15回の講義を実施し2単位を与えるという形に変化している。

通年の科目を取ってはみたものの、いざ講義に出るとその内容が期待していたものとは違い「しまった!」と思っても履修講義の変更などは認められなかったが、今では半期間の講義であっても1度講義に出て気に入らなければ科目を変更できる「履修変更期間」を設けている大学が多い。学生にしてみれば履修登録に際して一度は変更可能なので「気楽に」履修登録をすることができるようになったというメリットがあるが、もう慣れたとはいえ、大学職員にすれば4月当初の忙しい時期に面倒くさい仕事が定着したというえる。

私は気に入らない科目であろうがわずか半期間のことであるし、一度履修登録をすればそれを我慢しながら聞くほうが学生にとっては勉強になるのではないかと考え、職員時代に「履修変更期間」反対の議論をしたことがあるが、もう「履修変更」は学生にとって当たり前の権利のようになっている。

◆学生の成績を親や保証人に知らせるのは、大学側のリスク回避策

さらに、学費支弁者(多くの場合保護者)へ学生の成績を知らせることも普通に行われるようになった。大学で学んでいるのは学生だけれども、学費を出しているのは学生ではない「学費支弁者」なのだから、学生の勉学状況を伝えておくのが「お客様」へのサービスというわけだ。

確かに下宿をしている学生がろくすっぽ単位をとれずに4年生を迎えてしまい、「学費支弁者」が卒業間近になりその惨状を知るところとなり、親子や大学も巻き込んで「いったい何してたんだ!お前は!」とてんやわんやの騒ぎが起こることは年中行事の一つだったので、予め学生の単位習得状況を「学費支弁者」に伝えておくことはまったく無意味ではないだろう。

だが、それを行ったからといって単位未履修の学生が激減したわけではない。「学費支弁者」に成績不良を伝えたところで、学生の成績不振が解消される保証はない。親子の間で「指導」や「叱咤」がなされる関係にあれば事態は改善するのかもしれないけれども、そう簡単にことは進まない。大学が学生の「成績」を「学費支弁者」に知らせるのは、後々大学への苦情が持ち込まれることを回避するための「予防線」である意味合いのほうが大きい。

◆日本学生支援機構の2種奨学金は利息付の「ローン」だから極力避けるべし

また、昨今の不況と学費の高騰により学費を奨学金に依拠している学生は増すばかりだ。日本学生支援機構の1種、2種奨学金を「自宅外」で満額受給すると月額20万円を超える。この額があれば、アルバイトをプラスして学生は自分で学費や生活費を賄うことができる。もっとも日本学生支援機構の奨学金、特に2種は「奨学金」と名前がついてはいるものの実際には利息付の「ローン」なので極力使わないようにお勧めしたいが、そうはいっても各家庭や学生の考えもあろうから私が強制することはできない。この場合「学費支弁者」は学生本人なのだが、それでもほとんどの大学は親なり保証人に学生の成績を送っている。「個人情報保護法案」について大学は過度といっていいほどに敏感になっているが、反面このような成績送付についての議論はあまりなされない。

◆大学は学生を「大人」として育て、学生は問題解決能力を身に着けること

入学直後の学生は現役であれば18歳、まだ未成年だけれども4年生になれば法的にも成人である。大学の卒業については学生本人が自分で解決するか、そうでなければ大学に早めに相談して何とか対策を取るのが「大人」としての行為だろう。

大学の基本的任務は公開しているカリキュラムに沿って学生にその専門に応じた高等教育の名にふさわしい知識と能力を授けることだが。それ以外にも明文化はしていないけれども社会的な責務があろう。それは学生を「大人」として育てることだ。学生が学ぶ場所の中心は教室の中だが、それ以外にも高校までとまったく異なる学習・生活環境の中で人間関係を育んだり、問題解決能力を身に着けることは高額な学費を払っている以上、極めて大切なことだ。そしてそれは学生にその意思があれば確実に可能なことだ。

◆近畿大入学式での「つんく♂」メッセージは真っ当だった

4月4日、近畿大学の入学式に同大学の卒業生である「つんく」氏が登場し、自身が喉頭がんの手術のために声を失ったという話題が大きなニュースになった。「つんく」氏のご病状には痛み入るし、カクテル光線が入り乱れる入学式には正直違和感を感じたけれども、「つんく♂」氏も7分近いメッセージの中で私が前述したような内容を文字で伝えておられた。

大学に入学した皆さん!「大学生」は立派な「大人」だ。先の明るくないこの社会を見つめ、それに対するのはあなたたちの「権利」であり「義務」でもあることをお伝えしたい。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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《大学異論34》大学教員になるために「免許」がないことは良いことだ

小学校、中学校、高校で教師として教壇に立つためには「教員免許」を取得していなければならない。幼稚園や保育園は地域により「幼児園」への統合の動きがあるが、やはり「幼稚園教諭」や「保育士」といった資格を保持していることが条件となる。「教員免許」はあくまで「資格」であり、それを取得したからといって教師や保母の職場が約束されるわけではなく、採用試験を受験して合格しなければ職には就けない。

このように教壇に立ったり幼児教育にかかわるには「教員免許」が必要だが唯一例外的に「教員免許」がなくとも教鞭をとることができる教育機関がある。
大学(短期大学も含む)である。

◆「大学教員免許」は存在しない

例外的に、大学(新設の大学を含む)が新しい学部や学科を設立する際には文科省による「認可」を受けなければならず、その際には施設、財政計画、教員の資質などが審査されるため、担当予定の科目に相応しい学問的業績や研究成果がある人物であるかどうかが見極められる。

文科省(実際は文科省が委嘱する諮問委員会)から研究業績不足などを指摘されると就任予定であった人物を入れ替えなければならない場合もある。このように新設大学や新設学部の教員として働くためには「例外的」に「外部の目」により審査を受けることになるが、大学は設置後4年(短期大学は2年)を経過すると「完成年度」と呼ばれる「文科省からの厳しい監視下」を外れるので、教員の採用なども 大学独自の判断で行うことができるようになる。

「大学教員免許」は存在しないから、大学は極端に言えば「誰を」採用してもよい。近年は博士号取得者の増加により、「学位」(博士、修士)重視の傾向が顕著だが、それでもある分野で秀でた仕事をしていると認められたり、あるいは世に名の知れる仕事をなしたりした人で「学位」のない人が大学教員に就任することはある。東大名誉教授で建築家の安藤忠雄氏は工業高校卒業で大学を出てはいないし、大阪芸術大学芸術計画学科教授で元マラソンランナーの増田明美氏も最終学歴は高校卒だ。

安藤氏のように建築家として十分に名前が売れた後に大学からお声がかかるケースと、増田氏のように専門領域というよりは単に「知名度」から就任にいたるケースもある。

◆問題が多い「公募」という名の「出来レース」採用教員たち

前述のとおり近年通常のルートで大学教員を目指せば、一定以上レベルの大学では「博士号」がほぼ必須という時代に突入し、教員を目指す方々にとっては非常に厳しい時代である。が、時折不思議な人事を目にすることがある。

多くの大学は教員採用にあたり、応募者の学位(博士、修士、学士、あるいは学位「ナシ」)、研究業績、教歴(過去教鞭をとった実績)など総合的に判断し採用を決める。有名大学であれば教員募集をかけると100名近くが応募して来ることも珍しくはないが、何故にこの人が採用されたのかと首をかしげるケースがある。

そのようなケースのほとんどは「公募」の形を取りながら、実は採用する大学が内々に最初から採用予定者を予め決めている「出来レース」である。そこで採用される人物はその他の一般応募者に比べて業績や教歴で見劣りしていても、なんだかんだ理由をつけて採用される。わかりやすく言えば「縁故採用」のようなものだ。

企業でも「縁故採用」された人間にまともな奴がいないのと同様、大学教員でも「縁故採用」で職を得た人間はほとんどといっていいほど、その後研究者として業績が伸びないし、学生の指導についても問題を発生させることが多い。

もとから学者としての能力がそれほど高くないので、学内政治に熱心だったり、誰でも金さえ払えば加入できる「学会」に数多く所属して「見栄え」は取り繕おうとする。でも肝心な研究者としての質がいつまでたっても成長してこない。こんな教員をあてがわれた学生は不幸としか言いようがない。

私は大学教員に「資格」を設けていないことは良い事であると考える。「資格」といった画一的な基準ではなく大学個々の哲学や姿勢が教員採用の実態で明らかになるので、内実を評価しやすいからだ。それに「学位」取得者は確かに相応の努力と専門知識を身につけているけれども米国の私学などでは金さえ払えば「博士号」を気軽に出してくれる大学はいくらでもあるという事情もある。

◆文科省選定の「スーパーグローバル大学」=「独り立ち」出来ていない大学

教育機関(とりわけ高等教育機関)は行政からの縛りが少ないにこしたことはない。文科省が教育内容に嘴を突っ込んでろくな結果が出たためしがない。最近では懲りもせずに「スーパーグローバル大学」の選定に熱心なようだが「スーパーグローバル」といった「間違った英語」を冠した文科省の施策に乗じようとせっせと努力する大学は、本質的に「独り立ち」出来ていない大学「独り立ち」出来ていない大学と言っていいだろう。

教員も大学も個性豊かで多様な方がいい。パソコンとスマートホンが学生の生活を1日何時間も拘束する時代においては、せめて人間には多様性があることを示した方がためになるだろう。だから「大学教員免許」がないことを私は歓迎する。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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関西大で小出裕章、浅野健一、松岡利康らによる特別講義が今春開講!

4月、まもなく関西大学で「事件」が起こる。「事件」といってもキナ臭かったり、危険なものではない。この時代に大学が失いかけている存在理由を根本から問う劇的に素晴らしい「事件」が起こるのだ。

科目の名は『人間の尊厳のために』で春学期に15回行われる。「グローバル」だの「キャリア形成」だの薄っぺらいことばが大手を振るう大学界で、この講義名を目にしただけで胸が熱くなる。『尊厳』という言葉からはドイツ憲法における以下の文言が想起される。

ドイツ基本法(憲法)の第1条 [人間の尊厳、基本権による国家権力の拘束]として、
(1)人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。

日本国憲法も前文は素晴らしいがドイツ基本法(憲法)は第1条で人間の『尊厳』に言及している。あらゆる場面で人間の『尊厳』など忘れ去られているかの日本においてこの科目名はとりわけ異彩を放つ。

◆脱原発、犯罪報道、タブーなきメディア──衝撃の講師陣が「尊厳」を論じる

京都大学原子炉実験所助教を定年退職されたばかりの小出裕章氏がこの4月から関西大学の教壇に立つ

さらに同講義のシラバスをご覧いただければ読者も腰を抜かすであろう。

科目名 「人間の尊厳のために」
担当者名 新谷英治/浅野健一/松岡利康/小出裕章
授業概要 戦争や被曝、不当な報道などによって多くの人々が人間としての尊厳を踏みにじられ苦しんでいることは厳然とした事実でありながら必ずしも社会全体に正しく知られていません。失礼ながら大学生などの若い世代の皆さんはとりわけ認識が薄く、ほとんど問題意識を持っていないかに見えます。本講義は、深刻重大でありながら(あるいは、それゆえに)隠されがちな社会の問題を、現在第一線で活躍するジャーナリストや出版人、科学者の目で抉り出し、学生の皆さんに自らの問題として考えてもらうことを目指しており、皆さんの社会観、世界観を大いに揺さぶろうとするものです。

到達目標 人間の尊厳が踏みにじられている現状を正しく認識し、現実を踏まえつつ実効ある解決策を考えようとする姿勢を身につけることです。

関西大学文学部の新谷英治教授がコーディネーターとなり、元共同通信記者で『犯罪報道の犯罪』の著者である同志社大学大学院社会学研究科博士課程教授(京都地裁で地位確認係争中)浅野健一氏

浅野健一=同志社大学大学院社会学研究科博士課程教授は現在も京都地裁で地位確認係争中

そして驚くまいか鹿砦社社長松岡利康の名が!さらに3月で京都大学原子炉実験所を定年退職された小出裕章氏も教壇に立つ。このような「神業」に近い講義を開講する関西大学の慧眼と叡智は全国の大学が学ぶべきものだ。

「事件」という表現を使った意味がお分かりいただけるだろう。関西大学共通教養科目の中のチャレンジ科目として開講されるこの講義には『哲学』の香りがする。そして生身の人間の迫力が講義内容紹介の文章からだけからでも感じられる。吹田、千里山の春にアカデミックな風が薫ることだろう。受講学生は「覚醒」するに違いない。

 

 

関西大講師として松岡利康=鹿砦社社長も教壇に立つ!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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《大学異論33》竹宮恵子学長の褒章受勲は京都精華大学「自由の危機」

「またこいつ捻くれたことをいいやがって」との謗りを承知で敢えて私見を開陳する。

私はいい年をしてよく他人から叱られる。「だから拗ねてるんだろう」と言われるかもしれない。おおよそ「お褒め」にあずかるような人間ではない。

「勲章」という言葉は誰でも知っているだろう。でも抽象的な意味の「勲章」ではなく日本国の「勲章」をもらったことのある人は読者の中にはいないであろう(もしいらしたら失礼!)。

日本国の「勲章」は選考で内閣総理大臣が決定した「叙勲候補者推薦要綱」に基づいて両院の議長、最高裁判所長官、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官から国家公安委員長などを経て内閣総理大臣に対して受章候補者の推薦が行われる。そして内閣総理大臣が候補者を審査して閣議決定が行われ、その後天皇に意向を確認して承諾を得た後発令されるという手続きを踏む。

つまり、安倍により選考されて「行政司法のほとんどの最高権力者の承認」を得た後、天皇から授けられる「お褒め」であり「ご褒美」である。実際にこれらの人々がいちいち作業をするわけではないのは当たり前にしても、安倍をはじめこんな連中からからほめてもらって恥ずかしくはないのか。

各分野で活躍をしたと「国家」によって認められた人に「勲章」は授与される。22種類の勲章はどういった分野での活躍が認められたかなどにより種類と等級がことなるが、毎年8000名ほどが受勲している。

◆「自由自治」が建学理念の大学学長が「勲章」を受けるという意味

毎日のように他人様から叱咤されている私のような不逞な輩と正反対に「立派な」仕事や「立派」だと国家が認めた人に対しての究極の「ご褒美」が勲章だ。

そんな私が語っても説得力はないけれども、私は「受勲は恥だ」と考える。国家権力への絶対的服従を意味するからだ。

もらわれる方が満足されているのであればそれは結構、余計な口出しはしないけばいいのかもしれないが、せめてボケが回ってから「冥土の土産」程度にしておかないか。若い頃に素敵な芸術作品を創作したり、映画を撮ったりした人が受勲する度にがっかりさせられる。「ああこの人もこの程度だったのか」と。安倍やこの国の権力者連中から褒めてもらうのがそんなに嬉しいのか。

というのには訳がある。

京都精華大学という私立大学がある。全国的にはさほど有名ではないが、特色のある個性的な大学として業界では異彩を放つ大学として知られている。かつて朝日新聞社が発行していた『朝日ジャーナル』の「100万人の大学」というシリーズで第1回目に東京大学が紹介され、それに続く第2回目に登場したのが他ならぬ京都精華大学(短期大学)だった。既存の大学の概念を根底から見直して学園紛争で問われた大学の問題を解決しようという試みは、これぞ大学の本分と感激しながら読んだ記憶がある。この大学にはリベラルな教員も多数在籍し、先進的な取り組みは総じて「東大と逆」の指向性を感じさせるものであり私は好感を抱いていた。

ところが同大学で現在学長の漫画家でもある竹宮恵子氏が昨年11月、紫綬褒章を受け取った。

現役私立大学の学長が「勲章」を受ける。これは「国家権力に大学は刃向かいません」と宣言しているに等しい。同大学の建学の理念は「自由自治」とHPで紹介されている。大学にとっての「自由」はまず何よりも国家権力からの「自由」でなければならないのではないか。「時代錯誤だよ」だとか「そう構えるなよ」とか今日もまた叱られそうだけれども、この大学学長「受勲」は「事件」だと思う。日大や国士舘大で同様なことが起こっても「事件」とは感じないけれども日本の中でも相当精鋭に「リベラル」だったはずの大学でこういう事態が起こる時代なのだ。

「事件」は凄惨な形でもなければ惨たらしくもなく、表面的には慶賀の形を装い進行する。私のような「不遜者」を除いて「受勲」はなかなか批判しにくいはずだ。それだけに余計たちが悪いのだ。国家が表に見える形で大学教育へも猫なで声で侵食を進めてきたということだ。「大学学長とは関係なく漫画家として評価されたんだからいいじゃない」という声があるかもしれない。

たしかに若い頃の苦労のせいだろうか、おおよそ「国家的」な香りと無縁だった漫画家の受勲は少なくない。でも国家意思の侵食は止め処がない。何も戦争を例に取らなくともここ数年の安倍政権を見ていればご理解いただける読者も多いだろう。そして「侵食は止め処ない」証拠を残念ながらすでに竹宮氏は証明してくれてしまった。

◆受勲後に「中教審」入りする学長に精華大はなぜ異議を唱えないのか?

竹宮氏は受勲後、本年2月から「中教審」の委員にも就任している。「中教審」とは「中央教育審議会」の略称だが、文科省の「諮問機関」であり主として教育行政についての提言を行う。行政官庁や政府の「諮問機関」は例外なく「結論ありき」でその政策を正当化するための「一見さまざまな方のご意見を聞きました」と形だけ残すための道具でしかない。竹宮氏個人が特に極端な思想の持ち主だとは思われないけれども、受勲後に「中教審」入りするような学長が、こともあろうにかつては東大と対比された大学から出てくることが恐ろしいのだ。ちなみに現在中教審委員長は北山禎介三井住友銀行取締役会長である。教育行政に提言を行う諮問機関の委員長がメガバンクの会長であるあたりから胡散臭さはうかがい知れるだろう。また委員には櫻井よしこも名を連ねる。いわずと知れた右翼の論客、櫻井あたりに文科省の本音を代弁させたいのだ。

気概のある教育関係者の間で「中教審」といえば「鬱陶しい物」の代名詞である。ろくな提言を行ったためしがない。大学人の間では常識だ。竹宮氏叙勲は個人の話としても、学長として「中教審」入りすることをかつて「リベラル」で名が知れたこの大学の教員や幹部は結局誰も止めなかったという結論に今日的危機の深刻さを改めて痛感させられる。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎《大学異論32》大学・刑務所・造幣局──入学試験で繋がる意外な関係
◎恣意的に「危機」を煽る日本政府のご都合主義は在特会とよく似ている
◎中原徹の越権と橋下徹の無法──憲法軽視の弁護士上がりが大阪を壊す

日本を問え![話題の新刊]内田樹×鈴木邦男『慨世(がいせい)の遠吠え─強い国になりたい症候群』


《大学異論32》大学・刑務所・造幣局──入学試験で繋がる意外な関係

「A大学入試、『数学』問題に誤り」。大学入試の出題ミスは大小含め連日報道される。新聞に記事が出ていても読み飛ばす読者が多いだろう。大学の肩を持つわけではないがこと「入試問題」にかけて大学は、その「秘匿性」と「正確さ」にかなりの神経を使っている。努力はしている。それでも「入試問題」の間違いを根絶は出来ない。以前も本コラムで述べたが入試実施の回数が増え、それに合わせた出題を準備しなければならない大学の負担は増すばかりだ。そこで出題者を予備校に依頼している実態もご紹介した。

一般に入試が行われている時間内に現場で大学側から「問題の訂正」や「回答方法の変更」を受験生に伝えることが出来た場合は報道されるような「出題ミス」とは取り上げられない。受験生が試験を終え、会場を後にして関係者が「おい、これ間違いじゃないか」と大学に連絡をよこしてきて、初めて大学が気付いた時に「事件化」する。

◆入学試験は大学の要──だから入試当日、大学関係者は大変!

入試には必ず教室ごとに監督者が数名配置され、受験に関する注意伝達や問題配布を行う。大規模大学の教職員は年度を通して1度(あるいはゼロ回)の監督担当で済ませられるが、小規模大学で受験生の数がそこそこあると、教職員は連日試験監督にあたることになる。「入試課」とか「入試広報課」が教職員の監督配置を決め各人に連絡が来る。私も毎年この時期には連日試験監督に駆り出されていた。

当然の事ながら、監督者も試験会場で初めて試験問題を目にする。受験生が着席し開始5分ほど前までに回答用紙と問題用紙の配布を終え、試験中の注意事項を伝える。試験開始までの数分は特にすることはないので、教壇の上で配布し終えた問題用紙に誤植などがないか目を通してみる。私の勤務していた大学は入試の「英語」は比較的基礎的な力を試す良問が多いのが特徴だった。言い換えればそれほど難しくはないわけだ。開始定刻になると「はい、回答用紙を表に向けてまず、受験番号と氏名を記入してください」とマニュアル通りに伝える。受験生があらかじめ提出している写真と受験票及び本人かどうかの確認に回り、欠席者を記録しておくとしばらくは手が空く。

そこで再び、今度は受験生になりきったつもりで問題を読む。すると「これ、複数形じゃないとおかしいんじゃないか」と長文問題の中に疑問箇所を見つけることがある。静寂な教室内からは連絡できないから廊下に出て、内線電話や携帯から「入試本部」に連絡する。「入試本部」には「問題発生」の際に対応するため必ず出題者が控えている。「3ページの下から5行目の単語です。これ単数ですが、主語が複数だから複数じゃないかなと思うんですが」と要点を伝える。即答はない。「確認して連絡します」ということになり教室に戻る。

私の勘違いで出題に間違いがなければ、「入試本部」から誰から走ってきて「問題ナシ」と書いた紙を手渡される。逆に私の指摘が正しい場合には正誤表と黒板に書く訂正内容、及び受験生に口頭で伝える内容をコピーした紙を息を切らして伝令が持ってくる。訂正箇所を板書し口頭でそれを伝える。

大学内で実施している試験の時はさほど緊張もしないけれども、地方試験で「入試問題」の間違いを見つけると大慌てだ。やはり教室の外に出て携帯電話から「入試本部」に電話をかけ疑問箇所を伝える。この時は電話は切らない。なんせ地方試験は全国で同時に行っているから、もし「出題ミス」なら「正誤」を確認するだけでなく、場合によってはこちらも他の地方入試会場に訂正を伝える「伝令」を担わなければいけない時もあるからだ。不幸にも私の指摘通り「出題ミス」が確認されると、手書きで「正誤表」を作成し教室に控える別の担当者に速やかに手渡し「入試本部」」と調整してこちらから連絡をする会場を決め担当者の携帯電話に大急ぎで電話連絡をする。

と、現場では「ミスがあっても最小限に」という努力が結構真剣に行われていた(当たり前だが)。

◆刑務所、造幣局と大学を繋げる「入試」

ところで「刑務所」と「入試問題」。この二つには深い関係がある。一見無関係な両者だが読者には想像がつくだろうか。

かつて、相当数大学の入試問題は「刑務所」の中で印刷されていた。理由は「刑務所」は問題漏えいの心配が限りなく低い場所だからだ。印刷費用も妥当な額だったと記憶する。「刑務所」内の作業日程を書いたカレンダーにはイニシャルで「A大学納期」「B大学校正」などびっしり日程が埋まっていた。大学の人間が服役中の方と接することはなく、「刑務所」の職員の方とやり取りをするのだが、印刷が終了すると今で言う警備会社の車両で大学に運び厳重に保管されていた。

ある時期を境に、刑務所ではなく印刷は別の場所に移動した。噂程度でしか聞いたことはないけれども「刑務所」から何らかの方法で問題が外部に漏れたような話を耳にはした。

次なる場所はさらに「機密性」が高いところでなければならない。そこで選ばれたのが「造幣局」であるお金を印刷する機械と入試問題を印刷する機械が同じなのかどうかは知らないが「造幣局」での入試問題印刷も歴史は長い。「造幣局」も「刑務所」も納期や印刷の確かさに関しては民間の印刷会社の比ではなく任せる方としては安心度が比較にならない。

「入試問題」の内容は「どのような学生が学びに来てほしいか」を受験生に伝えるメッセージでもある。私には入試問題作成を予備校に依頼したり、「センター試験」の点数だけで」合否を決めるなど、私立大学としての存立自体を否定する行為のように思えてならない。今では少数派になってしまったけれども、私と同じように考える大学関係者もかつては数少なくはなかった。

受験生にとっては苦痛以外の何物でもない「入試」だが、「入試問題」にはそういう裏面の歴史もある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎《大学異論31》経営の内情が透けて見えてくる各大学のネット広告・入試戦略
◎《大学異論30》リクルートの「就活」支配──なぜ国は勧告指導しないのか?
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《大学異論31》経営の内情が透けて見えてくる各大学のネット広告・入試戦略

大学入試が真っ盛りだ。入試業務は煩雑で多忙ではあるが、志願者の多い有名私大にとっては「入試検定料」(受験料)で、副収入を稼ぎ出す「美味しい」季節の到来である。

一方、学生集めに苦戦してる大学は「入学試験」をどのような形で行うかをめぐり右往左往している。その激化は近年益々際立ってきている。

インターネットで検索を行ったり、フリーメールを利用したりすると、画面に表示される広告がその内容に応じて利用者向けに調整される薄気味悪い機機能を読者もご存知だと思うが、私は大学に関する記事を書くことが少なくないので、画面には大学の学生募集広告が次々に表示される。

◆勢いがある近畿大広告とクドイほど現われる甲南大MBA広告

昨年志願者数が初めて日本一になった「近畿大学」もその一つだった。さすがに勢いがある。「お父さん、怪しい履歴消しといてね」という際どくも気の利いたほほえましいコピーは余裕のなせる技か。パソコンをご家族で共用している「お父さん」は本当に気を付けないといけない。深夜や休日の「お楽しみ」後にはくれぐれも検索結果を消去しておくようにお勧めする。

また、くどいほど画面に現れたのは「甲南大学MBA」(「MBA」は「ビジネススクール」とも呼ばれる)だった。「何回受験しても受験料は5000円」、「実質学費は60万円」とこちらはひたすらに「お値打ち感」を前面に出していた。「MBA」でありながら教学内容ではなく「お値打ち感」をアッピールする広告を打つことに躊躇いはないらしい。こういう学校の教育内容は推して知るべしだ。本コラムで何度か言及している通り学生(院生)確保に苦しんだ挙句「学費」の値下げ競争(ダンピング)に足を突っ込んだところは「破綻」が近い。

日本の大学は私学、国公立とも世界で一番学費が高い。これは大問題だと思う。国が教養の豊かさや教育を重視していないことの現れで、経済格差が生活格差に直結する一大問題であるから、こちらの問題は近く詳述したい。

◆学生募集に苦しんでいる大学ほど「ネット出願」に積極的

そのことを認識しながらも、入試や広告に見られる「ドタバタ」は大学の内実を示唆する。

「インターネット出願」(以下「ネット出願」)を採用する大学が増加している。「ネット出願」が可能な大学は「受験料」も安く設定され、通常出願であれば25000~35000円するところ、「受験料」が5000円~7000円程度に抑えられている。

受験生にとっては有難い。「ネット出願」を利用すれば通常出願の5分の1程度の出費で受験できる。大学側にとっても受験生情報の入力作業が大幅に簡素化できるから業務効率化というメリットがある。

受験生が多い大学は出願開始時期に併せて、臨時のパートや派遣スタッフを雇う。常勤メンバーでは到底さばききれないので3月中旬の2次試験終了まで、入試業務専属の「期間限定」増員を行う。「ネット出願」が今後増加すれば、このような「期間限定」のスタッフ増員も不要になるかもしれない。「センター試験」の成績だけで合否を決める試験もあるので、そのような「無機質」な試験に従来の「受験料」は高すぎたし、願書出願の手間も省けるというメリットは評価されよう。但し忘れてはならないのは「ネット出願」と言ったところで、インターネット上で全ての情報を大学に送ることが出来るわけではなく、調査書や写真、推薦状などは必ず郵送しなければならないことだ。

「ネット出願」を実施している大学の顔ぶれを見ると、「受験生の負担軽減」や「業務の効率化」といった合理的な理由ではなく、別の側面も浮かび上がってくる。
有名どころでは東洋、東海、法政、亜細亜、龍谷、同志社女子、近畿各大学なども「ネット出願」を導入している。が、これら以外の「ネット出願」採用大学は概ね学生募集に苦しむ大学だ。とにかく受験生確保のためならば手段は問わない、「受験料もお安くしときます」との本音が垣間見える。この中には同一学部同一学科を受験するのに6つも7つも試験が用意されている大学がある。

◆一度の試験で3回合否チャンスを与える大学まで出現

NG大学は「センター試験の結果のみ」で合否が決まる入試と、その日の「独自問題」による入試、さらに「センター試験の結果と独自問題を総合して」合否が判断される「実質3つの入試」を同時に受験できるという、俄かには理解に苦しむ制度まで駆使している。

何を言っているかご理解いただけるであろうか? あなたが受験生であるとする。あなたは「センター試験」を既に受験していて「ネット出願」でその大学に3つの方法の受験を出願している。通常、3通りの試験を出願すれば、3回試験を受けるのかなとお感じになるのではないだろうか。まあ、このケースでは「センター試験の結果」だけという試験があるから2回かもしれない。しかしそうではないのだ。あなたは1回だけ「独自問題」による試験を受ければよい。でも「受験料」は3つの形式で受験しているので3回分支払う。

手が込んでいてわかりにくいが、このケースでNG大学は一度の「入試」3回分の「受験料」を「儲ける」ことが出来る仕組みだ。ここを本命に、と考える受験生の弱みを狙った賢くも、小賢しい手法である。

また、極一部の難関私学にとっては相変わらず「入試」は格好の副収入である。大方私学の大学案内パンフレットや願書は実質的に無料になったけれども、早稲田大学は今でも950円で販売している。全国の高校に大学案内や願書を配りまくっている弱小私大にはうらやましい限りだろう。

ともあれ、寒さ厳しいおり受験生の皆さんのご健闘をお祈りする。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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