8月23日、老舗予備校である「代々木ゼミナール」が全国に27保有する校舎のうち20か所を閉鎖する、というニュースが流れた。

代々木ゼミナールは、河合塾、駿台予備校と並び大学受験ではかつてトップクラスの生徒数を抱えていたが、少子高齢化と経営判断のミスにより大幅な業務縮小を余儀なくされることになった。その背景には全国の大学のうち6割を超える大学が収容定員を確保できていない現実がある。選り好みさえしなければ大学に入ることは極めて簡単な時代にすでに突入しているのだ。

長引くデフレ経済のため保護者の給与所得は横ばいであり、大学進学で浪人させるよりは、入ることのできる大学に入学させておこう、という学費思弁者の事情もあり、「大学受験浪人」は2000年あたりから激減を始める。

◆少子化なのに定員を増やす大学の愚

少子高齢化は受験生人口の減少に直結する。大学業界では20年ほど前から「18歳人口の減少」が深刻な問題と認識されていたはずであった。受験生の人数が減るのだからそれに対しては従来から持っている定員の確保のために教学内容や学生サービスの充実を図る、というのがまっとうな判断なのだが、不思議なことに多くの中小大学は「18歳人口減少」期に学部や学科の増設を行い定員の増加に熱を入れるという理解に苦しむ行動を選択した。

このあたりが、民間企業の感覚と私立学校経営者の感覚との違いなのかもしれない。マーケットが確実に縮小することがわかっている分野に新たな設備投資を行う企業経営者はそうはいないし、そんなことをすれば経営にマイナス影響が必ず出る。

ところが多くの私大は、受験生の激減が明らかで定員の増加を行えば学生募集が従来以上に困難になり、経営的にも苦境に陥ることが明白であるにもかかわらず、定員の増加を行ったのだ。この期に及んでも毎年、学部、学科の新設を文科省に申請する大学は後を絶たないし、数は少ないものの新たな大学の設置申請すらある。要するに大学受験人口は毎年減少しているのに反比例し、大学に入学できる総定員は毎年増加の一途をいまだに辿っているのだ。

代々木ゼミナールは現役高校生の受験指導も行っていたが、浪人マーケットで名を馳せていた過去に引きずられたため、大幅な校舎閉鎖に追い込まれた。

◆入試問題の作成業務でも収益を上げる河合塾

一方、河合塾は30年以上前から中学生、高校生を指導するコースを持っており、浪人依存率は代々木ゼミナールに比べれば当初より低かった。また、講師陣に多彩な人材を揃え、浪人コースであってもあたかも大学名物教授のように一見受験準備に直結をしないような授業を行いながら、浪人生の実力を高めてゆくという講師が多く、その評判の高さが浪人コースの集客力を維持している。

また、これはあまり世間では知られていないが、多くの私立大学は入試問題の作成を自ら行わず予備校に依頼している。

大学入試と言えば、かつては「推薦入試」と「一般入試」の2回というのが常識だった。しかし、近年は学生確保のために様々な形態で1年間に4回、5回と入試を行う大学も珍しくない。入試には当然「入試問題」が必要だが、大学内部で度々問題作成をするのは大変な加重であり、力量的に無理な大学もある。そこで受験指導の専門家集団である大手予備校に問題作成を依頼するのだ。

確かな数字は明らかにされていないが、私の周囲の大学関係者の意見を総合すると、入試問題作成を依頼している予備校の中では河合塾が群を抜いている。講師が問題作成を担っているのだから大学入試の指導も容易になるに決まっているし。何よりも「入試問題作成」による収入が馬鹿にならない。

◆「学校教育への不安」が塾通いの低年齢化を引き起こす?

少子化が進行する中で、大学浪人にメインターゲットを絞った予備校が代々木ゼミナールのように苦境に落ち込んでいる一方、私立中学入試、高校入試指導に特化した塾はむしろ好景気だ。前述したように大学を選ばなければどこかには入れる時代であり、企業の採用活動でも昔ほど大学の名前による利益不利益が無くなっているのに、毎晩夜9時過ぎまで塾で勉強をする小学生の数は増える一方だ。

私はこの現象の分析を何度か試みたのだが、今のところ明確な回答が出せていない。というのは、激烈な塾通い小学生は自らも納得はしているものの、基本は親の意向に依るところが大きいからだ。

では、親は将来どのような成長像を抱いているのかと問うと、その回答は実に曖昧であるのだ。「一流企業に入って欲しい」、「医者になって欲しい」などという答えはまず帰ってこない。最も多い回答は「学校の授業だけでは不安だから」である。親の学歴を問わず「学校の授業だけでは不安」の回答が飛びぬけて多い。

そんなに勉強させなくても、大学なんか入れるのになー。

(田所敏夫)

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◆いま一度、「大学の自治」を考える

「大学の自治」あるいは「学問の自治」という概念がある。
若い読者にはその意味するところすらあやふやかもしれないので、簡単に説明しておこう。

「大学の自治」とは、学問研究を行う大学は政治、行政権力や経済界からの干渉や抑圧を受けずに自立的に運営されるべきだから、少々の問題が学内で発生しても、その対応を警察や学外機関に委ねるのではなく、大学が自らの責任と決断を持って解決に当たるべき、という考え方だ(細部には様々な異論があるかもしれないが大筋こんな考え方だろう)。

「学問の自治」とは、学問研究は特定の企業や団体の利害と結びついてはならず、その成果は広く社会に還元されるべきだとも解釈される。

「大学の自治」は当然、「学生の自治」に結びつき、大学の運営は教員、職員だけでなく、最大の受益者たる学生もその一端を担う権利があり、学生は学生独自の視点から大学に物を申す、あるいは学生活動に大学当局の不当な介入は認めないという考え方が導かれる。

これら「大学の自治」や「学問の自治」が重要な概念として認識されたのは、第二次大戦で日本が敗戦して以降である。戦争中に大学も様々な形で帝国主義戦争に加担を強制されてきたことへの反省として、これらの概念は、機関としての大学、教員また学生にも共有される。大学が保持する基本的性格として戦後数十年、「大学の自治」は当然の概念として社会的にも認知されてきた。

◆管理強化で消えゆく「立て看板」文化

ところが今日、それらの概念は基礎から揺らいでいる。
とりわけ「学生の自治」は風前の灯だ。大学だけでなく、社会を見渡せば「労働組合」組織率も下がり、かつ「連合」などは労働貴族が仕切る「総御用組合化」している現象との連動なのだろうが、大学内において学生に許される表現の自由の領域はどんどん狭くなっている。

「立て看板」はクラブ、サークルの部員勧誘や催し物の告知に一般的に使われる道具であるが、今日多くの大学では大学が決めた場所に大学が準備してた規格(定型的な大きさ)を利用しての立て看板しか認めていない。しかも申込制となっており、大学によっては大学公認団体にしか利用を認めないケースもある。

かつて「立て看板」と言えば、その大きさや字体、設置場所などを工夫することにより、よりインパクトのある伝達媒体に仕上げようとする、学生の「表現活動」の感があったが、規格枠内にそれが限定された時点で表現の幅は大きく制約を受ける。

まだ比較的学風が自由とされる京都大学では昔ながらの手作り立て看板が見受けられるが、首都圏、関西の大学でそれを許容しているのはごく限られた数の大学でしかない。

さらに、ビラ配りにも細かい制約を設けられつつある。
前述の通り新入生の勧誘や、講演会・学習会などの宣伝で学生が学内(若しくは大学の敷地近隣)でビラ配りをする場合は、事前に大学に届けが必要としている大学もある。

また、チラシポスターなどを学内に貼りだそうとする場合は事前に許可のスタンプをもらい、これまた決まった場所へしか貼ることが出来ない。そんな大学はキャンパスを訪れると確かに表面上景観は整っているが、果たしてここで学生が有機的な活動をしているのかどうか、薄気味悪くなるくらいに無表情だ。

◆ビラに「許可印」など不要

かつて私が大学職員だった時、学内に貼るビラに「許可印」を押す部署に配属されていたことがある。「許可印」といっても形式的な作業で、学生がビラを持ってくれば、内容のいかんにかかわらず、すべてのビラに許可印を押すことになっていた。

学内には一応ビラを貼るスペースは設けられていたが、学生はそんなものはお構いなく、校舎の壁や廊下に好き放題ビラを貼っていた。個人的にはそのような情景の方が大学の雰囲気として私は好きだった。そしてある時、考えた。無条件に許可印を押すのであれば意味はないから、いっそ許可印自体を廃止してしまえばいいのではないかと。

職場の先輩や同僚の理解も得られ、許可印は廃止することとなった。但し、学生には一定期間が経過した後のビラは貼った者が責任をもって処分することを求めた。そのように運用を変更してからさしたる問題は発生しなかった。

ただし、無数のビラに紛れて学外の業者や宗教団体、怪しげな旅行の勧誘などが貼られるので、週に一度程度は学内のビラを見て回ることが新たな業務となった。学外の怪しいビラは無条件に剥がす。学生のビラは誠に様々なので課外活動の実態を知る一助にもなる。

◆大学職員は「官憲」ではない!

昨年、ある問題で大学生に「どうやって意見を訴えたらいいのか」と相談を受けた時の話だ。
「立て看板やビラやマイクで昼休みに話するなどしたら」と私が提案したら、「全部、許可制だから個人では難しいんです」とその学生が答えたので驚いた。

大学はくだらない管理強化ばかりに熱心なようだが、学生の「表現の自由」を時には思い出してみるべきだ。
大学職員は「官憲」ではないのだから。

(田所敏夫)

《大学異論01》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(前編)

《大学異論02》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(後編)

《大学異論03》職員の7割が「非正規」派遣・契約のブラック大学

《大学異論04》志ある「非正規」は去り、無責任な正職員ばかりが居坐る

《大学異論05》私が大学職員だった頃の学生救済策

近年、非正規職員で契約満期やその他の事情で職を失った人たちが労組を結成し、大学との「非正規問題」を議論する争議が増えてきている。大規模大学の労組は概して非正規職員には冷たく組合に加入できない場合がほとんどであるので、職を失った人たちが中心となり、労組を結成しなければ交渉の場すら得ることが出来ない。

◆卒論「遅刻」学生の救い方

もう時効だろうから、私自身の経験を告白しておこう。
私はかつて大学の職員だった。
そして、ほぼ同様の卒論の遅刻提出を専任職員時代に何度か経験した。

広い事務室ではないが、私以外にも複数の専任職員がいる前で学生は卒論を提出しようとする。「はい、わかりました」と受け取るのでは時間を厳守した学生に申し開きできない。

大学を卒業するためには卒業要件を満たしていること(決められた単位数を取得していること)と、学費が完全に納付されていることが条件となる。だから、まず卒論遅刻提出学生が発生した場合は事務室ではなく、別の場所で学生を待たせて、単位取得状況と学費が完納されているかどうか、さらには指導教授が誰であるか、所属サークルなどを調べ上げる。中には卒業要件の半分ほどしか単位を取得していないのに卒論を提出しようとする猛者もいるが、そのような学生はどうあがこうが留年決定なので卒論は受け取らない。

卒業要件ををすべて満たし、卒論の提出時刻のみが遅れてしまった学生の場合、私は受領印を隠し持ち事務室を出て、待機する学生から卒論を受け取り、そこに受付印を押印する。他の学生、ことに下級生にこのことは口外しないように言い聞かせ、卒論を封筒に入れて事務室に持ち帰る。

やや時間をおいて、すでに提出済みの卒論を収納した段ボールを取り出し、整理に取り掛かる。ほとんどの学生は定刻以前に卒論提出を終えているが、それは受け付け順に段ボールに収められているだけであるので、学籍番号順に揃え直す必要がある。その作業の最中に何気ない顔をしながら受け取った「遅刻」卒論をダンボールに放り込めば一件落着である。

◆お礼は無用だったのに!

ところが後日、困った事態が起こった。「口外しないように」と伝えていたにもかかわらず、学生が紙袋を持って「田所さんこの間はありがとうございました! これお礼です」と再び事務室にやってきたのだ。

紙袋の中身はウイスキーだ。誰に聞いたのか知らないが、その学生は私が酒好きであることを知り、ありがたくも迷惑なお礼を持参してくれたのだ。

まさか「おおきに」と言って受け取るわけにはいかない。「なんか勘違いしてるで。私は君に何にもお礼言われるようなことはしてへんよ。でも一緒に飲むんやったら断らへんから5時以降に来てくれるか」といってお帰り頂いた。

そんな牧歌的な話は20年以上前のことである。今日では「コンプライアンス」重視は大学にも行き渡っているので私のような不届きな職員はいないであろう。
(田所敏夫)

《大学異論01》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(前編)

《大学異論02》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(後編)

《大学異論03》職員の7割が「非正規」派遣・契約のブラック大学

《大学異論04》志ある「非正規」は去り、無責任な正職員ばかりが居坐る

 

定刻を過ぎての卒論提出に非正規の大学職員はどう対応すべきか?

規則通りに仕事をすれば、「門前払い」(受け取らない)で問題はないはずだ。しかし、事は一人の学生の一生に関わる問題だ。卒論が受け付けられなければ卒業ができないし、せっかく努力して得た就職先の内定がフイになる。留年となれば、余分に一年分の学費が必要となるし、下宿生ならば生活費も馬鹿にならない。

ある程度の期間、大学で仕事の経験を積んだ人であれば、非正規職員でもそういった事情は当然、理解している。だから簡単に「門前払い」をするのにためらいを覚えるのは自然だといえる。

◆「こんな遅い時間にもう電話せんといてくれ!」

難問に直面したその女性職員は結局、悩んだ末に学生を事務室近くで待機させ、事務室の責任者宅へ電話をかけ、判断を仰ぐことにした。しかし、事務責任者からは「それは私では判断できないから、学部長と相談してくれ」との答えが返ってきた。

仕方なく彼女は学部長の自宅に電話をかけ、事情を説明しようとするが、学部長はあいにく自宅に不在だった。判断権限がない非常勤職員はどう処理してよいものか困惑が深まるばかりだ。

再度、事務責任者宅に電話をかけ、学部長が不在で連絡できない旨を伝えかけると、事務責任者は、「こんな遅い時間にもう電話せんといてくれ!」と言われ、一方的に電話を切られたという。大学も企業と同じだ。上司のご機嫌取りには熱心だが、部下には冷酷な性格を持つ管理職が、大学にも少なからずいるのも事実である。

事務室の中では対処方法がわからず困惑する非常勤職員が自身も不安に駆られる。この間、定刻を過ぎて卒論を持参した学生は、いったいどうなることやらと不安げに時間を過ごしていた。

僅かに時間をおいて、学生の指導教授から事務室に電話がかかってきた。おそらく指導教授は日頃からその学生の行動に不安感を抱いていたのだろう。卒論提出が無事に行われたのかを尋ねる内容の電話だった。これ幸いと彼女は事情を説明し、指導教授に意見を求める。

教授の回答は「私がすべて責任を持つのでとりあえず受理しておいて下さい」であった。正式に認められるか否かはともかく、教授からの明確な回答を得て、一安心した彼女は事務室外で待機していた学生を呼び、卒論を受け取り、「提出証明書」に事務室のスタンプを押す(このスタンプは日付と時刻が押印されるタイプのものだった)。一応の決着はみたが、あくまで仮の受理であるので、そのことを学生に伝えて彼女も帰路についた。

◆「非正規」職員にトラブルの全責任を転嫁する正規職員

ところが翌日、彼女が出勤すると事務責任者に呼び出され、「学部長に相談しろと伝えたのになぜ一教員の指示に従ったのか!」ときつい口調で彼女を責めあげられた。

「こんな遅い時間にもう電話せんといてくれ」と言った責任放棄の事務責任者は、自身に事務手続き上の問題の矛先が向けられるのを防御するために、全責任を彼女一人に負わせようと考えたのだろう。彼女としては、もとよりあまり信頼のおけなかった事務責任者に不当な責めを受けて反論することもできず、精神的に追い詰められる。

他方、「全責任を負う」と発言した指導教授は、受け取り証明書に日付と時刻が押印されていることを盾に「事務室が時間外でもちゃんと受け取っているんだから受理すべきだ」と事務室にねじ込んできた。しかし、事務責任者は「担当者が勝手に押印したものだから私は責任を負えない」と答え、埒があかない。彼女は自分の横で交わされる無責任な人間同士の会話にほとほと疲れ果てたという。

結局、彼女はそのような職場の人たちに嫌気がさし、翌週には自主的に退職してしまう。そして、仮受付されたと喜んだ学生も卒論は「不受理」となり、留年することになってしまった。

この経緯では、定刻を過ぎて提出を試みた学生に一義的には責任があるのだから、結果的に不受理は仕方ないかもしれない。しかし、その間、専任職員責任者が適切な指示を出さず、また指導教員も「全責任を負う」など発言したのであれば、学部長との折衝に自ら動くなどの調整努力をすべきだった。結果的には非常勤職員の女性一人があたかも不適切な判断を勝手に行ったかのごとき無責任な議論に事実を歪曲し、彼女を退職に追いやってしまった。

そもそも卒論提出日にはこのような事が起こりうることは、大学に勤務する正規職員にとっては常識である。最大の問題は、その日に専任職員が一人も出勤していなかったことである。

◆「学生の卒業を一緒に迎えられない」契約職員たち

「学生」相手に仕事をする「大学」では、マニュアルや職務権限もさることながら、人間性や責任感が仕事上、問われることが少なくない。規定や手順はもちろん大切であるが、それ以上に相対する人間に誠実であろうとする姿勢はもっと大切で、ケース毎に異なった判断を求められるのがまっとうな業務倫理のはずだ。

そんな性格の職場での仕事にやりがいを見出し、自分の適性もあると感じながら、契約により三年や五年で大学を去っていかなければならない「契約職員」は気の毒な存在である。契約時に「三年あるいは五年を上限に」との明文契約書に納得し、就任しているものの、仕事に慣れ、学生とも親しい関係ができてくると、大学事務は「収入」よりも「生きがい」になってくる。だから大学を離れたくない、と感じる人が少なからず出てくる。そんな気概のある人材は大学にとっては極めて有力な武器になるはずだ。

三年契約で就任した契約職員Aは、その熱心な仕事ぶりで専任職員の間でも評判だったし、学生からの信頼も厚かった。しかし、退職に際してこんな一言を残して、大学を去っていった。

「入学してきた学生の卒業を一緒に迎えられない制度とは一体なんなんだろうと思います」

原則論に立てば、極めて定型化された単純作業でありながら、多くの稼働を要するもの(郵便物の発送・図書館の窓口・入試の際の一時的事務作業など)を除いて大学職員という仕事は本来、正規職員が担当すべきだと私は考える。

(田所敏夫)

《大学異論01》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(前編)

《大学異論02》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(後編)

《大学異論03》職員の7割が「非正規」派遣・契約のブラック大学

民間企業では派遣社員や契約社員を利用しない会社の方が珍しい時代になった。同様の現象は大学でも生じている。ごく稀にほとんど非正規職員を使わない大学もあるにはあるが、事務室の中の7割以上が非正規職員といった職場もざらにある。

「官から民へ」とか「雇用形態の自由化」とかいう政府のメッセージは、経営者にとって「人件費」を減らしやすくするために、これまで認められなかったオプションを提供したに過ぎない。大学教育現場でも様々な問題が発生しており、根源的には大学の力量を低下させる要因となっている。

◆一日中、正規職員が出勤しない事務室も

アルバイトや嘱託職員を採用する時は、必ず面接を行うが、派遣職員を採用する際に大学は本人と面接することが法律で許されていない。書類審査のみで人選を行う。その結果担当業務に適した能力や性格と不一致の人がやってくるというミスマッチはもう日常茶飯事だ。これは雇用する側にとってもリスクの大きい問題だと思うのだが、大学事務室内での派遣職員の数が減る様子はない。

そもそも大学職員の業務には管理部門を含めて、学生や教員のプライバシーに深くかかわる業務が多い。学部事務室や学生の相談を担当する部署では、学生が相談にやってくることは日常的な風景だ。学生の相談には履修方法や単位についてといった比較的簡単な内容もあるが、自身の体調不良や精神的な悩み、あるいはそれ以上に深刻な課題の解決方法を求めてやってくることも少なくない。

そのような場合、学生にとってカウンターの向こう側で仕事をしている人たちの雇用形態などは関係なく、全員が「職員」として認識される。大学によっては正職員、派遣職員、嘱託職員、アルバイトの業務分担を厳密に分け(それが当たり前なのであるが)学生の相談には正職員のみがあたる運用を厳守している場合もあるが、前述の通り職場の7割を非正規職員が占めているような事務室では、そもそも休暇や出張などで一日中、正規職員が出勤しないという状況も生まれる。そうなると学生の相談を受けた非正規職員は(その人が誠実あればあるほど)学生の相談に付き合わざるを得ない。

一度限りの会話で解決策が見つかるような、特に判断を要しない軽微な相談事であれば、さほど問題はない、しかし、卒業、就職や休学、退学といった判断を要するような相談がなされると非常勤職員では明快な回答を出せないし、出してはいけないはずだ。

◆管理職がすべき基幹業務まで非正規職員が担当

しかしながら正規職員が圧倒的少数という職場では本来、職責と待遇の差によって当然区別されるべき業務内容の境界が次第にあいまいになってくる。正規職員が行うべき業務を非正規職員が泥縄式に担当させられている状態が続くと、正規職員のモラルが低下し、「ああこれもアルバイトさんにやってもらっていいんだ」といった誤解が現実を徐々に支配していくからだ。正規職員の4分の1ほどしか給与を得ていないアルバイト職員に「判断」や「責任」を委ねることをまったく不自然と感じなくなる。これは「同一労働同一賃金」の原則からすれば、言語道断の事態である。

学生相談への対応は大学にとって基本的な業務である。が、より重要な責任を伴う業務、例えば、次年度予算の作成や決算といった本来ならば管理職が担当すべき基幹業務を非正規職員が毎年行っている大学も少なくない。

更に驚くべきところでは、正規職員の課長が体調不良で移動したために、その後任課長に非正規職員を任命した大学を私は知っている。そのケースでは、当初の非正規職員としての契約待遇がどのように変化したのかは聞き及んでいないが、理事や監事といった「役員」に非常勤の学外者が名前を連ねることはあっても、毎日出勤してルーティン業務をこなす事務職の管理者に非正規労働者を配置するという行為は驚くに値する。

◆まるごと職員アウトソーシングの波紋

昨日の東京新聞(8月20日朝刊)では、戸籍窓口業務を全面的に民間委託していた東京都足立区が「偽装請負」を理由に厚生労働省から是正を求められたという事件が報じられている。

この事件は今日、行政機関や大学が抱いている大きな「誤解」を理解するのに好例だ。戸籍や住民票は極めて秘匿義務が高い個人の情報であるが、足立区はその担当をまるごと民間企業に委託していたのだ。人権感覚や行政としての責任感は微塵も感じられない暴挙だ。

納税者、住民が求めているのは「安心して任せられる」情報管理ではないだろうか。いくら委託業者と厳密な契約を交わしたところで情報漏えいが発生することは、先の「ベネッセ」の事件が雄弁に物語っている。このようなバカげた行政判断を「他の行政機関に先駆け」などと報じている東京新聞も頭を冷やすべきだ(原発報道では群を抜く活躍が目を引くだけにここでは敢えて批判しておく)。

大学に置き換えれば、学生や保護者は教育内容もさることながら、学生生活が安心して送れることを期待して高い学費を払っている。

ところが経営陣が「コスト」優先で正規職員の人数を抑え、非正規職員で職場を回そうとすれば、表面的には経費削減というプラスに見える。だが、相談に来た学生が非正規職員の無責任さ(本当は無責任ではなく対応することが職責上できないのであるが)を「大学の冷たさ」と認識するし、正規職員にとっては学生が抱える様々なトラブル解決に当たるという一見面倒ではあるが、大学職員としての能力向上に資する絶好のケーススタディーチャンスを逸することになるのだ。

◆卒論提出日の受付に正規職員が一人もいない!

ある大学で実際に起こった事例を最後に紹介しておこう。

卒業論文の提出は当然のことながら日時と場所、提出方法が厳密に定められている。定刻になればそれ以降受け付けるわけにいかない、というのが原則である。

関西にある某大学では卒業論文の提出日に正規職員が一人も出勤していなかった。定刻を過ぎたので事務室にいた非常勤職員はカウンターのシャッターを下し受付を終了した。ところが、帰り支度を始めた事務室に卒論を持った学生がやってきた。

さて、あなたがその担当者であれば、どのように対応するだろうか? [次号へつづく]

(田所敏夫)

◆新設学部の入学定員超過で「Beyond Borders」

更に追い打ちをかけたのが2008年に起きた「入学時転籍」問題だ。新設の「生命科学部」の合格者を多く出し過ぎてしまった立命館大学は、合格者に「貴方は優秀だから生命科学部以外にも入れますよ。理工学部へはいりませんか?」といった誘導を行ったのである。

受験生からすれば青天の霹靂だ。自分が受験したのは「生命科学部」であって、その合格通知を手にしたところ「ほかの学部はいかがですか?」と大学が聞いてくることなど想像を超えている。なぜ、このような転籍を強行しなければならなかったのか?

その理由は文科省による補助金である。大学は入学定員が決まっており、その1.3倍(この数字は時代により変動するので今日の正確な基準は異なっているかもしれない)以内であれば問題はない。だが、入学者(あるいは同一学部学科の総員)が定員の1.3倍を超えると補助金を削減されるというルールがある。

志願者が多く、競合大学が多彩な大学にとって、合格者を何名にするかの決定は極めて神経を使う作業である。特に受験日が重なったり、新規の同内容学部が他大学に新設された年などは、それまでの経験則やある種の「勘」が役に立たないことがある。まさに、その失敗を「生命科学部」は犯してしまった。合格者を出しすぎてしまったのだ。

文科省も一度限りの定員超過について厳罰は課さず、注意程度に収める場合が多いが、その後に新しい学部の新設や大学院の設置を予定している場合にはそれに悪影響を及ぼす。
立命館大学は当時、更なる学部新設を計画していたことから「生命科学部」の入学者定員大幅超過は何としても避けたかった。そこで他学部への「入学時転籍」という荒業に手を染めたのだ。

◆岐阜の公立高校買収でも「Beyond Borders」!

更に立命館大学の快進撃(?)は続く。立命館大学は岐阜県の「市立岐阜商業高校」買収を水面下で進めていたのだ。この報道を新聞紙面で目にしたとき、私は「おいおい、いくらなんでもそれはないやろ」と腰を抜かしかけた。

何と「岐阜県」にある「公立高校」の買収に本気で取り組んでいたのである。大学校地が全国に広がる日本大学、東海大学といった経営方針の大学ならば、新たに「出店」を開業することにさしたる驚きもない。だが、立命館大学はAPU(立命館アジア太平洋大学)を大分県に持っているとはいえ、実質的にはあくまで「京都」中心の大学である。関西とは文化園の異なる岐阜県の、しかも公立高校を買収にかかるとは、いったい何を考えているのか? そんな話がうまくまとまるのか?と注目していたが、案の定、岐阜市議会で猛烈な反対を喰らい、この買収計画は失敗に終わる。

◆びわこ草津キャンパスでは爆発未遂事故で「Beyond Borders」!

また、立命館大学びわこ草津キャンパス(BKC)では昨年、「火災による水素ボンベ爆発未遂事故」(!)が起きている。BKC校舎内でボヤが発生し、実験用の水素ボンベに引火の危険性が生じたため、ボンベから半径200mからの避難を指示が出された。

ところがボンベから半径200mは大学の敷地のみならず、近隣の住宅街にも及ぶ。学生だけではなく当然、近隣住民にも避難の指示が伝えられるべきところ、連絡は何と自治会長にのみ伝えられた。自治会長一人で当該地域の住民全員に迅速な連絡ができるはずはなく、後日、大学と自治会、草津市役所も含めて検証の場が持たれ、地元からは強い不安と不満の声が上がったという。これは物理的に極めて危険性の高かった「Beyond Borders」といえよう。

◆大阪「茨木」校地開設では関西大と「Beyond Borders」!

そして、極め付けは「茨木」校地建設だ。茨木と言えば関西になじみの深い方には容易に位置を認識していただけようが、関西地域以外の方には少々説明しておいた方がよいだろう。

茨木市は大阪府に位置する。JR、阪急電車などで大阪駅へのアクセスも良いため、古くからのベットタウンでもある。参考までに茨木市の北東(茨木市より京都寄り)は高槻市である。JR高槻駅前には関西大学の校舎が建っており、高槻市には高橋大輔や織田信也などの有名アイススケート選手を産み出した関西大学のスケートリンクもある。

関西大学のメインキャンパスはこれまた茨木市より大阪寄りの吹田市である。つまり地理的には立命館大の茨木校地は関西大学のメインキャンパスと高槻キャンパスに挟まれる場所に来年3月開設に向けて現在急ピッチで校舎建設が進んでいる。

この「茨木」校地建設問題について詳述しだすと紙数がいくらあっても足りないが、その危うさを示す立命館大学職員のコメントを紹介しておこう。
「茨木校地を建設すれば、いずれ財政的に立ち行かなくなる」
ある現職財務担当職員の見解だ。

現在の理事長、執行部は「関西大学との戦いに勝つために」と茨木校地開設の意義を語っているという。おいおい! 立命館大学のライバルは同志社大学ではなかったのか? 「京都のりっちゃん(立命館大の愛称)が大阪に足伸ばしてどないすんねん。イメージ崩れるで」と言うのが多くの大阪人の見方だ。

同じ関西エリアといっても、京都と大阪では文化も気質も大きく異なる。この茨木校地設立こそ、立命館大学が選択した究極の「Beyond Borders」といえよう。

◆「ボーダー越えすぎ」で見えてきた「ゲームオーバー」

大学業界人の多くは「茨木校地開設はひょっとすると株式会社立命館の終わりの始まりになるかもしれない」と考えている。ゼネコンに莫大な利益もたらすことはあっても、立命館大学がまとまった校地を茨木市に開設する積極的な理由は見当たらない。

大学は企業と異なり、経営状態が多少悪化しても即座に「倒産」とはならない。立命館クラスの大規模大学になれば尚更だ。但し「貧すれば窮す」で経営ミスや財務状況の悪化は教学内容(教員、学生の質など)を直撃する。大学内での無用の雑務や対立も起きてくるだろう。

立命館大学が越えてきた数々の「Borders」。
その選択が妥当であったか否かそう遠くない将来、回答が出るだろう。
私の直観ではズバリ、アウトだ。

(田所敏夫)

 

「Beyond Borders」──。今年に入ってから関西のJRに乗ると頻繁にこのコピーを用いた立命館大学の広告を目にする。今年度、あるいはここしばらく立命館大学がキーワードとしてシリーズで広告を展開するようだ。

私が最初にこの広告を目にして「え!」と驚いたのは本年3月だった。ソチ五輪スノーボードハーフパイプで銅メダルを獲得し、立命館大学に「入学予定」(まだ入学はしていない)の平岡卓選手が宙を舞っている写真とともに単身取り上げられていた。

在学生や卒業生の活躍を大学が広告に利用することは珍しいことではないが、入学予定者(仮に進学が内定していたとしても)を大々的に広告に利用するのは極めて異例である。この広告ひとつからも、現在の立命館大学が持つ特徴の一端が表われていると見ることができる。要は「度を越えている」のだ。

◆京都の庶民派大学、滋賀や大分に「越境」して大変身

立命館大学の歴史は1869年に遡る。京都に西園寺公望が「私塾立命館」を設立し、1900年中川小十郎が「京都法政学校」を夜学として開校する。1913年に広小路に校舎が整い「立命館大学」の名称へ変更され、実質的に今日に続く立命館大学の歴史がはじまる。

立命館は昔から「関関同立」と呼ばれる関西難関私大の一角を占めてはいたものの、他の3大学に比べると、どこか野暮ったく(よく言えば庶民的であり)校地も手狭であったため、華々しい印象を与える大学ではなかった。その立命館が変化を見せるのが1990年代からである。事務職員上がりのたたき上げ、川本八郎氏が理事長に就任し、権限の集中化を進めると積極的な「改革」、「経営」に舵を切る。

京都にしか校地を持たなかった立命館は1994年に滋賀県草津市から校地の提供を受け念願の広大なキャンパスを手に入れる。京都由来の大学としては龍谷大学も大津市にキャンパスを設けており、京都と滋賀県は隣接することからやや大げさな表現になるかもしれないが立命館にとってはこれが最初の地理的な「Beyond Borders」だったと言えるかもしれない。

その後、中曽根康弘が首相時代に提唱した「留学生10万人計画」(2000年までに留学生を10万人受け入れる)に沿う形で2000年、大分県に「立命館アジア太平洋大学」(APU)を開学する。

ただし、APUの開学は地元の反対などで、当初の計画よりも1年遅れた。APUは学生の半数を留学生とし、講義を英語で行うなど先進的な試みを謳い開学したものの、当初は十分な留学生数を確保することが出来ず、世界各国に「授業料は無料で構わないから」と学生募集に奔走していたとの噂が大学業界ではまことしやかに語られていた。

◆「改革者」の理事長が進めた「独裁」

京都は狭い盆地の中に数多くの大学がひしめき合っている。公式に各大学の担当者が集まって定期的に開催される会合もいくつかあり、それ以外でも各大学にそれぞれ知り合いの教職員がいることが多いため、虚々実々の噂が耳に入ってくる。

1990年代中盤以降、立命館大学の職員と接する度に、他の大学関係者は何かしら大学職員としての違和感を感じていた。だから、裏では「株式会社立命館」と呼ばれていた。
系列高校の買収や新学部の創設に邁進する川本理事長は、敏腕経営を実践する「改革者」としてマスコミにも頻繁に登場していたし、氏は京都に限らず全国の大学や企業から声がかかり講演を多数こなしていた。しかし、結果からいえば川本氏は強引な手法を用いて自らに権限を集中し「独裁者」として君臨し、彼に異を唱える者は誰もいないという状況を作り出していたのである。

川本氏は職員時代から日本共産党員であった(たぶん現在もそうであろう)。1960年代から1970年代のいわゆる「学生運動」が盛んだった時期に、立命館大学は京都の中では飛び抜けて教職員、学生とも日本共産党員あるいはそのシンパが多数在籍していた。

京大、同志社では日本共産党から分かれた新左翼系の学生が勢力を強めていったのと対照に、立命館大学では学生自治会もほぼ民青(日本共産党の学生組織)が掌握していた。当時、自治会委員長を務めた人間は学生課長であった川本氏と「共同作業で学園の正常化を進めた」と回顧している。そういった側面からも、立命館大学のどこか地味なイメージというものが定着していったのかもしれない。

◆独裁体制の「一線を越えた」大失態

川本独裁体制に移行して以来、立命館の経営は「イケイケドンドン」に変容した。川本氏は時に日本共産党仲間の人間を学外から抜擢し要職に着任させるなどの独自の手法を用いながら、それでも基本的に人の話に耳を貸さない、独裁者としての確たる地位を確立し、ついに大失態を演じてしまう。

2005年、川本氏は「立命館の一時金は高過ぎるのでカットしたい」と発議し実行する。その一方で「常勤役員退職慰労金」の基準を2倍に高める(年額500万円から1000万円へ)という変更を同時に行った。「常勤役員退職慰労金」とは分かりにくい名称であるが、これは「退職金」ではない。常勤の理事等役員がその役職を離れる時にその間の功労に応じて支払われる制度である(退職金は別途退職の際に支給される)。

その結果、驚くべきことに一般の教職員の一時金を減額しておきながら、川本氏には1億2000万円の「常勤役員退職慰労金」が支払われることとなる。この事件は立命館大学としてのモラル崩壊という点で「Beyond Borders」と言えるだろう。

さすがにこの無茶苦茶さに黙ってはいられないと立命館教職員の有志が理事会を相手取り訴訟を起こすこととなり、新聞、テレビ等でも大々的に報道されることとなる。[次号へつづく] (田所敏夫)

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