格闘群雄伝〈17〉寺尾新──今や伝説の人、マニー・パッキャオと戦った男

◆マニー・パッキャオの存在

寺尾新(てらお・しん/本名:井之上新介/1970年12月24日、東京都八王子市出身)は、マニー・パッキャオと対戦した唯一の純粋な日本人として、後々注目を浴びる存在となっていった異色の格闘家である。

マニー・パッキャオは寺尾新戦の後、複数階級を制覇していくだけでもカリスマ的存在だったが、2008年12月にオスカー・デラホーヤに不利な体格差を覆しTKO勝利したことで世界を震撼させるスーパースターとなった。後も世界同時配信されるビッグマッチを続け、更には母国フィリピンで議会議員に当選し政治家活動も開始。それらの影響は思わぬ形で日本にも及んだ。

後にマニー・パッキャオは日本人記者のインタビューで、「日本は寺尾新と戦った思い出の国!」と語り、寺尾新への注目度が増すことへの拍車をかけ、マニー・パッキャオが活躍すればするほど、寺尾の株は更に上がっていった。

寺尾自身も大ブレイクに繋がった因果は、それまでの生き様が物語っていた。

小野瀬邦英さん(左)登場、後楽園ホールで偶然の出会いツーショット(2~3年前/写真提供=寺尾新)

◆前身はプロレス・ファン

寺尾新は幼い頃からプロレス好きで、カメラ小僧としてプロレスを追いかけるマニアックな青春期を送っていた。

1986年(昭和61年)4月、帝京八王子高校に入学し、プロレス好きが高じてリングを見たくてボクシング部を覗きに行くと、待ち構える先輩方の勧誘の威圧感で入部せざるを得ない雰囲気に呑まれ、渋々アマチュアボクシングを始めるに至った。

高校3年の春には、キックボクシングの小国(OGUNI)ジムに入門。プロレス好きから格闘技全般に興味を示し、シュートボクシングやキックボクシングの観戦をしていた中、斎藤京二(格闘群雄伝No.15)、青山隆、菅原賢一といった黒崎道場から育った強い選手と一緒に練習出来ることが決め手だった。

そこまでの努力は、3年生でのアマチュアボクシング東京都大会でのトーナメントはライトフライ級で優勝。

1989年(平成元年)4月には、東京都大会優勝の実績で帝京大学に推薦入学したが、ここからは思うようには勝ち上がれず、ボクシングを諦め、大学も1年で中退の道を選んだ。

小国ジム入門時期では、3ヶ月ほど後に入門する一つ年上のソムチャーイ高津(格闘群雄伝No.7)より先輩にあたるが、寺尾はまだ学生アマチュアボクサーだった為、ソムチャーイ高津が先にプロデビューし、鮮やかなKO勝ちをしたことから、「高津さんは僕の先輩です!」と尊敬の念を強めた。

山本一也(平戸)をローキックで倒す、パンチはフォロー(1994年/藍原高広氏の撮影ビデオより編集)
勝者・寺尾新の表情(1994年/藍原高広氏の撮影ビデオより編集)

身軽になった翌1990年4月、キックボクシングのアマチュア版と位置付けされる全日本新空手道大会に出場。55kg級でトーナメント初戦(1回戦)は勝利も2回戦で敗退すると、悔しさから格闘技雑誌で見た、1ヶ月のムエタイ体験入門の募集に申し込んで、謳い文句どおりの有名選手が所属するバンコクのハーパランジムで修行も行なった。

ソムチャーイ高津は帰国後の寺尾を見て、「寺尾さんはそれまでパンチしか印象がなかったのに、サンドバッグに重い蹴りをバンバン蹴っていて、人はたった1ヶ月でこんなに変われるんだ!」と成長に驚いたという。

1991年、寺尾は実家のある八王子から板橋の小国ジムに通うには遠く、すでに足が遠のき始めていたが、伊原ジムの八王子支部があることを知ると、まだプロデビューする前だった為、円満に伊原八王子ジムへ移籍した。暫くは派遣されて来た元木浩二(格闘群雄伝No.4)氏らの指導を受け、通うには近くて楽だったが、やがて八王子支部が閉鎖に陥り、遠い代官山の伊原ジム本部まで通わされることになってしまった。伊原信一会長の厳しさと指導のもと、1992年7月11日、キックボクシングの本格的プロデビューはKO勝利。

1994年12月の宮野博美(光)戦で1ラウンドKO負けが最終試合となったが、通算8戦6勝(5KO)2敗、勝利ではKO率が高い結果を残した。

キックボクシングでの最終試合となった1994年12月の宮野博美戦プログラムより

◆プロボクシング転向

やはり実家のある八王子から通うには遠かった伊原ジム。1995年春、プロボクシングの八王子中屋ジムが開設されたことを知ると、家から近いジムに通いたい願望や、アマチュアで諦めた悔いを払拭する想いも沸き上がり、プロボクシング転向を決意。円満に伊原ジムを退会し、八王子中屋ジムへ入門。

経験豊富な寺尾は間もなくプロテストを受け、C級ライセンス取得。同ジム第1号プロとして1995年(平成7年)9月22日プロデビュー。後に日本フライ級1位まで駆け上がった。

1998年5月18日に当時、東洋太平洋フライ級チャンピオンで世界タイトル前哨戦を迎えていたマニー・パッキャオと対戦。マッチメーカーのジョー小泉氏が対戦相手を探していたところ、寺尾新に白羽の矢が立った。八王子中屋ジムへ打診が入ると、強い奴と戦いたかった寺尾新は迷わず受けて立った。

各メディアに登場して、マニー・パッキャオに関して語られることは似たものになってしまうが、パッキャオと対峙しても、細身でヒョロヒョロのパッキャオに負ける気なんて全く無かったという。

しかし「遠い距離から左ストレートがいきなり飛んできた。更にあっちこっちから千手観音のようなパンチの嵐。根性やテクニックで凌げるものではなく、凄い威力で逃げられなかった!」という1ラウンド 2分59秒で、3度のダウンを奪われKO負け。

「いつもは負けたら、必ずリベンジしてやろうと思ったが、パッキャオに負けた時は二度と顔も見たくないと思った!」と敗戦後の心境を明かしていた。

寺尾は翌1999年7月3日、指名挑戦者としてセレス小林(国際)の持つ日本フライ級王座挑戦も9ラウンドTKO負け。パッキャオ戦から調子は戻らず3連敗で燃え尽きたように引退。通算16戦10勝(1KO)5敗1分の戦績を残した。勝利でのKO率は低く、ボクシングではパンチを的確にヒットさせることの難しさを表していた。

元・日本ミニマム級、ライトフライ級チャンピオン、横山啓介とのチャリティーイベントのエキシビションマッチにて(写真提供=寺尾新)

◆精力的な格闘技人生

寺尾新はプロボクシングは引退したが、元々はプロレス中心の格闘技好き。寺尾道場としたサークルを作って全日本グローブ空手道大会に出場。長瀬館長率いるTAMAプロレスへも参加。2007年9月2日、UKFジャパンのキックボクシングに出場すると、初代UKF東洋フェザー級王座を獲得。いずれも第一線級を去った後だが、プロレスとキックボクシングでチャンピオンベルトを巻くことも出来た。その後もマニー・パッキャオがどんどん活躍していくことで、寺尾新にもさまざまな格闘技のオファーが殺到したという。

2017年12月18日にはテレビ朝日の「激レアさんを連れてきた」に出演。マニー・パッキャオと戦った恩恵の多くを語り、笑いに包まれる明るくオモロイキャラクターとして寺尾新の名は格闘技界に限らず全国へ広まった。

「あの時試合しておいてよかった。悔しい思いが今となっては嬉しい想い!」という本音は、パッキャオに負けても後々に受けた恩恵は計り知れず、生活の糧となる職業は転々とするが、「パッキャオと対戦した唯一の日本人選手」と書いた履歴書は採用にかなりの効力を発揮。職探しに苦労することなく不動産会社や介護施設で働いた後、2011年12月、神奈川県相模原市緑区に、知人の会社経営者から格闘技フィットネスジムの経営を任され、「雇われ会長です!」とは言うが、知名度抜群の看板となってPREBOジムの名で運営開始。プロ選手も育てられる環境である。

PREBOジムで会員さんを指導する寺尾新会長(写真提供=寺尾新)
PREBOジム内覧風練習風景。結構広い(写真提供=寺尾新)

寺尾新自身は「生涯現役を貫こうと思っていましたが、もう燃え尽きたので現役は引退です!」と笑うが、奥様の井之上弥生選手は、4月25日に後楽園ホールでの「KNOCK OUT 2021 vol.2」に於いて、女子45.0kg契約3回戦(2分制)で、川島えりさ(クロスポイント吉祥寺)と対戦予定で、寺尾新の指導の技が試される試合でもある。

2年前の夏には熱海の海岸で、元木浩二氏主催の、昭和のキック同志会主催バーベキューパーティーが行われ、寺尾新はソムチャーイ高津氏、元木浩二氏と感動の再会となって懐かしい語り合いとなっていた。

多くの体験を経て、多くの名選手をも先輩に持つ寺尾新。運命を変えてくれたマニー・パッキャオを初め、多くの対戦者との縁も大切に、今後も指導においても格闘技の楽しさ面白さを教え、少しでも格闘技を盛り上げる力となっていきたいという寺尾新氏である。

熱海で再会、元木浩二氏(左)と寺尾新氏(2019年8月25日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

格闘群雄伝〈16〉小野瀬邦英 ── 倒すか倒されるかの躍進で時代を変えた革命児

◆バイク事故で運命を変えた新人時代

小野瀬邦英(1973年6月27日、茨城県水戸市出身)は、高校入学後、地元の茨城県水戸市で平戸ジム入門。倒すか倒されるかの躍進で日本キックボクシング連盟のマイナー的存在から逆襲へ流れを変えた革命児である。

「学生時代は何をやっても長続きしない人間でした」という小野瀬だが、中学の野球部ではサードで4番、勉強も常に学年トップ。でも途中で飽きて不登校になったという頭脳明晰、運動神経抜群の変わり種。

中学3年頃、テレビでマイク・タイソンの試合を見て、その強さに憧れてボクシングを始めようと思うも、水戸市には平戸ジムしか無かったことから高校入学と同時に入門。当時はボクシングとキックの違いも分からないまま練習を始めたというが、次第にキックボクシングに目覚めていった。

高校2年の1990年10月13日、フェザー級デビュー戦は2ラウンドKO勝利するも、同年12月、バイクの交通事故で左足踵断裂、アキレス腱がパックリ飛び出す重傷を負ってしまった。これでくっつく迄手術を繰り返すも、左足が満足に使えなければ選手生命は絶たれたも同然だった。

1992年3月、高校卒業すると鍼灸専門学校入学の為上京。学校に通いつつ、身体を持て余していた小野瀬は身体慣らしに運動できればと学校の近くにあった渡邉ジムを訪れ、プロではなく、足のリハビリ目的で入門を申し出た。

現在のキックボクシングジムでは、フィットネス目的での入門は多いが、当時の渡邉ジムは、そんな目的での入門はほぼ受け入れなかった。受入れたとしても、渡邉信久会長がハードな練習を強制するから、あっという間に去ってしまう。

だが、渡邉会長にとって平戸ジムの平戸誠会長はかつての後輩だった縁から「平戸の弟子ならまあいいだろう!」と特別に小野瀬の入門を許した。

しかし折角のジムワーク。リハビリは解るが、キックボクサーとしての恰好ぐらい付けてあげられないものかと周囲の協力体制が芽生えていった。左足のアキレス腱や脹脛に衝撃を与える蹴り禁止。小野瀬は左回し蹴りはフリか軽く蹴るといったフェイントで形を作り上げていくことになった。

半年程経って、現役のチャンピオンだった先輩の佐藤正男とのマススパーリングが増えていった。小野瀬は速い動きと、他の技、更に右・左とスイッチを繰り返す対応で攻撃もディフェンスも出来るまでになっていた。

通算5戦して5勝(4KO)だったが、ガルーダ・テツは好敵手だった(1996.2.24)

◆戦うスタイル、渡邉ジムで開花

その辺りを見計らい、渡邉会長は「小野瀬、試しにリングに上がってみろ!」と試合出場を促した。当然不安はあるところ、「左足は使わなくてもいいから!」と促されて出場。

再デビュー戦を3ラウンドKO勝利。2年程で7~8戦した中、負けもあるが幾つかKO勝利出来たことは自信に繋がっていた。

渡邉会長は「ここまでやれたんだから、もっと上を目指せ!」と叱咤激励。

小野瀬は後に「ローキックのカットは出来ますが左の蹴りは無し。その分、他の攻撃力を上げればいいと思っていたので現役時代は苦にはなりませんでした。」と自信を語る。

新人時代を経て、倒すか倒されるかの攻防は大阪からやって来たガルーダ・テツ(大阪横山)とは互いの発言も過激で、東西対抗戦的話題性は新風を巻き起こした。

1997年2月23日、日本キックボクシング連盟ライト級王座決定戦で、小野瀬は根来侑市(大阪真門)に1ラウンドKO勝利で王座獲得したが、他団体交流に備えた肩書では、選手層が厚かった他団体に比べ、注目を浴びる存在ではなかった。

[左]初めてのチャンピオンベルトを巻いた根来侑市戦後、飛躍はここから(1997.2.23)/[右]佐藤孝也には苦しんだが、しっかり打ち合えた戦いだった(1997.4.29)
チャイナロンにやられた顔面、鼻は折られ腫れ上がる(1999.12.12)

日本キックボクシング連盟は1984年11月の設立当初、統合による人材豊富な活気があった。その後の分裂で他団体勢力には押され気味の時代が10年以上も続く中、渡辺明(渡邉)、佐藤正男(渡邉)らが連盟代表的エース格の時代はあったが、団体そのもののメジャー化には程遠かった。

時代の流れは、1996年8月に設立したニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)との交流戦が始まった。小野瀬は、すでに多くのトップ対決を経験していた佐藤孝也(大和)には苦戦の辛勝だったが、実力が計れる対戦相手との対戦はより存在感を増すことには成功した。

1999年には、日本で実績を残していたチャイナロン・ゲオサムリット(タイ)を1ラウンド、ヒジ打ちで下し、プライド傷つけられたチャイナロンは再戦で猛攻、小野瀬は鼻は折られるも、2ラウンドボディーブローで逆転KO。小野瀬の実力は紛れもないトップクラスという証明をもたらした。

「チャイナロンとの2戦目が現役中一番しんどい試合でした。でも勝ったことで、より私の評価は上がりましたが、今も鼻は曲がったままです。」と負った痛々しい勲章を語る。

◆やり残した武田幸三戦

2000年にはNJKFウェルター級チャンピオン青葉繁(仙台青葉)や元チャンピオン松浦信次(東京北星)、上位ランカーの大谷浩二(征徳会)との計4選手によるトップオブウェルターリーグに出場すると、ライト級の小野瀬はやや押される展開も見せたが、「体格の圧力は特に無く、何発か当てれば絶対倒せる」と確信していたという小野瀬が3戦3勝(2KO)の?日本キックボクシング連盟ここにあり”をもって示した優勝を果たした。

優勝者に約束されていたムエタイチャンピオンとの対戦は、同年9月24日、ムエタイ殿堂スタジアムで長く人気を博したオロノー・ポー・ムアンウボンとの試合が組まれたが判定負け。

「ハードパンチャーとの謳い文句でやって来たオロノーは打ち合いを避けて首相撲で来ました。やはり首相撲は地味だが疲れます。ムエタイとキックボクシングの競技性の違いを痛感しました。」と語る小野瀬の、目指す先は限られてくる難しさも見えてきた。

[左]松浦信次戦、体格差凌いで豪快にKO(2000.4.22)/[右]オロノーもムエタイ技で打ち合いを凌ぎ、追い詰める小野瀬(2000.9.24)
同門対決と言われた職場の後輩、石毛慎也に敗れる(2002.6.29)

この時代はより細かく乱立する8団体の中の、柵(しがらみ)の無い4団体が統一的なNKB(日本キックボクシング)タイトル化を進め、トーナメントを経て2002年には各階級チャンピオンが誕生した。

6月29日、ウェルター級決勝で小野瀬は動きが悪く、若い石毛慎也(東京北星)のヒジで斬られるTKO負け。隆盛を極めた小野瀬の終焉を迎える時期でもあった。
その後、小野瀬は引退宣言をし、「最後に我儘を言わせて貰えるならば、ラストファイトには武田幸三さんと対戦したい。」という公言は、周囲は実現に動くかと期待が膨らんだ。

しかし、どうしても拭えない古い柵に取り憑かれた中では、この対戦は実現に至らなかった。

同年12月14日、小野瀬のラストファイトに相応しい最強として用意された、ラジャダムナンスタジアム・ライト級チャンピオン、マンコム・ギャットソムウォンは、やはり打ち合いに来ないテクニシャンタイプで判定負け。そのリング上で引退式を行ないリングを去った。

小野瀬にとって最も噛み合う、倒されるにしても完全燃焼させてくれる相手と願っていた元・ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン武田幸三(治政館)が激励に駆け付け、リング上でのツーショットに収まるのが精一杯の対峙となった。

小野瀬は後に「バイク事故でもう元通りには回復しないほど足を痛めてしまい、キックボクシングはもう無理と諦めていました。縁もあって渡邉会長に特別な指導を受け、周りのサポートもありここまで来れました。心より感謝してます!」と何はともあれ、現役を続けられたことへの感謝を語っていた。

[左]武田幸三とは夢の対決ではなく対峙(2002.12.14)/[右]引退試合でのマンコム戦、倒せなかった(2002.12.14)
引退式の後、渡邉会長から労いの言葉を掛けられる(2002.12.14)

◆次代を担う立場

小野瀬は新人の頃、自身の腰の故障治療の為に受けた経験から上京後、鍼灸専門学校を経て柔道整復師、鍼灸師、マッサージ師の資格を取得し、現役時代の1999年1月7日、江戸川区葛西に「まんぼう・はりきゅう整骨院」を開業。自らの事故と試合での負傷経験から、傷みの分かる治療が施されている評判良い整骨院である。

引退後は同じ葛西にSQUARE-UP道場を開設。倒しに行く、自分で勝ちを掴めという教えで、夜魔神、大和知也、安田一平をNKBチャンピオンに育て上げている。

2014年には日本キックボクシング連盟で興行担当と成り、古い柵からの改革が始まった。斬新なプロデュースを行ない、新たにフリーのジム所属選手との交流戦を始め、高橋三兄弟の活躍の場を広げ、NKBの活気が増してきたところで小野瀬は2017年12月末で、諸事情により興行担当とSQUARE-UPの会長職を円満に辞任し後輩に託したが、キックボクシングの底上げの努力に後退は無い。平成時代に戦った世代の小野瀬邦英は、同じ世代の会長、プロモーター達とキックボクシング競技確立へ、今後の時代を担う一人である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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格闘群雄伝〈15〉斉藤京二──黒崎道場で培った忍耐で新たな時代へ挑戦するキックの申し子

◆新人時代

斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
     
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。

だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。

「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。

この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。

「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。

変則ファイター内藤武に左フックを合わせる(1983.5.28)

◆試練続きの現役生活

デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。

藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。

この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。

しぶといレイモンド額賀を逆に翻弄、TKO勝利する(1984.1.28)
事実上の頂点、長浜勇を倒し、実力を証明(画像はKO前、この後にKO)(1984.5.26)

統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。

ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。

その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。

念願の日本ライト級王座獲得、甲斐栄二を倒す(1986.11.24)

◆エース格として、常に上を目指す戦い

1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。

[左]王座獲得後のチャンピオンベルト姿撮影(1987.1.25)/[右]飛鳥信也を下し初防衛(1987.4.19)

1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。

心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。

[左]全日本キックに移っての初防衛、若い石野直樹を倒した(1988.1.3)/[右]全日本キックでは国際戦が多かった、ジョアオ・ビエラに判定勝利 (1988.7.16)
小国ジム新会長就任パーティーにて、抱負を語る斎藤京二氏(1992.2.9)

◆引退後もなお新たな挑戦

引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。

1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。

2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。

2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。

小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。

現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。

時代は移り変わりNJKF理事長を勇退、坂上顕二新理事長より花束が贈られる(2019.2.24)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

格闘群雄伝〈14〉高谷秀幸──バックハンドブローを武器にキックボクシング界を渡り歩いた風来坊

◆通信教育でスタート

高谷秀幸(たかや・ひでゆき/1963年8月31日、東京都大田区出身)はタイトル歴は無いが、「目立ってやろう精神」は好奇心旺盛に団体と時代を渡り歩いた名脇役であった。全日本キックボクシング連盟ではリングネームを兜甲児としてリングに上がった。

空手会場で演舞を披露していた頃もある高谷秀幸(20歳頃)

幼い頃から活発で、ブルース・リーなどを見様見真似のアクションで遊んでいたが、15歳で空手を始めた。そんな頃、雑誌ゴングの広告で見た、みなみジムのキックボクシング&マーシャルアーツの通信教育に興味を持って申し込み、日々テキストに従った練習に励んだ。

一定の通信過程を経て実技審査に入る際はスクーリング制度で、みなみジム宿舎泊まり込みで技術を披露。

元々から充分鍛えていた高谷は何一つ劣ることなく体力テストもクリアし修了審査を終えると、「じゃあまた連絡するから!」と南会長に言われてジムを後にし、10日ほど経ったある日、電話が入った。

「オイ高谷、デビュー戦決まったから入門しろ!」

「えっ、デビュー戦? 入門前にデビュー戦って決まるもんなの?」という疑問は聞ける雰囲気ではなく「ハイ、分かりました!」と応えるのみ。

入門したのは1981年10月1日、デビュー戦は10月25日だった。これが当時、日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング協会で分裂が起こって設立された日本プロキックボクシング連盟の設立記念興行だった。ライト級デビュー戦同士で鈴木庄二(西川)と対戦した高谷は勝つよりも目立ってやろうという意識が強く、バックハンドブローを炸裂させたことが判定勝利に結び付いた。これで自信を持った高谷は後々の得意技となっていった。

デビュー戦のリングに立った日(1981年10月25日)

◆夜逃げ

みなみジムでは1戦のみだったが、会長は「もっと左ミドルキック蹴らなきゃダメだ!」といった試合のダメ出しが多く、何かと威圧的に煩いこと言われ続け、傍から見ればどちらも血気盛んな性格なだけだったが、高谷は突然の退会を申し出て、後は夜逃げ同然のように宿舎から去った。

高谷は千葉県内に移り住んでいたが、一度やったキックボクシングは簡単には止められない魔力に憑りつかれていた。やがて千葉県内のキックボクシングジムを探し出すと、総武線の稲毛駅付近で車窓から見えたのが「TBSで放映中!キックボクシング千葉ジム」の古い看板。迷わず稲毛駅を降りてすぐに向かった。

当時はテレビも離れ、分裂も繰り返し起こったキックボクシング業界低迷期で、ジムは閑散としたもの。戸高今朝明会長も「こんな時代だが、やりたい奴はやればいい」と、過去の経歴は拒むことなく高谷を迎え入れた。みなみジムとは難なく話は纏まっていた様子だったという。ジムのバラック小屋には後々、中二階が作られ宿舎スペースと高谷はそこで暮らすことになった。

再デビューもライト級で1982年10月3日、三浦英樹(西川)に判定勝利。

1984年3月31日には、あのベニー・ユキーデと戦った新格闘術ライト級の内藤武(士道館)と対戦(5回戦)。高谷は映画・四角いジャングルや梶原一騎の影響を受けた世代として、憧れの内藤武には上を行く変則ファイトに翻弄され判定負け。

この頃は10kg以上あろうと格上だろうと堂々とマッチメイクするのが千葉ジム流。というのもキックボクシング創生期からそんな大雑把なこと当たり前の時代の名残りだった。

甲府での北島利秋(西川)戦(1983年9月18日)
日本キックボクシング連盟設立興行での西純猛(渡辺)戦(1984年11月30日)
千葉ジムでの練習。今時少ないパンチングボール(1985年頃)

翌1985年6月、ここでも思わぬマッチメイクも発生した。

日本フェザー級タイトルマッチ、渡辺明(渡辺)vsロバート高谷(千葉)と書かれたポスター。「ロバートって誰だ?」と思った途端、自分の顔写真に気付いた。

「えっ? 渡辺明と? フェザー級? 無理だろ!」

ここには1ヶ月前に起こった日本キックボクシング連盟の分裂からくる皺寄せが来ていた。そのもう一方の団体ならフェザー級は充実したランカーが揃っていたが、こちら側の団体では閑散としたもの。知らぬ間に一階級下のフェザー級でマッチメイク、更に格上過ぎる勢いある渡辺明。キック人生初のタイトルマッチだったが、バックハンドブロー炸裂で渡辺明が鼻血を流すシーンを見せるも、無理な減量も影響し、ヒザ蹴り猛反撃を食らった高谷は1ラウンドもたずの2分55秒KO負けを喫した。

こんな減量が響く無理なマッチメイクがあったり、千葉ジムにはしっかり指導できるトレーナーが居ないことからこれで引き際と決意し、次の試合が決まったと聞きながら、そっと千葉ジムを離れた。二度目の夜逃げ同然だった。

◆兜甲児となって

暫く空手などの試合に出場していたが、やがてまた「もう一度キックボクシングをやってみたい」という憑りつかれた魔力には勝てず、新空手の試合会場で山梨県の不動館・名取新洋会長に会うと、「現役を離れて5年のブランクがありますが、キックをやらせて頂けないでしょうか!」と入門を願い出ると、かつて不動館の興行に出場したことある高谷のことを知っていた名取会長は難なく了承。

この時期はキックボクシング低迷期を脱し、徐々に若い世代が台頭してきた時代で、各階級で充実したランカーが揃っていた。再起のリングとなった全日本キックボクシング連盟で、高谷はマジンガーZの主人公・兜甲児の名をリングネームとして3回戦(新人戦)からやり直すことになった。

ここから対戦した相手は後々、チャンピオンとなる選手が多かった。再々デビュー戦は1991年4月21日、林亜欧(SVG)に左フックでKO勝ち。松浦信次(東京北星)にバックハンドブローでKO勝ち。金沢久幸(富士魅)には判定負け。全日本キックで最後の試合となったのが1994年3月26日、小林聡(東京北星=当時)に僅差の判定負け。5回戦に上がることは無いままだったが、対戦相手には恵まれた3年間を送って30歳で引退を決意。最後は綺麗な引き際で不動館を後にした。

[写真左]再々デビュー戦となった林亜欧(SVG)戦(1991年4月21日)/[写真右]勝山恭二(SVG)戦(1991年10月26日)
[写真左]松浦信次(東京北星)戦(1992年3月28日)/[写真右]松浦に勝利した兜甲児(高谷秀幸)(1992年3月28日)
レフェリーを務める高谷秀幸(2006年12月10日)

◆引退してもキックとは腐れ縁

引退後はアマチュアキック・空手関係の試合でレフェリーを務めていたが、日本ムエタイ・レフェリー協会を発足させていたサミー中村氏から「プロでもやってくれないか」と誘われた。好きなキックとは腐れ縁で、なるがまま新日本キックボクシング協会でレフェリーを務めた。ちょっとユニークな動きを見せるレフェリーとして異質な存在感を見せたが、新日本キックで審判団入れ替えの事態が起きた2014年11月に終了となった。

高谷は2008年頃には35歳以上が参加出来るアマチュア枠のイベント「ナイスミドル」にも何度か出場しKO勝利を収めている。

タイへ観光に行った際には、田舎やお祭りのリングで余興にも出場。バックハンドブローを元・ラジャダムナン系ランカーにヒットさせると、そこから物凄い首相撲で何度もひっくり返されヘロヘロになったという仕打ちも「キックボクシング第4の人生の楽しい経験」と笑って言う。

高谷のバックハンドブローは、怯んだフリをして相手に背中を向け、向かって来たところを迎え撃つ手法で、チャンスと見た相手はガードが下がり気味でヒットし易いという。

新人戦から元・ムエタイランカーにまでヒットさせた、バックハンドブローの名手・高谷秀幸だった。

2017年3月にこの鹿砦社通信で掲載されたテーマ「試合から逃げた選手たち」に挙げた一人は高谷秀幸だった。しかし高谷は試合から逃げたのではなく、会長から逃げたパターン。若気の至りだった。

完全引退してから千葉ジムを訪れた際、「そんな昔のこと忘れちゃったよ、元気だったか!」と言ったのは戸高今朝明会長である。

みなみジム・南俊夫会長には、高谷がまだ現役時代にリングサイドで、「押忍、御無沙汰しております!」と元気よく挨拶すると「オウ、久しぶりだな、元気にやっとるか!」と返す南会長の笑顔があった。爽やかさが残るのが高谷秀幸という男。

現在は依頼があれば指導、演舞などをこなし、公園や体育館で空手やキックボクシングを、歳に合わせた自己練習の日課を今も続ける少年の心を持ったオッサン高谷秀幸57歳である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

格闘群雄伝〈13〉玉川英俊──レフェリーから大田区議会議員へ、格闘技と共に災害に強く生きる! 堀田春樹

◆キックボクシングの衝撃

新日本キック時代の玉川英俊レフェリー(2004年5月30日)

玉川英俊(1968年12月4日東京都葛飾区出身)はプロキックボクシング試合出場の経験は無いが、空手経験が縁でキックボクシングレフェリーを長く務めた経験を持つ大田区議会公明党議員である。

玉川英俊は玩具卸売りを営む両親に育てられた三人兄弟の末っ子で、兄によくプロレス技をかけられていたという遊びから、小学生の頃は漫画タイガーマスク、あしたのジョーが大好きだった。

高校生になって、空手部に所属していたクラスメイトの教室での大人しい姿と、道場での勇ましい姿とのギャップに驚き、玉川自身も空手部に入部。そこから空手バカ一代や四角いジャングルの漫画をはじめ、格闘技雑誌の創刊ブームなど、時代の流れに乗って格闘技にどんどん夢中になっていった。

1987年5月、創価大学一年の時、友人に元・極真空手の竹山晴友の試合を観に行こうと誘われ、後楽園ホールで初めてのキックボクシング生観戦。プロの技の衝撃、興奮が収まらず、どんどんキックボクシングにハマっていく中、大学でフルコンタクト空手のサークルを創設。大丈会(=ますらおかい)として試合出場も果たし、打撃技術を求めて、大学のある八王子市在住のキックボクサーとして、日本ライト級チャンピオンとなる頃の飛鳥信也(目黒)氏に指導者として丈夫会に迎え入れ、目黒ジムに見学や体験入門を果たした。

1990年5月、大学4年の時、第1回全日本新空手道選手権大会では、師である飛鳥信也氏と同門で、後にWKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなる新妻聡と対戦していた。結果は「もうやめてくれ!」と言わんばかりの防戦一方のTKO負け。 他にも杉山傑(治政館)に判定勝利、今井武士(治政館)に判定負けと、後のチャンピオンとの対戦は多かった。大学卒業後は目黒ジムに正式入門。1995年頃までプロデビューは目指さず練習生のまま、ミット持ちなどトレーナーも務めた。

NO KICK NO LIFEにて緑川創vsアンディー・サワー戦を裁く(2014年2月11日)

◆レフェリーに転身

1995年頃から、新空手道、学生キックボクシング連盟等でレフェリー(主審・副審)として要請され参加。その後、新日本キックボクシング協会の運営関係者からもレフェリーとしての依頼の声が何度となく掛かり、「アマとプロは違うから」と断り続けていたが、最後は目黒藤本ジムの藤本勲会長から直接お電話でお願いされたことで、それまでたくさんお世話になってきたことへの恩返しとの思いで引き受けることになった。 しかし、プロのレフェリーでは思った以上に厳しい局面に立たされ、苦労が絶えなかった。

「アマチュアの試合では“早めのストップ”が重視され、その癖がプロの試合でも出てしまい、セコンドから罵声を浴びせられることは多々ありました。早く止めてKO負けにしたとき、その選手所属のジムの会長が泣きながら主催者に抗議されていたのを覚えています。またジャッジでも、興行終了後に某ジム会長が審判控室に『この採点したのは誰だ!』と怒鳴り込んで来られたこともありました。」という威圧的な抗議は脳裏から消えないという。

また2006年には「チャンピオンの地元での日本タイトルマッチで、1-2判定で挑戦者が勝った試合がありました。判定結果が出た直後、不服とした関係者がリング上でレフェリーを平手打ちし、会場は暴動寸前となり、その後、審判団は一旦全員解雇。継続したい者は残れと言われたものの復帰の見込みは無く、その後暫くして退くことにしました。」という形で一旦、プロ興行のレフェリーから去ることになった。

その後、アマチュアのみに戻り、学生キックボクシング連盟でのレフェリーを務め、ナイスミドル(キック版オヤジファイト)から声が掛かり、ここでのレフェリーも務めていた。そして2014年2月11日、リニューアル大田区総合体育館として初めてのキックボクシング興行が開催された、小野寺力氏の「NO KICK NO LIFE 2014」で、レフェリーとして依頼され復帰をしたが、2016年6月24日、「KNOCK OUT」移行による「NO KICK NO LIFE~THE FINAL ~」を最後にレフェリーから退くことになった(主に議員活動の多忙と興行が重なる事情有)。

審判を務めた経験の中には失態もありつつ、「2005年のある日本の王座決定戦で、本戦・延長戦共に、私のみ勝者“青コーナー選手”の採点を付けましたが、結果は2-1で赤コーナー選手“の勝ち。赤コーナー陣営から罵声を浴びましたが、あの時の自分の採点は間違っていないと毅然と立ち振る舞った試合もあります。」と言い、これが採点が分かれる場合もレフェリー・ジャッジそれぞれが取るべき大事な姿勢であろう。

ザカリア・ゾウガリーvs水落洋祐戦を裁いた後の勝利者コール(2016年3月12日)
NO KICK NO LIFEでの審判団(提供:玉川英俊氏)
選挙演説に出向いてマイクを握る(提供:玉川英俊氏)

◆大田区議会議員へ挑戦

1991年、格闘技人生とは裏腹に、日常では大学卒業と共にIT関連会社に就職し、後に大田区北千束に移り住むと、26歳で大学時代の同級生と結婚し、一男一女を儲け、後々には大学卒業まで立派に育て上げていた。

2011年には19年間勤めた会社を退職し、大田区議会議員選挙に挑戦していた。在職中の総務部で防災担当として培ってきた経験を活かして、災害に強い街づくりに取り組んでいくことを志していたが、選挙の一ヶ月前に東日本大震災が起こり、その志は更に強く持ち、格闘技に関わって来た忍耐と、どこにでも足を運ぶ行動力が基盤となった活動で同年4月24日、見事当選されている。

議員としての活動は日々忙しく多岐に渡るが、この3期10年間、東北や伊豆大島の被災地支援ボランティアにも参加し、現地で学んだことを大田区の防災強化に活かす為、議会で提案・討論を続けている模様。

また小中学校との交流も重ね、防災教育にも力を注ぐことが、人の命を救うこと、いじめや差別を無くす人間教育にも繋がるという取り組みも行ない、玉川氏が格闘技を通じて身に付いた、人の痛みの分かる指導が今後も活かされるだろう。

PETER AERTS SPIRITイベント開催に際し、ピーター氏表敬訪問にて、右から2番目が松原忠義大田区長、中央がピーター・アーツ、左端は大成敦レフェリー(提供:玉川英俊氏)
選挙演説にてマイクを持って公約、抱負を語る(提供:玉川英俊氏)

◆議員として格闘技界に手助け出来ること

旧・大田区体育館は新日本プロレスが1972年(昭和47年)3月6日に旗揚げ興行を行なった会場として有名だが、2008年3月に老朽化により解体、新たに建設され2012年3月に新・大田区総合体育館として竣工。ここから大晦日にプロボクシングの世界戦が行われる年が多く、玉川英俊氏は「ここで格闘技興行を行ないたい人達が多く居る」ということを議会でも訴え、主催者や選手たちの想いを直接、大田区・松原忠義区長に届ける為に、イベント告知や結果報告などで、小野寺力会長やピーター・アーツ氏、那須川天心選手他、多くの格闘技関係者による区長・区議会への表敬訪問の場をセッティングしてきた。

玉川英俊氏は「大田区には21世紀の“格闘技の聖地”大田区総合体育館があり、この会場でプロレスや格闘技の名勝負が繰り広げられてきたという歴史、伝統を継承し、この格闘技の聖地を世界に知らしめていきたい!」と語り、敷居の低い、使い易い、観戦し易い、格闘技に優しい会場として位置付けようと活動に力を注いでいる。

ここ数年はJR大森駅前ロータリーで開催されるお祭「ウータンフェスタ」で、KICKBOXジム鴇稔之会長のもと、所属選手やチビッコ等による公開スパーリングやアトラクションマッチのレフェリーもしているという(昨年はコロナ禍で中止)。今後、またプロ興行でその姿が見られるとしたら、その玉川議員レフェリーの姿をカメラに収めたいものである。

お祭りイベントにて、女子選手不満爆発のイジメ!?に耐える玉川レフェリー(提供:玉川英俊氏)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

新たな時代に突入するか日本キックボクシング連盟、必勝シリーズ開幕戦!

メインイベントとなった交流戦。高橋亮は2015年12月にNKBバンタム級王座獲得。2019年6月にNKBフェザー級王座獲得した二階級制覇チャンピオン。山浦俊一は2019年9月にNJKFスーパーフェザー級王座奪取して、昨年12月に葵拳士郎(マイウェイ)からWBCムエタイ日本スーパーフェザー級王座を奪取したばかり。

山浦俊一は2019年2月9日に高橋三兄弟三男・聖人にノックダウンを奪われ判定負けしている中での次男・亮との対戦となった。

日本キックボクシング連盟興行でニュージャパンキックボクシング連盟の女子キックが基盤のミネルヴァタイトルマッチが行われるのは、2019年9月29日、大阪でのテツジム興行以来、同一カードで2度目。sasoriも喜多村美紀もテツジム所属だが、sasoriは姫路支部所属で普段の練習では顔合わせは無い。両者は2019年9月に王座決定戦で対戦しsasoriが判定勝利している。

キックボクシング界に於いてはチャンピオンが乱立しているが、NKBもNJKFも国内団体タイトルのひとつである。

◎NKB 2021 必勝シリーズ 開幕戦 / 2月20日(土)後楽園ホール17:30~20:30
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会、ミネルヴァ実行委員会

高橋亮が最初のノックダウンを奪ったボディー蹴り

◆第11試合 61.0kg契約 5回戦

髙橋亮(真門/1995.9.22大阪府出身/60.95kg)
    VS
山浦俊一(新興ムエタイ/1995.10.5神奈川県出身/61.0kg)
勝者:高橋亮 / TKO 4R 0:48 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:前田仁

コロナ禍での観衆人数制限がある中だが、観衆が少ないだけではなく、緊迫感ある攻防を見守る観衆の静けさがあった。

主導権を奪いに行く素早さとフェイント掛けた高度な蹴り中心の攻防の中、第3ラウンド終了間近で高橋亮の前蹴り(通称・三日月蹴り)が山浦のボディーにヒットすると効いて蹲ってしまうノックダウンとなった。

山浦は懸命に立ち上がって終了ゴングに救われたが険しい表情。第4ラウンドには高橋亮がボディーに意識を持って行かせた上下打ち分けから左ハイキックをクリーンヒットさせると山浦は仰向けに倒れレフェリーストップとなった。

第4ラウンド開始後、山浦俊一を倒した左ハイキック
倒された山浦俊一は仰向けに倒れ、レフェリーがストップをかけた

◆第10試合 女子キック(ミネルヴァ)ライトフライ級タイトルマッチ 3回戦

チャンピオン.sasori(テツPRIMA GOLD/1981.3.19兵庫県出身/48.65kg)
    VS
同級1位.喜多村美紀(テツ/1986.6.27兵庫県出身/48.85kg)
引分け 三者三様
主審:宮本和俊
副審:佐藤29-30. 仲29-29. 前田30-29

蹴りも首相撲も少ない両者譲らぬパンチ中心の打ち合いが試合を盛り上げていくが、ポイントがどちらに流れるか難しい一進一退の打ち合いは、三者三様の引分けでsasoriが初防衛となった。

打ち合いが続いた喜多村美紀とsasoriの攻防
三者三様の引分けとなった女子のタイトルマッチはsasoriが初防衛

◆第9試合 ライト級3回戦

NKBライト級1位.棚橋賢二郎(拳心館/1987.11.2新潟県60.95kg)
    VS
WMC日本スーパーフェザー級2位.藤野伸哉(RIKIX/1996.5.31東京都出身/61.15kg)
勝者:棚橋賢二郎 / TKO 1R 2:59 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:仲俊光

藤野伸哉は棚橋賢二郎の剛腕を凌げれば蹴りやヒジ打ちで勝機あり。そんな流れも棚橋が様子見の後、勢いを増して打ち合いに出て来た第1ラウンド終盤。左右フックの強打炸裂で脆くも倒れ込んだ藤野は2度のノックダウンでダメージ深く、レフェリーストップとなった。

棚橋賢二郎の剛腕炸裂。藤野伸哉は凌ぎきれず
藤野伸哉が2度目のノックダウンとなった後、レフェリーがストップした

◆第8試合 ウェルター級3回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(TEAM COMRADE/1975.3.17東京都出身/66.5kg)
    VS
ちさとkiss Me!(安曇野キックの会/1983.1.8長野県出身/66.55kg)
勝者:笹谷淳 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:宮本30-27. 仲30-27. 前田30-27

笹谷淳の蹴りから組み合う力が優り、ロープ際まで押し込む圧力。イジメのように顔をロープに抑え込んでヒジ打ちをゴツゴツ当てる圧倒が続くと、ちさとは眉尻をカットした上、スタミナを失うばかりで劣勢を挽回できず、笹谷が蹴りでも優りフルマーク判定勝利を掴む。

組み合う圧力からロープ際に詰めると笹谷淳のヒジ打ちや顔面押さえが続く
蹴り合っても笹谷淳の圧倒が続いた

◆第7試合 57.0kg契約3回戦

NKBバンタム級4位.海老原竜二(神武館/1991.3.6/埼玉県出身/56.65kg)
    VS
ベンツ飯田(Team Aimhigh/1997.4.17群馬県出身/56.75kg)
勝者:海老原竜二 / 判定3-0
主審:佐藤友章
副審:宮本29-28. 鈴木29-27. 前田29-28

蹴り中心の攻防が続く中、最終ラウンドは距離が詰まり、パンチ中心に移る中、海老原のファールブローが飯田に当たって中断後、更にパンチの打ち合いに入ったところで海老原の左ストレートがヒットし、飯田はノックダウンとなった。海老原の落ち着いた試合運びが判定勝利を導いた。

◆第6試合 60.0kg契約3回戦(中田ユウジ負傷欠場で矢吹翔太が代打出場)

半澤信也(トイカツ/1981.4.28長野県出身/59.9kg)
    VS
矢吹翔太(ブレイブフィスト/61.4→61.35→61.3kg 計量失格減点1)
勝者:矢吹翔太 / 判定1-2
主審:仲俊光
副審:佐藤28-29. 前田30-29. 宮本28-29. 矢吹に減点1含む

◆第5試合 バンタム級3回戦

志門(テツ/1996.4.14兵庫県出身/53.15kg)
    VS
ナカムランチャイ・ケンタ(team AKATSUKI/2000.8.18千葉県出身/53.3kg)
勝者:志門 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:前田30-28. 仲30-28. 宮本30-29.

◆第4試合 59.0kg契約3回戦 

山本太一(ケーアクティブ/1995.12.28千葉県出身/58.85kg)
    VS
源樹(リバティー/1995.12.6埼玉県出身/58.3kg)
勝者:山本太一 / TKO 3R 2:35 / レフェリーストップ
主審:佐藤友章

◆第3試合 54.5kg契約3回戦

幸太(八王子FSG/1998.3.19山形県出身/54.3kg)
    VS
SHU(D-BLAZE/1999.12.16千葉県出身/54.45kg)
勝者:SHU / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:前田28-30. 宮本28-30. 仲28-30.

◆第2試合 ミドル級3回戦

畑澤貴士(八王子FSG/1984.9.18東京都出身/71.75 kg)
    VS
渡部貴大(渡邉/1992.11.12東京都出身/72.15kg)
勝者:渡部貴大 / TKO 3R 1:56 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:佐藤友章

◆第1試合 アマチュア特別試合 50.0kg契約3回戦(2分制)

伊藤千飛(真門伊藤/2005.6.25兵庫県出身/49.85kg)
    VS
藤井昴(治政館江戸川/2005.12.2東京都出身/49.45kg)
勝者:伊藤千飛 / 判定3-0
主審:前田仁
副審:鈴木30-29. 佐藤30-27. 仲30-29.

ミネルヴァ実行委員長の竹越義晃氏と並ぶsasori

《取材戦記》

女子の試合というのは男子よりパワーは無いが耐える力はあると言われる。ひたすら打ち合っていると、その展開が変わらぬまま進むことは多い。判定結果が告げられる間、勝利を祈る喜多村に三者三様の引分けが告げられると落胆の表情へと変わった。引分けもタイトルマッチに於いては明暗分ける厳しい裁定である。

高橋亮は山浦俊一に対し、再戦(リベンジ)したいならWBCムエタイ日本王座を懸けることを希望した。日本キックボクシング連盟では元々は交流戦を行なわなかった時代が長かったが、近年は若い世代が興行を運営し、高橋三兄弟が他団体交流戦やビッグイベント興行のリングに上がる機会に恵まれ、他団体チャンピオンと戦えば、負けることはあっても強い三兄弟とトップクラスに居る立ち位置をアピールすることに成功してきました。

そんなNKB(日本キック連盟、K-U)に於いては未だに他団体王座に挑戦することは禁止されているが、今後、運営する若い世代が新たな展開を見せてくれるか注目したいところです。

高橋亮が山浦俊一に最初のノックダウンを奪ったのは三日月蹴りというらしい。前蹴りとミドルキックの中間の軌道で爪先辺りで蹴る感じ(厳密には他の言い回しあり)。

近年はカーフキックというのも現れました。脹脛辺りを狙った蹴り。いずれも昔からあったように思う蹴りでも、古い人間としては我儘ながら、使い難い名称の感じがします。

日本キックボクシング連盟の次回興行は、4月24日(土)後楽園ホールに於いてNKB 2021必勝シリーズvol.2が開催されます。開場と開始時間が通常より変更される可能性がありますので御注意ください。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2021年開幕戦から必見のNJKF! 堀田春樹

メインイベンター、健太は長らくNJKFのエース格を務めてきた90戦を超えるベテランだが、2019年6月の勝利以降2敗1分、高橋一眞は現在2連敗中と勝ち星から遠ざかった中での両者の対戦ではあるが、置かれた両団体でのエース格的立場として興味深いカードであった。

両者は5年前なら戦う運命には無かった階級から61.3kg契約で対戦するに至った。

NJKFスーパーフェザー級王座決定戦は過去、HIROが勝利している中での再戦は梅沢武彦が雪辱を果たした。

圧力かけて出る健太のハイキック

◎NJKF 2021.1st / 2月12日(金)後楽園ホール17:00~20:10
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟 / 認定:WBCムエタイ日本協会、NJKF

◆第9試合 61.3kg契約 5回戦

健太(=山田健太/E.S.G/1987.6.26群馬県出身/61.25kg)
    VS
高橋一眞(真門/1994.9.7大阪府出身/61.3kg)
勝者:健太 / 判定2-0
主審:宮本和俊
副審:竹村49-49. 中山49-48. 少白竜49-48

健太はNJKFでウェルター級、スーパーウェルター級で王座獲得や、WBCムエタイ日本ウェルター級王座獲得の実績あり。現在はWBCムエタイ日本スーパーライト級1位。高橋一眞はフェザー級でデビュー後、階級を上げNKBライト級チャンピオンとなる。

高橋一眞のローキックで健太の脚は傷だらけ

互いのローキック主体の攻めが主導権支配に流れそうな序盤、健太の脚は蹴られた跡がクッキリ残る。しかしどちらの戦略も主導権支配に至らない展開。

第4ラウンド終了時、「ヒジでカットしたでぇー!」とアピールした高橋一眞。健太の額からは薄っすらとした小さい流血。第5ラウンド、健太もヒジ打ちを出してくるがクリーンヒットは無い。しかし健太のパンチ、距離を詰めての猛攻にはやや押されてしまった高橋。これが運命を分け、健太が僅差で判定勝利。

「今回は勝ちに行くこと重点に倒しに行くことはあまり考えなかったです。また一からやり直しや!」と反省の高橋一眞。終盤に健太の圧力でロープを背負ってしまうのは勿体無い見映え悪さだった。

打ち合い避けたい高橋一眞だが、健太のパンチもヒットする
「ヒジでカットしたでぇー!」とアピールする4ラウンド終了時の高橋一眞

◆第8試合 60.0 kg契約3回戦

国崇(=藤原国崇/拳之会/1980.5.30岡山県倉敷市出身/59.6kg)
    VS
琢磨(=沼崎琢磨/東京町田金子/1992.8.25神奈川県愛甲郡愛川町出身/59.9kg)
勝者:琢磨 / TKO 2R 2:53 / カウント中のレフェリーストップ
主審:和田良覚

国崇は多くの王座獲得実績の中、ISKAムエタイとWKAムエタイの世界フェザー王座獲得実績有り。

琢磨はNJKFとWBCムエタイ日本のスーパーフェザー級王座獲得実績有り。現在WBC日本同級7位。

ベテランらしい攻防があった試合。小気味いい打ち合いを続けていく中、第2ラウンドには琢磨のパンチ攻勢が強まり国崇は下がり気味。琢磨が右ストレートをヒットさせ国崇からノックダウンを奪うと続けて連打から右ストレートで倒し、カウント中にレフェリーが止めた。

徐々に琢磨のパンチでダメージが溜まり、右ストレートで崩れる前の国崇
倒された国崇と立ちはだかる琢磨

◆第7試合 第9代NJKFスーパーフェザー級王座決定戦 5回戦

1位.HIRO YAMATO(大和/2000.6.25名古屋市出身/58.96kg)
    VS
2位.梅沢武彦(東京町田金子/1993.8.12東京都町田市出身/58.85kg)
引分け 0-1 / 主審:少白竜
副審:竹村49-49(延長9-10). 和田48-49(延長9-10). 宮本49-49(延長9-10)
梅沢武彦が勝者扱いで王座獲得

どちらが的確なヒットの印象が優るかの差。上下の蹴りからパンチ、組み合えばヒザ蹴りと技がキレイだが、相手のスタミナを削るような追い込み、ダメージを与える緊迫感が無い。延長戦ではやや疲れがあったかHIRO。前に出て積極性がやや優った梅沢武彦の優勢ラウンドとなった。公式記録は引分け。

インパクト無い攻防も延長戦は勝ちに出た両者、梅沢武彦のハイキックヒット

◆第6試合 57.0kg契約3回戦

NJKFスーパーバンタム級3位.日下滉大(OGUNI/1994.9.30埼玉県出身/57.0kg)
    VS
獠太郎(DTS/57.0kg)
勝者:日下滉大 / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:少白竜30-29. 和田30-28. 宮本30-29

序盤、獠太郎の右ストレートがややヒットするも、日下の距離ではタイミング良い上下の蹴り、接近すればヒザ蹴りで優っていき、主導権を譲らなかった日下の判定勝ち。

獠太郎の積極性を上回った日下滉大の的確さ

◆第5試合 女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級3回戦(2分制)

2位.KAEDE(LEGEND/2003.8.13滋賀県出身/55.8→55.6kg)
    VS
櫻井梨華子(優弥/54.9kg)
勝者:KAEDE / 判定3-0
主審:宮本和俊
副審:竹村29-28. 和田29-27. 中山29-27. KAEDEに計量失格減点1を含む)

距離感がいいKAEDE。いい位置から蹴りパンチが当たる。バッティングによるものか櫻井は額に大きなコブを作ってしまうが影響は無さそう。的確差が優ったKAEDEが判定勝利。

KAEDEはウェイトオーバーながらもヒットを上回り勝利を導く

◆第4試合 NJKFバンタム級王座決定トーナメント3回戦

5位.鰤鰤左衛門(CORE/53.2kg)vs 6位.池上侑季(岩﨑/53.5kg)
勝者:池上侑季 / TKO 3R 2:09 / カウント中のレフェリーストップ
主審:竹村光一

◆第3試合 65.0㎏契約3回戦

JUN DA LION(E.S.G/1976.8.3埼玉県出身/64.8kg)
    VS
マリモー(キング/1985.3.8東京都出身/65.0kg)
勝者:マリモー / 判定0-2
主審:和田良覚
副審:竹村29-29. 少白竜29-30. 宮本28-30

◆第2試合 女子(ミネルヴァ)ライトフライ級3回戦(2分制)

3位.真美(team immortal/48.8kg)
    VS
6位.ERIKO(ファイティングラボ高田馬場/48.9kg)
勝者:真美 / 判定3-0 (29-28. 29-28. 29-28)

◆第1試合 女子(ミネルヴァ)スーパーフライ級3回戦(2分制)

3位.佐藤“魔王”応紀(PCK連闘会/52.0kg)
    VS
ルイ(クラミツ/52.16kg)
勝者:ルイ / 判定0-2 (29-30. 29-30. 29-29)

NJKFスーパーフェザー級新チャンピオンとなった梅沢武彦

《取材戦記》

ムエタイは判定に至る場合が多いが、主導権を奪って終わった方が勝つと言われている為、前半は飛ばさないし、負傷判定も無い。日本のキックボクシングにおいても、10-10が多い採点では、ほぼ互角と思える流れで迎えた最終ラウンドは主導権を奪って終わらなければ見映えが悪いだろう。健太はそんな最終ラウンドにラッシュを掛けてポイントを奪った展開。ベテランらしさが出た勝利だった。

国崇は99戦目、キャリア20年の大ベテラン。平成以降において100戦を超える選手が居なかった時代に100戦超えが近い選手が数名いる現在。同時に3回戦が主流の時代の中身も問われるが、100戦超えは今後、チャンピオンとは違ったステータスとなりそうである。

この日はリング上の照明が点かないまま第1試合が始まってしまうアクシデント。ルクス低い客席照明と廊下側から漏れる灯りの中、ゴング鳴る前に「ライト点いてないよ!」とは言わせて貰ったが、薄暗い中での第1ラウンドが進む。第2ラウンド前のインターバルで照明点いたが、こんな事態を見たのは初めてだった。

NJKF興行予定は2月21日(日)に大阪市住吉区民センターで関西版「NJKF 2021 west 1st」が開催されます。

6月13日(日)に大阪府堺市産業振興センターで「NJKF 2021 west 2st」、6月27日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.2nd」が開催予定。夜興行ですが、開場開始時刻は通常より変更される可能性があります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

東京五輪大会組織委員会会長の行方 川淵三郎の会長就任は、なぜ覆ったのか?

前回の記事では、森の「女がいると会議が長引く」発言が単に個人の失言ではなく、旧態のジェンダー観を背景にした一種のイデオロギー闘争であり、国際的な日本の評価につながる女性差別事件である、と指摘した。(「森喜朗=東京オリ・パラ大会組織委員会会長の辞任劇 何が問われていたのか」2021年2月13日)

そして当初の予測どおり、森の辞任(実質的な国内外の世論による解任)は休日の11日中に実行されたが、同時に森が後継を託した川淵三郎の会長就任が阻止されるという事態が生起した。

Jリーグ誕生、バスケットボール協会のゴタゴタ(競技団体が鼎立し、代表チームが選出できない)の解決など、実績と能力において誰しも認める川淵の会長就任が頓挫した。この事態に驚嘆した方も多いのではないか。

◆就任辞退は、官邸からの要請だった

もっとも「不祥事で辞任する会長に後継禅譲はふさわしくない」「密室人事であり、透明性がない」「爺爺交代では、国際的な評価が得られない」などの理由は、世論的には当然だと思われる。

だが、森が男泣きに川淵に「苦労」を打ち明けて後継を懇願し、川淵もまた家族の反対を押し切ってまで、大任を引き受けたのではなかったのか。川淵によれば、今回の件で批判を受けた森会長に「気の毒」「本当につらかっただろうなっていうんで、涙がなかなか止められなかった」などと「もらい泣き」したことを明かし、森氏に「相談役」就任要請を打診したことなどを明かしていたのだ。

「人生最後の大仕事」として、取材陣にこの人らしく上記の情報を開示しながら「引き受ける」と明言した決意が、見事にくつがえったのである。

川淵は会長を引き受けるにあたっては「(就任受諾の)外堀が埋められていた」とも語っている。ようするに大会関係者の推薦や了解が得られていたにもかかわらず、その翌日には当の本人が就任を辞退したのである。

これを驚天動地の展開と言わねば、なんと説明できるのだろう。本人は「流石に身体は綿のように疲れ切った感じです。偶には弱音を吐かせてください」(ツイッター)と、心身から疲れ切った心情を吐露している。相当の就任反対論、あるいは激しい批判があったものと推察できる。

川淵三郎2021年2月13日ツイッターより

そこで、いったい誰が森の密室禅譲路線をくつがえしたのかが、明らかにされなければならないであろう。森の禅譲も「密室劇」ならば、川淵の翻身も「密室」なのだから。

川淵が明かしたところでは、菅総理から「女性か若い人はいないのか」という主旨の発言があったことが知られている。これはのちに菅総理が明らかにしたとおり、間接的ながら森への苦言であった。IOCのバッハ会長も、女性の共同代表案を森に持ちかけたが、これも森が拒絶することで、最終的に川淵もふくめて国際的な孤立にいたる。あとは「透明な手続きを」という正論が通ったのだ。

このあまりにも当然の苦言には、しかし政界の暗闘、とりわけ自民党内のどす黒い派閥抗争という事情があった。すなわち政局だったのである。

◆加藤の乱に参画していた菅義偉

加藤の乱をおぼえておられるだろうか。

第二次森政権の2000年、自民党は森の神の国発言などで国民的な批判に晒されていた。森が党の顔では、選挙を戦えないというのが党内世論でもあった。

そもそも森政権は小渕恵三総理の脳梗塞による降板により、密室で選ばれた暫定政権である。

YKKトリオのうち、次期総裁にもっとも近かった加藤紘一は小渕派(旧竹下派)に担がれることを是とせず、イッキに派閥抗争に決着をつけようとした。すなわち、野党による森内閣不信任決議案に乗って、倒閣の党内クーデターを画策したのだ。これが加藤の乱である。周知のとおり、加藤の目論見は派内の一致もえられず、クーデターは事前に鎮圧。野中広務幹事長の党内引き締めによって、YKKは腰砕けになったのである。

じつはこのとき、加藤派の一員としてこのクーデター劇に参加していたのが、ほかならぬ菅義偉総理なのだ。このときの因縁は感情的なものではないにせよ、不透明な選出劇(森という政治家)を嫌う、ある意味では菅の潔癖さがみとめられる。

◆スポーツ長官就任を拒否された川淵三郎

じつは2015年のスポーツ庁設置のときにも、森はスポーツ庁長官に川淵三郎を据えようとしていた。大学の先輩後輩であり、涙をもって語り合ういわばホモソーシャルなコンビの策動は、しかし鈴木大地が長官に就任することで潰えたのだった。

このとき、官房長官として安倍政権の中枢にあり、川淵三郎のスポーツ庁長官就任に待ったをかけたのが、ほかならぬ菅義偉現総理なのである。

実績も手腕もじゅうぶんな川淵三郎がスポーツ長官に就任できなかった背景には、文部科学省の官僚たちが川淵を怖れていた、という指摘もある(二宮清純)。

というのも、川淵三郎が創出したJリーグシステムは、従来の学校スポーツ・企業スポーツの枠をこえて、地域と行政を動員した地域密着型の新生事物だったからだ。事なかれ主義の文科官僚たちにとって尺度がわからない、何をするかわからない人物というのが川淵三郎だったのである。

◆会長は誰になるのか?

現在、組織委員会は新任会長の選考委員会が組織され、新しい会長候補に橋本聖子五輪担当大臣、小谷実可子(五輪組織委員会スポーツディレクター・元シンクロナイズドスイミング選手)、山下泰裕(JOC会長)などの名が挙がり、橋本に一本化された(2月17日16時半現在)。今後は橋本を理事に入れ、そこから理事会で決定ということになるようだ。

橋本は政治家であるから、離党・大臣辞任・議員辞職が必要とされる。本人は固辞していると伝えられるので、政界(自民党)の橋本推薦をいったん受理して、橋本がさらに固辞した場合は、別の候補という流れになるのだろう。手続きを踏んだ、手堅い段取りと言えなくもないが、まだひと波乱ありそうな気配だ。


◎[参考動画]56歳橋本聖子大臣で一本化“ポスト森”18日午後選出へ(FNN 2021年2月17日)

しかしそれにしても、ふと気が付いて考えてみれば、スポーツと政治は親しくなり過ぎたようだ。

スポーツは資金を必要とするがゆえに、企業スポンサーを獲得し、税金を導きいれる政治の力をもとめてきた。これが森喜朗のスポーツ界における発言権、存在感(実権)の源泉であった。

◆政治とスポーツの一体化がもたらすもの

政治はスポーツを取り込むことで、国家主義的な国民意識の高揚、すなわち政治の求心力をもとめてきた。誰もが賛成するスポーツ振興、君が代日の丸の国民的普及、そしてナショナリズムである。

だが、一部の突出したスポーツ振興が、国民の健康に寄与するというのは錯誤であろう。

なるほど国際レベルでの日本選手の活躍は、一時的に国民のスポーツ熱をもたらすかもしれない。だが、外国人選手でかさ増ししたラグビー日本代表の活躍が観客増はもたらしても、ラグビーの普及に資していない現状があるという(日本協会関係者)。高校のラグビー部の低減、クラブチームの衰亡がそれだという。

野球やサッカーにおいても、学校スポーツとしては参加者が低迷している。スポーツのプロ化はそのいっぽうで、少年少女たちにスポーツ選手としての成功の難しさを明らかにし、やるスポーツから観るスポーツへと、国民の意識をぎゃくに後退させている現状があるのだ。国民の健康増進に寄与しないスポーツ振興は、たんなるショービジネスにすぎないことになる。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

森喜朗=東京オリ・パラ大会組織委員会会長の辞任劇 何が問われていたのか

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会は、12日に評議員会と理事会の臨時合同会議を開催し、森喜朗会長の発言の辞任。事実上の解任となった。

あらためて言うまでもなく、この女性差別発言は森個人の問題ではない。東京オリンピックの開催を左右する問題、すなわち五輪精神を蹂躙する発言であるがゆえに、わが国の外交政治やスポーツ文化のみならず、日本国およびわれわれ日本人の国際的評価がかかる問題だった。

森元総理はもともと「サメの脳みそ」と批評されてきた人物である。2005年の「日本の国は、まさに天皇を中心にしている神の国」(神道政治連盟国会議員懇談会)なる発言。あるいは「(選挙に関心のない有権者は)寝ていてくれればいい」(総選挙)、「イット革命」(IT革命のことを)という誤解発言。「ここはプライベートですよ」(20年前、えひめ号沈没事故のとき、ゴルフ場に取材に来た記者たちに=この結果、総理を辞職)。「あの子は、大事なときに必ずころぶんですよね」(ソチ五輪で、浅田美央選手の演技に)。「パラリンピックには行きたくない」(ソチ五輪)。

まさに枚挙にいとまがない「失言」のオンパレードだが、今回の「女性が多いと会議が長くなる」は、果たして「失言」だったのだろうか? そして「辞任」で解決するような問題なのだろうか。


◎[参考動画]【ノーカット】五輪組織委 森喜朗会長 会見(TBS 2021年2月4日)

◆確信犯的な差別は、永久追放に値する

結論からいえば、森喜朗の今回の発言は、確信犯的な女性差別であるということだ。確信犯森のために再録しておこう。

「女性理事を4割というのは、女性がたくさん入っている理事会、理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言います。ラグビー協会は倍の時間がかかる。女性がいま5人か。女性は競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分もやらなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局、女性はそういう、あまり私が言うと、これはまた悪口を言ったと書かれるが、必ずしも数で増やす場合は、時間も規制しないとなかなか終わらないと困る」

IOCの男女共同参画の目標にしたがい、大会組織委員会にも女性理事を拡充する。この方針をめぐっての評議員会での発言である。したがって、放言や失言というのは当たらない。言葉が過ぎたと感じたのか、以下は自分の発言を自己フォローする内容となっている。

「私どもの組織委にも、女性は何人いますか。7人くらいおられるが、みんなわきまえておられる」

そして、これらの発言の前提として「テレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を選ぶというのは文科省がうるさく言うんですよ」と断っている。テレビ報道を前提にした発言でもあったのだ。

ようするに森が言いたいことは、五輪大会が男女平等をスローガンとしていることに対して、組織委員会は女性が多くては困るから従えない。「女性の発言が多いのは、組織の恥である」「わきまえた女性なら、理事に加えてもよいのではないか」というのが本意であり「わきまえない女性を入れるのは反対だ」と、確信をもって議論を提起しているのだ。

この「わきまえない女」が「意見を言う女」であるのは明白だ。ようするに、会議を早く終えたい空気を読まずに、議論を長引かせる女は困るから排除したい。という差別発言。五輪憲章およびIOCがめざす男女平等に反対を表明したのである。

したがって、発言の撤回や会長辞任をもって「解決」とすることはできない。スポーツ界から永久追放するべきではないか。

五輪憲章およびIOCの女性参加者拡充(「オリンピック・アジェンダ2020」による)の手前、発言をなかったことにするのが今回の辞任であれば、東京五輪は「女性排除を内包した」「大会の組織委員会前会長が女性排除の意見をもっている大会」として、永遠に歴史に刻印されることになるのだ。

そして森発言をわらって聴いていた評議員たち、発言の撤回・辞任をもって何もなかったことにする理事会も同罪である。すなわち、女性排除の意見をもった組織ということになる。さきの森の弁明によれば「辞任するつもりだったが、引き留められた」というのだから。

開き直りともとれる逆ギレ会見を想起してみよ。まったく反省していないうえに、老害であれば掃き捨ててほしいと言ったのだ。お前たちに俺を排除できるのならば、やってみればいいと言い放ったのである。

それゆえに、抗議活動が全国で始まった。Twitterでは「#森喜朗氏は引退してください」というハッシュタグがトレンドとなり、森氏の大会組織委員長の辞任を求める声が続々と寄せられた。大会ボランティア8万人のうち、390人が抗議の辞任をした(2月8日)。聖火ランナーからもタレントの田村淳が「人気のあるタレントは、あまり人が集まらない田んぼを走ったらいい」などという森発言に抗議して、参加を取りやめている。

◆ジェンダー改革先進国からの批判

海外からの意見、抗議も紹介しておこう。

駐日欧州連合代表部やドイツ、フィンランドの大使館などが抗議ツイートを連投した。森を名指しこそしていないが、手を挙げる女性たちの写真に、「#男女平等」「#dontbesilent(黙ってはいけない)」とハッシュタグを付けてツイートしているという。五輪組織委員会および自民党の“森会長擁護”は、国際世論と大きくかけ離れてしまっているのだ。

烈しい批判もある。

フランスの欧州問題担当相を務めたナタリー・ロワゾー欧州議会議員は、自身のツイッターで「森さん、女性は簡潔に話せますよ。例えば、あなたにお答えするには『黙りなさい』で十分」と不快感を表明したのだった。

カナダのアイスホッケー女子五輪金メダリストでIOCのヘーリー・ウィッケンハイザー委員も、自身のツイッターに「この男を朝食のビュッフェ会場で絶対に追い詰める。東京で会いましょう」と投稿した。

国内では為末大の「森発言に黙っているのは同罪」というアピールが男性たちを覚醒させた。発言をしにくいアスリートたちからも批判の声はあがった。

このあまりにも激しい批判ゆえに、当初は「発言撤回で解決した」としていたIOCも、正式に「森会長の発言は、完全に不適切」と公式発表せざるを得なかったのだ。

◆差別とは何か?

森に「差別に関する知識がない」(大坂なおみ)そして、森みずから「老害」というのならば、基本的なことから始めなければならないであろう。

たとえば『紙の爆弾』の差別的な記述について、部落差別および部落解放運動を知らない人が思ったよりも多かったことからも、差別問題は基本的なことを踏まえる必要があるだろう。まさに「無知は差別」なのである。

まず、人類がみな平等で、尊重される存在である。という人権意識が前提である。森も形式的にはこれを承認するかもしれないが、本心にはないから差別発言をしてしまうのだ。じつはわれわれにも問い返されるのが、この差別意識である。それは水や空気のように存在する、と形容しておこう。

その自覚のうえで、差別問題とは「いわれなく、不当な扱いを受ける不利益」「不当に蔑視される不利益」「不当な除外と拒否行為」その結果「傷つけられること」である。そしてその本質は、今回の問題に引き付けていえば「女性蔑視」と「男尊女卑」の「ゆがめられた性文化(ジェンダー)」である。

そしてそれは、社会構造として厳然と存在する。社会的慣習として「女は控えよ」という封建的な思想だけではない。経済格差にも反映されているのだ。

女性の賃金は民間の給与調査で男性の半分におよばない。男性が530万円として、女性は250万円である。派遣やパートは圧倒的に女性が多く、その年収は正社員と同じ労働時間でも200万円に及ばない(時給1000円)。

役割分担はどうだろう。女性管理職は民間の課長クラス以上で7.5%、政治では閣僚が5~10%である。ようするに女性差別は、現実に根拠のある差別なのである。

それは家庭内分業や能力の反映だと、男尊主義者は言うかもしれない。だがたとい能力差があっても、男女共同参画を選んだのがわれわれの社会なのだ。平等な幸福権の追求、能力差をこえた参加型社会という理想を、日本社会もめざしているのだ。すくなくとも、能力に応じて得られる幸福は、不当な差別によって阻害されてはならないのである。

◆意外な自民党内の反応

そしてその現実に根拠のある差別(今回はジェンダー)は、感覚的に被差別者(今回の場合は女性)に不快感を与えるものだ。したがって男性は、ある程度の想像力をもって、これを感得しなければ理解できない。

自民党にとって不幸なのは、想像力のない人物が党の中枢にいることだろう。

二階俊博幹事長は、ボランティアの辞退が相次いでいることについて、

「落ち着いて静かになったら、その人たちの考えも変わるだろう」とした上で、「どうしてもお辞めになりたいということなら、新たなボランティアを追加することになる」と述べるにとどまった。事態の本質が想像できないのである。

「余人をもって代えがたい」

そう言って森会長の続投を支持したのは、世耕弘成参院幹事長である。

「(問題は)ここで収めて、五輪開催に向けて準備に邁進することが重要」と擁護してみせた。森の「功績」や「能力」と、今回の問題は別である。

「日刊ゲンダイ」によれば、「かつて、自民党の清和会を率いて首相まで経験した森会長の面倒見のよさは、永田町で有名です。多くの自民党議員が『森さんには世話になった』と思っている。要するに、森会長と『貸し借り』の関係が出来上がっているわけです。だから、“身内”である自民党議員の多くは、余計なことは言わないというわけです」(自民党関係者)という。

世界的な流れ、そして国内世論の流れが雪崩を打って森解任に向っていることすら、自民党村の村民たちは想像できなかったのである。

◆稲田朋美衆院議員の森批判

そんな中で、森会長に近いと見られている稲田朋美衆院議員が「私は『わきまえない女』でありたい」と、ツイッターで森批判をした。

稲田はみずからLGBT運動に参加するなど、保守派から愕かれる行動でも知られている。この人に政権を預けたら(かつては、安倍の後継構想だった)、まちがって戦争を始めてしまう(防衛省時代の管理能力不足)かもしれないと思われたものだが、ここでは信念をつらぬいた。

いっぽうで、これまで政界の男社会を批判し、女性の政治参画を訴えてきた自民党の野田聖子幹事長代行は、当初は森批判を封印してきた。おそらくポスト菅の隠し玉とされている(自民党関係者)ことで、男性議員を敵に回したくなかったのであろう。立憲民主党の女性議員たちが、婦人参政権運動にちなむ白いスーツで本会議と予算委に登場したのに対しても「わたしは言葉で政治をやります。白いスーツは着ません」と応じていた。

ところが10日になって、森発言を批判。辞任しか事態の収拾はありえないと会見したのである。

「今の時代の枠組みの中からすると、間違った発言だった」と指摘し「日本の国そのものがミスリードされることを懸念している。しっかりと多くの声を受け止め、自ら方向性を示していただければと願っている」

小池百合子東京都知事も、17日に予定されているIOC会長をふくめた四者会談への「欠席」を明言し、暗に森会長の辞任をせまった。これらは明らかな政治判断である。

ほかにも、早い段階で「邪魔です。出処進退は潔く」と森辞任を求めていた後藤田正純。さらには「国益を損なった森会長は辞任すべき」「この件でボイコットが行なわれたら、東京五輪は開催できなくなる」と、森元総理寄りの山本一太群馬県知事も退陣要求となった。ここに至って、森の命運は尽きたというべきであろう。

いずれにしても、森が会長職に執着し、周囲がそれを忖度していれば、東京オリンピックの開催そのものが危機に陥る事態となっていたのだ。そして自民党の総選挙での敗北も、この問題の処理に菅義偉が何ら態度を明確に出来なかった。そのことで、三度目の政権交代・自民党下野への機運がいっそう強まったと指摘しておこう。


◎[参考動画]Tokyo 2020 安倍マリオ(Al Jazeera Turk 2016年8月22日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

試合用グローブの色分けは必要か? 堀田春樹

◆昔は同一色

試合で使われるボクシンググローブ、昔は赤色(赤茶色のような深い朱色)グローブが主流。古くはもっとドス黒い赤紫色もあった。日本製(Winning社製)グローブを使用する日本のプロボクシングやキックボクシングはそれが普通だった。それしか無かったとも言える。それが今や外国製で何色も揃い特注も可能、グローブもファッション化してきた時代である。

新日本キックでは主にタイトルマッチで黒vs黒を採用した
モノクロでは明暗差のみ。色は分からない

◆色分け、なぜ始まったか

22~23年程前、取材で訪れたプロレス系の異種格闘技マッチで、両選手のグローブが赤と青に振り分けられていた。このシステムはK-1から真似したものだろうとは推測。

両者を見分け易いなと思ったが、すぐに違和感を覚えた。打撃競技で直接相手の顔面をヒットさせるグローブが、両者の色が違っては公平性は保たれていないではないかと思った。それは色彩によって心理的影響があると思ったからである。

それまでにアメリカ製、メキシコ製といった外国製は何色もあったと思うが、両者のグローブの色の振り分けすることは殆ど無かった。それがK-1から始まり、後にキックボクシング各団体が採用し始めた。更には、後発のイベントものの真似はしないだろうと思っていたプロボクシングも遅れて始まった。そんな疑問を当時のJBC役員に聞いて見たことがあった。

当然、色彩的影響も把握しているというもので、当初は振り分けは行なわなかったが、やっぱり見分け易いという意見が大半で採用に至ったようであった。

実際の試合で選手がそんなグローブの色で有利不利があるかと言えば、色の好み自体はあるだろうが、ほとんどの選手が気にしない、意識しないのだろう。

1990年代までは赤vs赤が主流

最近、リングサイド関係者の意見を10数名に聞いて見たが、「観客や審判団が見てもグローブの色が違うと両者を見分け易いと思う。」と語り、反対意見は一人も居なかった。

選手側の意見では、「最近のWOWOWエキサイトマッチを見ると試合は勿論ですが、グローブの色とメーカーをチェックしてしまいます。」といった声や、「相手の動きを見て戦うので、試合中にグローブの色は意識したことはないですが、タイの先輩トレーナーが、黒のグローブはパンチが見え難いという意見を聞いたことがあります。」といった声を聞くことができた。

これは世界的にも定着し、ムエタイに於いても定着してきた色分けシステムである。
大方の意見も試合に与える不利な影響は無いと考えられるが、さすがに白と黒の振り分けは明暗差が大き過ぎるので止めた方がいいかもしれないとは思う。

◆違和感持つ選手、プロモーターもいる

それでも業界の中には色の影響を察する選手やプロモーターも居たのも事実である。派手な色と地味な色のグローブが同等の強さとヒット数があった場合、審判(副審)から見て派手な色に意識が働くのではないか。それは見た目の判断より、潜在意識からくる錯覚。

また照明やリングマットの色によってグローブの色にも心理的に影響するのではないかといった総合的な不平等性を鑑み、グローブの紐を縛る手首部分に赤と青のテープで振り分ける対処をする団体やプロモーターが現れた。

ある総合格闘技系の試合で、両者同意の下、2色の好きな方のグローブを選べるルールの試合では、色彩による影響を考える選手は「青いマットのリングでは青のグローブを選ぶ。」という選手が居た。対戦相手から見れば多少でも見難くなる心理作戦であった。

現在の主流、両陣営コーナー色
現在、NJKF興行で採用されている赤と青はDONKAIDEE製
黄金色もあるWinning社製(画像提供:TEAM KOK代表 大嶋剛)

◆全身カラフルな時代

昔はトランクスの色を義務付け両者が振り分けられていた。しっかり徹底されていた訳ではないが、赤コーナーは赤系統と白、青コーナーは青系統と黒。しかし、トランクスも選手の希望するデザインが流行りだしたことで、次第に強制し難くなり、グローブの色分けは止むを得ないと改訂されてきたことも否めない。

昔は名前が売れていない前座の新人選手に対し、「赤パンツ頑張れ、青パンツガード上げろ!」といった声援もあったものだ。今や名前の縫い取り部分以外は赤地や青地、白地や黒地一色のトランクスが懐かしい。

更には「最近の派手派手なグローブに合わせて御洒落を施したトランクスは、観ている方はテンション上がって楽しい。」という意見もある。

グローブについては品質向上により各メーカーも黄金色、迷彩柄、スポンサーのロゴ入りなどデザイン化され多彩に進化してきた。魅せるファッションも重視されるような時代になったものである。

20年以上前に問題継起(新聞のコラムにも掲載)したこのグローブの色分け問題はより一層不要のものとなってきた。

前回の計量後のリカバリーに於いて、選手にとっていかに体力回復させるかのコンディション調整が一番で、グローブの色など些細なこと過ぎてどうでもいい話だろう。遠めの観客席から見ても分かりやすく、テレビ映りも良く、審判団から見ても誤審に繋がらない等の最もな意見で賛成者多数。

キックボクシングにとってもう一つ御洒落に魅せることが出来るものにアンクルサポーターがある(プロボクシングに於いてはボクシングシューズ)。これも派手派手なカラフルな色で登場した選手が居るが、更に髪型も拘ることが出来るアイテムで、今後も茶髪にギンギン色トランクス、ギラギラ色アンクルで登場する選手はいるだろう。戦後のプロボクシングから見れば派手な時代(良く言えば進化)となってしまった。時代の流れとは、ロートルの意見では止められない勢いがあるものなのである。

昔懐かしい昭和のWinning社製グローブ

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」