格闘群雄伝〈09〉松田利彦 ── キックボクシングのチャンピオンがプロボクシング世界タイトルマッチ出場!

◆空手バカ一代からの運命

松田利彦(1960年1月21日、埼玉県狭山市出身)は高校2年の時、劇画「空手バカ一代」を読んで強い男に憧れ、極真空手を始めようとしたが、近所の貼り紙を見て、比較的自宅に近い添野道場(後の士道館)に入門した。この道場が単なる空手道場ではないことが、松田利彦の運命を変えていった。後にキックボクシング日本人現役チャンピオンとして、プロボクシングの世界王座に挑戦した男は、松田利彦以外には存在しない。

若かりし血気盛んな21歳の松田利彦(1981.6.17)

◆チャンピオンに君臨

身体が小さかった松田利彦は先輩から軽いクラスまで階級制があるキックボクシングを勧められ、1978年(昭和53年)1月、正式にキックボクシング部門に移った。同年11月のデビューから反射神経抜群の運動神経で勘も鋭い松田は、先手必勝の勝利を重ね9連勝。フライ級に出現した大天才と期待されていた。

1982年5月、全日本フライ級チャンピオン、高橋宏(東金)と対戦。デビュー前から、「お前を倒すのはこの俺だ!」と目標としていた相手だったが、第1ラウンドに2度のダウンを奪われ大差の判定負け。チャンピオンとの大きな壁は簡単には打ち破れない現実に撥ね返されるも、スランプに陥る松田ではなかった。雪辱に向け動き出しところへ、同年11月、業界が総力を結集して開催された1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場が決まった。周囲は優勝候補の一人として注目する中、初戦にベテランの元・日本フライ級チャンピオン、ミッキー鈴木(目黒)にKO勝利。年を跨いだ1983年1月の準々決勝では得辰男(渡辺)にKO勝利するも右拳骨折する負傷が響き、2月の準決勝で丹代進(東海)に2-1の判定負け。

松田利彦vs得辰男。オープントーナメント準々決勝、得辰男を倒す(1983.1.7)
準決勝で丹代進に敗れる(1983.2.5)

優勝の夢は消えるも、怪我が癒える頃の同年5月28日には、早くもオープントーナメント52kg級決勝を制したタイガー大久保(北東京キング)と対戦の機会を得て、第2ラウンドKO勝利で事実上のフライ級軽量域最強という立場となった。

しかし、チャンピオンの称号が無い松田に王座奪取のチャンスが与えられた。翌年の1984年1月、新格闘術日本フライ級王座決定戦で松井正夫(千葉)に第2ラウンドKO勝利し王座獲得。それは取って付けたに過ぎない王座ではあったが、低迷するキックボクシング界の分裂が続いた他団体でも価値は似たものだった。

実績を高めた同年5月、WKA世界フライ級チャンピオンに上り詰めていた高橋宏とノンタイトル戦ながら悲願の再戦に漕ぎ付けた。試合は互角に進んだ最終ラウンド終了1秒前に松田が打った左フックでノックダウンを奪うとレフェリーはカウントするが、ゴングに救われたのか救われないのか、ノックダウンは有効か無効か、ノックアウトなのか判定なのか、試合直後は説明も無く裁定が曖昧な判定勝利で終わった。

このモヤモヤした因縁に終止符を打つべく1985年1月3日に再々戦、第4ラウンドに執念のパンチで高橋を倒すKO勝利し、完全決着を付けた。

頂点に立つタイガー大久保を倒す(1983.5.28)

◆プロボクシングへ

団体分裂が続いたキックボクシング界だったが、この時期、最も大きな転換期に入っていた。前年11月に4団体が統合し設立された日本キックボクシング連盟(後にMA日本)に、士道館は加わっていなかったが、統合団体を設立した石川勝将氏も当時、別団体ながら松田利彦を高く評価していた。

しかし、ここで松田に転機となったのはプロボクシング転向。日本のプロボクシングは確立した組織で分裂は無いこともないが、新組織のIBF日本から士道館へ松田の出場打診が入ってきたのだった。士道館率いる添野義二館長は空手家であり、1969年(昭和44年)にキックボクシングに転身した経歴を持つが故に、他格闘技に臨める体制を持った道場であったことが、たまたまこの時代に生きた松田の運命を導いていた。

パンチにも自信を持つ松田は出場を決意。1986年(昭和61年)8月18日、奈良でのデビュー戦はいきなりIBF日本フライ級王座決定戦。ここで内田幹朗(大阪島田)に5ラウンドKO勝利し、初代チャンピオンとなった。同年暮れの王座戴冠第1戦目は両角浩にノックアウト負けする不覚をとったが、翌年4月19日に両角浩との防衛戦は世界挑戦権を懸けての再戦。2度ノックダウンを奪われる苦戦も見せたが、逆転ノックアウトで初防衛成功。

世界戦で敗北、崔漱煥に倒される(1987.7.5 スポーツライフ社刊、マーシャルアーツより引用)

更には5月14日に後楽園ホールでキックボクシングの試合(APKF興行)に出場。パンチ重視の戦略もナラワット(タイ)に距離を取られ引分けに終わる。そして7月5日には韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦した。さすがに世界の壁は厚く、崔漱煥のパンチはガードを突き破ってくる今迄に無い重さだったという。特攻精神の反撃虚しく第4ラウンドKOに敗れたが、「試合前の国歌吹奏は大舞台に立っている今迄に無い責任感緊張感に武者震いした。」と語っている。

◆キックボクシング一本へ

後に、IBF日本フライ級王座2度目の防衛戦にも敗れ、置き土産のようにベルトを手放しキックボクシング一本へ戻ったが、当然キックボクシング界は松田利彦を待っていた。興行の少ない士道館が、充実した定期興行が続くメジャー団体のマーシャルアーツ(MA)日本キックボクシング連盟に加盟。待ち望まれた松田の参入だった。

1988年(昭和63年)4月2日、両国国技館での初の格闘技の祭典で、松田は過去の実績からいきなり日本フライ級王座決定戦で林田俊彦(花澤)と対戦するも、ボクシングの距離感が染み付いた意外な苦戦での引分け。延長戦でなりふり構わずパンチで圧力を掛けポイントを獲って勝者扱いながら王座を獲得。

林田のローキックを地味にも幾らか貰っており、「蹴りってこんなに痛いものか!」と改めて思ったという松田は再び蹴りの勘を磨き始めた。

しかし、王座獲得後の初戦は格下に手こずる苦戦の判定勝ち。周囲の期待も落ち気味だったが、松田は「俺はまだ終わっていない。冗談じゃねえ!」と奮起。同年7月の初防衛戦では蘇ったような先手を打つ蹴りで神代遼(グレードワン)を圧倒、最後はパンチを的確に打ち込みKO勝利し最強復活の意地を示した。

ラストマッチは1989年(平成元年)7月、第2回目となる格闘技の祭典で、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)とのチャンピオン対決だった。中盤に右フックでダウンを奪いながらもラストラウンドに打ち込まれてロープダウンを奪われ、逆転を許してしまう激戦で判定負けだったが最後の大舞台で名勝負を残した。以前から減量もきつく、バンタム級転向も考えていたものの、この年の春から、MA日本キックボクシング連盟は突然の代表辞任による活動休止が長引く中で、松田は30歳を迎える1990年1月、現役生活に区切りをつけ、引退式を行ないリングを去った。

1995年には士道館の先輩から不足していたキックボクシングのレフェリーを勧められ、新たな分野に挑むことになった。理屈に合わないことが無い限り、勧められれば受けるのが松田利彦。それでマッチメイクされる試合は全て受けて来た前向きさ。その上手くやって当たり前、下手すれば叩かれる難しさがあるレフェリー裁きも、卒なくこなす姿は評判がいい。

ジャッジを務める松田利彦、41歳(2001.11.9)

◆知られぬ歴史

プロボクシングとプロキックボクシングで日本チャンピオンになった選手は、後にバンタム級で田中小兵太(田中信一/山木)が居る。JBC管轄下の日本タイトルとIBF日本タイトルでは比べるまでもない格差があり、キックボクシングの日本タイトルと呼べるものは乱立の度合いと業界自体の低迷や隆盛で時代の格差はあるが、松田利彦と田中小兵太はMA日本タイトルを獲得。1987年当時では存在価値の低かったIBFも、後に設立されたWBOと共に勢力を伸ばし、JBCが主要4団体として承認する時代となった。あの時代とは比べられないが、キックボクサー松田利彦がプロボクシング世界王座に挑戦した事実は今も語り草となっている。

今やベテランレフェリー松田利彦。右はモトヤスック(2019.11.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

打倒ムエタイ路線を貫いて10年目のKICK Insist! 堀田春樹

ファイタータイプのタイ選手が日本人チャンピオンを苦しめた試合が続いた。

瀧澤博人は僅差の判定勝利ながら、新たなチャンピオンベルトを巻く。今後、ジャパンキックボクシング協会のエースの一角として負けれない立場となる。

チャンピオンとして存在感増してきた永澤サムエル聖光もムエタイ戦士に攻略される展開。

閉鎖された目黒藤本ジムからKICK BOXへ移籍した内田雅之は、テクニシャンのベテランムエタイ戦士と対戦。今一つ攻められない、もどかしい引分けに終わる。

昨年11月9日、JKAバンタム級チャンピオンとなった翼は交流戦で、一つ上を行くチャンピオンの一航に悔しい敗戦。

◎KICK Insist.10 / 11月22日(日)後楽園ホール 18:00~21:15 
主催:VICTORY SPIRITS / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第10試合 WMOインターナショナル・フェザー級王座決定戦 5回戦

JKAフェザー級1位.瀧澤博人(/ビクトリー/ 57.15kg)
   vs
ジョムラウィー・レフィナスジム(元・タイ国TV9chバンタム級C/タイ/ 56.5kg)
勝者:瀧澤博人 / 判定2-1
主審:チャンデー・ソー・パランタレー
副審:椎名48-49. アラビアン49-48. ナルンチョン49-48
スーパーバイザー:ナタポン・ナクシン

ジョムラウィーの飛びヒザ蹴り、瀧澤は苦戦の流れ

ローキック中心に前進するジョムラウィー。距離を詰められ下がり気味の瀧澤博人。ジョムラウィーが圧力強めて出て滝澤の蹴りに怯まず、蹴り返しや足払いに行くようなローキックを返す。瀧澤博人は劣勢な印象を受けるが、長身を活かしたパンチやハイキックで距離を保つ。首相撲にいく流れはほとんど無いが、パンチとローキックで前進を続けたジョムラウィーの優勢かと思われたが、下がりながらも高めの蹴りが多かった瀧澤博人にタイ人ジャッジ2名の支持が勝り王座獲得となった。

劣勢に見えても要所要所で長身を活かしたハイキックで攻める瀧澤博人
瀧澤博人も飛びヒザ蹴りでお返し

◆第9試合 62.0kg契約3回戦

WBCムエタイ日本ライト級チャンピオン.永澤サムエル聖光(ビクトリー/ 61.9kg)
    vs
シラー・ワイズディー(元・ラジャダムナン系バンタム級C/タイ/ 62.0kg)
勝者:シラーY’ZD / 判定0-3
主審:少白竜
副審:松田28-29. 和田28-30. 仲28-30

永澤のローキック、頑丈なシラーは構わず前進し距離が詰まる

初回は永澤がパンチでやや有利な流れ。シラーは第2ラウンドに入ると蹴りやパンチの攻防の中、前進を続け永澤を上回っていった。約300戦以上の戦歴を持つシラーは、多少蹴られてもパンチを受けても体幹が崩れない。永澤もパンチやヒジのヒットを狙うが下がり気味。永澤のヒットで左眉尻をわずかに切られたシラーだが、第3ラウンドも主にパンチで永澤を追う展開で優勢を保った。在日タイ人としてのトレーナーが本職か、日本の応援団が多かったシラーはしっかり日本語で応援に感謝を叫んでいた。

日本人応援団も多いシラーは次第に調子を上げてくるが、永澤も打ち合いに応じる

◆第8試合 54.0kg契約3回戦

JKAバンタム級チャンピオン.翼(ビクトリー/ 53.75kg)
    vs
WBCムエタイ日本バンタム級チャンピオン.一航(新興ムエタイ/ 54.2→53.9kg)
勝者:一航 / 判定0-3
主審:椎名利一
副審:松田27-30. 少白竜27-30. 仲27-30

ボディーブローから接近すると、すかさずヒザ蹴りに入る一航

パンチと蹴りの様子見から隙を狙った素早い攻防が続く。第2ラウンドには距離が詰まりパンチの攻防も増えていく中、ボディーブローからヒザ蹴りに持ち込む一航が有利なヒットを何度か見せるが、翼のパンチも幾らか貰い鼻血を流す一航。第3ラウンドには接近戦でのパンチの交差で一航の左フックがヒットし翼がノックダウン。決定的な流れを掴んだ一航が攻勢を維持し、大差判定勝利を導いた。

距離が詰まり互いの蹴りが増える中、一航の右ミドルキックがヒット
今野はローキックを連発して清水のリズムを狂わせた

◆第7試合 72.8kg契約3回戦

JKAミドル級チャンピオン.今野顕彰(市原/ 72.7kg)
    vs
清水武(元・WPMF日本SW級C/Sbm TVT KICKLAB/ 72.55kg)
勝者: 今野顕彰 / 判定3-0
主審:和田良覚
副審:椎名30-28. 少白竜30-28. 仲30-29

終始、今野のパンチとローキックで清水の前進を止め、清水がパンチや蹴りは出しても強いヒットは無いまま調子掴めず、今野が攻勢を維持したまま終了。

今野顕彰が攻勢を続ける中のボディーブロー

◆第6試合 ライト級3回戦

リク・シッソー(トースームエタイ/ 61.1kg)
    vs
JKAライト級1位.林瑞紀(治政館/ 61.1kg)
勝者:リク・シッソー / TKO 2R 1:51 / 主審:松田利彦

第2ラウンド半ば、パンチの交錯の後、林が異常を訴え、ノックダウン扱いでノーカウントのレフェリーストップ、左腕骨折の疑いによる。

◆第5試合 62.0kg契約3回戦

内田雅之(KICK BOX/ 61.4kg)
    vs
ペットワンチャイ・ラジャサクレックムエタイジム(タイ/ 61.7kg)
引分け0-1
主審:仲俊光
副審:椎名29-29. 松田28-29. 和田29-29

◆第4試合 ライト級3回戦

JKAライト級2位.興之介(治政館/ 60.9kg)
    vs
同級6位.睦雅(ビクトリー/ 61.0kg)
勝者:睦雅 / TKO 1R 2:34 / カウント中のレフェリーストップ
主審:少白竜

◆第3試合 54.0kg契約3回戦

JKAバンタム級1位.幸太(ビクトリー/ 53.75kg)
    vs
NKBバンタム級2位.高嶺幸良(真門/ 53.8kg)
勝者:幸太 / TKO 3R 0:22 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:椎名利一

◆第2試合 ウェルター級3回戦

大島優作(RIKIX/ 66.68kg)vs 鈴木凱斗(KICK BOX/ 66.2kg)
勝者:大島優作 / TKO 3R 0:42 / ヒジ打ちによるカット
主審:和田良覚

両陣営セコンドで旧・目黒藤本ジムのOBの顔触れが見られる同門対決のようなムードが漂う。

◆第1試合 55.0kg契約3回戦

樹(治政館/ 53.8kg)vs ペトウ・タイコン(旭/ 55.0kg)
勝者:樹 / TKO 1R 0:43 / カウント中のレフェリーストップ
主審:松田利彦
遊魔(旭)が負傷欠場でペトウ・タイコンに変更。

《取材戦記》

今年6回の興行予定だったジャパンキックボクシング協会は、コロナ禍により3回に留まりました。

インターネット中継による有料配信を試みた今回の興行。来年の観衆入場制限の解禁見通しが立たない現在、放映は簡単な話ではないが、有料配信継続は一つの運営手段でしょう。

WMOは「World Muaythai Organization(世界ムエタイ機構)」が正式名称。数年前にタイで発祥の認定団体で、タイに於いて幾らか認定される王座戦が行われている模様。世界機構はいろいろあるが、「そう言えばあのタイトルどうなった?」と言われないように活性化を切に願う。

永澤サムエル聖光は今年1月5日に興之介(治政館)をTKOに下し、ジャパンキック協会ライト級王座獲得し、9月12日に鈴木翔也(OGUNI)に判定勝利し、WBCムエタイ日本ライト級王座獲得(いずれも王座決定戦)。この日、62.0kg契約で永澤(61.9kg)、シラー(62.0kg)ともにライト級リミット(61.2kg)を超えており、敗れても王座剥奪はされません。プロボクシングのシステムだが、ムエタイも確立した団体では採用されているシステムです。

今居るチャンピオン達で盛り上げていかねばならないジャパンキックボクシング協会。そこはビクトリースピリッツプロモーションが年々力を付けて来た運営が今後の鍵を握るでしょう。

◎ジャパンキックボクシング協会2021年興行予定

1月10日(日)後楽園ホール
3月28日(日)新宿フェース
5月 9日(日)後楽園ホール
6月13日(日)市原臨海体育館
8月22日(日)後楽園ホール
11月21日(日)後楽園ホール

久々にチャンピオンベルトを巻いて八木沼広政会長とツーショットの瀧澤博人

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

女子がメインイベント、激戦必至のNJKF 2020.4th年内最終本興行!

キックボクシングの通常興行で女子がメインイベントを務める興行は過去にもあるが、ニュージャパンキックボクシング連盟に於いては初の女子メインイベント興行。S-1トーナメント日本版、女子バンタム級はSAHOがアグレッシブに決勝戦を制す。

「今後は世界しか狙っていない」と語ったSAHO。その大きな舞台の一つは直結するタイのソンチャイプロモーター主宰のS-1世界トーナメントとなる。

今年3月、高校を卒業したばかりの社会人19歳対決は、昨年2月24日に誓が1ラウンドKO勝利しているが、今回は判定ながら誓が計3度のノックダウンを奪って王座獲得。

前回興行に続き全試合判定となったがアグレッシブな展開が続き、メインイベントも勝つ以上にメインイベントを務める責任を負っているオーラが感じられた。

◎NJKF 2020.4th / 11月15日(日)後楽園ホール18:00~20:58
主催:NJKF / 認定:NJKF、S-1ジャパン

◆第8試合 S-1レディース・バンタム級ジャパントーナメント決勝 5回戦(2分制)

SAHOの左フックでYAYAは押され気味

女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級チャンピオン.SAHO(闘神塾/21歳/53.2kg)
    VS
J-GIRLSスーパーフライ級チャンピオン.YAYAウィラサクレック(WSR幕張/33歳/53.3kg)

勝者:SAHO / 判定3-0 / 主審:宮本和俊
副審:中山50-47. 少白竜49-47. 和田50-47

両者はパンチから接近すると組み合ってヒザ蹴りの攻防に移る。ブレイクが掛かり離れてもパンチを打っては組み合いに移るが動きは止まることなくヒザで蹴り合う。一見地味な展開もSAHOが圧力掛ける攻勢を保ち、YAYAも首相撲へ組まれると次第にキツイ展開となっていく。劣勢のYAYAは闘志衰えないが、終了間際はSAHOのラッシュでヒザ蹴りが強くヒット、更にパンチのラッシュを掛けるも終了のゴングが鳴り、SAHOが決勝戦を制した。

体重を掛けられバランスを崩しに耐えるYAYA、スタミナを奪われる苦しさ
組み合えばヒザ蹴り、離れてパンチのSAHOがアグレッシブに出る

◆第7試合 第12代NJKFフライ級王座決定戦 5回戦

誓が攻勢を保ち、パンチ連打で出る

1位.誓(ZERO/19歳/50.8kg)vs4位.EIJI(えいじ/E.S.G/19歳/50.75kg) 
勝者:誓 / 判定3-0 / 主審:多賀谷敏朗
副審:中山49-45. 少白竜49-43. 宮本49-44

開始からローキックからパンチへ繋いでいく探り合い。サウスポーのEIJIのいきなりの左ストレートは誓にとってやり難いパンチだが、誓は蹴りの攻防からパンチを繋いでリズムを掴み、第2ラウンドにパンチ連打から左フックでノックダウンを奪う。ダメージは小さいが誓は更に前に出て圧力を掛けていく。第4ラウンドにも連打から右ストレートで2度ノックダウンを奪う。EIJIの左ストレートには最後まで油断ならないが後退気味になり、誓が攻勢を維持したまま大差判定勝利を掴み、新チャンピオンとなった。

誓が右ミドルキックでEIJIの前進を止める

◆第6試合 70.0kg契約3回戦

平塚洋二郎が蹴って出るが、しぶといマリモーは耐える

マリモー(キング/35歳/68.6kg)
    VS
J-NETWORKスーパーウェルター級チャンピオン.平塚洋二郎(タイガーホーク/38歳/69.55kg)
勝者:平塚洋二郎 / 判定1-2 / 主審:和田良覚
副審:中山29-30. 多賀谷30-29. 宮本29-30

YETI達朗(キング)が負傷欠場の為、同じジムでスーパーライト級のマリモーが代打となった。体格差で優る長身の平塚が長いリーチで圧力掛け、平塚のパンチ、ヒジ、ヒザが当て易い距離が続く。しぶとさが定評のマリモーもバックハンドブローを出したり、ガードを固めながら打ち返すヒットが評価されたか、判定は2-1に分かれるも平塚洋二郎の判定勝利。

パンチの距離では平塚洋二郎は手数圧倒にパンチで攻めるがマリモーは下がらない

◆第5試合 フェザー級3回戦

前田浩喜(CORE/39歳/57.15kg)
    VS
NJKFスーパーバンタム級チャンピオン.久保田雄太(新興ムエタイ/27歳/57.1kg) 
勝者:前田浩喜 / 判定2-0 / 主審:少白竜
副審:和田29-29. 多賀谷29-28. 宮本30-29

NJKFスーパーバンタム級前チャンピオンの前田は2018年6月24日、久保田に引分け防衛。怪我で返上後、久保田が第7代チャンピオンとなっている。新旧対決となったこの日、前田が左ミドルキックで圧力を掛け、ベテランの上手さで主導権奪う展開が続く。終盤に久保田はラッシュを掛けたが前田は凌ぎきって、結果的に僅差ながら判定勝利を掴む。

前田浩喜vs久保田雄太。前田が蹴って出て終始主導権を握る

◆第4試合 61.0㎏契約3回戦

琢磨(東京町田金子/28歳/61.0kg)vs羅向(ZERO/20歳/61.0kg) 
勝者:羅向 / 判定0-3 / 主審:中山宏美
副審:少白竜28-30. 多賀谷27-29. 宮本27-30

◆第3試合 70.0kg契約3回戦

vic.YOSHI(OGUNI/29歳/69.8kg)vsマキ・ドゥアンソンポン(タイ)
勝者:マキ・ドゥアンソンポン / 判定0-3 / 主審:和田良覚
副審:少白竜28-30. 多賀谷28-30. 宮本27-30
雄也(新興ムエタイ)負傷欠場によりマキ・ドゥアンソンポンが代打出場。

◆第2試合 66.0kg契約3回戦

宗方888(キング/27歳/65.8kg)vsちさとkissMe(安曇野/37歳/65.75kg)
勝者:宗方888 / 判定3-0 / 主審:少白竜
副審:和田30-27. 中山30-27. 宮本30-27

◆第1試合 ライト級3回戦

水本伸(矢場町BACE /26歳/60.9kg)vs木村郁翔(BIGMOOSE/19歳/60.0kg)
勝者:水本伸 / 判定3-0 / 主審:中山宏美
副審:和田30-27. 多賀谷30-27. 宮本30-27

《取材戦記》

SAHOはS-1ジャパン4人トーナメントを制したが、コロナの影響もあって、すぐにはS-1世界トーナメントなどの開催は無いでしょう。今後まだ続くであろうミネルヴァ王座防衛戦などの国内戦では負けられない戦いが続く。

闘神塾陣営に祝福されるSAHO

5連敗vs3連敗による王座決定戦は誓(ZERO)が王座獲得。勝ち上がった者同士対決ではないのは団体タイトル範疇では仕方無いところか。ダブルメインイベントと銘打っても実質セミファイナルだった誓は今後、上位王座となるWBCムエタイ日本王座挑戦まで、チャンピオンとして負けてはならない立場である。

新チャンピオンとして認定証を受けた誓

コロナ禍での興行も会場の静けさに慣れが出て来た感がある会場内。収容人数は50%のままは仕方無いところ、拍手での応援と、メインイベントではYAYAの入場時、ペンライトでの応援が目立った。紙テープ、花束贈呈禁止は華やかさが無いが、進行はスムーズにいくので今後も続くといい。

YouTubeによる生配信も実施(前回9月興行から2回目らしい)。凝った演出は無く、選手入場の際のカメラは固定カメラから。後に録画映像を見ると、遠くからズームアップでの録り方は、昔のテレビ放送時代のような映りの記憶が蘇ります。

NJKF関西エリア年内興行は11月22日(日)に大阪市住吉区民センター大ホールで「NJKF 2020 west 4th」が行われます。

年明け本興行(東京)は2021年2月12日(金)珍しい平日開催です。

来年は、コロナの影響で期限が延びている波賀宙也のIBFムエタイ世界ジュニアフェザー級王座初防衛戦が行なわれると思われるが、今ある各タイトルが放りっぱなしにならない様、話題多き興行であることを願いたい。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

ウェイト競技の宿命、試合に向けた最後の仕上げ、計量後のリカバリー!

◆リミット超えの試合

ボクサーやキックボクサーが最高のコンディションでリングに上がるには、計量後のリカバリーが非常に重要な役割を占める。

選手は戦うに適した階級での減量が伴なう。そして迎える試合当日朝10時、検診と計量が行われてきた。こんな時代を経てプロボクシングでは、過酷な減量によりリング禍に繋がる危険性を鑑み、1994年4月から前日計量が実施されてきた。

公開計量で秤に乗る勝次(2020年2月1日)

キックボクシングは古い時代にも前日計量が行われていた興行は存在したが、通常興行のほとんどは当日計量が長く続いてきた。前日計量ではその運営や地方の選手の宿泊費など経費増の問題があったが、最近は公開計量と記者会見を行ない、興行と選手のアピールの場として前日計量が増えてきている。

しかし、ボクシングなど観ない世間一般の人にあまり浸透していないのが、計量を経たリング上ではすでにリミットを大幅にオーバーしたウェイトで戦っていること。そこには減量からのリカバリーが影響していることを知らないことである。

そもそも試合直前に計量を行なえば最も適正な階級リミットということになるが、そこからコンディションを考慮した当日夜の試合に向けての朝計量から前日計量へ移って来たものと考えられる。

女子も堂々と秤に乗る(2020年10月24日)
計量後、早速飲料水を注ぎ込む足立秀夫(1983年1月7日)

◆計量後は何してる?

昔はファイティング原田氏やガッツ石松氏の12kg以上の過酷な減量逸話が有名だった。朝10時にトレーナーの肩を借りるようなフラフラな状態で計量器に乗り、絶食で委縮した胃のまま食べては吐き、夜7時30分以降のリング入場までによくリカバリーできたものだ。

1982年(昭和57年)頃、私(堀田)はキックボクサーのライト級ランカー、足立秀夫(西川)さんの試合当日を3回ほど同行する機会があった。毎度、減量の影響が顔に表れていた足立さん。目がくぼみ、頬がこけた状態が他の選手より明らかだった。
後楽園ホールでの計量後、足立さんは水道橋駅前の立ち食いソバ屋で天ぷらソバを食べた。一杯のソバやうどんは委縮した胃に丁度いい具合だと言う。電車で小岩のアパートに向かう間に胃が活性化し、少し落ち着きが出て来ると口数が増え、笑顔が見られるようになっていた。

当日の出場選手で同行したジムメイトのタイガー大久保さんは、栄養バランスや消化のいいものを考え、果物や栄養ドリンクやヨーグルトを持ち込んで、計量直後から帰りの電車の中まで大胆にも周りの目を気にせず食べていた。2人は更に小岩駅前のイトーヨーカ堂のレストラン街で本格的栄養補給。足立さんは出されたコップの水をまず一杯ガブ飲み。

「お姉さん、お代わり頂戴、何回も悪いからポットごと置いてって!」と大胆に頼み、不思議なぐらい何杯もゆっくり飲み続けた。

アパートに帰ると3時間ほど睡眠。これで夕方、軽く小さなオニギリ程度の食事を摂って後楽園ホールへ向かう。出発前、足立さんはヘルスメーターに乗るとライト級リミットから4kgほど増えていた。試合は20時台だった。朝の計量から試合まで密着すると長い時間だったが、選手のリカバリーの時間としては短く厳しいものと感じた。

電車の中でヨーグルトを食すタイガー大久保(1983年1月7日)
ここに来るまでにかなり水分は摂っているが更に水をガブガブ飲む(1983年1月7日)
秤に手を掛けてゆっくり乗るのが計量風景(1983年2月5日)

◆リカバリーの失敗

数名に経験談を聴かせて頂いたところ、1980年代に活躍したプロボクサーで日本スーパーフェザー級4位、ブルース京田さんは、「新人時代に当日計量をパスして、まず控室通路にある自販機の紙コップのコーラを3杯飲み、後輩と水道橋駅前の立ち食いソバ屋で天玉うどん食べて、近くのマクドナルドでコーラと一緒にレギュラーハンバーガーを4つ食べ、かなり満腹になりながら、六本木のアントニオ猪木の店でアントンリブ3本食べた。公園で休んだ後、後楽園ホール入りしたが、胃はパンパンで試合開始直前でもあまり変わらず。“ボディー打たれたらヤバい!”と思いながら試合は第1ラウンド、右ストレートでノックダウンを奪い、次に右クロスカウンターで倒しノックアウト勝利。食べ過ぎ注意の教訓を得たが、闘魂注入に猪木のリブを食べたことは精神的高揚になった」と語る。

その教訓からその後、「計量後はバナナ食べて、ステーキとパスタにして後は食べなかった!」と言い、リカバリー成功を保っていた。

更には「試合当日にステーキを食べることは、すぐにはパワーに繋がらないという意見はあるが、肉食った満足感がパワーアップした気になる!」と心理的効果を訴える。

キックボクサーの元・NKBウェルター級チャンピオン、竹村哲さんはデビュー戦での当日計量後、同日出場のジムメイトに誘われるまま、焼き肉屋に行ってしまった。
「肉ばかり思いっきり食べてしまい、夜、後楽園ホールのリングに上がるも、炭水化物をほとんど摂っておらず、1ラウンドが終わった時点で失速。めっちゃキツい展開になるも何とか判定勝ちしました!」と反省を語る。

2012年6月、NKBウェルター級王座決定戦で、乃村悟志(真門)との対戦では、2度目の王座挑戦なのに計量後のリカバリーの大失敗。

「栄養面や消化時間などの複数観点を持って、食べる物飲む物を決めていたのに計量が終わって後楽園ホールを出て、車でちょっと走ったらウェンディーズが目に入り、広告看板の“今ならビーフパティがなんと5枚!スペシャルバーガー!”があり、ついフラフラと店内に入って注文。絵柄どおり肉が5枚も入っていて、そのバーガーだけでお腹いっぱい。炭水化物は肉を挟んでる上下の薄いバンズのみ。そしたら案の定、自分でもびっくりするぐらい4ラウンドでスタミナがピタッと切れて、全く動けない最終ラウンドでボッコボコにされてしまった。アゴも折られて判定負け。試合が終わった瞬間、相手側の真門ジム山岡会長が飛んできて、『竹村君、どうした?急に動きが悪うなって。調整上手くいかんかったんか?』と心配されるも、計量後にスペシャルバーガー食べたことなど言えないし、ただ黙ってました!」と語り、ウェンディーズの迎え撃ちに遭い、乃村悟志に判定負け、「何でそんなもん食うのか!」と突っ込みたくなる失敗談であった。

計量後、リカバリーに協力するジムも多い。この後、豪華にタイ料理が並んだ西川ジム宿舎(1983年2月5日)
地方興行での計量風景(1983年9月18日)

◆前日計量が今の主流!

元・タイ国ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオン、石井宏樹さんが語ってくれた逸話は、「前日と当日では、当然前日計量の方が楽でした。当日計量の場合、前日にリミットまで落として当日朝に備えました。それは計量まで何も飲み食い出来ず迎えなければいけない為、夜も眠ることが出来ませんでした。前日計量では計量直前まで落とすことに集中して、計量パスした後に好きな食べ物を摂取できました。そのメリットは試合前日によく眠れるところでしょう。当日計量が当たり前で生きてきた者にとっては、前日計量の有難みったらないです。しかし、前日に計量してしまうと試合までに欲を満たしてしまう為、緊張感が薄れてしまうのは否めないです。今となってもどちらが良いのかはわかりませんが、引退した今思うことは前日計量の方が良いパフォーマンスが出来たと思います。」と語る。

確かに食事を摂って夜を過ごすなら深い睡眠がとれるというものだろう。更に翌朝がゆっくり過ごせて食事も増やせるが、これで階級リミットの意味が無くなるという意見もあるのも事実。

その計量後のリカバリーは水分摂取が大半を占めると言われる。過酷な減量をした場合、削ぎ落された体力が試合までに摂取される食事だけでは回復しないとも言われる。身体に水分が戻っても脳や神経細胞にまで行き渡るのはもう数日掛かるとも言われ、その結果、打たれ脆くなる危険もあるようだ。

タイでは朝の計量時に立会い、夜の試合で対峙すると別人かと思うほど相手の身体が大きくなっていたという話もある。

「計量パスすれば後はこっちのもの!」と言わんばかりのタイ選手の大幅リカバリーは珍しくはない。

キックボクシングに於いては未だ結論が出ないテーマであるが、大方は前日計量が選手にとって最もベストコンディションで試合に挑める環境と言えそうである。
選手経験者の数だけありそうな計量後の行方。オモロイ話は幾つもあるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

格闘群雄伝〈08〉長浜勇 ── キック低迷期から復興期にかけて業界を支えた沖縄出身の名キックボクサー

◆沖縄から生まれた名キックボクサー

長浜勇(ながはま・いさむ/市原/1957年11月16日沖縄県出身)の本名は、長浜真博(まさひろ)。デビュー当時に市原ジムの玉村哲勇会長の名前から一字頂き、“勇”をリングネームとした。

長浜勇は、昭和50年代のキックボクシング界の底知れぬ低迷期から復興時代への変わり目に、向山鉄也と共に業界を牽引した代表的存在で、団体が分かれている中では最も統一に近い時代の日本ライト級チャンピオンである。

1985年1月、日本ライト級チャンピオンとなった長浜勇(1985.1.6)

◆地道に進んだ新人時代

長浜勇は高校3年生の時、アマチュアボクシングで沖縄と九州大会で準優勝。推薦で大学進学の道もあったが、両親への学費の負担を考えて進学はしなかった。一旦地元で就職したが、1979年(昭和54年)初春、21歳で上京し、千葉県市原市の土木関係の会社に転職。

そこで先輩に市原ジム所属選手が居たことが長浜勇の運命を決定付けた。先輩に勧められてジムを見学すると、「こんなところにもジムがあるんだなあ、いいなあこの汗臭い雰囲気!」と戦う本能や、沖縄にいた時、テレビで同郷の亀谷長保(目黒)の活躍が頭を過ぎり入門を決意した。

1979年4月、長浜は入門わずか1ヶ月あまりでデビューした。仕事の合間を縫って練習に通ったのは10日間ほど。選手は少なく、誰かが教えてくれるといった環境も無く、蹴りなんて全く素人のまま。しかし、玉村会長は大胆にも試合を組み、「蹴らなくていいからパンチだけで行け!」と言うのみ。そんないい加減な時代でもあったが、アマチュアボクシングの経験を活かし、そのパンチだけでノックアウト勝利した。

市原ジムの独身選手はジムのほんの近くでアパートか平屋の借家暮らし。長浜勇はそんな借家で夏は全ての窓開けっぱなしで寝ていた。そんなある日、観ていたテレビはキックボクシング。

当時は深夜放送に移ったが、まだTBSで週一回の放映があった時代。同じ日にデビューした目黒ジム所属選手は放映されたのに、長浜勇はせっかくのKO勝利も放映が無くて残念だったという。

いずれはもっと勝ち上がってテレビに映ることを目指しながらも、テレビレギュラー放映は打ち切られ、キック業界は興行が激減していった頃だった。

その後、市原で就職した会社は辞め、玉村会長が興していた、同じ土木専門の玉村興業で働くことになった。それはジムでの練習に向かう時間の融通を利かせる為ではあったが、器用な長浜勇はやがて現場監督に昇格し、後々であるが現場から離れられない時間が増えていった。残業の上、家に帰っても受け持つ幾つかの工事現場の翌日の派遣人員配置や、生コンクリートをどの現場にどれぐらい発注するかといった業務等で電話しまくり。ジムに行って練習する時間など無かった。「それでどうやって勝てるのか!」という不安はあったが、人の見ていないところで練習するというのは事実だった。例え30分でもジムへ行って集中してサンドバッグを打込む。そんな話を本人からチラッと聞いたことがあった。

◆飛躍の軌跡

トップスターへの出発点となったのは1982年(昭和57年)10月3日の有馬敏(大拳)戦だった。

かつてジムの大先輩・須田康徳と名勝負を展開した元・日本ライト級チャンピオン相手に、パンチだけに頼らず、蹴られても前に出て蹴り返し、引分けに持ち込む大善戦だった。

そこから上り調子。翌月から始まった1000万円争奪オープントーナメント62kg級へ出場すると、長浜勇は初戦で三井清志郎(目黒)、準々決勝で砂田克彦(東海)にKOで勝ち上がり、準決勝で予想された先輩、須田康徳と対戦。

世間は決勝戦を須田康徳vs藤原敏男(黒崎)と予測しており、長浜勇自身もそう考える一人だった。それまで須田先輩から多くの指導を受け、尊敬し敬意を表しつつも、普段は仲のいいジムメイト。

「須田さんに怪我でもさせて藤原戦に支障をきたしてはいけない!」と一度は辞退を申し入れたが、玉村会長はこれを許さなかった。先輩であろうと引きずり下ろさねばならないプロの世界だった。長浜勇は心機一転、須田康徳戦に全力で挑み3ラウンド終了TKOに下す。

大先輩、須田康徳を下す大波乱(1983.2.5)

一方の準決勝、藤原敏男は足立秀夫(西川)を倒すも、そのリング上でまさかの引退宣言。決勝戦の3月19日、長浜勇が勝者扱いで優勝が決定。日本中量級のトップに立った新スター誕生だった。

決勝戦の相手、藤原敏男と対面(1983.3.19)

その後も日本人キラーだったバンモット・ルークバンコー(タイ)に5ラウンドKO勝利し、過去2度敗れているライバル足立秀夫を2ラウンドKO勝利で上り調子だったが、ここで一旦、その足を掬われる結果を招く。藤原敏男が引退した後、どうしても避けて通れない相手がその藤原敏男の後輩で、藤原にKO勝利したことがある斎藤京二だった。怪我でオープントーナメントは欠場したが、優勝候補の一人の強豪だった。

過去2敗、ライバルの足立秀夫に雪辱果たす(1984.1.5)

1984年5月26日、その斎藤京二に2ラウンドKO負けを喫してしまった長浜勇。頂点に立った者が崩れ落ち、またまた混沌としていく日本のライト級。そんなキック業界も底知れぬ低迷の中、まさかの統合団体の話が持ち上がったのが同年10月初旬で、11月30日にその画期的日本キックボクシング連盟(後にMA日本と二分)設立記念興行に移っていった。

足を掬われた斎藤京二戦(1984.5.26)
集中力でサンドバッグ打ち、パンチ力は最強(1984.10.5)
撮影の為に気合入れる長浜勇、ミット持つのはサマになっていない素人の私(1984.10.7)

過去のチャンピオン経験者が優先された王座決定戦。

1985年1月6日には日本ライト級王座決定戦に出場した長浜勇は、旧・日本ナックモエ・ライト級チャンピオン、タイガー岡内(岡内)を1ラウンドKOで下し、初代チャンピオンとなった。この後、挑戦者決定戦を勝ち上がって来たのが斎藤京二。因縁の厄介な相手が初防衛戦の予定だったが、斎藤京二は前哨戦で三井清志郎(目黒)に頬骨陥没するKO負けを喫してしまう。

タイガー岡内を倒し、日本ライト級王座獲得(1985.1.6)

同年7月19日、長浜勇の初防衛戦はその代打となった三井清志郎(目黒)戦。過去、長浜に敗れている三井は雪辱に燃えていたが、長浜は冷静沈着。三井の蹴ってくるところへパンチを合わせ主導権を握ると3ラウンドKO勝利。これで難敵をまず一人退けたが、あの当時の日本ライト級は強豪ひしめくランキングだった。後に控える斎藤京二、甲斐栄二、飛鳥信也、須田康徳、越川豊。これらをすべて退けることなど無理だっただろう。

三井清志郎を倒し初防衛(1985.7.19)

◆ピークに陰り、そして引退

1986年(昭和61年)1月2日、2度目の防衛戦で甲斐栄二(ニシカワ)の甲斐の豪腕パンチで左頬骨を陥没するKO負け。やはり来た試練。左の頬骨に固定する針金が飛び出したままの状態が3週間続いた。

復帰戦は同年7月13日、フェザー級から上がってきた不破龍雄(活殺龍)との対戦で、思わぬ苦戦をしてしまう。重いパンチで圧力を掛け、ローキックでスリップ気味ながらノックダウンを奪ったところまでは楽勝ムードだったが、いきなり猛反撃してきた不破のパンチを食らってペースを乱してしまう。今迄に無い乱れたパンチと蹴り。強豪ひしめくライト級で再び王座を狙うには、かなり厳しい境地に陥った辛勝だった。

不破龍雄に大苦戦(1986.7.13)

しかし、まだ長浜勇の活躍が欲しいMA日本キック連盟は翌年1月、石川勝将代表が企画した、本場に挑むルンピニー・スタジアム出場枠に選ばれ、当時、話題の中心人物だった竹山晴友(大沢)と共にタイへ渡った。結果は判定負けながら、初の本場のリングで堂々たる積極的ファイトを見せた。同年4月18日、朴宙鉉(韓国)にKO勝利し、石川勝将代表から「越川豊(東金)とやらないか?」と問われ、着実に上位進出していたその存在があったが、土木業が拡大化してきた背景と、すでに妻子ある守るべき家庭を持っていたこともあり、密かに引退を決意していた。

1988年9月、地元の市原臨海体育館で行なわれた先輩・須田康徳の引退興行は、市原ジムの集大成で時代の一区切りとなった須田と二度目の対決。初回、長浜は須田の強打に三度のダウンを奪われ、最後はダブルノックダウンに当たるが、当時のルールにより3ノックダウン優先のKO負け。互いがガツガツと打ち合った密度の濃い一戦だった。そして長浜勇も須田康徳戦をラストファイトとして締め括った。

長浜勇は引退前に、婚約していた沖縄の同級生と結婚し、後に3人の娘さんの父親となった。長浜勇は普段お酒はあまり飲まないが、仲間内の宴会では飲み過ぎて酔えば暴れて起こしたハプニングは計り知れない。そんな暴れん坊は“市原ジム出入り禁止”なんて事態にも一時的にあったようだが、根は優しく市原ジムのムードメーカーでもあった。還暦を超えた今、お孫さんを可愛がるその姿を見に行きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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メインイベンター勝次、日本人対決連敗! MAGNUM 53

ニュージャパンキックボクシング連盟からチャンピオン二人を迎えた今回の新日本キックボクシング協会興行「MAGNUM 53」。

勝次はタイミング悪いスリップ気味ノックダウンを奪われ判定負け。勝てる試合を落とした印象が残る。

高橋亨汰はベテラン健太から効かせたノックダウンを奪う判定勝利。新日本キックボクシング協会の新しいメインイベンターに迫りつつある存在となった。

アルゼンチンから来日、伊原ジムに所属し、2018年5月、デビュー1年で王座獲得したリカルド・ブラボは、その後もムエタイ・ラジャダムナンスタジアム出場も経験し、着実に力を付けて来た中、パンチの連打で順当にイベント「TENKAICHI」からの刺客、幸輝を仕留めた。

女子キックの七美 vs KAEDEは男子に劣らぬ高度な蹴り合いを見せる展開で、女子キック界そのものの実力向上が感じられる試合となった。

◎MAGNUM 53 / 10月25日(日)18:00~20:06
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

◆第8試合 63.6kg契約3回戦

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本 / 63.5kg)
    VS
NJKFスーパーライト級チャンピオン.畠山隼人(E.S.G / 63.05kg)
勝者:畠山隼人 / 判定0-2 / 主審:少白竜
副審:椎名28-28. 宮沢28-29. 仲28-29

勝次の右ストレートも畠山隼人の顔面をかするところまで
飛びヒザ蹴りを読まれたか、畠山隼人の右ストレートでノックダウンを奪われる勝次

開始早々から畠山のパンチの幾つかが勝次の顔面にヒットし、左コメカミ辺りが赤く腫れ始め、勝次はやや印象悪いスタートから畠山のパンチに合わせて蹴りとやパンチで探りを入れていく。勝次は飛びヒザ蹴りで畠山をコーナーに追い込むが、畠山は想定内と見えるディフェンスでパンチを返す。

第2ラウンドには勝次のローキックが畠山の左足にヒットし始め、畠山の動きを弱める効果が出てきたが、畠山も勝次の動きに合わせて蹴りとパンチで返し、明らかな差は出ない展開。

第3ラウンド、勝次はパンチと蹴りで畠山をコーナー付近に追い詰めたが、飛びヒザ蹴りを放って着地する辺りで連打から右ストレートを浴びてしまい、ノックダウンを取られてしまった。押されて尻もちを付くようにダメージは無く、勝次は立ち上がり反撃をするも、残り時間は少なく畠山は凌いで終了した。

畠山隼人に打たれて下がるシーンも幾度か見られた勝次
反撃もヒットしない勝次、焦りが見え始める

◆第7試合 70.0kg契約 5回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原 / 69.9kg)
    VS
幸輝(インター/ 69.5kg)
勝者:リカルド・ブラボ / TKO 2R 1:35 / 主審:桜井一秀

第1ラウンドに様子見からリカルド・ブラボが左フックでノックダウンを奪い、その後、連打でスタンディングダウンを奪うが、両者のローキックの攻防は強く速く、幸輝がリカルド・ブラボを下がらせる展開も見られていた。第2ラウンドにはリカルド・ブラボが再び連打から左フックで幸輝を仕留めると、強いダメージを負った幸輝をレフェリーストップされて終了。

パンチ力ではリカルド・ブラボが優った
リカルド・ブラボが連打で倒すと幸輝は立ち上がれず

◆第6試合 62.0kg契約 5回戦

日本ライト級チャンピオン.高橋亨汰(伊原 / 61.85kg)
    VS
健太(前WBCムエタイ日本ウェルター級C/E.S.G / 61.65kg)
勝者:高橋亨汰 / 判定2-0 / 主審:椎名利一
副審:宮沢48-47. 少白竜48-48. 桜井48-47

距離を取った中でのパンチと蹴り中心の展開は互いに主導権を奪うに至らないが、高橋亨汰は顔面前蹴りもあり、健太に調子付かせない圧力があった。後半に向かうにつれ徐々に健太がベテランの読み深さがある接近戦で、プレッシャー与えるように出てヒジ打ちの圧力で巻き返しも見られる。

最終ラウンドで健太がパンチやヒジ打ちで攻勢を掛けたところで高橋亨汰の右フックがカウンターでヒット。健太からノックダウンを奪うと更に顔面前蹴りで圧倒するも健太は組み合って凌ぎ、高橋亨汰が判定勝利を掴む。

高橋亨汰のカウンター右フックが健太にクリーンヒット
ベテラン健太からノックダウンを奪って勝利を決定づけた高橋亨汰
高橋亨汰がノックダウンを奪った後の前蹴りが健太のアゴにヒット

◆第5試合 53.0kg 契約3回戦

泰史(元・日本フライ級C/伊原 / 53.0kg)
    VS
景悟(LEGEND / 52.5kg)
引分け0-0 / 主審:仲俊光
副審:椎名29-29. 少白竜29-29. 桜井29-29

泰史が追い、多彩に攻めてロープ際に追い込む展開も、景悟もヒジ打ちやヒザ蹴りの的確なヒットで劣勢を免れる。印象点は泰史の前進にあるが、景悟のヒットは泰史を上回り、差が付き難い終了となった。

泰史の前進する圧力でのハイキック、この後、景悟も多彩に返していく

◆第4試合 女子スーパーバンタム級3回戦(2分制)

七美(真樹オキナワ / 54.95kg)
    VS
KAEDE(LEGEND / 55.2kg)
勝者:KAEDE / 判定0-3 / 主審:宮沢誠
副審:椎名28-30. 仲28-30. 桜井28-29

◆第3試合 女子54.0kg契約3回戦(2分制)

アリス(伊原 / 52.3kg)
    VS
上野hippo宣子(ナックルズ / 53.5kg)
勝者:アリス / 判定3-0 / 主審:少白竜
副審:椎名30-27. 仲30-29. 宮沢30-28

◆第2試合 女子49.0kg契約3回戦(2分制)

オンドラム(伊原 / 48.8kg)
    VS
ERIKO(ファイティングラボ高田馬場 / 48.75kg)
勝者:ERIKO / 判定0-3 / 主審:桜井一秀
副審:仲27-30. 少白竜27-30. 宮沢28-30

◆第1試合 ジュニア女子43.5kg契約3回戦(2分制) 当日計量

曽我さくら(クロスポイント大泉)
    VS
安黒珠璃(闘神塾)
勝者:安黒珠璃 / 判定0-3 (19-20. 19-20. 19-20)

《取材戦記》

年頭から3興行連続でメインイベントを務めた勝次。いつものスポンサー名入り赤いダウンは纏わずタオルを肩に掛けてリング下まで入場。トランクスもシルバー一色。初心に帰った意気込みが感じられたが、先月の潘隆成戦に続き判定負け。

コロナ禍の中、勝次は藤本ジム所属のまま、伊原プロモーションとマネージメント契約を結んだ練習場という意味での“ジム移籍”当初は、例え今までに無い綿密な指導を受けていたとしても、それはまだ身体が心理面と共に馴染んでいない可能性があった。潘隆成に敗れたことで後が無い焦りも加わったかもしれない。2月2日のロンペット・ワイズディー(タイ)戦の敗戦含めれば3連敗となってしまった勝次。この先行きどうなるか。崖っぷちから足を滑らせ、まだ崖から手でぶら下がっている状態なら這い上がることは可能かもしれないが、キックボクシングだからこそ続けられるサバイバルマッチ。その厳しい境地は今後も続くのだろう。

新日本キックボクシング協会としてもコロナウイルス蔓延対策によるソーシャルディスタンスを保つ興行が続き、こんな苦戦が続くのはどこの団体も同じ。他団体との交流戦体制も得ながら生き残りの戦いも続きます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

チケット捌きの苦労は練習より辛い! キックボクサーのファイトマネー

◆ファイトマネーの在り方

チャンピオンになりたい! そんな志持ってジムに入門。デビュー戦を控え、与えられるファイトマネーはチケット。そんな時代は長く続く。勿論現金払いもあるが、チケットの方が比率は大きいだろう。

そんな選手がほとんどで、そのチケット捌きの苦労は練習より辛いという選手も多い。しかしそれは興行を成り立たせる為には欠かせない要素でもあり、仕方ない部分でもある。

昭和50年代のキックボクシングテレビ放送打ち切りから平成初期頃までは、「キックボクシングってまだやってるの?」なんて言われること当たり前の時代に、世間一般に向けては、なかなか売れるものではなかった。

大きいものから小さいものまで横断幕が並ぶ
興之介が幟旗に向けて入場中

◆どんな捌きをしているか

1982年(昭和57年)、ある選手が会長から3,000円の自由席券を30枚ぐらい渡されて、「全部2千円で売ろうと思う!」と言っていたのを聞いたことがあった。額面より値引きしてでも買って貰う為の苦労だろう。

デビューしキャリアを積んでいくうち、このチケット捌きは必然的に割り振りが大きくなっていく。生活を支える為、普通の企業に正社員やアルバイトとして勤めて、そこが活気ある従業員が大勢いる職場で人気者となれば、百枚単位のチケットも捌くことは可能だろう。

チケットを50枚でも100枚以上でも捌くことが継続されれば、「頑張れ○○君、皆で応援に行くからね!」と会社ぐるみでの応援団となり、横断幕や幟旗などが舞うことも多い。そんなチケット捌きからの活気ある応援は、興行への大きな貢献度もあると言えるだろう。

それに対し、チケット捌ける選手が捌けない選手の分まで頑張って捌いている例もある。

先輩選手が、「売れないなら俺が何とかしてやる、持って来い!」

そんな後輩選手とのそんなやりとりも聞いたことがあった。そんな田舎から出て来たばかりや、孤独な選手は、「何とか捌きました!」と言っても内情は自分で抱えているだけかもしれない。或いは無料で配っているかもしれない。或いはディスカウントショップに持ち込んで極端に安く引き取って貰っているかもしれない。

それで会場はチケット捌けた各選手の応援団だらけ。応援する選手の試合が終われば、単に帰ってしまう人も含めて、ドドドっと出口に向かい祝勝会へ向かう集団の姿はよくある光景。チケット完売なのにメインイベントに進むにつれ、空席が目立っていく背景にはこうした現状があるのである。

髙橋三兄弟も人気者、縦型横断幕が贈られている

◆チケット捌きの苦労!

これは1990年代のあるチャンピオンの話。

「デビュー戦は地方のリングでファイトマネーは無償。知り合いも皆無だったので、激励賞も無かった。2戦目は、3,000円券10枚で、“バック無し”だったのでファイトマネーは3万円だった!」と言う。

このチケット捌きにはバック有りとバック無しがあるらしい。“バック”とはプロモーターや会長に額面の33パーセントをマネージメント契約上の金額として支払うことである。割り振りされたチケットを捌けなければ自腹を切り、ジム会長(プロモーター)に33パーセントを支払う羽目となる(チケット戻しは無い)。その代金は選手の親が出しているかもしれない、またはアルバイトで必死こいて稼いだ安月給を充当している場合もあるかもしれない。或いはキッチリ定額で捌き、ジムに33パーセントバックしても、何万円も何十万円も自分のファイトマネーとして、プロとして実践する選手も居るのかもしれない。バック無しであっても現金含めたファイトマネー総額から33パーセント以内という規定で差し引かれているのが契約上の義務である(総額が曖昧で何パーセント引かれているか分からない場合も多い)。

ある時代、有名外国人選手が出場するビッグイベント興行を手掛けた某ジム会長。それが大変な赤字を抱えてしまうと、その負債が長い期間、足枷になる場合もあるという。

そんなある興行を前に起きたこと。その所属ジムの某選手の話では、会長から選手4人に5,000円券20枚を「アルバイト先でも捌いてくれ!」と頼まれてしまったが、その売り上げは全額会長戻し。それは、“選手たちも貢献してね”という意味だった。その会長は、無理を押し付けている為、「もし売れなかったら、“売れませんでした”でもいいからね!」と柔軟に対応してくれたが、選手皆、会長とは厳しくも信頼ある仲で、反発する意識は無く、なぜか心に余計なプライドが宿って、「自分に割り振られた分ぐらいは必ず捌きます!」と受けてしまった。カッコつかないし、ヘタレと思われたくなかったのである。

しかし、その某選手は、自身が出場する試合は仕事先で毎度100枚ぐらい捌くものの、このビッグイベントも20枚ぐらいなら割とすぐ捌けるかなと思ったところが、自身が出場しないと5,000円券がなかなか捌けない。すると、「半額の2,500円ならば買ってもいい!」と言うのが数名居た程度だったという。

昔、私も貰ったことある招待券、タダでも来なかった友達の分

そんな状況で、「会長、チケット売れませんでした、戻させてください!」とは絶対言いたくない。それで、「まあこんなボランティアは今後もう無いだろう。それにたかが10万円程度でも、育ててくれた会長への恩返しと思えばいいか!」と妥協する心も芽生えたという。

例え半額にしてでも何とか捌きたかったが、他の選手にはその内情は一斉語らず、
「俺はとりあえず何とか20枚捌いたよ!」と見栄を張ったら、それで終わりではなくなった。それを聞いた他の3選手、「すみません。会長には内緒で、俺らの分も少しでいいから、お手伝いお願い出来ないでしょうか?」と頼まれてしまい、“少し”と言うから仕方無いなあと思っていると、内2人はキッチリ20枚ずつ持って来たという。全く売れなかったようだ。赤字の歪みはこんなところにも表れるのだった。

テレビ出演も多いスポーツストレッチングトレーナーの兼子ただしは毎度、オレンジTシャツ一色となる大応援団となった(2014.4.20)

◆これもプロの仕事!

選手がチケット捌きをしなければならないのは試合出場とそれに懸けるトレーニングとは別の労働力であろう。職場や後援会、近所付き合い、学生時代の仲間がいない場合、住宅街や団地を一軒一軒回って、キックボクシングのチケットを押し売りする選手はいないだろうが、新聞購読勧誘員のような悪びれない労働はなかなか出来るものではない。

そんな過酷さは関係無くても、選手のチケット捌きの実情から、2016年9月に(株)ブシロードが「KNOCK OUT」を手掛けた際、「手売りを無くしたい!」と語っていた木谷高明社長。選手がチケットを捌くことへ、「そんな時間があったらトレーニングに専念して欲しい!」との意向で、「選手のチケット手売りをやめさせ、誰が出るか発表しなくてもチケットが売れるようにしたい。手売りをやってる限り先は無く、手売りは供給側の事情で、お客さんの需要側に立ってないことです!」と語っていた。それ自体は将来を見据えた選手に優しい運営システムだが、その負担をいつまでも自社戦略でカバーできるものではなかっただろう。

後援会など応援してくれる仲間内が居る選手は「チケットでなければ困る!」という例もあるといい、そのバランスが難しいようでもあった。

また、「試合、練習、チケット捌き含めてプロの仕事だ。みんな昔からやってんだ。それぐらいの甲斐性持て!」という古い世代の会長たちも居る。それはプロボクシングの古き時代からキックボクシングまで、長きプロ興行の習慣である。こんな習慣はまだ延々と続くのだろう。捌ける選手はそんな営業力有る選手で逞しさもあるが、捌けない選手は現役生活が続けられないほど自分で赤字を抱える場合もあることは、何とか改善していかねばならない問題である。

フェザー級2位、兼子ただしは(株)SSS社長、最大級の応援団で毎度客席を埋めた大歓声はチャンピオンクラスだった (2017.3.12)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

村田裕俊、優勝で有終の美を飾る! 交戦シリーズVol.5

昨年12月14日にスタートしたジャパンシフトランド杯59kg級トーナメントの決勝戦。村田裕俊は初戦(準々決勝)、テープジュン・サイチャーン(ReBORN経堂)に判定勝利。2月8日の準決勝、遠藤駿平(WSR・F三ノ輪)に判定勝利。

髙橋亮は初戦(準々決勝)で、一仁(真樹AICHI)に判定勝利。準決勝、コッチャサーン・ワイズディー(タイ)にTKO勝利。

辛うじて、しかし激闘の末、優勝を果たした村田裕俊

コロナ禍の中、4月予定だった決勝戦は先行き見通しが立たない中、10月開催が決まった。このトーナメントを優勝か、それまでに敗れた時点で引退を宣言していた村田裕俊は有終の美を飾ることとなった。

村田は、髙橋兄弟三人とも戦い、苦しい戦いを経ながら三兄弟の御陰で強くなれたことや、ジム会長をはじめとする応援してくれた関係者への感謝、両親へは産み育ててくれたことへの感謝を述べ、引退テンカウントゴングが打ち鳴らされて公式戦最後のリングを降りました。

◎交戦シリーズVol.5 / 10月10日(土)後楽園ホール18:00~20:55
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第8試合 ジャパンシフトランド杯59kg級トーナメント決勝 5回戦

村田裕俊は右ハイキックをブロックの上からでも蹴って出る

NKBフェザー級チャンピオン.髙橋亮(真門/25歳/58.7kg)
    VS
同級2位.村田裕俊(八王子FSG/31歳/59.0kg)
公式5回戦判定は引分け三者三様
延長戦0-3 / ジャパンシフトランド杯トーナメントルールにより勝者:村田裕俊
主審:前田仁
副審:佐藤友章49-48(9-10) 馳大輔49-49(9-10) 仲俊光48-50(9-10)

元々は体格さ有った両者。高橋亮はバンタム級から上がり、村田はフェザー級がベストウェイトながら、ライト級で高橋一眞と王座決定戦で戦った経験を持つ。

長身の村田が距離を活かしたリズムを作っていくが、高橋亮は蹴りの素早さで攻撃力を増していく。組み合うと村田のヒザ蹴りのしつこさがやや有利な展開を見せるが、転ばしにいくのは高橋亮。

後半は両者とも主導権を握ったかとは言えない流れで倒しに行く攻撃力が増すも、三者三様の引分けとなってしまう。延長戦は両者我武者羅。高橋亮はパンチ中心。村田は組み合ってのヒザ蹴りでの粘り強く出る印象が強くなり、優勢を掴む。

高橋亮のヒジ打ちは外れるもどちらが斬られるか分からない両者の攻防
村田裕俊は斬られながらも悔いを残さない最後のラッシュに懸ける
最後はタイ式に拝み(ファン、師匠、両親へ)、リングを降りた

◆第7試合 第15代NKBウェルター級王座決定トーナメント決勝戦 5回戦

ガルーダ・テツ会長と勝利のツーショット

NKBウェルター級2位.稲葉裕哉(大塚/33歳/66.68kg)
    VS
同級4位.蛇鬼将矢(テツ/31歳/66.5kg)
勝者:蛇鬼将矢が新チャンピオン / 判定0-3 / 主審:鈴木義和
副審:川上47-50. 仲47-49. 前田46-50

昨年6月15日に引分けている両者。蹴りとパンチの正攻法な様子見から、蛇鬼の変則的な動きに移ると冷静にかわす稲葉。しかし第3ラウンドには稲葉がパンチで攻めたところでやや前屈みになると、蛇鬼のカウンターのヒザ蹴りをアゴに受けてしまいノックダウンを喫してしまう。

ここからバランスを崩しやすくなった稲葉。互いの攻撃力は増すも、稲葉は蛇鬼のヒジ打ちで目尻や額を斬られ、蛇鬼は主導権を譲らず判定勝利を掴む。

2002年から始まったNKB各階級王座。ウェルター級は石毛慎也(東京北星)が小野瀬邦英(渡辺)をKOで下して初代チャンピオンとなった試合から第15代目となったのは蛇鬼将矢となった。

蛇鬼将矢が稲葉裕哉に相打ち気味のカウンターパンチがヒット
毎度の流血戦となる稲葉と打ち合いとなる蛇鬼将矢

◆第6試合 ライト級3回戦

NKBライト級2位.髙橋聖人(真門/22歳/61.2kg)
    VS
同級3位.野村怜央(TEAM KOK/30歳/61.2kg)
勝者:高橋聖人 / 判定3-0 / 主審:佐藤友章
副審:川上30-25. 前田30-25. 馳30-25

互角の蹴りとパンチの様子見から、高橋聖人はハイキックや前蹴りが顔面を捉える見映えいい蹴りが続き、徐々に勢い増していく。

第2ラウンド、髙橋聖人は組み合ったヒザ蹴りからやや離れたところで右ストレートでノックダウンを奪い、第3ラウンドにも野村をコーナーに詰めた辺りで右ストレート気味のパンチでノックダウンを奪い、高橋聖人の順当な大差判定勝利となった。

チャンピオンは高橋三兄弟長男・一眞だが、タイトル争いの行方も気になるところである。

高橋聖人の前蹴りで野村玲央の前進を止める
高橋聖人のハイキックは素早くしなやかに高く上がる蹴りでヒット

◆第5試合 67.0kg契約3回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(TEAM COMRADE/45歳/66.95kg)
    VS
CAZ JANJIRA(JANJIRA/33歳/67.0kg)
勝者:CAZ JANJIRA / 判定0-2 / 主審:仲俊光
副審:鈴木30-30. 前田28-30. 馳28-30

◆第4試合 63.0kg契約3回戦

福島勇史(ケーアクティブ/34歳/62.8kg)
    VS
洋介(渡邉/40歳/62.6kg)
勝者:洋介 / TKO 1R終了 / 主審:川上伸

◆第3試合 54.0kg契約3回戦

古瀬翔(ケーアクティブ/24歳/53.95kg)
    VS
七海貴哉(G-1 TEAM TAKAGI/23歳/53.85kg)
勝者:七海貴哉 / 判定0-3 (23-30. 23-30. 23-30)

◆第2試合 バンタム級3回戦

ナカムランチャイ・ケンタ(team AKATSUKI/20歳/53.4kg)
    VS
幸太(八王子FSG/22歳/53.4kg)
勝者:ナカムランチャイ・ケンタ / TKO 3R 2:59

◆第1試合 60.0kg契約3回戦

誠太(アウルスポーツ/29歳/59.8kg)
    VS
龍ヶ崎マサト(SIROI DREAM BOX/51歳/59.4kg)
勝者:誠太 / TKO 2R 1:46

《取材戦記》

交戦シリーズの「Vol.5」は当初の予定に組まれた興行ナンバー。実質今年2回目の興行となります。年明けから興行は少なかったが、昨年のPRIMA GOLD杯トーナメント決勝戦は台風の影響による延期と、今年のジャパンシフトランド杯トーナメントはコロナ禍の中での延期、決勝戦を控え、長く引きずってしまうも止むを得ないところです。

村田裕俊、やり残したことは無く、悔いを残さず完全燃焼した様子。31歳での引退は現在ではまだ早過ぎると言われる年齢だが、完全燃焼したか、まだやり残したことがあるか、まだ必要とされているか等、選手それぞれの生き方があり、過去には引退の時期を逃してしまった選手も居たり、引き際は難しいものかもしれません。
村田は今後、タイと日本を行き来し、バンコクが拠点という現役中に設立したセレクトショップUT-Jaiの店長として覚悟を持って頑張っていくという。プロスポーツ選手の年齢を重ねた引退後のビジネスは大手企業に新卒採用されるような枠は無く、新たな生き方を設計しておかねばならない。キックボクシングの貴重な経験を活かし、軌道に乗ることを願いたい。

第3試合、古瀬翔からノックダウンを奪った七海貴哉にカウントを始めたレフェリー。暫くして気付いたか、周りが指摘したかは聞こえなかったが、七海貴哉はよく抗議しなかったものだ。パンチで倒れ、加撃を防ぐ為、両者を分けて入って間違ったか。20年ほど前にもこの団体で同じことがあった。レフェリーは選手をしっかり見極めねばならない。

日本キックボクシング連盟年内興行は、11月15日(日)大森ゴールドジムに於いて、テツジム主催のプロ3試合を含むオヤジ・オナゴキック関東大会が開催。

12月12日(土)は後楽園ホールに於いて、交戦シリーズ最終戦が開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

老舗、キック再開から巻き返しへ挑む! TITANS NEOS 27

昨年春の分裂、藤本ジム閉鎖、今年のコロナ禍で続く苦境の中、新日本キックボクシング協会も興行の在り方が大きく変化。

江幡ツインズがRIZINに出陣した現在、メインイベントを務めるのは勝次(=高橋勝治)。藤本ジムの看板を背負い、責任ある立場となってメインイベントを務めるも、潘隆成に敗れる波乱の幕開けとなった。

8月12日のTITANS NEOS.27に向けた記者会見で、藤本ジムへの想いを語った勝次。

今年1月末に、闘病中の藤本勲会長が病状悪化により藤本ジムが閉鎖に至り、所属選手はそれぞれの道に進んだ。

勝次は今後について、「新日本キックボクシング協会で多くのチャンスを頂き、日本とWKBA世界王座獲得するなどお世話になって来て、この団体を離れる選択肢はありませんでした。」と言う。

更に藤本ジムが引き継いだ目黒ジムの伝統が途切れるという危機感があり、自分が藤本ジムを引き継ごうと、藤本勲会長がジムを閉鎖する前、藤本ジムの名前を使うことを嘆願し、「勝次だったら大丈夫だ、名前だったら幾らでも使ってくれ、何かあったら力になるし、応援しているから!」と承認されていました。

伊原信一代表からは「勝次はそれでやるんだったら、それで頑張るしかないぞ。藤本ジムの名前でやっていけ。この伊原道場を自分のジムだと思って好きなだけ使ってくれ。」と協力的。そして勝次は伊原ジムとのプロモーション、マネージメント契約を締結し活動していくことになっていました。

5月5日に藤本会長が永眠され、コロナ禍で長引いた再開興行の9月27日、ここからの初戦を飾れなかった勝次。今後更なる厳しい境地に立たされる。

潘隆成の右ヒジ打ちが勝次の左瞼にヒットする直前

◎TITANS NEOS 27
9月27日(日)後楽園ホール / 18:00~20:10
主催:TITANS事務局 / 認定:新日本キックボクシング協会  

◆第8試合 63.6kg契約3回戦

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/63.5kg)
    vs
潘隆成(元・WPMF日本スーパーライト級C/クロスポイント吉祥寺/63.45kg)

勝者:潘隆成 / 判定0-3 / 主審:少白竜
副審:仲29-30. 宮沢28-30. 桜井28-30

必死にパンチで巻き返しにかかる勝次、潘隆成はまともには食わなかった
やっぱり出た飛びヒザ蹴りの勝次、強引にいくとヒットは難しい
潘隆成の左ミドルキックにリズムを狂わされた勝次

勝次のオープニングヒットとなった右ストレートからの主導権を奪いにいくも、その勝次の突進を阻止する潘隆成。

特に左ミドルキックでリズムを狂わされた感の勝次。

組み合ってからの崩しも潘隆成が優り、第3ラウンドにはヒジ打ちで左瞼をカットされてしまった。

パンチで幾らか軽いヒットさせた勝次だが、潘隆成のディフェンスに阻まれ強いヒットは与えられず押し切られてしまった。

勝利の潘隆成のチーム、T-98(今村卓也)がチーフセコンドを務めた

◆第7試合 70.0kg契約3回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/69.8kg)
    vs
津崎善郎(LAILAPS東京北星/69.9kg)
引分け1-0 / 主審:椎名利一
副審:仲29-29. 宮沢30-29. 少白竜29-29 

第1ラウンド早々に股間ローブローを受けてから攻め倦み、津崎の前進から組み合う展開は津崎の圧力が優るが、ブラボはパンチとヒザ蹴りを的確に当てる印象も活き、両者の主導権争いは差が出ず。

苦戦の中にもハイキックを見せたリカルド・ブラボ
前進する津崎善郎にパンチのヒットも多かったリカルド・ブラボ

◆第6試合 63.0kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.高橋亨汰(伊原/62.75kg)vs 野津良太(E.S.G/61.55kg)
勝者:高橋亨汰 / TKO 1R 2:19 / 主審:桜井一秀

両者の蹴りとパンチの様子見から、サウスポーの高橋が蹴りから左ストレートを打ったところで、グローブの内側が擦れるように野津の顔面をヒットすると、これで右瞼をカット。ドクターの勧告を受入れレフェリーストップとなった。

高橋亨汰の左ストレートはグローブの内側をかすって野津良太の右瞼にヒット(画像は別シーン)
あっけない幕切れながら、TKO勝利の高橋亨汰

◆第5試合 53.0kg契約3回戦

泰史(伊原/52.95kg)vs 心直(REON Fighting Sports/52.8kg)
勝者:心直 / 判定1-2 / 主審:仲俊光
副審:椎名29-30. 桜井30-29. 少白竜28-30

初回から心直がやや勢いがある蹴り。やや遅れ気味の泰史の攻めをいなすも、泰史は態勢を立て直し互角の展開。採点は振り分け難い判定となった。

心直が先手を打って出た。右ハイキックが泰史のアゴに軽くヒット

◆第4試合 57.0kg契約2回戦

中村哲生(伊原/56.95kg)vs 平田尚人(Tri.Studio/56.8kg)
勝者:平田尚人 / TKO 1R 0:55 / 主審:宮沢誠

平田のパンチ連打で中村はスタンディングダウンを奪われ、更に連打を受けてノックダウンし、レフェリーストップ。

◆第3試合 57.5kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/57.3kg)vs 新田宗一朗(クロスポイント吉祥寺/57.3kg)
勝者:新田宗一朗 / 判定0-2 / 主審:少白竜
副審:仲29-29. 桜井29-30. 宮沢28-30

◆第2試合 女子51.0kg契約3回戦(2分制)

アリス(伊原/50.25kg)vs ERIKO(ファイティングラボ高田/49.5kg)
勝者:ERIKO / 判定0-3 / 主審:椎名利一
副審:仲27-30. 少白竜27-30. 宮沢27-30

◆第1試合 女子スーパーフライ級3回戦(NJKFミネルヴァ/2分制)

芳美(OGUNI/52.05kg)vs NA☆NA(エス/51.9kg)
勝者:NANA / 判定0-3 / 主審:宮本和俊(NJKF)
副審:椎名28-29. 少白竜28-30. 桜井28-29

《取材戦記》

キックボクシングは何度負けても必要とされている限りは再起の道が用意されている場合が多い。プロボクシングだったら戦力外通告で、ジムのロッカーから名前が消されるのも実際にある話。しかしファンから見れば、負けても応援したくなる再起の道。キックではどれだけ負けが込んでも試合に出続ける選手もいる。燃え尽きるまで戦うことが出来るのもキックボクシングなのかもしれない。

ソーシャルディスタンスを保たれた興行が徐々に再開し、収容最大人数(席)の50パーセント以内という条件で各団体、各プロモーション興行も厳しい条件ながら安定してきた感があります。

この日時点では、プロボクシングはまだリングサイド撮影が認められていない模様。スポーツ新聞各社(記者クラブ所属)が揃ったらソーシャルディスタンスを保てない事情もあるかもしれません。キックボクシングは通常、一般マスコミだけなので少人数に限定することは可能でも、元から少ないので混乱にはなっていません。

新日本キックボクシング協会、今回の興行はクラウドファンディングを利用し、246人のサポーターから194万1,000円が集まった模様です。私も応援購入でSAVE THE KICKマスクを購入し付けて行ったら、このマスクを他に付けている人はスタッフの林武利さんだけ。見た限り他は誰も付けて居ない様子。

次回、10月25日(日)興行MAGNUM.53に於いて、勝次はNJKFスーパーライト級チャンピオンの畠山隼人(ESG)と対戦予定。またも他団体チャンピオンとの対戦となり、今度こそ負けられない一戦となる。

ここで負けたら伊原ジムのロッカールームで「藤本ジム・勝次」の名が無くなる!?……かもしれない。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

格闘群雄伝〈07〉ソムチャーイ高津 ムエタイに染まった人生、友達の輪は人望からくる因果応報!

◆格闘技人生の始まり!

元NJKFライト級1位.ソムチャーイ高津(ソムチャーイ・タカツ/1969年6月16日、神奈川県藤沢市出身)は、ムエタイの師匠、パイブーン・フェアテックス氏が名付け親となるリングネーム。タイトル獲得歴は無いが、不思議な人望と人脈を持つ、オモロイキックボクサー人生である。

タイ初試合、ポンテープ戦は判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.5.4

ソムチャーイ高津は、幼い頃から格闘技に興味を持ち、漫画や映画で公開された「四角いジャングル」を観てより一層格闘技に魅せられていった。

高校3年の1987年8月2日、シューティング(修斗)に入門。アマチュアで3戦したが、プロはまだ無い時代だった。

元々、日本人初のラジャダムナンスタジアムチャンピオン、藤原敏男に憧れを抱いていたソムチャーイ高津は、後に打撃競技をやりたくなったのを機に、1988年8月2日、OGUNI(小国)ジムに入門、藤原敏男氏が厳しい鍛錬に耐えた黒崎道場はすでに無く、その黒崎イズムを継承するのは藤原敏男氏の後輩、斎藤京二氏がトップ選手として活躍する小国ジムであると確信したからだった。

◆タイへ渡って多くの経験!

プロデビューは1989年4月8日、中島貴志(東京北星)にKO勝利。翌年10月の再戦では、激戦の末のドローとなったが、中島貴志のトレーナーだったユタポン・ウォンウェンヤイ氏からタイ式の攻防としても凄く褒められたことで、ムエタイとは切っても切れない縁となったと感じたという。

タイ2戦目、サクアーテット戦も判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.6.1

そして運命に導かれるままの初のタイ遠征で向かった先はフェアテックスジム。ここはすでにタイで修行を積んだOGUNIジムの先輩が勧める名門で、奇しくも過去の入門日と連鎖する1991年8月2日にジム入り。ここで専属トレーナーとして家族との住居を構える、1960年代の、タイでは5本の指に入る伝説のチャンピオン、アピデ・シッヒラン一家と一つ屋根の下で暮らし。

ジムでは最初は誰もが馴染めぬタイ人との距離も、ソムチャーイ高津は持ち前の明るさと人懐っこさで難なく親しんでいった。アピデ氏夫妻との生活は、タイのお父さんお母さんと呼ぶまでになり、ここでトレーナーを務めるパイブーン・フェアテックス(元・ルンピニースタジアムランカー)とは先生と崇め、切っても切れない縁も連鎖した。

全日本ライト級王座挑戦、内田康弘に判定負け。1996.3.24

タイで初めての試合は1993年5月4日、パイブーン先生の故郷、チャイヤプーム県で、積極的な展開も善戦の判定負け。タイでの戦績が最初は10連敗だったが、勇敢な戦いが続いたことからパイブーン先生から、タイ語のリングネーム付けた方がいいという話が持ち上がり、タイで流行っていた曲の「タオ・ソムチャーイ・ケムカッ!(勇敢な男)」というフレーズから“ソムチャーイ”のリングネームが付けられた。

そこからもタイ遠征する度、試合出場を続けた1997年初春、次にパイブーン先生に掛けられた言葉が、「タカツもそろそろ出家するべきじゃないか?」と言われたことで、タイでは一人前の大人となる通過儀礼ではあるが、アピデさんの息子さんやフェアテックスジムの仲間たちといった身近な人の出家を見て来た縁もあって、違和感無く出家を決意。あらゆる寺が候補に挙がるも、パイブーン先生の実家があるチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンに決まり、9日間の出家となった。ムエタイボクサーはブランクを空けない短期出家となりがちだが、短期でもテーラワーダ仏教の教えはその後の人生にも影響を与えていったという。ムエタイ修行の厳しさが活きるが故の習得力だっただろう。

タイに渡る度、パイブーン先生の実家に訪れると、家族のように迎えられるソムチャーイ高津だった。チャイヤプームはもう第2の故郷である。

NJKFライト級王座挑戦、小林聡に何度もヒジ打ちヒットさせるもKO負け。1997.4.6(左)。タイでもうひとつの修行、出家を経験。 撮影:パイブーン・フェアテックス1997.5.18~5.26(右)

◆ムエタイが導いた日本での活躍!

日本に於いては、ムエタイ修行の成果はすぐには表れず、3回戦(新人クラス)時代が長かった。OGUNIジムはタイからチャイナロンというトレーナーを招聘すると、それまでわずかに残っていた黒崎イズムから、今迄に無いムエタイのムードが漂ってきた。

引退試合、OGUJIジムが招聘した二人の名トレーナー、パイブーンとチャイナロンがセコンドに付く。2004.11.23

ソムチャーイ高津はタイでの練習に近い環境が整うと、やがてジワジワと修行の成果が物を言い出してランキングは上昇。後にはパイブーン先生も招聘することに成功したが、全日本ライト級タイトルをはじめとした国内タイトルには、当時のトップクラスに阻まれ、計5度に至る挑戦は実らなかった。

1997年4月のNJKFライト級王座に挑戦した、小林聡(東京北星)戦では、ヒジ打ちを何度も叩き込み、ガチガチ打ち合う一番噛み合った試合となったが最後はローキックで倒された。後に小林聡から「高津との試合がベストバウトだった!」と言ってくれて、お世辞でも嬉しかったという。

2004年11月23日の引退試合を含め、日本で41戦17勝(9KO)17敗7分、タイでは25戦6勝(4KO)19敗だったが、技術的にはまだ伸びていた中、打たれ脆くなったことを意識し、現役を去ることとなった。

引退後はトレーナー人生となったが、タイ修行で得た厳しい指導で多くの後輩をチャンピオンに育て上げることに繋がった。2009年10月18日、大槻直輝がWBCムエタイ日本フライ級初代チャンピオンとなると、パイブーン先生は「よく育て上げたな、タカツは俺が認める一人前のムエタイトレーナーだ!」と恩師から名トレーナーの勲章を頂いたような感動もあったが、パイブーン先生は役目を終えたかのようにタイに帰ることになった。

◆引退してもムエタイとの繋がりはより深く!

ソムチャーイ高津はその後も後輩をムエタイ修行に導いたり、アピデさんやパイブーン先生と酒を酌み交わす為、タイには頻繁に訪れていた。しかしそんな師匠らとの別れの時がやってきた。

アピデさんは肺癌を患い入院。末期には奥様が気晴らしに散歩を勧めても、もう出歩くことを嫌がるほど気力は衰え、2015年4月に永眠された。73歳だった。

引退試合、高野義章戦、最後までヒザ蹴りを活かしたが判定負け。2004.11.23
引退セレモニー、息子を連れて御挨拶、後方にチャイナロンとパイブーンが控える。2004.11.23

ソムチャーイ高津は、「1993年頃、一度だけアピデ父さんの実家に連れて行ってもらいました。近くのワット・バーングンでアピデ父さんは、“いつもこのお寺で練習していたんだ。タカツも一緒に練習しよう”と言われてシャドーボクシングしたことがあります。また、最後の入院した病室では二人きりになった時、“タカツ、一杯やろう”とベッドの下から酒瓶を出し、どうやって厳禁の酒を持ち込んだのか分からないのが笑えてしまった。でも最後の杯を交わしました!」と懐かしく振り返る。

パイブーン先生は帰国後、後に肝硬変で体調を崩し、2017年9月、肝臓癌で永眠。56歳だった。亡くなる前、「俺の葬儀には来るな!」と言っていたという。

言い付けを守り、衰弱した頃にはタイには見舞いも葬儀も行かなかったが、電話で何度も懐かしい話をしたという。辛い別れ方だが、この世に生まれたものは全ては劣化し消えていく諸行無常を知り得たソムチャーイ高津。生涯、タイでの二人の師匠に誇れる人生を送るだけであろう。

今もムエタイ繋がりの仲間は多く、日本で梅野源治や石井宏樹に勝利したゲーオ・フェアテックスの来日の際も付き添った。ソムチャーイ高津が初めてタイに行った時、練習していたゲーオはまだ小学生だった。そんな名チャンピオンの幼い頃を知る仲でのお付き合いが多いのもお金では買えない財産。

憧れの藤原敏男さんとは、知人の飲み会に誘われて一緒に陽気に呑んだことで、その際に「君は面白い奴だな!」と言われ、2016年7月、ディファ有明での、タイTOYOTA CUPのムエタイイベントで、かつてラジャダムナンスタジアムで藤原敏男さんと名勝負を展開したシリモンコン・ルークシリパット氏が来日した際は通訳として呼ばれ、その後も呑む機会に誘われている模様。

とにかく、このソムチャーイ高津は羨ましい奴である。ムエタイの英雄、日本の英雄らと常に声を掛けられ、ここまで人望が厚いのは生まれ持った才能とムエタイとキックと仏門での努力の賜物。今もソムチャーイ高津に会いたがっているムエタイボクサーは多い。

是非、私(筆者)も肖(あやか)りたいものである。

日本での試合、ゲーオ・フェアテックスのセコンドを務めたソムチャーイ高津(左)。アピデ夫妻とのスリーショット。2015年春(右)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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