芽が出始めたムエタイ新時代──タイで通用する若手選手が続々出現!

2016年の展望の追記のような、近未来の展望ですが、ちょっと昔の日本のキックボクサーが漏らした名言が思い出されるこの頃であります。

「俺らは毎日働いて疲れ引きずって、夕方ジムに行って練習しているけど、俺ら日本人も子供の頃から朝練習して昼寝して、夕方も練習するような、タイ人と同じような環境で練習こなせば、日本人だってタイ人なんかに負けねえんだ。」

25年も前、タイで修行中のある日本人キックボクサーとジム近くの屋台で飯食いながら、彼はジムでタイ選手に何か面白くないことでも言われたか、酔いながらそんな愚痴をこぼしていました。

◆2007年頃から日本で始まった“ジュニアキック”の普及

タイでは地方に行けば野外の広場で、夜の試合ではリングの上に100ワットの裸電球が十数個あっても薄暗い中で、その土地のお祭り的なムエタイ試合が多くあります。5歳ぐらいの子供の試合から10代~20代前半が中心の試合もあれば、稀に40歳超えで“オヤジファイト”のような素人っぽい試合もあり、そんな中でも有力な選手がまた上のステージへ進みます。こういう幼いうちから試合に出される環境があるのもタイならではの話です。

対して当時の日本では、そんな環境には程遠く、プロの試合も少なく、アマチュアにおいては空手が普及しているものの、キックボクシングとは違ったカテゴリー。アマチュアキックボクシング団体は、大学生中心の「学生キックボクシング連盟」など古くからあるものもあり、他にも新空手やグローブ空手というアマチュア競技もありましたが、低年齢層までの出場はごく少数でした。

「WindySuperFight」アマチュア大会のワンシーン、これもプロへの通過点(2015.8.16)
「MuayThaiSuperFight」アマチュア大会42.38.34kg級各チャンピオン、これもプロへの通過点(2014.8.2)

そんな時代を経て、2007年頃から、プロ団体の乱立とは直接関係ないものの、幾つかの団体がアマチュア枠でも低年齢層を対象とした“ジュニアキック”に力を入れ、普及し始めました。

「ムエタイでトップに立つ選手に育てるなら遅くとも中学に入る頃までに、タイに連れて来なさい。」そんな助言をするムエタイのトレーナーが何人もいたのも事実で、そういう認識を持ち始めた頃だったのかもしれません。

◆2009年末、タイで通用する選手の育成を目指して「WINDY SUPER FIGHT」が設立

「WindySuperFight」最高顧問CHAI.TOKYO氏(左)、B-FamilyNeoジム大田原光俊代表(右)

股関節の柔らかさから放たれるムエタイボクサーのしなやかな蹴りや、首相撲のバランスを覚えるには幼い頃からの鍛練が重要になると言われていますが、2009年12月には「タイで通用する選手の育成を目的とした団体」としてタイのWINDYスポーツ社の協賛で「WINDY SUPER FIGHT」というの団体を立ち上げたのが、ビーファミリーネオジム代表の大田原光俊氏でした。

ムエタイとして最高峰となる二大殿堂王座に挑むなら、タイで現地ランカーと戦い勝ち上がって名を売り、殿堂チャンピオンの座を掴むことが本筋と言われています。また小学生のうちから戦いの場が与えられる WINDY SUPER FIGHTに於いてのジュニアキックの最軽量級は20kg級から始まり、55kg級までの複数階級でトーナメント制によるチャンピオンを決定。そして15歳で中学を卒業すると、その後は一般部門かプロに進むことになります。

子供のうちからプロ選手と同じく、タイのジムに行かせたり、日本に於いてもタイ人トレーナーの指導を受け、身体作りが出来る環境の下、大田原代表の二人の息子さんである大田原友亮と虎仁兄弟はこのWINDYジュニアキックや、本場タイの二大殿堂を拠点として実績を積み、また日本の試合にも積極的に出場しています。

◆日本で続々登場してきた高校生ムエタイ戦士たち

同じように、タイのプロのリングで活躍した選手や日本で注目を浴びた選手は他にも那須川天心、福田海斗、佐々木雄汰、石井一成、伊藤勇真、溝口達也、岩尾力、平本蓮、伊藤紗弥(女子)という高校生のムエタイ戦士の活躍により、ジュニアキック競技そのものが6年を経て大きく評価を上げ、タイ殿堂スタジアムのランキングに名前を連ねる選手もいるほどまで成長しました。

“タイ人と同じ環境で練習をこなせばタイ人には負けない”その幼いうちから育ててやれば本当に強くなるんだという今の結果。更に今活躍する中学・高校生キック、ムエタイボクサーは先人の願いに叶う活躍を見せてくれるか、そんな選手たちがもし近未来に、次々とムエタイ殿堂王座を奪取するようなことになれば、タイ国民も古くからルーズな気質でありながら、反面プライド高い国民だけにやっと重い腰を上げ、そこから本気で日本人(外国人)潰しに躍起になり、そこからの戦いは新たなムエタイの進化をもたらすかもしれません。

25年前のバンコクの屋台でキックボクサーが愚痴ってた日から、こんな時代がやってくるとは、信じられないほどの低年齢化した選手の成長に驚くばかりです。

ジュニアキック黎明期を支えた大田原兄弟の次男.虎仁
天才ムエタイ少女WPMF女子世界ピン級チャンピオン伊藤紗弥。テレビ番組にも登場
ジュニアキック8冠王の岩尾力。プロでも頭角が現れ始めている

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ティーンズチャンプがキック界を刷新する?──2015年回顧と2016年展望
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」

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ティーンズチャンプがキック界を刷新する?──2015年回顧と2016年展望

2015年のキックボクシング界主要団体で目立った出来事を大雑把に振り返り、2016年の潮流を展望してみます。

◆日本選手7名全員が敗れたムエタイ王座戦への挑戦

2015年、ムエタイ二大殿堂のルンピニースタジアム王座とラジャダムナンスタジアム王座に挑戦した日本選手は7名で、そのすべてが敗れ去りました。

ムエタイ技術の奥深さ、タイトルが掛かる場合や、プロモーターや賭け屋の暗黙の査定が存在する中では異様な底力を発揮するタイ選手のノンタイトル戦とは違う本気度。現地ラジャダムナンスタジアムでの挑戦は1月19日の石毛慎也(ライラプス東京北星)と5月24日の喜多村誠(伊原)の2名。他はすべて日本国内でした。

双子で再度ムエタイ王座狙うWKBA世界チャンピオンコンビ江幡睦・塁

接戦も撥ね返された試合もありました。3月15日の江幡睦(伊原)もラジャダムナン系で、他はすべてルンピニー系でした。4月5日に藤原あらし(バンゲリングベイ)、4月19日に一戸総太(WSR・F)と梅野源治(PHOENIX)、7月19日と12月27日に一刀(日進会館)の4人が挑戦。梅野源治が最も注目を浴び、過去の実績から王座に近い存在でしたが、優勢の流れから技術でミスし逆転負けの屈辱を味わいました。

キックの老舗WKBA世界戦では蘇我英樹(市原)と江幡弟・塁(伊原)が初防衛。江幡兄・睦はフォンペット・チューワタナ(タイ)とのダブルタイトル戦で敗れ奪われた王座が、後に返上された為、再び王座決定戦で奪回に成功。

WBCムエタイでは5月10日、同・世界スーパーライト級チャンピオン.大和哲也(大和)がノンタイトル戦で500グラムオーバーとなる失態があり、その試合もゴーンサック・シップンミーに判定負け。その汚名返上となるべき9月27日の王座統一戦は、暫定チャンピオンのアランチャイ・ギャットパッタラパン(タイ)に初回からダウンを奪われ判定負け。初防衛と王座統一は成らず。

7月20日、WBCムエタイ世界スーパーフェザー級タイトルマッチでの梅野源治の初防衛戦で、挑戦者ペットブーンチュー・ソー・ソンマーイが1.43kgオーバーによる失格により計量時で“防衛”という不可解な裁定が勃発。ノンタイトル戦となった試合は梅野の3R・TKO勝利。

11月15日、WBCムエタイ日本チャンピオン.宮越兄弟(拳粋会)がWBCムエタイ・インターナショナル王座決定戦に出場。兄・宗一郎はスーパーウェルター級、弟・慶二郎はライト級で王座奪取。

WPMF世界王座奪取したのは4名。3月17日アユタヤでフライ級の福田海斗(キングムエ)が王座奪取。7月12日、青森でフェザー級の一戸総太(WSR・F)が奪取し、スーパーバンタム級に続く同時2階級制覇。9月20日、岡山県倉敷市でスーパーフェザー級で町田光(橋本)がで奪取、ミドル級でT-98(=タクヤ/クロスポイント吉祥寺)が奪取しました。

◆高校生チャンピオン福田海斗の躍進

3月17日にWPMF世界フライ級チャンピオンとなった高校1年生・福田海斗(キングムエ)が、12月8日にタイのルンピニースタジアムでタイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会フライ級王座決定戦に出場。同協会4位の福田海斗が10位のタナデー・トープラン49 にヒジで切り裂き、3-0(3者49-47)で完勝。タイ人以外初の同協会チャンピオンとなりました。

本来このムエスポーツ協会は公的機関の組織でタイ国の国家予算が使われており、外国人には充てないはずのタイ国王座でしたが、プロモーターの見切り発車で、協会役員の反発がありつつも押し切られての開催でした。前例が出来た以上、今後も外国人が絡んでくることは止められないでしょう。

出場に至った経緯など価値的には問題視されますが、これで形式上は福田海斗もムエタイ“三大”殿堂王座を制したことになります。「日本人5人目の・・・」と言いたいところ、本来はタイ国の統一王座に在り得る団体だったのにも関わらず、そういう活動は少なく権威は崩れているので、残念ながら“二大”殿堂には適わぬ第三の地位に落ちています。

ルンピニージャパン開設記者会見(2015年8月7日)

◆ルンピニーボクシングスタジアムオブジャパン発足!

8月7日に記者会見が行われ、ルンピニーボクシングスタジアムオブジャパンの発足が発表されました。代表はセンチャイ・ムエタイジム会長のセンチャイ・トーングライセーン氏。2016年には日本タイトルも制定し、ランキングに入るとタイ国ルンピニースタジアムのランキングにも反映され、日本チャンピオンになるとルンピニースタジアム王座に挑戦有資格者となり、ルンピニースタジアムのチャンピオンクラスを招聘し、トップレベルの試合も行う予定と発表されています。12月13日に従来のムエタイオープン興行で最初の日本ランキング査定試合も開催されました。

◆WPMF日本支局長、ウィラサクレック・ウォンパサー氏の3期目へ続投

ウィラサクレック=WPMF日本支局長

2009年1月にWPMF日本支局が発足し、日本での運営を管理管轄してきた組織は任期3年で、2期務めたウィラサクレック・フェアテックスジム会長のウィラサクレック氏でしたが、2015年前期に、日本支局はタイ本部の直接的管轄下に置く案があり、日本支局長廃止案が出ていました。しかし、長く務められたウィラサクレック氏の功績も非常に大きい為、第3期目の続投が認められました。

◆2016年の展望──ムエタイ“二大”殿堂王座に江幡ツインズが再挑戦

ムエタイ“二大”殿堂のひとつラジャダムナンスタジアム王座に再挑戦することが確実視される江幡ツインズと、再度ルンピニースタジアム王座狙う梅野源治は王座奪取なるか。3人とも実力で優るものがありながら、首相撲が絡む駆引きで苦杯を味わう壁を打ち破れるか期待が掛かります。

高校生まで低年齢化したチャンピオンやランカークラスの台頭が目立った2015年でしたが、福田海斗(キングムエ/16歳)、伊藤勇真(キングムエ/18歳)、那須川天心(TARGET/17歳)、佐々木雄汰(尚武会/15歳)、石井一成(エクシンディコンJAPAN/17歳)といった選手が日本国内とタイ国でもアマチュア枠ではない、プロのチャンピオンレベルの話題を振りまく試合を続けていますが、その実力は本物か、試される年になりそうです。

梅野源治=WBCムエタイ世界スーパーフェザー級チャンピオン

貴センチャイジム(WMC世界スーパーフライ級チャンピオン)vs佐々木雄汰。15歳デビュー戦は引分け(2015年6月28日)

ラジャダムナンスタジアムが主戦場、高校2年生17歳の石井一成

17歳の那須川天心は10戦10勝(9KO)6戦目でRISEバンタム級王座獲得

夜魔神、竹村哲、松本哉朗などの引退があった昨年は、国内でも世代交代が目立ち、二十歳代本来の成熟した新チャンピオンが幾人も誕生した中、日本と世界の狭間にいるWBCムエタイ・インターナショナルチャンピオン.宮越兄弟(拳粋会)と宮元啓介(橋本)、新日本キックの殿堂選手の緑川創(目黒藤本)、石井達也(目黒藤本)もひとつ上の世界へ挑む時期に来て臨戦態勢を保っています。

権威の在り方が問われるムエタイ殿堂を含む各認定組織。WBCムエタイもアマチュアから日本、世界王座まで構築された構造が創られ、WPMF日本も更に活性化した運営を期待され、支局長・ウィラサクレック氏の更なる戦略拡大も注目です。

活動始まったばかりのルンピニージャパンはまだ展開が見えない中、ルンピニースタジアムと日本国内を繋ぐ吸引力は保てるか。結局乱立が増しただけのタイトルになっている各組織に健全な運営が続けられるか、順調そうに見える組織が頓挫しないか、選手の活躍以外にも、ファンは競技存続の鍵を握る組織を注視していてもらいたいところです。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)

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SOUL IN THE RING──松本哉朗の引退式と伝統を継ぐ目黒ジム勝次の防衛戦

SOUL IN THE RING 13 / 12月13日(日)後楽園ホール17:00~
主催:目黒藤本ジム / 認定:新日本キックボクシング協会

◆日本ヘビー級チャンプ松本哉朗がついに現役引退

松本哉朗テンカウントゴング

日本ヘビー級チャンピオンの松本哉朗が現役引退しました。今年2月11日の「NO KICK NO LIFE」でノブ・ハヤシと対戦、第1ラウンドでヒジ打ち一発でノブの額を切りTKO勝利。重量級での対戦相手の少なさ、“ヒジ打ち有効5回戦”を受けてくれる選手は少なく、40歳を過ぎてモチベーションも低下していきました。

それでも過去、2005年5月にはタイ国ラジャダムナンスタジアムでミドル級王座挑戦経験もありました(ラムソンクラーム・スワンアハーンジャーウィーに判定負け)。日本ミドル級王座は6度防衛。体の成長で減量が苦しく7度目の防衛戦で敗れ転級も、ヘビー級では軽い体で、100kg級の選手との対戦は体格差で劣る場合もありましたが、それを感じさせないパワーでKO勝利を増やしました。

日本ヘビー級王座は1度防衛。純粋なキックボクシングに拘り、他競技枠となるヒジ打ち禁止や3回戦は極力拒みつつ、それでは試合が無い状況になるので、受けざるを得ない試合が多いようでした。

古代ムエタイ演舞

この日行なわれた引退式は中盤第7試合後に行なわれ、伊原信一代表をはじめ、6人の協会役員から記念品と御祝儀が渡され、松本哉朗の御挨拶とスポットライトを浴びてテンカウントゴング。役員と記念撮影をしてリングを下りました。その時間17分。前日の竹村哲引退式の約半分の時間だったのは、後半の試合を控えてのセレモニーで長引かせられない状況だったため。松本哉朗もその実績、その存在感から重みある引退式となりました。振り返れば多くの実績有る選手と対戦し、後悔無くリングを去ることが出来たようです。

またアトラクションとして古代ムエタイ演武が披露されました。「現在のスポーツ競技となる前の、古き時代のムエタイの原点となる技が芸術的に披露されました。

◆高橋勝次 vs 山田春樹 ──チャンピオンは防衛してこそ真のチャンピオン!

日本ライト級タイトルマッチ5回戦
チャンピオン.勝次(=高橋勝次/目黒藤本/61.2kg)vs 挑戦者同級3位.春樹(=山田春樹/横須賀中央/61.2kg)
勝者:勝次 / 3-0 (主審 椎名利一 / 副審 仲 50-48. 桜井 50.48. 宮沢 50-48)

勝次vs春樹、単発ながら緊迫感あり

先月の黒田アキヒロ(フォルティス渋谷)に逆転判定負けしたショックが心配された勝次でしたが、その影響は無く、しかし初防衛戦の追われるプレッシャーはあった様子で、試合は単発の攻防に盛り上がらず、勝ちに徹することを意識するあまり、見た目は不細工な試合になってしまいました。

「“チャンピオンは防衛してこそ真のチャンピオン”と藤本ジムでは言われているので、そのプレッシャーはキツかったです。」と試合後、勝次は語りました。

鴇稔之トレーナーとラウンドガールに囲まれる勝次

目黒藤本ジムで勝次を指導してきたトレーナーの鴇稔之氏も、自身が日本バンタム級チャンピオンになった1987年(昭和62年)7月以降、先代会長の野口里野さんに常に言われていた言葉がそれでした。

里野会長はキックボクシング創設者・野口修氏の実母で目黒ジム会長職を創生期から1988年5月に亡くなられるまで長く務めた人でした。鴇氏はその里野会長が残した、純粋なチャンピオンの義務を引継ぎ、指導してきたジムだけに、チャンピオンになってすぐ王座返上する者はいませんでした。

「次の防衛戦は倒しにいきますよ」と早くもV2宣言。「その上の目標は、チャンスを貰えるならラジャダムナン王座を視野に、与えられるものならWKBA王座も狙えればいいです。まず日本王座を防衛していかないと認めてもらえないので一つ一つ勝ち上がっていきます」とコメント。

対する春樹はランカー対決で星を落とすことも多かったですが、ライト級で地道に成長してきた選手。一発で倒すパワーは無いが若さと前蹴りから繋ぐパンチやミドルキックの突進力でまたタイトルに絡んで欲しい選手です。

◆江幡睦 vs ルークタオ・モー・タマチャート ──2016年に4度目のラジャダムナン王座挑戦を目指す江幡睦

54.0kg契約5回戦
WKBA世界バンタム級チャンピオン 江幡睦(伊原/53.3kg)vs ルークタオ・モー・タマチャート(タイ/54.0kg)
勝者:江幡睦 / TKO 2R 3:02 / ノーカウントのレフェリーストップ / 主審 仲俊光

ローキックでルークタオの動きを弱らせる江幡睦

目黒藤本ジム興行ながら、メインイベントに登場したのは江幡睦(伊原)。9月のWKBA世界王座奪回後、初試合でしたが、毎度攻略は難しい相手が来日する中、ルークタオはミドルキックが速く強く、崩し難い感じながら徐々に弱点を見つけ、ローキックが効いている様子が伺えると上下打ち分け、得意の左フック一発でボディを効かせ、倒して勝利しました。来年は睦にとって4度目のラジャダムナン王座挑戦へ向けて今度こそ失敗は許されないプレッシャーとの戦いになるでしょう。

新日本キックの“殿堂選手”緑川創(目黒藤本/70.0kg)は70.0kg契約3回戦で、スーパーバーン・ホーントーンムエタイジム(タイ/68.9kg)に3ラウンド1分9秒、TKO勝利。同じく“殿堂選手”石井達也(目黒藤本/63.2kg)は63.5kg契約3回戦で、成合SATORU(若松セキュリティ/62.5kg)に大差判定勝利しました。来年は江幡ツインズより先にムエタイ王座を狙うほどの飛躍して欲しい目黒藤本ジムコンビです。

1973年のプロスポーツ大賞は王貞治を抑えて沢村忠が受賞した!

ところで2015年のプロスポーツ大賞表彰式が12月25日に都内ホテルで行なわれました。キックボクシング界では功労賞をWKBA世界スーパーバンタム級チャンピオンの江幡塁(伊原)が受賞(昨年は江幡睦)。新人賞を日本バンタム級チャンピオンの瀧澤博人(ビクトリー)が受賞しました(昨年は翔栄)。

新人賞は各競技加盟団体から15名選ばれ、そこから最高新人賞が一人選ばれますが、キック界からはさすがに難しい壁となっています。キックボクサーがプロスポーツ大賞に輝いたのは1973年の王貞治氏を抑えて沢村忠氏が受賞した年のみです。いつの日かまた、プロスポーツ大賞と最高新人賞が獲れるメジャー人気とスターを生み出して欲しいものです。

松本哉朗が協会役員に囲まれて記念撮影

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」
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スカパンク竹村哲チャンプのラストファイト!渋さ日本一のキック団体NKB大和魂

大和魂シリーズvol.5 / 2015年12月12日 / 後楽園ホール17:30~21:30
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆竹村哲 vs マサ・オオヤ──ラストファイトを勝利で飾ったSNAIL RAMP竹村哲!

メインイベント67.0kg契約5回戦
NKBウェルター級チャンピオン.竹村哲(ケーアクティブ/44歳/67.0kg) vs? 同級8位.マサ・オオヤ(八王子FSG/41歳/67.0kg)
勝者:竹村哲 / TKO 4R 2:18 / カウント中のレフェリーストップ / 主審 前田仁

竹村は2002年に31歳でキックデビュー。同時に1995年結成のSNAIL RAMP(スネイルランプ)というスカパンク、メロディック・ハードコアのバンドでも活動中です。今年4月に元・全日本ライト級チャンピオン.爆椀・大月晴明に1ラウンドに左フックでブッ倒されるも、過去の対戦相手の中でも最強との試合はファンの記憶に残る好ファイトで価値を残しました。今回のラストファイトの相手は、過去に引分けていて自ら指名したマサ・オオヤ。対戦相手でありながら、40歳を超えた彼にも王座挑戦へ奮起して欲しい願いがありました。

スカパンク竹村哲チャンプのラストファイト!マサ・オオヤ戦

試合はスロースターター気味に徐々に詰める竹村ペース。第4ラウンドに入ってラッシュし、パンチ連打からヒザ蹴りで倒しました。

渡辺代表より労いの言葉で感涙!

「大怪我から手術とリハビリと3回も繰り返し、身体機能の低下から練習レベルが落ち、こんな姿をジムの後輩に見せて勘違いさせてはいけないと、現役引退を決意しました。自分のファイトスタイルは批判されることあるんですけど、渡辺代表からは、『それでいいんだ、それを貫けばいいんだ』といつも言ってくれました。」と試合後の引退式でコメント。

メインイベント最終試合後の長いセレモニーとなった引退式。かなり多くのファンが残って最後まで見守っていました。引退する選手を送るセレモニーとして、過去の対戦者、ジムメイト、連盟役員一人一人から御祝儀とメッセージが贈られた最後、渡辺代表の興行だけではない渋い声の御挨拶。昭和の旧・全日本キック世代(昭和44年~56年)を彷彿する存在だけあって“親父の威厳感”がありました。

ベイビーレイズJAPANが応援に駆けつけた!

しかし覚えてきたセリフを珍しく途中忘れた感じで「とりあえずお前はよく頑張ったな…。長い間御苦労さん」と苦笑いでいきなり自然な会話ぽく語りだし、前もって考えたセリフより温かみがありました。

竹村の挨拶中、運営係員のトランシーバーの通信音声が丸聞こえ、「引退式もいろいろあるなあ」と言ったり、「渡辺会長から貰った記念品の楯(写真入)、結構重いんすよ、けど遺影みたいで…」と笑わせた後、竹村はテンカウントゴングに送られました。

最後に記念撮影、音楽関係で友好関係あるベイビーレイズJAPANも応援に駆けつけていました。35分あまりのかなり長くなった引退式で、後楽園ホールから撤収作業を促されている状況の、31年に渡る渋い団体が竹村哲のキャラクターで皆がリズムを崩し、いちばん笑える引退式だったかもしれない、緊張感解れる締め括りとなりました。

連盟役員、各ジムオーナーと引退記念写真

◆高橋亮 vs 松永亮──高橋三兄弟で一番先にチャンピオンとなった次男・亮!

セミファイナル NKBバンタム級王座決定戦5回戦
1位.高橋亮(真門/53.5kg)vs 3位.松永亮(拳心館/53.0kg)
勝者:高橋亮 / TKO 4R 1:54 / 2度目のダウンでレフェリーストップ / 主審 川上伸

過去2勝している相手ではあったが、一発逆転の突進力を持つ松永だけに油断はならなかった。しかし、当て勘の良さと手足の長さを利しての伸びるパンチと蹴りは終始優位に進め、第1ラウンドに1度、第2ラウンドに2度ダウンを奪い、次第に松永から闘争心を削っていき、4ラウンドにも蹴りの連打で2度ダウン奪って圧倒して仕留めた。

三兄弟の中で一番先にチャンピオンとなった次男・亮。本人が語るように「これからがスタート、ここからが勝負」というようにチャンピオンとなってからは他団体チャンピオンと比較され、未知の強豪との対戦も回ってくる。まさにここからが亮にとっても、話題の三兄弟にとっても勝負の年でしょう。

高橋亮vs松永亮

◆2016年新春興行は2月7日後楽園ホールで開幕!

来年2月興行の主役たち、左から安田一平、折原陽子(11代目連盟マスコットガール)、石井修平、大和知也

新春興行は2月7日(日)後楽園ホール17:30開始で、竹村哲が返上した王座の、第13代NKBウエルター級王座決定戦、1位.石井修平(ケーアクティブ) vs 2位.安田一(SQUARE-UP)が行なわれます。ライト級で夜魔神(SQUARE-UP)に挑戦に敗れたあと、ウェルター級で竹村の後に続きたい石井修平と、夜魔神に続くSQUARE-UPジムからのチャンピオンを獲りたい安田一平の対戦です。

もうひとつの主要イベントはNKBライト級チャンピオン.大和知也(SQUARE-UP)が日本人相手8戦8勝(6KO)のWPMF世界スーパーライト級チャンピオン.ゴンナパー・ウィラサクレック(タイ)と対戦。今年の大和魂シリーズの主役でありながら苦戦が続いた大和知也の引き続く主役級大冒険となるカードです。この団体での久々の第一線級ムエタイボクサー登場に、それだけで驚きの感がありますが、興行運営3年目の小野瀬邦英体制の成果が年々上がってきている状況です。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち
◎ボクサー転向物語(2)キックボクシングからボクシングに転向した名選手たち
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語

大人気!!村田らむ『禁断の現場に行ってきた!!』命がけ潜入体験ルポ!実録漫画60ページ&ルポ49本!ジャーナリズムの真髄がここにある!?

 

ボクサー転向物語(2)キックボクシングからボクシングに転向した名選手たち

島三雄(目白=キック)は藤原敏男と並ぶ目白ジムの看板でしたが、長江国政(東洋パブリック→協同)とライバル的に全日本フェザー級王座を獲ったり獲られたりの後、1978年(昭和53年)にボクシングに転向しました。キックで100戦あまりの戦績でセンスあったものの、元々視力が弱く、長くは続けられませんでした。

1983.3.19 1.タイガー大久保vs丹代進

1983年(昭和58年)のキックが最も低迷した時期に活躍の場を求めてボクシング転向したのが、タイガー大久保(大久保貴史/目黒→北東京キング)。世間には情報が届きにくい時期のキックボクシングの画期的イベントの、前年に行われた1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場。勝者扱いを含む5戦を勝ち抜き優勝。その後、別ブロックの準決勝で去った松田利彦(士道館)にKOで敗れる波乱を起こすも、翌年、21歳でプロボクシング転向。ロイヤル川上ジムからデビューしましたが、キックで身についたアップライトスタイルからチェンジ出来ず大成はせず、単身アメリカへも渡りましたが、不利な条件が多く夢破れました。

2000.3.22.土屋ジョー

土屋ジョー(谷山→大橋)は1994年(平成6年)11月、21歳でデビューし、早くも1996年に全日本バンタム級王座奪取。数々のタイトルを獲得しつつ、2000年8月に大橋ジムからプロテストを受け、群を抜く経験値でプロテストは合格。伸び悩んだキックでの環境を変える転向でした。ボクシングでは4戦して2勝2敗。格闘技経験者の観戦によると、4戦目の敗戦は「アップライトスタイルで待ち構えているところにフットワークの速い相手にいきなり入られてストレートを打たれた感じで仰向けに倒れた」というキックスタイルでの癖は取れない感じのようでした。わずか1年あまりでボクシングを止め、キック復帰を果たし、2003年4月に再起戦を飾りました。

松田利彦(士道館)はキックで1978年(昭和53年)に18歳でデビュー。9連勝と活躍し、デビュー前からライバル視していたWKA世界フライ級チャンピオン.高橋宏(東金)に連勝を止められるも通算3戦して2勝1敗と差を離した後、一時的ボクシング転向という形でした。所属する士道館がIBF日本に加盟し、導かれるように1985年にボクシング転向、JBC管轄下ではない組織でしたが、1986年8月のデビュー戦で、IBF日本フライ級王座決定戦に出場、内田幹朗(大阪島田)をKOし王座奪取。1987年7月5日、韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦するも4ラウンドKO負け。4戦目というキャリアの浅さが露呈されました。その後、キックに復帰し、第4代MA日本フライ級チャンピオンに就いています。キックとボクシング両方で日本チャンピオンになったという点では松田利彦が初、ただしIBF日本王座。JBC管轄下の日本王座とキックの日本チャンピオンになったという点では田中信一が初、ただし1996年以降のキック界はそれまでより一層乱立が進み、国内王座の価値も1995年以前とは違いました。

1983.2.5 松田利彦vs丹代進

最近の新しいところでは、2012年(平成24年)9月に元・NJKFフライ級チャンピオンの久保賢司(立川KBA→角海老宝石)のキックからボクシング転向がありました。23歳でB級プロテストに合格後、同年11月9日のデビュー戦で、同年4月、亀田興毅に挑戦したノルディ・マナカネ(インドネシア)に判定勝ちを収める話題を作りましたが、今年8月に判定負けし、8戦4勝(2KO)3敗1分の戦績を残し、戦前から語っていた引退を表明しています。

2007.5.13 久保賢司 デビュー第5戦目の頃

先週掲載の稲毛忠治選手は笹崎ジムからデビューし、6戦ほどやりましたが、視力が弱くライセンス更新ができなかった模様で、キックボクシング転向、千葉(=センバ)ジムからデビューしました。

ボクシングへの転向はプロライセンスを取得するところから始まり、B級またはC級スタートとなります。キックへの転向はプロモーター主体の団体によっては出世の早い場合もありますが、それぞれが新天地での一から再スタートとなり、限られた選手寿命の中で、大成するとは限らない危険な懸けに出る決心になると思われます。下手すれば回り道になり、再起の道も経たれる場合もあります。新人のうちに転向するケースは稲毛忠治(笹崎→千葉)のように開花する可能性がありますが、円熟期を迎えてからの転向は癖付いたスタイルや、“間合い”といった距離感の違いも修正は難しいのかもしれません。転向してよかったか悪かったかは、ファンや関係者が絶賛批判するより、本人に悔いが残らなければ良い人生経験になったのかもしれません。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち
◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン!

ボクサー転向物語(1)ボクシングからキックボクシングに転向した名選手たち

「隣の芝生は青く見える」そんなキャッチフレーズがよく似合うスポーツ界の競技転向はよく聞く話です。ひとつの競技で引退勧告を受けたり、挫折したり、誘いを受けたり、止むを得ず転向を余儀なくされる場合など理由は様々でしょう。

ボクシングからキックボクシングに転向した選手も、またその逆のパターンも、過去多くの転向者がいました。昭和40年代にはキックボクシングのテレビ放映で「国際式ボクシングの経験のある〇〇選手……」という表現も多く使われました。そこで2週に渡り、それらの名選手を振り返り紹介します。今週はボクシングからキックボクシングに転向して活躍した名選手たちです。

2001.11.9 田中信一

高山勝義(木村→目黒)はプロボクシングで1966年(昭和41年)3月1日、22歳で世界フライ級王座決定戦に出場し、接戦の判定負けという経験を持つ実績も豊富な名選手でした。1970年に引退後、1972年9月のキックデビュー戦は引分け、4戦目で後の日本バンタム級チャンピオンとなる樫尾茂(目黒→大拳)には敗れ初黒星が付き、その後もパンチの強さで勝ち抜くも日本王座にはあと一歩届かなかった選手でした。

西城正三(協栄→東洋パブリック)は1968年(昭和43年)21歳でWBA世界フェザー級王座を奪取し、6度目の防衛戦に敗れてまもなく、キック転向は大きな話題と注目を浴びました。デビュー後順調な連勝も、1973年3月、全日本ライト級チャンピオン.藤原敏男(目白)には圧倒される内容で棄権敗北して引退。この一戦は暴動寸前の決着でかなり有名な試合でした。

金沢和良(アベ→東洋パブリック)も1971年(昭和46年)10月に24歳でWBC世界フェザー級王座挑戦し、チャンピオンのルーベン・オリバレス(メキシコ)との壮絶な試合は有名ですが、キックでは大きな実績はなく引退。その後はお寺の住職となって新たな話題となる転向でした。

田中信一(新和川上→山木)は23歳で「田中小兵太」のリングネームで1988年(昭和63年)7月、日本バンタム級タイトル獲得、2度目の防衛戦で敗れこの年の暮れ引退。キック転向後は「山木小兵太」や本名の田中信一で活躍し2001年11月、王座決定戦で吉岡篤史(武勇会)に判定勝利で第10代MA日本バンタム級チャンピオンとなりました。

2014.12.13 渡辺信久(日本キックボクシング連盟代表理事)

タイトル歴はありませんが、現在、日本キックボクシング連盟代表理事の渡辺信久(東邦→協同)氏は1966年(昭和41年)20歳の時、ボクシング試合でのダメージ蓄積から右眼網膜剥離を患って引退勧告を受け、その後、リングへの未練を残してキックボクサーとして転身。1968年12月デビュー後、8戦目でタイ人選手との対戦でまたも右眼を、ヒジ打ちによってダメージを受け右眼失明。今度ばかりは医者も「このままでは両目失明に至る」との宣告を受け、引退を余儀なくされました。1970年2月、若くして引退ながら翌月には24歳で渡辺ジムを設立、自らの夢を託し14人ものチャンピオンを育てました。

1983.9.18 稲毛忠治

ボクシングからキック転向し、開花したのは稲毛忠治(千葉=キック/デビュー当時は全日本系)。1971年(昭和46年)3月、19歳デビューで打たれ強くて倒れないオールラウンドプレーヤーで、売り出し中の富山勝治(目黒)に迫る急成長で、1973年(昭和48年)1月に一度は引き分けるも1975年1月には富山を1ラウンドKOで東洋ウェルター級王座を奪取しました。

他には、当時、全国的に名前の広まった乗富悦司(ミカド→目黒)をはじめ、無名どころまで、まだまだあると思いますが、一応の区切りとし、次週はキックからボクシングへの転向編です。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語
◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

強くなるためにタイへ行く!日本キックボクサー「ムエタイ修行」今昔物語

日本のキックボクサーがムエタイ選手の強さを追求し、追いつき追い越そうと、また日本人ライバルにも差を付けようとタイ本場のムエタイジムへ修行に向かい、厳しい環境の中で技術を学ぶ。その歴史はキックボクシング創生期から始まり、現在も続いています。

1980年以前は、海外へ渡航すること自体、困難な時代でした。海外を拠点とするビジネスマンでもなければ日本を離れることは無く、高額所得者でなければ航空券すら買えず、海外旅行は一般庶民には程遠く夢の時代。それでもチャンピオンクラスやその陣営の人たちは度々タイへ渡りました。

1988.9.21 ナ・ラーチャワットジム

◆80年代に始まった「強くなるためのタイ修行」

そんな時代も徐々に変化し、格安航空券なるものが当たり前に蔓延。更に円高が拍車を掛け、1980年代に入ると世間は海外旅行ブームに入っていきました。タイへ渡り試合を観てジムを見学する“ムエタイ観戦ツアー”なるものも増え、「タイへ修行に行こう」という志豊かな若者がドッと増えたのもこの頃でした。

そうなるとムエタイ業界にも影響が現れました。ムエタイ修行に向かう各国の選手。元々“お客様”を受入れる態勢など無かった奴隷のような男だけの汚いジムが、徐々に外国人受入れ態勢が出来ていったジムも相当数になると見られます。試合で稼いでくれるチャンピオンやランカーではない、練習費を払ってくださるお客様だけに、空港までの送迎、エアコンの効いた日本人(外国人)専用部屋、食事は不備の無い調理と冷蔵庫と浄水器のある設備、お湯の出るシャワー、女性練習生受入れ態勢も充実という練習以外の苦痛は無いと思える環境。

1988.9.21 ナ・ラーチャワットジム

◆2000年代からはオシャレでセレブなフィットネス系ムエタイジムが増加

2015.11 フィットネスジム

2000年代から観光化したムエタイジムに変貌していくジムも増えました。体験入門としての緩い練習内容の初心者コースもあり、今はほとんどプロ選手に限らず、一般学生やビジネスマンのタイ人も受入れ対応可能なジムが多くなりました。

タイの現在は、ある意味ムエタイブームで、ガラス張りの綺麗なフィットネスムエタイジムがたくさん出来て、ショッピングモールのテナントにヨガ&フィットネスジムと一緒にサンドバッグやリング設備があり、富裕層の女性が“ダイエットに最適”と通うことが流行っているようです。この辺はビジネス的に商売としてやっている傾向のジムで、選手の育成の概念が無いフィットネスムエタイジムと、稼げるチャンピオンを目指すプロムエタイジムは別物と考えなければいけません。

◆有力キックボクサーたちのムエタイ修行列伝

タイに渡ってキツイことは、ジムワークや南国特有の暑さだけではありません。外国人受入れ態勢の無い、はるか昔の汚いジムに単身乗り込んで行った日本人選手もたくさんいました。

1983年春、青山隆(元・日本フェザー級チャンピオン/小国=当時)氏は、バンコクに着いて、空港のタクシー運転手に、知人に書いてもらった英文字の住所の紙を見せ、英語のわからない者同士で片言の値段交渉。ジムに着いてもそのままタイ人選手の居る雑魚部屋へ通され、言葉が通じないことや、選手と輪を囲み、同じオカズに箸を進める食事も慣れるしかなく、練習も自分から皆の輪に入っていかないとミット蹴りも首相撲の相手もやってくれず、浄水器など無い濁った水道をタイ選手と一緒に生水をガブガブ飲んだり、それでも下痢は一度もしなかったという、普通の人では耐えられない環境。

1987年には、立嶋篤史(元・全日本フェザー級チャンピオン/習志野=当時)氏のデビュー前、彼はまだ中学を出たばかりの15歳の春、「タイは若いうちに行っておいた方がいい」という先輩の助言を信じ、両親にお願いしてタイ修行を決めたが、行くのは自分ひとり。彼にとっての苦難は練習よりも生活環境でした。潔癖症というほどではないが、生理的に受け入れ難い範囲ながら、雑魚部屋でゴキブリが出る、ヤモリが天井に這い、それが寝ていて視界に入る。床はコンクリート、茣蓙を敷いたり、薄いマットレスでは硬くて眠れるものではなかった状況。トイレは汚い便器で、排水の悪い水浴び場所と一緒。暑い部屋で、過去の日本人先輩方が置いて行った扇風機が一台あるのみ。更に悩ませられたのは食事。選手が輪を囲んで、市場で買ってきた何種類かの惣菜をそれぞれ器に入れ御飯を食べるが、みんなが一斉に同じ器にフォークやスプーンを運ぶ。辛かったり臭かったり、人によってはタイ料理やタイ米が美味しく、みんなでワイワイ言いながら食べる食事が楽しく感じるものが、彼には苦痛でした。タイ料理が口に合わず、日本から持っていったフリカケとインスタント味噌汁が毎日のオカズ。練習が休みとなる日曜日にはタクシーに乗ってバンコク中心街のセントラルデパートの日本料理店に駆け込んだという。更なる苦難は一人でマレーシアに行かねばならなかったこと。小学校卒業記念に貰った英和辞典を持って夜行列車に乗って24時間掛けての旅。当時の観光ビザは2週間以内がビザ無しで入国できる範囲。それ以上の滞在は一旦国外に出てビザを取り直す必要がありました。帰りはお金が無くてバンコク・ホアランポーン中央駅から20kmほどあるジムまで線路を歩いたという途方にくれる一人長旅となりました。

また立嶋選手が来る以前のこのジムでも日本人選手は幾人か修行に来ていましたが、手癖の悪いタイ選手が居て、平気で人の歯磨き粉を目の前で勝手に使ったり、身の回りの物は勝手に持ち出される。日本人から見れば相当頭に来る行為であり、喧嘩も絶えなかったと当時の日本人選手が語っていましたが、タイ選手の“盗った意識”の全く無い態度。これは育った環境の違いがあってのことでした。タイの田舎で育った者は、高床式で扉の無い家も多く、隣の家だろうが簡単に行き来し、家族のように互いに必要なものを使い合う、そんな習慣がバンコクのジムに来てもその癖が出る。タイ人同士でも、すべてが許される訳ではありませんが、そんなことも理解し妥協しなければならない面も多かったようでした。

◆練習以前の難題は劣悪な生活環境に打ち勝つこと

1990年に入って徐々にムエタイ修行の環境は変わっていきましたが、まだ古いジムもあり、かつてWBC世界ジュニアウェルター級チャンピオンだったセンサック・ムアンスリンが所属したムアンスリンジムにアポ無し入門したヤンガー秀樹(=当時/仙台青葉)氏は、ジム脇のトイレ横の窓もない倉庫のような部屋にタオルケット一枚で、コンクリート張りにシートを敷いた床に直接寝るので硬くて眠れないし疲れは取れない状況で、コンクリートのざらついた地面のジムでは足の裏の皮が60%も剥けて、寝てると蝿がガンガンタカる始末だったという。

2015.11 現在のプロのジム

このような体験談は、ムエタイの練習だけが修行ではない、あらゆる不便で不愉快な、不安な日々も忍耐力の修行の一部であったことの一例ですが、いずれの選手も図太い神経で乗り切った経験が後の人生でも活かされています。

今や外国人受入れ態勢の無い、昔ながらの環境劣悪なジムは、首都圏ではほとんど無く、あとは観光地とは無縁の田舎のジムに行かねばならないでしょう。強くなる、技術を習得するなら設備整ったムエタイジムでの修行が最適ですが、昔ながらの不便苦痛なムエタイジムの存在が懐かしく思える体験者との昔話です。

2015.11 現在のプロのジム

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」
◎キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」
◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち

 

7日発売『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

大塚隼人が引退し、ムエタイ王者がリングに上がった11.15「Kick Insist 5」

今年の新日本キックボクシング協会は、年間11回興行があり、興行はジム持ち回りですが、後楽園ホールだけで8回、定期興行において各チャンピオンが随時出場する安定した団体です。興行のひとつを受け持つビクトリージムは共催ながらリーダーシップを持って年1回のディファ有明で興行を打ち、「Kick Insist」という興行タイトルで東日本大震災復興チャリティーイベントとしての5年目を迎え、そのスケールも年を重ねる毎に大きくなってきました。
Kick Insist 5 / 11月15日(日)16:00~20:25(主催:ビクトリージム、治政館ジム / 認定:新日本キックボクシング協会)

◆元・日本ウェルター級1位の大塚隼人引退式

今回のイベントのひとつは、元・日本ウェルター級1位の大塚隼人(ビクトリー)が引退式を行ないました。2012年10月、当時の日本ウェルター級チャンピオン、緑川創(目黒藤本)に挑戦も3-0の判定負け。その緑川創選手が今回快くエキシビジョンマッチの相手となって対戦に応じてくれました。

大塚は試合から遠ざかり、“太った”という言い方は正しいとは言えませんが、ドッシリとした体格に変貌。悔いなくお互いが激しく打ち合いました。引退式は興行を開催するジム会長との信頼関係が伺える、最後の勇姿を披露させて頂けるリング。大塚は協会役員に囲まれ、伊原信一協会代表から労いの言葉を受けたセレモニーの後、引退テンカウントゴングを聴きました。

大塚隼人テンカウントゴング

大塚隼人もビクトリージム坂戸支部を任される立場となって第2の人生を歩み出しています。王座挑戦は2度。2014年7月には、緑川創が返上して王座決定戦となって、同級2位の渡辺健司(伊原稲城)に2-1接戦の判定負け。恵まれた環境で、入門からタイトル挑戦まで育ててくれた八木沼広政会長への恩返しを果たすため「絶対チャンピオンになります」と言って挑んだいずれの試合も敗れ去ってしまいました。

しかし、2010年6月には日本人キラーだった元ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオンのガンスワン・Bewell(タイ)をパンチでグラつかせると一気にノックアウト勝利し、2012年2月には過去にKO負けを喫した相手、元ラジャダムナン系ライト級チャンピオンのソーンラム・ソー・ウドムソン(タイ)に狙ったカウンターヒジ打ちで切ってリベンジTKO勝利。チャンピオンにはなれませんでしたが、これを超えなければ世界に行けないという“日本人の壁”となって立ちはだかったムエタイボクサー2人に貴重な勝利を挙げている大塚隼人選手でした。

大塚隼人EX緑川創

そんな中、日本人の壁の向こうにある本場の試合を披露しようと、ビクトリージムの八木沼会長が、頻繁にタイ国のムエタイジムを回り、選手を選抜して招聘された今回のビッグカードが実現。

◆メインイベント56.0kg契約5回戦

タイ国ルンピニー系バンタム級チャンピオン=クワンペット・ソー・スワンパッディー(タイ/56.0kg)
VS
タイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会バンタム級9位=ペップンソーン・ペッチンダー(タイ/55.4kg)

勝者:クワンペット・ソー・スワンパッディー / TKO 5R 1:44 / 主審.ノッパデーソン・チューワタナ(タイ)

現役ルンピニー系バンタム級チャンピオン.クワンペット

一流ムエタイボクサーの簡単には崩れないバランスいい体幹と技。その関節柔らかい蹴りの躍動感が美しく、ムエタイの神秘さが冴え渡ります。序盤は静かな展開から、ややクワンペットが好戦的に、日本人でもわかりやすいパンチと蹴りで次第に優勢に進めている印象。第4ラウンドには攻めの圧力が増していき、その勢い維持したまま第5ラウンド途中、レフェリーが突然試合を止め、クワンペットのTKO勝利を宣言。攻防の差がつき、ペップンソーンの勝ち目は無いと判断されてのストップ。日本では相当の劣勢にならないと止めず、ダメージが深くなければ最後までやらせるのが普通でしょう。タイでは実力均衡する対戦が多く、接戦を展開し、ギャンブラーを唸らせる試合が圧倒的ですが、“接戦”という範疇から外れ、試合を止めてしまう展開も珍しいことではないようです。「何で止めたのだろう」という疑問も残りつつ、タイからのレフェリーに対する抗議も無く、堂々としたレフェリー裁定に貫禄すら感じた観客の様子でした。

◆セミファイナル63.0kg契約3回戦

WKBA世界スーパーフェザー級チャンピオン=蘇我英樹(市原/62.8kg)
VS
元・ラジャダムナン系フェザー級6位=セーンアティット・ワイズデー(タイ/62.4kg)

勝者:セーンアティット・ワイズデー / TKO 3R 2:24 / 主審.桜井一秀

レフェリーが止めた後も諦めない蘇我英樹

5年連続のKick Insistに出場し、激戦を繰り広げる蘇我英樹は、第3ラウンドにヒジで切られてTKO負け。セーンアティットが一枚上手な蹴りと、蘇我の攻めを見透かす中、諦めない捨て身の攻めはいつもの蘇我。5月に爆椀・大月晴明に劣勢に立たされるも、倒すか倒されるかの好ファイトを展開して判定で敗れ、8月には元・ラジャダムナン系スーパーバンタム級チャンピオンのペッシーニ・ソー・シリラットにも激戦の末判定で敗れましたが、ムエタイ第一線級の倒しに来るタイプとの対戦を好む試合ばかり。激戦の末、倒して勝つことも多く人気を誇るが、現在はこれで3連敗と今後の巻き返しロードの展開が注目されます。

◆55.0kg契約3回戦

日本バンタム級チャンピオン=瀧澤博人(ビクトリー/55.0kg) VS チャンプアレック・ゲッソンリット(タイ/55.2kg)

勝者:瀧澤博人 / 3-0 (主審.椎名利一 / 副審.仲 30-27. 桜井 30-26. 和田 30-28)

瀧澤博人は200グラムオーバーで来たチャンプアレックに危なげない圧倒。来年1月には世界へ向けたビッグマッチが予定されます。

◆52.0kg契約3回戦

日本フライ級チャンピオン=麗也(高松麗也/治政館/51.8kg) VS クックリット・ゲッソンリット(タイ/54.0kg)

勝者:麗也 / 3-0 (主審.仲俊光 / 副審.椎名 30-27. 桜井 30-26. 和田 30-27)

麗也は2kgオーバーで来るクックリット・ゲッソンリットにパンチでダウン奪って判定勝利。倒しきれなかったことに不満の表情ではありましたが、2kgオーバー相手に圧勝。

ビクトリージムから出場した選手は6名で2勝3敗1分。ランカー以下は負けが多かったようですが、日本フェザー級3位.石原将伍(ビクトリー)は元・ルンピニー系フェザー級チャンピオンのナコンレック・エスジム(タイ)にKO寸前の計3度ダウン奪うも、ナコンレックも強いパンチで油断ならない捨て身の反撃あって大差判定勝ち。瀧澤博人と共に2人が勝利を挙げました。日本vsタイ国際戦としては3勝1敗でした。

◆『CHACHACHA』『LAMBADA』の石井明美さんがミニコンサート

休憩の合間にもうひとつのイベント、石井明美さんのミニコンサートで過去ヒット曲の『CHACHACHA』と『LAMBADA』を唄いました。テンポのいい曲とまたちょっと懐かしい曲に休憩時間ながら、観衆も聴き入っている人が多く、終わった後も拍手がたくさん鳴り響いていました。

「昔から、お父さんがキックボクシングを見ていて、テレビでは(私も)観ることあったんですが、こうやって実際にまさか自分がリングの中で唄えるとは。どのようなタイムテーブルになるのかなと見てみたら、唄う場所は“リングの中”と聞いてから気分が高まっています。」という石井明美さんでした。現在もテレビには昔ほど頻繁ではないですが、歌番組に出演されているようです。

石井明美さん初のキックのリングでミニコンサート

今年最後の興行は、12月13日(日)に後楽園ホールでの目黒藤本ジム主催興行、日本ライト級チャンピオン.勝次(目黒藤本)の初防衛戦、3位.春樹(横須賀太賀)の挑戦を受けます。先日のNO KICK NO LIFEで黒田アキヒロ(フォルティス渋谷)に逆転負けを喫した勝次のメンタル面と技術の建て直しがどういう展開に持っていくか興味ある一戦となります。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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キック新時代を牽引するRIKIXジムの「NO KICK NO LIFE」

“リキ”と“キック”を掛け合わせジム名にしたRIKIXジムの小野寺力会長が主催する「NO KICK NO LIFE」興行が通算で5回目を迎えました。

RIKIXジム「NO KICK NO LIFE」会場(2015.11.9)

メインイベントは62.0kg契約ノンタイトル5回戦で、日本ライト級チャンピオンの勝次(高橋勝次/目黒藤本/62.0kg)VS WPMF日本ライト級チャンピオンの黒田アキヒロ(フォルティス渋谷/62.0kg)戦。チャンピオンが多いと言われている中での日本の代表的立場同士の戦いはかなりの好カード。全8試合で全28ラウンドと観る側も疲れない、ほどほどの長さの興行で、2回目となる「TSUTAYA O-EAST渋谷」というライブハウスを利用した入場者数は今回平日でも約800人という超満員の来場。

キックボクシングとしては小規模ながら、こういう「客席がリングに近い会場」は今後も人気が上がりそうで、“土日祝日”に興行が重なる日、または平日の狭間を狙った小規模興行は、会社帰りのファンの足運びも考慮した時間帯で、帰り道でも飲食に困らない繁華街と交通の便がいい渋谷など主要駅のライブハウスの利用が予想されます。

◆“キックの赤い薔薇”小野寺力会長が生んだ「NO KICK NO LIFE」の世界

小野寺力会長の現役時代デビュー戦。山田浩に判定勝利(1992.11.13)。今日に繋がる第一歩を踏み出した日ともいえる

小野寺力氏は現役時代、“キックの赤い薔薇”というキャッチフレーズを持ち、キックの老舗の名門・目黒ジムに所属した歴代チャンピオンの中でも一番と言われるテクニックを持った元・日本フェザー級チャンピオン。まだ現役時代の2002年9月にライブハウスのSHIBUYA-AXで興行を打ち、メインイベントを務めるとともに興行運営に関わり、アイディアマンとなって現在に活かされています。

2003年11月にはRIKIXジムを大田区北千束(大岡山)に開設。2005年10月には自身の引退興行として大田区体育館で「NO KICK NO LIFE」を初開催。同年、ラジャダムナン系とルンピニー系のフェザー級王座統一を果たしたアヌワット・ゲオサムリット(タイ)にパンチの強打で2ラウンド3ノックダウンでKO負けを喫するも、最強相手を選んでの完全燃焼に更なる評価を得ました。

プロモーター小野寺力RIKIXジム会長(2014.2.10)

8年4ヶ月ぶり「NO KICK NO LIFE」開催となった2004年2月、大田区総合体育館で今度は後輩の、前・ラジャダムナン・スーパーライト級チャンピオンの石井宏樹(目黒藤本)がムエタイ4階級制覇のゲーオ・フェアテックス(タイ)とWPMF世界スーパーライト級王座決定戦で対戦。ハイキック一発で2ラウンドKO負け、2005年2月の第3回開催では、RIKIXジムから初のチャンピオンとなった愛弟子・田中秀弥が引退試合、シュートボクシングの代表的名チャンピオンのアンディ・サワー(オランダ)にハイキック一発で2ラウンドKO負けを喫しました。この完全燃焼しての引退は選手の理想像となり、今後も選手の感情を受け止め、その舞台に力を注ぐであろう小野寺会長です。

◆日本チャンピオン対決「高橋勝次 VS 黒田アキヒロ」戦は黒田が逆転勝利!

この日、メインイベントの日本チャンピオン対決は、勝次がパンチで先手を打ち主導権を握る。飛び蹴りも多発、勝次の攻勢が続くも第4ラウンドに入ると黒田のローキックが効いたか、勝次も手数が減る。黒田も簡単には崩れない強さがあるのだと感じさせるチャンピオンの意地。第5ラウンド終了が近くなる2分30秒あたりで、黒田の右ストレートが勝次のアゴを捕らえる展開逆転のダウン。残り少ない時間(20秒)では再び逆転も難しく、3-0(49-47、49-48、49-47)の判定で黒田アキヒロが逆転勝利を飾りました。

勝次(右)vs黒田アキヒロ(2015.11.9)
勝次(ダウン)vs黒田アキヒロ(ポーズ)(2015.11.9 )

「勝次は相手を見過ぎるクセがあり、そこを突かれる場合が多い」と言う目黒藤本ジム陣営。「チャンピオンなんだから、今更、事細かな基本を教わる立場ではない。それまでに教わったことを反復練習と、相手の攻撃を避ける練習を繰り返しやらないといけない。」という別の厳しい陣営の意見もありました。

新日本キックボクシング協会代表・伊原信一氏、目黒藤本ジムの藤本勲会長も並んで観戦。ステップアップして上のステージへ進みたい勝次への査定は厳しいものとなるかもしれないが、12月13日の目黒藤本ジム主催興行では、勝次の日本ライト級王座初防衛戦を同級3位の春樹(横須賀太賀)を相手に行なわれます。汚名返上へ、あと1ヶ月で、原点に返って立て直さねばなりません。

◆セミファイナル「前口太尊 VS 中尾満」戦は激闘の末、前口がKO勝利!

セミファイナル出場のJ-NETWORKライト級チャンピオンの前口太尊(PHOENIX)は、梅野源治が所属する強豪揃いのジム。マイク・タイソンから名前を肖り、一発で試合を終わらせるハードパンチを持つ。対する中尾満(元・日本ライト級暫定チャンピオン/エイワスポーツ)は、新日本キックで伊原ジムに所属していた2010年8月、石井達也(目黒藤本)との日本ライト級挑戦者決定戦で勝利し、後に暫定王座に昇格した経緯を持つ。

63.0kg契約5回戦で行なわれたこの試合、前口太尊が第2ラウンドにコーナーに詰めヒザ蹴り連打と更に右フックで2度ダウンを奪った後、中尾満が右フックで逆転のダウンを奪う。こういう展開は勝負がわからなくなる盛り上がりを見せるが、結局、再び前口太尊がロープに詰めヒザ蹴り連打をする中、レフェリーが止め、前口が第2ラウンド2分56秒、3ノックダウンによりKO勝利を収めました。

前口太尊(左)vs中尾満.最初のダウン(2015.11.9 )
前口太尊のマイクアピール(2015.11.9)

セミファイナルとメインイベントでの、逆転の攻防で締め括られ、ファンのボルテージも最高潮。(錯覚とはいえ)渋谷の街全体が盛り上がった印象でした。

全8試合中、RIKIXジムから4人が出場で1勝2敗1分。目黒藤本ジムから2人が出場で1敗1分。他はフリーのジムが中心です。来年はまた大田区総合体育館から始まる予定。どこの団体問わず、今度はどんなメンバーが揃うかも期待されます。興行も継続化され「NO KICK NO LIFE」も軌道に乗ったと言えるでしょう。

「NO KICK NO LIFE」のラウンドガールたち(2015.11.9)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル
◎新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち
◎群雄割拠?大同小異?日本のキックボクシング系競技に「王座」が乱立した理由

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ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

「ヒジ打ち無し、首相撲(首を掴んでの崩し)無し、3回戦」こんなルールが21世紀に入った頃から蔓延し、キックボクシング界はいま、本来のルールが曖昧になってきています。それが時代の流れと言われていますが、本家のムエタイは、長い歴史の中で基本的ルールの大きな変動はありません。その競技の在り方にキックボクシングとの確固たる違いが表れています。

◆1969年「投げ技禁止」──「キックの鬼」沢村忠はボディースラムでKO勝ちしていた!

昭和41年(1966年)設立当時の老舗、日本キックボクシング協会(日本系)ではルールの制約が少ない時代でした。禁止技はサミング(目潰し)、股間への打撃、噛み付き、ダウンした相手への攻撃、ロープを利用した攻撃、レフェリーへの反発など競技として当たり前の範疇。それが昭和44年(1969年)に全日本キックボクシング協会(全日本系)が設立されて、ここではムエタイ・ルールを参考にしたルールが確立され、投げ技が禁止されました(日本系は投げ技可能)。

日本ヘビー級チャンピオン(当時)の斉藤天心(目黒)は首投げでKO勝ち、日本ミドル級チャンピオン(当時)の渡貢二(モリトシ)はバックドロップでKO勝ち、東洋ライト級チャンピオンの沢村忠(目黒)はボディースラムでKO勝ちするなど、それらの試合はテレビで放映されました。いずれもプロレスラーがやるような見え見えを狙って高々と抱え上げるものではなく、組み合ったりもつれあったりの流れでの展開。元々は、日本人が強いムエタイに勝つにはキックボクシングの独自のルールが必要という考えから、「掴んで投げてしまえ」という発想があったものと言われています。

WKA世界ミドル級チャンピオン田端靖男、マーシャルアーツスタイルの試合(1983.5.21撮影)

◆1976年「頭突き禁止」──禁止技が増える一方で競技の在り方も成長

更に昭和51年(1976年)9月から、日本系で頭突きが禁止されました。やっぱりテクニックの凌ぎ合いとは違う、危険な衝突だろうと言われています。こうして日本のキックボクシングが経験を積み、禁止技が増え、競技の在り方が成長していったのでした。他、日本系はフリーノックダウン制(ひとつのラウンド中、何度ダウンしても立ち上がってくれば続行)、ラウンド間のインターバル1分。全日本系は3ノックダウン制(ひとつのラウンド中3度ダウンすればKO負け)、ラウンド間のインターバルは2分でした(因みに昭和47年〔1972年〕3月まで、2系列とも“全日本キックボクシング協会”という名称で、同年4月よりTBS・野口プロモーション系が日本系に移行。それまでのラウンド間のインターバル2分を1分に変更。他、主要ルールは上記どおり)。

◆1984年の団体統合でルールが統一されるも、1987年に再びルールは多様化へ

武藤英男(伊原/右)vs 鴇稔之(目黒/左)画期的統合団体の日本キック連盟初戦での初タイトルマッチは武藤英男が勝利、日本フライ級タイトルマッチ(同連盟認定)(1984年11月30日撮影)

その後の低迷期で分裂や別競技に転向など、バラバラな団体の時代を経て、昭和59年(1984年)に統合団体となって設立された日本キックボクシング連盟では、過去の各団体のルールから平均的な、また妥当なルールが決定しました。

主な点は、投げ技は禁止、ラウンド間インターバルは1分、3ノックダウン制。その後、昭和62年(1987年)7月、全日本系が復興。ここでは多様なルールが採用される時代になっていました。キックボクシングは基本ルールと呼ばれる当たり前のルールが存在しましたが、昭和52年(1977年)、旧・全日本系時代に、ベニー・ユキーデ(アメリカ)が初来日した頃からのアメリカで誕生したWKA(世界空手協会)はプロ空手ルール。1ラウンド2分の7回戦が基本的ローカルルールで、キックの5回戦に相当。長いパンタロン式のマーシャルアーツタイツを履き、1ラウンド中、腰より高い蹴りを8本以上蹴らないと減点ルールがありました(復興後からは国内では廃止)。これは、アメリカではボクシングが主流で、パンチだけの打ち合いの展開になりがちなことを防ぐ狙いがあったと言われています。更に、ヒジ打ちとヒザ蹴り禁止、足の甲にはパットの防具着用。骨が直接当たることが野蛮という解釈があるお国柄と言われています。昭和60年(1985年)には元日本ミドル級チャンピオンのシーザー武志氏がシュートボクシングを設立。投げ技も明確なポイントとなるルールでした。

鴇稔之(目黒/左)vs 赤土公彦(キング/右)=バンタム級MA日本vs全日本交流戦は引分け(1992年3月21日撮影)

キックボクシングとしてのヨーロッパルールは、顔面へのヒザ蹴りと内股へのローキックが禁止されていました。これは股間に当たる危険性を防ぐ狙いがあったと言われています。更にムエタイルールが重視され始めた頃で、蹴り技が重視される採点に移行されました。キックボクシング系競技の発祥がバラバラで、ルールも多様化は仕方ないところではありました。

◆1996年、「キックボクシングとは、打つ、蹴る、投げる」の野口発言で「投げ技」復活

平成8年(1996年)、今度は 日本系の復興。そこで創始者の野口修氏は復興記者会見で「キックボクシングは、打つ、蹴る、投げる、三拍子揃った競技」と発言。そこで困った顔をしたのが、それまで定期興行を前団体で担ってきた役員たちでした。「投げがあってはシュートボクシングになってしまう」と、何とかムエタイ式に「首相撲からの崩し」に表現を変えました。

日本系が活動を停止した昭和59年(1984年)までは、曖昧な時代で皆忘れがちでしたが投げ技は禁止されていませんでした。野口氏がそれ以来の業界復帰で、創始者として発言に間違いはないのですが、アメリカ路線を主張するブランクある野口氏と現状スタッフの間にギャップがあるのは仕方がないところでした。ただしその後、ムエタイ路線重視のため、1998年5月、伊原信一代表の新日本キックボクシング協会に移る運命を辿ることになりました(野口修氏はWKBA代表を伊原氏に任命するなど親密に友好関係を継続)。

ルンピニースタジアムでのムエタイ試合(選手名不明)(1993年9月撮影)

キックボクシングの流れが大きく変化したルール問題はここからで、これまでは競技の進化のなかで起こったルールの改革でしたが、ここからテレビのお茶の間重視の別イベント競技の影響を受け始めました。5回戦が3回戦に短縮されるルールが各団体で起こり、更に、ヒジ打ち禁止のルールも蔓延。ここで元祖ムエタイルールに顧みる動きもありつつ、どちらも容認する柔軟な形に変わっていきました。今や「ヒジ打ちなんて危ないじゃないですか」と平気で発言し、ヒジ打ち無しルールを選ぶ若い世代の選手もいるという、「キックボクシング競技も大きく変化したものだと諦めざるを得ないのか」と嘆く関係者もいるようです。

◆「ボクシング法」を有するタイの「国技」ムエタイが日本のキック界を変えていく?

こんな私的団体で成り立ってきたキックボクシング系競技に対し、本場タイ国の競技ムエタイは、公的機関が管轄する構築された組織が出来上がっており、1999年に施行された、「ボクシング法」という法律まであって見事な世界の様子です。

ムエタイルールによりワイクルーを舞う江幡睦(2015年3月15日撮影)

タイの格闘技は4つのカテゴリーがあり、1.プロムエタイ、2.プロボクシング、3.学校等主催の格技(アマチュアの範疇)、4.他種競技。上記3つに当てはまらないものは、4になり、スポーツ省傘下の競技委員会により審議され許可を得なければ開催できません。

ムエタイ試合でも公式ルールから外れるヒジ打ち無し、3回戦、ワンデートーナメントなどは、4の扱いになります。試合後、21日を経過しないと次の試合に出場は出来ず、KO負けの場合は30日の経過が必要になります。構築した競技ながら、律儀な日本人からみれば“ルーズなタイ人”と言われるお国柄では、「ルールを守らない、守る認識が無い、何とかなるだろう」などの甘い認識が普通で、主要スタジアムでの試合後、数日後に日本の試合に出場し、バレてタイで出場停止を受ける選手も多いようですが、徐々に、融通利かないルールだという認識は高まっているという声もあります。

日本のキックボクシング界もレフェリングに問題があった過去の経緯から、レフェリー協会なる組織も誕生し、どの興行でも公平に、反則に厳しく、早めのストップも取り入れ、当たり前の改革ながらも進化してきました。昔は、倒れた相手を蹴ったり、明らかな頭突きなどを黙認したり、審判サイドが選手陣営セコンドの抗議に屈したり、優勢な展開も50-50の引き分けだったりと、不可解な裁定も頻繁にあり、審議する機関も無く曖昧な世界でしたが、今ではかなり改善された状況です。

本場ムエタイの組織がレフェリー講習を開催するなどの活動も頻繁に行われ、本場ムエタイの存在が、日本のキックボクシングを率いて、共存共栄が続いています。今後の競技の発展がどう進むのか注目です。

リカ・トーングライセーン(センチャイ)=女人禁制のムエタイも大きく変わり、女子試合も活発に開催(2015年6月28日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

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