◆導かれた野口ジム

ブルース京田(本名=京田裕之/1960年6月30日、富山県富山市出身)は、プロボクシング日本スーパーフェザー級4位まで上昇。チャンピオンには届かなかったが、勝った試合はすべてノックアウトで、逆転も多いアグレッシブな展開で人気を得た。

 

現役時代のプログラムに載ったブルース京田のクローズアップ

リングネームはブルース・リーが好きだったことの影響が大きいが、観客から「お前、アレクシス・アルゲリョに似てるな!」と言われたことから「アレクシス京田」も考えたという。

「とにかく目立つ名前にしたかった。ブルースでいいかな!」と思い付いたネーミングだった(4回戦時代は本名)。

昭和の殺伐とした時代で口数少ない選手が多い中、ユニークな感性を持っていたブルース京田。小学校3年生の頃からプロレスを観てアントニオ猪木のファンになり、その頃のプロボクシングでは西城正三、大場政夫、ガッツ石松、輪島功一らの世界戦に感動したことや、キックボクシングでは富山県で沢村忠の試合も観戦し、控室まで忍び込んでも、快くサインをしてくれた感動から、将来はいずれかの競技を目指していた。

しかし、「プロレスはヘビー級中心だし、目指すなら小さい身体でも出来る階級制があって世界的に競技人口多いプロボクシングの世界チャンピオン」と決めた。

高校時代、富山ではボクシングジムは存在したが、野口ジムの元・プロボクサーだった地元の先輩に野口ジムを勧められていた為、高校卒業後、上京してジム入門する計画だった。その為、一年生から続けていた陸上競技で基礎体力を付け、1979年(昭和54年)3月、卒業するとすぐに上京、野口ジムに入門。

高校時代は具志堅用高が一世を風靡していた時代。その協栄ジムに行きたかったが、先輩に対し、そんな我儘は言えなかった。入門後、練習中の肩の大怪我で長期療養し、プロテストは少々遅れることとなったが、1982年(昭和57年)春、C級を難なく取得。スパーリング審査では右クロスカウンター一発、相手を1分ほどで倒してしまった。観ていた輪島功一氏には「お前凄いなあ!」と褒められたことが嬉しく、強烈に記憶に残っているという。

◆勝利への魔力

デビュー戦は同年7月6日、平野直昭(本多)に第1ラウンドにフラッシュ気味ながらノックダウン喫し、第3ラウンドで逆転ノックアウト勝利。スリルある展開はデビュー戦から見せていた。

東日本新人王スーパーバンタム級予選トーナメントは1983年9月2日、島袋朝実(帝拳)に3ラウンドノックアウトで敗れ予選落ち。当時、野口ジムでは萩野谷さんというトレーナーが居たが、重病を患い入院してしまい、萩野谷氏が不在となると練習生は誰も来なくなってしまった。

その後、退院した萩野谷氏が三鷹市にある楠ジムを任される立場になって移籍した為、ブルース京田も楠ジムに移籍することになった(後の楠三好ジム)。

新人王スーパーバンタム級トーナメント予選は島袋朝実に敗退(1983.9.2)

島袋朝実にKO負けの直後(1983.9.2)

移籍第1戦目は1984年8月2日、2度目の挑戦となった東日本新人王スーパーバンタム級トーナメント予選は、ランボー平良(京浜川崎)に第2ラウンドと第3ラウンドにノックダウン奪われた絶体絶命のピンチのインターバル中に野口ジム時代の先輩、龍反町さんがやって来て、「京田~!お前ふざけんじゃねえぞ、コラー!」とドスの利いたでっかい声で恫喝されたのが効いたか、第4ラウンドに逆転ノックアウト勝利。

楠ジムへ移籍第一戦目はランボー平良にKO勝ち(1984.8.2)

これで準決勝に進んで黒沢道生(鹿島灘)に敗れたが、ここまで7戦5勝(5KO)2敗。次戦は初6回戦だったが、スーパーバンタム級では減量がキツく、二階級上げてスーパーフェザー級でのB級6回戦スタートとなった。二階級上げるのはなかなか居ないが、フェザー級でもフラフラで、それだけキツかったという。

同年9月24日、初の8回戦でウルフ佐藤(日立/後のチャンピオン)と引分け。それまで4ラウンドを越えたことは無かったが、全然噛み合わない凡戦ながら初めて8ラウンド終了まで戦う貴重な経験をした。

同年12月5日、強打者・飯泉健二(草加有沢)に打ち合いで敗れた後、1986年7月14日は、これも強打者で、勝つも負けるもノックアウト決着の砲丸野口(川田)だった。この試合が決まる前、高校時代の友人だったテレビディレクターが企画した「今風ボクサーは目立ち屋さん」というテーマで、TBSのテレポート6での特集が組まれたが、いざ試合となった第1ラウンドに、二度ノックダウン奪われ、「テレビ企画どうなるんだろう?」とそちらに不安が向いてしまう試合だったという。

やがて砲丸野口が失速、第5ラウンドに逆転ノックダウン奪い、第6ラウンドに連打でノックアウト勝利して後日、友人プロデューサーから「番組の評判良くて電話が何本も入ってたよ!」と喜ばれたというこの勝利でランキング入りとなった。

更に1986年12月9日、前年度西日本ライト級新人王の久保田陽介(尼崎)も第6ラウンドで倒したが、1987年3月23日、元・日本スーパーフェザー級チャンピオンの安里佳満(ジャパンスポーツ)に第3ラウンド、ノーカウントのレフェリーストップ負け。安里は元・協栄ジムで名が売れた選手。メッチャ強く上手かったという。

安里佳満にノーカウントのレフェリーストップ負け(1987.3.23)

 

最後の勝利となった佐久間孝夫戦(1987.8.25)

◆ノックアウト必至の陰り

1987年、ランキング4位まで上がるも、同年10月22日、後に日本スーパーフェザー級チャンピオンとなる赤城武幸(新日本木村)に第5ラウンドのノックアウト負け。

ここから引退まで6連敗を喫してしまう。強打者とのハードな試合が続いたのは、マッチメイカーが持って来る依頼を断ったりすると試合が組まれなくなるから、三好渥好会長が全て受けてしまっていたようだ。

もう自分が描く動きが出来なくなっていた中のラストファイトは、1989年(平成元年)10月16日、高橋剛(協栄)に第1ラウンドのノックアウト負け。これで正式に引退を決意した。生涯戦績:20戦9勝(9KO)10敗1分。

「チャンピオンに届かなかったら1位も10位も全部負け組!」と語っていたブルース京田。引退後も汗を流すことが信条で、そんな青春の忘れ物を取り戻すかのように練習を続け、楠三好ジムと古巣の野口ジムには頻繁に足を運んでいた。

◆トレーナーとして開花

ブルース京田はデビュー前からキックボクサーと交流は深かった。その縁は、まだデビュー前の1981年7月当時、権之助坂にあったキックボクシングの目黒ジムが立ち退きになる危機があった。そこから路地を下った目黒雅叙園側にある野口ジムと合併になり、キックボクサーとの合同練習の毎日となった。当時は現役バリバリの伊原信一氏にはアドバイスを受けたり、食事に連れて行って貰ったりとお世話になったという。キックボクシングを勧められたのも言うまでもない。

引退間近、我孫子稔戦(1989.5.8)

野口ジムの他の練習生らはキックボクシングに興味は無かった様子だが、ブルース京田は元からプロレスファンだったり、小学生の頃、沢村忠さんに優しく接して貰った感動からキックボクシングに理解も深かった。後にはチャンピオンと成る鴇稔之や飛鳥信也らとは頻繁に食事に行ったり、キックボクシングの技を教わって練習したりと、彼らとの交流は長く続いていた。

そんな引退後の日々、目黒ジム野口和子代表から「力ちゃん(小野寺)を視てやって!」と指示を受け、パンチの指導が始まったことは新たな展開となった。他の選手も視ているうちトレーナーとして存在感が強まると、自分の練習時間は無くなり、指導一本の時間が増えていった。

選手らは皆礼儀正しく練習熱心だが、当時の新人の北沢勝は自ら「御指導お願いします!」と名乗り出て来て、教えたことをしっかり復唱して繰り返し、また疑問を問いかけて来る。この熱心さには、チャンピオンを獲らせてやりたくなる存在だったというブルース京田。実際に北沢勝が2002年1月に日本ウェルター級チャンピオンと成った時は自分のことのように嬉しかったという。

そうして選手を育てる達成感も積み重なってくると、声が掛かるのは目黒ジムだけではない、他のジムからも引っ張りダコ。トレーナーとして忙しくなる日々へ、ブルース京田の第二の人生は大きく移り変わっていくのであった。

トレーナーとして小野寺力を指導、目黒ジムで多くのキックボクサーを指導した(1995.12.2)

※写真はブルース京田氏提供

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年2月号

昨年もキックボクシング界の出来事は細かく見れば沢山ありました。しかし世間一般の方々に心響かせるニュースは、毎年のことながら少なかったと言えるでしょう。

そんな一年間、キックボクシング業界関係者、ファンの中では比較的インパクトあった話題をここだけの独断と偏見で纏めてみました。

◆重森陽太、本場ラジャダムナン王座初挑戦も奪取成らず

今年2月19日に、ラジャダムナンスタジアム・ライト級王座挑戦した重森陽太(伊原稲城=当時)、チャンピオンのジョーム・パランチャイに判定負けで王座奪取成らず。ポイントは僅差であっても、相手に優る駆引きの差は大きいムエタイの壁でした。

その翌月、新日本キックボクシング協会から伊原稲城ジムの脱退があり、重森陽太は脱退した稲城ジムからの離脱で、個人でもフリーとなりました。その後は主に「KNOCK OUT」に出場しており、今後の彼自身のビッグイベントに注目されます。

殿堂ムエタイ王座奪取成らなかった重森陽太(2023.2.19)

◆吉成名高はラジャダムナン王座二階級制覇と現地で初防衛

 

7月に殿堂王座二階級制覇した吉成名高(2023.11.26)

吉成名高が11月26日に1年ぶり2度目のジャパンキックボクシング協会KICK Insist出場。1年前と比べ、新たな実績が上積みされていました。

2018年12月9日のラジャダムナンスタジアム・ミニフライ級に続き、2019年4月14日にルンピニースタジアム同級王座をも奪取には、二大スタジアム同時制覇は初と言われた当時の快挙の後、昨年は7月9日にラジャダムナンスタジアム・フライ級王座奪取し、殿堂王座の二階級制覇は外国人として初快挙。

8月12日には本場スタジアムでKO初防衛と更なる快挙を達成。2001年1月8日生まれの吉成名高の今後は三階級制覇や日本でのムエタイの浸透、メジャー化を目指しています。その表れが今年の防衛戦や井上尚弥並みの複数階級への挑戦でしょう(“名高エイワスポーツジム”がリングネームですが、世間一般に伝わり易いように、ここでは本名にしてあります)。

◆武田幸三の新天地

昨年1月29日はジャパンキックボクシング協会の興行で、いつもの武田幸三氏の気合いが入るYashioジム主催の「CHALLENGER」興行でしたが、5月14日に予定されていた「CHALLENGER」興行は中止となっていました。

しかし、9月10日にはNJKFアマチュア部門の「EXPLOSION.38」に於いて、武田幸三氏が登場。ベストファイトに送られる「武田幸三賞」が復活していました。すでに察する情報はありましたが、10月に入って武田幸三氏はニュージャパンキックボクシング連盟にTAKEDAジムとして移籍加盟。その存在感は健在。

11月12日のニュージャパンキックボクシング連盟興行「NJKF 2023.5th」は「CHALLENGER」興行復活となって武田幸三氏にNJKFが乗っ取られたような興行の変わりようでした。2024年は2月11日から「本気でトップ狙って本気でトップの団体にしようと思っています。」と語った武田幸三氏主催の興行が続きます。

新天地で活動開始した武田幸三氏(2023.11.12)

◆“新団体”全日本キックボクシング協会誕生

2月19日の重森陽太が挑戦したラジャダムナン王座の興行後、伊原稲城ジムが脱退したことはすでに述べたとおりですが、「新団体を立ち上げる!」と言っていた栗芝貴会長。当初はフリーのプロモーターとしての活動かと思いましたが、実際に団体として8月に全日本キックボクシング協会を設立されました。

12月17日には稲城ジムでアマチュア大会を開催。すでに稲城、SQUARE-UP、JTクラブ、バンゲリングベイ、ウィラサクレック、MONKEY-MAGICといった知名度有るジムを含めた20軒のジム加盟が発表されていて、3月16日(日)には後楽園ホールで設立記念興行が開催されます。

この団体名は昭和40年代の創生期に、老舗の日本キックボクシング協会(TBS系)に対抗する形で存在した全日本キックボクシング協会(日本テレビ系、東京12チャンネル系)や、1987年(昭和62年)に復興する形で始まった全日本キックボクシング連盟とも直接的な関係は無い新団体となります。この名称、使えるのかなと思いましたが、引き継いだ人物がいないことや商標登録されていなければ問題無いと考えられます。

比較的歴史の浅いジムが多いことから新時代の展開が見られると考えられますが、どんな歴史を作り上げるか、設立興行から今後の運命が掛かるでしょう。

新生全日本キックボクシング協会発動

◆老舗を継承する新日本キックボクシング協会の今後

 

江幡塁が復活宣言(2023.10.15)

2019年の分裂とコロナ禍明けに稲城ジムが脱退し、5月に日本ライト級チャンピオン、髙橋亨汰(伊原)がジムと協会脱退。勝次(藤本)は先に発表済ながら10月15日の試合を最後に脱退しTEPPENジムに移籍。メインイベンタークラスが次々脱退が続く中、フリーとなった重森陽太が7月に新日本キックボクシング協会のリングで御挨拶に立ちました。

「今後の進路を迷っていた時に、伊原会長から『お前はキックボクシングを続けなさい。今迄頑張って来たのだから、お前の好きなようにやりなさい。』と激励の言葉を頂き、背中を押されました。」と語っていましたが、伊原信一代表の“去る者は追わず”、激励の言葉を掛けて送り出す姿には粋な計らいの印象が浮かびます。髙橋亨汰や勝次、栗芝貴氏にも同じ計らいだったと言えるでしょう。

ただ、これで新日本キックボクシング協会が、散々噂された崩壊へ繋がるとは思えません。立て直しへの兆しが10月15日興行で復活宣言した江幡塁の存在で、「僕は今後、新日本キックボクシング協会代表のもとで、選手育成を行なっていきたいと思っています。」

「新日本キックボクシング協会から世界を獲れるような強さ、そして自覚を持った選手を輩出していけるように力を尽くしていきます!」という言葉から読めて来るものが今年の興行に表れて来るでしょう。

◆東京町田金子ジム閉鎖とこの年引退した選手

前身は1972年(昭和47年)に創設された萩原ジムで、後にジムを引き継いだ金子修会長でしたが、その後は1987年の全日本キック復興の頃からチャンピオンが育ち、存在感も増していったかと思います。一昨年の千葉ジム閉鎖に続く、歴史あるジムの閉鎖は時代の流れ、世代交代を強く感じます。

東京町田金子ジムが閉鎖、金子修会長に花束贈呈(2023.4.16)

更にこの年、引退テンカウントゴングを聴いたのは2月11日の「NO KICK NO LIFE」興行で森井洋介、喜入衆、緑川創、4月15日のNKBでの笹谷淳、10月8日のジャパンキックボクシング協会での内田雅之がいました(確認出来る範囲まで)。

皆、長らくの現役に完全燃焼した姿。緑川創は目黒イズムを継承するかのように、その時戦える最強の相手、海人と対戦。完膚なきまで打たれ続け散った緑川創でした。内田雅之も体調の影響でラストファイトは王座決定戦での睦雅戦となりましたが、ボロボロになるまで5回戦を戦い抜いての完全燃焼でした。

完膚なきまで倒された緑川創に内山高志氏より労いの花束贈呈(2023.2.11)

森井洋介の引退テンカウントゴング、身体の故障でセレモニーのみだったが完全燃焼の現役生活だった(2023.2.11)

◆プロに繋がるアマチュアの存在感

アマチュアではWBCムエタイジュニアリーグ全国大会の存在も将来に繋がり、世界大会は2年に一度の開催として第2回が今年2月2日~5日、タイ・バンコクのルンピニースタジアムでの開催予定で、これがプロに繋がるステップとして注目が集まるでしょう。まずは2月の世界大会に注目です。

WBCムエタイジュニアリーグ全国大会から世界大会へ舞台は整った(2023.11.5)

◆ガルーダ・テツ東京進出のその後

テツジムが目標だった6人目チャンピオン誕生には繋がっていませんが、NKBでのタイトルマッチが停滞している中では無理があったでしょう。12月16日に棚橋賢二郎を破ったばかりの勇志は今年、フェザー級王座争奪トーナメントに出場予定でチャンピオン有力候補。一昨年から続く、日本列島テツジム計画は着々と進行中でしょう。

思い付くままの回顧録でしたが、今年も幾つも新たな展開が見られるでしょう。それが世間一般の人に少しでもインパクトを与えるなら、吉成名高が目指す日本でのムエタイメジャー化、武田幸三氏の言う「自己主張がしっかり出来る人間、目標が明確な人間、本気でキックボクシングに命を懸けている人間が勝ち残るリングへ」という意識向上へ、キックボクサーを大舞台に立たせる計画へ繋がることでしょう。

また今年の一年を振り返った際、業界の前進・飛躍が見られることに期待致します。

日本列島テツジム計画中のガルーダ・テツ会長とデビュー戦を終えた期待の新星・中山航輔(2023.12.16)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

テツジムからは東京2名、大阪4名、岡山1名合わせて3勝3敗1分。勇志が棚橋賢二郎破る飛躍の圧勝。

◎野獣シリーズ FINAL(Vol.7) / 12月16日(土)後楽園ホール17:30~21:08
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第14試合 59.0kg契約 5回戦

NKBライト級1位.棚橋賢二郎(拳心館/1987.11.2新潟県出身/ 58.65kg)
23戦11勝(7KO)11敗1分
        VS
NKBフェザー級3位.勇志(テツジム大阪/2000.4.28大阪府出身/ 58.8kg)
12戦9勝(4KO)2敗1分
勝者:勇志 / TKO 3ラウンド 13秒
主審:前田仁

NKBフェザー級トーナメントに繋がる試合である。

「棚橋は攻撃力あるがディフェンスに難あり」と言われていた前評判。

スピードあるサウスポーの勇志がパンチで先手を打って出た後、強い左ミドルキックが棚橋のボディーにズバッとヒット。更にパンチからの左ミドルキックは完全に主導権を奪った勇志。左ヒジ打ちから右フックでノックダウンを奪う。

更に勇志のパンチ連打から左ハイキックでインパクトを与え、縺れ合った中、勇志の左フックで2度目のノックダウンを奪う。

第2ラウンド、棚橋も巻き返しに掛かるが勇志の勢いを止められず、再び勇志が強い左ミドルキックでインパクトを与え、左ローキックでノックダウンを奪う。更にローキックでダメージを与えて棚橋が前かがみになったところで右ローキックから左ストレートでスタンディングダウンを奪う。

勇志の鋭い左ミドルキックが棚橋賢二郎のボディーに度々ヒット、インパクトを与えた

第3ラウンド、勇志がローキックで攻め、棚橋がパンチで出て組み付いたところで首相撲の形からヒザ蹴り連打した勇志。棚橋陣営からタオルが投げ込まれたが、レフェリーの背後で、勇志陣営のセコンドが相手陣営のタオル投入を訴えたか、レフェリーの独自の判断か、試合を止めレフェリーストップとなった。

勇志は「今日の試合は完璧でしょう。全部倒せる技を身に着けていたので、相手の攻撃も全部見えていて、貰っても怖くなかったですね。」と応えた。

勢いに乗った勇志がパンチ、ヒザ、ヒジ、飛び蹴りも見せた

◆第13試合 62.0kg契約 5回戦

横山典雄(元・聖域統一60kg級C/不死鳥道場/1986.5.13新潟県出身/ 60.8kg)
9戦7勝(4KO)2敗
        VS
NKBライト級5位.蘭賀大介(ケーアクティブ/1995.2.9岩手県出身/ 61.95kg)
8戦5勝2敗(3KO)1NC
勝者:横山典雄 / 判定3-0
主審:高谷秀幸
副審:笹谷49-46. 亀川50-46. 前田49-47

初回、蘭賀大介がローキックから前蹴り、ハイキックなど蹴りからパンチでやや攻め手が多いも終了間際にやや強い横山の右ストレートを貰ってしまう。

第2ラウンドも蘭賀大介がローキックからパンチの流れも終盤、横山の右ストレートで蘭賀はノックダウン喫するがラウンド終了。ダメージは無いが、横山が主導権を奪った。

第3ラウンド、攻防激しくなるがローキック中心に高い蹴りも牽制。パンチの攻防が増えて行くが第4ラウンド、激しくなるパンチの打ち合いで、やや蘭賀が盛り返し連打で追うが、両者とも精魂尽き果てた表情。これが5回戦で見られる本来の姿。

激しくなった打ち合いの横山典雄と蘭賀大介

最終第5ラウンドも蹴りからパンチへ繋げ、打ち合いはやや蘭賀が持ち返したかと見えたが、横山のヒットも目立って互角。互角に蹴りとパンチの交錯が続いて終了。

打ち合ったダメージがやや心配な両者の脳への影響も、蘭賀大介はしっかり試合展開を覚えていて、「1ラウンドは蹴りを当てて、2ラウンドも蹴りを当てていたんですけど、右のパンチ貰ってダウンして、3ラウンドぐらいから蹴りが当たらなくなってパンチで行ったらあんな感じになちゃっいました。」と振り返った。

横山典雄の右ストレートで蘭賀大介がノックダウンを喫する

◆第12試合 60.0kg契約 3回戦

NKBフェザー級4位.矢吹翔太(team BRAVE FIST/1986.8.2沖縄県出身/ 59.65kg)
16戦10勝3敗3分
        VS
KEIGO(BIG MOOSE/1984.4.10千葉県出身/ 59.95kg)
22戦7勝9敗6分
引分け 1-0
主審: 鈴木義和       
副審:加賀見30-30. 笹谷30-30. 前田30-29

前回対戦した2月は矢吹翔太の首相撲からのヒザ蹴りがやや上回って判定勝利ながら、大差は付かない噛み合わなかった試合で、「組むんだったら倒しに行け!」と、ヒザで倒すか絶対打ち合うことが条件の試合と言われていた。下手な試合したら暫く試合組まれなくなる脅しもある中、前回より両者積極的だったが決め手を欠く展開の引分け。矢吹翔太がもっと圧倒していかねば合格点は難しいだろう。

打ち合うことが条件。しかしインパクトあるヒットは少なかった

いきなり飛んだ半澤信也、気が抜けない得意技を持っている

◆第11試合 フェザー級 3回戦

半澤信也(team arco iris/1981.4.28長野県出身/ 57.05kg) 29戦11勝(4KO)14敗4分
         VS
堀井幸輝(ケーアクティブ/1996.11.7福岡県出身/ 56.75kg) 4戦2勝1敗1分
勝者:半澤信也 / 判定3-0
主審:亀川明史
副審:前田30-29. 高谷30-29. 鈴木30-29

初回、ローキックからパンチ中心の攻防。動きはあるがヒットにインパクトが無く差は出ない流れ。第2ラウンドに半澤信也のいきなりの飛びヒザ蹴り。半澤にはこれがあるから油断ならないがヒットせず。手数優った半澤信也がやや優勢維持し、各ラウンド、僅差の振り分けながら半澤信也が勝利を導いた。

◆第10試合 54.0kg契約 3回戦

牧野亮佑 -無所属-(1990.07.24栃木県出身/ 53.95kg) 10戦5勝5敗
        VS
シャーク・ハタ(テツジム東京/1987.10.20大阪府出身/ 53.4kg) 9戦4勝4敗1分
勝者:牧野亮佑 / 判定3-0
主審:笹谷淳
副審:前田30-26. 加賀見30-28. 高谷30-28

初回から牧野亮佑のサウスポーからの左ハイキック、パンチ、先手の攻めがインパクトを与える。

第3ラウンドにシャーク・ハタの右ストレート打ち終わりに合わせて牧野が左ストレート打ち込むとクリーンヒットし、シャーク・ハタがノックダウンを喫する。時間は少なく逆転狙ったシャーク・ハタは巻き返せず終了。

牧野亮佑の左ストレートを、うっかり貰ったシャーク・ハタがノックダウン

ちさと(右)が何度も当てたヒジ打ちでコウキの左目辺りが腫れ上がっていった

◆第9試合 62.5kg契約 3回戦

NJKFスーパーフェザー級8位.コウキ・バーテックス
(VERTEX/1997.9.20栃木県出身/ 62.3kg) 11戦4勝6敗1分
        VS
ちさとkiss Me!!(安曇野キックの会/1983.1.8長野県出身/ 62.25kg)
38戦7勝(2KO)28敗3分
勝者:ちさとkiss Me!! / TKO 2ラウンド1分37秒
主審:亀川明史

初回、蹴りからパンチの静かな攻防も組み合いに移り、ちさとのヒジ打ちがコウキの左目上辺りをヒット。更に密着したまま身体を預けて転ばし、打ち合いたいコウキだが、ちさとの組み付きに手を焼く。更に打ちこむヒジ打ちをしつこく続けたちさと。一旦離れても更に組み合ってヒジ打ち。コウキの左目瞼から眉上まで腫れ上がる。

第2ラウンドも、ちさとは組み合いコウキのコブにヒジ打ち叩き込む。コブは腫れが酷くなってドクターの勧告を受け入れたレフェリーストップとなった。ちさとのヒジ打ちは切りに行くヒットではなく、ゴツゴツ当てるヒジ打ちで、コウキの目が塞がりかけた為のストップとなった。

◆第8試合 55.0kg契約 3回戦

香村一吹(渡邉/2007.2.22東京都出身/ 54.7kg) 3戦3勝(1KO)
        VS
兵庫志門(テツジム大阪/1996.4.14兵庫県出身/ 54.65kg) 12戦4勝(1KO)6敗2分
勝者:香村一吹 / TKO 3ラウンド35秒
主審:加賀見淳

渡邊ジムとして期待の16歳高校生キックボクサー。パンチからローキック、時折ハイキックを放つ香村一吹。戦歴で上回る兵庫志門が圧倒するかと思われた初回は香村が勇敢に攻め、迎え撃った兵庫志門。互角の展開だが、香村の善戦が目立つ。次第に兵庫志門が勢い付いてきた感はあるが、香村は蹴られたら蹴り返し互角を保つ。
第3ラウンドに香村が蹴りから組み合うタイミングで右ヒジ打ちをヒット。左眉上を切った兵庫志門。パンチからヒザ蹴りに出て行くがドクターチャックが入り、そのままドクターの勧告を受け入れレフェリーストップとなった。香村は3連勝。渡邉ジムでは来年も頼もしい存在となるだろう。

香村一吹が積極的に攻める、地味ながらしっかり技を持っている

◆第7試合 54.0kg契約 3回戦

幸太(八王子FSG/1998.3.19山形県出身/ 53.85kg) 6戦1勝5敗
         VS
滑飛レオン(テツジム岡山/2004.12.23岡山県出身/ 53.8kg) 6戦4勝(3KO)1敗1分
勝者:滑飛レオン / KO 1ラウンド51秒 / 3ノックダウン
主審:笹谷淳

◆第6試合 ライト級 3回戦

須藤誇太郎(フジマ/2001.8.12神奈川県出身/ 61.1kg) 6戦4勝(1KO)1敗1分
        VS
龍志(テツジム大阪/1995.12.12大阪府出身/ 60.6kg) 4戦1勝3敗
勝者:須藤誇太郎 / 判定3-0
主審:高谷秀幸
副審:鈴木30-25. 前田30-25. 笹谷29-26

◆第5試合 ライト級 3回戦

辻健太郎(TOKYO KICK WORKS/1984.3.13東京都出身/ 61.05kg) 4戦2勝(1KO)2分
        VS
津田宗弥(クロスポイント吉祥寺/1980.1.8神奈川県出身/ 60.95kg) 2戦1勝1敗
勝者:辻健太郎 / 判定3-0
主審:加賀見淳
副審:亀川30-29. 前田30-29. 笹谷30-28

◆第4試合 女子51.5kg契約 3回戦(2分制)

RUI・JANJIRA(JANJIRA/2000.11.5東京都出身/ 51.1kg) 3戦1勝2敗
        VS
足立麻衣子(ワンサイド/1996.4.4長野県出身/ 51.45kg) 4戦4敗
勝者:RUI・JANJIRA / 判定3-0
主審:鈴木義和        
副審:前田30-26. 亀川30-26. 高谷30-26

◆第3試合 ウェルター級 3回戦

安田学登(TEAM Aimhigh/1995.9.14群馬県出身/ 66.45kg) 8戦1勝7敗
        VS
健吾(BIG MOOSE/1993.10.10千葉県出身/ 66.35kg) 3戦2勝1敗
勝者:健吾 / 判定1-2
主審:笹谷淳
副審:前田30-29. 亀川29-30. 加賀見29-30

◆第2試合 ミドル級 3回戦

TOMO JANJIRA(JANJIRA/1992.1.12京都府出身/ 72.5kg) 3戦2敗1分
        VS
木戸翔太(テツジム大阪/1983.2.4大阪府出身/ 71.95 kg) 2戦1勝1分
引分け 1-0
主審:高谷秀幸
副審:鈴木30-29. 亀川29-29. 笹谷30-30

◆第1試合 58.0kg契約 3回戦

岡部惇(アント/1993.10.20岡山県出身/ 57.9kg)1戦1敗
        VS
中山航輔(テツジム東京/2002.10.13香川県出身/ 57.6kg)1戦1勝
勝者:中山航輔 / 判定0-3
主審:前田仁
副審:鈴木26-30. 笹谷28-30. 加賀見28-30

イッセイ会長と勇志、応援旗を掲げたトレーナーと勝利のポーズ

《取材戦記》

ガルーダ・テツ会長は「テツジム7名は良いところも悪いところもあったが、皆よく大阪も岡山も頑張ってくれた。中山航輔はデビュー戦ながら粘ってノックダウン奪うし良かったな」といきなり振った質問にも応えてくれました。練習で厳しく、試合前も険しい表情だが、試合終われば優しいコメントに移るのは毎度のことかな。
棚橋賢二郎を破った勇志はフェザー級王座争奪トーナメントに出場予定でチャンピオン有力候補でしょう。更に棚橋賢二郎とのタイトル(たぶんライト級)を懸けたリマッチも視野に入れている模様。NKBでの世代交代も進んでいるなと感じる勇志の存在である。

テツジム大阪の兵庫志門にヒジ打ちで勝利した香村一吹は2月のデビュー戦と6月の第2戦目も判定勝利だが、ノックダウン奪っての勝利で、今回はヒジ打ちTKO。何か秘策持ってるな香村は。「これが当たれば絶対勝てる」といった技があれば強い。次戦は更なる上位と対戦になるだろうが、来年の注目株である。

2024年の日本キックボクシング連盟興行は、「冠鷲シリーズ」として、
2月17日(土)後楽園ホール
4月20日(土)後楽園ホール
6月29日(土)後楽園ホール
7月28日(日)大阪176BOX、NKジム・テツジム2部制興行
8月10日(土)新潟万代島多目的広場大かま、拳心館興行
10月19日(土)後楽園ホール
12月14日(土)後楽園ホール
以上が予定されています。

「冠鷲」は何と読むのか。うっかり読めなかった私。日本では沖縄地方に少数生息し、特別天然記念物となっている“カンムリワシ”。昭和時代だったら読めたのに。字が読めたかより具志堅用高氏のキャッチフレーズだったから読めただけでしたけど。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

◆丈夫会(ますらおかい)とは?

格闘群雄伝第2回に登場して頂いた元・日本ライト級チャンピオン飛鳥信也氏に、「ここにまだ目黒ジムの原点が残っているよ!」とお聞きし、先日お伺いしたのが創価大学キックボクシング部・丈夫会でした。

飛鳥信也氏は現役引退15年後の2011年に筑波大学大学院に入学し、スポーツマネージメントを学び、選手の心のケアに重点を置いた研究を続けました。2013年に筑波大学大学院で修士号も取得。自らアマチュア版キックボクシング数々の大会に出場し、還暦を過ぎても実戦しながら論ずる指導者を続けています。

その飛鳥信也氏が師範を務める丈夫会では、12月9日に35年続いている(コロナ禍を除く)という第53回昇級昇段審査会が行われました。

1年生、川越勇輝のミット蹴りによる技量審査

口頭試問を受ける川越勇輝

空手部としては全国の大学・高校に存在し、諸々の大会が各地で行われていますが、キックボクシング部としては創価大学、東海大学、日本大学、拓殖大学、中央大学、専修大学、明星大学、東洋大学などに存在し、1972年(昭和47年)設立の全日本学生キックボクシング連盟選手権大会で、創価大学は過去8回の団体優勝。その丈夫会は創価大学キックボクシング部の名称で、“丈夫”は三国志から由来する“勇気のある強い男”を意味します。

飛鳥信也氏が現役時代、「青春を完全燃焼したか不完全燃焼で終わったかで、大いなる人生の分岐点がある。」という持論を掲げていましたが、その完全燃焼とは、1988年1月、越川豊(東金)から王座奪取した際、チャンピオンベルトを持って、創価大学創立者・池田大作名誉師範を訪問したところ、「あしたのジョー」の「真っ白な灰に燃え尽きるまで戦うんだ」というストーリーを例に激励・指導してくださった文言で、その池田名誉師範の教えが直結する丈夫会であると語られています。

緊張を解す大地フォージャーの語りがあった

◆昇級昇格口頭試問審査が厳しい

この日に行われた、通常半年に一度の審査会の段級は四級、三級、二級、一級、初段があり、コロナ禍を挟んだ為、4年ぶりの今回、審査を申し込んだのは1年生4名。コロナ禍前は10名程居た様子。

実技審査はシャドウボクシング(1ラウンド/3分)での基本動作と、パンチと蹴りのミット打ち(1ラウンドずつ)での技量審査、実戦力と総合力を見るスパーリング(1ラウンド/2分)が行われました。

これだけでも日々の地道な練習の積み重ねが必要ですが、丈夫会特有の精神性を問う口頭試問は、審査に通る為だけの勉強では通過出来ません。実技練習と同じぐらいの時間を通して丈夫会宣言にある三つの項目と、その在り方を把握して身体に沁み込ませておかねばなりません。これが筆記試験とは違う、他校には無いであろう飛鳥信也師範オリジナルの、現役時代さながらの縦横無尽な質疑が待っていました。深層心理を抉り、自ら気付き、自らの行動を促すというアスレチック・カウンセリングマインドを駆使した審査でした。

飛鳥氏よりいきなり大地の奥様に質問を任せた為の方向転換、垣野隼人への質疑応答

キューバからの留学生、フラビオ選手。肩の脱臼で口頭試問のみだがパンチが強い選手

丈夫会宣言第一項には、「我々丈夫会は、丈夫の心を以って人間練磨に励み、この青春を完全燃焼していきます。」と掲げられています。

「宣言第一項の中で、いちばん心に留まる言葉は何ですか?」の飛鳥氏の問いに、「“完全燃焼”の言葉が心に残ります。」と応えた受審者。そこから「この宣言に“完全燃焼”の文言が有るのは何故ですか?」というプレッシャー掛ける問いに繋がった。

「青春のある時期に一つのことに打ち込んで前後の見境なく全てを費やしてやり切る。やり切った極地の言葉が完全燃焼。その完全燃焼することが、その後の人生の大きな分岐点となる。」

悔いを残さぬ学生生活で、その後の人生での飛躍へ、その大学生の最終イベントは就職の面接。そこで活かされるように、審査は実力向上の為に、あらゆる角度から質疑に掛かる。回答に惑い苦戦する受審者もそれぞれの思考を廻らし応えるのもまた良い経験値となったでしょう。

ゲスト審査員として招聘されたのは、創価大学出身で現・ジャパンキックボクシング協会ウェルター級チャンピオン・大地フォージャー(=山本大地/誠真)でした。

大地は「学生時代にキックボクシング部に見学には行ったものの入部していませんでした。」と語り、その心残りをプロデビューに向けた想いと、学生時代で悔いを残さないよう完全燃焼することの重要さを語られました。飛鳥師範のような厳しい突っ込みは無いものの、プロの目から見た意見は的確なアドバイスでした。この日、丈夫会名誉会員に任命された大地フォージャー。これからも指導に訪れる立場となった。チャンピオンとして今後もより一層試合一つ一つが完全燃焼である。

ゲスト審査員、大地フォージャーがスパーリング指導を務めた

大地フォージャーからプロ目線のテクニックを語った

◆キックボクシングの原点とは?

飛鳥信也氏が現役時代、目黒ジム入門当時から見た練習風景は、野口里野会長がジム出入り口にある会長席に座って、口癖のようにリングに向かって毎日毎日叫んでいたという。

「ジャブを打ちながら左に左に回るんじゃよ!」
「止まったらいかん、動いて動いて!」
「前後前後、上下上下、下から打った方がいいんじゃよ!」
といった声が響いていた。

実戦力と総合力を見る太田勇樹のスパーリング、相手はコーチが務めた

元・日本ライト級チャンピオンの飛鳥信也師範。未だ実戦と研究と指導の日々

里野会長とはライオン野口という昭和初期の日本ウェルター級チャンピオンだった野口進氏の奥様。キックボクシング創始者・野口修氏の母親である。

練習生は皆、「野口おばあちゃんがまた何か言ってる!」と適当に聞き流し、自分なりの練習をやっていたという。

里野会長も若い頃からボクシングの現場を見て来た人。考え方は古くても知識は持っていたのである。その里野会長の言葉を素直に聞いて忠実にやっていた飛鳥信也は、やがて縦横無尽に動いて、どんな角度やタイミングでのパンチや蹴りが出るか分からない「動きが読めない広角殺法」を導き出しチャンピオンに上り詰めた。

それは目黒ジムの原点、野口家の直属の教えを伝授され継承し、その指導を続けているのは飛鳥信也が指導する創価大学の丈夫会で、日本のキックボクシングの原点がここにあるという。

◆飛鳥信也の戦い

12月17日には稲城ジムでのアマチュアキックボクシング大会に出場した飛鳥信也。熊田真幸(SQUARE-UP)と1ラウンド(1分制)で引分け。開始早々やや圧されながら打ち返して挽回した模様。次は来年2月18日、総合アマチュア大会XSTREAMにエントリー中という。

野口里野会長は1988年5月に永眠し、2016年には野口修氏も永眠。時代の節目を感じる中、野口家の教えは飛鳥信也氏が担っている。野口里野会長から教わったフットワークから、答えを導き出した縦横無尽の広角殺法のように、学生が自分で答えを導き出す指導は昇級審査でも活かされていた。今回の丈夫会昇級審査はまだ初心者レベルで、飛鳥信也氏の広角殺法には及ばないが、キックボクシングの淵源は無くならないと感じさせられる指導でした。

現在と過去が入り混じる丈夫会。私(堀田)も目黒ジムでの見学や取材の立場ではあったが、里野会長の怒鳴り声を聞いたことのある一人。飛鳥信也氏の指導姿から里野会長の声も聞こえて来るようであった。

四級昇級審査に臨んだ左からフラビオ、垣野隼人、太田勇樹、川越勇輝、来年は二級まで行けるか?

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年1月号

◆試合前の重要事項

キックボクサー達の過酷な減量とトレーニングを経て、試合に臨む前に立ちはだかる計量。それともう一つ立ちはだかるのはドクターによる検診があります。健康診断的にキツイ、辛いものではないので不安材料が無い限り心配する選手は少ないでしょう。

プロボクシングでは前日計量時において、計量の前に検診が義務付けられています。検診をパスしないと計量器に乗れないのが規定です。キックボクシングでは主催者・団体によりますが、プロボクシングと同様か、計量は前日、検診は当日会場入り後と別々が多いと見受けられます。

計量時の昔ながらの血圧測定(1982年1月4日)

主な診断は、心拍数、体温、血圧、瞳孔検査、問診など簡易的診察といった範疇でしょう。コロナ禍では簡易PCR検査も行われていましたが、現在はおそらく行なうところは少なく、平常に戻ったようです。

昭和や平成初期頃までのキックボクサーは、現在の一般人が熱中症に罹り易い暑さの中でもジムワークと減量をしていて、今でも一般人が入院するような環境でも体調を崩さず、あるジム会長は「現在でも普通の人が熱中症に掛かるほどの、ちょっと無理しても俺らの時代の者は問題無いよ!」と言うほど免疫ある頑丈な肉体が多いようです。

聴診器で心音を聞く、一般人と変わらない診察(1982年1月4日)

◆検診の幅

その昭和時代は、検診という時点でも試合出場可能とする許容範囲は広かったと考えられます。実際には高熱でドクターストップが掛かった選手もいましたが、例え高い数値が計測されても選手は上手く言い包め、「38度以上熱があっても、試合前に嘔吐するような状態でも試合をしたこともありました。」という例や、骨折していてもドクターに悟られないよう、無理して出場といった場合も多かったと言われます。

タイでは現在、ラジャダムナンスタジアムなど、法的に標準規定を満たしている厳格なスタジアムは朝計量前に検診があり、基本の身体測定の他、足の爪が伸びていれば、日本でも同様ながら注意されるようです。また夕方のスタジアム入りした際にも簡易的に検診があるようで朝夕の二重検診になっているようです。

これは計量後にも体調を崩してないかの検診で、薬物を盛られてないかの確認があるようです。計量後に何者かに薬を盛られて尿が止まらないといった事態や、意識朦朧となって倒れてしまう例もあるようです。

アメリカでは各州が義務付けるアスレチックコミッションの厳格な検診があり、身体測定の他、通常の検診に加え、眼科医による眼の精密検査、歯医者による歯の状態まで診られる様子で、これは他の原因で失った歯を試合のせいにして保険金を騙し取る手口があった為と言われます。アメリカでは訴訟の国と言われるほど弁護費用が安く、些細なことでも訴えると言われているだけのことはあるという感じです。

チェンマイでの検診の一部、主要スタジアムやテレビ放映があるビッグマッチでは堅実に検診は行なわれるムエタイ(1995年1月29日)

◆ドーピング検査は進まない

オリンピックでは必要不可欠となっているドーピング検査は、プロ競技ではなかなか難しい問題のようです。日本ではプロボクシング世界戦のみドーピング検査が行われていますが、以前は簡易的な検査で、日本においては2020年大晦日の井岡一翔選手の故意ではないながらも物議を醸す事態が発生したことは記憶に残るところでしょう。

まずキックボクシングにおいてドーピング検査実現に至らないのは、公的な分析機関に依頼するとなると費用が高額という点に尽きるでしょう。更には疑念を持たれる結果が出易い点。風邪薬などの市販薬でも陽性となる点は仕方無いとしても、種類によっては食品やサプリメントからも陽性が出るものがあるとなると、詳細に禁止薬物、食品を区分けしなくてはならない難しい問題となってしまいます。この基準が決定し難いと、故意ではなくても違反者が続出し、出場停止となったら小規模で運営される団体は、コロナ禍より興行数減少が起こり得るでしょう。

現状はダメージを軽減するとか、疲れない体質を保つなどの、覚せい剤などのよほど強い薬を使わなければ試合を優位に導く効果は薄く、反面、副作用も現れる身体への負担があります。これがどうしても勝たねばならない、多くの群衆に注目されるレベルの世界戦などの最高峰の戦いになれば「どんな手を使ってでも勝つ!」という発言も意味深になってきますが、勝ってもすぐビッグマッチへ繋がり難い細分化した団体の、ランカー以下の戦いでは、ドーピングする意味が無いと考えられ、「ドーピングしたとしても顎でも打たれたら倒れるだろうし、効き目が薄くてリスクが高いから現状では殆どやらないでしょう。」という意見は多いようです。

瞳孔検査に選手が並ぶ、バンテージを巻いている点から夕方試合前の光景(1986年6月28日)

◆疾病と検査

1990年代前半から問われ始めたのがエイズ検査でした。更にB型肝炎の検査も注目され始め、近年ではこれらも検査が進んでいるようで、頭部のCTスキャンを含めた一つの例としては、ジャパンキックボクシング協会では年一度のライセンス更新時に検査を義務付けて、試合出場認可という診断書を受けている様子です。他団体等でも検査項目や手順は違っていても実施は進んでいる様子です(選手負担が一般的)。

一般的に報道されることが少なくなると感染者は減少したかに錯覚し易い、これらの疾病は幾らか感染報告はあるようで、今後も検査の重要性も増していくでしょう。

スポーツマンシップに反する薬物使用はやる奴はやるのでしょうが、違法薬物は長期に渡って精神をも蝕む恐れがあるので、最初から手を出さない方が賢明です。

禁止薬物と食品に及ぶ複雑さや検査すべき疾病も増えて来た現在、今何をすべきかは解らないにしても、他のメジャー競技の動向を参考としながらも、今後も新たな展開を注視したいものです。

コロナ禍では前日計量時に簡易PCR検査が行われた(2020年9月26日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年1月号

ビクトリージムの主役、永澤サムエル聖光は薄氷の引分け。
瀧澤博人は元・世界覇者の牙城崩せず。
睦雅はベテラン健太をヒジ打ちで破る殊勲。

◎KICK Insist 17 / 11月26日(日) 後楽園ホール17:15~21:00
主催:VICTORY SPIRITS、ビクトリージム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA) 

◆第13試合 52.5㎏契約 5回戦

名高・エイワスポーツジム(=吉成名高/2001.1.8生/ 52.5kg)58戦52勝(34KO)5敗1分
        VS
ルンサックノーイ・シットニワット(タイ/ 51.7kg)大凡120戦超

名高は現・ラジャダムナンスタジアム・フライ級チャンピオン
ルンサックノーイは元・ムエサヤーム・スーパーフライ級チャンピオン

勝者:名高エイワスポーツジム / TKO 2R 0:25
主審:椎名利一

名高がどんな高度な技を見せるか注目の初回、蹴りの駆引きでのスピーディーな攻防は、名高がやや攻勢を維持。第2ラウンドには互いの左の蹴りが交錯。名高のハイキックがルンサックノーイのアゴにヒットすると、両者がダブルノックダウンのように倒れ込むが、名高はバランスを崩したスリップ。ルンサックノーイは失神状態で後方へ倒れ、マットに後頭部を打ち付け、ノーカウントのレフェリーストップとなった。ほぼ1分程、意識回復まで身体を起こせないダメージだった。

左の蹴り合い、しっかり狙っていた吉成名高のハイキックがヒットする

スリップした名高はすぐ立ち上がり勝利確信。ルンサックノーイは大の字

◆第12試合 61.4㎏契約 3回戦

永澤サムエル聖光(ビクトリー/ 61.4kg) 42戦28勝(12KO)10敗4分
       VS
ボム・ピンサヤーム(タイ/ 61.3kg)34戦27勝(10KO)4敗3分

永澤サムエル聖光は現・WBCムエタイ日本ライト級チャンピオン
ボム・ピンサヤームは元・ルンピニー系スーパーバンタム級チャンピオン

引分け 0-1
主審:少白竜
副審:椎名28-29. 仲29-29. 中山29-29

ローキック中心にパンチを繰り出す永澤サムエル聖光が主導権を奪いつつある中、ベテランのボムは永澤のローキックで効いた様子を見せながらも、BOMスポーツジムでトレーナーを務めるボムは簡単に勝負を捨てるボクサーではなかった。

永澤サムエル聖光の左ストレートがボムの胸元にヒット、いつもの勢いはあった

しぶとくパンチでジワジワ反撃に出て来るボム。第3ラウンドにはボムの右ストレートで永澤は腰砕け的尻餅ダウンしてしまう。プッシュ気味のパンチでダメージは無く、すぐ立ち上がったことでノックダウン裁定とはならず続行。残り時間は少ない中、パンチの交錯で終了。スリップ裁定のダウンはノックダウンとされても仕方無い流れで、レフェリーに救われた感もあった。

ボムの右ストレートで尻餅ついた永澤サムエル聖光、際どいダウン

◆第11試合 57.5㎏契約 3回戦

瀧澤博人(ビクトリー/ 57.4kg) 38戦25勝(13KO)9敗4分
VS
ペットタイランド・モー・ラチャパットスリン(タイ/ 56.9kg)大凡100戦超

瀧澤博人はWMOインターナショナル・フェザー級チャンピオン
ペットタイランドは元・WBC・IBFムエタイ世界スーパーフライ級チャンピオン

勝者:ペットタイランド / 判定0-2
主審:勝本剛司
副審:椎名29-30. 仲29-29. 少白竜29-30

初回、瀧澤博人はローキック中心にミドルキックとパンチの牽制で様子見。第2ラウンドには蹴りの攻防からペットタイランドの蹴りの勢いが増し、ハイキックが瀧澤を襲う。瀧澤はローキック中心に巻き返していくも、ペットタイランドの圧力に突破口が見い出せない。試合終了時の会場内は、瀧澤の勝利は難しい空気が漂っていた。結果、ペットタイランドの勢いを止められず、ポイント的には僅差判定負け。

負けられない瀧澤博人の右ストレートとペットタイランドの右ミドルキック交錯

◆第10試合 64.0㎏契約 3回戦

JKAライト級チャンピオン.睦雅(ビクトリー/ 63.8kg)19戦13勝(7KO)4敗2分
           VS
健太(元・WBCムエタイ日本ウェルター級Champ/E.S.G/1987.6.26群馬県出身/ 63.8kg)
114戦65勝(21KO)42敗7分
勝者:睦雅 / TKO 2R 1:55
主審:中山宏美

パンチとローキック中心の睦雅。健太の出方を落ち着いて見て、睦雅の左ジャブで健太の前進を止め主導権を譲らず、睦雅の成長と強さが感じられた。

第2ラウンドにはパンチからヒジ打ちで健太の眉間辺りをカットし、飛びヒザ蹴りで圧力を掛ける睦雅。流血激しくなった健太にドクターチェックが入り、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップとなった。

いきなり飛ぶからフレームから外れてしまったが、睦雅の飛びヒザ蹴りヒット

◆第9試合 52.0㎏契約 3回戦

JKAフライ級1位.細田昇吾(ビクトリー/ 51.9kg)19戦11勝(1KO)6敗2分
        VS
同級2位.西原茉生(治政館/ 52.0kg)12戦7勝(2KO)4敗1分  
勝者:西原茉生 / 判定0-3
主審:椎名利一
副審:勝本29-30. 中山29-30. 仲29-30

新鋭・西原茉生は先手を打つ蹴りで細田昇吾に主導権を与えず、互角以上の展開で成長を見せた。

西原茉生の左ハイキックで細田昇吾に圧力を掛ける

◆第8試合 67.0㎏契約 3回戦

JKAウェルター級1位.正哉(誠真/ 66.65kg)9戦6勝(2KO)3敗
        VS
NKBウェルター級5位.Hiromi(拳心館/ 66.75kg)8戦4勝(4KO)4敗 
勝者:正哉 / TKO 1R 0:31 / カウント中のレフェリーストップ
主審:少白竜

正哉は蹴りから打ち合いに入ったところで左フックがヒット、この速攻の攻防でHiromiはノックダウンし、ダメージ深く、カウント中のレフェリーストップ。

これもいきなりのノックダウン。KOの気配はあったが速かった

◆第7試合 ウェルター級 3回戦

JKAウェルター級2位.政斗(治政館/ 66.68kg)31戦17勝(4KO)11敗3分
        VS
同級4位.我謝真人(E.D.O/ 66.6kg)13戦3勝(1KO)9敗1分 
勝者:政斗 / 判定3-0
主審:勝本剛司
副審:椎名30-27. 少白竜30-27. 仲30-27

序盤、我謝真人のパンチ、ヒザ蹴り、ミドルキックでの攻めがあったが、政斗は慌てず手数とヒット数で攻勢を維持した経験値が優った展開でジャッジ三者ともフルマークでの大差判定勝利。

政斗がベテラン技で我謝真人を圧して行った

◆第6試合 ライト級 3回戦

JKAライト級4位.古河拓実(KICK BOX/ 61.05kg)5戦5勝(2KO)
        VS
同級5位.林瑞紀(治政館/ 61.23kg)13戦6勝(1KO)6敗1分
勝者:古河拓実 / KO 2R 2:57
主審:中山宏美

第2ラウンド古河拓実が右ハイキックで林瑞紀からノックダウンを奪い、更にハイキックからパンチ連打で2度目のダウン、パンチ連打で3ノックダウンとなってノックアウト勝利。

古河拓実の前蹴りが林瑞紀にヒット

◆第5試合 56.5㎏契約 3回戦

JKAフェザー級4位.勇成(Formed/ 56.4kg)5戦4勝(3KO)1敗
       VS
石川智崇(KICK BOX/ 56.25kg)4戦2勝1敗1分
勝者:勇成 / TKO 2R 2:20
主審:椎名利一

初回に勇成が左フックで石川智崇からノックダウンを奪い、第2ラウンドにも左フックでダウンを奪い、右ヒジ打ちで頭部にヒットさせると、ダメージを見たレフェリーがノーカウントでストップをかけた。

◆第4試合 フライ級3回戦

花澤一成(市原/ 50.7 kg)6戦1勝(1KO)3敗2分
     VS
阿部温羽(チームタイガーホーク/50.9→50.85→50.8kg)6戦2勝3敗1分
勝者:阿部温羽 / 判定0-3 (29-30. 29-30. 28-30)

◆第3試合 ライト級 3回戦

岡田彬宏(ラジャサクレック/ 61.05kg)7戦4勝(1KO)3敗
     VS
勇(OU-BU/ 61.1kg)8戦3勝(1KO)5敗
勝者:岡田彬宏 / 判定3-0 (30-28. 30-28. 30-28)

◆第2試合 ライト級 3回戦

菊地拓人(市原/ 60.9kg)2戦2敗
     VS
隼也JSK(治政館/ 61.1kg)5戦1勝3敗1分
勝者:隼也JSK / 判定0-2 (28-29. 29-30. 29-29)

◆第1試合 ミドル級 3回戦

白井大也(市原/ 72.3kg)2戦1分1NC
     VS
久保英輝(MIYABI/ 71.8kg)2戦1敗1分
引分け 三者三様 (29-29. 29-30. 30-29)

《取材戦記》

吉成名高が1年ぶり2度目のジャパンキックボクシング協会KICK Insist出場。2018年のミニフライ級に続き、今年7月9日にラジャダムナンスタジアム・フライ級王座奪取し、二階級制覇。8月12日には本場スタジアムでKO初防衛。昨年同様に本来の主役、ビクトリージム勢とは違った会場の雰囲気変わるメインイベンターだった。

エイワスポーツジムの中川夏生会長は名高の今後について「三階級制覇は当然なんですけど、名高が行きたい方向へ行かせてやりたいですね。仮に一部で噂されるプロボクシングに行くとしたら、ムエタイに戻って来れなくなると思います。でも名高はあくまでムエタイを突き詰める方向を目指しています。名高が日本でムエタイをメジャーに出来なかったら、日本でムエタイがメジャーになることは100パーセント無いと思います。その名高がムエタイを日本で広める最後のチャンスだと思います。」

元々キックボクシングはヒジ打ち有りだったことを強調され、その原点に戻ってメジャーを目指さねばならないという信念があるでしょう。今後は階級を上げて行く予定という。

本場でムエタイ王座目指す、永澤サムエル聖光と瀧澤博人は主導権奪えず不完全燃焼。

7月16日のKICK Insist.16で「今年は勝負に向けた準備の年」と語っていた瀧澤博人は来年への足掛かりとなる試合だったが、攻めの攻防は互角も、圧倒に至る為の突破口を見い出せず、僅差判定でも負けは負けで出直しの来年となる。

永澤サムエル聖光も7月興行で「ラジャダムナンチャンピオンを倒さないと満足出来ない!」と語っていたが、今回は辛うじて引分け現状維持。来年初戦は仕切り直しのスタートになる。

スリップ裁定のダウンはノックダウンとされても仕方無い流れで、レフェリーに救われた感もあった。仮に、定期的にレフェリーを務める日本人レフェリーの判断だったら8割以上はノックダウン裁定としただろう。しかしタイ人レフェリーだったら逆に8割ぐらいはスリップ裁定としたかもしれない。「昔のリー・チャンゴン氏だったら確実にノックダウン裁定だな」とは思うが、「当たって倒れればノックダウン」と「クリーンヒットしててもダメージが無いなら瞬時に立ち上がればフラッシュダウン。ノックダウンとはしない」という裁定はレフェリーとして瞬時の判断は難しいでしょうね。プロボクシングの場合、いずれも最高権限者のレフェリーが判断したら、その場はその裁定に従うしかありませんが、ラウンド終了後、ジャッジによって審議に入ることは可能です。

睦雅はベテラン114戦目の健太にヒジ打ちでTKO勝利。3月に王座決定戦で内田雅之を破りチャンピオンとなって勢い付いて健太を破った今回。来年も注目株となりそうです。

2024年最初のジャパンキックボクシング協会興行は、3月24日(日)に後楽園ホールに於いてKICK Insist.18が開催予定となっています。今年度は武田幸三氏が抜けたことで、次の新春興行が無いのはやや痛いところか。

5月には日時未定ながら市原臨海体育館での市原ジム興行。

7月28日(日)に後楽園ホール、9月29日(日)に新宿フェイス、11月17日(日)に後楽園ホールで開催。現在のところ年5回の興行が予定されています。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年12月号

2017年3月5日掲載の、「埋もれた勇者 ── 足立秀夫という男」というタイトルで掲載していますが、格闘群雄伝版でもう少し踏み込んだ展開にしてみました。

短い期間だった渡邉ジムでの練習風景、上り調子の頃(1981.12.21)

◆自衛隊から突如転身

足立秀夫(あだちひでお/1957年5月21日、静岡県袋井市出身)は1979年(昭和54年)4月、名門・目黒ジムからライト級でデビューし6連勝。後に移籍後もチャンピオンには届かなかったが、強い蹴りと強面の荒々しい試合で存在感が増して行ったキックボクサーだった。

子供の頃から走ることが得意だった足立秀夫はマラソンでは常に一番になり、高校卒業後は船に興味があったことや基礎体力に自信があったことで海上自衛隊に入隊。そこでたまたまキックボクシングをやっていた隊員に誘われ目黒ジムを見学すると、キックボクシングの凄さを実感。本能的にいきなり自衛隊を辞め、その目黒ジムに入門した。

子供の頃からの走り込みや自衛隊で鍛え上げられたパワーとスタミナで勝ち進んだデビュー1年後に、小泉猛(現・ジャパンキックボクシング協会代表/市原)と引分ける試合があった。

「このままではこの先勝てなくなる。技術を磨かねば」と一層そんな欲求に苛まれ、1981年春に単身、タイ修行に臨んだ。

それまでの目黒ジムでは、野口ボクシングジムとの交流も多かった縁でパンチの戦法が活かされたが、このタイ遠征した際に出会った元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏の存在が大きく運命を変えた。

「タイ選手もビビるほどの強い蹴りを持てばタイのトップクラスでも通用する!」と言われた蹴り主体の戦法に変わり、帰国後は西川ジムに移籍し、磨きをかけた左ミドルキックは驚異的となった。

バンモット戦の試合直前、西川会長と出番を待つ(1982.1.4)

◆不憫な環境でも充実練習

足立秀夫が練習の場としていたのは西川ジムが間借りしていた、新小岩にあった渡邊ジムだった。この渡邊ジムとの縁は4ヶ月程だった様子。この年10月に発足した日本プロキックボクシング連盟が半年足らずで分裂が起きていることから大凡の事情は把握出来たものだった。

暫くは京成小岩駅近くにあった西川純会長宅前の路地を使って練習を続けていた。敷地内の二階建て木造アパートが合宿所となって、足立秀夫の他、数名の選手はこのアパートに住んでいた。流し台のある六畳一間でトイレ・洗濯場共同の風呂無しアパート。家賃五千円らしい。このアパートでは廊下でも会話が多い和気藹々とした雰囲気。当時の学生身分から見れば、充分住み易いアパートだった。

路地での練習は夕方の限られた時間しか集まれない為、選手が増え、賑やかになり過ぎた頃、近隣からの苦情で撤退を余儀なくされてしまった。すると夜の市場を借りたり、アパートの部屋の壁を撤去して二部屋分をジムにしてしまう工夫も見られたが、1982年12月半ばには国鉄小岩駅から200メートル程歩いたところの雑居ビルでジム開設に至った。港建設に支援され、暫く「港西川ジム」と改名されたのもこの縁である。開設披露日に業界関係者が祝福に訪れ、足立秀夫が藤原敏男氏とスパーリングを行なえたのも貴重な体験だったという。

バンモット戦の朝、計量前にフラッと散歩(1982.1.4 朝7時頃)

◆全盛期

足立秀夫は西川ジムに移籍後の1981年9月末、山梨県甲府市で日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)に挑戦したが判定負け。この時すでに日本キックボクシング協会(旧・TBS系)は内部分裂していた様子が窺え、クーデターと言われた革命の日本プロキックボクシング連盟発足に繋がっていった。

同年10月25日、その設立興行で足立秀夫は過去一度勝っている長浜勇(市原)に判定勝利。

長浜勇戦第2戦はパンチには苦戦も主導権奪って判定勝利(1981.10.25)

翌1982年1月4日にはタイの元ランカーで来日4戦4勝の、バンモット・ルークバンコー(タイ)にKO負けしたが、序盤はアグレッシブに攻め、日本人が対戦した中で最もいい試合したと評価を得た試合でもあった。

この年11月には画期的な1000万円争奪オープントーナメントが始まり、翌1983年2月5日には藤原敏男(黒崎)と62kg級準決勝戦を行ない、第3ラウンド、右ストレートで倒されたが、ジム開設パーティーで藤原敏男とのスパーリングで得た手応えから気力充実で全力で挑んだ試合だった。これが藤原敏男氏の現役最後の試合となったことも後々映像で振り返る機会多い試合となった。

藤原敏男戦は最も緊張し、気力も充実した試合だった(1983.2.5)

気合いが入るというのは強さ倍増する自信となった足立秀夫。藤原敏男と戦った乗りに乗ったモチベーションは10日後の香港遠征で、タイから選抜されて来た選手に蹴りでKO勝ちしたという結果はより一層自信に繋がったという。

同年5月28日には日本プロキック・ライト級王座決定戦を須田康徳と争い、右アッパー喰らって3ラウンド終了時TKO負けで雪辱成らずとなったが、翌6月17日、内藤武(士道館)に逆転の判定勝利。連戦の大物との激闘に疲れが見えていたのも事実だったが、この頃までが一番輝いていた時期だった。

ヘビー級の斎藤三郎とエキシビジョンマッチ、意外と人気で盛り上げた(1983.9.18)

◆下降の原因

翌1984年1月5日、過去2勝している長浜勇に2ラウンドKO負け。同年5月26日にはサバイバルマッチと言われた内藤武戦で借りを返される判定負け。同年10月13日にはバンモット・ルークバンコーとの二度目の対戦もアゴにハイキック喰らってKO負け。

上り調子だった長浜勇に倒された第三戦(1984.1.5)

11月30日には統合団体、日本キックボクシング連盟設立興行で新鋭・飛鳥信也(目黒)に序盤先手を打つペースを握りながら巻き返され逆転KO負け。減量失敗でフラフラの状態で現れた朝の計量時、「駄目だ、落ちなかった。グローブハンデでも何を課されても仕方無い!」こんな弱気な、か細い声の足立秀夫は初めてだった。

サバイバルマッチと言われた内藤武戦。返り討ち成らず(1984.5.26)

それまでライバルを突き放し、上位へ挑戦し続けた現役生活。しかし次第に巻き返された昭和59年という現役6年目、この先のメジャーに向かう華々しい新・連盟イベントを最後に引退を決意。太く短く戦った現役生活だった。

引退前だが、気合い充分、雪辱に燃えたバンモット戦(1984.10.13)

ラストファイトとなった飛鳥信也戦、力尽きた戦い(1984.11.30)

「強い奴とやり過ぎたんだ!」とは一緒に練習していたジム仲間の言葉。タイの強豪と戦い、敵わなかったことが「本人も周りも気付かないうちに自信を無くしていったんだろう。」という周囲の声だった。選手を育てるには「勝ち癖を着けることが大事」と言われる。下位には勝てるが上位には勝てないその壁を上手く乗り越えていくことが大事で、強い相手ばかりを続けて当てると敵わないことで伸び悩んでしまうと言われる。しかし、閑散とした日本のリングとキックブームの香港、戦う場が限られていては止むを得なかったかもしれない。

引退後は故郷、静岡の同級生と結婚し、後に地元に帰って焼肉店「東大門」を開店した足立秀夫氏。焼肉店の隣に東大門ジムを開設し、2000年代に入った頃のニュージャパンキックボクシング連盟興行で出場選手を連れて現れた。現役時代に無かった笑顔を振り撒き穏やかな表情で「商売人は笑顔で居なくちゃ駄目だよ!」と焼肉専門店の先輩から教えられたことから「笑顔で居るのが癖になっちゃったよ!」と笑う足立秀夫氏。三人のお子さん(男の子)はいずれも立派に成人。

地方では練習生が少ないが、現在は焼き肉屋を若い者に譲渡し、ジムに顔を出す時間を増やし、そして現役時代のように自らも走り込む時間を送って鍛えることを楽しんでいるという。

現役時代、チャンピオンには届かなかったが、現在のような多乱立王座だったら、何らかのチャンピオンには成っていただろう。しかし、「須田康徳を倒してこそ真のチャンピオン」と信じた現役生活に悔いは無く、「須田康徳さんとも藤原敏男さんとも戦えたのは幸せな現役生活だったよ!」と語っていた。

足立秀夫の現役時、1983年6月に西川ジムに入門した赤土公彦氏は「ジム見学に行った時に前髪が長い独特なスポーツ刈りをしていた足立さんが居て、試合前で気合いが入っていて、体型、風貌も含めてミットやサンドバッグを蹴っている姿がカッコイイと一目惚れで入会したのを覚えています。現在のようなYouTubeや過去の試合映像も無かった時代で、身近に良い見本になる先輩が居たのは自分にとって今も受け継いでいる財産です!」という一発入門を決めたのが足立秀夫の強い蹴りだった様子だった。

私(堀田)が出会ったばかりの頃、試合1週間前に「俺、減量したら凄く顔変わるからビックリしないで!」と言っていた足立秀夫氏。実際の試合当日の朝、他の選手より眼がくぼんで頬がこけた足立秀夫氏の顔があった。毎度の試合の度にこんな苦労しているのかと目の当たりにした減量の厳しさを感じたものだった。

現役の頃に私がお渡しした試合写真は今も大切に持っているという足立秀夫氏。あんなボケボケブレブレの撮影で申し訳なかったが、「それでも俺らにとっては貴重な写真だよ!」と言ってくれたことが嬉しいものである。

「西川純会長は自分を育ててくれた恩人で、また東京へ会いに行くんだ!」という足立秀夫氏。また東京で私とも会えたら、今度はデジタルカメラで高画質の撮影をしてあげたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

元・ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン、K-1でも活躍した武田幸三氏がニュージャパンキックボクシング連盟に加盟。今迄に無い緊張感があった今回の興行。武田幸三氏の存在感が大きかった。

前日計量にて、YouTube配信での武田幸三氏の御挨拶(抜粋)。

「私がNJKFに入らせて頂きまして、プロモートされて頂く第一回目の興行です。めちゃめちゃ、一番気合い入っている自信あります。どれだけプロモーターが頑張ろうが最後は試合、選手の頑張りに尽きると思います。それをどう私が導き出せるかこれからの課題だと思います。本気でトップ狙って本気でトップの団体にしようと思っています。
 大田拓真選手を映像で観たことありますが、生で観たことはありません。本当のエースなのか、本当にエースになってくれるのか、本当のエースの試合が出来るのか、メインイベンターがその大会の印象全てを決めると私は思っています。それを彼に出来るのか、明日はそれを見極めたいと思います。タイの選手には一切忖度しませんので、「勝ったら賞金出す」と言いました。その辺は強い奴が勝つ。本当にチャンピオン成りたい者が上に、自己主張しっかり出来る人間、目標が明確な人間、本気でキックに命を懸けている人間が勝ち残るリングにしていきたいと思います。お客様ファーストで会場をドッカンドッカン揺らすことが出来る人間がエースだと思っています。本当に彼が成れるのか、明日、しっかり見させて頂きたいと思います。温い奴は一人もいません。温い奴は使いません。」

選手だけでなく、各運営スタッフも緊張が走る語りだった。

そして試合は、大田拓真はメインイベンターの責任を果たす完封TKO勝利。5回戦制の上手い戦い方を見せた。

龍旺もデビューから2年5ヶ月で9戦目、狙っていたノックアウト勝利(TKO)で王座獲得。

興行MVPはインパクト強かった大田拓真と龍旺が受賞した。

波賀宙也は主導権奪えない苦戦も、終盤になって盛り返しての引分け。ジワジワ攻めるには3回戦制では足りない勿体無い展開。

◎NJKF 2023.5th CHALLENGER -Reborn- / 11月12日(日)後楽園ホール17:20~20:44
主催:Yashiroジム / 認定:ニュージャパンキックボクシング連盟

※戦績はプログラムより、本日の結果を含んでいます。第7~10試合は、NJKFアマチュア枠のEXPLOSION提供試合。

左瞼を切られた後、大田拓真もヒジ打ちで返す

◆第13試合 58.0kg契約 5回戦

大田拓真(新興ムエタイ/神奈川県出身24歳/ 58.0kg)35戦26勝(8KO)7敗2分 
       VS
ルークワン・スーチーバァーミキョ(タイ出身23歳/ 56.75kg)68戦52勝(18KO)15敗1分
勝者:大田拓真 / TKO 4R 1:50
主審:多賀谷敏朗

大田拓真は元・WBCムエタイ日本フェザー級チャンピオン
ルークワンはノンタブリー県ジットムアンノンスタジアム・フェザー級1位

大田拓真はローキックからパンチへ繋ぐ距離感を図る。更にヒザ蹴り。ルークワンも蹴りからパンチを返して来る探り合いの攻防は互角。

第3ラウンドまで大田のパンチ連打と時折のボディーブローから徐々に攻勢を増して行く中、ルークワンのヒジ打ちで大田の左瞼がカットされ、流血するちょっとマズい展開も、第4ラウンドには大田がより勢い増してのパンチからローキック、ボディーブローが徐々に効いてきたルークワンは表情がこわ張りはじめ、大田拓真はパンチ連打で2度のノックダウンを奪ってレフェリーは若干様子見もほぼノーカウントで試合を止めるレフェリーストップとなった。

大田拓真は「倒すということを目標に練習して来て、今年は自分の苦手だったパンチの工夫を結構練習して来たので、それが毎試合出していって、今回の今年最後の締め括りで、パンチを強く当てれたなと思います。」と語った。

切られた左眉は「何がいつ当たったか分からなかった」と言い、更に「第1ラウンド目は“大丈夫か俺”って、ちょっと焦りました」と言う。ルークワンの強さ、圧力に攻め難さがあった様子。それを攻略し、第4ラウンドに仕留めたことは5回戦の戦い方が活かされていただろう。

磨いて来たパンチ、大田拓真の左フックがヒット

9戦目でチャンピオンとなった龍旺、来年は常連メインイベンターとなるか

◆第12試合 第11代NJKFスーパーフェザー級王座決定戦 5回戦

2位.龍旺(Bombo Freely/茨城県出身21歳/ 58.95kg)9戦7勝(3KO)1敗1分
        VS
3位.佐藤亮(健心塾/大阪府出身25歳/ 58.75kg)29戦14勝(2KO)13敗2分
勝者:龍旺 / TKO 2R 3:06
主審:中山宏美 

龍旺のローキックからパンチ。対抗する佐藤亮は互角の展開も、早くも第2ラウンドには倒す気満々の龍旺の蹴りとパンチで勢いが増して行く。

佐藤亮は険しい表情で下がり、龍旺が豪快にパンチ連打でノックダウンに繋げ、佐藤亮は立ち上がるもダメージの深さからレフェリーが試合をストップした。

龍旺は「倒せて良かったです。武田幸三さんの言葉が後押しになってKO出来て良かったです。」と語り、桜井洋平会長は「最後の打ち合いはどっちがどうなるか、ちょっと危なかったけど、そこを打ち勝つのがチャンピオンに成る者の強さでした。」

ちょっと早いが防衛戦について振ると、「やらなきゃいけない。防衛してこそチャンピオンですから。」とすぐの返上や、すぐのWBCムエタイへの挑戦は無く、段階を踏んでいく様子だった。

KOへの意欲が表れた試合、龍旺の右フックで牽制

勢い付いていく龍旺の左ハイキック

◆第11試合 57.0kg契約3回戦

波賀宙也(立川KBA/東京都出身34歳/ 56.95kg)47戦27勝(4KO)15敗5分 
      VS
サクレック・ゲッソンリット(タイ出身22歳/ 56.4kg)70戦46勝(14KO)21敗3分
引分け 0-0
主審:少白竜
副審:竹村29-29. 多賀谷29-29. 中山29-29

波賀宙也は元・IBFムエタイ世界Jrフェザー級チャンピオン
サクレックはジットムアンノンスタジアム・バンタム級チャンピオン

ムエタイ技の交錯、サクレックの右ヒザ蹴りが波賀宙也にヒット

波賀宙也はローキックとミドルキック、接近戦でのヒジ打ち、組み合って首相撲からの崩しと一連のムエタイリズムで進む。

第2ラウンドにサクレックのパンチで出て来るしつこさでやや劣勢の流れも、第3ラウンド終盤には逆に波賀宙也がパンチでラッシュをかけると、サクレックは鼻血を流す失速も首相撲で凌いで終了。

終盤ラッシュした波賀宙也、時間が足りなかった

◆第10試合 EXPLOSION 60kg級 2回戦(2分制)

EXPLOSION60kg級覇者.藤倉祢虎(KIKUCHI/ 57.5kg)
         VS
ポテワオ・タウィゲット(タイ/ 59.45kg)
勝者:藤倉祢虎 / 判定3-0 (20-18. 20-18. 20-18)

◆第9試合 女子EXPLOSION 45kg級 1ラウンド(2分制)

竹井もも(エス/ 44.8kg)vsポンワリー・ソー・ジッサノンチャー(タイ/ 43.65kg)
勝者:竹井もも / 判定3-0 (10-9. 10-9. 10-9)

◆第8試合 EXPLOSION 28kg級 1ラウンド(2分制)

EXPLOSION28kg級覇者.武内太陽(D-BLAZE/ 27.85kg)
        VS
ジムサヤーム・ソー・ジッサノンチャ(タイ/ 29.1kg)ウェイトオーバーで減点1
勝者:武内太陽 / 判定3-0 (10-8. 10-8. 10-8/減点1含む)

◆第7試合 EXPLOSION 45kg級 1ラウンド(2分制)

能登龍大(VALELLY/ 43.9kg)vs堀口遥輝(TAKEDA/ 43.95kg)
勝者:堀口遥輝 / 判定0-3 (9-10. 9-10. 9-10)

◆第6試合 56.0kg契約3回戦

赤平大治(VERTEX/栃木県出身22歳/ 55.95kg)5戦3勝(2KO)1敗1分
        VS
蹴橙(クローバー/栃木県出身23歳/ 55.8kg)2戦2勝(2KO)
勝者:蹴橙 / TKO 3R 0:38 / 赤平が優勢も蹴橙の有効打で負傷逆転、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ
主審:中山宏美

◆第5試合 女子(ミネルヴァ)40.0kg契約3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ピン級7位.AIKO(AX/埼玉県出身36歳/ 40.35→40.0kg)13戦5勝7敗1分
        VS
江口紗季(笹羅/広島県出身32歳/ 37.75kg)3戦1勝2敗
勝者:AIKO(赤コーナー) / 判定3-0
主審:岡田敦子
副審:竹村30-29. 児島30-28. 中山30-28

◆第4試合 60.0kg契約3回戦 ※池田航太(拳粋会宮越)負傷欠場、裕次郎に変更

裕次郎(拳伸/千葉県出身15歳/ 59.55kg)6戦3勝2敗1分
        VS
竹内悠真(TAKEDA/愛知県出身26歳/ 59.85kg)2戦2勝
勝者:竹内悠真(青コーナー) / 判定0-3 (28-30. 29-30. 28-29)

◆第3試合 ライト級3回戦

須貝孔喜(VALELLY/岩手県出身22歳/ 61.23kg)4戦2勝(1KO)2敗
        VS
渡部瞬弥(エス/神奈川県出身29歳/ 60.95kg)7戦1勝6敗
勝者:須貝孔喜(赤コーナー) / KO 1R 2:48 / テンカウント

◆第2試合 S-1レディース 48.0kg契約3回戦(2分制)

Marina(健心塾/三重県出身16歳/ 47.45kg)7戦3勝(1KO)4敗
        VS
ミナミ(アント/千葉県出身37歳/ 47.95kg)3戦1勝2敗
勝者:Marina(赤コーナー) / TKO 2R 2:06 / カウント中のレフェリーストップ

◆第1試合 52.0kg契約3回戦

永井雷智(VALELLY/東京都出身15歳/ 52.0kg)2戦2勝(1KO)
        VS
TAKUMI(Bushi-Doo/新潟県出身33歳 51.65kg)5戦5敗
勝者:永井雷智(赤コーナー) / TKO 2R 0:32 / 有効打で負傷、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ

EXPLOSION出場したジュニア選手達、数年後には龍旺のような存在になる可能性は高い

前日計量にてめちゃめちゃ気合いが入った武田幸三氏がYouTube生配信で熱く語った

《取材戦記》

興行後の帰り際、短めながら武田幸三氏のコメントを頂く。

「興行第一発目として僕の想いは伝わったかなと思います。現状の混沌とした中、跳び抜けて行くには、お客さんのハート掴む為にも皆で、ちょっとずつでもやって行かなきゃならない。来年は更に盛り上げて行きます。」

前日計量で宣材写真を撮影するスペースに現れて、選手に注文を付けた武田幸三氏。戦績の負け越している前座出場選手にも、「この試合に勝って上を目指す気あるの?その得意技を出してみて! その気合いの顔作って!」など注文を付けて、「せっかく撮るなら観る者に印象に残る勢い有る写真を!」といった気合いが表れる撮影だった(撮影はNJKFオフィシャルカメラマン)。

今年1月はジャパンキックボクシング協会でのCHALLENGER.7興行だった。いつも武田幸三氏の気合いが目立つ興行でしたが、10月にニュージャパンキックボクシング連盟にTAKEDAジムとして移籍加盟。その存在感は健在。周囲のメンバーが違うだけで、気合いの入り方は以前どおり。ニュージャパンキックボクシング連盟が乗っ取られたような興行の変わりよう。創設以来、比較的穏やかだったNJKFが今後、より面白くなっていきそうである。

武田幸三氏は来年初回興行もプロモーターとして活動します。
NJKF東西対抗戦 / 2024年2月11日(日)後楽園ホール

◆先に発表の5試合

NJKFフェザー級暫定王座決定戦
1位.大田拓真(新興ムエタイ)vs3位.笹木一磨(理心塾)

NJKFスーパーバンタム級王座決定戦
大田一航(新興ムエタイ)vs真琴(誠輪)

NJKFチャンピオン対決
スーパーライト級C.吉田凛太郎(VERTEX)vsウェルター級C.青木洋輔(大和)

バンタム級3位.嵐(キング)vs2位.甲斐元太郎(理心塾)

ウェルター級7位.亜維ニ(=小林亜維ニ/新興ムエタイ)vs同級6位.悠YAMATO(大和)

期待に応えた龍旺と大田拓真がKO賞とMVPを同時受賞

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年12月号

2015年から始まったWBCムエタイジュニアリーグ全国大会、今年度の全15階級の優勝者が決定。
最優秀選手(MVP)にはU18高校生52kg以下で優勝した大久保世璃選手が獲得。
他、敢闘賞を各クラス1名計4名、フェアプレー賞を各クラス1名計4名が受賞。
優勝者は来春、ルンピニースタジアムでの世界大会出場資格が与えられました。

◎WBCムエタイジュニアリーグ第6回全国大会 / 11月5日(日)12:00~16:35
会場:GENスポーツパレス
主催:WBCムエタイジュニアリーグ実行委員会

表彰選手集合写真撮影

《全国大会決勝戦》

◆U15 小学校低学年(3年生、4年生)2回戦(1分制)

25kg未満決勝 ×佐島康太vs松下塁○ 判定0-3 優勝 松下塁

28kg未満優勝者(表彰のみ) 山川樹

31kg未満決勝 ×北山義vs小池隼斗○ 判定0-3 優勝 小池隼斗

◆U15 小学校高学年(5年生、6年生)2回戦(1分30秒制)

28kg未満優勝者(表彰のみ) 武内太陽

31kg未満決勝 ×野本かれんvs松下琉翔〇 判定0-3 優勝 松下琉翔

34kg未満決勝 ×若月イルvs丹野優志○  判定0-3 優勝 丹野優志

37kg未満決勝 ×中村陸人vs渡部要○  判定0-3 優勝 渡部要

45kg未満優勝者(女子/表彰のみ) 中島瑠花

◆U15 中学生2回戦(1分30秒制)

34kg未満決勝 ○三宅湊士vs久保田天空× 優勝 三宅湊士

中学生クラス34kg未満決勝戦、久保田天空vs三宅湊士

37kg未満決勝(女子) ○北山恋vs瀬川柚子心×  優勝 北山恋 

中学生クラス37kg未満決勝戦(女子)、北山恋vs瀬川柚子心

40kg未満決勝 ×大沢透士vs野本琥太郎○ 優勝 野本琥太郎

中学生クラス40kg未満決勝戦、大澤透士vs野本琥太郎

45kg未満決勝 ○西山大翔vs鈴木秀馬× 優勝 西山大翔

中学生クラス45kg未満決勝戦、西山大翔vs鈴木秀馬

50㎏未満決勝 〇田邉謙心vs佐藤翔力 優勝 田邉謙心

中学生クラス50kg未満決勝戦、佐藤翔力vs田辺謙心

55kg未満決勝 ○小野 力光vs剛右近 湊× 優勝 小野 力光

中学生クラス55kg未満決勝戦、郷右近湊vs小野力光

60kg未満決勝 ○藤倉弥虎vs小澤裕次郎× 優勝 藤倉弥虎

中学生クラス60kg未満決勝戦、藤倉弥虎vs小澤裕次郎

◆U18 高校生 2回戦(2分制)

52kg以下決勝 ×安枝唯斗vs大久保世璃○ 優勝 大久保世璃

MVP 大久保世璃 (高校生52kg以下)

高校生クラス52kg以下決勝戦、大久保世璃vs安枝唯斗

敢闘賞 佐島康太 (小学校低学年25kg未満)
若月イル (小学校高学年34kg未満)
中島凌駕 (中学生50kg未満)
安枝唯斗 (高校生52kg以下)

フェアプレー賞  新美莉瑚 小学校低学年31kg未満
     岩佐昌    小学校高学年31kg未満
     日暮洸冴   中学校40kg未満
     大久保世璃  高校生52kg以下

大会MVP獲得した大久保世璃

《取材戦記》

コロナ禍を経て、やや縮小した感はあるものの、技術がグンと向上したジュニアの攻防が見られました。

MVPとフェアプレイ賞を獲得した高校生52kg以下で出場の大久保世璃選手は、2019年度の小学校高学年(当時6年生)31kg未満でも優勝とフェアプレイ賞を受賞しています。

優勝とMVP受賞については「素直に凄く嬉しいです!」と笑顔で応え、目指すは「K-1甲子園」で、更なる上位は「K-1チャンピオン」と言い、ムエタイという方向性については、あまり関心が無い様子でしたが、K-1ジム・ウルフ所属だったので、K-1が主流なのは当然でしたね。これが多様化した競技性で今時の若年層の考え方の一つでもあるでしょう。

K-1甲子園とは、2007年から続く全国の高校生選手のナンバーワンを決める大会で、プロで活躍し、チャンピオンに成った選手も多い登竜門です。

WBCムエタイジュニアリーグ第1回世界大会は2022年8月にカナダ・バンクーバーで大会が開催され、2年に一度の開催として第2回は来春2024年2月2日~5日、タイ・バンコクのルンピニースタジアムで開催予定です。

今回の全国大会優勝者は世界大会出場資格獲得しても必ず参加という訳ではありませんが、タイのルンピニースタジアムで行われる競技大会なので、殿堂スタジアムでの世界という舞台を体験して来て欲しいものです。
セコンド陣営や後援会、応援団といった歓声が大きいプロのキックボクシング興行ですが、ジュニアキックにおいては父兄の歓声が大きかったのもこの大会の特徴でした。

ジュニアリーグを卒業するとプロとして更に多くの選択肢が出てきますが、またどこかのリングでその顔を見ることも出て来るでしょう。2019年度、中学生クラス55kg未満で優勝した小林亜維二(新興ムエタイ)は現在プロとしてNJKFのウェルター級で活躍しています。父兄の方々もジュニアキックから成長していく我が子らの活躍が楽しみでしょう。逆に「ジュニアキックだけで充分、プロは儲からないし怪我するから行かせない」という選択肢も多そうなのも事実で、キックボクシングやムエタイの将来性、価値観も影響がありそうです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

◆奇跡の運命

人には皆、奇跡がある。いろいろな人との出会いがあって、その縁がまた先に繋がっていく。そんな導かれた縁の繋がりで、その時代の皆さんの御陰で私は勝ち上がることが出来たのです。これは正に奇跡的な運命なのです(富山勝治談)。

アメリカの帰り、寄り道したハワイで撮った沢村忠さんとのツーショット

試合後の放送席でも竹を割ったような性格で多くを語っていた元・東洋ウェルター級チャンピオンの富山勝治さん。問われればしっかり応える姿は、こんな私ども素人相手の質問にもその姿勢は変わらなかった。

富山勝治大飛躍となった1972年(昭和47年)2月19日の花形満戦。そこから全国区の富山となってからの数々の試練。その都度立ち上がってきた不撓不屈の精神。かつて寺内大吉さんが語られた「人間性の勝利」があった。

富山勝治は子供の頃から気性が激しく、よく喧嘩沙汰になったというのは、腕白少年ならよくある話だが、進路についてはお袋さんが心配していて、「勉強しなくていいから学校だけは行きなさい!」と言われていたという。

そんな中学生時代に先輩の内田新一郎さんに気に入って頂き、「ウチの空手部に来い!」と誘われたことから1967年(昭和42年)4月、延岡商業高校へ入学した。内田新一郎氏はこの空手部主将、背は小さい人だがもの凄く喧嘩が強く、学校一の悪と言われるほどだったが、「この人の御陰で今があるんですよ!」と言うほど人生を変えた最初の転機だった。

空手部の顧問は甲斐和年さん。「鹿児島大学出身の先生で凄い人だったね。今の空手とは鍛えようが違う本物の武道だった。」という中で鍛えられた富山勝治は3年生までに基礎をしっかり学んだ御陰で二段まで取得、九州の高校選手権で優勝と実力発揮していった。

1967年(昭和42年)3月、高校卒業とともに佐世保の海上自衛隊入隊。卒業後は就職するところが無く、「父親が海軍上がりだったから俺は船乗りになりたかったが、半年間、家を留守にするような船の仕事では家庭が不安定になるからと『お前は自衛隊に行ったらどうだ!』と勧められて海上自衛隊に入隊しました。」と、小さい頃から口にすることはあった自衛隊の存在ではあった。

「まあそんな道しか無かったよ、勉強してないんだから!」。

九州は仕事が少なく、ヤクザか警察官か自衛隊と言われた。大手は八幡製鉄所、九州電力、旭化成があったが、勉強できない奴には縁の無い世界だった。

半年間、佐世保で教育隊に入るが、就職先が無かった悪い奴ばっかり来ていたという。喧嘩の絶えない自衛隊だった。

佐世保の米軍基地では常々空手の試合に出ていて、その時の上司・森嶋日出春(当時一等海尉)が、「お前なら沢村に勝てるぞ!」と言う語りかけからキックボクシング人生へ舵が切られた。

「今、東京ではキックボクシングというのをやっているからお前も東京に上れ!」と言われたが、「父親との約束で3年間は自衛隊を勤める!」ということで、3年満期で辞めて上京した。

[左]1978年10月のプログラム表紙より。[右]1979年2月9日プログラム表紙

◆キックボクシングを続けられた奇跡

1970年(昭和45年)3月31日、海上自衛隊を満期退職すると、その日の内に上京。知り合いに紹介して貰った渋谷のアパートに住み、導かれたとおり目黒ジムに入門。

練習と仕事の両立へ、新聞広告で見た神田青果市場で雇われると、朝5時に起きて1時間ロードワークした後、市場に向かった。夕方練習して、夜は割烹店で皿洗いのアルバイトもやっていたことがあったという。

「店の親父さんに可愛がられて、『チャンピオンに成れよ!』と応援してくれて、他の従業員には普通の飯だったけど、俺にはトンカツとか豪華なものを食わせてくれたなこと思い出すよ!」

「他に道路のライン引き工事の仕事もやったこともある。俺は引けないから道路のゴミを取り除く仕事。石ころなんかあってはライン引けないから、延々2キロメートルほど蜂起で掃いたな。」

「お世話になった人多くて可愛がられたけど、そういう風に可愛がって貰わないと上に行けない社会。親父の教育が良かったから、どこに行っても目上の人には可愛がられたね。」

1981年5月9日プログラム表紙。負けた試合がポスターやプログラムになったのは初めてという

◆私も関門海峡渡れんよ!

人生の分岐点となった名勝負、1972年2月19日の花形満との日本ウェルター級王座決定戦は、その前年6月26日に花形満との最初の対戦があった。それも花形満のパンチで3度ノックダウンしている富山勝治だが、左ハイキックで逆転ノックアウトしている好ファイトだった。そして迎えた王座決定戦。前年を上回る逆転の激闘で、富山勝治の名は全国に広まった。「50年経っても花形さんには感謝しています!」という熱い想いは変わらない。

「稲毛忠治へのリターンマッチ(3度目の対戦)の前、12月末にお袋が宮崎から来たんですよ。ある朝、お袋がリンゴ擦って俺のロードワークから帰って来るの待ってて飲ませてくれた後、『今度負けたら私も関門海峡渡れんよ!』と言われて、いや~、これはあんまり攻めてばかりではマズいな。パンチでもいいから勝たなきゃいけないな。という気持ちになってのあの試合でした。」

「勝つ為の試合。皆、勝つ為にリング上がっているけど、どうしても勝たなきゃいかん試合ってあるんですよ。それがヒットアンドアウェイという戦法。俺は本来ああゆう性格じゃないよ。アグレッシブにダァーっといく、そういう性格だから!」
そのアグレッシブさが出たのは最終第5ラウンド、蹴りからパンチ、ヒザ蹴りで稲毛を下がらせ、2-0の僅差ながら王座奪還した。KO負けをKO勝ちで返す、ファンの期待は叶わなかったが、何はともあれ苦節一年、逆境を乗り越えることが出来た。

◆沢村忠さんから託されたもの

「沢村さんから一回だけ褒められたことがある。
『富山くん、前から飛び上がって蹴るのも大変だが、キミはよく一回転して蹴れるな!』
これは沢村さんが俺を認めてくれた言葉だった。」

「その沢村さんから、現役最後の試合の後に譲り受けたものがあるんです。それは沢村さんが巻いていたチャンピオンベルト。『あとは頼むよ!』と、その意味は重く、それがメインイベンターを任された証だったんです!」

チューチャイ・ルークパンチャマを飛び後ろ蹴りでノックアウトして、TBSトップの森忠大さんに「やっと沢村を越えたな!」と言われてまずは第一歩目の責任を果たせた想い、スポーツニッポンのベテラン記者(布施さん)氏には、「富山くん、あなたの得意技は後ろ蹴りだから、ずっとやりなさい!」と励まされたのも自信に繋がった言葉だったという感謝の念は絶えない。

ここから更に日米対決へ新たなチャンピオンロードがあったが、後々TBS放送が打ち切られて、全国ネットから外れた時代に移った。

テレビで観れなくなって富山さんはその後どうなったか気になっていた全国の視聴者は多い。その後、主要ビッグマッチはテレビ朝日系に移ってからの日米大決戦だった。

「WKBA世界戦に至るまでは、もう闘争本能は無くなりつつあったな。メインイベンターとして戦い続けていたけど、ずっと維持するのは無理。30歳過ぎると気力も無くなっていく。野口修社長に「沢村忠が担った東洋王座から、富山は世界を担え!」と期待された世界戦で、沢村さんからの「あとは頼むよ!」とチャンピンベルトに託された責任があって精一杯頑張ったけど力及ばず、世界ベルトには手が届かなかった。」と、もう2年早く挑戦できていればと無念さは残る。

[左]1983年11月12日引退試合プログラム、関係者の語りが熱かった。[右]引退セレモニーでの語り「全国のキックボクシングファンの皆様……!」から始まった全国目線の語り口

引退試合、対戦者ロッキー藤丸に労われる

「がんがん石」新宿店の看板。綺麗なお店だったが、キック関係のオブジェは無かった

引退後はスパゲッティ屋「がんがん石」の継続と後援会などの支援で不動産業に進出したが、ビジネスでは上手くいったりいかなかったりでも、困った時は必ず助けてくれる兄弟とも言うべき仲間が居たという。

「私は自衛隊での上司の導きから始まって、沢村忠さんとの出会い、花形満戦があったように、いろいろな人に恵まれて今があると思います。」

「人間は心臓一つしか無いんだから。二つも三つもある訳じゃないから。死ぬときは一回のみ。悔いの無い日々を送って、その日その日の一日を乗り切ればいいんです。ジタバタしない。何があっても今日一日は乗り切る。そう思って頑張れば必ず奇跡は起こるといつも思っていますよ!」

現在、計画していることは「目黒ジムは何とか復活させたいんです!」という野望。

近年のキックボクシングの在り方について意見を求めると、
「今時の3回戦制なんて誰が決めたのか知らんが、あんなもん試合じゃないよ。アマチュアだね。プロ格闘技の意味が無いよ。キックボクシングは初期からの規定どおり3分の5回戦でやらなきゃ。復活しなきゃ面白くない。誰かが戻さなきゃ駄目ですよ!」

世間では忘れ去られようとしている昭和のキックボクシング。富山勝治さんが奇跡を起こすしかないかもしれない。

富山勝治さんの語り口はこれだけでは収まらない展開でした。

現役時代は理髪店には三日に一回。現在は毎日御自身で整髪、鏡越しにハサミでカットするとか。現在もプロ意識を持った語り口には感謝でした。またお会いする機会があれば諸々お尋ねしたいと思います。

TBSでは名コンビだった二人。「具志堅くんは今でも俺を立ててくれる、感謝を忘れない男ですよ」

今年9月24日の最新画像、藤原敏男さんと増沢潔さんと並ぶ、50年前に観たかったカードである

富山勝治さんが語る沢村忠さんとの出会い、花形満戦の想いは、舟木昭太郎トークショーに於いて語られた、2019年5月12日掲載、「元・東洋ウェルター級チャンピオン、富山勝治さん現る!」を御参照ください。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年11月号

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