感染拡大が確実なのに、日本政府の対策が定まらない。いわずと知れた新型コロナウイルス(COVID-19)についてである。「専門家会議」なる団体は「罹患の恐れのある人は自宅で留まる」ようにと、責任放棄ともいえる暴論をはきだした。


◎[参考動画]「1、2週間が瀬戸際」 政府の専門家会議が見解(ANN 2020/02/25)

新型コロナウイルスに罹患しているかどうかをチェックするキットは、すでに開発されているのだから、軽度のうちに罹患者を発見し、家族や周辺の人から罹患者を隔離するのが、予防原則だと思うが、厚労省にはそういう考えがないらしい。

大規模イベント主催者の対応には、苦悩が見られる。無観客試合を計画したり、コンサート場などは中止も珍しくなくなってきた。そのなかで、最後の最後まで「連中」が放棄しないのは、利権の祭典「東京五輪」だ。しかし、わたしに限っても、これまで何回も批判してきた偽りの「復興の祭典」は、文字通り赤信号がともりだした。日本を対象として「渡航禁止」を出す国が増加しはじめた。各地の観光地も閑散とした状態で、ついに愛知県では旅館の倒産も発生した。

朝日新聞紙上は矛盾に満ちている。「東京五輪」称揚と、新型コロナウイルスにに対する警鐘。優先順位をスポンサーである立場が誤認させているのか。なにを優先すべきかがまったく伝わらない。


◎[参考動画]IOC委員 東京五輪中止も検討 判断は5月下旬まで(FNN 2020/02/26)

ある程度は仕方ない面もあろうが、クルーズ船内では、かえって罹患者を増加させてしまう始末。神戸大学の岩田健太郎教授がその対応の杜撰ぶりを徹底的に糾弾した。あれと同程度に無責任な体制が「東京五輪」を背景に抱えることにより、深刻化している。「重症者」になってから対応したのでは、感染症は遅い。この簡単な原理原則が通じない、この国では、残念ながら爆発的感染が近く訪れるだろう。


◎[参考動画]Japan ends ‘failed’ coronavirus quarantine on cruise ship(DW 2020/02/19)

わたしは、おもしろがっているのではない。わたし自身が癌患者を家族に持つものとして、医療機関で検査を進めているが、感染症の爆発的広がり(パンデミック)は、感染症以外の疾病患者への対応を遅らせることにより、副次的に犠牲者を増やしてしまう。

こういった大規模な感染症にどのように対応するかどうかで、その国や地域が国民の命をどう考えているかが鮮明に浮き上がる。嘘ばかりついて、責任を取らない最高権力者をこれほど長く頂いていると、結局被害にあうのは国民だということを、痛みをもって(場合によっては「取り返しのつかぬ」かたちで)知るしか手段はないものなのか。残念至極である。


◎[参考動画]【報ステ】“コロナショック”株価急落 経営破綻も(ANN 2020/02/25)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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菅義偉官房長官は2月18日の記者会見で、新型コロナウイルス(COVID-19)による肺炎の治療薬剤開発に関し、国立国際医療研究センター(東京都新宿区)を中心に抗エイズウイルス(HIV)薬剤の臨床試験の早期開始に向けて準備を進めていると説明した。


◎[参考動画]2020年2月18日(火)午前-内閣官房長官 記者会見

いまのところ対処療法しかない新型コロナウイルス(COVID-19)に対して、一部の抗ウイルスHIV薬剤の有効性が伝えられていた。HIV対策にはウイルスに感染した人に対する薬剤と、ウイルスの侵入を防ぐ薬剤など様々な薬剤が開発されている。今回新型コロナウイルスに有効であろうと見込まれているのは、現在VIIVという英国の製薬剤会社だけが、特許を保有する「ウイルスの侵入」を防止する薬剤である。


◎[参考動画]Living with HIV? Today, it’s just living.(ViiV Healthcare)

2月14日、本通信で報告した通り、新型コロナウイルスは「4つのインサートすべてのアミノ酸残基の配列は、HIV1 gp120またはHIV-1 Gagのアミノ酸残基のそれと同一または類似しています」との研究結果が示唆する挙動を見せていることが、ここ数日でも複数の研究者から明らかになった。

そこで、日本政府も同様の薬剤の臨床試験を行う姿勢を見せたということである。しかし、現在同様の薬剤剤は世界でVIIV社しか製造していないことから、特許や販売許可への障壁も考えられる(VIIV社には塩野義製薬も出資している)

「The Lancet」が非常に権威のある科学雑誌であることは、前回本通信でご紹介したが、通常有料でしか購読できない同誌が、新型コロナウイルス(COVID-19)に対しては、その緊急性と重要性を認識したためか、無料購読の許可を続けている。一般には「一年以上かかるだろう」といわれている対策薬剤の製造が、VIIVが保有しているHIV対策ウイルスの援用により、早まることが期待される。


◎[参考動画]ワクチン準備に18カ月(2020/02/12)

巷では、紙のマスクが店頭から姿を消している。けれども、罹患者が他者への伝染を防ぐ効果は紙マスクには期待できるが、ウイルスは極小さな粒子であるので、紙マスクをしているからといって「予防」にはあまり役に立たないことは、冷静に知られるべきだろう。紙マスクを利用すればわかるが、鼻と肌のあいだに、まったくマスクが覆わない部分が、よほど注意しないと生じるし、そもそもウイルスの粒子の大きさは、一般的(特殊に繊維の細かいものを除く)な紙マスクであれば、通り抜けてしまう。

売り切れた紙マスクが手に入らず、途方に暮れる方々は、綿の布を水に浸してその上からタオルを巻く(見かけは悪いが)などの手段をとる方が、簡単で有効だ。

(本稿は医学に造詣の深い複数のかたのアドバイスをいただき構成した)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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中国・武漢発とされる新型コロナウイルス「COVID-19」が猛威を振るっている。新型肺炎(SARS)を上回る勢いで感染が拡大し、近隣国であるこの島国でも罹患者が増加傾向にある。


◎[参考動画]Coronavirus disease named Covid-19

SARSが急に流行したときに、わたしは「動物からの感染で、変異が起こったというけれども、それならどうしていままでおこらなかったのか?」と不思議に感じて、自然科学研究科(医学者ではない)数人に見解を聞いてみた。回答は「わからないし、はっきりしたことは検証しなければ結論が出せないだろう」だった。

新型コロナウイルスについて、余計な混乱を招きたいとは思わない。しかし、発症が伝えられた当初から、「自然発生」であるのであれば、ずいぶん不自然だと感じざるを得ない、中国当局の対応が気にはなっていた。中国という「大きすぎる」国は、一応「共産党」を名乗る権力が支配しているが、どこにも共産主義や、社会主義の残滓は見られない。なんども私見を開陳しているが中国は内に向けても、外に向けても「帝国主義」国家以外のなにものでもない、とわたしは判断している。


◎[参考動画]Coronavirus: China’s Xi visits hospital in rare appearance

さて新型コロナウイルスである。素人の井戸端会議や、自称専門家のどうでもいいコメントではなく、『ランセット(The Lancet)』という世界的に権威ある科学雑誌にこの一月二九日、“Genomic characterisation and epidemiology of 2019 novel coronavirus: implications for virus origins and receptor binding” (https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)30251-8/fulltext) の論文が掲載された。

“Genomic characterisation and epidemiology of 2019 novel coronavirus: implications for virus origins and receptor binding”(The Lancet)

この雑誌に論文が掲載されるのは容易なことではない。世にいうインパクトファクターでは、有名な“Nature”をしのぐ権威のある雑誌である。ここには、塩基配列解析により、新型武漢ウイルス(正式名称: 2019-nCoV=COVID-19)は、その遺伝的近縁度は、コウモリのコロナウイルスと極めて近い、と言うよりは、コウモリのウイルスと判断される。しかし、そのウイルスが宿主に取り付く部位(取り付くと感染する)は、サーズウイルス(SARS-CoV)の部位と似ていると分析されている。少しややこしいが、2019-nCoVはコウモリのウイルスに分類されるけれども、宿主への結合部位はSARS-CoVであることから、ヒトへの感染することになるというのが結論だ。

その後、2020年1月31日にbioRxivというサイトに” Uncanny similarity of unique inserts in the 2019-nCoV spike protein to HIV-1 gp120 and Gag”「 2019-nCoVスパイクタンパク質のユニークなインサートとHIV-1(エイズウイルス) gp120およびGagとの不気味な類似性」(https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.01.30.927871v2)が発表された。

英語論文であるので読むのが難しいかもしれないが、最初の要約で「現在、2019年の新型コロナウイルス(2019-nCoV=COVID-19)による大流行を目の当たりにしています。 2019-nCoVの進化はとらえどころのないままです。 2019-nCoV(COVID-19)に固有で、他のコロナウイルスには存在しないスパイク糖タンパク質(S)に4つの挿入が見つかりました。 重要なことに、4つのインサートすべてのアミノ酸残基は、HIV1 gp120またはHIV-1 Gagのアミノ酸残基と同一または類似しています。 興味深いことに、挿入物が一次アミノ酸配列で不連続であるにもかかわらず、2019-nCoV(COVID-19)の3Dモデリングは、それらが受容体結合部位を構成するために収束することを示唆しています。 2019-nCoV(COVID-19)に存在するHIV-1(エイズウイルス1型)の重要な構造タンパク質のアミノ酸残基と同一性/類似性を有する4つのユニーク配列の生成は、自然界で偶然では起こりえない。 この研究は、2019-nCoV(COVID-19)に関する未知の洞察を提供し、このウイルスの診断と重要な意味を持つこのウイルスの進化と病原性に光を当てます」との書き出しではじまっている。(翻訳はわたし自身ではなくGoogle翻訳を利用した)


◎[参考動画]How coronavirus (Covid-19) spread day by day

注目すべき点は「コロナウイルスのアミノ酸基が、「HIV1 gp120またはHIV-1 Gagのアミノ酸残基と同一または類似している」ことと、「HIV-1の重要な構造タンパク質のアミノ酸残基と同一性/類似性を有する2019-nCoV(COVID-19)の4つのユニークなインサートの発見は、自然界では偶然ではありません」と、人為的な操作により「コロナウイルス」が作成されたのではないかとの指摘である。

その後に詳細な分析結果が紹介されている。わたしは自然科学の素人だが、詳しい人にきくと「最初はコウモリからヒトへの感染かと思われたが、どうやらそうではなく、人為的に作成されたのが『コロナウイルス』ではないか、との疑いを否定できない」と、驚くこたえがかえってきた。

報道が伝える通り、武漢郊外には生物兵器研究を行う施設があることは、よく知られている。重症化と感染力は仮に「生物兵器」であればかなり強力であることを想定しておかなければならないだろう。軽症で快癒するケースも多いが、重症化して死に至る患者数は、おそらく数週間後には桁がひとつ(あるいはふたつ)違っているかもしれない。

繰り返すが、わたしはいたずらに混乱を引き起こしたいわけではない。体力の弱いかたや、高齢者は、できれば人混みに出かけるのを避けて「自己防衛」するしか、対策はないだろう。人混みに出かけるかたは、水分を20分おきに摂取する(ウイルスは胃に入れば、胃酸に淘汰される)ことも有効だろう。


◎[参考動画]Scale of the coronavirus outbreak

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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《わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである》

いきなりの引用で恐縮であるが、横山茂彦さんのわたしに対する天皇制観のご意見である。横山さんは「賭けてみたい」と表現されている。わたしの根本的な疑問は、これまで達成された試しもないことに、どう考えても窮屈さを増す言論状況の中で、「なにをどう賭ける」と横山さんが主張なさっているのか。まったく訳が分からない。「賭ける」ときには持ち札なり、持ち手が必要だ。文脈からすると「皇室の民主化」が横山さんによる「賭け」の持ち札と想像されるが、わたしには見当違いとしか思えない。

それから1月27日の横山さん稿は、随分広範囲に議論が展開されている。そのなかではわたしがまったく主張していないことが、あたかも私の主張のように展開されている(一度に多くの論点を詰め込むと議論がわかりにくくなるのではないだろうか)。まず《田所さんは「左翼」をこう定義するという》と横山さんは勘違いしておられるが、わたしは自分の定義ではなく、一般的な理解に近いものとして「Wikipedia」からその定義を引用していると明示している。左翼の定義はわたしの定義ではない点はまずご確認いただきたい。

そのうえで、横山さんの元号への親和感と天皇制についての諸議論に移るのであるが、どうしてわざわざこのような問題で、わたしが取り上げてもいない、議論にまったく関係のないネット上の、どうしようもない書き込みなどを引用なさるのであろうか。

《「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇 日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが》「便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが」ではなく、本通信での議論とまったく無関係な「便所の落書き」(横山さんの表現)を持ち出す必要がどこにあるのだろうか。かとおもえば、急に、《天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう》

と、至極真っ当な指摘が出てくるので、わたしは混乱する(読者も混乱するのではないだろうか)。わたしは天皇制専門の研究者でもないし、限られた命の時間をこれ以上無駄に使おうとは思わない。わたしなりに天皇制や元号については一定の結論が出せている。

《昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた》

総論違います。昭和天皇の戦争責任議論については、このような曖昧な濁しかたでは到底浅すぎる。横山さんは昭和天皇の戦争責任についてはどのようにお考えなのかをまず明確にして頂きたい。わたしは「生きて虜囚の辱めを受けず」と大元帥の立場から下級兵士に強制し、侵略戦争敗戦の挙句、天皇制とみずからの命乞いのために、マッカーサーに泣きついた、極限的に無責任で許されざる人物としか理解できない。横山さんは皇室に親和感を持っていらっしゃるので、それに続く人物の評価が上記のようになるのかもしれないが、極めて重大な事実誤認(あるいは横山さんが事実を御存知ないのかもしれない)がある。

それをここで書きたい。が、書けない。なぜか。いくら「タブーなき」鹿砦社のメディアであっても、「そのこと」を書けば、「そのこと」が事実であっても、鹿砦社業務に支障が出たり、わたし自身の身に危険が及ぶ可能性があるからだ(横山さんのメールアドレスは存じていますので、「そのこと」が「なに」を指すかを私信でお伝えするのはやぶさかではありません)。

そして「左翼は軍備を否定しない」との主張でずいぶんいろいろなことを論じていらっしゃる。違う。左翼であろうが右翼であろうが、日本国憲法を小学生程度の日本語力で読めば日本国は軍備を持てないのだ(一般に左翼が軍備や軍隊を否定しないどころか、革命にはほぼ「実力部隊」が必要であることを知ったうえで申し上げる)。だから財政問題を論じるのであればどうして軍事費(防衛費)削減に言及しないのか、との疑問がわくだけのことだ。蛇足ながら憲法9条をもう一度確認しよう。

《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。》

天皇制が1条から8条までで規定されている次の9条が、いわずもがな上記の文言だ。横山さんの、
《わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう》

には賛成できない。なぜならば、現状はもっとひどい「違憲状態」であるけれども、横山さん案だって「早期哨戒と地対空ミサイル部隊」を認めている点で「違憲」であるからだ。簡単なことだ。けれども日本人(日本人だけではないかもしれない)は、成文の最高法規があって(小学生程度の読解力があれば理解できる簡易なことばであらわされて)も、平気でそれを無視し、正当化する不思議な思考の持ち主だということである。この点わたしは深く「絶望」し続けているし、横山さんの主張にまたがっかりさせられた。

横山さん。わたしは、なまじ根拠のない「希望」を語るより、事実を見据えてしっかり絶望しているほうが、小なりといえども意見を発する者の態度として真摯であると考える。しかし「絶望」は横山さんが意味するような「あきらめ」ではない。「絶望」が深ければ深いほど、光明への渇望もまた強くなるのであり、わたしは「なにもかもあきらめよう」などと主張しているのではまったくない。逆だ。

だから「左翼は軍備を否定しない」の論旨はわたしにたいするものであるとしたら、ひどく筋違いである。わたしはいま、この国の法的規定を前提に議論しているが、わたしの考えと法体系はかすりもしないほど相いれない。いずれにしても論点を絞りましょう。

[関連記事]
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◎田所敏夫-山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈前編〉

▼田所敏夫(たどころ としお)
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きょうは『建国記念日』だ。どうしてこの日が『建国』の記念日なのだろうか。本原稿がこの日に(予定したわけではないが)掲載されることを契機に、その理由をお調べいただくと(御存知の読者が多数であろうと拝察するが)、以下の文章をおわかりいただく一助になるかもしれない。

本通信で横山茂彦さんから数度にわたりご教示を頂いている。勉強すべき点と、なかなか理解ができない点、あるいは明らかにわたしと意見が違うであろうと思われる点などが混在しているので、いま一度わたしの考えを整理して生産的(?)な議論となるように、方向が誤っているのであれば修正を試みたい。

まず横山さんは、わたしが「議論を逸らしている」と指摘されている(1月27日付け横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える)。議論を逸らすつもりは毛頭ないので、わたしの思考が浅いか文章表現力が不充分である可能性もあるが、再度この箇所を確認する。横山さんは、

《わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる》

と指摘されている。そうだろうか。わたしは自分の見解を明らかにする前段の説明として、横山さんが安倍晋三の演説力を例示なさったので、それには同意できなかったから、小泉純一郎と橋下徹を挙げたまでで、これが主張の中心部分ではない。横山さんは、

《なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない》

と評されている。わたしが指摘したのは「演説力」の持ち主として橋下を挙げたまでで、政権を取る人物かどうか(そうでないことを願うが)はまったく念頭になかった(横山さんも「政権を取る人物か否か」ではなく「政治」を論じておられたと思うので、わたしに対する「的外れ」の指摘が、しっくり理解できない)。余計なことかもしれないが、橋下は「政治家引退」を表明しながらいまだに明らかな影響力を持ち、とくに大阪(大阪だけではなく関西といってもいいかもしれない)においては、いったん否決された「都構想」の住民投票が再び行われること、そして前回は反対に回った公明党も実質大阪維新に乗り換えたことは、横山さんも御存知だろう(ちなみに大阪市議会・府議会の「維新」、「自民」、「公明」三党の議席占有率が9割を超える事態である)。

さて、議論の中心となっている山本太郎評についての部分である。横山さんは、

《「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ》

と解釈なさる。意味は理解できる。しかし表現のありようは文字で現わされるものばかりではない。山本太郎はもう「普通の政治家」ではないとわたしは感じる。「それなら俺に権力をくれよ!」と怒鳴っている姿は、「意味」としては「政権を任せてほしい」と解釈可能でもあるが、映像を見る限り、その怒気と発語するタイミングなどは、かつての彼を知る身からすると、随分と違和感を感じざるを得ない。これはわたしの率直な「感想」だ。あの変容ぶりに「政治の本質はゲバルト」であるにせよ、薄気味悪い危険性を感じる。

それから横山さんが主張された「政治は独裁である」とのテーゼに反論しない、というわたしの意見は、「プロレタリア独裁や現実の政治で『独裁』が歴史的にも行われた」ことを了解するが、それをもって「民主主義」を掲げる今日の日本で堂々たる「独裁」は具合が悪くはないか、という疑問である。実態は既に「独裁」だ。自公政権などといっても、野党に明確な反対勢力もなく、小選挙区制度を続けている以上、この国の政治風土上「独裁」は既成化しているし、この先も続くだろう。選考制度の変更なしに「独裁」から抜け出す道はないだろうし、わたしは「独裁」をまったく好感しない。

そして、わたしが山本太郎は「左翼ではない」と主張したことに、横山さんは違和感をお感じのようである。わたしは、中核派まで選挙運動に参加させ「脱被ばく」を掲げて当選した山本太郎氏の当初の主張を「左翼」(日共に象徴的な「旧」左翼か新左翼かは別にして)あるいは「左派」であろうと考えていた。その後彼の主張は徐々に変化するのである。変化するのは仕方ない。

しかし変化したのであれば、過去の主張のどこがどう間違っていたのかくらいは、平易な言葉で話す山本太郎氏であれば、わかりやすく解説してくれよ(「総括」という言葉はあえてつかわない)と思う。なぜならば、わたしは、山本太郎氏が公約に掲げた「脱被ばく」はいまでも喫緊の課題であると考えるし、それを後退させる理由がまったく見当たらないからだ。

少しわき道にそれる。自覚してわき道にそれる。山本太郎氏に限らず、わたしたちにとって、議論や討論するうえで(つまり「政治」の場において)、もっとも優先順位を高くおかれるべきテーマは、どのような課題であろうか。わたしは「命にかかわる問題」だと認識する。原発4機爆発という人類史上初の事故(事件)は、政府ですらが「首都圏から3000万人の避難を迫られる可能性」を試算していた。その危険性は横山さんも、かねてより御存知の通りである。地震の活動期に入ったこの島国において、原発停止(廃止)は、理性的に考えれば、あらゆる政治課題に優先するとわたしは感じる。もちろん、消費税廃止にも、奨学金支払い免除も悪い政策ではないが、それらはすべて「この国が存続する」ことを前提にした議論ではないのか。

繰り返すが、考えが変わったのならばそれでよい。山本太郎氏は「わたしは昔のわたしではありません」とひとこと宣言すべきではないか。彼は当選直後の記者会見で述べている。

「裏切るなんてあり得ないですよ。この人たち(選挙事務所に詰めかけたボランティア)に殺されますよ」

少なくとも人柄ではなく「政策」に賛同したひとびとに「変わったのであれば、変わった」と説明する必要があることを彼は知っていたのだ。その程度の要求でも不当だろうか。

さて、元号や天皇制についてである。横山さんとわたしは「感覚」がまったく違うようだ。横山さんは、
《元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる》そうだ。

わたしは感覚的には一部理解できなくもないが、元号と天皇制の近代史で果たした意味を知れば知るほどに、嫌悪の念が増すばかりだ。幼少の頃、あるいは、ろくに世の中の成り立ちを知らない頃には、わたしも平気で元号を使っていた。それは「無知」であったからだ。わたしは元号に対して、少なくとも横山さんのように寛容にはなれない。次の横山さんの問いかけに、正直言えば「大丈夫ですか」と言いたいぐらいにびっくりもしている。

《個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい》

いちいち学者や研究者著作からの引用を持ち出さなくとも、元号が天皇制と直結していることに争いはないだろう。わたし個人の思いではなく、客観的事実として「元号は天皇制と結びついている」。これは間違いなのだろうか? 天皇制について横山さんは、

《むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)》

と仰天するような評価を披歴なさっている。仰天するといのは、横山さんが『情況』という雑誌の編集長だからだ。個人の意見としてそのように考える人がいるであろうことは知っているが、『情況』という雑誌の性質を、わたしは完全に誤解していたのかもしれない。天皇制のどこに「国民的親和性」があると横山さんは主張なさるのであろうか。「汎アジア主義」とはアジアへの侵略以外にどう理解すればよいのでしょうか?「ゲルニカ事件」や「日の丸君が代処分」事件などを引き合いに出すまでもなく!…いや、もうやめたほうがいいのかもしれない。

わたしは頭が悪いので、迂遠な表現が使えない。横山さんの主張を全力で理解しようと努力したが、やはり完全に無理だ。出来うることであれば安易な言葉でわかりやすく、ご教示いただければ幸甚である。今回の問いは1つにする。

「元号と天皇制は結び付いていませんか?」

(後編へつづく)

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◎田所敏夫-政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び──横山茂彦さんの反論への反論
◎横山茂彦-天皇制(皇室と政治の結合)は如何にして終わらせられるか
◎田所敏夫-天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異
◎横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える

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本欄1月14日、15日付の「ポピュリズムの必要――政治家・山本太郎をめぐって」について、田所敏夫さんから「政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び」という反論(1月16日)をいただいた。「回答をお待ちする」とあるので、返答したい。

※本稿を寄稿したあとに「天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異」という再反論の記事が掲載(1月24日)されたので、少し長くなるが2回目の「反論」については、後段で扱わせていただいた。いずれにせよ拙文に望外の反応いただき、田所さんには感謝しかない。

 

『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

◆論軸を逸らしてはいけない

わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる。これは論考を成すうえでの基本作法、議論の原則から外れている。論軸を逸らすことは、論点を曖昧にするばかりか、議論そのものの生産性を阻害するものだと指摘しておこう。

論じられている中でも、個々の政治家の演説力を論じた部分は、あまり興味をそそられなかった。なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない。ただし「元号批判」「自衛隊の予算削減」や「日米安保」に絡めた「左翼」の基準については議論に面白みがある。せっかくなので後段で取り上げたい。

まず、立論の矛盾および論証がない点について。

《そもそも、政治家が個人の言説を前面に押し立てて、どこか支配的(独裁的)な言説を振りかざすのは、選挙運動においてはふつうのことである。(中略)したがって、あらゆる政治家は大衆の前において、独裁者のごとく振る舞うのだ》(横山)という「テーゼの大部分にわたしも異議はない」と田所氏は表明されている。にもかかわらず、山本太郎の「独裁体質」は批判するのだ。以下、引用しておこう。
「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。

言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ。

「異議はない」と同意された上記の「テーゼ」と、どの地点で評価が変わってしまうのだろうか? 横山が云う「独裁(テーゼ)」は良くても、山本太郎の「独裁体質」が危険だというのは矛盾である。

また、田所さんは同じく「異議はない」とした上記の引用につづけて、
「わたしが危険性を感じるのは、むしろこのテーゼが無効化された現在の状況を前提とした議論である。」というのだが、その中身がまったく展開されていない。なぜ「(横山の)テーゼが無効化され」て「現在の状況」があり、それを「前提とし」なければならないのか、これではよくわからない。

◆「左翼」である必要はあるのか?

田所さんの山本太郎評は、どうやら「左翼」であるか否かになっているようだ。以下、引用する。

「横山さんと私の決定的な違いであるが、わたしは山本太郎氏を『左翼』とは見做さない。」

この「左翼」という言葉に、思わずドキリとしてしまった。わたしは確かに「日本の左派にもようやく、大衆を扇動できる政治家(ポピュリスト)が登場した」と山本太郎をと評している。「左翼」と定義していると取られたのは不覚(失敗)である。わたし自身が相対的に「左派」であるという自覚はあっても「左翼」ではないと意識しているからだ。そして政策の評価と人物評に、左翼であるか否かはおよそ関係がないと考える。

60年代には「進歩的」「変革」「革新」と「左翼」は同義で、「右翼」と「反動」「封建的」「保守」が同義だった。しかし、いまや「サヨク」は「パヨク」「ブサヨ」として、ネトウヨに侮蔑されている。あながち、いわれがない蔑称でもなくて、何にでも反対する内容のなさが一般大衆からも、底を見すかされていると言えなくもない。これは右派(右翼ではなく保守)が新自由主義のもとに「改革路線」を標榜するようになっていらい、旧来の左派が「守旧派」「既得権墨守」とみなされるようになったことと無関係ではない。いずれにしても、胸を張って「わたしは左翼だ」という人々は、いまやごく少数なのではないか。

田所さんは「左翼」をこう定義するという。

「《左翼とは、政治においては通常、『より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層』を指すとされる。『左翼』は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、進歩主義、急進的な自由主義、無政府主義傾向の人や団体を指す》といったところであろう。」

すいぶんと振れ幅の広い定義だが、せっかく「左翼とは何か」というテーマをいただいたので、今回のテーマに沿って議論をすすめよう。

田所さんは云う。

「山本太郎氏が立ち上げた、あの新党の名称のどこに『左翼』のエッセンスがみられるのだろうか。既成政党のなかで、もっとも反動的な名称ではないのか。」

なるほど、令和という言葉には、令(命令や法律)と和(共同体・親和性)のなかに、反動的な統制国家を標榜するかのような印象がある。漢語学的な問題点、あるいは歴史的な不吉さも指摘されてきたが、ここでは踏み込まない。田所さんも論証されていないのだから。

元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。

たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる。

個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい。少なくとも文献史学のうえで、元号および天皇制が「被差別」と関連付けられるものは、政治権力の恣意性・身分政策のなかにしか存在しない。それも伝統的な位階制や職能制を離れた、武家政権独自の身分政策なのである。むしろ古代いらいの天皇制(公地公民制)を壊すことで、中世の摂関支配(荘園制)および封建的な身分制(差別)が成立したのだ。

いまも天皇制とは無関係に、むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)を否定するかのように、レイシズム(排外主義)とナショナリズム(国家主義・民族主義)の「国民分断」が跋扈している。民族排外主義から天皇を排撃すらするネットの書き込みも少なくない。たとえば、

「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0
明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇
日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)

「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)

便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが、昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた。

それはともかく、国民の意識レベルでの天皇制(皇室と政治の結合)を問題にするのならば、天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう。したがって個人的に元号を口にしない、書かないということが論説・論考にならないのは前回指摘したとおりだ。

◆「左翼」は軍備を否定しない

もうひとつは「いくらでも削れる防衛費と日米安保に『左翼』であれば言及するのではないか」(田所氏)という指摘である。山本太郎は自衛隊の存在を、災害救護に必要という観点から是認している。わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう。

ところで「左翼」が防衛費と日米安保に言及するのは、まったく別の理由である。

左翼にとって日米安保は国家権力の一部を軍事的にアメリカが補完している、まさに権力問題としての打倒対象なのだ。わたしは「左翼」ではないので、むしろ「新右翼」のように、アメリカは沖縄と日本から出ていけ、日米安保を打破して日本の独立を、と考えている立場だ。わたしと同じような立場の「左翼」は少なくないが、まさに左翼という幅の広さを「防衛費削減」一般で括れないことを、そのことは示している。

そのうえで、ずばり核心部から説き起こそう。共産主義を標榜する左翼の大半は「軍隊を堅持する」立場なのである。自衛隊(帝国主義軍隊)の防衛費を削減要求することはあっても、革命政権をにぎれば「ブルジョアジーを警護する専門的な軍隊を廃止し、全住民の武装」をもって革命の成果を防衛する。

ロベスピエールが国民議会の外にその力を頼み、マルクスを有頂天(『フランスの内乱』)にさせたコミューンおよび国民軍である。レーニン政権の労兵ソビエトおよび赤軍である。その意図するところは、選ばれた特権的な職業軍人ではなく、国民皆兵(および志願制)の人民軍である。女性や子供も武器を取るという意味では、戦前の徴兵制よりも徹底した軍事国家であろう。これが共産主義者の軍事に対する態度なのである。日本共産党も95年までは、綱領的に自衛隊の解体とそれに代わる武装自衛組織、を謳っていた。つまり「中立・武装・自衛」だったのだ。※なし崩し的に「非武装中立・自衛隊の活用」に移行した。

新左翼系では「共産主義突撃隊」「赤軍」(ブント)や「革命軍」(革労協両派・中核派)、反日武装戦線(各部隊)という組織が作られ、実際に武装闘争が行なわれた。100人もの反革命敵対分子を「殲滅(殺戮)」したことから、革命政権下の軍事独裁、反革命の処刑を否定しないであろう。そのことこそ、わたしが「左翼」をやめた契機である。前回も少しふれたが「戦犯天皇処刑」や「反革命分子を処刑」しながら、死刑廃止運動には賛成するなどというご都合主義。ある意味では「自衛隊の予算増強には反対」し「革命軍を組織する」に通底する左翼のご都合主義こそ、批判されなければならないのではないか。もはや革命戦争の時代ではない。

◆天皇制を論じることこそ必要である

1月24日の「反論」は、もっぱら天皇制をめぐるのものとなっている。わたしは田所さんが天皇制を踏み込んで批判していないから、オピニオンになっていないと指摘したのである。くり返しになる部分もあるが、簡潔にまとめておきたい。

田所さんは「わたしはその党名(れいわ新撰組=引用者注)を書くことができない」という。

これでは「天皇制および元号が嫌い」という表明以外の何ものでもないのではないだろうか。『鹿砦社通信』は個人的なサイトではないのだから「書くことができない」では読み手は困る。

「《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見」であるならば、もっと踏み込んで論じるべきであろう。と、わたしは田所さんの執筆姿勢に不満を感じるのだ。その姿勢は、どうやら天皇制廃止が不可能だから、ということらしい。どうしてそんなにペシミズムになるのだろうか。

書くことは人を勇気づけることである。たとえば文学においては、それが死をめぐるテーマであっても生きることへの賛美がなければ、作品は光彩を放たない。政権や政治家を批判する記事においても、読む者の意識を喚起する正義への情熱、あるいは人間愛の視点がなければ賛意を得られないものだ。この点において、田所さんの天皇制をめぐる寡黙は残念である。

田所さんは云う。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

その理由は、
「天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている『理由なき精神性』を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。」

天皇制には勝てない、と結論ありきのようだ。

「天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。」

わたしは持ち得ていると思うし、大いに議論できると思う。この島国の住民の内面にベッタリと染みついている、わたしに言わせれば「支配されたがる精神性」を打ち破る議論は、わが国の長い歴史の中で支配者が逆転した歴史を考えれば、大いに可能だと考える。廃仏毀釈と戦前の国教化を通じて、近代天皇制が国家神道(皇室祭祀と国家儀典の結合)としてわが国民の精神を支配したのは、まだ150年ほどの実績しかないのだから。この点については、天皇史として稿を改めたいが、簡単に触れておこう。

そもそも皇統は、万世一系ではない。いわゆる「欠史8代」は、神武いらい9代の天皇が神話的存在であることを教えている。神武東征の事績は倭国の移動を暗喩させる以外は、ほぼ完全に神話であり、以後の8代には執政の記録がないからである。10代崇神帝において、初めて税制や疫病対策などの事績が見える。崇神帝は邪馬台国卑弥呼の時代にかさなる。従って日本の紀元(皇紀)はせいぜい1800年といったところだ。以後、16代の仁徳帝、26代継体帝において王朝交代があったとされている。血統も変わっているだろう。じつはその時代、天皇は豪族連合の長にすぎなかった。卑弥呼が豪族連合に選ばれた史実に明らかだ。

じっさいに天皇親政(天皇制)が行なわれたのは、乙巳の変(大化の改新)による天智帝の時代から、孝謙(称徳)女帝までであって、光仁帝以降の天皇は、ほぼ全面的に藤原氏の摂関政治のお飾りとなった。後三条帝による院政の開始は、わが国にしかない二重権力をもたらしたが、鎌倉幕府の成立(承久の変)で院政も崩壊する。爾後、天皇が執政を振るうのは、後醍醐帝の建武の中興が20年あるだけだ。明治維新はしたがって、古代王権いらいの天皇の復権だったのだ。

今回、田所さんにおいても皇統および天皇制について、具体的な論証があったのでこれは評価したい。しかし、英国との比較で天皇制を特別視するのは誤っている。

「英国王室の長(おさ)は『王』(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ『神』(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。」

近代の社会契約説によって、英国王室は国民との契約(信頼がその実質)で成り立っているが、即位に当たっては神の聖油をうける「王権神授説」の残滓を残している。日本の天皇が神と同衾してその皇統継承を承認されるように、英国のKingもGodの代理なのである。宗教的祭司でかつ王であることは、しかし「アルカーナ(秘密・奥義)」というわけではない。所詮はナショナリズムを掻き立てる神話(日本の「記紀」英国の「アーサー王伝説」)にすぎない。

そして皇位継承の神事も、明治時代に復刻された古代儀式であって、そもそも天皇は仏教徒である。※参考図書『天皇は今でも仏教徒である』(島田裕巳、サンガ新書)。われわれ一般国民も戦前までは、死ねば「神仏」になれた。わたしの家は神道なので、父親の霊璽は「横山隆牛の神」である。そもそも唯一神(超越存在)のキリスト教と汎(多)神論の神道を、同じレベルでは論じられない。

麻生太郎の「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」という単一民族であるという妄言も、ほかならぬ平成天皇自身が否定している。

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」(日韓ワールドカップサッカーを前に、韓国との所縁にふれた平成天皇発言)。「一つの王朝」ではないことも、上述したとおりだ。

昭和天皇は大元帥として太平洋戦争の指導(上奏と下問)を行ない、その戦争責任を問われるべき史実がある。平成天皇において山本太郎や白井聡、内田樹らをして護憲派の最後の砦と思わせるような政治的態度を示していることについて、運動内部の議論もある。これはまた、別の機会に紹介しよう。わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである。

「こと天皇制に限っては、『横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃない』」からこそ、元号を書かないとか論説を回避するとかのネガティブな構えではダメだと思うのである。まさに、
「『寓話』が不文律あるいは強制として『国是』とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに『知らせる』ところからはじめるほか、手立てはない」のである。田所さんの研鑽に期待したい。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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わたしの山本太郎氏の評価に続き、横山茂彦さんから天皇制についてのお考えが示された。横山さんは、

《「わたしはその党名を書くことができない」と言う。(2019年12月17日本欄「私の山本太郎観」)なるほど、天皇制および元号を是認する政治観に同調できないというのは、言論人としては清廉潔癖であるかのように感じられる。しかし、清廉潔癖であることはオピニオンとはおよそ別ものであろう》

と、わたしの反射に近い反応を評されている。

 

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わたしは、自分のいい加減さは自覚したうえで、横山さんがおっしゃっていることはその通りであろうか、と必ずしも同意はできない。あのとき「清廉潔白であろう」などと大げさに腹を決めて、「その党名を書くことができない」と表明したのではない。左派(横山さんの山本太郎氏評によれば)が何かを主張するのであれば、あの党名はあまりにも不適切すぎるのではないか、との疑問(なかば怒り)から、包み隠さずに気持ちを表明したまでである。そして、

《清廉潔白であることはオピニオンとはおおよそ別のものであろう》

との横山さんのご意見には、首肯できない。わたしは「清廉潔白」をもって自分の見解の正当性を訴求したのではない。塵のようなものであっても、意見は意見である。私見を表明することはそれで完結だ。わたしは、誰かに同調を求めたり、運動や行動の路線を領導しようとする意思など(当たり前すぎるが)持ち合わせていない。それは、わたしが本通信に掲載して頂いた、ほかの文章をお読みいただいてもお分かりいただけると思う。

《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見表明をとらえて、《清廉潔白であることは、オピニオンとはおよそ別ものであろう》と横山さんはご指摘なさるが、これには納得できない。だれがなにを考え発表しようがそれは個人の責任と自由に帰すことではないのだろうか。しかもわたしは脊髄反射のようにこの感覚を表明したけれども、けっして、わたしの人生史や、肉体史から離反した思いつきではない。表層的な「思想」といったものではなく、わたしにとっては、自分の経験も含め「体にうえつけられた」体験、いわば身体を伴った反応である。

横山さんは天皇制を擁護する立場ではなく、ご自身も「反天皇制デモ」に参加されたことがあるようだ。その上で、

《山本太郎や白井聡らに対して、天皇制を容認するのかという批判は、論者たちの「天皇制廃絶」を前提にしている。そうであれば、天皇制廃絶論者は天皇制を廃止するロードマップを提起しなければならない。天皇と元号について議論する、国民的な議論を経ない天皇制廃絶(憲法第一条改正)はありえないとわたしは思うが、そうではない道すじが果たしてあるのだろうか?》

と、ひとむかしまえの田原総一朗が、小選挙区制や自衛隊の海外派兵について「朝まで生テレビ」で野党議員に「対案を示せ!」と迫った光景を思い出させるような発問をされた。わたしの回答はこうだ。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

こういうと、あっさり白旗を挙げたかのように誤解されるかもしれないが、そうではない。まず天皇制は憲法上(あるいは社会制度上)法的な位置づけを持ったものであるのはご承知の通りだ。そして(しかし)、天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている「理由なき精神性」を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。

横山さんが疑問を投げかけるように、法的な正攻法では「国民的な議論」は必須である。その後に改憲を行うしか天皇制の法制度的変化は起こしえない。しかし、天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。天皇制のような大きな問題をでなくともよい。もっと卑近で小さな諸課題にさえ、義務教育はもちろん、識者も、マスコミも正確な情報や史実を国民に伝えていないではないか。少し歴史を紐解けば、大マスコミが「まとも」であったためしなど、この国の歴史にはほぼ皆無だと、わたしは睨んでいる(あったとすれば記者やデスクの個的な勇気による産物だ)。それどころか、大マスコミの社長や幹部が「定期的に首相と食事をする」。これが直視すべき今日、日本の現実である。だからこそ「反天皇制デモ」は、主張が真っ当であるかどうかにかかわらず「国民的な議論のステージ」を作り出せていない、とわたしは感じる。

想像してほしい。仮に敗戦記念日や原爆投下の日、太平洋戦争開戦の日などに、当時の出来事(なかんずく天皇がどのような判断を示し、それにより軍部や国民がどのように行動したのか)が正確・詳細に伝えられるような状況であれば、可能な議論の範囲はかなり違うだろう。横山さんにもご記憶があろうと思うが、わたしたちが学生であったころ、さして社会問題に深い関心のない学生とのあいだにだって、「天皇制の是非」の議論は可能であった(蛇足ながら80年代中盤であっても「天皇制擁護派」は圧倒的に少数だった)。それは、直接ではないものの、ヒロヒトが導いた第二次大戦を経験した世代(親及び祖父母)からの、伝聞が経験としてあったからではないだろうか(わたしの場合広島での被爆2世という出自が、それを増幅させているのかもしれないが)。

教育と、報道、あるいは娯楽を徹底的に利用して「天皇制への恭順」は日々増強されている。天皇制に限らす社会的な問題の軽重を測定するバランスをとうのむかしに失った、情報産業が流布する天皇制への無批判な賞賛はもう飽和状態の域に達している。

頭の中が無垢でまじめな若者が、そのあたりの書店に入ってまず目に入るのはどのような書籍だろうか。読む価値のある社会学や哲学の古典に行き着くのは容易ではない。仮にそのような書籍を目指すのであれば、山済みのハウツー本と、嫌韓本の山を越えなければならない。そもそも大学生の半数が月に1冊の読書もしない時代にあって、与党が安心しきったから投票年齢の18歳への引き下げが、在野から強い要請もなかったにもかかわらず、実行されたのはなぜなのか。これらの事象は、いっけん天皇制と無関係に見えるかもしれないが、そうではないだろう。

つまり、時代は既に「ファシズム」の真っただ中である、というのがわたしの基本認識だ。思想的にはぺんぺん草も生えないような、のっぱらが、現代であると、しっかり「絶望」することからはじめるほかあるまい(「絶望」は必ずしも最終的な諦念を示すものではない「闇を直視せよ」という比喩である)。

戦前・戦中のように「神」とたてまつるわけではなく、敷居をずっと下げて、北野武やジャニーズのタレントやスポーツ選手を多用しながら(つまりそのファンも巻き込む効果を利用して)天皇の代替わり儀式が行われたプログラムは、過去の天皇制よりも、外見は一見ソフトなようであるが、じつは、より強固に「反論を封じる巧妙さ」も兼ねそろえた。そんな状況の中で「国民的な議論」を喚起することなどが、どうしたら可能だと横山さんはお考えなのだろうか。

《わたしはこの欄でもっぱら、皇室および天皇制の民主化・自由化によって政治と皇室の結びつき(天皇制)はかならず矛盾をきたし、崩壊する(政治と分離される)としてきた。たとえば、自由恋愛のために王冠を捨てた英国王・エドワード8世、今回、高位王室から自由の身を希望したヘンリー王子とメーガン妃による、王室自由化。日本では「紀元節」に反対して赤い宮様と呼ばれた三笠宮崇仁親王、あるいは皇室離脱を希望した三笠宮寬仁親王らの行動。そして現在進行形では眞子内親王と小室圭さんの恋愛が、その現実性を教えてくれる。矛盾をきたした文化としての天皇および皇室はやがて、京都において逼塞する(禁裏となる)のが正しいあり方だと思う。皇室を好きだとか、天皇が居てほしいというアイドル感情(これは当代だけではなく、歴代の天皇および宗教的タレントがそうであったように)を強制的に好き嫌いを否定することはできないのだから、強制的に皇室崇拝を廃絶することも困難だろう。40年以上も天皇制反対(かつては廃止)を唱えてきた、これはわたしの実感である》

横山さんは実例をあげて「希望」を示してくださる。わたしは全面的に反対ではない。日本の皇室においてもスキャンダル報道が許容される幅は、広がっているのだろう。だが、先輩に対して失礼千万ながら、わたしの正直な感想を述べさせていただければ、

「横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ」

である。

天皇制を語る際に英国王室が引き合いに出されることが頻繁にある。英国だけではなく「欧州にはいまだに貴族がいるではないか」という意見も聞く。だが、彼らの決定的なあやまちは、英国王室の長(おさ)は「王」(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ「神」(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。このアルカーナ(秘密・奥義)については、歴代の首相や大臣がしばしばその本音を発言し問題化してきた。つい先日も麻生太郎が「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」と本音を語った。麻生のいう「王朝」は天皇制にほかならず、天皇制は「神」と「皇帝」の性質を併せ持つ。そんなことは日本国憲法のどこにも書かれていないし、皇室典範をはじめ、すべての法律をひっくり返しても記述はない。つまり天皇制は憲法における定義とは他に、「神話」根拠にした「寓話」の性質を有しているのである。しかし「寓話」が不文律あるいは強制として「国是」とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに「知らせる」ところからはじめるほか、手立てはない。

横山さんのいう、

《ついでに、天皇制があるから差別があるという、一見して当為を得ているかのような議論で、禁裏と被差別民の関係をじゅうぶんに論証しているものは、管見のかぎり存在しない》

は、天皇制と(象徴的には)被差別部落の関係を念頭におかれた論ではないかと思う。

わたしの主張はそうではない。単純に「生まれたときから『様』と呼ばれる人間がいる社会では、その逆の人が存在せざるを得ないのではないか」という極めて単純なことだ。身内で勝手に「様」と呼び合うのならいいだろう。けれども、権力により敬称を強制される人間が生まれる制度が、前近代的であるとわたしは批判しているのだ。『様』のほかには『様』と呼ばれない無数の人がいるであろう(このことだけでも充分に差別的である)。だからよその国の話ではあるが、中華人民共和国の侵略に対する、チベット民族抵抗の象徴として、以前は条件付きで留保していた、チベットにおけるダライ・ラマを筆頭とする「活仏」制度に対しても、わたしは容赦なく批判を加えるようになった(もっとも20年前以上から現在のダライ・ラマ本人は私的な会話で「活仏は私で終わりだ」と繰り返し述べていたけれども)。

もちろん、「好きな人が好き」というアイドル現象にくちばしを突っ込むつもりなどない。横山さんが構想するように、皇室が京都に帰って生活するもよし、廃絶されるもよしである。

しかし、最後にもう一度強調したい。こと天皇制に限っては、

「横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ」と。

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◎田所敏夫-政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び──横山茂彦さんの反論への反論

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

本通信らしい、議論が展開されはじめた。山本太郎氏の評価をめぐり、わたしが複数回展開した山本太郎評に対する、横山茂彦さんからの異なった角度からの問題提起である。横山さんはわたしの山本太郎評に対して、全否定ではなくかなり近い認識を持ちながら、それに対する評価が異なるようだ。

 

『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

横山さんは、わたしが表明した山本太郎氏が「ある種アジテーターとして優れた能力を持っている」「それは下手をすると結果的に『独裁』と紙一重の危険性を孕むことと大きく違いはない」との見たてには、同意を示された上で、

《そもそも、政治家が個人の言説を前面に押し立てて、どこか支配的(独裁的)な言説を振りかざすのは、選挙運動においてはふつうのことである。そして政治の本質は「強制力(ゲバルト)」なのだ。演説においては、打倒対象への憤激を組織するのが目標とされる。》と述べたうえで、《したがって、あらゆる政治家は大衆の前において、独裁者のごとく振る舞うのだ。なぜならば、彼の前にしかマイクがないからである。目の前の大衆が拍手喝采しているのに、黙り込んでしまうアジテーターは政治家として、およそ不適格であろう。それは政治の死滅を標榜する革命運動、あるいは反独裁・反ファシズムの大衆運動においても同様である。大衆の熱狂を前にして沈黙するような政治家(扇動者)は、そもそも演壇に登場するべきではないというべきであろう。いや、彼はもはや政治家ではないのだ。》

と政治家の本質を解説されている。

このテーゼの大部分にわたしも異議はない。わたしが危険性を感じるのは、むしろこのテーゼが無効化された現在の状況を前提とした議論である。《目の前の大衆が拍手喝采しているのに、黙り込んでしまうアジテーターは政治家として、およそ不適格であろう》はその通りであるし、《大衆の熱狂を前にして沈黙するような政治家(扇動者)は、そもそも演壇に登場するべきではないというべきであろう。いや、彼はもはや政治家ではないのだ》も同様だ。

◆凡庸な安倍の演説ではなく、むしろ小泉純一郎や橋下徹との比較を

しかし現在の日本で、大衆の拍手をあるいは熱狂を得ている政治家とはどのようなひとびとだろうか。組織動員の力を借りた与党連中の演説の中で、内容の如何によらず聴衆が騒いでいるのは、女癖と金に汚い本質がばれかかっている「環境問題はセクシー」な小泉の息子ぐらいではないか。

横山さんは、安倍晋三の演説もなかなかのもの(サイコパスとも評されているので揶揄ともとれるが)と書かれているが、わたしには安倍の演説は凡庸なものにしか思えない。選挙であろうが、国会での答弁であろうが、原稿なしに安倍が一定時間以上、聴衆引き付けた場面をわたしは見たことがない(わたしが見ていないだけでそういう場面がないとは言えない)。

安倍を引き合いに出されるのであれば、小泉純一郎をその代わりに提示していただければ、まだ納得できる。親(おや)小泉のアジテーション能力は、子小泉の比ではなかった(それが災いし郵便局が民営化され、新自由主義が進展したことについても横山さんは異論がないだろう)。

そのほかに聴衆を煽り立てる能力にたけた人物といえば、橋下徹くらいしかわたしには思いつかない(橋下もまた大阪ファシズム形成に甚大な役割を果たしただけの人物であり、災禍以外のなにものでもないとわたしは考える)。横山さんは《安倍総理に対抗できる政治家が山本太郎なのである》という。安倍が長期政権を維持できたのは、野党の分裂や小選挙区制により自民党内の派閥力学が衰えたなど複数の理由が挙げられようが、なによりも国民の非政治化(無関心)と庶民の右傾化も考慮に入れる必要がある。

◆わたしは山本太郎氏を「左翼」とは見做さない

日本共産党はしきりに「政権交代をしても自衛隊は存知する。皇室を廃止しない」をメインに据えたチラシの配布に余念がないし、民主なんとか党たちは「わたしたちが本当の保守」と「保守度合い」争いに重大な興味があるらしい。そしてこの点が横山さんと私の決定的な違いであるが、わたしは山本太郎氏を「左翼」とは見做さない。左翼の定義は様々あろうし、個々人で定義が異なっても構わないだろう。

だが「左翼」の原則的定義はウィキペディア(ウィキペディアなどを根拠にしたら怒られるかもしれないが)による《左翼とは、政治においては通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指すとされる。「左翼」は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、進歩主義、急進的な自由主義、無政府主義傾向の人や団体を指す》といったところであろう。

そうであれば、山本太郎氏が立ち上げた、あの新党の名称のどこに「左翼」のエッセンスがみられるのだろうか。既成政党のなかで、もっとも反動的な名称ではないのか。政党にあっては「名が体を現さない」のが実態だとは理解している。それにしても、いくらなんでも、あの党名はないだろうが!

あの党名と横山さんも述べておられるように、《すでに山本太郎は、昨年初めのたんぽぽ舎における講演で、原発廃止を選挙公約の前面に立てないと広言している。当然のことながら、参加者たちの批判を浴びたものだ》という転身は、軽視できない。たしかに横山さんが論じるように政治家には必要な資質があるだろうし、それを山本太郎氏は充分に備えていることをわたしは再度認める。であるから、危険なのだというのがわたしの危惧である。

彼は、原発爆発に敏感に反応し、高円寺のデモに参加し、テレビに出るタレントの99%が沈黙する中、やむにやまれず反原発活動に立ち上がった。わかる。立派だと思う。そして議員として活動する中で、数の力=権力の本質を短期間に熟知する。街頭での「公開記者会見」は彼にとってのスパーリングである。あれほどのスパーリングをこなしている政治家はほかにいないだろう。しかし、注意してみていると、山本太郎氏の「独裁体質」は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと「それなら俺に権力をくれよ!」と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした(もっともその質問者がかなり的外れで、丁寧な回答にも屁理屈を続けていた、という状態ではあったが)。

MMTを柱とする経済政策について、最近山本太郎氏はさすがに危険に気がついたようで、いわゆる「リフレ」一本であった主張から、税制の組み換え(消費税廃止、累進税率、法人税の上昇)にシフトしているようだ。

横山さんはかつての赤字国債が機能した例を挙げておられるが、その当時と現在では決定的な違いがある。高度成長期(経済成長による税収の増加を見込むことができる時代)と、低成長期(ほぼ経済成長しないので税収増も期待できない)では状況がまるきり違う。それに日本における国債発行の原則は《「建設国債」に限り、赤字国債は例外的なもの》というのが中学校の社会の時間にわたしたちの世代が学んだ原則だ。だから鈴木善幸が総理大臣になった時の公約は「増税なき財政再建」だったのではないだろうか。

そしてわたしが疑問に思う新たな点をもう一つあげておく。どうして削減が可能な防衛費(軍事費)の削減について、山本太郎氏はひとことも言及しないのか? 現在の防衛費は単純に数字を見ていても解らない。防衛装備庁が設立されるなど、勘定項目で「防衛費」にカウントされない仕組みがつくりあげられているからである。いくらでも削れる防衛費と日米安保に「左翼」であれば言及するのではないかと考えるが、横山さんのご意見はいかがであろうか。

横山さんからの新たなご回答とご反論をお待ちしております。


◎[参考動画]日本記者クラブ 山本太郎 記者会見 2019年12月4日

[関連記事]
◎田所敏夫-私の山本太郎観──優れた能力を有するからこそ、山本太郎は「独裁」と紙一重の危険性を孕んでいる政治家である
◎横山茂彦-ポピュリズムの必要 ── 政治家・山本太郎をめぐって
◎横山茂彦-天皇制(皇室と政治の結合)は如何にして終わらせられるか

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

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◆P3Cが中東の上空で、いったい何を「調査研究」するというのだ?

中東海域で、日本関係船舶の航行の安全を確保するために派遣される海上自衛隊のP3C哨戒機部隊が1月11日、海自那覇航空基地を出発・派兵された。ソマリア沖アデン湾で従来の海賊対処を継続しながら、20日に新たな情報収集任務をはじめるそうだ。

この自衛隊派兵に際して、防衛大臣河野太郎は「中東地域の平和と安定は我が国を含む国際社会にとって極めて重要。勇気と誇りを持って任務に精励してください」と訓示をしたそうだ。「一見何かを言っているようだけれども、実は何をを言いたいのか、さっぱりわからない」はなしが世の中にはよくある。河野の訓示が、まさにそれである。


◎[参考動画]自衛隊に中東派遣を命令 河野防衛大臣(ANNnewsCH 20/01/10)

「海賊を見張る」任務と、「調査研究」を実行するにあたり、「勇気と誇りを持って任務に精励する」とはどのような行為を指すのか? 海賊を見つけたらミサイルを飛ばして破壊しろということではあるまい。

「調査研究」と命じられているが、航空機であるP3Cが中東の上空で、いったい何を「調査研究」するというのだ? 中東地域の政情や、地域の情勢は、上空からはわかりはしない。いや正確には航空機のような「中途半端」な上空から掌握できる程度の情報は、人工衛星でもっと細密に収集分析できる。本当のところいったい、この時期にどうして自衛隊が中東に出かけてゆく必要があるのか。わたしには皆目理解できない。


◎[参考動画]自衛隊哨戒機が中東へ出発 約1年の情報収集活動(ANNnewsCH 20/01/11)

◆個としての自立が果たせていない烏合の種の集合体

イランと米国の関係が、微妙な時期であろうと思う。日本はイランから敵視されていない(これは極めて貴重な財産である)。いっぽう、米国に対しては何を求められても、抵抗せずに「謙譲の美徳」ならぬ「献上の美徳」を長年続けてきた。原爆を落とされようが、沖縄戦で非戦闘員がほぼ壊滅しようが、本土決戦では「1億総火の玉」となって竹槍で最後まで闘う!と狂気の沙汰を繰り広げていた、相手の国はどこだったのだろうか。

「生きて虜囚の辱めを受けず」と、戦中に帝国軍人が捕虜になることを「恥」と教えた、大元帥は敗戦後「辱め」を受けず、その範を生きざま(死にざま)で、しめしただろうか。1945年8月、日本に「神風」は吹いたのか? 吹き抜けたのは「神風」ではなく鉄を溶かす、熱風と、空から落ちてきた「黒い雨」だったのではないのか。それらを思うとき、なによりわたしが問いたいのは「あなたたちは、どうして、こうもやすやすと、きのうまで、『言っていた』、ことの逆がいえるのだ?」である。

これが民族性というものなのだろうか。そうであれば、この島国の住人の多数は、ずいぶん「無節操」な性格の持ち主か、個としての自立が果たせていない(何歳になろうが)烏合の種の集合体といわねばならない。

どうして、憲法違反の自衛隊を、この時期、中東に「調査研究」のために派遣しなければならないのか。あるいは、その行動が世界的には誰の利益になるのだ。誰によって賞賛され、この国にどのような果実をもたらすのか。はっきり説明できるかたがおられたら、本文の下にわたしのメールアドレスを示しているので、是非ご教示いただきたい。

◆自衛隊中東派兵のどこに国益を見出すことができるのか?

わたしは、頭の中がおかしいのだろう。大新聞も大マスコミも大して話題にもしないし、問題視することはない。そのこと(今般の自衛隊中東派兵)に、わたしは、どのような意義も言い訳も、視点を変えるとすれば、いわゆる「国益」も見出すことができない。どうしてこういうバカげた資源と人的エネルギー、そして金の無駄遣いをして、最初からややこしい地域に足を突っ込みに行くのか(せっかく足を突っ込まなくてもい立場にいるのに)ぜんぜん意味が解らない。

世の人の多くは、いつの頃からか忘れたけれども、すぐに「経済にとって」という、どうでもいい尺度がこの世の中で最上の価値であるかのように、勘違いをはじめた。企業経営者に質問するのであれば、わからないこともない。でも、商店街に買い物きているおばちゃんや、世の中のことなど20数年生きてきて、一度として本気で考えたことのないような、「馬鹿者」失礼、若者に「経済がどうなるか」の質問をぶつけてなんの意味があるのか。

二言目には「経済、経済」と世界で一番の価値が「経済!」との印象操作に、熱心な報道関係の方々にとって、自衛隊の中東派遣が「経済に悪影響を及ぼす」懸念はないのか?

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

◆日本の「人質司法」問題が論じられるきっかけとなったゴーン被告の日本逃亡

堀江貴文(ホリエモン)氏がカルロス・ゴーン被告の日本脱出劇について、元刑事被告人であり、有罪を受け、刑務所にも収監された立場からコメントを連撃している。わたしは、堀江氏には生理的な嫌悪感を覚え、これまで彼の発言や発信を真剣に聞いたことがなかった。「新自由主義」を体現している人間。簡単すぎるが、これがわたしの堀江氏に対する人物評価だった。

Youtubeは視聴者を多数得たYoutuberにとって、よほど収益性が良いようで、お手軽な料理のレシピ紹介から、現役を退いた(とくにプロ野球選手が目立つ)ひとたちの「暴露話」、バックパッカーとして世界を旅しながら自分の旅行を伝える人など、実に幅広い動画がアップロードされている。時間潰しにはありがたいリソースでもある。そこにいまでも商魂逞しい堀江氏も参戦しているのであるから、「宇宙開発」同様に充分に収益性のある「ビジネス」の場所なのでもあろう。

さて、本通信でわたしは私見を述べたが、わたしと同様あるいは反対の見解も含め、カルロス・ゴーン被告の日本からの逃亡劇には各界の専門家も、素早く反応している。その結果、日本の「人質司法」が一般の日本人に突きつけられることになった。カルロス・ゴーン被告の日本からの逃亡が、日本の「人質司法」問題が論じられるきっかけとなったことは、副産物ではあるが望ましい傾向だ。一般人にとって「刑事司法」は、犯罪に手を染めるか、冤罪被害者に仕立て上げるか、裁判員裁判としてお声がかかりでもしない限り、関心の対象としては薄いものであろうから。

◆堀江氏の刑事司法や刑務所体験や知識には説得力のあるものが多いのだが……

その観点から堀江氏が、どのようなことを発信しているのか、初めて彼の発信する動画をいくつか真面目に見た。自身が逮捕・長期勾留・収監の経験があるだけに、堀江氏の刑事司法や、刑務所内における体験や知識には、説得力のあるものが多く、頭が良いだけに「旧監獄法」とそれ以降の変化や、カルロス・ゴーン被告が受けてきた容疑事実についての分析もレベルが高い。


◎[参考動画]カルロス・ゴーンが見た日本の腐った司法システムについてお話します【ゴーン第4弾】

堀江氏が東京大学に入学した1991年わたしは、企業から転職して京都の小さな私立大学に事務職員として着任した。あの年の入学生はわたしにとっては、大学職員として、初めて接する入学生であったから、いわば「同級生」のような感覚がある。彼が動画の中で「1991年に東大に入ったあと」と語ったので、本筋と関係はないが、私的な経験と堀江氏の年齢が交錯した。

◆新自由主義の寵児が露呈する「知性」の浅底

カルロス・ゴーン被告についての堀江氏の発信を一通り確認したあと、その件とは無関係な動画も何件か視聴してみた。その結果判明したことは、やはりわたしの堀江貴文人物評価は、間違っていなかったということである。その証拠示す動画(もしくは音声)にいくつも出くわした。

筆頭は地球温暖化を論じた、以下の動画である。


◎[参考動画]ホリエモン、グレタ氏を批判!日本の温暖化対策はどうすべき?【NewsPicksコラボ】

この動画の中で堀江氏は、同じ番組に出演しているお馬鹿さんと一緒に、地球温暖化への対策が「原発」だと言い切っている。もっともその前段となる、世界的に情報商品として過剰に取り上げられているスウェーデンのグレタ・エルンマン・トゥーンベリさんへの評価には部分的にわたしも同意する部分はある。どうして同様の主張を多くのひとびとが何年も前から、続けているにもかかわらず、突然スウェーデンの高校生(?)がこのように、脚光を浴びるようになったのか。

グレタさんの主張すべてをわたしは否定、しないけれども、どうして「彼女だけが」世界中の同様の意見主張者の中から注視されているのかについては、落ち着いて考える必要があろう。地球温暖化に人類の営為が影響を与えていることは事実だろう。だが、「二酸化炭素が地球温暖化を進めている」とする説に、わたしは全く納得がゆかない。フロンガスをはじめ、名称通り「温室効果」をもたらすガスや人工物はあるあろう。しかし二酸化炭素がなければ、植物はどのようにして光合成をするのだ。植物の光合成なしに、どのように新たな酸素が生まれ出るのか?

地球は温暖化しているだろう。人為的な原因もあろうが、その主たる理由は地球がこれまで繰り返してきた「温暖期」を迎えているからだとの説に、わたしはもっとも合理性を感じる。

地球温暖化はいずれ別の場所で論んじよう。グレタさんを持ち上げる勢力の腹黒さについても。きょうの原稿はホリエモンを斬るのが主眼であった。堀江氏は、紹介した動画の中で「第4世代の原子炉開発も進んでいる」などと述べているが、たぶん彼の頭のなかには基礎的な、放射線防御学の知識もないのだろう。市場分析や、商品開発の将来性について(わたしはまったく興味はないが)堀江氏は自身が発信する動画の中で、実に多角的な分析と見立てを表明している。しかし、堀江氏が断言する将来像や分析は、いずれも経験則や自身が勉強した知識に基づいている。

このことは、堀江氏が「イカサマ師」ではないことを示す証拠にもなろう。彼の見解や、見立てにわたしは相当程度、異議がある。だが自分で商品開発や、商品の将来性を見定めた(その負の結果も負った)堀江氏の発言には、ある種の一貫性がある。

それは、「知っていること(経験したこと)を強く主張するが、知らない世界でドツボにはまる」ということだ。新自由主義の寵児のような堀江氏と東浩紀氏が語り合った音声がある。


◎[参考動画]【天才】東浩紀の頭がよすぎてホリエモンが言い返せない状況に…!

この中で堀江氏は「一生懸命会社で働いているあいだ、忙しくて『ベーシックインカム』なんて知りませんでしたよ。知ったのはこの1年くらいですよ」と述べている。わたしは東浩紀氏の支持者ではない。堀江氏からこの一言(彼の限界)を引き出した人物として紹介するまでである。1年前まで「ベーシックインカム」すら知らなかった人物が論じる世界観など、信用に値するか?

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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