「先頭で行動する政治学者」山口二郎氏を迎えて前田日明ゼミ第4回開催!

1月16日西宮市甲子園ノボテルで第4回の「前田日明ゼミ」がゲストに法政大学教授で政治学者の山口二郎氏を迎え80余名の参集のもと行われた。

松岡社長の挨拶に続き、山口氏の講演がはじまった。「おとなしくアカデミズムの世界で仕事するのは終わりかなと考え東京に移った」という山口氏は、この間、先頭に立って行動してきた学者である。

山口二郎氏

「天皇制と、戦争放棄が密接な関係にある憲法、天皇陛下の方が安倍総理より余程真っ当な歴史認識を持っている、無責任な支配の特徴、主観と客観の区別がつかない。かつての自民党には官僚出身の合理的政治家、地べたを這いずるように弱者を助けようとする政治家がいた。政治に蔓延する『反知性』主義、今年は闘いの年、自由は突然奪われるのではなくひたひたと圧迫や弾圧のレベルが上がってくる。民主主義をどう育てるか、私自身も野党結集を画策している。選挙に行かないとどうにもならない。安倍政治が本当にいいかどうか考えたら変わる。やればできる」(山口氏)

山口二郎氏と前田日明氏

休憩をはさんでホストの前田氏との対談に移った。

前田氏が対談で訴えたことは、「小泉政権から始まった偽りのグローバルスタンダード」「安倍政権は経団連株を買っている」「学生の連中も安保法案に対いて頑張った。そこが日本政治を変えて行けるように期待している。次の選挙は18歳から選挙権が与えられるので注目している」ということだった。

これに対して、山口氏も強い危機感で反応した。
「日本はまとまった見解を米国にぶつけたことがない。それが出来る政治家を作り上げていかなければいけない」「選挙で下手をすると二大政党制は無くなってしまう」「政権奪取の意欲が民主党に薄れている」「自信喪失。新しい物を議論すればいいのに、おおさか維新と組みたいとか『集団的自衛家』一部容認など言い出せば国民への訴求はない」

前田氏はさらに「日本の美しさ、理念の破壊が90年代頃から進んでいる。日本人は自国のものでなくとも技術を磨きそれを改良していく美しい連鎖があったが、アメリカの『グローバルスタンダード』で潰されそうだ。そのきっかけを作ったのは小泉純一郎だ」と喝破する。

次いで両氏が最近の動向について意見を交わす。

山口 大人が若者に利用され搾取されている。マスコミの現場の人が頑張って視聴者が応援していく。

前田 はっと気づいたらおかしな時代になっているのではないか。安保法制はどうとも思わないけど憲法9条は絶対守るべきだと思う。自国は自国で守るべきだと。国として自衛をするんだったら自分は賛成。自衛隊法のような不備な法律では戦えない。でも安倍はアーミテージから言われたこを実行しているだけ。

丁々発止の議論がテンポよく行われた。次いで会場からの質問が出された。

質問者「日本へのアメリカの影響力具体的な行動を教えてください」

山口 「90年代から日米安保運用が変化してきた。実務的には既に様々な関係がある上に安保法制を上乗せするのはおかしいと言うのが言いたかったこと。でも米中には絶対戦争しない黙約がある。尖閣も棚上げて数十年前に戻すべきだと思う。これからISの地上戦にアメリカが進む時に日本はどう対処するかを考えておくべき。ISを軍事力で解決できるかという問いがある。下等生物は切っても、切ってもまた増殖する。アメリアの軍事力行使と距離をおいて考えていくべきだ」

前田 「東京オリンピックにおける『テロ』が怖いと思う。報道にも大きな問題があり一概にISが悪いとは言えない。アメリカの誤爆、誤射にも大きな原因がある。安倍首相はそこで何か起こったら『ほらこんな体制では危険だろ』といってさらに強化を図ろうと考えているのではないか」

と多岐にわたる話題展開され、あっという間に終了時間を迎えた。

「ゼミ」終了後はお二人の講師を交えて懇親会が行われた。時あたかも甘利経済再生担当大臣への1200万円の賄賂疑惑が沸き起こり、株価は連日暴落を続けている。
益々の混迷が明らかな2016年。鹿砦社主催の「西宮ゼミ」は今年も多様な価値をお届けし続けることだろう。

次回2月28日(日)には木村草太氏をゲストにお招きし手の開催が決定している。受講ご希望の方は早目のお申し込みを。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎第3回「前田日明ゼミin西宮」──田原総一朗氏を迎えて聴衆120人の大盛況!
◎第1回前田日明ゼミ開催!──新右翼鈴木邦男さんと「真の愛国者」を問う!

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

《大学異論44》同志社大学幹部職員逮捕は学内政治と無関係な事件なのか?

1月19日、同志社大学の幹部職員をはじめとする6名が逮捕されたと報じられた。容疑は廃棄物の処理方法に関することだと言われているが、この程度で大学の職員が令状逮捕されるのは極めて異例だ。テレビでは被逮捕者も含め実名報道がなされている。思い起こしてほしい。直近に起こったカレーチェーン店の処理物廃棄問題との際立ちを。

この逮捕劇には必ず裏がある。この程度の事で令状逮捕を強行する裏にあるのは「政治的」理由に他ならない。昨年「戦争推進法法制」に賛意を国会で表明した村田現学長を同志社が落選させたこととの関連はもちろん不明だ。

かなりの注意深さを持って推移は見守られるべきだ。理事長水谷氏が「今後このようなことが無いように注意する」とコメントを発しているが、被逮捕者は依然、起訴すらされいない。

学内政治と無関係な「事件」と断じる方が無理があろう。
同志社よ「腹をくくれ」。

◎[参考動画]2015年7月13日衆議院平和安全特別委員会中央公聴会(村田晃嗣は動画13:35から)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎「一期限り」を公言しながら再選狙った村田前学長が同志社大学長選で落選!
◎奨学金地獄と高すぎる学費──揺るぎなき教育貧困国・日本
◎沈黙する大学の大罪──なぜこんな時代に声を上げないのか?
◎2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

ネット爆弾に気をつけろ!──知らぬ間に自分が「真っ裸」にされているSNSの世界

1月6日付の本コラムでハイセーヤスダ氏がメールストーカーに対して気炎を上げている。ストーカーがどのような人物かは伺う術もないが、ハイセーヤスダ氏を軽く見ない方がいいことだけは警告しておこう。

私はこれでも腕っぷしには自信があり、少々のストリートファイトでかすり傷一つ負ったことはないけれども、ハイセーヤスダ氏と一戦交えようとは思わない。彼の130キロはありそうな肉体と鍛え上げられた全身を覆う筋肉は、多少格闘技を齧ったことのある人間なら直ぐに察知できる。そして厄介なことに彼の筋肉は打撃戦だけではなく、寝技になっても必ず持久力を発揮する弾力も兼ね備えている。

だから私はかすり傷を負うかもしれない危険を冒そうとは思わない。

◆SNSヘビーユーザーたちが陥る言説と心性の劣化

ハイセーヤスダ氏の肉体はともかく、彼の論考には私も賛同する部分がある。スマートフォンや携帯電話、SNSへの言及の件である。「スマートフォンを使うと鬱になる」という説は初耳だが、不思議には感じない。またFacebookやTwitterに強い習慣性があることはそのヘビーユーザーの没頭振りを見れば明らかだ。特定の空間でしか通用しない言語や理屈から、独自のルールは私自身が最も忌み嫌うものだ。

よって最低限の情報収集以外に私はSNSを覗くことはしないし、ましてや自分が利用することなどない。日本ではmixiというサービスがこれらに先行する形で利用者を広げたが、日記風に自分を語ること、自分の趣味や考えを展開するこのサービスには当初「招待制」だったので、今日に至るも内容をつぶさに検証したことはない。しかし引用された文章などを読むにつけ利用者の思考、趣味、同傾向の人間との結びつきなどが、その気になれば管理運営者によって全て網羅的に掌握されるシステムであることがわかる。

この特性はTwitterやFacebookでも同様だ。利用方法次第では商売上の広告として無料で利用できたり、イベントや集会の告知に利便性があることは理解できる。だから利益追求のためには使い方次第で便利なサービスである。しかしながら個人がその瞬時の思いや感情、意見を発表する場としては相当な危険と落とし穴を備えているのがTwitterやFacebookだと心しておいた方がいいだろう。

その危険性の第一は前述の通り「強い習慣性」、さらに言えば「依存性」である。冗談ではなくニコチン中毒の比ではない。Twitterで段々フォロワーやフォローが増えてくるとスマートフォンや携帯電話で利用しているユーザーは膨大な書き込みへの反応が半ば強制的に要求されてくる。反応しないと「あの人冷たい」とか「あの人最近アクティブではない」とか思われるのではないかという潜在的な脅迫観念が湧いてくるので、取り立てて書きたいことが無くとも「ああ疲れた」とでもとりあえず存在を示しておかなければいけないし、顔も姿も知らないけれどもSNS上で懇意にしてくれる人々への好意を持続性するためにはリツイートを忘れてはならない。

かくして、SNS利用者が持つ24時間の中で相当数の物理的具体的な時間がSNSへと強制的に割かれて行き、さらに「何を書こうか」、「誰々には暫く連絡していないなぁ」と頭の中で気にしたり思案する時間を考えれば、相当程度「SNSに支配」されていると決めつけても過言ではない状態に陥る。

そして、そのようなヘビーユーザーは時としてSNSと実際生活上の人間関係の重要さを測りかねるようになり、ついには日常生活において対人関係に支障を来たす。

畳みかけるように恐ろしく不幸なことはユーザーが書き込んだメッセージやフォロー、フォロワーの関係は管理運営会社が全て吸い上げて、その人の人物像のかなりの骨格まで明らかにしうるほど、知らない間に「裸の状態」で踊らされてしまっていることだ。そしてそのことに気が付いてSNSを止めようとしても、止めてももう遅い。全ての情報を削除しアカウントを閉鎖しても管理運営会社には全ての情報が残る。

◆「交換日記」の時代は健全だった

むかし、「交換日記」という牧歌的なお遊びがあった(今もあるのだろうか)。友人同士(女の子に多かったように思う)で自分の日記を書き、次の日には友達(だけ)に渡し友人が日記を書く。また次の日は自分にノートが戻ってきて、つらつら日記を書く。ノートはもちろん手渡しで、日記の内容も交換している友人間だけの「秘密事項」が基本ルールであったと思う。ちょっと「いやらしいな」と当時は好感しなかったけれども、「顕名」で「手渡し」の交換日記は今考えればSNSよりもあらゆる面において余程健全と言える。

Twitter、Facebook、LINE、さらに言えば(私も利用しているけれども)電子メールなどは多少の違いはあれ前述の通りあなたを「真っ裸」にする危険性があるツールであることは認識しておいた方がよいだろう。「ただほど高いものはない」の典型と言ってもよいかも知れない。

◆一点だけハイセーヤスダ氏の誤解を招くコラムに反論する

最後にハイセーヤスダ氏の以下の部分には反論する。

「君が敵にまわしたのは僕だけじゃなくて『鹿砦社』全体だ。右翼にも左翼にも縦横無尽に人脈があり、ヤクザにも警察にも通じている鹿砦社と君と、どちらが勝負になるのか決着をつけようじゃないか」
穏便かつ平和主義の鹿砦社をこのように誤解させるような記述をしてはならない。「右翼にも左翼にも縦横無尽に人脈があり、ヤクザにも警察にも通じている」などとの表現は「普通の人」に大いなる誤解を生む恐れがある。しかもこの表現では鹿砦社関係者が総出でハイセーヤスダ氏の私戦に加担すると誤解される。

だから、私なりに当該部分を書き直す。

「貴殿が何らかの誤解で悪意を抱いていると思れる対象は私個人のみなならず、これまで左右の思想を分け隔てなく紹介し、出版の実績もある出版社でもあります。また同社は所謂『反社会的勢力』とされる人々についての論考や取材も積極的に行ううとともに、適切な距離を取りながら警察、検察といった国家の権力機関も研究し、また必要があれば情報収集のためには接触も辞さない出版社であると申し添えます」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す
◎2016年のジャパン・カオス──2026年正月に記された日系被曝難民家族の回想記
◎負け続けた2015年──「普通の人」たちが生み出した絶望と病理の行方
◎2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる

月刊『紙の爆弾』2月号!総力特集─安倍政権を支える者たち

2016年のジャパン・カオス──2026年正月に記された日系被曝難民家族の回想記

2016年鹿児島県川内原発爆発事故に端を発する「JAPAN CHAOS」により、日本国は終焉した。娘の遥(はるか)と妻を懸命に引きつれロシアから中米のこの国に渡った私たちは難民だ。

FUKUSHIMA2011

昨年末、妻が急逝した。乳がんだった。今年は遥と二人だけで9回目の新年を迎えた。とはいってもこの国にはかつての日本で盛んであったような「新年」を祝う習慣は無い。亡命直後はそれでも妻が雑煮を作ったり、遥かには「お年玉」を渡したりしていたが、それが娘にとってこの環境に馴染むのには好ましくない、私たちだけのノスタルジーだと気がついた6年前から新年を祝う旧日本的な行為はすべてやめることにしている。

この国では2020年から「2000年以降に開発された科学技術(とりわけ電子技術)の大半は、本来的な人間の生活に資するものではない疑いがあることから、暫時使用の取りやめを勧奨する」という、世に言う「反進歩主義法(反デジタル法)」が施行されている。国民内で喧々諤々の議論の末に成立した稀代の「反進歩主義」に立脚したこの世界でも例を見ない法精神に、この国の先住民たるインディオ(インディアナ)の生活則が強く反映されていることは疑いない。

しかし、政治的に強い影響力を持たないインディオ(インディアナ)の古い習慣に中央政府が耳を傾けた理由には、米国のデフォルト及び中国の内戦勃発という激震と、この地にたどりついた我々、日本からの難民に極めて高い確率でがんが発症し出したことを直視したことも強く影響している。現実的課題として資本主義の終焉、原発をはじめとする巨大エネルギーとコンピューターテクノロジー(デジタル技術)の無限発展への懐疑と危険視が大衆の心も捉えたのだ。

私たちは強制はされてはいないものの、2030年までに「携帯電話」と「インターネット」の使用を停止するように求められている。医療分野だけは例外的に2000年以降の技術の導入も認められているが、難民である我々より先に、この国の住人の多数は既に自宅からパソコンを取り払い、家族で1台だけ非常時用に携帯電話を保持する「Emergency Usage」を難じることなく受け入れ始めている。政府の決定とはいえ、差し当たり「不便」が伴うことが明白な「反進歩主義法」への住民の理解と即応振りに、私は正直かなり驚いた。

KAGOSHIMA2015

昨年9月妻に乳がんが見つかり、医師からは余命が幾ばくも無いことを伝えられた。何の兆候も感じていなかった妻はもちろんのこと、私も大いに動揺した。遥に母親の余命を伝えるのはあまりにも過酷だと判断した私は、「反進歩主義法」の精神に背いて、スイスの最先端医療機関に妻を搬送した。もちろん遥も同行させた。金銭的に窮乏状態にある私たちが妻の治療を高額なスイスの医療機関に委ねることができたのは、皮肉にもこの国の「反進歩主義法」への反感を強く内包する「日本人難民会」の経済的支援によってであった。そして妻の乳がん発症は川内原発爆発事故直後の初期被爆が原因であることが改めて医師から指摘された。

私自身の思想や主義(そんなあからさまなものはもとより無いのだけれども)とは関係なく、娘の母親を失わせたくないとの思いの前で、普段は付き合いもそこそこの「日本人難民会」から膨大な援助を受けることに私は躊躇しなかった。

だが、妻が最新の医療技術で処置に当たっても余命が数週間だとスイスの病院で通告を受けたとき、私は腰から力が抜けた。ステージ3だか、4だか確かに中米の国では「治療困難、余命半年」を言い渡されたとき、私の心にはまだ、進歩する(はず)の技術への信仰とも言うべき思考性癖が残っていたのだ。私たちが難民として暮らす国民平均年収の20倍を超える金額を、躊躇無く受け取った私は遅まきながら、妻の葬儀後喪失感とともに、自己嫌悪に陥った。もうこの国で難民として暮らす資格なんか無いと思いつめ、教会へ懺悔に赴いたり、仕事を休み午前中から酒に浸るようになった。

あっさりしていて実は隣人の生活に良くも悪くも興味を失わない国民性など、私の頭からはすっかり吹き飛んでいた。遥を学校に送り出したあと、私は連日この国特有の度数が高い酒精を煽りだしていた。

ドアがノックされたのは酒精のビンが大方1本空になりかけた頃だっただろうか。半分うつろで吐息にたっぷりと蒸留酒の臭いを含んでいたはずの私がドアを開けると、立っていたのは差し向かいの奥さんだった。先住民とスペイン人の混血だが先住民の血の濃さが強く残る彼女の名前は記憶に間違いが無ければ「ケチュア」さんだったはずだ。

「タドコロさん、奥さんが亡くなってから町内の皆が心配しています。昨夜町委員会でどうしたらタドコロさんが元気になるか議論しました。もしお願いできたら今年の『町委員長』を引き受けてもらえないか、と結論が出ました。もちろん難民は法律上『町委員長』にはなれませんから、役所への名簿にはうちの主人の名前を載せます。でもこの町内を今年はタドコロさんに任せたい、と結果が出ました」

いったい何を考えているのだ。立っているだけでまともに受け答えができない私は答に窮した。ケチュアさんは続けた。

「タドコロさんは急に奥さんをなくしてとても気の毒だし、落ち込んでいる。きっとスイスに行ったことにも複雑なお気持ちがあるでしょう。私たちはタドコロさんが『日本人難民会』から支援を受けたことを知っていますが、誰もそれを責めてはいません。何故だかわかりますか?」

親切な配慮のようで油断のならないこの質問に泥酔状態の私は窮した。

「タドコロさんはオオタリュウを知っていますね。ご存じないかもしれませんが『反進歩主義法』は表向き私たちの先祖インディオ(インディアナ)の思想回帰の形を基礎としていますが、政府はオオタリュウの思想を詳細に検討しているのです。オオタリュウと会ったことがあるんですよね、知り合いだったのですね、タドコロさん?」

私の酔いは瞬時に醒めた。「待ってくれ、オオタリュウ(大田竜)の名前を知らないわけじゃない、彼の大雑把な思想変遷もまったき不案内なわけではないけども、私は彼と生きている時代も世界も違った。私がオオタリュウと知り合いだなどといったい勘違い(虚言?)をいったい誰が・・・」とまくし立てようとしたが言葉が出なかった。

「こんな言い方は失礼ですが、物質文明と経済発展だけに狂って破綻した『日本』を政府も、私たちも実はとても真剣に考えているんです。明日の私たちの姿と重ねながら。そこから生まれたのが『反進歩主義法』なのです。でも破滅した『日本』の中にオオタリュウやアンドウショウエキ、タナカショウゾウ、フジモトトシオといった優れた思想があったことはとても興味深い事実です。だからタドコロさんにはその思想をこの町内で教えてほしいのです」

もう私は完全に体温が下がりはじめていた。たしか「笛」を意味するはずの名前を持つ差し向かいの奥さんがただの主婦ではないことは明白だ。普段口数少ないこの主婦が政府の情報機関に関する仕事をしていることは間違いない。それにしても40年前の日本の公安が監視対象としていたような(それにしては人選が相当大雑把な)人物を政策立案の参考にするこの国はいったい何を考えているのだ。彼女が口にした人物たちが生きたのは時代も異なり思想にも相当開きがある。それ以上に私からは晩年思想的に破綻したとしか思われない人間の名前が重宝されている。

本当に「反進歩主義」など実現できると思っているのだろうか。

その時、遥が帰ってきた。「こんにちは、ケチュアさん。お父さんまたお酒臭いよ。だらしない。お母さんは神様の下に召されたんだから、いつまでも落ち込んでいちゃだめ! 私ね、今日嬉しいことがあったんだ。クラス討論の時間にお母さんの最期の話をしたのね、そしたら学校で3人しかいない『反進歩主義法』討論委員に選ばれたんだよ!今からお母さんのお墓に報告に行ってくるね。いいでしょ?」

「ああ、それは良かった、気をつけて行っておいで」私は虚ろに答えた。
ケチュアさんが口を開いた。
「ハルカさんは元気そうで良かった。タドコロさん。私たちは本気で『反進歩主義法』を進めたいと考えているのです。それにその先に…… もし可能ならこの国家を終わりにしたい……」

彼女の言葉を全て信じたわけではない。でも、難民として受け入れられてからこの国が私たちに与えてくれた厚遇は、豊かではない国家財政の中で破格というべきものだった。そこには何らかの打算や損得勘定を感じさせるものは一切なかった。

「わかりました、私でよかったらお引き受けしますよ」

自分でも驚くほど無謀な答えが口から飛び出した。急速に脳が回転し始めた。どんな結果になるにせよ近代の反省に立脚する「反進歩主義」の壮大な社会実験に俄然興味が沸いてきた。自分が難民であることも忘れた。娘が討論委員に選ばれたのが政府の恣意か偶然かもどうでも良い。本気かどうかわからないが「それにその先に……もし可能ならこの国家を終わりにしたい……」は、抗いがたい魅力に満ちている。

生きる目的を数十年ぶりに与えられた気がする。2026年は「反進歩主義」から「国家の終焉」を夢見て働くことができる。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2016年逝きし世の日本へ──2024年8月15日に記された日系難民家族の回想記
◎負け続けた2015年──「普通の人」たちが生み出した絶望と病理の行方
◎2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる
◎菅直人VS安倍晋三裁判──請求棄却判決の不当とねじれ過ぎた真実
◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す

「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice(ノーニュークスヴォイス)』第6号!

 

負け続けた2015年──「普通の人」たちが生み出した絶望と病理の行方

終わりだ。2015年が暮れてゆく。読者諸氏と何かを共有できるとすれば、「お互い生きて年を越せそうだ」ということくらいだろうか。毎度毎度独りよがりで、偏屈な語りばかりの私だから大晦日ぐらい頬が緩むような明るい話題をお伝えしたい、何かあるはずだろう。「安寧」か「労い」か「希望」の欠片でもいい。大晦日なのだから「前向きさ」、あるいは誰にも口を割りはしなかった秘そやかな「喜び」のようなものはないのか。さらに言いつのれば「軽い嘘」でもいい。年の終わりなのだから腹を捩じらせないまでも、微笑ましい何かを献上できないものか。

田所敏夫「8.27反安倍ハンストの大きな意味」(2015年8月28日)より

結局ダメだ。書けない。やはり軽くても嘘はどうあがいても書けない。「2015年」の結びだからだろうか。

◆2015年の絶望は、他者を当然のように排除する「普通の人」たちの台頭だった

「2015年」私にとっては絶望を徹底化された年だった。キーワードは「普通」または「普通の人」である。

幼少時より自分が「普通」ではないとさんざん思い知らされてた私(個人)にとっては、「普通」または「普通の人」が持つ概念と語感の強制には慣れ過ぎていて、全く痛痒はない。けれども、ついに「普通」または「普通の人」という概念は私だけをターゲットにする域を大いに超えた。多数派が誰彼構わず意見や行動様式が異なる人びとを揶揄する際、実に無垢に聞こえながら底抜けに恐ろしい恫喝の用語として、こともあろうに「政府が行おうとしている暴挙に反対する場所」でさえまき散らされたのだ。「排除」の道具としてである。

田所敏夫「安保法採決直後に若者弾圧!ハンスト学生への『不当ガサ入れ』現場報告」(2015年9月25日)より

「警察」や「権力」、「国家」などという概念とその実態に少しでも思索を巡らせた経験があれば、語るのが恥ずかしいほど最低限の自明性すら死滅しているのだ(それは「戦後民主主義」と呼ばれたものと重複する)。実に基礎的な、幼稚園児程度の経験則も論理も社会構造への理解も知識もない自称主催者たち(誰も彼らを『主催者』と認めたことはないのだが)。彼らが振りまく「普通」あるいは「普通の人」を少し解読すれば、その意味するところ「彼らの行動方針に従う人か、従わない人か」のみを尺度とした分類であることに慄然とする。

彼らは「普通」または「普通の人」でなければその場所に留まらせることすら許さない。罵倒を浴びせて追い出そうとする。攻撃される人が持っているモノをぶっ壊す。暴挙に及ぶ「普通の人」たちを年格好から想像すれば、一応の経験もして来ただろうと思しき年齢の人たちが遠巻きに見ている。同罪だ。

田所敏夫「見せしめ逮捕のハンスト学生勾留理由開示公判」(2015年9月26日)より

◆2015年の病理は安倍でも自公でも警察でもなかった

「何をやってるんだ!やめろ!」と液晶の画面越しに私は怒鳴った。「普通」もしくは「普通の人」ではないから揉みくちゃにされ、あげくの果てに警察(!)に向かい「こいつら○○だから帰らせた方がいいですよ。逮捕してくださいよ」と口走った男とその仲間たち。この連中の妄動は「2015年」私にとって最も印象深い可視的な「罪」として記憶されている。「戦争推進法案」成立と同等もしくはそれ以上に深刻である壮大な病理だ。

安倍でもなく、自民党、公明党でもない。公安警察でも機動隊でもない。今年いよいよもってその本性を露わにしたのは権力者に命令されてもいないのに、権力者が内心期待する以上の自主的規制から、さらに踏み込み結果、公安警察並みの役割を果たした「普通の人」たちだ。

スマートフォンや各種の伝達媒体の普及で映像の伝達、風景を記録する機器が市民の手に備わった唯一のメリットは、権力があからさまな暴力を振るいにくくなったことだ。だから大集会や大勢のデモにおける機動隊の既得権であった暴力は圧倒的に抑えられている。だが、その逆の側では権力でさえ躊躇する思想弾圧や暴力を「普通の人」たちが代行する。もう機動隊など不要なのだ。

◆2015年の不快は、言葉と意味の不調和、背理の極まりだった

「民主主義ってなんだ」と壊れたレコードのように繰り返す大学生たち。「本気で止める」気など皆無のくせにデザインにだけは広告代理店並みの注意を払い、絶対に本質的な抗議を忌避する不気味な集団。その背後であれこれ采配を振るい、世間受けする配役や、あろうことか「金儲けに」にまでも抜け目のない腹黒い輩たち。それをあたかも何か新しい思想胎動の発芽のように繰り返し報じ、恥を知らない「東京新聞」や「週刊金曜日」を始めとする「良心的」メディア。そう「赤旗」も忘れてはいけない。

これらの塊が私には猛烈に不快でたまらない。悪意なさそうで計算高く、本当は欺瞞だと気づいていながらも付和雷同が処世訓として身に着いた「普通の人」たち。彼らをひとからげに「ファシズム・ファシスト」と呼びつける訳にはゆかない。彼等は冗談でなく「アンチファシズム」(!)を標榜しているのだ。こんなにも激しい言葉と意味の不調和、背理の極まりがあろうか。

計算高いことにかけては人後に落ちない「日本共産党」はついに来年の通常国会の開会式に参加することを表明した。「憲法の規定による国事行為の範囲を超える問題がある」を理由に天皇が主席する国会の開会式への出席を1947年から控えてきた「日本共産党」。12月24日わざわざ大島理森=衆議院議長を訪ねて、この意向を明らかにした。


◎[参考動画]共産党、国会開会式出席へ 約40年ぶり方針転換(共同通信社2015年12月23日に公開)

何故に「この時期」に、独自に発表するのではなく「わざわざ大島理森衆議院議長を訪ねて」表明しなければならなかったのか。そうしたのか。

「日本共産党」は自公政権に対抗するために「国民連合政府」を提唱し、野党に選挙協力を働きかけている。候補者擁立が決定していた熊本で既に公認候補の取り下げを決定し、今後さらに「野党共闘の柱」として存在感を誇示してゆきたいようだ。

田所敏夫「戦争法案『断固阻止!』──沖縄『祖国復帰斗争碑』に学ぶ反戦の哲学」(2015年9月15日)より

そのためには「現実路線」と冠される「日米安保反対の一時凍結」まで差し出している。

前述の「普通」または「普通の人」を名乗り全国の市民運動の背後でいそいそと糸を手繰っている人たちの中に「日本共産党」党員が少なからず入り込んでいることは偶然だろうか。

で、一体何がしたいのだ?「日本共産党」の諸君、ではない「普通の人」たち。
私は確信する。「普通の人」たちは来年、私や「普通ではない」人たち「まつろわぬもの」を血眼になって探し出し、排除にかかるだろう。

「2015年」を総括する。私(たち)は「普通の人」たちの成す勢いに敗北した。
「15年安保」などという成立しえない虚語が許されている。
「60年安保」、「70年安保」と並列で「15年安保」を語る心象は「普通の人」にしか能わぬ技だ。
「2015年」私(たち)は徹底的に敗北した。敗北し続けた。
負け続けた2015年が暮れてゆく。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?
◎2015年再考(4)戦争と大学──「学」の堤防は決壊し、日常を濁流が飲み込んだ
◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す

「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice』!
『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン!

 

2015年再考(4)戦争と大学──「学」の堤防は決壊し、日常を濁流が飲み込んだ

東京大学総長の濱田純一(当時)が「デュアル・ユース(軍民両用技術)」の研究解禁の声明を発表したのは今年の1月16日だった。

濱田純一はその声明の中で「軍事研究の意味合いは曖昧」だが「東京大学での研究成果について、デュアル・ユースの可能性は高まっている」と表明した。

その上で、「このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える」と結び、「軍民両用技術」研究解禁を容認する声明を東京大学の総長として発したわけだ。

2015年1月16日付け濱田純一東京大学総長(当時)の声明

◆迂遠な表現で「軍事研究」全面解禁を表明した東大総長声明は歴史的な事件である

迂遠でありながら意図するところが「軍事研究」の全面解禁に他ならないこの「宣言」は2015年が、まつりごと(政治)の世界だけではなく学問、教育機関も「戦争」へ向かうことを明言した「事件」として記憶されなければならない。

さらに最近になり、この「軍事研究解禁宣言」以前から、こともあろうに米軍の資金提供を受けた研究が全国の大学で多数行われていたことが判明した。
「研究機関に米軍資金 名城大など計2億円超」(2015年12月7日付中日新聞)

教育・研究の現場では「戦争準備」体制が誰はばかることなく猛烈な勢いで立ち上がっている。

◆「戦争推進法案」賛成の意見を国会で述べたピエロ村田晃嗣=同志社大学長

「良心」も「節操」も入り込む隙間すらない「高等教育機関」の際限なき国家への追従、堕落の惨憺極まりない無聊な絵画の仕上げを担ったのは同志社大学長村田晃嗣(当時)だった。

ピエロを演じる自覚があったのかどうか知らないけれども、私の感覚からすれば「道化者」のような衣装をまとい国会特別委員会中央公聴会に公明党推薦の参考人として「戦争推進法案」賛成の意見を述べた村田は「道化」が過ぎて同志社大学長選挙で落選の憂き目を見た。だが、それをもって「同志社」の良心復活などと喜んでいる方々がいるとすれば目出度たさが過ぎるというものだ。

最後の堤防はつとに決壊し、濁流が日常を飲み込んでいるこの人為災害を感じることができなければ、高等教育機関で教鞭を取っている方々は職を辞したほうが良い。


◎[参考動画]戦争法案【賛成】公述人=公明党推薦・村田晃嗣=同志社大学学長(2015年7月13日)

◆「卑怯な非政治性」をまとった鵺(ぬえ)たちの学府

「戦争」加担に自然科学も社会科学も人文科学もありはしない。2015年12月、大学で教職にあり、戦争に「反対しない」ことは(戦争に)「加担する」ことと同義である。もう、中間領域などない。「YES」か「NO」。どちらにつくか、自身の立場を明確にしない研究者、教育者はすべて戦争に加担する「卑怯な非政治性」をまとった鵺(ぬえ)だ。

否、さらに悪質なのは「戦争推進法案」反対運動が全国で沸き上がり、その中心として国会前で行われた抗議行動に登場した現職・引退した大学教員達だ。政治の「イロハ」も知らぬ学生たちが(おそらく)本能的に「戦争は嫌だ」と起こした行動を自身の「良識派」振り発揮の好機だと姑息にも抜け目のなかった連中は、本質的な「戦争への反対・国家への抵抗」を極力「排除」すべく「坊や」や「お嬢ちゃん」たちに賛辞を投げかけ、「ようやく若者が目覚めた」、「この日を待っていた」などと聞いて居る者が恥を感じるような甘っちょろくも薄っぺらな軽口を叩き続けた。

◆「若者に共感した」と言いつつ、ストも打たず職も辞さない大学の教職員たち

自民党の勉強会で何度も講師を勤めたあの改憲論者さえもがそこにはいた。あんた達は国会の前で学生を持ち上げているけども日頃は大学で何をしているんだ。教授会で「戦争推進法案反対」の決議を提案したのか。まさか学内に公安警察を常駐させていて黙ってはいまいな。学内外でビラを配布しようとしている学生を監視し、弾圧をしてなどいまいな。絶対に。

60年安保や70年安保よりあたかも「優秀」な抗議行動のようにあちこちで吹聴していた東大名誉教授、あんたはいつの時代でも結局時代と寄り添っているだけじゃないのか。そもそもコンサートか何かと見違えるような、あの光景を見てあれが「反政府抗議行動」だと本気で感じていたのか。だとすればあんたの得意な打算は完全に的外れだ。あんたは完全に勘違いしている。救いがたく。だから本音をちょっと発語しただけで総叩きにあったじゃないか。

「戦争推進法案」に反対して教職員組合がストライキを打った大学があるか。職を辞した教員がいるか。自分の仕事や体の一部でも「賭けて」闘った教員がいたら教えてくれ。

年末の流行語大賞の候補に戦争推進法案反対に関係する「○○○○」や「××××」が選ばれたといって喜んでいる愚民たち。そこにニコニコしながら加わる澤地久恵。広告代理店と資本によって回収されていく情報商品に選定された「戦争反対」は滑稽ではなく恐ろしさを強いてくる。怖いのは権力や資本じゃない。誰にも指示されずに、アルバイト代ももらわずに権力代行業に余念のない(しかも本人には悪意が全くない)スタイリッシュでカッコよく「普通」な人。「普通の人」が織りなす「パレード」や「フライヤー」だ(「デモ」や「ビラ」はダサいから排除される)。

東大総長の「軍事研究解禁」と同志社大学長の村田の国会における希代の「戦争賛成」発言。そして戦争に「反対」しているはずで9条改憲は賛成で、リベラルで「自民党感じ悪いよね」なのに安倍政権打倒と言ったら「過激」だと怒る人達。
ビルの横でニンマリウインクしているジョージ・オーウェルと目が合った。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎今こそ同志社を<反戦の砦>に! 教職員有志「安保法制を考える緊急集会」開催
◎同志社の「良心」は「安保法案」賛成の村田晃嗣学長を許すのか?
◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す
◎快挙は国会前デモだけじゃない!──6日目124時間を越えた学生ハンスト闘争
◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?

自由に多様な論争を!「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice』!
『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

 

『広河隆一 人間の戦場』──映像化で新たな力を宿した不屈の「戦闘宣言」

-『広河隆一 人間の戦場』(長谷川三郎監督)-

フォトジャーナリスト広河隆一氏を活写したドキュメンタリー映画『広河隆一 人間の戦場』(長谷川三郎監督)が12月19日に封切られた。20日新宿「K’s cinema」で上映後、広河氏と長谷川監督の舞台挨拶とトークショーが開かれた。

「ジャーナリストである前に自分は人間だ」
広河氏の活動を理解する根源的な精神は、この言葉の中に集約されているといっても過言ではあるまい。

「負けっぱなしですよ。でもこのままでおくものか、という気持ちもある」
広河氏の語り口は明瞭とは言い難いし概して口数は少ない。しかし彼が口を開くと、はっとさせられる「直撃弾」のような真っ直ぐな言葉が紡がれる。

広河隆一氏

現役のフォトジャーナリストがドキュメンタリー映画の主人公となる「人間の戦場」は2年間の製作期間を要し、パレスチナ、チェルノブイリ、福島、沖縄などで広河氏の取材や救援活動の様子を映し出す。国家や戦争・紛争により極小の個人、とりわけ「子供」が無残に「殺され」、「病まされる」現場を追う広河氏は「死体の写真しか撮れないほどジャーナリストにとって悔しいことはない」と語る。

◆ジャーナリストである前に自分は人間だ

「死体」や「凄惨な現場」のみを専ら被写体として探し回り、世界の紛争地帯の表面だけを追う「戦場カメラマン」が少なくないことを私は知っている。彼らにとって「戦争」や「悲劇」は商売上、絶対必要な舞台であるから、「死体を撮る」ことに悔しさを感じることはない。彼らは広河氏の「ジャーナリストである前に自分は人間だ」という言葉に痛撃を受け「人間の戦場」を最後まで心穏やかに鑑賞することはできはしない。

広河隆一氏と長谷川三郎監督の舞台挨拶(2015年12月20日新宿K's cinema)

広河氏の活動を少なからず知る私にとっても取材現場での彼の身のこなしや、被写体との距離の取り方、幾通りも理解が可能な「現場」への意味づけの視点など発見が多くあった。

◆救援活動の先駆者としての広河隆一

広河氏はまた、フォトジャーナリストでありながら、常人の想像を超える救援活動の先駆者でもある。大施設に発展を遂げたチェルノブイリ原発事故地の影響を受ける地域の子どもたち保養施設「希望」建設にといった想像を絶するプロジェクトを広河氏は幾つも手掛けた。

一方で個人への援助や継続的な友人関係も数えきれない。「人間の戦場」ではウクライナのナターシャさんが生き証人として登場する。広河氏を「お父さん」とまで呼ぶナターシャさんとの交際は彼女が11歳の時から始まり、甲状腺ガンを患い手術を受ける時にも広河氏は付き添ったという。

長谷川三郎監督

幸い健康を取り戻し、結婚をして2児の母になったナターシャさんは実に明るく、広河氏を含む撮影クルーを自宅に招き入れる。どれほどの打ち合わせをしても、絶対に作り出すことは出来ない「心からの笑顔」が広河氏とナターシャさんの関係の全てを物語る。

施設や設備の建設や設立、いわば「マクロ」(状況全体へ)の救援と同時に個々の人びととへの救援(「ミクロ」)と交際を続ける広河氏のエネルギーには圧倒されるばかりだ。全世界に何百人、否、何千人ものナターシャさんがいるのだろう。

◆映像化されることで違う力をもった広河隆一の仕事

上映後のトークショウで広河氏は幾分照れながら、当初撮影されることに戸惑いを感じていたことを告白する。しかし「自分の仕事が映像化されることによりまた違う力をもつようになった」成果を実感しているようだ。

広河隆一氏と長谷川三郎監督(2015年12月20日新宿K's cinema)

長谷川監督はこう語る。
「ドキュメンタリー作品はたくさん手掛けてきたが、ジャーナリストが取材している場所へカメラを向けていくというのはその場の人びとに大変なストレスをかける仕事で、相当に神経をつかった」

そうだろう。広河氏は撮影中も自分が「被写体」であることをしばしば忘れ、監督やカメラに向かって「私じゃなくてそちらを撮れ!」と何度も要請をしたという。骨の髄まで沁み込んだジャーナリストとしての感覚。撮影する側と撮影される側の神経をすり減らすような境界線のせめぎ合いが「人間の戦場」の醍醐味でもある。

映画終盤に広河氏が「新しいテーマ」に取り組み始めるシーンがある。彼はどんな切り口で「あの壮大」なテーマを切り取りだしてくれるだろうか。「人間の戦場」は「新しいテーマ」との激闘を始めた広河氏の改めての「戦闘宣言」なのかもしれない

『広河隆一 人間の戦場』は新宿「K’s cinema」、神奈川「シネマ・ジャック&ベティ―」、愛知「名古屋シネマテーク」、大阪「第七藝術劇場」、兵庫「神戸アートビレッジセンタ―、広島「横川シネマ」などで順次公開予定。詳細は「人間の戦場」公式HPをご参照頂きたい。
http://www.ningen-no-senjyo.com/


◎『広河隆一 人間の戦場』劇場予告編

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎福島原発被曝の現実から目をそらさない「DAYS JAPAN」と広河隆一氏の在野精神
◎鹿砦社大忘年会の宴!「前へ!前へ!」と走り続け、どんな議論も引き受ける!!
◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?

自由な言論の場は1ミリも揺るがない!「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice』第6号!

2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?

今年2月1日の本コラムで「イスラム国人質『国策』疑惑―湯川さんは政府の捨て石だったのか」を書いた。イスラム国に「戦犯」(War Criminal)として囚われた湯川遥菜さんと「人質」(Hostage)とされ身柄を拘束された後藤健二さんが共に殺害されたのは1月31日だと推測される。イスラム国は「武器販売」を目的としていた湯川さんを2014年8月に拘束し「戦争犯罪人」として当初より処刑の意向を示したが、「人質」とされた後藤さんの身柄拘束は14年10月中旬と考えられ、身柄解放に関しては10億円の身代金がご家族に要求されている。

14年8月16日に湯川さんの身柄が拘束されていることを知った政府は、名ばかりの「現地対策本部」をヨルダン大使館内におく。国会で野党議員の「現地対策本部は具体的にどういう人員で何をしていたのか」の問いに、通常大使館駐在する人間の数と同等で「情報収集などにあたった」と岸田外相は答弁していたけれども、この時点で「現地対策本部」は何もしていなかったことが明らかになった。

2015年1月17日安倍首相はエジプトで、
(1)ここで私は再び、お約束します。日本政府は、中東全体を視野に入れ、人道支援、インフラ整備など非軍事の分野で、25億ドル相当の支援を、新たに実施いたします。
(2)エジプトが安定すれば、中東は大きく発展し、繁栄するでしょう。私は日本からご一緒いただいたビジネス・リーダーの皆様に、ぜひこの精神にたって、エジプトへの関わりを増やしていただきたいと願っています。 日本政府は、その下支えに力を惜しみません。 E-Just(イー・ジャスト)にとって便利で、有望な産業立地とも近いボルグ・エル・アラブ(Borg El-Arab)国際空港の拡張を、お手伝いします。電力網の整備とあわせ、3億6000万ドルの円借款を提供します。
(3)その目的のため、私が明日からしようとしていることをお聞き下さい。
まず私はアンマンで、激動する情勢の最前線に立つヨルダン政府に対し、変わらぬ支援を表明します。国王アブドゥッラー二世には、宗教間の融和に対するご努力に、心から敬意を表すつもりです。
(4)イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。
などと述べた(文中の数字は筆者が挿入したものである)。

この演説を受けてISからの後藤さん解放の条件とされた身代金の金額が当初の10億円から20億円に引き上げられる。その直接原因となったのは(4)の安倍首相の言及である。身代金が20億へ引き上げられたのはここで対ISへ日本が20億円(2億ドル)支出すると公言したのにあわせてのことだ。そして副次的な要因として(3)も作用している。2014年9月11日にヨルダンを含む中東諸国の外相が米国のケリー国務長官と会談し「米国の軍事作戦に協力する」ことを約束していたからだ。ケリーと会談した国の中にはトルコも含まれるが当時トルコはまだ、ISと決定的な対決には至っておらず、日本の「対策本部」をヨルダンではなくなぜトルコにおかなかったのかと指摘する専門家も多かった。実際トルコ政府は英国人ジャーナリストなどが人質として捉えられた事件で仲介役を引き受け、解決した実績もあった。そして(1)、(2)のような「ばら撒きによる懐柔」政策も敵意を掻き立てた可能性は否定できない。


◎[参考動画]Japan condemns ISIS beheading of journalist Kenji Goto Headlines Today 2015/01/31 に公開

◆歴史の文脈が導く物語の一断面としての「テロ」「人質」事件

さて、早いもので湯川さん後藤さんの惨事からもうすぐ1年を迎える。あの惨事からこの島国の政府は何を学んだだろうか。答えは「皆無」だ。

報道機関は沈黙しているが後藤さんと実に似た状況で現在も身柄を拘束されている日本人ジャーナリストが少なくとも1人いる。その人は今年の6月頃ISではない組織に拘束されたが、日本政府は解放交渉を当初から放棄し、民間の有志が解放交渉にあたっている。消息筋によると後藤さんのケースのように緊急の危険性は少ないようだが、拘束も半年に及ぶことから早期の解決が望まれる。

この拘束事件については数か月前から解放交渉にあたっている方より情報を得たものの「解放交渉は事件が大っぴらになると向こう側が態度を硬化させる。だからできれば触れないで欲しい」との要請があり紹介するのを控えていた。が、既に関心のある方々の間ではある程度この事件が知られることになったので敢えて紹介をしておく。

「テロ」、「人質」事件はある日発作的に起こるものではない。それは可視、不可視な歴史の文脈が導く物語の一断面だ。現象のみを切り取りその残虐性や非人道性をあげつらっても物語は読み解けない。物語は牧歌的童話のような単純なストーリーから、誰が正義でどいつが悪人か読後まで謎が解けないミステリーもある。

世界は善悪2分法で解釈できるほど単純ではない。そもそも「善悪」など状況が判断を下す暫定・相対的なものだ。勇ましく「テロとの戦いに参加する」などと宣言することは、どんなストーリーが展開されているかわからない、しかも異国語で綴られた書物を手に取り、その完璧な読解を「可能だ」と宣言するようなものだ。私にはそんな蛮勇はない。


◎[参考動画]Calls for Japanese government to secure release of IS hostage News First 2015/01/30 に公開

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎挙句の果ての「1億総活躍」──狂気、矛盾、悪意、恫喝づくしの安倍暴走政権
◎隣のクルド人──「国を持たぬ民」が日本社会で暮らすということ
◎《追悼》杉山卓男さん──「不良」の薬指に彫られた指輪のような刺青の秘密

「脱原発」×「反戦」の共同戦線総力誌『NO NUKES voice』!話題の第6号!
『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン!

 

鹿砦社大忘年会の宴!「前へ!前へ!」と走り続け、どんな議論も引き受ける!!

忘年会たけなわの季節だ。「いやいや1年間あれこれありましたが、ご苦労様でございました」と労い合うこの習慣、強制されるのでなければ私は嫌いではない。

実は鹿砦社も毎年関係者を集め忘年会を開いている。文字通りの「鹿砦社大忘年会」である。今年は12月14日東京、東京編集室近くの水道橋で行われ80余名が結集した。司会進行は例年通り『紙の爆弾』で鈴木邦男の対談をプロデュースしている椎野礼仁さん。松岡社長の挨拶、マッドアマノさんの乾杯の音頭で歓談が始まった。

2015年鹿砦社大忘年会「もっと前へ!前へ!」(揮毫=龍一郎さん)

『紙の爆弾』や『NO NUKES voice』への寄稿者や出版関連の社長さん、編集者、ライターらに交じって「プリズンコンサート」で有名なPaix2(ぺぺ)をはじめ、芸能関係者の姿も。敢えて名を秘すが「サプライズゲスト」の社会派お笑いコンビが登場するや、忘年会は一気にフィーバー! また、脱原発や救援活動など社会運動関係者の姿も多い。

◆『紙の爆弾』創刊10周年、「言論・出版弾圧」から復活10周年だった鹿砦社の2015年

Paix2(ペペ)のお二人からのご挨拶

しかしこの忘年会の特徴は、なんといっても鹿砦社が参加者を無料で招待することだ(今年もご馳走様でした、鹿砦社の皆さま)! こんな太っ腹で大丈夫なのだろうか、と参加者が気を遣っている様子が一向にないのがまた鹿砦社の招待客らしい(何を隠そう私自身もそうだけど)。鹿砦社が10年前の壊滅的打撃から回復の兆しが見えた頃から支援してくれた方々への1年に1度の恩返しの意味でこの「大忘年会は」始まったという。

今年は鹿砦社にとって、月刊『紙の爆弾』創刊10周年。まさに悪夢だった「言論・出版弾圧」から10周年の記念すべき年だった。東京と本社のある甲子園で各10周年の記念イベントが行われ、そこにも鹿砦社の再起を祝う多くの人びとが集まった。
名誉毀損での松岡社長逮捕・勾留という致命傷に近い「弾圧」を受けながら10年後にこの姿で復活どころか、弾圧前を超える勢いで走り続ける鹿砦社の姿を想像できた人は少なかっただろうし、それを実現した松岡社長や中川編集長をはじめとする鹿砦社の皆さんの奮闘は察して余りある。

◆雑誌の原点──様々な立場、意見の人びとを紹介し、議論を喚起する媒体

「前へ!前へ!」と走り続け、どんな議論も引き受ける!!

そんなメモリアルな年にふさわしいというべきか、「ちょっとした事件」が忘年会を前に起こっていた。脱原発雑誌『NO NUKES voice』第6号は「脱原発と反戦・反安保─世代を超えて」を特集したが、そこでは安保法制反対運動を担った方々の生の声に加えて松岡社長自身による8頁に及ぶ「解題 現代の学生運動──私の体験に照らして」が掲載された。「解題」を読んで私はこれは賛否両論の大きな議論に発展するに違いないと直感した。

その予感通り、「解題」を含め『NO NUKES voice』第6号は壮絶な大論議を巻き起こし、特にネット上では相当の議論が交錯した。「雑誌」は本来、様々な立場、意見の人びとを紹介し、議論を喚起するのが社会的に期待される役割だろう。その役割を果たせる雑誌が減少している証左を図らずも証明することとなったのが『NO NUKES voice』第6号が巻き起こした大論議である。初めて買った方が大いに共鳴し、30冊まとめて購入し、仲間に配布したという知らせもあったという。

発行元としては大いに歓迎すべき闊達な議論が沸き起こったのだけれども、かといって雑誌を世に出せば「はい、それでおしまいよ」というほど出版や社会運動の世界は優しい場所ではない。詳細は省くが、この間、友好関係にあった反原連(首都圏反原発連合)から突然の絶縁声明が出されたのだ。

『NO NUKES voice』第6号ではほとんど直接的な反原連批判がなされているわけでもなく、また松岡社長の反原連への入れ込みようは傍で見ていてもハラハラするほどで、資金支援も相当してきたそうだ。なのに……。この過程の中で「老害」「内政干渉」などと詰られ鹿砦社は多少なりとも傷を負ったことも事実ではある。しかし、そんなことは、かの「弾圧」の経験に比べればこれっぽっちのかすり傷ですらない。むしろ前を向かせてくれるエネルギーでしかないと私は思う。

「前を向く」、そして「走り続ける」。どんな議論でも引き受ける。厄介であっても結構。いやむしろ社会の欺瞞を暴き、誰もがそれに口を閉ざすのであれば、敢えて「火中の栗を拾う」のが鹿砦社の使命と言ったら言い過ぎか。「虎穴に入らざれば虎児を得ず」を実践し手に入れた貴重な「虎児」は脱原発だけにとどまらない大議論であり、今日の閉塞した言論状況への挑戦状ですらあったといえよう。

忘年会では長年脱原発に取り組む「たんぽぽ舎」の柳田真さん、またわざわざ仙台から駆けつけてくださった、同誌で連載されているFM放送のプロデューサー・納谷正基さんからのスピーチで前述の議論へのそれぞれの立場からの言及があった。不肖私もご指名を受けたので思うところを偽りなく述べた。皆が同じ意見、感想ではない。それでいいじゃないか。参加者には言論や社会運動における多様性の重要さを再度認識させられる、楽しくも考える場面もある貴重な時間となったのではないだろうか。

◆年に一度の大盤振る舞いの宴は怒涛の二次会へと!

松岡利康=鹿砦社社長

そうしたことなどを松岡社長に聞いてみた──。

「今年は昨年の2倍ほどの皆様にお集まりいただき嬉しかったですね。毎年これに合わせ頑張り、それなりの出費は見込んでいるのですが、今年は50万円余り掛かりました(苦笑)。年に一度の大盤振る舞いで、皆様方に喜んでいただき、また来年頑張っていただけるのであれば安いものです。田所さんも言われるように、今年は内憂外患、ちょっとシンドいことがなかったわけでもありませんが、10年前に逮捕され半年以上も勾留されて、10年前の今頃は神戸・六甲の山の上の”別荘”でのた打ち回っていたことを想起すると全然軽いものです。今年、情況を察して、こんなにお集まりいただいたんじゃないでしょうが、皆様方から叱咤激励賜り、私たちの気持ちを察していただいたことに感謝いたします」

しかし、反原連による絶縁声明については、「脱原発運動のために泥仕合はしたくないので今は敢えて何も語りません。ミサオさんらにも面子や意地があったのでしょうから、恨んだり憎んだりしてはいません」と語るのみだ。

それにしても多彩な業界からの80名の参集は並みでは味わえない「勢い」を感じさせられて余りある。

でもそれだけでは終わらないのが鹿砦社忘年会の恐ろしさだ。場所を四谷に移して、なんと2次会も希望者は無料でご招待! それだけじゃーないぞ。もう終わったから告白するけども、松岡社長の長年の”悪友”たる板坂剛氏が編集し上田治躬氏が撮影を担った「占」(うらな)≪嬢王様の時代≫の主人公である「占」さんが二次会には登場。松岡社長があの噂の「全裸タロット占い」のターゲットとなった。いいのか! 今時こんなことをしていて! 気の小さい私は万が一警察に踏み込まれたら……と気が気でなく会場の鍵を閉めてドアのノブを握り占めていた。

怖いものはないのか?と聞いてみたくなる図太さと怒涛の勢いを見せつけられた「鹿砦社大忘年会」であった。残念ながら読者の皆様へは事後報告しかできないが、来年もまた盛大な忘年会をご報告したい。
恐るべし、限界なしの鹿砦社である。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎笑止千万「軽減税率」!議論すべきは消費税引き上げの「ぼったくり」税制だ!
◎挙句の果ての「1億総活躍」──狂気、矛盾、悪意、恫喝づくしの安倍暴走政権
◎隣のクルド人──「国を持たぬ民」が日本社会で暮らすということ

月刊『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン
「脱原発」×「反戦」の共同戦線総力誌『NO NUKES voice』第6号!

 

笑止千万「軽減税率」!議論すべきは消費税引き上げの「ぼったくり」税制だ!

与党間で合意されている来年の消費税10%への引き上げに際して、「軽減税率」が生鮮食料品や加工食品に適応される方向で調整がまとまりつつある。

「軽減税率」と聞くとあたかも「消費税が安くなる」かの如き誤解も抱かされるが、与党の意図する「軽減税率」は、あくまでも「消費税を8%に維持する」ことのみを意味するのであって、現在よりも税率が下がることではない。

外食は「軽減税率」の適応外だ、テークアウトは適応だなどと些末な議論がかしましいけれども、そもそも消費税が10%に引き上げられる不当性についての議論はあまり見当たらない。

◆「社会福祉目的税」という騙し文句で導入された1989年の消費税

上がる上がる、どんどん上がる。賃金や社会保障費と逆にいったいどこまで引き上げれば気が済むのだろうか、庶民の敵=消費税。現在のところ見え隠れする最終目標値は経団連が示唆する19%だそうだ。

「社会福祉目的税」つまり社会保障以外には使いませんよ、との騙し文句で導入されたのが消費税だった。そんなものは嘘っぱちに決まっている、と少しでも大蔵省(当時)の恒常的欺瞞性を知っている人は、導入された1989年から危惧はしていた。消費税がそのまま社会保障費に充填されるなら、5%から8%に税率が引き上げられた際の増収分、社会保障費は増えていないと理屈に合わないが、第二次安倍政権発足後だけで、社会保障費は3900億円減額されている。

さらに馬鹿げた議論は「軽減税率」を導入するとそれを埋め合わせる「財源が不足する」という世論誘導である。各新聞がそろって報じる「財源不足」論。これから行う「増税」に対して財源が不足するというのは初歩的な論理破綻であって、それほどまでに「消費税の引き上げ」は社会的承認を得た「不可避の選択」だと言わんばかりだ。

新聞が「軽減税率」とその適応範囲の報道のみに熱を上げ、「消費税増税の不当性・逆進性」への議論が皆無と言ってよいほどに封じられているのには理由がある。民主党政権時代に日本新聞協会は政権と消費税引き上げの際(本当は5%から8%へ引き上げられたタイミング)で「軽減税率」の恩恵を受ける、との「密約」があったからだ。

活字離れ、部数減という厳しい環境は全国紙、地方紙共通の課題であり、この上消費税が上がれば定期購読者の減少は明らかだった。だから民主党政権が続いていれば新聞には既に「軽減税率」が適応されていたはずであったが、ご承知の通り政権は自公へ移ってしまったので「密約」も反故にされた。

◆自公政権とマスコミが世論誘導するウソまやかし

公明党HPより

「今こそ軽減税率を」と公明党のポスターが全国の街角に溢れる。なにが「今こそ」だと、山口那津男代表の顔に聞き返してやりたいけれども、創価学会を中心とする全国800万の基礎票を維持するためには池田大作先生の「人間革命」と「聖教新聞」で連日「勝利!勝利!」と連呼しているだけではやはり心許なく、与党内にあって自民との違いを何か演出しなければ危うい。実際に「平和」を標榜する(彼らの言う「平和」がどのようなものかの議論はともかく)公明党としては、「戦争推進法案」強行採決にあたって、ついに国会前をはじめ、全国で創価学会員が「反党」活動を行い出したことを軽視はできないはずだ。

だからお得意の「与党内にあって」何かを演出することが公明党にとっては来年の参議院選挙を控え絶対的に必要な行動となる。

しかし、これらの議論は全てまやかしであり、論外だ。「直関税率の是正」や「福祉目的税」という欺瞞が完全に破綻を来たしている消費税の存置自体の議論が何故湧きあがらないのか。所得税の累進税率を下げ、法人税も連続的に引き下げ、ほぼあらゆる商品、サービスに課税される消費税を上げれば確実に低所得者の生活が苦しくなる。

そのことは自公政権も認めざるを得なく、非課税世帯に対して昨年度は1万円、今年度は6000円の給付を行っている。だがそんな一時金で低所得層の継続的困窮が救済される道理はないし、非課税世帯以外の低所得層は、要するにボッたくられっぱなしである。

◆今こそ消費税の廃止を議論せよ!

野党時代に首相に就任する前にスウェーデンを視察した菅直人氏が「素晴らしい社会保障システムだった」と発言したのに対して、時の政権与党自民党の幹部は「一面だけを見てモノを言っている。スウェーデンは『高負担高福祉』と呼ぶのが正しい」と揶揄したことがある。消費税は3%の時代だ。

消費税が8%に上昇しても「社会保障」は後退しかしないことを我々はすでに経験している。10%に上がってもさらに屁理屈を並べて年金や、生活保護、健康保険などが削られてゆくだろう。この島国ではいくら消費税が上がろうとも「高負担高福祉」社会が実現することなどない。

消費税などなくとも、国債を40兆円も乱発しなくとも財政の運営が過去可能だったのだ。「状況の変化」などを政治が言い訳にするのならそれは為政者の財政運営能力低下を意味するだけだ。ごちゃごちゃ細かい「騙し」の議論「軽減税率」などではなく、「今こそ消費税の廃止」を私は主張する。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎挙句の果ての「1億総活躍」──狂気、矛盾、悪意、恫喝づくしの安倍暴走政権
◎隣のクルド人──「国を持たぬ民」が日本社会で暮らすということ

「脱原発」×「反戦」の共同戦線総力誌『NO NUKES voice』第6号!
『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン