わたくしごとで恐縮であるが、本年は予定しない入院を複数回余儀なくされた。通院回数や検査の回数が年々増加するのは、加齢故に現状維持のためには致し方ない。もう慣れた。

◆「警戒レベル5」で募るのは、不安より不満の声

ただ、予定しない数日の入院の際に、医療とは関係のない奇妙(今日にあっては「当たり前」ないのかもしれない)な体験をした。わたしが居住している地域は地上波のテレビやAMラジオが受信しにくい。拙宅にテレビはないが、この地域でテレビを視聴するためには、ケーブルテレビなどのサービスを利用しなければ、地上波は受信できない。

たまたまの入院と同時期に記録的な豪雨の雲が、この地域にも到達した。4人病室、カーテンで仕切られた空間の中で、病院が準備したテレビを1000円のカードを購入して見ている口々に心配の声が聞こえてくる。わたしを除く全員がテレビに夢中になっていたとき、既に携帯電話には「緊急速報」が何度も鳴り響き、その情報は最初「警戒レベル3」であったものが数時間で「警戒レベル4」にあがり、ついには病院近辺の複数地域に「警戒レベル5」が出されたことを伝えていた。耳障りな警報音が、複数の携帯電話から病室に響き渡る。

「警戒レベル5」は気象庁によれば「災害が発生又は切迫していることを示す」もっとも警戒を要するレベルの警報だ(これより程度の高い警報は、現状ない)。だから頑丈な病院に入院していても、家族や知人の心配をして、より詳しい情報を求め同室の皆さんはテレビを見ていたのだろう。だが、どの声も不満をつぶやくものばかりだ「こんなん、テロップ出しただけで、わからへんやんか」、「なんで普通の番組やっとんや。特別番組に切り替えんのや」自分の携帯電話に送られてきた「警戒レベル5」が示すエリアには、わたしの自宅があるの町名も含まれている。

「直ちに命を守る行動を」と横のベッドから漏れ聞こえてきた音声を聞きながら、はて、こんな緊急時にどうしてNHKテレビやラジオはそれこそ娯楽番組を放送していないで、何度でも警戒警報が出されている地域に呼びかける放送をしないものか。

◆「直ちに命を守る行動を」と報じつつ、あまりに呑気なマスメディア

この際自分の目で確認しようと、1000円のテレビ視聴カードを購入してまずNHK総合テレビ見た。この時大雨は西日本を中心に広い地域にわたり、多くの河川氾濫も起こっていた。だから警報が出ている地域も複数県にわたっていた。

それにしても「直ちに命を守る行動を」要請されているのは、何十か所もあるわけではない。河川氾濫や土砂崩れによる道路寸断のニュース画面が繰り返し流される一方、「いま」危機を迎えている地域への呼びかけは、極めて抽象的だ。

民放にチャンネルを変えても放送内容は大差ない。ではラジオはどうかと、病院内に設置されている入院患者用のパソコンでネットで地元のラジオが聴取できるサービス「radiko」からNHK第一放送を聞いてみる。NHKラジオもやはり通常通りの番組を放送していて「直ちに命を守る行動を」との状態にしては、呑気なものである。

そこで、せっかくパソコンを触っているのだから、ネットで情報を調べてみた。入院中の病院近くの複数の市や町に「警戒レベル5」が出されている。そこには町名のほか何世帯が警戒の対象かも記載されている。繰り返すが「警戒レベル5」は「もう避難できない人は最悪に備えて、家の中で比較的安全な場所に身を寄せて」とも表現される警報だ。近年地震だけでなく、大雨による水害や山の崩落が毎年発生しているからであろうか、あるいはこの時の大雨被害がかなり広域にわたったためか、詳しい避難情報はテレビ・ラジオからは得ることができず、ネットがなければどうしようもないのではないか、と気になった。

◆手術と同じくらい恐ろしかった「災害報道」の弱体化

次の日病室で同室の人が見ているテレビの声が漏れてきた。話口調から民放の番組のようだ。「それでは今回のような災害の際に、お住まいの場所にどんな警報が出ているかを知る方法をお伝えします」とアナウンサーらしき男性の声は「ネットで『気象庁』と検索すると、このように詳しい警報の情報が出てきます」(このあたりのコメント内容は記憶が完全ではないが)とこともなげに説明をはじめた。わたしはテレビから離れて30年ほどになる。それでも外出先で短時間テレビに接することはあり、その都度「知らないことばかり」の画面を無感動に眺めているのだが、この時は違った。

テレビはもう、命にかかわる災害発生時にも情報を頼る相手ではなくなった。それを知り「ここまで来たか」と衝撃を受けた。ラジオも同様だ。NHKは各県に放送局を設けているのだから、その気になればかなり細やかな情報提供は可能だろうに、もうはなからテレビやラジオにはそんなつもりはないらしい。「非常持ち出し袋にはラジオを入れておきなさい」と昔から教わったが、この地域ではそもそもAMラジオ電波が届きにくい。そのうえ電波を受信できても肝心の避難情報が放送されなければ、ラジオを持っている意味はないだろう。

テレビも同様。すべてを「ネットで」と誘導するのが今日当たり前のようだが、「災害時にネットへアクセスできるかどうか」この基本的な問題が度外視されてはいまいか。スマートフォンだって基地局のアンテナが倒れたら使えないし、そもそもネットはおろか、パソコンを使わないかたがたにはどうしろというのだろう。

手術も恐ろしかったが、同じくらい「災害報道」の弱体化には恐れ入った数日間であった。情報技術やインターネットは“進歩”したようだが、災害時におけるこのような報道姿勢は「退行」以外のなにものでもないのではないだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年1月号!

◆シラケ世代

71年に思春期や青春時代を迎えた世代は、総称して「シラケ世代」と呼ばれたものだ。ほかにも三無主義・四無主義という呼称があった。

 

『木枯し紋次郎』(中村敦夫事務所提供)

つまり、無気力・無責任・無感動・無関心というわけである。わたしもその一人だった。

無感動や無関心には、それなりの理由がある。少年期に戦後復興の象徴であるオリンピックや高度経済成長を体感し、努力すれば成功するという勤勉な日本人像を抱いていた。にもかかわらず、60年代後半の価値観の変転が、その神話を打ち崩したのである。

一所懸命努力しても、成功するとは限らない。背広を着た大人の言うことは信用するな。正義が勝つとはかぎらない。へたに政治運動に首を突っ込むと、とんでもないことに巻き込まれる。闘っても、負ければ惨めだ。巨人の星飛雄馬は挫折したし、力石徹も死んでしまった。若者たちは政治の汚さや正義の危うさを知ってしまったのだ。

前ふりはここまでにしておこう。そんなシラケ世代のど真ん中に、突如として現れたのが「木枯し紋次郎」だった。

『抵抗と絶望の狭間』の巻頭は、その木枯し紋次郎を演じた中村敦夫さんのインタビューである。

胡散臭いことを「ウソだろう」という感性は、まさに演じた紋次郎のものだ。アメリカ留学の件は、あまり知られていない個体史ではないか。中村さんのシンプルな発想は、いまの若い人たちにも参考になるはずだ。

俳優座への叛乱を報じる朝日新聞(1971年10月28日朝刊)

◆その時代が刻印した「傷」と「誇り」

シラケ世代は68・69年の学生叛乱の延長で、それを追体験する世代でもあった。シラケていても、いやだからこそ叛乱には意味があった。もはや戦後的な進歩や正義ではない、世界が変わらなくても自分たちが主張を変えることはない。

 

「俺を倒してから世界を動かせ!」1972年2月1日早朝 封鎖解除 同志社大学明徳館砦陥落

松岡利康さんら同大全学闘の「俺を倒してから世界を動かせ!」という スローガンにそれは象徴されている「私にとって〈一九七一年〉とはいかなる意味を持つのか」(松岡利康)。

革命的敗北主義とは妥協や日和見を排し、最後まで闘争をやりきることで禍根を残さない。そこにあるのは学生ならではの潔癖さであろう。

善悪の彼岸において、革命的(超人的)な意志だけが世界を変え得る(ニーチェ)。

学費値上げ阻止の個別闘争といえども、革命の階級形成に向けた陣地戦(ヘゲモニー)である(グラムシ)。

71年から数年後、松岡さんたちの『季節』誌を通してそれを追体験したわたしたちの世代も、ささやかながら共感したものだ。その「傷」の英雄性であろうか、それともやむなき蹶起への共感だったのだろうか。いずれにしても、進歩性や正義という、戦後の価値観をこえたところにあったと思う。

松岡さんの記事には、ともに闘った仲間の印象も刻印されている。

◆抵抗の記憶

71年を前後する学生反乱の体験は、文章が個人を体現するように多様である。掲載された記事ごとに紹介しよう。

眞志喜朝一さんはコザ暴動のきっかけとなった「糸満女性轢死事件」からベ平連運動に入ったことを語っている(聞き手は椎野礼仁さん)。沖縄戦で「日本国の盾にされてウチナンチュが死ぬ」のを、二度と繰り返さないために、馬毛島から与那国島まで要塞化するのは許せない。そのいっぽうで、日本国民(ヤマトンチュにあらず)として、中国が沖縄の地にやってきたらレジスタンスとして戦うというアンビバレンツなものを抱えざるを得ない。そしてB52が出撃した基地として、ベトナムにたいする加害者である意識を否定できないという。

田所敏夫さんが書いた「佐藤栄作とヒロシマ――一九七一年八月六日の抵抗に思う」にある抗議行動は、当日のニュースで見た記憶がある。

この女性が「糾弾」ではなく「佐藤首相、帰ってください」という訴え方をしたので、視ているほうも親身になったのではないかと思う。すくなくとも、わたしはそう感じた記憶がある。

被爆二世としての田所さんの思いのたけは、ここ三年間の8月6日のデジタル鹿砦社通信の記事として収録されている。

山口研一郎さんの「地方大学の一九七一年――個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い」も貴重な証言である。被災した長崎天主堂が、本来ならば原爆の悲劇の象徴として保存されるべきところ、当時の田川市長によって取り壊された。被爆者でもある田川市長が訪米後のこと、アメリカの核戦略に従ったものといえよう。

長崎には大村収容所もあり、山口さんの問題意識は被爆者問題にとどまらず、入管問題、沖縄返還問題、狭山差別裁判、三里塚闘争へとひろがる。そして長崎大学では、右翼学生との攻防がそれらの問題とかさなってくるのだ。周知のとおり、長崎大学の学生協議会は、現在の日本会議の中軸の活動家を輩出している。

◆内ゲバの前哨戦と機動隊の壁を突破

眞志喜朝一さんをインタビューした、椎野礼仁さんの闘争録「ある党派活動家の一九七一」は前述した「文章が個人を体現する」がピッタリ当てはまる。

もうこれは、学生の運動部の体験記に近い。党派というスポーツクラブに所属した体験記みたいだ。しかし実際には「通っていた大学に退学届けを出して、シコシコと、集会やデモ、その情宣活動を中心とした“学生運動”に勤しんでいた」のだ。

その学生運動の党派とは、「悪魔の第三次ブント」を標榜した戦旗派である。

第二次ブント分裂後のブント系最大党派で、その組織リゴリズムから「ブント革マル派」と悪評が高かった。ようするに「前衛ショービニズム」(荒岱介)で、ゲバルトがすこぶる強かった。分派後のブント系は、反戦集会などがあれば、かならず内ゲバが前哨戦として行なわれていた。その内ゲバの様子が、まさに「運動部の体験」のごとく活写されている。戦記ものとして読めばたのしい。

叛旗派には13戦全勝だったというが、判官びいきもあって、デモに参加する群衆の人気は、圧倒的に叛旗派だった。

当時を知る人によれば「叛旗がんばれー!」という歓声があがったという。

その叛旗派は、吉本隆明がゆいいつ「ブント」として評価していた党派である。吉本の人気とゲバルト闘争にはいまひとつ参加できない、新左翼シンパ層の支持にささえられていた。そして12.18ブントや赤軍派とのゲバルト。荒岱介さんによれば、キャッチマスクを着けたゲバルト訓練は、九十九里海岸の合宿で行なわれたはずだ。

71年6.17の全国全共闘分裂のデモでは、上京した同志社全学闘(松岡さんら)の闘いと交錯する。こちらは内ゲバではなく、機動隊に押し込まれて「もうアカン」(松岡さん)という状態のときに、背後から火炎瓶が投げられて機動隊が後退。「同大全学闘の諸君と共にここを突破したいと思います」(戦旗派)というアジテーションがあり、スクラムを組んで突破したのである。

内ゲバもするが、機動隊を前にしたときは共闘する。そこがブント系らしくていい。

そして72年5月の神田武装遊撃戦、ふたたびの組織分裂と困惑。まさに華々しく駆け抜けた青春のいっぽうで、ひそかに行なわれた非合法活動。語りつくせないことが多いのではないか。

よく太平洋戦争の戦記もので、書き手によっては悲惨な戦いも牧歌的に感じられるものがある。椎野さんには改めて、闘争記を書いてほしいものだ。

『戦旗』(1972年5月15日)

『戦旗』(1972年5月15日)

◆新左翼のお兄ちゃん

芝田勝茂さんの「或ル若者ノ一九七一」は、当時のノートをもとに回顧した文章である。現在の上品な児童文学者の風貌からは想像もできなかった、新左翼のお兄ちゃん然とした芝田さんにビックリさせられる。

文章も主語が「俺」なので、当時の雰囲気をほうふつとさせる。長い髪とギターを抱えた姿は、まさにフォークソングを鼻歌にしそうな、当時の新左翼のお兄ちゃんなのだ。

だが、内容は牧歌的ではない。芝田さんや松岡さんが参加した同志社大学全学闘は赤ヘルノンセクトだが、いわば独立社学同である。

東京では中大ブント、明大ブントが第一次ブント崩壊後(60年代前半)の独立社学同で、その当時は関西は地方委員会がそっくり残っていた。

 

キリン部隊

そして二次ブント分裂後、同志社学友会を構成する部分が全学闘であり、対抗馬的な存在が京大同学会(C戦線)であった。

芝田さんの記事では、同大全学闘と京大C戦線、立命館L戦線の三大学共闘が、並み居る新左翼党派に伍して独自集会を行なうシーンが出てくる。

「同志社のキリン部隊や!」「やる気なん?」と参加者から歓声が上がり、解放派から「こいつら無党派じゃない! 党派だ!」という声が出るのも当然なのである。

※キリン部隊 ゲバルト用の竹竿の先端に、小さな旗を付けたもの。折れにくい青竹が主流で、竹竿だけだと凶器準備集合罪を適用されかねないので、先端に申し訳ていどに付ける。

◆三里塚9.16闘争

松岡さんと芝田さんの手記にも三里塚闘争への参加(京学連現闘団)と逮捕の話は出てくるが、当時高校生だった小林達志さんが「三里塚幻野祭」と第二次強制代執行阻止闘争のことを書いている。

激闘となった、71年9.16闘争である。このとき、八派共闘の分裂によって、三里塚現地の支援党派も分裂していた。中核派と第4インターが駒井野と天浪の砦(団結小屋)で徹底抗戦。椎野さんたちの戦旗派もそれに対抗して砦戦だった。

いっぽう、解放派と叛旗派、情況派、日中友好協会(正統)、黒ヘル(ノンセクト)、京学連などが反対同盟青年行動隊の指導の下、ゲリラ戦で機動隊を捕捉・せん滅する計画を練っていた。

おそらく9.16闘争の手記が活字になるのは、初めてのことではないだろうか。それだけに読む者には、生々しいレポートに感じられる。

すでに裁判は86年に終わり(第一審)、無罪(証拠不十分)をふくむ執行猶予付きの判決で終結している。つまり9.16闘争とは、上記のゲリラ部隊が機動隊を急襲し、警官3名の殉職者を出した東峰十字路事件なのだ。※東峰十字路事件(Wikipedia)

同志社大学では当日の実況中継を計画していたが、さすがに機動隊員が死んだという知らせをうけて急遽中止したという。

70年代は「第二、第三の9.16を」というスローガンが流行ったものだが、この事件では三ノ宮文男さんがたび重なる別件逮捕のすえに自殺している。警官の殉職者もふくめて、いまは哀悼の意を表すしかない。

硬派なタイトルの紹介ばかりとなったが、この書評は連載となることを予告しておこう。71年は日活ロマンポルノ元年でもあり、銀幕にバスト露出が始まった年である。そのあたりは元官能小説作家として、たっぷりと紹介したい。(つづく)

朝日新聞(1971年9月16日夕刊)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

世間ではその存在がよく知られた若者が結婚をするらしい。強制された結婚でなければ、基本的に結婚は慶事であるから、喜ばしいことだろう。同時に、有名であろうがなかろうが、結婚をする庶民は年中いるのであるから、この際分け隔てなく、「みなさん結婚おめでとう」と申し上げよう。

ただし、結婚はめでたいが、その後の生活の幸せを結婚が保証するかといえば、必ずしもそうではない。人の結婚にいちゃもんをつけるのは、へそ曲りの根性である。けれども、結婚後に多くの人が「結婚」ゆえに「困難」に向かいあわなければならないこともまた事実だ。

◆結婚が長期にわたる双方の幸せと直結することは、いわば「例外」といってもいいのかもしれない

配偶者との間で、双方に信頼・尊敬が成立する関係性に、ときどき出会うことがある。稀に出会うそんな関係をわたしは心底「素敵だな」と感じ入る。でも、多くの場合は双方が互いに幾分遠慮や我慢をしていたり、他人から見れば片方が、過剰に我慢したり、耐え忍んでいたり。あるいは平静を装う生活の中に、無言の毒針のようなものが飛び交っていたり、まことに結婚後一定期間を経た関係性は様々だ。そんなわたしの限られた見聞からすれば、結婚が長期にわたる双方の幸せと直結することは、いわば「例外」といってもいいのかもしれない。

仕事が適性や性分に合わなければ、転職することを今日、誰も咎めはしない。転職に後ろ指をさしたり、偏見を持つ人などもう皆無に近いだろう。一方、結婚生活が維持しがたくなったときに、迎えるかもしれない「離婚」は、簡単なこともあるかもしれないが、一般に転職ほど容易ではない。

かつて裁判官であった知人が現役時代に、離婚の裁判の「当事者」として「法廷闘争」に臨んだことがあった。普段は裁判官として事件を「裁く」立場の人間が、こんがらがった関係の清算に「当事者」として裁判所に解決を持ち込むしかない事態に陥ったのだ。

裁判官だから法律の知識は豊富だし、彼が負けるようでは日本の法曹制度に疑問符がつこうというものだが、あにはからんや、彼は敗訴ではなかったものの、実質的には負けてしまった。しかも負けの条件が信じられないくらいに「不利」であったのに、彼はその条件を呑んだ。

わたしは少々混乱した。彼が法衣を纏い裁判官として仕事をする姿を、わたしは何度か傍聴席から眺めたことがある。傍聴席よりもいくらか高い位置から原告・被告や傍聴席を見下ろす彼は、取り立てて、特徴のない普通の裁判官であって、業界内(?)での評価・評判も悪くなかったと聞いた。そんな人物でも、私生活の「結婚」に関係する問題では、法廷で惨敗してしまったのだ。

このように、結婚の対極にある「修羅場」を目撃したり、話を聞いたり、ましてや経験すると「結婚観」が変化する。わたしも青年期に比べて「結婚観」は変化した。しかし、結婚それ自体を否定したり、斜めにみるようになったわけではない。「結婚します」と聞けば素直に「おめでとう」という姿勢に変化はない。

◆後味の悪い予感を払拭できずにいる

ただし、世間には「利用目的」の結婚が実存することは断言できる。当事者が意識せずとも利用される結婚、当事者双方が意識的に副次的産物獲得を目的とした結婚。あるいは政治的とはいわぬまでも、社会的な影響を企図しての結婚。

そういった側面も結婚にはついてまわる。そのことだけは知っておいてもいいだろうと思う。騒がれている誰かさんの結婚は誰かがなにかを「利用」しようとしている側面を、わたしは感じる。だから一般に「結婚おめでとう」と祝う気持ちだけではなく、もう少し後味の悪い予感を払拭できずにいる。

またしても、わたしの偏見かもしれないが。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』11月号!

9月16日、京都新聞朝刊は「県、西山さん確定無罪に反論」の見出しで、湖東記念病院事件で服役後再審無罪を勝ち取った西山美香さんの国家賠償請求訴訟において、滋賀県がふたたび西山さんを「犯人視」していることが明らかになったことを伝えた(2021年9月15日付京都新聞電子版)。詳細を確かめるべく西山さん弁護団長の井戸謙一弁護士に16日夕刻、急遽電話で詳細を伺った。(聞き手=田所敏夫)

井戸謙一弁護士

── 本問題の大まかな経緯を教えてください。

井戸 西山さんは再審での無罪確定を受け、2020年12月25日、国と滋賀県を相手取り、約4300万円の国家賠償を求める裁判を大津地裁に起こしました。国に対しては検察官の起訴の違法等、滋賀県に対しては滋賀県警の捜査の違法等が根拠です。この裁判の進行には難しい側面があります。再審裁判を闘ってきましたから原告側は記録を持っているのですが、民事裁判にはそれを証拠として出せないのです。刑事訴訟法に「刑事裁判で開示を受けた証拠は刑事裁判以外で使ってはならない」旨の条文があるからです。刑事裁判以外に使うと弁護人が懲戒請求されたり最悪の場合は刑罰も課せられます。日弁連は大反対しましたが、検察サイドの要求で平成16年に新たに加わった条文です(第281条の4)。裁判員裁判導入の際に証拠開示の規定が整備されたことの見返りに検察、法務省側が求めたものです。

ともかくその条文ができたので、本当であれば原告側が刑事裁判の証拠をこの裁判の証拠として出せば済むのですが、出せない。そこでこちらは裁判所に対して「文書送付嘱託」の申し立てと、「文書提出命令」の申し立てをしました。「文書送付嘱託」とは、大津地裁の民事部が、刑事記録を保管している大津地検に対し、記録を大津地裁の民事部に送付することを嘱託するよう求めるものです。送付されてきた記録をコピーして、国賠訴訟に証拠として提出する予定です。それに対して被告の国は、裁判所に対し、「必要な書類は国から証拠として出すから、送付嘱託を採用するかどうかは留保してくれ」と申し入れていました。国は6月にある程度は証拠を出してきましたが、つまみ食い程度でそれでは全く足りない。

── 刑事の再審裁判の記録の一部しか国は出してきていない、ということでしょうか。

井戸 今回の場合記録は3種類あります。刑事裁判確定審の一件記録。そして再審請求審、これは第一次と第二次がありますが、その一件記録。それから再審公判の一件記録です。原告側がこのすべてに対して「送付嘱託」を申し立てたのに対して、国はその一部しか証拠として出してこなかったわけです。国との間ではこちらが「もっと記録を出せ」、「出さない」とのやり取りがいまも行われています。

一方滋賀県は、滋賀県警が捜査をして、送検したのですから、捜査記録の写しは持っているでしょうが、裁判になってからの記録は全く持っていません。県は国に対して刑事記録の謄写をさせるよう求め、国はそれに応じ、県は一応謄写(コピー)をしました。そして、それに基づいて、昨日(9月15日)、基本的な主張を記載した第1準備書面を出してきました。その書面で「原告(西山さん)が殺人犯である」という趣旨の主張をしてきたのです。

これまで再審無罪になった元受刑者が提起した同種の国家賠償請求はいくつもあります。それらの訴訟の被告(国、都道府県)は、原告が無罪であることを前提とした上で、「捜査に違法はなかった」「過失はなかった」等と主張するのが常でした。布川事件、東住吉事件、松橋事件などでも同様です。湖東記念病院事件でも、国はその旨の主張をしています。

刑事訴訟で無罪が確定しているのに、国賠訴訟で、被告が「こいつが犯人だ」という主張をするのは前代未聞だと思います。ところが滋賀県の準備書面には「被害者を心肺停止状態に至らしたのは原告である」、「そもそも取調官に好意を抱き嘘の自白をすることはあり得ない」、「知的障害があるというのも嘘だ」、「(原告が奇異な行動をとったのは)捜査を攪乱しようとしたものだ」等とという趣旨のようなことが書いてある。これは捨て置けない。

── 刑事裁判の否定を意味しませんか。

井戸 そうです。滋賀県は、無罪判決をした大津地裁や有罪立証をせず、無罪判決に控訴しなかった大津地検に喧嘩を売っているのです。

── 再審無罪確定後の国家賠償請求訴訟で、国の姿勢は過去の同種訴訟と変わらないけれども、滋賀県が再審無罪で確定しているのに、また「犯人視」してきた。

井戸 そうです。

滋賀県大津裁判所に入る西山美香さん、井戸謙一弁護士ら弁護団(2020年12月/写真提供=尾崎美代子)

── なぜこんな主張が出てくるのでしょうか。

井戸 わかりません。我々も、まさかこんな主張が出てくるとは思いませんでした。この裁判では、美香さんが無実であることを前提に警察や検察のやり方に過失があったかどうか、違法な捜査があったかどうかが争点になると考えていました。「犯人であるかどうか」が争点化されるなど思っていませんでした。

── 警察の日常捜査に知事は権限を持ってはいないと思いますが、被告として滋賀県がこのような主張をしてきたのですから、知事には重大な責任があるのではないでしょうか。

井戸 滋賀県として代理人を選任しこのような準備書面を書いてきたのですから、三日月知事に責任はあると思います。再審無罪確定後、県警本部長は形の上では県議会「ご迷惑をおかけした」と謝罪しました。知事の目の前で県警本部長が謝罪しながら、今回の「犯人視」はまったくの二枚舌です。

── 法律解釈論の側面はあるかもしれませんが、西山さんからすれば、せっかく獲得した「無罪」がまた引き裂かれることになりませんか。

井戸 そうなんです。ようやく平穏な生活を送りだしたのに、またこういうことで精神的に不安定になるのではないかと心配になります。これは、美香さんに対する名誉棄損、侮辱であり、セカンドレイプです。

── 滋賀県が「犯人視」主張をしてきたことに対して、社会に対してどんなことをおっしゃりたいですか。

井戸 どれだけ三日月知事の意向が反映しているのかはわかりませんが、「こんなことでは済ませられない」ことを滋賀県には自覚してもらい、考え直させなければならないと思っています。県議会に働きかけようと思います。あとは市民の皆さんに「知事への手紙」などいろいろな方法で抗議をして頂きたいです。滋賀県が「このままでは放置できない」という状況に追い込みたいです。

── 再審無罪決定後に、県がこのような主張をすることは、わたしたちの生活にとって、どのようなことが起こる懸念があるのでしょうか。

井戸 冤罪を生み出した当事者が真摯に反省し、原因を究明し実務の改善をしないと冤罪は繰り返されるでしょう。今回の主張は改善どころか反省もしていない。「無罪になったけど本当は有罪なんだ。俺たちのやったことは全く問題なかったんだ」と堂々と開き直っているわけです。そして、滋賀県警の姿勢を滋賀県が是認しているわけです。これでは冤罪はなくなりません。今後、滋賀県ではまだまだ冤罪が作り出されるのではないかと、うすら寒くなります。

── お忙しい中ありがとうございました。

※これまで大事件の代理人であっても、市民集会でも井戸弁護士は熱を込めて語ることはあっても法律家としての理性が揺るぐことはない。井戸弁護士は今回、法的に「前代未聞」な滋賀県の態度を指弾するなかで、これまで聞いたことがない怒り・憤りを含んだ語調と言葉を発せられた。冤罪は文字通り「罪」なのに、罪を冒してもそれを反省するどころか、再び被害者を傷つける滋賀県。滋賀県は西山さんが同県の住民であることを、完全に失念しているようにしか思えない。

《追記》

本原稿を書き上げたあと、17日夕刻に井戸弁護士は、フェイスブックで以下の展開を公開した。

「昨日は、滋賀県警の不当な準備書面について抗議の書込みをしたところ、多くの人が〈いいね〉を押していただき、シェアしていただき、ありがとうございました。本日午後5時、三日月知事は、緊急記者会見を開き、準備書面の内容は誠に不適切であったとして、全面的に謝罪されました。会見の直前には、私に電話をいただき、やはり全面的に謝罪されました。知事ご自身は、準備書面の内容を把握されていなかったようです。準備書面の内容を全面的に見直すということですので、今回の問題は、ひとまず解決に向かうと思います。多くの方々が滋賀県当局に抗議の意思を届けて頂いた成果です。本当にありがとうございました。
 ただ、今回明らかになった問題をこのままで済ませてはいけないと思います。今回の騒動で明らかになったことは、県警本部の幹部らは、昨年6月に県警本部長が謝罪したにも関わらず、いまだに、美香さんが殺人犯であり、裁判所や検察庁の判断が誤っているのであり、自分たちの捜査には何の問題もなかったと考えているということです。自分たちの過ちを頑として認めない組織は、必ず同じ過ちを繰り返します。滋賀県警で不祥事が相次いでいるのもむべなるかなです。この滋賀県警の体質を明るみに出しただけでも、美香さんが国賠訴訟を起こした意味があったということができるかもしれません。滋賀県警の皆さんには、もう一度大津地裁の無罪判決と大西裁判長の説諭を読み直して、虚心坦懐に自分たちがした仕事を振り返ってみてほしい。そして、市民の皆さんには、警察のあり方について問題意識を持ち続けてほしいと思います。二度と冤罪被害を繰り返さないために。」

三日月知事は井戸弁護士に謝罪し、内容を見直すと連絡した。しかし、滋賀県警の「無反省」体質については、この展開により問題が浮き彫りになったといえよう。(2021年9月18日 田所敏夫)

[関連記事]
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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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アフガニスタンを20年にわたり占領していた米軍が撤退した。米軍の撤退を突然の出来事のように報じる向きもあるが、アフガニスタン、イラクへの武力攻撃・侵攻一連のプログラムを終えた米国は、早い時期から「アフガニスタンからは2020年をめどに引き上げる」ことを表明していた。今次の米軍撤退はそのプログラムが主として米国側の事情により、1年延期延期されただけのことである。しかし、日本内での報道は「米軍撤退=タリバン復権の危機」とのトーンで埋め尽くされている。

アフガニスタンは遠い国ではあるが、日本は「中村哲」という偉人を通じて、米国の侵攻前、侵攻後も深い関係を維持してきた。本当のところアフガニスタン情勢はいま、どのように推移しているのか。冷静な情報は日々アフガニスタンとの連絡に接し、現地事情を知っているひとから教えていただこう。

幸いアフガニスタンで長年医療・教育・灌漑など幅広い支援をおこなっている「ペシャワール会」のメンバーが、わたしの師匠筋にあたる。早速アフガニスタン情勢について伺った。ここでは諸般の事情で「先生」と表記する。

◆「テロとの闘い」の名の下にアメリカはアフガニスタンで誰と闘っていたか

── アフガニスタンは都市部以外は農民社会ということですね。

先生 そうです。8割5分は農民の社会です。アメリカ軍は空爆をして「タリバンを100人征伐しました」と発表しますが、実は爆撃を受けたのは多くの場合一般の農民です。村が全部焼かれたり、爆弾で吹っ飛ばされたり。ベトナム戦争の「ソンミ村」と同じ事態が数多く繰返されました。農地に出ていたお父さんが空爆を目撃して「あれはうちの村じゃないか」と気になり、戻ってみると家が潰されてそこにお嫁さんや子供たちの遺体がある。

アフガニスタンの1家族は10人以上15人くらい居るのが普通です。おじいちゃんおばあちゃん、子供が10人くらいいるのも普通。それが皆殺しにあっている。瓦礫をのけて遺体を埋葬すれば「アメリカ軍憎し」の気持が沸きます。「アメリカ軍をやっつけるために何かできることがあれば、すぐ駆けつけるぞ!」との気分は全土に広がっています。アメリカが攻撃をやればやるほど、反感を生み孤立してきた。ベトナム戦争でもそうだったようですが、アメリカ軍は機関銃を撃っている(攻撃している)間は安心感があるそうです。ベトナムの「ソンミ村」皆殺しにしている間に恐怖感は抱かない。でも私は2007年に現地で事件発生後3日後に、なにがあったかの跡を目撃しました。

ジャララバードのバザールで女性が買い物かごに爆弾を入れて、7、8台のアメリカ軍の車列に飛び込み自爆しました。バザールですから周りには人がたくさんいます。アメリカ軍の兵士はバザールにいた群衆に向けて自動小銃を乱射しました。関係あろうがなかろうかパニックになりバザールにいたひとびとに乱射をしたアメリカ軍の兵士は、ジャララバードから東のトルハムという国境近くにベースを作っていたので、ジャララバードからトルハムまで2時間くらいの道程を乱射しながら戻りました。

私は日本を出発する前に新聞で「70人くらいのタリバン(テロリスト)が掃討された」とのニュースを見て現地入りしました。トルハムの国境から西に向かっていたらドライバーが「3日前にアメリカ軍が乱射しながら東に走っていった」という。たしかに道路沿いの木の皮には新しい弾痕があちらこちらに残っていました。それだけではなく、道路の脇で遊んでいた子供たちが何人も殺されているわけです。ドライバーは「ここで何人死んだ」といって悲しそうに説明してくれました。

それがアメリカのいう「テロとの闘い」の実態です。つまりテロリストと闘っていたのではなく農民と闘っていたということです。カーブル(田所注:「カブール」は現地では「カーブル」と発語されるという)やジャララバード、つまり都市部以外の農村地帯では、タリバンか地元の軍閥が支持されているということです。地縁血縁の世界です。カーブルやジャララバードには水がなくて農業ができない人が流れ込んできます。仕事がないので最初は物乞いをしたりして生活しています。そのような人たちが日銭にありつくために、アメリカ統治下政府の兵隊・警察や傭兵になります。あるいは軍閥の傭兵ですね。その人たちはアメリカ軍の側にいて、農民と敵対していたので「アメリカ軍の手先になっていた」報復を受けるとの恐怖が生まれる。それで国外退避を希望したひとびとがカーブルの空港に集まったわけです。ちょっと前までには自分たちがタリバンや農民をいじめていたから報復が怖い。そういうことです。

◆自衛隊の作戦は最初から破綻していた

先生 アフガニスタンの1家族は10人から20人です。日本大使館員は次の日にイギリスの軍用機で脱出しています。アフガニスタン現地採用で残ったひとがが20人いたとしたら、脱出させなければいけないのは20×20で400人のはずです。大使館で働いていたお父さんだけが逃げるわけにはいきません。家族がいますからね。自衛隊の飛行機を3機送ったそうですが、3機で300人くらいしか乗れない。逃げたい人の数は300人ではきかなかったでしょう。500人はいたとも考えられる。500人乗せなければいけないのに300人分の飛行機しか飛ばしていなかった。作戦は最初から破綻していたというしかないですね。自衛隊が何を獲得したかといえば、「国境を越えて飛んで行って戦場に着陸した」ということだけです。

── 自衛隊機の派遣については国会での質疑もありませんでした。

先生 勝手に飛んで行ってアリバイ的に一人だけ連れて帰ってきた。でもあの1人は赤十字の飛行機かもしれない。中村哲やワーカーがそういう飛行機で移動したことも過去にはありましたから。現地の大使館は事情はわかっているはずですから、手配はできるはずですが大使館はなにもしないで、まともな作戦計画もなしに「自衛隊が勇ましく行きました」というだけではないでしょうか。

中村哲がもし生きていて、こういう事態の時にアフガニスタンにいたら、かつては大使館から「国外に退去してください」とペシャワール会に連絡が必ず来ていました。でも過去そういう状況でも「われわれは大丈夫です。作業を進めます」と大使館の言うことを聞かなかったから、ついにペシャワール会には連絡もなくなりました。JICAなどは退避しても、ペシャワール会は現地で作業をいつも続けていました。そういうことが続いいたので「あれ、ペシャワール会には退避勧告もなかったぞ」と冗談をいっていたこともあります。退避勧告を伝えてもどうせいうことをきかないから大使館は連絡をやめたのでしょう。

カーブルに集まった5000人、8000人ともいわれる群衆は家族まで含めて集まってきた、ということでしょう。それから映像を見るときの注意点ですが、タリバンがターバンを巻いていますね。あれは南部の部族に多い正装です。北部の部族は中村哲がかぶっていたような帽子のような形をかぶることが多いです。北部同盟やパシュトゥン語を話す部族ですね。なにをかぶっているかで部族をおおよそ見分けることができます。これから現地の映像は、なかなか出てこないのではないかと思います。

── CNNの映像を見ていると不自然です。アフガニスタンから最後に飛び立つ輸送機の映像には、男性しか映っていません。家族が一人もいない。しかもカメラに向かって手を振っている人が写っています。あれが真剣な脱出を望む姿だとは思えません。映像合成の技術を使えば簡単に作れるのでしょう。

先生 カメラの位置が全部アメリカ軍側ですね。どうもおかしいと思う情報ばかりが日本に入ってくるようです。現地の農村部は落ち着いているそうです。ペシャワール会はジャララバードから車で1時間半ほど山に入った、クナール河のそばに工事現場があります。工事現場の山手にダライヌールという渓谷があり伊藤和也君が亡くなったところです。

ペシャワール会はダライヌールに診療所を作り持っています。診療所は5日ほど診療を中止しましたが再開しました。水路工事をいろいろな場所でやっていますが、まだ中止しています。いつ再開してもよい状況にありますが、内部でのトラブルがないように慎重に対応しています。本当は一刻も早く作業を再開したい。そうしないと作業に関わっている人に給料が払えませんから。生活がかかっていますからね。工事再開のスタンバイをして、現地と日本の事務局では毎日連絡をとっています。いまのところ怪我人もなければ争いも起こっていないということです。

田舎の方ではほぼそうではないかと思います。空港に集まったのはアメリカ軍に協力していた人ですから、アフガニスタン全土からみれば一部でしょう。政府軍も生活のために仕事をしていたのであって、命がけではないでしょう。であれば逃げるは不思議ではない。怖いのは怖いでしょう。

── 現地で恐怖を訴える人は英語を話していますね。

先生 農村部へ行ったら英語を話す人はいません。現地の部族の言葉を話します。

◆「元に戻るだけ」のアフガニスタン

── そしてカラシニコフを持っていると聞きました。

先生 ロケットランチャーもあります。ソ連時代に鹵獲したものもあれば、アメリカ軍が残した武器も加わったでしょう。私はソ連軍の錆びた戦車を見ました。でも現地の人は武器として使うのではなく、鉄として売ります。武器、機械ではなく鉄を溶かして鍋や鍬を作るのです。

── タリバンは日本では完全な「悪者」のように報じられますが、1990年代半ばから政権を担い、各国は大使館をおいていた。日本の大使館もありました。簡単にいえば「元に戻るだけ」だと思いますが、細部をわたしはわかりません。ですから先生に全体像を伺いたかったのです。

先生 私はアフガニスタンを経験してきましたが、たとえですけれども九州に住んでいる私は山形県の詳細などわかりません。同じことではないでしょうか。ジャララバードのひとはカンダハールのことは知らない。ジャララバードのパシュトゥン族はカンダハルを「あんな怖いところに行ったらいけない」というわけです。

◆何より尊重すべきはアフガニスタンの自決権

── 日本での報道はあまりにも酷いと感じます。アフガニスタンの土を踏み、いまでも日々の情報をもっているかたにお話を聞くことが重要だと思います。

先生 せっかくですから、もう一つ。「マドラサ」という神学校があります。私は「マドラサはタリバンの養成所でしょ。テロリスト養成所でしょ。それを中村哲は援助しているからろくなものじゃない」と言われたことがあります。そのひとはネットの情報だけでそのように言ったのでしょうが、「マドラサ」は神とともに生きているイスラムの人たちの精神的なよりどころです。

ペシャワール会は「マドラサ」もモスクも造りました。マドラサでは孤児を勉強させながら食べさせていました。孤児の寄宿舎です。だから村の人からは感謝されました。マドラサは互助組織なわけです。孤児の親代わりを村全部で担う。マドラサがある場所では物乞いをする子供が少ないですね。ジャララバードやカーブルなど大きな町では物乞いをしている子供もいます。ですから「マドラサ」とモスクは農民たちの日常的な精神的な支えになる場所なのですね。用水路ができたときよりも「マドラサ」やモスクができたときのほうが喜びは大きかったようですよ。これは我々にはあまりない感覚ですね。

ですがアメリカ軍は「マドラサ」やモスクを意図的に爆撃してもいます。コーランを破り捨てたり。それにより農民たちは「反米」になる。アメリカが失敗したのはよその国に入って行って、自分のやり方を通そうとしたからです。民族の自決権は守らないといけない。アフガニスタンの自決権は、内戦を起こそうがどうしようが、アフガン人同士で決めればよいということです。中村哲はそのことには口を出しませんせした。「いずれおさまるから」と。「戦争なんかやっている暇はない干ばつのほうが大事」だと。ひたすら医療支援と運河の工事に没頭していました。

※以上が先生からうかがったお話だ。わたしが付け加える言葉はなにもない。


◎[参考動画]中村哲 ペシャワール会現地代表 (日本記者クラブ 2016年8月26日)


◎[参考動画]2021年度 ペシャワール会 現地報告会(NDN-TV 〔日本電波ニュース社〕2021年7月21日)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

『NO NUKES voice』第1号が世に出たのは2014年8月、いまから7年前だった。2011年3月以降に鹿砦社は原発関連の書籍を複数出版していた。そのなかには「原子力村(マフィア)」住人への突撃取材を含んだ、鹿砦社ならではの書籍もある。しかし、原発問題は一過性ではない。数年、数十年、高濃度汚染物質の処理を考慮すれば、10万年、100万年の時間を要する課題である。

 

本日発売開始!『NO NUKES voice』Vol.29 《総力特集》闘う法曹 原発裁判に勝つ

鹿砦社は瞬発力で、単行本を出版してはいたものの、「果たしてこのままでよいのか」との思いが、創刊号の編集長であり、鹿砦社代表松岡の頭をよぎったとしても不思議ではない。そこで前例のない「反・脱原発に特化した季刊誌の発行」に踏み切ったのだと想像する。我々『NO NUKES voice』編集部は第1号から無関係ではなかったが、小島卓が編集長に就任し新体制の編集部が発足したのは、第6号からである。第1号の表紙を飾る写真やグラビアは、いまでは相手にする気にはならない「反原連」人脈の秋山理央によるものである。内容も玉石混合と振りかえらざるを得ないだろう。

しかし、重要なことは何事も「謙虚に反省」することであり、過ちは誰にでもどのような集団にでも起こりうる。『NO NUKES voice』は「現代版ファシズム」の担い手ともいうべき「反原連」関係者とは一切関係を断ち、思想信条さまざまであっても、原則を共有できる論者や読者とともにきょうまで歩んできた。反省点も多々あるが、課題は徐々に克服しているつもりであるし、今後も足らざるところを補い、修正するにはまったくやぶさかではない。

稀代の狂騒の夏の終わりにあたり『NO NUKES voice』第29号をお届けする。総力特集は「闘う法曹 原発裁判に勝つ」だ。終わりの見えぬコロナ禍のなかにあり、粘り強い街頭活動も継続されているが、従来のように、大動員や大きな声をあげてのデモには参加を躊躇う方も少なくないであろう。

本誌では毎号コロナ禍根に負けず全国で闘う皆さんの報告が掲載されているとおり、原発立地地元は電力消費地元での活動は非常に大きな意味を持つ。「反・脱原発」の戦線は多岐にわたる。街頭活動を中心とする市民運動、科学的知識の伝播、立法府・地方行政への働きかけ、そして司法など広範で重層的な戦線が構築されないことには、目標達成が見えてはこない。

今号では3・11前から、あるいは後に「反・脱原発」の最前線に決起した司法の闘志お三方にご登場頂いた。

樋口英明元裁判官は福井地裁で「人格権」を掲げた判決文により、大飯原発の運転差し止めを命じた。樋口元裁判官は退官後もあえて、弁護士登録をせず、ライフワークとして側面から「反・脱原発」を支えるおつもりだ。

井戸謙一弁護士は3・11前に裁判官として志賀原発の運転差し止め判決を言い渡し、定年前に退官、以後原発関連訴訟はもちろんのこと、湖東記念病院の冤罪事件で再審勝利を勝ち取るなど刑事事件も多数手がけ超人的な活躍を続けられている。

武村二三夫弁護士は大阪を中心に刑事・民事を問わず多くの事件を手掛け、「ばらつきの理論」で高浜2号機、4号機原子炉差止訴訟で勝利した。武村弁護士は「常に弱者救済と尊厳回復の立場から法廷で闘い続ける」ことを心がけておられるそうだ。

骨太の法曹闘士三人の肉声のほか、「黒い雨」裁判について水戸喜世子さんの論評がつづく。その他全国各地からの活動報告、様々な視点からの提言も満載。『NO NUKES voice』第29号は、依然発展途上ではあるが、現時点での全力で現況をお伝えする。

最後に、弱音は吐きたくないが、鹿砦社の経営はコロナ禍以前は順調であったが、最近は非常に厳しい。『NO NUKES voice』は29号に至るも、黒字を出したことはない。販売への努力不足もあろうし、人的力量不足も実感している。こんな時代であるからこそ、読者の皆様にはご指導、ご鞭撻、なにより『NO NUKES voice』をお買い上げいただくだけではなく、ご友人、お知り合いに広めていただくことを強くお願いする。

▼田所敏夫(たどころ としお)
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9月9日発売開始!『NO NUKES voice』Vol.29 《総力特集》闘う法曹 原発裁判に勝つ

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菅が政権を放り投げ、皇室のどなたかが結婚をするという。たぶんテレビは大いに取り上げ、知ったかぶりの出たがりに、いいたい放題いわせているのだろう。自称評論家やタレント、コメンテーターからどうでもいい人までが、なにか一大事でも起きたように大騒ぎしている姿が目に浮かぶ。

◆すべて限りなく希薄で非本質的な言説である

そういう雰囲気に水をかけるようで申し訳ないが、わたしは自民党の総裁が誰であろうがまったく、皆目、関心はない。天皇制に「無条件」で反対するわたしは、皇室内の出来事にも興味はない。結婚でも離婚でも好きになさればよい。好きになさればよいが、何をなさってもわたしは制度としての天皇制には賛成できないので、興味はない。差別に反対する立場から、天皇制は廃止されるべきだと考える。

この二つの出来事において象徴的なように、ほとんどのニュースは非本質的であり、報道することで非報道当事者が属する組織や制度が補完される作用を持つ、これが今日メディアの特性ではないかと思う。

だからわたしは、従前から開催に反対してきた、東京五輪がはじまる前に「東京五輪については一切発信しない」と自分としてはごく自然に判断し、実際東京五輪をまったく目にもしなかった。だから感想もない。あんな馬鹿げたことは、大会期間中にどんなドラマが生まれようが、誰がメダルを取ろうが、やるべきではなかったのだ。それについて、あれこれ枝葉末節な議論があるようだが、それらはすべて限りなく希薄で非本質的な言説である。

◆東京五輪強行開催という罪深い所業

東京だけではなく全国に広まった「自宅療養」と言い換えられた「医療から見捨てられた」ひとびとの惨状はどうだ。この地獄図絵は決して医療関係者の判断ミスや、非協力によって引き起こされた事態ではない。逆だ。政府が片一方では「学校の運動会の自粛」を求めながら、「世界的大運動会を開く」という、大矛盾を演じた結果に他ならない。「県をまたぐ移動の自粛」を求めながら海外から10万ともいわれる数のひとびとがやってきた。

日本初の「ラムダ株」が持ち込まれたのは海外からやってきた五輪関係者によってであったが、それが報道されたのは東京五輪終了後のことだ。実に罪深い所業ではないか。

こういった事態が発生することは、容易に想像ができた。たとえば他府県の警察からの警備要員として東京に派遣された警察官の中では、複数のクラスターが発生した。偶然にもわたしが目にした兵庫県警の機動隊車両に乗車して東京に向かった兵庫県警の警察官の中でもクラスターがあったようだ。

こういう馬鹿なことを強行した責任者である日本政府ならびにその最高権者である首相は、どう考えても、ただ批判の対象であり、それ以上でも以下でもない。

◆災害、貧困、コロナ禍という生活に密着した課題をどうするか

自民党の総裁選の前にはいつだって「派閥がどうの」、「誰々が引っ付いた」、「誰かが切られた」と各メディアは競い合って報じる。でも自民党総裁選挙は、自民党員以外には選挙権がないのだから、ほとんどの国民には関係ない。

あたかも国民に選挙権があるかのごとき、まったく失当な情報流布が昔からなされてきたし、いまも続いているのだろう。国政選挙で政党を選ぶための情報提供であれば、各種の細かな情報にも有権者のために意義はあるのかもしれないが、自民党の代表は、わたしたちが投票で選ぶものではないじゃないか。

そして、こういう物言いをすると「そんなこと言ってると政治が好き勝手するよ」と言われるかもしれないが、自民党総裁など、誰がやっても同じなのだと最近は切に感じる。違いがあるとすれば菅のように裏では相当ひどいことができても、人前では一人前に主語述語がかみ合った演説をすることができるかできないか(演技力)と、自民党内の力学をうまく調整する力があるかないか程度(党内政治力学)の違いだろう。

演技がうまいと国民は騙されやすい。今世紀に入ってからでは、小泉純一郎がその筆頭だろう。党内力学に長けていた官房長官時代の菅は、自民党全国の選挙資金を握り、選挙の際、安倍以上に自民党議員の操作には力を持っていたそうだ。

そんなことわたしたちの生活に関係あるだろうか。毎年襲ってくる水害への備えや、生理用品も買えないほどの貧困問題、そして命にかかわるコロナ対策をはじめとした医療問題こそわたしたちが直面していて、注視すべき生活密着の課題ではないだろうか。いずれも皇室の方々とは無縁なはなしばかりであるが。

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新型コロナウイルス感染症への対応で厚生労働省は8月2日、感染者の多い地域では原則、入院対象者を重症患者や特に重症化リスクの高い人に絞り込み、入院しない人を原則自宅療養とすることを可能とする方針を公表した。(2021年8月2日付毎日新聞)

これまでも、東京、大阪などでは経験していた感染爆発に対して、政府は実質「無策」を宣言したのである。「自宅療養」という言葉は「入院させてもらえない」と書き直さなければならない。多くの識者が早期から指摘し、わたしのような素人でも第5波が、とてつもなく広がるであろうことは、諸外国の感染者増加の様子と、ワクチン接種をしても、なお感染してしまう感染してしまうデルタ株の感染力を考えれば、容易に予想でき得た事態だ。

相変わらず「禁酒法」だけに頼り、飲酒が主たる感染原因であるかのような、視野狭窄対策しか、凡庸政府には浮かばないようだが、「感染理由不明者」の中には、飲酒とどう考えても繋がらない弱・中年層が多数含まれることを、為政者はどのように分析するのであろうか。今回の感染拡大はこれまでに増して速度が速く、大雑把にいえば人口に比例している。

そのことは都市部で既に医療崩壊が発生しており、「自宅療養」を強制せざるをえないところまで追い込まれている事実が示す通りだ。コロナ感染が増加するたびに指摘してきたが、感染症爆発は感染者を救済する観点から大きな問題であるのと同時に、病院機能全体の低下を招くので、コロナとは無関係な患者さんの治療や手術計画にも影響を及ぼす。大都市に暮らさないわたしにも、医師からは、その「警告」がすでに発せられている。

第一波時から医療現場では、治療に当たる際の経験則が蓄積されたので、搬送された患者さんへの適切な初期対応が可能となり、重症化や死亡はかなり抑えられるようになった。他方、次々に生まれる変異株はそれぞれに、異なった症状を引き起こすので、経験則だけでは対応できない、手探りの部分も多いという。知り合いの勤務医に聞いたところ「大都市、地方を問わずこれだけ感染者がふえると、完全にキャパオーバー。いつまで続くかわからないので担当のドクターやナースの心身がいつまでもつのか不安だ」と語っていた。

「安心・安全」とは4回も5回も緊急事態宣言を出される状態を指すのか、菅よ。少しは自分の思い込みではなく、実数や科学的根拠に立脚した分析を基に、政策を官僚に考えさせようとは思わないのか(思わないだろう、国民の生命を重んじる殊勝な首相ならこれまでのような「馬鹿政策」を繰り返すはずはない)。

都道府県の権限は限られるし、市町村はさらに非力だ。猛暑下疾病を抱える人は、既往症に加えて「医療崩壊」への恐怖を募らせる。つくづく、無能で冷酷無比な政権だなあと感嘆する。かといって、菅が辞めれば何かが変わるというものではない。自民党、公明党連立が続く限り、政策に大きな変化はない。

絶望を含んだ気持ちの悪い汗がしたたり落ちる。「私たちは知りません、ご自分で生きてください」と政府は宣言した。

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

わたしは知っている。奴らが「忘却」を武器に時間の経過を利用しながら、あのことを「なかった」ものにしようとたくらんでいることを。

わたしは、ずっと昔から気が付いている。どの時代でも「マスメディア」などは信用するに値せず、少数の例外を除いては、いつでも扇情的で、事実の伝達よりは、体制補完に意識的・無意識的に結果、熱心に作用していることを。

わたしは痛めつけられてきた。異端に対するこの島国の住人からのまなざしに。無言のうちに成立する不気味な「調和」、「規律」、「統一行動」。それから精神的に逸脱するもの、行動で逸脱するものへ、情け容赦なく加えられる、あの集団ヒステリアともいうべき、排他の態度に。目は血走り、殴り蹴飛ばすこともいとはないあの狂気。

わたしは見抜いている。「地球温暖化」を理由とした「脱炭素社会」の大いなる欺瞞を。「炭素」は人間の体を構成する元素じゃないのか。わたしたちは吐息をするごとに二酸化炭素を吐き出しているだろう。一酸化炭素を人間が吸いこめば、下手をすれば死ぬ。でも二酸化炭素がなければどうやって「光合成」は行われるのだ。「光合成」が止まってしまっても、人間や動物は生きていられるのか。「炭素」全体を悪者扱いする議論は、人間だけではなく生態系の否定に繋がるんじゃないのか。違うというのであれば、下段にわたしのメールアドレスを示しているので、どなたかご教示いただきたい。この議論は「地球温暖化」→「二酸化炭素犯人説」→「脱炭素」→「原発容認」→「核兵器温存」とつながる、実に悪意が明確でありながら、当面世界経済に新たな市場を生む分野として、末期資本主義社会には期待されている。わたしは資本主義を激烈に嫌悪し、早期に滅びてほしいと願うものである。

わたしは、激高している。76年前のきょう、灼熱に焼かれた、瞬時に焼き殺された、時間をかけて苦しんで死んでいった、長年被爆の後遺症に苦しんだ、体の記憶を、薄っぺらで限られた時間の中だけで扱えば、それで事足れりと始末してしまう、人々のメンタリティーに。

わたしは、半ばあきれながら軽蔑し、いずれは「矢を撃とう」と考えている。わたしが、被爆影響の可能性が高い症状であることを、明かしたことに対して、ろくな覚悟もないくせに、難癖をつけてくる、ちんけで気の毒な人間に。体の痛みがどれほどのことかもわからないくせに、軽々しくもわたしの体調をあげつらう人間。それは現象としてはわたし個人が対象であっても、そこから射程をひろげれば、被爆者(原爆・核兵器・原発)に対するある種の共通性を持った社会的態度と通じる。「黒い雨裁判」は高裁勝訴を勝ち取るまでに、どれほどの時間を要したことか。個人による侮蔑、行政による不作為または無視。わたしの価値観ではどちらも同罪だ。

2021年8月9日。毎年震度7クラスの地震が起き、原発4基が爆発し、ゲリラ豪雨により毎年河川氾濫は当たり前。世界中で感染症が波状的に襲ってきて、「軽症患者は入院させない」と棄民宣言を平然とのたまう政府。これは「地獄図絵」ではないのか。

わたしは、30年前にこんな「地獄図絵」は予見できなかった。大きな天災や人災の一つ二つはあるだろうとはおもった。人間の知性が総体として崩れゆくだろうとも予感した。毎日が「あたりまえ」のように流れてゆくゆえ、人間は鈍感になる。徹底的に鈍感になっていると思う。2021年8月9日は1945年8月9日と、表情は違うものの「地獄図絵」が展開されていることにかわりはない。

「地獄」におかれてもまだ「地獄」だと感知できず、高らかに乾いた笑い声をあげるひとびとは、さらにそぞろ寒い光景を際立させる。

青い空だけが変わらない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

*「祈」の書は龍一郎揮毫です。
下の「まだ まにあう」は、チェルノブイリ原発事故の翌年に、龍一郎と同じく福岡の主婦が、原発の危険性を説いて人々の自覚を促す長い手紙を書き、これが『まだ、まにあうのなら』という本になりました。佐藤雅彦『まだ、まにあう! ―原発公害・放射能地獄のニッポンで生きのびる知恵』は、これに触発されて、福島原発事故後の2011年11月に急遽刊行されました。ご関心があれば、ぜひご購読お願いいたします。お申し込みは、https://www.amazon.co.jp/dp/4846308472/ へ。

龍一郎・揮毫

佐藤雅彦『まだ、まにあう! ―原発公害・放射能地獄のニッポンで生きのびる知恵』

佐藤雅彦『まだ、まにあう! ―原発公害・放射能地獄のニッポンで生きのびる知恵』
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『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

◆2021年の日本はあの時の狂気と同次元の無知性に陥っている

広島原爆の直撃によって亡くなったみなさん、その後被爆の後遺症でなくなったみなさん。命は落とさなかったものの長年放射性由来の後遺症に苦しむみなさん。そして世代をこえて被曝による健康被害が疑われるみなさん。

わたしは、2021年8月6日を心底悔しく、怒りをもって迎えます。原爆とはまったく形状も広がり、症状は違うけれども「防ぐことのできる」疫病を、無策な政府によって爆発的な感染を広げてしまいました。

原爆が落とされる前に、広島市民にはなんの防御策も、情報もなかったでしょうが、大日本帝国(とりわけその最高権力者である昭和天皇ヒロヒト)には、敗戦を受け入れる選択肢があったはずです。しかし、そうはならなかった。ヒロヒトはのちに米国による原爆投下を「戦争中であったので仕方なかった」とぬけぬけと記者会見で発言しました。

日本人はみずからの手で最高の戦争責任者に責任を取らせることができなかった。この事実は絶対に忘れてはなりませんし、その反省を胸に刻みながらわたしは生きます。統帥権を持つヒロヒトのもと、市民は1945年に最後は「本土で竹槍決戦だ」と本気で叫んでいました(あるいは叫ばされていました)。あの狂気と同次元の無知性に残念ながら2021年の、日本は陥っています。

◆76年を経てもなお、人間はなにも進歩していない

76年を経て人間は、なにも進歩していません。核兵器廃絶に日本政府は消極的です。驚くほど愚鈍です。そして、たった10年前に福島第一原発で原発4機爆発という人類史上初の大事故を経験しても、あろうことか原発の運転期間を40年から60年へ延ばし、それでも満足せずに60年超の運転を政府は検討しはじめました。冷静な科学者は誰もが「危険極まりない」、「無謀だ」、「事故発生確率は最大化するだろう」と懸念を示しています。その通りだと思います。

8月6日、本当はあの日に思いを巡らせ、犠牲になったみなさんに追悼の気持ちを、新たにするのが穏当な姿だと思います。でも待ってほしい。きょう行われる(おこなわれた)追悼記念式典は、形骸化していませんか。首相菅が発するコメントの中に注目すべき新たな具体的取り組みへの決意がありましたか。あるはずはない。

菅に限ったことでなく、この式典に出席する首相のコメントは、年中行事をこなすように、毎年大した変化はなく、内容も抽象的で凡庸なものばかりです。式次第も毎年変わらぬ進行で、原爆や核兵器への怒りや、どこにも向けようのない思いを発する場所になっていると、わたしには到底思えません。

他方、広島市内では各種団体がこの日に合わせて、各種のアクションを起こします。そちらの方が、生の声を聴くには適した場所かもしれません。

◆1945年と同様、2021年も惨禍を止められなかった

そして、「広島詣」の欺瞞にも一言触れておきます。他国の元首や国際機関の著名人がときに広島・長崎を訪れますが、数少ない例を除き、あのほとんどは演技であると断じます。

もっとも悪辣だったのは、米国大統領だったバラク・オバマが、わざわざ核兵器のスイッチを見せびらかし持参しながら広島を訪れた姿でしょう。平和記念資料館をわずか数分で駆け抜けて、謝罪を一切含まない無内容なスピーチをおこなった後、なぜか被爆者を抱きしめた。背筋が凍るほどの背理でした。最近も現在日本に惨禍を強いて、喜んでいる国際組織の最高責任者が広島を訪れたそうですが、これも広島や被爆者への唾棄すべき侮辱行為と評価するべきだと思います。

残念ながら1945年同様、2021年も惨禍を止められなかった。今年は悔しさと半ば落胆の中でこの日を迎えます。進歩しない人間の姿を原爆犠牲者に見せつけることほど、酷で無様な醜態はないはずです。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

*田所敏夫さんは広島被爆2世で、昨年原爆投下75年にしてカミングアウトされました。心からリスペクトします。田所さんとは、ここ数年、カウンター大学院生リンチ事件の被害者救済・支援と真相究明活動を共にしてきましたが、なぜ彼がこれほどまでに似非反差別主義者に対して厳しく対処するのかと思っていた所、じつは広島被爆2世という存在にあることが判りました。被爆の影響は、昨年春頃から表われ、ずっと体調(精神的にも)不良状態にあります。今後とも支え合って頑張っていきたいと思います。揮毫は龍一郎。(松岡)

龍一郎・揮毫

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

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