昨年4月、東京・池袋で母子2人が死亡、9人が重軽傷を負った車の暴走事故をめぐり、再び「上級国民」バッシングが巻き起こっている。

きっかけは事故直後、車を運転していた旧通産省工業技術院の元院長・飯塚幸三被告(89)が「証拠隠滅や逃亡の恐れがない」として警察に逮捕されなかったことだった。このことを「上級国民」であるための特別扱いだと受け止めた人たちが一斉に非難の声をあげた。

そして10月8日、東京地裁であった初公判。ブレーキペダルと間違えてアクセルペダルを踏み続けた運転ミスがあったとして起訴された飯塚被告だが、次のように「無罪」を主張した。

「アクセルペダルを踏み続けた記憶はない。車に何らかの異常があったのだと思う」

メディアや世間の人々の多くがこれを「罪を免れるための言い逃れ」と受け止め、再び激怒したのだ。

この上級国民バッシングの中、事件の本当の構図が見えづらくなっているように思うので、ここで指摘しておきたい。


◎[参考動画]【池袋暴走事故】飯塚元院長「体力に自信があったが、おごりもあった」書類送検を前に単独取材(TBS「報道特集」2019年11月9日放送)

◆トヨタの前では、元上級国民の老人など吹けば飛ぶような存在に過ぎない

この事件の本当の構図。それを見極めるには、まず飯塚被告が乗っていた車がトヨタのプリウスであることに着目する必要がある。なぜなら、飯塚被告が裁判で「事故の原因は車の異常」だと主張したことは、11人が死傷した事故の「真犯人」がトヨタである可能性を主張したに等しいからである。

言うまでもないことだが、トヨタは日本を代表する大企業であり、財界のみならず、政界やマスコミにも強い影響力を持っている。政権与党である自民党には莫大な企業献金を、マスコミには莫大な広告費をそれぞれ投入しているからだ。

対する飯塚被告。たしかに「上級国民」と形容されるにふさわしい経歴の人物だが、すでに現役を退いており、現在は「かつて上級国民だった老人」に過ぎない。日本の権力構造の最上位に位置するトヨタと利害関係が対立することが明らかになった時点で、飯塚被告が「上級国民」ゆえに特別扱いされることもありえないと明らかになったと言っていい。

◆飯塚被告と利害関係が対立するトヨタは検察ともズブズブという現実

トヨタで社外監査役を務める元検事総長の小津博司氏。飯塚被告と利害関係が対立するトヨタと検察はズブズブだ(トヨタHPより)

トヨタについては、他にも見過ごせないことがある。それは、同社が法務・検察のトップである検事総長の天下りを継続的に受け入れていることだ。

現在、同社の監査役には第27代検事総長の小津博司氏が名を連ねているが、小津氏の就任前は第22代検事総長の松尾邦弘氏が、松尾氏の就任前は第17代検事総長の岡村泰孝氏がそれぞれ同社の社外監査役を務めている。トヨタと検察はまさにズブズブの関係だと言っていい。

こうした事実を踏まえたうえで、改めてこの事件を見つめ直してみよう。そうすれば、「真犯人」はトヨタである可能性を指摘し、無罪を主張している元上級国民の老人が「トヨタとズブズブの関係にある検察」に刑事訴追され、法廷外でも「トヨタから莫大な広告費を投入されたマスコミ」に激しくバッシングされていることがわかる。つまり、微力な老人がトヨタ、検察、マスコミという絶対的強者たちと対峙し、孤立無援に近い状態で闘っているというのがこの事件の本当の構図なのである。


◎[参考動画]検察改革に意欲 新しく就任の東京高検検事長(2011/08/12)

◆アメリカから届いたトヨタに関する驚愕の情報

もっとも、このような話をしても、飯塚被告の無罪主張を「罪を免れるための嘘」と決めつけている人には、今一つピンとこないだろう。そういう人に紹介したいのが、交通事故に詳しいジャーナリストの柳原三佳氏が10月21日、ヤフーニュースで発表した以下の記事である。

アメリカで起きたレクサス暴走死亡事故 緊迫の通話記録と「制御不能」の恐怖

この記事によると、かつてアメリカで自動車が速度制御不能になる事故が相次いだことがあり、とくに1999年から2010年にかけては、トヨタ車だけでそういう事例が実に815もあったという。

絶対に不具合を起こさない乗り物など、そもそもこの世に存在しない。トヨタがどれほど立派な企業であろうが、製造する車に絶対に間違いがないかというと、そんなわけはないのである。

もちろん、飯塚被告の無罪主張を無条件に信じるわけにもいかない。しかし、事故が車の異常である可能性を指摘する飯塚被告の主張は特別奇異なものではないことは確かだ。頭から嘘と決めつけず、その主張に耳を傾け、慎重に真偽を見極める必要があるだろう。そうしないと、かえって事故の「真犯人」が罪を免れ、被害者やご遺族が報われないことになる可能性も否めない。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。創業した一人出版社リミアンドテッドから新刊『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史)を発行。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

〈彼は無実です。これは冤罪です。もう一度いいます。彼は無実です。この事柄が取り上げられて、彼が一日でも早く、獄から開放(原文ママ)されることを願っています〉

 

久保田祥史『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(片岡健編著)

これは、最近発売された書籍の一節だ。書名は『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』。標題の事件の実行犯である久保田祥史が獄中で綴った手記に基づき、平成の大事件のほとんど知られていない真相をつまびらかにしたものだ。

引用した部分も久保田の手記の一部だが、久保田が「彼は無実です」と言っているのは、この事件の「首謀者」とされている無期懲役囚・小松武史のことである。

実を言うと、同書は筆者が今年8月に創業した一人出版社から発行したもので、筆者は同書の編著者でもある。手前みそで恐縮だが、同書の内容は読んでくれた人にインパクトを与えられているようだ。それはおそらく、久保田が手記で明かしたこの事件の冤罪疑惑がこれまでほとんど報道されてこなかったからだろう。

この事件は今月26日で発生から21年になる。その頃には、この事件を回顧するような報道がテレビや新聞で散見されると思われる。その前にここで、久保田が手記で明かした事件の真相を紹介しておきたい。

◆元々、被害者を殺害する動機が見当たらなかった武史

事件が起きたのは1999年10月26日の昼過ぎだった。埼玉県桶川市のJR桶川駅前で一人の女性が待ち伏せていた男にサバイバルナイフで刺され、搬送先の病院で亡くなった。被害者は、埼玉県上尾市の猪野詩織さん。跡見学園女子大学の2年生だった。詩織さんは事件前、元交際相手・小松和人が営む風俗店の従業員らから凄絶な嫌がらせに遭っていた。

そんな背景もあり、この事件では当初から和人に疑いの目が向けられた。果たして約2カ月後、埼玉県警が検挙した実行犯の久保田は、和人が東京・池袋で営む風俗店の店長だった。しかし、ここから事件は意外な展開をたどる。久保田が取調べに対し、こう供述したからだ。

「私が被害者を殺害したのは、小松“武史”に依頼されたからです」

小松武史は和人の兄である。東京消防庁で消防士として働きながら、和人の風俗店経営を手伝っており、久保田にものを頼める立場ではあった。そこで埼玉県警は武史を事件の「首謀者」と断定し、逮捕した。対する武史は「久保田に殺害の依頼などしていない」と容疑を否定し、冤罪を訴え続けたが、裁判でも事件の首謀者と認定され、2006年に最高裁で無期懲役刑が確定したのだ。

もっとも、詩織さんに対してストーカー化していたとされる元交際相手の和人ならともかく、武史には、詩織さんを殺害する確たる動機は見当たらなかった。しかも、キーマンである和人は捜査中に逃亡先の北海道で自死し、事件の核心部分は結局、捜査で十分に解明されずじまい。当時、この結末には誰もがモヤモヤした印象を抱いたものだった

こうした経緯を振り返ると、久保田が武史のことを「無実」だとか「冤罪」だと言い出したのも決しておかしな話ではない。むしろ起こるべくして起こった事態だと言っていい。

◆実は裁判でも武史の冤罪を証言していた久保田

実は久保田が武史のことを「無実」だとか「冤罪」だと訴えるのは、この手記が初めてではない。久保田は2002年に武史の裁判に証人出廷した際にも、「武史から被害者の殺害を依頼された」という当初の供述を覆し、「本当は誰からも殺害の依頼は受けていない。自分が勝手に暴走してやったことだった」と“真相”を明かしているのだ。

このことは当時、新聞各紙でも報じられている。しかし、記事が小さかったり、埼玉地方面のみの掲載だったりしたため、世間にはほとんど知られずじまいだったのだ。

久保田によると、犯行に及んだ本当の目的はやはり、詩織さんに対してストーカー化していたとされる和人の思いに応えるためだったという。しかし犯行後、元々悪印象を抱いていた武史からトカゲのしっぽ切りのような扱いをうけ、憎悪を募らせた。そこで武史に復讐するため、武史を「首謀者」に仕立て上げるような供述をしたという。

だが、久保田は服役中、武史を貶めたことに罪の意識を感じるようになった。そのため、上記のように裁判で本当のことを話したのだという。そして宮城刑務所で服役中に手紙をやりとりしていた筆者の依頼に応じ、事件の真相を便せん50枚の手記に綴ったのである。

久保田が獄中で綴った手記

◆昨年発行した電子書籍版は武史が再審請求の証拠に

 

久保田祥史『桶川ストーカー殺人事件 実行犯の告白』(片岡健編著)

実を言うと筆者はこの手記を昨年5月、「桶川ストーカー殺人事件 実行犯の告白」と題する電子書籍として発行している。すると同11月、千葉刑務所で服役中の武史が同書を「自分が無罪である新規・明白な証拠」であるとして、さいたま地裁に再審請求を行う異例の事態となった。

同書に収録した久保田の手記では、虚偽の供述により武史を「首謀者」に仕立て上げた経緯が詳細に綴られている。さらに久保田の手記の原本も掲載していたので、武史の弁護人が再審請求の証拠になりうると判断したのだ。

そこで、筆者はこの機会に、久保田が手記で明かした事件の真相を少しでも世に広め、記録として残したいと思った。そして電子書籍に大幅に加筆、修正し、新情報も盛り込み、改めて紙の書籍化したわけだ。

久保田が犯行に及んだ理由は、和人の思いに応えるためだったと前記したが、実際には、この時の久保田の心情は複雑だ。そのあたりのことは同書を読んで頂けばわかると思う。

もちろん、同書の内容を無条件で信じて欲しいと言うつもりはない。しかし、平成の大事件の実行犯が自分の当初の供述が嘘だったと明かし、首謀者の男が冤罪だと訴えているだけでも重大な事態だ。関心のある方はぜひご一読頂きたい。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。創業した一人出版社リミアンドテッドから新刊『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史)を発行。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

河井克行氏、案里氏の議員夫妻に対するバッシングがいっこうに止まらない。

2人は昨年7月の参院選で大規模な買収をした疑いをかけられ、公職選挙法違反で逮捕、起訴された。裁判では、地元広島の地方議員らに金を渡したことは認めつつ、「買収目的ではなく、統一地方選に出馬した人への陣中見舞いや当選祝いだった」として無罪を主張している。

だが、金をもらった側の地方議員らが次々に法廷に立ち、「金は、買収目的で渡されたと思った」と検察主張に沿う証言を繰り広げ、夫妻のイメージは真っ黒に染まり切っている。

さらに克行氏は先日、弁護人を全員解任し、公判が開けない状態に。そんな異例の事態になっていることも含め、夫妻は全マスコミから極悪人のように叩かれ続けている。
 
しかし、結論から言おう。河井夫妻は悪くない。悪いのは、検察、裁判所、マスコミだ。

◆広島の事件を東京で裁くおかしさ

まず、検察。河井夫妻側から金をもらった地方議員ら100人の大半が「金は、買収目的で渡されたのだと思った」と証言しているにもかかわらず、誰も立件していない。これは河井夫妻側も主張しているが、検察は無罪を主張する河井夫妻を有罪にするため、金をもらった地方議員らと違法な司法取引をしているとみるほかない。

この点に関しては、「買収目的と知りながら、金をもらった地方議員らも検察は全員立件すべきだ」と主張する人たちがいるが、この意見も間違っている。ここでまず問題とすべきは、「金は、買収目的で渡されたのだと思った」という地方議員らの証言が信用できるか否かだ。

なぜなら、検察がすねに傷を持つ人物たちと裏で司法取引し、有罪立証に沿う虚偽の証言をさせるのは、冤罪で非常に多いパターンだからだ。この事件もそれに該当する可能性がないか、慎重に検証されるべきである。

また、この事件は現在、東京地検特捜部が担当し、逮捕した河井夫妻を東京拘置所で勾留したうえ、東京地裁で裁判をやっている。これもおかしな話だ。この事件の現場は広島であり、関係者の大半は広島の人間だからだ。

この事件は当初、広島地検が捜査を手がけていたから、河井夫妻も任意捜査の段階で広島の弁護士に弁護を依頼していた可能性が高い。そうであれば、広島の弁護士が河井夫妻との接見や公判のためにいちいち上京しなければならない状態は、河井夫妻に必要以上の裁判費用を負担させていることに他ならない。これも不当なことである。

また、金をもらった地方議員らが証人出廷する際、広島からいちいち上京させていたのでは、税金の使い方としても問題だ。河井夫妻の裁判は広島地裁でやるべきだし、勾留する必要があるなら、広島拘置所に勾留すべきである。

そもそも、事件の舞台が東京に移されたのは、なぜなのか。それは、検察の最終的なターゲットが河井夫妻ではなく、官邸だったからであることは明白だ。河井夫妻側が広島の地方議員らに渡していた金の原資は、自民党本部が参院選前に夫妻側に送金した1億5000万円だった可能性が疑われているからだ。

しかし結局、検察は官邸に捜査のメスを入れるまでに至らなかったのだ。現在、東京が事件の舞台とされ、河井夫妻がそのために不要な負担を強いられているのは、検察が「スジ読み」を誤ったことによる人災だというほかない。

河井夫妻が勾留されている東京拘置所

◆不当な検察の応援団と化しているマスコミ
 
河井夫妻が東京拘置所で延々と勾留されているのは、裁判所が勾留を認め続けているからだ。つまり、検察が不当なことをやりたい放題なのは、裁判所がそれを許しているせいである。

6月に逮捕された河井夫妻は入稿時点でそれぞれ4回、保釈請求をしながら、いまだに身柄を解放されていない。しかし、夫妻がこれだけ長期間、勾留されなければいけない正当な事情があるとも思い難い。

こうした状況をみると、何より問題なのはマスコミだと言えるかもしれない。河井夫妻は検察、裁判所からかくも不当な仕打ちを受けているにもかかわらず、マスコミは検察の応援団と化し、河井夫妻へのバッシングをひたすら続けているからだ。

河井夫妻が国会議員を辞めず、歳費をもらい続けていることを揶揄する報道もあるが、夫妻は収入がなくなれば、裁判費用を捻出することも苦しくなる。つまり、無罪を主張する夫妻が歳費をもらい続けているのを批判するのは、夫妻の被告人としての防御権を否定するに等しい暴論だ。

この事件に関しては、冤罪問題に比較的詳しい左派の人たちも、検察や裁判所、マスコミのおかしさに気づいていないのが現状だ。左派の人たちの多くは安部晋三前首相が嫌いなので、安倍前首相と近い関係にある河井夫妻が不当な刑事訴追を受けてもそれが良いことだと錯覚しているのだ。

こうした状況は大変危ない。当欄では、この事件の見過ごされた問題性を今後も適時、指摘したいと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。8月に創業した一人出版社リミアンドテッドから編著『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著・久保田祥史)が近日中に発売予定。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2004年10月、広島県廿日市市の高校2年生・北口聡美さんが自宅で何者かに刺殺された事件は、今年3月、広島地裁であった犯人の鹿嶋学に対する裁判員裁判でようやく真相がつまびらかになった。

鹿嶋は1983年、山口県生まれ。その生い立ちは複雑で、母親が父親と結婚前、父親以外の男性との間に授かった子供が鹿嶋だった。そのために幼少期から父親との関係が悪く、鬱屈した思いを抱えて育った鹿嶋は、広汎性発達障害的な偏りがあり、普段はおとなしいが、カッとなると、暴力的になることがあったという。

高校卒業後はブラック企業的な会社で3年半、辛抱強く働いていたが、たった一度、朝寝坊して仕事に遅刻しそうになっただけで会社を辞めてしまう。そして自暴自棄になり、あてもなく原付で東京に向かう途中、ふと「性行為をしてみたい」と思い立つ。そんな時、たまたま路上で見かけたのが北口聡美さんだった。

聡美さんの家に侵入した鹿嶋は、逃げようとした聡美さんを持参したナイフで刺殺した。さらに現場に駆けつけた聡美さんの祖母ミチヨさんも刺して重傷を負わせたうえ、聡美さんの妹も追いかけ回し、一生消えない心の傷を負わせた──。

3月10日にあった第4回公判。審理で明らかになった上記のような事実関係に基づき、検察側は「有期懲役が相当な事案とは到底言えない」として無期懲役を求刑した。対する弁護側は、「動機は言い訳できないが、鹿嶋さんは発達の遅れがあり、自分の意思だけでどうにかなるものではなかった」として有期懲役が相当だと主張した。そして最後に鹿嶋本人が意見陳述を行った。

◆公判終了後、足早に法廷を出ていった犯人の父親

「私は、事件のことを思い出せる限り、正直に話しました。しかし、ミチヨさんのことは思い出せなくて、申し訳ありませんでした。あと、この裁判を通じ、ご遺族の方の顔を見ることができませんでしたが、この場でご遺族の顔を見て、謝罪したいと思います」

鹿嶋は証言台の前に立ち、嗚咽交じりにそう語ると、檀上の杉本正則裁判長に「マスクをとってよろしいでしょうか」と問いかけた。そして許可されると、マスクをとり、検察官席にいた聡美さんの両親に顔を向け、叫ぶようにこう言った。

「自分の身勝手な都合で、大切なご家族の命を奪い、ご家族の方々を傷つけ、申し訳ございませんでした!」

この時印象的だったのは、聡美さんの父・忠さんが潤んだ目で鹿嶋のことをじっと見すえていたことだ。娘の生命を奪った犯人と目を合わせ続けるのは精神的に相当きつかったろうと思うが、「目をそらしたら負けだ」と思っていたという。

こうして公判審理はすべて終わった。傍聴席では、鹿嶋の両親も審理の行方を見守っていたが、鹿嶋の母親は閉廷後も両手で顔を覆い、うなだれたままだった。一方、その隣に座っていた鹿嶋の父親は、杉本裁判長が公判の終了を告げると、すぐに立ち上がり、足早に法廷を出ていった。筆者はそんな様子を見て、鹿嶋と父親の複雑な関係はやはり事件と無関係ではないだろうと改めて思ったのだった。

◆無期懲役という結果に、被害者の父親は無念そうだったが……

この8日後の3月18日、杉本裁判長は鹿嶋に無期懲役の判決を宣告した。その判決公判後、忠さんは無念そうにこう言った。

「娘には、『負けたよ』と伝えます」

殺害された人数が1人の殺人事件で死刑判決が出ることはめったにない。この事件の場合、検察官も無期懲役を求刑していたので、死刑判決が出る可能性は皆無に等しかった。しかし、やはり遺族は裁判長が判決を宣告するその時まで死刑判決を願い続けていたのだろう。

判決後、無念の思いを語る北口聡美さんの父・忠さん

ただ、杉本裁判長が読み上げた判決理由では、遺族の思いに配慮したかのように鹿嶋のことを厳しく指弾する言葉が並んでいた。

「被害者家族が味わった悲しみは筆舌に尽くし難く、被告人の極刑を望むのも本件の重大性を表すものとして理解できる」

「本件が地域社会に与えた影響も大きかったものと推察される」

「被害者らに対する犯行を選択した経緯は、身勝手極まりないと評価すべきである」

この判決が実は「遺族以外の人たち」の思いもくんだものだったとわかったのは、裁判員たちの会見に出た時のことだった。

◆2歳の娘のことを思いながら裁判に臨んでいた裁判員

会見に参加した2人の男性裁判員に対し、筆者は「もしも自分が被害者のご両親と同じ立場だったらと考えることはなかったですか?」と質問してみた。この質問は思っていた以上に2人の感情を大きく揺さぶったようだった。

まず、1人目の男性裁判員(36)は目から涙をあふれさせ、嗚咽を漏らしながらこう言った。

「私も2歳の娘がいて……かわいい、かわいい……と言いながら育てているので、もしも娘が同じことをされたらと思うと……」

この男性は感極まり、これ以上、言葉をつなげなかった。一方、もう1人の男性裁判員(年齢は未公表。推定で40代後半から50代前半)も神妙な面持ちでこう言った。

「私も被害者と同じくらいの子供がいるので、自分の子供に同じことが起きたらと思わずにはいられませんでした」

2人の話を聞く限り、裁判員たちは聡美さんの遺族に深く感情移入していた。彼らも遺族同様、本当は鹿嶋を死刑にしたいという思いだったことがよく伝わってきた。鹿嶋を厳しく指弾した判決理由の言葉の1つ1つはそんな裁判員たちの思いをくんだものだったのだ。

私は、鹿嶋本人にも会って話を聞いてみたいと思い、取材依頼の手紙を出したうえで、判決公判の翌朝、彼が収容されている広島拘置所を訪ねた。しかし、職員を通じて面会を断られてしまった。そしてその後、鹿嶋も検察も控訴せず、鹿嶋に対する無期懲役刑が確定した。

生い立ちが複雑な鹿嶋は、仕事はまじめだったが、友だちが少なく、ゲームをしたり、アダルトビデオを観たりすることしか趣味がなかった。人生で一度も女性と性行為をしたことがなく、風俗店にも行ったことがなかったと言っていた。そしてこれから長い服役生活を送り、いつか出所できたとしても、その時は老人になっているはずだ。彼の人生は一体何だったのだろうか。(終わり)

鹿嶋が収容されていた広島拘置所。鹿嶋は、筆者との面会に応じなかった

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

この連載で伝えてきた通り、廿日市女子高生殺害事件の犯人・鹿嶋学(現在37)が2004年10月、被害者の北口聡美さん(当時17)を殺害した動機は、「レイプしようとしたが、逃げられたから」というものだった。

鹿嶋は犯行前日まで、山口県萩市にあるアルミの素材メーカーの工場で働いていた。しかし、朝寝坊し、遅刻しそうになったのをきっかけに突然会社を辞めてしまう。それからアテもなく、原付で東京に向かう途中、「女子高生をレイプしよう」と思いつく。そして路上で見かけた聡美さんをターゲットに定め、聡美さん宅に侵入したが、逃げられたことに逆上し、持参していたナイフで聡美さんを何度も刺して殺害したのだ。

今年3月、広島地裁で行われた鹿嶋の裁判員裁判では、こうした真相がつまびらかになったが、謎がまだ1つ残っている。鹿嶋がなぜ、「女子高生をレイプしよう」と思いつく精神状態になったのか──ということだ。

それについては、鹿嶋の精神鑑定を手がけた医師が証人出廷し、精神医学的な見地から詳しく説明している。今回はそれを紹介したい。

◆子供の頃の記憶や父親との思い出がほとんど無い

事件が未解決の頃、警察が作成した「犯人」の似顔絵。鹿嶋は本当にこんな感じの顔だった

「犯行の前後に反社会的な性向はなく、穏やかな生活をしていた被告人が、なぜこのような凶悪な犯行をしたのか。それが理解しがたいということで、今回の精神鑑定を行いました」

3月5日、広島地裁第304号法廷。証人出廷した精神鑑定医は、まずは鑑定の趣旨をそのように説明した。そしてそれから、鑑定結果を1つ1つ説明していった。

「まず、成育歴ですが、被告人はお父さんのことを『子供の頃から嫌いだった』と言っています。父親との思い出はほとんど無いそうです」

すでにお伝えした通り、父親にとって、鹿嶋は「妻が結婚前に宿していた自分以外の男の子供」だった。妻と結婚後、自分の子供として育てたが、事実関係を見ると、父親が鹿嶋を心の底から愛しているとは認め難かった。鹿嶋が父親と血のつながりがないことを知ったのは事件後のことだが、やはり子供の頃から父親に愛されていないことを無意識のうちに気づいていたのだろう。

このように父親との関係が複雑だったためか、鹿嶋は精神医学的にも色々問題を抱えていたようだ。

「被告人は幼少期から小学校低学年までの記憶がほとんど無いのです。これは、自分に対する興味が無いことの現れです。高校の名前も漢字が難しいこともありますが、それすらも記憶が曖昧なのです」

そんな歪んだ性質だった鹿嶋は、当時から問題行動が確認されている。

「小学校から中学校にかけては、よくケンカをしていて、喧嘩の際、代本版(※)で友だちを殴り、謝りに行ったことがあるそうです。怒ったら何をするかわからないところがあり、自分でも直さないといけないと思っていたそうです」

鹿嶋は犯行時、レイプしようとした聡美さんが逃げ出したことに逆上し、聡美さんに怒りをぶつけるように何度もナイフで刺して殺害している。そのような「突如キレ、とんでもないことをする」という性質は、子供の頃から現れていたわけだ。

※「だいほんばん」と読む。図書館で本が本来置かれるべき場所に無い時に、本の現物に代わって置かれる板のこと。

◆会社を辞め、故郷を捨てることを決めた

鹿嶋は父親との関係が複雑ではあったが、父親が鹿嶋を虐待したりするようなことはなかったという。

「被告人にとって父親は、『規範を守る象徴』でした。父親の前では、きちんとしないといけない感じ、勝手に緊張するなどして、息苦しく感じていたそうです」

そんな環境で育った鹿嶋は高校を卒業すると、「父親が嫌いなので、早く宇部市の実家を離れたい」との思いから寮生活ができる萩市の会社に就職した。そして会社では、同僚たちと仲良くしていたという。

しかし、職場はブラック企業的な環境だったため、その同僚たちは1年以内に次々に会社を辞めていく。鹿嶋は話し相手がいなくなり、寂しい思いを抱えつつ、仕事でも辛い思いをしていたという。

「会社では、2カ月に1度、朝礼があり、みんなの前で業務改善案を発表しないといけませんでした。被告人は、これが苦痛だったそうです。発表に失敗すると、吊るし上げに遭い、他の人が失敗した時には、自分も失敗した人を吊るし上げなければいけなかったからです。その後、ケガをして部署を変わると、残業が増え、さらにつらい思いをしたそうです」

鹿嶋はそんなブラック企業的な職場で3年余り、忍耐強く仕事を続けていた。ところが一転、いざ会社を辞める時には、寝坊し、遅刻しそうになったというだけの理由で辞めている──。

「休み明けに寝坊し、遅刻をしそうになったことにより、仕事に行くのがどんどんいやになり、逃げ出すことしか考えられなくなったのです。そして身の回りの荷物だけを持ち、会社を飛び出してしまうのですが、それから先のことは何も考えていなかったそうです」

そんな極端な考えから会社を逃げ出した鹿島は、原付で実家のある宇部市に戻り、友人宅に一泊している。そして翌日、東京に何のアテもないのに、原付で東京に向かうことを決めるのだが、宇部市内で信号待ちをしていた際、両親が乗っていた車と遭遇している。鹿嶋はこの時、両親に声をかけられながら、無視して走り去ってしまうのだが、それはなぜだったのか。

「会社を辞めたため、『両親に合わせる顔が無い』と考え、両親を無視して逃げたのです。この時、被告人は故郷である宇部を捨てようと思い、携帯電話も捨てています。故郷を捨てることに寂しい気持ちがあったそうですが、一方で、会社から開放され、高揚感も入り混じっていたようです」

話し相手となる同僚もいないブラック企業な職場で、辛抱強く働いた3年間。この生活から解き放たれた鹿嶋は、一気に犯行へと突き進んでいく。

◆想定と違う事態に混乱し、溜まっていた鬱憤が爆発した

「被告人はレイプ願望が元々ありましたが、そういうことを実際にできる性格ではありませんでした。しかし事件を起こした時は会社を辞め、故郷を離れ、社会から外れてしまったという思いだったので、自分を止めるものが何も無い状態でした。東に向かって原付で国道2号線を進んでいると、ふと『エッチがしたい』という気持ちになり、本当に実行しようとしてしまったのです」

そんな時、鹿嶋が路上で見かけ、ターゲットに定めたのが被害者の北口聡美さんだったというわけだ。そして鹿嶋は聡美さん宅に侵入したが、聡美さんが逃げ出そうとしたために激怒し、ナイフを突き立ててしまうのだ。

「被告人はこの時、想定と違う事態に混乱し、溜まっていた鬱憤が爆発したのです」

鹿嶋はこの時、居合わせた聡美さんの祖母も刺して重傷を負わせ、聡美さんの小学生だった妹のことも追いかけ回しているが、聡美さんの妹を刺そうとしたことは「憶えていない」とのことだ。

そして犯行後、鹿嶋は1カ月ほどかけて原付で東京にたどり着くが、何か目的があったわけではない。そのため結局、東京には数日滞在しただけで「捨てた故郷」の宇部に戻っている。この時、複雑な関係にあった父親が鹿嶋のことを抱きしめているのだが──。

「被告人によると、お父さんに抱きしめられても、なんとも感じなかったそうです」

この時、父親が鹿嶋を抱きしめた真意は不明だが、お互いに相手への愛情はなかったのだろう。

鹿嶋の裁判員裁判が行われた広島地裁

◆「明日、世界が滅びる」というくらいの絶望感と開放感

事件後、鹿嶋は友人の紹介で土木会社に就職している。そして2018年4月、別件の傷害事件を起こしたのをきっかけに逮捕されるまで13年半も一般社会で暮らしていた。鹿嶋はこの間、警察に捕まることへの不安を感じていなかったという。

「捕まりたいわけではないですが、捕まりたくないとも思っていなかったそうです。事件を起こしてからはずっと事件のことは考えないようにしていたそうで、警察に捕まった時には、ホッとしたというか、肩の荷がおりた心境だったそうです」

そして鹿嶋は犯行後、精神鑑定を受けるのだが、そのための入院中は終始穏やかに過ごしていたという。感情は起伏がなく、安定しており、躁鬱もなかった。そして統合失調症などの精神障害がないことも確認されたそうだが──。

「一方で被告人は幼少期の記憶がなく、自分への関心も少ないうえ、情状的な発達は乏しかった。知能検査の結果、知能は高いことがわかりましたが、情動的な理解力は低いことも判明しました。それらのことから、広汎性発達障害ではないが、『広汎性発達障害的な偏り』があると判定しました」

では、『広汎性発達障害的な偏り』があるとは、具体的にどういう状態なのか。

「普段は社会に適応できる普通の青年なのですが、カッとなると、激しい暴力行動に出るなど、極端な面があります。情緒的な部分が乏しく、『こうあるべきだ』というものにとらわれていて、大きなストレスがかかった時に行動を制御できなくなるのです。普段は、情緒的な発達の乏しさを知的な面の高さで補い、社会に適応しているのですが、物事を段階的・デジタル的にとらえがちで、感情的・アナログ的に判断することができません」

鹿嶋はこのような事情を抱えていたため、寝坊をして遅刻しそうになっただけで会社を辞め、さらに会社を辞めたことにより、「全てを失ったような感覚」に陥ったのだという。

「たとえば、『明日、世界が滅びる』と知れば、自暴自棄になり、やりたい放題になる人もいると思います。被告人も会社を辞めた際には、それくらいの絶望感を抱いていたのです。それに加え、ずっと我慢していた会社を辞め、開放感もあった。そして自暴自棄になり、犯行に及んでしまったのです」

精神鑑定医の話は、鹿嶋がいかに犯行に及んでいったのか、心の中の流れを説明した話としては、わかりやすかった。問題の『広汎性発達障害のような偏り』がある状態になるまでには、父親との複雑な関係も影響があったのだろう。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

今年3月に広島地裁で行われた廿日市女子高生殺害事件の犯人、鹿嶋学(現在37)に対する裁判員裁判。被害者の北口聡美さん(享年17)と犯人の鹿嶋は、それぞれの父親との関係が対照的だった。

前回は、法廷で検察官が朗読した聡美さんの父親・忠さんの供述調書の内容を紹介したが、聡美さんが父親から愛されていたことがよく伝わってきたはずだ。今回は鹿嶋の父親が法廷でどのような証言をしたのかを紹介したい。

◆血のつながりがない鹿嶋に、無関心だった父親

「あなたと学さんは血がつながっていますか?」

3月5日、広島地裁。証言台の前の椅子に座った鹿嶋の父親に対し、弁護人は鹿嶋父子の最もセンシティブな部分に踏み込んだ質問をした。父親が「はい」と答えると、弁護人はさらに「戸籍では、学さんはあなたの子供ということになっていますが、なぜですか?」と重ねて質した。

これに対し、父親は──。

「妻との交際中、妊娠が発覚しましたが、自分の子供ではないことがわかりました」

質問と答えがかみ合っていないことがわかるだろう。弁護人は、血のつながりがない鹿嶋のことをなぜ、「実子」として戸籍に入れたのか、と問うたのだが、父親は理解できなかったのだ。

弁護人はすかさず、「つまり、奥さんと交際中、奥さんがあなたとは別の父親の子供を妊娠していることがわかったが、自分の子供として育てようと決意したということですか?」と誘導するように聞き直した。すると、父親は「はい」とだけ言い、この件に関する質問はこれで終わった。

父親が自分以外の男の子供を妊娠した妻と結婚し、その子供を実子として戸籍に入れることを決めるまでには相当な葛藤があったはずだ。しかしそれはあまり深掘りされず、ほとんど放置されたのだ。

ただ、その後の弁護人と父親のやりとりを聞いていると、案の定と言うべきか、父親が鹿嶋を育てる中、鹿嶋に愛情を持てていなかったことがよく伝わってきた。

たとえば、弁護人から「学さんの学校の成績はどうでしたか?」と聞かれた時のこと。父親は「良くも悪くもなく、普通の成績だったと思います」とだけ言った。そして「学さんは真面目に学校に通っていましたか?」と問われると、今度は「通っていたと思います」とだけ言った。答えがいずれもあっさりしていて、具体性がなく、父親が鹿嶋のことに関心を持っていなかったことが察せられた。

さらに「学さんの学生時代の交友関係はご存じですか?」という質問にも、父親は「知りません」と言った。「女性関係はどうでしたか?」と聞かれても、「なかったと思います」と答えるのみだった。

鹿嶋は高校卒業後、就職して家を離れた時期が数年あるものの、それ以外はずっと実家で生活しており、35歳で逮捕された時も実家暮らしだった。一般的な父親であれば、息子がそんな年齢になっても未婚で実家暮らしをしていれば、結婚はどうするのかとか、孫の顔は見られるだろうかとか、色々気になるものだ。しかし、父親は鹿嶋にそんな関心は抱いていなかったわけである。

広島地裁に入る、鹿嶋を乗せているとみられる車両

◆鹿嶋と会話をほとんどしていなかった父親

鹿嶋が中学時代、本当は剣道部に入りたかったのに、父親に言われるままに陸上部に入ったという話は、この連載の2、3回目で触れた。この父親の証人尋問では、鹿嶋の進学する高校も父親が決めていたことがわかった。

「学校からのアドバイスで、マラソンをすれば、伸びると聞かされたのです。そこで、高校は当時、陸上が盛んだった高校を勧めたのです」

父親は、鹿嶋の高校を決めた理由をそう説明したが、鹿嶋に対しては、学校側からそのようなアドバイスを受けたことを教えていなかったという。鹿嶋は何も知らないまま、父親に決められた高校に進学し、言われるままに陸上部に入ったというわけだ。練習には出なかったようだが、わけもわからないままに父親にやらされた陸上が面白くなかったことは想像に難くない。

父親は家で鹿嶋とほとんど会話をしていなかったそうで、「もう少し会話するように努めていればと反省しております」と証言していたが、子供への愛情があれば、おのずと関心がわくし、会話をするのに努力など不要だ。父親は、母親と結婚した際にお腹の中にいた「自分以外の男の子供」まで一緒に引き受けたことを後悔していたのではないか…と思わずにいられなかった。

鹿嶋は高校卒業後に就職し、勤務先の工場がある萩市で寮生活をするようになってからは、休日に実家のある宇部市に戻ってきても、あまり実家には寄りつかなかったという。父親はこの当時の鹿嶋について、「何回か実家に帰ってきたと妻から聞きましたが、私は顔を合わせることがありませんでした」と言った。その言葉からは、鹿嶋が高校卒業後に家を出ても、まったく寂しくなかったことが窺えた。

息子が1カ月も行方不明なのに、捜索願を出さずじまい

すでに触れた通り、鹿嶋が事件を起こしたのは、寝坊がきっかけで会社を辞め、自暴自棄になったのがきっかけだった。あてもなく原付で東京に向かう中、路上で見かけた北口聡美さんをレイプしようと思い立ち、聡美さんの家に侵入した挙げ句、結果的に聡美さんに凶刃を向けたのだ。

この直前、鹿嶋の父親は宇部市で妻を乗せて車を運転中、原付で東京に向かおうとしていた鹿嶋と路上でばったり会っている。それを最後に鹿嶋は、東京に向かい、1カ月間も行方が途絶えたのだが、この間のことに関する父親の証言にも気になる点があった。鹿嶋が1カ月以上も失踪していたにも関わらず、父親は行方を探すための努力をほとんどしていなかったようなのだ。

父親は一応、何度か鹿嶋に電話したそうだが、検察官から「電話以外に何か息子さんを探すためにしましたか?」と問われると、「していません」と言った。さらに「捜索願を出そうとは考えなかったのですか?」と重ねて質されると、「はい」と一度言い、それから少し思案し、思い出したようにこう言った。

「妻と捜索願を出そうかと相談したことはありました。そうしたら突然息子が帰ってきたので、結局、捜索願は出さなかったのです」

21歳(当時)の息子が突然会社を辞め、1カ月も連絡が取れないのに、この間、捜索願を出さなかったというのはやはりさほど心配していなかったからだろう。

◆「(息子に)命ある限り、関わっていきたい」と言ってはいたが……

2018年4月に鹿嶋が逮捕され、この事件の犯人だとわかった時のことについて、父親は「突然のことで、信じられず、びっくりしました」と振り返った。それは親として一般的な感情だろうが、鹿嶋の逮捕以来、2年もあったのに、父親はこの間、3回しか面会に行っていないという。

弁護人が「今後、学さんとどう関わっていきますか?」と質問すると、父親は「体調が悪くなければ面会に行きますし、体調が悪ければ、手紙でやりとりしようと思っています」と言った。実際、父親は72歳と高齢で、腰痛なども抱えており、体調は悪いようなのだが、普通の父親ならありえないようなドライな答えだ。

父親は、「(息子に)命ある限り、関わっていきたい」と言ったりもしていたが、父親から本気で鹿嶋を自分の子供として愛していたことが感じられる言葉は最後まで聞けなかった。

筆者は、鹿嶋の父親のことを批判したいわけではない。結婚を前提に交際していた女性が、自分以外の男の子供を妊娠しているとわかりながら、中絶を求めたり、別れたりすることなく結婚し、生まれてきた子供を自分の子供として育てたのは、おそらく彼が優しかったり、責任感が強かったりするからだろう。

しかし、結果的に鹿嶋が血のつながらない父親に育てられたことで人格に問題を生じさせ、それがひいては事件の遠因になった可能性は否めない。(次回につづく)

鹿嶋の裁判員裁判が行われた広島地裁

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

今年3月に行われた廿日市女子高生殺害事件の犯人、鹿嶋学(現在37)に対する裁判員裁判。全5回の公判を傍聴してから数カ月が過ぎたが、今も強く印象に残っていることがある。被害者の北口聡美さん(享年17)と犯人の鹿嶋が「ある点」において、対照的だったことだ。

ある点とは、「親から注がれてきた愛情」である。そのことを説明するには、聡美さんと鹿嶋それぞれの父親が取り調べや裁判で自分の子供や事件について、どのように語ったかを紹介すれば、一番わかりやすいと思われる。

◆不妊治療で授かった初めての子供

今回はまず、法廷で検察官が朗読した聡美さんの父親・忠さんの供述調書の内容を紹介する。

 * * * * * * * * * *

平成16年10月5日午後3時頃――今から13年前、この日、この時間、私は愛娘の聡美を失いました。

私と妻には、聡美とその妹、弟の計3人の子供がいました。だから、私は聡美のことを「お姉ちゃん」と呼んでいました。この「お姉ちゃん」が私たち夫婦にとって初めての子供として生まれた時のことを私は今も忘れません。

私と妻は結婚し、なかなか子供を授かることができませんでした。それで私たちは不妊治療をしました。

私は、早く自分の子供をこの腕に抱いてみたいと願い、妻と努力しました。そして4年後、神様から授かったのが、聡美という、私たち夫婦にとっては生命より大切な宝だったのです。聡美という名前は、「聡明で、美しい子になりますように」という願いをこめました。

この聡美が生まれ、私は生まれて初めて、我が子と会いました。「やった。これが俺の子か」と叫び出しそうになった気持ちを今でも覚えています。

生まれたばかりの子をどうやって抱いたらいいのかわからず、「私が抱いてケガでもしたらどうしようか……」と怖かったですが、それでも私は我が子をこの腕に抱きたくて、恐る恐るこの腕に聡美を抱きました。そのことを今でも覚えています。本当に嬉しかったです。

それから聡美は本当に元気に育ってくれました。「子供がいるだけでこんなにも人生が楽しくなるのか」と思うほど、私の生活は明るくなりました。聡美が幼稚園に入り、小学生になり、そんな様子を見ているだけで幸せでした。

「この幸せな時を絶対に守ってやろう」

私はそう思っていました。

判決公判後、報道陣の取材を受ける北口聡美さんの父・忠さん

◆「私の一生をかけて守ってやろう」と思っていた

小学生になった聡美は、少し引っ込み思案なところがあったので、「みんなとやっていけるかな」と少し心配していました。しかし、私の心配をよそに、聡美は友だちと楽しく、元気に育っていきました。父親は、心配しなくてもいいようなことでも、娘のことはつい心配になってしまうのです。

聡美にもやがて妹が産まれ、それから弟も産まれました。私は、自分の人生を幸せにしてくれた宝を3人も授かることができたのです。そして私はいつしか、聡美のことを「お姉ちゃん」と呼ぶようになっていました。

私も妻も、3人の子どもたちには本当に感謝しています。だから、私はいつも、「この子たちのことは私の一生をかけて守ってやろう」「この幸せがずっと続きますように」と思っていました。

お姉ちゃんは、やがて中学を卒業し、地元の高校へと進学しました。頑張り屋で、一生懸命勉強もして、私は何も心配することがありませんでした。しいて言えば、「勉強もいいけど、もっと友だちと遊べばいいのに」と思ったくらいです。勉強を頑張る子に、「もっと遊べば」と思う親もちょっと珍しいですが、そう思っていました。

◆事件の時の詳しい記憶が無くなってしまった

お姉ちゃんは16歳になり、そして17歳になり、少し大人になってきました。しかし、私の中では、「まだまだ俺が面倒をみなければいけない子供だ」と思っていました。

一方で、人からは「女の子がそんな年頃になると、父親とは話もしてくれないよ」と言われるので、「お姉ちゃんもそんな感じになるのかな」とも思っていました。でも、お姉ちゃんは、いつになっても、何歳になっても、私と普通に接してくれました。

そんなお姉ちゃんが、私に「お父さん、感謝しなさい」と言うのです。生意気に。俺がいないと、一人では生きていけないくせに。俺がまだまだずっと守ってやらなきゃいけない、俺の娘のくせに。

この娘を私は失いました。私は守れなかったのです。

平成16年10月5日、私はいつものように仕事に出ていました。すると突然、私のいとこの奥さんから電話があり、「家で事件があったみたいだから、すぐ帰ってあげて」と言われたのです。

その時はまだ事件の詳しいことはわからず、「なんだろう」くらいの気持ちで、家に向かいました。そして廿日市に住んでいる、私の妹に車で迎えに来てもらい、二人で家に帰ろうとした時、JA広島病院から電話で、「北口聡美さんのお父さんですか。すぐに病院に来てください」と言われたのです。

すみません、私にはそれからの詳しい記憶が無くなってしまいました。お話しできなくて、申し訳ありません。

私が憶えているのは、台に寝ている聡美を何度も、何度も、何度も、ゆすって起こそうとしたこと。何度も、何度も、「お姉ちゃん」と呼んで起こそうとしたけど、また私のことを「お父さん」と呼んでくれなかったことだけです。

全公判を傍聴した北口聡美さんの父・忠さんは毎回、娘の遺影を持参していた

◆犯人と闘う決意をした

この事件では、私の母も被害に遭い、生命の危険に陥りました。また、聡美の妹もその場で犯人と会い、危ないところでした。

その犯人はすぐには捕まらず、13年半が経ちました。長かったです。本当に長い時間でした。事件からまもなくは、「聡美の妹は犯人を見ているので、もし犯人が襲ってきたら大変だ」と思い、いつ来るか、もう来るのかと眠れない日が続きました。「犯人が来るなら、どうか俺がいる時にしてくれ」「もうこれ以上、幸せを奪わないでくれ」。その繰り返しでした。

それとは別に、お姉ちゃんの死を受け入れることができず、「あした起きたら夢だとわかるかも」と思って、なんとか寝ようとしても寝られず、そして朝になり、明日こそ夢から覚めるかもしれないと思い、また寝ようと頑張り、毎日がその繰り返しでした。

また、当時はまだ12歳と小さかった妹がお姉ちゃんの姿と犯人を見ていることがとても心配でした。あとから、妹に聞くと、「それは、怖い言うもんじゃなかったよ(=怖いという言葉で表現できるものではなかったよ)」と話してくれました。もしあの時、妹がその場で動けなくなっていたら、妹まで被害に遭っていたかと思うと、よく頑張って逃げてくれたと感謝するばかりです。

そんな怖い思いをした妹を守るため、事件のことは世間から隠しておいたほうが良かったのかもしれません。でも、私は、捕まらない犯人をどうしても放っておくことができませんでした。

「どうして聡美を襲ったのか」「その真実を知りたい」「犯人を絶対に許しておかない」。とても悩みましたが、大切な聡美のため、私も犯人と闘う決意をしたのです。

そのことを聡美の妹も応援してくれました。そして私はブログを始めたのです。ブログをやったことはなかったですが、人にも教えてもらい、自分でも勉強して、いろんな人から事件の情報を集めることにしたのです。そして警察の事件に関する広報活動にも参加させて頂きました。

この13年半、私は聡美のために行ってきたことを「しんどい」とか「苦しい」とか思ったことは一度もありません。聡美が受けた苦しみに比べれば、私など何でもありません。

ただ、怖かったのは、事件が忘れられ、犯人が捕まらないまま終わってしまうことです。それと、犯人がいつかまた襲ってくるのではないかということです。

この犯人が捕まったと警察から連絡を頂き、どれほど嬉しかったか。この犯人は、鹿嶋学という、事件当時は21歳だった男と聞きました。これまで聞いたことがない、私どもとは何の関係もない他人です。

◆13年半、聡美にずっと話しかけてきた

私は、犯人が捕まったことを聡美にも報告しました。この13年半、聡美にはずっと話しかけてきました。

お姉ちゃん、いなくなっちゃう前の9月、「お父さん、文系と理系、どっちに進んだほうがいい?」と相談してくれたね。お父さんは、「お姉ちゃん、理系が好きなら、そっちにすれば」と言うと、「じゃあ、そうする」と答えたよね。

今頃、お姉ちゃんはどんな仕事をしていたかな。そう言えばこないだ、お姉ちゃんの友達が来てくれたよ。もうお母さんになっていたよ。

そうそう、お姉ちゃんに謝らないと。いなくなっちゃう半年くらい前、「府中のショッピングモールに行きたいって言ったよね。お父さんは、「遠いからダメ」「もっと大きくなったらいつでも行けるから」と反対したよね。お父さん、今でもそのことがお姉ちゃんに悪いことしたって、忘れられない。

お姉ちゃん、犯人捕まったよ。

私が聡美と最後に会ったのは、事件前日、10月4日の夜です。その時、パソコンをしていた聡美に、「お父さん、もう寝るよ」と声をかけると、聡美は「ヒヒ」と答えてくれました。それが最後です。私の記憶の中で、聡美はそれ以上、大人に成長してくれないのです。

聡美を奪った犯人に言います。

「お前は人間じゃない。聡美の生命を奪った償いは、自分の生命で償え」

私が犯人に望むのは、死刑しかありません。最後に、お姉ちゃん、守れずに、ごめんなさい。

 * * * * * * * * * *

以上、検察官が朗読した被害者・北口聡美さんの父親・忠さんの供述調書だが、これを聞けばたいていの人が涙を誘われるのではないかと思われる。次回は鹿嶋の父親の公判証言の内容を紹介するが、忠さんの供述調書の内容とどのように対照的なのか、ぜひ読み比べて頂きたい。(次回につづく)

北口聡美さんが事件の半年前に行きたがっていたショッピングモール(2019年12月撮影)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

判決を含めて計5回の公判があった鹿嶋学の裁判員裁判。被害者・北口聡美さんの両親は検察官席から、犯人・鹿嶋学の両親は傍聴席から、全公判の審理を見届けたが、その初公判では、聡美さんの母親の供述調書を検察官が朗読し、鹿嶋の母親が遺族宛てに書いた謝罪の手紙を弁護人が朗読するという場面があった。

被害者と犯人、双方の母親がそれぞれ、どのような言葉を発したのか。ここで紹介したい。

◆「4年目にして授かった待望の子だった」(被害者の母)

まず、検察官が朗読した北口聡美さんの母の供述調書から紹介する。これは、鹿嶋が逮捕されてまもない時期に作成されたものである。

 * * * * * * * * * *

聡美が犯人に殺されて約13年半が経ちました。私たち夫婦は結婚して子供に恵まれなかったのですが、やっと4年目にして授かった待望の子が聡美でした。聡美が生まれた時は、うれしくて、うれしくて、本当に待望の娘でした。

聡美は昔から元気で、勉強ができて、友だちに勉強を教えてあげたり、まじめで、よくニコニコと笑う子です。中学生の時だったでしょうか。その頃、小遣い制ではなかったので、聡美が必要な時にしか使うお金を渡していませんでした。

なのに、聡美は中学2年生の頃だったと思いますが、母の日に花を買ってきて、私と母のミチヨに1個ずつ渡してくれたのです。たぶん私が渡したお金を少しずつ貯めて買ったのでしょう。

また、母のミチヨが神経痛で、足がしびれるなどした時、聡美が一緒にお風呂に入り、ミチヨの身体を洗ってくれたことがあります。聡美は長女だったので、優しい気配りができる子でした。妹弟の面倒もよく見てくれ、私は聡美の優しさや気配りに本当に助けられていました。

そういう聡美のいいところ、聡美が私たち家族にしてくれた優しさが昨日のことのように思い出されます。涙が止まりません。

◆「今も玄関には聡美のスニーカーが置いてある」(被害者の母)

事件が未解決の頃、警察が作成したポスター。犯人の似顔絵は聡美さんの妹の証言をもとに描かれたものだった

犯人が逮捕されるまで、とても長い時間でした。苦しくて、悔しい日々でした。

犯人が逮捕されるまでは、テレビなどで聡美の事件を取り上げてもらって、みなさんから沢山の情報を頂き、大きな助けになっていました。ありがたかったです。

私は、事件のことが風化するのがとても怖かったです。私たち家族は普通に暮らしていたのです。仲良く暮らしていたのです。何がいけなかったのだろうと考え込んだりしたことがありました。

娘が殺されてからの生活の苦しみなんて、経験した人でないと絶対にわかりません。この悔しさ、苦しさは他人には絶対にわからないです。

聡美が殺されて以降、私は気分転換の意味も込めて、仕事を何度かやったことがありました。でも、事件の報道がされたりして、私が聡美の母親だと気づかれ、その職場に居づらくなったり、陰口や中傷もあったり、本当に苦しい日々でした。

聡美は生前、「家族をもって普通に暮らしたい」と話していました。聡美は勉強やアルバイトを頑張っていましたが、こんなにも早く亡くなるなら、もっと遊ばせてあげたり、行きたいところに連れて行ってあげたかったです。

私の中では、2004年10月5日から時が止まっている感覚です。今日まで一日たりとも聡美のこと、事件のことを忘れたことはありません。

犯人が逮捕されたことについては、本当にありがたいことだと思っています。でも、聡美は帰ってきません。これが悲しくて、悔しくて、たまりません。

家には、いまだに聡美の私物があり、離れも当時のままです。片付けようかと手をつけたことがありますが、涙が止まらなくて、とても片付けることができないままになっています。13年以上が経った今でも、聡美が帰ってくるんじゃないか、帰ってきて欲しいという思いがあって、玄関には聡美のスニーカーが置いてあります。

◆「犯人を絶対に許さない」(被害者の母)

犯人は、何の罪もない聡美を殺しました。とても酷い殺し方でした。

犯人の顔はテレビで観ました。感想は、「聡美の妹が見た犯人の顔は間違っていなかった」ということでした。聡美の妹は当時、小学生だったのに、一瞬で記憶して、大したものです。

聡美の妹は、これからも事件のことを一生背負って生きていかなくてはなりません。私はそれが心配です。

聡美は機転が利くところがあります。ですから、これは私の想像ですが、犯人からどうにかして逃げようとしたのではないでしょうか。気が小さいところがあったので、犯人には何も言えなかったかもしれません。

聡美が殺されたことは、私たち家族もそうですが、何より本人が一番悔しかったはずです。なんで殺されなきゃいけないのと、さぞかし聡美は無念だったでしょう。

私は、犯人を絶対に許しません。何の罪もない私たちの娘を、あんな酷い、惨い殺し方で生命を奪った犯人が憎いです。私は犯人に死刑を求めています。

なぜ、聡美だったのでしょうか。なぜ、聡美を殺したのか。犯人には、真実を話して欲しい。生命の重みをわかってもらいたいです。

 * * * * * * * * * *

以上、聡美さんの母の供述だ。本人も「この悔しさ、苦しさは他人には絶対にわからないです」と語っているが、その悔しさ、苦しさは本当にその通りの、第三者の想像を絶するものだったのだろう。

◆「慚愧の念に苛まれ、夜も眠れない」(犯人の母)

続いて、弁護人が朗読した、鹿嶋の母親が遺族宛てに書いた手紙を紹介したい。これは裁判の前年に書かれたものだが、弁護人によると、遺族に受け取りを拒否されたとのことだった。

 * * * * * * * * * *

前略

15年前に私どもの息子学が、北口様の大切に育てられました聡美さんの生命を無残にも奪ってしまったことに対しまして、年月は随分過ぎてしまいましたが、このたび学の母として心よりお詫び申し上げたいと思います。

本当に申し訳ございません。

慈しみ、育てられました聡美さんを突然あのような形で失われたご両親様の持って行き場のない悲痛な思い、そして喪失感を思いますと、同じ年頃の娘を持つ母親として、胸が締めつけられる思いでいっぱいになります。

どうして息子は取り返しのつかない残酷な罪を犯してしまったのだろうか。どのように受け入れ、どのようにお詫びをすれば良いのか。この1年余り、考えない日はありませんでした。慚愧の念に苛まれ、夜も眠れません。

せめて今の私にできることは、亡くなられた聡美さんの無念を思い、うかばれない魂の鎮魂なればと、早朝欠かさず30分のお悔やみとお参りに行っています。非力な私のささやかなお詫びのつもりです。

本当に申し訳ございませんでした。

息子に対する処分は、どうなるかわかりませんが、息子が心から悔い改め、私ども夫婦の生存中にもしも社会復帰することがありましたら、私どもの生命のある限り、監督していきたいと思っております。

このような事件を起こしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。

 * * * * * * * * * *

以上、鹿嶋の母親が遺族宛てに書いた謝罪の手紙だ。何を書けばいいのか答えが見つからず、迷いながら書いていることが伝わってくる文章ではないだろうか。

この連載の第1回で伝えた通り、鹿嶋の母親は夫と結婚した際、夫以外の子供を妊娠しており、それが鹿嶋だった。血のつながらない父親との複雑な関係は、鹿嶋の人間形成に大きな影響を与えたが、この母親も悩みが多い人生だったのではないか。ふとそう思わされた。(次回につづく)

鹿嶋の裁判員裁判が行われた広島地裁

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

先日、ある死刑被告人に面会取材するために東京拘置所を訪ねたところ、不可解な出来事があった。施設に入る際、待機していた職員に「弁護士か否か」を確認され、「違う」と答えたら、「新型コロナウイルス対策の検温に協力して欲しい」と求められたのだ。

このご時世、もちろん検温には応じたが、疑問が残った。刑事施設はどこも平時から、弁護士の面会については、手荷物検査を免除したり、面会時間を長くしたりと、様々な点で一般の面会と扱いが異なるが、それらはすべて被収容者の権利擁護のためだと理解できる。しかし、新型コロナウイルス対策の検温について、弁護士とその他の来訪者を区別する必要は何かあるだろうか?

その職員は、「上から、そうするように言われたんです……弁護士の方は、弁護士会で徹底するそうです」と説明したが、ますます意味がわからない。弁護士会が所属弁護士に対し、新型コロナウイルスに感染しないことや、感染した場合に拘置所や刑務所で感染を拡大させないことを徹底できるはずがないからだ。

実際、他地区の弁護士によると、東京拘置所以外の刑事施設では、弁護士もその他の来訪者同様、入場前に検温をされている例もあるという。

◆弁護士に対する検査は「入場後」に行っていた……

そこで、なぜ、弁護士には入場前の検温を要請しないのかについて、東京拘置所に正式に取材を申し入れた。すると、総務部の職員から電話で次のような回答があった。

「弁護士の方については、拘置所内にある弁護士専用の待合室に入ってから、サーモグラフィーカメラで検査させてもらっています。そのうえで必要があれば、検温もさせてもらっています。ただ、このような対策を始めてから、弁護士の方が検温で発熱が確認された例はありません。一般の方は、発熱が確認された方がこれまでに1人いて、入場をお断りしましたが」

入場前の検温が弁護士だけは免除されている東京拘置所

東京拘置所は元々、弁護士とそれ以外の来訪者では、面会の受付窓口も待合室も別々になっている。それゆえに検温をする場所も違うということのようだ。ただ、弁護士だけは検温をせず、拘置所の建物内に入れていることに変わりはなく、それが新型コロナウイルス対策として適切と言えるかは疑問だ。

では、もしも今後、弁護士が専用の待合室に入ってからの検査で発熱が確認されることがあったらどうするのか? その点も質問したところ、その総務部の職員の回答は歯切れが悪かった。

「実際にそうなってみないとわかりませんが……その場合、入場をお断りするというより、入場しないようにお願いすることになるかもしれません。あくまでお願いベースだと思います」

拘置所や刑務所は現在のコロナ禍において、クラスターの発生が最も恐れられている場所の1つだ。しかし一方で弁護士の面会については、下手に制限すれば、弁護士や被収容者から反発され、面倒な事態になりかねない。この総務部の職員の話しぶりからは、東京拘置所がそのあたりのバランスに苦慮している様子が窺えた。

実際問題、全国各地の刑事施設で職員や被収容者が新型コロナウイルスに感染したというニュースがぽつぽつと報じられている。他ならぬ東京拘置所でもすでに被収容者の感染例が確認されている。「弁護士も入場前に検温しておけばよかった」という事態にならないように願いたい。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

今年の夏は終戦75年ということで、テレビや新聞では、戦争の悲惨な経験を伝えたり、平和の大切さを訴えたりする報道が例年以上に多かった。だが、それらの報道は型どおりのものばかりで、重要な視点が欠けている感が否めなかった。

それは、「平和な世の中で平和を訴えることは簡単だが、戦時中に平和を訴えることは難しい」という視点だ。誰もが知ってはいるが、つい忘れがちな視点である。

一方、筆者がこの時期に読み返し、改めて感銘を受けたのが、原爆漫画の代名詞「はだしのゲン」だ。自分自身も被爆者である広島出身の漫画家・中沢啓治が実体験をもとに描いたこの作品には、型どおりの戦争報道に欠けている上記の重要な視点が存在するからだ。

◆戦時中の自分自身のスタンスを語らない「歴史の証人」たち

たとえば、テレビや新聞が毎年夏に繰り広げる戦争報道では、広島もしくは長崎の被爆者が「歴史の証人」として登場し、原爆や戦争の悲惨さを語るのが恒例だ。今年も例年通り、そういう報道が散見された。こういう報道も必要ではあるだろうが、残念なのは、被爆者たちが戦時中、自分自身が戦争に対して、どのようなスタンスでいたのかということを語らないことだ。

その点、「はだしのゲン」はそういうセンシティブな部分から目を背けない。この作品では、原爆の被害に遭った広島の町でも、戦時中は市民たちが「鬼畜米英」と叫び、バンザイをしながら若者たちを戦場に送り出していたことや、戦争に反対する者たちを「非国民」と呼んで蔑み、みんなで虐めていたことなどが遠慮なく描かれている。

テレビや新聞に出てくる被爆者たちが仮に当時、そのようなことをしていたとしても、それはもちろん責められない。当時の日本で生きていれば、そういうことをするのが普通だし、むしろそういうことをせずに生きるのは困難だったはずだからだ。しかし、「歴史の証人」に被害を語らせるだけの報道では、日本に再び戦争をさせないための教訓としては乏しい。

◆必ずしも戦争に反対せず、朝鮮人差別もしていたゲン

「はだしのゲン」がさらに秀逸なのは、他ならぬ主人公の少年・中岡元やその兄たちも戦時中、必ずしも戦争に反対していなかったように描かれていることだ。

反戦主義者の父親に反発していた元。中沢啓治作「はだしのゲン」(汐文社)第1巻28ページより

元の父親は反戦主義者だったため、元たちの家族は広島の市民たちから「非国民」扱いされ、凄まじい差別やいじめを受けていた。そんな中、元も自分たちの置かれた境遇に耐え切れず、父親に対し、「戦争にいって たくさん敵を殺して 勲章もらってくれよ」「戦争に反対する とうちゃんはきらいだ」などと泣きながら、だだをこねたりする。さらに元の兄・浩二は、家族が非国民扱いされないようにするために海軍に志願したりするのである。

父親が反戦主義者のため、元の家族は広島の人たちから差別されていた。中沢啓治作「はだしのゲン」(汐文社)第1巻50ページより

さらに元は他の少年たちから非国民扱いされ、差別される一方で、自分自身も朝鮮人のことを差別する言動を見せている。たとえば、顔見知りの朝鮮人男性と一緒にいるところを他の少年たちにからかわれ、その朝鮮人男性に対し、一緒にいたくないということを直接的に伝えたりするのである。

元が朝鮮人を差別する場面もあった。中沢啓治作「はだしのゲン」(汐文社)第1巻60ページより

この漫画では、元は強さと明るさ、ユーモアを兼ね備え、誰に対しても優しく、分け隔てなく接する少年として描かれている。しかし一方で、このような過ちを犯したりもしているのである。作者自身の実体験に基づいているからだろうが、こういうシーンを読むと、「平和な世の中で平和を訴えることは簡単だが、戦時中に平和を訴えることは難しい」ということを再認識させられる。この1点において、「はだしのゲン」はテレビや新聞の型どおりの戦争報道とは一線を画していると思うし、後世に残すべき作品だと思う。

▼片岡健(かたおか けん)

全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

« 次の記事を読む前の記事を読む »