殺人などの重大事件を起こす少年たちの多くは、幼少期に親から凄絶な虐待やネグレクトを受けている。私は、そういう少年たちを実際に何人か取材してきたが、彼らの実像を正確に伝えるのは難しい。実際に本人と会い、話してみなければわからないような特異なところが色々あるからだ。

そこで、実験的にやってみることにしたのが本企画だ。少年時代に殺人罪で有罪が確定した1人の「元少年」と私がネット上で対話をするという実にシンプルな企画である。このやり方なら、少年犯罪者の素に近い部分を第三者に伝えられるのではないかと考えついたのだ。

その「元少年」をここではAと呼ぶ。本名はもちろん、事件の内容や服役先なども明かせないが、現在も某刑務所で服役している。私はAが裁判中に一度面会し、彼が受刑者となってからは継続的に手紙のやりとりをしてきた。そして今回、この企画を打診したところ、A本人から前向きな返事が得られたため、この「デジタル鹿砦社通信」上で本企画が実現した。

第1回目の今回は、以前に手紙で「これまで人に見捨てられたり、裏切られたりしたことがたくさんあった」と書いていたAに対し、具体的にどういうことがあったのかを手紙で質問し、回答を手紙に書いてもらった。そのAの回答に対し、私が改めて返事をしたためた。今回を含めて3回、こういうやりとりをこの場で行いたいと思っている。

Aの文章は、国語的におかしいところが散見されたが、すべて原文ママで掲載した。そういうところからも彼の実像が窺い知れると思えたからだ。ただし、行替えなどは読みやすいように改めた。読んでくださった方には、忌憚のないご意見を頂けたら幸いだ。

Aから手紙で届いた回答。Aが書いた文字はすべて修正した

◆以下、私の質問に対するAの回答

私は幼少期時代から現在に至るまで様々な人から見捨てられたり、裏切られて来ました。

一番最初に裏切られたのは、実の両親です。私は他の一般的な家庭とは違い、幸せのある家庭ではありませんでした。

私は実父から酷い虐待を受けていました。それが何時頃に始まったのかは、憶えていません。古い記憶では5歳の頃には、もうすでに虐待を受けていました。これが第一の裏切りだと思っています。

そして、実父による虐待に対し、実母は私に適切な手を差し伸してくれませんでした。これが第二の裏切りと同時に心の依り拠に見捨てられた瞬間でした。

実母も実父から虐待を受けるのを恐れたのでしょうが、その保身が幼かった私に取っては大変ショックなものでした。母親という存在も多分に大きいと考えています。

小学校でも担人の先生やクラスメートにも裏切られました。私が小学一年生の頃、担人の女性教員に実父から虐待を受けている事、助けて欲しい旨伝えたところ、私は嘘付き呼ばりにされてしまいました。

私はこの時一番辛い時期でした。勇気を出して助けを求めたのに、担人は両親を学校に呼び出し、私が嘘の話しを周囲に流布し、困っている旨を伝えた。

この時の私は生きた心地がしなかった。面談が終わると私は学校からそのまま家出した。初めての家出だ。とても家には帰れなかった。どんな目に合うかは容易に想像出来る。

しかし、結局は真夜になってこっそりと家に入いり、勉強机やベッドの下に身を隠すのだった。いずれ見つかるのは分かっていたが、無防備で寝ているよりかは身構え・心構えが出来るので、ダメージは半減出来た。私が身と心を分ける解離の術を会得した瞬間でもある。

話しが虐待の方へと脱線してしまったので、元に戻そう。

小学四年生まで上記の事が繰り返された。

小学五年生の時は海外で実母の親戚の家で一人で生活をしていた。最初は母親も一緒だったが、日本に用事が出来て一人で帰国してしまったのだ。

10万円相当のお金とプリペイド携帯だけを私に渡して、「私が戻って来るまで、これで生活しなさい」と

あの時の孤独感と恐怖感は、形容し難い。母親が去って二週間経った頃、シンナーでラリった中年にナイフで脅されて携帯を奪われました。親の声を聴きたくても聴けなくなったのです。

それから約四カ月、母親は戻って来ませんでした。四カ月もの間子供と音信不通になっていたのに、戻って来た時心配は一切していませんでした。

その後、私は日本に戻りました。

日本に戻った私に転機が訪れました。両親が別居する事になったのです。この時の別居に至るまでの一連の出来事は壮絶なものでした。警察までもが介入するに至りました。

とにもかくにも両親は別居しました。私は迷いました。どちらに付いていくべきか、、、。結果としては、母親に付いていく事になりました。私の親権が欲しかったみたいです。しかし、蓋を開けて見れば父親から私の養育費をせしめる為の道具でしかなかったのです。

◆以下、Aに対する私の返事

質問への回答、ありがとう。ここで書く文章は不特定多数の人の目に触れるので、あなたのことをAくんと呼びます。

率直な感想として、僕の質問に対し、Aくんは丁寧に回答してくれているように思いました。

一方で、Aくんの回答は、いくつかの重要なエピソードが曖昧にしか書かれていないようにも思いました。それはたとえば、(1)お父さんから受けた虐待の内容、(2)それを間近で見ていたお母さんの様子、(3)小学校の先生からどのように嘘つき呼ばわりされたのか、(4)両親が別居するまでの一連の出来事がどのように壮絶だったのか――などです。

ただ、そのことを踏まえても、Aくんが自分の経験したことやその時々の思いについて、読む人に伝えようとしている雰囲気は感じられました。

回答と一緒にもらった手紙には、小学6年生以降のことを書くのは精神的な苦痛が大きいので、躊躇しているかのようなことが書いてありましたね。現時点でそのことを書いてもらう必要はありません。

ただ、Aくんの回答の冒頭部分には、〈私は幼少期時代から現在に至るまで様々な人から見捨てられ、裏切られて来ました。一番最初に裏切られたのは、実の両親です〉と書かれています。この記述からすると、Aくんは今回の回答に出てきた実の両親や担人(原文ママ)の先生以外の人達からも見捨てられたり、裏切られてきた経験があるのだと思います。そうであれば、それらの経験も無理のない範囲で書いてもらいたいと思いました。

また、クラスメートにも裏切られたことがあるように書いているのに、クラスメートから裏切られたエピソードが出てきていないので、そのことも書けるなら書いて欲しいと思いました。それを書かないと、予告編だけあって、本編がないような違和感があります。

この記事は不特定多数の人が見られるようにネットで公開しています。そこで、どういうコメントが寄せられるかを確認したうえで、Aくんに次にどういうことを書いてもらうかを改めて検討し、最終的に決定したいと思います。

では、今回は以上です。次からもよろしくお願いします。

追伸.
Aくんの回答には、国語的な誤りが多いように思いました。たとえば、以下の部分は間違いです。

【誤】幼少期時代
【正】幼少期or幼少時代

【誤】手を差し伸してくれませんでした。
【正】手を差し伸べてくれませんでした。

【誤】担人の先生
【正】担任の先生

【誤】嘘付き呼ばり
【正】嘘吐き呼ばわり

【誤】嘘の話し
【正】嘘の話

【誤】どんな目に合うか
【正】どんな目に遭うか

【誤】家に入いり
【正】家に入り

Aくんは、国語辞典は持っていますか? 国語辞典を持っているなら、もっと国語辞典を引くようにしてください。国語辞典を持っていないなら、入手したほうがいいです。

あと、Aくんの文章の書き方は、末尾が「です・ます・でした・ました」などになっている「丁寧体」の文章と、末尾が「だ・だった・された」などになっている「普通体」の文章が混在しています。そういう文章の書き方はおかしいので、ここでは、文章はすべて「丁寧体」に統一してください。

たとえば、「伝えた」「生きた心地がしなかった」「家出した」などは“書き言葉”で書かれていますが、それぞれ「丁寧体」で書くと、「伝えました」「生きた心地がしませんでした」「家出しました」になります。次からこのような書き方にしてください。

〈8月28日追記〉

記事中で、私(片岡健)がA氏の国語的な誤りを指摘していることについて、A氏から以下のような抗議がありました。

私が記事中で国語的な誤りを指摘したのは、私とA氏とのやりとりを全部ありのままに公開したいと考えたからです。A氏を侮辱したり、犯罪者は国語的におかしい独特な書き方をするという印象操作をしたりする意図はありませんでした。しかし、私はA氏の抗議を読み、耳を傾けるべき内容だとも思いました。

A氏への取材や、A氏に取材してわかったことの公表の仕方については、私も悩みながら答えを探しています。読者の方には忌憚のないご意見を頂けましたら幸いです。

――以下、A氏の抗議――

取材の話ついでに、国語的な誤りを指摘したりしていますが、私はエアコンもない暑い環境の中、夜遅くまで少しでも多くの人に私の気持ちが伝わるように頑張って書いているつもりです。にも関わらず、公的な場でああいう些細な誤字脱字で私を侮辱するような書き込みは、大変遺憾に感じます。

PCで自動変換出来る健さんと違い、私は手書きです。多少のミスは微調整してくれてもいいのではないかと考えます。実際、行間は調整したのでしょう。読みやすさを求めたのなら、誤字脱字も調整しても良かったはずです。

私が書いた文字も修正しているのだから、読者には分からない。そこを突いて来るところ見ると悪意を感じます。それとも犯罪者は、国語的におかしい独特な書き方をするという印象操作がしたかったのか、理由は分かりませんが。私は公的なあの場での誤解を招く書き込みについては容認出来かねます。そういった事情をちゃんと説明し、誤解を解消して欲しい。

ちなみに私は中学生の頃から漢字の勉強に力を入れており、検定を受けて合格したりもしましたが、それでも多くの誤字脱字は起きるものです。当所に於いても、改めて漢字の勉強を始めているところです。

文章の書き方は丁寧体に統一します。

――以上、A氏の抗議――

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて―』(山田浩二=著/片岡健=編/KATAOKA 2019年6月 Kindle版)。

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和歌山県紀の川市で4年前、小学5年生の男の子・森田都史くん(当時11)が殺害された事件で、7月16日、被告人の中村桜洲(26)に対する2度目の判決が大阪高裁で宣告される。

裁判員裁判だった和歌山地裁の第一審では、中村は2017年3月、懲役16年の判決を受けている。この時には「刑が軽すぎる!」と批判の声も上がったが、中村は実際、どんな人物なのか。

大阪拘置所で面会したところ、中村は、私がこれまでに会ったどの殺人犯とも異なるタイプだった。

◆逮捕時の報道とは、別人のような風貌に

中村が収容されている大阪拘置所

逮捕された際、警察車両で連行される中村の画像は今もインターネット上に多数流布している。その画像では、中村は坊主頭で、怒ったように頬を膨らませ、いかにも異様な雰囲気だ。

今年2月21日、大阪拘置所の面会室で私が向かい合った中村は、この逮捕当初の画像とは、別人のような風貌になっていた。髪は長く伸び、黒縁めがねの奥の両目はあどけない。グレーのスウェットのズボンの中に、青いトレーナーのスソを入れて着たスタイルは小学生のようだった。

なんとも幼い感じだな・・・それが、私が中村に抱いた第一印象だった。

◆面会室では最初、ニコニコしていたが・・・

第一審判決やそれまでの報道によると、和歌山県紀の川市で暮らしていた中村は、2015年2月5日、自宅近くの空き地で森田くんをナタのような刃物で刺殺。逮捕後、動機について「からかわれたからやった」と供述していたが、無職でひきこもりの中村は元々、自宅の庭でゴーグルをかけ、木刀を振り回すなどの奇行癖があったという。

案の定、裁判では精神鑑定が争点に。裁判員裁判だった和歌山地裁の第一審では、精神鑑定の結果に基づいて、中村は犯行時に統合失調症か、被害妄想による心神耗弱状態で責任能力が限定的だったと判断された。そのために量刑が懲役16年(検察の求刑は懲役25年)にとどまったのだ。

面会してみると、中村が幼いのは見た目だけではなかった。何がうれしいのか、刑務官と一緒に面会室に現れた時から、ずっとニコニコしているのだ。

しかし、私が「逮捕された時、なぜ怒ったような表情をしていたのですか」と質問すると、中村は態度を豹変させた。「あれは、怒っていたんじゃないです」と言い、急に不機嫌そうな表情になったのだ。

「怒っていたのではないなら、なぜ頬を膨らませていたのですか?」と私が重ねて質しても、中村は何も答えず、右手の人差し指で頬をポリポリと掻き始めた。そしてうつむくと、私のほうを見ずに「なんとなくです」とだけ言った。

◆中身も幼い

それ以降は私が何を聞いても、中村は無言で、右手の人差し指で右ヒザの上に何かメモするような仕草をしつつ、私のほうを一切見ようとしなかった。そして結局、刑務官に「もういいです」といい、面会制限時間がくるよりはるか前に面会室を出て行ったのだった。

精神障害のせいもあるのだろうが、中村は見た目だけでなく、中身も幼いように感じられた。もしかすると、小5だった被害者の森田くんと精神年齢は大差なかったのではないか。そんな気すらした。

大阪高裁の控訴審では、高裁が職権で行った精神鑑定で、中村が犯行時に「発達障害の一種で軽度の自閉症スペクトラム」だったとする新たな鑑定結果が出ており、量刑が第一審より重くなる可能性がある。

ただ、検察の求刑は懲役25年だから、たとえ控訴審判決で量刑が重くなっても、中村はいずれ社会復帰する可能性が高い。その時のために、どんな量刑になろうとも、中村には獄中で精神障害をしっかり治してもらいたい。

7月16日、中村の判決公判がある大阪高裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて』(山田浩二=著/片岡健=編/ Kindle版)。

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発生当初に大々的に報道された事件について、のちにわかった重大な事実が十分に報じられず、世間に知られずじまいになっている例は多い。12年近く前に起きた坂出3人殺害事件もそういうことがあった事件の1つだ。

◆報道が過熱し、被害者の父親を犯人視したメディアも・・・

2007年11月15日の夜、香川県坂出市で両親と暮らす5歳と3歳の姉妹が、隣で暮らす58歳の祖母A子さん方に泊まりに行き、翌朝までに3人揃って失踪した。A子さん方では、寝室のカーペットがL字に切り取られ、その下の畳には血が染み込んでいた。

警察は3人が犯罪に巻き込まれたとみて、捜査を展開した。マスコミも現地で熾烈な取材合戦を繰り広げた。そんな中、姉妹の父親がマスコミから確たる根拠もなく犯人視される報道被害も発生。若手女優がブログで男性を犯人扱いするようなことを書き、芸能活動の休止に追い込まれたりもした。

そんな事件で、容疑者として検挙されたのは、川崎政則という61歳の男だった。川崎は、A子さんの妹B子さんの夫だったが、B子さんが川崎に内緒でA子さんに繰り返し多額の金を貸したため、川崎家も借金生活に陥り、家庭が崩壊。さらに事件の少し前、B子さんは肺がんで亡くなっていた。そんな事情から、A子さんを恨んでいた川崎は、事件の日の深夜、A子さん宅に侵入し、持参した包丁で就寝中のA子さんを刺殺。さらに泊りに来ていた小さな姉妹も刺し殺したのだ。

川崎は3人を殺害後、車で遺体を運び出し、坂出港近くの空き地の土中に埋めていた。

被害者3人の遺体が埋められていた空き地

◆娘と曽孫2人を殺害された男性が裁判で情状証人に

川崎はその後、2009年に高松高裁で死刑判決を受け、控訴、上告も棄却されて2012年に死刑判決が確定した。そして2014年に収容先の大阪拘置所で死刑を執行された。この間、発生当初は大きな注目を集めた事件も、いつしか人々の記憶から消え去っていった。

私がこの事件を調べ直し、ある特異な出来事が起きていたのに気づいたのは、2017年のことだった。川崎に対する高松高裁の判決によると、被害者のA子さんの父親が控訴審の公判に弁護側の情状証人として出廷し、「寛大な処罰」を求めていたというのだ。これはつまり、川崎の死刑が回避されることを求めたに他ならない。

A子さんの父親は、A子さんと共に川崎に殺害された小さな姉妹の曽祖父でもある。親族を3人も殺された犯罪被害者遺族が、犯人の裁判で死刑回避を求めるというのは、極めて異例の出来事であるのは間違いないだろう。

そこで私は、A子さんの父親本人に話を聞いてみたいと思い、川崎の弁護人を探し当て、取材の仲介を依頼した。だが、複数いた弁護人の中でA子さんの父親と連絡を取り合っていた者はすでに亡くなっており、弁護人もA子さんの父親と連絡を取れない状態になっているとのことだった。A子さんの父親は、2017年の時点で生きていれば相当高齢のはずだから、そもそも存命かどうかも微妙だったが、こうして結局、私はA子さんの父親と会えなかったわけだ。

◆異例の出来事に関する報道は一切見当たらず

判決に示された事実関係を見ていくと、A子さんの父親は事件前、A子さんのことを批判する川崎を逆にしかったこともあったという。また、A子さんの父親から見ると、川崎は娘や曽孫たちを殺した犯人である一方で、殺された娘とは別の娘(B子さん)の夫でもあり、孫たちの父親でもあった。そのような複数の事情が重なり合い、川崎の死刑回避を求めるに至ったのではないかと私は推測したが・・・今となっては、真相を追及するのは難しい。

私は、新聞社各社の過去記事のデータベースを調べたが、A子さんの父親が控訴審の公判で川崎の死刑回避を求めたことを報じた記事は一切見当たらなかった。新聞各社がこの事実を知りながら、あえて報道しなかったのか、裁判を取材しておらず、この事実に気づかなかったのかはわからない。いずれにせよ、マスコミの事件報道は必ずしも事件の全体象や核心を伝えたものではないことを示す顕著な例ではあるだろう。

殺人事件の現場となったA子さん方。奥は、殺された姉妹の家

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。最新作は編著「さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて」(Kindle)。

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』7月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

刑務所の老人ホーム化が進んでいると言われる。ある報道によると、20年前に比べ、65歳以上の検挙者数は4倍以上となり、今や全国の刑務所の被収容者は5人に1人が60歳以上なのだという。

かくいう私もそういう現実に直面し、複雑な思いにとらわれたことがある。今から40年前に起きた「ロボトミー殺人事件」の犯人の“その後”を取材した時のことだ。

◆ロボトミー手術により人生が暗転

ロボトミー手術とは、昔行われていた精神外科の手術で、日本では主に統合失調症の患者に行われてきた。しかし、脳の前頭葉を切除するなど危険性が高く、てんかんや無気力などの重大な副作用を引き起こすため、現在は行われなくなっている。

桜庭章司が都内の病院で、このロボトミー手術を無断で施されたのは1964年11月のことだった。当時30代半ばだった桜庭は、著述業者として活躍していた男だが、粗暴な性格で、何度も暴力事件を起こしていたという。そして精神鑑定の結果、措置入院することになったのだが、病院が当初行った精神療法は効果が上がらなかった。そのため、病院側は桜庭の母親の同意を得て、ロボトミー手術を行ったのだという。

ところが、手術以降、桜庭は原稿の執筆ができない状態に陥った。そればかりか、手術の後遺症により通常の社会生活すら営めなくなり、職も住まいも転々とし、人生に絶望するに至る。そして1979年9月、執刀医を殺害して自分も死のうと決意し、執刀医の自宅に押し入った。しかし、執刀医は不在だったため、その妻と義母を刺殺。裁判では、無期懲役判決を受けたのだった。

◆文字の大半が判読不能の手紙

私がそんな桜庭に関心を抱いたのは、2013年の夏頃だ。昔の事件について調べていたところ、宮城刑務所で服役中の桜庭が特異な国家賠償請求訴訟を起こしていたのを知ったのだ。

「体調不良で生きていても仕方がないにも関わらず、自殺する権利が認められずに精神的苦痛を被った」

桜庭はそう訴え、国に160万円の支払いなどを求めているとのことだった。

そこで、私は桜庭の現状を知りたく思い、取材依頼の手紙を出したのだが、返事はいっこうに届かなかった。だが、それから2年ほど過ぎた2015年の暮れ、別の取材で宮城刑務所を訪ねた折、売店から桜庭に封筒や便箋を差し入れたところ、意外な反応があった。桜庭から文字の大半が判読不能の手紙が届いたのだ。

文字の大半が判読不能な桜庭の手紙

便せん7枚の手紙から、かろうじて読めた文字をここに書き起こしてみよう。

「片岡健様」
「拝復」
「暗号的ナ文字トナリ」
「宜シク お願イイタシマス」
「お手紙ニアリ」
「以前ニ一度」
「正シクハ二度」
「片岡様カラノ 二回ニワタリ」

このようにかろうじて読める言葉だけを見ても、桜庭の手紙は伝えたいことがほとんどわからない。高齢に加え、おそらくロボトミー手術の後遺症も悪化したのだろう。この時点で80代後半の年齢になっていた桜庭は、生きているだけでも大変なほどの体調不良で、だからこそ自殺を希望するのだろうと思われた。

桜庭が服役していた宮城刑務所

◆返送されてきた年賀状

私は、その後も何度か桜庭に手紙を出してみたが、結局、2度と返事は届かなかった。そして2017年の正月明け、私が桜庭に出した年賀状が「あて所に尋ねあたりません」と返送されてきた。これはつまり、桜庭はもう宮城刑務所にいない、ということだ。

桜庭は、医療刑務所などに移されたのだろうか。それとも、ついに獄中で人生を終えたのだろうか。いずれにしても、老人ホーム化した全国各地の刑務所でも、桜庭ほど悲惨な老後を過ごした受刑者はそんなに多くはいないだろう。

桜庭とは直接対話できなかったが、これまで私が取材した様々な殺人犯の中でも、そういう事情から桜庭はとくに印象深い人物の1人だ。

なお、例の国家賠償請求訴訟は桜庭の敗訴に終わっている。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

近年、寝屋川中1男女殺害事件の山田浩二(49)ほど強い批判にさらされた殺人犯は他にいないだろう。2015年8月の事件発生以来、そうなるのも当然の情報が膨大に報道されてきたためだ。

まず何より、被害者の男子と女子は何の罪もない子どもである。しかも、駐車場と竹林で見つかった2人の遺体は、いずれも顔面に何重にも粘着テープが巻かれ、手もテープで縛られた無残な状態だった。犯行状況は不明だが、残酷な殺され方を推測せざるをえないだろう。

しかも山田には、過去にも男子中高生らをわいせつ目的で監禁するなどした前科があり、事件の10カ月前に出所したばかりだった。昨年11~12月に大阪地裁であった裁判員裁判では、法廷で遺族に土下座して謝罪したが、男子については、自分の目の前で病死したように弁明し、無罪を求めた。また、女子については、手で口を押えたら、手が首にずれて亡くなったかのように主張した。結果、判決ではそれらの主張が退けられ、「生命軽視が著しい」と死刑を宣告されたが、この結果に疑問を呈するような報道は皆無であった。

かくいう私も山田に対する死刑判決にとくに異論はない。だが、一方で私は、この山田を「悪人」だとは思えないでいる。本人と面会したり、手紙のやりとりをしたりした結果、悪人というより、善悪の基準がずれた人間だと評したほうが適切だと思えたためだ。

山田が収容されている大阪拘置所

◆死刑判決についても他人事のようだった

今年2月、大阪拘置所の面会室。アクリル板越しに死刑を宣告された時の思いを訪ねると、山田は「あんまりピンとこないですね。自分より弁護士のほうが悔しそうでした」と他人事のように言った。死刑になるのが怖くないのかと尋ねても、「今はまだわかんないですね。あえて考えないようにしているんで」とやはり他人事のようだった。

山田の法廷での土下座については、複数のメディアが「死刑を免れるためのパフォーマンス」であるかのように報じていた。しかし、私が本人と会って話した印象では、山田は生命への執着がむしろ希薄な人物であるように思えた。

実際、山田は5月18日、突如として控訴を取り下げ、自ら死刑を確定させた。本人曰く、拘置所に借りたボールペンを返すのが遅れ、刑務官とトラブルになった勢いで控訴を取り下げたとのことだが、死刑を確定させる事情としてはお粗末すぎる。それも山田が自分自身の生命を大切にしていなかったことを裏づけている。

◆死刑確定後に手記で明かした本音

私の手元には、そんな山田が死刑確定直後、獄中で便箋8枚に綴った手記がある。それには、控訴を取り下げる原因となった刑務官とのトラブルの詳細や、短絡的に死刑を確定させたことへの後悔などが詳細に綴られている。それを見ても、私は山田が決して悪人でなく、善悪の基準がずれた人物なのだろうという思いを強くした。

何しろ、山田はこの手記において、自分のことを悪く報道したマスコミについて、1つ1つ社名を挙げながら怒りや怨みを綴り、さらに「生きたい」「死にたくない」などと現在の本音をまったく隠さずに書いている。山田の本質が「悪人」なら、もっと計算し、好印象になりそうなことを書くだろう。

山田の手記

山田はこの手記を私に送り届けた際、「全文を記事にして下さい」との希望を伝えてきたので、私は手記の全文を電子書籍化し、Amazonで公開した(タイトルは『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて―』)。この手記が社会の人々の目に触れて、山田が得することは何もないだろうし、読んだ人が良い気持ちになる内容とも思い難い。

しかし、手記は、山田浩二という特異な殺人犯の実像が窺い知れる貴重な資料だと思う。関心のある方は、ご一読頂きたい。

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去る5月30日、中日新聞のホームページで次のような記事が配信された。

滋賀・呼吸器事件、調書作文か
https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019053002000078.html

この記事は、冤罪被害者・西山美香さん(39)の再審が近く始まる「湖東記念病院事件」について、報じたものだ。中日新聞本紙では、同日の朝刊一面に掲載されたという。この報道をうけ、私が調べを進めたところ、この「調書作文」の疑惑についても、あの滋賀県警の「問題刑事」が元凶だった疑いが浮かび上がってきた。

◆中日新聞では、疑惑の検察官が実名で登場していたが・・・

確定判決によると、西山さんは2003年、看護助手として勤務していた滋賀県の湖東記念病院で、寝たきりの男性入院患者の人工呼吸器のチューブを外し、殺害したとされ、懲役12年が確定し、服役した。しかし、弁護団の調査により、男性入院患者は「致死性不整脈」で亡くなった可能性が高いと判明し、今年3月に最高裁で再審開始が決定していた。

記事などによると、男性入院患者の人工呼吸器は、チューブが外れて1分が経つとアラームが鳴るが、西山さんの供述調書では、チューブを外してから1分を「数え」、1分が経過する前にアラームの消音ボタンを押し、誰にも気づかれずに犯行を完遂したように記載されていた。しかし、軽度の知的障害と発達障害のある西山さんは、「私は六十まで数えられない」と同紙と弁護団に告白したという。

西山さんは「私は頭の中では、二十までしか数えられません。絶対自分からは、言っていません。裁判でも、きちんと言います」とも語っているそうで、この主張が事実なら、たしかに調書は刑事や検察官による「作文」だとみるほかない。検察官調書を作成した早川幸延検事(現福島地検検事正)は同紙の取材に対し、地検広報を通じ、「コメントはできません」と回答したという。

では、この調書に刑事の関与はなかったのか。同紙の報道をうけ、私が調べてみたところ、またしても名前が浮かび上がってきたのが、あの滋賀県警の山本誠刑事だ。

当欄で過去にもお伝えした通り、山本刑事といえば、脅迫や偽計を駆使した取り調べにより、西山さんを虚偽の自白に追い込んだ疑いがあるが、それだけではない。窃盗の容疑で誤認逮捕した無実の男性に対して取り調べ中に暴行し、特別公務員暴行陵虐容疑で書類送検された余罪もある問題刑事だ。

◆「余罪」もある山本刑事

ここに掲載した調書は、その山本刑事が平成16年(2004年)7月22日に作成したした西山さんの警察官調書だ。このうち、次の部分を見て頂きたい(引用者注 ■は、原本では、男性入院患者の名前が書かれていた部分)。

山本刑事が作成した問題の調書。黒塗りは、男性入院患者の名前が書かれていた部分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■さんが死んでいく様子を見届けながら
頭の中で次にアラームが鳴り出す
1分まで時間

1、2、3、4
と数え続け、1分前になる前に消音ボタンを
押して、これを2回繰り返し、■さんが
大きく目を
ギョロッ
と見開いた状態で、白目をむき(後略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

西山さんが頭の中で「六十」まで数えられないというのが本当なら、この調書は、山本刑事が作文したことを疑わざるを得ない内容だ。裁判記録によると、中日新聞の記事に出てきた早川検事の検察官調書は、作成日付が平成16年(2004年)7月25日で、山本刑事の作成した警察官調書より3日遅い。西山さんの供述内容が「作文」だった場合、原作者は山本刑事である疑いが濃厚だ。

山本刑事の悪事については、当欄ではすでに繰り返し伝えているので、知らない人は後掲の関連記事をご覧頂きたい。私は、西山さんの再審では、無罪という公正な結果が出るだけでなく、山本刑事の疑惑もきちんと解明されて欲しいと改めて思わされた。

西山さんに対する山本刑事の取り調べが行われた大津警察署

なお、6月16日(日)には、午後2時より大阪・大国町の「社会福祉法人ピースクラブ」の4階で、西山美香さんを囲む会が開かれ、主任弁護人の井戸謙一弁護士も講演を行うという。詳細は、以下のURLで。
https://twitter.com/hanamama58/status/1137904900724051968

6月16日(日)午後2時より大阪・大国町の「社会福祉法人ピースクラブ」にて冤罪被害者西山美香さん囲む会を開催。詳細はこの画像をクリック。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。

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どんな大事件も年月の経過と共に人々の記憶から風化する。それを私が強く感じたのが、昭和の有名冤罪の1つ、因島毒まんじゅう事件を取材した時だ。高度成長期、瀬戸内海の風光明媚な島で起きた毒殺事件として大きな注目を集めた事件だったのだが・・・。

「そういえば昔、この島でそんな事件があったねえ。でも、私はあの頃、小さかったけえ、詳しいことは知らんのんよ。もっと年増の人に聞いてみたほうがええかもね」

2015年3月、事件の舞台である因島(広島県)で、私は島の年配女性にそう言われた。「失礼ですが、おいくつですか?」と尋ねると、その女性は「65よ」と笑ったのだった。

有名冤罪の舞台になった因島。普段は風光明媚な島だ

◆家族5人の毒殺を自供しながら裁判で無罪に

因島で暮らす山本(仮名)という家族の家で5人の親族が「不審死」した疑惑が浮上したのは1961年1月のこと。捜査の結果、この家の次男・山本祥雄(当時31、仮名)がまんじゅうに毒を仕込み、家族を毒殺した容疑で広島県警に検挙された。そして幸男は取り調べに対し、5人全員を毒まんじゅうで殺害したと自供した。

もっとも、起訴に至ったのは結局、4歳の姪に対する殺人容疑だけ。さらに祥雄は裁判で、「自供したのは警察に拷問を受けたため」と無実を主張した。結果、祥雄は一審で懲役15年の判決を受けたが、1974年に二審の広島高裁で逆転無罪を宣告された。

私は裁判の記録を確認したが、たしかに物証は乏しく、そもそも本当に毒殺事件が存在したのかも疑わしいように思えた。肝心の祥雄の自白内容も曖昧だったから、無罪は妥当な結果だった。

だが、現地を訪ねてみると、冒頭の女性をはじめ、年配の島民も事件自体をほとんど知らないのだ。凶器のまんじゅうの購入先とされる店の経営者も「当時はうちも報道被害を受けたんで」と言葉少なに事件を語っただけだった。

犯行に使われたとされる「まんじゅう」と同じ商品は今も売られている(写真は一部修正しました)

◆日本中どこでも「毒まんじゅうの島」と言われた

そんな中、「そういう事件、あったねえ」と唯一、具体的な話を聞かせてくれたのが、さびれた日用品店の店先で話し込んでいた2人の老女だった。

「あの事件があった頃は日本中どこに行っても、因島から来たと言うと、『ああ、毒まんじゅうの島ね』と言われたんよ(笑)」(老女A)

懐かしそうに語る2人の老女はいずれも90歳。小学校からの同級生なのだという。

「山本さんの家は、今はうまくいっとんじゃないかね。働き者のムコさんをもろうてね。祥雄さんはもう亡くなったと思うけど、奥さんはまだ生きとったと思うよ」(老女B)

このように祥雄ら山本家の内部事情にも詳しい老女たち。だが、祥雄が裁判で無罪判決を受けたことについては、「さあ、どうだったんかねえ」とまるで知らない様子だった。

◆地元の人たちの記憶からも事件は風化

もしかして、祥雄は今も島では、「身内殺し」の汚名を着せられたままなのだろうか。

「どうなんじゃろうねえ。山本さんらはムコさんをもらう時に事件の話もしたんかねえ。そういう話を聞いたような気もするけど、私らくらいの年齢になると、聞いたことはそのまま忘れるんよ」(老女A)

地元でも忘れ去られた冤罪事件。事件が起きた当時、元号は昭和だったが、その次の平成も終わり、時代は令和へと移る。山本家の人々にとって、不幸な冤罪が過去のものになっていることを願う。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。新刊『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)が発売中。

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現在、日本の都市部では、街中の至るところに防犯カメラが設置されている。このような状態を「監視社会化が進んでいる」として、嫌う人は少なくない。

だが、私は正直、監視社会化が進む現在の状況をいちがいに否定できないでいる。過去に様々な殺人事件を取材してきた中、「もしも、あの場所に防犯カメラが設置されていれば、防げたのでは……」と思うような事件がいくつも存在したからだ。
ここで紹介する、16歳の少女が殺害された事件もその1つだ。

24時間営業の店が色々ある現場界隈。地下道は「死角」だったようだ

この非常ボタンは事件当時も存在したが、悲劇を防げなかった

◆事件から19年、犯人はいまだ捕まらず

事件は2000年1月20日、広島市の中心部からそう離れていない、西白島町で起きた。現場は、国道下を通る、地下道であった。

被害者の少女は、この日の深夜、タクシーで自宅近くまで帰り、コンビニで買い物をした後、帰宅しようと午前3時50分頃、地下道を利用したとみられている。そしてこの時、何者かに刃物で刺され、生命を奪われたのだ。

現場の地下道周辺は、少女が買い物をしたコンビニのほか、ファミレスやファーストフードショップが24時間営業している。そんな中、地下道はまさに「死角」になっていたようだ。

事件から今年1月で19年を迎えたが、犯人はいまだ捕まらず、未解決。広島県警はホームページで情報提供を呼びかけ続けている。

事件後、現場の地下道に設置された防犯カメラ

◆事件後、市は11の地下道に防犯カメラを設置

もっとも、そんな事件の現場を訪ねると、今は地下道の数カ所に、存在感のある防犯カメラが設置され、まさに通行人たちを睨みつけているような様相だ。そこで、広島市に問い合わせてみたところ、この事件が起きたのち、この地下道を含む市内の11の地下道に防犯カメラを設置したのだという。

そのおかげか、この事件が起きてから20年近くになるが、広島市内の地下道で新たに重大な事件が起きたという話は聞かない。それはすなわち、防犯カメラが市民の安全に寄与しているということだ。

そして裏返せば、この事件が起きた2000年1月の時点で、現場の地下道に今のように防犯カメラが設置されていれば、16歳の少女は生命を奪われずに済んだかもしれないということだ。

彼女が今も生きていれば、30代半ばという年齢だ。結婚し、子どもにも恵まれ、幸せな家庭を築いていたかもしれない。

殺人事件を色々取材していると、こういうケースにめぐりあうことは少なくない。だから、私は正直、監視社会化を否定できないでいる。

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人はいつ、殺人事件の被害者になってもおかしくない。殺人事件を取材していて、そんなふうに思うことがある。2008年に大阪で起きたDDハウス殺人事件の現場を訪ねた時もそうだった。

◆共用トイレに潜んでいた殺人犯

大阪でも屈指の歓楽街である梅田。その一角にある「DDハウス」は、飲食店のほか、ネットカフェやカラオケ、スポーツジムが入った商業ビルだ。この事件の現場は、その2階の共用トイレだった。

事件が起きたのは、2000年2月1日午後10時過ぎ。2階のショットバーで飲み会をしていた男女のグループのうち、30歳の男性会社員Aさんが店を出て、共用トイレに入った時だった。

「金出せ。早く出せ」

トイレに潜んでいた中年男が刃物を突きつけながら、金を出すように迫ってきたのだ。

Aさんがこれに応じなかったところ、中年男はAさんの胸に刃物を数回に渡り、突き立ててきた――。

Aさんはなんとか逃げ出し、飲み会をしていたショットバーまで戻った。しかし、店内で力尽き、亡くなったのだった。

梅田のDDハウス。事件は2階の共用トイレで起きた

◆犯人は死刑に

その1週間後、警察に出頭し、犯行を告白したのは、加賀山領治、当時58歳。事件の9年前に石川県の会社を辞めて以来、東京や神戸、大阪などで定職に就かず、元交際相手の女性や実母に金を無心して暮らしていたとされる。事件の日も家賃を払えないほど金に困り、酔客の多いDDハウスの共用トイレで、強盗をしようと潜んでいたという。

そこに運悪く現れたAさんが犠牲になったのだ。

実を言うと加賀山はこの8年前にも24歳の中国人女性Bさんを金目当てに深夜の路上で襲い、刺殺する事件を起こしていた。Aさん殺害の容疑で逮捕された際、Bさんの殺害現場に残されたDNAと加賀山のDNAの型が一致することが判明。こうしてBさん殺害の容疑でも逮捕された加賀山は、裁判では死刑判決を受け、2013年に63歳で死刑執行されたのだ。

◆現場トイレの手洗い場には防犯用の非常ボタン

トイレの入り口上部には非常ランプ

私が現場のDDハウスを訪ねたのは、2016年の冬だった。2階は多くの飲食店が入っており、こんな安全そうな場所のトイレに殺人犯が潜んでいるとは想像しづらかった。

トイレの手洗い場には防犯用の非常ボタン、トイレ入口の上部には赤い非常ランプが設置されており、防犯意識の高さが窺えたが、これらはおそらく事件後に設けられたものだろう。飲み会中、トイレに行った際に突然刃物で刺されたAさんは、こんな場所で殺人犯により自分の生命が奪われるとは、夢にも思わなかったろう。

実を言うと、私は大阪に出張した際、このDDハウスの地下にあるネットカフェを利用することがある。それだけになおさら、この事件は他人事とは思えなかった。

トイレの手洗い場には防犯用の非常ボタン

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

〈片岡さん・・・私は死ぬまで、ココを出られませんヨ(本当に。)よわりましたです・・・。〉

今年3月、小松武史(52)から届いた手紙には、そんな弱気な言葉が綴られていた。獄中生活も20年近くになるから、精神的に落ち込むこともあるようだ。

事件が起きたのは1999年の10月だった。桶川市の女子大生・猪野詩織さん(当時21)が元交際相手の風俗店経営者・小松和人(同27)や配下の男たちから凄絶なストーカー被害を受けたうえ、JR桶川駅前で和人の部下の久保田祥史(同34)に刺殺された。

警察捜査は後手後手に回り、首謀者と思われていた和人が逃亡先の北海道で自殺。その後、「主犯」として逮捕されたのが、和人の兄である武史だった。

武史は消防隊員として働きながら、副業で和人の風俗店経営を手伝っていたとされる。裁判では、「弟・和人の意向を受け、久保田に猪野さんの殺害を依頼した」と認定され、無期懲役判決を受けた。そして現在も千葉刑務所で服役中だ。

だが、実を言うと、武史は逮捕されて以来、一貫して冤罪を訴え続けており、実は現在も再審請求を準備中だ。私が6年前、武史と手紙のやりとりを始めたのも、冤罪主張の当否を検証するためだった。

小松武史が服役している千葉刑務所

◆「弟思い」とみられていたが・・・

〈私は、かくすような事は、何もないので、ザックバランに何でも書いて下さい。どのような事にも答えたいと思っております〉

最初に武史から届いた手紙には、そう綴られていたが、実際、武史は聞かれたことに何でもよく答えた。そして意外な真相を口にした。

〈私と弟の関係ですが(略)私は当時より(前妻も)弟が大嫌いですし、死んでも私の恨み憎さは、まだ半分あります!〉

武史は、弟思いゆえ、和人を振った猪野さんの殺害を久保田に依頼したと考えられてきた。しかし、実際は和人が嫌いだったというのだ。

◆怒りのエネルギーで生きてきた

武史によると、実行犯の久保田は、本当は武史ではなく和人の意向をうけ、猪野さんを襲ったという。だが、久保田は和人に良くしてもらっており、反対に武史を嫌っていたため、「殺害は武史の依頼だった」と虚偽を供述。そのせいで冤罪に貶められたというのだ。

武史は手紙で、その怨みも連綿と綴ってきたこと。

〈全てを失い、冤罪とかゆうレベルではないと思いましたし、怒りを通りこし、当然、当時は生きていたくないと毎日思っていましたが…不名誉なまま終れないと考え、怒りのエネルギーで、今日まで生きて来てます〉

今年10月で桶川ストーカー殺人事件が発生して20年になる。ずいぶん長い年月が過ぎたが、事件はまだ多くの人が記憶しているはずだ。武史が再審請求に動くようなら、その動向はまた当欄でお伝えしたい。

猪野さんが刺殺された桶川駅前の現場

▼片岡健(かたおか けん)
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