今年7月、最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定した鳥取連続不審死事件の上田美由紀死刑囚。捜査段階から一貫して無実を訴えてきたが、その有罪認定が妥当であることは当連載で報告してきた通りだ。

上田死刑囚はすでに死刑場のある広島拘置所に移送されており、今後は死刑執行まで同拘置所で過ごすことになる。だが、本人への取材を重ねてきた私は、上田死刑囚が今後、死刑執行を免れるために再審請求を繰り返すことを確信している。

当連載では、上田死刑囚がどんな人物で、本当は一体何をやったのかについて、引き続き取材結果を報告していく。私はそのことにより、死刑制度の見過ごされてきた問題も浮き彫りにできると考えている。

上田死刑囚が逮捕前に暮らしていた家は取り壊されて畑に……

◆最初の印象は「むしろ弱々しい感じ」

私は当連載の第1回で、松江刑務所で裁判中の上田死刑囚と初めて面会した際、「人当たりのいい人物」のように思えたと書いた。

というのも、報道では、巨躯で化粧の濃い怪人物であるような写真が流布していた上田死刑囚だが、実際に会ってみると、肥満体型ではあるものの、身長は150センチあるかないかというほど小柄で、むしろ弱々しい感じだった。男たちを次々に騙し、貢がせ、殺害した疑惑は本当なのだろうかと疑問を抱かせる雰囲気を醸し出しているのである。

実際、私だけではなく他の取材関係者の中にも上田死刑囚について、「実際に会ってみると、悪い人間には思えなかった」とか、「むしろいい人に思えた」とか言う者は複数いた。それもまた上田死刑囚なのである。

◆最初はとにかく人を褒めるが……

面会や手紙のやりとりをするようになった最初のうち、上田死刑囚はとにかく人のことをよく褒めていた。

まず、私に対しても、上田死刑囚は会うたび、手紙のやりとりをするたびにあれこれと褒めてくれた。たとえば、過去に書いた記事のコピーを差し入れると、「片岡さんが書いた記事はどっしりきます」などと言い、「片岡さんには何でも話せそうに思います」「片岡さんと会えて本当に良かったです」などと誉め言葉を並べ立てた。

このように臆面もなく褒められると、お世辞だと思っても悪い気はしないものだ。また、上田死刑囚は勾留されている刑務所の職員、一審の弁護人ら私以外の周囲の人物についても、「いつもよくしてくれている」「自分のために本当にがんばってくれた」などと感謝するようなことをよく言った。私は正直、当初は上田死刑囚のそういうところにも好印象を抱いた。

さらに上田死刑囚は「自分のところには、差し入れてもらった本がたくさんある。それを片岡さんに送るから、誰か取材している収容者の人に差し入れてあげて欲しい」「片岡さんには友人たちに会ってもらおうと思っています。友人たちもマスコミが嘘ばかり書いてひどいから、本当のことを話したいと言っています」などということを口にした。

そういうことについても、一体どこまで本当なのかと思いつつ、悪い印象は抱かなかった。しかし交流を重ねるうち、上田死刑囚は次第に「本当の素顔」をあらわにしてきたのである。

◆最初に感じたストレス

私が上田死刑囚について、最初にストレスを感じたのは、取材関係者の悪口をよく言うことに関してだ。上田死刑囚は疑惑が表面化した当初、マスコミに散々悪く書き立てられていた。それゆえに取材関係者のことを悪く言うこと自体は仕方がない。私がいやだったのは、上田死刑囚が私を褒める際、他の取材関係者の名前を挙げ、いちいち悪く言っていたことだ。

「××さんや〇〇さんとも会いましたが、私は信頼なんてできませんでした」
「××さんや〇〇さんの記事は嘘が多いです」
「××さんや〇〇さんより片岡さんは立派な方だと思います」

私も人間だから、同業者と比較されながら自分のことを褒められ、当初は悪い気はしなかった。しかし、それが延々と続くうち、「同業者をけなせば、喜ぶ人間」と思われているのではないかと感じるようになった。

しかも上田死刑囚は人のことを悪く言う一方で、上記のような「本を送る」とか「友人たちに会ってもらう」などという自分から言い出した話がまったく実現しなかった。そして私が「あの話はどうなったのか」と尋ねると、あれやこれやと言い訳して、はぐらかす。

そんな上田死刑囚に対し、私はストレスを蓄積していった。

◆被害者のことまで貶める

このように交流を続けるうち、人の悪口をよく言うようになった上田死刑囚だが、私がとくに印象に残っているのが被害者のことも悪く言っていたことだ。

「あのスナックには絶対に行かないでください。あそこの人間は私について、嘘ばかり言うからです」

上田死刑囚は私に対し、逮捕前にホステスとして勤めていたスナックのことをそう言った。マスコミに「デブ専スナック」と揶揄されたこのスナックは上田死刑囚の疑惑が表面化した際、マスコミの取材がかなり多く入っており、この店の経営者らの話に基づいて上田死刑囚が客の男性たちを次々に篭絡していたような話が報道されていた。それゆえに上田死刑囚は私に対し、このスナックで取材させたくないと考えたのだろう。

しかし実をいうと、上田死刑囚は逮捕前、この店の女性経営者の家にも泥棒に入り、現金約35万円などを盗んでいたことが明らかになっている。しかもそのことについては、上田死刑囚本人も裁判で容疑を認めているのである。

どうも上田死刑囚は、私がそのことを知らないと思っていたようなフシもあるのだが、自分に不都合なことを隠すためなら、被害者のことまで平気で貶めるところには、さすがに驚きを禁じ得なかった。

もっとも、私はこのように上田死刑囚の悪い面を見つつも、上田死刑囚のことを根っからの悪人だとは思えないでいた。さらに言えば、実は今でも上田死刑囚のことを悪人だとは認識していいない。悪人ではなく、「異常者」と理解したほうがしっくりくるからだ。

取材の記録をひもときながら、そのことをおいおい書いていく。

上田死刑囚が収容されている広島拘置所

【鳥取連続不審死事件】
2009年秋、同居していた男性A氏と共に詐欺の容疑で逮捕されていた鳥取市の元ホステス・上田美由紀被告(当時35)について、周辺で計6人の男性が不審死していた疑惑が表面化。捜査の結果、上田死刑囚は強盗殺人や詐欺、窃盗、住居侵入の罪で起訴され、強盗殺人については一貫して無実を訴えながら2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受ける。判決によると、上田死刑囚は2009年4月、270万円の借金返済を免れるためにトラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませて海で水死させ、同10月には電化製品の代金約53万円の支払いを免れようと、電気工事業の圓山秀樹さん(同57)を同じ手口により川で水死させたとされた。2014年3月、広島高裁松江支部で控訴棄却、2017年7月に最高裁で上告棄却の判決を受け、死刑が確定。現在は死刑確定者として広島拘置所に収容されている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

自分の白ブリーフ姿をインターネット上に公開していることで知られる東京高裁の岡口基一裁判官が、ツイッターで自らの半裸写真を投稿したことについて、戸倉三郎東京高裁長官(現在は最高裁判事)から口頭で厳重注意を受けたのは昨年6月のこと。岡口裁判官はその後、この件に関して東京高裁内で「膨大な資料」が作成されていることをツイッターで明かし、再び物議を醸した。

私は、司法行政文書開示請求によりこの資料を入手しようと試みたが、それによりわかったのは、裁判所はこれまで思っていたよりはるかに不誠実で、モラルの低い役所だということだった。

問題の文書の存在を明らかにした岡口裁判官のツイート

◆退けられた開示請求

〈俺の処分の時に作られた膨大な資料は廃棄されずに保存されているだろうか・。ダビデエプロン画像の拡大コピーなど〉

岡口裁判官がツイッターでの半裸写真投稿を戸倉長官に注意されたのち、そんなツイートをしたのは昨年9月22日のこと。私はこの投稿を見て、同27日付けで東京高裁に対し、岡口裁判官が言うところの「膨大な資料」の開示請求を行った。岡口裁判官の半裸写真投稿問題が東京高裁内でどのように取り扱われたかにおおいに関心があったためである。

しかし約3カ月後、東京高裁から文書で届いた答えは、「開示しない」というものだった。そして開示しない理由は、次のように綴られていた。なお、この文書は同年12月21日付けで、戸倉長官名義で作成されている。

〈文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。〉

私は、この説明をまったく納得できなかった。何より、当の岡口裁判官が自分の処分に関する資料が東京高裁に存在することを公表しているのだから、「特定の個人を識別することができることとなる情報」が含まれていようが、そんなことには何の問題もない。公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがあるという話にも何ら具体性がない。要するに戸倉長官は面倒くさいから開示したくないだけだろう。私はそう思った。

ただ、私はこの時点で、この不開示決定に対する苦情申出の手続きをとっていない。最高裁に対し、そのような手続きをとる手段があることは知っていたが、そういうことをしても徒労に終わる場合が多いことを過去の経験から知っていたからだ。

しかし、その後、私はあるきっかけで苦情申出の手続きをとることになる。

疑惑の主である最高裁判事の戸倉三郎氏(裁判所HPより)

◆場当たり的に虚偽の説明か

今年5月11日、私は、弁護士の山中理司氏がツイッターで行った投稿により、とんでもない事実を知った。それによると、山中弁護士は私より一足早く、昨年6月29日付けで東京高裁に対し、「東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書」の開示を請求していた。ところが、戸倉長官は同年8月2日付けで山中弁護士の開示請求を以下のような理由で退けていたのだ。

〈作成又は取得していない〉

要するに戸倉長官は、私に対しては「存在するが、開示できない」と答えていた文書について、山中弁護士には「そういう文書は存在しない」と答えていたわけだ。では、なぜ、このように戸倉長官の答えが食い違っているのか。答えは明白だ。

山中弁護士が開示を請求した時点では、岡口裁判官は自分が口頭注意処分を受けたことに関する「膨大な資料」が東京高裁に存在することをまだツイートで公表していなかった。そのため、戸倉長官は山中弁護士の開示請求については、そのような文書は〈作成又は取得していない〉として開示しなかった。要するに嘘をついていたのだ。

戸倉長官らの疑惑を黙殺した情報公開・個人情報保護審査委員会の答申書

一方、岡口裁判官のツイートにより「膨大な資料」が存在すると判明後に私が行った開示請求については、戸倉長官も〈作成又は取得していない〉とごまかすことは不可能だ。しかし、それでもなお、「膨大な資料」を開示したくないから、「特定の個人を識別することができることとなる情報」が含まれるなどという言い訳を考え出し、開示を拒んだのだ。

このような不誠実な対応をされたら、戸倉長官は司法行政文書の開示申出があるたび、場当たり的に虚偽の理由を考えて不開示にしているとみなすほかない。そこで私は、この時点で不開示決定を受けてから5カ月近くが過ぎていたが、最高裁に苦情申出をすることにした。苦情申出は3カ月以内にしなければならないが、「正当な理由」があればこの限りではないためだ。

ところが――。

「戸倉長官が司法行政文書の開示申出があるたびに場当たり的に虚偽の理由を考えて不開示にしているとみなすほかないことを示す事実を知ったため」という理由で苦情申出をした私に対し、最高裁の今崎幸彦事務総長は「苦情申出人の主張する事情は、苦情の申出の動機というべき事情であり、苦情申出期間を徒過したことの正当な理由にならない」と主張してきた。戸倉長官が場当たり的に虚偽の理由を考え、司法行政文書の開示請求を退けてきたのが事実か否かについては、何の言及もなく、あまりにも不誠実な対応だった。

そして去る10月23日、最高裁から諮問を受理し、審議を行った情報公開・個人情報保護委員会(委員長は髙橋滋氏、その他の委員は久保潔氏、門口正人氏)も同日付けで作成した答申書により、この今崎事務総長の主張を認め、私の苦情申出を退けた。つまり、戸倉長官が場当たり的に虚偽の理由を考え、司法行政文書の開示請求を退けてきた疑いについて、第三者的立場である情報公開・個人情報保護委員会も黙殺してしまったのである。

私は今回の東京高裁や最高裁、そして情報公開・個人情報保護委員会の対応は容認しがたいので、今後も岡口裁判官の半裸写真投稿問題に関する「膨大な資料」の開示を目指し、しかるべき措置をとる。今後何らかの成果が得られたら、この場で再び報告する。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』12月号!

一昨年4月、千葉県で18歳の女性が友人との些細なトラブルから畑に生き埋めにされ、殺害された事件は、センセーショナルに報道された。だが、昨年11月~今年3月に千葉地裁で行われた3人の加害者の裁判員裁判で、うち2人が「冤罪」を訴えていたことは案外知られていない。

かくいう私はこの事件について取材を重ね、2人が実際に冤罪であることを確信するに至っている。2人のうち、一審の無期懲役を不服として控訴した犯行時18歳の女A子(20)の控訴審が今月21日より始まるが、それに先立ち、見過ごされてきた冤罪疑惑を報告する。

◆加害者3人のうち2人は「冤罪」を主張

まず、事件の経緯を簡単に振り返っておく。

事件のきっかけは、被害女性が卒業アルバムの貸し借りをめぐり、元々は友人だったA子とトラブルになったことだった。裁判の認定によると、被害女性に腹を立てたA子は、肉体関係のあった男・井出裕輝(23)に相談し、金を奪って殺害する計画がまとまった。それから井出が自分の手を汚さないよう、パシリにしていた友人の男・中野翔太(22)を殺害の実行役として誘い込んだとされている。

そしてA子、井出、中野の3人は2015年4月19日、A子の友人である鉄筋工の少年(当時16。のちに少年院送致)も犯行に引き入れると、被害女性を車で監禁。そのうえで両手足を結束バンドで緊縛して暴行したり、財布などを奪ったりした挙げ句、翌20日深夜0時過ぎ、成田空港近くの畑で生き埋めにして殺害した――それが、裁判で認定されている「事実」だ。

生き埋めの実行犯である中野は、起訴内容の大半を認め、先月10日に最高裁に上告を棄却されて無期懲役判決が確定。一方、井出とA子の2人は被害女性を車で監禁したり、暴力をふるったりしたのち、現場の畑に掘った穴に被害女性を入れたことまでは認めながら、生き埋めについては中野との共謀を否定。いずれも一審・千葉地裁の裁判員裁判では、この「冤罪」の主張を退けられて無期懲役判決を受けたが、現在は東京高裁に控訴中だ。

生き埋め現場の畑。事件直後は多数の畑が手向けられた

◆散見される「冤罪」と示す事実

さて、この事件については、これまで世間一般では、冤罪の疑いが全く指摘されてこなかった。かくいう私もこの事件について、冤罪の疑いを抱いたのは今年になってからのことだ。

首謀者とされる井出は、「被害女性を畑で穴に入れ、脅かすつもりだったが、殺すつもりはなかった。中野が1人で暴走して、被害女性を埋めてしまった」と主張しているのだが、いざ調べてみると、これこそが実際に事件の真相だと示す事実が散見されるのだ。

その1点目は、加害者らには、被害女性を殺さなければならない確たる動機が見当たらないことだ。何しろ、事件のきっかけとされる被害女性とA子のトラブルは、せいぜい「被害女性が共通の友人から借りた卒業アルバムを返さない」という程度のことだった。犯行の首謀者とされる井出は事件前に被害者と面識がほとんど無く、生き埋めの実行犯である中野に至っては、事件前は被害女性と会ったことすらなかったのである。

また、井出と中野は10代の頃からの付き合いだったようだが、この2人とA子は事件の数週間前に知り合ったばかりだったという。仮にA子が被害女性を殺害したいほど憎んでいたとしても、A子のために井出や中野が殺人というリスクを冒すとも考え難い。

2点目は、犯行に引き入れられた鉄筋工の少年によると、井出と中野は被害女性を監禁した車の中で「ジョン」「ケイ」と偽名で呼び合っていたということだ。この事実は、畑に掘った穴に被害女性を入れ、脅かすだけのつもりだったという井出らの主張を裏づけている。井出と中野が最初から被害女性を殺害するつもりなら、偽名で呼び合い、身元を隠す必要などないからだ。

3点目は、中野が畑に掘った穴に入れた被害女性に対し、スコップで砂をかけ、生き埋めにした際、その場にいたのは中野だけだったということだ。井出はその少し前、畑に掘った穴に入れた少女を見張っておくように中野に指示したうえ、自分は車を別の場所に駐車するためにA子や鉄筋工の少年と一緒に現場を離れていたのだ。

仮に井出やA子が元々、被害女性を生き埋めにするつもりだったなら、そんな大事なことを中野1人だけに任せ、現場を離れるというのは不自然だ。

そして4点目は、これが最も重要なポイントなのだが、中野が被害女性を生き埋めにした時のことについて、裁判で次のように証言していることだ。

「1人で見張りをしている時、掘った穴に入れていた被害者が泣き出したので、焦って砂をかけてしまったんです」

この中野の証言は、突発的な出来事に焦るあまり、予定になかった「生き埋め殺人」を独自に敢行したと認めた内容に他ならない。実を言うと中野は軽度の知的障害を有しており、合理的な行動ができないところがあるという。

にも関わらず、裁判員裁判だった一審では、井出やA子が事前に中野と被害女性を生き埋めにすることを共謀していたと認定されたのだが、すでに指摘した通り、そもそも3人には被害女性を殺害する確たる動機が見当たらない。井出やA子が被害女性を生き埋めにすることを中野と共謀していたという筋書きは、明らかに辻褄が合わないのである。

中野や井出が収容されている東京拘置所

◆実行犯が語った「真相」

私は今日まで中野や井出と面会を重ねたほか、A子とも何度か手紙のやりとりをした。その中でも実行犯である中野への取材にはとくに時間をかけたが、中野が私に語った真相は案の定というべきものだった。

今年の春、私は東京拘置所で中野と初めて面会した際、「中野さんが井出さんから『埋めろ』とか『殺せ』という指示を受けた事実はなかったんじゃないかと思っているんです」と単刀直入に告げた。すると、中野は「そういう事実はなかったですけど」と驚くほどアッサリと認め、こう続けたのだった。

「井出は僕に対し、『人を埋める場所ない?』と言っているから、アウトじゃないかと思うんですよ」

そこで私は「井出さんは中野さんに対し、そういうことを『脅かす』とか『死なない程度に埋める』くらいのつもりで言ったとは受け取れませんか?」と問いかけてみたのだが、中野は「そういう解釈はできないと思うんですけど」と言った。

一方で私が、「中野さんは裁判で、『慌てて埋めた』と言ったようですが?」と質すと、中野は「殺すつもりはなかったんです」などと言う。とまあ、中野は言うことが二転三転するのだが、決してはぐらかしているわけではなく、頭の中で事実関係を整理して話すことができないようだった。

よくよく話を聞いてみると、結局は「焦りだけで何も考えられなかったんで・・・」というのが、中野が被害女性を生き埋めにした時の心境のようだった。つまり、事前に井出やA子と生き埋めまで共謀していた事実はやはり存在しないのだ。

井出やA子は、本人たちが認めている監禁や暴力行為だけでも強い批判に値する。しかし、事実関係を見る限り、この2人が生き埋め行為については冤罪であることは動かしがたい。11月21日から始まるA子の控訴審がもしも逆転無罪という結果になれば、世間の人々はあっと驚くだろう。しかし、私はそうなっても不思議はないと思っている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』12月号!

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

社会を騒がせた凶悪殺人事件の犯人と実際に会ったり、手紙のやりとりをしてみると、案外弱々しい人物だったり、礼儀正しい人物だったりすることが少なくない。数年前に何度か手紙のやりとりをした松戸女子大生殺害事件の犯人、竪山辰美(事件当時49)もそうだった。

もっとも、竪山の場合、大変礼儀正しい印象の手紙を書いてくる一方で、ある大きな「ズレ」を感じさせる人物でもあった。

◆「凶悪犯と思われても仕方ない」

「私の人物像は凶悪というほかないように描写されても仕方ないと思います。そう思われても仕方ない事件を起こしたのですから」

これは、現在は無期懲役囚となった竪山から4年ほど前に届いた手紙の一節だ。私が「報道などでは、あなたは凶悪というほかない人物であるように描写されているが、本当はどんな人物なのか取材させて欲しい」と手紙を出したところ、当時裁判中だった竪山は返事の手紙にこんな自省的なことを書いてきたのだ。

その手紙には、丁重な取材お断りの言葉が綴られ、私が手紙をやりとりするために送った切手シートが「お返し致します」と同封されていた。正直、この律儀さには感心したが、一方で竪山が凶悪殺人犯であるのもたしかだ。

竪山は2009年10月、千葉県松戸市で千葉大学4年生のA子さん(同21)が暮らすマンションの一室に押し入り、包丁で脅して現金5千円とキャッシュカードを奪ったのち、A子さんを刺殺。さらに証拠隠滅のために部屋に火を放った。

強盗や強姦の前科があった竪山は当時、1カ月半前に服役を終えたばかり。出所後はA子さんを襲う前も強盗や強姦を繰り返していた。千葉地裁の裁判員裁判では2011年6月、「更生の可能性は著しく低い」と断じられて死刑判決を受けたが、それも当然のことだと思われた。

だが2年後、竪山は東京高裁の控訴審で、殺害された被害者が1人であることなどを根拠に無期懲役に減刑され、再び世間を驚かせる。私が竪山に取材依頼の手紙を送ったのはその頃だった。

竪山が裁判中に勾留されていた東京拘置所

◆「殺意については、冤罪という気持ち」

私は竪山が死刑を免れ、安堵しているだろうと思っていたが、手紙には冒頭のような律儀な言葉と共に裁判への不満も綴られていた。

「解剖結果の鑑定そのものが間違いであるという他の医師の鑑定書があるにもかかわらず、それを控訴審は証拠として取り上げず、証人尋問すら却下されたのです。死刑が問われる事案でありながら、あまりにもずさんな裁判であったと思っています」

竪山によると、A子さんに対して殺意はなく、誤って刺して死なせたのが真相という。そのため、控訴審判決で解剖医の鑑定を根拠に殺意を認定されたことが不満らしかった。それにしても、死刑判決に不満を言うならまだしも、死刑を回避した控訴審判決に不満を言うとは、死刑判決を望んでいた被害者遺族が聞いたら激怒するのは間違いないだろう。

その後、インターネット上で配信されていた竪山の裁判に関する記事を送ったら、この時も返事の手紙に丁寧なお礼が綴られていた。一方で、「私にしたら殺意については、冤罪という気持ちです」という恨み言が改めて綴られており、私は複雑な気持ちになった。

私はこれまで様々な凶悪事件の犯人と会ってきたが、その中に「悪人」だとしか思えないような人物はいなかった。しかし、善悪の基準が現代の一般的な日本人とズレているように思える人間はたまにいる。竪山はその代表的な人物の一人だ。

竪山に死刑が宣告された千葉地裁。その死刑判決は控訴審で破棄されたが……

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

福島県郡山市で暮らす元介護施設職員の60代の女性が、強盗殺人事件の裁判員を務めて急性ストレス障害に陥ったなどとして、国に慰謝料200万円を求める訴訟を福島地裁に起こしたのは2013年5月のこと。この国家賠償請求訴訟は2016年10月に最高裁で女性の敗訴が決まったが、女性がこの訴訟の中で訴えていた重大な事実はほとんど報道されないままだった。

それは、「死刑」という結論を出した裁判員裁判の杜撰な評議の内幕だ。

◆血だらけの首の肉の部分を思い出し……

問題の裁判員裁判は2013年3月、福島地裁郡山支部で行われた。強盗殺人などの罪に問われた被告人の髙橋明彦(48)は、2012年7月に会津美里町の民家に侵入して住人夫婦を殺害し、現金やキャッシュカードを盗んだとして死刑を宣告された。その後、2016年に最高裁で死刑確定している。

国賠訴訟における女性の訴えによると、その裁判員裁判の審理では、血の海に横たわる被害者らの遺体を見せられたり、ナイフで刺された妻が消防署に電話で助けを求める声が再生されたりした。そのせいで女性は急性ストレス障害に陥ったという。

「血だらけの首の肉の部分を思い出し、吐き気がするため、スーパーでは肉売り場を避けて通ります」

「今もフラッシュバックは続き、血の海で家族が首に包丁を突き立てて横たわり死んでいる夢を見ます」

「音楽を聴いていると、音楽の代わりに被害者の断末魔の声がお坊さんの読経と一緒に聞こえてきます」

このように女性が国賠訴訟で訴えた被害は悲惨極まりない。それに加えて女性が訴えていたのが、死刑が選択された裁判員裁判の評議の杜撰な内幕だった。

事件の現場となった会津美里町の集落

◆死刑という結論は最初から決まっていた

「死刑判決を下したことに間違いはなかったのか、反省と後悔と自責の念に押しつぶされそうです」

女性は国賠訴訟に提出した陳述書で、そう訴えた。この陳述書では、たとえば次のような唖然とする話が明かされている。

「評議の多くの時間は、永山基準に沿って行われましたが、永山基準に関する具体的な説明はありませんでした」

永山基準は、最高裁が1983年に永山則夫元死刑囚(1997年に死刑執行。享年48)に対する判決で示した死刑適用の判断基準。動機や犯行態様、殺害被害者数などの9項目を考慮し、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとする内容だ。

しかし、普段裁判に関心のない人がそんなことは知らないだろう。本当に永山基準に関する具体的説明もないまま、永山基準に沿って評議がされたのなら、話についていけない裁判員もいたかもしれない。

また、陳述書によると、評議の際に裁判員に渡された用紙に、「1―犯罪の性質」から「9―犯行後の情状」まで永山基準の9項目がプリントされていた。女性はこのうち、「前科」という項目に疑問を抱き、裁判長にこんな質問をしたという。

「被告人には前科がありませんが、削除すべきではないですか」

しかし裁判長は、「前科の有無に関係なく、これだけ残虐なことをしたのだから」と言ったという。女性は陳述書で、この時の気持ちをこう振り返っている。

「裁判長の回答を聞き、この事件の結論は最初から決まっていて、『死刑判決』という軌道の上を裁判員が脱線しないよう誘導しているだけの裁判なのだと確信しました」

それ以降、女性は質問しても無駄と悟り、疑問があっても一切、裁判長に質問しなかったという。

「今考えると、自分の考えは(死刑判決の)どこに反映されたかわからない」

女性は陳述書でそう吐露している。急性ストレス障害と診断した医師からは「殺人現場や遺体に関する記憶は時間が経てば薄れるが、死刑判決を下した自責の念は一生消えない」と告げられたという。

髙橋明彦死刑囚が収容されている仙台拘置所。ここで死刑執行される可能性がある

◆マスメディアは知りながら報道しなかった

さて、この女性が起こした国賠訴訟はテレビや新聞で大きく報道されている。しかし、報道では、女性が被害者の遺体や殺人現場を見せられて急性ストレス障害に陥ったと伝えられた一方で、この国賠訴訟の中で女性が評議の杜撰な内幕をここまで詳細に告発していたことは伝えられてこなかった。それゆえにこの女性の告発を知る人は少ないはずだ。

かくいう私もこの女性の告発を知ったのは、すでに控訴審も終わっていた時期、仙台高裁で訴訟記録を閲覧したことによる。この時に驚いたのは、記録の末尾に綴じられた閲覧の申請書を見ると、テレビや新聞の記者たちがこぞってこの記録を閲覧していたことである。

つまり、テレビや新聞の記者たちは、女性が裁判員裁判で死刑判決が出るまでの杜撰な評議の内幕を告発していることを知りながら、報道を見合わせていたのである。

それはもしかすると、評議の内幕に関しては裁判員に守秘義務があることへの配慮なのかもしれない。しかし、裁判員経験者が評議の内幕を告発した国賠訴訟の記録が裁判所で「閲覧可能」の状態になっているということは、他ならぬ司法当局が裁判員裁判の評議の内幕を公開しているわけである。それを報道して悪いわけがない。

死刑判決が出た裁判員裁判において、評議がこれほど杜撰なものだったということは、むしろ報道しないほうが問題だと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

どんな大事件も時が過ぎれば、人々の記憶から消え去っていく。ここで取り上げる光市母子殺害事件も例外ではない。私が2015年に事件現場を訪ねたところ、被害者一家と加害者が暮らしていた社宅アパートは取り壊され、跡地は広大な空き地となっていた。周辺の住民たちに話を聞いても、事件は着々と風化している様子がうかがえた。

◆ 現場の社宅があった場所は広大な空き地に

事件が起きたのは、今から18年以上前に遡る。1999年4月のある日、山口県光市にある新日鉄(現在は新日鉄住金)の社宅アパートの本村洋さん宅で、妻の弥生さん(当時23)と生後11カ月の長女・夕夏ちゃんが殺害されているのを、会社から帰宅した本村さんが発見。ほどなく逮捕された犯人の福田(現在の姓は大月)孝行は、被害者一家と同じ社宅アパートで暮らしていた当時まだ18歳1カ月の少年だった。

福田はその後、成人同様に刑事裁判を受けたが、まだ赤ん坊の夕夏ちゃんまで殺害し、弥生さんを殺害後に死姦しているなど犯行内容は凄まじく、裁判では死刑適用の可否が争点になった。結果、福田は2012年2月に最高裁に上告を棄却されて死刑が確定したが、裁判中も「死姦は死者復活の儀式だった」と証言するなど特異な言動を見せ、メディアも凄絶な報道合戦を繰り広げたものだった。

私がこの事件の現場を訪ねたのは、福田の死刑が確定してから約3年の月日が流れた2015年2月のことだ。この時、すでに現場の社宅アパートの建物は大半が取り壊され、広大な空き地になっていた。「管理地」と書かれた不動産会社の大きな看板が立てられていたが、雑草が伸び放題で、きちんと管理されているようには思えなかった。

事件現場の社宅アパートは取り壊され、広大な空き地になっていた

◆ 「今のこの町はゴーストタウン」

現場跡地の通り向かいの家の住人女性はため息まじりに話した。

「社宅は老朽化したために取り壊したそうですが、風の強い日には、伸び放題の草木の種などが飛んでくるんで、迷惑なんですよ」

一方、近所で書店を営む男性はこう語った。

「社宅があった当時は本村さんがよく花を手向けに来ていたけど、最近は見かけないね。現場のアパートがなくなり、花を手向けようにも手向ける場所がないんだけどね」

愛する妻と娘の生命を奪われた本村さんは福田の裁判中、メディアを通じて再三、死刑を望む気持ちを訴えていた。しかし、現在は再婚し、新たな家庭を築いていると伝えられている。別の町で幸せに暮らしているのだろう。

福田は弥生さんと夕夏ちゃんを殺害後、盗んだ金を使ってゲームセンターで遊んでいたとされるが、その店も今は取り壊されて存在しない。福田は裁判において、弥生さんや夕夏ちゃんに対する殺意を否定しており、現在もその主張を維持して広島高裁に再審請求中だが、事件は現在ほとんど報じられることもなく、着実に風化している印象だ。

現場界隈の店舗はほとんど閉店しており、町全体もうら寂しい雰囲気だ。前出の書店を営む男性は「事件の時は多くのマスコミが取材に来たけど、今のこの町はゴーストタウンだね」とつぶやくように言ったが、町が廃れゆくと共に世間の人々も事件のことを忘れ去っていくのだろう。男性と話しながら、私はふとそう思った。

町はうら寂しい雰囲気。地元の男性は「ゴーストタウン」と言った

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

〈私の人生は、一言でいって、幸せでした。さいたまにいた10年間を省けば、私はいつも色々な方から優しくされ、助けられて生きてきました。そして、さいたまにいた10年間も、人生に後悔や未練を残さない為に、やりたい事を好きなだけ、やってきたので、大変満足しています〉

これは、2008年に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の犯人・小泉毅(54。現在は死刑囚として東京拘置所に収容中)が獄中で綴った計39枚に及ぶ手記の一節だ。これを書いた頃、小泉は裁判中だったが、1、2審共に死刑判決を受けており、そのまま死刑確定するのが確実な状況だった。そんな時期、小泉はなぜ、自分の人生が幸せだったと振り返ったのか。

犯行に及んだ経緯やその時々の考えが詳細に綴られた小泉の獄中手記

それをみる前に、まずは事件の経緯を簡単に振り返っておこう。

◆ 動機は「保健所で殺処分になった愛犬チロの仇討ち」

小泉が旧厚生省の事務次官宅を相次いで襲撃する事件を起こしたのは2008年11月のことだ。まずは17日夜、さいたま市南区の山口剛志さん(当時66)宅に押し入り、山口さんと妻の美和子さん(同61)を包丁で刺殺。続いて翌18日夜、東京都中野区の吉原健二さん(同76)宅に押し入り、1人で自宅にいた吉原さんの妻、靖子さん(同72)の胸などを包丁で刺して重傷を負わせた。

そんな事件は当初、年金制度に不満を持つ人物らによる「テロ」とみられたが、同22日に警視庁本庁に出頭して自首した小泉が明かした犯行動機は誰も予想できないものだった。

「チロちゃんの仇討ちをしたのです」

小泉によると、34年前、自宅で飼っていたチロという犬が野犬と間違われて保健所に連れていかれ、殺処分になったという。小泉はその恨みを晴らすため、犬の殺処分に関して定めた狂犬病予防法を管轄する厚生労働省の元トップを襲撃した――とのことだった。

そんな前代未聞の自白をめぐり、マスコミは当時、「本当にそんな理由で人の命を奪ったのか」と一斉に疑問を投げかけた。インターネット上では、小泉のことを頭のおかしい人間であるかのように揶揄する書き込みが相次いだ。

私はそんな小泉の実像が知りたく、裁判が上告審段階になった頃から東京拘置所に収容中の小泉と面会や手紙のやりとりを重ねた。そうした取材を通じ、小泉は善悪の基準こそ一般的な日本人と異なるものの、むしろ知的能力は高い人物だと思うようになっていった。

◆ 「仇討ち」に至る経緯と自首の理由

小泉は62年、山口県の柳井市で生まれた。愛犬チロが保健所で殺処分になる悲劇に見舞われたのは、中学入学直前の1974年春のことだった。その後、くしくも保健所の向かいにある県立柳井高校に進学したことが小泉の運命を大きく変えたようだ。

「高校時代の私は毎日、登下校の際に保険所の建物を見て、憎しみを募らせました。そして高2の時、チロちゃんの仇討ちを決意したのです。当初、仇討ちの相手と考えたのは政治家でしたが、大学入学後、日本の支配者が政治家ではなく官僚だと知りました。そして50歳まで普通に生き、人生にやり残したことがない状態にしたうえで、厚生事務次官経験者を狙った仇討ちを決行すると決めたのです」

実際に小泉が「仇討ち」を決行したのは46歳の時だ。小泉は当時、勤めていたコンピューター会社を辞め、ネットで株投資をして暮らしていた。計画を前倒ししたきっかけは05年12月、タクシーに接触された事故で左ヒザと右アキレス腱を負傷したことだという。

「私はこのケガにより体力に自信をなくし、『50歳になるまで待てない』と思い、仇討ちの時期を早めたのです」

そして小泉は国立国会図書館で歴代厚生事務次官たちの住所を調べ、その中から「住んでいたアパートから近い」などの理由で選んだ2人の家を襲撃した――。

では、なぜ、小泉は犯行後、自首したのか。小泉は理由をこう語った。

「私はチロちゃんの仇討ちは果たしました。次は裁判で無罪を主張することにより、保健所で苦しみながら殺された何百万、何千万の犬や猫の代弁者となり、“ペット虐殺行政”を批判しようと考えたのです」

小泉は裁判で「私が殺したのは、人間ではなくマモノとザコです」と主張し、無罪判決を求めているが、その狙いは“ペット虐殺行政”を批判することだったのだ。

と言われても、おそらくピンとこない人が少なくないだろう。しかし実をいうと、全国の動物愛護家の中には、この小泉の考えに共感した者が少なくなかったのである。

小泉が憎しみを募らせた柳井市の保健所

支援者たちは署名サイトでも小泉の減刑を求める署名を集めた

◆「小泉さんは革命者」

マスコミは黙殺したが、最高裁の判決が迫った頃、小泉を支援する動物愛護家たちが小泉の減刑を求める署名活動を行っており、集まった署名は1500筆を超えていた。14年6月、最高裁が小泉の上告を棄却し、死刑を事実上確定させた公判にも10人前後の支援者たちが傍聴に来ていたが、誰もが裁判の結果を心底悔しがっていた。

ある女性支援者は涙をポロポロこぼしながら、こう語っていた。

「小泉さんは革命者だと思います。将来、日本にも海外にあるような本格的なペットシェルター(飼い主に捨てられた動物を保護し、新たな飼い主を見つけるための施設)ができたら、私は“コイズミ館”と名づけたいと思います」

小泉はこのように多くの人に愛された。それゆえに、手記で自分の人生を「幸せ」だったと綴ったのだ。

死刑確定後、東京拘置所は小泉の処遇を変え、私は小泉と面会や手紙のやりとりができなくなった。だが、小泉は今も幸せな気持ちで過ごしていると思う。


◎[参考動画]元厚生事務次官ら連続殺傷事件 「ほかにも殺害計画していた」(TOKYO MX 2008年11月24日公開)


◎[参考動画]1990年11月23日にテレビ朝日が報じた元厚生事務次官宅連続襲撃事件(AutumnSnakeArchive2009年2月16日公開)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2009年に始まった裁判員裁判では、すでに30件を超す死刑判決が宣告されている。その中でも異様さが際立っていたのが、2011年に東京地裁であった裁判員裁判で無実を主張しながら完全黙秘した伊能和夫だ。伊能は2013年に東京高裁の控訴審で無期懲役に減刑され、2015年に最高裁で無期懲役が確定したが、控訴審以降も公判では一言も言葉を発さなかった。

しかし、私が裁判中に面会に訪ねたところ、実際の伊能はむしろ冗舌な男だった──。

伊能の裁判が行われた東京高裁・地裁の庁舎

◆無実の主張は本気?

事件の経緯から振り返っておく。

東京・南青山にあるマンションの1室で、住人の飲食店経営者の男性(同74)が首を刃物で切られ、死んでいるのが見つかったのは2009年11月のある日のことだった。そして翌年1月、警視庁が強盗殺人の容疑で検挙したのが当時59歳の伊能だった。伊能は88年に妻(同36)を刺殺し、部屋に放火して娘(同3)も焼死させた罪で懲役20年の刑に服しており、事件の半年前に出所したばかりだった。

伊能はその後、裁判員裁判で無実を主張しながら死刑判決を受け、控訴審で無期懲役に減刑されたが、公判では一言も言葉を発せず、完全黙秘したというのはすでに述べた通りだ。私がそんな伊能の実像を知りたく、収容先の東京拘置所まで最初に面会に訪ねたのは、伊能が最高裁に上告していた2014年3月のことだった。

伊能はその日、紺色のスウェット上下という姿で面会室に現れた。白い頭髪を短く刈った小柄な人物だった。

お互い椅子に腰かけ、アクリル板越しに向かい合っても、伊能は宙を見たまま視線が定まらず、体をプルプルと震わせていた。顔はやせ、歯が何本も欠けており、眉毛も多くが抜け落ちていた。

「パーキンソン病なんです……」と伊能は言った。面会室での伊能はつぶやくような話し方をするため、声は聞き取りづらいが、その口からは言葉が次々に出てきた。

まず、単刀直入に裁判中の事件の犯人なのか否かを質問したところ、伊能は「全部やってないですから……自分は無罪ですから……」と言い切った。そして裁判への不満などを次々に口にした。

「裁判がメチャクチャなんで、最高裁では徹底的にやろうと思ってるんです……」

「自分は裁判で住所不明、無職にされましたが、住所も職業もちゃんとしています……」

「今は午前中に裁判に出すものを色々書いて、昼からは息子への手紙を書いてます……」

私は正直、伊能の無罪主張や裁判批判はピンとこなかった。裁判では、現場マンションの被害者宅室内から伊能の掌紋が見つかったとか、伊能の靴の底から被害者の血液が検出されたとか、有力な有罪証拠がいくつも示されていたからだ。

また、息子に手紙を書いているという話も違和感を覚えた。伊能に息子がいるのは知っていたが、妻と娘を殺害した伊能が息子と良好な関係だとは思いがたかったからだ。

ただ、伊能本人は本気で自分を無実だと思っているようにも感じられた。そこで、まずは手紙で事件の真相を教えてもらえないかと依頼すると、伊能は「1日に1枚か、2枚かなら・・・」と承諾してくれた。これをうけ、私が「では、便せんと封筒を差し入れておきます」と言うと、伊能はこんなことを言ってきたのだった。

「ついでに甘い物を・・・あと、お金も少し・・・今、3千円しかないんで・・・」

正直、金銭の要求に心の中がモヤッとしたが、私は面会を終えると、拘置所1階の売店から伊能に便せん、封筒と共にみかんの缶詰や現金2千円を差し入れた。しかしその後、待てど暮らせど、伊能から届くはずの手紙は届かなかった。

伊能が収容されていた東京拘置所

◆証拠は「全部偽物」

約7カ月後、私は再び伊能の面会に訪ねた。伊能はこの日、刑務官が押す車椅子で面会室に現れた。「体調が悪いんですか?」と聞くと、目は宙を見つめたままだが、「大丈夫。薬、もらってるから」と口元をほころばせた。この日は事件に関する疑問も率直にぶつけたが、伊能はよどみなく答えた。

── 裁判はその後どうですか?

「1審も2審も何もしゃべらんかったから、今は色々書いてます。何もかもが偽物の証拠やから」

── 伊能さんの靴に被害者の血がついていたそうですが?

「あんなのは偽物の証拠ですわ」

── 伊能さんの掌紋が現場で見つかったという話は?

「全部偽物の証拠ですわ」

── 現場近くの防犯カメラには伊能さんの姿が映っていたそうですが……。

「あんなのは全部人間が違うんです。1メートル80センチくらいあったり、1メートル50センチや60センチだったりするんですから」

── 事件直前に伊能さんが包丁を買っていたという話もありますが?

「買うわけない」

つまり伊能によると、有罪証拠は何もかもが捜査当局の捏造だというわけだ。「では、裁判で黙秘した理由は?」と尋ねると、伊能は「裁判では、『無実だから何も出ない。無罪になるだろう』と思ってましたから」と言い切った。本気で自分を無実と思っているのか否かは今も断定しづらいが、罪悪感を覚えていないのは確かだと思えた。

そして面会時間が終了し、私が辞去しようとした時、伊能はこう言ってきた。

「お金と甘い物入れて。お金は多めに、甘い物は何品か」

さらに「大福餅があったら入れて」と付け加えられ、私はまた心の中がモヤッとしたが、ともかく現金1千円と大福餅、チョコパイを差し入れた。ただ、この日以来、伊能の面会に訪ねる意欲を失った。

◆初めて届いた手紙で「金一ぷう」を催促

伊能から初めて手紙が届いたのは約3カ月後、最高裁が控訴審の無期懲役判決を追認する決定をした今年2月のことだ。それには、再審請求をする意向や、息子や親戚たちが自分の味方になってくれているという真偽不明の話が綴られたうえで「案の定」なことが書かれていた。

〈金一ぷうを、ごかんぱしてください。たとえ1万円でも2万円でも、よろしいのですので。〉(原文ママ。以下同じ)

現金の差し入れを求めてきた伊能の手紙 (修正は筆者)

この図々しさにはあきれたが、手紙の末尾には〈親愛なる片岡様、ごかぞくの、お幸せと、ごけんこうを、心から、お祈りいたします。〉〈近々には、かならずや、片岡様との、ご面会が、ととのうよう心から、お待しております〉などと嘘くさいことが恥ずかしげもなく綴られており、苦笑させられた。殺人犯にこんなことを言うのは気が引けるが、愛嬌のある人物ではあった。

この時も現金1000円を同封し、「服役先が決まったら連絡して欲しい」と書いた手紙を伊能に送ったが、当然のごとく現在まで返事は届かない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

私は過去、社会を騒がせた様々な凶悪事件の犯人と面会や手紙のやりとりをしてきた。そんな中、一度手紙をもらっただけでありながら、生真面目そうな文面が強く印象に残っている男がいる。沖倉和雄という。7年半ほど前に東京都あきる野市で起きた資産家姉弟強盗殺人事件の犯人の1人で、裁判で死刑が確定しながら病気のために世を去った男だ。

沖倉から届いた手紙

◆強盗らしからぬ丁寧な物言い

事件の経緯を振り返っておこう。

沖倉(当時60)があきる野市で暮らす資産家の姉弟、A子さん(当時54)とB男さん(同51)の家に共犯者の男(同64)と一緒に押し入ったのは、2008年4月9日の夜8時ごろだった。沖倉は、1人で在宅していたB男さんにサバイバルナイフを突きつけると、次のように「脅迫」したという。

「強盗です。お金を出してください」

こうした強盗らしからぬ丁寧な物言いは、沖倉が元々、市役所に長く務めた公務員だったことと無縁ではないと思われる。だがしかし、沖倉がこの後、共犯者の男と共に敢行した犯行は、弁明の余地がないほど残酷きわまりないものだった。

まず、共犯者の男がB男さんの両手足を粘着テープで拘束。そして沖倉と共犯者の男が室内を物色していると、ほどなくA子さんが帰宅してくる。そこで沖倉がA子さんにもサバイバルナイフを突きつけ、「私は強盗です。お金を取りに来ました」と脅迫すると、共犯者の男がA子さんの両手足も粘着テープで拘束してしまう。こうして2人の強盗は資産家姉弟から現金35万円とキャッシュカード35点を奪うのだが、凄まじいのはこのあとだ。

2人は、両手足を拘束しているA子さんとB男さんの頭部にポリ袋をかぶせ、首のあたりに粘着テープを巻いて密封。このように姉弟が息のできない状態にして放置し、窒息死させてしまったのだ。その挙げ句、長野まで姉弟の遺体を運び、山の中に埋めた――。

翌2009年に沖倉が東京地裁立川支部の裁判で死刑判決を受けた際、判決はこの犯行態様について、「冷酷非道で残忍なことこの上なく、極めて悪質である」と厳しく指弾した。まことにその通りだ。

◆まじめな公務員はなぜ身を持ち崩したのか……

沖倉と共犯者の男は犯行後、姉弟のキャッシュカードで総額500万円以上の現金を引き出してアシがつき、あえなく逮捕。いち早く罪を認めた共犯者の男は東京地裁立川支部の裁判で「心底からの反省悔悟の態度」が認められて無期懲役判決を受け、そのまま確定したが、一方で沖倉が死刑判決を受けたのは「終始主導的な立場だった」と認定されたためだった。

沖倉はその後、2010年に東京高裁の控訴審でも死刑を支持する控訴棄却の判決を受けるのだが、私が沖倉に取材依頼の手紙を出したのは、最高裁の審理も佳境を迎えていた2013年の秋のことだった。

私が沖倉に関心を抱いたのは、やはりその経歴ゆえだった。

沖倉は大学卒業後、いくつかの職を経て1997年4月に本籍地の秋川市(現・あきる野市)の市役所に採用されると、2004年12月に勧奨退職するまで27年間に渡って勤務した。公務員としての仕事ぶりはまじめだったという。

裁判で明らかになったところでは、そんな男が退職後に開店したスナックの経営に失敗したり、麻雀の負けがかさんだりして約4700万円の借金を抱える羽目に。そして金目当てに許されざる罪を犯すのだが、沖倉はなぜ、そこまで身を持ち崩さねばならなかったのか・・・。

私は、当時東京拘置所に収容されていた沖倉本人にそれを直接聞いてみたいと思ったのだ。

そしてほどなく沖倉本人から返事の手紙が届くのだが、それには次のように綴られていた。

・・・・・・以下、引用・・・・・・

片岡健様

取材についての件ですが、私はまだ現在、話ができる状況ではありません。折角、切手、ハガキまで送ってきていただきましたが、真に申し訳ありません。お許しください。
今後の片岡様のご活躍をお祈り申しあげます。
ご希望に添えないので、切手、ハガキ、返送いたします。ご気分を悪くなさらないでください。

平成25年10月3日  
沖倉和雄  

・・・・・・以上、引用・・・・・・

私は、拘置所や刑務所に収容されている人物に取材を申し込む際には、返信用の切手やハガキを同封することにしている。取材を断る際、その切手やハガキを返送してくる者はたまにいるが、これほど丁寧な言葉で取材を断る者は珍しい。私はこの手紙を読み、沖倉が公務員時代、まじめな仕事ぶりだったというのは本当なのだろうと改めて思ったのだった。

「私はまだ現在、話ができる状況ではありません」というのは、最高裁の審理が佳境を迎えた時期に取材など受けている精神的余裕は無いということだろう。そう理解した私は取材を諦め、沖倉にお礼の手紙を出すと、これを境に沖倉のことは一度忘れてしまったのだった。

沖倉の「終の棲家」となった東京拘置所

◆実は闘病中だった

沖倉は私に手紙をくれた約2カ月半後、最高裁に上告を棄却されて死刑が確定したが、それから7カ月余り経った2014年7月、驚くようなニュースが飛び込んできた。沖倉が脳腫瘍のために獄中死したというのだ。

報道によると、沖倉は前年6月から肺ガンの治療を受けていたというから、私が取材依頼の手紙を出した時はすでにガンで闘病中だったわけだ。そして死の2カ月前には脳腫瘍も見つかっていたそうなので、おそらく最後はガンが全身に転移し、手の施しようがない状態だったのだろう。そのことを知って手紙を読み返すと、私は自分が勘違いしていたのではないかと思うに至った。

「私はまだ現在、話ができる状況ではありません」という沖倉の言葉は、裁判のせいで精神的余裕がないという意味ではなく、「ガンで闘病中のため、話ができる状況ではない」という意味だったのではないか・・・。そんな私の疑問を沖倉本人に確認するすべはない。

沖倉和雄。享年66歳。この生真面目な殺人犯がガンで闘病中、見ず知らずの私にくれた取材お断りの手紙は、彼の遺筆として大切に保管している。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

弁護人「そんな何べんも何べんも、おかしい女と一緒におってよ、そのたびに疑いもせんと同じような被害に遭うかい!」

証人「…………」

これは2003年12月17日に大阪高裁で行われた、ある刑事裁判の一場面を証人尋問調書に基づいて再現したものだ。この裁判の被告人は林眞須美、当時42歳。和歌山カレー事件と呼ばれる毒物殺傷事件で殺人罪などに問われ、一貫して無実を訴えながら2002年に第一審・和歌山地裁で死刑判決を受け、大阪高裁に控訴していた。捜査段階にメディアから「毒婦」とか「平成の毒婦」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いだろう。

しかし、そんな眞須美の裁判で、弁護人がこのように証人を叱責するような証人尋問を行っていた事実を知る人はほとんどいないはずだ。メディアで報じられていないからである。

この証人は、眞須美にヒ素で殺されかけた「被害者」とされている男だが、刑事裁判の証人尋問で弁護人が被害者という立場の証人を叱責するというのは異例だ。一体なぜ、こんな事態になったのか。

それを説明するには、まず事件の経緯を簡単に振り返っておく必要がある。

眞須美が暮らしていた家は今は空き地に

◆保険金詐欺の疑惑によりカレー事件も犯人と思い込まれたが……

事件発生は1998年7月25日のことだった。和歌山市郊外の園部という町で地元の自治会が開催した夏祭りのカレーに何者かが猛毒のヒ素を混入し、67人が急性ヒ素中毒にり患、うち4人が死亡した。そんな大事件で今も語り草なのが、眞須美と夫の健治に対してメディアが大々的に繰り広げた犯人視報道だ。

当時、眞須美は37歳で、夫の健治は53歳。2人は現場近くの大きな家で4人の子どもたちと一緒に暮らしていたが、働いている様子もないのにゼイタクな暮らしぶりだったため、当初からメディアに注目されていた。そんな2人がカレー事件に関与した疑いを盛んに報じられるようになったのは、事件が起きて1カ月が過ぎたころからだ。きっかけは、夫婦が事件前、知人男性らに保険をかけたうえ、ヒ素を飲ませて負傷させ、保険金詐欺を繰り返していたという疑惑が浮上したことだった。

というのも、カレー事件が起こる以前、林夫婦の家に出入りしていた知人男性らが病院への入院を繰り返しており、その中には入院時、ヒ素中毒に酷似した症状に陥っている者もいた。しかも、この知人男性らには多額の保険がかけられており、入院の際に支払われた保険金の多くは林夫婦のもとに渡っていた。加えて、眞須美は元保険外交員で保険には詳しく、健治も過去に営んでいたシロアリ駆除の仕事でヒ素を使っていた。林夫婦には、疑われるだけの要素が十分すぎるほど揃っていたのである。

やがて捜査が進む中、健治もカレー事件以前、ヒ素中毒とみられる症状で何度も入院していたことが判明する。これに伴い、保険金詐欺の主犯は眞須美であり、眞須美は共犯者である夫の健治にまで保険金目的でヒ素を飲ませていたという疑惑が報道されるようになった。

そんな日々の中、眞須美が自宅を取り囲んだ報道陣に対し、庭からホースで水をかける「事件」も発生。その映像がテレビで連日、繰り返し放送されたことも「林眞須美=毒婦」というイメージを決定づけた。こうして確たる証拠もないまま、眞須美はいつしか和歌山カレー事件の犯人だと全国の人々に思い込まれる存在となったのだ。

ところが――。

いざ裁判が始まってみると、眞須美とカレー事件を結びつける証拠は思いのほか、ぜい弱だった。加えて、眞須美がカレー事件の犯人ではないかと疑われるきっかけになった別件の疑惑、すなわち「夫や知人男性に保険金目的でヒ素を飲ませていた」という疑惑についても信ぴょう性に疑問を投げかけるような事実が次々示されたのだ。

◆「被害者」が被害者であることを否定

たとえば、健治は眞須美の裁判で、「ヒ素は保険金を騙し取るため、自分で飲んでいた。自分と眞須美は保険金詐欺では純粋な共犯関係にあった」と証言した。被害者であるはずの人物が自ら被害者であることを否定したわけだ。

また、眞須美は他の「被害者」の男たちについても「被害者ではなく、一緒に保険金詐欺をしていた共犯者だった」と主張したが、裁判で明らかになった事実関係は眞須美の主張を裏づけていた。他の「被害者」とされる男たちは病院への入院を繰り返しながら、入院中に無断外泊して林家で麻雀に講じたり、飲みに出かけたりと楽しそうな入院生活を送っていたのである。

その1人が、弁護人に叱責された証人の男だった。

ここでは、この男の名は仮にIとしておこう。Iは冒頭の公判に出廷した当時42歳。父や妹夫婦が警察官という警察一家の長男だが、カレー事件が起きた頃は働きもせずに林家に入り浸り、居候状態だった。取り調べや裁判では、「眞須美につくってもらった牛丼やうどんを食べたら、気持ち悪くなって嘔吐し、病院に入院した」などと供述していたが、実際には楽しそうな入院生活を送っていたというのはすでに述べた通りだ。健治によると、「Iは私の真似をして、保険金を騙し取るために自分でヒ素を飲んでいたんです」とのことである。

そんなIに関しては、他にも裁判で様々な怪しげな事実が裁判で明らかになった。たとえば、Iは捜査段階に数カ月に渡り、和歌山県の山間部にある警察官官舎で警察官たちと寝食を共にしながら取り調べを受けていた。さらに眞須美が起訴され、和歌山地裁の第1審で死刑判決を受けるまでの期間は高野山の寺で「僧侶」として働くという不可解な行動をとっていた。要するに警察や検察が眞須美をカレー事件で有罪に追い込むため、本当は保険金詐欺の共犯者であるIを管理下に置き、「被害者」に仕立て上げた疑惑が浮上したわけだ。

検察側の主張によると、Iはカレー事件以前、眞須美に殺意をもってヒ素を4回、睡眠薬を10回、食べ物に混ぜて飲ませられ、その都度、ヒ素中毒に陥ったり、バイクを居眠り運転して事故を起こしていたとされた。結果、裁判では、眞須美にヒ素を1回、睡眠薬を4回飲まされた事実があったとされたが、このこと自体が不自然だと鋭い人なら気づくだろう。

Iがそんなに何度も危険な目に遭いながら、眞須美に提供される食べ物を食べ続けたというのは、常識的にはありえないからだ。

Iが警察官と共に寝食を共にしていた警察官官舎

◆「疑惑の被害者」が弁護人に叱責された事情

Iは、眞須美の裁判で検察の主張に沿う証言を色々しているが、その証言内容も総じて不自然だった。中でも、とりわけ不自然だったのが次のような証言だ。

「私が林家で健治と一緒にいた時、健治は眞須美につくってもらった“くず湯”を食べて苦しみだしたのです。健治はこの時、『また何か入れたな』と言っていました」

こうしたIの証言もあり、裁判では、眞須美は健治に保険金目的でヒ素を飲ませていたと認定されたている。しかし、Iがこのような場面に立ち会っていたにも関わらず、自分自身は眞須美の食べ物を食べ続け、何度も死にかけたというのはいくら何でも変だろう。

弁護人が「疑惑の被害者」を叱責した大阪高裁

そこで弁護人はIを次のように追及している。

弁護人「あなたは当時、健治さんがそんなこと(=また何か入れたな)を言っていたとは、誰にも話していませんね」

「別に話すこともないと思うし」

弁護人「あなたはその後、眞須美さんに対し、警戒心を持たなかったのですか」

「警戒心というところまでは……」

弁護人「ただ、目の前で死ぬような苦しみをしている男が、女房に何か盛られたんじゃないかということを言っていたんでしょう。その女に対し、何か今までとは違う感じを持たなかったの?」

「多少はあったと……」

Iはこのように曖昧な答えを繰り返し、ごまかそうとした。それに弁護人がいら立ち、冒頭のように叱責したわけだ。これに対し、Iが何も言い返せずに沈黙したことは、健治や眞須美が主張するようにIが被害者ではなく、「保険金詐欺の共犯者」だったことを裏づけている。

それでもなお、この事件の裁判官たちは結局、Iが林夫婦に経済的に依拠していたことなどを根拠に「都合のいいように一方的に使われていた面が強い」(1審判決)などと述べ、Iのことを眞須美にヒ素を飲まされていた「被害者」だと認定した。そして眞須美は2009年に最高裁で死刑が確定したのだが、あまりに無理がある裁判だったというほかない。

眞須美は死刑確定後も無実を訴え続け、現在も裁判のやり直し(再審)を求めている。そんな執念が報われたのか、近年は世間でも眞須美について、冤罪の疑いを指摘する声が増えてきた。しかし、それはもっぱらカレー事件に関することで、夫や知人男性らに保険金目的でヒ素を飲ませていた疑惑については、冤罪を疑う声はまだ少ない。

ここで紹介したような裁判の実相がまだほとんど報道されておらず、世間に知られていないためだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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