毎年7月の終わり頃になると、1995年7月30日に東京・八王子市のスーパーでアルバイトの女子高生ら女性店員3人が何者かに銃殺された未解決事件、いわゆる「スーパーナンペイ事件」の現状がマスコミで報道されるのが恒例だ。一方、同じ7月に起きた未解決の銃殺事件でありながら、もはや地元マスコミ以外にほとんど取り上げられない事件が存在する。今から7年前に鳥取市で起きた、その「もう1つの未解決銃殺事件」の今を追った。

◆未解決にもかかわらず発生後7年ですっかり風化しつつある事件

犯人がタクシーに乗り込んだ鳥取駅北口

事件は2009年7月17日の夜9時40分頃、鳥取市立川町6丁目の住宅街で起きた。タクシー運転手の下田和雄さん(当時60)が背後から何者かに銃で撃たれ、搬送先の病院で同11時過ぎに死亡。犯人の男はタクシーを奪って逃走したが、ほどなくタクシーは現場から2キロ余り離れた同市東今在家の路上に乗り捨てられているのが見つかった。車内からは下田さんが使っていた釣銭入れがなくなっていたとう。

他のタクシー運転手の目撃証言などから、犯人は事件の数分前にJR鳥取駅北口のタクシー乗り場で、下田さんのタクシーに乗り込んだとみられた。しかし、鳥取県警は大量の捜査員を動員して捜査を展開したものの、めぼしい証拠や情報が得られず、発生から7年になる今も事件は未解決のままだ。スーパーナンペイ事件のようにマスコミに大きく取り上げられることもなく、事件は風化してしまっている感もある。

実際、現場界隈で住人たちに話を聞いて回ってみても、「あの事件以来、近所の公園でやっていた夏祭りが開かれなくなりましたが、今はとくに怖いとか不安とかいうのはないですね。事件が起きてすぐの頃は犯人も見つからないし、怖い感じがしましたけどね」(現場近くの家で暮らす年配の女性)という感じで、現地でも事件のことは忘れ去られつつあるようなのだ。

◆意外な事実──地元の同僚たちにとってもすっかり過去のものになっていた

下田さんが銃で撃たれた現場

意外だったのは、現場界隈の住人たちはともかく、地元のタクシー運転手たちも事件のことを忘れつつあることだ。私は、下田さんが犯人を乗せたとみられるJR鳥取駅北口のタクシー乗り場で、下田さんと同じ会社に勤めるタクシー運転手を何人か見つけ、下田さんや事件のことを聞いてみた。すると、ある運転手は下田さんについて、「マジメな人だったよ」などと振り返りつつ、「事件があった時は会社のみんなで葬式に行ったけどね。今は会社として、命日にとくに何かやったりはしないね。家族の人たちは何かやってるだろうけどね」と淡々と語った。その語り口からは事件がもう同僚たちにとっても過去のものになっていることが窺えた。

さらに意外に感じたことは、下田さんが所属した会社のタクシーを含む鳥取の大半のタクシーで、運転席と後部の客席を隔てる防犯用の仕切り版が装着されていなかったことだ。どこの地方でも多くのタクシーが防犯用の仕切り版を装着しているこのご時世、タクシー運転手が銃殺される異例の凶悪事件が起き、しかもその事件が未解決の鳥取で、この現状には少々驚いた。

現地の人々に取材してみて、鳥取の人たちは総じて人がよく、初対面の人間にも無警戒かつ親切な場合が多いと私は感じた。しかし、防犯意識は高めないと、同じような悲劇が繰り返されるのではないかと少々心配である。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

母(当時50)と祖母(同81)を刺殺したとして、殺人罪に問われた横浜市の少年(16)に対する裁判員裁判で、横浜地裁(近藤宏子裁判長)は6月23日、「更生には、刑務所で服役させるより少年院で個別的教育を受けるほうが効果的」と少年を家裁に移送する決定を出した。報道では「殺人罪で起訴された未成年が家裁に移送されるのは、裁判員裁判では初めて」という点がクローズアップされたこの裁判で、筆者の印象に残ったのは、証人出廷した少年の父親(51)の悲痛な様子だった。

少年に対する裁判員裁判が行われた横浜地裁

◆「加害者が自分の息子でなければ・・・」

「私の姉が厳罰を望んでいることについては、気持ちはよくわかります。私も加害者が自分の息子でなければ、当然そういう思いになったはずです」

6月15日に横浜地裁であった初公判。少年の父親は複雑な思いをそう打ち明けた。実の母と妻を殺害された「被害者遺族」という立場でありながら、「加害者の親」でもあることの苦悩がこの言葉に凝縮されていた。

事件が起きたのは昨年5月18日の朝だった。少年は横浜市戸塚区の自宅で、母親と祖母を包丁でめった刺しにして殺害。犯行後は凶器の包丁を水道で洗ってタオルにくるみ、スポーツバッグに入れると、それを持ってJR戸塚駅西口の交番に「人を殺しました」と出頭した。こうして少年は殺人の容疑で逮捕されたのだ。

「日ごろから母と祖母に勉強しないことを叱られていた。事件当日も朝、家を出ようとした際に祖母に『勉強をきちんとしているか』と言われて口論になり、母と祖母の殺害を決意した」

少年は取調べでそう供述していたが、公判では、動機や事件のきっかけについて「興味がない」「知らない」と他人事のような供述に終始。逮捕当初の供述については「動機を言わないと面倒なので、そう言った」と説明し、母と祖母を殺害した思いを聞かれても「特別な感情はない」と言い放ったのだった。

そんな少年について、精神鑑定医は、「他者とのコミュニケーションが難しく、保護的な生活環境で対人関係の構築や共感性を育むことが必要」と証言。加えて、被害者遺族でもある父親が少年法に基づく保護処分を望んだこともあり、横浜地裁は少年の家裁移送を決めたのだが、公判で父親の証言を聞いていると、今回の事件が父親にとってもまったく突然の出来事だったことがよく伝わってきた。

「今思えば、息子は子供の頃、おもちゃの鉄砲で友だちを撃ち、妻に『なぜ、そんなことをしたのか』と聞かれた際に『別に』と言っていたことがありました。しかし普段の生活では、突然怒り出すようなこともなく、わりと活発で、友達もいる子でした。母と妻を刺すとは、想像もつきませんでした」

父親は事件の数か月前から他県に単身赴任しており、この間、2週間に1度家に帰る時以外は妻に電話もメールも一切していなかったという。息子の高校受験についても相談にのることはなかったそうで、家族とのコミュニケーションは乏しかったかもしれない。「息子と全力で向かい合っていれば、事件は防げたのではないかという思いもあります」との言葉からは父親が自責の念に苦しんでいることも察せられた。

◆「息子と一緒に生きていかないといけない」

父親は現在、自宅近くにアパートを借り、少年の妹である中学生の娘と2人で暮らす。働きながら家事全般をこなして娘の面倒をみながら、少年が収容された拘置所にも週1回、面会に通っているという。まだまだ事件の傷が癒えることはないだろうが、少しずつ前に進んでいる様子も窺えた。

「息子は一生、十字架を背負うことになりました。私も時折、気が滅入ることもありますが、これからも息子と一緒に生きていかないといけないという思いが今は強くなっています」

父親のそんな話を聞きながら、自分が同じ立場に置かれたらどう生きるだろうかと想像し、筆者はこの父親に尊敬の念を抱かずにいられなかった。公判では、少年の姿はツイタテで隠されており、表情などは窺えなかったが、母と妻を殺害した息子と共に人生を歩もうとしている父親の思いを少しでも感じ取っていて欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』

広島市の中心部からそう遠くない住宅街に、独特の存在感を醸し出している建物がある。写真(1)の物件がそれだ。家のようにも倉庫のようにも見えるが、側面と背面には窓が1つもない。そして正面に張り出されたプレートには、こんな気合の入った(?)メッセージがしたためられている。

(1)側面と背面には窓が1つもない問題の建物

問題の建物に掲げられたメッセージ

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町内の皆さんへ

長らくお待たせしました。
再開発部の手抜き工事が原因で、心配や迷惑をおかけしましたが、皆さんのご支援のおかげで、未だ原状回復は途中ですが、耐震工事だけは出来ました。
(修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした。)
何卒今後共宜しくお願い申し上げます。

事件番号28ヨ53 A子(※原文は実名)

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この建物があるのは広島市南区の段原地区。このあたりは爆心地とは山で隔てられ、原爆による消失を逃れたが、そのために戦後は道路や下水道などの整備が遅れ、以前は狭く入り組んだ道に老朽化した家が軒を連ねていた。しかし70年代初頭から40年余りかけて再開発され、現在は真新しい家が立ち並ぶ、市内屈指の人気住宅街に生まれ変わっている。

そんな中、この建物の持ち主は、広島市が再開発のために家の建物を仮換地に移動させた工事が〈手抜き工事〉だったために損害を負い、〈未だ原状回復は途中〉の状態だと訴えているのだ。それにしても、〈修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした〉とは、何やら物騒な雰囲気だが・・・。

結論から言うと、この建物はずいぶん複雑な事情を抱えているのである。

◆メッセージの主は最高裁で逆転無罪を獲得

(2)今年初めまではこんなボロボロの状態だった問題の建物

筆者がこの建物に関心を持ったのは昨年秋ごろのことだった。実はこの建物、今年初めまでは写真(2)のようなオンボロのたたずまいで、当時は次のようなメッセージをしたためたプレートが掲げられていた。

〈裁判上修理ができることになりましたので、実行しようとしたら逮捕され投獄されました。「無罪」でしたがくり返さない為にももうしばらくお待ちいただくようお願い致します〉

「無罪」とは一体何のことかと調べてみると、このメッセージの主であるA子さん(83)は最高裁で逆転無罪判決を勝ち取ったという稀有な経験の持ち主だとわかった。関連の新聞報道や最高裁判決(http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=37833)によると、事件の経緯は次のようなものだとされていた。

地元で不動産会社を営んでいるA子さんが別の不動産会社の男性社員(当時48)の胸を両手で突いて転倒させ、後頭部に1週間のケガを負わせたとして逮捕されたのは2006年12月のこと。そしてA子さんは傷害罪で起訴され、広島地裁の一審で罰金15万円、広島高裁の二審では暴行罪が適用されて科料9900円を宣告された。しかし、最高裁の上告審では、2009年7月、「正当防衛」だったとするA子さん側の主張が認められ、無罪を宣告されたのだ。

では、なぜ、正当防衛が認められたのか。

最高裁判決によると、冒頭の建物やその敷地は登記上、A子さんの会社と男性の会社が共有していたのだが、A子さんが建設会社に原状回復や改修の工事をさせたところ、被害男性の会社が工事の中止を申し入れ、サッシのガラス10枚を割るなどして妨害。さらに毎日現場にやってきて、作業員などにすごむなどしたため、工事は中止になったという。そして事件当日、被害男性が「立入禁止」の看板を設置しようとしたためにA子さんとトラブルになり、Aさんが暴行に及んだ――。

最高裁は、事件の事実関係を以上のように認定したうえ、被害男性らが「立入禁止」の看板を設置することは〈違法な行為〉で、〈嫌がらせ以外の何物でもない〉と指摘。さらに男性がA子さんに胸を突かれて転倒したのは、大げさに後ろに下がったことや看板を持っていたことからバランスを崩したためである可能性も否定できないとし、A子さんの暴行は「防衛手段として相当性の範囲を超えたものとはいえない」と判断したわけだ。

最高裁の判決をみると、被害男性やその会社が何やらとんでもない悪者のように描かれている。だが、事件のその後を取材したところ、事件の実相は最高裁判決の内容とかなり異なっているのだ。

◆無罪の根拠がことごとく否定された民事訴訟

(3)廃墟であることは一目瞭然

筆者はまず、A子さん本人に取材を申し込んだのだが、電話口でA子さんは「あれは無罪でも嘘の無罪じゃから。私はおもしろくないんですよ」と最高裁の逆転無罪判決を批判した。そして、「正当防衛もくそもないんよ。私は被爆者で、甲状腺のガンや食道ガンやらやって、手の自由がきかんのじゃけえ、暴力をふるえるわけないでしょう」と被害男性に暴行したこと自体がでっち上げだったかのように訴えた。さらに「要するにヤクザ相手じゃから」と被害男性の会社が暴力団であるかのように言い、「泣き寝入りしたくないけえ、がんばりよるんよ」と被害男性の会社相手に民事訴訟を起こしていると明かしたのだった。

そして結局、取材は断られたのだが、A子さんと夫は被害男性の会社を相手取り、複数の民事訴訟を広島地裁に起こしており、それらの訴訟記録を見たところ、意外な事実がわかった。民事訴訟では、A子さんの暴行を「正当防衛」と認めた最高裁の事実認定を否定するような判決が出ていたのだ。

それは、A子さんが夫と共に2009年、被害男性の会社に嫌がらせ行為をされて損害をこうむったとして、約1億2600万円の損害賠償を求めて広島地裁に起こした訴訟の判決だ。昨年4月に出たその広島地裁の判決は、最高裁が被害男性の会社の人間が建物のサッシのガラス10枚を破損したと認定したことについて、「そのようなことがあったと認める証拠はない」と否定。また、被害男性の会社が改修工事の申し入れを求めたことについては、「その態様は、暴言、脅迫に及ぶなど社会相当性を逸脱するものではない」と違法性も否定した。さらに「被害男性が警察官に虚偽の申告をしたり、公判で虚偽の証言をしたと認めるに足る証拠もない」と判示しており、最高裁がA子さんの暴行を正当防衛だったと認めた根拠はことごとく否定された格好なのだ。

さらに意外だったのは、「暴力団問題」をめぐる事実関係だ。先述したようにA子さんは筆者に対し、被害男性の会社があたかも暴力団であるかのように述べていた。そして民事訴訟でも、同様の主張をしていたのだが、広島地裁の判決は被害男性の会社について、「暴力団と人的関係や取引上の関係を有していることを裏づける証拠はない」と認め、A子さんの主張を否定。それどころか、民事訴訟では、むしろA子さんのほうが暴力団と関係があったことまで明らかになっているのだ。

◆暴力団の構成員も法廷に登場

(4)泥棒も寄りつかなそうだ

「A子さんの書かれている(陳述書)内容をお読みしまして、あまりにも事実と反するし、法廷で話をちゃんとしておくべだと私は思ったのです」

民事訴訟の法廷でそう証言したのは、A子さんの依頼により問題の建物の改修工事をしていた建設会社の経営者Bさんだ。

A子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、実は写真(1)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在する。A子さんはこれらの物件について、約2700万円と引き換えに被害男性の会社の共有部分をすべて自分たちのものにすることを求める訴訟も起こしているのだが、この共有物分割事件の訴訟にBさんは証人として出廷したのだ。

A子さんはこの訴訟で、被害男性の会社の人間たちが暴力団関係者で、様々な嫌がらせをされてきたかのように陳述書で訴えていた。それによると、A子さんの依頼で改修工事にあたっていたBさんらは、被害男性の会社の関係者たちに毎日のように脅かされ、恐れをなして工事を投げ出し、逃げ出したとのことだった。Bさんによると、このA子さんの主張が「あまりにも事実に反する」というのだ。

(5)窓がないのも不気味

民事訴訟で明らかになったBさんに関する事実関係で何より驚かされたのは、Bさん自身が当時、山口組系の暴力団の構成員だったことだ。Bさんの証言によると、A子さんの仕事を請け負った際、A子さんから被害男性の会社について、「地元の暴力団がらみの地上げ屋で、かなりあくどいことをやっている」と聞かされていたという。しかしBさんはこれに対し、「私は大阪のほうで山口組の関係でしたんで、ああ、そんなことは大丈夫です、と胸をたたいた次第です」というのだ。被害男性の会社は暴力団であるかのように訴えていたA子さんこそが暴力団に仕事を依頼していたのである。

「被害男性の会社の社員たちにヤクザ風の雰囲気はまったくなく、工事をやめてくれないかと小さな声で言ってきたが、無視していました」

そう証言したBさんによると、工事を途中でやめた理由は、被害男性の会社に嫌がらせを受けたからではなく、「被害男性の会社が建物の半分の所有権を有していることがわかり、このまま工事を続けて損害賠償を請求されたら、とんでもないことになる」と思ったからだという。

そしてBさんは、さらに衝撃的な事実を明かしている。A子さんは民事訴訟の中で、2度に分けてBさんの会社に1500万円の工事代金を支払っていたと訴え、Bさんの会社名義の1500万円の領収書のコピーも示していたのだが、Bさんはこの1500万円を「受け取っていません」と言うのだ。

「A子さんの会社からもらった着手金は60万円です。それ以降、250万円か300万円くらいの間だったと思いますが、ちょくちょく頂いていました」(Bさん)

このBさんの証言が事実なら、A子さんの会社がBさんの会社に支払った工事代金はせいぜい300万円から360万円程度か。A子さんがこのことについて、どんな税務処理をしているのかは気になるところだ。

◆異様な雰囲気を醸し出すオンボロな建物

(6)敷地は駐車場として貸し出されている

また、先述したようにA子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、写真(1)(2)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在するが、現地で確認したところ、いずれも写真(3)(4)(5)(6)のようにオンボロの建物ばかり。新しい家が立ち並ぶ人気住宅街の中で異様な雰囲気を醸し出している。

A子さんはこれらの物件についても、広島市の仮換地への移転工事が適切ではなかったと主張。夫と共に広島市に対し、約1億8000万円を求める訴訟も起こしているのだが、これらの建物のオンボロぶりを見る限り、すべてが広島市の移転工事のせいだとは思い難いところだ。

A子さんはかなり個性的な生き方をしている人なのは間違いないが、これらの訴訟はいずれも現在、進行中だ。その動向については、今後も折をみて、お伝えしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

奈良県田原本町で、名門私立高校の1年生だった16歳の少年が自宅に放火して全焼させ、父の再婚相手である継母と異母弟妹の計3人を焼死させる事件が起きたのは2006年6月20日のこと。この衝撃的な事件は、医師である父親の少年に対するスパルタ教育が背景にあり、少年は父親を殺害するために火を放ったということがセンセーショナルに報道されていた。あれから10年、現場を訪ねて「事件の今」を追った。

現場の跡地は事件後、少年の父が買い取ったそうだ

◆現場跡地は少年の父が買い取り

現場は近鉄橿原線の田原本町駅から徒歩で約10分程度の閑静な住宅街。事件発生当時にマスコミ報道で見かけた、無残に焼け落ちた家屋の姿はもうなく、現場は雑草が生い茂る空き地になっていた。立入禁止のロープが張られているのが唯一、過去に何か事件があったことをしのばせる。

「あの当時、このへんの家は取材がいっぱい来て、大変だったみたいですね」と話を聞かせてくれたのは、たまたま通りかかった近所の男性だ。現場の土地は事件後、火災発生時は自宅に不在で難を逃れた少年の父が買い取ったのだという。

「この家の人たちは事件の数年前に移り住んできて、この家を借りて住んではったんです。でも、ああいう事件があったんで、家主さんはこの家のお父さんに土地を買い取ってくれるように求めたんです。こんな事件があった土地、もう借り手も買い手も見つからんやろうからね。ほんで、この土地は今、事件のあった家の人らの持ち物ですわ」

これまで報道されてきた情報では、少年の父は、少年を自分と同じように医師にすべく、長年に渡って暴力も交えた虐待のようなスパルタ教育を行っていたとされる。だが、男性によると、少年の家族は「どこにでもいそうな普通の人たち」だったという。

「勉強のことで子供に厳しくするのは、普通はお母さんでしょ。あの家の場合、それがお父さんやったみたいですが、普通の家族と違っていたのはそれだけじゃないですかね。そんなに交流があったわけじゃないけど、亡くなったお母さんは道ですれ違ったら普通に挨拶してますし、本当に普通の人やった。火をつけた子も普通の賢い、しつけの行き届いた坊ちゃんいう感じでしたよ」

そんな少年に対し、地元では事件が起きた当初から同情が集まり、自治会の人たちは少年の刑を軽くすることを求める署名を集めて回ったのだという。

◆地元の人はネットの噂を否定

インターネットでは、少年の父が事件後、医師を辞めたかのような噂が飛び交った。だが、男性はこの噂を否定した。

「お父さんは、今も普通に医者として働いているように聞きますよ。事件の頃に勤めてはった病院とは、別の病院に勤め先が変わってるみたいですけどね」

男性によると、少年の父が事件のころに勤めていたのは、自宅から60キロ近く離れた三重県の病院だったという。「お父さんは今もこのへんで暮らしてはるそうです」とのことだが、通勤時間にゆとりのある病院に勤務先を変えたのではないかとふと思った。

父の虐待による広汎性発達障害と診断された少年は、奈良家裁で刑事処分より保護処分が適切だと判断され、中等少年院に送致されている。しかしその後、少年に対する精神鑑定を実施した医師が女性ジャーナリストに鑑定資料を漏えいさせ、秘密漏示罪で逮捕、起訴されるという騒ぎも起き、事件は再び社会の耳目を集めた(結果、医師は有罪判決を受けたが、女性ジャーナリストは不起訴)。男性は「事件だけでも大変なのに、ああいうつまらんことが起きて、家の人らはなおさら大変だったでしょう」と振り返り、しみじみとこう語った

「あの子はもう出てきてるでしょう。今はどこで何をしとるんか知らんけど、あの子やったら、ちゃんとやってるんやないかな。それこそ医者になっとるかもしれんと思いますよ」

現場は今、年に2回ほど、シルバー人材センターから派遣されてきた人たちが草刈りをしているという。このエピソードからも、少年の父らが責任感のある誠実な人たちであることが窺える。少年は今、26歳。彼が起こした不幸な事件はなかったことにはできないが、きっと堅実に更生の道を歩んでいるのだろうと筆者にも思えた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

年末になると、テレビ、新聞が一斉に事件の現状を報道する世田谷区一家殺害事件をはじめ、重大な未解決事件は毎年訪れる「事件から×年」の節目の日にマスコミで取り上げられるのが恒例だ。

高橋さんが綴った手記

そんな中、重大な未解決事件でありながら、一切そういう報道が行われていないのが、1988年6月20日に起きた横浜市鶴見区の金融業者夫婦殺害事件だ。

というのも、この事件では、発生からまもなく、現場の金融会社に出入りしていた小さな電気工事会社の経営者で、高橋和利さんという当時54歳の男性が強盗殺人の容疑で逮捕されている。高橋さんは裁判で無実を訴えたが、1995年9月に横浜地裁で死刑判決を受け、控訴、上告も実らずに2006年に死刑が確定。現在も無実を訴えて再審請求しているが、なかなか裁判所に無実の訴えを認められない状況だ。

つまり、この事件が未解決事件として報道されない理由は、「高橋和利という犯人が捕まっている」という幕引きが公式になされているからだ。それに対し、筆者がこの事件を未解決事件と呼ぶのは、犯人とされている高橋和利さんは冤罪で、無実だと思っているからである。

◆「真実ではない」と裁判所も認めた自白で死刑に

では、そもそもなぜ、高橋さんはこの事件の犯人とされたのか。

元をただせば、警察が高橋さんを犯人だと誤認したのは、仕方ない面もある。事件の日、被害者夫婦が営む小さな金融会社に顔を出した高橋さんは、夫婦が頭から血を流して倒れており、何者かに殺害されているのを目撃しながら、警察に通報しなかった。その場に残されていた紙袋の大金(1200万円分の札束)に目がくらみ、持ち去ってしまったからだ。高橋さんは当時、義弟(妹の夫)の借金を肩代わりしたことから金策に追われ、冷静な判断ができない状態だったのだ。

警察は事件直後、現場の金融会社に出入りしていた高橋さんがあちこちに借金を返済している情報をつかんだ。そして高橋さんを連行し、容疑を追及。高橋さんは金を持ち逃げした弱みもあり、ほどなく強盗殺人の犯行を自白したのだった。ここまでの経緯をみると、高橋さんにも自業自得の面はあったろう。

だが、裁判では、事実上唯一の有罪証拠である自白には、様々な問題が散見された。まず、高橋さんの自白では、被害者らをバールで殴ったり、ドライバーで刺して殺害したことになっていた。しかし、「犯行後、凶器はゴミ集積場に捨てた」と高橋さんが自白しているにも関わらず、この2つの凶器は見つかっていない。さらに公判段階になり、弁護側の請求によって裁判所が職権で遺体の状況に関する再鑑定を行ったところ、鑑定医は、捜査段階に解剖医が示した「凶器はバールとプラスドライバーと推定される」との見解を「牽強付会だ」と否定した。こうして高橋さんの自白を裏づける決定的な証拠は何もない状態になったのだ。

そもそも凶器をめぐっては、高橋さんの自白は、「まず、被害者のうち夫のほうをバールで首やあごを殴って殺害し、次に妻を殺害した際には、まずバールで頭部を殴り、それから凶器をプラスドライバーに持ち替えて背中や胸を多数回刺し、その後に再び凶器をバールに持ち替えて頭部を殴打して殺害した」という大変不自然な内容になっていた。

被害者2人の遺体に複数の凶器を使われたとみられる傷跡があるなら、本来、犯人は複数だと考えたほうが自然ではないか。実際、弁護人の大河内秀明弁護士によると、警察も当初は複数犯だとみていたという。

「警察は高橋さんを任意同行した際、高橋さんと一緒に仕事をしていた配管工の男性も共犯者と疑って任意同行しています。しかし、この男性にアリバイがあることがわかり、犯人が高橋さん一人に絞られた。また、担当検事は高橋さんを起訴後も拘置所に何度も会いに来て、しつこく共犯者の名前を聞き出そうとしていたのです」

高橋さんの無実の訴えを退けた第一審判決、控訴審判決共に「被告人の自白には、真実ではないものが含まれている」と認めざるをえなかった。それでいながら、そんな信用性の乏しい自白をもとに無実を訴える被告人に死刑を宣告しているのだから、空恐ろしくなってくる。

高橋さんが今も拘禁されている東京拘置所

◆別の犯人が存在することを示す事実

この事件には、高橋さん以外の犯人が存在することを示す事実も散見される。というのも、被害者夫婦が殺害された後、事件現場から無くなっていたのは、高橋さんが持ち去った大金入りの紙袋だけではなかったのだ。

現場の金融会社は事件の4カ月前にも窃盗に入られ、融資の借用証や不動産の権利証などの重要書類を盗まれていた。それ以後、被害者の夫は会社の重要書類を布袋に入れて持ち歩いていたのだが、その布袋が事件後、見当たらなくなっていた。また、高橋さんが持ち去った紙袋の1200万円の札束について、被害者の夫は銀行から持ち帰る際に黒いカバンに入れていたのだが、このカバンも現場から消えていた。高橋さんが現場に顔を出す前に別の人物(たち)が被害者夫婦を殺害し、これらの物を持ち去ったとみても何もおかしくないだろう。

筆者はこの春、編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)を上梓したが、現在82歳の高橋さんもこの本に書き下ろしの手記を寄稿してくれている。

〈私をこの歳まで生き永らえさせているものは、足の先から頭の天辺にまで詰まり凝り固まっている司法権力への失望と満腔の怒りだ〉

そんな書き出しで始まる高橋さんの手記は、無実の罪で死刑囚へと貶められ、30年近くも牢獄に留め置かれていることへの憤りが連綿と綴られ、なんとも言い難い迫力がある。事件発生から今年の6月20日で28年になった。高橋さんが生きているうちに雪冤がなされ、一日も早く2人の生命を奪った真犯人が捕まって欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

1992年2月に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が何者かに殺害された「飯塚事件」。一貫して無実を訴えながら死刑判決を受け、08年に死刑執行された久間三千年さん(享年70)には、冤罪の疑いが根強く指摘されている。その死後、遺族が起こした再審請求は14年に福岡地裁で退けられたが、現在福岡高裁で進行中の即時抗告審が重大局面を迎えた。

5月30日に福岡市内で会見した弁護団によると、福岡高裁(林秀文裁判長)はこの日、弁護人が求めていた警察庁科警研の笠井賢太郎技官に対する尋問を実施すると決めた。この事件では、10年に再審無罪判決が出た足利事件同様に科警研がMCT118型検査という手法で行った黎明期の稚拙なDNA型鑑定が有罪の決め手だったことは有名だが、笠井技官は坂井活子技官、佐藤元技官と共にこのDNA型鑑定を行った人物だ。が、今回の尋問はDNA型鑑定ではなく、血液型鑑定に関して行われるものだという。

5月30日、福岡県弁護士会館で会見した飯塚事件再審請求弁護団

◆血液型鑑定実施の科警研技官の尋問が決定

弁護団の説明では、笠井技官は捜査段階に被害者の遺体から検出された試料について、血液型鑑定も行い、犯人が久間氏と同じB型だと結論していた。しかし、福岡地裁の再審請求審で行われた筑波大学の本田克也教授の尋問で、笠井技官が血液型鑑定の際に行うべき「裏試験」などを行っていなかったことが明らかに。即時抗告後に本田教授が行った血液型鑑定に関する実験の結果も踏まえ、福岡高裁は笠井技官の尋問を決定したという。

犯人の血液型を「AB型」だと主張している弁護団の徳田靖之弁護士は、「これで、犯人の血液型が(久間氏と同じ)B型であるという認定は崩れ、犯人は“AB型”か、“A型もしくはB型”というところまで後退するだろう。証拠構造の2つの柱のうち、MCT118型検査はすでに崩れているが、これでもう1つの柱も崩れることになる」と説明。笠井技官の尋問は、早ければ10月中に行われる見通しだが、この即時抗告審の分岐点になりそうだ。

◆また不正捜査の痕跡が明るみに

また、弁護団によると、有罪の大きな根拠とされた遺留品発見現場での目撃証言に関する重大事実も明らかになったという。というのも、再審を認めなかった福岡地裁の原決定では、事件が起きた13日後の92年3月4日、目撃証人が県警の捜査員に「紺色、後輪ダブルタイヤの車を遺留品発見現場で目撃した」と供述したとする捜査報告書が存在することを根拠に、この目撃証人が捜査員の誘導を受ける可能性のない時期から久間氏の車と特徴が同じ車を遺留品遺棄現場で目撃したように供述していたと認定されている。しかし弁護団が記録を検証したところ、実際には、その日以前に県警が犯人の車を久間氏の所有するマツダステーションワゴン・ウエストコーストに絞り込んでいたことを示す捜査報告書が存在したという。

つまり、県警は目撃証言をもとに久間氏の車を犯人の車だと特定したのではなく、久間氏の車を目撃したような証言になるように目撃証人を誘導したことを示す事実が見つかったということだ。この目撃証言はそもそも異様に詳細で、捜査員に誘導された疑いが根強く指摘されてきたが、その疑いがますます強まったと言っていい。

筆者はこの事件の再審請求の動向をずっと取材してきたが、この間、冤罪を疑わせる数々の事実と共に目の当たりにしてきたのが、こうした不正捜査の痕跡だった。それゆえに思い出さずにいられないのが、久間氏の死刑に関与した「責任者」たちを取材した時のことである。

◆取材に応じずに逃げた「責任者」たち

筆者は今年2月に上梓した編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)で、久間氏が死刑執行直前に再審無罪への思いを綴っていた遺筆や、久間氏に対する死刑執行の全過程が記録された法務省の内部文書を紹介した。それと共に、捜査や裁判、死刑執行の各段階に「責任者」として関与した警察幹部、検察幹部、裁判官、法務省幹部、法務大臣らへの直撃取材を試み、その結果をレポートした。

ただし、大半の者は適当な言い訳をして、取材に応じずに逃げるだけ。そんな中、久間氏に対する死刑執行の過程で手続きに必要な文書の名義人となっていた福岡高検の検事長経験者2人が取材に応じたが、2人は「単なる事務手続き」「昔のことなんで忘れちゃったなあ」などとあっけらかんと言った(※なお、同書では、取材対象者を全員、実名で表記している)。要するに久間氏は、不正な捜査により死刑囚へと貶められ、ろくに死刑執行の可否を検証されないままに処刑されたのだ。死刑台に上がり、首に縄をかけられた時、一体どんな思いだったろうか。

奪われた久間氏の生命はもう戻らない。しかしせめて、殺人犯の汚名を着せられた久間氏の名誉回復くらいはなされて欲しいと願わずにはいられない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

1999年頃に話題になった本庄保険金殺人事件で、殺人や殺人未遂、偽装結婚、保険金詐欺などの罪で服役したフィリピン国籍の女性が「この事件には関わっていない」と無実を訴え、さいたま地裁に5月17日付けで再審請求した。この事件に関しては、当欄で過去に何度か、首謀者とされる元金融業者の八木茂死刑囚(66)に冤罪の疑いがあることをレポートしたが、一貫して無実を訴える八木死刑囚にとっても、今回の女性の再審請求は追い風になりそうだ。

その女性は、アナリエ・サトウ・カワムラさん(51)。八木死刑囚と愛人関係にあったアナリエさんは、八木死刑囚や他2人の女性(いずれも八木死刑囚の愛人)と共謀し、保険金目的で2件の殺人、1件の殺人未遂をはたらくなどしたとして02年2月、さいたま地裁で懲役15年の判決を受けて確定。八木死刑囚は、債務者の男性たちを自分の愛人と偽装結婚させ、保険をかけたうえでトリカブトや大量の風邪薬を飲ませる手口で犯行を繰り返したとされるが、アナリエさんは被害男性3人中2人と偽装結婚しており、これまではすべての罪を認めていた。

◆有罪の根拠は「共犯女性」たちの自白だけだった

アナリエさんの再審請求に関して会見した弁護団(5月27日、埼玉弁護士会館にて)

では、このアナリエさんが無実を訴え、再審請求したことがなぜ、八木死刑囚の追い風になりそうなのか。それは、世間一般の真っ黒なイメージと裏腹に、八木死刑囚が裁判で有罪とされた根拠は事実上、アナリエさんを含む共犯女性3人の自白しかないからだ。したがって、アナリエさんが自白を撤回し、冤罪を訴えたことにより、八木死刑囚に対する有罪の根拠も崩れる可能性が出てきたのだ。

5月27日に埼玉弁護士会館で会見したアナリエさんの弁護団によると、アナリエさんは取調べで検察官に「ちゃんと罪を認めていれば、懲役は7、8年くらいになる」と利益誘導されて自白。懲役15年の判決を宣告された時は「話が違う」と控訴したが、検察官がただちに面会にやってきて、「ちゃんと服役すれば、仮釈放で大幅に早く出られるから」と説得されたために控訴を取り下げた。しかし結局、仮釈放が認められないまま満期まで服役させられたため、「ずっと検察官から嘘をつかれていたんだ」と思いを新たに。「真実を明らかにしたい」と偽装結婚以外の罪を否定して、このほどの再審請求に及んだという。

◆報道された「有力物証」は実は存在しなかった

もっとも、このアナリエさんの再審請求が八木死刑囚の冤罪主張の追い風になりそうだと言われても、ピンとこない人は少なくないだろう。何しろ、この事件に関しては、八木死刑囚らをクロと決めつけた報道合戦が大々的に展開されていた。たとえば捜査段階には、八木死刑囚の関係各所からトリカブトが発見されたとか、死亡当初は自殺として処理された被害男性の遺書が八木死刑囚の愛人の筆跡に酷似していたとか、有力な物証が見つかったような報道も相次いだ。ああいう報道に触れていたら、一般の人たちがクロの心証を固めるのは仕方のないことだ。

だが、実を言うと裁判では、これらの「有力物証」は検察官から一切示されていない。要するに、報道された「有力物証」はすべて、ガセネタだったのだ。

八木死刑囚は08年に最高裁で死刑確定したあと、すぐに再審請求したが、すでにさいたま地裁と東京高裁で再審の請求を退けられ、現在は最高裁に特別抗告中だ。この間、トリカブトで殺害されたとされる被害男性の1人について、複数の法医学者が実際は「溺死」だったという鑑定結果を示しており、「被害男性は自殺だった」とする八木死刑囚側の主張は科学的に裏づけられている。大量の風邪薬を飲まされて死傷したとされる残り2人の被害男性についても、2人はいずれも覚せい剤中毒に陥っており、大量の風邪薬を飲まされるまでもなく健康状態がきわめて悪かったことが明らかになっている。愛人女性たちの自白が崩れたら、トリカブトや大量の風邪薬を飲まされたことにより被害者が死んだという確定判決のストーリーを裏づける証拠は事実上、何もないと言っていい。

残る2人の愛人のうち、1人はすでに獄死しているが、大半の犯行を実行したとされる武まゆみ受刑者(48)は今も罪を認めたまま無期懲役刑に服しており、八木死刑囚が再審無罪を勝ち取るために越えないといけないハードルはまだ残されている。だが、かつてマスコミ報道で「真っ黒」なイメージに染められた八木死刑囚の再審無罪が次第に現実味を帯びてきた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

東京・池袋の東京芸術劇場で去る5月28日、帝銀事件の犯人とされて死刑判決を受け、獄中で40年近く無実を訴え続けながら87年に病死した平沢貞通さん(享年95)に関する第20次再審請求を報告する集会が開かれた。主催は「帝銀事件再審をめざす会」。

戦後まもない1948年1月、東京都豊島区の帝国銀行信濃町支店で起きたこの事件は、戦後の最も有名な事件の1つだ。東京都防疫班の消毒班長だと名乗る男が行員ら16人に青酸化合物を飲ませ、12人が死亡。男は現金16万4000円余りと金額1万7000円余りの小切手を盗み、ゆうゆうと逃げ去った。この世上まれにみる大量毒殺事件は、死刑判決を受けた平沢さんの犯人性に様々な疑問が投げかけられ、世紀の大冤罪として語り継がれてきた。

会では、第20次再審請求で提出された新証拠の鑑定を行った立命館大学の浜田寿美男特別招聘教授と駿河台大学の原聰教授が講演を行った。浜田教授は、心理学的分析によれば平沢さんの自白調書はむしろ無実の証拠と言えること、原教授は目撃証言が捜査の過程で歪められて信用性がないことなどを説明。弁護人による有罪認定の問題の解説などもあり、短い時間ながら、平沢さんがいかに杜撰な捜査、裁判で死刑囚にされたのかが改めてよくわかった。

平沢さんから贈られた絵画を手にする石井敏夫さん(2015年5月、自宅にて)

そんな会に参加しながら、筆者は今年4月8日に81歳で亡くなった1人の男性に思いを馳せていた。

◆全国各地で平沢さんの個展を開催

男性の名は、石井敏夫さん。宇都宮市で洋品店を営みながら、平沢さんが逝去するまで33年の長きに渡って支援を続けた人だ。有名なテンペラ画家だった平沢さんは生前、獄中で多くの絵画を描いたことで知られるが、平沢さんが絵を描くために画材を差し入れていたのがこの石井さんだった。

石井さんは、一洋品店の店主でありながら、地元宇都宮を皮切りに茨城、東京、神奈川、千葉、群馬、福島、北海道、三重、宮城・・・と全国各地で平沢さんの個展を開催。平沢さんが90歳を超え、老衰が進んで寝たきり状態になった時には、恩赦の同意書に署名してもらうために被害者や遺族のもとを回ったりもした。私財を費やした精力的な支援活動で、過酷な獄中生活を送る平沢さんを物心両面で支えた人だった。

◆平沢さんを見舞った29年後に・・・

この石井さんに筆者が思いをはせたのは、今年2月に上梓した編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)の制作に際し、取材させてもらっていたからだ。筆者は恥ずかしながら、同書の制作に着手するまで石井さんのことを存じ上げなかったのだが、石井さんは初対面の筆者に平沢さんとの思い出話をざっくばらんに語ってくれ、平沢さんから贈られた貴重な絵画や遺筆を同書で紹介するために快く提供してくださった。気さくで、温かみを感じる人だった。

会の終盤に「平沢さんを直接知る一番若い支援者」である細川次郎さんが行った報告によると、亡くなる2日前に石井さんを病院に見舞った際、「今日は4月6日ですよ。29年前の今日、八王子医療刑務所に、一緒に貞通さんに会いに行きましたよね」と語りかけると、石井さんは意識朦朧としながらも、細川さんの問いかけを理解できたような反応を示したという。石井さんの存在が平沢さんにとって過酷な獄中生活を生き抜く支えだったと同時に、石井さんにとっても平沢さんの支援は生きがいの1つだったのだろう。

逝去は残念だが、帝銀事件という歴史的事件の重要な関係者だった石井さんがご存命のうちに出会えたことは、取材者として幸運だったと思う。そして、平沢さんと石井さんの長年の交流のごく一部ではあるが、書籍という形で記録に残せてよかったと改めて思った。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

本人に直接取材したり、裁判を傍聴してみると、マスコミで大きく報道された事件の容疑者の実像が報道のイメージとずいぶん違うように感じることは多い。最近だと、福岡県筑後市のリサイクル店殺人事件の中尾知佐被告(47)がそうだった。

中尾知佐被告の裁判員裁判が行われている福岡地裁

◆数々の凶悪エピソードが報じられたが・・・

知佐被告が夫の伸也被告(49)と共に殺人などの疑いで逮捕されたのは2014年6月のこと。当時、筑後市でリサイクル店を経営していた2人の周囲では、様々な人物が行方不明になっているという情報が飛び交ったが、2人は最終的にリサイクル店の元従業員・日高崇さん(事件当時22)に対する殺人や、知佐の義弟・冷水一也さん(同33~34)とその息子・大斗君(同4)に対する傷害致死などの罪で立件された。

まぎれもない凶悪事件だったため、捜査段階からマスコミの扱いは大きかったが、その中でクローズアップされたのは、知佐被告のキャラクターだった。若い頃は中州でホステスをしていた知佐被告は評判の美人で、スタイルも抜群。ただし、気性は荒かった。リサイクル店では普段から些細なことで従業員を延々と怒鳴り続け、夫の伸也被告に命じて従業員たちに暴行させたりもしていた――。マスコミは当時、そんな数々の凶悪なエビソードと共に知佐被告が一連の事件の首謀者だったかのように伝えていたのだった。

◆案外地味な実物の本人

こうした情報に触れ、筆者は個々の情報の真偽はともかく、知佐被告に対し、「危険な香りを漂わせた美人妻」というイメージを抱いていた。実際、捜査段階に報道で見かけた知佐被告の写真では、ぱっちりした瞳が印象的で、非の打ちどころがない美人ぶりだった。しかし現在、福岡地裁で行われている知佐被告の裁判員裁判を傍聴したところ、実物の知佐被告は少々イメージが異なった。

案外、地味な感じなのだ。

白い丸首のカットソーに紺の薄手のカーディガンを羽織り、下はスリムのブルージーンズ。そんなラフないで立ちの知佐被告は化粧をしていないせいだろうが、瞳は報道のようにぱっちりしておらず、むしろ目は細かった。報道の写真では、40代後半の実年齢より若々しいように感じられたが、法廷では、2つに結った地味な髪型のせいもあってか、年齢相応の生活感を漂わせているように見えた。

不思議なもので、こういう案外地味な本人に接してみると、実はそれほど悪い人間ではないのでは・・・などと思えてくるのである。

◆「暴行には、金属バットを使った」と女性店長

もっとも、法廷に立ったリサイクル店の元店長の女性A子さんが知佐被告の人物像について語った内容は、すさまじいものだった。

A子さんの証言によると、リサイクル店では、従業員に報告ミスがあったり、掃除が遅かったりすると、知佐被告の指示により、店長のA子さんが従業員にビンタやゲンコツをしていた。A子さん自身が何かミスをした時には、知佐被告の指示により、他の従業員に頼み、自分にゲンコツをしてもらっていたという。

「こうした暴力は手加減せず、思いっきりやっていました。叩いた相手が知佐に『手加減されました』と言えば、自分が怒られるからです」(A子さん)

A子さんによると、やがて知佐被告は「ミスをして、ゲンコツやビンタだけではわからないから」と言うように。そして体罰に「金属バット」を使うことになったという。

「金属バットでは、従業員にケツバットをしていました。私以外では、伸也も金属バットで従業員にケツバットをしたり、体のあたりを叩いたりしていました」

被害者の1人、冷水一也さんは知佐被告にとって妹B子さんの夫で、B子さんと一緒にリサイクル店で働いていた。A子さんによると、知佐被告から「身内だから甘くする必要はない。厳しくするように」と言われており、この一也さんにも他の従業員にするのと同じように暴力をふるっていたという。

弁護人の隣にいた知佐被告は、A子さんの証言を顔色一つ変えずに聞きながらメモをとっていたが、途中でペンを持つ手の動きが止まり、何か思案しているようだった。無表情ではあるが、なんともいえない迫力を感じさせる女性でもあった。

公判が分離された夫の伸也被告も「暴行の9割は妻に指示された」と訴えている。

◆娘の映像に涙?

ただ、知佐被告はこの公判で殺人と殺人未遂の罪については、「暴力は夫がしたこと。私は指示していないし、夫と話し合ったこともない」と無実を主張している。夫の伸也被告は共犯者だし、店長のA子さんもある意味、共犯者だから、2人が知佐被告に罪を押しつける可能性もないわけではない。2人の証言がどこまで信用できるかは慎重に検討しなければならないだろう。

傍聴席には映像も音声も伏せられたが、公判では、知佐被告の娘に関係するとみられる映像が被告人や検察官、裁判員たちの前にあるモニターで再生された。この時ばかりは知佐被告は手で目をぬぐい、母親らしい感情を溢れさせているように思えた。

審理は9日まであり、24日に判決が宣告される予定だが、要注目裁判の1つだと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』

5月21日(土)から広島市安佐南区の「カフェ・テアトロ・アビエルト」で開催されている「冤罪を叫び続ける死刑囚の絵展」が好評を博している。

これまで店内で様々な個性的イベントを開催してきた同店。死刑囚が獄中で描いた絵の展覧会は、数年前から全国各地で開かれるようになっているが、その先駆けといえる存在でもある。

独特の存在感を放つ林氏の作品

◆ブームの火付け役にも刺激

同店が初めて「死刑囚の絵展」を開催したのは2012年の秋だった。死刑囚・大道寺将司氏(1948年~)の亡母・幸子氏が遺した預金で創設された基金によって毎年開催される死刑囚の作品展に寄せられた20数名の約50点の絵を展示した。同店のオーナー・中山幸雄氏がその作品展の主催者らと親交があった縁で実現したとのことだった。

そして翌年、この展覧会に刺激を受けた福山市の「鞆の津ミュージアム」のアートディレクター・櫛野展正氏が死刑囚37人の約300点の絵を集めた展覧会「極限芸術 ~死刑囚の表現~」を開催。これが全国各地から観客が殺到する大ブレイクとなり、死刑囚が手がけた芸術に広く注目が集まるようになった。

実を言うと、筆者が今年2月、冤罪死刑囚たちの書画を集めて制作した編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」も元々、アビエルトが開催した2012年の「死刑囚の絵展」に足を運び、感銘をうけたことから着想したものだった。

司法に対する強い憤りを表現した高橋氏の作品

◆7人の冤罪死刑囚の絵を展示

今回、同店が開催した展覧会は、冤罪を主張する死刑囚の絵を特集したもの。林眞須美氏、藤井政安氏、何力(フウ・リー)氏、松本健次氏、風間博子氏、金川一氏、高橋和利氏という7人の冤罪主張死刑囚の絵を展示している。

毎度なんともいえない情念を感じさせる林氏の絵は今回も会場で独特の存在感を放っていたが、他の6人の作品もそれぞれ独特の味わいがある力作ぞろい。画力の高さには定評がある風間氏と高橋氏は前掲「絶望の牢獄から無実を叫ぶ」にも書き下ろし手記を寄稿してくれているが、この展覧会でも自らの潔白を訴えかけてくるようなメッセージ性の強い作品を提供していた。今回も一見の価値がある展覧会になっていると思う。

なお、風間氏については、蜷川泰司氏の小説「迷宮の飛翔」に提供した挿し絵の原画も同時に展示。会の開催は6月5日(日)まで。同4日(土)には、蜷川氏によるトークイベントも開かれる。

風間氏の抽象画。開いた扉からあふれる光は「無実の希望」か

(1)「冤罪を叫び続ける死刑囚の絵展」の詳細は「カフェ・テアトロ・アビエルト」のHPにて。
(2)上記の櫛野氏が福山市につくったアートスペース「クシノテラス」でも「極限芸術2 ~死刑囚は描く~」が8月29日まで開催中。5月29日には都築響一氏、7月4日には茂木健一郎氏のトークイベントがある。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

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