当時の捜査関係者たちはいま、再審請求審の行方が気になって仕方ないだろう。もうすぐ発生から17年になる、和歌山カレー事件のことである。

札幌地検のホームページで検事正としてあいさつする小寺氏

1998年7月25日、和歌山市園部の夏祭りで何者かがカレーに猛毒のヒ素を混入し、60人以上が死傷した。捜査の結果、現場近くに住む主婦の林眞須美(当時37)が殺人などの容疑で検挙され、2009年に死刑確定したが、一貫して無実を訴える眞須美には冤罪の疑いが根強く指摘されてきた。そして今年、和歌山地裁の再審請求審で弁護側が「眞須美の周辺で見つかったヒ素」と「現場で見つかったヒ素」が異なるという京都大学・河合潤教授の意見書を提出。これに対し、地裁がどんな判断を下すかが注目されている。

そんな状況の中、今年の7月25日をいつも以上に特別な思いで迎えるに違いない捜査関係者がいる。小寺哲夫という。この事件の主任検事として捜査、公判を担当した人物だ。現在は札幌地検の検事正に出世しているが、今年3月で62歳になった。検察官の定年は63歳(検事総長のみ65歳)だから、小寺が現職の検察官として7月25日を迎えるのは今年が最後になる見通しだ。

そこで、筆者は今年の3月から小寺に対し、繰り返し手紙や電話で取材を申し入れた。検察を去る前に、和歌山カレー事件の捜査、公判で警察、検察が行った不正を洗いざらい打ち明けてもらうためである。

◆疑われているのは冤罪だけではない

というのも、この事件はかねてより冤罪の疑いのみならず、捜査、公判を通じて警察、検察が数々の不正を行った疑いも指摘されてきた。

たとえば、眞須美宅の台所で見つかったとされる「ヒ素の付着したプラスチック容器」はこの事件の最重要物証だが、捜査員によるねつ造説が根強い。事件発生から2カ月以上経ち、眞須美が逮捕されてから行われた家宅捜索で発見されたうえ、表面にヒ素を意味する「白アリ薬剤」という言葉が大きく書かれているという不自然なシロモノだからである。

また、眞須美は事件以前から夫の健治や知人の男らにヒ素や睡眠薬を飲ませ、保険金詐欺を繰り返していたとされ、この「事実」が裁判ではカレー事件の有罪の状況証拠とされている。しかし、これも実際には、保険金をだまし取るために詐病で入院を繰り返していた健治や知人の男らを警察、検察が「被害者」にでっち上げた疑いが指摘されている。そもそも健治は公判で「ヒ素は自分で飲んでいた」と告白しているし、知人の男らは捜査段階に警察官宿舎で数カ月に渡って捜査員らと寝食を共にしていたことなど不審な点が多いためである。

和歌山カレー事件の捜査、公判でこのような不正が行われた疑惑の真相について、捜査、公判共に担当した検事である小寺が何も知らないことはありえない。だからこそ筆者は小寺に取材を申し入れたのだ。

◆繰り返された場当たり的な回答

取材依頼の手紙は5回に渡り返送されてきた

結論から言うと、小寺は筆者の取材依頼に対し、逃げ回るような対応に終始した。筆者は3月から6月にかけて5回に渡り、小寺に手紙で取材を申し入れたのだが、そのたびに同封しておいた切手やテレフォンカードと一緒に手紙がそのまま送り返されてきた。筆者もそのたびに札幌地検に電話し、小寺に取り次ぐよう求めたが、小寺は広報担当者に対応を任せ、自分は一度も電話に出ないという姑息な態度を繰り返したのだ。

もっとも、こうしたやり取りの中で興味深かったことがある。小寺は筆者の手紙を返送してくるたび、広報担当者に指示し、取材を断るコメントをワープロ打ちした紙切れを同封してきたのだが、そのコメントがいつも場当たり的なごまかしの内容だったのだ。

まず、最初の2回の取材依頼の手紙に対し、小寺が返送する際に同封してきた紙切れのコメントは次のようなものだった。

〈具体的な事件の捜査、証拠関係についての取材には応じられません。〉

まさに木で鼻をくくったような回答だ。ただ、札幌地検の広報担当者に電話で確認したところ、筆者の取材依頼の手紙は地検に到着後、小寺本人に渡る前に他の職員が開封していたという。それでは小寺も部下の手前、このような取り繕ったコメントしかできないだろう。

そこで、小寺に対する3回目の取材依頼の手紙は、札幌地検の職員を使わずに自分自身で対応するようにしたため、封筒に「親展」と朱書きして送付したところ、返送されてきた手紙に同封された紙切れのコメントは次のようなものだった。

〈事件の取材は、検察庁の広報を通じて対応致します。
検察官には守秘義務があり、検察官が個別の事件について、個人として取材を受けることはありません。〉

小寺は個人として取材を受けないことを正当化すべく、このような弁明をしてきたのだ。しかし筆者は手紙で小寺に対し、取材を依頼する趣旨は和歌山カレー事件の捜査、公判で警察、検察が不正を行った疑惑に関する事実確認だと伝えてある。検察官が個人的に捜査、公判で行った不正を取材者に明かしても、それは通常、「正当な内部告発」や「犯行の自白」と認められ、守秘義務違反に問われることはない。小寺の弁明は明らかに失当だ。

4回目の手紙でそのことを伝えつつ、改めて取材を申し入れると、今度は返送されてきた手紙に次のようなコメントが書かれた紙切れが同封されていた。

〈捜査・公判において不正を行った事実はありません。
検察官には守秘義務があり、検察官が個別の事件について、個人として取材を受けることはありません。〉

要するに、小寺も捜査、公判での不正に関する取材依頼については、「守秘義務違反になるから個人で取材には応じられない」という弁明が通用しないことは理解したらしい。そこで今度は「不正を行った事実はない」と言い張って取材を受けずに済まそうとしたわけだ。

そこで筆者は小寺に対し、今度は取材で掴んだ事実をあててみた。それは、和歌山カレー事件の捜査、公判において、警察、検察が不正を行っていたことを裏づける次のような2点の事実である。

1、眞須美や健治と一緒に保険金詐欺をしていた人物の1人が検察官たちからその弱みにつけこまれ、眞須美に殺されかけた被害を訴えるように強要されていたことがこの人物の兄の証言により判明していること

2、眞須美が知人の男たちに睡眠薬を飲ませた現場とされる岸和田競輪場、近畿大学付属病院内の喫茶店、和歌山市内の喫茶店などにおいて、警察、検察が現場検証や目撃者探しなどの捜査をまったく行っていないことが現場関係者の証言などで判明していること

◆不正を認めたに等しい対応

5回目の手紙では、これらの事実を示したうえ、捜査、公判を担当した検事である小寺もこれらの事実を知らないはずはなく、小寺は本来なら証拠隠滅罪や犯人蔵匿罪などで処罰されるべきであることを指摘。そのうえで「反論したいことがあれば、反論するように」と求めた。すると、今度は返送されてきた手紙に次のようなコメントをしたためた紙切れが同封されていた。

〈検察官が個別の事件について、個人として取材を受けることはありません。〉

要するに決定的な事実を示され、小寺は不正を行っていないなどと言い張ることができなくなってしまったのだ。つまり小寺は事実上、和歌山カレー事件の捜査、公判において警察、検察が不正をはたらいていたことを認めたのである。

筆者はこの事件を長く取材し、林眞須美は冤罪だと確信しているが、今後、眞須美が冤罪であることが明らかにされる過程では警察、検察がはたらいた数々の不正も一緒に明らかにされなければならないと考えている。小寺ら捜査関係者に対する追及は今後も続けていく。

場当たり的なごまかしのコメントを繰り返した小寺氏

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑
◎「絶歌」で市民に「配慮」求めた明石市、不明瞭なアウト・セーフの線引き
◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容
◎国松警察庁長官狙撃事件発生20年、今年こそ「真犯人」の悲願は叶うか

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平澤貞通著「遺書帝銀事件―わが亡きあとに人権は甦えれ」(現代史出版会1979年4月)

犯罪加害者が自分の起こした事件を題材に本を出していいのか――。神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗こと元少年Aが上梓した著書「絶歌」(太田出版)をめぐり、そんな議論が続く中、私は大変不思議に感じていることがある。

この議論では、永山則夫や加藤智大、市橋達也ら著名な殺人事件の有罪確定者たちの著書があちこちで引き合いに出されている。それなのに、この議論に参戦する人たちはナゼ、以下のような本の存在を黙殺しているのだろうか?

平澤貞通著「遺書帝銀事件―わが亡きあとに人権は甦えれ」(現代史出版会)1979年4月発売 ※発売元は徳間書店
袴田巌著「主よ、いつまでですか」(新教出版社)1992年8月15日発売
菅家利和著「冤罪 ある日、私は犯人にされた」(朝日新聞出版)2009年8月20日発売
須田セツ子著「私がしたことは殺人ですか?」(青志社)2010年4月6日発売
高橋和利著「『鶴見事件』抹殺された真実―私は冤罪で死刑判決を受けた」(インパクト出版会 )2011年5月発売
林眞須美著「和歌山カレー事件―獄中からの手紙」(創出版)2014年7月発売

菅家利和著「冤罪 ある日、私は犯人にされた」(朝日新聞出版2009年8月)

すぐにピンときた人は少なくないだろう。ここで挙げた6人はいずれも「殺人事件の有罪確定者」という立場でありながら著書を上梓している。ただし、のちに再審で無罪を勝ち取った足利事件の菅家利和をはじめ、世間的には冤罪だと確信されているか、もしくは冤罪の疑いが根強く指摘されている。この6人の出版行為を否定する者はいないだろう。つまり、絶歌をめぐり議論になっていることの多くは、冤罪問題を入口に考えれば、議論せずとも答えが出ることなのだ。

こう言うと、「冤罪被害者の人たちを酒鬼薔薇のような犯罪加害者といっしょくたにするな」と思った人もいるだろう。しかし、「冤罪被害者」と「犯罪加害者」を完璧に見分けることは現実的に不可能だ。げんに、菅家をはじめ、ここに挙げた6人の著者たちも当初は世間の大多数の人たちから「正真正銘の犯罪加害者」だと認識されていたのである。

したがって、冤罪被害者が公に向けて無実を訴える機会を保証されるには、正真正銘の犯罪加害者が本を出す程度のことは当然に容認される社会である必要がある。もちろん、本を出すのに実名を明かす必要などないし、遺族に話を通す必要もない。冤罪被害者には、報道などを通じて無実を訴える際に匿名を望む人は存在するし、冤罪被害者が本を出すために遺族に話を通す必要がないことは論じるまでもないだろう。

林眞須美著「和歌山カレー事件―獄中からの手紙」(創出版2014年7月)

表現の自由は、ヘドの出るような表現にも保証されるものだ――というのは、よく言われることである。「絶歌」騒動を見ていると、まったくそのとおりだと改めて思う。ヘドの出るような表現を弾圧すると、一緒に真っ当な表現まで弾圧されることになる。だからこそ、ヘドの出るような表現も、表現の自由のもとに守られなければならないのだ。

絶歌騒動をめぐっては、「市の図書館では購入しない」と宣言し、書店に販売への配慮を求める発言までした明石市の市長という権力者が世間の多くの人から賞賛された。表現の自由をないがしろにする発言をした権力側の人間たちが大バッシングされている百田尚樹騒動より、こちらのほうがよほど表現の自由が危機にさらされている状況だと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容
◎献花が絶えない川崎中1殺害事件と対照的すぎる西新宿未解決殺人事件の現場
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プロ野球(NPB)広島の二塁手、菊池涼介の守備力の凄さはすでにあちこちで語り尽くされているから、ここで多くを語る必要はないだろう。守備範囲の広さの目安の1つとされる捕殺数で、二塁手のNPBシーズン最高記録は昨季の菊池の535個だが、歴代2位の528個もその前年に菊池が記録したものだ。大学からプロ入りして4年目で、早くも「NPB史上最高の二塁手」と評する声も聞かれるようになったが、それは決して大げさな評価ではない。

◆新たにクローズアップされる田中の守備力

そんな菊池のいる広島で、守備力が注目されるようになった選手がもう一人いる。今季、遊撃手のレギュラーに定着した田中広輔だ。プロ入り2年目だが、大学卒業後に社会人野球を2年経験しており、菊池とは同い年である。先日、この田中の守備力に光を当てたスポーツライター小中翔太氏の以下のような記事がヤフーで配信され、話題になった。

「田中の守備は菊池以上?広島鉄壁の二遊間の守備力はNPB史上最高」

筆者も広島在住のカープファンだから、広島の試合のテレビ中継はよく観ていて、以前から田中の守備力も凄いのではないかと感じてはいた。センターに抜けそうな打球を好捕したり、内野安打になりそうな難しい打球を素早く処理してアウトにしたりという田中の好プレーを目にする機会は非常に多いからだ。

とはいえ、小中氏の記事には、田中はそこまで凄かったのかと改めて驚かされた。何でも記事によると、田中は今季、半世紀以上破られていない遊撃手のNPBシーズン捕殺記録を大幅に更新する勢いで捕殺数を伸ばしているという。田中が遊撃手のシーズン捕殺数のNPB記録保持者になれば、菊池と田中の二遊間の守備力はたしかに「NPB史上最高」と評価されていいかもしれない。ところが……。

田中がそこまで凄いなら、今季の菊池はどうなのかと調べてみると、意外な事実がわかった。なんと今季の菊池の捕殺数が「激減」しているのである。

◆菊池の捕殺数はリーグ4位に低迷?

菊池の捕殺数は5月21日時点で、42試合で128個。これは仮に今季が昨季までと同じように144試合制だとしても(※実際には今季は143試合)、シーズンの捕殺数が前年比約100個減の439個程度にしかならないペースだ。さらにこの時点でのセ・リーグ各球団の二塁手の捕殺数を比較してみると……。

1位:石川雄洋(横浜)   146(44試合) 1試合平均3.32(1位)
2位:山田哲人(ヤクルト) 142(44試合) 1試合平均3.23(3位)
3位:上本博記(阪神)   141(43試合) 1試合平均3.28(2位)
4位:菊池涼介(広島)   128(42試合) 1試合平均3.05(4位)
5位:片岡治大(巨人)   106(40試合) 1試合平均2.65(6位)
6位:亀澤恭平(中日)    80(30試合) 1試合平均2.67(5位)
※このランキングは、日本野球機構オフィシャルサイトで公表された5月21日時点の記録をもとに筆者が作成

2年続けてNPB記録を更新した菊池の捕殺数が今季はここまでセの二塁手で4位にとどまっている。各選手の出場試合数は違うが、1試合平均の捕殺数を見てもやはり4位なのは変わらない。一体どういうことなのか?

『広島アスリートマガジン』2015年5月号(サンフィールド)表紙を飾った広島「史上最高の二塁手」菊池涼介選手

◆梵は引いてくれていたが……

菊池の捕殺数が激減している原因については、可能性の1つとして、菊池が実は今年不調で、守備範囲が狭くなったことも考えてみるべきだろう。しかし、それは「ない」と断言できる。テレビ中継を観ていても、菊池の守備はNPBの捕殺記録を更新した過去2年と比べても、むしろ凄みをましている。それは決して筆者だけが感じる印象ではないはずだ。

となると、菊池の捕殺数激減の真相は……、と色々調べたところ、その答えが示されているように思える資料が見つかった。広島地方のスポーツ誌「広島アスリートマガジン」(サンフィールド)の今年5月号で、菊池本人がインタビューで次のように語っている部分である。

* * * * 以下、引用 * * * *

――現状二遊間を組む相手が固定されていませんが、動きが変わるものですか?
変わりますね。梵(英心)さんの場合は「お前がいけるところはお前がいけ」と言っていただいているので、僕は梵さんの位置を確かめずに打球にいっています。僕が打球にパっといっていれば、梵さんは引いてくれているので僕はガムシャラに守るだけという感じです。広輔(田中)は僕目線でいうと肩が少し弱いので少し前にいたり、いろんなポジショニングをしています。広輔とは距離間というか、どこまで広輔が打球に来られるかが100%把握できていないので、僕の守り方も変わってきますね。(広島アスリートマガジン2015年5月号16ページより)

* * * * 以上、引用 * * * *

このインタビューは開幕当初、田中がまだ遊撃手のレギュラーに定着しておらず、前レギュラーのベテラン梵や木村昇吾と併用されていたため、こういう話題になったのだと思われる。菊池が当時、田中とはまだ梵ほどには息が合わないように感じていたことが読み取れるが、筆者が何より注目したのは「僕が打球にパっといっていれば、梵さんは引いてくれているので……」というくだりだ。

これは裏返せば、「菊池が打球にパっといっても、田中は梵のように引いてくれていない」ということではないだろうか。つまり、昨年まで梵と二遊間を組んでいた時なら菊池が処理していたであろう「二塁手と遊撃手のどちらでも処理できる打球」を今年は田中が処理する場面が増えているのではないか。そう考えれば、田中が遊撃手のNPBシーズン記録更新をしそうな勢いで捕殺数を伸ばしていることとも辻褄が合う。

いずれにせよ、二遊間に飛んだゴロを菊池が処理しようが、田中が処理しようが、アウトになればいいわけだが、広島の試合はこの球界を代表する存在になりつつある二遊間コンビの守備の微妙な距離間に注目して観戦するのも面白いかもしれない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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◎高まる逆転無罪の期待──上告審も大詰めの広島元アナウンサー冤罪裁判
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今から15年前の2000年5月中旬、東京都大田区のボウリング場周辺などを舞台に「トーヨーボール事件」と呼ばれる凄惨なリンチ殺人事件があった。この事件は新聞やテレビではあまり報じられていないが、ネット民にはご存じの方が少なくないはずだ。あの有名な半グレグループ「関東連合」が起こした事件だからである。

関東連合は2010年にメンバーが歌舞伎俳優の市川海老蔵に暴行した事件により、世間に広く名を知られるようになった。さらに2012年には六本木の「フラワー」というクラブで対立勢力の人物と誤認し、無関係の男性を集団で撲殺する事件を起こし、世間を震撼させた。そして大量の逮捕者を出したこの事件により、壊滅状態に陥ったと伝えられている。

トーヨーボール事件は関東連合が今ほど有名ではなかった頃に起こした事件だが、関東連合が起こした代表的な事件の1つとして語られることが多い。事件内容を簡潔に言うと、対立する暴走族の人間と誤認し、何の関係もない18歳の少年を集団で撲殺したというもので、のちの六本木フラワー事件とよく似ている。おそらく、そんな事件の概略もご存じの方が少なくないだろう。

だが、この事件の凄惨な被害状況の詳細は意外と知られていないのではないか。筆者がそう思うのは、この事件の全容を詳細に報じた記事などを見かけたことがないのに加え、近年発売された関東連合関係者らの著書でもこの事件の犯行状況の詳細はあまり詳しく書かれていないからだ。

かくいう筆者もこの事件の詳細はつい最近まで知らなかったのだが、先日、判例データベース(LEX/DBインターネット)で、被害者の父母がリンチ殺人を敢行した関東連合関係者11人を相手取り、損害賠償などを求めた訴訟の判決が見つかった。東京地裁民事第33部(浜秀樹裁判長)は2005年7月25日、被告の11人に対し、被害者の父に約2067万円、被害者の母に約1716万円を支払うことなどを命じているのだが、その判決で認定されたトーヨーボール事件の詳細な事実関係をここに紹介しよう。

◆抗争相手と誤認し、20数人で襲撃

被告の11人をはじめとする関東連合の関係者や交遊者総勢20数人(以下、被告ら)は2000年5月13日午前0時10分頃、当時抗争中だった暴走族組織「全日本狂走連盟」(以下、全狂連)の関係者らを報復目的で襲撃すべく、5台の車などに分乗してトーヨーボール付近に赴いた。そのあたりの路上で友人らと談笑していた被害者のAさんを全狂連の関係者と誤認し、襲撃しようとしたのである。ちなみにAさんは全狂連以外の暴走族とも何の関係もなく、食品販売会社の社員として働いていた18歳の健康な少年(独身)だった。

そして午前1時15分頃、被告らは金属バットなどの凶器を持ってAさんが乗っていた停車中の車を取り囲む。Aさんは恐怖を感じ、車を急発進させて20メートルほど後退させるが、操作を誤り、ガードレールに車の後部を乗り上げてしまう。そしてAさんの車は走行不能状態に陥った。

被告らはその状況をみて、一斉にAさんの車へ襲いかかる。そして金属バットなどでAさんの車の窓ガラスを叩き割り、ボンネットを乱打するなどした。さらに運転席側のドアをあけ、Aさんを外に引きずり出すと、金属バットでAさんの頭部、背部、腰部を殴打するなどの暴行を繰り返した。

トーヨーボールの目と鼻の先にあった池上警察。そんな場所で凶行は敢行された

◆助けを求める被害者を金属バットで執拗に暴行

さらに被告の一人が「らちれ!」と大声で指示すると、他の被告らがAさんを拉致すべく、自分たちの車に乗せようとした。Aさんは「勘弁してください、やめてください、お願いします、帰してください」と叫んでいたが、被告らはこれを聞き入れず、自分たちの車にAさんを押し込もうとした。そこでAさんはガードレールにしがみついて抵抗したが、被告らはAさんの頸部から背部にかけての身体の枢要部を金属バットで強く殴打するなど、手加減せずに激しい攻撃を加えた。

そのような激しい攻撃を加えられた結果、Aさんはガードレールから離れ、被告らによって車まで連行された。そして被告らは後部座席のドアをあけ、Aさんを車の中に引きずり込もうとしたが、ここでAさんがさらに抵抗する。すると、被告の一人がAさんの左の頬を右手拳で殴り、さらに別の被告がAさんに膝蹴りし、また別の加害者がAさんの後頭部をマグライトで強打した。すると、Aさんの首がガクッとして前倒れの状態となり、抵抗しなくなったため、被告らはAさんを車の中に押し込み、拉致監禁状態にした。

◆意識不明になってもライターであぶり、エアガンで撃つ

そして被告らは犯跡を隠匿し、警察による検挙から逃れるべく、5台の車と2台のオートバイなどに分乗し、Aさんを連れて約15キロ離れた世田谷区の東京都中央卸売市場「世田谷市場」に赴いた。そして市場に着くと、Aさんを車から引きずり下ろし、市場付近の路上に放置した。この時、Aさんはすでに意識を失っていたが、なおも被告らはAさんの前額部を路面に数回打ちつけるなどの暴行を加えた。さらに被告の一人が機関銃のような大型のエアガンで、意識を失っているAさんに対して連射し、プラスチック製の弾丸をAさんの腰に命中させ、Aさんの腹部に赤い斑点が残り、腫れ上がるほどの傷害を負わせた。

その後も被告らはAさんに対し、バケツで水をかけたり、Aさんの身体をライターであぶるなどの暴行を執拗に続けた。そしてAさんが意識不明の重篤な状態に陥っていることを知りながら、Aさんを車の荷台に押し込み、別の場所に放置するために出発。狛江市の東京慈恵会医科大学慈恵第三看護専門学校に到着すると、意識不明になっているAさんを荷台から路上におろし、そのまま放置して逃走した。

Aさんはその後、三鷹市の杏林大学医学部附属病院に搬送され、救急救命措置がとられたが、5月14日午後9時35分頃、一連の傷害に基づく脳挫傷とくも膜下出血により死亡した――。

以上が裁判で認められた事件の全容だ。この事件の概略は知っていても、ここまで凄惨な事件だったことは知らなかった人が意外に多いのではないだろうか。

新聞やテレビの事件報道では、被害者への配慮などから被害状況をあまり詳細に伝えない。それはそれで間違っていないと思うが、このトーヨーボール事件の被害状況の詳細がもっと世に広く知られていれば、のちの六本木フラワー事件が起きなかった可能性もあるのではないか。そんなことを思いつつ、発生から15年の節目に、この事件の凄惨な全容をお伝えしてみた。

トーヨーボールは今はなく、跡地はパチンコ店に

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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◎検察庁が現役検事の取調べ中のヘイトスピーチ疑惑を隠蔽か
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑
◎無罪判決を覆すため? 控訴審25回で出てくるのは検察側証人ばかり
◎国松警察庁長官狙撃事件発生20年、今年こそ「真犯人」の悲願は叶うか
◎高まる逆転無罪の期待──上告審も大詰めの広島元アナウンサー冤罪裁判

自粛しないスキャンダルマガジン『紙の爆弾』6月号発売中!

 


2009年度は2311件中3件、2010年度は2150件中1件、2011年度は2208件中1件、2012年度は2313件中1件、2013年度は2015件中1件……。これらの数字は最高裁で終局した刑事裁判のうち、有罪判決が破棄されて無罪判決が出た事例がどれほどあったかを司法統計をもとにまとめたものだ。最高裁での逆転無罪判決がきわめて珍しいことが統計によく表れている。

こういう現状ゆえ、筆者は冤罪事件を取材していて、控訴審までに無罪判決が出なければ、被告人の運命は絶望的だと思うのが常である。しかしこの事件ならひょっとして……と期待させられる事件もたまにある。その1つが当欄で何度か紹介した広島の放送局「中国放送」の元アナウンサー、煙石博さん(68)の「銀行置き引き」事件だ。

街頭で無実を訴えた煙石さん

◆わかりやすい冤罪事件

煙石さんと共に雨の日に無実を訴えた多数の支援者

煙石さんは2012年9月、自宅近くの広島銀行大河支店で、先客の女性が記帳台に置き忘れた封筒の中の現金6万6600円を盗んだ容疑で逮捕、起訴された。一貫して無実を訴えているが、第一審、控訴審共に有罪(懲役1年・執行猶予3年)と判断され、現在は最高裁に上告している。

この事件は過去お伝えしたように、冤罪であることが比較的わかりやすい冤罪事件だ。まず何より、「被害女性」が銀行内の記帳台に置き忘れた現金6万6600円が入っていた(はずの)封筒は、「被害女性」が退店後、現金が入っていない状態で記帳台の上にあったのが見つかっている。つまり、仮に煙石さんがクロならば、記帳台の上にあった封筒を手に取ったあと、わざわざ中の現金を抜き取り、自分の指紋がついているかもしれない封筒を記帳台の上に戻したことになるわけだ。これだけでも随分変である。

また、煙石さんは「被害女性」が退店後、たしかに記帳台に近づいたことはあったのだが、封筒から煙石さんの指紋は検出されていない。さらに防犯ビデオの映像を見ると、煙石さんは記帳台に近づいたあと、知人の女性と店内のソファーに座ってのんびりおしゃべりをしており、その行動も犯人とは思い難かった。さらに弁護側は控訴審で、防犯ビデオの映像を解析した鑑定書を証拠提出したのだが、煙石さんが問題の封筒に触れたことを否定する鑑定人の証言は説得力に満ちていた。結論を言うと、要するにこの事件はそもそも問題の封筒に本当にお金が入っていたことすら疑わしい事件なのである。

公正な裁判を求める署名に協力する男性。女性は煙石さんの奥さん

ただ、明白な冤罪事件でも無罪判決などめったに出ないのが刑事裁判だ。げんに煙石さんは第一審、控訴審共に有罪と判断されている。そんな中、筆者がこの事件について、最高裁での逆転無罪を期待している理由は被告人を支える人たちの思いや行動が良い流れをつくりつつあることだ。

◆逆転無罪を期待させる要素

3月3日、広島市中心部の繁華街で、煙石さんや支援者らが行った街頭宣伝。当日はあいにくの雨だったが、マイクで無実を訴えた煙石さんと共に支援者ら42人が配布したチラシは約1000枚に及んだ。4月21日には、支援者らが集めた「上告審の公正な裁判を求める」署名2380筆が最高裁に提出された。署名集めなどは現在も継続されているが、支援活動は今後もさらに広がっていきそうな見通しだ。


◎【参考動画】街頭で無実を訴える煙石博さん(2015年3月3日広島)

支援者の冤罪の説明に聞き入る女性たち

近年、最高裁で逆転無罪の判断が出た事例を見ると、被告人が防衛医科大学の教授だった痴漢事件や、裁判員裁判で初の無罪判決が出ながら控訴審で逆転有罪とされていた千葉のチョコレート缶覚せい剤密輸事件など、何らかの話題性、社会の耳目を集めそうな要素がある事件が目立つ。そういう現実に照らせば、この事件は被告人が元アナウンサーということも逆転無罪への好材料として期待できる。

最高裁は通常、公判を開かずに書面のみで審理を行うが、控訴審までの判決を覆す場合は検察側と弁護側が意見を述べる公判が開かれるのが通例だ。そして最高裁の審理は大体半年以内で終わるから、昨年12月に控訴棄却された煙石さんに対し、そろそろ最高裁が何らかの判断を示してもおかしくない時期となっている。

この裁判の行方や煙石さんの近況は「煙石博さんの無罪を勝ちとる会」のホームページで適時報告されている。少しでも多くの人に注目して欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。


◎【参考動画】「煙石博さんの無実を勝ちとる会」の総会で事件のことを説明する久保豊年弁護士(2015年1月16日)

◎広島の元アナウンサー窃盗「冤罪」事件の控訴審がスタート(2014年5月30日)
◎広島の元アナウンサー窃盗事件で冤罪判決(2013年12月6日)
◎「冤罪」と評判の広島地方局元アナウンサー窃盗事件(2013年9月20日)

 

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発生から2カ月以上過ぎても、事件現場では被害者を悼む人の来訪が絶えないようだ。今年2月、川崎市の多摩川河川敷で中1の上村遼太くん(当時13)が殺害された事件のことである。

川崎の現場では、被害者を悼む人が続々と集まってきていた

川崎の現場では、被害者を悼む人が続々と集まってきていた

かくいう筆者も4月に一度現場を訪ねているのだが、こんなことになっているのかと改めて驚かれた。花畑のような大量の献花の前には上村くんの遺影が立てかけられ、来訪者のために線香や線香立て、着火具まで用意されている。さらにその横には、生前の上村くんの写真を集めたアルバムが置かれ、かたわらのパイプ椅子に置かれた小型のオーディオプレイヤーで事件のことを伝えるニュースの音声がBGMのように流されているのである。

線香や線香立てまで用意された川崎の現場。写真左は、ボランティアで現場を管理している地元の男性

線香や線香立てまで用意された川崎の現場。写真左は、ボランティアで現場を管理している地元の男性

「これだけ花がいっぱい集まって、ほうっておくわけにもいかないので、地元の人間がボランティアで管理をしているんですよ」

現場でガイド役のようにあれこれと来訪者の世話をしていた男性はそう言って、ラミネート加工した上村くんの笑顔の写真を見せてくれた。現場にはもう一人、供えられた大量のヌイグルミを黙々と並べ直している女性もいたが、彼女もボランティアの人らしい。バスケが大好きな人気者だったと伝えられる上村くん。報道されたリンチ殺人の凄惨な内容と相まって、まさに社会全体がその死を悼んでいるのである。

川崎の現場では、警察が情報提供を求める立て看板を設置し、早期解決への強い意欲を示していたが…

◆被害者の命日に訪れた西新宿殺人事件の現場──川崎事件の現場との落差

一方、同時期にもう1件、別の殺人事件の現場を訪ねたところ、状況は対照的だった。

そこは東京都西新宿の閑静な住宅街。名もなき狭い通りで2008年3月16日早朝、帰宅途中の地元の男性(当時32)が目出し帽をかぶった男たちに金属バットのようなもので頭部などを乱打されて重傷を負い、同21日に搬送先の病院で亡くなった。男性は有名な半グレ団体と親しい関係だったとされ、そのことを原因とするトラブルが事件の背景にあったという説が有力だ。

筆者が現場を訪ねたのは今年3月21日、つまり男性の命日である。しかし、現場には花1つ手向けられておらず、凄惨な殺人事件が起きたことを偲ばせるものは何も見当たらなかった。事件から7年が経過しているとはいえ、少し前に訪ねた川崎の事件の現場が上記のような状況だっただけに物悲しい思いにとらわれた。

被害者の命日に花1つ見かけなかった西新宿の事件の現場

「まあ、半グレの事件だからね。警察も半グレなんで、やる気がないみたいだし」と言ったのは地元の女性である。被害者の命日に現場で献花を見かけなかったのが「半グレの事件」であるためなのか否かはわからないが、警察がやる気がないというのはその通りかもしれない。この事件は今も犯人が捕っていないのに、警視庁のホームページで未解決事件の情報を求めているコーナーでは、この事件のことが一切取り上げられていないからである。

かたや、川崎の事件では所轄の川崎署が現場に目撃情報を求める立て看板を設置し、早期解決への強い意欲を示していた。そういう意味では警察の扱いも2つの事件は対照的である。いずれも凄惨なリンチで被害者が命を奪われた事件であるにも関わらず……。

「どんな生命も大事」と誰もが口では言う。しかし、それは綺麗事に過ぎないことをこの2つの事件が示しているように思えた。

(片岡健)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑
◎淡路島5人殺害事件へのコメントを控える元祖「集スト被害」殺人犯の見識
◎国松警察庁長官狙撃事件発生20年、今年こそ「真犯人」の悲願は叶うか

自粛しない『紙の爆弾』6月号本日発売!

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テレビを見ていて、何よりうんざりするのは、大事件の発生直後から断片的な情報をもとにわかったふうな口をきくジャーナリストや大学教授、評論家、心理学者、元検察官などの「識者」たちだ。

「××容疑者は地域社会で孤立する中で恨みを募らせていた可能性がありますね」
「××被告は偽りの自分を演じているうちに、それが自分の中では本当になったのかもしれません」
「犯人は他人ができないことをして見せたいという自己顕示欲の強い人間なのでしょう」

このようにテレビに出てくる「識者」たちのコメントはいつも絶望的にくだらないが、それに引き換え……と筆者は先日、ある男にいたく感心させられた。現在は岡山刑務所で無期懲役刑に服しているマツダ工場暴走事件の犯人・引寺利明(47)だ。

◆丁重な断りの返事

引寺は2008年6月、広島市南区にあるマツダの本社工場に車で突入し、計12人を死傷させた。そして自首すると、動機について、「マツダで期間工として働いていた頃、他の社員たちにロッカーを荒らされ、自宅アパートに侵入される集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダを恨んでいた」などと語り、世間の注目を集めた。

筆者は裁判中からこの引寺への取材を続けており、当欄でも以前、岡山刑務所に引寺を訪ねた面会記などを寄稿した。その縁もあり、3月に淡路島であった5人殺害事件の犯人・平野達彦(40)が事件前に「集団ストーカー被害」を訴えていたと報じられた際には、ぜひとも引寺に意見を聞きたく思った。そこで、淡路島の事件の関連記事を同封のうえ、引寺に依頼の手紙を出したのが――。

引寺から届いた返事の手紙には、次のように丁重な断りが綴られていた(以下、 〈〉内は引用)。

〈現在の所、マスコミが犯行現場での周辺の聞き込みや、容疑者の知人などから得た情報を、裏もとらずにガンガン報道しているだけで、容疑者の供述がほとんど報道されておりません。事件の動機となる人間関係のしがらみや過去のトラブルについて、容疑者の口から語られる言葉がひと通り報道されてからでないと、ワシの意見をアレコレと言う事は出来ませんので、今しばらくお待ち下さるようお願いします。〉

テレビに出ている「識者」たちのように断片的な情報だけをもとに不確かなことは言えない、というわけだ。さらに手紙はこう続く。

〈広拘(筆者注:広島拘置所)で片岡さんと面会した時に、何回か話した事なので覚えておられると思いますが、マツダ事件発生当時には、マスコミがワシの家族や交友関係、アパートの住人や近所の聞き込み、働いていた数々の工場での勤務態度などを、裏もとらずにガンガン報道しておりました。その報道の内容については、当事者であるワシからしたら、約3割が嘘だったという事実がありますので、現段階で意見を述べる事が出来ませんので、その点については御理解下さるようお願いします。〉

筆者はこれまで様々な犯罪者や冤罪被害者を取材してきたが、その中には、自分に関する報道が間違いだらけだったと訴え、マスコミへの怒りをあらわにする者は少なくなかった。だが、そういう人間もえてして自分に無関係の報道はあっさり鵜呑みにし、「木嶋佳苗は絶対やってますよ」などと、したり顔で言い放ったりするものなのだ。それだけに、筆者はこういうことを言える引寺の見識に心底感心させられた。また、断片的な情報をもとにわかったふうな口をきく「識者」たちを嫌悪しながら、同じことを引寺に求めた自分の不見識を恥じた。

それにしても、と思う。これほどクレバーな男を凶悪犯に変えてしまう「集団ストーカー被害」とはつくづく恐ろしいものだと。実を言うと、引寺については最近、以前と少し変わったような様子も見受けられるのだが、そのことも機会を改め、報告したい。

筆者の依頼を丁重に断ってきた引寺の手紙

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎《我が暴走05》元同僚が実名顔出しで語る「マツダ工場暴走犯の素顔」
◎《我が暴走04》「死刑のほうがよかったかのう」マツダ工場暴走犯面会記[下]
◎《我が暴走03》「集ストはワシの妄想じゃなかった」マツダ工場暴走犯面会記[中]
◎《我が暴走02》「刑務所は更生の場ではなく交流の場」引寺利明面会記[上]
◎《我が暴走01》手紙公開! 無期確定1年、マツダ工場暴走犯は今も無反省

4月も残りあとわずか。入学、就職、転職、転勤など今年の春、新生活をスタートさせた人たちもそろそろ新しい環境に慣れてきた頃だろう。そんな中、筆者には、「この人はどんな新生活を送っているのだろうか」と気になっている人物が1人いる。元和歌山県警刑事の丸山勝という人物だ。

丸山は元々、暴力団捜査を長く担当した刑事だったが、1998年にあった和歌山カレー事件の捜査に関わったのをきっかけに、世間に少し名を知られるようになった。事件後、マスコミで次のように「美談の人」として取り上げられるようになったためだ。

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「10年でも通過点」 カレー事件支援の警官(共同通信2008年7月24日)
【魚拓】http://u111u.info/kci5

和歌山毒物カレー事件16年 「支援に終わりない」交番相談員、思い新たに(産経新聞2014年7月24日)
【魚拓】http://u111u.info/kci6

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つまり、マスコミが伝える丸山勝とは大体こういう人物だ。地域の夏祭りのカレーにヒ素が混入され、60人以上が死傷した大事件の捜査に関わったのち、業務として被害者支援に携わった。そして支援業務が終わっても異動願いを出し、現場近くの交番のお巡りさんさんになって現地の被害者たちを支え続けた。さらに定年退職後も相談員として地域を見守り続け、今年3月に引退するまで被害者や遺族たちに大変慕われていた――。

とまあ、マスコミ報道の中では、丸山はまさに「美談の人」なのだが、実は被害者の中には、こんなことを言う人もいるのである。

「あの人には、見守ってもらっているというより、見張られているように感じることがあるんですよ」

筆者はそう聞かされ、十分にありえることだな、と思った。丸山が現地の交番に勤務した目的が「被害者たちの支援」ではなく、実際には「被害者たちの見張り」や「被害者たちの監視」だと推認させる事情があるからだ。

◆捏造捜査に関与か

和歌山カレー事件の犯人とされて死刑判決を受けた林眞須美(53)については、近年冤罪を疑う声が増えている。だが一方で、眞須美が事件前、夫や知人の男らにヒ素や睡眠薬を飲ませ、保険金詐欺を繰り返していたという「別件」の疑惑は今も世間の多くの人に真実だと思われたままだ。

実際には、夫や知人の男らは眞須美にヒ素や睡眠薬を飲まされていたのではなく、保険金をだまし取るために詐病で入退院を繰り返すなどしていただけだった。裁判ではそれを裏づける数々の事実が明らかになっていたのだが、ほとんど報道されず、誤解が残ったままなのだ。

では、なぜこんな話をするかというと、この眞須美の「別件」の疑惑が捜査当局によって捏造される際、丸山も捜査員の1人として加担したと疑われて仕方ない立場にあるからだ。というのも、和歌山県警はこの事件の捜査中、問題の知人の男らを山奥の警察官官舎に2カ月以上拘束するなどし、眞須美にヒ素を飲まされていたかのようなストーリーを供述させたのだが、県警の内部資料によると、その任務をになった「特命捜査班」の一人に丸山も名を連ねていたのだ。

そういう事情を抱える丸山なら、捜査終結後もこの事件の真相が明るみになるのを防ぐための業務として、現場の近くで被害者たちを「見張り」続けたとしても不思議ではない。実際、現地の被害者やその家族の中には、眞須美が冤罪ではないかと疑う人もちらほらいるのだが、「見張られているように感じる」と訴えた上記の被害者もその1人だった。警察に疑いを抱く被害者にとっては、丸山はプレッシャーを感じさせる存在だったのだ。

◆疑惑追及の取材に応えず

実を言うと筆者は今年3月下旬、相談員を引退する間際の丸山に対し、取材を申し込んでいる。カレー事件に関する不正捜査の内幕や、交番のお巡りさんになってまで現場の近くに居続け、被害者たちに関わり続けた本当の目的を追及するためだ。が、しかし――。

そのような取材の趣旨をまとめつつ、「反論したいことがあれば、反論しても構わない」と書き添え、テレフォンカードを同封のうえに取材依頼の手紙を勤務する交番に出したところ、丸山から手紙がそのまま返送されてきた。そこで、「何も反論しないなら、疑惑が真実だとみなす」との旨を明記したうえ、もう一度取材依頼の手紙を交番に出したのだが、再びそのまま返送されてきた。最初の返送の際には、封筒に差出人として「丸山勝」と名前が明記されていたが、2度目の返送の際には、封筒に差出人の名前すら書かれていないという非常識な対応だった。

林真須美については、冤罪を疑う声が広まっているとはいえ、2009年の死刑確定直後になされた再審請求の結果はまだ出ていない。丸山としては、「美談の人」として警察人生をまっとうし、なんとか無事に逃げ切れたと思っているのかもしれない。そこで、この事件を8年余り取材し、林真須美が冤罪であることを確信している筆者は、長い警察人生を終え、新生活をスタートさせたばかりの丸山にこの言葉を贈りたい。

丸山さん、逃げ切れたと思うのはまだ早いですよ。

写真は、筆者の取材依頼の手紙をそのまま返送してきた丸山

筆者の取材依頼の手紙をそのまま返送してきた丸山

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎新聞協会賞「和歌山カレー事件報道」も実は誤報まみれだった朝日新聞
◎国松警察庁長官狙撃事件発生20年、今年こそ「真犯人」の悲願は叶うか
◎《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅲ]
◎《我が暴走05》元同僚が実名顔出しで語る「マツダ工場暴走犯の素顔」

2010年6月、12人が死傷する惨事となった広島市南区のマツダ本社工場暴走殺傷事件。犯人の引寺利明(当時42歳)は犯行動機について、「マツダで期間工として働いていた頃、ロッカーを荒らされるなどの集スト(集団ストーカー)に遭い、恨んでいた」と一貫して主張し、2013年に無期懲役判決が確定した。だが、現在も服役先の岡山刑務所で無反省の日々を過ごしているのは当連載ですでにお伝えした通りだ。

実名顔出しで取材に応じた暴走犯の元同僚・藤岡範行氏。広島の裁判所前にて

そんな引寺が事件前、派遣社員として自動車部品の会社で働いていた頃の同僚だった男性が筆者の取材に応じ、殺人犯になる前の引寺の意外な素顔を語ってくれた。その男性は藤岡範行氏、43歳。現在は広島市内の会社で警備員として働きながら、筋力トレーニングと裁判傍聴を趣味にしている男性だ。そのインタビューを通じ、取材では窺い知れなかった凶悪事件犯の意外な素顔が見えてきた。

◆「引寺さんは本当に普通の人でした」

── そもそも、藤岡さんは引寺とどんな関係だったのでしょうか。

事件の10何年前、ぼくと引寺さんは自動車部品会社の工場で一緒に働いていたんです。当時24、25歳だったぼくは派遣社員で、引寺さんも別の派遣会社から派遣されてきていました。引寺さんは当時たしか29歳か30歳くらい。ぼくら2人とNさんという正社員が3人で1つのラインで働いていました。

── 藤岡さんの目から見て、引寺はどんな人物だったんでしょうか?

普通のオニーサンという感じでしたね。性格は柔らかく、おとなしかった。気を使わなくていい雰囲気の人でしたね。ぼくは妙に気が合ったというか、仲良くしてもらっていました。一緒に仕事をしていても、やりやすかったですよ。派遣社員は難しい人が少なくなく、派遣社員同士でケンカになることもあったんですが、引寺さんは本当に普通の人でした。

── 引寺と話すときはどんな話題が多かったですか?

引寺さんはしゃべらない人だったんですよ。冗談も全然言わないし、女性の話もしなかった。休憩時間も一人で煙草を吸っていることが多かったし、ご飯も一人で食べていました。それに作業の合間も、みんなが休んでいるのに、一人だけ掃除をしていたりする。『そのほうが、気を使わんでええけえ』と言っていました。

── それは意外ですね。私に対しては、面会でもよくしゃべるし、手紙でも「~であります(笑)」「ハハハハハハ~~~!!」などといつもハイテンションなんですが。

ぼくが知っている引寺さんとは全然違いますね。ぼくの印象では、引寺さんは決して明るい人ではなく、どちらかというと暗い人でしたから。そういえば、事件を起こしたときにテレビなどで姿を見た引寺さんは全体の雰囲気こそ当時と変わりませんでしたが、老けて、太っていましたね。ほくと一緒に働いていたころ、引寺さんは痩せていたんですよ。

── 引寺は趣味とかはなかったんでしょうか?

「車は、好きだったんでしょうね。自分から車好きだと話すことはなかったですが、スポーツタイプの凝った車に乗っていたんで、車好きだということはわかりました」

◆集ストは「被害妄想だと思います」

── 私に対しては、引寺は車が好きだという話は普通にするんで、ずいぶん印象が違いますね。引寺が事件を起こしたときは驚きましたか?

そうですね。警備の仕事で詰所にいたとき、事件の第一報をラジオで聞いたんですが、「ヒキジ」というのは珍しい名前なので、「えっ、ヒキジ!?」とすぐに引寺さんのことを思い出しました。まさか、あの引寺さんとは違うだろうと思いつつ、携帯でネット配信されているテレビのニュースを観たら、やっぱり引寺さんだった。「わっ、引寺さん」というのが率直な感想でしたね。ただ、事件を起こしたときも驚きましたが、それ以上に驚いたのが裁判のときでした。

── どんなことに驚いたんですか?

ぼくは当時、まだ裁判を傍聴する趣味はなく、引寺さんの裁判の様子は報道でしか知りません。でも、ずいぶんキレていたそうじゃないですか。先ほども話したように、ぼくが知っている引寺さんはおとなしく、やわらかい人だったんで、あんなにキレるのか、とビックリしました。裁判に行きたいとも思っていましたが、報道をみて、やめておきました。

── 私が引寺を取材したのは控訴審段階以降なんですが、第一審の頃から公判中に不規則発言を連発していたみたいですね。引寺は犯行動機については一貫して、マツダの工場で働いていたときに集ストに遭い、恨みがあったと主張していますが、あれはどう思いますか?

やはり被害妄想だと思います。

── 昔から被害妄想に陥るような人だったんですか?

いえ、一緒に働いていた時には、妄想とかは全然ない人でしたね。派遣社員は正社員に比べて待遇が悪く、低く見られていましたが、引寺さんは正社員のグチを言うこともそんなになかったように記憶しています。ぼくのことをよくいじめる正社員がいたんですが、そのことを引寺さんに話したときも『ああ、あいつか』という程度の答えしか返ってきませんでした。

── 旧知の仲である藤岡さんの目から見て、引寺はどうして、あのようになってしまったと思いますか?

社会の「ひずみ」のせいだと思います。極端な話、待遇のよい仕事に就いていて、お金に余裕のある人はあんな事件を起こさないと思うんですよ。秋葉原(通り魔殺人事件)の加藤(智大。)だって、そうでしょう。事件を起こしたわけじゃないですが、ぼくだって社会の「ひずみ」は感じていますよ。自分の現状については、誰のせいでもなく、自分が悪いだけなんですが、社会のせいだと思うこともありますし、親のせいにしたこともありましたから。いまの社会は仕事を自由に選べるとはいっても、正直、いい仕事も悪い仕事もありますからね。人のせいにしてはいけないんでしょうが、どうしてもしてしまうんです。

引寺が公判中に大暴れした広島の裁判所庁舎を悲しそうに見つめる藤岡範行氏

◆「ワシみたいになるなよ」と言われた

── 引寺もやはり、将来への不安などはあったと思いますか?

それはあったろうと思います。あれはたしか事件の2~3年前のことだったでしょうか。すでに引寺さんと同じ職場で働かなくなって随分年月が経っていましたが、立ち読みに行った本屋でたまたま引寺さんと会ったんです。会うのは久しぶりでしたが、引寺さんは「いまも派遣の仕事をしよるけど、よう休んどるし、クビになるじゃろう」「クビになったら、ワシはもうくたばるわ。社会保険も払っとらんし」などと暗いことを言っていました。国民年金も何年も滞納しているとのことでした。そういえば、ぼくと一緒に働いていたときも引寺さんは、仕事ぶりはマジメでしたが、風邪でよく休んでいましたね。そのときが引寺さんと会った最後になりますが、「藤岡くん、ワシみたいになるなよ」「手に技術を身につけとけよ」と言われたのが今でもとても印象に残っています。

── 藤岡さんは先日、引寺に手紙を出したそうですが?

岡山刑務所に手紙を書き、これで雑誌でも買ってくださいと少しお金を差し入れたら、丁寧なお礼の手紙が来ました。嬉しかったですね。引寺さんは以前、ぼくのことを「藤岡くん」と呼んでいたんで、「藤岡さん」と書いてあったことには少し違和感がありましたが(笑)。「~であります(笑)」とか「ハハハハハハ~~~!!」などということは書いてなくて、真面目な文面でしたよ。面会は刑務所が認めてくれるかどうかわからないそうですが、可能なら面会にも行きたいです。実は引寺さんから「手に技術を身につけとけよ」と言ってもらったこともあり、ぼくはいま、宅建の勉強をしています。試験はなかなか受かりませんが、このような勉強をしようと思ったのも引寺さんのおかげなんですよ。

以上、旧知の仲である藤岡氏の語った引寺利明像だ。事件の2~3年前に引寺が派遣社員の仕事に行き詰まりを感じ、悲観的な話をしていたという藤岡氏の証言が仮に事実だとしても、それを軽々と事件と結びつけるわけにはいかない。しかし、少なくとも「普通の人」だった引寺が「凶悪事件犯」に生まれ変わる過程で何らかの影響があった可能性が感じられた。また何か新しい情報が入手できたらレポートしたい。

【マツダ工場暴走殺傷事件】
2010年6月22日、広島市南区にある自動車メーカー・マツダの本社工場に自動車が突入して暴走し、社員12人が撥ねられ、うち1人が亡くなった。自首して逮捕された犯人の引寺利明(当時42)は同工場の元期間工。犯行動機について、「マツダで働いていた頃、他の社員たちにロッカーを荒らされ、自宅アパートに侵入される集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダを恨んでいた」と語った。引寺は精神鑑定を経て起訴されたのち、昨年9月、最高裁に上告を棄却されて無期懲役判決が確定。責任能力を認められた一方で、妄想性障害に陥っていると認定されている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

《我が暴走01》手紙公開! 無期確定1年、マツダ工場暴走犯は今も無反省
《我が暴走02》「刑務所は更生の場ではなく交流の場」引寺利明面会記[上]
《我が暴走03》「集ストはワシの妄想じゃなかった」マツダ工場暴走犯面会記[中]
《我が暴走04》「死刑のほうがよかったかのう」マツダ工場暴走犯面会記[下]
《我が暴走05》元同僚が実名顔出しで語る「マツダ工場暴走犯の素顔」

事件現場の被害女児宅マンション(奥の棟の2階)

2010年11月に発生した下関市6歳女児殺害事件は、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。だが、この事件は決して終わっていない。湖山氏は再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。そこで湖山氏に改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記を[][][]と3回に分けて公開する。今回はその3回目でこれで全文完結だ。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆取り調べは脅迫のようなことばかりだった

下関署まで車で連行され、取り調べ室に入ると、刑事が3~4人くらい入ってきました。そこで逮捕状を出され、刑事が何か読んだと思いますが、たしかな記憶はありません。やっていない事件でパクられるのは初めてだったんで、調書はどんなふうに書かれるのかわかりませんでしたが、刑事がまず、「私はRちゃん(筆者注:被害女児)を殺していませんし、捨ててもいません」と読み上げて、僕が「それでええよ」と言い、弁録ができました。

逮捕されてからの取り調べも任意同行された時と同じで、刑事は「こっちは科学的に証明できとるんやから認めろ」と、そればっかでした。「ヤクザの知り合いはおるんか?」と聞いてくるので、「おる」と言ったら、「そしたら、ヤクザの担当刑事から、ヤクザたちにお前の悪い噂を流して、下関に住めんようにしちゃろうか」と脅してきました。また、「今認めたら、生きとるうちに出られるけど、認めんかったら生きて出れんぞ」などとも言われました。否認していたほうが刑が長くなるという意味だったと思いますが、取り調べでは、そんな強迫のようなことばかりでした。

また、「弁護士を信用するな。本当にお前のことを思って言いよるのはワシらぞ。やけ、弁護士の言うことは聞くな」などと弁護士をバカにしたりと、とにかく精神的なゆさぶり、ダメージを与えようとしてきました。

捜査本部の置かれた下関署

逮捕前から悪かった体調は逮捕後もずっと悪い状態が続きました。取り調べは朝から晩までありますが、体調が悪くても早く切り上げてはもらえません。取り調べ中は当然、横になったりもできません。頭痛やめまい、疲労感がひどく大変でした。それは起訴までずっと続きました。

検事の取り調べは、最初は下関署でありました。しかし以降は山口地検の本庁で行われました。検事の取り調べがあるたび、拘禁されている下関署から山口地検の本庁まで車で連れて行かれるのですが、1時間半くらいかかり、車の移動だけでつらかったです。車の中では、両脇から警察官に挟まれいて、とても窮屈なんです。手錠に腰縄もされており、狭いから眠ることもできません。

また、一日に検事と警察の取り調べが両方あることもよくありました。朝から山口地検の本庁に車で1時間半くらいかけて連れて行かれ、検事の取り調べをうけ、夕方に下関署に帰ってからまた警察の取り調べを受けなければならかったこともありました。

刑事の威圧、脅迫をするような取り調べについては、弁護人が裁判所に違法な取り調べが行われている旨の文書を送ったりしていましたが、「ただの法令違反であって」みたいな文面が送られてくるだけで、裁判所は取り合ってくれませんでした。「法令違反なら、違反しとるんやから、やめさせろや!」と思いました。

さらに弁護人は山口県警の本部長に抗議する文書を送ってくれましたが、刑事の取り調べはまったく改められず、むしろ威圧、脅迫がひどくなりました。取調べ室に入るなり、刑事が赤い顔をしてケンカ腰で、「お前の思い通りになると思うなよ」と言ってきたこともありました。検事の取り調べで保木本(正樹。当時の山口地検三席検事)に民族差別発言を浴びせられ、僕が絶対に許すことができない思いでいるのは以前もお話した通りです。

◆1日も早く家族の元に戻って働き、子供の面倒をみたい

今改めて振り返ると、捜査も裁判も真実から目を背けた感じで、そのまま出来レースで有罪判決が出てしまったように思います。僕は裁判員裁判というのは、公平な裁判をするためにするものだと思っていました。しかし、ふたをあけてみると、裁判員は裁判員裁判の進行のために形式的にいるだけでした。裁判は僕を犯人と決めつけた上で進んでいったように思います。本当に最低の裁判員裁判でした。見せられるものなら、日本の国民の皆様に、どれだけ最低な裁判員裁判だったのかを見てもらいたいぐらいです。

あの日、あの場所に行かなければよかったとか、行くとしても別の日にしておけばよかったと思うこともあります。そうすれば、こんなことに巻き込まれずに済んだわけですからら。もしくはMを殴った容疑で逮捕された際、罰金30万円を払うのではなく、拘置所で労役として30万円分作業をしていれば良かったかなとも思います。そうしておけば、完全なアリバイが証明できたからです。

そういえば、拘置所で運動を一緒にやっている時に「青信号を渡っていたら、いきなり車が突っ込んできたようなものやな」と言ってくれた人がいます。こういう所に入る人というのは、目や態度をみれば、無実だと言っている人間が本当に無実なのかどうかわかるそうですね。ヤクザの人からも「お前の目は澄んどる。話す時も目をそらさん。じゃけぇ、やってないってわかるんや」と言われました。カタギの人、任侠道で生きる方々、みんなが励まし、支援してくれました。この思いや縁は一生大切な宝物です。

ただ、今は過去を振り返るより、再審で無罪を勝ち取って1日も早く家族のもとに戻り、働きたくて仕方ないです。そして早く娘、姪っ子、甥っ子に色んなものを買ってやり、色んなところに連れて行ってやりたいです。僕は子供の面倒をみるのが大好きなんです。保父さんになりたいと思ったこともあったぐらいです。実際今でもなりたいぐらいです。ただ、高校生の時に同じ年のヤツや後輩などにそれを言うと、「えっ!?」って顔をされて、「全然似合いませんし、子供が泣きますよ(笑)」と言われました。「一体周りのヤツらはオレをなんやと思っとるんや」と思いました。子供に泣かれたことなんか一度もないですし、むしろめちゃくちゃ懐いてくるんですけどね。

湖山氏の裁判員裁判があった山口地裁

親の助けにもなりたいです。とにかく僕は何もやっていませんから、今まで生きてきたのと同じ年数(筆者注:湖山氏は現在30歳、判決は懲役30年)を持って行かれるのは許せません。警察、検察は正義ではなく悪です。そして裁判官は地裁、高裁、最高裁問わず、稚拙で見識の狭い、ただの傀儡でしかない。保育園からやり直してこい!! [了]

【下関6歳女児殺害事件】

2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

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下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

▼片岡健(かたおか けん)

1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

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