2010年11月に発生した下関市6歳女児殺害事件は、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。だが、この事件は決して終わっていない。湖山氏は再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。そこで湖山氏に改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記を3回に分けて公開する。今回はその2回目。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆逮捕されても何も恥じることはなかった

捜査本部の置かれた下関署

5月24日に任意同行された時は、前触れはなく、警察は朝の9時前、いきなり家に「聴きたいことがあるんじゃ」とやってきました。玄関のドアを開けると、記者たちがブワ~と大勢いて、バシャバシャとフラッシュを焚かれて写真を撮られました。そして下関署に任意同行されると同時にガサ入れもされました。

取り調べでは、刑事は最初から僕のことを犯人扱いで、「こっちは科学的に証明できとるんじゃ」とそればかりを繰り返し言ってきました。しかし、「じゃあ、それを見せろ」と僕が言っても、見せてくれません。「任意じゃろうが」と言って帰ろうとしたんですが、「こっちはお前を止めようと思ったら、止められるんじゃ」と帰そうとしない。仕事を休みにさせられましたし、家に残してきた娘のことも心配だったし、精神的にきつかったですね。

押し問答が続き、刑事が怒り気味に「なら、ポリグラフ検査受けろ! サインしてくれるか」と紙を僕に渡してきました。僕はポリグラフ検査のことを知っていたので、「ポリ検か。昔で言うウソ発見器やのぉ。ええど、しても」と言ってサインをし、ポリ検を受けましたが、疲れてほとんど寝てましたし、適当に返事だけして内容とか全く覚えていません。

また、この日は尿も採取されました。尿を採取される時、「オレは今までシンナーもシャブも他の薬物にも手を出したことがないけ、尿検査してもなんも出てこんど」と笑いながら言ってやりました。

家に帰ったあと、おじさんたちは僕が逮捕されるか否かについて、「こっから2週間以内が勝負やないんか」と言っていました。ただ、警察はマスコミも集めて大々的に僕を任意同行していたので、僕個人は「近々必ず来る(=逮捕される)」と思っていました。警察はもう引き返せないだろうと思っていたんです。

5月24日に任意同行されて以降はどこかに外出する際にその都度、警察に連絡していました。逃げも隠れもするつもりがなかったからです。ただ、僕はこの頃、体調が悪く、娘の体調も良くなかったんで、自ら警察に電話して、「体調悪いけ、無理ですわ」と取り調べを断っていました。そのことがテレビで「今日の取り調べは中止となりました」などと報じられていました。

5月27日の朝も担当刑事に電話をし、「今日も体調悪いけ、無理」と任意同行の求めを断ろうとしたんです。しかし刑事は「今、そっちに向かいよる」と言ってきました。これでこの日、自分は逮捕されるのだとわかりました。

警察が家にやってきた時、「フダ(逮捕状)持っとるんか?」と聞いたら、「ある。今出してええんか?」と言ってきました。刑事が逮捕状を出したら、僕はその場で手錠をかけられてしまうんで、「待て。出すな」と言いました。家には、母親も娘もいたからです。

家から警察に連れて行かれる時、娘はまだ2歳だったんで、状況を理解できていたのかはわかりませんが、ワンワン泣きよったんで、抱っこしてあげて、いつも仕事に行く時に言っていたように『パパ、お仕事行ってくるけんね。おりこうさんに待っとけるね?』と言って、いっぱい抱いてやりました。そして母親に、『×××(筆者注:娘の名前)のこと頼むよ!』と言って娘を渡して、刑事に『行こか』と言って玄関に向かいました。

後ろ髪をひかれる思いでした。しかし、僕は娘のほうを振り向いたら決心が鈍ると思い、振り向かずに出て行きました。家を出ると、任意同行された時と同じようにマスコミが集まっていて、フラッシュの嵐でした。でも、僕は顔も隠さず、堂々と出て行きました。「オレの顔を今のうちに撮っとけ」と思いながら、一瞬立ち止まり、ゆっくりと警察車両に乗り込みました。何も恥じるようなことはしていないからです。

逮捕されるというのはたしかにショックですが、本当にやったことで逮捕されるわけではありません。警察は、僕がやっていない事件のことで僕を引っ張りにきたわけですから、僕としてはショックより「これから闘う」という感じでした。刑罰を受けることに現実味は感じませんでした。

ただ、この日、娘をいっぱい抱っこしてあげたのが最後になろうとは思っていませんでした。今でもあの日、娘を抱っこした時の感触は残っています・・・。[Ⅲにつづく]

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅰ]
下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

事件現場の被害女児宅マンション(奥の棟の2階)

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

当欄で繰り返し冤罪疑惑をお伝えしてきた下関市の6歳女児殺害事件では、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。実を言うと、筆者は上告棄却の判決が出る少し前から広島拘置所で、湖山氏に事件当日からの経緯を振り返ってもらう取材を続けており、事件発生から丸4年になる昨年11月28日前後のタイミングでインタビュー記事を発表したいと考えていた。湖山氏が最高裁に上告を棄却されたという知らせは、くしくもその取材が佳境に入った時期にもたらされたものだった。

だが、湖山氏は雪冤をあきらめたわけではなく、再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。また、6歳の女の子を惨殺した真犯人がまだ野放しになっている可能性が高いことを考えれば、この事件は決して終わっていない。そこで湖山氏にこのほど、改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

湖山氏は事件発生当時、別れた元妻と金銭問題の交渉をするために連日、所在不明の元妻を探していたのだが、事件当日の夜も元妻のいとこが住んでいるマンションに元妻が身を寄せていないか確認に赴いていた。このマンションと同じ敷地にあるマンションが事件現場となったマンションで、そこに湖山氏の元交際相手のMさんが娘である被害女児と一緒に暮らしていた。事件当日にこのマンションの敷地に赴き、タバコの吸い殻を捨てていたことが、裁判では湖山氏に大変不利にはたらいた。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記全文を今回から3回に分けて公開する。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆「みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われた

湖山氏の裁判員裁判があった山口地裁

事件があった日、元嫁を探しに出ていた僕が家に帰ったのは2時前後でした。2時半かその前に、自販機にジュースを買いに出て、その時に妹とすれ違いました。そして帰ってくると、父親がちょうどトイレに起きてきて、どういうことを言われたかは覚えていないですが、「どこ行っとったんか」みたいなことを言われました。それから2階の部屋に戻り、1時間ほどゲームをして、寝たのは3時半前後だったと思います。

そして朝、母親が部屋に上がってきて、「警察が来とるよ」と起こされました。それで僕は玄関のほうに行ったのですが、2、3人の刑事が来ていたので、「何ですか?」と聞きました。すると刑事は、「ちょっとMのところで火事があってのう。ちょっと聞きたいことがあるんじゃ」みたいなことを言いました。

火事?と驚きましたが、火事のことで、なんで自分に話があるのか? とも思いました。しかし、とりあえず話を聞いてみようと思いました。それで、かるく着替えて、家の近くの交番まで刑事と普通に会話をしながら歩いて行って、その交番に刑事が停めていた車で下関署まで行きました。

下関署では、取り調べ室に入る前、僕と同い年の知っている刑事が寄ってきて、「おい、湖山。大丈夫か」「何があったんか」などと言われました。その刑事は、僕が以前、Mを殴った容疑で逮捕勾留された際の担当だった刑事です。取り調べ室に入って、「あの後、どーなったんか」と話しかけてくるので、「子供(筆者注:別れた妻との間にもうけていた娘)は俺が引き取ったや」「やったやないか」などと普通に話をしました。

取り調べには、知能犯係の刑事もいました。その刑事は紙を持っていて、それをチラリと見たら、「殺」という字が見えました。そして、莉音ちゃんが死んだって聞かされたんですが、刑事は「どうも殺されたみたいなんじゃ」と言うんで、僕は「ホントですか?」みたいな感じになった。同い年の刑事の顔を見たら、同い年の刑事は言葉も出さず、僕は「マジか…」みたいになりました。

それから「事件があった時のことも聞かせて欲しい」みたいになって、同い年の刑事が調書を作ってくれました。僕はもうMと関わり合いたくなかったので、「一切そこ(筆者注:事件現場)へは行っていない」と言ったら、それで調書をつくってくれました(筆者注:このように湖山氏は事件当日、事件現場のマンションと同じ敷地に行っていたことは当初隠したが、のちに自ら警察に打ち明けている)。そうこうしていたら、父親が下関署に電話してきたらしく、「息子は今マジメにやっとるのに、どういうつもりか!」などと怒鳴り上げ、帰らすように言ったそうです。

僕も娘のことが心配だったんで、刑事たちと何時までかかるのかという話をしていたのですが、オヤジのおかげで、「帰らすけえ」となりました。そして帰りぎわ、取り調べ室で同い年の刑事と2人きりになったんですが、「オレは思ってないけど、みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われました。

警察の車で連れられて家に帰ると、親父に「何があったんか」と聞かれました。刑事からは「家族にはまだ言うな」と言われていたのですが、事件のことはニュースでバンバンやっていたので、親父は「このことやないんか」と言ってきました。そうだと認めると、「お前(が犯人と)違うんか」と言ってきて、「違う」と答えたんですが、家でも尋問されているようでした。

◆警察の内偵捜査はずっと続いた

その日以降も親父からは事件との関連について、「やってないんか」と聞かれ続けました。下関では、事件に関する噂が飛び交っていたのですが、親父の部屋に呼ばれ、「ベランダからお前の指紋が出たらしいぞ」と言われたこともありました。僕に関する噂が広がったのは、僕が下関ではそれなりの知名度があったからだと思います。

警察の呼び出しも事件当日のほか、2回くらいありました。たしか12月2、3日くらいのことだったと思います。下関タワーの近くに電器屋さんがあるんですが、その駐車場で落ち合おうという話になり、その駐車場に停められた警察車両に乗り、刑事から色々話を聞かれました。1回目は話だけで終わりましたが、2回目の時は口腔内細胞を採られています。

刑事の一人はこの2回会って話をする際、「タバコを吸ってもええぞ」としつこく何度も言ってきましたが、僕は断っていました。そして最終的に業を煮やしたのか、「口の中の唾液を採らせてくれ」と言われました。ある程度ほっぺの内側を綿棒でこすって渡そうとすると、「まだしっかりとこすりつけろ!」と語気強く言われ、これでもかというぐらいこすって渡しました。

それからは警察の内偵捜査が続きました。僕の住んでいる地域では、地域に馴染んでいる人と馴染んでいない人がすぐわかるんです。道に車が停められていても、「見ない車だな」とすぐわかります。それに、うちの前の通りは普通、地域に住んでいる人以外は通らないんです。ですから、家の近くなどに刑事や警察、マスコミの車がいると、すぐにわかりました。

たとえば娘、甥っ子、姪っ子を連れて公園に行った時など、僕が車で外出すると、外に警察のミニバンやスカイラインその他の警察車両がいて、僕の車をつけてきていました。ある日、仕事に行く時、僕の車のあとをスカイラインがずっとついてくるので、運転している人間の顔を見てやろうと徐行運転して横に並んだら、向こうはもっとスピードを落とし、逃げていったということもありました。逮捕されるまで、そういう内偵はずっと続いていました。

また、マスコミの記者もよく家の周りをうろついていました。記者は大体、小さいカメラを持って外にいるんです。僕が家から出た時に偶然ばったり会った記者が大慌てし、とにかくどこかへ隠れようと行き止まりの方向に歩いて行ったということもありました。

警察や記者に張りつかれても、僕の生活には、とくに害はなかったです。ただ、マスコミは最初のうち、とにかく僕に接触しようとしていて、母親が手伝いをしている、おば夫婦が経営する焼肉屋に行ったり、親父の会社に電話し、親父を怒らせたりしていました。親父は警察に電話して、「お前らのせいで、こうなっとるんやろうが! どねぇかせんか!」となどと怒鳴り上げていました。

当時、マスコミの取材は受けていませんでしたが、一度だけ、オグラっていう人が出ている番組の取材を受けたことがありました。この時は車の中で取材を受けたのですが、「Mはどういう性格?」「Mは家ではどういう感じだった?」と僕のことをほとんど聞かず、Mのことばかり聞いてきました。僕はこの時、「報道するな」と釘を刺していたんですが、番組ではこの時の僕の映像なのか、音声なのかはわかりませんが、とにかく話の内容が流れたらしいです。これにおじさんが怒って、テレビ局の記者に電話して、「どういう放送だったのか見せろ」と言っていましたが、はぐらかすようにされ、「もうおたくの取材は何も受けん」みたいになりました。

一方、警察は事件のすぐ後に電器屋の駐車場で話を聞かれて以降は、事件の半年後の翌年5月24日に任意同行されるまで直接接触してくることは一切なかったです。ただ、下関署には、運転免許証の更新のために電話でどうしたらいいのか問い合わせたり、免許証の写真を撮ったり講習を受けたりと2回足を運びました。写真撮影の時は娘と、講習の日は1人で行きました。[Ⅱにつづく]

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

[関連記事]
下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

 

新年を迎えると、誰もが心を新たに今年の目標や誓いを立てる。志望校への合格、就活の成功、結婚、妊娠、商売繁盛、禁煙、ダイエット……。定める目標、誓いは人それぞれだろうが、おそらくは人生で残された時間が短いという意識が強い人ほど、定めた目標や誓いを実現したい思いは強いのではないだろうか。

事件現場の国松長官が住んでいたマンション。長官は出勤のために出てきたところを狙撃された。

そんな話を持ち出したのは、ある高齢の男性受刑者の悲願が今年こそ叶って欲しいと他人事ながら思っているためだ。中村泰(ひろし)という。現在84歳。あの歴史的未解決事件、国松孝次警察庁長官狙撃事件の「真犯人」とめされる男である。

1995年3月、地下鉄サリン事件の10日後に発生したこの事件では、捜査を主導した警視庁の公安部がオウム真理教の犯行を執拗に疑い続けた一方で、刑事部は中村を本命視していたと伝えられている。中村は別件の現金輸送車襲撃事件の容疑で身柄拘束中、国松長官狙撃事件の犯行を詳細に自白。さらに獄中にいながらマスコミの取材を受け入れ、自分が国松長官を撃った真犯人だと認めたに等しい証言を重ねていた。だが結局、警視庁は中村の逮捕に踏み切らず、2010年3月に時効が成立した。

筆者は一昨年の秋頃、岐阜刑務所で無期懲役刑に服している中村に取材を申し込み、手紙のやりとりをさせてもらうようになった。この間、中村の証言に基づいて関係現場の状況も検証し、やはり中村は国松長官を狙撃した真犯人なのだろうという思いを強めている。

◆医療施設で闘病中

中村によると、国松長官の狙撃を企てたきっかけは、地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教の捜査に及び腰だった警察に業を煮やしたことだった。オウム信者の犯行を装って警察組織のトップを狙撃すれば、警察はオウム制圧に動くと考えたという。中村は元々武力革命を志向する人物で、実際に長年そういう活動もしていた。

ただ、国松長官を狙撃後、警察が自分の予想以上に奮起してオウムを制圧したのをうけ、中村は身を挺して実行し、大成功した作戦が人知れず消えていくのを残念に思う気持ちになったという。それが、犯行を告白するに至った理由なのだそうだ。

そんな中村の悲願とは、言うまでもなく自分のことを国松長官狙撃事件の犯人だと世間に広く知らしめることだ。そのために中村はマスコミとの接触を続けた。昨年8月、取材協力したテレビ朝日の「世紀の瞬間&日本の未解決事件スペシャル」という特番で真犯人同然の扱いを受けた際にはとても嬉しそうだった。だが、実を言うと、現在は心配な状況にある。中村は病に冒され、移送された医療施設で闘病中なのである。

その連絡は昨年12月中旬、代理人の弁護士を通じてもたらされたのだが、中村は闘病中であることと共に「このような事情で取り込み中ですので、年賀のご挨拶は失礼いたします」ということまで律儀にことづけてくれた。事件は3月30日で発生20年を迎えるが、中村がそんな人間味のある人物だからこそ、筆者は願わずにいられないのだ。中村が命あるうちに少しでも多くの人に国松長官を撃った「真犯人」だと認知されて欲しい、と。

▼片岡健(かたおか けん)1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

いつも何度でも福島を想う

 

「僕の上告は棄却されました。昨日、片岡さんと面会したあと、最高裁からそういう通知が届きました。今は怒りとショックでいっぱいです」

11月14日、広島拘置所の面会室。そう報告してくれた湖山忠志氏(30)は気丈にふるまっていたが、その声はいつもより元気がないように思えた。無理もない。身に覚えのない殺人の濡れ衣を着せられ、懲役30年の判決が事実上確定してしまったのだから。

湖山氏が拘禁されている広島拘置所

当欄で繰り返し、「冤罪疑惑」をお伝えしてきた下関市の6歳女児殺害事件。被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏は2010年11月28日の事件発生当初から捜査線上に浮上し、警察に執拗にマークされていた。そして決め手となる証拠もないまま、事件の半年後に逮捕。裁判でも有罪を確信させるような証拠は検察官から何1つ示されなかった。一方で裁判では、事件現場や被害者の着ていた衣服から湖山氏以外の「第三者」のDNAや毛髪、指紋が多数見つかったことが明らかになったのだが、湖山氏の無実の訴えは第一審、控訴審に続き、三たび退けられたのだ。

「それにしても、最高裁に上告趣意書を提出して、まだ半年も経っていないんですよね・・・」と湖山氏は言う。上告趣意書の提出は6月6日だから、最高裁はわずか5カ月余りで結論を出したことになるわけで、湖山氏が最高裁はちゃんと審理をしたのかと不信感を抱くのも無理はない。

◆刑務官も見抜いていた冤罪

もっとも、湖山氏は雪冤への希望を捨てたわけではない。

「これが3年とか5年の刑なら、早く務めて出ることを考えるかもしれません。しかし、僕の刑はそういう刑ではありませんから、再審で無罪を取れるようにがんばりたいと思います。刑務官も『君には、支援してくれる人もおるんやから、がんばらんといけんで』と言ってくれています」

これは以前から感じていたことだが、刑務官の中には、裁判官や検察官、警察官らより冤罪を見抜く力に優れている人が少なくない。それは被疑者や被告人と接する時間が長いことが理由だと思うが、どうやら広島拘置所にも湖山氏の冤罪を見抜いている刑務官が存在するようだ。それは1つの明るい希望ではあるだろう。

当欄で何度かお伝えした通り、この事件に関しては、山口地検の保木本正樹三席検事(当時)が在日韓国人の湖山氏に対する取り調べ中、韓国人や朝鮮人のことを「下等な人種」「人殺し集団」と言い放ったという「ヘイトスピーチ疑惑」もある。この疑惑も真相が解明されなければならない。何より、無残にも6歳で人生を終わらされた被害女児のためにも一日も早く湖山氏の雪冤と真犯人の検挙が果たされることを願いつつ、今後もこの事件のことは機会あるごとにレポートしたい。

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

《関連記事》
山口地検傍聴席占拠問題をめぐる検察庁の対応の不当性を有識者たちも認めた!(2014年5月17日)
無実を訴える下関女児殺害事件被告男性が二度目の有罪に「ただ悔しい」(2014年4月2日)
冤罪を訴える下関女児殺害事件の被告人男性が明かしたマスコミへの怒り(2014年2月24日)
無実の訴えが再び退けられた下関女児殺害事件・被告人の思い(2014年1月28日)
検察庁が現役検事の取調べ中のヘイトスピーチ疑惑を隠蔽か(2013年12月8日)
民族差別発言疑惑検事に関する筆者の情報提供を最高検監察指導部が受理(2013年10月1日)
検事の「民族差別発言」を最高検に告発した在日韓国人男性が怒りのコメント(2013年9月13日)
冤罪を訴える在日韓国人男性が取調検事の「下等な人種」発言を最高検に告発(2013年9月6日)
新聞、テレビは報じない山口地検検事の民族差別発言疑惑(2012年10月27日)
また無罪証拠が出てきた東電OL殺害事件とよく似た下関の殺人事件(2012年10月18日)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

今日の電気も原発ゼロ『NO NUKES voice』Vol.02

 

「週刊現代」11月22日号のスクープ記事が話題だ。今年7月、埼玉県でオスの盲導犬オスカー君(ラブラドール・レトリバー)が飼い主の60代全盲男性と出勤中、何者かにフォークのようなもので背中を刺されたというニュースは日本全国を激怒させたが、同誌の追跡調査によると、実は「犯人はいなかった」というのだ。

この記事は、「現代ビジネス」にも掲載されている。記事によると、警察の大がかりな捜査で犯人がいつまでも捕まらないのは、オスカー君の背中の傷が実は刺し傷ではなく、皮膚病によるものだったからだという。記事には、オスカー君を治療した獣医師も実名で登場し、そもそも治療した際もオスカー君の背中の傷をフォークで刺されたものとは断定しておらず、皮膚病の可能性も十分あると思っていたとコメントしている。日本全国を激怒させた事件で、こんな真相が明らかになるとは驚くばかりだが……。

実を言うと、最近話題になった動物虐待事件の中には、秘かに同じような幕引きになっていた事件が他にもある。広島県呉市の猫連続虐殺事件がそれだ。

◆秘かに終わっていた警察捜査

猫の死骸が見つかった公園

呉市では2012年3月、西惣付町で上半身だけの猫の死骸が見つかったのを皮切りに同8月に1件、同10月に6件、同11月に2件…と同様の事件が断続的に発生。2013年4月までに事件は計26件を数え、週刊誌やスポーツ紙も取り上げて全国的に注目された。所轄の呉署関係者によると、当時は署長が「なんとしても犯人を捕まえろ!」と号令をかけ、この猫の事件は同署の管内で最重要事案という位置づけだったという。

ところが、呉市では昨年7月、LINE上の口論をきっかけに16歳の女子高等専修学校生が元同級生の少女ら16~21歳の男女7人にリンチされ、市内にある灰ヶ峰の山中で殺害されて遺棄されるという大事件が発覚。この事件が大々的な注目を集める一方で、呉署の最重要事案だったはずの猫の事件に関しては、続報をすっかり聞かなくなった。

猫連続虐殺事件の情報提供を求める警察のポスター。捜査本部解散後も放置され、ボロボロに

そこで今年7月、この事件がどんな現状なのか、改めて取材に動いたところ、警察捜査は意外な終わり方をしていたのである。

「昨年4月に26件目の事件があって以来、猫の死骸が見つかった情報提供はありません。一方、野犬が猫に噛みつき、ぐるぐる回していたという目撃情報があったことなどから警察は大部分が野犬の仕業だったと判断し、呉署の捜査本部も昨年6月に解散しました」(捜査関係者)

この相次ぐ猫の虐殺が仮に人間の犯行なら、そのうち大事件に発展するのではないかとも危惧されていた。それだけに本当にこの事件の犯人が野犬なら、ひと安心とも言えるのだが……。

実は地元には、「野犬犯人説」に釈然としない思いを抱えている人もいる。呉市動物愛護センターの佐々木一隆所長だ。

「昨年6月頃、警察からうちに『野犬の捕獲をしっかりやって欲しい』と要請がきたのです。今思えば、警察はあれで事件を幕引きしたのでしょう。ただ、事件が本当に野犬のせいなのかは疑問です。呉は決して野犬の多い地区ではないですから……」

野犬たちがある日を境にピタリと猫殺しをやめるかというと、たしかに疑問だ。筆者は地元で猫の死骸が見つかった現場を見て回ったが、市の中心部に近い公園など、野犬が猫を襲うために出現する場面がイメージしにくい現場もあった。報道によると、7月にあった佐世保の女子高生殺害バラバラ事件では、犯人の女生徒が「事件前に猫を解剖した」と供述しているという。呉市で今後、大変な事件が起きて、実は犯人はあの猫の……などという事態にならないことを願うばかりだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

 

2007年に上梓した著書「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」(幻冬舎)がベストセラーになった元特捜検事で、元弁護士の田中森一氏が11月22日、都内の病院で死去した。享年71歳。2001年、巨額の詐欺事件の容疑で古巣の東京地検特捜部に逮捕されて懲役3年の実刑判決を受け、2008年にも別の詐欺事件の容疑でやはり古巣の大阪地検特捜部に逮捕されて懲役3年の実刑判決を受けた。2012年に仮釈放され、講演や執筆の活動をしていたが、胃がんを患い、闘病の日々だったという。

そんな逝去の情報がヤフーのトップニュースになるほど著名な田中氏だが、その名前が和歌山カレー事件の裁判でも取り沙汰されたことはほとんど知られていない。

それは2001年8月8日、和歌山地裁であった林眞須美死刑囚(53)の第73回公判で起きた出来事だった。証人出廷した林死刑囚の夫・健治氏が、この事件の捜査と第一審の公判を担当した小寺哲夫検事(現札幌地検検事正)にこんな不正があったと告発した。

「取り調べの時、小寺検事からこんなことを言われたのです。『お前の弁護士は愛犬家殺人で敗訴し、大阪府知事選に立候補して敗れた弁護士で、それを後押ししとったのが共産党や。お前、えらい目に遭うぞ。東大阪市長の収賄事件をやっとる、わしの知り合いの弁護士を紹介してやるから、今の弁護士はすぐに解任しろ』と」

取調官が被疑者に対し、弁護人の悪口を言って揺さぶりをかけるのはよくあることだ。しかもこの事件で検察は、自分でヒ素を飲んで保険金詐欺をしていた健治氏に対し、林死刑囚にヒ素を飲まされたというデッチアゲのストーリーを押し付けようとしていた。そのため、取り調べで調書作成を拒否し続けた健治氏に対し、小寺検事がこんな問題発言をしたというのは「いかにもありそうな話」だ。

しかし当然、小寺検事はこれを認めなかった。そして健治氏の告発を覆そうと、「あなたと初めて会った日、私は弁護士の話をした記憶はないですよ」「それはいつの話ですか」としつこく問い詰めた。すると、今度は弁護人の小林つとむ弁護士が「言った日が違うとか、そんな瑣末な尋問をしなさんな」と小寺検事を批判し、田中氏の名前を公判で明らかにしたのだ。

小林弁護士「そんなことをするなら、まずは私たちに謝ってからにしなさい。あなたのお知り合いの田中森一弁護士に弁護人を替えたらいいとかいう話をしたんでしょう」

小寺検事「何を根拠にそんなことを言うんですか。私は、田中先生とは関係ありませんよ」

写真は札幌地検のホームページ。小寺検事は現在、同地検の検事正に出世している

田中氏は当時、大阪の有名ヤメ検弁護士だったから、小寺検事が田中氏と親しい間柄で、健治氏に弁護人として紹介しようとしたというのも「いかにもありそう話」だ。取り調べが可視化されていないため、この時は水掛け論にしかならなかったが、筆者は後年、都内で田中氏の講演会場に押しかけ、事実関係を確認したことがある。

結論から言うと、田中氏は自分の名前がこのような形で取り沙汰されたことはまったく知らないようだった。しかし、小寺検事のことはよく知っているようだった。

「小寺だろ。知ってる、知ってる。ずっと大阪(の勤務)だろ。後輩だよ」

田中氏はこのように実にあっさりと、「田中先生とは関係ない」という小寺検事の釈明は嘘だと言ったに等しい証言をしてくれたのだ。もちろん、小寺検事の釈明のうち、この部分が嘘であっても、小寺検事が取り調べ中に健治氏に弁護人の悪口を言い、解任を勧めたことまで事実だと証明されるわけではない。しかし、健治氏と小寺検事では、どちらが本当のことを言っていて、どちらが嘘つきかはもはや自明だろう。

それにしても、田中氏はこの時、突如押しかけた一面識もない筆者のぶしつけな質問にも実に気さくに答えてくれたものだと改めて思う。和歌山カレー事件が冤罪だという話を伝えると、「えっ、和歌山カレー事件も冤罪って話があるの!?」「支援団体とかあるの!?」と目を大きくして、興味津々という様子だった。この時はゆっくり話ができる状況ではなく、その後はもう会う機会はなかったが、そんな筆者でも田中氏には良い印象を今も抱いている。その死を悲しんでいる人、惜しんでいる人はきっと多いのだろうと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

 

 

当欄で過去4回取り上げた宮崎家族3人殺害事件。殺人罪などに問われた奥本章寛被告(26)は宮崎地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けたが、地元では死刑回避を求める支援運動が盛り上がり、被害者遺族が最高裁に「第1審からのやり直し」を求める上申書を提出するなど、異例の事態となった。だが10月16日、最高裁は奥本被告の上告を棄却。奥本被告はその後、判決訂正の申立も退けられ、ついに死刑判決が確定した。

奥本被告はこれまで1日に1回の面会、2通の手紙の発信が認められていた。が、死刑判決の確定後は処遇が変わり、弁護人や親族以外とは面会、手紙のやりとりがほとんどできなくなる見通しだ。そこで筆者は10月31日、奥本被告に現在の心境や今後の予定などを聞くため、宮崎刑務所を訪ね、面会してきた。

前回面会した際は初対面にも関わらず、どんな質問にも率直に答えてくれた奥本被告。今回は死刑判決の確定を間近に控えた中での面会だったが、前回同様、1つ1つの質問に率直に答えてくれた。奥本被告が妻、生後5カ月後の息子、養母(妻の母)という家族3人の命を奪ったことは紛れもない事実だが、そこに至るまでには複雑な事情が重なっていたことが思い返された。以下、この日の奥本被告との面会室でのやりとりを取材メモに基づいて紹介しよう。

宮崎刑務所は宮崎市郊外ののどかな田園地帯にある

◆死刑でおかしくないと思っていた

── 上告が棄却されたのをどうやって知りましたか?
「上告棄却は夕方6時のラジオニュースで知りました」

── その時はどう思いましたか?
「ああ、やっぱりな、と思いました。自分のしたことを考えれば、死刑でおかしくないと思ってましたから」

── ショックを受けたり、落ち込んだりはしなかったですか?
「少しは動揺しましたよ」

── 上告が棄却され、何か生活に変化はありますか?
「とくに変化はなく、生活はいつも通りです。本を読んだり、写経・書写をしたり、絵を描いたり。手紙を書くのは増えました。手紙は平日2通しか出せないのですが、今までお世話になった方々の全員に出せるだけ出そうと思っています」

── お世話になった方々とは?
「主に支援者の方々で、その他に文通だけしていた方々もいます」

── 上告が棄却されてから、色んな人が面会に来ているのでは?
「上告を棄却されてからは今のところ、一般面会はほぼ毎日、誰かがお越しくださっています」

── それはやはり嬉しい?
「嬉しいですね。お礼の手紙を送るのが間に合いませんが」

── 死刑判決が確定すると、どういう処遇になるかはもうご存知ですか? たとえば、家族や弁護人以外とはほとんど面会も手紙のやりとりもできなくなることとか?
「本を読んだりして知っています」

── 面会や手紙のやりとりが制限されることはどう思いますか?
「制限はされたくないですね。でもあきらめています」

死刑判決が確定すると、外の世界と隔絶された生活になることは承知していた奥本被告。だが、その語り口はとても落ち着いていた。もしも自分が同じ立場に置かれたとして、ここまで平静を保っていられるだろうかと、ふと考えさせられた。

翌日から矯正展があるため、いつもと雰囲気が違った10月31日の宮崎刑務所

◆絵は被害者を想いながら描いている

上告棄却後もとくに生活に変化はないという奥本被告。被害者遺族に弁償するため、獄中でポストカードの製作に励んでいることは前回お伝えした通りだが、その作業も変わらず続けているようだ。

── ポストカードにするための絵は現在どうですか?
「自分は技術がなくそんなに上手くは描けません。でも今、描き上がっている絵は前回のもの(ポストカード)より少しはマシな絵になったと思っています」

── あれはどうやって描いているんですか?
「以前は昔見たことがある花や風景を思い出して描いていましたが、それには限界がありましたので、今は花の図鑑を観たり、写真などを見て、絵を描いています。見る写真は花や私の古里の風景、その他の風景です。写真は父に頼んで送ってもらい、その他に支援者が送ってくれます」

── 私が見たポストカードの絵はほのぼのとした暖かみが感じられましたが、こういう絵を描こうと何か考えながら描いていることはありますか?
「暖かみのある、やさしい、やわらかい絵を描きたいとは思っています」

── 心の琴線に触れたものをそのまま描いているような感じでしょうか?
「そうですね。絵を描く時は写経や書写をする時と同じような心境です。被害者3人のことを想いながら描いています。とくに妻と息子のことを想って、心の琴線に触れたものを2人に重ねて描いています」

── それが、償いの気持ちを持ちながら絵を描いているということですか?
「命を奪ってしまい、申し訳ないと思いながら描いています。僕は、絵を描くことは被害者3人に対する償いの1つだと思っています」

── 本はどんな本を読んでいますか?
「最近読んだのは、『ゲドを読む。』というゲド戦記に関する本です。色んな人がゲド戦記を読み、感想を言っているような内容の本です。支援者の中にジブリファンの方がいて、先日もジブリ関連の本を4冊差し入れてくれました」

◆再審と恩赦を考えている

上告棄却後もこれまでと変わらぬ生活を送っている奥本被告だが、死刑確定後のことも色々考えているようだ。

── 再審の請求をされることなどは考えていますか?
「再審の請求と恩赦の出願を考えています。10月16日に上告が棄却され、その日の夜まではこの結果(死刑)を潔く受け入れて死のうと考えていましたが、色々と考えた結果、その考え・気持ちはまったくなくなりました。今後も内省を深め続けるために、恩返しのために、償いのために最後までしぶとく生きることにしました。なので、そのためにできることはすべて行うつもりです」

── 反省をするとか、償いをするというのは、具体的にはどういうことをしようと考えていますか?
「反省は、僕が犯した罪と自分自身に最後まで向き合い続けることで、それが一番大切だと思っています。よりよく反省するために、主に浄土真宗ですが、仏教を学び続けます。償いは、被害者遺族に命ある限り、謝罪し続けることと、被害弁償金をお渡しし続けることです。被害者遺族に対する償いはこれくらいしか思いつきません」
「僕は、被害者3人の尊い命を奪うことによって、仏教によって、命の大切さ、尊さを明確に知らされました。なので、自分の命を大切に守るようにできる限り努力すべきだと考えています。それが、奪ってしまった被害者3人の尊い命に対する償いの1つだと思っています」

── ひとくちに償いと言っても難しいですね。
「難しいです。謝罪するのは大切なことだと思いますが、謝罪するだけではいけません。お金を払ったからと言って、とくに何も変わりませんが、何もしないよりはいいと思うんです。絵を描くという方法でお金を払えるのは、支える会の方々や黒原弁護士がチャンスをつくってくれたからです。まさか自分の描いた絵が売れてお金になるとは思ってなかったですから。せっかくつくってもらったチャンスですから、絵は描き続けたいと思っています。また、死刑が確定しても請願作業というのがあるそうなので、絵がダメな場合、それをしてお金を払うことも考えています。報酬はとても安いので、あまり大きな金額は払えないかもしれませんが」

── あと、恩返しとは?
「支える会の方々や黒原弁護士らに対して、何か恩返しがしたいと思っていました。死刑確定者になりますので、僕にできる唯一の恩返しは、最後まで償おうとする姿を、必死に生きようとする姿を見せることだと思っています」

◆死ぬ時も福岡がいい

── 先日面会させてもらった際、奥本さんは「死刑が怖いという思いは今のところ、あまりない」と言っていましたが、上告が棄却されて死刑判決が確定することになり、死刑への恐怖は出てきていますか?
「それはやっぱり少しありますね。これからはいつ死刑執行されてもおかしくないですから。不安や恐れはありますよ」

── ただ、こうして話していて、あまり落ちこんでいる感じにも見えませんけど?
「そうですか(笑)。黒原弁護士は最後まで付き合ってくださるようなので、僕も最後まで償おう、生きようと思っています。それに、しなければいけないことがたくさんあるので、落ち込んでいる暇がないです」

── 上告が棄却された後、お父さん、お母さん、弟さんたちとは会いましたか?
「父と母は面会に来てくれました。母は普通にしっかりしていましたが、父がショックを受けていましたね。涙目になっていて、落ち込んでいるのがよく顔に出ていました。あの父の様子は、僕もつらかったですね」

── Yさん(筆者注:第1審からのやり直しを求める上申書を最高裁に提出した被害者遺族。奥本被告の妻の弟)も面会に来てくれたんでしょうか?
「10月20日に来てくれました。嬉しかったですね」

── 死刑判決確定後はYさんとも面会や手紙のやりとりができるように請求するのでしょうか?
「そのつもりです。福岡拘置所に移送になれば、Yさんも他の拘置所よりは面会に来やすいはずです。福岡拘置所に行きたいです。福岡で生まれ育ったので、死ぬ時も福岡がいいです(筆者注:奥本被告は高校卒業後、自衛隊に入隊してから宮崎に移り住んだ。死刑判決確定後は現在の宮崎刑務所から刑場のある施設に移送されるが、管轄的に福岡拘置所に移送される可能性が高い)」

以上、奥本被告と面会した際のやりとりだが、この面会後に奥本被告から届いた手紙の一節も紹介しておきたい。奥本被告は面会の際、「内省を深め続けるためや恩返し、償いのために最後までしぶとく生きることにした」と語っていたが、手紙ではその真意が改めて次のように綴られていた。

《私が今、考えていること(再審や恩赦)はまったく潔くありませんが、間違っていないと思っています。私は、被害者3人の命をある日突然奪ったのですから、私が死ぬ心の準備をするのはおかしいです。私も死ぬ時は、死ぬつもりがまったくない状態で死ぬべきです。最後までしぶとく生きるつもりです》

死刑確定後も生き続けようとする奥本被告に対し、反感を抱いた人もいるかもしれない。しかし、奥本被告が生き続けようとするのは、死ぬ時は被害者たちと同じ恐怖や苦しみを味わうべきだという覚悟を決めたうえでの選択なのだ。死刑判決が確定し、筆者も奥本被告と接点を持つのが難しくなることは確実だが、今後も奥本被告の動向は可能な限りフォローしていきたい。

【宮崎家族3人殺害事件】
宮崎市花ケ島町の会社員・奥本章寛被告(当時22)が2010年3月1日、自宅で妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、妻の母(同50)を殺害した事件。奥本被告は同年11月17日、宮崎地裁の裁判員裁判で死刑判決を受け、さらに2012年3月22日、福岡高裁宮崎支部で控訴を棄却され、死刑判決を追認される。現在は最高裁に上告中だが、あす16日、判決公判が開かれる。地元では減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族も最高裁に「第一審からのやり直し」を求める上申書を提出する異例の事態になっている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

みずほ銀行・司法官僚天下り利権!など注目記事満載の『紙の爆弾』12月号発売中!

テレビ朝日「報道ステーション」のディレクター、岩路真樹さん(享年49)が自殺し、遺体が自宅で発見されたのは8月末のこと。それから2カ月、原発問題や冤罪問題をはじめ様々な社会問題を精力的に取材していた岩路さんの死を悼む声は今も後を絶たない。そんな中、今月7日に発売された『紙の爆弾』12月号には、ある著名な女性が綴った岩路さんへの追悼文が掲載された。

その女性とは、鳥取連続不審死事件の上田美由紀被告(40)である。

上田被告が拘禁されている松江刑務所

◆生前、冤罪を疑っていた

上田被告は2009年、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗被告と共に「東西の毒婦」とマスコミに騒ぎ立てられた。捜査の結果、借金の返済や家電代金の支払いを免れるために知人男性2人を殺害したとして強盗殺人罪などに問われ、一貫して無実を訴えたが、2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けた。その後、広島高裁松江支部の控訴審でも無実の訴えを退けられ、現在は最高裁に上告中である。

岩路さんが生前、この上田被告の冤罪を疑い、取材に乗り出していたことは一部で報じられた通りだ。岩路さんは上田被告と面会や手紙のやりとりを重ねて信頼関係を築き、現場にも足を運び、検察の描いた筋書きに不自然な点を色々見出していた。筆者も昨秋から上田被告とは面会や手紙のやりとりを重ね、彼女が「紙の爆弾」4月号で独占手記を発表した際には構成を担当するなどしたが、そのきっかけをつくってくれたのも実は岩路さんだった。

「あんな犯行、彼女には無理ですよ」。昨年の夏、大阪で開催された和歌山カレー事件・林眞須美死刑囚(53)の支援集会で会った際、岩路さんはそう力説していた。この時、すでに上田被告は第一審で検察の主張通り、2人の被害男性に睡眠薬を飲ませ、海や川に連れて行って溺死させたかのように認定され、死刑判決を受けていた。しかし、岩路さんが現場を訪ねたところ、上田被告がそのような手口で犯行を敢行するのは現場の状況からあまりにも無理があったということだった。

このような現場の状況から浮上する有罪判決への疑問は、ジャーナリストの青木理氏がこの事件を取材して上梓した著書「誘蛾灯」の中でも指摘されている。とはいえ、テレビや新聞ではあまり指摘されていないから、知る人はマレなはずだ。だが、地元の記者らと話をしたところ、実はこのことに気づいているテレビや新聞の記者は以前から決して少なくないようだった。彼らは自由にものが言えない大手報道機関の人間という立場上、表向きは沈黙しているだけのようなのだ。

そしておそらく、有名報道番組のディレクターだった岩路さんもその一人だった。岩路さんは生前、上田被告の告白本を出そうと動いていたと報じられているが、それが事実なら「報ステでは、この事件を冤罪として報じるのは無理だから本を出すしかない」と考えたのだろう。実際、岩路さんは生前、「テレビでは冤罪を取り上げるのがとても難しい」とこぼしていたものだった。

◆死を嘆き悲しむ上田被告

そんな岩路さんが亡くなり、上田被告が悲しんでいるのではないかと推測する報道もあったが、実際にそうである。岩路さんの死以来、彼女から筆者に届く手紙にはいつも「悲しい」「立ち直れない」と岩路さんの死を嘆き悲しむ言葉が書き綴られている。そんな彼女ゆえに「紙の爆弾」で10月号から始めた「松江刑務所より…」という連載でも、岩路さんへの追悼の思いを書き綴ったのだ。

無実を訴えながら死刑判決を受けている女性被告が、自分の冤罪の訴えを世に広めようと奔走してくれていたテレビディレクターの死を悼んだ極めて異例の追悼文。1ページに収まる短い文章だが、故人を悼む思いが溢れている。一読の価値はあるはずだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

『紙の爆弾』最新号!福島第一原発「泥沼化」の現実など注目記事満載です!

 

事件があったマツダの工場。引寺はこの正門から突入した

2010年6月、広島市南区のマツダ本社工場に自動車で突入して暴走し、社員12人を死傷させた引寺利明(47)。「現場の工場で期間工として働いていた頃、他の社員の集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダに恨みがあった」という特異な犯行動機を語り、裁判では妄想性障害と認定されたが、責任能力も認められて昨年秋、無期懲役判決が確定した。引寺は今、どんな日々を過ごしているのか。前2回に引き続き、引寺が今年9月に岡山刑務所の面会室で筆者に語った本音の言葉をお伝えする。

被害者や遺族に対する罪の意識がないことをまったく隠さない引寺。「何の恨みもないのに、でかいことをやろうという思いだけでやった事件じゃない」と言うが、これまでの経緯を振り返ると、裁判中に法廷で不規則発言を繰り返すなど、自分の犯行を誇示するような言動も目立った。この男の思考回路は一体、どうなっているのか。筆者は今改めて、犯行後の「あの発言」について、尋ねた。

◆「秋葉原を超えた」発言の真意

── 事件の直後、知人の男性に電話して、「ワシは秋葉原を超えた」と言ってましたよね?
「ああ、事件の直後はそう思ったんよね。いっぱい撥ねたんで、ワシは秋葉原の事件よりたくさん殺したのう、と。実際に死んだ人は1人じゃったけどね」

マスコミ報道により、この「秋葉原を超えた」発言が有名になった引寺被告。この発言については、2008年に7人が死亡した秋葉原無差別殺傷事件を引き合いに出し、自分の犯行を誇示したものだと一般に認識されてきた。しかし、引寺本人としては、単純に「秋葉原の事件より多くの人間を殺してしまった」と言っただけだったというのである。

「あとで、1人しか死んでないと聞かされて、ワシはびっくりしたけえね」と引寺はシレっと言う。たしかに自動車を猛スピードで走らせ、何ら手加減することなく12人も撥ねたのだ。秋葉原無差別殺傷事件より多くの死者が出たと思い込んでも無理はないかもしれない。

「いずれにしても、“真相”が明らかにならんことには、怒りばっかりでね。ワシは今も怒っとるけえ」
現在、自宅アパートに侵入する「集スト行為」をしていた犯人は、実はマツダの社員らではなく、自分の父親と不動産会社の社長だったと主張している引寺。その“真相”が公に明らかにならない限り、怒りの気持ちばかりで、被害者や遺族への罪の意識はまったく持てないというわけである。

◆「被害者や遺族は“真相”を知る権利がある」

引寺はさらにこんなことも言った……。
「被害者や遺族の人がワシと話してみたいなら、自分がなんで事件を起こしたんかいうことをイチから説明してもええんじゃけどね。被害者や遺族の人はワシに対し、恨みつらみをぶつけてくれてもええしね」
── 被害者や遺族は引寺さんと関わりたくないと思いますよ。
「それなら片岡さんが遺族の人に会いに行って、ワシの代わりに“真相”を伝えてくれてもええよ。片岡さんなら第三者じゃろう」
── ぼくが引寺さんの伝言役として会いに行けば、やはり被害者や遺族の人はいやがると思いますよ。
「でも、被害者や遺族には“真相”を知る権利があると思うんよ。Aさん(=引寺に“真相”を教えたとされる知人男性)の言うことも100%正しいとは言えんけど、ワシはこれが“真相”じゃと思いよるけえ。遺族も“真相”は知りたいじゃろう。いずれにしても、“真相”が明らかにならんことには、自分は怒りのほうが強いけえ、謝罪感情はどっかに飛んで行ってしまうんよ。ワシは裁判で『引寺は妄想性障害じゃ』とキチガイみたいにされとるわけじゃけえね」

◆「死刑上等のつもりでやった」

この引寺の発言を聞き、身勝手なことばかり言いやがって――と思った人もいるかもしれない。だが、少なくとも筆者には、引寺自身は決して遺族を冒涜しているつもりはなく、「遺族は自分の話を聞きたいはずだ」と本気で思っているような印象を受けた。一方で、引寺はこんなことも言う。
「ワシについては、検察が『完全責任能力はあるけど、精神障害の可能性があるんで、極刑は躊躇する』ゆうて無期懲役を求刑したじゃろう。あれはワシとしては、納得いかんのんよ。ワシは死刑上等のつもりでやったんじゃけえ」

── 死刑上等ということは、死刑は怖くないんですか?
「う~ん、それはわからんよね。(犯行を)やる時は何も考えとらんかったけえ。実際に死刑判決受けて、拘置所に入れられて、毎朝、刑務官が部屋の前をコツ、コツ、コツいうて足音させて歩いてきて、部屋の前でノックしてきたら怖いかもしれんよ。でも、ワシは現実にそうなってないけえ。仮にワシが死刑判決受けて、今は広拘(広島拘置所)におって、片岡さんから『死刑は怖いですか』と訊かれたら、『怖い』と言うかもしれんけどね。まあ、今、現実に死刑判決受けとる人らは死刑が怖いんかもしれんね。こないだ2人執行されたニュースあったけど、あん時も死刑判決を受けとる人らは怖い思うたかもね」

死刑制度の是非をめぐっては、犯罪抑止効果があるのか否かということも論点の1つだが、少なくとも引寺に対しては、死刑制度の犯罪抑止効果はまったく発揮されなかったようである。引寺は無期懲役囚として送る刑務所生活について、こんなことも言った。
「まあ、こういう生活がいつまで続くんかのうと思うたら、たいぎい(=面倒くさい)気持ちになることもあるね。そういう時は『死刑のほうがよかったのう』と思ったりもするわ。まあ、もしも“真相”がきちんと明らかにされて認められとったら、死刑にされてもワシは満足じゃったろうね。今は“真相”が明らかにならんけえ、怒っとる。それだけじゃけえ。その怒りのせいで、謝罪感情が飛んでっとるんじゃけえ」

◆「刑務所に来て、甘党になった」

── 被害者や遺族のことがまったく気にならないわけではないんですか?
「ワシも人間じゃけえ、そういう感情がないわけじゃないよ。被害者や遺族らが今どうしよんかのお、とは思うね。ただ、ワシの中では事件が風化しよんよ。広拘におった時は被害者や遺族のこともみんな、フルネームで覚えとったんじゃけどね。今は苗字くらいしか出てこんもん。被害者や遺族はワシのこと、どう思うとんかのお……。じゃけど、不思議なんは、裁判の時に傍聴席からワシに罵声浴びせる被害者や遺族が誰もおらんかったことよ。ワシが逆の立場じゃったら、絶対に傍聴席から罵声浴びせるじゃろうと思うけどのお。片岡さんでも浴びせるじゃろう」

引寺はそうしみじみ語った。刑務所生活では、月に1回出る「ぜんさい(善哉)」が楽しみだそうで、こんなことも楽しそうに話していた。
「シャバにおる時は辛党の人でも刑務所に来たら、みんな甘党になるんよ。ワシもシャバにおる時は、ぜんざいなんか1年に1回食べるかどうかじゃったけど、こっち来てから好きな物ランキングが上がったけえね」
筆者はそんな引寺の話を聞きながら、被害者や遺族が傍聴席から引寺に罵声を浴びせなかった理由が察せられたような気がした。この男に罵声など浴びせても、まったくこたえないだろうし、空しいだけだ――。被害者や遺族はそう思ったのではないか。

引寺の人物像、現状については、今後もまた随時お伝えしたい。

【マツダ工場暴走殺傷事件】
2010年6月22日、広島市南区にある自動車メーカー・マツダの本社工場に自動車が突入して暴走し、社員12人が撥ねられ、うち1人が亡くなった。自首して逮捕された犯人の引寺利明(当時42)は同工場の元期間工。犯行動機について、「マツダで働いていた頃、他の社員たちにロッカーを荒らされ、自宅アパートに侵入される集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダを恨んでいた」と語った。引寺は精神鑑定を経て起訴されたのち、昨年9月、最高裁に上告を棄却されて無期懲役判決が確定。責任能力を認められた一方で、妄想性障害に陥っていると認定されている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

タブーなき『紙の爆弾』最新号絶賛発売中!

 

 

引寺が服役している岡山刑務所

2010年6月、広島市南区のマツダ本社工場に自動車で突入して暴走し、社員12人を死傷させた引寺利明(47)。「現場の工場で期間工として働いていた頃、他の社員の集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダに恨みがあった」という特異な犯行動機を語り、裁判では妄想性障害と認定されたが、責任能力も認められて昨年秋、無期懲役判決が確定した。引寺は今、どんな日々を過ごしているのか。前回に引き続き、引寺が今年9月に岡山刑務所の面会室で筆者に語った本音の言葉をお伝えする。

すでにお伝えした通り、今も被害者や遺族に対する罪の意識がまったく無い引寺。「刑務所は“更生”する施設じゃなくて、(他の受刑者と)“交流”する施設」とまで言い放った。だが、その語り口にはどこか達観したような様子も感じられた。

◆「仮釈のことは今は考えん」

── 引寺さんは仮釈放が欲しいとは考えないんですか?
「ワシは考えんね。いま考えてもどうしようもないけえ。(仮釈放が)あるとしても、だいぶ先のことじゃろう。たいぎい(=面倒くさい)けえ、考えんわ」

── 無期懲役ですからね。
「無期の場合、ここ(=岡山刑務所)から出る人は1年に1人おるかどうかじゃね。今は無期じゃと30年以上入るけど、ほとんど小さい箱になって(と言いながら骨壷を胸の前に抱くような仕草をして)、出るんじゃろう。無期で入ってくる人と出る人を比べたら、入ってくるほうがだいぶ多いもんね。無期の人間は出れれば、ラッキーいうことじゃろうね」

引寺は罪の意識がまったく無い一方で、「シャバ」への未練もあまり感じていないようだった。それにしても、と筆者は思う。引寺が現在、自分のアパートに侵入する「集スト行為」を行っていたのはマツダの社員ではなく、実は自分の父や不動産会社の社長だったと主張するようになっているというのはすでにお伝えした通りだ。仮にその主張が事実ならば、引寺は「集スト行為」とは無関係のマツダの社員たちを死傷させたことになるのであるが……。

── 引寺さんのアパートに侵入していたのがお父さんや不動産屋の社長だったと思うなら、無関係なのに被害に遭ったマツダの人たちに悪いことをしたと思わないですか?
「いや、そりゃ思わん。親父や不動産会社の社長がワシのアパートに侵入しよったんなら、ワシが言いよったことが妄想じゃなかったことになるじゃろう。つまり、ワシがマツダでロッカーや車にイタズラされよったこともホンマじゃったと証明されることになるんじゃけえ」

つまり、こういうことらしい。引寺の裁判では事実上、引寺が主張する集団ストーカー被害はすべて「引寺の妄想」だったと結論されている。だが、自分の父親や不動産会社の社長が引寺のアパートに侵入していたのなら、少なくとも引寺の主張のうち、「自宅アパートに何者かが侵入していた」という部分は事実だったと証明される。ひいては、マツダの工場での勤務時にロッカーや車にいたずらされたと主張している件も妄想ではなく事実だったと証明される――それが引寺の考えなのだ。

◆本心で話してはいるのだが……

筆者が賛同しかねていると、引寺は筆者の心中を察したのか、こう水を向けてきた。
「ホンマの話、片岡さんはどう思いよん? やっぱり少なからず、(集団ストーカーに遭ったという話は)ワシの錯覚じゃと思いよん?」
「……少なからず、そう思っていますね」と筆者は正直に答えた。
すると、引寺は「そうか……」と少し残念そうにしながらも念押しするようにこう言った。
「でも、ワシが(マツダに)何の恨みもないのに、ただデカイことをやってやろうという思いだけで事件を起こしたんじゃないんはわかってくれたかね?」
今度は筆者も「そうですね。それはわかりました」と答えた。昨年の春頃から一年半以上、面会や手紙のやりとりを重ねてきて、引寺が常に本音で話していることだけはわかっていた。マツダの工場で働いていた頃に集団ストーカー被害に遭ったことが犯行動機だという引寺の言葉は、間違いなく本心だ。

だが、しかし――と筆者は思う。引寺は事件を起こして以来、自分の犯行を誇示するような言動もしばしば見せてきた。公判で不規則発言を繰り返したのは、その最たるものだろう。控訴審の判決公判では閉廷時、裁判長に食ってかかった挙げ句、「このワシがマツダに黒歴史を刻んでやった! よう覚えとけ!」と大声で叫びながら退廷していった。それまでに何度も面会してきた筆者には、あれが引寺のパフォーマンスだということはすぐわかった。引寺は決して激高し、我を忘れてあのような発言をする人間ではない。

また、引寺は犯行直後に知人男性に電話した際、「ワシは秋葉原を超えた」と、2008年に7人が死亡した秋葉原無差別殺傷事件を意識したような発言をし、犯行を誇示していたと伝えられている。引寺という男の思考回路は一体どうなっているのか――。[つづく]

【マツダ工場暴走殺傷事件】
2010年6月22日、広島市南区にある自動車メーカー・マツダの本社工場に自動車が突入して暴走し、社員12人が撥ねられ、うち1人が亡くなった。自首して逮捕された犯人の引寺利明(当時42)は同工場の元期間工。犯行動機について、「マツダで働いていた頃、他の社員たちにロッカーを荒らされ、自宅アパートに侵入される集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダを恨んでいた」と語った。引寺は精神鑑定を経て起訴されたのち、昨年9月、最高裁に上告を棄却されて無期懲役判決が確定。責任能力を認められた一方で、妄想性障害に陥っていると認定されている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

タブーなき『紙の爆弾』最新号絶賛発売中!

 

« 次の記事を読む前の記事を読む »