すでにこのかん記述してきたように、去る2月1日、私たちは、50年前に学費値上げに抗議し身を挺して闘った時の出撃拠点・同志社大学旧学館、拙い砦をこしらえ立て籠もった今出川キャンパス明徳館前に立った。ようやく50年の月日が流れたのか──感慨深い。

コロナ禍で呼びかけるのを憚っていたが、今年になりコロナが収束したかに見えたところで、所在がわかる、かつての同志に案内を送った。しかしコロナ第6波が急拡大したり、平日だったことなどもあり(ほとんどの人が70歳を過ぎても働いているので)、再プッシュしなかった。当時は、たったひとりになっても闘うと決意していたように、かねてから私ひとりでも本年2月1日には同志社大学の旧学館、今出川キャンパス明徳館前に行くつもりだった。

すると、50年前に支援に駆けつけてくれ逮捕された京大熊野寮の垣沼真一さんが駆けつけてくれるという。彼はわざわざ東京から駆けつけてくれた。他にも4人が駆けつけてくれた。従前からもっと周到に準備すれば、もう少しは集まったかもしれないが、このコロナ禍、いたずらに移動を煽るようなことはしたくなかったし、人望のない私が呼びかけても、そんなに共感を呼ばないだろうという気もした。

2022年2月1日 旧学館(現寒梅館)前で

被告団10人の内、私の他に駆けつけてくれたのは、もうひとり、京大熊野寮から垣沼さんと共に駆けつけ逮捕─起訴されながらも無罪を勝ち取ったM君がいる。

M君に再会できたのは本当に嬉しく有意義だった。彼は垣沼さんと同じく京大工学部(垣沼さんは航空工学専攻)で建築を専攻、その後大学院に進み修士課程を修了している。大学院に進んだのは、見るからに秀才肌だった彼の向学心もあったのだろうが、裁判もあったので、なかなか就職もできなかったものと思われる。その後2,3年民間企業で働き、自前の建築設計事務所を開き、今は諸事情で事務所を閉じ自宅で建築設計関係の仕事をしているとのことだった。いろんな起伏もあったようだが、国際的な賞を獲り雑誌の表紙を飾ったこともあるという。

垣沼さんにしろM君にしろ、語りを聞くと、京大工学部という超ハイレベルな学歴に反し、決してエリートコースを歩んだわけではなかったようだ。垣沼さんは、一時社会的な事件にも巻き込まれてもいる。

2022年2月1日 今出川キャンパス明徳館前で

 

1972年2月1日 当時の学館前での激闘

さらに、これまで一面識もなかった同志社の後輩も参加してくれた。三里塚管制塔闘争があった直後の78年入学で、学生運動の拠点として名が高かった同志社のキャンパスでは、さぞや三里塚闘争で盛り上がっているであろうと予想していたところ田辺移転問題ばかりで三里塚の立看はなくガッカリし、学外で三里塚の運動に関わり現地にも行ったという。

彼の言うことは私も同感で、かつて大きな闘争では同志社の学友会旗、各学部自治会旗、闘争委員会旗が翻り、同志社の学生は持ち前の戦闘性を発揮し先頭に立って闘ったということで知られる。管制塔闘争で同志社の旗が翻ったり同志社の部隊が闘っている報道が見られずガッカリした。

私が入学した70年では、まだまだ闘いの機運は残っており、私もそれに巻き込まれていくのだが、70年代後半から、それまで良かれ悪しかれ同志社の学生運動を牽引してきた全学闘(全学闘争委員会)が弱体化し、あろうことか放逐され、同時に、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を、その戦闘性で牽引した同大の革命的学生運動は、政治ゴロや簒奪者らによる“コップの嵐”に終始し、結局は自ら学友会を解散するという前代未聞の喜劇を演じるに至った。私たちの先輩や、これを越えようとした私たちが自ら血を流し闘い守ってきた「同志社大学学友会」の輝かしい歴史が終わったのだ。先輩らの闘い、その想いを蔑ろにするものと言わざるをえない。

 

1972年2月1日 明徳館屋上での抵抗

私は、私(たち)の闘いの足跡を『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』(垣沼さんと共著。2017年。現在品切れ。古書市場では高額な値が付いている)と『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』(2021年)にまとめ刊行したことと、この2・1学費決戦50周年で、私にとっては、ひとつのケジメをつけれたと考えている。書き残すべきことは、ほぼ書き残せたので、いつ死んでもいい。前者は、会社も経営的に絶好調の時で比較的ゆったりと仕事ができたが、後者は、コロナ禍で、経営的に想定外の落ち込みに遭遇し、精神的にきつい中での編集作業であったが、私が若い時に闘った足跡を、50年目のこの時期に、なんとしても書き残したいという強迫観念で作業を貫徹した。

思い返せば、以前にも記述したが、南ベトナム民族解放戦線のように三里塚で沼につかり逃げながら闘ったことに比べれば、どうってこともないし、その後も2005年、雑誌『紙の爆弾』を創刊して直後、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で逮捕・起訴され、50歳を過ぎて192日もの長期勾留をされたり(若い頃の192日と50歳を過ぎてのそれとは、おのずと社会的責任が違い、肉体的、精神的負担も大きく違う)、幾多の困難に直面し、多くの方々に助けられ乗り越えてきた……当時20歳、クソ生意気な若造だった。50年経ち今や70歳、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」などと嘲笑される高齢者の領域に入った。なんとか頑張って、もう一仕事、二仕事、やり終えくたばりたいと思っている。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇

報告が遅れましたが、とりいそぎ上記のとおり書き記しました。2・1で逮捕され勾留中に連合赤軍事件が起きました。このあたりのことは『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』をご一読ください。

このところ連合赤軍50年ということで関連の新刊本や再刊本が少なからず出されています。『抵抗と~』もその一つと見なされているかもしれませんが、自分では、ちょっと違うと思っています。出版社や著者らの思惑とは外れ、今のところは世間の関心もさほど盛り上がらないように感じられます。えてしてそんなもので、商売気で、そんな本を出しても、そううまくはいかないものですよ。ちなみに、『抵抗と~』のほうは、1971年という地味な年を中心に採り上げたことで取次会社も委託部数をこれまでの本よりも減らしましたが、予想に反し、けっこう追加注文が続いています。

連合赤軍事件、50年経って、あらためてみずからの問題として考えてみる契機であることだけは確かです。(松岡利康)

【追記】

垣沼さんが、当日のことについてコメントされていますので、以下掲載しておきます。

*     *     *     *     *

中身は恥ずかしい限りだが何とか生き抜いて懐かしい場所で縁のある方たちと交流しました。

この半世紀前の明け方に京大の値上げ阻止の無期限バリストから、当局の要請で機動隊が導入されて封鎖が強制排除されようとする同志社に駆けつけました。烏丸今出川北で衝突になり丸太部隊を含む学生側と機動隊の闘いが繰り広げられました。これが京都は勿論ですが多分日本での街頭での本格戦闘の最後になったのかもしれません。多くの仲間とともに私も逮捕され、戦闘部隊にいたので起訴されると思っていたが、どういうわけか起訴だけは免れた。ただし10名の方が起訴されて長い裁判になりました。

この記念日にも複数の元被告の方が駆けつけました。懇親会のことはいずれ書くつもりです。この交流に前後して最近参加している中国による周辺の人々への虐殺、弾圧を阻止する運動の一環として、洛中の様々な場所でウイグルの実情を訴える漫画のパンフレットを配布しました。

2月1日は京大本部、旧教養部ならびに吉田寮、百万遍、同志社で配布。構内は試験とコロナで人疎なのに警備員ばかりでやや陰鬱な感じでした。同大で配布時に感じの良い女性がもうネットで読みましたと嬉しそうに挨拶してくれました。北で配布に続いて、翌3日帰京する前に少し時間があるので 河原町に沿って三条から四条にかけてウイグル人弾圧を暴露する清水ともみさんの「私の身に起きたこと」のパンフレット版を配らせていただきました。北の学生街とは違い受け取る人が激減しますが目を開いて驚く人々が多くて宣伝にはなった。

『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』

本年は沖縄返還(併合といったほうが適切)から50年にあたる。沖縄問題は、私(たち)にとって〈闘い〉である。学者の甘ったれた虚言を許さない。

返還前年の71年は返還協定調印ー批准阻止闘争に総力で闘った私たちは、「研究対象」(岸)として、〈沖縄問題は闘い〉だという認識を持たず、もっともらしいことをのたまう徒輩を断罪する。

2月2日の朝日新聞は岸政彦へのインタビューを一面を割いて掲載している。突っ込みどころが散見されるが、ここではこれに留める。

朝日新聞2022年2月2日朝刊

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

ここで、かの大学院生リンチ事件が甦ってくる。2014年師走、大阪・北新地で、「反差別」運動の旗手と持て囃される李信恵ら5人による大学院生(当時)M君に対する凄絶なリンチ事件が起きたことは、この通信でもさんざん申し述べてきた。

裁判もいくつも争われたが、李信恵が鹿砦社に反訴した訴訟の控訴審判決において、裁判所はようやくリンチへの李信恵の連座を認定した。その後、なぜか李信恵らが、リンチ事件や関連訴訟について発言することは、ほぼなくなった。

リンチ事件以前から李信恵はネトウヨによるヘイトスピーチ、ヘイトクライムに対して訴訟を起こしており、その「李信恵さんの裁判を支援する会」の事務局長という要職を務め、李信恵ら加害者の聞き取りの席にも同席していたのが岸政彦だった。岸は事件の詳細を知っている。

だからこそ、特別取材班は岸を直撃し、真相を問い質したが、なぜか逃げ回るばかりだった。

人の心を持つ者(特に、普段から「人権」という言葉を口にする「知識人」)は、身近に起きた深刻な問題に真摯に立ち向かうべきだ。それも被害者M君はリンチによって相当の重傷を負っていることはリンチ直後の写真を見れば一目瞭然だ。本来ならば、被害者に寄り添い、問題解決にあたるべきではないのか!? 私の言っていることは間違っていますか?

岸よ、歯の浮くようなことを言ってないで、今からでもリンチ事件の根源的解決に努めよ! リンチ事件はまだ終わっていない。

取材班の直撃取材に逃げ回る岸政彦

対李信恵訴訟の尋問が終わった、その夜、傍聴に来、またリンチの現場に連座した伊藤大介は、ふたたび暴行、傷害事件を起している(現在横浜地裁で刑事事件として係争中)。

ちなみに、去る2月5日に開催された「連帯ユニオン議員ネット第17回大会」で、岸につながるバリバリの親しばき隊の池田幸代(元・社民党福島みずほ秘書、現・駒ヶ根市議)と戸田ひさよし起案の特別決議「うち続くヘイトクライムを弾劾し、社会の意識変革に向けて実践する特別決議」の文中「2020年には反差別活動をしてきた伊藤大介氏を日本第一党元大阪本部長の荒巻靖彦が『このチョンコが』と怒号しながら、白昼の大阪北区の繁華街でナイフで刺す事件が起こった。」と記載されているが、これは正確ではない。深夜を「白昼」というのは笑えるとしても、実際は、くだんの尋問後深夜泥酔して荒巻を呼び出し複数人で暴行に及び、荒巻に小指骨折や顔面打撲などの重傷を負わせ、一方荒巻も自衛のために所持していたナイフを出し応戦し伊藤に全治1週間の軽傷を負わせたというのが事実で、よって荒巻は罰金の略式起訴、伊藤は傷害罪で現在横浜地裁で係争中(伊藤の弁護人は、例によって神原元弁護士ら)。右であれ左であれ事実関係には正確であらねばならない。事件後すぐに発行した『暴力・暴言型社会運動の終焉~検証 カウンター大学院生リンチ事件』の冒頭レポートを参照されたい。

『反差別と暴力の正体』本文

『反差別と暴力の正体』本文

『反差別と暴力の正体』本文

『反差別と暴力の正体』本文

ひょんなことで、この大学院生M君リンチ事件に関わることになり、M君救済と真相究明に奔走し、私たちは6冊の本を世に問うた。私たちは、岸政彦や伊藤大介はじめ、この事件を隠蔽したり蔑ろにしたり、セカンドリンチや村八分を行った徒輩を決して許すことはない。(松岡利康)

*1971年から72年5・15返還にかけての沖縄闘争については昨年に発行した『抵抗と絶望の狭間――一九七一年から連合赤軍へ』をご一読ください。

**「カウンター大学院生リンチ事件」(しばき隊リンチ事件)については、早晩、総括本を出版する予定です。これに蠢いた人たち、特に知識人やジャーナリストらの姿は、「知識人とは何か?」「ジャーナリズムとは何か?」と問う場合の〝生きた負の見本”です。

本日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

『暴力・暴言型社会運動の終焉』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08VBH5W48/

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

《2月のことば》心配ないんだよ 大丈夫 なるようになるんだよ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

本年2月1日は、このかん本通信やFacebookなどで何度も申し述べているように、私にとっては特別なメモリアル・デーです。

二十歳の学生時代、学費値上げに抗して身を挺し闘い逮捕されてからちょうど50年が経ちました。

1972年2月1日、酷寒の京都、私たちが通う大学の学費値上げに対し、強い徹底抗戦の意志を持った同志社の学友のみならず全京都から連帯して駆けつけた学友と共に闘いました。

あれから50年──私は私なりに一所懸命に生きてきたつもりです。

決して清廉潔白ではなかったかもしれませんが、清濁併せ精一杯生きてきました。なんら恥じることはありません。

精一杯頑張っていれば、必ず浮かぶ背もあり助け舟もあることを実感しています。

いちいち挙げませんが、けっこう浮き沈みのある人生でした。

陽の当たる時ばかりではありませんでしたが、大丈夫、なるようになる!

この2年余りのコロナ禍で、私たちは心が折れる日々が続きますが、大丈夫、大丈夫、共に励まし合い進んで行きましょう! 

(松岡利康)

『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

50年前の今頃、私は同志社大学の学費値上げ阻止闘争のバリケードの中にいた。それは、それまでに盛り上がった学園闘争などに比べると小さなものではあったが、私たちにとっては全身全霊を懸けた〈決戦〉だった。

 

全学無期限封鎖に入ったことを知らせる立て看板

決戦は2月1日だったが、1月13日の全学学生大会で無期限封鎖を決議し、来るべき決戦に備え意志統一し緊張感のある日々だった。

少なくとも私は、この50年間、時にだらけたり時に絶望したり、いろいろなことがあったが、その闘いを貫徹できた矜持を持って生きてきたつもりだ。

学費闘争、あるいはその前後の沖縄─三里塚闘争、連合赤軍事件については、先般発行し現在発売中の『抵抗と絶望の狭間──一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾増刊)に長く拙い文章を綴り、詳しくはこちらをご覧いただきたいが、想起すれば、いまだに頭の中が錯綜する。連合赤軍事件が表面化したのも、逮捕され獄中に在ったさなかだった。

60年代後半から始まった全国学園闘争の波も引き、前年71年の沖縄─三里塚闘争も多数の逮捕者を出し、喧伝された「激動の70年代」も出鼻を挫かれた恰好だ。しかし、このことは上記書でも強調しているが、71年の闘いは地味で霞んでいるように思われているが、決してそうではなく、現在に比べれば、遙かに盛り上がったことを、あらためて申し述べておきたい。

全国の私立大学、また国立大学の学費大幅値上げに対する抗議と抵抗も一定の盛り上がりを見せたが、いつのまにか萎え、最後まで闘いを持続していたのは、さほどなかった。

しかし、ここを何としても体を張って阻止しなければ、学費値上げはどんどん拡大するという認識だったが、これが当たったことは、その後の私立、国公立問わず学費値上げの事実を見れば歴然だろう。信じがたいかもしれないが、当時国立大学の学費は年間1万2千円、つまりひと月千円であるが、物価の水準も上っているとはいえ、その50倍ほどになっている。

私立大学にしても、現在年間100万円ほどにまで膨れている。私が入学した1970年、入学金3万円、施設費3万円、学費6万5千円、計12万5千円だったが、こちらも10倍ほどに上っている。

しかし、68年の中央大学では学費値上げの白紙撤回を勝ち取っている。私たちは、これを見て、学費値上げは必ず阻止できると信じ、身を粉にして闘った。つまり、私たちが「革命的敗北主義」「敗北における勝利」の信念のもと先頭になって闘いを貫徹すれば、たとえ私たちが一時的に敗北したとしても、必ずや私たちの闘いに触発された学友が続くであろうと信じてやまなかった(が、時代はもう変わっていて、逆に運動は脆弱化し、その中から政治ゴロや簒奪者らの介入や跳梁を許すことになった)。

弾圧を報じる京都新聞72年2月1日夕刊

あれからあと数日で50年になろうとしている。──

2月1日に、かつての学生会館(今は取り壊され寒梅館となっている)前に結集し、この50年に各自どのように生きてきたか語り合いたい。私の人望のなさのせいで何人集まるか判らないが、人数の問題ではない、あの闘いを共に貫徹した誇りを甦らそうではないか!

蛇足ながら、1969年に創業した鹿砦社は、その前日の72年1月31日に設立(株式会社化)している。この時のメンバーは『日本読書新聞』(現在廃刊)にいた天野洋一(故人)、前田和男(『続 全共闘白書』編集人)らである。

◎2月1日当日の概要は別途掲載の案内をご覧ください。締め切りは過ぎていますが、参加希望の方は今からでも私にご一報ください。(松岡利康)

2・1学費決戦50周年の集い案内

《1月のことば》越えてゆけ 今を 少しだけ前へ ちょっとだけ前へ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

2022年を迎えました。
新たな年、皆様、いかがお過ごしでしょうか?

コロナ禍が2年も続き、社会は疲弊しています。
1年ならまだしも2年となると私たちの会社も大きな影響を受けました。
昨年、とりわけ後半は大変でしたが、皆様方のご支援により、なんとか年を越せました。

本年、まだコロナの動向は不透明ですが、コロナなどに負けず、この困難を越えてゆかねばなりません。

「少しだけ前へ ちょっとだけ前へ」。

本年も、魂の書家・龍一郎の言葉と力強い筆致に力をもらい頑張っていきましょう!
昨年は私たちもコロナに負けそうになり少しへたりましたが、本年は心機一転、反転攻勢に打って出ます!
旧に倍するご支援をお願いいたします!(松岡利康)

新年1月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号!

 

《12月のことば》縁 出会いは人生を豊かにする 別れは人生を深くする (鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

2021年のカレンダーも最後の1枚になりました。

本当に1年経つのは速いものですね。

今年は当社もコロナの影響をもろに受けました。

顕在化しなかっただけで、危機は昨年から水面下で進行していたようです。そりゃそうでしょう、コロナが何波も襲来し、そのたびに書店さんがクローズを余儀なくされ売上ゼロになった月もあったりで、のちのち出版社に逆流することは判り切ったことです。

出版は取次会社の精算が遅いので、気づくのも遅れてしまいました。

昨年はまだなんとか売上微減でしたが、今年は急激に落ち込み青息吐息です。

しかし、私たちはこれまで何度も危機を乗り越えてきましたので、ここはなんとしても乗り越える決意です。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

11月29日に『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を発行いたしました。

1971年は、私がちょうど19歳から20歳になる頃で、一所懸命に闘った年でした。50年前の出来事、そうして、なにがしかの〈縁〉があって出会った人たち、別れた人たち……出会いと別れを繰り返しつつ齢を重ねてきました。走馬灯のように過ぎります。

この本には、そうした思い入れもあって目の疾患で難儀しつつも(ゲラを拡大コピーしたり、さらにルーペを使ったりして)多くの方々の寄稿と協力を得て心血を注ぎました。

ちょっとスケジュールをゆったりめに取って編集に当たりました。特に詳細に記された年表には苦労しましたが、こういう仕事も残しておくこともけっして無意味ではないでしょう。

1971年は地味な年で、あまり論じられることもありませんが、政治、文化、多くの面で転換期にありました。

政治的には、「返還」前の沖縄問題、開港前の三里塚問題を中心に、今とは比較にならないほど、まだ抵抗運動は続いていました。しかし、それも翌年早々起きた連合赤軍事件が私たちを絶望のどん底に落としました。

文化面では、そのインパクトでこの通信でも悪評でしたが、映画が、カラーテレビの登場等で斜陽を迎えます。

これを東映、日活はポルノ路線で乗り切りました。これには驚きましたが、経営陣の、この判断は、多くの批判が浴びせられながらも、生き延びるために賢明だったと思います。一方、ポルノ路線に乗らなかった大映は倒産してしまいました。

この問題を板坂剛さんと高部務さんが採り上げました。

板坂さんは日大全共闘(芸闘委)、高部さんも一時赤軍派で活動されていて、けっして軟派な方ではなく、むしろ硬派な方です。

詰まるところ、エロも革命も〈等価〉で、同じ位相で見ないといけないということでしょう。

◎「鹿砦社カレンダー2022」が完成いたしました! 12月7日発売の『紙の爆弾』1月号、同11日発売の『NO NUKES voice』30号の定期購読の方々に雑誌と一緒に発送いたします。好評で毎年不足しますので、今年は1700部(昨年は1500部、10年前に開始した時は1000部)と少し増やしました。それでもギリギリかと思います。これを機会に両誌の定期購読をお願いいたします!(松岡利康)

◆シラケ世代

71年に思春期や青春時代を迎えた世代は、総称して「シラケ世代」と呼ばれたものだ。ほかにも三無主義・四無主義という呼称があった。

 

『木枯し紋次郎』(中村敦夫事務所提供)

つまり、無気力・無責任・無感動・無関心というわけである。わたしもその一人だった。

無感動や無関心には、それなりの理由がある。少年期に戦後復興の象徴であるオリンピックや高度経済成長を体感し、努力すれば成功するという勤勉な日本人像を抱いていた。にもかかわらず、60年代後半の価値観の変転が、その神話を打ち崩したのである。

一所懸命努力しても、成功するとは限らない。背広を着た大人の言うことは信用するな。正義が勝つとはかぎらない。へたに政治運動に首を突っ込むと、とんでもないことに巻き込まれる。闘っても、負ければ惨めだ。巨人の星飛雄馬は挫折したし、力石徹も死んでしまった。若者たちは政治の汚さや正義の危うさを知ってしまったのだ。

前ふりはここまでにしておこう。そんなシラケ世代のど真ん中に、突如として現れたのが「木枯し紋次郎」だった。

『抵抗と絶望の狭間』の巻頭は、その木枯し紋次郎を演じた中村敦夫さんのインタビューである。

胡散臭いことを「ウソだろう」という感性は、まさに演じた紋次郎のものだ。アメリカ留学の件は、あまり知られていない個体史ではないか。中村さんのシンプルな発想は、いまの若い人たちにも参考になるはずだ。

俳優座への叛乱を報じる朝日新聞(1971年10月28日朝刊)

◆その時代が刻印した「傷」と「誇り」

シラケ世代は68・69年の学生叛乱の延長で、それを追体験する世代でもあった。シラケていても、いやだからこそ叛乱には意味があった。もはや戦後的な進歩や正義ではない、世界が変わらなくても自分たちが主張を変えることはない。

 

「俺を倒してから世界を動かせ!」1972年2月1日早朝 封鎖解除 同志社大学明徳館砦陥落

松岡利康さんら同大全学闘の「俺を倒してから世界を動かせ!」という スローガンにそれは象徴されている「私にとって〈一九七一年〉とはいかなる意味を持つのか」(松岡利康)。

革命的敗北主義とは妥協や日和見を排し、最後まで闘争をやりきることで禍根を残さない。そこにあるのは学生ならではの潔癖さであろう。

善悪の彼岸において、革命的(超人的)な意志だけが世界を変え得る(ニーチェ)。

学費値上げ阻止の個別闘争といえども、革命の階級形成に向けた陣地戦(ヘゲモニー)である(グラムシ)。

71年から数年後、松岡さんたちの『季節』誌を通してそれを追体験したわたしたちの世代も、ささやかながら共感したものだ。その「傷」の英雄性であろうか、それともやむなき蹶起への共感だったのだろうか。いずれにしても、進歩性や正義という、戦後の価値観をこえたところにあったと思う。

松岡さんの記事には、ともに闘った仲間の印象も刻印されている。

◆抵抗の記憶

71年を前後する学生反乱の体験は、文章が個人を体現するように多様である。掲載された記事ごとに紹介しよう。

眞志喜朝一さんはコザ暴動のきっかけとなった「糸満女性轢死事件」からベ平連運動に入ったことを語っている(聞き手は椎野礼仁さん)。沖縄戦で「日本国の盾にされてウチナンチュが死ぬ」のを、二度と繰り返さないために、馬毛島から与那国島まで要塞化するのは許せない。そのいっぽうで、日本国民(ヤマトンチュにあらず)として、中国が沖縄の地にやってきたらレジスタンスとして戦うというアンビバレンツなものを抱えざるを得ない。そしてB52が出撃した基地として、ベトナムにたいする加害者である意識を否定できないという。

田所敏夫さんが書いた「佐藤栄作とヒロシマ――一九七一年八月六日の抵抗に思う」にある抗議行動は、当日のニュースで見た記憶がある。

この女性が「糾弾」ではなく「佐藤首相、帰ってください」という訴え方をしたので、視ているほうも親身になったのではないかと思う。すくなくとも、わたしはそう感じた記憶がある。

被爆二世としての田所さんの思いのたけは、ここ三年間の8月6日のデジタル鹿砦社通信の記事として収録されている。

山口研一郎さんの「地方大学の一九七一年――個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い」も貴重な証言である。被災した長崎天主堂が、本来ならば原爆の悲劇の象徴として保存されるべきところ、当時の田川市長によって取り壊された。被爆者でもある田川市長が訪米後のこと、アメリカの核戦略に従ったものといえよう。

長崎には大村収容所もあり、山口さんの問題意識は被爆者問題にとどまらず、入管問題、沖縄返還問題、狭山差別裁判、三里塚闘争へとひろがる。そして長崎大学では、右翼学生との攻防がそれらの問題とかさなってくるのだ。周知のとおり、長崎大学の学生協議会は、現在の日本会議の中軸の活動家を輩出している。

◆内ゲバの前哨戦と機動隊の壁を突破

眞志喜朝一さんをインタビューした、椎野礼仁さんの闘争録「ある党派活動家の一九七一」は前述した「文章が個人を体現する」がピッタリ当てはまる。

もうこれは、学生の運動部の体験記に近い。党派というスポーツクラブに所属した体験記みたいだ。しかし実際には「通っていた大学に退学届けを出して、シコシコと、集会やデモ、その情宣活動を中心とした“学生運動”に勤しんでいた」のだ。

その学生運動の党派とは、「悪魔の第三次ブント」を標榜した戦旗派である。

第二次ブント分裂後のブント系最大党派で、その組織リゴリズムから「ブント革マル派」と悪評が高かった。ようするに「前衛ショービニズム」(荒岱介)で、ゲバルトがすこぶる強かった。分派後のブント系は、反戦集会などがあれば、かならず内ゲバが前哨戦として行なわれていた。その内ゲバの様子が、まさに「運動部の体験」のごとく活写されている。戦記ものとして読めばたのしい。

叛旗派には13戦全勝だったというが、判官びいきもあって、デモに参加する群衆の人気は、圧倒的に叛旗派だった。

当時を知る人によれば「叛旗がんばれー!」という歓声があがったという。

その叛旗派は、吉本隆明がゆいいつ「ブント」として評価していた党派である。吉本の人気とゲバルト闘争にはいまひとつ参加できない、新左翼シンパ層の支持にささえられていた。そして12.18ブントや赤軍派とのゲバルト。荒岱介さんによれば、キャッチマスクを着けたゲバルト訓練は、九十九里海岸の合宿で行なわれたはずだ。

71年6.17の全国全共闘分裂のデモでは、上京した同志社全学闘(松岡さんら)の闘いと交錯する。こちらは内ゲバではなく、機動隊に押し込まれて「もうアカン」(松岡さん)という状態のときに、背後から火炎瓶が投げられて機動隊が後退。「同大全学闘の諸君と共にここを突破したいと思います」(戦旗派)というアジテーションがあり、スクラムを組んで突破したのである。

内ゲバもするが、機動隊を前にしたときは共闘する。そこがブント系らしくていい。

そして72年5月の神田武装遊撃戦、ふたたびの組織分裂と困惑。まさに華々しく駆け抜けた青春のいっぽうで、ひそかに行なわれた非合法活動。語りつくせないことが多いのではないか。

よく太平洋戦争の戦記もので、書き手によっては悲惨な戦いも牧歌的に感じられるものがある。椎野さんには改めて、闘争記を書いてほしいものだ。

『戦旗』(1972年5月15日)

『戦旗』(1972年5月15日)

◆新左翼のお兄ちゃん

芝田勝茂さんの「或ル若者ノ一九七一」は、当時のノートをもとに回顧した文章である。現在の上品な児童文学者の風貌からは想像もできなかった、新左翼のお兄ちゃん然とした芝田さんにビックリさせられる。

文章も主語が「俺」なので、当時の雰囲気をほうふつとさせる。長い髪とギターを抱えた姿は、まさにフォークソングを鼻歌にしそうな、当時の新左翼のお兄ちゃんなのだ。

だが、内容は牧歌的ではない。芝田さんや松岡さんが参加した同志社大学全学闘は赤ヘルノンセクトだが、いわば独立社学同である。

東京では中大ブント、明大ブントが第一次ブント崩壊後(60年代前半)の独立社学同で、その当時は関西は地方委員会がそっくり残っていた。

 

キリン部隊

そして二次ブント分裂後、同志社学友会を構成する部分が全学闘であり、対抗馬的な存在が京大同学会(C戦線)であった。

芝田さんの記事では、同大全学闘と京大C戦線、立命館L戦線の三大学共闘が、並み居る新左翼党派に伍して独自集会を行なうシーンが出てくる。

「同志社のキリン部隊や!」「やる気なん?」と参加者から歓声が上がり、解放派から「こいつら無党派じゃない! 党派だ!」という声が出るのも当然なのである。

※キリン部隊 ゲバルト用の竹竿の先端に、小さな旗を付けたもの。折れにくい青竹が主流で、竹竿だけだと凶器準備集合罪を適用されかねないので、先端に申し訳ていどに付ける。

◆三里塚9.16闘争

松岡さんと芝田さんの手記にも三里塚闘争への参加(京学連現闘団)と逮捕の話は出てくるが、当時高校生だった小林達志さんが「三里塚幻野祭」と第二次強制代執行阻止闘争のことを書いている。

激闘となった、71年9.16闘争である。このとき、八派共闘の分裂によって、三里塚現地の支援党派も分裂していた。中核派と第4インターが駒井野と天浪の砦(団結小屋)で徹底抗戦。椎野さんたちの戦旗派もそれに対抗して砦戦だった。

いっぽう、解放派と叛旗派、情況派、日中友好協会(正統)、黒ヘル(ノンセクト)、京学連などが反対同盟青年行動隊の指導の下、ゲリラ戦で機動隊を捕捉・せん滅する計画を練っていた。

おそらく9.16闘争の手記が活字になるのは、初めてのことではないだろうか。それだけに読む者には、生々しいレポートに感じられる。

すでに裁判は86年に終わり(第一審)、無罪(証拠不十分)をふくむ執行猶予付きの判決で終結している。つまり9.16闘争とは、上記のゲリラ部隊が機動隊を急襲し、警官3名の殉職者を出した東峰十字路事件なのだ。※東峰十字路事件(Wikipedia)

同志社大学では当日の実況中継を計画していたが、さすがに機動隊員が死んだという知らせをうけて急遽中止したという。

70年代は「第二、第三の9.16を」というスローガンが流行ったものだが、この事件では三ノ宮文男さんがたび重なる別件逮捕のすえに自殺している。警官の殉職者もふくめて、いまは哀悼の意を表すしかない。

硬派なタイトルの紹介ばかりとなったが、この書評は連載となることを予告しておこう。71年は日活ロマンポルノ元年でもあり、銀幕にバスト露出が始まった年である。そのあたりは元官能小説作家として、たっぷりと紹介したい。(つづく)

朝日新聞(1971年9月16日夕刊)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

《11月のことば》上を向いて歩こう(2021鹿砦社カレンダーより/龍一郎・揮毫)

喜怒哀楽というように人にはいろいろな感情や表情があります。

人生には嬉しいことばかりではなく悲しいことも多々あります。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」とは誰もが知る有名な歌の歌詞です。

悲しい時にはこらえても涙が出ることはありますが、それでも笑顔で前を向いて歩いていきたいものです。

秋も深まり肌寒くなってきました。今年のカレンダーもあと2枚、来年2022年のカレンダーも校了し印刷に入っています。例年通り12月発行の『紙の爆弾』『NO NUKES voice』の定期購読の皆様方には一緒にお送りいたします。

定期購読まだの方は今すぐお申し込みお願いいたします。

(松岡利康)

7日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』12月号!

《10月のことば》一隅を照らす(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

10月の言葉は難しい。揮毫した龍一郎本人に解説してもらいました。

〈「一隅を照らす(いちぐうをてらす)」は空海と並ぶ比叡山の最澄の言葉です。
中村哲先生はご色紙を頼まれるとこの言葉を書いておられました。

各人は小さな力しか持たぬささやかな存在である。
しかし、それぞれが生きる場で小さな灯りを灯せば世の中は明るくなる。

この言葉は心に沁みます。〉

もはやこれ以上の解説は不要でしょう。

今年のカレンダーも残り少なくなりました。来年のカレンダーも龍一郎の揮毫が済み、着々と制作中です。11月末には完成し、まずは12月7日発行の『紙の爆弾』(同4日発送)、同11日発行の『NO NUKES voice』(同8日発送)の定期購読の方に同封(贈呈)させていただきます。

これを機会に両誌の定期購読(新規、継続)をお願いいたします。

(松岡利康)

『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

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