50年前の記憶 1972年2月1日の出来事 鹿砦社代表 松岡利康

50年前の今頃、私は同志社大学の学費値上げ阻止闘争のバリケードの中にいた。それは、それまでに盛り上がった学園闘争などに比べると小さなものではあったが、私たちにとっては全身全霊を懸けた〈決戦〉だった。

 
全学無期限封鎖に入ったことを知らせる立て看板

決戦は2月1日だったが、1月13日の全学学生大会で無期限封鎖を決議し、来るべき決戦に備え意志統一し緊張感のある日々だった。

少なくとも私は、この50年間、時にだらけたり時に絶望したり、いろいろなことがあったが、その闘いを貫徹できた矜持を持って生きてきたつもりだ。

学費闘争、あるいはその前後の沖縄─三里塚闘争、連合赤軍事件については、先般発行し現在発売中の『抵抗と絶望の狭間──一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾増刊)に長く拙い文章を綴り、詳しくはこちらをご覧いただきたいが、想起すれば、いまだに頭の中が錯綜する。連合赤軍事件が表面化したのも、逮捕され獄中に在ったさなかだった。

60年代後半から始まった全国学園闘争の波も引き、前年71年の沖縄─三里塚闘争も多数の逮捕者を出し、喧伝された「激動の70年代」も出鼻を挫かれた恰好だ。しかし、このことは上記書でも強調しているが、71年の闘いは地味で霞んでいるように思われているが、決してそうではなく、現在に比べれば、遙かに盛り上がったことを、あらためて申し述べておきたい。

全国の私立大学、また国立大学の学費大幅値上げに対する抗議と抵抗も一定の盛り上がりを見せたが、いつのまにか萎え、最後まで闘いを持続していたのは、さほどなかった。

しかし、ここを何としても体を張って阻止しなければ、学費値上げはどんどん拡大するという認識だったが、これが当たったことは、その後の私立、国公立問わず学費値上げの事実を見れば歴然だろう。信じがたいかもしれないが、当時国立大学の学費は年間1万2千円、つまりひと月千円であるが、物価の水準も上っているとはいえ、その50倍ほどになっている。

私立大学にしても、現在年間100万円ほどにまで膨れている。私が入学した1970年、入学金3万円、施設費3万円、学費6万5千円、計12万5千円だったが、こちらも10倍ほどに上っている。

しかし、68年の中央大学では学費値上げの白紙撤回を勝ち取っている。私たちは、これを見て、学費値上げは必ず阻止できると信じ、身を粉にして闘った。つまり、私たちが「革命的敗北主義」「敗北における勝利」の信念のもと先頭になって闘いを貫徹すれば、たとえ私たちが一時的に敗北したとしても、必ずや私たちの闘いに触発された学友が続くであろうと信じてやまなかった(が、時代はもう変わっていて、逆に運動は脆弱化し、その中から政治ゴロや簒奪者らの介入や跳梁を許すことになった)。

弾圧を報じる京都新聞72年2月1日夕刊

あれからあと数日で50年になろうとしている。──

2月1日に、かつての学生会館(今は取り壊され寒梅館となっている)前に結集し、この50年に各自どのように生きてきたか語り合いたい。私の人望のなさのせいで何人集まるか判らないが、人数の問題ではない、あの闘いを共に貫徹した誇りを甦らそうではないか!

蛇足ながら、1969年に創業した鹿砦社は、その前日の72年1月31日に設立(株式会社化)している。この時のメンバーは『日本読書新聞』(現在廃刊)にいた天野洋一(故人)、前田和男(『続 全共闘白書』編集人)らである。

◎2月1日当日の概要は別途掲載の案内をご覧ください。締め切りは過ぎていますが、参加希望の方は今からでも私にご一報ください。(松岡利康)

2・1学費決戦50周年の集い案内

《1月のことば》越えてゆけ 今を 少しだけ前へ ちょっとだけ前へ 鹿砦社代表 松岡利康

《1月のことば》越えてゆけ 今を 少しだけ前へ ちょっとだけ前へ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

2022年を迎えました。
新たな年、皆様、いかがお過ごしでしょうか?

コロナ禍が2年も続き、社会は疲弊しています。
1年ならまだしも2年となると私たちの会社も大きな影響を受けました。
昨年、とりわけ後半は大変でしたが、皆様方のご支援により、なんとか年を越せました。

本年、まだコロナの動向は不透明ですが、コロナなどに負けず、この困難を越えてゆかねばなりません。

「少しだけ前へ ちょっとだけ前へ」。

本年も、魂の書家・龍一郎の言葉と力強い筆致に力をもらい頑張っていきましょう!
昨年は私たちもコロナに負けそうになり少しへたりましたが、本年は心機一転、反転攻勢に打って出ます!
旧に倍するご支援をお願いいたします!(松岡利康)

新年1月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号!

《12月のことば》縁 出会いは人生を豊かにする 別れは人生を深くする 鹿砦社代表 松岡利康

《12月のことば》縁 出会いは人生を豊かにする 別れは人生を深くする (鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

2021年のカレンダーも最後の1枚になりました。

本当に1年経つのは速いものですね。

今年は当社もコロナの影響をもろに受けました。

顕在化しなかっただけで、危機は昨年から水面下で進行していたようです。そりゃそうでしょう、コロナが何波も襲来し、そのたびに書店さんがクローズを余儀なくされ売上ゼロになった月もあったりで、のちのち出版社に逆流することは判り切ったことです。

出版は取次会社の精算が遅いので、気づくのも遅れてしまいました。

昨年はまだなんとか売上微減でしたが、今年は急激に落ち込み青息吐息です。

しかし、私たちはこれまで何度も危機を乗り越えてきましたので、ここはなんとしても乗り越える決意です。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

11月29日に『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を発行いたしました。

1971年は、私がちょうど19歳から20歳になる頃で、一所懸命に闘った年でした。50年前の出来事、そうして、なにがしかの〈縁〉があって出会った人たち、別れた人たち……出会いと別れを繰り返しつつ齢を重ねてきました。走馬灯のように過ぎります。

この本には、そうした思い入れもあって目の疾患で難儀しつつも(ゲラを拡大コピーしたり、さらにルーペを使ったりして)多くの方々の寄稿と協力を得て心血を注ぎました。

ちょっとスケジュールをゆったりめに取って編集に当たりました。特に詳細に記された年表には苦労しましたが、こういう仕事も残しておくこともけっして無意味ではないでしょう。

1971年は地味な年で、あまり論じられることもありませんが、政治、文化、多くの面で転換期にありました。

政治的には、「返還」前の沖縄問題、開港前の三里塚問題を中心に、今とは比較にならないほど、まだ抵抗運動は続いていました。しかし、それも翌年早々起きた連合赤軍事件が私たちを絶望のどん底に落としました。

文化面では、そのインパクトでこの通信でも悪評でしたが、映画が、カラーテレビの登場等で斜陽を迎えます。

これを東映、日活はポルノ路線で乗り切りました。これには驚きましたが、経営陣の、この判断は、多くの批判が浴びせられながらも、生き延びるために賢明だったと思います。一方、ポルノ路線に乗らなかった大映は倒産してしまいました。

この問題を板坂剛さんと高部務さんが採り上げました。

板坂さんは日大全共闘(芸闘委)、高部さんも一時赤軍派で活動されていて、けっして軟派な方ではなく、むしろ硬派な方です。

詰まるところ、エロも革命も〈等価〉で、同じ位相で見ないといけないということでしょう。

◎「鹿砦社カレンダー2022」が完成いたしました! 12月7日発売の『紙の爆弾』1月号、同11日発売の『NO NUKES voice』30号の定期購読の方々に雑誌と一緒に発送いたします。好評で毎年不足しますので、今年は1700部(昨年は1500部、10年前に開始した時は1000部)と少し増やしました。それでもギリギリかと思います。これを機会に両誌の定期購読をお願いいたします!(松岡利康)

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈1〉71年が残した傷と記憶と 横山茂彦

◆シラケ世代

71年に思春期や青春時代を迎えた世代は、総称して「シラケ世代」と呼ばれたものだ。ほかにも三無主義・四無主義という呼称があった。

 
『木枯し紋次郎』(中村敦夫事務所提供)

つまり、無気力・無責任・無感動・無関心というわけである。わたしもその一人だった。

無感動や無関心には、それなりの理由がある。少年期に戦後復興の象徴であるオリンピックや高度経済成長を体感し、努力すれば成功するという勤勉な日本人像を抱いていた。にもかかわらず、60年代後半の価値観の変転が、その神話を打ち崩したのである。

一所懸命努力しても、成功するとは限らない。背広を着た大人の言うことは信用するな。正義が勝つとはかぎらない。へたに政治運動に首を突っ込むと、とんでもないことに巻き込まれる。闘っても、負ければ惨めだ。巨人の星飛雄馬は挫折したし、力石徹も死んでしまった。若者たちは政治の汚さや正義の危うさを知ってしまったのだ。

前ふりはここまでにしておこう。そんなシラケ世代のど真ん中に、突如として現れたのが「木枯し紋次郎」だった。

『抵抗と絶望の狭間』の巻頭は、その木枯し紋次郎を演じた中村敦夫さんのインタビューである。

胡散臭いことを「ウソだろう」という感性は、まさに演じた紋次郎のものだ。アメリカ留学の件は、あまり知られていない個体史ではないか。中村さんのシンプルな発想は、いまの若い人たちにも参考になるはずだ。

俳優座への叛乱を報じる朝日新聞(1971年10月28日朝刊)

◆その時代が刻印した「傷」と「誇り」

シラケ世代は68・69年の学生叛乱の延長で、それを追体験する世代でもあった。シラケていても、いやだからこそ叛乱には意味があった。もはや戦後的な進歩や正義ではない、世界が変わらなくても自分たちが主張を変えることはない。

 
「俺を倒してから世界を動かせ!」1972年2月1日早朝 封鎖解除 同志社大学明徳館砦陥落

松岡利康さんら同大全学闘の「俺を倒してから世界を動かせ!」という スローガンにそれは象徴されている「私にとって〈一九七一年〉とはいかなる意味を持つのか」(松岡利康)。

革命的敗北主義とは妥協や日和見を排し、最後まで闘争をやりきることで禍根を残さない。そこにあるのは学生ならではの潔癖さであろう。

善悪の彼岸において、革命的(超人的)な意志だけが世界を変え得る(ニーチェ)。

学費値上げ阻止の個別闘争といえども、革命の階級形成に向けた陣地戦(ヘゲモニー)である(グラムシ)。

71年から数年後、松岡さんたちの『季節』誌を通してそれを追体験したわたしたちの世代も、ささやかながら共感したものだ。その「傷」の英雄性であろうか、それともやむなき蹶起への共感だったのだろうか。いずれにしても、進歩性や正義という、戦後の価値観をこえたところにあったと思う。

松岡さんの記事には、ともに闘った仲間の印象も刻印されている。

◆抵抗の記憶

71年を前後する学生反乱の体験は、文章が個人を体現するように多様である。掲載された記事ごとに紹介しよう。

眞志喜朝一さんはコザ暴動のきっかけとなった「糸満女性轢死事件」からベ平連運動に入ったことを語っている(聞き手は椎野礼仁さん)。沖縄戦で「日本国の盾にされてウチナンチュが死ぬ」のを、二度と繰り返さないために、馬毛島から与那国島まで要塞化するのは許せない。そのいっぽうで、日本国民(ヤマトンチュにあらず)として、中国が沖縄の地にやってきたらレジスタンスとして戦うというアンビバレンツなものを抱えざるを得ない。そしてB52が出撃した基地として、ベトナムにたいする加害者である意識を否定できないという。

田所敏夫さんが書いた「佐藤栄作とヒロシマ――一九七一年八月六日の抵抗に思う」にある抗議行動は、当日のニュースで見た記憶がある。

この女性が「糾弾」ではなく「佐藤首相、帰ってください」という訴え方をしたので、視ているほうも親身になったのではないかと思う。すくなくとも、わたしはそう感じた記憶がある。

被爆二世としての田所さんの思いのたけは、ここ三年間の8月6日のデジタル鹿砦社通信の記事として収録されている。

山口研一郎さんの「地方大学の一九七一年――個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い」も貴重な証言である。被災した長崎天主堂が、本来ならば原爆の悲劇の象徴として保存されるべきところ、当時の田川市長によって取り壊された。被爆者でもある田川市長が訪米後のこと、アメリカの核戦略に従ったものといえよう。

長崎には大村収容所もあり、山口さんの問題意識は被爆者問題にとどまらず、入管問題、沖縄返還問題、狭山差別裁判、三里塚闘争へとひろがる。そして長崎大学では、右翼学生との攻防がそれらの問題とかさなってくるのだ。周知のとおり、長崎大学の学生協議会は、現在の日本会議の中軸の活動家を輩出している。

◆内ゲバの前哨戦と機動隊の壁を突破

眞志喜朝一さんをインタビューした、椎野礼仁さんの闘争録「ある党派活動家の一九七一」は前述した「文章が個人を体現する」がピッタリ当てはまる。

もうこれは、学生の運動部の体験記に近い。党派というスポーツクラブに所属した体験記みたいだ。しかし実際には「通っていた大学に退学届けを出して、シコシコと、集会やデモ、その情宣活動を中心とした“学生運動”に勤しんでいた」のだ。

その学生運動の党派とは、「悪魔の第三次ブント」を標榜した戦旗派である。

第二次ブント分裂後のブント系最大党派で、その組織リゴリズムから「ブント革マル派」と悪評が高かった。ようするに「前衛ショービニズム」(荒岱介)で、ゲバルトがすこぶる強かった。分派後のブント系は、反戦集会などがあれば、かならず内ゲバが前哨戦として行なわれていた。その内ゲバの様子が、まさに「運動部の体験」のごとく活写されている。戦記ものとして読めばたのしい。

叛旗派には13戦全勝だったというが、判官びいきもあって、デモに参加する群衆の人気は、圧倒的に叛旗派だった。

当時を知る人によれば「叛旗がんばれー!」という歓声があがったという。

その叛旗派は、吉本隆明がゆいいつ「ブント」として評価していた党派である。吉本の人気とゲバルト闘争にはいまひとつ参加できない、新左翼シンパ層の支持にささえられていた。そして12.18ブントや赤軍派とのゲバルト。荒岱介さんによれば、キャッチマスクを着けたゲバルト訓練は、九十九里海岸の合宿で行なわれたはずだ。

71年6.17の全国全共闘分裂のデモでは、上京した同志社全学闘(松岡さんら)の闘いと交錯する。こちらは内ゲバではなく、機動隊に押し込まれて「もうアカン」(松岡さん)という状態のときに、背後から火炎瓶が投げられて機動隊が後退。「同大全学闘の諸君と共にここを突破したいと思います」(戦旗派)というアジテーションがあり、スクラムを組んで突破したのである。

内ゲバもするが、機動隊を前にしたときは共闘する。そこがブント系らしくていい。

そして72年5月の神田武装遊撃戦、ふたたびの組織分裂と困惑。まさに華々しく駆け抜けた青春のいっぽうで、ひそかに行なわれた非合法活動。語りつくせないことが多いのではないか。

よく太平洋戦争の戦記もので、書き手によっては悲惨な戦いも牧歌的に感じられるものがある。椎野さんには改めて、闘争記を書いてほしいものだ。

『戦旗』(1972年5月15日)
『戦旗』(1972年5月15日)

◆新左翼のお兄ちゃん

芝田勝茂さんの「或ル若者ノ一九七一」は、当時のノートをもとに回顧した文章である。現在の上品な児童文学者の風貌からは想像もできなかった、新左翼のお兄ちゃん然とした芝田さんにビックリさせられる。

文章も主語が「俺」なので、当時の雰囲気をほうふつとさせる。長い髪とギターを抱えた姿は、まさにフォークソングを鼻歌にしそうな、当時の新左翼のお兄ちゃんなのだ。

だが、内容は牧歌的ではない。芝田さんや松岡さんが参加した同志社大学全学闘は赤ヘルノンセクトだが、いわば独立社学同である。

東京では中大ブント、明大ブントが第一次ブント崩壊後(60年代前半)の独立社学同で、その当時は関西は地方委員会がそっくり残っていた。

 
キリン部隊

そして二次ブント分裂後、同志社学友会を構成する部分が全学闘であり、対抗馬的な存在が京大同学会(C戦線)であった。

芝田さんの記事では、同大全学闘と京大C戦線、立命館L戦線の三大学共闘が、並み居る新左翼党派に伍して独自集会を行なうシーンが出てくる。

「同志社のキリン部隊や!」「やる気なん?」と参加者から歓声が上がり、解放派から「こいつら無党派じゃない! 党派だ!」という声が出るのも当然なのである。

※キリン部隊 ゲバルト用の竹竿の先端に、小さな旗を付けたもの。折れにくい青竹が主流で、竹竿だけだと凶器準備集合罪を適用されかねないので、先端に申し訳ていどに付ける。

◆三里塚9.16闘争

松岡さんと芝田さんの手記にも三里塚闘争への参加(京学連現闘団)と逮捕の話は出てくるが、当時高校生だった小林達志さんが「三里塚幻野祭」と第二次強制代執行阻止闘争のことを書いている。

激闘となった、71年9.16闘争である。このとき、八派共闘の分裂によって、三里塚現地の支援党派も分裂していた。中核派と第4インターが駒井野と天浪の砦(団結小屋)で徹底抗戦。椎野さんたちの戦旗派もそれに対抗して砦戦だった。

いっぽう、解放派と叛旗派、情況派、日中友好協会(正統)、黒ヘル(ノンセクト)、京学連などが反対同盟青年行動隊の指導の下、ゲリラ戦で機動隊を捕捉・せん滅する計画を練っていた。

おそらく9.16闘争の手記が活字になるのは、初めてのことではないだろうか。それだけに読む者には、生々しいレポートに感じられる。

すでに裁判は86年に終わり(第一審)、無罪(証拠不十分)をふくむ執行猶予付きの判決で終結している。つまり9.16闘争とは、上記のゲリラ部隊が機動隊を急襲し、警官3名の殉職者を出した東峰十字路事件なのだ。※東峰十字路事件(Wikipedia)

同志社大学では当日の実況中継を計画していたが、さすがに機動隊員が死んだという知らせをうけて急遽中止したという。

70年代は「第二、第三の9.16を」というスローガンが流行ったものだが、この事件では三ノ宮文男さんがたび重なる別件逮捕のすえに自殺している。警官の殉職者もふくめて、いまは哀悼の意を表すしかない。

硬派なタイトルの紹介ばかりとなったが、この書評は連載となることを予告しておこう。71年は日活ロマンポルノ元年でもあり、銀幕にバスト露出が始まった年である。そのあたりは元官能小説作家として、たっぷりと紹介したい。(つづく)

朝日新聞(1971年9月16日夕刊)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

《11月のことば》上を向いて歩こう 鹿砦社代表 松岡利康

《11月のことば》上を向いて歩こう(2021鹿砦社カレンダーより/龍一郎・揮毫)

喜怒哀楽というように人にはいろいろな感情や表情があります。

人生には嬉しいことばかりではなく悲しいことも多々あります。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」とは誰もが知る有名な歌の歌詞です。

悲しい時にはこらえても涙が出ることはありますが、それでも笑顔で前を向いて歩いていきたいものです。

秋も深まり肌寒くなってきました。今年のカレンダーもあと2枚、来年2022年のカレンダーも校了し印刷に入っています。例年通り12月発行の『紙の爆弾』『NO NUKES voice』の定期購読の皆様方には一緒にお送りいたします。

定期購読まだの方は今すぐお申し込みお願いいたします。

(松岡利康)

7日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』12月号!

《10月のことば》一隅を照らす 鹿砦社代表 松岡利康

《10月のことば》一隅を照らす(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

10月の言葉は難しい。揮毫した龍一郎本人に解説してもらいました。

〈「一隅を照らす(いちぐうをてらす)」は空海と並ぶ比叡山の最澄の言葉です。
中村哲先生はご色紙を頼まれるとこの言葉を書いておられました。

各人は小さな力しか持たぬささやかな存在である。
しかし、それぞれが生きる場で小さな灯りを灯せば世の中は明るくなる。

この言葉は心に沁みます。〉

もはやこれ以上の解説は不要でしょう。

今年のカレンダーも残り少なくなりました。来年のカレンダーも龍一郎の揮毫が済み、着々と制作中です。11月末には完成し、まずは12月7日発行の『紙の爆弾』(同4日発送)、同11日発行の『NO NUKES voice』(同8日発送)の定期購読の方に同封(贈呈)させていただきます。

これを機会に両誌の定期購読(新規、継続)をお願いいたします。

(松岡利康)

『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

《速報!》鹿砦社に入り込んだ“隠れしばき隊”藤井正美に対する民事訴訟の本人尋問、藤井・神原弁護士の醜い詭弁と三百代言を粉砕! 鹿砦社特別取材班

一昨日9月9日午後1時30分から大阪地裁第16民事部809号法廷において、鹿砦社が、元社員であり「カウンター/しばき隊」の中心メンバーだった藤井正美を相手取って損害賠償を求めた民事訴訟における証人調べ(本人尋問)が行われた。

またもや闘いの舞台・大阪地裁

本来なら翌日の昨10日に報告予定のところ、藤井の詭弁、同代理人の神原元弁護士の三百代言を長時間傍聴し気分が悪くなり遅れてしまい本日になったことをお詫びする。

これまでは争点準備手続き(非公開で傍聴者なし、当事者だけの参加)による審理であったので、この裁判において原告、被告双方が傍聴席の前に姿を現したのは、この日が初めてである。とはいえ、原告・鹿砦社代表松岡にとって法廷は数えきれないほどの経験がある。被告・藤井正美にとって、法廷内がどのように感じられたのかは想像するしかない。

傍聴席には鹿砦社の応援に合計9名の方々が駆けつけてくださった。平日にもかかわらず、ありがたいことだ。一方藤井側の応援はゼロ。しばき隊の仲間は冷たい。

◆意外と冷静だった松岡の尋問への対応

証言は原告松岡への森野俊彦弁護士の主尋問で幕を開けた。森野弁護士は松岡に藤井を雇用した経緯、入社後藤井の業務態度などをよく通る聞き取りやすい声で質問していった。松岡も落ち着いて回答する。

森野弁護士の主尋問のあとには、被告・藤井の代理人、神原元弁護士の反対尋問に移る。神原弁護士はやや高い声で傍聴席から聞いていると、少し早いテンポで松岡に質問を投げかける。松岡は時に「質問の意味がよく理解できませんので、もう一度お願いします」と聞き返すなど、松岡には珍しく終始冷静に質問に回答した。

直情型の松岡はかつて、ある裁判での尋問で書類を投げつけたほどで心配された。松岡は開廷前、「天気晴朗、明鏡止水の心境だ」と嘯いていたが、内心は怒りと闘志が燃えたぎっていたに違いない。

◆元社員・藤井正美の詭弁と開き直り、いまだに反省と謝罪の言葉はなかった

休憩を挟み、藤井への尋問は神原弁護士の主尋問から始まった。このやり取りの総体を一言で表せば「笑止千万」だ。神原弁護士による主尋問のあと、森野弁護士が藤井に対して反対尋問を行なった。

森野弁護士の質問内容は事前に裁判所に通知していた内容とほぼ同じであったが、時にゆっくり時間を取り、また別の質問では「あなたは」と始めながらも明らかに声の厚みが増し、藤井は回答に窮する場面もあった。

《自分を取り巻く今の環境は、3・11以降に反原発~反レイシズム~反安倍の流れを当たり前のように進んできた「縦糸」と、音楽やサッカーなどが「横糸」になったゆるやかな繋がりで編まれているんだけど、いずれ誰かが本にでもしてくれるだろう(笑)》

上記のように藤井が「いずれ誰かが本にでもしてくれるだろう(笑)」と希望していたことが、藤井発信のツイッターから判明した(もちろんそれだけが理由ではない)こともあり書籍に取り上げたのに、この日の藤井の弁解はその希望とまったく矛盾していた。

藤井正美2015年月別ツイート数一覧(『カウンターと暴力の病理』より)
藤井正美2015年9月のツイート数一覧(『カウンターと暴力の病理』より)
神原弁護士のツイート(2021年9月8日)

この期日前にも例によって、神原弁護士は「圧勝」(弁護士として品のない表現と感じるのは、われわれだけか?)とのお得意ツイートを投稿していたが、果たして実態は……? 傍聴された方々は、どう感じたであろうか?

この方は過去の裁判で勝訴でもないのに実質「勝利宣言」をするなど、不思議な言語感覚の持ち主であることは承知していたが、今回もそれは同様。

◆次回期日は11月4日午前11時30分から
 これで結審

双方の尋問(証言)終了後、裁判長は今後の扱いについて原告・被告双方に意向を聞いた。原告代理人森野弁護士は「最終準備書面を出したいのでもう1期日入れてほしい」旨主張、対する神原弁護士は「本日結審で」と意向を示したため、裁判長はじめ右・左陪席は「合議します」と短時間法廷から裏に去った。

神原弁護士のツイート(2021年9月9日)

合議の結果は11月4日に期日が入ることになった。あれ? 神原弁護士、大阪から帰る新幹線の中(?)からも「圧勝」宣言をしていたけど、これは法廷内での「圧勝」なのか。

今回の「通信」では、原告・被告双方の証言内容に特別取材班は一切触れない。理由は藤井の証言の中に判決へ影響を及ぼすであろう、重大な内容が複数個所あったからである。読者諸氏には消化不良で申し訳ないが、法廷闘争を勝ち抜くために、わざわざ藤井が提供してくれた「リーサルウェポン」は11月4日まで非公開だ。

◆敗訴が続く神原弁護士の風体に驚いた

この日の神原弁護士は、上着の裾も、ズボンもしわだらけ。ズボンの中に押し込んだつもりのシャツは、無残にも上着を押し上げてはみ出していた(これまで多数神原弁護士の姿を傍聴席から見た人物によれば、「こんな姿は初めてだった」という)。反対尋問で松岡に近づいた際に「神原弁護士は息が上がっていて驚いた」と松岡は振り返る。

神原弁護士のツイート(2021年9月9日)

そして神原弁護士は松岡への反対尋問中、鹿砦社支援者であふれる傍聴席へ過度に神経質になってしまった。ただでさえ甲高い声をさらにヒートアップし、あろうことか裁判長に「今、傍聴席で発言した人がいました。退廷させてください!」と泣きつく始末。おいおい「圧勝」の名が泣くぞ。

閉廷後、鹿砦社支援者は法廷から廊下へ出たところへ、神原弁護士と藤井が出てきた。支援者の中から「神原先生、『リンチ事件はなかった』というウソのHPは消してください」、「弁護士は法律を守ってください」、「弁護士はウソをつかないで」とあちこちから声が上がった。これが「圧勝」の実態である。神原弁護士は「さらば大阪」と、ほうほうの体で川崎に戻っていった――。

このところ神原弁護士は敗訴が続いている。『週刊金曜日』植村隆社長の訴訟、対森奈津子訴訟控訴審、そして李信恵のリンチ事件への連座と「道義的責任」を認定した対李信恵訴訟控訴審(賠償金は減額されつつ付いたが実質的に李信恵敗訴である)……自称「左翼」神原弁護士の「正義は勝つ」という看板が汚されていく……。

前述の通り、次回期日は11月4日(木)11:30から今回同様大阪地裁本館809号法廷で開かれる。最終準備書面の提出が主とした内容になろうが、われわれは最後まで気を緩めず闘い続ける。皆様のご支援をよろしくお願いする次第だ。

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9・9対藤井正美訴訟証人調べ(本人尋問)に注目を! 鹿砦社に入り込み「獅子身中の虫」として蝕んだ“隠れしばき隊”藤井正美と神原元弁護士の蠢動を打ち砕こう! 鹿砦社特別取材班

来る9月9日(木)午後1時30分から大阪地裁第16民事部809号法廷において、鹿砦社が、元社員であり「カウンター/しばき隊」の中心メンバーだった藤井正美を相手取って損害賠償を求めた裁判における証人調べ(本人尋問)が行われる。

この裁判は藤井正美が鹿砦社の社員時代、就業時間中に膨大なツイッター発信を行っていた事実が偶然判明したことに起因する。この時まだ「M君リンチ事件」の情報は鹿砦社にはもたらされてはいなかった。また、「カウンター/しばき隊」の源流「反原連(首都圏反原発連合)」との関係に齟齬が発生しつつあった頃だった(絶縁宣言が出されたのはこの直後)。

偶然発見された藤井のツイッター発信は膨大な量であり、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」をはじめとする松岡への誹謗中傷も少なくなかった。就業時間中の明らかな〈怠業〉(サボリ)に衝撃を受けた松岡は藤井入社以来のツイッター発信の一部(この時点では、あまりに膨大だったので全部は見れなかった)の記録、内容を点検した上で元警察官の飛松五男氏と弁護士立会いのもと藤井と話し合った。

ツイッター書き込みの一部を示し穏やかに話し合った結果、藤井本人が希望した「通常解雇」とした(普通こういうケースでは修羅場になることもあるが、それを抑止するために弁護士と飛松氏に立ち会いいただき終始録音もし、この音声データも保有してある)。

藤井は、何の魂胆があったのか推して知るべしだが、うまく鹿砦社に入り込み、在職期間の3年間、まさに「獅子身中の虫」として蠢動したのである。

「ここまで深入りしていたのか」と松岡に衝撃を与えた画像。先頭に立って街宣活動を行う藤井正美

◆姑息にも証拠隠滅を図った藤井正美

ところが、藤井は会社所有のパソコンで「謝罪文」を書く素振りを見せながら、実はツイッター発信同様に〈怠業〉をしていた私的メールなどの証拠の隠滅を図っていたことが、後日発覚する。この詳細については『カウンターと暴力の病理』のなかで詳細に記述があるので是非ご覧いただきたい。

《自分を取り巻く今の環境は、3・11以降に反原発~反レイシズム~反安倍の流れを当たり前のように進んできた「縦糸」と、音楽やサッカーなどが「横糸」になったゆるやかな繋がりで編まれているんだけど、いずれ誰かが本にでもしてくれるだろう(笑)》

2015年9月5日(土)、18時43分の藤井によるツイッターの書き込みだ。ある意味、本人が「本にでもしてくれるだろう」と“希望”するから、激烈な怠業ぶりと、鹿砦社を騙った企業恫喝などの詳細を「本」の一部に掲載したのだ。しかし、後日詳細に藤井の行動を再確認したところ、就業時間中ほとんど仕事をしていなかった実態が明らかになったため、鹿砦社は代理人を通じて「給与返還」を求める内容証明郵便を藤井に送付した。藤井からは何の返答もなかったので、仕方なく損害賠償請求訴訟を大阪地裁に起こした。これがあらましである。

社員が偶然発見した藤井のツイッターの一部

◆藤井はなぜ神原元弁護士を選任したか──吉と出るか凶と出るか注目を!

藤井は、鹿砦社に対して並々ならぬ敵意を持っている(とわれわれは認識している)神原元弁護士を訴訟代理人に選任した。これまで鹿砦社ならびに特別取材班が取材を試みた人物の少なくとも5人以上(李信恵はむろん香山リカ、秋山理央ら)の代理人に神原弁護士は就任している。その時点、つまり藤井が神原弁護士を代理人に選任した時点で藤井が「反省などまったくしていない」構図が明らかになった。大阪に山ほど弁護士がいるにもかかわらず、わざわざ神奈川の神原弁護士を選任しなくてもよいものを……。当初われわれはため息まじりに苦笑したものだった。

鹿砦社はこの裁判に、元裁判官で在任中から「日本裁判官ネットワーク」で活動し裁判所の内部から司法の変革を訴え続け、今は自由法曹団に所属する森野俊彦弁護士を選任、森野弁護士は先の対李信恵控訴審でも李信恵のリンチ関与と「道義的責任」を判示する判決を引き出した弁護士である。

神原弁護士も自由法曹団に所属し常任幹事を務めていることから、これまでの一連の訴訟とは代理人の立場が異なる展開で裁判が始まった。裁判長は審理の中で「和解」を進める場面もあり、条件次第では鹿砦社も和解に応じる腹づもりはあったが、藤井サイドはこれに応じないどころか、あろうことか「プライバシーの侵害」だと鹿砦社を反訴。あれだけの〈怠業〉の限りを尽くし、自ら《いずれ誰かが本にでもしてくれるだろう(笑)》と“希望”しておきながら、願いが叶うと「プライバシー侵害」だと駄々をこねる姿は滑稽そのものであるが、滑稽な主張が裁判所で堂々と主張されているのだから、笑ってもいられない。

一躍有名になった「声かけリスト」

◆自称「常勝」に曇りが出ている中での、9月9日(木)証人調べ(本人尋問)の意味

そのようなやりとりを経て、非公開の争点整理を重ね、9月9日(木)午後1時30分から証人調べ(本人尋問)が行われるのだ。原告の証人は松岡。被告の証人は藤井である。神原弁護士は審理の過程で、証人に特別取材班キャップの田所敏夫を求める旨の発言を一時していたが、最終局面ではその要請は行わず、逆に鹿砦社側が田所敏夫と鹿砦社社員Fの証人申請を行った。「来るなら来い!」ということである。裁判長は前回期日で「田所、Fの証人については保留」と述べたが9月初旬の現時点で裁判所から連絡はないので、松岡、藤井2名が証人として証言するのは間違いないだろう。

この裁判は直接的には、就業時間中の怠業を理由に元社員に給与の返還を求めるものであるが、前述のように神原弁護士の登場で、異なった意味合いも帯びざるを得なくなった。われわれは決して望まなかったが、鹿砦社vs「しばき隊」の代理戦争ともいえる構図が、藤井の主体的選択により法廷に持ち込まれたのだ。

藤井の怠業の中には、この5年余に渡り鹿砦社が追及してきた「M君リンチ事件」隠蔽に加担するメールも多々残されており(われわれが発掘し一躍有名になった「説明テンプレ」「声かけリスト」なども藤井が発信源である)、藤井自身も「しばき隊」内ではかなりの存在感を示していたようである。だからといって、鹿砦社は無理やり「M君リンチ事件」と藤井の怠業を結び付けるつもりはなかった。にもかかわらず、日本中に4万人以上弁護士登録者がいるといわれている中から、藤井はよりによって、ピンポイントで、おそらく日本の弁護士の中で最も鹿砦社を嫌悪しているであろう神原弁護士を選任したのだ(あーあ、疲れるなぁ)。

もとより、神原弁護士は本人が高言するほど「常勝」ではない。週刊金曜日現社長植村隆氏の裁判でも負けているし対森奈津子訴訟控訴審でも敗訴、さらに鹿砦社の対李信恵訴訟控訴審でも、このかんこの「通信」でも再三報じているように大阪高裁は、M君訴訟でも一貫として免責された李信恵のリンチへの連座と「道義的責任」を判示した(この判決を取材班は実質勝訴と評価し、松岡は減額されたとはいえ賠償金を課されたことで「敗北における勝利」と評価している)。

鹿砦社が求めたのは、さぼっていた元社員に「給料その他を返しなさい」という極めてシンプルな要求だ。ややこしい話ではない。「謝罪文」まで書き退職した藤井が開き直り、鹿砦社本社の間取り図を作為的に偽造し証拠として、ぬけぬけと裁判所に提出するなど、本筋が歪められたのだ(神原弁護士の法廷戦術だったのかもしれない)。

しかし、神原弁護士の態度には最近大きな変化が見られる。M君訴訟では「でっち上げ」として判決文をみずからの事務所のHPにアップしたにもかかわらず、鹿砦社の対李信恵控訴審判決内容には触れることはないし、自信を喪失しお疲れのように感じられる。

同時に感触ではあるが裁判長の姿勢にも提訴当初に比べると、藤井側のトンデモない主張や偽造された事務所の間取り図などで、われわれへの理解が深まっているのではないかと感じられる(裁判〔非公開の争点整理〕に出た社員の感想)。

同じく「説明テンプレ」

◆油断を排し、「鹿砦社憎し」に凝り固まった神原元弁護士らの野望を打ち砕け!

油断は禁物であるし、法廷では何が起こるかわからない。前述したように、つい最近われわれは、対李信恵裁判の高裁判決でそれを経験したばかりだ。

鹿砦社は原告であれ被告であれ、裁判の当事者となることを望まない(が、この四半世紀、鹿砦社の規模で1億円超の訴訟費用を使い、こちらから喧嘩を売ったことはさほどないが売られた喧嘩には真っ向から対決してきた。今後もこのスタンスは変わらない)。言論には言論で対抗するのが、出版を生業とする者の原則であり、われわれは法廷が戦場だとは考えていない。やむにやまれぬ法廷戦ではあったが、主たる戦場は、あくまでも言論戦である。われわれは言論戦からは一歩も退かない。

李信恵にしろ神原弁護士にしろ出版をできる環境にあるにもかかわらず、われわれが取材・調査を重ね6冊もの出版物に編纂して真相究明に当たったにもかかわらず、「デマだ」「クソだ」「でっち上げ」だと鸚鵡返しに繰り返すのみで、彼らは反論本の1冊も出すことはなかった。李信恵・上瀧浩子共著で『黙らない女たち』という本を出したので、興味深く拝見したが、リンチについての言及やわれわれの出版物に対する反論は1行もなかった。

李信恵は、大阪高裁の判決に記されたようにリンチに連座しその「道義的責任」から終生逃れられない。リンチ隠蔽に加担した藤井も同罪である。李信恵らに血の通った人間の心があるのならば、李信恵を背後から支えた「コリアNGOセンター」と共に公的に謝罪すべきだ。人間だれしも間違いを犯すことはある。ここできちんとした対応を取れるかどうかで、その人の人間性が現われ、人の評価も変わろうというものだ。そうでなければ、いつまでも狡(ずる)い人間だと思われ続け、それがたとえ今は小さなものであっても、徐々に拡がっていくであろう。これは藤井にも当てはまる。開き直るのではなく謙虚にみずからの非を認め反省し謝罪するのが先決だ。われわれの言っていることが間違っているのなら指弾していただきたい。

9月9日残暑下、コロナ禍の中ではあるが、圧倒的な注目と、時間の都合がつく皆さんにはぜひ傍聴をお願いしたい。藤井がやらかした悪行を代理人の神原弁護士が「正義」と言うのかどうかわからないが、藤井や代理人・神原弁護士の詭弁や三百代言、蠢動を打ち砕こう!

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《9月のことば》満月に 君を想う 鹿砦社代表 松岡利康

《9月のことば》満月に 君を想う(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

9月になりました──。

私事ながら、今月私は70歳になります。すでに黄泉の国に旅立った友人や、若い頃に出会い、今はどうしているか気になる人も少なからずいます。

あいつ、こいつ、あの人、この人……想い出とともに懐かしい顔が過(よ)ぎります。

いろいろな人たちに迷惑をかけて私は生きてきました。これから老い支度に入ります。後先さほど長くはありません。同世代ですでに亡くなった人もいるのに、これまで生き長らえてきたのが不思議です。

コロナ禍で思ったように身動きできず、故郷の友人はじめ会いたい人にも会いに行けず満月に想いをいたすしかありませんが。残りわずかとなったわが人生、これからもダメなことはダメと言い続ける、恥じない生き方をしたいと思っています。(松岡利康)

【管理人よりのお知らせ】
9月よりこの「デジタル鹿砦社通信」も新たな寄稿者を迎え、これまで以上に読み応えのあるものになると思います。新たな寄稿者は、森奈津子、黒薮哲哉、さとうしゅういち各氏です。ご期待ください!

『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!