すでにお知らせしていますように、「カウンター大学院生リンチ事件(別称「しばき隊リンチ事件」)」について、セカンドリンチ(ネットリンチや村八分)に晒されていた被害者M君に寄り添い救済・支援と真相究明に当たってきた私たち鹿砦社に、あろうことか1月28日、大阪地裁第24民事部は165万円の賠償金と「デジタル鹿砦社通信」記事の削除を命じました。

この不当判決に対して鹿砦社は即刻大阪高裁に控訴すると共に反撃を開始しました!

 

リンチ直前の李信恵、伊藤大介ら加害者の面々

すでに控訴理由書と、31名の法曹関係者やジャーナリストの方々の「公平、公正、慎重な審理を求める要請書」(内3名が医師、大学教授、会社経営者の在日コリアン)を大阪高裁に提出、次いで補充書面、アメリカ在住の心理学者・矢谷暢一郎先生(4月20日付けでニューヨーク州立大学名誉教授に任命)の「意見書」、著名な精神科医・野田正彰先生の被害者M君「鑑定書」、取材を手伝ってくれたジャーナリスト寺澤有氏や被害者M君の「陳述書」などを提出しています。この通信を、結果としてしばらく休ませていただいたのには、それらの手配に追われていたという事情がありました。

私たちは、凄惨なリンチを受けながら、一年余りも放置され、まともな補償もなされず、セカンドリンチ(ネットリンチや村八分)に遭い精神的に追い込まれていた事件当時大学院生M君の救済・支援に関わると共に、リンチの加害者5名と、このリンチをなかったものと隠蔽を図る政治家、大学教員、メディア関係者らに徹底した取材を行い、彼らの理不尽な蛮行を批判してまいりました。

私たちがこの事件に接し、取材班のメンバーが個性を活かし、血の通った人間として関わったのは絶対に間違いではなかったと思います。このスタンスは今でも変わりません。いや、血の通った一人の人間として、見て見ぬ振りをすることはできませんでした。

[左]「日本酒に換算して1升近く飲んだ」とする李信恵のツイート/[右]数時間して凄惨なリンチを受けた直後のM君

M君リンチの現場に連座した伊藤大介は、性懲りもなく昨年同種の傷害事件を起こし逮捕‐起訴されています。M君に対しては、李信恵が在特会などを訴えていた裁判が終わった後に、李信恵本人によれば「日本酒に換算して一升」もの飲酒の果てに、深夜に泥酔してM君を呼び出しリンチに及びました。同様に昨年11月24日にも本件訴訟の本人尋問が終わり、やはり飲み歩いたであろう日付けが変わった25日未明、極右団体の幹部を呼び出して小指の骨を折るような傷害事件を複数で行っています。彼ら彼女らが、全然反省していない証です。

M君リンチ事件に連座した伊藤大介が再び深夜に酔った勢いで極右活動家を呼び出し暴行傷害事件を起こし逮捕されたことを報じる『産経新聞』2020年12月8日大阪版朝刊

 

その日のうちに(12月17日)、リンチ直前に飲食した「あらい商店」を訪れた有田芳生参議院議員。この前にはソウル・フラワー・ユニオンの中川敬が訪れている

ことが単なる暴行傷害事件であれば、世の中、数多あることですが、李信恵は「反差別」や「人権」を声高に叫び、大阪弁護士会や行政などの主催をはじめ多くの講演を引き受け、もっともらしいことを語っている人物です。2度にわたる裁判期日のあとの飲食後に暴行・傷害事件への(少なくとも)関わりは悪質と言わざるをえません。暴力・暴言を反差別運動や社会運動に持ち込み、それがあたかも当たり前であるかのように開き直っていますが、この姿勢は絶対に間違っています。

このような「事件」、そして「事実」を報じた書籍やブログ記事へ賠償や削除を命じた一審判決は、暴力にお墨付きを与えリンチに加担したものであり、これを許しておけば、反差別運動、社会運動に暴力をはびこらせることになります。

そして今回の大阪地裁の判決は、鹿砦社だけではなく、あらゆる調査報道や取材が、罰則の対象とされかねない、とんでもない判断です。この判決が確定すれば、最近話題になることの多い、「文春砲」と呼ばれる『週刊文春』の取材をはじめとする週刊誌の取材手法などは、ほぼすべてが「賠償」の対象と判断されるでしょう。つまりこの係争は単に「反差別」をめぐるだけのものではなく憲法21条に謳われた「言論・出版の自由」の根本に関わるところまで、幅が広がってきているのです。

いやしくも私たちは出版社であるからには、あくまでも言論戦を原則としつつ、似非反差別主義者を徹底的に弾劾していかねばなりません。皆様方のご注視と応援をお願いいたします。

◆私たちはなぜ本件リンチ事件(被害者救済・支援と真相究明)に関わってきたのか?

このかん、控訴審を準備する過程で、私たちが本件リンチ事件に関わってきたことについて、あらためて考えてみました。

ちょうど5年ほど前に本件リンチ事件が持ち込まれてきました。事件からすでに1年余り経ちつつも、加害者の周辺の関係者らの隠蔽活動により、一般に知られることなく、このままでは闇に葬られると感じ、さっそく資料を読んだり直接被害者本人や、わずかな支援者らの話を聞き、「反差別」運動の旗手とされていた李信恵が関わったとされる本件リンチ事件(の被害者救済・支援と真相究明)に関わることにしました。当時、私は64歳、もうすぐ65歳を迎えようとしており、訴訟案件もなく経営も安定期に入っていて、そろそろリタイアも考えていました。

資料の中で李信恵は事件の前日(この日は反ヘイト裁判の期日で、これが終了し、また報告会も終わった)夕刻から韓国料理店(大阪・十三のあらい商店)、キャバクラ、焼き鳥屋、ラーメン屋、そしてリンチの場となる北新地のワインバーと5軒の飲食店を飲み歩き「日本酒に換算して1升」(李信恵のツイート)近く飲み泥酔状態にあったことをみずから公言しています。具体的には、
「マッコリ5、6杯、焼酎ロック8杯くらい、日本酒2合、生ビール中ジョッキ1杯」(李信恵の供述調書)
ということです。呆れます。泥酔状態でM君を呼び出して、傍らで激しいリンチが行われているのに平然としていた李信恵の姿勢に更に衝撃を受けました。

大阪地裁判決が異常に拘泥した、李信恵が最初に放った一発が「平手」か「手拳」かは私たちにとってはさほど問題ではありませんでした。重要だったのは、李信恵ら5人が同じ場所に最初から最後まで居てリンチに連座したこと(あるいは見て見ぬ振りをして加担したこと)でした。そうして残されたリンチ直後の顔写真とリンチの最中の音声データは、私たちの直感を確信に導く証拠でした。通常な精神の持ち主であれば、これらの証拠に接して「リンチはなかった」などとは思わないでしょうし、李信恵を中心として集まり共謀した集団暴行事件に義憤を感じるでしょう。李信恵が傍らで1時間ほども酷いリンチが行われているのに止めることもせず、救急車やタクシーを呼ばずに師走の寒空の下に放置し立ち去ったことに大いに疑問を覚えました。M君は必死でタクシーを拾い自宅に辿り着いたそうですが、あまりに酷い傷に驚いた運転手は料金を受け取らなかったといいます。

さらに、私たちが以前に主催し講師として講演に招き知っていた者、あるいは社会的に名が有る者(政治家、ジャーナリスト、弁護士、大学教員、知識人)らが、こぞって事件の隠蔽に関わったことに接し、背後に何やら恐るべきものがあると思いました。被害者を支援するには、リンチ事件の真相も明らかにしていかねばらないとも痛感しました。被害者M君の受けた暴行の酷さから、その暴力が取材班スタッフや鹿砦社の社員らに及ぶのではないか、という懸念はありました。

思い返せば、本件に関わらなければ、予定通り後進に道を譲りリタイアし、この5年間、精神的、経済的、時間的、身体的にも苦労することもなかったわけです。しかし、かつてパチンコ業界の闇を追及した「名誉毀損」事件で鹿砦社や私がどん底にあった時、多くの方々に助けてもらったではないか、現在鹿砦社や私が在るのはその時のみなさん方の支援のお蔭ではないか、と思い返し、私たちのところに助けを求めてきたリンチ被害者M君を救済・支援しようと思いました。

諸事情もあり逡巡しましたが、私が出版活動を始めて40年近く──初心は、修羅場にあってこそ逃げず、巨悪に立ち向かうためだったのではないのか、もしリンチの肉体的被害と、そのPTSD、さらにはセカンドリンチ(ネットリンチと村八分)に苦しむ被害者の青年を見棄てたら残り少ない私の人生に悔いが残る、と逡巡にとらわれる自身を叱咤し、問題解決に関わる決意を固めました。こうした判断は絶対に間違いなかったと今でも思っています。

今回の控訴審では、前述したように、矢谷暢一郎先生、野田正彰先生、寺澤有氏ら、これまでになく多くの方々が協力してくださいました。一審判決では、明らかに誤判といえる箇所も散見され、裁判所(高等裁判所)に良心の欠片、真に人権への眼差しが残っていれば、必ず逆転勝訴すると信じています。
 

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

『暴力・暴言型社会運動の終焉』

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《5月のことば》まっすぐ生きていれば 怖いものなどない(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

風薫る季節となりました。本来なら一年で一番過ごしやすい季節ですが、今年も昨年同様新型コロナが終息せず、先が見えない鬱々とした状態です。

5月の言葉は、龍一郎が師事し私も尊敬する中村哲医師の言葉です。

「まっすぐ生きていれば怖いものなどない」――果たして私たちはまっすぐ生きてきただろうか? これまではどうあれ、今関わっている問題、これからぶつかる問題に対してはまっすぐに対応していきたい。

少なくとも「見ざる、言わざる、聞かざる」といったずるい生き方はやめたいと、あらためて思う昨今です。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

《4月のことば》花 自由に生きる 自分らしく咲く(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

 
花咲き乱れる季節となりました。
しかし、世相は暗い。
悠長に咲き乱れる花を眺めている余裕はないかもしれません。

鹿砦社のホームグラウンド・甲子園、一昨年までなら、今の季節は高校野球、これが済んだらプロ野球開幕──全国から多くの人々が駆けつける季節で、咲き乱れる花のように人の洪水で賑やかでした。なにしろ野球だけで年間400万人以上(阪神甲子園球場発表)の人々が押し寄せるのですから。

まだまだ厳しい世情が続きますが、「自由に生き」「自分らしく咲」いていきましょう!
 
 

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『NO NUKES voice』Vol.27《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

わが国の反差別運動に重大な汚点を残した「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)関連の訴訟で似非反差別主義者・李信恵が鹿砦社を名誉毀損で訴えた裁判で、1月28日、大阪地裁(池上尚子裁判長)は、あろうことか、鹿砦社に165万円の賠償金とブログ「デジタル鹿砦社通信」の記事の削除を命じました。

 

リンチ直後の被害者M君。リンチがいかに凄惨だったから判る

私たち鹿砦社は、深夜に1時間に渡る凄絶なリンチを受けつつも、治療費はじめ当時なんの補償もなされず、それどころかセカンド・リンチと村八分を加えられていた大学院生M君への救済・支援と真相究明に携わってきました。それは、6冊に及ぶ出版物(紙の爆弾増刊)として結実し、少なからずの方々から高い評価を受けてきました。

事件が起きたのは2014年師走、大阪屈指の繁華街・北新地です。李信恵ら現場にいた加害者5人はじめ関係者らの隠蔽活動により事件が表面化することはありませんでした。私たちに事件の内容が告げられたのは、事件発生から一年余り経った2016年3月でした。

リンチ直後の被害者M君の顔写真を見て、さらにM君が必死で録音したリンチの最中の音声データを聴き仰天しました。

渡された資料にも目を通し、M君への救済・支援と真相究明の取材を開始しました。国会議員、研究者、弁護士ら多くの著名人が、事件を知りながら隠蔽に加担し、背後に不思議な闇があることを感じさせられました。調べれば調べるほど、その闇は深いと思いました。

M君は、李信恵ら加害者5人と、しばき隊リーダー野間易通を訴え(2つの裁判です)、対野間訴訟では全面勝訴を勝ち取りました。しかし加害者5人を相手取った裁判では、満足のいく金額の判決は得られませんでしたが判決は確定しました(内容に不満は残りましたが勝訴であることには間違いありません)。

M君へのセカンドリンチの一部

 

M君へのセカンドリンチの一部

その関連が今回の訴訟でしたが、一審大阪地裁は、李信恵の主張を認め鹿砦社に165万円の賠償金とブログ記事削除を命じたのです。

人道的立場からリンチの被害者を救済・支援しようとしてきた私たち鹿砦社が、加害者のリーダー的立場の者から訴えられ賠償金を食らうというアイロニ-―この不当判決に私たちは控訴し徹底抗戦することにしました。

日頃「反差別」「人権」を叫ぶ者が、1時間にも及び凄惨なリンチを加え、被害者M君を師走の寒空の下に放置し立ち去った。加害者及び周辺人物は事件後、一時は「謝罪」の意を表わしたもののこれを覆し、被害者M君へのセカンド・リンチと村八分を行い、事件をなかったことにすべく隠蔽を図りました。

 

M君へのセカンドリンチの一部

私たちは、ほとんどの関係者が取材を拒否したり、逃げたり、沈黙するという困難な情況の中で、鹿砦社50年の歴史でも特筆しうるほど地を這うような取材を行いました。幸いにも、心ある在日の方々の協力を得て、どんどん驚くような情報が寄せられました。あまりのディープゆえに“握っている情報”もあります(いつでもぶちまける用意があります)。M君の訴訟費用は広くカンパを募り浄財を寄せていただきましたが、その3分の2は在日の方々でしたし、第4弾本に付けたリンチの音声データを「私に任せてください」と海外でプレスしてくださったのも在日の方でした。あまりに凄惨な音声ですから国内ではプレスできず困っていたところです。

私たちがこのリンチ事件に携わってちょうど5年が経ちました。このままでは終われません! ここで退いたら、言葉の本来の意味での社会正義に反する蛮行を行った徒輩が笑うだけです。血の一滴、涙の一滴が涸れ果てるまで闘います!

彼ら・彼女らは一切反省していません。その証左として、M君のリンチの現場にいた者(伊藤大介)が、再び暴行傷害事件を起しています。私たちはこれまで再三再四、しっかり反省、教訓化しないと、同種の事件は繰り返されるだろうと警鐘を鳴らしてきたのに、です(詳しくは最新刊『暴力・暴言型社会運動の終焉』をご一読ください)。

私たちは、控訴審において、軽々な審理を阻止せんと、代理人も元大阪高裁裁判官のベテラン弁護士を招き、さらには法曹、言論関係者を中心として急遽声を挙げていただいた方々31名が「公平、公正、慎重な審理を求める要請書」に名を連ねていただきました。これも「控訴理由書」と共に原本を大阪高裁に提出いたしました。以下、その一部の方の名を記載いたします(順不同、敬称略)。

大口昭彦(弁護士)はじめ弁護士5名、足立昌勝(関東学院大学名誉教授)、矢谷暢一郎(心理学者/元ニューヨーク州立工科大学教授)、野田正彰(精神医、作家/元関西学院大学教授)、本山美彦(京都大学名誉教授)、寺脇研(元文科相キャリア/大学教員)、平野貞夫(元参議院議員)、玉城満(前沖縄県議員)、高野孟(ジャーナリスト)、揖斐憲(サイゾー代表)、森奈津子(作家)、天木直人(外交評論家/元駐レバノン国特命全権大使)、山口正紀(ジャーナリスト/元読売新聞記者)、黒薮哲哉(フリーランスライター)、板坂剛(作家)、山田洋一(人民新聞編集長)、マッド・アマノ(パロディ作家)、飛松五男(行政書士/元兵庫県警刑事)、水戸喜世子(救援連絡センター初代事務局長)ほか。

*今後、本件については適宜報告してまいります。

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《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

◆岸政彦の対談記事に対する違和感

朝日新聞3月17日夕刊に売出中の社会学者・岸政彦と、芥川賞受賞作家・柴崎友香との共著による新刊『大阪』の出版について対談が掲載されています。

朝日新聞3月17日夕刊

岸いわく、「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」だそうです。

岸は、鹿砦社が取材を続けた大学院生リンチ事件の発生当時、その加害者の一人である似非反差別主義者・李信恵の「裁判を支援する会」の事務局長を務めていました。正式名称「李信恵さんの裁判を支援する会」は、広く市民からカンパを募り運営されていたようです。ところが同会は大金を集めながら未だに会計報告を公表していません。一般的に運動団体の事務局長といえば、経理面の責任も含め会の全般的な責任者です。

 

『反差別と暴力の正体』表紙

また岸は、事件直後、「コリアNGOセンター」による李信恵らの事情聴取にも立ち会っています。このような事実から岸は立場上、リンチ事件の詳細を熟知していると推認されます。鹿砦社特別取材班は、岸がリンチ事件について、どう考えているかを聞こうと、岸が当時勤務していた龍谷大学の研究室を訪ね、直接取材を行いました。

岸は取材班の質問に、ほとんど答えず逃げ回るだけでした。その様子は第2弾本『反差別と暴力の正体』(2016年11月17日発行)に掲載されています。本稿に取材時の画像を数枚掲載しておきます。その姿には、毅然とした知識人の矜持など見られません。岸は日々ツイッターで日々の出来事や思ったことなどを発信していますが、直接取材の日は、おそらく彼にとって重大事(少なくとも非日常的出来事)だったはずにもかかわらず、何もツイートしていません。

鹿砦社との民事訴訟における李信恵の本人尋問によれば、「取材班の直接取材が原因で岸は事務局長を辞めた」とのことですが、取材班の質問に対して岸は「今は事務局長をやったりやらなかったり……ちょっとややこしいんです」と答えていました。対外的に「事務局長を辞めた」とは告知されていませんので、多くの人たちは、岸が李信恵の対在特会らに対する訴訟の事務局長を最後まで務めたと思っているでしょう。

その後、岸は小説が芥川賞候補になるなど、著書も相次いで出版。龍谷大学から立命館大学に職場も移り、関西における社会学者の世界でも有力な地位を得ています。また「朝日文化人」として紙面にたびたび登場したり順風満帆です。

取材班の直撃取材に逃げ回る岸政彦

逃げ回る岸政彦

逃げ回る岸政彦

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

一方、リンチ被害者M君は、訴訟では、勝訴したとはいえ、長い裁判闘争にもがき最低の賠償金額に抑えられ、関西では、その名を知られ教職を目指そうにもうまくいかず(地方の大学の職が決まりかけていましたが直前で断られています)物心両面にわたり苦境にあります。岸に研究者や作家としての誠実さや良心があるのならば、凄絶なリンチの様々な後遺症に苦しむM君に真正面から向き合うべきでしょう。そうではないですか? 私の言っていることは間違っていますか? 

「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」と、平然と述べる岸。であれば、われわれはあらためて岸に聞き質さねばなりません。

われわれが取材を重ねたリンチ事件は社会的な事件でした。事件そのものが社会性を帯びている上に、岸の解釈によれば「記憶というものは『公共のもの』でもある」そうですから、岸には個人としてだけではなく「公共のもの」としての「記憶」が残されているはずです。岸にとっては隠蔽し忘れたいことかもしれませんが、受けた傷の深さに苦しむM君には終生忘れることはできません。あらためてリンチ直後のM君の顔写真を見よ! 事件の「公共」性に鑑みれば、岸に研究者や作家である前に人間としての〈良心〉があるのかどうか、問いたいと思います。岸が、われわれの問いから逃避しようとしても、それは許されませんし、われわれが許しません。であるならば、みずからの「記憶」をすべて晒け出すべきです。それが、知識人としての存在理由(レゾンデートル)ではないでしょうか?

◆「しばき隊」「カウンター」内部に何が起きているのか?

ところで、「しばき隊」、「カウンター」の源流となった「反原連」(首都圏反原発連合)が、本年3月で活動を休止するということです。それはそれでいいとしても、あろうことか反原連は活動休止のために500万円の資金カンパを募り、ほぼ目標額を集めたようです。“休止のためのカンパ”が、ミサオ・レッドウルフら反原連幹部によって、どのように使われるのか、しかと注視しておいたほうがいいでしょう。社会活動を進めるためのカンパなら理解できますが、活動をやめるためにカンパを募るというのは聞いたことがありません。不自然な感が否めませんが、ミサオら反原連幹部の退職金にでもするのでしょうか?

また、反原連の初期からのメンバーで、この成功から「しばき隊」「カウンター」を始めた野間易通が「さようなら、カウンター」と題する記事を公にしました。そろそろ嫌気がさしてきたのか!? 百戦錬磨で稀代の曲者の野間の本心が奈辺にあるのか、しばらく様子を見ないとわかりません。

さらに、前述の2件も含め、くだんのリンチ事件にも連座した、「しばき隊」の中心メンバーにしてスポンサーの伊藤大介による暴行傷害事件などが表面化し、「しばき隊」「カウンター」界隈に何かが起きているようで、このところ肝心なことには口を閉ざし静まり返っています。伊藤の裁判は大阪地裁で行われるのかと思っていましたが、関東でも暴力事件を起こしているらしく、これら2件を併合して横浜地裁で行われるようです。これまでの彼らの裁判であれば、散々騒ぎ裁判期日になれば動員を図るのが普通でしたが、まったく音沙汰がありません。おそらく内部に深刻な“不都合な真実”があるものと思われます。

くだんのリンチ事件といい、沖縄に、まさに“鉄砲玉”として送られ逮捕され精神を病んだとされる、「しばき隊」内武闘派のトップだった高橋直輝こと添田充啓の不審死といい、そして直近の伊藤大介暴行傷害事件など、みずからにとって不都合なことはことごとく隠蔽する態度──これらは岸が語った「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」とのテーゼにまったく反するものです。岸のこの論をわれわれは100%首肯するものではありませんが、一面の真理を捉えているとはいえるでしょう。

さらにもうひとつ、先般出版した『暴力・暴言型社会運動の終焉』には、彼らにとって“不都合な真実”が少なからず掲載されていますが、これまでであれば「デマ本」「クズ本」等と罵倒してきたところ、今回はまったくスルー、無反応です。しかし同書の売り上げは、このシリーズの中でも際立っています。

伊藤の暴行傷害事件は、李信恵と鹿砦社の民事訴訟の尋問の後に起きました。女王・李信恵が出廷し尋問に晒されるというのですから、傍聴席に多数動員してくるのかと思っていた所、李信恵側の傍聴者は伊藤と通称「もじゃ」こと河上某だけでした。尋問が終わり夕方には伊藤、李信恵らは夕食を兼ねて飲食をしているところをSNSで発信しています。極右活動家・荒巻靖彦に対する暴行傷害事件の現場には伊藤ともう一人いたとのことですが、それが河上某なのか別の者なのか、このことを含め情報が錯綜していますが、刑事事件の捜査はわれわれの守備範囲ではありません。今後の裁判の場で明らかになるのを待ちましょう。

しかし、直前まで一緒にいた李信恵には説明責任があります。

われわれの予見通り、伊藤による暴行傷害事件は、多くの活動家、シンパらの離反を呼び、「しばき隊」「カウンター」崩壊への大きな動因になるでしょう。

◆社会的な実害と、座視できない〈負の遺産〉について

原理原則なき烏合の衆の暴走。「反原発」「反差別」「沖縄」「性差別」……。ターゲットの流転を重ねてきた彼ら・彼女らの活動はいずれも混乱を起こし、いくつかのテーマは活動を終えています。「沖縄」問題はどうなったのでしょう?「反原発」も活動休止です。「反差別」も「性差別」も、彼らが暴力・暴言を採り入れることで真面目な活動家から顰蹙を買っています。個々の問題に従前より関わり、またみずからの存在にとって避けて通ることのできない人たちには、突然首を突っ込んできた烏合の衆の「正義の暴走」は、迷惑以外の何物でもありません。

ところが連中の活動は、全国ネットのテレビ局や大手新聞社まで巻き込んでしまいました(この日の朝日新聞に顕著なように)。市民運動・活動を地道に続けてきた人々にとって、連中は害悪以外の何物も生み出すことはありませんでした。

われわれはこれまで「大学院生リンチ事件」を契機に、その発生源となった「しばき隊」「カウンター」と自他称される人々の行動や発信を取材し報告してきました。彼ら・彼女らの瓦解は当然の帰結でしたが、連中が残した〈負の遺産〉の大きさは、近い将来多くの人々に認識されるようになるでしょう。「ヘイトスピーチ解消法」は「言論弾圧法」の礎として作用するでしょう。また理念なき運動体を、目前の選挙を勝ち抜く道具として利用した結果、さらなる政治不信を招いた一部政党の罪も大きいといわざるをえません。

「しばき隊」「カウンター」は21世紀、日本全体がファシズムめく流れの中にあって、無視することのできない動きを、権力になり代わり果たしてきた、とわれわれは考えます。岸のテーゼが図らずも岸を含む連中の本質を射てしまいました。鹿砦社と特別取材班は、取材を続行しつつも、彼ら彼女らがどうして現われ、なぜ、あたかも時代の寵児のように扱われたのか。なにゆえ大手マスコミ・知識人・政治家から広告代理店までを騙し通せたのか。それらは、すぐれて社会的な課題です。泉源を解明することは、この時代の解析と、リンチ事件被害者の救済にもつながるでしょう。鹿砦社と特別取材班はその視点から考察を進める所存です。(本文中敬称略)

*対李信恵訴訟一審不当判決に対する控訴審について大阪高裁に「控訴理由書」を提出しましたが、後日あらためてご報告いたします。

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2011年3・11東日本大震災‐福島第1原発事故から10年が経ちました。長いようで速かった10年でした。

3・11後、私たちは本誌の前に書籍を数点出しましたが、福島の復旧・復興と共に、福島の想いをわがものとして福島現地からの生きた報告を中心に定期的に発行していこうという決意で後先顧みず本誌を創刊しました。3・11から3年半が経った2014年8月のことでした。

これ以前に、震災後の2011年暮れから福島を忘れないという決意で、魂の書家・龍一郎の力を借りて「鹿砦社カレンダー」を制作し、(当社、たんぽぽ舎への)本誌や『紙の爆弾』の定期購読者、ライターや書店の方々らに無料頒布してまいりました。好評で、当初1,000部から始め現在は1,500部、来年版は1,700部の予定です(内容は毎月1日の「デジタル鹿砦社通信」をご覧ください)。

本誌は、まだまだ採算には乗りませんが、何度も繰り返し申し述べているように、たとえ「便所紙」を使ってでも継続する決意です。

この10年にはいろいろなことがありました。私たちにとって最もショックだったのは、本誌の精神的支柱だった納谷正基さんが急逝されたことです。納谷さんは、お連れ合いが広島被爆二世で若くして亡くなり、その遺志を全うするために、生業の高校生進路指導と、この宣伝媒体のFM放送(仙台)を行っておられ、なんとこの場を使い原発問題を語っておられました。少なからずのバッシングがあったということですが、我関せずで持続しておられました。“志の頑固者”です。本誌の趣旨をも理解され2号目から連載を続けてくださり、毎号100冊を買い取り、学校やFM視聴者らに配布しておられました。

その納谷氏も3年近く前に亡くなられ、娘さんが遺志を引き継ぎ、放送枠を半減させたりして頑張ってこられましたが、矢も底を尽き、この2月、3・11から10年を前にして終了となりました。このかん、どんどんスポンサーは離れ、最後まで支えてくれたのは関東学院大学だけだったということです(あえて名を出させていただきました)。本誌は、そうした納谷さんの遺志を継続することを、あらためて誓います。納谷さんの言葉(警鐘)を1つだけ挙げておきます。──

「あなたにはこの国に浮かび上がる地獄絵が、見えますか?」

この10年の活動で、原発なしでも日本の社会や私たちの生活はやっていけることがわかりました。もうひと踏ん張り、ふた踏ん張りし続け、この国から原発がなくなるまで私たちは次の10年に向けて歩み続けなければなりません。本誌は小さな存在ですが、志を持って反(脱)原発運動や地域闘争に頑張っておられる皆様方の、ささやかな精神的拠点となっていければ、と願っています。

2021年3月
NO NUKES voice 編集委員会

『NO NUKES voice』Vol.27

3月11日発売開始 『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08XCFBVGY/

《3月のことば》あの事故から十年だ 故郷 帰りたいけど帰れない 今年も桜は咲くだろか(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

齢を重ねると望郷意識が高まってきます。

私の故郷・熊本は、5年近く前(もう5年かあ)に大地震に襲われ、小さな頃より日々眺めたり散策して過ごした熊本城も大きな損壊を受けました。以降再建工事が進行しています。どんな様子か直に一目見たいと思いますが、コロナ禍で帰りたくても帰れません。

一時は、65歳を過ぎたら、月の半分は熊本で過ごしたいと願っていましたが、現実には叶えられていません。

さて、もうすぐ〈3.11〉東日本大震災から10年を迎えます。──

特に福島第一原発爆発事故で、みずからの意志に反し故郷を離れておられる方々がおられます。私の場合と違い、帰りたくても帰れない厳しい現実があります。

今月の揮毫について、書家・龍一郎は、次のように言っています。──

「原発事故で故郷を追われた人の思いに寄り添いたいと思う。
桜の花は何も語らないが 魂が震えるのです。
静かに拳を握りしめるのです。

たくさんの人に思いがとどきますように祈ります。

                          龍一郎」

*今月の言葉は3月11日付けの『東京新聞』誌上で、同日発売の『NO NUKES voice』27号の広告にも使わせていただきました。

3月5日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『週刊現代』今週号(2/27・3/6号)に「1971年──今から50年前、日本人が本気で生きていた時代」という特集を掲載されている(6ページ)。

1971年──もう半世紀も経つのか。19歳から20歳になる年だった。前年70年に大学に入り2回生だった。

1968年、1969年が雑誌の特集や書籍になるのは決して珍しいことではないが、1971年が雑誌の特集や書籍になるのはほとんどない。「1971年」がタイトルになっている書籍では堀井憲一郎『1971年の悪霊』ぐらいしか思いつかないが、あらためて検索してみると、他に土谷英夫『1971年──市場化とネット化の紀元』が見つかった。まだ探せばあるかもしれないが、いずれにしろ少ないことに変わりはない。

しかし、1971年という年には、多くのことが起きている。人気GSグループ「ザ・タイガース」の解散と沢田研二のソロデビュー、尾崎紀世彦『また逢う日まで』や鶴田浩二『傷だらけの人生』の大ヒット、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の三人娘のデビュー、オールスター戦での江夏豊の9連続三振、高野悦子『二十歳の原点』出版……。

政治問題としては、沖縄返還協定調印(6月)→同批准(11月)、三里塚闘争(2月第一次強制収容、7月1・2番地点強制収容、9月第二次強制収容)の二大政治課題で、ふたたび大きな盛り上がりをみせた。この年の動員数は、60年代のそれを凌駕したという記事を読んだ記憶があるが、沖縄本土「復帰」の前年ということもあり、一大政治決戦の鬨(とき)だったといえよう。

◆1971年、思い出すだに

この年、少年から青年になる時期、生来小心者の私も自分なりに死にもの狂いに闘った。いろいろなことが脳裏を過(よぎ)る。

私的なことに限っても、4・28沖縄闘争(東京。清水谷公園→日比谷野音)、デモが終わり仲間と一緒に京都に帰るのかと思っていた所、ある先輩から「松岡、お前は残り三里塚の現闘(現地闘争団)に行け」と命じられ、当時結成したばかり三里塚現闘団(取香)に加わって、援農と(第二次強制収容に対抗するための)穴掘りなどに従事した。

4・28沖縄闘争(東京・日比谷公園)。有名になった戦旗派のキャッチャーマスク部隊(「戦旗派コレクション」より)

京都に戻るや、早朝の情宣活動中、日本共産党・民青(みんせい)のゲバルト部隊に襲撃され病院送りにされ5日間ほど入院。

退院するやすぐに、5・19沖縄全島ゼネスト連帯祇園石段下制圧闘争、初めて京都の市街地での実力闘争を展開、これはその後の首都東京での闘いの口火となった。この頃の同志社の部隊(全学闘争委員会)は、ブント分裂にもかかわらず数も多く屈強だった。先頭になって機動隊とのゲバルト戦を繰り広げ、14名の逮捕者を出した。この前々日の17日、学館ホールで三里塚闘争勝利集会を開き東大全共闘代表・山本義隆さんが来られ講演している。

6・17、沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)、この前々日、全国全共闘(新左翼)は中核派と反(非)中核派の二つに分裂し、同志社や京都の部隊は反(非)中核の集会(宮下公園)に参加、デモは荒れに荒れ、火炎瓶も飛び交った。機動隊に路地に押し込まれ、「もうあかん」と思った矢先、後ろから火炎瓶がポーン、ポーンと飛び、戦旗派の指揮者が「同志社大学全学闘の諸君と共に、ここを突破したいと思います」と叫び、スクラムを組んで突破し、デモに合流して最後まで貫徹。デモの本流に合流しそのまま引き続きデモができるというのが今から思い返しても不思議だ。

6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)。ここに松岡もいたと思われる(「戦旗派コレクション」より)

7月、三里塚1、2番地点阻止闘争、全学闘は4人逮捕され3人が起訴され、長く裁判闘争を闘いながら1人は実刑を食らった。逮捕された時に持っていた竹竿に血が付いていたという理由だった。のちに児童文学作家となる、文学部共闘会議(L共闘)の先輩SKさんもこの時逮捕されている。同じく逮捕された立命館のA君は、残念なことに、保釈されたのち自死した。寡黙な男だった記憶がある。

9月、三里塚第二次強制収容阻止闘争、9・16では新左翼の部隊と機動隊が遭遇し、機動隊3名が死亡。私たちは、幾つかのグループに分かれ現地に入り、各々の分野で任務を全うした。沼に浸かりながら逃げたりして、数日闘い京都に帰還。今だから言える話だが、学生放送局は三里塚と同志社のキャンパスをつなぎ放送を始めたが、機動隊3名死亡事件発生ですぐに終了を余儀なくされた。

71年沖縄―三里塚闘争の過程(『季節』6号より)

◆学費値上げ問題が勃発!

京都に戻ると学費値上げ問題が浮上し、以降は専ら学費値上げ阻止闘争に関わることになる。首都東京では沖縄返還協定批准阻止闘争が闘われていたが、一度上京したぐらいで、ほとんど関われなかった。ちなみに、一度上京した際に、大学祭中のH大学に寝泊まりしていたところ、ばったり高校の同級生のB君に遭遇したことがあった。彼はしばらくして、大学を中退し一時帰郷、その後、中国大陸、台湾に渡り30数年を過ごしたという。もう会えないと思っていた所、一昨年の高校の同窓会で再会、実に40数年ぶりのことだった。彼は私が京都に行く時に駅に見送りにきてくれ、また夢破れて帰郷する際も、大阪で働き始めた私のアパートに一晩泊まってくれた。

当時の団交(団体交渉。11月11日)の写真が残っている。懐かしい。2人立って激しく学長ら当局を追及している。左が文学部の先輩・水渕平(ひとし。故人)さん、右が、その後、草創期の某コンビニの役員にまで上り詰めた先輩Cさん。大学側では中央で腕を組んでいるのが山本浩三学長、彼は69年の封鎖解除も断行しているので、72年2月1日と、2度の封鎖解除を行っている。

11・11学費問題団交(朝日新聞社提供)

学費問題は、その後、全学学生大会で無期限バリストに突入し、翌年2月1日、決戦を迎え私以下100数十名が検挙、43名逮捕、10人が起訴され1人が無罪、他9人が微罪ながら有罪判決を食らう。

この年、学費値上げは、全国の大学で浮上し反対闘争が展開されたが、特筆すべきは関西大学のバリケード内で、同じ大学の先輩で中核派の正田三郎さんら2人が革マル派の特殊部隊に襲撃され死亡。正田さんとは立場は違えど、たびたびビラ撒きで一緒になったりしたこともありショックだった。これ以降中核派は、革マル派を「カクマル」と表記するようになった。最近観た映画『きみが死んだあとで』で、このシーンが出て懐かしくも、やるせない気分だった。


◎[参考動画]『きみが死んだあとで』予告編

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

『週刊現代』の1971年特集記事に触発され、いろいろなことが脳裏を過り思いつくまま書き連ねてきた。もう半世紀も前のことだ。九州の田舎から出てきて、少しはキャンパス生活に慣れ、当時どこにでもいたノンセクトの活動家として、ふたたび盛り上がってきていた政治過程や学費値上げ問題に、自分なりに一所懸命に関わった時期だった。今はなき学生会館別館BOXでの会議は重々しかったという感しかない。時には、その後「赤衛軍事件」に巻き込まれ長年逃亡する滝田修が学友会BOXに現われアジッていたことも思い出す。

ここ数年、過去の運動を追体験し総括を試みようと考え、『遙かなる一九七〇年代‐京都』『思い出そう!一九六八年を!!』『一九六九年 混沌と狂騒の時代』『一九七〇年 端境期の時代』と出版してきましたが、今年も11月頃に「一九七一年」版(タイトル未定)を発行する予定です。上記のような内容が中心に成ります。ご期待ください。

尚、上記書のうち『一九七〇年~』を除いて品切れとなっております。申し訳ございません。

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

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「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)被害者救済・支援に関わり早5年、善意で手を差し延べたにもかかわらず、先般165万円もの賠償金を課せられました。

賠償金を命じた判決には、到底承服できません。ただ、私たちの救いは、出会った当時、自殺してもおかしくないほど精神的に追い詰められていたリンチ被害者M君を救ったことです。ここに本件に関わった最大の意義があると思っています。僭越ながら、5年前に私たちと出会わなかったらM君の精神は、取り返しのつかない状態になっていたのではないかと、今になれば振り返ることができます。

判決文(主文)

◆リンチや暴力は、受けた者にしか判らないことがある──裁判官も一度暴力を受けてみよ!

 

神原元弁護士のツイート

私たちは、このリンチ事件に「私怨と妄想」(神原弁護士)で関わったのではありません。若い学徒が必死に助けを求めているのに人間として放っておくわけにはいきませんでした。

事件後M君は、1年余りも孤立しセカンドリンチと村八分に遇ってきていました。私たちと出会ってからもしばらくの間、近づいてくる者に引き回され、騙されたりしていました。一例を挙げてば、自称「浪花の唄う巨人」こと趙博は、あたかも理解者のようにM君に接近し、一緒に闘ってくれるものと思ったM君は、当時まだ未公開だった貴重な資料を渡したりしながら突然掌を返されたり……。それでも次第に少しづつ落ち着いていきました。しかし、いまだにリンチの悪夢にさいなまれPTSDに悩まされています。

リンチの現場となるワインバーにM君が到着するや、「なんやねん、おまえ、おら」と李信恵が胸倉を摑み、1発殴ったのが平手なのか手拳なのか混乱したことで裁判所はM君の供述全部が「信用ならない」と判断しました。このことで対5人組訴訟でも、今回の対李信恵vs鹿砦社訴訟でも、李信恵免訴の要因になりました。

しかし、この裁判所の判断は、果たして問題の本質を正しく掌握した判断と言えるでしょうか。

李信恵がM君の胸倉を摑み、一発殴ったのが「平手なのか手拳なのか」、このことだけで、すべてを判断されてしまいました。さらには、綿密に取材し本に記載している事実についても「取材していない」と、腰を抜かすような滅茶苦茶な決めつけをされました。

このように、「ある」ものを「ない」と裁判所に判断されれば、勝てる道理はありません。

私はちょうど50年近く前の1971年5月、3人でビラ撒きしていたところ、50人以上のゲバルト部隊に襲撃され、キャンパスの門のあたりから奥まで引きずり回され激しい暴行を受け5日ほど病院送りにされました。この際、右足で蹴られたのか左足で蹴られたのか、あるいは手拳で殴られたのか角材で殴られたのか言えと問われても、「どっちやったかな」としか言えません。頭も負傷していましたし、全身打撲でした。山口正紀さんもこの1年前に同様の暴行を受けています(『暴力・暴言型社会運動の終焉』に記載)。

裁判官は、おそらくこういう経験はないと思われますが、「一度暴行やリンチを受けたらいかがですか」とでも言いたくもなります。

[写真左]リンチ直後のM君の悲惨な顔。[写真右]これに倣った「作品」

◆裁判所はいつまで「平手」か「手拳」に拘泥するのか

 

「反差別」の活動家にはこんなことを言う徒輩もいるのか

そのように、李信恵の最初の一発が平手だったのか手拳だったのかというM君の供述の混乱ですべてを判断され、李信恵がリンチの現場の空気を支配し、1時間のリンチの間、リンチを止めもせず悠然とワインをたしなみ、有名になった「殺されるんやったら、中に入ったらいいんちゃう」との暴言を吐き(怖い人だ!)、リンチが終わっても救急車やタクシーを呼ぶわけでもなく、師走の寒空の下に放置して立ち去ったという非人間的行為は断罪されませんでした。裁判所は「人権の砦」だといわれますが、ならば激しいリンチを受けた被害者に寄り添うことはできないのでしょうか?

本件で最も激しい傷を負い苦しんだのは言うまでもなくM君ですが、裁判所は、これを無視し、鹿砦社の本やネット記事で李信恵が「被害」を受けたという主張を真に受け、差別されてきた在日のか弱い女性が言うことだから間違いないというのでしょうか。李信恵はその「陳述書」で、次のような文言を繰り返しています。

李信恵は(鹿砦社特別取材班の取材や出版物、ネット記事等により)「自分の受けた被害」によって、「苦しい気持ちになりました。」「不安と苦痛でいたたまれません。」「恐怖に苛まれました。」「恐怖心でいっぱいになりました。」「これら記事を読んで泣き崩れました。」「非常に不安になりました。」「不安感や苦痛はとうてい言葉にできません。」「怒りと悲しみでいたたまれなくなります。」「私に対する強い悪意を感じ、非常に恐ろしいと感じています。」等々言いたい放題です。

激しいリンチ被害者M君が言うのであれば判りますが、集団リンチ事件に連座した李信恵が言うには違和感があります。しかし、牽強付会に申し述べた、それら李信恵の主張を裁判所は認定しました。

なぜ裁判所は、集団リンチの被害者M君の肉体的、精神的な傷よりも、李信恵の主張する「物語」ばかりを採用するのでしょうか。李信恵自身、リンチの場にいた5人の被告の一員となった、M君が損害賠償を求めた裁判の証言の場で「胸倉を摑んだ」と認めているだけでなく「そのあと、誰かが止めてくれると思っていた」と証言しました。つまり「誰かが止めなければ」李信恵の行動はエスカレートしていた可能性が高い、と考えるのは不自然でしょうか?

そうして、リンチが行われている1時間もの間、止めもせず悠然とワインを飲んでいた剛の者がなにをかいわんやです。皆様方はどう思われるでしょうか?

こうしたことをあからさまに記述した「本件各出版物の出版及び本件各投稿記事の投稿により原告(注・李信恵)が被った精神的苦痛に対する慰謝料の額として」165万円もの賠償金を鹿砦社に課したのです。なにかおかしくはないでしょうか?

◆「日本酒に換算して1升近く」飲み泥酔した状態でM君を呼び出してリンチの口火を切ったのは誰か?

 

李信恵のツイート

李信恵は、大阪・十三(じゅうそう)のあらい商店(韓国料理店)→キャバクラ→焼き鳥屋→ラーメン屋→5軒目の大阪・北新地のワインバーに入るまで「日本酒に換算して1升近く」飲んだとツイートしています。1升といえば、常識的に見れば泥酔の類に入ります。具体的には、

「マッコリ5、6杯位、焼酎ロック8杯位、日本酒2合、生ビール中ジョッキ1杯」(李信恵の供述調書から)」

と、のちに警察の取り調べにみずから供述しています。このような状態で、M君を呼び出して冷静な会話が成立するでしょうか。

泥酔した中でM君を呼び出し、M君が到着するやリンチの口火を切り午前2時頃から3時頃まで約1時間、M君を半殺しの目に遇わせたのです。いくらなんでも酷くはないですか?

◆将来に禍根を残す判決を許すことはできません!

一審判決は、M君の「平手か手拳か」の記憶が定かではないことを理由にM君の供述全部が「信用できない」とし、このことが潜在意識にあったのか、取材班が取材し記述していることを「取材していない」と誤認し、結果としてリンチを容認し、李信恵らの暴虐を黙認し暴力にお墨付きを与える内容となったと、私たちは認識しています。

こうした判決を許すことは到底できません。将来に禍根を残すことは確実ですから──。事実、M君リンチに連座した伊藤大介は昨年11月25日未明、同じパターンで酔っ払って深夜に気に食わない人間を呼び出し暴行傷害事件を起こしました。M君リンチ事件と同じ過ちを繰り返したのです。彼らのみならずすべての反差別運動、社会運動に携わる人たちが、今、ここでしっかり反省し教訓化しないと3度、4度と繰り返すんじゃないでしょうか? 私の言っていることは間違っていますか?

◆司法、裁判所の感覚と、一般生活者の感覚の遊離

 

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法律の専門家や、訴訟に詳しい方のご意見を伺うと、裁判所には、私たちの生活と随分かけ離れた常識やルール、判断があることを、あらためて思い知りました。しかし司法に「独特な」ルールや論理があっては、一般の生活者は困るのです。一般の生活者は、紛争解決のために(刑事でなければ)、裁判所に「公正な判断」を期待して、判断を仰ぎます。訴訟慣れしている一部の人間を除いて、裁判所に判断を持ち込むには、相当の勇気と覚悟が要るものです(経験のある方であれば、理解いただけることでしょう)。

大規模な「司法改革」が断行されましたが、あの改革は、生活者の要請に沿うものであったのでしょうか。民事裁判は実質的に「一審制」となってしまい、一審で敗訴すれば、控訴しても判決を覆すのは容易ではありません。控訴審での「一回結審」の割合は実に8割を超えています。さらに、上告をしても最高裁では「事実調べは行わない」ことになっているそうです。

このように現在の司法には、多くの問題がありますが、残念ながら私たちはその支配から逃れることはできないのです。したがって、裁判所は「一般的な通念からすれば」とか「一般人の普通の読み方」という文言を判決で多用しますが、私たちの「一般的通念」「一般人の普通の読み方」とかなり違う内容が判決で表現されることが、これまでの訴訟経験からかなり(いや、ほとんど)ありました。今回もそうです。

私たちは、小規模な出版社にすぎません。しかし民事訴訟に関わる可能性は、読者の皆様方にもあるのです。そういった点からも、この問題について引き続き注視、ご支援賜れば幸甚に存じます。

16年前の「名誉毀損」事件では刑事・民事共に最高裁まで闘いを貫徹しました。その際に「血の一滴、涙の一滴が涸れ果てるまで闘う!」と叫びましたが、16年の時空を越えて、同じ想いです。勝敗は抜きにして、闘うべき時は闘わなければなりません。

ともかく、リンチを容認し暴力にお墨付きを与えたこの判決は将来に禍根を残しますから、全智全能、全身全霊をもって闘い粉砕しなければなりません。逆転勝訴を信じて──。

不当判決! リンチを容認し暴力にお墨付きを与えた1・28一審判決(大阪地裁)を許してはならない!

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《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

すでにお知らせしているように、去る1月28日、対李信恵第2訴訟において大阪地裁第24民事部(池上尚子裁判長)は鹿砦社に対し165万円の賠償金等を課す不当判決を下しました。

 

《緊急出版》2021年鹿砦社が最初に投下する爆弾!『暴力・暴言型社会運動の終焉』

これに先立つ昨年11月25日未明(午前1時30分頃)、前日24日の本人尋問の傍聴に来ていた伊藤大介らは「正義」を「暴走」させ極右/ネトウヨ活動家・荒巻靖彦を呼び出し殴る蹴るの暴行を働き左手小指骨折、顔面打撲などの傷を負わせ、逆に返り討ちに遭い伊藤は全治10日の傷を負うという事件を起こしました。この事件では2人共逮捕されています。伊藤は大学院生M君リンチ事件にも連座しています(1審では賠償金を課せられましたが、控訴審では幸運にもこれを取り消されています)。

M君は「このままではまた同じような事件が起きますよ」と言い、私たちが地を這うような取材を基にして出版した5冊の本でさんざん警鐘を鳴らしてきたように同種の事件は起きました。M君加害に加担する者たちが、反省も学習も教訓化もしていなかったということです。残念至極ですが、私たちの警鐘は現実化してしまいました。今だから明かしますが、私たちはこの時期に生じた重大事件に鑑みて、大阪地裁に「弁論再開」の申し立てを行いました。

民事裁判では、証拠調べや証人尋問を終えると「結審」(以後原告被告双方からの主張は受け付けない)となり、あとは判決を待つことになります。昨年11月24日の法廷でも池上裁判長は、結審を宣言し判決の日時をを言い渡しました。ところが、その日の法廷では「私は直接取材を受けていない」とるす伊藤大介の陳述書についての扱いが審議され、神原元弁護士は「じゃあ撤回します」と裁判所に求めたものの、認められませんでした。そして当の伊藤大介が裁判後に事件を起こしたのです。この人たちの行動様式を理解するために、真実究明を行うために、裁判所は当然しかるべき配慮をすべきではなかったのではないでしょうか。

1月28日の判決に戻りますが、極めて偏頗なもので、M君がリンチの現場に居た李信恵ら5人を訴えた訴訟の判決同様、「〈M君の顔〉から目を逸らした」(山口正紀)と断ぜざるを得ません。本件訴訟も、リンチ直後の写真とリンチの最中の音声データがあるのに、M君の供述が曖昧(平手か手拳か、どちらかで殴られたか)ということで「信用ならない」とし、これを根拠に判決が組み立てられています。噴飯ものです。裁判所は、なぜここまで、このことに拘泥するのか? 何がなんでも加害者を免罪しようとしているとしか理解できません。むしろ、リンチ直後の写真とリンチの最中の音声データをこそ判断の根拠とすべきです。市民感覚からすればそうでしょう。

私や山口正紀さんは学生時代、対立するグループに襲撃され激しい暴行を受け、私は気づいた時は病院のベッドの上で5日ほど入院を余儀なくされました。暴行の最中の記憶は微かなもので、これを「平手か手拳か」などと問われても「どっちだったかな?」と答えるしかありません。加えて私も山口さんもM君も蹴られてもいますが、M君は混乱し顔面を蹴られたことを覚えていません。当然でしょう。1時間もの間、激しいリンチを受ければ、パニック状態になり記憶が飛んだりします。なんなら裁判官も暴行を受けてみたらどうでしょうか? 

加えて判決には重大な事実誤認(というよりも証拠の意図的見落とし)もあり、これで判断されたらたまったものではありません。あたかも最初に結論があって判決文を組み立てていった感がします。控訴審に於いては、こうした点を一つひとつ批判していき、必ずや執念で逆転を勝ち取る決意です。今後ともご支援、応援のほど、よろしくお願いいたします。

なお、訴訟については、適宜ご報告いたしますが、敵に手の内を見せないために黙っていることもあるやと思いますので、この点、ご承知おきください。

5年ほど前、このリンチ事件が私たちの元に持ち込まれた時、すでに1年余り経っていました。事件の翌年2015年は安保法制反対運動が盛り上がり、この声に掻き消されたかのようにリンチ被害者M君は孤立していました。リンチ加害者やこの界隈の者らには、隠蔽は成功したかのように見えたでしょう。

しかし、悪事を隠し通すことなどできません。

私たちの元にリンチの情報が寄せられるまで、M君の心中を察するに、筆舌に尽くし難いものを感じます。リンチを受けた悔しさと悲しみ、セカンドリンチや村八分を受け、にもかかわらずメディアも世間も知らぬふり……私だったら気が狂っていたでしょう。私たちの関連出版物で、この事件の一端を知ったあなただったらどうでしょうか?

今回も司法は、「〈M君の顔〉から目を逸らし」、いや、相も変わらず「平手か手拳か」が曖昧だということ拘泥し、だから「信用できない」などと言っています。上等です。司法の理論が市民感覚と大きく乖離しているのであれば、私たちは裁判所の決めたルールに則りながらも、それ以外の合法的戦術も展開する必要があるでしょう。裁判所は「ファシズムの出先機関」と言ったのはL.トロツキーでしたが、むべなるかなです。

まさか、壮絶なリンチを受けたM君に同情し、M君救済・支援に関わってきた私たちが過大な賠償金を課せられるとは……。

しかし、鹿砦社が鹿砦社たる所以は、こうした苦境にあってこそ、正々堂々と屈することなく反撃することであろうと、自負します。私たちを苛めてきた徒輩は不思議なことに「鹿砦社の祟り」に遭ってきました。裁判所の判断がどうであれ、私たちは信じる道を突き進み「正義」の衣を着た〈悪〉(といっても程度の低い連中ですが)と対決するだけです。人一倍の精神力で、「反差別」の仮面を被った徒輩の仮面を剥がねばなりません。この想いは、M君リンチ事件だけではなく、日本における差別問題に関わる、極めて重大な問題であるとの確信に基づきます。

久し振りに第6弾本『暴力・暴言型社会運動の終焉』を世に送り好評です。まだまだ〈弾〉は残っとる!──第7弾、8弾の“紙の爆弾”を投下する必要が出てくるかもしれません。私たちは望みませんが、「差別」問題がこのように歪められ、乱暴な発言や行動にすがるものが、あたかも「反差別」行動者である、との社会的誤解は、完全に払拭する必要があるでしょう。

私たちは、決してペンを折ることなく、あくまでも〈言論〉の旗を掲げ続けます。16年前『紙の爆弾』創刊号の巻頭を飾ったのは「〈ペンのテロリスト〉宣言」でしたが、あらためて再読し決意を固めています。ここに再び宣言します。私たちはふたたび〈ペンのテロリスト〉として甦る!と。私自身は今年で70歳になります。取材班には若者もいますが、支柱として動いてきた田所敏夫は、私よりもかなり年下で、彼の体調も思わしくありません。

しかし、この問題に関しては、フィデル・カストロの有名な言葉を引用し、私たちの気持ちを表します。

「歴史は彼ら・彼女らに有罪を宣告するだろう」と。このままでは終われませんし、終わりません!

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