いよいよ鹿砦社創業50周年の集いが近づいてまいりました。あらためて感慨深いものがあります。

 

最初の書籍、中村丈夫編『マルクス主義軍事論』

一般的にも、一つの会社が50年もつというのは大変な話だといいます。現在起業ブームだといわれます。若者が企業で束縛されるのは嫌だと簡単に起業しますし、また定年になった人が、これまでの経験やスキルを活かし起業することもあります。

しかし、会社を興すのは誰でもできますが、これを継続させることのほうが断然大変だし困難です。どれだけが成功し、長く続いているでしょうか、まさに「センミツ(千に三つ)」の世界だと思われます。

鹿砦社は、1969年に4大書評紙の一つ『日本読書新聞』(廃刊)の組合員4人で創業しました。また、2代目は2人の共同代表で、3代目が私ですが、私の前の6人の内5人は既に鬼籍に入られました。

このたび創業50周年を迎え、当時のことを調べました。わからなかったことが、かなりわかりました。唯一の生き証人、現在『続・全共闘白書』の事務局を務める前田和男さんが証言してくれ、これは創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に収められています。

私ももう若くはありません。やれることに限りがありますが、あと数年、頭が回り体力が続く限り、鹿砦社の創業前後のこと、その後のほうは私が先輩らの意志を引き継ぎ、日本の転換期に起きたこと等を記録していきたいと考えています。

 

こんなこともありました

来る12月7日(東京)、12月12日(関西)での集まりには多くの方が賛同され出席されることになっています。有り難いことです。これは、鹿砦社にもまだやるべきことが残っていることの証だと、自分なりに解釈しています。期待もまだ残っています。

私としては、まず第一にホリエモンや重信房子さんらも幽閉中に聴き感動したとされる「プリズン・コンサート」が、新年早々未曽有の500回を迎える「Paix2(ペペ)」の支援を継続・拡大していくことです。ギターができ作詞・作曲ができ歌を歌えても、また車を運転できても(各地の刑務所は辺鄙な所にありますから自前のワゴン車で向かいます)、まずできることではありません。芸能人のように一度二度は行けても100回も200回もできることではありません。ましてや500回も!「Paix2」の活動を見て、「日本もまだ捨てたもんじゃない」と感じますし、こういうピュアな志のある人をこそ応援しなくてはなりません。「Paix2」が紅白歌合戦に出るまで(一度ノミネートされたことがあるとのこと)支援していきたいと思っています。

歌う「Paix2」

記念本が続きますが、500回ののちに、500回のドキュメントも入れたプリズン・コンサート500回記念本を出版いたします(来年2月刊行予定)。さらにファン・クラブも強化し今後の活動をバックアップします。

次に、わが国唯一の反(脱)原発雑誌『NO NUKES voice』の継続です。2014年8月に創刊し、もう5年経ちますが、ずっと赤字です。当時イケイケの時期で、1千万円を準備しましたが、それもとうに底を尽きました。正直のところ、日本には反(脱)原発雑誌はないから、すぐに採算が取れ安定するだろう……という気軽な気持ちで始めましたが、反(脱)原発運動や住民運動に関わる方々からの期待が大きな反面、実売はなかなか伸びません。しかし、私たちは諦めずに粘り強く持続する所存です。関連して、設立30年を迎えた「たんぽぽ舎」についても、ささやかながら支援して行きます。

もう一つ、来年4月創刊15周年を迎える月刊『紙の爆弾』の拡大・継続です。同誌は、採算はトントンまで来ていますが、伸び悩んでいます。しかし、大小問わずメディア全体が腐敗・堕落・自己規制・権力迎合へと向かい、それに無感覚です。私たちは、いかなる困難があろうとも、小なりと雖も、あくまでも〈タブーなき言論〉の旗を掲げ続けていきます。

当面こうした三つを中心として、鹿砦社は、まさに雪崩打つ反動化の嵐に抗する〈砦〉として次の50年に向けて出立いたします。

12・7(東京)、12・12(西宮)での鹿砦社創業50周年の集いに圧倒的に結集し、まずは50年間、いろんな困難にぶち当たりつつも、これを乗り越え生き延びたことを共に祝い、気持ちを新たに頑張っていこうではありませんか!

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鹿砦社の出版活動を支持される皆様方

いよいよ鹿砦社創業50周年記念の集いが近づいてまいりました。
今回の集いは創業50周年というメモリアルな集いであり、〈特別な集まり〉です。毎年この時期にやっている忘年会(あるいは新年会)とは全く趣旨が異なります。これまで出席されなかった方こそぜひご出席をお願いする次第です。

◆ 鹿砦社創業50周年記念の集いのご案内! ◆

 

『マルクス主義軍事論』から50年後に刊行された『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

私たちの会社=鹿砦社は1969年創業、本年創業50周年を迎えました。決して平坦な道程ではありませんでした。その都度、心ある皆様のサポートで乗り越えてまいりました。これからも茨の道が待っているでしょうが、2005年の突然の出版弾圧を乗り越えたように、どのような困難にも立ち向かい乗り越えていく所存です。

また、創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』も去る10月29日に発売になりました(創業前後の経緯は文中、創業メンバーの1人、前田和男氏インタビューで明らかにされています)。

創業50周年と出版記念、さらに忘年会も兼ね、東西で集まりを持ちます。会場は、これまでの活動で縁(ゆかり)のある所です。たとえ狭くても(広くはない!)、質素でも(豪華ではない!)、私たちにとっては意味のある所です。

加えて、私たちが支援している女性デュオ「Paix2(ぺぺ)」が全国の刑務所・矯正施設を回る「プリズン・コンサート」も来年早々(1月18日、関東圏某刑務所)前人未踏の500回を迎えようとしています。これは大変なことです。「プリズン・コンサート」500回を目前にした「Paix2」も、多忙な中、どちらの集まりにも来て歌ってくれます。

創業50周年を皆様と共に祝い、次代に向けて気持ちを新たにスタートいたしたく思います。どなたでも参加できますので、ぜひ多くの皆様方のご参集をお願い申し上げます!

【東京】時:12月7日(土)午後3時から(午後2時30分開場)
    会費3000円(懇親会費用込み。学生2000円)
    於:スペースたんぽぽ
(東京都千代田区神田三崎町2-6-2ダイナミックビル4F。TEL03-3238-9035。JR水道橋から神保町方面へ徒歩5分)
「Paix2」ミニコンサートとトーク、その後懇親会(飲食有り)
[賛同人(出席される方のみ)]山口正紀(ジャーナリスト)/小出裕章(脱原発研究者)/立石泰則(ルポライター)/板坂剛(作家・舞踊家)/大口昭彦(弁護士)/足立昌勝(関東学院大学名誉教授)/森奈津子(作家)/林克明(ジャーナリスト)/横山茂彦(情況出版)/柳田真(たんぽぽ舎共同代表)/鈴木千津子(同)ほか。(敬称略) 
     
【関西】時:12月12日(木)午後6時から(午後5時30分開場)
    会費3000円(懇親会費用込み。学生2000円)
    於:西宮カフェ・インティライミ
(西宮市戸田町5-31。TEL0798-31-3416。阪神・西宮駅市役所口から川沿いに南へ徒歩5分)
「Paix2」ミニコンサートと懇親会(飲食有り) 
[賛同人(出席される方のみ)]山田悦子(甲山事件冤罪被害者)/新谷英治(関西大学教授)/水谷洋一(西宮冷蔵社長)/森野俊彦(弁護士)/大川伸郎(弁護士)/飛松五男(コメンテーター)/渡部完(元宝塚市長)/田所敏夫(ライター)ほか。(敬称略)
 
*どちらも、準備の都合がありますので、事前(東京=12月2日まで、関西=12月5日まで)に鹿砦社本社(matsuoka@rokusaisha.com 電話0798-49-5302)、もしくは東京編集室(nakagawa@rokusaisha.com 電話03-3238-7530)へお申し込みください。
**参加者全員に、魂の書家・龍一郎揮毫の2020鹿砦社カレンダー、記念品を贈呈いたします。    以上  

弾圧10周年に龍一郎が贈ってくれた檄

タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』

「風化」に楔を打ちこむ『NO NUKES voice』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

自分が寄稿させていただいた本を解説するのも、最近では「自著を語る」というスタイルで雑誌や研究会に定着している。今回、デジ鹿編集部の要請もあって、いわば「共著」本を書かせていただくことになった。この本の肝心な部分は、それなりに学生運動や党派の歴史を知っている者にしか書けないということで、お鉢が回ってきたものとみえる。

もっとも「自著を語る」というスタイルは、人文系の専門書に特有のものであって、大著を読みこなす評者が限られているために、ふつうに書評を頼めば数ヶ月を要し、肝心の著書が本屋さんから返本されたころに書評が出るという、困った事態を回避するのが目的でもある。この書評がデジ鹿に記載されるころに、本書はまだ本屋の店頭を飾っているだろうか。

◆「7・6事件」とは何か

何を置いても、本書の最大の読みどころは「7・6事件考」(松岡利康)である。1967年10・8羽田闘争を反戦運動の導火線とするなら、68年は全共闘運動の大高揚の年、パリの五月革命をはじめとするスチューデントパワーの爆発。いわゆる68年革命の翌年、69年は挫折の年である。1月に東大安田講堂が陥落し、古田会頭以下の辞任と自己批判を勝ち取った日大闘争も、佐藤栄作総理の「政治介入」によって解決の出口が閉ざされていた。

全共闘運動が崩壊するなかで、70年安保決戦を日本革命の序曲とするために、ブント(共産主義者同盟)は党内闘争に入っていた。国際反戦デーの「闘争目標を新宿で大衆的に叛乱をめざすべきか、それとも日本帝国主義の軍事的中枢である防衛庁攻撃にすべきか」をめぐって、政治局会議で幹部たちが殴り合うという事態(68年秋)もあった。

そして「党の革命」「党の軍隊建設」を掲げ、首相官邸をはじめ首都中枢を3000人の抜刀隊で占拠し、前段階蜂起をもって日本革命の導火線にする。という主張をもった、のちの赤軍派フラクがブントの全都合同会議を襲ったのが、7・6明大和泉校舎事件である。重信房子さん(医療刑務所で服役中)の「私の『一九六九年』」と合わせ読めば、事件の概略はつかめると思う。

 

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代─京都』

問題なのは、このブント分裂の引きがねとなった事件が尾ひれをつけて語り継がれてきたことだ。その結果、中大1号館4階から脱出するさいに、転落死した望月上史さん(同志社大生)が、中大ブントのリンチで手の指を潰されていた」という伝説になっていたのだ。その件を、ある作家の著書からの引用として『遥かなる一九七〇年代』(垣沼真一/松岡利康)に書いたところ、中大ブントを代表するという神津陽さん(叛旗派互助会)から、事実ではないとの批判が寄せられていたものだ。

検証の結果、中大で赤軍派4名を監禁したのは情況派系の医学連の活動家で、当初は暴力があったもののきわめて穏和的な「軟禁」であったという。証言したのは、わたしも編集・営業にかかわった『聞き書きブント一代記』(世界書院)の石井暎禧さん(現在は幸病院グループの総帥)である。軟禁中の塩見孝也さん(のちに赤軍派議長)らが、ブント幹部の差し向けたタクシーで銀座にハンガーグを食べに行っていた、などという雑誌記事を学生時代に読んだ記憶があるが、医学連OBの配慮だったかと得心がいく。中大ブントとひと言で言っても、数が多いのである。荒岱介さんの系列だったという九州の某ヤクザ系弁護士の中大OBを知っているし、情況派の活動家も少なくはなかった。その意味では「中大ブントがリンチ・監禁をした」というのは、あながち間違いではない。何しろ中大全中闘は5000人の動員を誇り、有名人では北方謙三が「赤ヘルをかぶっていた」とか、田崎史郎が三里塚闘争で逮捕されたとか、じつに裾野が広い。また目撃談として「塩見さんが生爪を剥がされていた」という証言もあるという。元赤軍派の出版物も出るので、今回の松岡さんの「草稿」がさらなる事実の解明で豊富化されることに期待したい。

それにしても、ブントは分裂して赤軍派を生み出し、最後は連合赤軍という同志殺し事件を生起させた。マルクス主義戦線派との分裂過程でも、暴力をともなう党内闘争はあった。その後、四分五裂する過程でも少なからず暴力はあった。けれども、寝込みを襲撃するとか出勤途中の労働者をテロるといった、中核VS革マル、革労協のような内ゲバには手を染めていない。だからこそ7・6事件という、いわば牧歌的な党内闘争の時代の内ゲバ死を問題にできるのであろう。死者が100人をこえる「党派戦争」の反省や総括の試みが、上記の党派からなされることは、おそらく絶対にないだろう。なぜならば「同志」は「死者」となったまま、いまも「闘っている」のだから、生きている人間が「誤りだった」などと言えるはずがないのだ。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

◆板坂剛の独断場

もう一本、本書の記事を推薦するとしたら、板坂剛さんの「激突対談」であろう。小中学校が同期だった中原清さん(仮名)とのドタバタ対談、激論である。前著『思い出そう!一九六八年を!!』の座談会では、真面目にやろうとしたことが仇となってしまったが、今回は相手にもめぐまれて、もう読む端から爆笑を誘うものになった。やり取りを引用しておこう。

板坂 だからおまえなんかにゃ判らねえって言ったんだよ。
中原 だったらこんな対談、無意味じゃねえか?
板坂 無意味じゃねえよ。
中原 俺には無意味としか思えんな。
板坂 それはおまえが無意味な存在だからだよ。
中原 やっぱりちょっと外に出ようじゃないか?
板坂 まだ終わってねえっつうんだよ。

もちろん内容もちゃんとある。ストーンズに三島由紀夫、中村克巳さん虐殺事件、日大芸術学部襲撃事件などなど。けっきょくこの対談を三回読み返したわたしは、いままた読み始めてしまっている。

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』関連記事
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』では「『季節』を愛読したころ」を寄稿。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07YTDY97P/

11月10日、同志社学友会倶楽部主催の、書家・龍一郎(本名:井上龍一郎)さんの講演会『教育のあり方を問いかけた ゲルニカ事件から30年の想い』が開催された。

会場となった同志社大学良心館の教室には約100名の聴衆が集まった。龍一郎さんが学生だった頃、この建物はまだなかった。

 

教壇の黒板には、児童が作成した「ゲルニカ」を美術の先生が縮小模写した「ゲルニカ」が飾られた。縮小版でもかなりの迫力があるが本物は縦が2.8m横が5m以上あるのだから、もし完成したての「ゲルニカ」が長尾小学校の舞台に飾られていたら、事件にはならなくとも、児童にとっては一生忘れられない卒業式になっていたことだろう。

しかし、そんな素敵な日は訪れなかった。――

龍一郎さんは長尾小学校赴任後、6年3組の担任を任されるが、そのクラスは荒れていて、登校時間に誰一人教室にやっては来ない。唯一児童の興味は校庭でサッカーをすることだけだった。ランドセルも教科書も鉛筆も持ってこない児童たちに向かい合った龍一郎先生は、「よかばい、それならサッカーをやろう」と、朝7時に出勤し、一日中児童とサッカーに明け暮れた。4月から5月になると、気温が上がる。これが幸いした。児童たちは元気でも、さすがに暑い中一日サッカーをしているほど体力はない。2時間目が終わったころに児童が疲れだし「ちょっと教室へ戻ろうか」となった折を見て、龍一郎先生はようやく授業を始めるきっかけを得る。「人間なんでも『義理人情』なんですよ」と笑いながら児童の授業参加の理由を龍一郎さんは、冗談のように紹介する。「あれだけサッカーやらしてもうとるんやから、ちょっとは授業ば、聞いてや」と児童はサッカーを好きなだけやらせてくれた龍一郎先生に「義理」を感じて授業を受けるようになったわけだ。

こう言ってしまうと、とても簡単で単純なようだが、小学校の先生が毎日、朝から午後まで1カ月以上児童にサッカーをやらせる(一緒にやる)のは、そうたやすいことではない。今日であればまず、管理職から制止されるだろうし、そもそも「サッカーをやりたそうだから、とことんやらせよう」と発想する先生は、ほとんどいないだろう。

龍一郎先生は荒れて授業にならなかった6年3組の児童の心を、まずは「サッカーをやりたいだけやらせる」ことで和ませてゆき、学習への興味を喚起していった。

 

◆「ゲルニカ事件」を経て、裁判闘争に立ち上がる

おそらく、龍一郎さんは、こういうことが簡単に発想できる、稀有な人間性の持ち主なのだ、とわたしは確信している。講演の中では「ゲルニカ問題」を取り上げた「筑紫哲也のNEWS23」の映像が流された。この映像に出てくる龍一郎さんの容姿の「好青年」ぶりについては本通信で以前にも言及したが、どう見ても20代後半か30代前半にしか見えない。ところが、休憩時間に「あれはいくつの時撮影されたものでしたか」と伺ったら、「たぶん42,3の頃やね」といわれ、また仰天した。龍一郎さんは「ああいうときは、うぶに振る舞うんよ。きょろきょろしたり、臆病そうな顔したりしてね」と画像に出てくる自身を、しっかり演出していたことを告白してくれた。たしかにそう言われてみれば、外見もそうだが振る舞いによって「若い」と感じさせられていることにあとで気がついた。

講演の開始時に、少々お酒を召し上がったと思われる、龍一郎さんと同じ神学部の伝説的な先輩が、何度か大きな声を発せられた。「大丈夫かな」とやや心配したが、龍一郎さんはその先輩に視線を送ることもなく、全く意に介さず話を続けた。そのうちに大声を出していた先輩もまったく発語しなくなった。

龍一郎さんは、日頃多弁ではない。どちらかと言えば、にこにこしながら、ひとの話を聞いている姿が頭に浮かぶ。ところがいったん話を始めると、絶妙なタイミングで冗談をはさみ、無駄な話に逸れることもなく、流れるように話が進んでゆく。聞いている者で退屈したり、眠くなった人は誰一人いなかっただろう。

語りがうまい、というだけではない。龍一郎さんの立ち振る舞い、特に「目」が聞く人の心を強く摑む。きっと長尾小学校6年3組の児童たちも、龍一郎先生の「目」にやられたに違いない。こんなに澄んだ目をした人、そして怒りを語るときには、温かみの中に「凄み」を滾らせる「目」を持った人を、わたしは他に知らない。

そして、児童に指導するばかりでなく、むしろ自発性を発揮させる能力は、いくら経験を積んでも、できない教師には真似できるものではない。学年全体の児童が、映画のスクリーン大の「ゲルニカ」を学年の旗として描く。「子供には無限の可能性がある」といわれるが、その可能性を引き出し、現実化させるには、良き環境や大人との出会いがなければ、容易なことではない。

小学校の先生として、龍一郎さんは超一流であったことは、児童の心を摑む人間性だけではなく、教育委員会から新任数年で「教師を指導する」機関に引き抜かれた事実が物語る。将来を約束される「超エリートコース」に抜擢されていたのだ。そして龍一郎さんは、同志社大学神学部の出身だが、実は数学を最も得意としており「教師を指導する」機関在籍時の担当も算数だったそうだ。

その元エリート先生が、「ゲルニカ事件」を経て、裁判闘争に立ち上がる。教育委員会から呼び出しを受けて、処分の言い渡しに出向いた際、文書」を手渡されたときに、片手で受け取ろうとしたら「両手で受け取れ!」と言われ、怒った龍一郎先生は処分を記した紙を片手で奪い取り、処分理由に児童の行為が記されていることを知り「処分理由を書き直せ!」と担当者に迫った。担当者は事務的な内容を三度繰り返したそうだが、こういう時の龍一郎さんが、どんな目をして、怒気を隠さなかったかは、見ていないわたしにも想像できる。

 

◆書家・龍一郎さんが披露した揮毫の実践

そして、一言でいえば「これほど優しい」人はそうそういない。講演後揮毫の実践を龍一郎さんは披露した。「良心」、「絆 望むことは あなたと生きることだ」の二枚を書いたのち、参加者の希望のリクエストに応えて「寒梅」、「いのち」、「繋ぐ」を書き上げた。最後に小学校の現役の先生が「言葉は思い浮かんでいないんですけど、先週権力側に潰されそうになって気持ちがへこんでいます」との言葉に、龍一郎さんは「逆らわないほうがいいですよ」と冗談で返し「子どもたちのための教育を作りたいと思っているんですけど、きょうの先生のお話を伺って、是非、『喝』というか『励まし』の言葉を頂けたら」とのリクエストに「流されて」とか「穏やかに」とか「静かに」とかと、またしても冗談を飛ばした挙句龍一郎さんが揮毫したのは、「今日だけがんばれ」であった。

2分おきに笑いを誘う、なごやかな雰囲気の中で、龍一郎さんは「ゲルニカ事件」を語った。裁判中は、毎週水曜日弁護団会議を夕方6時から早くても12時までこなし、全国400か所以上で講演を行い、裁判資金を捻出していたという。心身とも限界に近い状態だったのではないかと想像される。現在の松岡同様、重度の糖尿病になったそうだ。そこまでして龍一郎さんが闘ったのは、自分の名誉や権利のためではなく、「児童」が罰せられたことへの教育者としての憤りであったに違いない。

濃密に「ゲルニカ事件」を語り、揮毫の実践では顔中に汗をかき、参加者を何度も爆笑させた龍一郎さんのお話は、参加者の心を強く揺さぶったことだろう。

 

◆「言わんでいいこと言うてしもうたね。誰にも言わんとってね」

わたしたちにとってこの日は特別な日となったが、実は龍一郎さんにとっても、忘れられない日となったであろう。開場前、荷物を持って同志社大学の校門を入ってくる龍一郎さんと偶然出くわした。挨拶をかわし「お体はお元気ですか」と伺うと「うん。まあまあやけど。今朝ねお袋が亡くなったんよ。5時ごろ電話かかってきて」――わたしは言葉を失ってしまった。その後短い会話のあと「言わんでいいこと言うてしもうたね。誰にも言わんとってね」と仰った。

にもかかわらず、何事もなかったかのように龍一郎さんは、講演、揮毫など、この日の仕事を終えた。プロである!
この原稿が掲載される12日は龍一郎さんご母堂のご葬儀の日でもある。

講演も揮毫もご母堂ご逝去の日にこなしていただいた龍一郎さんに再度感謝申し上げます。

なお、この日、3・11以降、龍一郎さんが揮毫し毎年発行されている鹿砦社カレンダー2020年版が出来上がり、参加者全員に配布された。

◎[参考動画]講演当日、龍一郎さんが披露した揮毫「良心」(堤泰彦さん撮影)

◎[参考動画]講演当日、龍一郎さんが披露した揮毫「絆」(堤泰彦さん撮影)

[関連記事]
◎書家・龍一郎さんが長年の沈黙を破り、11月10日同志社大で語る「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」(2019年10月15日)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』好評発売中!

最新刊『一九六九年 混沌と狂騒の時代』、2年前に刊行の『遙かなる一九七〇年代─京都』(松岡利康/垣沼真一編著)の題字も揮毫してくれた

10月28日、鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の発売を翌日に控え、予想外の大ニュースが飛び込んできた。

 

「反差別」運動のリーダー・李信恵氏が批判者に対して言い放ったツイート

鹿砦社は、Twitter上で李信恵氏から度重なる誹謗中傷を受け、弁護士を通じて「警告書」を送るなど、手を尽くしていた。だが、李信恵氏による鹿砦社に対する罵倒や虚言はいっこうに収まる気配がなかった。そこでやむなく鹿砦社は李信恵氏を相手取り、名誉毀損による損害賠償を求める民事訴訟を大阪地裁に起こした(その後李信恵氏も対抗上別訴を起こしてきたので、便宜上鹿砦社原告の裁判を「第1訴訟」、李信恵氏原告の裁判を「第2訴訟」と呼ぶこととする)。

「第1訴訟」の一審判決では、ほぼ完全に鹿砦社の主張が認められ、勝訴。大阪地裁は李信恵氏の悪口雑言を不法行為と認定したのである。原告、被告双方が控訴した大阪高裁では棄却(一審判決=鹿砦社勝利が維持された)。被告・李信恵氏側は判決を不服として、最高裁に上告していたが、10月25日付け(最高裁の受理は27日)で李信恵氏側は上告を取り下げ、李信恵氏代理人の神原元弁護士は鹿砦社の代理人・大川伸郎弁護士にその旨伝えてきた。

その連絡を28日(月)に受け、ようやくわれわれの主張が裁判の判決として確定したことを知るに至ったわけである。

再度、このかんわれわれの裁判闘争を、陰に陽に支援してくださった皆様方に、ご報告申し上げる!

鹿砦社は、対李信恵裁判闘争において、完全勝利した! と。

この勝利の意味は極めて重い。まず、本件訴訟でわれわれが主張した内容、つまり李信恵氏による鹿砦社への誹謗中傷が名誉毀損に当たり不法行為であることが全面的に認められたこと(逆に李信恵氏の主張はほぼ棄却されたこと)である。

別掲の書き込みをご覧いただければ、お分かりいただけるだろうが、こういった明らかな誹謗中傷を李信恵氏側は「論評」と主張していた。「クソ」という表現が論評に当たるか当たらないかは「常識的」に判断すれば、誰にでもわかることだ。

「李信恵という人格の不可思議」(『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアより)

 

さらには(この点も非常に重要であるが)鹿砦社代表・松岡が、あたかも喫茶店で、会ったこともない李信恵氏に嫌がらせをしたかのような「まったくの虚偽」記述もあった。本人が一番よく知っているのであるから、こういった「虚偽発信」がどれほど、発信者の信用を貶めるものかを、自身も物書きである李信恵氏は知っているであろうに。

Twitterで李信恵氏が発信すると、支援者や仲の良い人々がすかさずリツイートなどで広める(最近はその影響力もかなり低下していると聞くが)。

 

まったくの虚偽事実であっても、かつては強大な影響力を保持した李信恵氏の発信はどんどん拡散されてゆき、「なかったこと」があたかも「あったこと」のように既成事実化に近い認識が形成される。まことに悪質な印象操作であると言わねばならない。そしてそのような印象操作に、神原弁護士や上瀧浩子弁護士も加担していた事実は見逃せない。

 

法廷内で荒唐無稽な主張を展開するにとどまらず、法定外、ことに拡散が容易なTwitter上で極めて無責任で名誉毀損に該当するような書き込みを、弁護士が行ってもよいものであろうか。

裁判の進行報告や支援の呼びかけなどは理解できるが、いくら係争中、あるいは終結した争いの相手であっても、「法の専門家」である弁護士が、一般市民を相手に感情に任せた乱暴な文章や、事実と異なる発信をしてもいいはずはないだろう。それも日頃「人権」がどうのこうの口にしている者が。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(2018年3月19日付け神原弁護士のツイッターより)

 

そして、再度確認しておかなければならないのは、このように著名人である李信恵氏が最終的に敗訴しても、一切のマスメディアはその事実を報道しはしない、という歪な状態である。

鹿砦社は、この係争に先立って争われた「M君リンチ事件」提訴以来、M君や松岡が何度大阪司法記者クラブ(大阪地裁・高裁内にある記者クラブ)に記者会見の実施の申し入れをしても、ことごとく拒絶された様子を近くで見てきた。

そして鹿砦社が原告となり(第1訴訟)、李信恵氏を提訴した際にも記者会見開催の申し込みは受け入れられることはなく、さらに、一審で勝訴した際にも記者会見を申し入れたが、開かせてはもらえなかった。

このどうみても「不公平」な扱いを、記者クラブに所属しているマスメディア各社はどのように弁明ができるのであろう。在特会を相手取り損害賠償請求事件を争った李信恵氏には毎回記者会見を用意し(そして記者会見に李信恵氏の仲間らの入場は許可しながら鹿砦社の社員が入ることを拒絶して)、M君や鹿砦社には記者会見の機会を与えない。「差別と闘った」として著名人になった李信恵氏が、このほど鹿砦社に対して、名誉毀損を犯したことが確定した。これはニュースではないのか?

鹿砦社はこれまで、刑事裁判を含め、数えきれないほどの裁判を闘ってきている。裁判闘争史の初期は大物(ジャニーズ事務所、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会など)が多かったので、負けを覚悟での猪突猛進をしていた時期もあった。しかし鹿砦社とて成長するのだ。

ことに言論に関わる争いや係争には近年むしろ慎重に取り組むようになっている。法定外でも情報収集を幅広く行い、「どうすれば勝てるか」を学習もした。また弁護士だけでなくアドバイスを送ってくださる方々の存在も頼もしい。

 

李信恵氏側も、マスメディアも鹿砦社を見下していた印象は否定できないが、このままの姿勢を続けてもよいものであろうか。

「第1訴訟」の判決が確定した。繰り返すがわれわれの〈 完全勝利!〉であった。しかし、この裁判一審の後半になり、李信恵氏側が突如「反訴をしたい」と我が儘にも主張しはじめ、裁判所に認められなかったことから、李信恵氏は別の裁判を起こした(「第2訴訟」はそのような中で発生したものだ)。

その裁判では鹿砦社に損害賠償を迫っているだけではなく、「M君リンチ事件」に関連して出版した書籍の販売差し止めまでもを求めてきている。

とんでもない請求であるが、現在「第2訴訟」は大阪地裁で進行中である。「争点準備手続き」という一般の方が傍聴できない形式を裁判所は採っており、証人尋問までは、基本非公開の法廷で弁論が進む。

当初の裁判長は、李信恵氏が在特会らを訴えた訴訟で李信恵氏勝訴の判決を出した裁判官だった。あまりにも不公平なので裁判官忌避請求を出そうと、準備していたしたその日に、何かあったのか担当裁判長が急に交替した。

李信恵氏との間ではいまだに係争が継続中であるので、「第1訴訟」の完全勝利を喜びながら、気を緩めることなく、「第2訴訟」も完勝し、対李信恵氏裁判〈完全勝利!〉を勝ち取るべく、勝って兜の緒を締めて、さらに闘いは続く。読者の皆様方には引き続きのご支援をお願いしたい。

◆李信恵氏の仲間・金良平氏は直ちにM君に賠償金を支払え!

ところで「M君リンチ事件」で損害賠償110万円超の支払いが言い渡された金良平氏が、代理人を通して「総額のうち40万円余りを支払い、残金は月5万円の分割にしてほしい」と判決確定後に願い出てきた。

M君、弁護団と支援会が相談し、「40万円余りは受け取るが、残金の分割払いには連帯保証人を付けるように」と回答したところ、相手方は難色を示した。仕方なくM君並びに弁護団、支援会は譲歩し、40万円の受け取りを承諾した。そして金良平氏の代理人も「支払う」と回答してきた。

それから少なくとも3週間が経過しているが、いまだに、金良平氏(若しくは代理人)からの支払いはない。

金良平氏は一審の法廷でM君に謝罪したが、これは体のいい猿芝居だったのか!?

リンチ直後に出された金良平(エル金)氏[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)


◎[参考音声]日本第一党 第七回神奈川県本部 川崎駅前東口街頭演説活動 2019年10月19日

 

このことには金良平氏の良心が問われているのだ。「反差別」運動に関わり「人権」という言葉を口にする金氏に良心の一欠片があれば、今すぐにM君に賠償金を支払うべきである。

それどころか、金良平氏は、10月19日川崎で行われた日本第一党の街宣活動に対する抗議行動に赴き、両手をポケットに入れながらも明らかに何者かに、体をぶつけ、その後も聞くに堪えない罵声を、日本第一党関係者に浴びせている。

周囲に金良平氏同様抗議活動へ参加している人の姿が10余名ほど確認できるが、体をぶつけ(相手が警察であれば確実に公務執行妨害で現行犯逮捕だろう。そうでなくとも体をぶつけられた本人が申し出れば金良平氏は何らかの罰則を受ける可能性があろう)汚い罵声を飛ばしたりしているのは、金良平氏ひとりだ。

 

繰り返すが、金良平氏は大阪地裁の法廷で、M君に芝居がかった謝罪のポーズを演じて見せたが、あれはなんだったのだ?

集会結社・言論の自由は、憲法で誰にでも認められているから、どこへ行こうが、何をしようが基本的にはその人の自由である。しかし、金良平氏には損害賠償の支払いが命じられており、その義務をまだ一切履行していないではないか。

M君への110万円余りの支払いを「一時金40万円で、あとは分割にしてくれ」と身勝手な申し出をしておきながら、川崎まで出かけて行ってこんなことをしている場合か?

金良平氏の代理人及び、「M君リンチ事件」一審判決当日、敗訴にもかかわらず「勝訴」とまったく事実と異なる発信を写真入りで行った神原元弁護士も金良平氏を正しく指導する義務があるのではないか!?

鹿砦社は本年創業から50年を迎えた。記念出版物において、これまでの歩みを振り返り、いいところはさらに拡大し、反省すべきは反省しつつ、今後も、われわれが精査し、正しいと判断した道を粛々と進んでゆく。偽物や偽善者に対しては言論戦において容赦はしない。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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学生運動に興味のない読者(本通信では少数であろうが)にとっては、「全学連」も「過激派」も「共産党」も同じに見えるかもしれない。けれどもそれらは個々ずいぶん違う性質のものであるので、本日の文章をご理解いただくために、最小限の用語の意味だけご紹介しておく。

 

鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

◆「全学連」と「全共闘」

「全学連」とは「全日本学生自治会総連合」の略語で、各大学の自治会が寄り合った組織である。当初は一つであったが、60年安保闘争を前にして主流派が共産党と訣別し死者をも出しながら激しく闘い世界に「ゼンガクレン」という名を広めるほど有名になった。一方、反主流派の共産党系も「全学連」を名乗って今に至っている。共産党ではない(主として共産党から離脱した)新左翼系の「全学連」は、60年安保闘争後いったん解体し66年に、いわゆる「三派全学連」(ブント、社青同解放派、中核派)として再建され、60年代後半の運動を牽引したが、党派による連合体の形をとったが故に、利害関係などから長続きせず、やがて各党派ごとの「全学連」に移行する。ブント系を除き今でも各派で「全学連」を名乗っている。

これに対して「全共闘」は「全学共闘会議」の略称であるが、上記の「全学連」が党派連合なのに対し、「全共闘」は、党派も抱き込みつつ、党派による弊害を感じた学生たちが、自由意思により、大学(高校)ごとに共闘する運動体を打ち立てた。その先鞭として有名なのが「日大全共闘」であり「東大全共闘」である。

日大は日本一の学生数を擁する大学であったが、学内での集会の自由を認めない、など大学としての最低限のレゾンデートルも、踏襲していなかった。60年代後半、それまで学生運動とは無縁だった日大で、30億円に上る使途不明金問題が勃発。それに呼応する形で自然発生的に「日大全共闘」が結成される。このように、最初から旧来の党派ありきではなく、自然発生的に生まれ、それゆえ瞬く間に広がったのが「全共闘」運動の特徴といえるだろう。「日大全共闘」をはじめ、全共闘運動については『思い出そう!一九六八年を?』(2018年、板坂剛と日大芸術学部OBの会編著、鹿砦社)で経験者、板坂氏らが詳しく紹介しているので是非ご一読いただきたい。

そして、まさに「全共闘」が全盛を極めたのが1969年であった。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は「全共闘最盛期」の報告と副題を付すことも可能かもしれない。1969年は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表を付しているが、年始から実に様々な事件や、のちの世代に影響を残す事柄が集中的に起きていることに驚かされる。翌1970年に70年安保という大事件を控えながら、大衆運動としての学生運動は、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に寄せられた数々の原稿を目にすると、1969年でピークを迎えていたような印象すら受ける。
しかし、それはわれわれが、まだ1968年と1969年を解析したように、1970年(~代)についての充分な情報収集を行っていないからかもしれないが…鹿砦社では1968年・1969年に続き来年は1970年(~代)をテーマとした書籍を出版する予定だと聞いている。

◆同志社大学出身者たちが当事者として語る「東大安田講堂籠城戦」

さて、「全共闘」に話題を戻そう。全共闘は各大学で生まれ、参加者や議論の制約を設けない、新しい形の運動体だった故に、それまでの学生運動には距離を置いていた学生の中からも、参加者が劇的に増加する。

そんな中闘われたのが1月の「東大安田講堂籠城戦」だ。東大全共闘が中心であったが、全国から応援の部隊が駆け付けた。26日の本通信で、

《1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。》

とご報告した通り、証言者は当初見つからなかった。ところが偶然にも鹿砦社代表・松岡の先輩筋に、かつてその戦闘性で全国の学生運動を牽引した「同志社大学学友会」のOBの親睦団体「同大学友会倶楽部」でここ数年共に活動している方が安田講堂籠城組で、おそるおそる今回の出版企画への寄稿をお願いしたところ、単独の執筆は勘弁してほしいが「私の限られた経験でよければ」と“証言”を頂けるとのありがたい許諾を受けた。けっきょく6人の座談会となった。

松岡も私もかなり緊張し興奮しながら、取材当日を迎えた。“証言”を受けていただいた方は、2人が松岡と共に学友会倶楽部で顔を合わせたことのある方だったが、お二方はご親切にもご友人にもお声がけいただいて、取材には6名の皆さんがお集まりいただき「1969年」を振り返る「座談会」を催すことができた。いずれも同志社大学出身(中退・卒業)6名の皆さんに自己紹介からお話を始めていただくと、なんと3名が「安田講堂籠城組」であることがわかり、松岡もわたしも驚きの声を抑えることができなかった。

貴重な証言は細部に及んだ。同志社大学から、どうして東大闘争に駆け付けることになったのか? 京都を出発する時点で、「決死の闘争」へ参加する覚悟はできていたのか? 安田講堂内での守備位置はどこだったのか? 機動隊員が内部へ入ってきた時の様子は?われわれの質問は果てることがなく、参加いただいたみなさんのお答えにも、なんの躊躇もなかった。

これまでの報道では決して報告されなかった、いくつもの事実が初めて明らかになった。その多くは意外な事実であったが、中には例外的に大爆笑を止めることができないような“秘話”も含まれている。

現代史の発掘の妙味は、体験者に直接語って頂くことだ、とあらためて痛感した座談会であった。帰路松岡も、わたしも興奮が冷めやらなかった。お一人が語ってくれるだけでも望外だと思っていたのに3名もの証言者のご協力を得ることができ、それにより質疑ではなく経験者同士の対話も展開され、より事実の発掘が深まったからだ。この座談会「元・同志社大学活動家座談会   一九六八年から六九年」は間違いなくお勧めだ。

元・同志社大学活動家座談会

◆重信房子氏が回顧する「私の一九六九年」

さらにである。6名のうち5名の皆さんは、その後活動期間の長短はあれ、「赤軍派」に参加されていたことも判明する!

森恒夫、田宮高麿、遠山美枝子、坂東国男、重信房子…といった、多くの人たちがその名を知っている方々。

いずれも大事件に関係した、「あの時代」を知っている人であれば、興味のある人であれば何度も目にした名前が、直接の登場人物として話題に上る。上記4氏の中で、生死がはっきりしているのは重信房子氏だけである。森恒夫氏は赤軍派から連合赤軍を結成し、山岳ベース事件で多くの仲間をリンチ死に至らしめ、逮捕後、獄中自死した。

「あさま山荘事件」といえば、50代以上の誰もが記憶しているであろう、あの事件の前段での不幸ともっとも関係が濃密な人物である。坂東國男氏は、海外にいるとされるが、生死、消息不明だ。座談会出席者の中には森氏と、個人的に知り合いであった方もいた。そしてその方は森氏の危険性を予期していた!

田宮高麿氏は、「よど号」ハイジャックで朝鮮に渡ったグループのリーダーであり、遠山美枝子氏は山岳ベース事件で「自己批判」の末、命を絶たれることになった被害者だ。やはり座談会参加者の方からは遠山氏のお人柄も、証言されている。重信房子氏についてはさらに詳細な議論が交わされた。もうこれ以上本通信では明かすことはできない。

「おいおい、えらくコアな証言のようやな」と読者の声が聞こえてきそうだ。その通りだ。これだけでも読了後は結構な汗をかくのだが、最後的な決定打がさらに準備されている。

東日本成人矯正医療センターに収監されている重信房子氏も寄稿して頂けたのだ! シンプルに「私の一九六九年」という題で重信氏が回顧する原稿からは、一部マスコミのミスリードにより、「冷血なテロリスト」との印象を刷り込まれた読者諸氏に大きなショックを与えるに違いない。重信氏の人間性溢れる貴重な原稿だ。

いよいよ本日発売の『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(税別800円、安すぎる!)にはその他にも「あの時代」の証言、告発、問題提起が詰め込まれている。
かつて松岡は『季節』という雑誌を発行していて、その5号、6号は電話帳のように分厚いもので、ある人に「奇妙な情熱」と揶揄されたというが、今回もA5判・224ページと、思った以上に分厚く、それでいて本体価格800円という安価――これもまた松岡の「奇妙な情熱」といえるだろう。

「絶対」という言葉は、よほど注意しなければ使わないが、あえて「絶対」にお勧めの一冊である。そして『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は歴史に名を残す書籍になるであろうことを確信する。この種の本には珍しく1万部ほどを発行したという。松岡は強気だ! 売り切れ要注意、すぐに書店に向かうか、ネット書店や直接鹿砦社(sales@rokusaisha.com)にご注文を!(了)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07YTDY97P/

権力闘争、あるいは権力奪取闘争のなかで、意見の対立から、元は同志として同じ目的に向かっていた勢力が、分裂を起こすと近親感が憎悪へ変わり、激烈なぶつかり合いから、果ては殺し合いにまで行き着く。

この歴史は何度も教科書の上にすら登場させられることを忘れはしなかった。人間史の深く悲しい惨事の繰り返し。地層のように世界史、闘争史どの断面を切り取っても、対立→分裂→衝突→潰し合いは、人間が保持する克服しがたい、特質のように悲嘆に暮れるしかないのであろうか。

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

そんな疑問や問題提起が、引き金になっているのかどうかはわからない。松岡利康はかねてより、日本の左翼(新左翼)運動内で発生した「内ゲバ」に、人一倍反応し、同志や弱者に向けられる「暴力」に対して、極めて敏感に反応を続けてきた。現在まで5冊の書籍を上梓する結果になった(最初はこれほど多数の出版を、松岡自身が想定してはいなかったであろう)「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」へ取り組む松岡の姿勢が、まさにその証左である。

松岡はどうして「内ゲバ」あるいは、同志や弱者に向けられる暴力に対して、黙していることができないのか。共に取材を進め方針を議論する中でも、この質問を、直接松岡にぶつけたことはない。なんらか、かなり大きな経験なり、思索が「確信」にまで高まり、この種の問題から目を逸らせることを、松岡は無意識に自身に禁じさせている。わたしにはそうであろうとしか推測できない。

そこにはもちろん松岡が学生時代、日本共産党=民青のゲバルト部隊に暴行を受け入院させられた、肉体的苦痛を伴う個人史が作用してもいよう。しかし、そういった経験のある個人は、日本にも世界にも相当数存命中であるはずであり、その点において松岡の体験がことさら特別のものかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

◆リンチ事件への怒りと異議申し立て

4年ほど前になるであろうか「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」が複数筋から鹿砦社に持ち込まれた日(あるいは翌日だったかもしれない)松岡から受信した電話口での語り口調は、明らかに通常時通話のトーンと異なるものであった。あれ以来鹿砦社は自身も血を流す(比喩的な意味である)ことになる、「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」の解明と支援に向かい合うことになる。

松岡はリンチ事件を論じる際に、感情が高じると「常識的に考えて」という文言を繰り返し使う、としばしば感じた。「常識的」は穏やかな一般に共有される概念を指す言葉であるが、松岡が使う「常識的」には、一般的ではない複雑な思いが込められている、と感じたことが少なくない。

それは先に述べた通り、人間史で繰り返されてきた「人間の悪性」ともいうべき、近親憎悪が衝突→潰し合いへと向かうことが、当たり前であるかのような解釈に対する、怒りと異議申し立てではないだろうか。極言すれば松岡は、彼の人生史のなか、とりわけ学生運動に関わった時代の個的経験だけではなく、同時代に発生した幾つもの「内ゲバ」事件を「他人事」と呑気に過ごしていることができず、自身に向けられた「解決策を見出すべき至上命題」として受け取っていたのではないか。

◆高橋和巳と重なる松岡のベクトル

学生当時の松岡が、彼の周辺にさえ「反内ゲバ」を感情ではなく、論理として構成し説き伏せることなど、できようはずはない。しかし『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の最後の原稿として松岡が著した長文「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の冒頭で松岡は、一貫して「内ゲバ」に反対の意思を苦悶しながら表明し続けた高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」から引いている。高橋和巳は苦悩する小説家として著名なとおり、内ゲバに対する論考も、常に原則的な否定論を維持しながら、しかし、ならば「いかなる論や行動が有効であるか」を示し尽くすことができないことに、重ねて苦悶する中で、人生を終えたのではないか……と、またこれも想像する。

おそらく、松岡を突き動かす原動力は、表現方法や行動において同一性は見られないかもしれないが、高橋和巳と重なる方向性とベクトルにあるのではないかと、わたしは感じている。

活動家ではなく研究者だった高橋と、一活動家だった松岡の反応とでは、当然大きな違いもある。そして、松岡が学生時代に生活していた学生寮が、卒業後に某悪質セクトに深夜襲撃され寮生が監禁・リンチされた際、松岡は即寮生支援に向かっている。まだ若かった松岡にとって「内ゲバ」あるいは同志、弱者に対する暴力は、許容できるものではなく、それへの怒りと反撃に激高するのは当然の生理的反応であったと理解する。その経験を松岡は否定はしまい。けれども、会社員から鹿砦社代表へ就任し、多くの出会いと出版物を編纂し、「暴露本」路線に一方では邁進しながら、突然の逮捕-勾留192日という辛酸を経て70歳近くの老境に至り、ふたたび松岡は彼特有の感性である「反内ゲバ」に立ち返ったのではないだろうか。

学生寮が襲撃された連絡を寮母さんから電話で受けた松岡の激高は、年月を経て「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」に初めて接したときの「落胆を伴う驚愕」(これまた推測である)へと質的な変化を遂げていたのではないだろうか。2つの事件に共通するのは表層的な反応の違いではなく、「内ゲバ」=同志、弱者への暴力を「生来徹底的に嫌悪する」松岡の人間性である。

◆「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」

歴史と現状は、そのほとんどが闘争の歴史であることを証明している。闘争は必ずしも崇高なものではなく、私利や権力欲に由来する行為がむしろ主流であり、そこで振るわれる策謀、裏切りや寝返り、そして暴力や殺戮はそれこそ歴史的「常識」である。

ところが、松岡は本人が意識しているかどうか、まったく判然とはしないが歴史的「常識」に行動と言論で「異議あり!」との抗いを続けているように、私には思えて仕方がない。この壮大な作業に簡単な回答など準備されているはずもなく、したがって「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の最後にも「(草稿)」が付されているのではないだろうか。

本原稿は同志社大学の中心的活動家だった望月上史さんが1969年7月6日に、会議襲撃の報復として拉致され、約20日も監禁(軟禁)された末、脱出を試みた際に落下して、のちに死亡した事件を、関係者5名の証言(発言)を紹介しながら松岡が問題提起を行う形で構成されている。5名の証言(発言)をほぼカットなしで引用していることもあり長文となっているが、結論として「内ゲバ」について松岡がどう論を昇華させているかは、読者諸氏がお読みになって確認していただきたい。

人類史と必ず伴走する、闘争史。そしてそこに宿命的に付随するかのような「内ゲバ」と「排除の論理」への挑戦。無謀とも思われるが、人間にとっての一大命題への取り組みは松岡のライフワークなのかもしれない。

この他にも寄稿いただいた原稿はどれも力作の連続だ。松岡は(ストレスのためだろうと推測する)重篤な目の疾患の治療で、昨年秋から全く編集実務から遠ざかっていた。それにもかかわらず、片目1回4万5千円の注射を何度も打ちながら、ほぼ単独で編集した『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は、明日10月29日発売だ。(つづく)

「望月君死ぬ」(1969年9月29日付け読売新聞夕刊)

「また内ゲバの学生死ぬ」(1969年9月29日付け朝日新聞夕刊)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07YTDY97P/

6月30日付けの私からの戸田ひさよし前大阪門真市議への「ご質問」に対し戸田氏より、返答(「9・17戸田見解」)が届いています。ちょうどその頃は鹿砦社創業50周年記念出版の編集・製作作業に慌ただしく、その旨戸田氏に伝え再返答の猶予を要請、また私のFBでもお知らせしていました。ようやく記念出版の作業が校了いたしましたので、戸田氏へ再返答しようと「9・17戸田見解」を熟読し始めたのですが……。

6・7集会案内

まずは10月20日、別掲の再返答をメールにて戸田氏に送りました。戸田氏が私に「弾劾質問状」を本年6月9日に送ってきて以来、本件の議論を「公開でやろう」と合意し、私は、戸田氏が設定した期限6月30日に「弾劾質問状」に回答すると共に戸田氏へ「ご質問」を発しました。

戸田氏からの返答を待っていましたが、私も記憶がはっきりしないほど戸田氏からの返答に日にちが掛かりましたので(本心では、もう来ないのではないかと思ったぐらいです)、戸田氏からの返答文に言及する前に、まずこのかんのやり取りを振り返りたいと思います(当事者の私が覚えていないほどですので、直接関係のない方々はほとんど記憶にないでしょう)。そうして時系列を整理したのが戸田氏への再返答の冒頭のくだりです。

戸田氏からの返答(「9・17戸田見解」)では、もう私を「相手にしない」とか「(私からの)質問に答えない」とか、待たせた挙句、肩透かしであると共に非礼なことです。みなさん、そう思いませんか?

さらには、「人間としての信頼感も絶大」な前田朗教授や、「俄然信頼出来る仲間」の趙博氏や仲岡しゅん弁護士ら「信頼する仲間と共に進むのみ」と宣言しています。前田・趙・仲岡氏らについては、これまでさんざん述べていますので、ここではコメントを省きますが、まあ、言わせていただければ、「類は類を呼ぶ」ということでしょうか。人を信用させておいて平気で掌を返す者らを「信頼」し「共に進む」と言うのであれば、それは戸田氏の勝手でしょうが……。

『カウンターと暴力の病理』より

『人権と暴力の深層』より

そのように戸田氏は、私からの「ご質問」にはほとんど答えてくれませんでしたが、ただ私が借金で訴訟沙汰になったなどというデマに対しては到底許容できませんので、これについては10月31日までの期限で回答を求めています。

人間誰しも誤りはありますから、誤認なら誤認でも仕方ないと言えば仕方ありませんが、こうしたことに対する態度で戸田氏の人間性が現れると思います。戸田氏は私を攻撃する材料として松岡借金訴訟説をみずからのサイトに晒し、私への世間の評価を貶め、さらに鹿砦社の業務に悪影響を与えたといえますので到底許容できません。みなさんがもし、このようなことをされたらどうですか?

ご承知のように鹿砦社は、李信恵氏による「鹿砦社はクソ」「クソ鹿砦社」といった悪罵の連続に対し民事訴訟を起こし、李信恵氏の不法行為を裁判所が認めました。いやしくも「反差別」運動のリーダーがこんな汚い言葉を発し他人を攻撃してはいけないんですよ。戸田氏についても、氏のサイトの閲読者数や影響力などは鹿砦社の比ではありません。戸田氏に然るべき対処を求めます!
   

◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇

 
戸田ひさよし 様

[送信人]   
2019年10月20日 
株式会社鹿砦社 
代表取締役   
松岡利康    

冠省 失礼いたします。

さて、9月17日(修正版同月19日)に「鹿砦社・松岡代表の『6/30回答』への9/17戸田見解~反ヘイトの行政づくり運動等にネトウヨ並のイチャモン・デマ誹謗で敵対する松岡氏弾劾」を拝受いたしております。

折り返しメール差し上げましたように、ちょうどその頃、小社創業50周年記念出版(『一九六九年 混沌と狂騒の時代』。内容は別途広告参照)の編集・製作作業に追われ再返答の猶予を要請し失礼いたしました。お陰様でそれも16日に校了いたしましたので、あらためて戸田さんの「見解」を熟読しそれに再返答させていただきます。

[1]時系列の整理

かなり時間が経ってしまい、議論自体が消滅してしまった感がありますので、まずは時系列を整理しておきます。

・5月23日 「【カウンター大学院生リンチ事件】前田朗教授の豹変(=コペルニクス的転換)に苦言を呈する! 鹿砦社代表 松岡利康」(http://www.rokusaisha.com/wp/?m=20190523)を「デジタル鹿砦社通信」に掲載。

・6月9日 戸田さんから松岡に対して「弾劾質問状」が届く。回答期限が6月30日とされていた。

・戸田さん要求の期限の6月30日松岡回答。同時に戸田さんに対して「ご質問」で、戸田さんが求めた期限同様3週間後の7月21日(日)までの回答を要請。7月1日 松岡デジタル鹿砦社通信に、「戸田ひさよし前大阪門真市議からの『弾劾質問』に回答します! また、私からの『ご質問』にもお答えください! 鹿砦社代表 松岡利康」(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=31283)掲載。

・7月11日 戸田さんから回答期限延期の申し入れ(1回目)。

・8月28日 戸田さんから再度の回答期限延期の申し入れ(2回目)。

・9月15日 戸田さんから3度目の回答延期申し入れ(3回目)。

・9月17日 戸田氏から回答(→9月19日修正版)届く。

このように私は戸田さんに要請された回答期限を守りましたが、戸田さんからは3度にわたる「回答延期の申し入れ」がありました。しかし、誰にも忙しい時期や手を抜けない仕事というのはあるものです(私もこのかん、そのような仕事に取り組んでいました)。戸田さんからの回答延期要請は「よほど大切なことでお忙しいのであろう」と思慮し、あえて問題にはしませんでした。戸田さんからのメールには「ちなみに、今回の『戸田都合による対応遅れ』に関して、松岡氏が戸田をどのように批判しようとも、それは松岡氏の自由に属する事だと、私は認識しております」(7月11日メール)との謙虚な見解表明もありましたが、前述の通り誰にでも「事情はある」との考えから、戸田さんの回答延期要請を受け入れました。

次いで8月28日には2回目の回答延期要請が戸田さんから届きました。その中で戸田さんは、「鹿砦社・松岡代表へ。私は下記の7/11発信メールで、『最も遅くとも8月下旬までの見解表明』、と言明しましたが、諸般の事情で、どうしてもそれがかなわなくなり、『9/15までには必ず』、と延期せざるを得なくなりましたので、ご連絡させていただきます。『これが最後の延期』であり、今度こそは必ず期限を守りますので、ご容認下さい。

なお、7/11メールに書きましたように、『戸田都合による対応遅れ』に関して、松岡氏が戸田をどのように批判しようとも、それは松岡氏の自由に属する事だと、私は認識しております。」と書かれていました。2回目の延期要請ということで、私には回答期限を区切っておきながら、少々自分の事情を戸田さんは優先しすぎるのではないか、との想いもありましたが、懇願調の文章をあげつらうのも大人げないと思い、再度の回答延期も受け入れました。

さすがに9月15日には戸田氏から回答を頂けるであろうと思っていましたが、9月15日当日になり、3度目の回答延期要請が来ました。言論の基本的なルールに立てば、みずからが最初に議論を提起し、その回答期限を設けたのですから、相手(この場合私です)の質問にも、同様に対応するのがルールではないでしょうか。

それでも、何回も繰り返しますが、人には絶対に外せない仕事や事情が、時としてあるものです。私は2回目の回答延期要請までは戸田さんの要請を、黙って甘受しましたが、さすがに3度目になると少し穏やかな気分ではいられませんでした。考えてもみてください、もし私と戸田さんの立場が逆であったら、私が1回目の「回答延期要請」するや、戸田さんは私を非難したのではないでしょうか(そのように感じさせるトーンの文面があります)。

[2]遅れに遅れて届いた「見解」──それでいて、私に対し「今後相手にしない」、「デタラメ主張する人物からの『質問』に回答する事もしない」との宣言はいかがなものでしょうか?

このような経緯を経て届いたのが、今回の戸田さんからの回答です。小社創業50周年記念本が校了し、あらためて熟読すると、回答内容は3度の延期(2カ月間)を私に強いたものとは思えない、誠に酷い内容です。戸田さんは私の質問にほとんど答えていません。それどころか、

《【5】愚劣な腐敗を進める鹿砦社・松岡氏を爾後相手にせず!私は私の信頼する仲間と共に進むのみ。
(1)この間、「カウンター大学院生暴行事件」を巡る松岡氏と前田先生の論議を見てきたが、私には圧倒的に前田先生の主張が腑に落ちるし、人間としての信頼感も絶大である。盟友の趙博氏にしても仲岡弁護士にしても断然信頼出来る仲間であり、その友誼は変わらない。
(2)逆に「6/30回答」によってその腐敗性が明らかになった松岡氏については、今後相手にしない。当然にもこれほどまでにデタラメ主張する人物からの「質問」に回答する事もしない。
(3)この「9/17戸田見解」に対して松岡氏がどのように対応しようとも自由であるが、私への新たな攻撃がなされた場合は、当方のやりやすいやり方で断固として反撃追及する。
(4)当方の「6/10弾劾質問状」記載の<「デジタル鹿砦社通信:5/23」における戸田に関してのデマ誹謗の記述を撤回、謝罪されたい。>という要求は、今後も継続する。~「ヘイト加担公務員N追及配転要求」が「公務員いじめ・迷惑行為・業務妨害である」というデマ~
(5)鹿砦社・松岡氏は、「6/30回答」で展開した愚劣で反動的な諸々の主張を撤回し、真摯な反省の姿勢を示せ。 
(6)ヘイト問題については、「ヘイトを許さない社会づくり」のための全国各地での実践や論理を鹿砦社組織として一から勉強した上で、適切有効な取材・報道が出来るように努力せよ。》

と、一方的に私(及び鹿砦社)を非難した挙句、「逆に『6/30回答』によってその腐敗性が明らかになった松岡氏については、今後相手にしない。当然にもこれほどまでにデタラメ主張する人物からの『質問』に回答する事もしない」と言い切っておられます。

戸田さん、いくらなんでも、紳士的に回答の延期を2カ月遅らせることを了承した相手に、「これほどまでにデタラメ主張する人物からの『質問』に回答する事もしない」とは失礼の度を越していませんか? 回答に窮して一方的に議論を打ち切られた前田朗教授と同じですね。

仮に私をそのように見なしているのであれば、2カ月も回答を延期せず「あなたとは今後一切のやり取りをしない」と直ちに通告いただければ済んだ話ということになりはしませんか? 私は末節で意見の違いがあろうとも、戸田さんとの議論の中で「反差別」とはいかにあるべきか、を深めたいとの想いもあって公開の討論を受けたのです。それを一方的に私(鹿砦社)を罵倒し尽くして、「『質問』に回答する事もしない」は、完全に言論のルール違反です。そうではないですか?

戸田さんのご回答は、私が質問した8項目のうち、「ご質問2」にしかお答えいただいておりません。「ご質問2」について戸田さんが、どのようにお考えかは理解しました。N氏に対する人物評価と、戸田さんの取った行動についての見解が、私と戸田さんとでは異なることは確認できました(戸田さんは大阪で「在特会」と思われる集団から、酷い暴行を受け、眼鏡を損傷されたご経験がおありであることを承知しています。あのような暴徒は私も断じて許せませんし、戸田さんが当時お感じになった、差別的暴徒への怒りも理解できます。

しかしながら、戸田さんが職場(児童相談所)を訪問されたN氏は、街頭で差別言辞を振りまく行動に参加したことのある人物ではありません。彼は在特会を明確に嫌悪しています。集団暴行と言っても差し支えないほどの酷い襲撃を経験なさった戸田さんが「街頭での明確な差別行動」に怒りを感じることには、私も共感します。でもN氏は保守的な考えの持ち主(時に差別的ととらえられることもあるでしょう)ですが、あくまでも、ネット上で自身の意見を開陳しているだけの人物です。私は、戸田さんがサイトで書かれたN氏へのイメージからコワモテの方と思っていましたが、裁判傍聴でたびたび会って話すと、まさに人の好い下級地方公務員でした。

そのような人物の職場に、戸田さんともあろう方が遙々赴く必要があったのかとの疑問は依然変わりません。戸田さんが嫌う“弱い者いじめ”としか私には思えません。戸田さんのような大物が訪問するのであれば、日本会議や神社本庁、あるいは首相官邸など、もっと明確に差別意識、及び権力を保持した対象があったのではないでしょうか。

他の質問についても「公開」の議論を相互に承諾したのですから、是非お答えいただきたい。繰り返しますが私は、戸田さんの要請を受け入れ期限から2カ月(6月30日に「ご質問」を発して2カ月半)も待ったのですよ。

[3]私が借金で訴訟沙汰になったとのデマに対しては厳重に抗議し明確な説明と撤回と謝罪を求めます!

特に、絶対にお答えいただかなければならないのは、

《ご質問3: 6月1日の戸田さんのサイトで、「『松岡氏の旧ブント仲間OBからの借金踏み倒し事件』を戸田が信頼する複数の被害関係者から話を聞いて」「『借金事件』は裁判になったけれども、原告(貸した側)が(不当に?)負けた」云々とありますが、この原告の名前、裁判所、事件番号を明らかにしてください。》

です。はっきり申し上げますが、これは事実無根の極めて悪質な名誉毀損です。この質問に対し戸田さんは「恫喝をかけてくる始末である」と述べられていますが、果たしてそうでしょうか?

この際、他の質問項目は度外視しましょう。戸田さんは明確に《松岡氏の旧ブント仲間OBからの借金踏み倒し事件』を戸田が信頼する複数の被害関係者から話を聞いて」「『借金事件』は裁判になったけれども、原告(貸した側)が(不当に?)負けた」》と記載されましたが、そのような事実はないのです。私の質問は「恫喝」でもなんでもありません。これがいかに重大な名誉毀損(鹿砦社に対しては「営業妨害」)に該当するかは、長年市会議員をなさってきた戸田さんであれば、おわかりでしょう。

現在警察をはじめ権力が「関西生コン」に対しでっち上げ弾圧をしています。でっち上げとは「事実のないこと」です。「関生」へのでっち上げ弾圧を糾弾する戸田さんが、私(と鹿砦社)に対して、非常に悪辣なでっち上げを明言されました。しかも戸田さんはそのことについて一切お答えにならない。

最後通告です。私(たち)はいたずらに、問題を係争案件にはしたくありません。ですから、

《ご質問3: 6月1日の戸田さんのサイトで、「『松岡氏の旧ブント仲間OBからの借金踏み倒し事件』を戸田が信頼する複数の被害関係者から話を聞いて」「『借金事件』は裁判になったけれども、原告(貸した側)が(不当に?)負けた」云々とありますが、この原告の名前、裁判所、事件番号を明らかにしてください。》

についてだけは、真摯な説明と撤回と謝罪を要求します。この件だけですからすぐに答えることができるでしょう、回答期限は10月31日とさせていただきます。

この件については、事実無根(悪質なデマ)ですから、戸田さんには、明確な説明責任があります。戸田さんが本件について、撤回と謝罪を明確にしていただければ、私はこれ以上戸田さんを追及するつもりはありません。考え方の違い、感性の違いといった問題ではなく、ことは重大な名誉毀損なのです。真摯なお答えをお待ちいたします。

[4]戸田さんが連携する人たちによるヘイトスピーチ、ヘイト行為について戸田さんのご意見をお聴きしたく存じます!

もう一つ、いい機会ですから、これは質問項目にはありませんが、ぜひお聴きしたいと思います。

戸田さんは今回の「9・17見解」において、私が「反ヘイト」分野になると「歪んだ判断と行動になってしまう」と批判されています。とんでもありません、私は原則的にいかなる差別にもヘイト行為にも反対しています。似非反差別主義者や似非反ヘイト主義者とは違い、いわば「左」からの差別やヘイト行動をも批判しています。

例えば戸田さんが連携する「カウンター/しばき隊」に私が疑問を覚えたのは、彼らによる、韓国から母子で研究に来日している鄭玹汀(チョン・ヒョンジョン)さん(当時京大研修員)に対する激しいバッシングでした。さらに公立病院に勤める在日の金剛医師に対する攻撃、これは、あろうことか勤務先の病院にまで複数の人物によって激しい電凸攻撃がなされました。ことは人の生死に関わる病院ですよ、これをやった者らに「人権」という思想はないのでしょうか。戸田さんは当然、鄭さんや金医師に攻撃をやった者らを「お前ら、何をやってるんだっ!」と一喝し批判されますよね? 鄭さんや金医師は、差別主義者でも極右・ネトウヨでもレイシストでもありません。鄭さんや金剛医師への口汚い言葉こそ、言葉の真の意味でヘイトスピーチですし、そうした行為こそヘイト行為ですので、私はこのカウンター/しばき隊によるヘイトスピーチやヘイト行為をやった者たちを実際に批判しています。戸田さんが「反ヘイト」をおっしゃるのであれば、戸田さんが連携している者らによるヘイトスピーチ、ヘイト行為を人間関係とは関係なく批判されますよね? 私には戸田さんがカウンター/しばき隊によるヘイトスピーチ、ヘイト行為を批判されているのを見たことがありません。もし過去にカウンター/しばき隊メンバーの言動を、戸田さんが批判された事例があれば、その部分をご教示ください。

誰にでも勘違いや間違いはあります。無意識に差別的な言動を行う可能性は、私にも戸田さんにもあります。世界には私たちの知らない価値観が無限に存在するのですから。そういった場合には、いきなり人格否定ではなく、当該「行為」を批判すべきだと考えますがいかがでしょうか?  

以上 

◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇

【関連記事】
◎松岡利康「戸田ひさよし前大阪門真市議からの『弾劾質問状』に回答します! また、私からの『ご質問』にもお答えください!」(2019年7月1日付け本通信)

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8月28日、大阪市北区のライブハウス「バナナホール」で、大阪では初となる新しいメンバー(6代目)による「ネーネーズ」のライブが行われた。8月10日に4人のメンバーが揃ったばかりの「お披露目ライブ」。東京(25日)、名古屋(27日)に次いで、新メンバーによるツアーは「バナナホール」で、満員の観客に迎えられた。私も鹿砦社代表・松岡と連れ立って駆けつけた。

「ネーネーズ」のみなさん(といっても新メンバーが3名なので、上原渚さんとだけだが)と鹿砦社は、昨年台風で中止になったが、鹿砦社代表・松岡の高校の同級生・東濱弘憲さん(故人)がライフワークとして始め、意気に感じた鹿砦社もこれに協賛し熊本で10回(実質9回)行われた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」でご縁があり、実は4月に上原さん以外のメンバーお二人が「卒業」された同じく「バナナホール」でのライブでもお目にかかっていた。

第5代のメンバーの「卒業ライブ」では、本番前に特別にインタビューをお許しいただいた。その時はみなさんインタビュー中から、涙が止まらず、お伝えするのが、やや心苦しかった。貴重な時間は記録としてではなく、記憶として留めさせていただくこととした(独り占めの贅沢をお許しいただきたい)。

ライブ前の6代目メンバーと鹿砦社代表・松岡

鹿砦社代表・松岡からのプレゼント

今回も4月同様、リハーサル終了後、ライブ開始までの間に、取材・インタビューの時間を頂いた(お忙しい中貴重な時間を割いていただいた、メンバーのみなさん、知名社長、ありがとうございました!)。リハーサルはほとんどメークなしで、楽曲の出だしのタイミングや、モニタースピーカーのバランスのチェックが行われるだけで、若いながら新しいメンバーの、落ち着きぶりが印象的だった。

リハーサルが終了しインタビューに入る前に、気遣いの男・松岡がこの日のために注文していたクリスタルの豪華な置時計(新生ネーネーズスタートを祝す刻印入り)と『島唄よ、風になれ!』(特別限定紀念版)を4人全員にプレゼントすると、硬かった表情が緩み、予想外のことにみなさん驚き喜んでくださった。

舞台上では落ち着いている新メンバーであるが、近くでお会いしてお話を伺うと、やはり10代、「新鮮さ」が際立つ。「取材慣れ」していない言葉と表情。こちらのピンボケな質問に、何とか答えようと一生懸命になって頂いている姿が、とても印象的だった。

仲里はるひさん(19才)、宜野湾市出身、沖縄県立芸大
与那覇琉音さん(16才)、名古屋市出身、高校生
小浜 凛さん(17才)、名護市出身、高校生

リハーサルで、新メンバーの中もっとも存在感を感じた仲里はるひさんは、幼少時より、お爺様から三線を習っていたそうだ。大学で舞台製作の勉強をしている。

仲里はるひさん

小濱凛さん(左)と与那覇琉音さん(右)は共に高校生

小浜凛さんも三線を早くに始め、「いずれこの道に進みたい」と希望していたそうだ。名護市出身ながら高校は、那覇の高校に進学し、「ネーネーズ」がいつもライブを行う、国際通りのライブハウス『島唄』でアルバイトをしていた。黙っているとおとなしそうに見える小浜凛さんだが、ライブが始まってからの落ち着きと存在感からは、ただならぬ才能を発揮していた。

与那覇琉音さんは、中学生まで名古屋に住んでいた。沖縄出身のご両親のもとに生まれた彼女は、やはり幼少時より三線の練習に励むだけでなく、「ネーネーズ」の名古屋でのライブにご両親に連れられ、何度も通ってファンになった。そして沖縄の伝統文化が学びたく、高校進学で沖縄にやってきた。

一方、新メンバーを迎える上原渚さんは、「10代のメンバーを迎えて、新鮮です。私自身は変わっていないけど、メンバーを育てることや、自分自身のこと(上原さんは妊娠7か月だ)。やることがいっぱいです」と余裕の表情だ。

威風堂々の上原渚さん

新しいメンバーに目標を質問した。「お客さんに元気や感動や『頑張ろう』と思っていただけるような、心を伝えたいです」(与那覇琉音さん)。「初代『ネーネーズ』を超えたい、という気持ちがあります」(小浜凛さん)。

10代の二人から、大きな答えが返ってきた。

大阪には「ネーネーズ」の実質的なファンクラブのような方々がいる。下手をすると、新メンバーが生まれる前からのコアなファンも少なくない。5代目のメンバーをして「大阪のお客さんは特別です。こっちより力が入っている」と言わしめた浪速のファンは、数だけでも4月よりかなり多く、満席だった。そして、「ネーネーズ」を長年聞きなれた方々やわたしたちを、6代目のメンバーは、予想以上の完成度と伸びしろへの期待で、「これがまだ正式結成ひと月未満の人たちのハーモニーか」と、事前のちょっとした不安を払しょくしてくれた。

「黄金(こがね)で心を捨てないで。黄金の花はいつか散る。ほんとうの花を咲かせてね」――名曲『黄金の花』で、この日のライブを締め括った。まさに「お披露目」の10代の3人は、一度も間違わず、ソロの曲の時も、堂々と歌ってくれた。

あと数か月したら、産休に入らなければいけない上原渚さんも、きっと安心して若い3人に不在の期間を任せられるだろう。それほどに泰然としたライブであった。

新生「ネーネーズ」、関西のファンの前に初登場!

◎ネーネーズ便り https://nenes.ti-da.net/

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

 

「反差別」運動のリーダー・李信恵氏が批判者に対して言い放ったツイート

「鹿砦社はクソ」「クソ鹿砦社」などと、「反差別」運動のリーダーが口にするとは到底思えない汚い言葉で私たちを攻撃してきた李信恵氏に対して、鹿砦社は李信恵氏を名誉毀損で提訴しました。裁判の終盤になって李信恵氏が「反訴をしたい」と、突如表明しましたが、これが認められずに別個の訴訟となりましたので、私たちは前者を「対李信恵第1訴訟」、後者を「対李信恵第2訴訟」としています。

李信恵氏自身の汚い言葉は日毎にエスカレートし、さらにこれに付和雷同する者らも続出して来ており、これ以上放置していては取引先などへの悪影響も出かねず会社の名誉が著しく毀損されると、小なりと雖も会社の経営者としては日々心配が募っていました。

これ以前にも李信恵氏らは、彼女に批判的な人たちに対して、職場に内容証明を送ったり電凸攻撃したりして、職場にいづらくする手法を取ってきました。これにほとんどの人たちは訴訟で対抗することもなく、いわば泣き寝入りしてきました。普通の人が訴訟ひとつ起こすことは大変なことですから。

例外的に不当な攻撃に立ち向かったのは、公立病院に勤める金剛(キム・ガン)医師、四国の自動車販売会社を経営する合田夏樹社長らがおられます。人の命を扱う病院の秩序を乱すような電凸攻撃など、日頃「人権」を語る者として疑問がありますし、合田社長に対しては、メーカーの本社などにも電凸攻撃が激しかったとのことで、普通なら取引停止にもなりかねません(合田社長の会社は販売実績が良かったのでこれを免れたそうです)。さらには国会議員の宣伝カーを使った自宅訪問(未遂?)までありました。

 

李信恵氏の仲間で、M君リンチの場にもいた伊藤大介氏による恫喝

鹿砦社に対する誹謗中傷は、もうしばらく泳がせていたら、もっと証拠は集まったでしょうが、気が短い私は、到底待つことはできませんでした。「警告書」を送っても馬耳東風で止む気配はありませんでしたし、代理人の神原元弁護士から開き直ったような回答が来るほどでした(神原弁護士の回答が血の通ったものであったなら、おそらく提訴は思いとどまっていたでしょう。李信恵氏らカウンター界隈の人たちは、一神教のように神原弁護士に頼る傾向があるようですが、これは考え直したほうがいいのではないでしょうか)。

やむなく2017年9月28日、大阪地裁に300万円の賠償金と謝罪(広告)を求めて提訴した次第です。

さすがに提訴したことで少しは懲りたのか、鹿砦社に対する誹謗中傷は鎮まってきたようでした。私たちは訴訟を起こす資金的、精神的余裕もありましたが、仕事や生活に追われる普通の人はそうもいきません。

2019年2月13日、大阪地裁第13民事は、李信恵被告の不法行為/名誉毀損を認め賠償金10万円を言い渡しました。鹿砦社の勝訴、李信恵被告の敗訴です。金額は小さくとも李信恵被告の不法行為/名誉毀損を裁判所が認定した意義、それまで「正義は勝つ!」と豪語し「法律しばき」などと放言してきた神原元弁護士らに一泡吹かせた意義は大きいと見なしていますし、そうしたことによって彼らなりに“反省”(しているでしょうか?)し少しは暴言を自粛するようになったのであれば、所期の目的は果たされたと言っていいでしょう。

「李信恵という人格の不可思議」(『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアより)

 

何が「極左の悪事」やねん!? 李信恵氏代理人にしてしばき隊の守護神・神原元弁護士によるツイート

残念ながら不法行為/名誉毀損を認められなかった部分の認定と賠償額増額を求めて鹿砦社は大阪高裁に控訴し、また李信恵氏も逆転勝訴を求め控訴、つまり双方控訴という形になりました。

李信恵氏は一審を舐めてかかっていたようで、一度も出廷せず、いったん承諾した本人尋問を翻意、陳述書も出しませんでした。さすがに控訴審では、結審ぎりぎりになって陳述書を出してきました(私は、これに対する反論も迅速に行いました)。そうして去る7月26日、大阪高裁は双方の控訴を棄却、つまり原判決維持の判決を下しました。すなわち鹿砦社の勝訴ということです。李信恵氏が上告するかどうかは分かりませんが、おそらく引っくり返ることはないでしょう。

先に上告棄却となったM君リンチ事件の訴訟は、獲得目標に至らず不満の残る内容ではありましたが、暴力に対して賠償金を裁判所が課す判決が確定したことで、明確なM君勝訴でした。これは集団暴力に対する訴訟でしたが、くだんの対李信恵第1訴訟は、いわば“言葉の暴力”=暴言に対する訴訟でした。これも鹿砦社勝訴です。裁判所の判断も、賠償額は小さいですが、李信恵氏らが決して清廉潔白ではないことに気づいてきています

李信恵氏らカウンター界隈の人たち、李信恵氏の代理人を務めている神原、上瀧浩子弁護士らも、「法律しばき」など品性のない言葉を使わずに、もっと理性的に動くべきではないでしょうか? ましてや「私怨と妄想にまみれた極左の悪事」などと私たちを侮蔑するのは、弁護士としての品位を著しく欠いていることは自明でしょう。

ところで、第1訴訟控訴審で李信恵氏は、一審では出さなかった陳述書を出してきました。さらに驚くことに、先日の第2訴訟では、意外にも李信恵氏本人が出廷してきました。第2訴訟の前にあった、李信恵氏が高島章弁護士を訴えた訴訟でも出廷し高島弁護士との直接対面があったようです(私は傍聴していませんが、傍聴した者の証言)。第2訴訟では、本人尋問も陳述書提出もあるかもしれません。望むところですが、第1訴訟をおざなりにして敗訴したことに懲りてのことだと推察されます。

李信恵氏に付和雷同して発信された仲間らのツイート(『カウンターと暴力の病理』巻頭グラビアより)

かつて鹿砦社は激しい裁判闘争で1億円以上のお金を遣い、(今話題になっている)大きな権威・権力に対して闘い存在感を示しました(ちなみに、最近、芸能界の奴隷契約について公正取引委員会が動き出しました。これは、鹿砦社刊行の星野陽平氏の力作『芸能人はなぜ干されるのか?』に公取委の職員が注目し、星野氏を呼んで勉強会を行ったりして今回の警告に繋がりました。7月26日付け本通信参照)。判例集に載っている判決もあります。

人は、お金の問題ではなく、闘うべき時には闘わないといけません。神原弁護士の言う「売名と集金」などではありません。今回の対李信恵氏との訴訟についても、最後まで全知全能、全身全霊で闘い、「反差別」に名を借りた不当な暴言・暴力に対して断固として立ち向かうことを、あらためて決意するものです。

(おことわり;M君の訴訟は広く多くの皆様方のカンパで最後まで闘うことができましたが、くだんの対李信恵第1、2訴訟は全額鹿砦社の資金で闘っています。1円たりともM君訴訟で集めたカンパを流用していません。あらためてお伝えしておきます)。

最後に、もうひとこと言わせてください。M君リンチ事件訴訟で、エル金こと金良平氏は、確定した賠償金を未だ支払っていません。M君を村八分にし「エル金は友達」などと騒いでいた人たちは金良平氏を助けないのでしょうか? あなた方の「友情」とはその程度のものですか? リンチの現場に同座していた李信恵氏らにも道義的責任、連帯責任があると考えますが、この期に及んで知らぬ存ぜずでは人間としていかがなものでしょうか?

7月26日大阪高裁近くにて

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

以下の文面は、あらかじめ『情況』編集部に諮ったり相談したりせず、あくまでも私松岡の責任で書き連ねた見解です。笠井、高橋両氏は、間違っても『情況』編集部をバッシングしないように申し告げておきます。あなた方の“圧力”自体が不当なのですから──。

『情況』創刊号(1968年)

◆『情況』創刊の意義と私の想い

私たちの世代にとって『情況』という雑誌は、何とも言えない郷愁もあり、これに寄稿することには、それなりの思い入れもあります。『情況』は、1960年代後半の叛乱の時代、70年安保―沖縄闘争、学園闘争、ベトナム反戦運動の盛り上がりを背景として1968年に「変革のための総合誌」を看板に創刊されます。

手元の創刊号を紐解けば、反日共系の活動家や知識人がこぞって、なかには森茂氏とか高知聰氏といった革マル派系の人たちも議論や寄稿に加わっています。それからまもなく、いわゆる内ゲバが激化すると、こういうことはできなくなります。

同誌は、その後活発な議論の場として発行を継続しますが、叛乱の時代が過ぎるや、長い苦しい“冬の時代”を迎えます。これを支えたのは、先頃亡くなった大下敦史さんでした。他人に言えないような大下さんのご苦労は、(内容は異なりますが)雑誌発行に携わる者として理解いたします。実は大下さんからは、病が発覚する前に、「『情況』は後の世代に任せ、私は資料編纂の仕事をやるので協力してほしい」との連絡があり、「喜んでお手伝いさせてください」と答えたところでした。

『情況』創刊にあたっては、多彩な人脈を動員するために初代編集長の古賀暹(のぼる)さんのご苦労は想像に絶しますが、他には稀有の哲学者・廣松渉先生(故人)らのご支援も忘れてはなりません。古賀さんによれば、──

〈明大闘争のあとやることがなくなってしまった。でも、このまま戦線から消えるわけにもいかない。何とかブントを支えつつも僕にしか出来ない別な道を行かないと格好がつかない。それでブントをはじめとする大衆運動の援護が出来るような雑誌、また理論誌でもあるような雑誌を出そうと思った。それが『情況』のはじまりです。でも雑誌を作るのは大変なんです。僕はまだ26、7歳だった。雑誌を作るには金がいるけど、金なんかありゃーせん。廣松さんにもそんな夢を話したな。そしたらある日、突然、廣松さんから電話がかかってきて「神保町の喫茶店に来い」という。出かけていったら、「雑誌の話はどうなった」と聞いてくる。「お金も集まらないし、雑誌なんて出せるわけがありません。冗談ですよ」と言うと、真夏だったんだけれど、いきなり廣松さんがワイシャツを脱ぎだした。冷房がきいている喫茶店の中で裸になるわけです。ワイシャツを脱ぐとサラシが巻いてあって、そこからポンと100万円。サラシから湿った100万円(笑)を出して「これは少ないかもしれないが、新雑誌発刊の一部にしろ」と言う。
 僕は「あれは夢を語ったに過ぎません。それに、具体的な計画や準備があるわけではありませんから、このお金はいずれ改めて拝借します」と、そのお金を辞退しました。しかし、廣松さんは「男がいったん出した金を引っ込めるわけにはいかない。このお金は僕の志だ。雑誌が出来ないなら好きなように遣ってくれ」と恰好よく言うので、それで僕は無理をしても『情況』をスタートさせようと努力しなければならなくなったんです。廣松さんは、本当、革命家だよね。その100万円は当時入った原稿の印税をみんな持っていったのではないかと、廣松さんの奥さんの邦子さんは言っていますが、それはびっくりしました。〉

『情況』最新号

当時大卒の初任給が3~4万円ほどで、100万円は、今で言えば500万円ほどになります。廣松先生は、著名かつ一流の哲学者ですが、私などにも目をかけていただき、私が出し始めた拙い『季節』という冊誌にも、座談会や寄稿などご協力賜りました。

廣松先生は、中学生時代から革命運動に加わり福岡・伝習館高校を退学、大検で大学受験の資格を取り、のちに東大に入られ、また山谷などにも出かけられていました。東京大学名誉教授が最後の肩書でした。

このエピソードは『情況』という雑誌の誕生と性格を考える際に、極めて重要だと思い長く引用させていただきました。私は、こういう経緯で創刊し継続してきた『情況』という雑誌を読んで、みずからの思想形成の一端としてきたのです。ですから、今回のような不当な“圧力”を許すことはできないわけです。

ちなみに個人的な話になりますが、私は70年代の終わりから80年代にかけて、みずからがやってきた運動と思想を総括しようと『季節』という冊誌を出しました。全部で15冊程度で終わりました。『インパクト』(のちにインパクションに誌名変更)や『噂の眞相』よりも早い創刊でしたが、幕を閉じるのも早く、また内容でも『情況』『インパクト』『噂の眞相』などの足元にも及びませんでした。

このようにして、私(たち)は『情況』という雑誌に、それなりの思い入れを持って読んできたのです。昨年、大下さん亡き後、再出発したいので出資を募るというので、有無を言わず応じたのでした。

◆『情況』今号発行直前の軋轢

さて、同誌前号(2019年春号)で初期の段階から「カウンター/しばき隊」に関わってきた高橋若木氏の論考「『三・一一後』とは別様に 新入管法と運動史の切断」と座談会が掲載されているのを見て、真正面から彼の論を批判するわけではないが、彼が関わってきた「カウンター/しばき隊」に因んで寄稿を編集者に申し込みました。

これまで畏れ多くも同誌に寄稿させてもらったことはなく(インタビューが1回ありますが)、私なりに考えあぐんで文章を書き連ね担当編集者に送りました。既刊(19年冬号)で、この通信でもお馴染みの田所敏夫の論評に対して、『情況』は前号で全面的に反論された方の原稿(小波秀雄「福島の現実は差別や偏見との闘いである」)を掲載しました。雑誌として当然のあり方です。ですから、私の拙稿も当然全文掲載いただき、くだんの「リンチ問題」についての議論がなされたらいいな、と思っていました。

『情況』前号で私の目に止まったのは、TOKYO DEMOCRACY CREW(だったのは過去のことで今はやめていると本人は言う)高橋若木氏の名でした。高橋氏が、野間氏や、仲間のbcxxxこと竹内真氏らと初期の「カウンター/しばき隊」の路線を確立したことは、その界隈の者なら誰でも知っている“公知の事実”です。さらには「鹿砦社の質問状からは漏れてたけど、重要人物の一人」「主水へのリンチ事件の二次加害者をランク付けしたらA級戦犯レヴェル」などという噂さえあります。

笠井潔氏

そんな者に、なんと16ページも割き、さらに笠井潔氏らとの座談会(14ページ)にも登場しています。破格の待遇ですが、おいおい、『情況』は「カウンター/しばき隊」の理論誌だったのか!?

これには、とりあえずはなんらかの異議は述べなくてはなりません。私は同誌の株主でもあり、このところ毎号巻末に1ページ広告も出広したりしてささやかに同誌継続に協力してきたつもりです。株主にも少しはページを割いてほしい……。

そうして書いた論評でした。確かに今号に4ページにわたり掲載されていますが、遺憾なことに前半部分がそっくりカットされています。

送稿後、同誌編集部は、事実確認のために高橋氏本人に連絡を取ります。当然です。しかし、高橋氏は、私たちが想像する以上に仰天したらしく、大騒ぎしたようです。師と仰ぐ(?)笠井潔氏にも連絡を取り、何としても私の原稿掲載を潰しにかかります。松岡のような悪質な「デマ」を振り撒く人物の原稿を載せるな、ということでしょうか。特に笠井氏は強く掲載に反対したようです。これには理由があって、その一つと察せられるのは、「しばき隊/カウンター」のドン・野間易通氏との関係でしょう。

笠井氏は、このところしばき隊のドン・野間易通氏と昵懇の仲になり、共著の新書(『3・11後の叛乱―反原連・しばき隊・SEALDs』)も出しています。これは分からないでもありません。私とても、野間氏が当初から参画する「反原連」(首都圏反原発連合)を誤認して評価し1年以上にも渡り、「広告代」名目で300万円余りの資金援助をしていたわけですから。私が野間氏や反原連などの呪縛が解けた経緯は、この通信でも再三述べていますので繰り返しませんが、笠井氏が、野間氏や反原連、しばき隊の呪縛から解かれることを祈ります。

古い話になりますが、笠井氏には、1985年に一度書籍に寄稿いただいています(「戦後ラディカリズムの現在」/『敗北における勝利』所収)。その直前に尼崎の集まりの場に呼ばれお会いしました。お会いしたのはこれ一度です(高橋氏には会ったことはありません)。

その後、諍いなどなく長らくご無沙汰してきましたが、今回、このような形で“再会”するとは思いもしませんでした。笠井氏は、私のことを熟知しているかのように仰っているみたいですが、私と笠井氏の接点は、1985年の寄稿一回切りでした。私がどこでどう「デマ」を振り撒いているか明らかにしてほしいですね。笠井氏ともあろう方が、こんなことで「デマ」だなんだとムキになり大騒ぎされるのはいかがなものでしょうか? 「デマ」だと仰るのなら、少しはご自身で調べられた上でのことでしょうね? 野間氏からの受け売りではないですよね?

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

リンチ事件について「カウンター/しばき隊」の人たちは「デマだ」「でっち上げだ」「リンチはなかった」「リンチではない」などと異口同音に言いますが、今回笠井氏らもそうですね。リンチ事件があったことを私たちは、綿密な取材・調査で5冊の本にまとめました。リンチの最中のおぞましい音声データ(CD)も付けていますし、リンチ直後の被害者の顔写真も公にしています。「デマだ」「でっち上げだ」「リンチはなかった」「リンチではない」などと言うのであれば、くだんの5冊の本に対する反論本なり反証本を出すべきではないですか? 笠井氏とあろう方ならドンと構えられたらどうでしょうか? 5冊の本を献本送付させていただきますので、斜め読みでもいいですから目を通してから「デマ」とか「リンチはなかった」とか仰ってください。

さらには、笠井氏か高橋氏か、ご両人ともか分かりませんが、私が同誌編集部を脅して寄稿を無理強いさせようとしているかのようにも仰ってもいるようです。私がいつ同誌編集部の方々を脅したのですか? いい加減なことを言わないでください。自分で言うのも僭越ですが、私も歳を重ね、最近では「仏の松岡」とか「好々爺」との評があり、他人を脅してまで寄稿を無理強いさせることなどありません。

そうこうしているうちに校了日が近づき、編集部も板挟みになり困っていましたし、私としても、これまで自社の出版物以外には、くだんの「リンチ事件」について報じるメディアもなかったことから、「不十分でもリンチ事件について明らかにできればいいではないか」と妥協し、前半部分のカットを了承したわけです。

高橋若木氏を大きく採り上げた朝日新聞(2014年9月13日)

高橋若木氏も、みずからに良い情況の時には、えらく元気ですが(別途新聞記事参照)、今回のような問題が起きれば、ビビッたのか自分で解決できず、年長の笠井氏に泣きつくなど、情けないぞ! 高橋氏はおそらく時流に乗って社会運動に加わり、さほどの苦労もなくのし上がったようで、今回のようにみずからにダイレクトに批判が来ると右往左往する程度の人物のようです。

また、笠井氏も、名も実績もある作家ですが、だからこそ「松岡の文章を掲載すれば、今後『情況』には協力しない」などと子どもみたいなことを仰るとは思いもしませんでした(笠井氏も野間氏と往復書簡をやるくらいですから、あえて厳しい物言いをさせていただきますが、“焼きが回った”ということでしょうか)。

さらに苦言を呈せば、『情況』編集部も、高橋氏や笠井氏らの物言いや圧力は、これ自体が不当なわけですから、「ピシャッ!」と跳ねのけていただきたいものです。

以上の記述は、『情況』編集部とのやり取りや外部情報などを勘案し書きました。事実誤認があれば訂正しますのでご指摘ください。また、笠井氏、高橋氏からの反論も大歓迎です。両氏には、私たちが足に豆を作り額に汗して調査・取材してまとめたリンチ関連本5冊を献本送付しておきますので、ご笑納いただき、少しは認識を改められ、私たちが言っていることが「デマ」ではないことを知っていただければ、と望みます。

*削除された前半部分を以下そのまま掲載しておきます。大騒ぎするほどのものですかね? 読者のみなさんはどう思われますか?

◆     ◆     ◆     ◆     ◆

松岡の論評(全4ページ)

〈本誌前号を紐解き驚いた。「しばき隊」の中心的グループTOKYO DEMOCRACY CREW(だった?)高橋若木氏に多くのページが割かれ、さらに笠井潔氏らとの座談会にも出席している。かつて笠井氏は黒木龍思のペンネームで、構造改革派の流れを汲み、新左翼党派では小規模セクトの部類に入る「プロ学同」(プロレタリア学生同盟。のちに赤色戦線)のトップで新左翼運動の一角を占めていた。ちなみに、先頃亡くなった『噂の眞相』編集長・岡留安則氏もこの党派に所属していた(本人談)。笠井氏は、のちに「マルクス送葬派」を自称した。最近では「しばき隊」トップの野間易通氏と昵懇のようで共著(『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・ SEALDs』)もある。
 さらに本誌前号には、反原発雑誌『NO NUKES voice』を発行し原発問題についての考え方や立場が私とは異なる小波秀雄氏の論考も掲載されており、「勘弁してくれよ。『情況』も様変わりしたな」と嘆息した。
 今回は、前号の高橋若木氏の論考に直接言及はせず、(後述するが)関西で、俗に「しばき隊リンチ事件」といわれる「カウンター大学院生リンチ事件」の被害者支援と真相究明に関わり、本誌の株主であり広告出広者でもある私としては一言呈しておかざるをえないということで本稿を寄稿する。

◆「しばき隊」とは何者か?

 高橋若木氏が活動の拠点としていたTOKYO DEMOCRACY CREWは「しばき隊」と総称される社会・政治運動勢力の中心を占め、高橋氏は、一時はしばき隊No.2とされたbcxxxこと竹内真氏や、今でもしばき隊の活動家とされるTAKUYAMAこと山本匠一郎氏らと共に、その主要人物だとされる。元しばき隊のメンバーによれば、「高橋さんや野間さんや竹内さんらとしばき隊の道筋を作った人です」という。TOKYO DEMOCRACY CREWはしばき隊の中心だったことは有名だが、本誌前号で高橋氏は「2015年夏まで」はTOKYO DEMOCRACY CREWのメンバーだったと自認している。
 竹内氏はやがて個人情報晒し事件(はすみリスト事件)の責任を問われ離脱に追い込まれるが(2015年秋)、その際にTOKYO DEMOCRACY CREWも解散したのだろうか? 現在高橋氏は入管問題に関わっているということだが、2015年秋以降から現在はどうだろうか? しばき隊との関係はどうか? リンチ事件が明らかになるや、「俺は(カウンターやしばき隊と)関係ない」とシラを切る者も多いが、そうではないだろうね?〉

◎小見出し(「しばき隊とは何者か?」)はそのままで、その前後の文章が削除されています。

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 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

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鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

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