私はこれまで数多くの殺人犯を取材してきたが、取材させてもらった人物がのちに殺人犯になったという経験も1度ある。木原武士(事件当時42)という人物で、2003年に起きたフリーライター殺人事件の主犯格である。木原とは20年近く前に一度会っただけだが、その時のことは今も忘れがたい。

被害者の染谷悟さん(筆名=柏原蔵書)の著書『歌舞伎町アンダーグラウンド』(ベストセラーズ2003年)

◆インタビュー取材のために訪ねたが……

この事件の被害者・染谷悟さん(同38)は、柏原蔵書(くらがき)という筆名で「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著書があるフリーのライターだった。2003年9月、その刺殺体が東京湾で見つかり、ほどなく都内で鍵会社を経営する木原が2人の共犯者と共に検挙された。主犯格の木原は裁判で2006年に懲役16年の判決が確定したが、染谷さんを殺害した動機は、染谷さんが自分を誹謗する本を出版する計画だと聞いたことなどだとされる。

私がそんな木原に取材させてもらったのは、事件の数年前のことで、たしか1998~1999年頃だった。当時はピッキング被害が続発していた時期で、木原は「防犯アドバイザー」のような形でマスコミに頻繁に登場し、ちょっとした有名人だった。当時20代後半だった私は月刊誌の仕事で、そんな木原の元に成功体験を語ってもらうインタビュー取材に訪ねたのだ。

だが、実を言うと私はこの時、木原のもとに取材に訪ねながら、結果的に何も取材せずに記事を書いてしまったのである。というのも、私はこの日、下調べをほとんどしておらず、木原に対して要領を得ない質問を繰り返した。そんな私に苛立っていた様子の木原はこう言って、過去に取材を受けた雑誌記事のコピーを差し出してきたのだ。

「これを見て、書いてよ。よく書けている記事だから」

本当にその記事をほぼ丸写しにする形で原稿を書いた私もいい加減なものだが、木原は逆らわないほうが無難そうに感じさせる人物だった。

◆面倒見や金離れは良さそうだが……

そんな感じで木原への「取材」は10分程度で終わり、1時間かそこら四方山話をしたのだが、木原からは若い頃に派手に儲けた話や派手に遊んだ話を色々聞かされた。そして適当に話を合わせていたら、木原は「君は27歳か。いいなあ」と、こんなことを言い出したのだった。

「君は今、何をやっても楽しいだろう。俺も27くらいの時はそうだった。30代半ばを過ぎると、いくらお金があっても感動できなくなるんだよ。今、俺が君と替われるんだったら替わりたいもん」

当時は金回りが良かったとされる木原が人生に少々退屈している様子が窺えた。

被害者の染谷さんは元々、木原と良好な関係で、木原から金を随分引っ張りながら裏切り行為を続けて殺害されたように伝えられている。振り返れば、たしかに木原は「面倒見や金離れが良さそう」「怒らせると怖そう」という両方の雰囲気を感じさせる人物で、事件後の報道は得心できるものが多かった。

私は今もたまにこの時の木原の様子を思い出すが、そのたびに下手なことはしないでよかったとつくづく思う。と同時に、46歳になった今の私は、私の若さを羨んだ木原の当時の気持ちがわかるようになった自分に気づくのだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

重大な問題の答えが目の前にわかりやすく示されていると、人は案外、その答えを素直に信じられないものである。「こんな重大な問題の答えが、まさかこんなにわかりやすく示されているとは……」と妙な疑心暗鬼に陥ってしまうからである。

私が取材している冤罪事件の中にも、そのような状況に陥っている事件がある。無実の人が死刑執行された疑いが根強く指摘されている、あの飯塚事件がそれである。

◆無罪の立証に苦労を強いられているが……

1992年に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が何者かに殺害された飯塚事件で、殺人罪などに問われた久間三千年さん(享年70)は、捜査段階から一貫して無実を訴えていた。しかし2006年に最高裁で死刑が確定し、2008年に収容先の福岡拘置所で死刑を執行された。久間さんは当時、再審請求を準備中だったという話は有名だ。

そんな久間さんが冤罪を疑われる一番の理由は、あの「足利事件」との共通性である。

1990年に栃木県足利市で4歳の女の子が殺害された足利事件では、当時は技術的に稚拙だった警察庁科学警察研究所(科警研)のDNA型鑑定のミスにより、無実の男性・菅家利和さんが犯人と誤認されて無期懲役判決を受けた。久間さんも菅家さんと同時期、科警研のほぼ同じメンバーが行ったDNA型鑑定を決め手に有罪とされているため、鑑定ミスによる冤罪を疑う声が後を絶たないわけだ。

だが、久間さんの場合、科警研がDNA型鑑定に必要な試料を全量消費しているため、菅家さんのように再鑑定で冤罪を証明することはできない。そのため、現在行われている再審可否の審理では、弁護側はDNA型鑑定の専門家に科警研の鑑定写真を解析してもらったり、血液型鑑定や目撃証言を再検証したりするなど、無罪を立証するために多角的なアプローチをせねばならず、大変な労力を費やしている状態だ。

だが、実を言うと、久間さんの裁判で示された科警研のDNA型鑑定が間違っていたことは、すでに実にわかりやすく示されている。というのも、科警研のDNA型鑑定では、①足利事件の犯人、②菅家さん、③飯塚事件の犯人、④久間さんの四者のDNA型がすべて「同一」と結論されていたのだ。

◆科警研のDNA型鑑定では久間氏も菅家氏も「16-26型」

順を追って説明すると、こういうことだ。

足利事件、飯塚事件共にDNA型鑑定は、当時主流だったMCT118型検査という手法で行われている。その結果、足利事件の犯人、菅家さん、飯塚事件の犯人、久間さんの四者のDNA型はいずれも「16-26型」と判定されていたのだ。

ちなみにこのDNA型の出現頻度は、菅家さんの一審判決文では0.83%、久間さんの一審判決文では0.0170(1.70%)とされている。10の20乗分の1の精度で個人識別できるといわれる現在のDNA型鑑定に比べると精度はかなり低い。しかし、当時のMCT118型検査が本当にこの程度の精度で個人識別できていたとすれば、別人である菅家さんと久間さんのDNA型が一致し、さらに足利事件と飯塚事件の両事件の犯人まで同じDNA型であるという偶然が起こりうるだろうか?

そんな偶然が起きるわけがなく、これ1つとっても科警研のDNA型鑑定が間違っていたことは明らかだ。実際、足利事件のDNA型鑑定のほうはすでに間違っていたことが証明されているが、飯塚事件のDNA型鑑定だけは間違っていなかったということも考え難いだろう。死刑執行された人が冤罪か否かという重大な問題の答えは、かくもわかりやすく示されているわけだ。

久間さんの再審可否の審理は現在、福岡高裁で行われており、近く決定が出るとみられている。冤罪死刑により奪われた久間さんの生命は戻ってこないが、せめて一日も早く再審が実現し、久間さんの名誉が回復されなければならない。

久間さんの再審可否の審理が行われている福岡高裁

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

鹿砦社新書刊行開始!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』(総理大臣研究会編)

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

社会の注目を集めた殺人事件の犯人が裁判中に奇異な言動をしたことが報道されると、「刑事責任能力が無い精神障害者を装うための詐病」ではないかと疑う声があちらこちらでわき上がる。また、そういう大量殺人犯が実際に刑事責任能力を否定され、無罪放免になることを心配する人も少なくない。

だが、私の取材経験上、現実はまったく逆である。私はこれまで犯人の刑事責任能力の有無や程度が問題になった様々な殺人事件を取材してきたが、精神障害者のふりをしているように思える殺人犯はただの1人もいなかった。むしろ、明らかに重篤な精神障害を患っている殺人犯たちがあっさりと完全責任能力が認められ、次々に死刑や無期懲役という厳罰を科せられているのが日本の刑事裁判の現実なのである。

その中でも印象深かった殺人犯の1人が「大坂パチンコ店放火殺人事件」の高見素直だった。

現場のパチンコ屋があったビルの1階は事件後、ドラッグストアに

◆『みひ』や『マーク』への復讐だった……

高見は41歳だった2009年7月、大阪市此花区の自宅近くにあるパチンコ店で店内にガソリンをまいて火を放ち、5人を焼死させ、他にも10人を負傷させた。そして山口県の岩国市まで逃亡し、岩国署に出頭して逮捕されたのだが、犯行に及んだ動機については当初、次のように語っていると報道されていた。

「仕事も金もなく、人生に嫌気が差した」「誰でもいいので殺したかった」(以上、朝日新聞社会面2009年7月7日朝刊)

「誰でもいいから人を殺したいと思い、人が多数いる所を狙った」「やることをやったので、罰はきちんと受けようと思い、出頭を決めた。死刑しかないと思っている」(以上、読売新聞大阪本社版2009年7月8日夕刊)

こうした報道を見て、負け組の40男が起こした身勝手な事件だと思った人は多かったはずだ。だが、2年余りの月日を経て2011年9~10月に大阪地裁であった裁判員裁判で、高見は次のような「真相」を明かした。

「自分に起こる不都合なことは、自分に取り憑いた『みひ』という超能力者や、その背後にいる『マーク』という集団の嫌がらせにより起きています。世間の人たちもそれを知りながら見て見ぬふりをするので、復讐したのです」

重篤な精神障害を患っていることを疑わざるを得ない供述だが、このように高見が「超能力者の嫌がらせ」を訴えていることはほとんど報道されていない。そのせいもあり、当初はこの事件の取材に乗り出していなかった私がこのような高見の供述を知ったのはかなり遅い。高見がすでに一、二審共に死刑判決を受け、最高裁に上告していた頃、私はようやく一審判決を目にし、高見が法廷でこのような奇想天外な供述をしていたのを知ったのだ。

高見が出頭した岩国署

◆統合失調症だったと診断されても死刑

一、二審判決によると、高見は捜査段階から3度、精神鑑定を受けていた。その中には、高見が妄想型の統合失調症だと診断し、「善悪の判断をし、それに従って行動することは著しく困難だった」との見解を示した医師もいたという。

また、他の2人の医師も高見について、統合失調症だとは認めなかったものの、覚せい剤の使用に起因する精神病だと判定し、高見が「『みひ』や『マーク』のせいで、自分の生活がうまくいかない」という妄想を抱いていたのは認めていたという。

それでいながら高見は一、二審共に完全責任能力を認められ、死刑判決を受けていた。そのことを知った私は最高裁で、高見の上告審弁論が開かれた際に傍聴に赴いた。そこで弁護人が繰り広げた弁論は独特だった。

「いま、イスラム国が人質の首を斬り落とす場面の映像をユーチューブで見て、残虐だと思わない日本人はいません。それ同じで、いま、絞首刑が執行される場面の映像をユーチューブでアップすれば、残虐だと思わない日本人はいないはずです」

つまり、弁護人は絞首刑について、公務員による残虐な刑罰を禁じた憲法第36条に反すると主張したのだが、そのためにイスラム国を例に持ち出したのはわかりやすいといえばわかりやすかった。

◆「今もそばにいます」

そして弁護人は最後にこんなことを訴えた。

「先日、高見さんに接見した際、「『みひ』や『マーク』はどこにいますか?と尋ねてみたのです。すると、高見さんはこう答えました。『今もそばにいます』」

最高裁の法廷には被告人は出廷できないので、その場に高見はいなかった。そこで高見と実際に会い、本人の病状を確かめてみたいと思ったが、収容先の大阪拘置所で何度面会を申し込んでも、高見は一度も応じてくれなかった。ただ、弁護人の弁論を聞く限り、かなり重篤な精神障害を患っているのは確かだろう。

しかし結局、最高裁は2016年2月、犯行時の高見に完全責任能力があったと認め、上告を棄却して死刑を確定させた。「動機形成の過程には妄想が介在するが、それは一因に過ぎない」。それが最高裁の山崎敏充裁判長が示した見解だった。

このように重篤な精神障害者はどんどん刑事責任能力を認められ、厳罰を科されていく。それが日本の刑事裁判の現実なのである。

高見が死刑囚として収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

社会を騒がせた凶悪殺人事件の犯人と実際に会ったり、手紙のやりとりをしてみると、案外弱々しい人物だったり、礼儀正しい人物だったりすることが少なくない。数年前に何度か手紙のやりとりをした松戸女子大生殺害事件の犯人、竪山辰美(事件当時49)もそうだった。

もっとも、竪山の場合、大変礼儀正しい印象の手紙を書いてくる一方で、ある大きな「ズレ」を感じさせる人物でもあった。

◆「凶悪犯と思われても仕方ない」

「私の人物像は凶悪というほかないように描写されても仕方ないと思います。そう思われても仕方ない事件を起こしたのですから」

これは、現在は無期懲役囚となった竪山から4年ほど前に届いた手紙の一節だ。私が「報道などでは、あなたは凶悪というほかない人物であるように描写されているが、本当はどんな人物なのか取材させて欲しい」と手紙を出したところ、当時裁判中だった竪山は返事の手紙にこんな自省的なことを書いてきたのだ。

その手紙には、丁重な取材お断りの言葉が綴られ、私が手紙をやりとりするために送った切手シートが「お返し致します」と同封されていた。正直、この律儀さには感心したが、一方で竪山が凶悪殺人犯であるのもたしかだ。

竪山は2009年10月、千葉県松戸市で千葉大学4年生のA子さん(同21)が暮らすマンションの一室に押し入り、包丁で脅して現金5千円とキャッシュカードを奪ったのち、A子さんを刺殺。さらに証拠隠滅のために部屋に火を放った。

強盗や強姦の前科があった竪山は当時、1カ月半前に服役を終えたばかり。出所後はA子さんを襲う前も強盗や強姦を繰り返していた。千葉地裁の裁判員裁判では2011年6月、「更生の可能性は著しく低い」と断じられて死刑判決を受けたが、それも当然のことだと思われた。

だが2年後、竪山は東京高裁の控訴審で、殺害された被害者が1人であることなどを根拠に無期懲役に減刑され、再び世間を驚かせる。私が竪山に取材依頼の手紙を送ったのはその頃だった。

竪山が裁判中に勾留されていた東京拘置所

◆「殺意については、冤罪という気持ち」

私は竪山が死刑を免れ、安堵しているだろうと思っていたが、手紙には冒頭のような律儀な言葉と共に裁判への不満も綴られていた。

「解剖結果の鑑定そのものが間違いであるという他の医師の鑑定書があるにもかかわらず、それを控訴審は証拠として取り上げず、証人尋問すら却下されたのです。死刑が問われる事案でありながら、あまりにもずさんな裁判であったと思っています」

竪山によると、A子さんに対して殺意はなく、誤って刺して死なせたのが真相という。そのため、控訴審判決で解剖医の鑑定を根拠に殺意を認定されたことが不満らしかった。それにしても、死刑判決に不満を言うならまだしも、死刑を回避した控訴審判決に不満を言うとは、死刑判決を望んでいた被害者遺族が聞いたら激怒するのは間違いないだろう。

その後、インターネット上で配信されていた竪山の裁判に関する記事を送ったら、この時も返事の手紙に丁寧なお礼が綴られていた。一方で、「私にしたら殺意については、冤罪という気持ちです」という恨み言が改めて綴られており、私は複雑な気持ちになった。

私はこれまで様々な凶悪事件の犯人と会ってきたが、その中に「悪人」だとしか思えないような人物はいなかった。しかし、善悪の基準が現代の一般的な日本人とズレているように思える人間はたまにいる。竪山はその代表的な人物の一人だ。

竪山に死刑が宣告された千葉地裁。その死刑判決は控訴審で破棄されたが……

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

福島県郡山市で暮らす元介護施設職員の60代の女性が、強盗殺人事件の裁判員を務めて急性ストレス障害に陥ったなどとして、国に慰謝料200万円を求める訴訟を福島地裁に起こしたのは2013年5月のこと。この国家賠償請求訴訟は2016年10月に最高裁で女性の敗訴が決まったが、女性がこの訴訟の中で訴えていた重大な事実はほとんど報道されないままだった。

それは、「死刑」という結論を出した裁判員裁判の杜撰な評議の内幕だ。

◆血だらけの首の肉の部分を思い出し……

問題の裁判員裁判は2013年3月、福島地裁郡山支部で行われた。強盗殺人などの罪に問われた被告人の髙橋明彦(48)は、2012年7月に会津美里町の民家に侵入して住人夫婦を殺害し、現金やキャッシュカードを盗んだとして死刑を宣告された。その後、2016年に最高裁で死刑確定している。

国賠訴訟における女性の訴えによると、その裁判員裁判の審理では、血の海に横たわる被害者らの遺体を見せられたり、ナイフで刺された妻が消防署に電話で助けを求める声が再生されたりした。そのせいで女性は急性ストレス障害に陥ったという。

「血だらけの首の肉の部分を思い出し、吐き気がするため、スーパーでは肉売り場を避けて通ります」

「今もフラッシュバックは続き、血の海で家族が首に包丁を突き立てて横たわり死んでいる夢を見ます」

「音楽を聴いていると、音楽の代わりに被害者の断末魔の声がお坊さんの読経と一緒に聞こえてきます」

このように女性が国賠訴訟で訴えた被害は悲惨極まりない。それに加えて女性が訴えていたのが、死刑が選択された裁判員裁判の評議の杜撰な内幕だった。

事件の現場となった会津美里町の集落

◆死刑という結論は最初から決まっていた

「死刑判決を下したことに間違いはなかったのか、反省と後悔と自責の念に押しつぶされそうです」

女性は国賠訴訟に提出した陳述書で、そう訴えた。この陳述書では、たとえば次のような唖然とする話が明かされている。

「評議の多くの時間は、永山基準に沿って行われましたが、永山基準に関する具体的な説明はありませんでした」

永山基準は、最高裁が1983年に永山則夫元死刑囚(1997年に死刑執行。享年48)に対する判決で示した死刑適用の判断基準。動機や犯行態様、殺害被害者数などの9項目を考慮し、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとする内容だ。

しかし、普段裁判に関心のない人がそんなことは知らないだろう。本当に永山基準に関する具体的説明もないまま、永山基準に沿って評議がされたのなら、話についていけない裁判員もいたかもしれない。

また、陳述書によると、評議の際に裁判員に渡された用紙に、「1―犯罪の性質」から「9―犯行後の情状」まで永山基準の9項目がプリントされていた。女性はこのうち、「前科」という項目に疑問を抱き、裁判長にこんな質問をしたという。

「被告人には前科がありませんが、削除すべきではないですか」

しかし裁判長は、「前科の有無に関係なく、これだけ残虐なことをしたのだから」と言ったという。女性は陳述書で、この時の気持ちをこう振り返っている。

「裁判長の回答を聞き、この事件の結論は最初から決まっていて、『死刑判決』という軌道の上を裁判員が脱線しないよう誘導しているだけの裁判なのだと確信しました」

それ以降、女性は質問しても無駄と悟り、疑問があっても一切、裁判長に質問しなかったという。

「今考えると、自分の考えは(死刑判決の)どこに反映されたかわからない」

女性は陳述書でそう吐露している。急性ストレス障害と診断した医師からは「殺人現場や遺体に関する記憶は時間が経てば薄れるが、死刑判決を下した自責の念は一生消えない」と告げられたという。

髙橋明彦死刑囚が収容されている仙台拘置所。ここで死刑執行される可能性がある

◆マスメディアは知りながら報道しなかった

さて、この女性が起こした国賠訴訟はテレビや新聞で大きく報道されている。しかし、報道では、女性が被害者の遺体や殺人現場を見せられて急性ストレス障害に陥ったと伝えられた一方で、この国賠訴訟の中で女性が評議の杜撰な内幕をここまで詳細に告発していたことは伝えられてこなかった。それゆえにこの女性の告発を知る人は少ないはずだ。

かくいう私もこの女性の告発を知ったのは、すでに控訴審も終わっていた時期、仙台高裁で訴訟記録を閲覧したことによる。この時に驚いたのは、記録の末尾に綴じられた閲覧の申請書を見ると、テレビや新聞の記者たちがこぞってこの記録を閲覧していたことである。

つまり、テレビや新聞の記者たちは、女性が裁判員裁判で死刑判決が出るまでの杜撰な評議の内幕を告発していることを知りながら、報道を見合わせていたのである。

それはもしかすると、評議の内幕に関しては裁判員に守秘義務があることへの配慮なのかもしれない。しかし、裁判員経験者が評議の内幕を告発した国賠訴訟の記録が裁判所で「閲覧可能」の状態になっているということは、他ならぬ司法当局が裁判員裁判の評議の内幕を公開しているわけである。それを報道して悪いわけがない。

死刑判決が出た裁判員裁判において、評議がこれほど杜撰なものだったということは、むしろ報道しないほうが問題だと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

〈私の人生は、一言でいって、幸せでした。さいたまにいた10年間を省けば、私はいつも色々な方から優しくされ、助けられて生きてきました。そして、さいたまにいた10年間も、人生に後悔や未練を残さない為に、やりたい事を好きなだけ、やってきたので、大変満足しています〉

これは、2008年に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の犯人・小泉毅(54。現在は死刑囚として東京拘置所に収容中)が獄中で綴った計39枚に及ぶ手記の一節だ。これを書いた頃、小泉は裁判中だったが、1、2審共に死刑判決を受けており、そのまま死刑確定するのが確実な状況だった。そんな時期、小泉はなぜ、自分の人生が幸せだったと振り返ったのか。

犯行に及んだ経緯やその時々の考えが詳細に綴られた小泉の獄中手記

それをみる前に、まずは事件の経緯を簡単に振り返っておこう。

◆ 動機は「保健所で殺処分になった愛犬チロの仇討ち」

小泉が旧厚生省の事務次官宅を相次いで襲撃する事件を起こしたのは2008年11月のことだ。まずは17日夜、さいたま市南区の山口剛志さん(当時66)宅に押し入り、山口さんと妻の美和子さん(同61)を包丁で刺殺。続いて翌18日夜、東京都中野区の吉原健二さん(同76)宅に押し入り、1人で自宅にいた吉原さんの妻、靖子さん(同72)の胸などを包丁で刺して重傷を負わせた。

そんな事件は当初、年金制度に不満を持つ人物らによる「テロ」とみられたが、同22日に警視庁本庁に出頭して自首した小泉が明かした犯行動機は誰も予想できないものだった。

「チロちゃんの仇討ちをしたのです」

小泉によると、34年前、自宅で飼っていたチロという犬が野犬と間違われて保健所に連れていかれ、殺処分になったという。小泉はその恨みを晴らすため、犬の殺処分に関して定めた狂犬病予防法を管轄する厚生労働省の元トップを襲撃した――とのことだった。

そんな前代未聞の自白をめぐり、マスコミは当時、「本当にそんな理由で人の命を奪ったのか」と一斉に疑問を投げかけた。インターネット上では、小泉のことを頭のおかしい人間であるかのように揶揄する書き込みが相次いだ。

私はそんな小泉の実像が知りたく、裁判が上告審段階になった頃から東京拘置所に収容中の小泉と面会や手紙のやりとりを重ねた。そうした取材を通じ、小泉は善悪の基準こそ一般的な日本人と異なるものの、むしろ知的能力は高い人物だと思うようになっていった。

◆ 「仇討ち」に至る経緯と自首の理由

小泉は62年、山口県の柳井市で生まれた。愛犬チロが保健所で殺処分になる悲劇に見舞われたのは、中学入学直前の1974年春のことだった。その後、くしくも保健所の向かいにある県立柳井高校に進学したことが小泉の運命を大きく変えたようだ。

「高校時代の私は毎日、登下校の際に保険所の建物を見て、憎しみを募らせました。そして高2の時、チロちゃんの仇討ちを決意したのです。当初、仇討ちの相手と考えたのは政治家でしたが、大学入学後、日本の支配者が政治家ではなく官僚だと知りました。そして50歳まで普通に生き、人生にやり残したことがない状態にしたうえで、厚生事務次官経験者を狙った仇討ちを決行すると決めたのです」

実際に小泉が「仇討ち」を決行したのは46歳の時だ。小泉は当時、勤めていたコンピューター会社を辞め、ネットで株投資をして暮らしていた。計画を前倒ししたきっかけは05年12月、タクシーに接触された事故で左ヒザと右アキレス腱を負傷したことだという。

「私はこのケガにより体力に自信をなくし、『50歳になるまで待てない』と思い、仇討ちの時期を早めたのです」

そして小泉は国立国会図書館で歴代厚生事務次官たちの住所を調べ、その中から「住んでいたアパートから近い」などの理由で選んだ2人の家を襲撃した――。

では、なぜ、小泉は犯行後、自首したのか。小泉は理由をこう語った。

「私はチロちゃんの仇討ちは果たしました。次は裁判で無罪を主張することにより、保健所で苦しみながら殺された何百万、何千万の犬や猫の代弁者となり、“ペット虐殺行政”を批判しようと考えたのです」

小泉は裁判で「私が殺したのは、人間ではなくマモノとザコです」と主張し、無罪判決を求めているが、その狙いは“ペット虐殺行政”を批判することだったのだ。

と言われても、おそらくピンとこない人が少なくないだろう。しかし実をいうと、全国の動物愛護家の中には、この小泉の考えに共感した者が少なくなかったのである。

小泉が憎しみを募らせた柳井市の保健所

支援者たちは署名サイトでも小泉の減刑を求める署名を集めた

◆「小泉さんは革命者」

マスコミは黙殺したが、最高裁の判決が迫った頃、小泉を支援する動物愛護家たちが小泉の減刑を求める署名活動を行っており、集まった署名は1500筆を超えていた。14年6月、最高裁が小泉の上告を棄却し、死刑を事実上確定させた公判にも10人前後の支援者たちが傍聴に来ていたが、誰もが裁判の結果を心底悔しがっていた。

ある女性支援者は涙をポロポロこぼしながら、こう語っていた。

「小泉さんは革命者だと思います。将来、日本にも海外にあるような本格的なペットシェルター(飼い主に捨てられた動物を保護し、新たな飼い主を見つけるための施設)ができたら、私は“コイズミ館”と名づけたいと思います」

小泉はこのように多くの人に愛された。それゆえに、手記で自分の人生を「幸せ」だったと綴ったのだ。

死刑確定後、東京拘置所は小泉の処遇を変え、私は小泉と面会や手紙のやりとりができなくなった。だが、小泉は今も幸せな気持ちで過ごしていると思う。


◎[参考動画]元厚生事務次官ら連続殺傷事件 「ほかにも殺害計画していた」(TOKYO MX 2008年11月24日公開)


◎[参考動画]1990年11月23日にテレビ朝日が報じた元厚生事務次官宅連続襲撃事件(AutumnSnakeArchive2009年2月16日公開)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2009年に始まった裁判員裁判では、すでに30件を超す死刑判決が宣告されている。その中でも異様さが際立っていたのが、2011年に東京地裁であった裁判員裁判で無実を主張しながら完全黙秘した伊能和夫だ。伊能は2013年に東京高裁の控訴審で無期懲役に減刑され、2015年に最高裁で無期懲役が確定したが、控訴審以降も公判では一言も言葉を発さなかった。

しかし、私が裁判中に面会に訪ねたところ、実際の伊能はむしろ冗舌な男だった──。

伊能の裁判が行われた東京高裁・地裁の庁舎

◆無実の主張は本気?

事件の経緯から振り返っておく。

東京・南青山にあるマンションの1室で、住人の飲食店経営者の男性(同74)が首を刃物で切られ、死んでいるのが見つかったのは2009年11月のある日のことだった。そして翌年1月、警視庁が強盗殺人の容疑で検挙したのが当時59歳の伊能だった。伊能は88年に妻(同36)を刺殺し、部屋に放火して娘(同3)も焼死させた罪で懲役20年の刑に服しており、事件の半年前に出所したばかりだった。

伊能はその後、裁判員裁判で無実を主張しながら死刑判決を受け、控訴審で無期懲役に減刑されたが、公判では一言も言葉を発せず、完全黙秘したというのはすでに述べた通りだ。私がそんな伊能の実像を知りたく、収容先の東京拘置所まで最初に面会に訪ねたのは、伊能が最高裁に上告していた2014年3月のことだった。

伊能はその日、紺色のスウェット上下という姿で面会室に現れた。白い頭髪を短く刈った小柄な人物だった。

お互い椅子に腰かけ、アクリル板越しに向かい合っても、伊能は宙を見たまま視線が定まらず、体をプルプルと震わせていた。顔はやせ、歯が何本も欠けており、眉毛も多くが抜け落ちていた。

「パーキンソン病なんです……」と伊能は言った。面会室での伊能はつぶやくような話し方をするため、声は聞き取りづらいが、その口からは言葉が次々に出てきた。

まず、単刀直入に裁判中の事件の犯人なのか否かを質問したところ、伊能は「全部やってないですから……自分は無罪ですから……」と言い切った。そして裁判への不満などを次々に口にした。

「裁判がメチャクチャなんで、最高裁では徹底的にやろうと思ってるんです……」

「自分は裁判で住所不明、無職にされましたが、住所も職業もちゃんとしています……」

「今は午前中に裁判に出すものを色々書いて、昼からは息子への手紙を書いてます……」

私は正直、伊能の無罪主張や裁判批判はピンとこなかった。裁判では、現場マンションの被害者宅室内から伊能の掌紋が見つかったとか、伊能の靴の底から被害者の血液が検出されたとか、有力な有罪証拠がいくつも示されていたからだ。

また、息子に手紙を書いているという話も違和感を覚えた。伊能に息子がいるのは知っていたが、妻と娘を殺害した伊能が息子と良好な関係だとは思いがたかったからだ。

ただ、伊能本人は本気で自分を無実だと思っているようにも感じられた。そこで、まずは手紙で事件の真相を教えてもらえないかと依頼すると、伊能は「1日に1枚か、2枚かなら・・・」と承諾してくれた。これをうけ、私が「では、便せんと封筒を差し入れておきます」と言うと、伊能はこんなことを言ってきたのだった。

「ついでに甘い物を・・・あと、お金も少し・・・今、3千円しかないんで・・・」

正直、金銭の要求に心の中がモヤッとしたが、私は面会を終えると、拘置所1階の売店から伊能に便せん、封筒と共にみかんの缶詰や現金2千円を差し入れた。しかしその後、待てど暮らせど、伊能から届くはずの手紙は届かなかった。

伊能が収容されていた東京拘置所

◆証拠は「全部偽物」

約7カ月後、私は再び伊能の面会に訪ねた。伊能はこの日、刑務官が押す車椅子で面会室に現れた。「体調が悪いんですか?」と聞くと、目は宙を見つめたままだが、「大丈夫。薬、もらってるから」と口元をほころばせた。この日は事件に関する疑問も率直にぶつけたが、伊能はよどみなく答えた。

── 裁判はその後どうですか?

「1審も2審も何もしゃべらんかったから、今は色々書いてます。何もかもが偽物の証拠やから」

── 伊能さんの靴に被害者の血がついていたそうですが?

「あんなのは偽物の証拠ですわ」

── 伊能さんの掌紋が現場で見つかったという話は?

「全部偽物の証拠ですわ」

── 現場近くの防犯カメラには伊能さんの姿が映っていたそうですが……。

「あんなのは全部人間が違うんです。1メートル80センチくらいあったり、1メートル50センチや60センチだったりするんですから」

── 事件直前に伊能さんが包丁を買っていたという話もありますが?

「買うわけない」

つまり伊能によると、有罪証拠は何もかもが捜査当局の捏造だというわけだ。「では、裁判で黙秘した理由は?」と尋ねると、伊能は「裁判では、『無実だから何も出ない。無罪になるだろう』と思ってましたから」と言い切った。本気で自分を無実と思っているのか否かは今も断定しづらいが、罪悪感を覚えていないのは確かだと思えた。

そして面会時間が終了し、私が辞去しようとした時、伊能はこう言ってきた。

「お金と甘い物入れて。お金は多めに、甘い物は何品か」

さらに「大福餅があったら入れて」と付け加えられ、私はまた心の中がモヤッとしたが、ともかく現金1千円と大福餅、チョコパイを差し入れた。ただ、この日以来、伊能の面会に訪ねる意欲を失った。

◆初めて届いた手紙で「金一ぷう」を催促

伊能から初めて手紙が届いたのは約3カ月後、最高裁が控訴審の無期懲役判決を追認する決定をした今年2月のことだ。それには、再審請求をする意向や、息子や親戚たちが自分の味方になってくれているという真偽不明の話が綴られたうえで「案の定」なことが書かれていた。

〈金一ぷうを、ごかんぱしてください。たとえ1万円でも2万円でも、よろしいのですので。〉(原文ママ。以下同じ)

現金の差し入れを求めてきた伊能の手紙 (修正は筆者)

この図々しさにはあきれたが、手紙の末尾には〈親愛なる片岡様、ごかぞくの、お幸せと、ごけんこうを、心から、お祈りいたします。〉〈近々には、かならずや、片岡様との、ご面会が、ととのうよう心から、お待しております〉などと嘘くさいことが恥ずかしげもなく綴られており、苦笑させられた。殺人犯にこんなことを言うのは気が引けるが、愛嬌のある人物ではあった。

この時も現金1000円を同封し、「服役先が決まったら連絡して欲しい」と書いた手紙を伊能に送ったが、当然のごとく現在まで返事は届かない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

私は過去、社会を騒がせた様々な凶悪事件の犯人と面会や手紙のやりとりをしてきた。そんな中、一度手紙をもらっただけでありながら、生真面目そうな文面が強く印象に残っている男がいる。沖倉和雄という。7年半ほど前に東京都あきる野市で起きた資産家姉弟強盗殺人事件の犯人の1人で、裁判で死刑が確定しながら病気のために世を去った男だ。

沖倉から届いた手紙

◆強盗らしからぬ丁寧な物言い

事件の経緯を振り返っておこう。

沖倉(当時60)があきる野市で暮らす資産家の姉弟、A子さん(当時54)とB男さん(同51)の家に共犯者の男(同64)と一緒に押し入ったのは、2008年4月9日の夜8時ごろだった。沖倉は、1人で在宅していたB男さんにサバイバルナイフを突きつけると、次のように「脅迫」したという。

「強盗です。お金を出してください」

こうした強盗らしからぬ丁寧な物言いは、沖倉が元々、市役所に長く務めた公務員だったことと無縁ではないと思われる。だがしかし、沖倉がこの後、共犯者の男と共に敢行した犯行は、弁明の余地がないほど残酷きわまりないものだった。

まず、共犯者の男がB男さんの両手足を粘着テープで拘束。そして沖倉と共犯者の男が室内を物色していると、ほどなくA子さんが帰宅してくる。そこで沖倉がA子さんにもサバイバルナイフを突きつけ、「私は強盗です。お金を取りに来ました」と脅迫すると、共犯者の男がA子さんの両手足も粘着テープで拘束してしまう。こうして2人の強盗は資産家姉弟から現金35万円とキャッシュカード35点を奪うのだが、凄まじいのはこのあとだ。

2人は、両手足を拘束しているA子さんとB男さんの頭部にポリ袋をかぶせ、首のあたりに粘着テープを巻いて密封。このように姉弟が息のできない状態にして放置し、窒息死させてしまったのだ。その挙げ句、長野まで姉弟の遺体を運び、山の中に埋めた――。

翌2009年に沖倉が東京地裁立川支部の裁判で死刑判決を受けた際、判決はこの犯行態様について、「冷酷非道で残忍なことこの上なく、極めて悪質である」と厳しく指弾した。まことにその通りだ。

◆まじめな公務員はなぜ身を持ち崩したのか……

沖倉と共犯者の男は犯行後、姉弟のキャッシュカードで総額500万円以上の現金を引き出してアシがつき、あえなく逮捕。いち早く罪を認めた共犯者の男は東京地裁立川支部の裁判で「心底からの反省悔悟の態度」が認められて無期懲役判決を受け、そのまま確定したが、一方で沖倉が死刑判決を受けたのは「終始主導的な立場だった」と認定されたためだった。

沖倉はその後、2010年に東京高裁の控訴審でも死刑を支持する控訴棄却の判決を受けるのだが、私が沖倉に取材依頼の手紙を出したのは、最高裁の審理も佳境を迎えていた2013年の秋のことだった。

私が沖倉に関心を抱いたのは、やはりその経歴ゆえだった。

沖倉は大学卒業後、いくつかの職を経て1997年4月に本籍地の秋川市(現・あきる野市)の市役所に採用されると、2004年12月に勧奨退職するまで27年間に渡って勤務した。公務員としての仕事ぶりはまじめだったという。

裁判で明らかになったところでは、そんな男が退職後に開店したスナックの経営に失敗したり、麻雀の負けがかさんだりして約4700万円の借金を抱える羽目に。そして金目当てに許されざる罪を犯すのだが、沖倉はなぜ、そこまで身を持ち崩さねばならなかったのか・・・。

私は、当時東京拘置所に収容されていた沖倉本人にそれを直接聞いてみたいと思ったのだ。

そしてほどなく沖倉本人から返事の手紙が届くのだが、それには次のように綴られていた。

・・・・・・以下、引用・・・・・・

片岡健様

取材についての件ですが、私はまだ現在、話ができる状況ではありません。折角、切手、ハガキまで送ってきていただきましたが、真に申し訳ありません。お許しください。
今後の片岡様のご活躍をお祈り申しあげます。
ご希望に添えないので、切手、ハガキ、返送いたします。ご気分を悪くなさらないでください。

平成25年10月3日  
沖倉和雄  

・・・・・・以上、引用・・・・・・

私は、拘置所や刑務所に収容されている人物に取材を申し込む際には、返信用の切手やハガキを同封することにしている。取材を断る際、その切手やハガキを返送してくる者はたまにいるが、これほど丁寧な言葉で取材を断る者は珍しい。私はこの手紙を読み、沖倉が公務員時代、まじめな仕事ぶりだったというのは本当なのだろうと改めて思ったのだった。

「私はまだ現在、話ができる状況ではありません」というのは、最高裁の審理が佳境を迎えた時期に取材など受けている精神的余裕は無いということだろう。そう理解した私は取材を諦め、沖倉にお礼の手紙を出すと、これを境に沖倉のことは一度忘れてしまったのだった。

沖倉の「終の棲家」となった東京拘置所

◆実は闘病中だった

沖倉は私に手紙をくれた約2カ月半後、最高裁に上告を棄却されて死刑が確定したが、それから7カ月余り経った2014年7月、驚くようなニュースが飛び込んできた。沖倉が脳腫瘍のために獄中死したというのだ。

報道によると、沖倉は前年6月から肺ガンの治療を受けていたというから、私が取材依頼の手紙を出した時はすでにガンで闘病中だったわけだ。そして死の2カ月前には脳腫瘍も見つかっていたそうなので、おそらく最後はガンが全身に転移し、手の施しようがない状態だったのだろう。そのことを知って手紙を読み返すと、私は自分が勘違いしていたのではないかと思うに至った。

「私はまだ現在、話ができる状況ではありません」という沖倉の言葉は、裁判のせいで精神的余裕がないという意味ではなく、「ガンで闘病中のため、話ができる状況ではない」という意味だったのではないか・・・。そんな私の疑問を沖倉本人に確認するすべはない。

沖倉和雄。享年66歳。この生真面目な殺人犯がガンで闘病中、見ず知らずの私にくれた取材お断りの手紙は、彼の遺筆として大切に保管している。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

弁護人「そんな何べんも何べんも、おかしい女と一緒におってよ、そのたびに疑いもせんと同じような被害に遭うかい!」

証人「…………」

これは2003年12月17日に大阪高裁で行われた、ある刑事裁判の一場面を証人尋問調書に基づいて再現したものだ。この裁判の被告人は林眞須美、当時42歳。和歌山カレー事件と呼ばれる毒物殺傷事件で殺人罪などに問われ、一貫して無実を訴えながら2002年に第一審・和歌山地裁で死刑判決を受け、大阪高裁に控訴していた。捜査段階にメディアから「毒婦」とか「平成の毒婦」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いだろう。

しかし、そんな眞須美の裁判で、弁護人がこのように証人を叱責するような証人尋問を行っていた事実を知る人はほとんどいないはずだ。メディアで報じられていないからである。

この証人は、眞須美にヒ素で殺されかけた「被害者」とされている男だが、刑事裁判の証人尋問で弁護人が被害者という立場の証人を叱責するというのは異例だ。一体なぜ、こんな事態になったのか。

それを説明するには、まず事件の経緯を簡単に振り返っておく必要がある。

眞須美が暮らしていた家は今は空き地に

◆保険金詐欺の疑惑によりカレー事件も犯人と思い込まれたが……

事件発生は1998年7月25日のことだった。和歌山市郊外の園部という町で地元の自治会が開催した夏祭りのカレーに何者かが猛毒のヒ素を混入し、67人が急性ヒ素中毒にり患、うち4人が死亡した。そんな大事件で今も語り草なのが、眞須美と夫の健治に対してメディアが大々的に繰り広げた犯人視報道だ。

当時、眞須美は37歳で、夫の健治は53歳。2人は現場近くの大きな家で4人の子どもたちと一緒に暮らしていたが、働いている様子もないのにゼイタクな暮らしぶりだったため、当初からメディアに注目されていた。そんな2人がカレー事件に関与した疑いを盛んに報じられるようになったのは、事件が起きて1カ月が過ぎたころからだ。きっかけは、夫婦が事件前、知人男性らに保険をかけたうえ、ヒ素を飲ませて負傷させ、保険金詐欺を繰り返していたという疑惑が浮上したことだった。

というのも、カレー事件が起こる以前、林夫婦の家に出入りしていた知人男性らが病院への入院を繰り返しており、その中には入院時、ヒ素中毒に酷似した症状に陥っている者もいた。しかも、この知人男性らには多額の保険がかけられており、入院の際に支払われた保険金の多くは林夫婦のもとに渡っていた。加えて、眞須美は元保険外交員で保険には詳しく、健治も過去に営んでいたシロアリ駆除の仕事でヒ素を使っていた。林夫婦には、疑われるだけの要素が十分すぎるほど揃っていたのである。

やがて捜査が進む中、健治もカレー事件以前、ヒ素中毒とみられる症状で何度も入院していたことが判明する。これに伴い、保険金詐欺の主犯は眞須美であり、眞須美は共犯者である夫の健治にまで保険金目的でヒ素を飲ませていたという疑惑が報道されるようになった。

そんな日々の中、眞須美が自宅を取り囲んだ報道陣に対し、庭からホースで水をかける「事件」も発生。その映像がテレビで連日、繰り返し放送されたことも「林眞須美=毒婦」というイメージを決定づけた。こうして確たる証拠もないまま、眞須美はいつしか和歌山カレー事件の犯人だと全国の人々に思い込まれる存在となったのだ。

ところが――。

いざ裁判が始まってみると、眞須美とカレー事件を結びつける証拠は思いのほか、ぜい弱だった。加えて、眞須美がカレー事件の犯人ではないかと疑われるきっかけになった別件の疑惑、すなわち「夫や知人男性に保険金目的でヒ素を飲ませていた」という疑惑についても信ぴょう性に疑問を投げかけるような事実が次々示されたのだ。

◆「被害者」が被害者であることを否定

たとえば、健治は眞須美の裁判で、「ヒ素は保険金を騙し取るため、自分で飲んでいた。自分と眞須美は保険金詐欺では純粋な共犯関係にあった」と証言した。被害者であるはずの人物が自ら被害者であることを否定したわけだ。

また、眞須美は他の「被害者」の男たちについても「被害者ではなく、一緒に保険金詐欺をしていた共犯者だった」と主張したが、裁判で明らかになった事実関係は眞須美の主張を裏づけていた。他の「被害者」とされる男たちは病院への入院を繰り返しながら、入院中に無断外泊して林家で麻雀に講じたり、飲みに出かけたりと楽しそうな入院生活を送っていたのである。

その1人が、弁護人に叱責された証人の男だった。

ここでは、この男の名は仮にIとしておこう。Iは冒頭の公判に出廷した当時42歳。父や妹夫婦が警察官という警察一家の長男だが、カレー事件が起きた頃は働きもせずに林家に入り浸り、居候状態だった。取り調べや裁判では、「眞須美につくってもらった牛丼やうどんを食べたら、気持ち悪くなって嘔吐し、病院に入院した」などと供述していたが、実際には楽しそうな入院生活を送っていたというのはすでに述べた通りだ。健治によると、「Iは私の真似をして、保険金を騙し取るために自分でヒ素を飲んでいたんです」とのことである。

そんなIに関しては、他にも裁判で様々な怪しげな事実が裁判で明らかになった。たとえば、Iは捜査段階に数カ月に渡り、和歌山県の山間部にある警察官官舎で警察官たちと寝食を共にしながら取り調べを受けていた。さらに眞須美が起訴され、和歌山地裁の第1審で死刑判決を受けるまでの期間は高野山の寺で「僧侶」として働くという不可解な行動をとっていた。要するに警察や検察が眞須美をカレー事件で有罪に追い込むため、本当は保険金詐欺の共犯者であるIを管理下に置き、「被害者」に仕立て上げた疑惑が浮上したわけだ。

検察側の主張によると、Iはカレー事件以前、眞須美に殺意をもってヒ素を4回、睡眠薬を10回、食べ物に混ぜて飲ませられ、その都度、ヒ素中毒に陥ったり、バイクを居眠り運転して事故を起こしていたとされた。結果、裁判では、眞須美にヒ素を1回、睡眠薬を4回飲まされた事実があったとされたが、このこと自体が不自然だと鋭い人なら気づくだろう。

Iがそんなに何度も危険な目に遭いながら、眞須美に提供される食べ物を食べ続けたというのは、常識的にはありえないからだ。

Iが警察官と共に寝食を共にしていた警察官官舎

◆「疑惑の被害者」が弁護人に叱責された事情

Iは、眞須美の裁判で検察の主張に沿う証言を色々しているが、その証言内容も総じて不自然だった。中でも、とりわけ不自然だったのが次のような証言だ。

「私が林家で健治と一緒にいた時、健治は眞須美につくってもらった“くず湯”を食べて苦しみだしたのです。健治はこの時、『また何か入れたな』と言っていました」

こうしたIの証言もあり、裁判では、眞須美は健治に保険金目的でヒ素を飲ませていたと認定されたている。しかし、Iがこのような場面に立ち会っていたにも関わらず、自分自身は眞須美の食べ物を食べ続け、何度も死にかけたというのはいくら何でも変だろう。

弁護人が「疑惑の被害者」を叱責した大阪高裁

そこで弁護人はIを次のように追及している。

弁護人「あなたは当時、健治さんがそんなこと(=また何か入れたな)を言っていたとは、誰にも話していませんね」

「別に話すこともないと思うし」

弁護人「あなたはその後、眞須美さんに対し、警戒心を持たなかったのですか」

「警戒心というところまでは……」

弁護人「ただ、目の前で死ぬような苦しみをしている男が、女房に何か盛られたんじゃないかということを言っていたんでしょう。その女に対し、何か今までとは違う感じを持たなかったの?」

「多少はあったと……」

Iはこのように曖昧な答えを繰り返し、ごまかそうとした。それに弁護人がいら立ち、冒頭のように叱責したわけだ。これに対し、Iが何も言い返せずに沈黙したことは、健治や眞須美が主張するようにIが被害者ではなく、「保険金詐欺の共犯者」だったことを裏づけている。

それでもなお、この事件の裁判官たちは結局、Iが林夫婦に経済的に依拠していたことなどを根拠に「都合のいいように一方的に使われていた面が強い」(1審判決)などと述べ、Iのことを眞須美にヒ素を飲まされていた「被害者」だと認定した。そして眞須美は2009年に最高裁で死刑が確定したのだが、あまりに無理がある裁判だったというほかない。

眞須美は死刑確定後も無実を訴え続け、現在も裁判のやり直し(再審)を求めている。そんな執念が報われたのか、近年は世間でも眞須美について、冤罪の疑いを指摘する声が増えてきた。しかし、それはもっぱらカレー事件に関することで、夫や知人男性らに保険金目的でヒ素を飲ませていた疑惑については、冤罪を疑う声はまだ少ない。

ここで紹介したような裁判の実相がまだほとんど報道されておらず、世間に知られていないためだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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