映画「40年 紅どうだん咲く村で」

ドキュメンタリー映画「40年 紅どうだん咲く村で」の上映を、大阪市九条の「シネ・ヌーヴォX」で観た。3・11から7年間、福井県美浜町で40年間反原発を闘っている松下照幸さんを撮り続けた作品だ。

監督の岡崎まゆみさんは、福島の原発事故の惨状を目の当たりにし、「原発を原子力村を『知ろうとしなかったのだ』ということを、そのときに『知った』」と悔やみ 、「ドキュメンタリー映画を作るということは、まず『知る』ことから始めよう」と、松下さんを訪ねた。その後美浜町に通い続け、この作品を完成させた。

◆松下さんが反原発に変わったきっかけ

若狭湾の南東部に突出した敦賀半島にある美浜町には、1970年に1号機、1974年に2号機、そして1976年に3号機の計3基の原発が造られた。この町で生まれた松下さんは、もともとは原発反対ではなかったという。

反原発に変わったきっかけは、20代の頃、家から100メートルも離れていない家の青年(22歳)が白血病を発症したことからだ。関電の原発で働いていた青年は、入院した地元の舞鶴市民病院から、半ば強引に大阪の関電病院に移送され、そこで亡くなったと聞かされた。

「地元の病院で亡くなったなら、データは地元に残るが、大阪の関電病院で亡くなったら、データはどうなるのか? 何かが隠されないか?」。松下さんはそう疑問を持ち始め、独自に原発問題を学習し、反原発に変わっていった。

◆運転開始から28年間、一度も検査や交換をしていなかった伝熱管

 

映画「40年 紅どうだん咲く村で」

美浜原発では、1991年2月2号機で、蒸気発生器の伝熱管の1本が破断したため、原子炉が自動停止し、非常用炉心冷却装置が働くという事故が発生、5年後の2004年8月には3号機で、タービンを回すための二次冷却水の配管が破裂し高温の蒸気が噴出、11人の死傷者を出すという大事故が発生した。

破損した配管は相当摩耗していたが、1976年の運転開始から28年間、一度も検査や交換をしていなかったという。配管は、水流や腐食によって厚みが減る「減肉」を起こしており、通常10ミリある厚みが、最も薄いところで0・4ミリしかなかった。

1991年の事故のあと、松下さんは、神戸で反原発を闘う仲間から送られてきたチラシを、初めて居住地域でまいた。暗くなった夜遅く、妻と娘とともに1軒1軒、こっそり入れてまわったという。

映画でこの話をするとき、松下さんは突然何かを思い出したように涙ぐんだ。村の中で、原発反対を口にすることがいかに困難だったことか。驚くのは、当時お元気だった松下さんのお母さん(故・松下八千代さん)が、家の前で道行く人に平気で「読んで」とチラシを渡していたというエピソードだ。松下さんはそれを「息子の言っていることを信じてくれたから」だと話す。

◆「原発のせいだ」とは言えずに生きてきた原発立地の住民たち

もとより原発立地の住民は、手放しで原発を誘致したわけではない。橋1本、道路1本つけてもらうために、仕方なくそれを選択してきた。福島も福井も、そして私の故郷・新潟も、原発がきたことで、出稼ぎに出なくて済むようにはなった。地元にも原発関連の仕事が出来たからだ。莫大な交付金は、しかし住民の生活を直接潤すことはなく、立地自治体に不釣り合いなでかい「ハコモノ」などに次々に化けて、維持費が追い付かず、結局「もう一基作ってもらおう」と原発への依存体質を強めていった。

家族や親せき、隣近所の人たちが原発関連の仕事に就いているため、原発に関することは半ばタブーとされてきた。大熊町で農業を営みながら、反原発の歌を詠み続けてきた佐藤祐禎さん(2013年避難先で死去)の歌集「青白き光」(いりの舎)にも、そうした歌が多数詠まれている。

「サッカーのトレセン建設を撒餌とし原発二基の増設図る」
「鼠通るごとき道さへ鋪装され富む原発の町心貧しき」
「原発事故にとみに寡黙になりてゆく甥は関連企業に勤む」
「危険なる場所にしか金は無いのだと原発管理区域に入りて死にたり」
「子の学費のために原発の管理区域に永く勤めて友は逝きにき」

 

松下さん、木の成長が待ち遠しくて笑顔(映画「40年 紅どうだん咲く村で」より)

生活の為、うすうす危険を承知で原発を選び、結果大切な家族、身近な人を亡くした人も多いことだろう。しかし周囲に気兼ねし、「原発のせいだ」とは言えずにきた。美浜町もそうであったろう。

しかし、そうした町も少しづつ変わってきた。91年の美浜2号機事故後は「一体どうなっているのか?」と松下さんに聞いてくる人が増えたという。3・11後、故郷・美浜町に戻った青年が「町はまるで茹でガエルのようだ」と悲観し、2014年、2003年以降12年ぶりの町長選挙に出馬を決意した。松下さんも応援した選挙では、現町長約3500票に対して青年は2000票強。敗れたとはいえ、この数字は原発依存からの脱却を考える、町民の民意の反映ではないだろうか。事故を経験し、原発の危険性に気がつきはじめ、それに伴い町の人たちの松下さんを見る目がかわってきたという。過去には、まるで汚い物見るような視線があったと、松下さんは語る。

松下さん、地域の八朔祭に参加(映画「40年 紅どうだん咲く村で」より)

◆「反対」だけでは原発を止められないとの思いで始まった松下さんの反原発の闘い

「都会で反原発をいう人は『なぜ原発立地の人たちは危険な原発に反対しないの』という。しかし原発立地の人たちにとって原発をなくすということは、原発関連産業で働く『地域の仲間たち』の職を奪うことだ。そこに私はずっと負い目を感じてきた。だから反原発と言うだけでは解決しない。原発に依存しない経済や生活を作ることと一緒に行わないといけない」と、松下さんは自身の反原発のスタンスを語る。松下さんは現在、原発にかわる地場産業になればと、「紅どうだんつつじ」という花木を栽培、販売する事業を手掛けている。

そして「福井の原発が事故を起こしたら、放射性物質は風下の太平洋側に流れていきます。チェルノブイリ事故では、2000キロも遠くへ放射性核種が飛散している。現地がいくら反対しても原発は止められない。全国の人たちと、原発立地の人たちがともに闘わないと止められません」とも。「私の誇りは40年間負けなかったこと」、映画の中でそう話し、再び目を潤わせた松下さん。「反対」だけでは原発を止められないとの思いで始まった松下さんの反原発の闘いは、いよいよその重要性を増している。


◎[参考動画]『40年 紅どうだん咲く村で』予告編(mayumi okazaki 2019/8/10公開)

※映画「40年 紅どうだん咲く村で」HP https://benidoudan.themedia.jp/

◆「鉄塔」という詩

小浜市明通寺の中嶌哲演さんらが発行する「はとぽっぽ通信」に、いぜん掲載された「鉄塔」という詩がある。福井県の原発で作られた電力は、鉄塔と送電線を使い、はるか遠い、最大の電力消費地・関西に運ばれる。遠くに運ぶための鉄塔と送電線には膨大な費用がかかり、しかも長い送電線で送るため、せっかく作った電力は消費地にたどり着くまでにロスを生じさす。ならば、電力を大量消費する都会の近くに作ればいいものを。そうしない、いや出来ないのは、原発事故が起きたとき、失うものが余りに大きすぎるからという理由に他ならない。電力を大量消費する私たちが、どう反原発を闘うかが問われているのだ。

「鉄塔」というこの詩は、美浜原発3号機で息子さんを亡くしたご遺族か、関係者が詠んだものと思われる。美浜3号機の事故のことは私も知ってはいたが、メディアで報道されないことが、詩の中にあった。長い詩の一部を紹介したい。岡崎監督が述べたように、原発立地の町で何が起きたかを「知る」ために。

「鉄塔」 小浜市f.t

透き通った小魚を煮えたぎる湯の中に入れると
一気に白く茹で上がるのを知っているだろうか

あの日、発電所は古くなった配管の損傷を見落としていた
あの日の朝「いってらっしゃい」と見送った息子が
真っ白い遺体になって自宅に運ばれた時の母の気持ちがわかるだろうか

発電所の下請けの、また下請けの地元の若者が
高温の蒸気を浴びて一瞬にして命を落とした

若者の葬儀のために 電力会社の人間が本社から大勢やってきた
昼飯に、海辺の町の寿司は旨いといってたらふく食べたあと
神妙な顔に作り変えて葬儀で頭を下げた

海と田園を持つ田舎のこの町は電気を作ることだけを受け持っているけど
命に代えるほどのメリットが有るはずはないのだけど
電気は必要だけど
ウランは一度怒りだしたら百万年鎮まらない難儀な男
電力会社に もう一度見詰め直してほしいんだけど。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。最新刊の『NO NUKES voice』21号では「住民や労働者に被ばくを強いる『復興五輪』被害の実態」を寄稿

「風化」に楔を打ちこむ『NO NUKES voice』21号  創刊5周年記念特集 死者たちの福島第一原発事故訴訟

1947年、福島県三春町に生まれた写真家の飛田晋秀さんは、2009年全国の職人さんを撮って欲しいと依頼され、翌年から北海道を皮切りに全国の職人を撮って回り、最後に長崎から九州を一回りしたのち、いよいよ編集作業に入ろうとしていた矢先、東日本大震災と原発事故にあった。当初「報道カメラマンでもないから」と、被災地の写真を撮ることを躊躇していた。しかし4月中旬、小名浜に訪ねた知人から、津波で7名の仲間を亡くした話を聞き、こうした記憶を風化させてはならないと、写真を撮ろうと決めた。

帰還困難区域に初めて足を踏み入れたのは2012年の1月。しかし、変わり果てた町並みを目の当たりにした飛田さんはシャッターが押すことが出来なかった。そんな飛田さんが、今では既に100回以上、帰還困難区域などに入り、写真を撮り続けている。

富岡町。車も人もいない街路、信号だけが機能している(2012.1.31)

富岡町。国道6号電光掲示板2.409マイクロソフトシーベルト(2018.4.11)

そのように変わったのは、2012年8月、避難所で会った小学2年生の女の子に「大きくなったら、お嫁にいける?」と聞かれたからだ。心臓が止まりそうになったという飛田さん。しばらく何も言えず、ようやく口にできたのは「ごめんね」のひとことだった。

号泣しながら車で帰りながら「自分には何ができるのだろうか?」と悩み続け、飛田さんは決意した。「命がある限り、被災地に入り、人がいなくなった街を撮り続けていこう。あの女の子のような若い人たち、それから後世に生きていく人たちに、福島の真実を伝えていくために…」と。

国道6号線、放射線量は、電光掲示板でも0.92マイクロシーベルト~2.409マイクロシーベルトの場所があり、福島第一原発に近くなる程高くなる。国道脇の民家に人が侵入しないよう、バリケードが設けられているが、警備する警察官は防護服もマスクも着けていない。富岡から浪江までの14.1キロは、歩行もバイクも禁じられている。車で走行中も車外に長く留まってはいけない。

除染で出た汚染物を入れたフレコンバックを、中間貯蔵施設(大熊町、双葉町)に搬入する作業が急ピッチで進む。昨年1200台から、今年は倍近い2400台に増えたトラックが、粉塵を撒き散らしながら走っている。国道6号線と同じく、一部が帰還困難区域を走行する国道228号線で、3月27日、大きな交通事故が起きた。写真では、車が脱輪しているのがはっきりわかるが、環境省は東京新聞の記者の取材に、「脱輪はしていない」と頑なに否定した。高線量のため、長時間車外にいてはいけないことになっているが、警察官らは、レッカー車が到着するまで4時間も道路に立ち続けていた。全員マスクもなしに。

大熊町。事故を起こして脱輪してしまった大型ダンプ(2019.3.27)

4月に町の一部が避難指示解除された大熊町役場の新役場の建設現場(施工は鹿島建設)。1月3日、役場前で0.35マイクロシーベルトを計測した。7月12日に完成した新役場の総工費用は約31億円。町には事故前、11000人いたが、戻るのはわずか約25名程度だと町会議員の人がいう。(ただし、役場近くの大河原地区の東電社員寮の社員と、住民票を町に移している建設現場の作業員を含めて『帰還者数』は700人プラスしてカウントされるという)

役場職員は会津若松市を朝5時半に出て車で通う。他の職員も郡山、いわき、南相馬などから通っているという。住民には「帰れ!帰れ!」と言うくせに…。今後31億円かけた新役場をどう維持していくのか?

1月3日撮影。大熊町大川原地区、役場から1.5キロ、福島第一原発から9キロの場所に、2018年に完成した給食センター。地元の人を中心に100人雇用すると言われた。福島第一原発の作業員に、1日3000食の給食を提供している。空調設備の整った調理場は、0.07マイクロシーベルト程度だろうが、工場の外は1.1マイクロシーベルト。給食を福島第一原発に運ぶ作業員の被ばくはどうなるのか?あるいは運搬する途中、給食への影響はないのだろうか?影響があるとしたら、被ばくを強いられながら作業をする労働者を一層被ばくさせることにはならないか?

大熊町役場建設中(2019.1.3)

大熊町に建設された給食センター。1日3000食の給食を作っている(2017.1.3)

雨どいの線量27.4マイクロソフトシーベルト(2014.3.27)

帰れない、入ってはいけない帰還困難区域を、防護服もマスクもつけずに除染する作業員。飛田さんの線量計は、車中で0.5マイクロシーベルト。「入れないところをなぜ除染するの?そこで何を作るの?」。飛田さんは現場の監督に聞いた。「(上から)やれと言われたことをやっているだけです」という返事が返ってきた。

帰還困難区域の飛田さんの知人の家。2014年から2018年の4年間で、玄関に入るのが困難なほど木が大きくなった。2014年撮影時、玄関先で2.24マイクロシーベルト、線量が高くなりやすい雨どい付近は、27.4マイクロシーベルトだった。同じ雨どい付近で昨年は測ったら、なんと43マイクロシーベルトと倍近くあった。国は徐々に下がってくると言うが、逆に上がる場所もある。

大熊町。帰還困難区域の田んぼを除染してどうするのか(2018.7.27)

大熊町。4年前に撮影。木が背丈よりも伸びている(2018.7.26)

飯舘村。除染作業員が昼寝被爆が心配(2015.8.4)

一時帰宅してくると斑点ができ物凄く痛痒い。原因は解らない。避難先に戻ると4.5日位から消えていく(2017.1.6)

飛田さんの車中で0.96マイクロシーベルトもある場所で、休憩中の除染作業員が道路で昼寝している。被ばく防護の安全教育はきちんと受けているのだろうか? 今後、被ばくが原因の健康被害は増えるだろうが、そもそも「放射能は危険」の教育も受けていなければ、体調を崩しても、除染(被ばく労働)が原因とは思いつかないのではないだろうか? 

50代男性の知人は、帰還困難区域の自宅に戻ると、必ず腕にぶつぶつが出る。かゆくて痛い。60代女性の知人も、このように赤くなる。線量の低い自宅に戻ると何日かで、すーと治る。病院でも原因はわからないという。こういうことはマスコミには一切でない。すべて隠されてしまう。

飛田さんの写真展は、地元紙(福島民報、福島民友)では掲載されないし、取材もされない。地元紙に掲載されるのは「復興した」という記事ばかり。2020東京五輪に向け、「復興した」と演出される被災地には、しかし、多くの戻れない、戻ってはいけない場所がある。飛田さんの新しい写真集「福島の記憶 3.11で止まった町」が訴えるのは、多くのメディアがもう伝えなくなった、そうした福島の「真実」だ。

飯舘村(2014.11.21)

 

飛田晋秀写真集『福島の記憶 3.11で止まった町』(2019年旬報社)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。最新刊の『NO NUKES voice』21号では「住民や労働者に被ばくを強いる『復興五輪』被害の実態」を寄稿

※本記事掲載の写真はすべて福島県三春町在住のカメラマン、飛田晋秀さんによるもので、飛田さんはこの2月に写真集『福島の記憶 3.11で止まった町』(旬報社)を出版している。

9月11日発売!「風化」に楔を打ちこむ『NO NUKES voice』21号 創刊5周年記念特集 死者たちの福島第一原発事故訴訟


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NO NUKES voice 21号
創刊5周年記念特集 死者たちの福島第一原発事故訴訟
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[グラビア]
福島で山本太郎が訴えたこと(鈴木博喜さん
原発事故によって自殺に追い込まれた三人の「心象風景」を求めて(大宮浩平さん

[報告]野田正彰さん(精神科医)
原発事故で亡くなった人々の精神鑑定に当たって 死ぬ前に見た景観

[インタビュー]伊藤さん(大手ゼネコン下請け会社従業員、仮名)
福島第一原発事故後の現場で私が体験したこと

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「東電原発事故避難」これまでと現在〈5〉
事故発生直後の中通り・会津地方の住民の受け止め方と、浜通りから福島県内に避難した人々の避難生活

[報告]鈴木博喜さん(ジャーナリスト/『民の声新聞』発行人)
「希望の牧場」吉沢正巳さんが語る廃炉・復興のウソ

[報告]尾崎美代子さん(「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主)
住民や労働者に被ばくを強いる「復興五輪」被害の実態

[報告]本間 龍さん(著述家)
原発プロパガンダとはなにか〈16〉
酷暑下の東京五輪開催に警鐘を鳴らさないメディアの大罪

[報告]佐藤幸子さん(「子どもたちのいのちを守る会・ふくしま」代表)
福島の教育現場の実態 文科省放射線副読本の問題

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎副代表)
東海第二に経済性なし 原電の電気を買った会社も共倒れ

[報告]平宮康広さん(元技術者、富山在住)
僕たちが放射性廃棄物の地層処分に反対する理由

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
選挙が終わって急に暑い日がやってきたのだけれど

[インタビュー]本誌編集部
志の人・納谷正基さんの生きざま〈3〉最終回

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈5〉記憶と忘却の功罪(前編)

[報告]板坂剛さん(作家・舞踊家)
悪書追放キャンペーン 第四弾!
ケント・ギルバート『「パクリ国家」中国に米・日で鉄槌を!』

[報告]佐藤雅彦さん(翻訳家)
原発“法匪”の傾向と対策~東電・国側弁護士たちの愚劣を嗤う~

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
原発は危険!「特重ない原発」はさらにもっと危険! 安全施設(特重)ができていない
原発を動かしていいのか? 安全施設ができるまでは動いている原発はすぐ止めよ!
《首都圏》柳田 真さん(たんぽぽ舎、再稼働阻止全国ネットワーク)
「特定重大事故等対処施設」のない各地の原発の即時停止を!
《北海道》佐藤英行さん(後志・原発とエネルギーを考える会)
泊原発3号機 再稼働目指せる体制か
《新潟》佐々木 寛さん(市民連合@にいがた共同代表、新潟国際情報大学教授)
参議院選挙 新潟選挙区について
《福島》宗形修一さん(シネマブロス)
「福島原発事故から遠く離れて」2019年参議院選挙福島選挙区からの報告
《東京》久保清隆さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
11・27ヒューマンチェーンで日本原電を追いつめよう 首都圏の反原発運動の現状と課題
《関西》木原壯林さん(若狭の原発を考える会)
来年4月から、原発稼働は電力会社の意のまま?
《福島》けしば誠一さん(杉並区議会議員、反原発自治体議員・市民連盟)
オリンピック前に終息も廃炉もできない福島第一原発
《香川》名出真一さん(伊方から原発をなくす会)
原発のない社会のために 蓮池透さん四国リレー講演会報告と今後の課題
《鹿児島》江田忠雄さん(脱原発川内テント)
いま、川内原発で何が起きているか
《規制委》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
東海第二の審査請求から逃げ、原子力緊急事態宣言を隠す原子力規制委員会
《書評》天野恵一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
安藤丈将の『脱原発の運動史 ── チェルノブイリ、福島、そしてこれから』(岩波書店)

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◆センター仮庁舎の雨漏りが、どうにも止まらない!

JR新今宮駅前に建つ「西成あいりん総合センター」(以下、センター)は、建て替え工事に伴い、隣接する南海電鉄の高架下に仮庁舎が作られた。その仮庁舎で思わぬ事態が起きている。3月11日の開業からわずか2ケ月で、天井などから雨漏りが始まったのだ。

センター仮庁舎、開業2ケ月で雨漏りが

雨漏りで天井板がはがれた?

5月21日、前日に降った大雨のせいで出来た天井板の大シミを労働者が見つけた。朝には、床に水溜まりもできていたという。シミの付いた天井板は、その日に取り替えられた。

そして同じ場所の天井板が、7月16日、ついにはがれた。夕方には早々と補修作業が行われたが、急いでいたのか、4メートル以上の高所作業なのに、安全帯も付けていなかった。雨漏りはその後も、どうにも止まらない状態だ。

この件については、8月2日第4回口頭弁論が行われた「センター仮移転にかかわる公金支出損害賠償裁判」でも、弁護団が証拠写真を提出し、今後審議する予定だ。

本来この裁判は、仮庁舎の建設費用に費やされた税金の使われ方に不正がないかどうかを争うものだ。南海電鉄の高架下には、センターにあった「あいりん職安」と「西成労働福祉センター」が別々に仮庁舎を建てたが、本来同規模に作られるはずの両施設について、あいりん職安が解体しやすいプレハブ構造であるのに対し、センターは地下6mに鉄骨を打ち込んだ強固な土台に重量鉄骨を使った構造物であり、その違いは一目瞭然だ。

1平米の単価も、センター仮庁舎の方が約1万円も高い。裁判で「それが何故か?」を審理している最中に起きた今回の雨漏り問題。新たに判ったのは、税金7億5000万円を注ぎ込んだ割には、非常にずさんな手抜き工事が行われていた実態だ。

◆「大地震で倒壊」より先に「雨漏りで天井が崩落」?

裁判所に提出された、南海電鉄高架下のボロボロの柱

センターに「耐震性の問題」があるとされ、建て替えを決めたのは、2014年秋から始まった「まちづくり検討会議」後、非公開の密室で行われている「労働施設検討会議」の中でのことだ。

2006年耐震改修法の改正以降、国と府、市は減築法による耐震改修でセンターを使い続けようと議論を続けていた。

にも関わらず「ええい、建て替えてしまえ」と乱暴に建て替えを決めたのは、当時の市長、橋下徹氏だ。センターは縮小するが、機能は残すと、言っていたのに。仮移転先の候補には、三角公園横のシェルター跡地や、あいりん職安分庁舎跡地があったのに、よりによって創業から80年以上経ち、老朽化が懸念される南海電鉄高架下が選ばれたのである。

高架下の工事は、2017年4月10日から始まったが、5月10日から、連日工事現場わきで抗議と監視活動を続けてきた稲垣浩さん(釜ヶ崎地域合同労組)にお話を伺った。

── 仮庁舎が南海電鉄高架下に決まったとき、「あそこで大丈夫か」という話はありましたか?

稲垣 いいえ。決まった時、ガード下に労働者を押し込めようとする目論みに反対したのは、委員の中で私だけでした。

── 工事が始まって以降、ずっと座り込んで工事を見てきましたが、耐震工事や屋根の防水工事はやっていましたか?

稲垣 老朽化した柱や梁(はり)にはコンクリートが脱落し欠けた部分や、大きな穴があいてる箇所がいくつか見えました。梁のひび割れが、南海本線と高野線を横断している箇所もありました。穴のあいている箇所はモルタルで穴埋めしていました。雨による水漏れの疑いのあるひび割れのあるとこれは、ブリキの水受けを作っていました。耐震工事をしていたようには見えませんでした。

── この間の雨漏りは何が原因と考えられますか?

稲垣 雨漏りの原因は、南海電鉄高架下の梁や床の耐震工事や補強工事をしっかりやっていないことと、私たちの税金7億5000万円を使って建てられた仮庁舎の建物の屋根の防水工事も手抜きしているのではないか、この2点が原因と考えています。

◆なぜ仮移転先に、老朽化した南海電鉄高架下が選ばれたのか?

南海電鉄・難波駅の高架下に出来た「なんばEKIKAN」

それにしてもここまで老朽化した南海電鉄高架下を仮庁舎先にわざわざ選んだ理由は何であろうか?

森友学園のように、利権が絡んでいるからではないのか。

例えばセンター仮庁舎を、使用後解体せずに、同じく南海電鉄難波駅の高架下の「なんばEKIKAN」のような商業施設として再利用するとなれば、儲かるのは南海電鉄だ。

現在大阪市長である松井一郎氏は、かつて住之江競艇場の電気保守管理や物品販売などを独占してきた電気工事会社「株式会社大通」の元代表取締役だったが(現在は実弟が代表)、松井氏がしこたま儲けてきた住之江競艇場を経営する「住之江興行株式会社」も、南海電鉄グループの傘下にある。

これ1つ見ても市長の松井氏らが、いかに南海電鉄とwin-winの関係であることかは明らかだ。

◆困った人、弱った人が最後にたどり着く町が釜ケ崎じゃないのか?

暑いお昼に、冷やした飲み物、冷えピタ、塩アメを持って、野宿する人たちをまわる

真夏を思わず暑さとなった5月25日、センター北側で野宿していた労働者が、熱中症と思われる症状で見つかり、その後搬送先の病院で死亡が確認された。

目の前のセンターさえ開いていたら、冷たい水を飲んだり、ひんやりするコンクリの床に横たわったり、シャワー室で身体を冷やしたりして、助かっていたかもしれない。そう思うと、無念でならない。

このセンター建て替え=センターつぶしに反対する闘いは、4月1日から自主管理が続いていたが、4月24、25日、センターから暴力的に排除され、荷物を勝手に出されて以降も、北側の団結テントを拠点にねばり強く続いている。国や府に対して何度も何度も「センターを開けろ!」「荷物を返せ!」と抗議し、話し合いを要求し続けている。

毎日、冷たいお茶、冷えピタ、塩アメをセンター周囲で野宿する40~50人に配りながら、体調や安否を聞いて回る活動、月曜日の「寄り合い」、トイレ掃除などをみんなで行っている。

◆大阪維新の「都構想」にリンクする「西成特区構想」に反対していこう!

西成の「センター建て替え」=センターつぶしは、大阪維新の都構想にリンクする「西成特区構想」を実現させるためのものだ。JR新今宮駅前の一等地を、なるべく広い更地にし(耐震性に問題のない第2住宅を解体、移転するのもそのためだ)、新たな施設の建設を企むが、「青写真」には、センターとあいりん職安の事務所機能のスペースしかなく、労働者がゆっくり休んだり、仲間と談笑したり、困ったとき頼りになるシャワー室、足洗い場、洗濯場などの機能はない。

「まちづくり検討会議」には「労働センターが駅前にドンとあるときれいにならない」と発言した委員もいる。「野宿者汚い! あっちいけ!」とでもいうのか! これこそが、弱い者虐めの大好きな大阪維新と手を組んで進められる「まちづくり検討会議」の実態だ! 釜ヶ崎のセンター潰しに反対し、大阪維新の「西成特区構想」に反対し、弱い者虐めの「維新政治」を終わらせよう!

野宿者が亡くなった場所には花や煙草が置かれた

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

月刊『紙の爆弾』9月号「れいわ躍進」で始まった“次の展開”

〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号 尾崎美代子さん渾身の現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」掲載

6月28日熊本地裁で勝訴判決が下されたハンセン病元患者家族訴訟は、7月9日安倍首相が控訴を断念したことで、患者の家族も差別で多大な被害を受けてきたとの判決が決定した。今回お話を伺った黄光男さん(ハンセン病元家族訴訟原告団副団長)は当初、「自分に被害はない」と原告になることを最初断ったという。しかし長く切り離された故、家族関係をうまく築けず、母の亡骸に涙一粒出せなかったことは、黄さんの一番の「人生被害」ではなかったか。[※インタビューは7月14日、大阪市西成区集い処はなで行われたものです。]

7月14日、政府の控訴断念で勝訴が確定した2日後、黄光男さんは筆者のお店「集い処はな」でミニライブ&お話会を行ってくれた

── 尼崎工業高校時代からの友人でドランカーズのメンバーである孫敏男さんが裁判を傍聴し、国に怒鳴りつけるように証言した黄さんを見て、「その瞬間、僕は黄さんは変わったと思った」と話してましたが?

黄  弁護士に質問されたあと、最後に「国に言いたいことはありますか?」と聞かれてね。僕は国側のほうを向き直し、「国は、元患者の家族に差別はないといっていたが、どこを見て言っているのか? あなた、もう反対する理由がないから、東京に帰ったらすぐ厚労大臣に『もう裁判を終わらせてと言って下さい』と言いました。大声を出しすぎて裁判長に注意されました(笑)。

── 判決前夜の集会で黄さんは「親のことはしゃべらないまま死のうと思ってきた。それをこんなに公然と法廷の場でしゃべり切った。その自分の勇気、その勇気はその原告1人1人の心の豊かさにつながったのではないかと思う」と発言していますが、黄さんの中でどのような心境の変化があったとお考えですか?

黄  僕だけじゃなくて、原告になった569人、全員が豊かさを感じたと思う。変な言い方だが、裁判が楽しかった。本当に「やってよかった」と言う裁判でした。記者会見は顔を出せる人しか出なかったが、その後の懇親会は原告と弁護士だけですから、みんな本当に楽しそうだった。それまでは不安もあったが、それを一気に吹き飛ばすみたいなね。

── 勝訴した当日の黄さんは「台無しにされた人生、こんなお金で何が変わるか」とコメントしてます。1人33万~143万、確かに金では解決しませんが、それにしても安い気もします。

控訴断念の要請行動で歌う黄光男さん

黄  そうですね。実は親と断絶してなかった、頻繁に会えていた、という理由で33万しか支払われない原告の方が圧倒的に多い。あと沖縄の原告の方は、日本に返還された1972年前の補償は認められなかった。今後一律の補償を要求していく必要があります。

── 次は国側が控訴するかが焦点となって、原告団、弁護団、支援者らは東京に集まり,控訴断念の要請活動をされてきたのですね? どんな活動でしたか?

黄  じつは6月28日に判決が出るまでに、すでに要請行動をやっているんです。3月と5月に週に1回、原告団、支援者らが11か12のグループに分かれて国会に行き各議員を回る。連絡してたのもあるが、突然ピンポンと行ったのもある。あの場面は凄かった。

── 「良い判決を」と言う要請ですか?

黄  いや、勝つと言うことを前提に、「控訴しないように」と言う要請行動ね。

── 黄さんからのメールに「東京に要請行動に行くが、控訴断念は必ずする」と書いてあり、その自信はどこから来るのか、と思っていましたが。

家族の思いが書かれた短冊の写真

黄  3、5月の国会議員周りが非常に効いていると思っていたから。自民党の森山議員がハンセン病の議員懇談会を超党派でつくり、全ての党に声をかけてくれていた。議員の皆さんも「この問題はきちんとしなくてはならない」と、その反応が凄かった。すでにあの当時「控訴できない」と言う外堀は埋められていた感じでした。で、勝訴判決が出たあとは、今度は「控訴させない」と言う感じで議員の部屋を回りましたが、そこでも皆さん、一致していました。自民党含めですよ。

── じゃ、安倍の「極めて異例」は何だったのでしょうね?

黄  安倍は控訴したかったのでしょう。でも出来なかったと言うことじゃないかな?

── で、あの「政府声明」を出したのでしょうかね? 悔しくて。

黄  そうだね。

家族の思いが書かれた短冊の写真

── 安倍首相の「控訴断念」の発表を受け、午後から原告らの記者会見がありました。そこで黄さんは「安倍の控訴断念の言葉に違和感がある。書面を見ても、なぜ断念したか、明確なことばがない」と発言されていましたが。

黄  うーん、僕は安倍の会見は見てないけどね。でも書面ということは判決文を見てたのかな? ただ今回の安倍の「控訴断念」は抜き打ちですよね。2011年の時とは違う。2011年のときは、小泉首相が原告と直接あって話を聞いて控訴を断念している。

── そうですね。2001年の控訴断念までの経緯をみると、当時の坂口厚労大臣が医師ということもあり、資料を読んで「これは酷い。隔離する必要ない」とまず考え、その後自民党の野中広務さんの紹介で、原告と面会し、ちゃんと話を聞いている。そこで控訴はありえないと決めた。法務省は控訴と決めていたが、小泉首相も原告に会って話を聞き、そのうえで控訴断念を決めている。今回安倍は原告の話も何も聞いていない。

黄  首相に面会も要求したが、かなわなかった。G20前の忙しい時、吉本新喜劇で池野めだからには会うが、僕たちとは会わないという(笑)。 ただそのあとの「首相談話」で原告と会うとなっているからね。会ったら「首相を辞めて」と言いたいけど(笑)。それでは話(折衝)が前に進まないからね。

── 7月13日付け東京新聞のコラムに「わざわざ謝罪する人間が『極めて異例』などと値打ちをつけますかね?」とあります。そして安倍の「談話」とともに出た「政府声明」、堅山さん(ハンセン病意見国賠訴訟全国原告団協議会事務局)がFBで「ハンセン病家族の被害を本当に知っていたら、あのような政府声明など恥ずかしくて出せるわけがない」と厳しく批判されていましたが、黄さんはどう思われましたか?

黄  談話と政府声明は完全に矛盾してるよね。声明は、判決のあそことあそこが間違いと言っている。だったら控訴すればいい。菅官房長官が会見で、談話の方は一語一句読んでいるが、政府声明は読んでない。あれもおかしいよね。

── 両方読んでいたら、記者から「どっちやねん」と質問される?

黄  そう! だから菅が両方読まないのはずるいね。

── 今後はどのような活動をやっていくのですか?

黄  原告団は去年の12月、全国で4つのブロックに分かれ作られてます。そこでこれからハンセン病の全面解決に向けての取り組みをやっていくことになります。具体的には、確定した判決にそって政府との折衝をやっていく。厚労省、文科省、法務省、の3つと話し合っていきます。

── 裁判のいろんな場面で歌われた「思いよ届け」はどんな思いで作られたのでしょうか?

黄  「思いよ届け」の言葉は国宗弁護士が考え、垂れ幕などでずっと使ってきた。これで曲を作りたいと思っていたが、忙しくてできなかったけど、去年暮れに裁判が結審し、大阪に帰る新幹線の中で曲ができました。詩はあとで、家族の人たちの新聞記事や意見陳述など聞いて書きました。たった3行でその人の人生を語るなんて、無謀な歌詞なんですね。4番まであって、本当は560人の原告がいるので560番まであっていいんですね。皆、それぞれ被害が違いますから。

── この裁判は国だけではなく、私たち1人1人が問われる裁判だったと、仰ってましたが?

黄  どうやって差別をなくすかという問題ですね。2001年の判決は厚労相と国会議員に責任があるとしたが、今回はそれに加え法務大臣、文科大臣にも責任があるとした。法務省は人権啓発する所管だが、それができてなかった。文科省は学校のなかでもそういうケアができてなかったと判決は明確に言っている。国は慌てていると思う。「これから何をすればいいの?」と。そんなことは自分で考えろといいたい。

啓発がうまくいかなかった理由は、結構難しい。私も役所にいたから、役人は研修とか山ほど受けている。ハンセン病は語れなかったが、「差別はいけない」と研修をうける。なのになぜ差別がなくならないか? 今回の判決では、差別をかもしだす社会構造の問題を指摘している。個人個人が全員差別者でもないが、なぜ差別が簡単に許されるのか。

例えばハンセン病患者さんの娘と結婚しようとして、当事者も家族もいいと言うが。遠い親戚のおじさんが反対する。そのとき当事者も家族もおじさんにしっかり反対できない。おじさんはそういう社会構造を知っていて説明する。「次はあんたの家族が差別されるよ」と。だから「おじさんのいうことも一理ある」と思ってしまう。そういう社会構造を壊そうと思ったら、おじさんに対して「差別はだめ」と全員で言い切る、説得する力を持たないとだめだ。

ハンセン病は「感染しにくい」と説明するだけの啓発ではだめ。ではどうしたらそういう空気がなくなるのか? じつは答えは簡単で、1人1人がその空気を読むおじさんと闘い続けないとだめだということです。これからも1人1人、闘い続けて行きましょう!

── 今日は長時間ありがとうございました。(了)

「思いよ とどけ!」と闘ってきた3年間 ── ハンセン病家族訴訟原告団副団長の黄光男(ファン グァンナム)さんに聞く【前編】(聞き手=尾崎美代子)

黄光男(ファン グァンナム)さん。1955年大阪府吹田市で在日朝鮮人二世として生まれる。1歳の時に母親と姉がハンセン病を発病、岡山の療養所に隔離され、本人は岡山市内の福祉施設で育つ。1964年家族5人が社会復帰し、尼崎で暮らす。尼崎工業高校卒業後、尼崎職員に採用。ハンセン病の親のことを長らく語らなかった。2016年2月、「ハンセン病家族の集団訴訟」の原告副団長となる。尼崎市在住。「思いよ とどけ!」は黄光男さん作詞・作曲の歌


◎[参考動画]ハンセン病家族訴訟 思いよ 届け(宮崎信恵さん2019/7/1公開)

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号 尾崎美代子さんの福島現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」掲載

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

6月28日熊本地裁で勝訴判決が下されたハンセン病元患者家族訴訟は、7月9日安倍首相が控訴を断念したことで、患者の家族も差別で多大な被害を受けてきたとの判決が決定した。今回お話を伺った黄光男さん(ハンセン病元家族訴訟原告団副団長)は当初、「自分に被害はない」と原告になることを最初断ったという。しかし長く切り離された故、家族関係をうまく築けず、母の亡骸に涙一粒出せなかったことは、黄さんの一番の「人生被害」ではなかったか。[※インタビューは7月14日、大阪市西成区集い処はなで行われたものです。]


◎[参考動画]「問題放置は国家の責任」元患者家族訴訟原告団が会見(共同NEWS 2019/7/12公開)静止画像左から2人目が黄光男さん

安倍首相の控訴断念をうけて東京で開かれたハンセン病元患者家族訴訟原告団の記者会見(2019年7月12日)画像左から3人目が黄光男さん

── 黄さんと初めてお会いしたのは2011年の正月、私の住む釜ヶ崎の越冬闘争に黄さんらのバンドが参加し、そのあと打ち上げをやっていた居酒屋でした。狭山裁判の西岡智さん(故人)に紹介されたんですね。その後何度かライブでお会いし、久しぶりに会ったのが2016年「ハンセン病フォーラム」で、黄さんは患者の家族の皆さんで作る「れんげ草の会」で参加されてて、驚いたのを覚えています。

黄  僕は、1995年大阪の吹田で産まれましたが、まもなく母親がハンセン病にかかっています。役所の職員がしつこく施設に入所しろと言いにきましたが、母親はずっと断っていたようです。でもある日両親と姉2人と僕の5人で銭湯に行ったら「もう来るな」と断られた。当時ハンセン病はうつる病気と宣伝されていたからね。本当は感染力が弱いのにね。あと家に大阪府の職員が来て消毒する、次第に周囲の人も僕の家族を避けるようになって、母親は「これ以上家族に迷惑かけれん」と入所を決めたようです。

1956年12月に家族と別れて9年目に、育児院に迎えにきた母(左)と学生服を着た黄光男少年

1956年の12月6日、私は岡山市内の新天地育児院へ、両親らは日生(ひなせ)から船で瀬戸内海の愛生園に行くことになった。付いてきた大阪府の職員が、1歳4ケ月になっていた僕を取り上げようとしたとき、母はものすごく喚いて暴れたそうです。

その後まもなく僕のいた育児院に、愛生園の看護師さんが「雇ってくれ」と来たそうです。じつはその女性は愛生園でうちの両親のいきさつを知ったようです。育児院に転職した彼女が、毎週のように僕を抱いて愛生園に面会に行っている、それを僕は最近知りました。片道1時間以上かかる1日仕事です。育児園の園長が「何故そこまでやるの?」と聞いたら、その人は「離れ離れになっていても、頻繁に会える親子と会えない親子では、愛情の向け方が違う。離れていても愛情が結べるように」と言ったそうです。その人が辞める6歳まで面会に連れて行ってもらいましたが、僕にはその記憶が全くない。

── それから9年後に尼崎で家族5人が一緒に住むことになった。でも黄さんはずっと「他人行儀な感覚」だったと陳述書に書いていますね。ストレスで体調を崩したと。

黄  家族にしたら、家族5人で暮らす希望でいっぱいだった。でも僕は親と思えなくて、わがまま言えない、おねだりもできない。親も僕を叱らない。そんなギクシャクした関係にストレスが溜まったのか、夏休みの間ひと月入院しました。病名は肺炎となっていましたがね。

── お母さんの病気のことを知ったのはいつでしょうか?

黄  一緒に住み始めた翌年、小学校4年のとき、お袋が毎日薬を飲んでいたので、ある日「何の病気?」と聞きました。親父も姉さんも仕事に出て誰もいないのに、お袋が小声で「らい病」といいました。その雰囲気が非常に緊張した感じで、このことは絶対人に言ってはいけないと敏感に感じました。家族の中でも触れてはいけないという感じでした。

── 進学や就職などの相談なども、両親にはあまり話せなかったですか?

黄  ほとんど自分で決めてたね。中学卒業する時、高校は朝鮮学校に行きたかったが、結局尼崎工業高校に行き、そこで初めて本名を名乗るようになりました。

── その尼崎工業高校で解放教育に出会い、人権問題に関心をもつようになったとお聞きしました。その後尼崎市役所の職員になり、そこで出会った仲間と87年位にドランカーズを結成、人権バンドとしても活躍しますが、その仲間にさえ親の話はしなかったのですか?

黄  まったくしなかった。

── 親のことを話そうと思ったきっけかは?

黄  2001年の判決の2年後に、家族の仲間の会を作ろうと言う話になった。なぜ作ったかと言うと、2001年の裁判では当事者が亡くなっていて、遺族として原告になっていた人たちがいたから。僕は2001年の裁判は蚊帳の外でしたが。ハンセン病の家族の奥晴海さんや赤塚興一さんが中心になって、家族の会「れんげ草の会」ができました。当時は自分らの裁判を起こすと言うより、癒しの場でした。家でもそういう話はできなかったので、年に一度旅行に行って羽根をのばして思う存分語ろうと。

僕は2015年初めて参加しました。その前の2013年「ハンセン病を考える尼崎市民の会」が発足し、僕も誘われ入りました。実はそこへ僕を誘ってくれた仲間に、昨日(7月13日)会ったら、誘った当時から、僕の親が元患者だったことを知っていて誘ったと知りました。その後ポツポツ喋るようになった、少しづつね。2013年は阿倍野区民センターでハンセン病の集会があり、そこで僕は元患者の家族として発言しています。まだ匿名でね。その時バンド仲間に親のことを話したと思います。

── そこからどういう経緯で家族訴訟を起こすことになったのですか? 

黄  2003年に退所者給付金が出始めましたが、その後退所者が亡くなったら、その人の配偶者に出る制度ができた。家族ですよね。「そういう家族に給付金が出るのに、私らになぜ出ないの?」と、毎年国宗弁護士のいる熊本でやるれんげ草の会で、奥晴海さんが弁護士に提案したそうです。僕は風邪ひいて熱でうなされていたので、よく覚えていませんが。弁護士も、給付金の話は聞いてはいたが、勝てないとだろうと思っていた、負ける裁判はしないと決めていたそうです。でも家族の皆に追及され、やらなければと考え直したそうです。

ちょうどその2015年、12人の家族に聞き取りを行った黒坂愛衣さんの「ハンセン病の家族たちの物語」が出版された。僕も匿名で書かれています。そんなことも重なり、暮れの12月に裁判を起こそうとなった。僕にも弁護士から「原告にならないか」と電話がきたが、最初断りました。僕はそんなに被害がないと思っていたから。でもやらなければと考え、2回目電話がきた時に決めました。1番目が林力先生で、僕は7番目。れんげ草の会が当時40人位だから、原告はふた桁いくかなと思われていた。

2016年2月15日、熊本地裁で黄さんら原告59名が家族訴訟を開始。その後、原告数は569名に増えた

── 最終的に500人以上集まった訳ですが、よく集まりましたね?

黄  第一次提訴は2月、二次が3月、最終的に569人集まった。一次提訴した2月15日にやった記者会見の記事が新聞の一面に出ましたが、そこに「家族原告に加わりたい方はここに電話して」と国宗弁護士の事務所の連絡先を書いていたら、ひっきりなしに電話がかかってきたそうです。

── 黄さんが副団長をやり、しかも実名でいこうと決心したきっかけは?

黄  さっき紹介した黒坂さんの本で、団長の林さんが「恥でないものを恥とするとき、本当の恥になる」と話していて、その言葉にグザッときてました。れんげ草の総会で、林先生が団長で、あとのメンバーで副団長決めようとなり、僕に白羽の矢がたった。僕はくじ引きしようと言いましたが(笑)。そして副団長になったからには実名で出ようと。

── 裁判ですが、6月28日、熊本地裁で、ハンセン病患者の隔離政策によって、元患者の家族も差別などの被害を受けたとして、原告541人に一人あたり33万から143万円、計約3億7千万支払えと命じた勝訴判決が下されました。国は当初「隔離政策は家族を対象としておらず、(国は)差別や偏見を除去する義務は負わない」と主張して争う姿勢を見せていたようですが、勝因はどういう点にあるとお考えですか?

黄  3年かかった裁判では、569人の原告の陳述書が出来上がった。そこにはそれぞれの家族の「人生被害」が見事に語られている。それと昨年3月から始まった証人尋問、僕も含め29人が証言しました。1人1時間くらい、午前中2名、午後から3名くらいやった。まあそれを聞いたら裁判長も「被害がない」とは言えませんよね。国もそうだと思うが争っているから口に出しては言えない。普通に聞けば、あの判決が出て当然と思います。

── 反対尋問もあったのですか?

黄  あったが反対尋問というか、付け足しみたいなもの。「そうではない」と言う反対尋問はなかった。しようがないでしょ。例えば「小学生のとき、バイ菌、バイキンと言われた」と本人が証言しているのに、「そんなことないでしょう」とは言えないからね。

吹田で産まれた黄光男さんとお母さん、二人のお姉さん

── 29名の原告証言が、非常に重要な意味を持っていたのですね?

黄  そうですね。「あなたどこで生まれましたか?」「家族は誰がいましたか」など質問項目が100位ありました。つまり人生を全て語るわけですからね。

── 辛い話になりますが、黄さんはそこでご両親が自死された話も聞かれたのですね?

黄  もちろんです。親父とお袋は2001年賠償金を貰い、JR尼崎駅前にマンションを買い住んでいました。その後退所者給付金も入り、のんびり生活してました。でもお袋は老人性うつ病を発症し、ご飯が作れないようになった。親父は何もできないので困り、僕も週に1回くらい通ってました。お袋はいろんな病院で診てもらったが、実際はどこも悪くはない。

あるとき、休養をかねて入院する話になり、入院の手続きを取った。病院に行こうという朝、お袋は「今日は調子いいから入院やめとくわ」と言う。2003年1月26日、嫁の誕生日に外で食事して家に帰ったら、警察から電話が入りました。お袋がマンションから飛び降りたと。親父は気付かず寝いっていて、警察が家に入れない。困って隣の家のベランダ伝いに親父の部屋に入ったが、まだ寝入っている。結局親父は疑われて、そのままマンションで警察に事情を聴かれてて、それで僕に連絡が来たんですね。

── インタビューで、黄さんがお母さんとうまく親子関係を築けず、それでお母さんを苦しんでいたのでは、と話されていましたが?

黄  亡くなったお袋には、僕が初めて会ったが、僕はただ呆然としただけでした。1歳から9歳までの8年間離れて、親子関係を作れなかった結果、亡くなった母親を見ても、涙一つ出せなかった自分がいて……。親父はそれから1人ではやっていけないので、マンションを出て老人ホームに入りましたが、2011年、お袋と同じ方法で亡くなりました。(つづく)

黄光男(ファン グァンナム)さん。1955年大阪府吹田市で在日朝鮮人二世として生まれる。1歳の時に母親と姉がハンセン病を発病、岡山の療養所に隔離され、本人は岡山市内の福祉施設で育つ。1964年家族5人が社会復帰し、尼崎で暮らす。尼崎工業高校卒業後、尼崎職員に採用。ハンセン病の親のことを長らく語らなかった。2016年2月、「ハンセン病家族の集団訴訟」の原告副団長となる。尼崎市在住。「思いよ とどけ!」は黄光男さん作詞・作曲の歌


◎[参考動画]ハンセン病家族訴訟 思いよ 届け(宮崎信恵さん2019/7/1公開)

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

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創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

7月6日掲載の前編に引き続き、鈴鹿殺人事件の冤罪被害者・加藤映次さんの母親である由紀さんのインタビュー後編を公開する。

3月2日「冤罪犠牲者の会」結成総会に参加したご両親

── 殺害後、Tさんの離れにあった2つのキーホルダーから部屋の鍵を抜いて施錠したとされていますが、そのキーホルダーとはたくさん鍵が付けれるタイプのものですよね。そこからTさんの離れの鍵を探して引き抜いたと?

加藤 そうです。キーチェーン・フォルダーはジャラジャラ鍵が沢山つけられるもので、手袋をつけて外すのは無理、素手なら指紋も血もつくはずです。しかもその後、映次の車から見つかった鍵と、証拠として保管された鍵がすり替わった可能性も出てきています。

── 映次さんがTさん宅を出たあとに、Tさんが生存していた可能性がいくつか出ていますね。1つは「あ」メール。映次さんがTさん宅を出たのちに、Tさんの携帯に「あ」と誤送信した人がいて、それが「既読」になっている。つまりTさんか第三者かわからないが、だれか生きた人間が携帯を操作したことになりますね。

加藤 滞在時間は鈴鹿ICを通過した記録があるので確かです。その後に「あ」が既読になっている。裁判では現場を捜査した警官が誤って操作したとなりました。ならば、裁判でその警官が誰か、なぜ重要な証拠を触ったかなどの説明がなければおかしいと思います。

── 凶器も発見されていないそうですね?

加藤 凶器はモンキレンチと特定されていますが、発見されていません。映次はTさんに頼まれ、前日モンキレンチを買って届けています。そのレシートは会社の経費として落とすために、会社の経理に届けてあり、証拠として押収されている。凶器を買ったレシートをわざわざ経理に届けるでしょうか? しかしこのレシートから凶器はモンキレンチとなったのではないでしょうか? 検察側の鑑定は凶器はモンキレンチと限定しているが、弁護側の鑑定医はモンキレンチ以外の傷跡もあると1審で証言しています。

── 現場は相当悲惨な状況だったようですが、映次さんが犯人なら、とうぜん映次さんの服、身体などにも返り血がつくわけですよね?

加藤 映次の車からは血痕も血液反応も出ていません。着ていたスーツはTさん宅を出た あとも着ています。夕方それを着て採用面接をしています。そのあと会ったMさんも気づくはず。彼女は血などには気づかなかったと証言しています。しかしMさんが映次のスーツを捨てたという事にされ、彼女も逮捕されました。そうしないとつじつまがあわないからです。しかし彼女は家族のことなどいわれ、自己保身のために警察のストーリーに沿う供述をして「服を捨てた」と言ったようです。

チラシ

── 映次さんは最初から一貫して否認して裁判員裁判が始まりました。裁判を傍聴したご両親の感想はどうでしょうか?

加藤 裁判員裁判ってこんなものかと思いました。一審の弁護団は、映次の会社関係の弁護士でつくったので、刑事事件に慣れてないこともありますが、「弁護過誤」ではないかという支援者もいました。

その時の思いを映次は手紙で次のように書いてきました。
『帰ることが出来ずごめんなさい!これまでの支援に応えられず本当に申し訳ない思いです。そして、ただ無念です……あまりに酷い判決内容でした。裁判所には幻滅しました。一体どこが公正中立なのでしょうか? 茶番としかいいようがない、有罪の結論ありきの審議だったのは明らかで、検察に迎合した完全な検察救済判決の内容でした。稚拙な独自理論に想像と推認ばかり。空想で無実の人間に犯罪を背負わせるのが、裁判所の仕事なのか? 支離滅裂な検察主張を、更に支離滅裂な裁判所の想像が加わり、完全に荒唐無稽な判決になっている……本当に悔しくて、皆に申し訳なくて戻ってきてから涙が止まりません。何を反省しろと言うのか?反省すべきは冤罪被告を新たに生んだ裁判所だ! 冤罪は最大の罪です。。。』
── 1審で懲役17年、2審は、映次さんのアリバイを示す「“あ”メール」問題が中心的な争点となりながら、判決ではまったく触れられないという異常な事態がおきました。上告審もほとんど審理されずに終わり、刑が確定してしまいましたね?

加藤 控訴審の時に出てきた「“あ”メール」問題は、裁判官はスマホやSNSなどの知識が全くないのだと思いました。チンプンカンプンだから審理のしようがない。一方、控訴審から全員入れ替わった新しい弁護団は、スマホを何台も購入して検証するなどしてくれました。映次自身が専門家ですから、弁護団にアドバイスできることも多かったですが、何しろ身柄を拘禁され、パソコンにもさわれず、自分で何もできないことが本当に悔しい思いだったと思います。

5月24日、支援者らと行った現地調査と学習会

── 裁判全体を通じて考えたことなどありますか?

加藤 日本の司法は中世以下と正直思いました。国民の税金を無駄遣いしているとしか言いようがない。裁判所にいたっては、ほんの一握りの良識のある裁判官が当たり前の判決を出したら、左遷させられるという、本当に異常な世界です。最高裁長官は司法を目指して一生懸命勉強していた初心に戻れよ!と言いたいです。

── ほかにも不可解な点が多々ありますが、紙面の関係上、またの機会にさせていただきます。「加藤映次さんを守る会」が仕事の関係者、親戚、ご近所さんらで作られていて、これを見ても映次さんがどれだけ大勢の人たちに慕われていたかがわかります。ご両親は現在、月に1回、長野刑務所に面会に行くそうですが。

加藤 長野刑務所は長野県北部の須坂市にあります。経済的な問題もあり、車で早朝出発してトンボ帰りです。主に安否確認と家族の近況報告、あと裁判に向けての事務連絡、差入れなどをしてきます。経済的に厳しいのを本人も知っているので現金の差入れは時々しかしません。できるだけ我慢してもらっています。それでも本などはAmazonなどで中古本を探して差入れています。

刑が確定するまではずっと独房でしたが、今は、刑務作業や運動、そして同室の皆と雑談もできるので精神的にはストレスは溜まっていないようです。が、やはり犯していない罪で罰せられている訳なので、外にいる私達がなかなか思い通りに動いてくれないことに不安や不満は持っているかと思います。食事はやはり満足できるものではなく激ヤセしています。でもいつも明るい照れくさそうな笑顔で面会室に入ってきますので、私達もできるだけ明るい話をするようにしています。

映次さんが収監される長野刑務所

映次さんが収監される長野刑務所には毎回車で通っている

── 3月には東京の「冤罪犠牲者の会」の設立総会で、昨日(6月16日)は大阪でアピールしていただきました。これからもこの冤罪事件に関心が広まればと考えています。最後に訴えたいことを?

加藤 この冤罪事件は、幸いなことに息子の無実を信じて多くの方に支援していただいています。ただ報道の温度差で鈴鹿の地元三重県では事件の事も裁判員裁判の事も報道されましたが、他の地域ではほとんど報道されていません。今後「再審請求」をしていくのですが、やはり再審は世論を味方につけ注目を集めないと、いくら犯人じゃない証拠を提出しても裁判官は見てもくれないと思います。文明国家を自負しているこの日本の裁判制度は中世以下です。多くの冤罪犠牲者が地獄の苦しみを味わっています。冤罪犠牲者の会・再審法改正をめざす市民の会等冤罪を支援する組織も立ち上がっています。多くの方に冤罪の恐ろしさを知っていただき、この事件に興味を持って注視していただきたいと思います。

── 今日はどうもありがとうございました。[了]

3月2日「冤罪犠牲者の会」結成総会

《連絡先》〒496-0862 愛知県津島市城山町1-15
◎鈴鹿殺人事件・加藤映次さんを守る会 加藤元博 http://enzai.main.jp/
◎拘置所ブログ 加藤映次、冤罪と闘ってます、刑務所日記 NOW ! http://eiji-enzai.blog.jp/

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

創業50周年!タブーなき言論を! 7日発売!月刊『紙の爆弾』8月号

創刊5周年!〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号 尾崎美代子さん渾身の現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」掲載

6月16日、大阪市大国町の社会福祉法人「ピースクラブ」で、まもなく再審が始まる滋賀県湖東記念病院事件の冤罪被害者・西山美香さんと、主任弁護士の井戸謙一さんをお招きし、講演会を開催した。井戸弁護士の解説、西山美香さんへのインタビュー、質疑応答ののち会場にかけつけた3組4名のかたにアピールしていただいた。

3月に結成された「冤罪犠牲者の会」の共同代表・青木恵子さん、予定を変更し急きょ駆けつけてくださった桜井昌司さん、そして鈴鹿殺人事件の冤罪被害者・加藤映次さんのご両親・加藤元博さん、由紀さんのお二人である。

冤罪・鈴鹿殺人事件を私は、青木さんから聞いて知った。当日講演会場でチラシなど配布するので送ってほしいとご両親に連絡したところ、「直接大阪のみなさんに支援をお願いしに行きたい」ということで、当日愛知県から車で駆けつけていただいた。講演会場とその後の親睦会で、涙ぐみながら支援を訴えていた映次さんの母・由紀さんに、翌日インタビューし、事件の全貌、再審に向けた決意などをうかがった。

6月16日「湖東記念病院事件の冤罪被害者・西山美香さんを囲んで」で発言する加藤元博さんと由紀さん

── 遠いところお疲れ様です。鈴鹿殺人事件の冤罪被害者・加藤映次さんのご両親にお話を伺います。2012年11月13日、鈴鹿市山本町で会社役員のTさん(当時38歳)さんが何者かに後頭部を殴打され殺害された事件で、加藤さんの息子さんの映次さんが殺人容疑で逮捕されました。事件の話をお伺いする前に、映次さんは一人息子さんということで、どんな息子さんですか?

加藤 優しい子です。自分の子供に対しても怒ったり、手をあげたりしたことは一度もないです。じっくりと相手の言う事を聞くタイプです。一見スキンヘッドで怖そうと言われますが、小さい頃から円形脱毛症なんです。免疫の異常で毛髪の組織が攻撃されて起こる“自己免疫疾患”だそうで、元プロ野球選手の森本稀哲(ひちょり)さんと同じです。ひちょりさんも小学1年の時に円形脱毛症になり、ほぼすべての毛髪を失ったそうです。悩んでいた子供時代から、プロ野球で人気を博した元気なキャラクターを確立したとあります。映次も同じようにポジティブな思考、明るい性格です。

現在、長野刑務所に収監されている加藤映次さん

── Tさんと映次さんは、会社の共同経営者と報じられていますが、どういう関係だったのでしょうか?

加藤 Tさんはもともとティールというインターネット通販会社を、映次はワンダーラインというネットワークサービス会社をそれぞれ別個に経営していました。当初はティールがワンダーラインの顧客としてつきあいが始まりました。後にTさんがワンダーラインに共同経営者として加わることになり、Tさんが会長、映次が社長に就任しました。ワンダーラインは名古屋駅前に本社事務所を、愛西市に事務所兼倉庫を持っていました。Tさんは山本町の実家の離れを改装して自宅兼事務所としていました。

── その離れが殺害現場となったのですね。事件当日、映次さんがTさん宅を訪ねたことで映次さんが疑われたのですね?

加藤 映次は、Tさんに高級時計を買うお金を400万円ほど用立てており、それを返してもらうためにです。朝、電話で返してもらえると確認していたそうですが、実際は返してもらえなかった。10時28分頃から10分間ほど滞在しています。流れとしては、Tさん宅へ着いて離れのチャイムを鳴らす、「ちょっと待って」と言われ、しばらく外で待つ、鍵をあけてもらい部屋に入る、Tさんに頼まれ2杯分のコーヒーを淹れる、金を返す返さないで揉める、といっても胸ぐらをつかまれたので映次が振り払った程度です。鈴鹿ICを11時5分に通っていますが、警察・検察が主張するように滞在時間を24分だとしても、果たしてその間に殺人をして、痕跡を消すなど後始末をして、2つのキーチェーンからTさんの離れの鍵を抜き取り、鍵を閉めて・・・とそれだけのことが出来るのか?離れには水設備はないので返り血などの始末が出来るのかと疑問が山ほど残ります。

── 離れには水回りがないので、Tさんはトイレ、シャワーを使う際には母屋に行っていたが、夕方5時過ぎ、トイレなどにきた形跡がないことから、両親が心配し、Tさんの部屋の鍵をあけて入ったら殺害されたTさんを発見したということですね? 離れにはいつも鍵をかけていたのですか?

加藤 Tさんは以前、ヤクザの人たちと関係していたようです。何があったかわかりませんが、非常に用心深く、いつも鍵をかけていたようです。

── 2日後、映次さんが容疑者として取り調べを受けていますが、ほかに取り調べを受けた人はいないのですか?

加藤 ほかに容疑者がいたかどうかは証拠が全面開示されていないのでわかりません。映次はその日深夜遅くに帰宅し、翌朝、鈴鹿署で任意の取り調べを受けています。知人が殺されたので、取り調べにはちゃんと応じようと警察署に行ったのに、最初から犯人扱いだったそうです。着ていた服、下着、持ち物などすべて着替えさせられ押収され、〇の中に官と書かれたトレーナーを着て帰宅しました。映次は、自分が犯人でないことは自分が一番よく知っているから、この状況はありえないと話していました。腹が減ったといい、冷凍のあんかけラーメンと味噌おでんを食べていました。殺人を犯していたら、そんなに風に平気で食べれるでしょうか?

逮捕の約1年前に新築した家の前で家族と写した写真

── Tさん宅を出てからの映次さんの行動を教えてください。

加藤 事件当日、映次はTさん宅を出てから、当時不倫関係にあったMさんと会い、買い物をしたりしたあと、夕方には名古屋本社で採用面接もしている。その後またMさんとドライブなどして過ごしています。そのままホテルに泊まり、帰宅しなかったことも疑われた理由の1つのようです。

── 突然逮捕され、ご両親、映次さんのご家族はどんな様子でしたか?

加藤 私たちは映次が犯人じゃないことは、警察から帰ってきたときの様子やその後の映次の話で確信していました。嫁は14日朝、「今警察が来て映次が連れていかれた!」と泣きながら電話してきましたが、「犯人じゃないから、大丈夫。子供の為にもしっかりしなさい!」と言うのが精一杯でした。私も足がガクガクしていました。

── 映次さんが犯人とされた決め手は何だったのですか?

加藤 いろいろ言われていますが、実際には物証は何も出ていません。殺害現場のTさんの離れに鍵がかけられていたとのことですが、その離れの鍵が映次の車から出てきたことが証拠の一つとされていますが、そもそも鍵がかかっていたのかどうかさえ、両親の証言以外に証明するものはありません。逮捕された日、警察が映次の自宅に来て、敷地内で車の外観や車内を撮影した写真があります。その車が押収されて中から鍵が発見されたそうですが、そのとき映次は鈴鹿署にいたのです。にもかかわらず、車の検証に本人の立ち合いをさせなかったことなど、鍵発見の経緯には腑に落ちないことがいくつもあります。映次は刑事から後で「Tの離れの鍵がお前の車から発見されたぞ」というような事を聞かされ、『ハメラレタ!』と思ったと言っていました。[つづく]

控訴審を闘った名古屋高裁の前で、支援者の皆さんと

《連絡先》〒496-0862 愛知県津島市城山町1-15
◎鈴鹿殺人事件・加藤映次さんを守る会 加藤元博 http://enzai.main.jp/
◎拘置所ブログ 加藤映次、冤罪と闘ってます、刑務所日記 NOW ! http://eiji-enzai.blog.jp/

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

創業50周年!タブーなき言論を! 7日発売!月刊『紙の爆弾』8月号

創刊5周年!〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号 尾崎美代子さん渾身の現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」掲載

6月16日、大阪市大国町の社会福祉法人ピースクラブで、3月に再審開始が決定した「湖東記念病院事件」の冤罪被害者・西山美香さんと、主任弁護士の井戸謙一さんを招いて講演会を開催した。最初に井戸弁護士より事件の経緯と問題点を解説してもらった。

6月16日(日)大阪で開催された「湖東記念病院事件」冤罪被害者・西山美香さんを囲む会

2003年5月22日明け方、湖東記念病院に入院中の男性患者(74歳、半年間植物状態、呼吸器で命を長らえていた)が意識不明で発見され、その後死亡が確認された。当初「業務上過失致死容疑」で開始された捜査は、1年後の7月2日西山美香さん(当時23才)が任意の取り調べで「(呼吸器の)管を抜いた」と自白したことから「殺人事件」に切り替わり、滋賀県警をざわつかせた。7月6日「殺人罪」で逮捕された美香さんは、その後起訴され、懲役12年の実刑判決が下された。美香さんは何故ウソの自白をしたのか? 井戸弁護士の解説から、当時美香さんを取り調べた滋賀県警の山本刑事と美香さんの関係に言及された箇所に焦点を絞り、検証してみる。

◆「業務上過失致死容疑」が「殺人容疑」に! 舞い上がる滋賀県警!

男性の死亡後、滋賀県警・愛知川(えちがわ)署は、人工呼吸器の管が外れ、アラームが鳴っていたのを見過ごし、窒息死させたとする「業務上過失致死罪容疑」で、当夜当直だった看護師A、Bと看護助手美香さんを取り調べた。その際A看護師が「管が外れていた」とウソをついてしまう。男性患者の痰の吸引を2時間ごとにする義務があったが、1回行っていないことから、怠慢を問われると案じ、咄嗟についてしまったウソだ。しかし管が外れている場合鳴るはずのアラーム音を聞いた者は誰もおらず、「呼吸器の不具合」との病院側の主張も、鑑定で「問題ない」となった。

1年後、前任に代わり美香さんを担当したのが滋賀県警から派遣された若い山本誠刑事だった。密室の取調室で山本は、死亡患者の写真を置いた机をバーンと叩き、椅子を蹴りあげ、美香さんに尻もちをつかせるなど威嚇しながら「アラームが鳴っていただろう」と迫った。怖くなった美香さんは「アラームは鳴った」とウソの供述してしまう。そのとたん山本は急に優しくなったという。

◆精神科に通うまでに美香さんを追い詰めた滋賀県警!

一方でA看護師はアラーム音を認めてなく、美香さんの供述との食い違いを迫られノイローゼになっていた。そのことを知った美香さんは「A看護師はシングルマザーで、逮捕されたら生活できない。自分は正看護師でもないし、親と暮らしている」と、一旦認めた「アラーム音を聞いた」の供述を撤回した。しかし山本刑事は受け入れない。6月23日深夜2時30分、美香さんは一人で愛知川署を訪れ、当直に山本刑事への手紙を託した。撤回させようと必死だったが、撤回は叶わなかった。

7月2日、美香さんは午前中、精神科を受診している。カルテはあるが、美香さんにはその記憶がないという。それほどまでに追い詰められていた。その足で警察署を訪れた美香さんは「故意に管を抜いた」と供述してしまう。7月6日美香さんは「殺人罪」で逮捕。「えっ? 私、逮捕されるの? なぜ、誰も殺してないよ?」。美香さんはパニック状態に陥った。「管を抜いた」が「殺害した」になるとは夢にも思っていなかったからだ。

3月に設立した「冤罪犠牲者の会」共同代表の青木恵子さん(東住吉事件)。右後ろに並んで座っている冤罪被害者・西山美香さん(後ろ右)と主任弁護士の井戸謙一さん(後ろ左)

◆滋賀県警に組織的に追い詰められ、自白してしまった美香さん

長い取り調べの間、山本刑事は美香さんの話を親身に聞き、相談に乗ったりもした。時には自分の私生活を話すこともあったという。幼い頃から友達を作るのが苦手で、当時つきあう男性もいなかった美香さんは次第に山本刑事に惹かれていく。携帯電話の番号も交換しあった。美香さんの警察への出頭日数は、5月は6回、6月は17回、うち6回は呼び出しもないのに自主的に出頭している。警察への出頭や捜査への協力が、山本刑事に会いたい一心からきていることがよくわかる。

逮捕後も滋賀県警と山本刑事は組織的に美香さんを包囲し、追い詰めていく。家族に会えない美香さんに「上司が毎日両親に会いにいっているから心配するな」とウソをつき、その上司のもとに美香さんを連れていき、上司に「山本の言うことだけ信じていればいい」と言わせた。「弁護士は信用できない」などと言われた美香さんはますます「山本刑事しか信じられない」と洗脳されていく。なお逮捕から起訴まで留置された大津署で美香さんは、山本刑事が持ち込んだマクドナルドのハンバーガー、ケーキー、ミスタードーナッツのドーナッツを食べている。飲み物は3回ともQOOのオレンジ。若く、社会性もまだ乏しい美香さんを、滋賀県警は組織的にあの手この手を使い洗脳したのだ。

何故、美香さんはウソの供述をしたのか? それについて井戸弁護士は、美香さんのシングルマザーのA看護師に対する罪悪感や、アラーム音についての供述を撤回させて貰えないことから、仕方なく供述してしまったのではないかという。さらに山本刑事を好きになったが、当時A看護師の「アラーム音を聞いてない」と、美香さんの「聞いた」が矛盾することから、捜査は膠着し、呼び出されなくなっていたため、新しいことを言えば、山本刑事が自分に関心を持ってくれるのでは、と考えたからではないかとも述べている。

◆アラーム音を出さずに窒息死させる方法を美香さんに教えた滋賀県警・山本刑事!

そもそもアラームは鳴っていない。管も外れていない。では美香さんの「故意に管を抜いた」(窒息死させた)との自白は、どう維持できたのか? 逮捕後、コロコロ変わる美香さんの自白から、滋賀県警や山本刑事が見立てたストーリーに合わせ、美香さんの自白が作文されていた可能性が出てきた。書いたのはもちろん山本刑事だ。

7月2日の供述では「(管を)外して病室を出た。アラームは10分鳴り続け、A看護士が消した。動機はA看護師が寝ていたので腹が立って、偶発的にやった」だったが、A看護師が「アラームは絶対鳴っていない」「居眠りしていない」と供述、さらに子供の付き添いの親が「10数回ナースコールをしたが、アラームは鳴っていない」と供述するや、7月10日には「アラームは鳴っていない。私が消音ボタンを押し続けた」に変わった。同じ日、滋賀県警は「アラームを鳴らさずに窒息死させることはできるのか」と、人口呼吸器の実況見分を行っている。

その結果から編み出されたのが「消音ボタンを1回押せば1分間(60秒)アラーム音が消える。1分直前に再度ボタンを押し、アラーム音が消えた状態を継続させる。それを3回続け、患者を窒息させた」という供述だ。しかも偶発的ではない、ほかの患者も殺そうとした計画的犯行だとした。しかし看護師ですら知らない、消音時間が正確に60秒であることや消音状態継続機能を、資格も専門知識もない、看護助手の美香さんが知り、かつ確実に実行できると、ふつう考えるだろうか?

冤罪・鈴鹿殺人事件の加藤映次さん(長野刑務所に収監中)のご両親

◆盛りすぎた供述調書で、ウソが暴露された滋賀県警・山本刑事!

美香さんの最終的な自白内容は、「動機は病院に対する恨みを晴らすことであり、出勤前から犯行を計画していた、(ナースステーションから様子がうかがえる患者のベットの)カーテンも閉めず、枕灯もついたまま、素手で患者の人工呼吸器の管を抜いた、アラームがピッと鳴ったのでボタンを押して音を消した。頭で数を数え、1分たつ前にまた押した。患者はハグハグと苦しそうにしていた。2~3回で死んだのでチューブをつなぎ、点灯ランプを消し、ナースステーションに戻った」となっている。

しかしこの自白には、なぜ美香さんが消音状態継続機能を知っていたかの説明がない。また正確に60秒を数えるために、美香さんが腕に巻いた時計を利用してないこと、カーテンを閉めない、枕灯を消さない、(殺害を実行する際に)指紋がつくことを気にしないことなどについて多くの疑問が残されている。

有罪認定された判決は、美香さんの自白について「現場にいた人でなければ語れない迫真性に富む」としている。「口をハグハグ」「目をギョロギョロ」の箇所だ。しかし亡くなった患者は大脳が壊死しており、苦しみを感じないから、そもそも「口をハグハグ」や「「目をギョロギョロ」することは、医学的にありえないと弁護側は反論する。では、この「口をハグハグ」「目がギョロギョロ」という供述調書は、誰が作文したのか? 山本刑事だ。

6月16日、井戸弁護士が山本刑事が作成した調書の一部を紹介した。「壁の方には、追いやった呼吸器の消音ボタン横の赤色のランプが、チカチカチカチカとせわしなく点滅しているのが判りました。あれが、Tさんの心臓の鼓動を表す最後の灯だったのかも知れません」。何とも劇画チックな表現だ。彼の調書は全編このような感じだという。「私は~」からと一人称で始まる調書は、あくまでも容疑者が話したことを、刑事が文章にまとめたものだ。果たして美香さんがそのようなことを話すだろうか?

予定を変更し、急きょかけつけてくれた桜井昌司さん(布川事件冤罪被害者)

再審決定の骨子は「入院患者は自然死の可能性がある」「捜査段階の自白は誘導や迎合による虚偽の疑いがある」「西山さんが犯人とする合理的な疑いが残る」としている。検察は再審裁判で有罪主張すると宣言していたが、先の三者協議では「弁護団の主張を見てから判断する」などと筋違いなことを言ったという。いい加減にしろ!メンツのために長々と裁判を引き伸ばすようなことをせず、正々堂々と公判で有罪を主張してみればいい!自ずと美香さんの無罪は明らかになるはずだ。

なお、井戸弁護士のお話のあと、西山美香さんへのインタビュー、冤罪・鈴鹿殺人事件の加藤映次さんのご両親のアピール、3月に結成された「冤罪犠牲者の会」の共同代表・青木恵子さん、サプライズでかけつけた桜井昌司さんのアピールが続いた。美香さんのインタビューと、冤罪・鈴鹿殺人事件については、後日、改めて寄稿したい。

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号 尾崎美代子さん渾身の現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」、井戸謙一弁護士インタビュー「『子ども脱被ばく裁判』は被ばく問題の根源を問う」を掲載!

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』7月号

真夏のような暑さが続いた大阪、「あいりん労働福祉センター」のシャッターが閉められた日から、恐れていたことが現実となった。

「日本付近は高気圧に覆われ、暖かい空気に覆われるばかりか、強い日差しが降り注ぐでしょう」との天気予報が出された5月25日、大阪も真夏のような暑さに見舞われた。センター周辺には4月25日、国と府の職員が勝手にセンター内から外に出した荷物について「処分します」と日にちを切られた5月24日から、「勝手に処分するな」「中の荷物を返せ」と多くの労働者、支援者が集まっていた。

真夏のような暑さになった5月25日、センターが閉まって以降、恐れていたことが起きた

午後2時、野宿者から「朝から動いていない人がいる」とテントに連絡が入った。センター北側、JR新今宮駅を下車、国道43号線の横断歩道を渡った場所、日差しはじりじりと暑さが増している。2時20分、男性が泡を吹くなど状態が急変したため、119番通報し救急車を要請。痰と未消化の麺とスープを吐瀉。10分ほどのち到着した救急隊が脈を確認したあと、心臓マッサージを施すも回復せず、近くの杏林病院に運ばれた。しかし彼が再び戻ってくることはなかった。

15時、病院で死亡が確認された彼は、見たところ60歳位という人もいた。持病があったかどうかなど個人情報は不明だが、シャッターが開いていれば、その命は救われたかもしれない。

せめて救急車が到着するまで、センター内に運び、ひんやりするコンクリに寝かせてあげることができていたら、冷たい水を口に含ませたり、水に濡らしたタオルを腋の下に置いてやれば、かなり高温に上がったと聞いた体温を少しは下げれたかもしれない。センターのシャッターを閉めるということは、救えるかもしれない命を、救えなくさせてしまうということだ。

センター上の医療センターがまだ開いているならば、下のセンターも開ければいいだろう! そうして始まったセンターの闘いは、4月1日以降集まった労働者、支援者らの力で自主管理が続いていたが、4月24日暴力的にシャッターが閉められた。反撃の場は外のテントに移ったが、そこには全国から支援物資やカンパが届けられている。

テントでは週1回、センター周辺で野宿している人を中心に呼び掛け、困っていることなどの情報を共有する会議「寄り合い」が開催されているが、回を重ねるたびに参加する人が増えている。多くの労働者と支援者らが助け合って守るテントを拠点に、多くの命はつなげられてきた。しかし…救えない命もあった。厳しい闘いがまだ続く、釜ヶ崎から報告する。

◆「退出をお助けしただけです」と言い放った国の職員

センターからは4月24日強制的に排除されたが、中の荷物は翌25日、国と府の職員の手で、勝手にセンター内から荷物が外に放り出された。「取りに来なければ処分する」と期限を切られた5月24日、朝9時からテント周辺にどんどん人が集まってきた。

この日に先立つ21日、約70名の労働者と支援者で、谷町四丁目の大阪労働局(国)と、大阪城前の大阪府庁に抗議と話し合いの申し入れを行ってきた。労働局の職員(一人は会計課のオオクボ、もう一人は名乗らず)は「代表3名とならば、話し合う」といってきたが、私たちは「代表などいない。全員が当事者だ」と提案を拒否し、全員でおのおの抗議した。

5月21日国(大阪労働局)に対して、4月24、25日の暴挙に対する謝罪を求めた

「電気止められたトイレに置いた非常用照明器具がない」「仕事で使う安全靴が見当たらない」など荷物が戻ってないことに抗議する声が多い。また、24日4、5人で身体を掴んで強制排除したことの違法性を問うと、国の職員は「退出をお助けしただけです」などとふざけたことを言い放った。

これに対して、自らも地元静岡の野宿者の支援活動を行う、笹沼弘志静岡大学教授は「大阪の釜のセンターでの国と大阪府による強制排除と荷物強奪は、生きる権利と生きるために必須の最小限度の財産の侵害であり、絶対に許されない。国と府は当事者に謝罪し、荷物を返却し、誠実に話し合うべきである」と5月21日ツィッターに投稿している。

その荷物について、「取りに来ない場合処分するというのは、4月25日出したものか?」と質問すると「4月25日出したものだ」と労働局(国)の職員は断言した。現在センター周辺には、4月25日前から野宿している人の荷物、4月25日以降に野宿を始めた人の荷物が混在している。「どうやって4月25日に出した荷物とわかるのか?」と質問したら「(中にあった荷物の)リストを作成している」と答えた。さすが、国のやることは違うな。ちゃんとリストを作成していたのだ。いや、人の荷物を勝手に出したのだから、荷物がなくなったりしないよう、管理するためにリストは必要不可欠であるから、当然といえば当然だ。ならばそのリストを確認させてもらおうではないか?

6月5日、再び大阪労働局(国)に押し掛ける! 21日大阪府庁の中にも入れず、炎天下に立たせたまま、あげく「お前、誰や?」とヤクザ紛いの口調で労働者を恫喝したシバや、「稲垣さん、昨年地震があった際、真っ先にセンターから逃げたじゃないですか?」と、突拍子もないデマを突然言い出すナカムラなどしか出て来ない大阪府を相手にする暇はない。センター1階を管理する国にきっちり責任を取らせていこう!

大阪府は庁舎内にも入れず、暑い外で対応。労働者に「お前、誰や?」とヤクザ紛いの暴言を吐く府職員

◆なにが「(再開発のために、釜ケ崎の)労働者には我慢してもらう」(橋下徹)だ!

このセンター建て替え(潰し)問題の発端は、2008年大阪府知事となった橋下徹氏が、2010年4月19日、大阪都構想の実現を掲げる地域政党・大阪維新の会を設立、その代表となり、翌2011年大阪府知事を辞任、11月のダブル選で大阪市長に当選したのちに掲げた「西成特区構想」の目玉として打ち出されたものだ。

「西成が変われば大阪が変わる」をキャッチフレーズに、大阪府警・西成警察署と行政、更には「まちづくり会議」と一体となって進めてきたが、そこに労働者の声が反映されていなかったことは、3月31日、大勢の労働者、支援が集まったため、シャッターが閉めれなかったことからも明らかだ。

働けなくなったらポイと捨てるなど、普通の企業では考えられないことだ。日雇い労働者だからと許されることではない。しかし部落差別や障がい者差別を平気で行う議員を多数抱える維新は、釜ケ崎の労働者、更には西成をも差別の対象に考えているようだ。

2015年「都構想」の是非を問う住民投票の際に配布された維新のチラシには、「都構想で住所から西成をなくせます」と書かれていたそうだ。そんな維新の釜ヶ崎の日雇労働者への差別感情を露わにした事件が、2015年大阪市市会議員西成区補欠選挙のさいに起こった。

立候補した稲垣浩氏(釜ヶ崎地域合同労組委員長)が、西成区役所前で演説していた際、遅れてきた維新の関係者が場所をとるために、「よごれ! あっち行け」と言ったそうだ。「汚れ」を意味する「よごれ」を西成警察署内では「450」と隠語で呼ぶそうだ。

こんな差別的な警察、行政、「まちづくり会議」が一体となって進める「西成特区構想」-センターつぶしは、「都構想」実現を一歩一歩前に進めるものだ。大阪維新の「都構想」をつき崩す闘いを、釜ヶ崎から闘っていこう! 大阪維新を許さない皆さん! 釜ヶ崎に来たらええねん!

大阪維新の関係者に「よごれ!あっちいけ」と言われた稲垣浩候補(釜ヶ崎地域合同労組委員長)[写真右]

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

6月11日発売開始!〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』20号! 尾崎美代子さん渾身の現地報告「原子力ムラに牛耳られた村・飯舘村の「復興」がめざすもの」掲載!

「おかん、あのおっちゃんはどこから来たん?」。幼い子が道端の野宿者を指差しておかんに聞いた。よその国から来たとでも思っているのだろうか? 「令和」「令和」の大合唱と「奉祝」ムード一色の中、日の丸振られるあの二人と一緒、野宿するおっちゃんもおかんの股ぐらから産まれたんやで。

そんな「奉祝ムード」とは裏腹に、4月24日センターから締め出された人たちが集まるシャッター前では淡々とした時間が流れている。減るかと思われた荷物は日ごとに増え、仮設トイレも設置された。「こっちの方が大勢いるから安心や」と新たに寝床を求めてくる人。「『この国は冷和(つめたいわ)』の看板、センターの中に入ったままや。 いつ返すんや」と怒る人。

このあいだホルモン屋きらくで常連客が話していた。「センター潰した跡地にな、子どもが遊べる公園とか出来るらしいで」「緑地公園みたいな、あれか?」。建て替え後のセンターがどうなるか、行政・まちづくり会議では、まだ決まってないと言いながら、こうした曖昧な情報が独り歩きする。

しかし南海電鉄高架下の仮庁舎を見れば、彼らの魂胆は明らかだ。釜ケ崎で長年働いてきた労働者やおっっちゃんを閉め出し、「安心・安全なまちづくり」「子育て世帯を応援!」「笑顔溢れる」などのキャッチコピーで「まちづくり」を進めるつもりだ。そこにホルモン屋で安い焼酎を飲むおっちゃんらの居場所はないで。

身体も荷物も表に放り出されたが、まだまだ闘いが続く、釜ヶ崎のセンターから報告する。

◆誰のための、何のための「まちづくり」(西成特区構想)か?

1月5日に開催したシンポジウム「日本一人情のある街、西成がなくなる?!」でパネラーを務めた島和博氏(大阪市立大)氏はまちづくりに関してこう話した。

「『まちづくり』は今ブームです。いろんなところで『まちづくり』運動がやられている。そのときに私なんかは、ちょっと違和感を感じる。『まちづくり』はいったい誰がその主導権を握ってやっているのかが語られていない。市民の『まちづくり』運動なんてありえない。誰が主導権をとってやるのかどうか、そこを考えないで『みんなにとって良いまちづくりをやろうね』とやると『西成特区構想』みたいなロジックに巻き込まれてしまう」。

その「西成特区構想」のプログラムは、2012年、橋下徹元市長の「西成が変われば大阪がかわる」発言から始まったと指摘するのは、同じく同シンポのパネラー原口剛氏(神戸大准教授)だ。原口氏が翻訳し、広めている「ジェントリフィケーション」という言葉は 、西成特区構想が何を狙うのかを考えるとき、非常に役に立つ。原口氏はこう語った。

「このジェントリフィケーションの標的になるのは、どこでもそうなんですけど、都心の貧しい人が暮らす地域です。こうした地域は都心ではあるが、家賃や地価が安い。安いからこそ、貧しい人たちとか住まうことができ、コミュニティをつくることが出来た。ところが家賃や地価が安いことに目をつけてデベロッパー(土地開発業者)などの不動産資本が進出してくる。つまり安い土地を元手に開発することで、莫大な利益を生み出そうとする。そういった事態が起きてしまった」

「それから釜ヶ崎や西成の場合には、家賃や地価の安さのほかに、もう一つ条件が加わります。それは交通アクセスです。関空とか、新幹線ですとか、あるいはダウンタウンとかそういった盛り場にアクセスがいい。この点をもって『この街をそのままにしておくのはもったいない』という主張が出てくるわけです」。

◆警察主導、官民一体で進む「西成特区構想」で釜ヶ崎はどうなるのか?

大阪維新が進める「西成特区構想」は、 民意で進められたとよく言われる。確かに2014年9月から6回にわたり開催された「あいりん地域まちづくり検討会議」は誰でも傍聴できた。しかしある回でファシリテーター役の委員が、私たち参加者の意見を紙に書かせボードに貼るワークショップを見たとき、「これは怪しい」と直感した。こうした手法は様々な場所で行われているが、「意見を聞いた」とはなるが、何も決定はしない。委員の1人もtwitterで「まちづくり検討会議に決定権はありません。行政は尊重するとしているだけです」と書いている。

その後、非公開で行われているテーマ別の各部会も同様だ。委員で参加する稲垣浩氏(釜ケ崎地域合同労組委員長)は、シンポの中でこう話している。「会議はもともと何かを決定する場所じゃなくて、意見を言うだけの場所なんです。決定するのは大阪市、大阪府、国の行政です。役所は自分たちの都合のいいところだけ、委員の発言をとって、それで進めていくんですね」。

震災と原発事故からの「復興」が進む福島県飯舘村で元酪農家の長谷川健一氏が、「復興委員は村長のイエスマンばかり。復興計画(案)は天から降りてくる」と話したが、釜ヶ崎も同じだ。違うのは、警察権力の力を借りなければ計画が進められないという点だ。

その大阪府警・西成警察署は、2014年6月19日開催の「西成特区構想テーマ別シンポジウム~観光・福祉について」の中で、西成特区構想に「5ケ年計画」(2014~2019)で参画することを表明した。5億円の予算がつき、監視カメラを100台超も増設、そして官民連携による「不法投棄」「露店、覚せい剤(売人)」の摘発」などを進めてきた。

覚せい剤撲滅キャンペーンには「まちづくり検討会議」の各団体が協賛団体となっている(注:「釜ヶ崎医療連絡会議)は仲間の指摘を受け、参加していない)。彼らはヤクザのあとに誰が「撲滅」の標的にされるか、考えていたのだろうか?

同じく2014年から始まった西成警察の「あいりんクリーンキャンペーン」にも、先の委員や関係者が多数参加している。パレードのあとお茶や下着、ズボンなどが配布されるが、急いで前に出ようとする労働者を「9人づつ言うたやろっ」と怒鳴り付ける作業服姿の若い警官。このような警察主導の官民一体の連携体制を長年かけて強化してきたからこそ、4月24日センター内の労働者らに対して、何の躊躇もなく暴力的な排除がやれたのだろう。「安心・安全なまちづくり」を主張する人たちは、どちら側に立っているのだ!

◆「令和」の大合唱から弾かれた人たちこそが、今、声を上げなくてはならない!

「もう決まったことやろ?」。センターでビラを撒いていると、そんな労働者の諦めるような言葉を良く聞く。島和博氏は労働者が高齢化し生活保護を受ける中で闘う力を奪われてきたからだと説明する。生活保護を否定するものではないが、本来権利であるはずの生活保護が、行政(お上)から与えられる「恩恵」にされてしまっているからだ。

役所の窓口で「その歳まで何をやってきた?」「面倒見てくれる家族はいないのか?」「所持金を使いきったらまた来い」とさんざん虐げられ、警察、行政「お上」に逆らえなくされた労働者も少なくない。「令和」「令和」の大合唱が更に「黙ってろ」と圧力をかけてくる。

黙っていたら、殺(や)られるぞ! ヤクザのあと標的にされたのは、「令和」「令和」の大合唱から弾かれ、「民主主義」も「法の下の平等」も何もない、天皇制の真逆に追いやられた、釜ケ崎の労働者だ! 維新の「都構想」につながる「西成特区構想」──センター潰しに反対しよう! 5月19日15時半、釜ケ崎の三角公園に来たらええねん!

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』19号 「はなまま」尾崎美代子さんによる報告「美浜、大飯、高浜から溢れ出す使用済み核燃料を関西電力はどうするか?」を収録

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