日本で唯一の冤罪ラジオ番組を企画制作しながら、冤罪犠牲者の会事務局長を務めておられるなつし聡さん。インディーズレーベル「アルファミュージックデザイン/ユメミノ音泉村」を主宰しながら音楽活動をしていたなつしさんに、冤罪問題にかかわり始めたきっかけ、現在放送している「塀の中の白い花~ほんとに何もやっていません」で取り上げた事件についての思い出、冤罪をなくす、減らすために、私たちはどうしたらよいかなどについて語っていただいた。[聞き手・構成=尾崎美代子]

── なつし聡さんは、えん罪ラジオ番組「塀の中の白い花~ほんとに何もやっていません」をやっておりますが、そもそも何がきっかけで冤罪に関心をもたれたのでしょうか?

なつし その番組は2017年8月より続いていて、丸5年を過ぎたところです。私は元々音楽関係の仕事をしていまして、音楽編集の技術があったので、それがそのまま番組編集に役立ち、ラジオ番組の企画制作をやるようになりました。若いころから冤罪には関心があったので、集会やイベントには時々出かけていました。

約10年前「SAYAMA~見えない手錠をはずすまで」という狭山事件の石川一雄さんご夫妻に密着した映画のイベントに行きました。ゲストに来ていたのが布川事件の桜井昌司さん、一緒に逮捕された杉山卓男さん、足利事件の菅家利和さんでで、映画監督の金聖雄さんが「それでは獄友の皆さんをご紹介します」とゲストが紹介しました。皆さん、獄中にいたとは思えない爆笑トークで、主に笑いをとるのは桜井さんなんですが、「俺たち、立候補しますよ!ムショ族で」とか。杉山さんが「やっと真人間になりました」というと、すかさず桜井さんが「なってない、なってない!」と釘を刺す。プロのコメディアンみたいに絶妙の間を持っていました。

獄友トークが終わると、桜井さんが2曲ほど歌うというので、一応音楽家の私は「参ったなあ。このオッサン、ここで歌うの?」と思ったのです。カラオケが流れてきて、1曲目に「闇の中に」という、獄中で作ったという歌、房の中から小さな窓の向こうに見える闇を眺めながら、少年時代の自分や両親への想いを切々と歌っている曲でした。私の好きな音楽とは全く違う曲調ですが、歌詞の言葉がどんどん私の中に入ってきて、謳われている情景が鮮明に脳裏に浮かびました。「これはすごい歌を聴いてしまったな」というのが率直な感想で、イベント終了後に桜井さんのCDを買い、数日間聴きこみました。

彼を番組にゲストで呼びたいなあと思いましたが、私がそのとき持っていたのは音楽番組です。「音楽番組に冤罪当事者を呼んでもなあ。そうだ、彼をシンガーソングライターとして呼ぼう!」と思いつき、金監督に連絡を取って貰いました。私の事務所兼倉庫で収録を行いました。驚いたことに桜井さんはラジオDJみたいに喋りがお上手なのです。ラジオというのは目の前にリスナーがいません。マイクに向かって喋る人は沢山いますが、リスナーに向かって喋れる人は多くいません。しかし、桜井さんは最初からリスナーに向かって喋っていました。

「そんなに喋りが得意なら、ラジオ番組やったらどうです?」と訊くと、間髪入れずに「やりたい!」という返事が返ってきました。「今まで、いろいろなことを自由にできなかったので、なんでも挑戦したいんです!」

「分かりました!では私が段取りつけるので、お金(電波使用料)とゲスト集めてください」

それから数か月後に始まったのが『桜井昌司の言いたい放題!人生って何だ!!』という番組です。

インタビューを受ける桜井昌司さん。奇しくも50数年前のこの日は、桜井さんがラジオで布川事件を知った日だった

── では冤罪ラジオ番組というのは、最初は桜井さんと何度かやって、それ以降いろんな方にお話を聞いていくという形になったのですね。これまでどれ位の方々に放送を行っているのでしょうか?

なつし 最初の『桜井昌司の言いたい放題!人生って何だ!!』という番組は、毎週放送でしたので、週に一度桜井さんにお会いしました。1回の収録で2週分の収録をするようになり、番組制作を通じて冤罪の世界にどんどん近づいていきました。しかし、毎週放送だと、放送したと思ったら、すぐに収録するという繰り返しで、放送日に追われて生きている感じになり、

少しゆっくりとした時間が欲しいということになり、この番組は1年半で終了します。

しかし冤罪ラジオ番組は日本でたったひとつだし、番組には使命があると感じていたので、新しい番組を作ることを考えていました。それが現在放送中の『塀の中の白い花~ほんとに何もやってません』です。これまでもう120人くらいインタビューしたと思います。2022年11月7日の放送が第142回放送でした。コロナの前は対面で収録していましたが、コロナ以降はオンラインや電話収録も取り入れています。放送予定に穴を開けられないので、収録はこの日までに終わらせるというスケジュールが必然的に出来てきます。ゲストの方とスケジュールが合わず、オンライン収録をする機会も増えてきました。ですが、なるべく同じ空間で録音するのが音質的にもベターです。

── HPに「暗い」「重たい」イメージの冤罪事件をわかりやすく伝えたいとあります。私も京都の平野義幸さんの事件で出演しましたが、なつしさんには、非常に話しやすく、話を引き出してもらいました。お話を聞く際、どんなことに気を付けてやっておりますでしょうか?

なつし 例えば司法の専門家が話すと、どうしても難しい専門用語、一般人には理解できない部分が多々できてしまいます。なるべく専門的にならないよう、普通の言葉で、話をするよう心がけています。毎回流れている番組のオープニングでは「この番組は冤罪が誰の身にも起こりうる身近な問題であることをお伝えし、一緒に考えていただくことを目指している番組です」というナレーションが入ります。この姿勢を忘れないようにしたいと思っています。

出演して頂いた時に、話しやすいと感じて頂けていたなら光栄なことです。お招きするゲストは事件の当事者の他、当事者に近い所にいらっしゃる方々です。私は質問をしながら、いろいろ教えていただく立場でいようと思っています。

── これまでとくに印象に残っている方やお話などありますでしょうか?

なつし やはり冤罪の世界に足を踏み入れるきっかけとなってくれたのは桜井昌司さんです。『桜井昌司の言いたい放題!人生って何だ!!』のエンディングでは、彼が「皆さん、親孝行してくださいよ」と毎週言っていたのを思い出します。その番組ではDJが桜井さん、私は録音編集係。ヘッドフォンをしながら、彼の「皆さん、親孝行してくださいよ。生きているうちしか親孝行出来ませんから」という声を耳元で毎回聴いたわけです。親に対する姿勢を変えてくれた言葉です。

あと青木惠子さんが初めて無罪判決を聴く場面の話は強烈に印象に残っています。彼女はいろんなことを思い出していて、裁判官の声が聞こえなかったそうです。しかし、裁判官が退廷する際、青木さんのほうを振り返って、まるで「もう大丈夫」というかのように頷いたそうなのです。青木さんはその瞬間に「ああ、無罪だ。すべて終わったんだ」と初めて理解したそうです。それを聞いたらもう泣けて泣けて、涙が止まらなくなって、録音を停止しました(苦笑)。

ナビゲーターのなつし聡。取り調べの苛酷さに驚きを隠せない

── なつしさんは冤罪犠牲者の方の面会や差し入れも行ってますね?

なつし 面会に行っているのはまだ2人なんです。1人は私が支援団体の会報を作っている鈴鹿殺人事件の加藤映次さん。彼とは主に会報の打ち合わせがメインの話題です。冤罪犠牲者の会に送られてくる手紙は私が最初に開封するので、私が返事を書けば文通が始まることになります。冤罪犠牲者の会の会員で、なおかつ獄中で無実を叫んでいる人は約20人いまして、このほぼ全員と文通したり、本や冊子を送ったりしています。

── やはりHPに、このラジオ番組を初めて以降、えん罪は減るどころか増えていると書かれていました。私もそう感じています。青木恵子さんが支援している杠さん(滋賀県バラバラ殺人事件)のように、本人がえん罪犠牲者と自覚できてなくて、「何故こんなことが起きたのか?」と考えていたら、ジャーナリストの今井さんが「冤罪ではないか」と面会され、えん罪だとわかったような事件もあると思います。多分、そういう方は多数おられると思います。

なつし 事件も事故もないのに容疑者になってしまう、そんなケースまであることを、私も知り、ショックを受けました。冤罪を作っているのは警察と検察です。中には正義感に燃えている(燃えていた?)人もいると思いますが、彼らは「正義より組織」という価値判断で動きます。若い頃に抱いた志は忘れてしまうのか、過ちは絶対に認めないし、謝罪もしません。権力を持っている分、ヤクザより悪質です。あ、興奮してきてしまいました。

ある日突然、事件に巻き込まれ、「え? 何? 俺が殺人犯? なんで?」と思っている人は何人もいます。日本の司法制度は中世並みと言われて久しいですが、このままでは本当に世界中の笑いものです。

インタビューの合間に将棋に興じるふたり。桜井さんは千葉刑務所の将棋大会でも敵なしのチャンピオンだった

── このラジオ番組のほかに、なつしさんは「冤罪犠牲者の会」の事務局も務めておられます。会はどういう目的で作られ、どういう活動を行っているのでしょうか?

なつし 「冤罪犠牲者の会」は、2019年3月2日に結成総会が行われました。桜井昌司さんが発起人となり、全国各地で冤罪犠牲者がバラバラに上げていた小さな声を束ねて、大きな声にしていこうという目的で結成され、5つの実現目標を掲げています。

①裁判当事者への証拠閲覧権付与
②再審決定後の検察上訴権廃止
③国会における冤罪原因調査委員会設置
④捜査関係者・裁判関係者(証拠のねつ造・改ざんに関与した者)の責任追及
⑤再審審査会の設立と証拠管理の厳格化(再審判断を第三者の手に委ねる)です。

現在、「冤罪犠牲者の会」と「再審法改正をめざす市民の会」の合同で、再審法改正の必要性を訴えるため国会議員会館の全議員事務所をまわる要請行動を実施中です。再審法を改正してもらうためには国会議員の51%以上の賛成が必要だし、その前に超党派の議員連盟を作っていただかなくてはならない。それを訴えるための地道な陳情行動です。なにせ衆院の定数は465もあります。2日かけて衆院第1議員会館が終了、第2議員会館は半分残ってしまいました。続きは後日。参加した全員が腰痛になりました。しかし、これはやらなくてはいけません!

── 確かにそうですね!そしてラジオ番組が2年前海外メディアから取材を受けた件で、今回「カンヌ コーポレート メディア & テレビ アワード」の政治問題ドキュメンタリー部門の最高賞「金イルカ賞」を受賞されたということですが。

なつし 受賞したのは制作者で、私は出演者の一人にすぎません。この賞「カンヌ コーポレートメディア & テレビアワード」は、企業映画、オンラインメディア、テレビ制作に特化した国際フェスティバルで、毎年10月にフランスのカンヌで開催されています。カンヌは映画祭で有名ですが、これはメディア業界で最も重要なフェスティバルのひとつと位置付けられているようです。

最初、私はラジオDJとしてインタビューを受けたり、桜井さんや袴田ひで子さんにインタビューしたり、撮影に協力していましたが、いつの間にか、私を番組のナビゲーター的な立ち位置で描いた編集がなされ、私自身かなり照れくさいと言いますか、驚いています。撮影スタッフは1人の日本人女性を除いて、すべて外国人。しかし、彼らは日本の「人質司法」を良く調べていて、設定した目標に向かって着実に仕事をしている、そんな印象を受けました。とても貴重な体験をさせていただきました。

制作チームのASHI FILMS

── 読者の皆さんにもぜひ視聴して頂きたいですね。最後に「再審法改正」問題含め、今後の抱負などお話下さい。

なつし はい。日本は、国連人権理事会にあるUPR(普遍的定期的審査)から218項目もの改善勧告を受けていながら、ずっとこれを無視してきました。女性の地位が低い、女性の社会進出が難しいなどジェンダー平等に関する問題から、死刑制度存置まで、様々な人権問題が未解決だと指摘されています。世界から見れば、日本は人権後進国です。例を挙げればきりがないですが、統一教会に対して解散命令が出せない現状、被害者救済が遅れている現状、すべて人権に関係があります。海外では小学校から人権教育と主権者教育を行っているそうです。小学校から人権とは何かを教え、国の主、主権者は一般市民なんだと教える。政治家をセンセーなどと呼んでいる時点で日本は遅れています。道徳を必須科目から外して、人権教育と主権者教育を入れるべきだと思っています。そういった疑問点に気づいていただけるよう、問題提起の道具としてラジオを使っていきたいと考えています。

── 今日はどうもありがとうございました。

◎[関連リンク]えん罪ラジオ番組「塀の中の白い花~ほんとに何もやっていません」

◎[関連リンク]なつし聡 オフィシャルサイト

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

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◆広報室長・廣瀬氏の証言

次に、1月12日、動燃の行った3回の会見すべてに同席した広報室長・廣瀬氏の証言記録を見てみよう。

廣瀬氏は、大石氏に「12月25日と正直に答えなさい」と指示をされたのは、1回目の会見後の打ち合わせだったと証言している。ならば、その直後の2回目会見で、大石氏自身が正直に12月25日と答えれば良かったのではないか? そうすれば、3回目の会見に西村氏は駆り出されたりすることも、さらに死ぬこともなかったのだ。

弁護人にそのことを質問された廣瀬氏は「理事長はやはり理事長としての立場がございますから、やはり物事の本質論ですとか、そういうことを述べるというのが当然だと思います」などと証言した。

また、廣瀬氏は、会見を終えた西村氏に、科技庁の会見場から出た廊下で「なぜ1月10日と言ったのか?」と尋ねたという。その際、西村氏からは「年をまたいだら、もたないだろうと思った」と言われたと証言した。妻のトシ子さんは「一職員でしかない西村がそんなこというかしら」と言う。確かに、理事長が「12月25日と正直に答えなさい」と指示しているのに、一職員の勝手な判断でそんなことをいうだろうか。

しかし、西村氏がそう言ってしまったために、廣瀬氏と安藤氏は「訂正会見をやらなければ」と帰りの車中で話しあったという。

そもそも安藤氏と廣瀬氏は、西村氏の会見で同席しながら、西村氏が理事長大石氏の指示に従わず、「1月10日」と発言したならば、「何を言っているんだ」と驚いたはずだ。しかし、3回の会見を取り仕切った、廣瀬氏の部下A氏は、そのとき廣瀬氏、安藤氏に特別変わった様子はなかったと控訴審で証言している。

一方、西村氏の発言をその場で訂正できなかったか理由を質問された廣瀬氏は「常識論として、調査をした人間の答えを調査しない人間が、間違いじゃないかというのは、プレスがたくさん集まって、テレビのカメラが回っている状況の中でできるかどうかというのは、常識的に考えれば、それはパスするということになるんじゃないでしょうか」などと、どこか居直ったように証言した。

理事長・大石氏、理事長秘書役・T氏、広報室長・廣瀬氏(いずれも当時)他4名、計7名の314頁に及ぶ証言記録

 

福井県敦賀市白木地区で出会ったおばあさん。「あの近くにうちの畑があった」と指さす先にもんじゅが建っていた

納得いかない弁護士は、廣瀬氏にこう迫った。

弁護士 西村さんの地位は何ですか。

廣瀬  総務部の次長です。

弁護士 大石さんの地位は。

廣瀬  理事長です。

弁護士 大石さんの指示は12月25日だったんでしょう。

廣瀬氏 そうです、はい。

弁護士 どちらが重いんですか。

廣瀬氏 ……。(無言)

◆西村さんの会見は失敗ではなかった

西村氏の死が自殺だというなら、動燃に安全配慮義務違反があったのではないかと訴えた裁判の一審は敗訴した。トシ子さんはすぐに控訴した。2007年に始まった控訴審で、トシ子さんらは「動燃は、記者会見で真実を公表するか虚偽の事実を公表するかの二律背反的な進退窮る状況におき、結果として虚偽の発表を強いた」旨に一部主張を改めた。

こういうことだ。大石氏は、理事長として、打ち合わせで「2時ビデオが本社にあったことがわかった日は12月25日と正直に答えなさい」と指示しつつ、自身の会見では「初めて知ったのは昨日(11日)の夕方」と真っ赤な嘘をついたことから、西村氏は12月25日と正直に答えるか、大石氏に合わせて、(大石氏に報告した前日の)1月10日と嘘をつくかの二律背反的な状況を強いられ、結果、嘘をつかざるを得なかったのである。

では、3回目の記者会見がどのような様子だったかを、先の廣瀬氏の部下のA氏の証言からみていこう。A氏は、会見の調整役として、12日の3回の会見をすべてを現場で見ていた。事前の打ち合わせに出ていないA氏は、大石氏の指示は知らないため、西村氏の発言が正しいかどうかはわかっていない。しかし、西村氏は、会見では厳しく追及されたものの、終了後は記者らに囲まれ、褒められていたと証言した。

次の場面である。

弁護士 この会見の後、西村さんとあなたは言葉を交わしてますか。

A氏  会見の後は交わしてないですね……。あるとすれば、接点は1回だけあるんですけども、それは(西村さんが)会見場を出てこられたときに記者に囲まれたんですよね。それで記者の皆さんが、非常に立派な会見というのはおかしいかもしれないけど、きっちりしてましたというようなことをおっしゃったんですよ、皆さんが。で、西村さんもお疲れなので、あまりそこでつかまってもあれなので、「じゃあ」ということで私が仕切ったと思います、その入り口のところは……。

弁護士 何かすごく記者が殺気立って、追及みたいなことがあったみたいな情報もあるんですが、むしろそうじゃなかったということですか。

A氏  外のところはなかったです。その会見の席は結構厳しいと思いました。

弁護士 厳しいやりとりはあった。

A氏  あったと思います。

弁護士 それで、これも会見終了後ですけれども、廣瀬さんが、なぜ1月10日というふうに言ったのかというふうに聞いたら、会見場を出た廊下の部分、いま、あなたが言ってたところなんだけど、彼(西村さん)が年をまたいだら持たないと思ったのでそういったと答えたと。ちょうどその本人が会見場を出てきた辺りでやられていたことのようなんですが、それはご記憶ないですか。

A氏  いや、そこではそういう話は多分しないと思いますね、記者に聞こえるところではしないと思います。

弁護士 そこからちょっと離れたところ。

A氏 だから、出て、私は記者をそこで引き留めてしまったので。ほかの方たちはすっと帰られたと思うんですね。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘いは続く

さらに、A氏は、上司の廣瀬氏から、間違った西村発言を訂正する会見を開く予定は聞いていたかと質問され、「ないです。私にしてみれば、なぜその日にやらないかというふうに思いますけどね」「(夜中でも)かまいません」と、当時は夜中の会見はざらにあったと証言した。

しかし、廣瀬氏と安藤氏は、「訂正しなくてはならないね」と話し合ったものの、その後会見は行わず、翌日の定例会見で訂正する予定だったと証言した。

しかし、翌日は土曜日で、通常定例会見を行うことはなかったと、A氏は証言した。A氏同様、当時会見に参加していた複数の記者が「西村さんは、初めての記者会見にしては堂々としていました。あのような厳しい状況のなかでの会見で、言うべきことははっきり言い、わからないことはわからないと対応していました。割とうまくやったと思います」と話している。

不本意だったとはいえ、西村氏の会見時での発言は、動燃職員としては間違っていなかったのだ。つまり、そのことを苦に自殺することは、まずあり得ないのだ。動燃から西村氏の死についての説明は一切ないなか、T氏の「西村職員の自殺に関する一考察」では、西村氏は、会見で間違った発言をしてしまったことを苦にした自殺とされた。しかもそれに、よって厳しい動燃批判は一挙に沈静化し、再び動燃はもんじゅ稼働を推し進めていった。

「組織防衛のために夫が生贄にされた」。

悔し気にそう話すトシ子さん。

もんじゅが、ほぼ稼働せず、廃炉が決まったのは、西村氏の死から20年後の2016年だった。その日、トシ子さんは、仏壇に置かれた夫の遺影にこう話しかけた。

「もんじゅのために死ぬことはなかった」──。(了)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
〈1〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44727
〈2〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44733
〈3〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44851
〈4〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44879
〈5〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44951
〈6〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44985

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

◆あの日、夫に何が起こったのか?

遺体発見時の10時間前に亡くなっていた動燃職員・西村成生(しげお)氏。しかし、妻・トシ子さんへの遺書には「3:40」との時刻が書いてあった。遺書は確かに西村氏の字だが、数字は別人のものだった。

「夫はどこかで無理やり遺書を書かされたあとで、殺害されたのでないのか」。

トシ子さんはそう確信し、8年後の2004年、ようやく闘ってくれる弁護士に出会えた。しかし、動燃を「殺人罪」で訴えたいというトシ子さんの要求はかなわず、西村氏が自殺したというならば、動燃に「安全配慮義務違反」があったと訴えることになった。

トシ子さんにとっては不本意だったが、証人尋問で証言した、理事長・大石氏、理事の大畑氏、安藤氏、広報室長・廣瀬氏、そして理事長秘書役・T氏らの証言の記録から、西村氏が不審死する前後に何があったのかが明らかになってきた。

もう一度時系列で追ってみる。1996年1月11日夕方、動燃本社で大石理事長、安藤氏、理事長秘書役のT氏らが出席し、調査チーム主催の会議が行われた。8時過ぎには、動燃と科技庁との間で、どのタイミングでメディアに公表するかが話し合われた。しかし、前述の通り、12日、中川科技庁長官が会見で「ビデオは動燃本社に持ち込まれ、本部員も見ていた」などと発言したためメディアが騒ぎ出し、動燃も急きょ会見せざるをえなくなっていた。

1回目の会見で理事の安藤氏は、メディアの質問にまともに答えられず、怒ったメディアから、理事長大石氏の会見が要求された。

安藤氏の会見後、大石氏、関係者らは1回目の打ち合わせを行った。会見前の関係者の打ち合わせは、この1回目と、3回目会見前の2回目があり、証人により、そのどちらの打ち合わせかは違っているが、全員が、大石氏が「『2時ビデオ』が本社に持ち込まれていたことを確認した日は12月25日であると、正直に言いなさい」と指示したと証言した。大石氏がそこまで「12月25日と正直に言いなさい」と指示したとなれば、確かにT氏の「西村職員の自殺に関する一考察」のように、西村氏が間違った発言を苦に自殺したとも推測できる。しかし、裁判で証言した大石氏、大畑氏、T氏、広報室長・廣瀬氏らの証言からは、そうした事実と相反する事実が次々と明らかになった。

◆誰が嘘をついているのか?

2006年2月、東京地裁で大石氏は、「2時ビデオ」が本社にあったことを知ったのは、1月11日の会議の場だったこと、調査チームからは、それまで1度も報告がなかったこと、西村氏には11日初めて会ったと証言した。ビデオ問題が、もんじゅ存続の可否を決める重大事項になっている最中、自ら指示して作らせた調査チームの職員に、会ったたことがなかった……そんなことがあり得るだろうか。

また西村氏、安藤氏、広報室長・廣瀬氏が、会見後に大石氏に報告した際、大石氏は「安藤理事がなんとか無事に記者会見を終えることができましたという旨の報告がありました」「西村氏に変わった様子はなかった」と証言した。

また大石氏は、弁護士に「西村氏がなぜ自殺したと思うか?」「本社に『2時ビデオ』があったことを確認した日が12月25日であったのに、1月10日と発言したことと関連しているかどうかについてはどう思うか?」と問われ、「わからない」と答え、西村氏が「1月10日」と発言したことは、西村氏の死後、秘書役のT氏から聞いたと証言した。繰り返すが、重要な会見で、出席者がどのような発言をしたか、理事長が知らなかったなんて、あり得るだろうか?

では会見後、普段と変わった様子のなかった西村氏が、なぜ自殺しなければならなかったのか? その原因と思われる個所を、西村氏が間違った発言を苦にして自殺したと「考察」したT氏の証言から見てみよう。

西村氏が会見に使った資料(想定問答集)には、西村氏の字で「1月11日頃」との書き込みがあった。それについて、弁護士がT氏に、打ち合わせで何が話し合われたかと質問した。

弁護士 弁護士21号証で、これは調査グループが調査に入ってから、12月25日であるという1つの想定の答えが書いてあって、その右側に1月10日頃という記載があるんですけれども。

T氏  はい、ありますね。

弁護士 どういうやりとりがあったかは思い出せますか。12月25日という書き込みがあり、他方、本当のメモ書きなんだけれども、コピーで1月10日というふうに残っている。この1月10日頃という書き込みの、この字は西村さんの字なんですけども、どんなやりとりが行われたか。

T氏  それは私には判りませんが、やりとりがあったのは私のほうからご質問させていただいたんでよく覚えているんですが、この質問の、Eが保管していた事実が判明したのはいつかということで、12月25日という回答がでたわけですね、議論の中で。

弁護士 回答って、事実でしょう、調査結果の。

T氏  (12月25日を)ここに書きましょうという。それで、そのときに私から理事長に、12月25日ということで本日になって発表すると、いままでの経緯、ビデオ問題をさんざん隠して社会の糾弾を浴びておりましたから、今日になって、12月25日に判明しましたということをいうと、また騒ぎになりますが、それで宜しいですねということを聞きました。そのときに理事長がいいと、事実をありのままに言いなさいとおっしゃったので、よく記憶しております。(中略)

弁護士 第3回目の記者会見に向けて、あなた自身は12月25日の日取りについて不安があったと。12月25日といっちゃうと10日間以上も何をやっていたんだという話になると、大丈夫でしょうかという不安があったとおっしゃるわけね。

T氏  はい。

弁護士 実際には、理事長は本当のことを言いなさいというんだと。第3回目では結局(西村氏は12月25日とは)言ってなかったということになったんですが、その記者会見はどう聞いておられますか。

T氏  だいぶあとですね。僕は(会見で西村氏が)1月10日というふうにいわれたということを知ったのは2日後ぐらいですから。

弁護士 要するに、西村さんが亡くなられたと、関係方面から耳に入ってきたという話ですよね。

T氏  はい。

動燃理事長秘書役(当時)だったT氏が書いた手書き文書「西村職員の自殺に関する一考察」1-2頁

同上 3-4頁

西村氏が発言した3回目の会見後、大石氏に報告した際、西村氏が1月11日と発言したことは、誰からも全く問題にならなかったと、T氏は証言した。西村氏の両隣には安藤氏、廣瀬氏もいたし、事前の打ち合わせで大石氏にあれだけ「12月25日と正直に言いなさい」と指示されながら、西村氏の間違った、ある意味大石氏に背くような発言を行ったことを、咎める、訂正させる人が全くいなかったということがあり得るだろうか?

大石氏が、12月25日と正直に言うことについて、T氏自身が懸念を示していたのだ。であるならば、会議でなんらかの対処法などが検討された可能性もあるが、それについてはT氏はきっぱりと否定。さらにT氏は、11日午前と12日午後に、大石氏はじめ関係者が出席した重要な会議に出席した事実が議事録にも残っているのに、「まったく記憶にない」と否定した。T氏の理事長秘書役という役職は、通常の秘書業務だけではなく、「理事長に関わる問題のほとんど全部についてかかわってくる。理事長に情報を提供したり、いろんな問題について提案をしたりする」と理事長の大石氏が証言していた。その T氏は、理事長秘書役として重要会議に出席していたことを、なぜ頑なに否定するのだろうか?(つづく)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
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▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

日本原子力研究開発機構(JAEA)は、2022年4月22日、高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)で行われていた原子炉内核燃料の取り出しを終えたと発表、今後は原子炉内を冷却していたナトリウムの抜き取り作業が行われることになった。

1兆1313億円もの総工費を投入しながら、ほぼ稼働せずに廃炉が決まったもんじゅでは、JAEAの前身である「動燃」(動力炉・核燃料開発事業団)時代に職員が不審死を遂げている。

1995年12月8日に起こった、もんじゅのナトリウム漏洩事故で、動燃は当初、事故直後の生々しい事故現場を撮影した「2時ビデオ」を隠蔽し、翌日撮影した「4時ビデオ」の一部しか公開しなかった。その後、地元自治体などの立ち入り調査で、「2時ビデオ」の存在が発覚。それまでも日本の原子力産業での秘密主義、隠蔽体質が問題視されていたが、こうした動燃の対応のまずさに、メディアや住民の非難が高まってきたことはいうまでもない。

そうした中で、動燃の大石理事長〈当時〉は、なぜこんなことが起きたかを内部で調査するチームが作らせた。不審死した西村成生(しげお)氏(当時47歳、以下西村氏)はその一員だった。

◆夫は本当に自殺したのか?

事故後の12月23、24日、西村氏ら調査チームは、敦賀市のもんじゅで職員に聞き取り調査を行った。その結果、「2時ビデオ」が事故の翌日に東京本社にも運ばれていたことが判明した。西村氏らは、翌25日、東京本社に戻ってすぐに大石理事長にそのことを報告、早急に公表すべきと進言した。

しかし、大石氏は公表を先延ばしし、国会で参考人に呼ばれた際も、公表しないまま、年を越してしまった。翌年1月、橋本龍太郎氏に政権交代したことから、新たな科学技術庁(当時)長官に就任した中川秀直氏が、記者会見で動燃が公表していない、その事実を突然公表してしまった。前日に、動燃から科技庁に提出された資料を、勝手に読んでしまったのだ。そのため、動燃も急きょ会見を行うこととなった。

 

西村さんが飛び降り自殺したとされるホテルの前でトシ子さん

1回目の会見に出席した安藤隆理事は、記者らの質問にまともに答えることができず、怒った記者らから、大石理事長の会見が要求された。2回目の会見に出席した大石理事長は、そこでも事実を公表せず、「2時ビデオ」が本社にあったことを知ったのは、1月11日だったと虚偽の発言をした。そして「詳細は、調査チームに話させる」と逃げたため、3回目の会見に調査チームの西村氏が駆り出されることとなった。西村氏は、そこで、大石理事長の発言にあわせ、「2時ビデオ」の存在を知ったのは、大石理事長が知った11日の前日の1月10日だったと発言せざるを得なかった。

3回目の会見を終えた西村氏は、科技庁から戻った動燃本社で簡単な打ち合わせを行ったのち、翌日早朝に、大畑理事と敦賀市に出張に出るため、東京駅近くのホテルに深夜1時ころチェックインした(ことになっている)。2時過ぎ、ホテルに動燃から西村氏宛のfaxが届き、浴衣姿の西村氏が、5枚の用紙を取りに来たこととなっている。その後、3時台に妻・トシ子さん、大石理事長、秘書役T氏の3人に遺書をしたため、早朝、8階の非常階段から飛び降り自殺したとなっている。

ホテルの敷地内で西村氏の遺体を発見したのは大畑氏だった。西村氏の部屋の机に3通の遺書があったことから、駆け付けた中央警察署は飛び降り自殺と断定したとなっている。

しかし、聖路加国際病院の霊安室で、西村氏の遺体と対面したトシ子さんは、8階から飛び降りたとは思えないに夫の遺体を見て、「何かがおかしい」とすぐに疑問を抱いた。

60人ほどの小さな葬儀を考えていたトシ子さんに、動燃は「もっと大きな会場を」「4人に弔辞を読ませる」などと無理な注文を付け、結局、国会議員など1500人もの弔問客が訪れる「社葬」のような葬儀が執り行われた。大石氏、T氏ら4人の弔辞は、西村氏の死を動燃の復活へと結び付ける内容で、その後メディアの動燃批判は一挙に沈静化した。

 

動燃本社の裏口。遅くに外に消しゴム1つ買いに行くにも記帳しなけれぱならなかったのに、あの日深夜、科技庁から戻り、ホテルに行くため出た西村さんの記帳は確認出来なかった

◆夫の死後、次々に起きた不可解なこと

「夫の死は政治的に利用されているのではないか」。そう考えるトシ子さんの周辺では、次々と不可解なことがおきた。初七日の翌日、総務部長から「お礼参りに来て欲しい」と連絡された。「お礼参り?」と訝しく思ったが、夫の死について何か聞けるのではないかと、息子らと動燃本社に出向いた。動燃本社に到着するなり、役員室に案内された。理事長などから西村の死について説明があると思ったが、役員20名がただ青ざめて立っているだけで、説明も何もなかった。そのつぎに、西村さんが在籍していた総務部に案内されたときだ。若い職員が駆け寄り「西村さんの机の上にあった沢山の資料はどうしたんでしょうね?」と言った。成生氏は普段から、秘密事項などの重要書類を扱うため、席を外す際には書類を必ず鍵のかかる引き出しにしまっていた。若い職員の言うことが事実なら、西村氏は、書類をしまう間もないほど急がされて、会見に引きずり出されたのではないか? トシ子さんの疑念は深まるばかりだった。

次に向かった科技庁では、中川長官から「生前の西村さんは何か言い残していないですか」と確認されるように聞かれた。トシ子さんは「もんじゅの担当にされてしまったよ」と、いつになく悔し気に語った西村氏を思い出した。トシ子さん自身、そう聞いて妙な胸騒ぎを感じていたのだった。

お礼参りの最後、新橋駅近くの雑居ビルに入る動燃関連会社「ペスコ」に向かった。ワンフロアを貸し切ったペスコに入った途端、トシ子さんはなんともいえぬ薄気味悪さを感じていた。平日の昼間なのに、動燃の職員が何人もいたうえ、みな、西村氏の死を悲しむような表情ではなく、平然としていた。葬儀で弔辞を読んだ一人、竹ノ内会長が「前の日もここで(成生氏と)一緒にお茶を飲んだのに…」とつぶやいた。西村氏が亡くなった前日1月12日は、科技庁の会見が予定されており、そこでの中川長官の発言から、動燃も緊急会見を余儀なくされ、1日中バタバタ慌ただしかったはずだ。ここに来てお茶を飲む時間などなかったはず…。トシ子さんはそう考え、「ここで何かあったのではないかしら」と思えてきた。

初七日後、初めて西村家に連絡してきた理事長秘書役のT氏の動きにも気になることが多々あった。葬儀後、初めての電話でいきなり「今どんな気持ちがするか?」と聞いてきた。そして翌日来訪すると伝えられた。来訪の理由は、自分が葬儀で読んだ手書きの弔辞を、ワープロのものに差し替えたいということ、もうひとつは、形見に、西村氏の着けていたウッジウッドのカウスボタンが欲しいと言ってきた。もちろんカウスボタンを渡さなかった。

その後、多くのメディアに「亡くなった西村職員の友人」として登場するT氏だが、ある日、トシ子さんから「Tさんは夫の親友でもなんでもなかったのよね」と聞いた。二人は大学が同期というだけで、趣味の麻雀やゴルフも一緒にやったことがない、2ショットの写真も一枚もないという。そしてT氏の書いた「西村職員の自殺に関する一考察」では、西村氏の自殺の原因は、3回目の会見で、西村氏が間違った発言をしたことではないかという。果たして、あの時点で、西村氏の発言は、「自殺」を考えるほど間違っていたものといえるのだろうか?(つづく)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
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▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

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◆遺書に書かれた「3:40」の謎

西村成生氏(以下、成生氏)の遺書は3通とも、動燃の社用箋に書かれ、一番上に遺書を認めた年月日、曜日と時刻が書かれていたが、報告書のように「以上」と締めくくられていたり、「勘違い」を「勘異い」、「発展」を「反展」、「通り越し」を「遠り越し」などの漢字ミスがあるなど不可解なことが多かった。

というのも、成生氏は、行政などに提出する公文書の最終チェックを行う総務部文書課にも長く属しており、文章には非常に厳しく、残されたノートなどにも誤字などはまったくなかったからだ。

「夫がそんな間違いをするだろうか」

不思議でならなかったトシ子さんが、遺書に書かれた「勘異い」「反展」などの漢字ミスを、その後、ある文章で知ることとなった。 それは、秘書役T氏が書いた「西村職員の自殺に関する一考察」の中でだった。

「一考察」にはまた、「妻宛の遺書にはこう書かれていた」との説明も書かれていた。T氏は「一考察」を、成生氏が亡くなった直後の1月15日に書いていたが、トシ子さんは、警察から手渡された遺書を、その後1年間ほど、誰にも見せていなかったのだ。その遺書の内容を、何故T氏が知っていたのか? それはのちの裁判で明らかになる。

成生氏の死から1年後、聖路加国際病院の医師に、成生氏の遺体は死後10時間くらい経って病院に搬送されたと告げられたトシ子さんは、遺書に書かれた「3:40」の字も偽装されたのではないかと疑い始めた。その時刻、成生氏はもう亡くなっていたのだから、時刻を書きこむことは出来ないではないか。

3通の遺書に多く書かれた「3」の数字を改めて確認すると、大量に残された成生氏の生前の文書に記された「3」とは明らかに違っていることがわかった。しかも、何時何分と書く際、何分を何時より小さく書き、下に線を1本引くという成生氏のクセもないことにも気づいた。遺書の字は確かに成生氏のものだが、遺書を認めたという時刻は、誰かがあとで書き足したものではないか?その時刻に、あたかも成生氏が生存していたようにみせるために……。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さん

◆夫の死の真相を追及する闘い

夫の死の真相を何とか知りたいと、1年後、トシ子さんは宿泊していたホテルに宿帳を見せてほしいと求めたが拒否された。同じころ、聖路加国際病院の医師から、成生氏の遺体は死亡から10時間経過していたと聞かされたトシ子さんは、成生氏の遺体を処理した中央警察署に説明を求め訪れた。刑事課長は名前すら明かさなかったが、代わりに対応した課長代理が、成生氏の遺体に関する説明を行った。

トシ子さんは、「ホテルの部屋や8階の非常階段に成生さんの指紋はあったのですか?」と尋ねると、「指紋の資料はない」と答え、さらに「救急搬送する前に、警察で遺体を見ているのですか?」と尋ねると、「見ています」とファイルを差し出した。

そこには、成生氏の頭部と全身を写した写真が3枚あった。しかし、転落現場を撮った写真は1枚のみ、スーツ姿の成生氏が転落したコンクリートの地面ではなく、担架にうつぶせに寝かされているものだった。なお、ホテルにチェック・イン後、成生氏に動燃から送付されたFAX用紙について、中央警察署は把握していないとの回答だった。深夜2時過ぎにホテルに送信され、浴衣姿の成生氏がフロントに取りにきたという5枚のFAX用紙はどこに消えたのだろうか?

その後、トシ子さんは、死体検案書を作成した東京都監察医(当時)の大野曜吉氏に面談した。大野氏は、「検視は、1月13日午前10時55分頃。聖路加国際病院の霊安室で行った。立会人は、中央警察署の警部補だった」などと話した上で、難解な説明が長々話すので、トシ子さんはそれを止めるように、こう質問した。

「深部温度は計ったのですか?」

素人のトシ子さんから医学的な専門用語が出たため、顔色を変えた大野氏、「計ってません。なぜそんなことを聞くのか?」と聞いてきた。

トシ子さんはそれに答えず畳みかけるようにこう聞いた。

「じゃあ、どうやって死亡推定時刻を判断したのですか?」

すると大野氏は「遺体の発見は5時40分だと(立ち会った)警部補がいうから、それのやや前だろうと(考えた)」と答えた。

さらにトシ子さんが「転落したらしいと書いてありますが、なんで『らしい』なんですか?」と尋ねると、それも警部補からの伝聞だという。あまりにずさんな鑑定ではないか。

そのためトシ子さんは、監察医の大野氏を死体検案書の虚偽私文書作成で、秘書役のT氏を遺書の私文書偽造で、東京地検特捜部に告訴したが、2件とも「嫌疑なし」で不起訴となった。

2002年10月、トシ子さんは、東京都公安委員会に犯罪被害者等給付金請求申請を提出したが、翌年棄却。2004年10月13日、トシ子さんは2人の息子と、核燃料サイクル開発機構(旧動燃)に対して、成生氏の死が「自殺」というならば、動燃から虚偽の説明を強いられたためだとし、安全配慮義務違反の損害賠償を求める裁判を提訴した。

しかし、東京地裁は「動燃が虚偽の発表を強いたとはいえない」として請求を棄却、東京高裁も「動燃には自殺を予見できなかった」などとして一審を支持、2012年、最高裁は上告を退ける決定を下した。

しかし、高裁判決では「もし虚偽の回答をしてしまったことが発覚した場合には、もんじゅ現地のみならず動燃本社までもが嘘をついているとして、社会から厳しい指弾を受け、大石理事長の早期辞任はもとより、動燃の体質論から動燃の解体論にまで発展しかねない重大な事態を引き起こす危険性があった」と認定した。

成生氏の死が、まさにその「重大な事態」を食い止めたのだ。

2015年2月13日、警視庁中央署に対し、成生氏の全着衣、FAX、遺書作成に使用した筆記用品などの遺品について、返還を求める未返還遺品請求を提訴したが、2017年9月13日、東京高裁で棄却された。

さらに2018年2月22日、日本原子力研究開発機構と大畑宏之理事に対し、成生氏の全着衣、FAX、遺書作成に使用した筆記用品、手帳、事務机内の全遺品の返還を求める未返還遺品請求を提訴。その後大畑氏が死亡したため、現在トシ子さんは、同機構と大畑宏之元理事の遺族を相手取り、遺品返還訴訟を行っている。

前述した通り、トシ子さんは、葬儀に献花した国会議員らに、動燃本社内の成生氏の机の封印の嘆願書を提出しており、机は封印されていた。その事務机内の遺品とともにトシ子さんは、中央署員が大畑理事に渡した成生氏の遺品(ホテルで受信したとされるFAX受信紙、鞄に入れていた95年「どうねん手帳」、遺書を書いた万年筆、マフラー、ネクタイ、靴、着衣等々)の返還を求めた。

2021年9月30日、東京地裁は訴えを棄却したが、トシ子さんは、2021年10月14日、東京高裁に控訴し、今も闘い続けている。(つづく)

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※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
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◆動燃の説明で強まる不信感と疑念

動燃は、トシ子さんに成生氏の死の経緯の説明など行わない一方、ささやかな葬儀を予定していたトシ子さんに、ハイヤーが6台入るようにもっと広い会場を、4人に弔辞を読ませる時間がないと困るなどと注文をつけ、葬儀を取り仕切った。

実際、葬儀には1500人もの参列者が訪れ、梶山静六官房長官(当時)はじめ田中真紀子氏ら国会議員、原発立地の県会議員、原発関連企業幹部ら「大物」の名前が並び、費用は西村家が出したにもかかわらず「社葬」のようだった、とトシ子さんは振り返る。「夫はもんじゅ事故騒ぎの鎮静化のために亡くなったというふうに、政治的に利用されているのではないか」。

 

トシ子さんは涙も見せず、葬儀を注意深く見ていた。「当日読まれた弔辞を全部あわせて読むとよくわかるんです」と、4人の弔辞内容が巧妙に連携されていたと説明する。科技庁・石田寛人事務次官の「明日へのエネルギー確保のための原子力」、動燃・大石博理事長の「もんじゅ事故の混乱」、関連企業ペスコ・竹ノ内一哲会長の「ホテルで1人で遺書を書き」、そしてT秘書役の「自ら命を絶った」と。

実際、成生氏の死後、動燃批判は一挙に沈静化したが、トシ子さんの疑念はますます強まっていった。葬儀の10日後、トシ子さんは、葬儀に献花した閣僚らに対し、動燃内の成生氏の事務机の封印について嘆願書を提出し、その10日後、科技庁事務次官から「奥さんの望むようにした」との返書が届いた。

一方、トシ子さんは大石理事長に、夫の死について何度も説明を求めたが、まったく返答はなかった。そんななか4月22日、T秘書役から「説明したい」と連絡があった。

T氏は、成生氏から遺書を受け取った1人であるが、夫の大学の同窓生でもあった。待ち合わせ場所は動燃本社ビル地下にあるスナックだった。トシ子さんは、そこに現れたT氏からてっきり動燃社内に案内されると思いきや、近所の居酒屋に案内された。

そこに大畑理事が現れ、T氏と2人で酒を飲み始めた。「夫の死の話をするのに、どういう神経をしているのかしら?」と訝しく思うトシ子さんに、T氏は「西村職員の自殺に関する1考察」と題した社用箋に手書きした文書を手渡した。

そこには、成生氏の死は、前日の会見で、本来上層部がビデオの存在を知ったのは、前年12月25日だったから、成生氏は「12月25日」と返答すべきところ、「1月10日」と言い間違えて返答してしまったことを苦に自殺したという内容だった。

「それは違う」。トシ子さんは咄嗟に思った。前述したように、夫の死後、トシ子さんに返された成生氏の鞄に入っていた記者発表の想定問答集には、「12月22日から1月11日の間」と記載されていたが、当日、2回目の会見で、大石理事長が「1月11日に初めて知った」と答えたことから、成生氏は、安藤理事、廣瀬広報室長と行った3回目の会見で、理事長発言の1月11日の1日前の「1月10日」と答えるしかなかったのである。

しかもその答えを、同席していた安藤理事や廣瀬広報室長も訂正しなかった。それは動燃の「統一見解」であったからだ。成生氏も仕方なく従うしかなかったのだ。成生氏が「言い間違えた」というなら、同席していた安藤理事、広報室長らが訂正したり、再度会見を開くことも可能だったのに、行っていなかった。

そんなトシ子さんの思いも知らず、T氏は「西村は発作的に自殺をしてしまったんだ。でも潔ったよ」と語ったという。

「事実は違うと思います。夫は当日、ホテルでファックスを受け取ったそうですが、その受信紙は今どこにあるんですか?」とトシ子さんは2人に問い詰めた。

すると大畑理事は、顔色を変え、突然店から出て行ってしまった。そのファックス用紙が存在すれば、刻印時刻に成生氏がホテルに宿泊し、その時刻まで生存していた第一級の証拠物であるというのに、警察と動燃は、その後の裁判においても証拠提出していない。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さん

◆夫の死後、初めて涙した日

数日後、自宅に〈「動燃もんじゅ大事故」と「ビデオ隠し」の犠牲者〉と題された記事が掲載された講談社発行の月刊誌が、差出人不明で届いた。内容は、先日聞いたT氏の「1考察」に沿う内容で、T氏自身も実名でコメントを寄せていた。

「数日前の奇妙な説明は、この記事が出る前、私を説得させるためのものだったのか」とトシ子さんは考えた。

1年後、その記事を見せた知人に「それは変だ。調べ直したほうがいい」と言われ、夫の遺体を死亡確認した聖路加国際病院の医師に説明を求め電話を入れた。

驚くことに医師は、トシ子さんからの連絡を待っていたという。成生氏の死に不信を感じていたのか、当日トシ子さんに話をするため霊安室に向かったが、入口で動燃職員に止められたという。

医師はトシ子さんに、(成生氏の遺体は)「死後、10時間くらい経って、病院に連れてこられたんですよ」と、驚くべき事実を伝えてきた。

直腸など身体の奥の外部の気温などに左右されにくく、常に約37度で安定している「深部体温」から推測すると、成生氏の死亡推定時刻は、動燃や警察が発表した午前5時頃よりかなり前だというのだ(法医学では気温が常温18度の場合、遺体の深部体温は1時間に1度低下するとされるが、1月で気温が低かったため、少なくとも午前1時までには死亡していたと推測される)。

監察医は、死体検案書に成生氏がホテル8階から転落、「即死」したのが午前5時頃と記載、搬送先の聖路加国際病院の医師が、死亡確認した時刻は6時50分で、その時の「深部体温」は27度と記載していた。

その後、トシ子さんが何人かの法医学者に尋ねたところ、午前5時から6時50分までの約2時間で、深部体温が10度も低下することについて、全員が「あり得ない」と答えた。

さらに、側頭部のレントゲン写真を撮ったところ、頭の中央部が白く映っており、脳幹に空気が入った状態だったことがわかった。脳幹には生命維持機能があり、脳幹に空気が入ると息が止まり、致命傷になるとのことだった。

数日後、トシ子さんは、聖路加国際病院が撮影した成生氏のレントゲン写真を受け取り、付添人と病院の庭園で封を開け、写真を見た。夫の頭蓋骨、胸郭には、骨折など目立つものは何もなかった。

「頭蓋骨骨折で…」と書いた新聞もあったではないか…。死んだ夫のレントゲン写真が、夫が8階からの飛び降り自殺ではない事実を証明してくれたのだ。霊安室でも葬儀でも泣かなかったトシ子さんが、その時初めて涙した。(つづく)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
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1996年1月13日、千葉県柏市に住んでいた西村トシ子さんは、早朝、突然の電話で起こされた。

「西村さんが救急車で運ばれました」

電話をかけてきたのは、夫・西村成生(しげお)氏が勤務する動燃(動力炉・核燃料開発事業団、現在は国立開発研究法人・日本原子力研究開発機構)の安藤隆安全管理担当理事だった。15分後再びかかった電話で、成生氏の死亡が告げられた(当時49歳)。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さん

安藤理事に「お宅にハイヤーを差し向けたので、それに乗るように」と告げられたトシ子さんは、まもなく到着したハイヤーに2人の息子と乗り収容先の聖路加国際病院に向かった。ハイヤーのラジオで、成生氏が宿泊先ホテルの非常階段の8階から飛び降りたらしいとのニュースを聞いた。

「遺体は相当酷いだろう」。そう危惧しながら霊安室に入ったトシ子さんは、遺体と対面するなり「えっ」と声を上げそうになった。遺体は、顔と肩に腫れた青痣、両腕に多数擦過傷があるものの、30メートルもある8階から、非常階段下のコンクリート床に飛び降りたとは思えない状態だったからだ。

警官からは、死体検案書、トシ子さん宛の遺書、成生氏の腕時計、財布、鍵の入った封筒が渡された。遺書は成生氏の字に間違いないが、遺体には殴られたような跡があったことから「無理やり書かされたのではないか? 何かがおかしい」と直感したトシ子さんは、嗚咽を漏らす長男の傍らで、ただ立ち尽くしていた。

霊安室から出ると、成生氏と同じホテルに宿泊していた総務担当理事の大畑宏之氏が「僕が付いていながら、こんなことになって……」と詫びながら、トシ子さんに成生さんの鞄とコートを渡した。

◆もんじゅ事故とビデオ隠し事件

実は前年(95年)の12月8日、動燃運営の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)がナトリウム漏れ事故を起こし、核燃料サイクルはとん挫し、原発の安全神話は崩壊し、事故の報道や反原発運動で騒然となる中、事故現場を撮影したビデオを隠した事件が発覚し、さらに大きな社会問題になっていた。

動燃は、事故翌日の午前2時に撮影したビデオ(「2時ビデオ」)の存在を隠し、マスコミには午後4時に撮影したビデオ(4時ビデオ)を公表していた。

それは15分のビデオから生々しい事故状況を隠し、1分に編集したもので、その事実が20日発覚、動燃の秘密主義・隠ぺい体質に非難が強まり、所長が更迭に追い込まれる1方で、動燃や監督官庁である科学技術庁(当時)へ、原発反対を訴えるデモがおしかけられていた。

21日、成生氏は「ビデオ隠蔽問題」の調査を命じられた。成生氏は、前年10月、茨城県東海村事業所から動燃本社(東京)の総務部次長へ転属し、人形峠(鳥取・岡山の県境)のウラン残土問題の住民対策の特命を命じられていた。

そんな成生氏に「ビデオ隠蔽事件」内部調査団の副団長という、さらに困難な任務が課せられた。「もんじゅに担当にされてしまったよ」。家で滅多に仕事の話をしない成生氏が、そうこぼしたときから、トシ子さんは「妙な胸騒ぎ」を感じていたという。

◆記者会見後の不可解な「自殺」

12月22日、科学技術庁(当時)の強制立ち入り調査で、隠していた「2時ビデオ」の存在が発覚。自身もかつて動燃職員だったトシ子さんは憔悴した夫の様子が気がかりだった。

23日~24日、成生氏が、敦賀市のもんじゅで60人もの職員から聞き取り調査を行った結果、問題の「2時ビデオ」が事故翌日、東京の動燃本社にも運ばれていたことが判明した。

翌日本社で調査団長鈴木氏を通じて、大石理事長にその事実を告げると、理事長から「本社関係者からも、詳しい事情聴取を行うように」と命じられた。しかし、大石理事長自身は国会の参考人に呼ばれた際も、本社関与に言及することはなかった。

1996年1月11日、社会党(当時)から自民党に政権交代したことを受け、新科学技術庁長官に就任した中川秀直氏が所信表明することになった。

午後11時、成生氏から「明日の所信表明を録画しておいてくれ」と電話があり、それがトシ子さんの聞いた夫の最後の声となった。というのも、深夜帰宅後、すぐに就寝した成生氏とは話もできないまま、翌朝、いつもはコーヒーを飲んで出かける夫が、コーヒーも飲まずに家を出たからだ。

1月12日午後4時過ぎ、中川秀直科学技術庁長官が「2時ビデオは動燃本社に持ち帰られ、本社の者も見ていた」と発表したことを受け、動燃は第1回会見を4時20分から、急きょ行った。

最初の安藤理事の報告に、記者からは「納得できない」などの声が飛び中断、次に第2次会見を行った大石理事長は「知ったのは1月11日だった。本社上層部はビデオの存在を知らなかった」と虚偽の報告を行った。しかし、同じく記者らの質問には答えず「詳細は担当者に答えさせる」と会見を打ち切った。

その後、動燃の広報室は科技庁へ「実は(前年の)12月25日に知っていた」と手書きの、10枚のファックスを送信していた。そのファックス紙には成生氏の会見が始まる直前の午後8時32分と刻印があった。

しかし、不可解なことにそのファックスは、成生氏の鞄の中に2枚だけしかなく、ほかの8枚は見当たらず、何が書いてあるかもわからなかった。

成生氏が引っ張り出された第3回目の会見が始まったのが、午後8時50分。そこで成生氏も「1月10日だった」と発言した。成生氏の死後、返却された鞄に残された「想定問答集」には「12月22日から1月11日の調査の過程で判明した」と記載され、これが動燃の統一見解だったからだ。それにも拘わらず、大石理事長が「1月11日初めて知った。本社上層部はビデオの存在を知らなかった」と虚偽の発言をしたことにより、成生氏は「1月10日だった」と答えるしかなかったのだ。

3回の会見はそれぞれ虚偽発表を行い、記者などを混乱させたのである。会見終了が午後10時5分。その後、成生氏は、翌日早朝から大畑理事と敦賀市で会見を行うため、2人で日本橋の「センターホテル東京」に0時45分にチェックインしたことになっている。しかし、その後の裁判で、大石理事長、安藤理事、廣瀬広報室長は「大畑理事と成生氏が敦賀に会見に行くことは知らなかった」と証言し、大畑理事とT秘書役のみが「敦賀に行くことを知っていた」と証言したのである。

トシ子さんはこれにも疑問を呈する。「前日敦賀入りするならば別だが、出張の当日都内のホテルに宿泊するなんて、それまで一度もありませんでした。まず宿泊代が出ませんから」。

午前2時半頃、ホテルのフロントに動燃から成生氏宛のファックスが5枚送られ、それを浴衣姿の成生氏が取りにきたという。その5枚のファックス受信紙は裁判の証拠としても、いまだに提出されていない。

「そもそも、科学技術庁での記者会見の議事録という極秘文書をホテルにファックスで送るだろうか? 動燃本社とホテルは車で15分とかからない。直接夫に手渡すはずだ」と、トシ子さんはこれにも疑問を呈する。

遺体発見は、その4時間後。ホテルのモーニングコールに出ず、約束の6時前、フロントに降りてきた大畑理事が不審に思い、成生氏の部屋の鍵を開けて入ったところ、3通の遺書を見つけたという。

6時過ぎ、非常階段の下で、スーツ姿でうつぶせの成生氏の遺体を発見、搬送先の聖路加国際病院で死亡が確定されたのが6時50分。中央署と大野曜吉監察医は、聖路加国際病院で死体検案書を作成したが、遺書があったことから自殺と断定され、司法解剖は行われなかった。

なお中央署は、遺体着地点の現場検証写真を撮っておらず、のちにトシ子さんに見せたのは、担架にうつ伏せに乗せられた成生氏の写真、それも一方向からの1枚のみだった。成生氏の遺体は、その後全身をさらしにまかれた状態で、病院の救急用駐車場に、動燃があらかじめ準備した車を配備し、段取り良く乗せられ、遺族に返されたが、成生氏のスーツ、下着、靴などは返還を拒否された。

当日の午後、会見した大石理事長は、成生氏の死を「自殺」と断定し、自身に宛てられた遺書を読み上げたが、のちにその内容まで改ざんされていたことが判明した。(つづく)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

11月13日(日曜日)、釜ケ崎で野宿者支援活動なども精力的に関わる医師であった矢島祥子(さちこ)さんの追悼集会があります。祥子さんは、2009年11月13日、勤務先のクリニックから行方不明となり、2日後、木津川で水死遺体で発見されました。当初自殺といわれましたが、医師である両親が祥子さんの遺体に複数の傷があることから殺害されたと警察に訴えました。その後西成警察は自殺と事件の両方で捜査を進めています。祥子さんを知る方の中には自殺と考える人、事件だと考える人がいます。この記事はその両方の方に読んで頂きたいと思います。

事件があった当時、私はあれこれ多忙だったため、釜ヶ崎の夏祭りや越冬闘争などに参加できず、祥子さんも事件のことも知らずにいました。しかし、当時、西成で何が起こっていたかは鮮明に覚えています。

前年2008年のリーマンショックで職を失った人たちが、全国から釜ヶ崎に流れてきました。仕事を探す人、他の地域より比較的受けやすい生活保護を受けようとする人で、店の近くの相談所には、9時前から大勢の人が並んでいました。相談後に、彼らを勧誘しようとする業者で道はごった返していました。その多くは、生活保護者を自社のアパートに住まわせ、保護費の大半をむしりとる「囲い屋」でした。生活保護制度もしらないのか、「今なら、部屋と食事が付いて、おまけに小遣いも貰えるよ」などと書いたチラシを配っている業者もありました。

同じ年、奈良県郡山市にあったの山本病院が、生活保護者や野宿者を入院させ、必要のない手術をしたり、架空請求を行い診療報酬を不正請求していた詐欺容疑で摘発されました。この投稿は、当時、その事件を発端に、何故そんな事件が起きるのか、その背景を精力的に追ったNHK奈良支局取材班の「病院ビジネスの闇 過剰医療、不正請求、生活保護制度の悪用」を参考にしています。

この病院では、心臓カテーテル検査や、血管にステントを入れる手術が極めて多かったそうです。ステントを入れる手術は、ほかの手術に比べて負担は少なく、やりやすい手術と言われるが、病院が受け取る診療報酬は検査と手術で一回約100万円を得ていたそうです。

患者は、医師や看護師に「カテーテル手術をやれ」と執拗に言われ多くの患者が仕方なく手術を受けていました。手術を拒否し、病院を追い出された人もいたそうです。何故こんなことがまかり通るのか?生活保護者、野宿者の多くが単身者のため、相談したり、文句を言ってくれる人がいないからです。餌食になったら、とことんしゃぶり尽くされるのです。山本病院では、ある年1年で延べ437人の生活保護者を入院させていましたが、うち126人がわずか半年で亡くなっていました。

山本病院は、10年前からこのような不正行為を行っていたようで、それまで何度も通報、告発があり、その都度警察も立ち入り調査を行っていましたが、不正はなかなか掴めなかったといいます。

しかし、2009年6月21日、奈良県警は、山本病院に強制捜査に入り、7月1日、患者に心臓カテーテル検査とステント留置術をしたように装って、診療報酬170万円を騙しとった詐欺容疑で、理事長と事務長を逮捕しました。この事務長は金儲けに長けていて、理事長に「これ(手術)一発やってくれたら、今月いけますわ」などと言い、患者に不必要なMRI検査をさせたりしていたそうです。また、ステントを入れていないのに入れたと申請した患者を、病院内では「なんちゃってステント」と呼んでいたという信じられない話もあります。

その後、押収されたカルテなどから、生活保護を受けていたの50代の患者に、不必要な肝臓摘出手術を行い死亡させた容疑で、執刀医の理事長と助手の医師は業務上過失致死で逮捕されました。理事長は、手術中に男性の肝臓を傷つけ大量に出血させましたが、十分な止血や輸血をしないまま(そもそも輸血用の血液を用意していなかった)、「飲みに行く」と出かけてしまいました。残った医師が傷口の縫合手術をするも出血は止まらず、困ってしまい理事長の携帯に電話するも、理事長は出なかったそうです。

理事長には、禁固2年4月の実刑判決が下されましたが、助手の医師は、桜井警察署内で謎の死を遂げています。それについては、遺族が訴えを起こしましたが敗訴し、何があったかは解明されませんでした。

NHK奈良支局取材班が、元ヤクザ関係者にも取材した際、「うしろにいるのはヤクザもんやからな」と言われ、危険な中、身体を張った追求取材で、その背景に、患者を互いにトレード(やりとり)しあう「行路病院ネットワーク」があったことを突き止めました。彼らの中にはNPOを名乗る人もいます。もちろん正式に認可されていない、ただ名乗るだけの、それこそ「なんちゃってNPO」です。肝臓摘出手術で亡くなった男性も、大阪市内の公園で、NPOを名乗る男性に誘われています。

私は当時、こうした連中を釜ケ崎で山ほど見てきました。

そういう囲い屋をやれるのは、ビルなど所有できる経済的に余裕のある人たちです。当時、店の近くに福祉アパート(生活保護者を入居させるアパート)を始めたNPOを名乗る男性は、過去に谷町六丁目で地上げ屋をやっていたそうです。ドヤだった2畳ほどの部屋をぶち抜いて4畳ほどの福祉アパートに改装する工事を、居住する生活保護者にやらせていました。

男は、私の店に食事に来ていました。ある日、みそ汁が辛かったのか、「俺は土方じゃないぞ!」と怒鳴るので「あんた、その元土方の人から金巻き上げてるじゃないか」と大喧嘩になったことがありました。

また、ある時、店の前を3本肢の犬を連れた母親と子供が通りました。聞けば、DV夫から逃れて来たといいます。駅前で途方に暮れていたとき、怪しい業者に「生活保護を世話してやる」と声をかけられ、2人と犬1匹で6畳一間の部屋に囲い込まれました。

炊事場もなく、自炊も出来ないと母親は嘆いていました。私は、知り合いに相談し、親子を別のアパートに引っ越す手配をしました。すぐさま、囲い屋の強面な男が、私の店に乗り込んできました。

「お前か! うちの客を取ったのわ! わしはこういうもんや」と見せられた名刺には、やはりNPOとありました。実はそこのビルでは数年前まで違法な博打場(ノミ屋)をやっていたのでした。「何いってるねん、あんたのビル、前はノミ屋(博打場)だったやん」と私が怒鳴ると、男はすごすごと帰っていきました。

釜ケ崎がそんな時代だった当時、医師の矢島祥子さんは、自身が診療した患者さんの入院した病院などに足しげく通っていたそうです。ある病院では来ないでくれと言われたそうです。私も客の入院先の病院に何度も訪れたことがあります。中には、患者の多くにオムツを充てているためなのか(車いすでトイレに連れていく手間を省くため)、病院全体がむうんと匂う病院もありました。別の病院では、重病患者でも面会はロビーに限定し、病室を見せない病院もありました。多くの病院を回った祥子さんは、そこで何を見て、何を知ったのでしょうか? そこから事件に巻き込まれたのでしょうか? 真相はなかなかわかりません。

ぜひ、集いにお集まり頂き、いろんな情報を共有していけたらと思います。

追悼集会『矢島祥子と共に歩む集い』
日程:11月13日(日)13時半開場、14時スタート
場所:社会福祉法人ピースクラブ(浪速区大国1-11-1)
アクセス 大阪メトロ大国町駅下車5分

◎追悼集会『矢島祥子と共に歩む集い』11月13日(日)13時半開場、14時スタート 場所:社会福祉法人ピースクラブ(浪速区大国1-11-1)

矢島祥子医師の兄、敏さん率いる「夜明けのさっちゃんズ」ライブ。国賠で二審の勝訴が確定したばかりの桜井昌司さんも登場し、熱唱した(2021年9月13日)

◎[関連記事]尾崎美代子「あの時期、釜ヶ崎で何が起きていたか? 書籍『さっちゃんの聴診器 釜ヶ崎に寄り添った医師・矢島祥子』(大山勝男著)発刊! 11月14日(日)大阪で追悼集会「矢島祥子と共に歩む集い」開催へ!」(2021年11月10日)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

去る10月23日、秋晴れの日曜の午後、労働者の街・大阪釜ヶ崎で、先頃出所した重信房子さんやホリエモンこと堀江貴文氏も獄中で聴き感動した女性デュオPaix²(ぺぺ)のやさしい歌声が響きました。

Paix²は20数年間、マネージャーが運転するワゴン車「ぺぺ号」に音響機材を積み、全国の矯正施設(刑務所、少年院など)を回り獄内で収容者を前にライブ(彼女ら言うところの「プリズン・コンサート」)を行ってきました。その数505回! 驚異的な数です。全国の刑務所は北は網走から南は沖縄まですべて踏破、少年院もほぼ踏破しているとのことです。そうしたことで以前は「受刑者のアイドル」とか言われました。

「はなママ」こと尾崎美代子さんの発声で始まりました

Paix²登場!

また、今回もそうでしたが、音響機器のセッティングも自分らで行い、終われば後片付け、撤収も3人で行います。現在はコロナ禍で休止しているとのことですが、仮に今やめても驚異的な数です。客観的に見ても歴史に残る快挙だと言わざるをえません。

ということで、去る10月12日には、「安全で安心なまちづくりの推進に尽力した功績」で内閣総理大臣表彰を受けました。これには、総理大臣の名のある表彰ということで異論もありますが、それはそれとして長年のPaix²の労苦をせめて顕彰させようという刑務所関係者、法務省の職員のみなさん方の善意のプッシュが大き力となっています。

Manamiさん(左)とMegumiさん(右)

私がPaix²を知ったのは15年ほど前になります。例の出版弾圧で勾留され保釈になり、裁判闘争を闘い、ようやく事業回復しつつあった中で、ある雑誌社から送られてきた実話誌(『実話Gon!ナックルズ』だったと記憶します)に掲載された漫画を偶々見たことから連絡し、東京・新宿の喫茶店で会ったのが最初となります。自分自身が実際に逮捕、勾留されたことでリアリティを感じ胸を打たれた次第です。この漫画は今も切り取って保存しています。

その後、西宮で今回の規模のライブを行い、その後、小さなライブを10回以上やっていますし、縁あって非常勤講師を務めさせていただいた関西大学の講義でミニライブをやったり、忘年会・新年会や記念イベントなどでも歌っていただいたりしました。

プリズン・コンサート300回、500回を達成した折には記念本も出版いたしました。せめてもの贈り物です。

今回は久しぶりの生ライブということで非常に緊張し、失敗したらもう釜ではやれないな、という、私なりの強い想いで取り組みました。スケジュールや選曲も私のほうで行わせていただきました。特に現在、ウクライナ戦争のさなか、反戦歌も2曲歌っていただきました。一つは忌野清志郎版『花はどこへ行った』(私たちが若い頃はPPMことPeter Poul & Maryらでヒットしました)、もう一つは寺山修司作詞でシューベルツが歌った『戦争は知らない』です。Paix²という名は元々「Paix」は「平和」という意味で、この二乗で「Paix²」ということですから、この名に恥じないように今こそ反戦歌を歌って欲しいという願いからです。

受刑者の家族からの手紙で感動を誘い、『元気だせよ』で一気に盛り上がり、2曲の反戦歌、そしてアンコール曲『いいじゃんか』で会場の熱気は最高潮に達し、この日のライブは終了したのでした。

満員の会場!

定番『元気だせよ』で大盛り上がり!

この後、Paix²から抽選で観客の皆様方にプレゼントがありました。けっこう数があり、この日のライブに対する彼女らの想いを感じました。

当日のライブは午後3時きっかりに始まり5時に終了、その後、懇親会で思う存分語り合い大阪・釜ヶ崎の夜は暮れていったのです。

今回は釜ヶ崎で小さな食堂を経営する「はなママ」こと尾崎美代子さんがライブの案内を公にするや一気に予約が殺到し早目に申し込みを打ち切らざるをえませんでした。参加したかったのにできなかった皆様方、申し訳ございませんでした。早晩、またライブの企画を検討しようと思っていますので、次の機会にはぜひご参加ください。

車いすの方が心からの花束贈呈

ウクライナ戦争が一刻も早く終わることを祈り、カオリンズも加わり会場と一体化して『戦争は知らない』を合唱

Paix²、カオリンズ、尾崎さんらと初老の爺さん

(松岡利康)

◎Paix²(ぺぺ)オフィシャルウェブサイト https://paix2.com/
◎Paix²(ぺぺ)関連記事 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=77

『塀の中のジャンヌ・ダルク――Paix²プリズン・コンサート五〇〇回への軌跡』

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846313581/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000626

『逢えたらいいな――プリズン・コンサート300回達成への道のり』(DVD付き特別記念限定版)

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846308723/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000285

福井県高浜町の元助役・森山栄治氏の死去により明らかになった関電の原発マネー不正還流事件。2019年12月13日に八木誠前会長、岩根茂樹前社長ら元役員ら12人を金品受領・報酬補填などの問題で、特別背任罪(会社法960条1項)、背任罪(刑法247条)、贈収賄罪(会社法967条1項)、所得税法違反(238条1項、120条1項)の疑いがあるとして、3272人が9月6日、告発状を大阪地検に提出した。2020年10月5日、「関電原発マネー不正還流を告発する会」(以下、告発する会)は、被告発人を森元会長ら9名に絞った告発状を大阪地検に提出、正式に受理された。

しかし、昨年11月19日、大阪地検は、強制捜査等行われないまま、嫌疑不十分として全員を「不起訴処分」にしてしまった。大阪地検OBには、多数の関電役員が天下りしているが、不都合な真実を隠ぺいするため「忖度」した結果であろう。告発する会は、すぐに「検察審議会」に申し立てることを決め申立人を募集、今年1月7日、検察審査会に申し立て、その後4回にわたり「補充書」を提出、追訴相当の議決がでるよう働きかけてきた。

そんななか、4月20日、関電内に設置されたコンプライアンス委員会が、調査報告書を関電に提出、公表された。それによれば、関電の土砂処分、土地の賃貸借及び倉庫の賃貸借でコンプライアンス違反があったことが認定されていることがわかった。

告発状を提出した大阪地検前で抗議の声をあげる市民たち(写真提供=末田一秀さん)

1つ目の、土地処分案件では、亡くなった森山元高浜町助役の関連会社「吉田開発」が、土砂の崩壊事故を起こして評判が悪いにもかかかわらず、元請けゼネコンが決まる前から吉田開発に下請けさせ、吉田開発は孫請けに仕事を出す一方で、自らは何もせずに「中抜き」で儲けるスキームを作っていたことが明らかになった。

報告書は、関電の当時の原子力事業本部の豊中秀己本部長(特別背任)、森中郁雄本部長代理(背任)、鈴木聡副事業本部長(背任)が関与していたと実名が挙げており、金沢国税局は、14件の工事について、差額は森山元助役に渡ったのではないかと指摘した。

2つ目の土地賃借案件では、吉田開発と同じ経営者の吉田関連X社や柳田産業が持っている土地を、森山元助役の求めにより、「適正賃料」よりもはるかに高額で関電が借りていたことがわかった。これに関しては、豊松氏に了承を得ていたと推認されるなどと書かれている。

関電は、事件が発覚後、株主が提訴した損害賠償請求の裁判などで、「発注額は適正であった」と主張し続けており、当時の大阪地検検事も不起訴理由説明会で「関連する発注の捜査を尽くしたが、府政発注などとは認められなかった」と述べていた。

ところが、4月のコンプライアンス委員会報告書は、吉田開発などに不当利益を与えるために高額での不正発注があったことなどを、根拠となるメール題名を記載しながら、詳細な数字を出して明らかにした。

土地賃借案件は、関電の役職員らが、森山元助役の要求に応じて土地A(高浜町内)の賃借を決定し、吉田開発の要求(賃料200万円/月)をうけて、社内規定に違反して賃借の算定をおこない、不相当に過大な賃料を、吉田関連X社へ支払っていたというものだ。

2015年3月、鈴木副事業本部長は、森山から「土地A」を駐車場用地などとして賃借して欲しいと要請された。これを受けて関電原子力事業本部では、「土地A」を月額50万円で賃借するとして、交渉していた。しかし、吉田開発が月額200万円を譲らなかったため、関電側は月120万円に加えて、B倉庫管理業務月額30万円、アクセス道路の巡視業身利益ベースで月額50万円を、吉田開発に発注していた。

土地Aの賃貸契約は、2016年7月5日に締結され、2021年3月に解約されるまでの間、適正賃料(17万5000円)と、実際の賃料(120万)の差額の総額は、1億2000万円超に上ると考えられている。

なお、新たな疑惑の「倉庫案件」は、毎日新聞が2012年2月23日に報じたものの、関電第三者委員会報告書には書かれていなかった問題だ。原発推進の高浜町議が、事業に失敗し面倒みてくれと依頼、高浜町幹部が関電にもちかけ、町議が経営する工場を、関電が2008年から倉庫として借り上げたものだ。相場が年1600万円のところ、5520万円。2013年10月、国税局に問題を指摘され、4860万円に減額し、2018年度に1620万円にするまで間、町議が得た不当利益は、3億5174億円と計算されている。    

前述したように関電は、これまで株主が提訴した損害賠償請求の裁判などで、「発注額は適正であった」と主張し続け、大阪地検も不起訴理由説明会で、「関連する発注の捜査を尽くしたが、不正発注などとは認められなかった」と述べていた。

ところが、4月のコンプライアンス委員会報告書は、吉田開発などに不当利益を与えるために高額での不正発注があったことを具体的な数字で明らかにした。

告発する会は、4月28日、大阪地検に対して、再捜査を求める申し入れ書を提出するとともに、検査を行う検察審議会へに対して、起訴相当の議決を行うよう補充書を提出していた。

そして、9月6日(火曜日)午後1時より、大阪地検と最高検察庁に告発状を新たに提出した。その後、会場を移動し、弁護団の報告会が開催された。河合弁護士、海渡弁護士、川上弁護士らがオンラインで記者会見し、多くのマスコミの質問に応じた。

海渡弁護士

海渡弁護士「前回、検察審査会の内容は、報酬補填の部分は起訴相当だったが、不適正発注については、不起訴不当にしかならなかった。それは証拠が不十分だったからでしたが、今回のコンプライアンス委員会の調査で分かったことは、それらの氷山の一角です。しかし、ここでは非常にはっきりした形で、全部の証拠が集まっているので、今回の検察審査会の見解からすれば「起訴しなくてはいけない」と考えるべきと思います。大阪地検は、とうぜん起訴しなくていけないと判断してくださると考えますが、大阪地検は競うべき事件を不起訴にしてきた前科があるので信用できないとして、今回は最高検察庁も入れてやろうとしました。双方が協力して起訴して貰えば問題はないわけです。最後に私からひとこと『大阪地検は、この件でかならず起訴して欲しい。仮に大阪地検が不起訴にしてしまっても、最高検察庁がかならず起訴相当にするに至るだろう』と考えている。再捜査の中で、この問題がでてきたので、これを調べればいいのです」。

河合弁護士「大阪地検と最高検察庁の両方に訴えるということは異例のことです。我々はこの事件を取り組むなかで、大阪地検のなかに、関電幹部が多数天下り、しかもそれなりの要職に就いていること。だから不起訴にしたのではないかと考え、その不信感の表れが、最高検察庁にも訴えたということに現れたと考えています。大阪地検は信頼できない。最高検察庁は、大阪地検をきちんと指導してほしい。そうして市民の信頼を取り戻してほしい」と訴えた。

9月6日は、4月20日付けの関電のコンプライアンス委員会・調査報告で明らかになったうち、土砂処分問題、土地賃借問題の2件を告発した。新らに分かった3つめの倉庫問題については、弁護団が多忙で告発状が間に合わなかったため、9月30日に改めて告発する。なお、告発人の募集は9月20日まで行われている。

「関電の原発マネー不正還流を告発する会」
 事務局:〒910‐0859 福井県福井市日之出3-9-3
    「原子力に反対する福井県民会議」気付 
 mail:fukuiheiwa@major.ocn.ne.jp

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

〈原発なき社会〉を求めて集う不屈の〈脱原発〉季刊誌
『季節』2022年秋号
NO NUKES voice 改題 通巻33号
紙の爆弾 2022年10月号増刊
2022年9月11日発行 
A5判/132ページ(巻頭グラビア4ページ+本文128ページ)
定価:770円(本体700円)

主要目次
[コラム]樋口英明(元裁判官)
株主代表訴訟東京地裁判決と国家賠償訴訟最高裁判決
小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
[報告]原発が原爆になる
[コラム]戦争に落ちていこうとするこの国
[講演]3・11福島原発事故から11年
脱炭素・原発再稼働・小型原発を問う
[講演]広瀬隆(作家)
二酸化炭素地球温暖化説は根拠のまったくないデマである〈中編〉
[講演]小山美砂(毎日新聞大阪社会部記者)
疑わしきは救済する──「黒い雨」訴訟と核被害への視座
[インタビュー]井戸謙一(311子ども甲状腺がん裁判弁護団長)
福島第一原発事故と甲状腺がんの因果関係を証明する
[報告]漆原牧久(「脱被ばく実現ネット」ボランティア)
311子ども甲状腺がん裁判を傍聴して
山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表、東電株主代表訴訟原告)
[報告①]東京地裁で東電元経営陣に一三兆円余の賠償金を命じる判決
原発を動かし続ける電力会社経営陣への警告
[報告②]電力逼迫を利用した原発推進政策の問題点
[報告]鈴木博喜(『民の声新聞』発行人)
そこに民主主義はない
福島第一原発「汚染水」海洋放出強行
[報告]森松明希子(東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表)
原発事故避難者に国連「指導原則」に則った人権保護を!
[報告]伊達信夫(原発事故広域避難者団体役員)
「原発事故避難者」はどこにいるのか?
[映画評]細谷修平(メディア研究者)
シュウくんの反核・反戦映画日誌〈2〉
原子爆弾と夢想の力──『太陽を盗んだ男』を観る
[報告]板坂 剛(作家/舞踊家)
何故、今さら重信房子なのか?
[報告]山田悦子(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈17〉今日における日本人の原罪
[報告]三上 治(「経産省前テントひろば」スタッフ)
とめどなく出てくる統一教会汚染と国葬
[報告]佐藤雅彦(ジャーナリスト/翻訳家)
原爆・原発・統一教会~天網恢々、疎にして漏らさず!~
[書評]大今 歩(高校講師・農業)
福島の小児甲状腺がん検査は本当に「過剰診断」なのか
『福島の甲状腺検査と過剰診断』(あけび書房)
[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
虚構の「電力逼迫」発表にまどわされない!
本命の原発再稼働に反対し、言論と大衆行動で闘う
《全国》柳田 真(たんぽぽ舎共同代表)
「原発の過酷事故は我が国の存立を危うくする」=東電株主代表訴訟判決文
《六ヶ所村》山田清彦(核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団事務局長)
高レベル放射性廃液の冷却不能トラブル
《福島》けしば誠一(杉並区議会議員/反原発自治体議員・市民連盟事務局長)
福島の実態を全国に配信し 原発を止める闘いを強めます
《東京電力》佐々木敏彦(東京電力本店前合同抗議実行委員会)
電力危機を煽る岸田政権・原発推進派に抗して、原発再稼働の動きを阻止しよう
《東海第二》志田文広(東海第二原発いらない!首都圏ネットワーク)
東海第二原発いらない!-茨城県知事へ要望書、日本原電へ申入書を提出
《関西電力》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
老朽原発・美浜3号機を廃炉に! 過酷事故が起こる前に 電気は足りている
《伊方原発》秦 左子(伊方から原発をなくす会)
私たちは「原発いらん!」と叫び続ける
伊方原発3号機再稼働絶対反対!
《規制委》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
一二〇〇件のパブコメ反対意見を無視して海洋投棄認可、規制委緊急抗議行動
《読書案内》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)
日野行介『調査報道記者 ── 国策の闇を暴く仕事』
[反原発川柳]乱鬼龍

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