「皇族スキャンダル」から「世紀の大恋愛」に 年内結婚・皇室離脱へ 眞子内親王の決断 横山茂彦

年内に、劇的な「大団円」を迎えることになりそうだ。9月1日の読売新聞のスクープ、眞子内親王が年内結婚へ! である。秋篠宮家と宮内庁のリークであろう。

ついに眞子内親王と小室圭氏が、みずからの意志で結婚へとすすみ、皇室を離脱したうえでアメリカに移住するというのだ。弁護士試験への合格が前提だが、小室圭氏のニューヨークでの法律事務所への就職も決まっているという。メディアのバッシングや国民の猛反対を押し切って、ふたりの愛は「皇族スキャンダル」から「世紀の大恋愛」へと花ひらくことになりそうだ。

報道によれば、眞子内親王は一時金の財源が税金で、小室さんの母親をめぐる「金銭トラブル」への批判もあることから、受け取ることを辞退する考えを持っているという。宮内庁や政府は眞子さまの考えを踏まえ、一時金の額を減らすことや、特例で辞退することができるかどうかなどを検討するという。

※[参照記事]「眞子内親王の結婚の行方 皇室の不協和こそ、天皇制崩壊の序曲」(2021年4月13日)

4月に小室圭氏が文書(借金問題の事実関係)を発表したとき、眞子内親王がその相談に乗っていたことが、4月9日に行われた加地隆治皇嗣職大夫の会見によって明らかにされた。文書の発表が小室氏の独断ではなく、眞子内親王の意向でもあるというものだ。このことについて、苦言を呈するオピニオンは少なくなかった。

「本来ならば天皇家は民間の金銭の争いなどとは最も距離を置かねばならない立場だ。その眞子さまが、小室家と元婚約者男性のトラブルのリングに乱入し、一緒になって70代の元婚約者を追い込んだも同然だ。」(ネット報道)という指摘がなされたものだ。 

皇室制度に詳しい小田部雄次静岡福祉大学名誉教授も、眞子さまへの失望を口にした。

「国民に寄り添い、その幸せを願うはずの皇族である眞子さまが、恋人と一緒になって一般の人を相手に圧力をかけてしまったという事実は重い」

「眞子さまが、自ら望んで伝えたいと願ったとは思いたくない。仮に眞子さまが、恋人の対応は自分が主導したと伝えることで、国民が黙ると考えているのならば、それほどおごった考えは皇族としてあるまじきことです」

眞子内親王は「おごった考え」から、自分たちの危機を突破しようとしたのだろうか。そうではない。借金があるから皇族との結婚は許さないという、小室氏への不当なバッシング(低所得者差別)を回避し、ただひたすら望みを遂げたいという思いであろう。それがゆるされないのが皇族ならば、皇籍を捨ててでも結婚に突き進む。皇族も人間なのである。じつに自然な成りゆきではないか。

自民党の伊吹文明は法律論に踏み込んで、ふたりの結婚そのものに疑義をとなえた。

「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」

伊吹は「皇族は日本人・人間であるが、国民ではない」と明言するのだ。それでは、皇族が国民ではないことと、国民としての権利がないことは、果たして同じなのだろうか。国民の権利の源泉は、基本的人権である。

つまり人間だから、自由に生きる権利があり、それは職業の選択の自由・婚姻の自由をも包摂する。伊吹は憲法の理解を「基本的人権」ではなく「日本国と日本国民の統合の象徴」に限定してしまっているから、その矛盾を矛盾として突き出せずに、皇族は国民ではないが大和民族・日本民族だと、摩訶不思議なことを言いだすのだ。

◆皇室・皇族という「矛盾」

そしてじつに、この「矛盾」にこそ、天皇制(皇室文化と政治の結合)が崩壊する根拠がある。ふつうの人間に「皇族」という型を押しつける「矛盾」は、あまりにも無理がありすぎる。したがって、小田部雄次の言う「皇族としてあるまじきこと」を、かれら彼女らはしばしばするのだ。

皇籍離脱を口にしたのは、眞子内親王だけではない。

三笠宮寛仁(ともひと)親王は、アルコール依存による酒乱、別居、母娘の疎遠など、いわば一般庶民の家庭にある家族崩壊を国民の前に見せてきた。寛仁親王の「皇籍離脱宣言」は、まさにふつうの家庭と皇族という看板の「矛盾」を露呈させたものなのだ。

ほかにも皇族のなかでは、高円宮承子(たかまどのみやつぐこ)女王という、破天荒で魅力的な存在がある。ヤンキーと評される彼女にとって、皇籍は「矛盾」であろうか。はた目には「矛盾」をも呑み込んで、豪快に生きているように見える。平成上皇の「御言葉」(退位宣言)もまた、天皇制の「矛盾」にほかならない。

胸には蜥蜴のタトゥー、学習院時代から「スケバン」的な風貌が周囲を驚かせ、イギリス留学中は奔放な性生活を暴露された高円宮承子。じつは日本ユニセフ協会の常勤の嘱託職員でもあり、語学に堪能な彼女は皇族外交に欠かせない存在でもあるという。

◆皇室の民主化が天皇制を崩壊にみちびく

2017年の婚約発表、それに対するリアクションとして借金問題が報じられていらい、小室家の借金問題は国民の婚約反対運動にまで発展してきた。

たとえば小室圭は貧乏人のくせに不相応な学歴を形成(国立音大付属からカナディアン・インターナショナル、ICU進学)し、もともと玉の輿をねらっていたのだと。結婚を匂わせて、高齢の元婚約者から400万円をせしめた。あるいは亡父の遺族年金を強奪した、などなど。およそふつうの家庭なら、どこでもありそうな話がメディアの好餌にされてきたのだ。

だがそれも、わが皇室の戦後史をひもとくならば、まさに「ふつうの」バッシングだったことがわかる。正田美智子(上皇后)が明仁皇太子に嫁ぐときも、猛烈な反対運動、旧華族や皇族による反対、宮内庁の侍従や女官たちによる陰湿な美智子イジメがあった。

その意味では、皇族皇室の民主化というファクターが、一歩づつ、そして確実に天皇制を変質せしめ、崩壊へとすすむ序曲でもあるのだ。その第一の扉はひらかれた。快哉。

※[参照記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈38〉世紀の華燭の陰で──皇后・旧華族による美智子妃イジメ」(2021年8月27日)
※[参照記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈39〉香淳皇后の美智子妃イジメ」(2021年8月29日)


◎[参考動画]眞子さま結婚へ……内定から4年 なぜ今? 秋篠宮さまは(ANN 2021年9月1日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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今後の10年を分ける自民党総裁選 ── 菅再選なら、自公の下野も 横山茂彦

菅辞任か解散強行か、と風評おびただしかった政治日程が決まった。自民党の総裁選挙9月17日告示、29日投開票である。

横浜市長選挙の敗北で死に体と見られていた菅総理が、開き直った再選出馬となった。25日には菅総理が党本部を訪れ、二階幹事長・林幹雄幹事長代理と約30分にわたって面会。公然と密談することで、自分たちが政局を仕切るのを行動でしめしたかたちだ。

◎[参考記事]「五輪強行開催後に始まる「ポスト菅」政局 ── 二階俊博が仕掛ける大連立政権」(2021年7月21日)

◆難航する野党共闘

総裁選挙を前に持ってきたことによって、総選挙(衆院選挙)の日程もかなり長いタームを含むことになる。社民党の関係者と懇談する機会があったので、以下に国会内の見通しをまとめておこう。

総裁選挙後の臨時国会で、首班指名となる。懸案のコロナ対策立法ののちに解散総選挙となり、その日程は最長でギリギリ11月までずれ込むものと考えられる。これは菅の再選、新総裁の場合も考えられる日程であろう。総裁選敗北で政権交代の危機も考えられる自民党にとって、失地回復の時間的猶予を確保したことになる。

もうひとつ、巷では台風の目になるかもしれない「小池新党」だが、国民民主との提携が現実的であるという。もともと、希望の党として一体化していた関係である。その国民民主の存在が、共産党との関係で野党共闘のネックになっている。社民党関係者によると、いまだ60か所以上の小選挙区で候補調整が遅れているというのだ。連合が嫌う原発反対、そして共産党への反発である。これに代わるかたちで、市民連合や文化人を看板にした選挙対策が練られているという。

このかんの選挙でわかるように、圧倒的な多数派である無党派層の選択肢になる野党共闘候補が実現しなければ、国民の20%に満たない自民党支持で一強政治が継続してしまうのだ。

◆あいかわらずの菅答弁

それにしても、わが菅総理のボロボロ、トホホな発言はあいかわらずだ。言い間違いをあげつらいたくはないが、一国の宰相の発言である。記者会見から拾ってみよう。

「タリバンの首都、カブール…」(※正しくは「アフガニスタンの首都」)。

「カニ政権は機能しなくなり……今後の情熱は、依然として不透明であります」
(※正しくは「ガニ―政権」)。

「感染拡大を最優先にしながら…」(※「感染拡大防止を、」のつもりであろう)。

◆総裁選展望

ふたたび自民党の派閥構成の概要である。(★は総裁選出馬)

派閥名       国会議員数    総理・総裁候補者
細田派(清話会)  96人       ★下村博文
麻生派(志公会)  55人       河野太郎
竹下派(平成研)  52人       加藤勝信、茂木敏充
岸田派(宏池会)  47人       ★岸田文雄
 谷垣グループ   23人(重複含む) 
二階派(志帥会)  47人       林幹雄、※党外[小池百合子]
菅派(ガネーシャ) 26人       ★菅義偉
石破派(水月会)  17人       石破茂※この時期の総裁選挙に批判的
石原派(未来研)  10人       石原伸晃※菅続投支持
無派閥       63人       ★高市早苗(細田派系)、野田聖子(二階派系)

現在のところ、★印が総裁選出馬宣言をしている。

このうち、有望株とみられていた河野太郎が出馬するのかどうか。出馬しないのはワクチン相ほかに抜擢してくれた菅への配慮ではないかとされているが、その動静が注目される。

去年から再出馬の岸田文雄は、じつはあとがない。参院から総選挙(山口三区で河村建夫と争う)で衆院に転じる林芳正が、宏池会の後継者となるからだ。今回を逃がせば、岸田が総理大臣になる可能性はなくなる。まさに背水の陣である。

昨年の総裁選で敗れたあとは、何となく一皮むけたような雰囲気もあり、出馬にあたっての政策では、経済再生のための「所得分配」問題にも発言がおよんでいた。よりましな選択としては、岸田の健闘に期待してもいいかもしれない。

そして下村博文の出馬である。よりにもよって、嫌いな人物が総裁選への出馬を宣言した。


◎[参考動画]総裁選に向け動き加速(テレ東BIZ 2021年8月27日)

じつは自民党の政治家だから嫌いだとか、そういうものはわたしの場合は、ないつもりだ。そしてこの通信で、個人的な好き嫌いや個人的な感情を顕わにするのを、なるべく避けてきた。

個人的な感情で論評・報道してしまうと、その批判の公共性が失われるからだ。さまざまな考え方があるし、個人エッセイ的に心情を吐露する人がいても悪くはないと思うが、ウエブマガジンも「社会的公器」である。そこを逸脱して、個人の感情で批評してしまえば、公共のネットを私物化することになる。したがって「わたしは」ではなく「われわれは」という視点を、ある意味では勝手に世論を代表するかたちで押し出すことにもなる。だがそこで、個人的感情を公的な視点によって抑制するのである。

だが、今回は感情的なものを抑えるのはむつかしい。嫌いなのである。下村博文という政治家が(苦笑)。

ほかにも、公明党代表の山口那津男の優等生的な風貌も嫌いだったが、実際には社民党の福島瑞穂なみの平和観の持主で高潔、非常に聡明な人物だと知って、その嫌悪感はなくなった。しかし、下村博文は安倍晋三以上の極右政治家である。この男だけは、総理大臣にしてはならないと思う。

もうひとり、高市早苗が先駆けて出馬宣言している。

「総裁選に出馬します!――力強く安定した内閣を作るには、自民党員と国民からの信任が必要だ。私の『日本経済強靭化計画』」(文藝春秋9月号)。

安倍元総理に再出馬をもとめたところ、拒否されたのでみずから出馬したという。じつは自民党内にも「女性宰相待望論」があり、単なる当て馬・咬ませ犬とするには惜しい。下村博文とちがって政策要領もあるので、彼女については稿をあたらめて批評したい。

◆戦況はどうか?

それでは、総裁選挙の戦況はどうなのだろう。というよりも、菅の再選はあるのか。今回は地方党員の投票が反映される、フルスペックの総裁選挙である。

2012年の総裁選では、石破茂・安倍晋三・石原伸晃・町村信孝・林芳正が出馬し、石破茂が199票で安倍晋三(141票)に差をつけるも、過半数の獲得にはいたらず国会議員による決選投票となった。

ここでは派閥の論理が優先し、安倍が108票、石破89票となり、地方党員の意志が封じられた格好になった。今回、地方の自民党で圧倒的な人気をほこる石破茂は出馬せず、二番手人気の河野太郎も不出馬の可能性が高い。

したがって、菅義偉と岸田文雄の事実上の一騎打ちは、地方票の獲得率によって流れが決まる。

問題なのは、もしも岸田が地方票で多数を獲得し、しかし2012年のように決選投票となって派閥力学で菅が再選された場合である。自民党は民意を反映しない、ひとにぎりの幹部たちの思わくで政治を動かす。国民の一部とはいえ、地方党員の意志を踏みにじった結果、総選挙がどのようなものになるか。もはや火を見るよりも明らかであろう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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天皇制はどこからやって来たのか〈39〉香淳皇后の美智子妃イジメ 横山茂彦

◆暴露小説の衝撃

1963年(昭和38年)のことである。雑誌『平凡』に掲載された小山いと子のノンフィクション小説「美智子さま」に対して、宮内庁が「事実に反する」として猛抗議する事件があった。けっきょく、この小説は掲載差し止めとなった。

この「猛抗議」は、初夜のことを暴露された美智子妃の「怒り」によるものと解釈されているが、そうではないだろう。

問題となったのは、秩父宮妃(勢津子)、高松宮妃(喜久子)が、美智子妃に好意を持っていない、というくだりだった。また、美智子妃が結婚報告で伊勢神宮に行かれた時、祭主の北白川房子さんが美智子さまに「敵意と侮蔑を含んだ絶望的な冷たい顔をした」という箇所である。

これらは周知のものであって、事実であったからこそ宮内庁官僚の怒りに触れたのである。そしてそのソースの出所が、口の軽い東宮侍従だったことから、内部粛清の意味合いもあった。

入江相政日記から引いておこう。婚約段階のことで、すでにこの連載でも触れてきた。

「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからんというようなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃勢津子)と喜久君様(高松宮妃喜久子)を招んでお訴えになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子(勢津子の母)という顔ぶれで田島さん(道治・前宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいわれた由。」

「御婚儀の馬車について良子皇后のときは馬4頭だったのに、美智子さまのときには馬6頭にすることに、良子皇后は不満を表明された」と記録されている(1959年3月12日)。

昭和天皇の意向もあって、美智子妃の入内は滞りなく行なわれたものの、実家の正田家へのバッシング、一連の儀式での謀略(前回掲載)は目を覆うものがあった。その発信源は皇后良子および、それに追随する宮中女官、昭和天皇の侍従たちであった。

とりわけ皇后良子においては、気に入らない嫁であれば、おのずと態度にも顕われようというものだ。ふたたび入江日記から引用しよう。

「美智子妃殿下に拝謁。終りに皇后さまは一体どうお考えか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか等、おたずね。」(『入江相政日記』1967年11月13日)

これは侍従長をつうじて、天皇皇后に美智子妃が態度を表明したものにほかならない。昭和天皇への直訴にも近いものだ。平民だからというだけではない。

婚約時から成婚後も終わらない。美智子妃の国民的な人気こそが、皇后良子には気に入らない最大のものだったのである。

常磐会(女子学習院OG会)の関係者によると、写真集を出すなど。皇室にはふさわしからぬ振る舞いが皇后の怒りを招いていたという。

その証言によると、皇后が美智子妃にむかって「皇族は芸能人ではありません!」と、直接叱りつけたこともあったという。

そのとき、美智子妃はムッとした表情のまま、しかし聞く耳をもたなかったとされている。そして美智子妃は返すように、良子皇后の還暦の祝いを欠席したというのだ。かなりの嫁姑バトルだ。

『写真集 美智子さま 和の着こなし』(2016年週刊朝日編集部)

◆ミッチーブーム

そもそも皇族のアイドル化路線は、昭和天皇が敷いたものだった。男子を手元で育てる、ネオファミリーの先取りともいうべき核家族路線は、明仁皇太子が昭和天皇から示唆されたものと言われている。

だが、それもこれも平民出身皇太子妃美智子がいなけれな、始まらないものだったのである。一般国民にとって、旧皇族出身や旧華族出身の妃殿下では距離が大きすぎる。

選りすぐれば、ある意味でどこにでもいる才媛で、誰もがみとめる美女。そして旧皇族や旧華族いじょうの気品と気配り、やさしさを感じさせる女性。そんな女性皇族を国民に親しませてアイドル化する。それが美智子妃だったのだ。思いがけなくも、美智子妃は国民的な「ミッチーブーム」を引き起こす。

皇室の私生活をメディアが報じるようになったのは、映像ではTBSの「皇室アルバム」(1959年~)を嚆矢とする。

50年以上の長寿番組であり、フジテレビの「皇室ご一家」(1979年~)、日本テレビの「皇室日記」(1996年~)は、その後追い番組だが、後追い番組が定着したことこそ、このコンテンツが象徴天皇制に見事にフィットするものである証左だ。戦前は、一般国民が「天皇陛下の御姿を拝し奉る」ことすら出来なかったのだから。
この番組が始まる契機は、まさにミッチーブームだった。番組の制作は各局の宮内庁担当だったが、当初は手探りの状態で、皇族が一人も登場しない回もあった。

やがてレギュラー番組化するなかで、宮内庁の職員(侍従職内舎人ら)も関与するところとなり、陛下(昭和天皇)の「御意向」も反映されている。が、その「御意向」は、日ごろ会えない皇族の様子を知りたいというものが多かったという(関係者)。天皇陛下も楽しみにしている番組、ということで人気番組になる。そのメインコンテンツは、言うまでもなく皇太子夫妻とその子供たちであった。

そして、このような皇室アイドル化路線に、隠然と反対していたのが良子皇后なのである。

『美智子さまの60年 皇室スタイル全史 素敵な装い完全版』(2018年別冊宝島編集部)

◆テレビ画像に「無視」が公然と

国民の前に、皇后良子と美智子妃の「バトル」が印象付けられたのは、1975年の天皇訪米のときのことだった。出発の挨拶のときに、皇后が美智子妃を「無視」したのである。

公式の場で挨拶を交わさないばかりか、わざと「無視をする」ということは、そのまま存在を認めないのに等しい。皇族にとって「挨拶」とは、最重要の「仕事」「公務」なのだから。

皇室ジャーナリストの渡邉みどりは、このようにふり返っている。

「羽田空港で待機する特別機のタラップの脇には皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后両陛下)、常陸宮ご夫妻、秩父宮妃、高松宮ご夫妻、三笠宮ご夫妻、そして三木首相ご夫妻の順に並んでおられました。昭和天皇、香淳皇后がいよいよ機内にお入りになるとき、おふた方は、宮様方のごあいさつに対し丁寧に返礼をなさいます。」

「特に昭和天皇は美智子さまにお辞儀をされた後、皇太子殿下に『あとをよろしく頼みますよ』というように深く頭を下げられ、皇太子さまも父君に『お元気で』といったご様子で最敬礼なさいました。」

「次の瞬間、モニターを見ていた私は、ぎくりとしました。」

「数歩遅れた香淳皇后は常陸宮さまにゆっくりとお辞儀をなさったあと、美智子さまの前を、すっと通り過ぎて皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。モニターの画面に映る映像は、後ろ姿でしたが、素通りされたのははっきりわかりました。香淳皇后は手に、つい先ほど美智子さまから贈られたカトレアの花束をお持ちでした。そのまま、美智子さまにも、深々とお辞儀をなさるとばかり思っていましたのに。」

「この『天皇訪米』の一部始終の映像はテレビで日本中に放送されたのです。私自身その時は、昭和天皇の訪米という歴史的なニュースを無事に中継することで、頭がいっぱいでした。昭和天皇と香淳皇后がご出発したあと、思わずスタッフと顔を見合わせて、『お気の毒に』とつぶやきました。」

浜尾実元東宮侍従も、当時のことをこう語っている。

「私もテレビを見ていて驚きました。東宮侍従をしていたころ、美智子さまのお供で吹上御所に行った時など何か皇后さまの態度がよそよそしいことは感じたことがありました。それは美智子さまの人間性というより、そのご出身(平民)が美智子さまを孤立させることになっていたんだと思います。ただ、あのお見送りの時は人前で、それもテレビカメラの前のことですからね。美智子さまはやはり大変なショックをお受けになったと思いました」

だが、このような「無視」や「直言」をものともせず、美智子妃はある意味で淡々と、皇太子明仁とともに新しい皇室像を作り上げてゆく。

そればかりか、昭和天皇亡き後は、いわゆる「平成流」という流れをつくり出し、宮内庁官僚や女官たちと対立を深めてゆく。ために、週刊誌メディアへの情報のタレコミで、猛烈なバッシングを浴びるようになるのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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天皇制はどこからやって来たのか〈38〉世紀の華燭の陰で──皇后・旧華族による美智子妃イジメ 横山茂彦

正田美智子(平成上皇后)は日清製粉の令嬢だった。日清製粉は祖父正田貞一郎が創業者の中心人物であり、正田一族を中核とする企業と言ってさしつかえない。その意味では創業者の三男を父に持つ正田美智子は、生まれついてのお嬢様だった。

とはいえ、彼女は平民である。皇太子明仁との婚儀に、香淳皇后(良子皇后)や秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮(柳原愛子の親族)らが反対したことは、本連載〈35〉に書いたとおりだ。

学習院在学中の北白川肇子

もともとは、北白川肇子(はつこ=島津肇子)が皇太子妃候補として有力視されていた。

明仁の立太子に前後して、肇子は「お妃候補」として世間の注目を浴びている。1951年7月29日の読売新聞は「皇太子妃候補の令嬢たち」という特集記事で、肇子ら旧皇族の少女たちを紹介している。さらに1954年1月1日の読売新聞の「東宮妃今年中に選考委」という記事でも、肇子の名が報じられた。

当時の日記をみると、旧華族社会や宮内庁の侍従、女官たちのあいだでは、肇子が皇太子妃になるものと思われていた。

◆日本の旧公家社会

敗戦で皇室・皇族の縮小がはかられ、華族制度が廃止されてからも、日本の公家社会は生きのこった。表向きは一般社団法人霞会館として、霞が関ビル34階が所在地となっている。650家740人(当主)が会員で、年に4回の会合のほか各家間の親睦交際で、そのコミュニティを保っている。かれらの間ではふつうに「〇〇公爵のお嬢様」「□□子爵家のご長男」などという言葉が交わされるのだ。

ほかに旧公家(江戸時代以前)で構成される堂上家は「堂上会」として京都に拠点を置き、こちらは御所清涼殿に昇殿できる家格(公卿)にかぎられる。よく京都人が「天皇さんはいま、東京に行かれてはります」というのは、京都こそ公家社会のメッカであり、朝廷は京都御所にあるという意味だが、その実体はこの堂上会ということになる。

政治権力と結びついている「天皇制」を解体する契機があるとすれば、天皇が本来の居場所である京都に帰るときであろう。そのさいの皇室は、皇室御物や歴代天皇が庇護してきた神社仏閣およびその宝物とともに、文化的な存在になるであろう。天皇制を廃止するからといって、タリバンのように仏像を破壊するような主張が、現在の日本国民を占めるとは思えない。反日武装戦線の敗北や皇室ゲリラの衰退がそれを物語っている。

現実的には、以下のようなことが想像できよう。

本朝のながい歴史に照らして、天皇という存在は御所に逼塞して学問に打ち込む。そして政治には口を出さない。国事行為も政府がすべて引き受ける。どうしても位階が欲しい人には、歴代の天皇たちがやってきたように、高い値段で買っていただけばよい。明治いらいの伝統にすぎない叙勲(勲章)も、続けたければ有料にする。これがふさわしいのである。

神社仏閣・宝物・天皇陵墓(発掘が学問的利益になる)などの皇室文化というものに価値があるとすれば、最低限の生活を文部科学省が保証し、百害あって国民的な利益のない宮内庁は廃止してしまう。それがいいと思う。

1959年に成婚。世紀の婚姻で「ミッチーブーム」が起こされた

◆アイドル化こそ民主化の第一歩だった

さて、昭和30年代にもどろう。

北白川肇子嬢の世評もよく、婚約は時間の問題と思われていた。だが、戦後すぐに皇室をアイドル化することで「象徴」へとシフトした天皇制は、閉鎖的な公家社会の維持よりも、国民に開かれることを望んでいた。それが正田美智子の入内にほかならない。これには皇太子の側近、小泉信三(教育掛)の暗躍があったとされる。

1959年に成婚。世紀の婚姻は国民的な「ミッチーブーム」を生み、1964年の東京五輪とともに、高度経済成長の起爆剤となった。馬車と騎馬のパレードまで行なった主役は、あきらかに皇太子妃美智子であり、明仁皇太子は刺身のツマにすぎなかった。

人々の前でも物おじせず、堂々たる体躯に誰もがみとめる美貌。語学に堪能であり、聖心女子大時代にはプレジデント(自治会委員長)を務めた才媛。そんな女性が国民的な祝福を得て「プリンセス・ミチコ」となったのである。この時期に生まれた女性には「美智子」という名前が多い。

そのような社会現象になるほど、開かれた皇室の第一歩は成功した。戦争犯罪の血にまみれた昭和天皇さえ、この時期には神々しく感じられたという。

◆世紀の成婚の陰で

皇室に入る美智子に仕える女官長は、秩父宮勢津子の母松平信子が推挙した、勢津子の遠縁にあたる牧野純子である。前述のとおり勢津子と信子は、美智子の入内に猛反対した母子だ。

ちなみに松平信子は、女子学習院のOG会である常磐会の会長である。常磐会は、明治いらい皇族妃や元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子に対する反対運動が起きていたのだ。陰湿な陰謀さえはかられた。

それは、皇太子妃決定の記者会見でのことだった。正田美智子はVネックに七分袖のオフホワイトのドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。ところが、ドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかったのだ。

「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」

会見後、早くも宮中からクレームが入る。しかし、である。この手袋は正田家が用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだったのだ。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたというしかない。この手袋事件は、美智子妃イジメの第一幕ともいうべき出来事だった。

成婚後も隠然と、かえって陰湿な嫌がらせ・イジメとなって、それは顕われた。こういう証言もある。

「信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは、早々からなじまぬ関係で、美智子さまは東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったそうです」(宮内庁関係者)

思わぬクレームが入った美智子妃のドレス姿

イジメの第二弾は、成婚報告で訪れた伊勢神宮でのことだった。このときも美智子妃は白いアフタヌーンドレスで、正装の皇太子(燕尾服を着用)に合わせたものだった。一見して、ロイヤルカップルにふさわしい姿である。だが、これに思わぬクレームが入ったのだ。美智子妃(写真)のドレスのスカートが膨らんでいるのは判るであろうか? このフレアをふくらませるパニエがけしからん、伊勢神宮の参拝には馴染まないスカートだというのだ。

なぜ皇族の女性に相談しなかったのか、ということが問題にされた。いや、相談できるはずがなかった。この日の衣裳も、じつは宮内庁および女官たちが準備したものだったのだ。美智子妃は嵌められたのである。

誰かが、わたしを陥れようとしている? いや、美智子妃が疑心暗鬼になることはなかった。皇太子明仁との仲はむつまじく、懐妊をもってその立場は盤石なものになったからだ。

歓呼にこたえて車窓を開けた美智子妃を、にらみつける(?)牧野純子女官長

そして「国母」となった美智子妃は、思いきった行動に出る。

第一子浩宮が誕生し、そのお披露目に外出したときのことである。クルマの窓を開けて、国民の歓声と報道陣の写真撮影に応えようとする美智子妃を、となりに同乗している牧野女官長がにらみつけている(?)。これこそ、天真爛漫で美貌の皇太子妃が、守旧勢力の嫌がらせの中で、国民に訴えるように見せた笑顔である。

というのも、ここまでの道は極めてきびしく、とりわけ実家の正田家が守旧派からの、陰湿な攻撃を受けていたからだ。

「本当にいろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして私たちが……と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」と語るのは、美智子妃の母堂・正田富美子である。亡き富美子は何も言わなかったが、凶器が郵送されてきたり、家を燃やすなどの嫌がらせ電話が掛かってきたという。ほんの一部とはいえ、皇室の敵・国民の敵と言わんばかりの反対運動が起きる。

今日のわれわれは、秋篠宮家の眞子内親王の恋人の母親に借金があることをもって、ふさわしくない。借金問題を解決してから、という世評を知っている。

本人たちの意志よりも「貧乏人のぶんざいで無理な学歴づくりをするのが怪しからん」という、それは変化の時代の憤懣ではないだろうか。もともと島国で育まれた日本人の国民性は、差別的なものなのである。

昭和30年代の日本はまさに、平民のぶんざいで皇室に嫁ごうなどと、許すことで出来ん! 畏れ多いことをする、非常識な一家。だったのである。

しかし美智子妃イジメの陰湿さ、激しさはまだ序の口だった。すなわちイジメの源泉が、夫の母親である光淳皇后・良子だったからだ。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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《深層詳報》五代目工藤會最高幹部裁判の福岡地裁「極刑」判決が意味するもの[後編] 「暴力団」は壊滅できるのか? 横山茂彦

◆民事提訴とその判決

昨日の工藤會裁判(刑事)につづき、民事についても触れておこう。

その前に、今回の裁判の弁護団のひとりに感想をいただいたので、簡単に触れておこう。「予想外の判決だった。死刑はないだろうという予想だった」ということである。

昨日の記事で「想定どおり」としたのは、ある意味では訳知りのミスリードになるかのかもしれない。事実吟味のない、とんでも判決であることは論証したとおりだ。メディアの反応も「組織のトップに初めての死刑判決」というものだが、こちらは事実を伝えているにすぎない。

さて、民事についても裁判所は「親分」に厳しい。歯科医師は野村悟ら4人に対し、総額約8400万円の損害賠償を求める訴訟を福岡地裁に起こし、2020年2月に和解している。和解金は明らかにされていないが、山口組や稲川会の事件の判例から考えて、請求の6割前後であろう。

元警部の民事事件では、3000万円の訴訟にたいして、1600万円の判決(福岡高裁)だった。工藤會側は控訴をしていない。

元漁協組合長殺害事件の遺族も「損害賠償命令制度」を利用し、総額7800万円の支払いを求める申し立てをしている。

この損害賠償命令制度が一般にも広がっているのは、暴力団追放センター(警察OBが天下る)による代理訴訟制度が完備したからである。

そしてここが、注視しなければならない問題である。暴追センターの権益が拡大することで、警察官の天下り(民間企業の警備員)が横行するのだ。そしてその利権は、掛声とは裏腹にヤクザ組織の温存へと結果すると指摘しておこう。

工藤會の頂上作戦が始まって足掛け7年になるが、元暴対本部長がその著書で明かしているように、工藤會は解体どころかその端緒についたに過ぎない。それというのも、地元採用の警察官たちは水面下で工藤會と結びつき、幹部たちも壊滅に追いやる気がないからだ。かれらにとって、工藤會は飯のタネなのだから。

◆上納金の課税問題

工藤會をめぐっては、上納金の扱いにもメスが入れられた。ヤクザの法人格は「任意組織」であり、国税が介入しないこともあって、事実上の「非課税」とされてきたものだ。つまりヤクザ組織とは、学会や会費制の同好会と同じなのである。指定暴力団である以上、国家がその存在を公認してもいる。

経済規模で一兆とも二兆円とも推定される、ヤクザ資金に国税の網を掛けるために、財務省と警察庁は試行錯誤してきた。

ところが肝心の国税職員が、ヤクザの事務所を訪ねられない。怖いからである。いっぽうでヤクザ組織の経理の透明化をもとめれば、ヤクザの合法性、存在意義を確固たるものにしてしまう。その意味でヤクザへの課税は、当局にとってアンビバレンツな課題だったのである。

そして、暴対法および暴排条例に盛り込まれなかったヤクザへの課税が、今回の工藤會裁判(別件)で問われることになったのだ。

すなわち、個人への課税である。上納金(本家運営費)を個人口座に入れていたことで、野村被告の「個人所得」としたのだ。以下は、判決内容である。

「特定危険指定暴力団工藤会(北九州市)の上納金をめぐり、約3億2000万円を脱税したとして所得税法違反罪に問われた同会総裁野村悟被告(74)について、最高裁第3小法廷(宮崎裕子裁判長)は18日までに、被告側の上告を棄却する決定をした。16日付。懲役3年、罰金8000万円とした一、二審判決が確定する。」(新聞記事)。


◎[参考動画]工藤会トップ“死刑判決” 裁判長に「後悔するぞ」(ANN 2021年8月25日)

◆ヤクザは壊滅するべきなのか?

さて、今回の工藤會裁判を機に、論壇でも暴力団政策をどうするのか、朝日新聞「オピニオン・フォーラム 耕論 消えゆくヤクザ」で福岡県暴追センター(警察OB)とアウトロー系のジャーナリスト、映画監督らがそれぞれの思うところを語っている。ひきつづき、工藤會裁判との関係で諸論を紹介、批評していきたい。

このうち「犯罪組織は壊滅すべきだ」とインタビューに応じているのは、藪正孝という元県警幹部(暴力団対策副部長・暴力団追放センター専務理事)である。
藪は地元採用組で、いわば叩き上げの刑事あがりである。つまり、キャリア組ではない。

この「犯罪組織」を数十年前の「過激派組織」「極左暴力集団」に置き換えてみれば、藪が言う警察権力の恣意性は明らかだ。ヤクザには犯罪者が多いが、警察官にも犯罪者は多いから、警察もヤクザと同じ「犯罪組織」だ、とわれわれは言うことも不可能ではない。いまは、それは措いておこう。

藪が専務をつとめる「暴力団追放センター」は、年間事業費7000万円という、税金からの補助金を柱にした資産18億の公益財団法人である。警察官から天下った専務理事の給料が、なんと月額48万円もの高額なのである。

つまり藪正孝という人物は、福岡県警から暴追センターに天下り、現役警察官時代以上の高給を得ているわけだ。そしてそういう人物が、公然と「工藤會は壊滅しない」と著書で語るところに、その相互依存関係は明白というべきかもしれない。追放運動を本気でやるのなら、税金を食い扶持にするのではなく、ぜひともボランティアでやってもらいたいものだ。

いっぽう、ヤクザ関連の著書が多い末広登(龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員)は、暴力団離脱後の受け皿がないと指摘する。ここ9年間に組織を抜けた5453人のうち、就職者数は165人にとどまり、3%の元組員しか就職できていないというのだ。元暴5年条項というものがあり、組をやめても5年間は銀行口座、アパートを借りるなど、社会生活を送ることもままならないのだ。

ところが、上述の藪正孝は「希望する職種に就けないことはあっても、就職できなかった人はいません」という。どっちが本当なのだろうか。

映画「ヤクザと家族 The Family」を撮った河村光庸は、不寛容な社会が憲法に保障された基本的人権を軽んじている、と指摘する。

末広が指摘する「離脱後の検挙人数が、一般に比べて60倍以上」(警察庁)から考えれば、あるいは「元暴アウトロー」が特殊詐欺や覚せい剤事件に関与していることを考えるならば、ヤクザ組織の壊滅こそがヤバいのではないだろうか。組織の箍(たが)をはずれた元暴犯罪者を再選産しているのだから。

藪はヤクザが覚せい剤事件に関与するというが、ヤクザは公式には覚せい剤はご法度である。山口組が政界人・文化人とともに、覚せい剤撲滅運動に取り組んだ歴史(麻薬追放国土浄化同盟)を、藪が知らないわけではないだろう。

このように、暴力団(ヤクザはこの名称を名乗らない)と、われわれの社会がどう向き合っていくのか。その「解体・壊滅」はどのような道筋を辿るべきなのか、まだまだ一筋縄ではいかない課題なのである。

すくなくとも、凶悪犯罪の共謀の事実関係をなおざりにした判決が、極刑としてくだされた事実を刻んでおくべきであろう。


◎[参考動画]暴力団「工藤会壊滅」カギは”離脱・就労支援” 福岡県警(RKB毎日放送2021年8月25日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
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《深層詳報》五代目工藤會最高幹部裁判の福岡地裁「極刑」判決が意味するもの[前編] 4つの事件の軌跡 横山茂彦

◆予想どおりの判決だが――

8月24日、五代目工藤會の最高幹部(野村悟総裁・田上不美夫会長)に対する判決が下りた。予想どおり極刑であった。福岡地裁足立勉裁判長は事件全てに関与を認定し、野村総裁に求刑通り死刑、田上会長に無期懲役(求刑無期懲役、罰金2000万円)を言い渡した。

弁護側は「証拠に基づかない、憶測による求刑を追認したもの」として、判決を批判している。ヤクザの場合は組織を離脱・現役引退がなければ仮釈放がないので、無期刑は終身刑と同義である。

罪名にかかる事件は、後述する4つである。

警察・検察と裁判所が「反社」というキーワードで連携した、裁判の判決そのもの評価にはさして意味がない。90年代の暴対法、2011年以降の排除条例いらい、暴力団裁判における重刑の流れは決まっている。

◎[関連記事]横山茂彦「工藤會野村悟総裁に極刑を求刑 証拠なしの裁判がいよいよ結審に」(2021年1月19日)

明確な指示や命令をしていなくても、子分の犯行に親分は責任を問われる。この強引な法的根拠は、民法の使用者責任である。

第715条(使用者等の責任)
1.ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2.使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。
3.前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。

この場合の「事業」とは、暴力団抗争や不法行為全般と認定されている(判例=?平成16(受)230 損害賠償請求事件、平成16年11月12日)。

上記1項の但し書きにある「使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をした」としても、暴力団特有の親分子分の絶対服従の関係で、子分はその意向を無視できない。ということになるのだ。

かなり曲解をしないと無理だが、とにかく暴力団裁判ではこう推認される。親分にその意志があれば、子分はそれを忖度して犯行におよぶ。よって、犯行は親分の責任であると。

ヤクザ排除の背後に警察利権、たとえばヤクザからシノギを奪い、警察OBの再就職警備業務を民間に拡大する思惑があるとしても、暴力団排除は時代の趨勢である。

上記のような曲解にもとづく裁判が行なわれるのも、警察権力に唯々諾々としたがう裁判所の倣いであろう。そして国民はそれを支持する。伝統的な任侠道それ自体が、もはや過去の遺産なのだといえよう。

ヤクザの存在が過去のものと感じるのは、われわれ戦後世代にとって暴力は身近にあるものだったが、すでにそれは過去のものなのであろう。

父親や教師はふつうに体罰を用いたし、それは昭和の社会に是認されてもきた。いまや、口でつよく叱っただけでモラルハラスメント、パワーハラスメントの社会なのだから。

問題なのはメディアが警察の反社キャンペーンに迎合し、裁判にかかる極端な法運用に無批判なことである。使用者責任が一般の企業に適用された場合、経営者は事業にかかる被害の発生責任を、すべて負わなければならなくなる。あるいは政治的、恣意的な捜査が行なわれた場合、法律の歯止めが利かなくなる。これでは法治国家とは言えないだろう。

そしてジャーナリズムにおいては、事件の背景を知らないものがきわめて多い。警察当局の発表を鵜呑みに、暴力団対市民社会という構図でとらえがちである。実態は必ずしもそうではない。


◎[参考動画]北九州市の暴力団・工藤会トップらに判決「主文後回し」厳刑へ(福岡TNCニュース 2021年8月24日)

◆被害者は元山口組親分

まずは、個々の事件から解説しておこう。

1998年2月の元漁協組合長射殺事件
2012年4月の福岡県警元警部銃撃事件
2013年1月の看護師刺傷事件
2014年5月の歯科医刺傷事件

このうち1998年の被害者の「元漁協組合長」とは、元山口組梶原組組長の梶原国弘なのである。

じつは2013年12月にも、梶原の実弟の上野忠義(漁協組合長)が自宅前で殺害されている。そして2014年の歯科医死傷事件の被害者は梶原国弘の孫で、父親が現職の漁協組合長なのである。

つまり梶原家と工藤會の漁協の利権をめぐる紛争が、事件の背景にあったのだ。梶原国弘は山口組の代紋を降ろしたとはいえ、工藤會との関係では「ヤクザ同士」のシノギの関係にあり、孫の歯科医は「敵の弱い環を叩く」工藤會特有の戦術の犠牲者といえよう。

被害者の歯科医は一般市民だが、2014年には親族の会社社長が中学生を脅し、丸刈りを強いたとして強要容疑で逮捕されている。この親族の自宅から工藤會幹部の封書などが発見され、公共工事からの暴力団排除を目的に、親族が経営する建設会社名は公表されている。

この親族は前記漁協の理事でもあったが、この工藤會との交際が明らかになったことで辞任した。そして中学生を脅した席に、容疑者の親戚で北九州市議が同席していたことが、捜査関係者への取材でわかっている。何ともスリリングで危険な一族ではないか。およそ「一般市民」とは言えまい。

北九州の事件で、暴力団と一般市民という構造が紙面におどる背景には、この地域に特有の暴力的な体質がある。

18歳まで北九州市で育ったわたしの証言として、ふつうの市民がヤクザのように暴力をふるう。かつてはそういう土地柄であったことを知っておいて欲しい。たとえば2003年、工藤會組員が小倉堺町の「倶楽部ぼうるど」を手りゅう弾で襲撃したときは、複数の客が現場で組員を殺害している。過剰防衛と思われるこの殺害で、訴追された者はいない。客がヤクザよりも喧嘩に強く、殺されたのはヤクザだったのだ。


◎[参考動画]工藤会 最高幹部に判決へ(4) 求刑は死刑と無期懲役 4つの市民襲撃事件に福岡地裁の判断は?(福岡TNCニュース 2021年8月23日)

◆71年前の地元抗争と58年前の紫川事件

梶原組と工藤會の因縁は、じつに70年以上も前にさかのぼる。戦後混乱期の1950年のことである。草野一家(工藤組系)草野高明組長の実弟が、梶原組の組員に刺殺される事件が起きているのだ。この抗争は手打ちが成立せず、梶原組と草野一家の対立はつづいた。

1963年になると、梶原組が三代目山口組(田岡一雄組長)の傘下にはいる。このとき、小倉の安藤組と長畠組が、梶原組とともに山菱の代紋を受けている。北九州に山口組が進出したのである。

同じ年、山口組内菅谷組の菅谷政雄が北九州小倉に芦原興行社を設立し、工藤組の前田プロダクションの興行(北原謙二=歌手)に、力道山のプロレスをぶつけてきた。菅谷組の北九州進出は、山口組の若頭である地道行雄との権力争いがあったとされているが、いずれにしても山口組の枝の組織が大手を振って小倉を歩くのを、工藤組が看過するはずはなかった。

両者のいさかいは抗争事件に発展し、菅谷組が工藤組の前田国政(前田プロ)を射殺、工藤組の組員が山口組内安藤組の組員を拉致殺害し、紫川に放置するという事件に発展する。

事態を重くみた山口組田岡三代目が収拾に乗り出し、九州ヤクザの大物である大野鶴吉の仲介を頼んで手打ちとなった。のちに博多で起きた「夜桜銀次事件」で山口組と工藤組(および九州連合)が抗争寸前の事態となるが、このときも地道政雄の仕切りで和解している。以降、山口組は北九州から撤退する。梶原国弘がヤクザの看板を下ろしたのは、このような流れの中である。

※工藤會は工藤組から工藤連合草野一家(1987年)となり、現在の工藤會(1990年)と改称した。

◆元警部銃撃事件と看護師傷害事件

2012年の元警部銃撃事件は、もともと工藤會担当の刑事だった人物が病院の警備員に天下りし、これを組員が襲ったものだ。

実行犯の組員は検察側の証人尋問で、事件の約2週間後、指示役の工藤会系組幹部から北九州市小倉北区の組事務所で、現金50万円入りの封筒を渡されたと述べている。

同人は「こんなんもらうためにやったんじゃありません」と一度は返したが、組幹部は「いいから」と胸ポケットに入れてきたという。この事件の実行犯(元組員中田好信)の判決は懲役30年(事件3件)である。

2013年の看護師襲撃事件は、その背景がちょっと恥ずかしい。野村悟総裁が局部の外科手術を受けたさいに、看護師の軽口に腹を立てて組員たちに不満を述べたところ、それをおもんぱかった組員が犯行に及んだのだ。この事件については「女の娘(おんなのこ)を襲撃するとか、極道のすることやないです」と、工藤會幹部があきれた口調で語ったものだ。

先代の溝下秀男三代目は、芸能人や作家の局部増大手術を請け負った人である。なぜ生前にやってもらわなかったのか、事件の深層は奈辺にありそうだ。溝下が残した極政組の組長ほかふたりの幹部が、溝下没後に殺害されたのは誰のさしがねだったのか……。溝下のユーモアや深謀遠慮は敬称されず、過激な武闘路線のみが生きのこったのだ。(つづく)


◎[参考動画]【注目裁判の焦点】暴力団「工藤会」”死刑求刑”のトップに24日判決 福岡(RKB毎日放送 2021年8月23日)

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【速報】横浜市長選挙 野党候補が勝つ! 菅総理の命脈が尽きた日 横山茂彦

◆開票前に、楽勝ムードは吹っ飛んでいた

横浜市長選は、4選を目指す現職の林文子氏(75)=自民の一部の市議が支援、新人の太田正孝氏(75)、田中康夫氏(65)、小此木八郎氏(56)=菅総理と自民市議が支持、坪倉良和氏(70)、福田峰之氏(57)、山中竹春氏(48)=立民推薦・共産支援、松沢成文氏(63)の7人の計8人が立候補し、野党共闘の山中氏が当選した。


◎[参考動画]【LIVE】横浜市長選 開票速報!「選挙をSHARE」(TBS 2021年8月22日)

◎2021横浜市長選挙 開票速報一覧(朝日新聞)

最多得票者が4分の1以上の票を得られなければ、再選挙になる可能性もあったが、野党の圧勝という結果だ。IRカジノ導入隠しによる自民楽勝の見通しをくつがえした格好だ。

じつは数日前の調査で、自民党公認の小此木氏の苦戦はつたえられていた。
「小此木氏の支援に入った自民党の国会議員はこう愚痴る。世論調査や期日前投票の出口調査をみると、なんと菅首相の地盤である衆院神奈川2区(横浜市)でも小此木氏が苦戦。現職の林文子氏(75)、山中氏が優勢という数字が出たという」(日刊ゲンダイ)

期日前投票の数値が、選挙結果をほぼ左右するのは選挙戦の常識である。あわてた自民党県連は現場をテコ入れしたが、市民の関心はカジノよりもコロナ感染対策にあったというべきであろう。

そのカジノ誘致問題も、自民党の姑息さが漏れ伝わることになり、あぶはち取らずの結果となったのだ。

◆IRカジノ隠しは通用しなかった!

小此木八郎候補は、国家公安委員長の職を辞して立候補した、自民党にとっては横浜市長選挙の隠し玉だった。

横浜市長選挙がIRカジノを焦点にしているのも確かである。喉に刺さったトゲというべきであろう。カジノ誘致では林文子前市長が「白紙から容認へ」と変節し、反対派の市民のみならず、ハマのドンこと藤木幸夫(横浜港ハーバーリゾート協会会長)の猛反発を生んでいたのだ。

そこで自民党と小此木氏は、カジノ導入反対の姿勢をとりつつ、個人的にも関係の深い藤木氏を取り込もうと必死だった。

だが早くから、その思惑は見透かされていた。IRカジノ反対派から、小此木氏は林市長と同じ「隠れカジノ容認派だ」と指摘されてきたのだ。自民党お得意の昭和の田舎選挙ならいざしらず、都会的な政治センスのある横浜市民が、欺瞞的な公約を見破らないはずがない。

そして、取り込んだはずの藤木幸夫氏も「横浜で負けて、菅政権は終わりだ」と公言していたのである。

◆やっぱり菅総理では選挙は勝てない

支持率の低下がいちじるしいわが菅義偉総理は、7月下旬には横浜市内で配布されたタウン誌で小此木氏支援を表明していた。

市長選レベルで総理が支持を明確にするのは、地元とはいえ異例中の異例である。さらに菅総理は有権者に「衆議院議員菅義偉」の名で小此木氏を支持する文書を送付する力の入れようだった。

国会議員補欠(再)選挙では3連敗。知事選挙でも連敗をかさね、党内から「菅さんでは総選挙は戦えない」という声がつよくなっていたところに、ダメ押しのような地元での敗戦である。

コロナ禍の悪化もあって応援演説にこそ駆けつけなかったが、もしも足を運んでいたら政治生命は終わっていただろう。菅が来たから負けた、と。

◆公明党の集票力に陰り

今回の選挙では、公明党の集票力にも陰りがみられた。その典型は横浜(神奈川6区)の遠山清彦元衆議院議員であろう。緊急事態宣言中にもかかわらず、銀座で飲み歩いていたことがバレ、議員辞職に追い込まれたのは記憶に新しい。

のみならず、元秘書の不正融資にかかる容疑で自宅と事務所の家宅捜査を受けているのだ。この公明党議員の「自民党政治家化」に、創価学会幹部は危機感をつよめているという。そしてこの遠山元議員も例にもれず、IRカジノ推進派なのである。こうなると、横浜菅王国の崩壊というべきかもしれない。

もはや菅総理には、9月の早い段階での総理大臣辞職しかない。自民党総裁の座にしがみつくことで「菅おろし」と言われる惨めな末期を遂げ、党史に芳しくない名を残すのか、それとも後継指名をすることで党内に政治的影響力を残すのか。道は二つしかないのだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
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特攻は志願制ではなかった ── 76年目に明かされる特攻隊の真実 テレビ朝日の終戦特番「不死身の特攻兵」の実相 横山茂彦

◆戦史は歴史観か、それとも史料になるのか

年々、新たになるのは古代史や中世史だけではなく、現代史においてもその中核である日中・太平洋戦争史でも同じようだ。今年の終戦特集番組はそれを実感させた。

 
『不死身の特攻兵(1)生キトシ生ケル者タチヘ』(原作=鴻上尚史、漫画=東直輝、講談社ヤンマガKCスペシャル2018年)

個人的なことだが、父親が予科練(海軍飛行予科練習生)だったので、本棚は戦史もので埋まっていた。軍歌のレコードもあって、聴かされているうちに覚えてしまい、昭和元禄の時代に軍隊にあこがれる少年時代であった。そういうわたしが学生運動にのめり込んだのだから不思議な気もするが、じつは両者は命がけという意味で通底している。

たとえば三派全学連と三島由紀夫へのシンパシーは、一見すると真逆に見えるが、三島研究を進めるにつれて、そうではなかったとわかる。自民党と既成左翼に対抗するという意味で、三島と三派および全共闘は共通しているのだ(東大全共闘と三島由紀夫の対話集会)。

つまり過激なことが好きで、戦争に興味があるのも、ミリタリズムへの憧れとともに、そこに人間の本質が劇的に顕われるからではないだろうか。およそ文学というものはその大半が、恋愛と戦争のためにある。

◆特攻は志願制ではなかった

戦史通には改めて驚くほどのことではないかもしれないが、テレ朝の「ラストメッセージ“不死身の特攻兵”佐々木友次伍長」は、戦前の日本人の死生観を考えるうえで興味深いものがあった。

その特攻隊は、陸軍の万朶隊という。日本陸軍は基地招集の単位で動くので、万朶隊は茨城県の鎌田教導飛行師団で編成され、フィリピンのルソン島リパへ進出した。そこで特攻隊であることを命じられ、岩本益臣大尉を先頭に猛特訓に励む。ときあたかもレイテ海戦で海軍が敗北し、フィリピンの攻防が激化していた。

最近の特集番組で明らかになったのは、特攻隊がかならずしも志願制ではなかったという事実だ。

従来、われわれの理解では部隊単位で各自に志願を問われ、全員が手を挙げて志願することで、特攻は志願者ばかりだった。と解説されてきたものだ。ところが、実態は「どうせ全員が志願するのだから、命令でいいだろう」というものだったようだ。

レイテ決戦のときの「敷島隊」の関行男中佐も「僕のような優秀なパイロットを殺すようでは、日本も終わりだ」と言い捨てたと明らかになっている。従来、敷島隊は「ぜひ、やらせてください」という隊員の反応(これも確かなのだろう)だけが伝わっていた。

 
大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫2018年)

さて、特攻を命じられた岩本隊長は、ふだんの温厚さをかなぐり捨てて、大いに荒れたが、部下には「大物(空母や戦艦)がいないなら、何度でもやり直せ。無駄死にはするな」と命じていた。特攻の覚悟はあったが、暗に通常攻撃を督励していたといえよう。

岩本は特攻機を改造もさせている。特攻機は爆弾をハンダ付けし、機体もろとも突入することで戦果が得られる。爆弾を内装する爆撃機仕様の場合は、起爆信管が機体の頭に突き出している。

その「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになったのだ。

これは番組では岩本の独断とされていたが、鉾田飛行師団司令の許可を得てあったのが史実だ。

だが、その岩本大尉は同僚の飛行隊長らとともに、陸軍第4航空軍司令部のあるマニラに行く途中に、米軍機に撃墜されてしまう。万朶隊の出撃を前に、司令部が宴会をやるので招いたというものだ。

クルマで来るように指示したのに、飛行機で来たからやられたとか、ゲリラがいるのでクルマで行ける行程ではなかったとか、これには諸説ある。

◆9回の特攻命令

雨に祟られた甲子園大会も、なんとか再開したが野球のことではない。

9回特攻を命じられたのは、下士官の佐々木友次伍長である。佐々木は岩本大尉の教えに忠実に、大物がいなかったから通常攻撃(爆弾投下)で戦果を挙げていた。つまり突入せずに帰還したのである。

ところが、大本営陸軍部は佐々木らの特攻で「戦艦を撃沈」(実際は上陸用揚陸艦に損害)と発表し、佐々木も軍神(戦死者)のひとりとされていた。軍神が還ってきたのである。

第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。

第4航空軍司令部にも帰還報告したところ、参謀の美濃部浩次少佐は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」と命じた。

 
鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)

ようするに、天皇にも上奏した戦死なので「かならず死ぬように」というのだ。機体の故障、独断の通常攻撃、出撃するも敵艦視ず、また故障。という具合に、生きて還ること9回。正規の命令書に違反しているのだから軍規違反、敵前逃亡とおなじ軍法会議ものだが、なにしろ岩本大尉の「無駄死にするな」という命令も生きている。戦果も上げる(突入と発表される)から故郷では二度まで、軍神のための盛大な葬式が行なわれたという。詳しくは、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)を参照。
そうしているうちに、フィリピンの陸軍航空団もじり貧となり、第4航空軍の富永恭次中将が南方軍司令部に無断で台湾に撤退した。この富永中将は特攻隊員を送り出すときに「この富永も、最後の一機に乗って突入する」と明言していた人物である。

海軍の特攻創始者である大西瀧治郎は、敗戦翌日に介錯なしで自決。介錯なしの自決には、陸軍大臣阿南惟幾も。連合艦隊参謀長(終戦時は第5航空艦隊長官)の宇垣纏は、玉音放送後に17名の部下を道連れに特攻出撃して死んだ。

本当に特攻は有効だったのか、アメリカ海軍の記録では通常攻撃の被害のほうが大きかった。というデータがあり、従来これはカミカゼ攻撃の被害を軽微にしたがっているなどと解説されてきた。だが、海軍の扶桑部隊などの歴史を知ると、訓練不足の若年兵はともかく、ベテランパイロットによる通常(反復)攻撃のほうに軍配が上がりそうだ。ともあれ、特攻が将兵の自発的・志願制ではなく、日本人的な暗黙の強制だったことは明白となってきた。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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天皇制はどこからやって来たのか〈37〉女官たちの逆襲 横山茂彦

戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)
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《書評》月刊『紙の爆弾』9月号 秋の前哨戦──政局をめぐる特報! 横山茂彦

秋の総選挙前に、興味深いレポート記事がそろった。そして北朝鮮をテーマにした記事、とくに小坂浩彰氏の登場に「興奮」だ(後述)。

 
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

まずは8月8日告示となった横浜市長選挙である。(横田一「横浜市長選で菅義偉一派の姑息栓術」

横浜では当選前に「カジノ誘致は白紙」としていた林文子市長(再選立候補)が積極誘致に転じ、市民の期待を裏切ってきた。ハマのドンこと藤木幸夫横浜港ハーバーリゾート協会会長がカジノ誘致の反対の論陣を張ることで、IR(横浜港湾地域の再開発問題)は混迷をふかめてきた。

だが、自民党の小此木八郎国家公安委員長(前衆院議員)が「カジノ絶対反対」を掲げて出馬表明。作家で元長野県知事の田中康夫氏が出馬表明、立憲民主の山中竹春(元横浜市大教授)、維新の松沢成文参院議員(前神奈川県知事)など、カジノ反対派はじつに7人も立候補したのである(記事では8人となっているが、郷原信郎弁護士が立候補を取りやめ)。

すなわち、カジノ誘致反対票が、反対派の立候補者乱立によって、分散してしまうことが確実となったのだ。しかるに、小此木氏とキーマンの藤木氏は三代にわたる家族付き合いがあり、小此木氏の父親の秘書を務めていたのが、菅義偉総理なのである。小此木氏に「隠れカジノ推進派」との疑惑が持ち上がるのは、けだし当然であろう。反対派陣営の候補者一本化への内幕もレポートされている。

いずれにしても、横浜市は菅総理の地元であり、ここで小此木氏が敗れるようなことになれば、政権維持にも直撃する。そこで「カジノ誘致反対(隠れカジノ誘致)」の立場をとりながら、マヌーバー的に誘致へとシフトする。その意味では選挙後の小此木氏の立場にも目が離せないということになる。

◆総選挙は山口三区が焦点に

いまから秋に向けて注目すべきは、派閥の瓦解へのつながる可能性のある、自民党内の政局である。(山田厚俊「衆院選で瓦解へ 自民党内で露見した亀裂」

秋の総選挙で決定的となっているのが、現職の不出馬(引退=10名以上)である。伊吹文明、竹下亘、冨岡勉など、派閥の幹部クラスが相次いで引退することになる。そこで「派閥の瓦解」である。

そのうえで、ポスト菅をめぐる党内亀裂が二階派と宏池会(岸田文雄)との間で起きるのではないかと、山田は指摘する。そのキーマンは、山口三区に参院から衆院に転じる林芳正元文科大臣であるとする。

その衆院山口三区は、二階派の河村建夫元官房長官が公認候補となる予定だ。この亀裂が10年後の自民党の派閥の力関係を決め、将来の主流派を占うのだとしたら、山口三区からは目が離せない。政治の世界は寸分先も見えない。20年前に安倍長期政権、菅政権を予見できた人がいただろうか。

◆怖い噂

NEWSレスQの記事「河井案里事件 自殺した担当検事をめぐる怖いウワサ」が注目に値する。自殺したのは昨年12月だが、その背景には安倍の側近Aなる人物から電話があると、誰かが死を選ぶことになる。という怖い噂だ。

特定秘密保護法を批判した内閣参事、自民党山田健司代議士の不正を告発しようとしていた秘書、UR問題で担当者だった国交省職員、森友学園問題の造園会社社長、そして近畿財務局の赤木俊夫氏と、政権にとって都合の悪い人物が死を選ぶ──。

その赤木ファイルを検証した青木泰「財務省腐敗 改ざんに抵抗した命がけの記録 赤木ファイルが訴えるもの」は保存版であろう。

◆久々の「証言」 小坂浩彰

小坂浩彰氏は、日本にいての北朝鮮のことは絶対にわからない。という、ある意味では当たり前のことから出発する。じっさい、北朝鮮通の小坂氏にしても、わかっているふりをして「予測発言」したが、外れて大恥をかいたという。

ジャーナリストや証言者は「批評家」ではないのだから、当然と言えば当然である。Z世代にもわかりやすく書いているというが、このような記事こそが読者にとどく。

とはいえ、新たなファクトは、あまりない……。小坂氏にはもっと北朝鮮に足を運んでもらい、多少あやしいものでも「証言」を期待したい。

◆「平壌の人びと」伊藤孝司インタビュー by 小林蓮実

これも「証言」ではないが、日本人が課題としなければならない問題。北朝鮮における残留日本人と日本人妻(帰還運動による)、あるいは墓参と遺骨収集などである。

写真展は8月24日~9月5日。ギャラリーTEN(台東区谷中2-4-2)http://galleryten.org/ten/

イベントは8月29日18時~。不忍通りふれあい館(文京区根津2-20-7)
https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/museum/fureai.html

◆スポーツとは何かを考える

片岡亮「東京五輪開催の今こそ 大坂なおみの問いを見つめなおす」は、スポーツとりわけオリンピックやプロスポーツを考えるうえで、刺激的な問題提起である。

国籍問題もさることながら、スポーツのありかたをめぐっては、ラグビー協会制度(国籍ではなく、協会所属3年で日本代表に参加できる。イギリスには3つの協会=イングランド、スコットランド、ウェールズが併存する)についても考察を広げるべきであろう。大相撲についても、相撲が「スポーツ」なのか「神事」(神への奉納)なのかという、議論を深めるべきテーマがあるはずだ。相撲協会および横綱審議会が、この点を曖昧にしてきたことも一因である。

私見を申し上げれば、相撲は神事であるとともにスポーツでもある。そこに顕われる品格問題を優先するのか、スポーツとしての可能性をどこまで容認するのか。時々の議論があって成り立つ、ある意味では可変的な論争的な内容を持つがゆえに、魅力のある舞台なのだ。

神事(様式美)で通してしまえば、八百長(無気力相撲)も容認されるし、それへの憤り(スポーツの厳しさ)がまた魅力を増す。その意味では、神事や品格を理解しないモンゴル勢がつよいという矛盾、その危うさこそが大相撲の魅力とも言えるのだ。そこにあるのは、スポーツ文化をめぐる議論の楽しさであり「結論」などはない。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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