天皇制はどこからやって来たのか〈21〉近世・近代の天皇たち ── 天皇の権威を高めた傍系天子たち 光格天皇と孝明天皇

119代光格(こうかく)天皇は、近代の天皇権力を強く主張した天皇である。30年以上も在位し、退位後の院政をふくめると、幕末近くまで50年以上も権力を握っていた人物である。博学にして多才。朝儀再興にも尽くし、その事蹟は特筆にあたいする。

光格(こうかく)天皇

なかでも有名なのは、寛政の改革期に松平定信と争った尊号一件と呼ばれる事件であろう。自分の父親(閑院宮典仁親王)に太上天皇号の称号を贈位しようとしたところ、松平定信がそれに猛反対して争った事件である。父親の典仁親王が摂関家よりも位階において劣るため、天皇は群議をひらき参議以上40名のうち35名の賛意をえて、太上天皇号の贈位を強行した。皇位を経験しない皇族への贈位に、先例がないわけではなかった。

ところが、老中松平定信はこれを拒否した。議奏の中山愛親、武家伝奏の正親町公明を処分し、勤皇派の浪人を捕縛する事態に発展した。この事件の裏には、十一代将軍徳川家斉が実父・一橋治済に大御所号を与えようとしていた事情があり、治済と対立関係にある定信は贈位を拒否するしかなかったのだ。そして勤皇派の台頭を背景にした公武の対立が、徐々に煮詰まりつつあった。

光格天皇の行動の基底には、彼が傍系であったことが考えられる。閑院宮家からいきなり天皇家を継ぐことになった光格天皇は、血統としては傍系であって、後桃園天皇の養子になることで即位している。天皇としての立場も当初は微妙な位置にあり、そのことから自己のアイデンティティを持つために、天皇の権威を強く意識したのではないかと考えられる。

孝明(こうめい)天皇

◆孝明天皇と幕末の激流

その子・仁孝天皇もたいへんな勉強家で、朝儀の再興につとめ、漢風謚号の復活や学習所の設立を実現する。この学問所(のちに京都学習院)には、気鋭の尊皇攘夷派が集うことになる。そして仁孝天皇の崩御後、幕末のいっぽうの大立役者、孝明(こうめい)天皇の即位へといたる。

学究肌の祖父・光格天皇、実父・仁孝天皇にたいして、孝明帝は政治的かつ意志的な天皇であった。一貫して強行な攘夷論をとなえ、しかしその政治方針は佐幕・公武合体派だった。幕末動乱における孝明天皇の役割り、決定的なシーンをふり帰ってみよう。

ペリー来航に先立つ弘化3年(1846年)、孝明天皇は父帝崩御をうけて16歳で即位した。この年、アメリカの東インド艦隊司令官・ビッドルが来航したほか、フランス・オランダ・デンマークの船舶があいついで来航し、通商をもとめてきた。

16歳の孝明帝は幕府にたいして、対外情勢の報告と海防の強化をうながしている。まさに少壮気鋭の君子である。朝廷内部に口出しをする幕府に反発していた、歴代の天皇とはおよそ次元がちがう。国のすすむべき指針を、みずから口にしたのである。

いよいよペリー艦隊が来航すると、天皇はさらなる海防強化を幕府にもとめ、参勤交代の費用を国防費にあてるよう提案している。そして幕府がむすんだ日米和親条約には「開港は皇室の汚辱である」と、断固反対の意志をあらわす。老中堀田正睦の調印許諾の勅許を、天皇は断乎として拒否したのである。

けっきょく、幕府は大老井伊直弼が勅許を得ないまま欧米各国と通商条約をむすび、ここに日本は開国する。その一報をうけた孝明天皇は激昂した。もはや今の幕閣は頼りにならない。尊皇攘夷派の重鎮である水戸斉昭に、幕政改革の詔書を下賜するのだった(戊午の密勅)。ここにいたって、幕府と朝廷の外交方針をめぐる対立は極限にいたる。それは当然ながら、すさまじい反動をもたらした。

すなわち、幕藩体制が崩壊させかねない朝廷のうごきに激怒した井伊直弼による安政の大獄、尊皇攘夷派にたいする熾烈な弾圧がおこなわれたのである。そして日本は、局地的ながら、流血の内乱に陥った。

桜田門外の変によって井伊直弼が殺害されると、京都市中は尊皇攘夷派の活動が活発になり、それを弾圧する寺田屋事件(薩摩藩による粛清)。8月18日の政変による、長州派公卿の追放(七卿の都落ち)。さらには禁門の変において、長州勢を一掃する事態となる。尊皇攘夷をとなえる長州を、攘夷をねがう朝廷が排除するというアンビバレンツな事態は、ひとえに幕府との関係をめぐる落差である。そこに孝明天皇の悲劇があった。この「落差」については、くわしく後述する。

天皇は公武合体を促進するために、妹宮の和子内親王を14代将軍家茂に嫁さしめようとした。有栖川熾仁親王と婚約中であった和宮がこれを拒否すると、生まれたばかりの寿万宮をかわりに降嫁させるなどと、妹を相手にほとんど脅迫である。和宮の降嫁が実現しなければ自分は譲位する、和宮も尼寺に入れるなどと、無茶なことを言いつのっての縁組強行だった(「公武合体の悲劇」参照)。

しかしながら、幕府とともに攘夷を決行するという天皇の政治指針は、開国・倒幕の情勢に押しつぶされていく。諸外国の艦隊が大坂湾にすがたを見せると、さすがに通商条約の勅許を出さざるをえなかった。慶応2年には薩長同盟が成立し、世論は「開国」「倒幕」へと傾いていくのである。

孝明天皇と薩長の「落差」を解説しておこう。近代的な改革・開明性を評価される明治維新は、じつは毛利藩(長州)と島津藩(薩州)による徳川家打倒の私闘でもあった。関ヶ原の合戦いらい、徳川家の幕藩体制のまえに雌伏すること268年。倒幕は薩長両藩の長年の念願であり、ゆるがせにできない既定方針だったのだ。

天皇は形勢逆転をはかって、一橋慶喜(水戸出身)を将軍に擁立するが、その直後に天然痘に罹患した。いったん快方に向かうものの、激しい下痢と嘔吐にみまわれてしまう。記録には「御九穴より御脱血」とある。この突然の死には暗殺説があり、長州藩士たちによるものとも、岩倉具視らの差し金によるものともいわれる。いずれも明確な証拠があるわけではないが、傍証および証言はすくなくないので後述する。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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大荒れ国会直前 菅義偉総理は答弁に耐えられるのか? 横山茂彦

◆外遊は国会答弁からの逃避である

あの記者会見のとき「そうではないでしょうか?」と、まさに記者たちの意見をうながすかのように、そして珍しく自信なさそうな返答だった。

それでも「(批判的な意見の人の任命拒否が)学問の自由を侵すことにはならない」と、学術会議の新会員の任命拒否を言明したのだから、国会答弁で修羅場に立たされるのは疑いないところだ。

国会で施政表明演説をするのを延期してまで、友好的な結果がみえている友邦ばかりめぐって実績づくりをした菅義偉のことである。この外遊は大荒れが予想される国会前に、不要な言質を与えないためでもあった。

しかも外遊に先立っては、戦犯を合祀している靖国神社に真榊を奉納するいっぽう、自民党・内閣の中曽根康弘合同葬を神嘗祭の日に決行するという「不敬」をはたらいたのだ。祝祭の日に半旗を強要するという、右翼的な視点で見れば、まさに「非国民」ともいうべき所業である。ために、右翼団体・神社関係者からの不満や抗議の声があがった。答弁を拒否して政府広報を取りまとめる、名官房長官時代の面影がないのは、脇役の名プレーヤーが総理になってしまったからである。


◎[参考動画]菅総理が初外遊 きょうベトナム首相と会談へ(ANN 2020年10月19日)


◎[参考動画]中曽根元総理合同葬FJRで固めたセンチュリー弔旗車列(trh200v1tr 2020年10月17日)

◆学術会議の見直しにすり替える

自民党幹部をして「政権にボディブロー的に効いてくる可能性がある」という学術会議の会員任命問題からはじめよう。

本通信10月6日付『菅総理暴走 学術会議が「特別公務員」であっても、その独立性が侵せない理由』で明らかにしたとおり、今回の任命拒否は単に、個人的な「学問の自由」を侵すものではない。問題は個人のそれではなく、国政に提言する人の「学問の自由」なのである。

ふつうに学識のある者には、これは常識的なことである。政府やその施策に批判的な人物を公的な機関(この場合は学術会議)に入れることによって、かえって有為な批判が容れられる。まさに政権の意向に選別されない「学問の自由」に担保されてこそ、その「自由な意見」が政策にとって有効な批判になる。

したがって、そこから修正された政策が批判に耐えうるものになり、晴れて有用な国の政策となるのだ。批判は政権にとって、いわば「肥し」なのである。だから国民の代表たる総理に任命権はあっても、選任権は存在しないのだ。この場合の「国民の代表」とは、予算上(形式上)のものにすぎないのだから。

このことを、菅義偉および自民党は理解できないのである。その結果、学術会議を見直すという、論軸ずらしで言い逃れようとしているのだ。


◎[参考動画]「日本学術会議」“任命見送り”説明は? 菅首相 内閣記者会のインタビューに応じる(日テレNEWS 2020年10月5日)

いわく「日本学術会議は中国人民解放軍傘下の大学留学生受け入れをどう認識しているのか」(長尾たかし衆院議員・ブログ)

学術会議に留学生を受け入れる権限も、そんなシステムもない。おそらく会員が大学で留学生を受け入れていると言いたいのだろうが、いつから日本は留学者を受け入れない「鎖国政策」に転じたのだろうか?

いわく「日本学術会議は防衛省予算を使った研究開発には参加を禁じていますが、中国の『外国人研究者ヘッドハンティングプラン』である『千人計画』には積極的に協力しています」(甘利明税制調査会長「国会レポート410号」)

これも無知の産物である。そもそも「千人計画」は、中国が海外に流出した人材を呼び戻すための政策であって、日本学術会議が関与できるものではない。何か中国がらみで、軍事研究があるかのように煽り立てているだけなのだ。のちに甘利明は「間接的に協力しているように映ります」と訂正。つまり自分の目にはそう映るのだから、自分にとって学術会議は「千人計画」を通じて中国の軍事研究に協力しているのだ、というのだ。この人の場合は、童話の世界に生きているかのようだ。
いわく「日本学術会議問題は、政府から明快な説明責任が果たされるべきであることは勿論、首相直轄の内閣府組織として年間10億円の税金が投じられる日本学術会議の実態や、そのOBが所属する日本学士院へ年間6億円も支出されその2/3を財源に終身年金が給付されていること等も国民が知る良い機会にして貰いたい」(長島昭久衆院議員・ツイッター)

事実誤認である。長島代議士はつまり、日本学術会議OB(3年で半数の105人が退会)がそのまま日本学士院の会員(150人限定の終身会員)へスライドし、終身年金を受給できるかのように思い込み、そう記述しているのだが、もちろん事実無根だ。これはさすがに恥ずかしい前言撤回となった。学士院を学術会議の上部団体とでも思い込んだのであろう。

◆菅総理の答弁能力で政権破綻も

 
菅義偉『官僚を動かせ 政治家の覚悟』(文藝春秋企画出版2012年3月12日)

その「論軸ずらし」の効果もあってか、菅義偉と梶田隆章会長との会談は「政府と共に未来志向で考えていきたい」(梶田会長)などという、論軸のずれたものになってしまっている。

そのいっぽうで、首相官邸や渋谷街頭などでの抗議行動は引きも切らない。共同通信や朝日新聞の世論調査は、菅政権を評価する半面、任命拒否の理由を明らかにすべきとの意見が60%を超えている。

いずれにしても、「任命拒否の理由については、人事に関することなので差し控えます」という答弁では、もはや済まされない。そこで問題になってくるのが、菅義偉の答弁力なのである。

なるほど記者クラブに護られた官房長官時代の答弁ならば、上記のごとき「答弁は差し控えます」で済んだかもしれない。「その批判は当たらない」などという、木を鼻でくくったような答弁でも、飲食で仲良くなっている番記者たちは許してくれただろう。しかし国会答弁では、かみ合わない答弁は許されないのだ。

しかも安倍晋三のように、質問とは関係のないことを長々と演説する能力は、菅義偉にはない。じっさいに総理就任以降、官邸において答弁の練習に明け暮れたという噂は伝わってくる。

政治家の能弁ばかりは才能である。噺家が努力によって定型の古典演目をものするのとはわけが違う。国会では事前通告のない質問すらも、答弁の仕方によって誘発してしまうのだ。そこでは実務能力や実行力などといった、冷徹さゆえの傲慢さも役には立たない。

 
菅義偉『政治家の覚悟』(文春新書2020年10月20日)

◆改訂版から消えた「公文書管理の重要性」

厳しい質問が予想される国会を前に、菅義偉総理の姑息さを顕わす事態も起きている。

自著の改訂版『政治家の覚悟』(文芸春秋)が20日に発売されたが、愕くべきことにその内容が変わっているのだ。この改訂版は野党時代の2012年に刊行した単行本を改めた新書だが、官房長官時代のインタビューが追加収録されるいっぽうで、元本にあった「公文書の管理の重要性」を訴える記述があった章が削除されているのだ。

削除されたのは、旧民主党の政権運営を口をきわめて批判した章である。東日本大震災後の民主党政権の議事録の保存状態を問題視して「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為」と、公文書管理の重要性を訴えていたものだ。

安倍政権時代の森友・加計問題で、安倍とともに公文書の存在を隠してきたのは、ほかならぬ菅義偉である。安倍の失言(私と妻が関わっていたら、議員辞職しますよ!)を庇うあまり、菅はみずからの政治的信条を曲げてしまったのであろう。
みずから「国民への背信行為」を行なう政権であることを、はしなくも自著の改訂、すなわち政治信条の改ざんをもって宣言してしまったのだ。これもまた、国会において政治信条を問われるネタとなった。火だるまになる菅の表情が見ものだ。


◎[参考動画]菅総理インドネシアに 真理子夫人に現地メディアは(ANN 2020年10月20日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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天皇制はどこからやって来たのか〈20〉近世・近代の天皇たち── 江戸期の女帝〈2〉後桜町天皇

◆博識の女帝

江戸期のもうひとりの女帝は、後桜町(ごさくらまち)天皇である。彼女の即位は、幕府と朝廷の対立ではなく、公家社会の大きな変化によるものだった。

後桜町(ごさくらまち)天皇

江戸期の朝廷の課題は、朝儀(皇室行事)の復活という、貴族社会の伝統文化を取りもどすことにあった。明正天皇の異母弟で俊英の後光明帝が最初に手をつけ、幕府も徐々に予算を付けるようになっていた。名君のほまれが高い八代将軍徳川吉宗による享保の改革は、奢侈をいましめる反面、朝廷に対しては理解があり、この時期には朝儀の復興も行われている。

こうして朝儀というかたちは整いつつあったものの、その担い手である摂関家は衰亡の危機にあった。摂関家では若年の当主ばかりとなり、朝儀の運営も満足にできない状況に陥っていたのだ。これに対して政務に関与できない位階の低い、若い公家のあいだで不満が高まりつつあった。

徳大寺家の家臣で、山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、その急先鋒となった。竹内は大義名分の立場から、桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ、久我敏通、正親町三条公積、烏丸光胤、坊城俊逸、今出川公言、中院通雅、西洞院時名らに神書や儒書を講じるようになっていく。幕府の介入と摂関家による朝廷支配に憤慨していた若手の公家たちは、桃園天皇にも竹内式部の学説を進講させることに成功した。宝暦6年(1756年)のことである。 やがて、竹内の講義をうけた若手公家の中に、雄藩の勤皇有志を糾合して、徳川家から将軍職を取り上げる計画を広言する者まで現れるにいたる。

これに対して、摂関家がうごいた。幕府との関係悪化を憂慮する関白一条道香は、近衛内前、鷹司輔平、九条尚実とはかって、天皇近習7名(徳大寺、正親町三条、烏丸、坊城、中院、西洞院、高野)の追放を断行したのである。ついで一条道香は、武芸を稽古したことを理由に、竹内式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。竹内式部は京都所司代の詮議を受け、宝暦9年(1759年)に重追放に処せられた。

この事件で幼いころからの側近を失った桃園天皇は、一条道香ら摂関家の振舞いに反発を抱き、にわかに天皇と摂関家の対立が激化する。すでに幕末の反幕勤皇派と旧守派公卿との対立が、ここに胚胎していたといえよう。

宮中が混乱するうちに、桃園天皇は22歳の若さで急逝した。皇子の英仁親王はまだ五歳である。代わりに桜町天皇の娘・智子が後桜町天皇として即位した。新しい女帝は22歳、宝暦12年(1762年)のことである。
 
8年後の明和7年(1770年)、13歳になった英仁親王が後桃園天皇として即位する。31歳で上皇となった後桜町は、新天皇のことをとても心配していたようだ。後桃園の即位直後に、前関白近衛内前に、「をろかなる われをたすけの まつりごと なをもかはらず たのむとをしれ」という和歌を書き送っている。翌年の歌会始めでは、「民やすき この日の本の 国のかぜ なをたゞしかれ 御代のはつ春」と詠んでいる。女帝の日記には、幼い皇太子に教え、詩歌を添削する記録がのこされている。

かように後桜町天皇は、古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。筆にもすぐれ、宸記、宸翰、和歌御詠草など、美麗な遺墨が伝世している。彼女は『禁中年中の事』という著作を残し、和歌の他にも漢学を好み、譲位後には院伺候衆であった唐橋在熙と高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。まさに博識、学者天皇と称するにふさわしい女帝であった。

安永8年(1779年)11月、女帝が薫陶をたくした後桃園天皇も、父と同じ22歳で急逝してしまう。今度は亡き帝の生まれたばかりの娘(欣子内親王)が一人いるだけで、また帝の弟で伏見宮家を継いでいた貞行親王も、7年前に12歳で亡くなっていた。

そこで、後桃園天皇の死が秘されたまま、公卿諸侯、幕府などと調整が行われた結果、閑院宮家六男の兼仁親王を後継にすることになった。その兼仁親王は、亡帝の後桃園天皇から見れば父の又従兄弟ということになり、血筋はまったくの傍系であった。これが光格天皇である。

この即位以前に、後桜町上皇は貞行親王(光格天皇)の和歌を熱心に添削している(日記)。ことあるごとに光格天皇の相談に乗り、さながら影の女帝のごとくであった。朝廷の教育者として君臨し、あるいはのちに「近代への国母」と呼ばれる女帝は、やはり独身で生涯を終えている。

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国立看護大学校でアカデミーハラスメント 厚労省の組織体質の病根がここにも?

◆日本は中国よりも遅れていた!

国慶節の中国、武漢には観光客が殺到しているという。3世紀に建造された黄鶴楼(こうかくろう)が人気だという。高校の漢文の時間に習った李白の詩「黄鶴楼にて孟浩然の広陵にゆくを送る」が懐かしい。

故人(こじん)西のかた 黄鶴楼を辞し
煙花(えんか)三月 揚州に下る
孤帆(こはん)の遠影 碧空(へきくう)に尽き
唯(ただ)見る長江の天際に流るるを

何となく悔しいが中国では、ほぼ新型コロナウイルスの封じ込めに成功したようだ。台湾は初期に封じ込めた。

それに引きかえ、日本ではようやくPCR検査がふつうに受けられるようになったばかりだ。PCR検査が行なわれなかった理由に、厚労省の医系技官のセクショナリズムが指摘されてきた。4月段階で「病院が溢れるのが嫌で(PCR検査対象の選定を)厳しめにやっていた」と発言して物議をかもした西田道弘さいたま市保健所長も元医系技官である。

中国や台湾が素晴らしいばかりとは言わないが、日本の国家と社会に欠陥があるとしたら、ここは必死にその病根を検証する必要があるだろう。

◆問題続出の組織体質

そもそも厚労省という組織の体質に原因があると、消えた年金問題(2007年)でも批判されてきたものだ。しかるに原因の究明は「組織全体としての使命感、国民の信任を受けて業務を行うという責任感が、厚生労働省及び社会保険庁に決定的に欠如していた」(厚労省の調査報告)という一般論、精神論に終始した。

今回のコロナに引きつけていえば、年金問題当時の舛添要一厚労大臣は「医系、薬系含め技官人事、誰も手をつけないで聖域になっている」(「ロハス・メディカル」2008年8月号)と指摘していた。

昨年は「不適切統計問題」が発覚した。厚労省が実施する毎月勤労統計において不適切な調査があったのだ。雇用保険や労災保険、船員保険の給付額に誤りがあることが判明し、影響人数は延べ2千十五万人に及んだ。当事者が既に死去していることから詳細な原因は不明だが、厚労省には当時COBOL(プログラム言語)を理解できる職員が2人しかおらず、チェック体制が不十分だったとしている。

厚労省の組織体質の問題点は、ひとつにはIT化の遅れである。消えた年金ではオンライン化する前の記録ミスがコンピュータに残り、元になった紙記録が破棄されたこと。不適切統計問題はまさに、IT化に対応できなかった結果である。今回も保健所からのPCR検査結果がファックスで行なわれ、正確な数値が出ないなどの問題点が浮上した。そこには労働組合(自治労)の労務強化反対、オンライン化による中層集権化への抵抗なども指摘されるところだ。

もうひとつの体質は、官僚組織にありがちなトコロテン方式の人事であろう。とくに管理職レベルでの持ち回り人事である。

官僚人生のコースが決まっていることから、キャリア組の審議官レベルの人事は一年ごとに交代する。その結果、専門外の部署にトコロテン式に就任した事務官や技官が、何も仕事をせずに過ごすことになる。そこに管理職務の空白が生まれるというわけだ。管理職が何もしないのだから、業務に問題が起きないわけがない。

◆国立看護大学校でもトコロテン人事

そんな厚労省人事の悪慣習が、その傘下にある国立看護大学校(清瀬市)でも行なわれているのだ。

主任の教授が担当の講義を満足に行なえないまま、看護学生たちが必要なスキルを身につけられない事態が発覚したのだ。教授の代わりに講義した助教も、時短講義だったというのだ。

文系の学生や教養科目ならば、休講や手抜き講義も大いに歓迎かもしれない。退屈な講義に出るよりも、夢中になれる読書に時間を使ったほうが有益であろう。

けれども、看護師のような基本スキルが業務になる実務系の大学校では、いやでも実習のさいに手抜き教育が発覚するのだ。学生の実習が現場の実務に直結しているのだから、事態は深刻である。

昨年の秋のことだ。4年生の助産師コースの学生たちが、実習先の病院で研修中だった。ところが、学生たちが助産師の指示がわからず、満足に分娩介助ができなかったのである。

そこで「あら、あなたたち。学校で習ってないの?」となったわけだ。複数の助産師が学生の知識不足に気づき、実習は中断となった。

くわしく訊いてみると、学生たちは「助産診断・技術学Ⅰ」で修得する知識がないばかりか、その理由が担当教授の手抜き講義にあることが判明したのだ。

けっきょく、その病院実習は中断となった。保健助産師の養成所指定規則では「分娩介助を、学生一人につき十回程度おこなわせる」という決まりがある。したがって学生たちは、規定の分娩介助をクリアできなかった。

病院実習が中断になった学生たちは、年末になって担当のK教授とH学部長に呼び出された。そこで学生たちが申し渡されたのは、看護師国家試験(2月)後の3月に補習実習を受けることだった。厚労省管轄の大学であるため、指定規則を絶対に守る必要があるのだ。

就職のための引っ越しを計画していた学生たちがそれを拒否すると、H学部長は「そんなにやる気がないなら、就職もすべてやめてしまいなさい」「そんな人たちに来られる病院もいい迷惑だ」などと言い放ったというのだ。

怒りにまかせたこれらの言葉も、教授たちが育った半世紀前ならOKかもしれないが、あきらかにアカハラであろう。

その後、新型コロナウイルスの流行で補習実習は行なわれなくなったが、「助産診断・技術学は必修科目である。文科省管轄ではない看護大学校の学生にとって、単位を取得できていないことは、学士号の認定を左右されかねない。看護師国家試験の欠格事由にもなりかねない事態だったのだ。

それにしても、K教授は分娩技術が専門外とはいえ、シラバスに記載した講義を部下の助教まかせっきりだったという。その助教の講義も通常より30分早く終わり、講義中も個人的な趣味の話をするなどの手抜き講義だったというのである。

学生たちの告発と学生たちの父兄の要望によって、上部組織である国立国際医療研究センターおよび看護大学校の校長が対応する事態となり、この問題はH学部長やK教授への処分等もないままとなった。

ぎゃくに言うと、早急な対応で問題の芽を摘む手際よさこそ、厚労省所轄の組織らしい事なかれ主義、官僚主義といえるかもしれない。そしてその意味では、トコロテン式の人事で専門外の科目を担当した教授陣も犠牲者なのかもしれない。

東京都清瀬市にある国立看護大学校

◆厚労省こそ民営化するべき

学術会議の任命拒否問題では「学術会議を民営化せよ!」という意見が飛び出している。長期的には理系研究者の育成不足が憂慮される中、それも一案だとは思うが、そうであれば官僚機構を民営化してみてはどうか?

今回のコロナ防疫では、わが国のIT後進国状態(スマホ普及率60%)や官僚組織の限界(PCR検査=厚労省医系技官問題、アベノマスク配布=旧郵政省・日本郵便)が露呈したではないか。

かつて、官公労の労働運動潰しのために民営化に踏み切った。JRは不採算部門の切り捨て、郵政はあいかわらず親方日の丸の体質を残していたのだ。

そして中小企業の持続化給付金において、経産省(中小企業庁)は電通配下の民間企業に委託することで、何とか国のかたちを保った。

このまま後進国に甘んじたくなければ、どんどん官僚組織にメスを入れればよい。問題続出の厚労省こそ、分割民営化するべきではないか。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

7日発売!月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

「寡黙な独裁」菅義偉総裁は自民党にとっても、最悪の選択だったのではないか 安倍の罪業と安倍より悪い政策継承者の素顔を暴く『紙の爆弾』11月号

◆「菅さん、横浜をカジノ業者に売り渡すのか」(横田一)

 
タブーなき最新月刊『紙の爆弾』2020年11月号!

冒頭、菅義偉の冷酷非情さを暴くのは横田一である。総裁選出馬会見のさいに、横田は菅に「菅さん、横浜をカジノ業者に売り渡すのか」「藤木(幸夫)会長を裏切るのですか」と、問いかけた一幕を紹介している。藤木幸夫会長とは、この6月まで横浜港運協会の会長をつとめた、菅義偉総理の恩人である。

カジノ推進をはかる菅総理が「ハードパワー」(藤木会長)を発揮し、林文子横浜市長にカジノ誘致の表明を強いたのは、この欄でも記事にしたことがある(2019年8月30日「横浜IR誘致計画の背後に菅義偉官房長官 安倍「トランプの腰ぎんちゃく政策」で、横浜が荒廃する」)。

それにしても、菅総理の「寡黙な独裁」とあえて表現したいが、フリージャーナリストへの冷淡さは筋金入りというべきだろう。横田は岸田・石破両候補(総裁選当時)にも同じ質問をぶつけ、三者三様の反応をレポートしている。自民党にとっても、やはり菅総裁は最悪の選択だったのではないか。

◆「創価学会が『菅首相』を誕生させた」(大山友樹)

「創価学会が『菅首相』を誕生させた」(大山友樹)は、菅義偉が衆院に初当選した96年の「血を血で洗う選挙」を朝日デジタルの編集委員のレポートでふり返り、その後の両者の変節・変貌を暴露している。菅陣営は上記の選挙でなんと、池田大作のことを「人間の仮面をかぶった狼」と書いたビラを配布したのだという。ために菅の選挙カーは、創価学会の中年女性数人の自転車ごと体当たり攻撃を受けたというのだ。

その後の変節は、手のひらを返したような菅の謝罪劇によるものだ。菅がマキャベリを崇敬しているとは、あまりにも露悪的ではないか。かつて大平正芳は「尊敬する政治家はロベスピエール」と語ったものだが、菅は本当に『君主論』を読んだ上で言っているのだろうか。

◆【特集】安倍政治という「負の遺産」

アベノミクスの総括は、フランス在住の広岡裕児、および非正規の増加を解説する小林蓮実。2013年の1727万人から19年は2120万人に上昇しているという。女性の上昇率はとくに高く、年間数十万で増加している。このまま増え続けると、いよいよ消費は頭打ちになるであろう。

安倍政権の罪業という意味では、「原発ゼロ」が潰されてきたことだろう。小島卓のレポートは、『NO NUKES Voice』に登場した識者たちによる、安倍政権下での原発政策・負の遺産の軌跡を検証したものだ。故・吉岡斉、望月衣塑子、森まゆみ、鵜飼哲、田中良紹、本間龍、米山隆一、菅直人、広瀬隆、孫崎亨ら。

◆衝撃報告「在日米軍がプルトニウムを空中散布している」(高橋清隆)

ショッキングな告発に驚かされる。元海兵隊員の「在日米軍がプルトニウムを空中散布している」(高橋清隆)だ。Chemical trail(空中散布化学物質)のことである。戦闘機のジェット燃料にはハイブリッド燃料が使われているが、その成分にラジウムや臭化セシウム、そしてプルトニウムが含まれているというのだ。

◆「士農工商ルポライター稼業」は「差別を助長する」のか?(松岡利康)

本欄でも既報(松岡利康)のとおり、『紙の爆弾』9月号の記事「政治屋に売り飛ばされた『表現の自由』の末路」(昼間たかし)について、部落解放同盟から申し入れがあった。「士農工商ルポライター稼業」という表現が、部落差別を助長するとの指摘である。本号から数ページを当該記事および「部落差別とは何か」「内なる差別」についての検証に当てるという。

被差別部落の発祥(歴史)、および差別が再生産される社会的・経済的な理由(差別の根拠)については稿を改めたいが、基本的にレイシズム(差別意識)は人間社会に根ざすもので、誰でも犯すものということであろう。まぎれもなく日本は差別社会であり、なかでも歴史的に形成された部落差別は、つねに再選産されているものだ。

とりわけメディアに関わる人間にとって、部落差別を助長する言葉を単に「使わなければ良い」というのではない。差別社会の反映として生み出される差別的な言葉・文章を契機に、その問題点を分析することを通じて、差別をなくす人権意識・反差別の運動に生かしていくことが肝要なのである。70年代の部落解放運動に関わった者として、小生も及ばずながら本欄に論考を寄せていきたい。(文中敬称略)

月刊『紙の爆弾』2020年11月号より
月刊『紙の爆弾』2020年11月号より
月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

天皇制はどこからやって来たのか〈19〉近世・近代の天皇たち── 江戸期の女帝〈1〉明正天皇

古代の6人の女帝たちは、慌ただしい政治情勢に翻弄されながらも、大王(おほきみ)としての強権政治をもって政局を乗りこえた。その態様はおよそ「中継ぎ」という飾りではなかった。

蘇我・物部両氏の権力闘争を、そのいっぽうで体現した推古女帝。政争と戦争に身を投じた皇極(斉明)女帝。壮大な藤原京造営を実現し、古代律令制国家の天皇権力の頂点をきわめた持統女帝。女系天皇として君臨した元明女帝・元正女帝。そして藤原氏との仏教政策をめぐる暗闘ののちに、古代巫女権力の最後を飾った孝謙(称徳)女帝。

三十三代推古から四十八代称徳までの十五代(207年間)のうち、女帝の在位はじつに六人八代(80年間)におよんでいる。その天皇権力の全盛時代、女帝は男性天皇と天を二分していたのである。

武家の時代には将軍家の北条政子や日野富子、今川氏の寿桂尼など、政治に辣腕をふるう女性たちが歴史をかざった。戦国期の井伊直虎、立花誾千代、北条氏姫など、武家の当主として名を残した女性たちもいる。そのいっぽうで、逼塞する禁裏には女性が活躍する場はなかった。それは朝廷が政治的な求心力をうしなっていたからだ、と見るべきであろう。

皇統の中にふたたび女帝が現れるのは、儒教的な男尊女卑の気風がつよくなった江戸期においてだった。徳川幕府の禁中並公家諸法度によって、朝廷が政治的な権能をうしなっていたからこそ、新たなパワーが公武の緊張感をつくりだしたのではないか。それは公武の軋轢でもあり、新しい時代への萌芽でもあった。具体的にみてゆこう。

称徳(孝謙)天皇いらい、じつに八五九年ぶりに女性として帝位についたのは、明正(めいしょう)天皇である。「和子入内」でもふれたとおり、幕府の公武合体政策によって生まれた皇女である。

明正天皇

◆孤独の女帝

践祚したとき、女帝はわずか七歳だった。彼女の即位は、実父・後水尾天皇の突然の譲位によるものだ。この天皇交代劇には、三つの事件が背景にある。

そのひとつは、後水尾天皇に将軍秀忠の娘・和子を嫁さしめようとしていたところ、女官の四辻与津子とのあいだに子があることが発覚したのである。幕府は天皇の側近をふくむ六名の公卿を「風紀紊乱」の名目で処罰し、四辻与津子の追放をもとめてきた。後水尾天皇に抵抗のすべはなかった。禁中並公家諸法度がただの空条文ではなく、幕府の強権であることに禁裏は震えあがった。

幕府の政治介入はつづく。後水尾天皇はこれまでの慣習どおり、沢庵ら高僧十人に紫衣着用の勅許をあたえた。だが、これが幕府への諮問なしに行なわれたため、法度をやぶるものとして勅許は無効とされる。これにたいして沢庵宗彭(そうほう)、玉室宗珀(そうはく)らが意見書をもって抗議するや、幕府は高僧たちを流罪としたのである。怒ったのは後水尾天皇である。

さらに幕府は和子の入内にあたって、春日局(斎藤ふく)を参内させる。前例のない暴挙と受けとめられた。無位無官の女房が昇殿したことに、宮中は大混乱となる。怒り心頭にたっした天皇は突如として譲位し、七歳の少女を帝位に就けたのがその顛末である。

この譲位はまた、幕府からの血である皇后和子の娘・明正を帝位に就けることで、皇統から排除しようというものでもあった。朝廷は徳川家が外戚になることを嫌ったのである。女帝が生涯婚姻できず、したがってその血脈は独身のまま絶えてしまうのだから──。

在位中の明正天皇はまったくのお飾りであって、後水尾上皇の院政はその後に生まれてくる皇子を後継とするものだった(中和門院の覚書)。じっさいに女帝は二十一歳で退位し、異母弟である後光明天皇が即位する。

この譲位の直前に、将軍徳川家光は四か条からなる黒印状を、新しい院となる明正天皇に送付した。すなわち、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止。および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第一条)。

血族は年始の挨拶のみ対面を許し、他の者は摂関・皇族といえども対面は不可とする(第二条)。

行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合は、新院の伝奏に届け出て、表口より退出すること(第三条)。

両親のもとへの行幸は可。新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は、両親いずれかの同行ならば可。新院のみの行幸は不可とし、行幸の際にはかならず院付の公家が二名同行するべきこと(第四条)であった。これら上皇の院政を寸分もゆるさない、徳川幕府の異様に強権的な命令で、女帝は駕籠の鳥となったのである。院政をみとめない幕府の方針は、時代は前後するが霊元天皇の項でみたとおりである。

のちに明正は得度して太上法皇となり、仙洞御所で72歳の孤独な生涯をすごす。手芸や押し花が趣味だったという。まことに、政治の犠牲となった生涯であった。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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菅総理暴走 学術会議が「特別公務員」であっても、その独立性が侵せない理由

◆アリバイ的な記者会向けの会見

学術会議の任命拒否をめぐり、多くの団体からの抗議文や官邸デモなど国民的批判を浴びている菅総理が急遽、記者会見(10月5日午後5時半)をひらいた。ただし一般公開の会見ではなく、いわば内輪の内閣記者会向けである。

あまりの反発に驚いたのだろう。ワイド番組などで、当事者たちから拒否の理由を問われつづけていることへの反応ともいえる。

だが、その内容は「それぞれの時代の制度の中で、法律に基づいて任命を行なっているという考え方は変わっていない」「総合的・俯瞰的活動を確保する観点から、学術会議の必要性やあり方が議論されてきた」などと、一般論に終始した。

つまり、任命拒否の理由をあきらかに出来なかったのだ。ケーキパン朝食会(10月3日)などで篭絡されている記者会が、拒否の理由を追及することはなかった。


◎[参考動画]日本学術会議“任命問題”に菅総理が言及(ANN 2020年10月5日)

◆任命権と選任権の混同からはじまった

ここまでの問題点、および議論を整理しておこう。学術会議法(7条2項)によれば、会員の任命は「学術会議の推薦に基づき、総理大臣が任命する」であるから、総理大臣は「任命しなければならない」とするものだ。つまり「任命」はできても「選任」はできないのだ。これを混同したところに、菅総理の瑕疵がある。

この任命とは「内閣総理大臣は国会の指名に基づき、天皇が任命する」「最高裁長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する」(憲法6条)と同様で、「任命者は拒否できない」ということなのだ。

行政官たる閣僚が内閣総理大臣に任命されたり、省庁の行政官僚が大臣に任命されるのとは、したがって明確な違いがあるのだ。この独立性の必要は後述するが、学問の自由および学術会議が成立した理由にかかわる問題なのだ。

今回の政府側の任命拒否の理由は、一般社会および官僚組織から理解しがちな誤りだともいえる。

いわく「内閣府の所轄であり、総理大臣に任命権が存在する」というものだ。さらには、学術会議の会員は「特別公務員であるから、任免は総理大臣が行なう」と、その行政的な性格を述べている(いずれも加藤官房長官)。いずれも誤りである。

◆学問の自由こそが政策に寄与しうる

さて、前回の記事(10月3日)でも明らかにしたとおり、学術会議法第3条には「学術会議は独立して……職務の実現を図る」とある。この独立性は言うまでもなく、学問の独立(憲法23条)に根ざしている。と同時に、科学および学問の戦争協力を反省することこそ、学術会議が発足する契機であったからだ。学術会議の存在意義とは、戦争の反省の上に立った「政治と学問の分離」なのである。

したがって、学術会議が政権からの独立性を強調しても、し過ぎるものではない。なぜならば、この独立性こそが、政府への諮問・提言が効果的・有効たりうる担保だからだ。政権の云うままの学識者ばかりであれば、その提言は何ら有意義な内容を持たないことになる。国政の方向性もまた、長期的な展望を欠いたものになるであろう。菅のような権力万能論者には思いもよらないことかもしれないが、政策にとって批判こそが有益なのだ。

ここに一般社会での任免権とは明確にちがう、学術会議の独立的な性格があるのだ。なかなか理解しづらいことかもしれない。

たとえば、任命(管理)責任が総理にあるのだから、任命の拒否も当然なのではないか。あるいは、税金を使っているのだから総理大臣が任免に責任を持つべきだ。という感想を抱く人もいないではないだろう。だが、そうではないのだ。

国政のうち、とりわけ科学技術や国防安保政策など、国家の方向性をめぐるきわめてセンシティブなテーマ、慎重を要する法案などについては、ひろく識者の意見を取り入れることが肝要である。国庫から10億円の予算を割いて、学術会議としての諮問機関を設置するには、その独立性こそが要件である。なぜならば、総理大臣には学術会議会員の任免の専門的な能力がない。そして多様かつ批判的な意見こそが求められるからだ。

◆菅総理の見当はずれな見解

そうであるがゆえに「学問の自由を侵すことにはならない」(加藤)。あるいは「学問の自由と学術会議の人事問題はまったく関係ない」「そうじゃないでしょうか?」(菅)という主張が、事の本質を見誤っているのは明白だ。

学問の自由とは個人のそれ(研究活動の自由)ではなく、政治権力からの自由なのである。自由勝手に学問ができれば良い、のではない。政治を批判する自由を、それが税金を使った機関であればこそ、ほかならぬ政治のために侵してはならないのだ。今回の場合はとくに、単純な個人の学問の自由ではなく、政策への批判の自由が問題にされているのだ。

特別公務員(行政官)だから、任免権が所轄の内閣総理大臣にある。という短絡こそが、今回の誤りの原因である。独立した行政機関に対する内閣総理大臣は、単なる機関(組織の歯車)にすぎない。行政官の任免に関する天皇の立場がそうであるように、総理大臣も「単なるハンコ」なのだ。選任するのでなければ「責任が取れない」と、菅は言う。そうではない。批判を受けることこそ、内閣総理大臣たる者の責任なのだ。

税金を使う以上は国民を代表すると、菅総理は云う。そう、総理はそこでは形式的な存在(個人ではなく機関)となるのだ。かつて、美濃部達吉が天皇機関説で天皇制権力の政治システムを解明し、軍部の猛反発を受けた。しかしこの行政理論はいまや、立憲君主制および民主政治の基本になじむ学説となっている。国会議員は国民が選び、政権は国会およびその決議する法律にしたがう。すべて政治家・官僚の行動は法律の縛りを受けている。今回、菅はそれを踏まえなかっただけの話なのだ。

この行政の基本原理が理解できないかぎり、菅義偉という男は恣意的に政治をもてあそび、行政を私物化する怖れがあると指摘しておこう。戦前の軍部同様、政治権力が個人に属する。国民からの負託を個人の思想や行動が体現する、と思い込んでいるからだ。

◆右派系の学術研究者の不在

学術会議会員の任命を拒否した自民党の本音は、論じる前から明らかである。右派系の研究者があまりにも少なく、その不満をほかならぬ右派系の学者たちから、政治家たちが愚痴られているからにほかならない。

TBS「ひるおび」に初登場した新藤義孝(元総務大臣)が、いみじくもその本音を吐露している(10月5日)。「いまの学術会議は、ひとにぎりの人々で占められています。会員選考の手続きも明らかではない。そういう不満を持っている学者先生がわんさかいるんです」と。

「わんさか」が誰を指すのかは不明だが、右派系の研究者が学術会議の会員になれないのは事実なのだろう。というのも、右派・保守系の研究者というのが、ほとんど学界からは無視されるか、誰もがみとめる業績のない研究者ばかりだからだ。

その例を、安保法制の議論からふり返ってみよう。いまだ記憶に新しい、2015年の6月国会の法制審議会の参考人質問である。

参考人質疑に出席したのは、自民推薦の長谷部恭男・早大教授、民主党推薦の小林節・慶大名誉教授、維新の党推薦の笹田栄司・早大教授の3人だった。当代一流の憲法学者であり、まさに学界を代表する人たちだった。

思い出してほしい。自民党などの推薦で参考人招致された憲法学者3人は、集団的自衛権を行使可能にする新たな安全保障関連法案について、いずれも「憲法違反」との見解を示したのだ。

自民党推薦の憲法学者が法案を批判するという驚くべき事態に、国民的な議論が沸き起こり、自民党は強行採決で法案を通すしかなかった。万余のデモ隊が国会を取り囲み、安倍政権は悪夢のような夜を過ごしたのである。

参考人が安保法案を憲法違反と批判したとき、菅義偉官房長官は会見で「法的安定性や論理的整合性は確保されている。まったく違憲との指摘はあたらない」と、例によって内容なし。木で鼻をくくる対応だった。

「全く違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」とも述べたが、具体的に名前を示すことはできなかった。もともと自民党の「本命」であった佐藤幸治京大名誉教授は、安保法制を合憲とは思っていないことが明白で、それゆえに参考人招致を断ったと考えられている。

当時、憲法学者と肩書のある研究者で、安保法制に賛成の論陣を張ったのは、百地章(國士舘大学客員教授=当時)など、学生時代から右翼活動(生長の家学生連合)に関わっていた研究者。あるいは「新しい歴史教科書をつくる会」の会長でもある八木秀次、あるいは国防問題を専攻する小林宏晨(ドイツ基本法、防衛法学会顧問)、西修(比較憲法、防衛法学会名誉理事長)ぐらいしかいなかったのが現実だ。起草委員の田久保忠衛は外交評論家、佐瀬昌盛も国際政治学者、大原康男は宗教学者であり、そもそも憲法学の専門家ではなかった。

つまり自民党の学術会議への介入は、ないものねだりとしか言いようのない右派系研究者の不在なのである。ないしはその研究レベルが、あまりにも低いがゆえに学術会議に推薦されないからなのだ。

新型コロナ防疫で明らかになったのは、専門家会議の研究者に責任を丸投げしながら、安倍政権は政策判断が何度も遅れることで国民を災禍にさらした。危機管理の脆弱さである。そのことを総括した寡黙な独裁者菅義偉は、学者に責任を転嫁する術を体得したのだ。学術会議そのものに介入することで、研究者たちの忖度が得られると、今回のような暴挙に打って出たというべきであろう。

だが、その狙いはあまりにも低レベルな行政論理解によって、世論の集中砲火を受けることになるのだ。政権発足からわずか半月あまり、菅義偉号は浅薄な言動ゆえに座礁しかけている。


◎[参考動画]「学術会議推薦者外し問題 野党合同ヒアリング」内閣府よりヒアリング(原口一博 2020年10月2日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

7日発売!月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

理由を語らず人事に介入した菅義偉の独裁性 日本学術会議会員の任命拒否は、内閣総理大臣の職権を超えている

◆政治の私物化を厭わない独裁者・菅義偉の正体が明らかに

おそらく政治の権限というものを、あまりにも単純に考えているのだ。国民の負託を受けた政治権力(総理大臣)は、その任免権において何をやっても許されるのだと。ヒトラーの全権委任法を、21世紀において実行しようとしているかのようだ。

日本学術会議の新会員任命(任期3年)について、菅総理は105名のうち6人を任命しないという処置をとった。史上初めてのことである。


◎[参考動画]日本学術会議 人事「NO」に野党追及(FNN 2020年10月2日)

そもそも学術会議は政府から独立した組織であり、その予算が内閣府傘下の予算建て(国庫から)になっていることから、形式上、総理大臣が任免することになっているに過ぎない。日本学術会議法はその第3条において、政治からの独立を宣言しているのだ。

「日本学術会議は独立して左の職務(一、科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。二、科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。)を行う」と。

ところが、その独立性を知らない菅総理は、政治主導(つまり官邸独裁)をここでも発揮してみせたのである。このことが、学問の自由をめぐる政治問題に発展するのは必至だ。はやくも国会論議の焦点が、いや国民的な大運動に発展させるべき案件が浮上したといえよう。学問の自由・独立が侵されたのだ。

というのも、任命されなかった学者のうち、国会で政府の法案に批判的だった人物が含まれているからだ。好ましからぬ人物(芸術家や研究者)を排除する。それはナチスドイツの文化政策と酷似している。

今回、推薦されながら任命されなかったのは、芦名定道京都大教授(哲学)、小沢隆一東京慈恵会医科大教授(憲法学)、宇野重規東京大教授(政治学)、岡田正則早稲田大教授(行政法学)、加藤陽子東京大教授(日本近代史)、松宮孝明立命館大教授(刑事法学)の人文社会科学系の6人である。

その大半に安保法制に反対してきた経緯があり、松宮教授は共謀法やテロ等準備罪法に反対し、国会で意見を述べているのだ。したがって、今回の任命拒否は、政府の政策・法案に反対する研究者は学術会議から排除する、という政治宣言にほかならない。


◎[参考動画]岡田正則早稲田大教授(行政法学)の会見(東京新聞 2020年10月2日)


◎[参考動画]小沢隆一東京慈恵会医科大教授(憲法学)の会見(東京新聞 2020年10月2日)

◆排除の理由を明らかにできない政府

政府は今回の任命拒否の理由を、絶対に明らかにできないであろう。

なぜならば、選考理由を明らかにすれば、任命拒否それ自体の違法性が露呈するからだ。まずは正面から、憲法23条に違反する違憲行為であることを指摘しておこう。

事実、加藤勝信官房長官は1日の記者会見で「内閣総理大臣の所轄であり、会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっておりますから、まあ、それの範囲の中で行われているということでありますから、まあ、これが直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらない。個々の選考理由は人事に関することでコメントを差し控える」と述べている。

今回の選考理由は、けっして任免を左右するような人事問題ではない。今回の政府による会員資格の当否が研究の中身にかかわる、と同時に政府批判にかかわることになるからだ。つまり研究の内容ではなく、研究者の政府批判が基準になっているのだから、もはや学問に政治介入するもの以外の何物でもない。いや、そもそも政府には研究活動の内容を選考理由にする基準は存在しないのだ(憲法23条「学問の自由は、これを保障する」)。


◎[参考動画]芦名定道京都大教授(哲学)=京都大学春秋講義「『戦争と平和』の時代とキリスト教」2016年4月13日 Part 1(Kyoto-U OCW 2019年2月20日)


◎[参考動画]宇野重規東京大教授(政治学)インタビュー(NIRA総合研究開発機構 2018年12月19日)

◆明らかな憲法違反である

過去の政府答弁を確認しておこう。

選挙で日本学術会議の会員を選ぶ制度に代わり、現在の推薦制度が導入された1983年の国会審議では、下記の政府答弁がなされている(参議院文教委員会8号、昭和58年5月12日)。長いが引用しておこう。

粕谷照美(社会党)「推薦制のことは別にしましてその次に移りますが、学術会議の会員について、いままでは総理大臣の任命行為がなかったわけですけれども、今度法律が通ると、あるわけですね。政府からの独立性、自主性を担保とするという意味もいままではあったと思いますが、この法律を通すことによってどういう状況の違いが出てくるかということを考えますと、私たちは非常に心配せざるを得ないわけです」

手塚康夫(政府委員)「前回の高木先生の御質問に対するお答えでも申し上げましたように、私どもは、実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません。確かに誤解を受けるのは、推薦制という言葉とそれから総理大臣の任命という言葉は結びついているものですから、中身をなかなか御理解できない方は、何か多数推薦されたうちから総理大臣がいい人を選ぶのじゃないか、そういう印象を与えているのじゃないかという感じが最近私もしてまいったのですが、仕組みをよく見ていただけばわかりますように、研連から出していただくのはちょうど二百十名ぴったりを出していただくということにしているわけでございます。それでそれを私の方に上げてまいりましたら、それを形式的に任命行為を行う。この点は、従来の場合には選挙によっていたために任命というのが必要がなかったのですが、こういう形の場合には形式的にはやむを得ません。そういうことで任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうには私ども理解しておりません」

形式的な任命権である、と明言しているのだ。したがって「学術会議に監督権を行使することが法律上可能」という加藤官房長官の発言は、日本学術会議法7条2項(会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。)について「総理大臣の任命権は形式的なものに過ぎない」とする政府の国会答弁(従って公権解釈)と明確に矛盾するのだ。

菅総理は自民党総裁選の段階から、官僚の人事について「私ども、選挙で選ばれてますから、何をやるかという方向が決定したのに反対するのであれば異動してもらいます」と明言してきた。

これを学術団体にまで適用したのが、今回の任命拒否なのである。いうまでもないことだが、日本学術会議の構成員は行政官僚ではなく、それぞれが独立した研究者である。このような政治介入がまかり通るのであれば、コロナ対策における専門家会議が政府の都合(失敗を隠ぺい)で廃止されたり、御用学者の意見のみを根拠として政策が実行されていくことになる。

いや、そもそも安保法制のように、9割をこえる憲法学者が反対をする政策が、無批判に行なわれることを意味するのだ。メディア関係者との会食をくり返して、報道内容に手心を加えさせる。あるいはニュース番組の人事に介入し、放映権をかたに政府寄りに報道を捻じ曲げようとしてきた自民党政権において、寡黙な実務派である菅総理が、本領を発揮し始めたとみるべきであろう。いまこそ寡黙な独裁者の言動を国民的にあばき出し、その政治的な死を強いなければならない。


◎[参考動画]加藤陽子東京大教授(日本近代史)『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(FM放送ラジオ番組ベストセラーズチャンネル 2015年12月25日)


◎[参考動画]松宮孝明立命館大教授(刑事法学)【テロ等準備罪】【共謀罪】参考人意見陳述【参議院法務】(※動画33分50秒~)2017年6月1日(shakai nomado 2017年6月9日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

自民党・杉田水脈議員の「女はウソをつく」発言で誰がウソをついていたのか?

「(性暴力の被害をうけた)女性は、いくらでも嘘をつける」

杉田水脈(みお)衆議院議員の自民党内閣第一部会・内閣第二部会合同会議で発言したとされる。この会議に出席した複数の自民党関係者の証言から、共同通信が配信したものだ。

部会の会議では、男女共同参画の来年度要求予算額についての説明が行なわれ、その中で「女性に対する暴力対策」に予算が建てられたことを巡っての発言だったという(本人のブログから)。つまり、女性への暴力について「女性はいくらでも嘘をつける」と、あたかも被害者女性がウソをつくから問題だ、とでも云う被害者バッシングを行なっていたのだ。

杉田水脈議員と言えば、『新潮45』(2018年8月号)で「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と書き、当事者のみならず世論の猛批判を受けた。


◎[参考動画]「生産性ない」発言の杉田水脈議員が釈明(ANN 2018年10月24日)

『民主主義の敵』(2018年青林堂)

さらに『新潮45』が2018年10月号において「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題する特別企画を立てた。この特別企画には小川榮太郎や松浦大悟ら7人が杉田の主張を擁護する趣旨の文章を寄稿。これまた新潮社から著書を出している作家らの批判を浴びた。

けっきょく、この件で新潮社は『新潮45』の廃刊を余儀なくされた。中瀬ゆかり編集長時代には中年男性の本音を衝く総合雑誌として一世を風靡した同誌は、極右路線への漂流のすえに廃刊に追い込まれたのである。杉田はいわば、極右的な言動でネトウヨや封建保守派の代弁者として、言論界に生息してきたといえよう。

当初、杉田本人はみずからのブログで、以下のように今回の発言を否定していた。
「一部報道における私の発言について」

「昨日、一部で私の発言についての報道がございましたので、ご説明いたします。まず、報道にありましたような女性を蔑視する趣旨の発言はしていないということを強く申し上げておきたいと存じます。」

発言を否定していたのだ。杉田の発言を、誰かがウソをついて捏造していたのだろうか。

杉田に直接聞き取りをした下村博文政調会長は、「今回わが党の杉田水脈議員の部会における発言について報道があった。この報道について、杉田議員から直接お聞きした。杉田議員からは『女性に対する暴力対策に対する、しっかりとした取り組みをする必要があると考え持論を述べた。女性蔑視を意図した発言はしていない』と説明があった。」としている。

そして、「わが党は部会での審議内容は公開していないので、誰がどのような発言をしたかは公表していない。わが党の部会は国民の代表による国会議員が自由に政策論議を行う場だ。第三者が傍聴していたのでは言いにくい話もあり、政策立案のためには本音の議論もある。そこで政策立案の部会は会議を基本的に非公開にして各人の発言を公にしないでやっている。」などと、「非公開の原則」という防衛線を張って幕引きをはかっていた。


◎[参考動画]杉田水脈議員“発言” 自民幹部から注意【Nスタ】(TBS 2020年9月30日)

ところが、10月1日午後になって一転、杉田は自分の発言をみとめたのだ。

「9月26日に投稿いたしましたブログ記事『一部報道における私の発言について』につきまして、一部訂正を致します。
 件の内閣第一部会・内閣第二部会合同会議において私は大変長い発言をしており、ご指摘のような発言は行っていないという認識でおり、『報道にありましたような女性を蔑視する趣旨の発言(「女性はいくらでも嘘をつく」)はしていない』旨を投稿いたしました。
 しかし、今回改めて関係者から当時の私の発言を精査致しましたところ、最近報じられている慰安婦関係の民間団体の女性代表者の資金流用問題の例をあげて、なにごとも聖域視することなく議論すべきだと述べる中で、ご指摘の発言があったことを確認しましたので、先のブログの記載を訂正します。事実と違っていたことをお詫びいたします。」

自分の発言も、関係者に精査しなければわからない。この人は認知症なのかもしれない。いや、確信的な「忘却」なのである。


◎[参考動画]「女性はうそつける」杉田議員、一転発言認め謝罪(ANN 2020年10月1日)

◆杉田によるセカンドレイプ事件

慧眼な本欄の読者諸賢ならば、すぐに思い起こされる事件があるだろう。安倍政権の御用ライター・山口敬之のレイプ事件を擁護した、杉田の一連の発言。とりわけ、彼女のセカンドレイプに係る訴訟事件である。

詳しくは、本欄の記事、『伊藤詩織氏がセカンドレイパーを提訴 「ツイート」の「いいね」も民訴(損害賠償)の要件になるか?』(2020年8月24日)を参照して欲しい。

この事件で、杉田は伊藤詩織さんから220万円の損害賠償訴訟をされているのだ。

「女性は、いくらでも嘘をつける」とは、この事件が念頭にあったからではないのか。レイプ犯の擁護者として、みずからがまさにセカンドレイパーとしての被告であるからこそ、同性を貶める発言を流布しているのにほかならない。最悪の女性差別者は、杉田のような女性だという皮肉な現実が日本社会なのだ。。

いや、そもそも杉田水脈は女性差別という、現代日本社会の病理を認めようともしないのだ、

「とにかく女性が『セクハラだ!』と声を上げると男性が否定しようが、嘘であろうが職を追われる。疑惑の段階で。これって『現代の魔女狩り』じゃないかと思ってしまう。本当に恐ろしい(本人Twitter、2018年4月) 」

「私は、女性差別というのは存在していないと思うんです。女子差別撤廃条約には、日本の文化とか伝統を壊してでも男女平等にしましょうというようなことが書いてあって、これは本当に受け入れるべき条約なのか」とも主張している(2014年10月15日、内閣委員会)。

「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。 男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (2014年10月31日、衆議院本会議)。

史実はそうではない。生産性が低いがゆえに、男女が力を合わせて農業に従事した古代・中世においてはともかく、江戸期の儒教的な男尊女卑の価値観および戦乱によらない嫡子相続社会が、圧倒的に女性の社会的地位を貶めてきたのである。無能な男性でも家を継承できる、ある意味では能力を否定してきたのが日本の近世社会なのだ。それは封建制という身分社会・差別社会の産物にほかならない、その残滓こそ、杉田が誇りとする男社会なのだ。

2020年1月には、選択的夫婦別姓に関して、国民民主党の玉木雄一郎代表が「速やかに選択的夫婦別姓を実現させるべきだ」と述べた際「それなら結婚しなくていい!」とヤジを飛ばしている。

もはや時代錯誤としか言いようがない。封建的な家制度が個人の上に立ち、女性は男性の従者でしかないと主張するのだ。

◆小選挙区と比例代表制のあだ花

どうしてこんな低レベルの政治家が生まれたのだろうか。杉田はもともと、日本維新の会から衆議院選挙(2012年)に出馬し、選挙区(兵庫6区)で敗れたものの、比例区(近畿ブロック)で復活当選した議員である。

2014年の維新の会の分裂にさいしては次世代の党に参加し、2014年の衆議院選挙で落選している。つまり、いずれも選挙区では落選しているのだ。

その後、ネット番組で知己を得た櫻井よしこの薦めで、安倍総理(当時)の目にとまり、自民党から比例区候補(選挙区は不出馬)として議員復帰を果たしたのである。つまり比例区候補であって、個人として選挙民の支持を得たわけではないのだ。

国民にウソをついたのだから、さっさと辞職するべきであろう。そもそも杉田水脈には、国民に選ばれた国会議員の地位にしがみつく正当な理由はないのだから。

カネがかからないはずの小選挙区で、しかし政党助成金という名の血税がばら撒かれ、党の公認を受けるための忠誠、すなわち官邸の言いなり政治家が輩出されてきた。政治家の劣化とは、この党中央・官邸独裁の産物なのである。

そしてそれは、政治家の人物を評価しない国民の投票行動として、悪夢のような安倍政権の長期化を許してきた。このさい、選挙制度の抜本的な改革こそ求められている。


◎[参考動画]祝!当選&新番組予告「衆議院議員杉田水脈の国政報告」司会:倉山満(チャンネルくらら 2017年10月28日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

天皇制はどこからやって来たのか〈18〉近世・近代の天皇たち

◆逆境にたち向かう天皇たち

わが皇統は政治的衰退の中でたびたび、英明で剛胆な帝を輩出してきた。古代王朝が崩壊したあとの天皇は、平安期には摂関家藤原氏に、鎌倉期には武家政権の伸長に圧迫された。南北騒乱後の室町期には経済的な逼塞に、そして江戸期にいたると形式的な権能すらも奪われた。

にもかかわらず、豪腕な君子はあらわれるのだ。たといその権能が武家の権勢に虐げられたものであろうと、傑出した人物はかならず業績を残す。平安後期に後三条帝が貴族との戦いのすえに、院政を確立する過程をわれわれは見てきた。鎌倉末期には後醍醐帝の建武の中興に、武家から政権を奪還するこころみを知る。衰退いちじるしい江戸期においても、霊元帝が朝儀を復興させるめざましさに出会う。

京都御所

霊元天皇を語るまえに、その父・後水尾天皇にいたるまで、戦乱期の天皇たちの労苦をたどってみよう。南北合一朝の後小松天皇いらい、朝廷は室町幕府という公武政権のもとで衰亡してきた。後小松から二代後の後花園天皇の時代になっても、南朝の残党が内裏を襲撃して神器を奪う事件が起きている。そして応仁・文明の大乱が京都を焼きつくす。後土御門・後柏原・後奈良の三代にいたり、即位や葬儀の費用も幕府に頼るほど、皇室財政は窮乏する。

武家の戦乱によって荒廃した京都と朝廷を救うのは、やはり武家の権勢であった。織田信長、豊臣秀吉の天下平定の過程で、天皇は戦国大名の調停者としての地位を確立するのだ。足利義満いらいの幕府「院政」からの、それは相対的な独立性をもたらすものだったともいえよう。

戦国大名間の調停という独自性を獲得した正親町天皇、後陽成天皇をへて、後水尾天皇は即位した。すでに徳川幕府は大御所家康、二代将軍秀忠の時代で、豊臣家を滅ぼす計画に入っていた頃である。後陽成天皇が家康との不和から潰瘍をわずらったすえに譲位、弱冠15歳の即位であった。その当代および院としての「治世」は、戦国末期から霊元帝が即位するまで、70年の歳月をかさねている。晩年に造営した修学院離宮にみられるよう、学問と芸術を愛したことでも知られる。

その生涯は、禁中並公家諸法度をもって禁裏を統制する徳川幕府との戦いだった。後述する徳川和子の入内にかかる公卿の処分、紫衣事件など幕府との軋轢のうちに、突然の退位をもってその意志をしめした。徳川家の血をひく娘・明正帝をへて、その意志は息子たちに引きつがれる。嫡男の後光明帝は天才の名をほしいままにした俊英で、十代で儒学に精通する。そして久しく行なわれていない朝儀の復活に取り組んだが、22歳の若さで亡くなる。

弟の後西帝は識仁親王(霊元天皇=後水尾天皇の十九皇子)への中継ぎとしての即位だったが、在位中に火災や地震にみまわれた。とくに明暦の大火にさいして、幕府はこれを天皇の不行状によるものと断じた。ために後西帝は、十歳の霊元帝に譲位する。何という言いがかりであろうか。江戸で起きた火災の責任を、京都の天皇が取らなければならなかったのだ。実際の失火元であった老中阿倍忠秋はその非を問われないばかりか、日蓮宗妙本寺に責任が帰せられている。

霊元天皇の業績として数えられる大嘗祭の復活は、33歳で朝仁親王(東山天皇)に譲位してからのものだが、それこそが院政を敷いた深謀遠慮によるものといえる。というのも、院は朝廷の法体系の枠組みの外側にあり、したがって禁中並公家諸法度による幕府の統制が効かないのである。平安期の摂関政治との戦いとは、また違った意味で江戸期の院政は独自性をもっていた。幕府は院政を認めない方針を通告するが、霊元上皇はこれを黙殺した。

在位中の霊元帝は、後水尾法皇の遺命で決定していた第一皇子(済深法親王)を強引に出家させ、それに反対した小倉実起を佐渡に流刑にする小倉事件を起すなど、荒っぽい行動をためらわなかった。親幕派の左大臣近衛基熙を関白にさせないためには、右大臣の一条冬経を越任させるという贔屓人事を行なっている。また、若いころには側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こし、これを諌める公卿を勅勘の処分にする。武家伝奏正親町実豊を排除するなど、やりたい放題である。

この時期の歴代天皇にみられるのは、後光明天皇のごとき儒教や朱子学への傾倒、あるいは神仏分離を唱える垂加神道への接近であろう。霊元天皇が一条冬経を関白にしたのも、冬経が垂加神道派だったからである。ライバルの近衛基熙はといえば、神仏習合を唱える吉田神道を支持していた。江戸期の朝廷において古神道への回帰志向が顕著になるのは、徳川幕府の仏教優先政策への反発ともいえる。やがてそれは、幕府も奨励する儒教と結びついた国学として、幕末の尊皇思想に結実していくのだ。

いよいよ近代の天皇を語るところまで歩を進めたわれわれは、その前に二人の女帝を記憶にとどめるべきであろう。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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