開港から40年の三里塚(成田)空港〈14〉援農と反対同盟の人々の思い出

◆援農という政治工作

膝づめで親しく話をして、酒を酌みかわしながら信頼関係を築いてゆく。そして政治的な課題を共有して、ともに行動計画を練る。そんなのが三里塚における、理想的な「政治工作」というものだったのだろう。まだ二十歳になったばかりのわたしは、現闘キャップが言う「政治工作」という意味があまりよくわからなかった。とは言いながらも、援農をすることで反対同盟農民への「政治工作」を、わたしも果たしていたのだ。三里塚における「政治工作」とまちがいなく、農民たちに恩義を売るという意味だったに違いない。農民たちにとってわたしたち支援学生は、使いやすい労働力だったのである。予期せぬ援農の朝は、こんな感じで始まったものだ。朝もはやくから、現闘小屋の電話がリーンと鳴る。

 
映画『三里塚のイカロス』

「はい、もしもし。○○団結小屋です」
「いま、そっちに学生さん、いるのかい?」
「は?」(現闘のキャップ)
「援農な、頼めないべぇか?」

電話を掛けてくるのは、決まって「おっ母ぁ」である。家父長である当主が掛けてくることは、めったになかった。親父たちは面倒なことはすべて、おっ母たちに任せたものだ。

「どうなんだべ?」
「はぁ……」

 現闘キャップ、ここで寝起きのわたしの顔を見ていますね。
「援農、来てくれない? 学生さんいるんだべ?」
「ええ、ひとりいますけどね」
「頼むわぁ。来させてよ!」

ややあって、現闘のキャップがわたしに問う。
「政治工作、いや援農、行けるかい?」
「は、はぁ」
「頼んだぞ。よろしくね」
「は、はい!」

かくして、その日のわたしの活動が決まったのである。本当は前日の夜まで鉄塔(岩山鉄塔)当番で、今日はオフだったはずなのに。現闘のキャップはクルマの修理に行かなければならないので、わたしが援農をすることになったのだ。こういう緊急呼び出しの援農というのは、きまって待遇が悪い。そもそもボランティアの援農に「待遇」の良し悪しもなかろうと思われるかもしれないが、貧乏学生にとって昼飯と晩御飯の「待遇」はきわめて重要なのである。若い身に三里塚の地は何の楽しみもなく、ひたすら食べることだけが生きがいだった、ような記憶がある。思い返してみると、現闘団が二名ほどの党派で、しかも実働部隊が学生なのに、反対同盟の方針を左右する「政治工作」など行なえるはずもない。援農で恩義を売ってはその恩義をもとに、自分たちのイベント(当時は「総決起集会」などと呼ばれた)に参加してもらう。そんなことだった。

◆ケチだった援農先、豪華だった晩餐

農作業に慣れない学生にとって、援農は大変だった。大変なのは、その対価である食事だった。関西から援農に入った学生が言ったものだ。

「あそこ、昼飯がひどかったやん。サトイモの煮ッころがしだけやろ。なんじゃいこら、で、僕らは納屋で寝てましたよ。ベタベタに疲れてたし」

なんと、昼飯が気に入らなかったから、作業をサボって納屋で寝ていたというのだ。たぶんその時は、援農の人数が多かったのだろう。2~3人しかいない場合は、そうはいかない。朝の9時ごろから始まって、夕方6時を過ぎるまでひたすら働いたものだ。

その代わりに、青年行動隊の若手の農民がその大半だったが、農作業後の食卓は豪勢だった。すきやき・焼き肉・寿司の店屋物、お酒も出て三里塚闘争の将来を語り合いながら、という具合だった。援農土産に「持っていきなさい」と言われて持ち帰る採りたての野菜、とくに真冬のニンジンや大根は美味しかった。シャキッと歯ごたえのあるみずみずしさは、都会のスーパーで買ったものでは味わえない。採りたての野菜が美味しいのだという記憶は、いま市民農園を借りた野菜づくりに生きている。

◆反対同盟の人々

反対同盟の人々についても、印象を記しておこう。東峰部落の石井武さんは、わたしたちの団結小屋の庇護者であるとともに、横堀要塞戦ではわたしの相被告だった。石井という名前は三里塚・芝山地区には多い名前で、例の「731部隊」は石井部隊とも呼ばれていた。石井武さんは731部隊ではなかったが、満州で活躍された関東軍の陸軍将校である。「おれは匪賊を何人××したか知れない」が酒を飲んでの口ぐせだった。元将校だけに、戦略的な視点や戦術的な判断は卓抜だった。

三里塚闘争の軍師といえば、岩沢吉井さんをおいて他にない。ほかならぬ3・26管制塔占拠の作戦立案は、この人が空港建設説明会の混乱のさいに公団事務所から手に入れていた図面がもとになっている。それは地下水道の精緻な見取り図であり、空港の地下構造の全容である。すなわち、空港を裸にしたようなものだったという。この山林の向こうを掘れば、空港中枢に通じるマンホールがあるはずだ、という感じだったらしい(映画「三里塚のイカロス」)。


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

とくに名前は控えますが、戸村一作委員長亡きあと、反対同盟の顔として活躍されたK氏は、そのオモテ向けの顔と、裏側の顔が乖離する人物だった。とは言っても、他の幹部たちのようにウラ金づくりに走ったりしたわけではない。「他の幹部」というワードが気になる方にはI副委員長など、善意でありながら自分の土地をひそかに売ってしまったり、闘争の資金を私的に流用した方々のこととしておきます。

さて、そのK氏は凛とした演説の風情とはまったく逆に、宴席(全国集会の会場係の慰労会)になると、へらへらとした顔になる。若い女性が大好きだったのだ。何かといえば、「こっちに来なさい」と、若い女性活動家に言葉をかけては、身体を押し付けるように、にじり寄る。ああ、見た目は立派な人なんだけど、こういう面があるのだなぁと、わたしはその光景を眺めていたものだ。ただし身体を押し付けようとしても、直接には触れなかったように記憶している。その意味では、けっしてセクハラではなかった。

わたしの相被告で、秋葉哲救対部長は温厚な人格者だった。わたしたちと要塞に立てこもった反対同盟幹部のなかでは唯一煙草を嗜まれない方で、最初の意志統一の会議で「嫌煙権を主張しますぞ」などと、みんなを笑わせたものだ。地下道(脱出用トンネル)では最後までわたしたちと一緒にあり、最後は「上に掘って酸素を入れなさい」と指示してくれた。酸欠寸前だったわれわれは、秋葉さんに生命を救われたと言っても過言ではない。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき『紙の爆弾』7月号!
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

浅野健一さん、米朝首脳会談取材報告会から「浅野名語録」

6月17日に、浅野健一さんの「朝米首脳会談」シンガポール取材報告が行なわれた。書くものもめっぽう面白いが、しゃべりの面白さにかけては右に出るものがない。いや、自虐ネタも交えたトーク、まなざしのある語りは聴く者を元気にさせる。そんな浅野健一同志社大学大学院教授がすこし喉を痛められ、やや滑舌にかげりを感じさせた。どうかご自愛ねがいたいものだ。

氏の報告記事は次号『紙の爆弾』(7月7日発売)に掲載されると思われるので、ここでは氏独特の節まわしで語られる語録を挙げてみよう。14回を数える訪朝では、同志社の学生を引率したこともあるという。

浅野健一さん

「学生も連れて、何度か訪朝してきました。共和国に行くなんて、親御さんが危ないんじゃないかと言うから、わたくし浅野健一が付いてるからだいじょうぶだ。いや、浅野が引率するから危険なんじゃないか、ぜったいにダメだ。となる。ですからゼミ生が10数人いても、行くのはいつも2、3人。まぁ、仕方ないですね。その代わり、河合塾の経験者はだいじょうぶですね。浅野先生がいっしょなら問題ないと。河合塾はわたしみたいに、偏向した先生が多い、いたって開明的なところですから」

歯に衣着せぬ発言からか、朝4時からの番組しか呼ばれなくなった浅野さんは、ワイド番組には厳しいことを言われる。いやいや、言うところはいちいち、頷くしかないものだ。

「トランプの気まぐれで、朝米会談が中止になりそうになった時のことです。テレビのワイド番組は『それ見たことか!』『やっぱりだ』と、みんな喜んでましたよね。平和のための会談が流れそうになったことを、かれらは喜んでいたんですよ。とくにテレ朝の羽鳥さんの番組に出てる長島一茂ね。べつに政治に見識があるわけではなし、どうして彼なんか出すんですかね。父親が偉かったというだけで、あれは野球でダメだった人でしょ。AKB48に語らせるなら、まだわかるんですよ。若い人がどう思っているのかと。あんなのを出すくらいなら、わたしを出せと言いたい。こいうことばっかり言うから、朝の4時にしかお呼びがかからないんですけど」

これは記事にされる思うが、浅野さんの新聞の読み方にはいつもながら感心させられる。

浅野健一さん

「今回の会談の記事で、歴史的な出来事である『朝鮮戦争の終結』をきちんと報じたのは、じつは4月19日の読売新聞でした。一面のここにちゃんと見出しで出てます。朝日も毎日も、この点は読売の後塵を拝しています。とくに毎日がダメで、朝日はいちおう紙面の中のほうを見ると『戦争終結』が出てるのに、毎日は活字にしていません。とは言っても毎日がなくなると困りますから、頑張ってほしいものです。というわけで、読売はやはり一流紙なんです、社説と論評さえ読まなければですね、しっかりした記事が読める」

自虐ネタや批判ばかりではない。このまなざしを読め。

「わたしは戦後の食糧難のなか、ユニセフやGHQのミルクとパンで育ちました。昨日まで敵国だった日本の子供に、国際社会は手を差しのべてくれた。中国も日本の人民も軍国主義の犠牲者だったと、自国民が日本人を殴るのを禁じた。アジアの人々は、日本人(軍民)が無事に祖国に帰れるよう、配慮してくれたのです。共和国の人々が飢えていることを笑うのではなく、手を差しのべるべきじゃないでしょうか」

そういえば、冒頭で浅野さんは「わたしは高校生の時に米国に留学しましたし、米国の建国の精神である自由・平等・博愛を愛しています。そのいっぽうで、軍事力で世界をねじ伏せようとする米国は嫌いです」イベントの後段では「いわば青い米国と赤い米国がある。青い米国(民主党)を愛しています(※赤と青は党の色であって、思想という意味ではない)」と述べた上で「今回は赤い米国(共和党)が思いきった判断をした」と。

そしてこれも、氏が記事にするであろうと思われるが、今回の米朝会談を契機にした和平への流れは、トランプ大統領と金正恩委員長の思いつきや単なるパフォーマンスではなく、韓国の文在寅政権の成立(朴大統領の追放)が舞台を準備し、朝鮮労働党中央委員会の意志統一があり、米国共和党の判断のもとに、会談と朝鮮戦争の終結への意思確認が行なわれたのだと。この政治の裏側を読み取る視点は、いまのマスメディアには露ほどもないものだろう。

横山茂彦。著述業・雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき『紙の爆弾』2018年7月号!
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

開港から40年の三里塚(成田)空港〈13〉獄中で感じた「78年革命」

◆78年はニューミュージックとディスコサウンドの時代だった

わたしの未決拘留の一年間は、ラジオを通じて音楽に親しんだ一年でもあった。音楽通になるのは、拘置者の特権というべきか宿命というべきか。クルマを使って出版社で集配業務をやっていた時期もラジオは身近な存在だったが、90年代の音楽はそれほど印象に残っていない。千葉拘置所ですごした1978年を、わたしはひそかに78年革命と呼びたいと思ってきた。68年革命という世界史的な革命とはややちがう、しかし明らかに68年革命を否定する文化とミュージックシーンがそこにあったと思うからだ。まず、ニューミュージックの勃興による、四畳半フォークという60年代後期の若者文化の否定があった。まったく別のベクトルからは、ディスコミュージックが日本に到来していた。これら音楽シーンから歴史の思想的回路を取り出してみよう。


◎[参考動画]Bee Gees Stayin Alive (Extended Remaster)

映画「サタデーナイトフィーバー」を起点にしたディスコブーム。最近復活したABBAが多数の楽曲を仕掛け、ディスコの女王ドナ・サマーが次々に新曲を発表。60年代に日本人のアイドルだったシルビィ・バルタンも「ディスコクィーン」という曲をリリースしている。荒井由実・中島みゆき・ハイファイセット・サーカス(この年デビュー)を中心にしたニューミュージックには、渡辺真知子(カモメが翔んだ日)、庄野真代(飛んでイスタンブール)ら、本来なら歌謡系であるべき新人歌手が参入した。このニューミュージックは、60年代のフォーク文化を継承しながら否定する、アメリカ西海岸ミュージックとフォークのクロスオーバーなどと言われたものだ。

ロックではイーグルス(ホテルカリフォルニア)、ソウル系のスタイリスティックス(愛がすべて)が際立っていたと思う。「ホテルカリフォルニア」は言うまでもなく、アメリカという国家の疲弊と思想的な限界をバラードにしたものだ。ベトナム戦争に傷ついたアメリカは、ホテルカリフォルニアというホスピスに癒されているのだ。ここには68年いらい、スピリット(革命的な精神)は置いていないと、その叙情的なフレーズが語る。日本では矢沢永吉であろう。「時間よ止まれ」がミリオンセラーのヒットで、この年にハンク・アーロンの世界記録を塗り替えた王貞治に次いで「ヒーローと呼べる男」になった。最近亡くなった西城秀樹も、YMCAをはじめとするゲイミュージックを別のかたちで伝えて、一世を風靡したものだ。そういえば、ふつうの女の子にもどりたいキャンディーズが後楽園球場で4万人を集め、ピンクレディはラスベガスに進出した。かぐや姫(みなみこうせつら)の復活はあったものの、総じて60年代フォークが引導を渡されたのが78年だったと、わたしは思う。

◆78年革命から80年代ポストモダニズムへ

68年を否定した時代を、かりに文化における革命と措定してみる。78年革命があったとしたら、68年(70年)革命の遺産を払しょくし、若者たちはひたすら新しい時代を求めていたというテーマの設定はどうだろう。新しい時代が峻拒したかったものとはおそらく、68年革命と内ゲバに象徴される敗北の歴史であるはずだ。

不遜を承知で言おう。小熊英二が『1968』で2011年の3.11以降、社会運動は組織参加から個人参加の時代に変ったという、恣意的で皮相な見識とはちがって、68年いらい組織から個へと参加方法を移行させてきたにもかかわらず、運動を閉塞させてきたものからの自由。つまりマルクス主義やレーニン主義などの枠組みからの脱出を、70年代後半のわたしたちは希求していた。別の言いかたをすれば、運動と組織におけるポストモダン(近代合理主義批判)が始まっていたのだと、強引に理屈づけてしまおう。そうでなければ、80年代初頭からのニューアカデミズムとポストモダニズムの台頭が、どうにも説明できないのである。

ポストモダンという言葉が、大きな物語の終焉として語られるようになったのは、ジャン・リオタールの『ポストモダンの条件』が最初であろう。それより前には、建築家(チャールズ・ジェンクス)から発せられた『ポストモダニズムの建築用語』(77年)があり、世間一般にはポストモダンは建築様式として、磯崎新の建築作品群などで知られてきた。脱構築(デコンストラクション)という言葉が用いられたが、これは解体的止揚と訳したほうが適切であろう。その意味では、78年のニューミュージックは68年革命の成果であるフォークソングを解体的に止揚し、78年のディスコブームは60年代末期のゴーゴー喫茶(モンキーダンス)を解体的に止揚するものだった。

しかしながら、ニューアカデミズムとポストモダン現象が90年代には早くも失速するように、ニューミュージックとディスコブームも一過性のものにすぎなかった。ニューアカとポストモダン(この場合は思想としての)が一過性のものだったのは、そのあまりにも難解なレトリックと概念、わざと難しく書くことが偉いかのようなスタイルによって、誰もそのステージに上がれなくなった(単に本を読み通せなかった)からだ。

ニューミュージックとディスコ音楽が難解だったとは思えないが、この場合は楽曲の幅の狭さがその原因だったのではないか。あまりにもワンパターンだった。ニューミュージック系の流れでは、最近は本格的な声楽の歌い手をグループでプロデュースする手法が流行り、それなりに成功しているようだ(FORESTAなど)。とはいえ、歌唱力ではアイドルグループを凌駕できても、オリジナル曲とサラ・ブライトマンのような歌手が出てこなければ、本物の歌でアイドル文化を越えることはできないだろう。

◆本物の思想とは何なのだろう?

 

グループサウンズやフォーク、そしてポップスと呼ばれた欧米の楽曲、さらにはビートルズやストーンズ、ショッキングブルーなど。これら70年を前後するミュージックシーンを超える、本物のミュージシャンは、まだ日本には出てきていないと思う。坂本龍一教授にしても、そこは超えられなかったと思う。

いっぽう本物の思想といえば、階級ならぬ階層社会のなかで見直されるのは、やはりマルクス主義ではないだろうか。ヘーゲルいらいの大きな物語の終焉については同意しよう。革命というマルクスの物語も潰えたと思う。にもかかわらず、ニューアカとポストモダンの死骸のなかで、けっきょく残ったのはマルクスの方法論、すなわち経済的な与件に決定されるわれわれの存在と、それゆえに求められる共同体論の模索ではないか。すぐる5月5日はカール・マルクス生誕200年記念日だった。

映画「マルクス・エンゲルス」が上映され、反貧困運動いらいマルクスがもう一度見直されようとしている。わたしにとっては資本論読破40周年だが、そのガイストはもはや記憶にない。わたしたちの生きる術も労働や生産といった、資本の本源的な運動にはないと思う。78年革命が三里塚闘争によるものだとしたら、それはすでに経済的な与件ではなく、環境と共同体にこそ活路を見出そうとしていたはずだからだ。具体的には労働や生産点よりも流通と消費に、わたしたちは意識を移してきたのだ。どちらが本物なのかは、よくわからない。(つづく)


◎[参考動画]映画『マルクス・エンゲルス』予告編

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)
『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈12〉獄中で『男組』に出逢う

横堀要塞の抜け穴トンネルが警備陣に気づかれていたのは、すでに書いたとおりだ。場所までは特定できなかったものの、その存在は知られていた。あるいは推定されていた。そして検察官が抜け穴トンネルから脱出した者がいなかったことを、立証しないというドジを踏んだのも前述したとおりだ。ために刑事裁判を厭う裁判長は、殺人未遂被告にも執行猶予を与えてくれた。

抜け穴トンネルが予期されていたのは、交通課の刑事たちのレベルでも「過去の例(第一次・第二次強制収用阻止闘争)をみれば、すぐにわかるじゃないか」「あそこから、外に出た者はいないんだ。君たちが『自分たちは逃げなかったが、ほかに逃げた者がいる』とか言っても通用しないぞ」と事態は判明していたのに、検事はあえてトンネルからの脱出の有無を立証しなかった。ぎゃくに言うと、警察と検察の連携のなさは明らかだった。そして「逃げられなかったのは、指導者が悪いからだぞ」(取り調べの刑事)というのは半分は当たっているが、半分は「前日に脱出しなかった」のは、党派間の政治の問題なのである。

◆名作『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

獄中で読んでおもしろかったのは、漫画『男組』の物語の展開のなかに、関東少年刑務所の脱出用トンネルが登場したことだ(78年5月「少年サンデー」連載分)。あきらかに、わたしたちの横堀要塞の脱出用トンネルをヒントに描かれたものだ。その証拠に要塞化した少年刑務所の上空には、三里塚の地を思わせる飛行機が描かれている。わたしたちへの「応援しているぞ」というメッセージであろう。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

原作者の雁屋哲は東大時代に教養部自治会の役員をやっていた元活動家で、代表作『美味しんぼう』で知られるとおり、反米・反TPP・反原発の思想の持ち主である。『男組』は1974年の4月連載開始で、当時高校生のわたしは、受験勉強のかたわら読んでいた。大学に入って、アルバイト先の暇な時間にコミック化した『男組』を読んでいると、いつもは大学の教科書を読んでいると、にこやかな表情をする英語の堪能な女性事務員は、何となく軽蔑した視線を寄越したものだ。まだマンガが市民権を得ていない、それはいまでも同じかもしれないが、知的な層からみれば上から目線で見られていた。

そうであったとしても、『男組』は読み返してみるに、じつに政治的で扇動的なマンガだと思う。闘わなくなった若者に「闘え」と何度もアジる。アジるのは主人公の流全次郎だけではなく、ライバル(もうひとりの主人公)の神竜剛次もだ。剛次は「ブタのように奴隷労働の対価をむさぼる父親たちを乗り越えて、俺の理想の国家づくりに協力しろ」と、高校生たちを扇動する。そして闘わない大衆をも「ブタ」とののしる。その神竜剛次の危険な野望である独裁国家づくりを阻止するために、流全次郎も「いま神竜と闘わないで、いつ闘うのだ?」と、同級生たちの覚悟のなさを批判する。わたしたちは「三無派」(無関心・無責任・無気力)とも四無派(+無感動)とも呼ばれた世代で、雁屋にしてみれば「喝」を入れたいのはよくわかる。雁屋のメッセージを少なくとも、わたしは正面から受け止めた人間のひとりだと自負する。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

◆あらゆる政治的計画は破綻する

けれども、そのあまりにも過剰なボルテージは、池上遼一の巧みでダイナミックな描画によって、抜き差しならないところまで物語を引っぱってしまう。後段、流全次郎とその盟友である堀田正盛と倉本は「機動隊をせんめつせよ!」と呼号する。どこかで聞いたスローガンではないか。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

特命機動隊なる非合法としか思えない警察集団が、殺人の許可をえて取り締まりに当たっているのだから、高校生番長グループが「機動隊をせんめつせよ!」と叫ぶのも不思議ではないが、これは70年闘争の中核派の主張である。物語全体に、たとえば影の総理を児玉誉士夫や岸信介、あるいは田中角栄、三島由紀夫をダブらせてみせる人物設定が巧みで、読む者を政治のリアリイズムのなかに誘う。それゆえに、ボルテージを上げすぎても破綻しないギリギリのシナリオが成立している。とはいえ、政治のアジテーターがけっして政治的な結末まで準備できないのと同じで、物語はアジテーションで終るしかない。なぜならば史実をなぞる物語でないかぎり、政治的計画は第一の命題である「政治は結果がすべて」であることによって、かならず裏切られる運命にあるからだ。

それでは、三里塚芝山連合空港反対同盟とわれわれ支援の政治的な計画は、どこで何に裏切られ、あるいはどの地点で僥倖に遭遇したのだろうか。それは陥穽に落ちたと評価されるべきものなのだろうか。80年代に複数の回路で行なわれた「話し合い」は、90年代にいたって学識者の調査団、さらには円卓会議(上下のない立場での会話)として形になってゆく。(つづく)

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき最新刊『紙の爆弾』2018年7月号!
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈11〉千葉拘置所 21歳の獄中記

千葉刑務所(千葉拘置所)
 
千葉刑務所(千葉拘置所)

◆明治以来の獄房・千葉刑務所(千葉拘置所)

いまの刑務所はテレビも観られるのだという。ヤクザの取材で知ったことだが、時間と選局は決められているものの、かなり自由に観られるそうだ。時間は所によって違い、18時から21時、19時から21時だという。わたしが入っていた頃の千葉拘置所(千葉刑務所内)は、18時からラジオ放送が始まり、21時に消灯。その後、22時か23時までラジオが聴けたと記憶する。昼は12時から13時だったか、休日(刑務所的には免業日)は終日聴けたと思う。

いま、北海道の旭川刑務所の独房が評判で、まるでワンルームマンションだと言われている。旭川刑務所はLB級、つまりロング(長期刑)で再犯(B分類)の重刑犯の刑務所である。千葉刑務所もLB級で、わたしが入っていた頃は狭山事件の石川一雄さんが居たところだ。建物は明治時代のもので、古色蒼然とした赤レンガ造り。独房の扉はぶ厚い一枚板で、トイレは肥溜め式。唯一の救いは、頑丈なレンガとコンクリートなので、夏の熱さがそれほど感じられなかったことだろうか。冬も寒いとは感じなかった。

いま、東京拘置所は建物全体に冷房があり、個室にもその冷気がくるので夏も快適だという。密閉性が高いので、冬も寒くないという。いずれにしても、堅牢に造られた建物は夏も冬もそこそこに快適だということだろうか。いまはレンガ造りの門だけ保存されている千葉刑務所(千葉拘置所)は、明治時代の建物だった。独房のなかには朝鮮人(おそらく共産主義者)の落書きが記され、戦前の日付が残されていたりした。

◆左翼学生にとって拘置所が革命の学校なら、ヤクザにとって刑務所は大学

 
千葉刑務所(千葉拘置所)

拘禁されているのだから、それが苦痛と思えばキリがないけれども、拘置所のなかで21歳になったわたしはシャバでは意識しなかった向学心で、それなりに充実した「獄中生活」を送ったと思う。時間をかけて資本論を読むのは初めてだった。「相対的価値形態と等価形態は相互に従属し制約し合う二要素であると同時に、相互に排斥する両極であり、換言すれば同一なる価値表象の両極である」という価値形態論のフレーズをいま読んでも、何のことかさっぱり理解できないが、若いわたしは解かったような気になっていた。

小説もよく読んだ。高橋和巳の小説は「こんなの、獄中で読まないほうがいいよ」と差し入れ担当の仲間が言っていた『憂鬱なる党派』もふくめて、ほとんど読破したと思う。やはり『悲の器』と『邪宗門』がダントツにおもしろく、そしてテーマがズーンと重たい。『悲の器』が文化人論・恋愛論・法と国家論を詰め込んだ重厚な問題作なら、『邪宗門』は宗門の悲劇を通じて描いた壮大な現代史であろう。何度も読み返せる小説作品としては、三島由紀夫の『豊饒の海』四部作とともに、わたしはこの二作品を挙げたい。

未決の「舎房雑役」は既決の模範囚が行なうのだが、その中に高橋和巳を読んでいる人がいて、本(領置品)の出し入れのさいに話になった。「高橋和巳はおもしろいよな。ちょっと硬いけどな」と、彼はかなりのインテリで、ドストエフスキーの話もした記憶がある。のちにヤクザの取材をすることで、ヤクザにとって「刑務所は大学」だということだった。担当さん(看守=刑務官)を「先生」と呼ばされ、イヤでも本を読むしかないのだから――――。

 
千葉刑務所(千葉拘置所)

◆獄メシ 麦6割・白米4割の健康食

ネットで検索すると、いまも獄メシは、麦6割・白米4割の健康食らしい。それが美味いかどうかは、お正月に出る白米100パーセントを食べてみればわかる。白米(銀シャリ)はまるで、上質なもち米を味わうかのごとき美味さで、麦飯の不味さを実感させたものだ。カレーとモツ煮込みがわたしには極メシの御馳走で、たまに薄いトンカツが出ると狂喜乱舞であった。このトンカツ定食が夜に出るのは、決まって死刑相当の被告が千葉刑に滞在する時だった。というのも、某党派の長期刑相当の被告は、東京地裁と千葉地裁に被告事件を抱えていたから、たまに千葉刑に移送されてきたのだと思われる。

そしてなぜトンカツなのかといえば、これは新聞でも暴露されたことだが、千葉刑務所は刑務官たちがコッソリと養豚をしていたのだ。もちろん自分たちで餌をやるわけではなく、懲役囚に育てさせていたのである。刑務所はいわば工場であり、キャピックという組織を通じて製品を一般に販売している。懲役囚にわずかな報奨金を与えて、木工工場からは箪笥やテーブル、印刷工場ではチラシや文庫本の印刷、金属工場ではネジや釘といった部品類、そして独房では封筒・紙細工など、シャバでは主婦の内職みたいなものが行なわれている。たまにデパートで刑務所作業販売会という催しが行なわれることがある。販売されているのは木工製品が主流で、それはそれは職人が造ったとしか思えない逸品ばかりが並んでいるものだ。

トンカツも楽しみだったが、自弁でお菓子は買える。獄中にいると不安がつのり、ついつい食べすぎになる。白アンパンが好物なので、毎日一個は食べていたような気がする。甘い物は注文できるのだが、ポテトチップスとかジャンクフードは少なかったように思う。それにしても、1日15分の運動では食べた量を消費できるはずもなく、逮捕された時に50キロほどだったわつぃの体重は、1年間で63キロまで増えていた。これは懲役囚でも同じらしく、みなさんふっくらとしている。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

7日発売!タブーなき『紙の爆弾』2018年7月号!
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈10〉ゲリラ闘争の体験

この連載も10回目になります。闘争の歴史を記述するのは、あくまでもわたし個人の視点によるものであって、100人がいれば100の史実と真実がある。という歴史観から自由ではありません。とはいえ、歴史関連の著書もある史家のひとりとして、なるべく事実に即したものを書き残しておきたい真摯さは持っているつもりです。

そこで、書ける範囲で三里塚闘争の実相を記しておきたいと思う。三里塚闘争において闘争の実効性の大半を占めたのは、実力闘争がもっぱらであった。機動隊を前面に立てて空港建設が行なわれたかぎりで、それは共産主義革命をめざす政治党派が意図した以上に、農民の怒りを根源にした、自主的で必然的な判断・意志によるものだった。三派全学連をはじめとする新左翼の闘争の先鋭化はしたがって、三里塚芝山連合空港反対同盟の実力闘争によって培われたものだ。

以下はゲリラ闘争の記録である。自慢げに華々しい戦記物を書くつもりはない。ふつうの人間が戦場に置かれたとき、どんな行動をするものか。すくなくともわたしたちは、三里塚の地で疑似戦場を体験していたのだ。人が命を落とす戦争というものの怖さを、わたしも掠(かす)るように体験した。その意味では、戦争体験と言えるかもしれない。じっさいに複数の仲間が三里塚で死に(自殺をふくむ)、敵であった機動隊員も4名が殉職しているのだから――。


◎[参考動画]映画『三里塚に生きる』特報(第一弾予告編)(Kobo Sukoburu 2014年7月7日公開)

◆都市ゲリラ

ゲリラ行動の原則は敵の弱い環を叩く、戦術の基本から準備される。たとえば空港公団の設備の警備が手薄な場所。ビジネスビルの一角に、たまたま空港公団に関連する事業所の事務所があったなら、その事業所があるフロアのトイレなどが狙い目だった。なにくわぬ顔をしてエレベーターに乗ってフロアに降り立ち、ガソリンが入ったビール瓶にウエスを浸したものに、火の点いた蝋燭を立ててくる。時限発火装置などという技術開発はなかったから、ガソリンに火が付くかどうかはわからない。翌日、夕刊紙に「トイレでボヤ」という記事を見つけたゲリラ実行者は、ひそかに成功を快哉するというわけです。ただ、見出しの「過激派のイタズラか?」に少々傷つく。これはしかし、典型的な都市ゲリラだ。監視カメラが設置されているいまは、もう使えない戦術だろう。念のために付記しておきますが、わたしがやったゲリラではありません。

◆死者の出る野戦

77年5月の岩山大鉄塔破壊のときは、大学のサークル連合の合宿からもどったばかりで、仲間から「おまえ、やっと来たか」と言われた記憶がある。鉄塔の跡地では旗竿を構えたまま隊列を組んで、機動隊に迫ろうとすると猛烈な放水を浴びた。お腹にまともに受けた瞬間、身体がふわっと浮くような感じだ。ウィーンというモーターの音がして、暑いと感じられる5月の日差しのなか、放水のしぶきが肩にはじける。ちょっとシャワーを浴びたような快感と、戦場にいる臨場感。つぎに盾を持った機動隊員が前進してきて、そのまま追い立てられるように道路から排除された。

翌日は朝から千代田農協の構内で、鉄塔撤去への抗議集会だった。と同時に、周辺で機動隊との衝突がはじまった。集会をしている買う場内にもガス弾が飛来して、たまたまそれに当たった労働者が昏倒する。機動隊と対峙するデモ隊の脇から、突如として走り出てきた赤ヘルが火炎瓶を投擲する。機動隊のジュラルミンの盾が、サーッと後退する。随所で竹槍で機動隊と激闘が繰り広げられる。投石もすさまじかった。そんな攻防が昼過ぎまでくり返されたのだった。その日、臨時野戦病院に防衛線を張っていた東山薫さんが、ガス弾の直撃をうけて死亡したのは、連載の初期に書いたとおりだ。その翌日、ゲリラの襲撃をうけた機動隊員が殉職した。相互に犠牲者が出て痛み分けの様相だが、三里塚闘争が「戦死者」をともなう闘いなのだという実感で気分が重なった記憶がある。

◆トラックで乗り付けて、火炎瓶をフェンスに投げつける

開港前のゲリラ闘争は、集会の開催などとは関係なく行われていた。夜半にトラックで警備の手薄なフェンスに乗り付け、鉄柵に火焔瓶を叩きつける。ボッと燃え上がる炎を背に、トラックに飛び乗って逃走する。現地集会がひらかれる時以外は、ヘリコプターが動員されるのは稀で、空港の中からパトカーや警備車両が出動することもない。いわば三里塚の闇の中をやりたい放題のゲリラだった。

その様子を、警察無線の傍受で何度も聴いたことがある。「第5ゲート付近、火炎瓶事件が発生」「トラックで逃走の模様」「警備出動の可否を上申」などいう会話が聴こえてくる。じっさいに、警備車両が出動して、某党派の団結小屋を捜索したこともあった。「トラックのエンジンが熱いかどうか、確認せよ。エンジンを確認せよ」という警備本部からの指令で、現場班から「エンジンは……、冷えています」の応答があった。

ゲリラに使った車両を、そのまま団結小屋まで回送するゲリラはありえない。その夜の内に、空港の警備圏外に脱出しているはずだ。だがそれも、まだNシステムがない時代だからこそ可能だったゲリラであって、90年代にはいると物資の搬入も幹線道路を避けなければならなかった。後年、自転車ツーリングで元ゲリラ要員といっしょに利根川サイクリングロードを走ったとき、河川敷の道路経由で物資を搬入したと聞かされたものだ。

警察無線を盗聴していて、よくわかったのは現場の最高指揮官が「参事官」ということだった。参事官(本庁課長・警視長クラス)は本庁のキャリア組で、派遣された各県警の本部長を歴任したあとに、本庁にもどって警視庁長官レース(審議官・警視監クラス)に臨む。したがって自分よりも年上の県警幹部を叱咤しまくり「ヘリを飛ばせろ!」と叫ぶ。その下命をうけた県警幹部が「〇〇参事官から、かさねてヘリ出動の要請あり」などと連絡が入る。そんなやり取りは滑稽で、しかし迫真のものだった。

昼日なかにトラックではなく、徒歩で山野を逃げたこともある。もう開港していたから、飛行阻止闘争という意味合いで滑走路の延長上で黒煙を炊くというものだった。山林火災にはならないよう、古タイヤや灯油をつかった大きな焚火である。黒煙が上がれば、飛行機の離着陸に影響があるだろうというものだが、近くにいるわたしたちが煙たい思いをするだけだったかもしれない。もうもうと黒煙があがると、機動隊が大挙してそれを消しに来る。そこを待ち伏せして襲撃するというわけではなく、なにしろ少人数だから逃げる。無許可で大きな焚火をしただけだから、刑事犯罪ではないと思われるが、とにかくゲリラ闘争らしく逃げる。田んぼの畔を走り、小川を飛び越えて山林に隠れる。逃走地点は決めてあって、3時間ほど逃げた地点に迎えのクルマがやってくる。この場合はクルマをゲリラに使ったわけではないので、そのまま団結小屋にもどって夕食ということになるのだった。

やはり飛行阻止闘争で、凧をつかったことがある。凧にアルミ箔を貼って、それで管制室のレーダーが妨害されるのかどうかはわからないが、凧揚げで飛行を阻止するのだ(笑い)。小さいころに凧揚げをやった経験のない学生はダメで、うまく揚げた学生が賞賛されたものだ。(つづく)


◎[参考動画]東峰地区(mogusaen 2016年5月28日公開)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈9〉女性たちの三里塚闘争

◆第四インター日本支部の栄光

3.26開港阻止闘争で全国にその名を知らしめたのは、第四インター日本支部(革命的共産主義者同盟)だった。管制塔占拠にさいしても「管制官には危害を加えない」という方針が確認されていたことから、非暴力直接行動であるとの評価も浮上した。もっとも、これはベトナム反戦運動のころに起きた、ベトナム戦争反対行動委員会の日特金属工業(米軍や自衛隊に機関銃を供給)への抗議行動(機械などを破壊)になぞらえて評価されたものだと思われるが、ちょっと的外れである。開港阻止闘争では機動隊に火炎瓶を投げつけたし、鉄パイプを機動隊員に打ち下ろしてもいる。だが、内ゲバはしないという組織路線が、革共同両派の内ゲバ戦争に辟易していた人々には、清廉なものに見えたはずである。左派労働運動のご意見番的な存在である長崎造船労組は「いま、君たち(第四インター)は好感をもって労働者たちに受け入れられている」と評したものだ。

当時、第四インターの実働部隊である青年学生共闘は逮捕された200人ほどをふくめて、600ほどか。政治集会で1000人ぐらいではなかっただろうか。当時、中核派が1500人ほど、社青同解放派が600~700、ブント系では戦旗(荒派)が150、戦旗(西田派)が100、ほかに大きなところでは立志社(のちにMPD)が130、第四インターとともに管制塔占拠をになったプロ青同(共労党)は80ほどにすぎなかった。わたしがいたグループといえば、60人もいたのだろうか。三里塚闘争全体では、警察発表で9000人、主催者(反対同盟)発表で20000人と言われていた時代である。いずれにしても、史上初めて学生と労働者が警察に勝ったということで、第四インターはいわゆる人民大衆に期待され、その活動は受け入れられた。まるで60年代の三派全学連(第四インターも三派全学連には参加している)の再来のように、かれらの人気は高まった。

が、思わぬことからその栄光の赤旗(鎌トンカチ)は、地に堕ちることになったのだ。それはレイプという女性差別が、ほかならぬ三里塚現地闘争団の内部に起きていたのである。

◆現地闘争団のレイプ事件

最近、当時の女性活動家から当時のことを聞く機会があった。レイプ事件そのものは、調べてみれば他党派もふくめて芋づる式に露見したという。わたしのいたグループでもレイプこそなかったものの、就寝中に女性の身体を触るなどの行為はあった。その問題については、「女性の政治的決起を抑圧するもの」と指導部から評価が説明されたかと思う。痴漢、あるいわセクハラ行為なのに、左翼はヘンな理屈をこねるものだと思った記憶がある。※第四インターでは、女性が嫌がる性的接触をすべてレイプと規定したという。

最近、わたしが話を訊いた元第四インターの女性も、「レイプ問題も、マルクス主義から説明しなければならない女性指導部に、ちょっと厭きれた」「女性が嫌なことをされたわけだから、そこを具体的に問題にしなければ解決しないのに」と語ってくれたが、そのいっぽうで当時は解放感にあふれた雰囲気で、三里塚の地はすばらしく楽しかったとも言う。若い男女が狭い小屋で寝泊まりしているのだから、問題が起きないほうがおかしいと、わたしは思う。とはいえ、女性が嫌がることをしていたのだから、徹底して指弾されてしかるべきである。かく言うわたしも、最初に街頭デモで密集したとき、女性活動家と身体を密着させることにアソコが驚いたものだ。左翼ってすごい、と思った。

◆フェミニズムの勃興は女性差別から

ともあれ、この事件(複数)によって第四インターは組織的な混乱に陥った。レイプを糾弾する女性グループが形成され、のちに分派して第四インター国際書記局から正統派と認められる(正確には組織としてではなく、このグループのメンバーを国際書記局が受け容れた)。女性差別と言えば、60年代末の全共闘運動のバリケードのなかで、レイプ事件や女性が嫌がる事件は頻発していたという。上野千鶴子は、男子活動家から『共同便所』という言葉が出たのがショックだった、とその当時を語っている(朝日新聞の連載記事)。いわば全共闘運動における女性差別こそ、リブ(フェミニズム)が生まれ出る契機だったのだ。

 
『三里塚闘争50年の集い7・17東京集会報告集』(2017年1月15日三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人・柳川秀夫)発行/定価500円)※画像をクリックすると模索舎ストアにリンクします。

70年の全学連大会で議長が気軽に女性活動家に書記を依頼したことから、その大会は女性差別糾弾がテーマとなったのはよく知られている。第四インターという組織はおそらく、そういう組織的な矛盾を経ることがなかったのではないか。わたしは学生時代に障がい者介護をやっていたが、その当該(障がい者)が第四インターを批判して、ぼくの部屋を勝手に解放空間にしてしまったと語ったのを知っている。その解放空間とは、彼に言わせれば若い男女の乱れた関係、いや、セックスが解放されてしまった空間だったようだ。

上野千鶴子は「同志である男性活動家に裏切られた」と語っているが、差別の実際こそ男女の関係をつくりかえる契機になるのだろう。しかるに、三里塚闘争の主体である反対同盟農民の家庭において、その女性差別は顕著だった。若い男女の関係ではなく、封建的な家父長制において、嫁たちは苦しんでいたのだ。しかもその嫁たちはリブ運動に目覚め、反権力闘争の中に女性解放の展望を見出そうとしていた、新左翼の支援嫁たちなのである。このテーマについて、本稿ではこれ以上は掘り下げない。じつは支援嫁たちの三里塚闘争として、ある気鋭の女性ライターに書くことを勧めているからだ。乞うご期待! そのエッセンスは、支援嫁のひとりである石井紀子さんの発言で触れられる 。紀子さんによれば、おっかぁ(家父長の妻=婦人行動隊)たちは「共同経営者」であり、農家で妻の立場はけっして弱くはない。彼女たちの賛同を抜きには、家父長といえども何もできないからだ。支援嫁はしかし、ほとんど家内奴隷だった。ようやく共同経営者になろうとしたとき、夫たちは空港との共存に走り、支援嫁たちは立ち尽くすしかなかった。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、最新刊は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)
『紙の爆弾』6月号 安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈8〉三里塚闘争と内ゲバ

わたしが逮捕されたとき、警察の取調べ官は交通課の刑事だった。逮捕者が200名以上もいたので、公安部の捜査員では足りなくなっていたのだろう。交通課の刑事たちにも左翼方面の知識はそれなりにあって、三里塚闘争の歴史にも詳しかった。40代なかばと思われる刑事は「君たちは便利だと思って乗ってるかもしれないけど、新幹線だって騒音の問題があるんだぞ」「政治が悪いから、いろんな問題が起きる」などと、社会問題に敏感なところを感じさせたものだ。

◆内輪揉めしている猶予がなかった三里塚でも、内ゲバは起きた

わたしが18歳のときに学内闘争で逮捕されたときほど、左翼運動にたいする批判めいたことは吹き込まれなかった。わたしが18歳のころは中核派の本多書記長が殺されるなど内ゲバも全盛期で、中央大学の中庭で襲撃された学生が植物状態になりながらも生きている話や、岡山大学の寮生がクルマで轢き殺された事件などを例に、耳もとで「だから学生運動はやめろ!」と説得されたものだ。三里塚では初期の段階で取り調べにきた年輩の刑事が「きみ、闘争に疲れたという顔をしてるなぁ。こうなった以上、しっかり勉強でもするんだな」などと励ましてくれた。開港を延期させた壮挙(?)に、彼らも歴史的な事件にかかわる興奮が感じられた。

とはいえ、交通課の刑事たちは「どうして三里塚では内ゲバが起きないのかな」「そうだなぁ。ああ、でも中核と革マルがいっしょにいるわけじゃないから、起きないんだろ」などと呑気な風情だった。担当検事はわたしの母校のOBだったから、やはり内ゲバの事例を材料に「転向」を迫ったり、「君たちの運動は離合集散が激しすぎる」と、的を得た批判をくれたものだ。三里塚では内ゲバは起きない。反対同盟の運動的な権威と組織的な厳格さがそれを許さなかったというべきか。あるいは日々が戦場である三里塚の地では、内輪揉めしている猶予がなかったというべきかもしれない。

しかしその三里塚でも、内ゲバは起きた。それも小競り合いや殴り合いというレベルではなく、寝込みを襲うという内ゲバ殺人の手法だった。すでに書いた83年の3月8日の反対同盟の分裂ののち、大地共有化運動に反対する中核派が第四インターの活動家を襲ったのである。数名が重傷を負い、1人が片脚を切断する事態に陥った。この行為は社会運動の広範な人々から批判され、のちに分裂した中核派系の人々は誤りであったと認めたが、それは大地共有化運動の否定に根ざすものであるところまで、自己批判が深められるものではなかった。

◆運動に与えた負の影響

内ゲバが運動に与えた負の影響は、ぬぐいがたいほど深刻なものとして、いまもわが国の社会運動に亡霊のような影をやどしている。ブントにおける7.6事件と赤軍派の分派、武装闘争の帰結としての連合赤軍事件、中核派と革マル派、および社青同解放派の内ゲバ戦争。三里塚闘争の大地共有化における内ゲバは、全国の三里塚支援勢力を分断した。あるいは多くの人々を三里塚から足を遠ざけさせた。これらの内ゲバは明確には教訓化されず、今日に至っている。

じっさいに、左翼運動の直接的な影響を受けていない人々においても、たとえばヘイトスピーチにたいするカウンター運動の内部で、同様の事件が起きているのだ。社会運動は非暴力直接行動であっても、激しい肉体的な接触が起きる。したがってそこに、実力で紛争を解決する志向が生じることになる。そして内部暴力が生まれる。

わたしたちの世代が影響をうけたマルクス主義やレーニン主義においては「いっさいの社会的秩序の暴力的転覆」(『共産党宣言』)によってしか、共産主義者の目的(革命)は達せられないとされていた。さらには「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である」(『国家と革命』)とされてきた。そこから「暴力一般は否定しない」という意識が、ぬき難くあるのは間違いないだろう。

連合赤軍の場合は、高度な暴力である銃撃戦・殲滅戦に耐えられる高度な階級意識、すなわち共産主義化が必要であるとして諸個人の「総括」がもとめられた。この「総括」とは、リンチによる同志殺しであった。反革命を殲滅する「処刑」の思想でもある。マルクスおよびレーニンの暴力論が、そこに根ざしている。そうであれば、マルクスとレーニンによる左翼思想そのものが、内ゲバの根拠なのではないか。

そこまでは了解できるとしても、ヘイトカウンター運動のように、およそ基本的な左翼思想が感じられない運動の内部においても、内ゲバ(リンチ)は発生したのだ。いや、右翼においてもリンチ事件は発生している(統一戦線義勇軍)のだから、そもそも内ゲバは左右の思想圏を超えている。人間の運動体が持っている病理なのであろうか。

◆語りつがれるべきことを語って欲しい

明白な敗北の教訓、あるいは具体的な事実だけがすべてであろう。敗北が明らかであるがゆえに、徹底した総括(同志殺しではなく理論作業)がなされた連合赤軍問題にたいして、革共同両派および解放派の内ゲバ戦争は、かたちのうえでも継続されているかぎり、総括のとば口にすら立てない。100名をこえる死者は深刻であり、そしてその史実は重大である。その中心を担った人々も鬼籍に入らんとする現在、語りつがれるべきことを語って欲しいものだと思う。

たとえば「われわれがカクマルと戦うことで、人民の運動は防衛された」(革共同再建委員会の見解・『革共同政治局の敗北』の記述など)と、内ゲバを正当化する主張がある。これはしかし、未曽有の内ゲバ戦争を美化するものにほかならない。革マル派を「未曾有の反革命」に成長させたのも、ほかならぬ内ゲバ戦争によるものであって、革マル派だけが内ゲバの原因だったという主張は戦争の相互関係、事物の相対性を見ない硬直した思考なのである。革マルを指弾する中核派や社青同解放派が自治会や運動の統制においては、革マル派とまったく同じレベルの独裁制を敷いたのは、つとに知られるところだ。

革命党派・革命家こそ高い倫理性がもとめられると云ったのは、自身が共産党の党内闘争を体験した高橋和巳である。殺人にまでは至らなかったとはいえ、内ゲバによる他党派構成員襲撃とは人間の変革を否定した死刑の肯定にほかならない。そのような革命党派はおそらく、死刑制度を肯定する社会を築くにちがいない。革命運動をふくめた社会運動の所作とは、めざすべき社会をそのまま体現しているのだから。三里塚闘争においても、内ゲバは不可避であったが、やがて条件闘争派、絶対反対派、空港との共存派はそれぞれの道を歩むようになる。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』6月号 安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

拉致問題「報告書」の真相とは?

◆トランプ任せの安倍外交で、拉致問題は解決できるのか

米朝会談の日程が明らかになり、いよいよ朝鮮戦争の終結が秒読み段階に入っている。もしもそれが実現すれば、東アジアに和解と平和の時代へと流れが作り出されるであろう。もう核戦争の恐怖に怯えることも、なくなるのかもしれない。

 
蓮池透『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)

とはいえ、わが国は安倍総理の北朝鮮敵視政策、圧力を強める一辺倒の方針により、その埒外に置かれている。すくなくとも、トランプに対北朝鮮政策を一任してしまい、その範囲からはみ出すことはないだろう。

したがって、安倍晋三がそれを契機に政権を掌握し、第一級の任務としてきた日本人拉致問題も、トランプおよび韓国の文政権に丸投げしたままなのである。いやそもそも、安倍に拉致問題を解決する意思が本当にあるのだろうか? 蓮池透氏はその著書『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』において、安倍晋三および「救う会」の政治的な利用を批判してきた。

安倍政権と「救う会」は北の脅威をことさらに煽り、拉致問題で北朝鮮の非を批判することに自分の政治的な求心力をつくり出してきた。その方針は「対話」ではなく「制裁」一辺倒であり、北朝鮮が最終的に破綻(体制が崩壊)することで初めて拉致問題は解決するというものだ。安倍および「救う会」においては交渉による拉致問題の解決、あるいは平和条約の締結・国交正常化による拉致問題の解決の方途は考えられていない。そんな方針に実効性はあるのかと、蓮池透氏は疑問を呈してきた。結果的に拉致問題は小泉政権時の平壌宣言(2002年)と5人の帰国およびその家族の帰国(2004年)以降、1ミリも進展していないのだから、透氏の批判は的を得ているというほかない。

◆安倍政権のウソ

拉致問題は「解決済み」とする共和国(北朝鮮)と、安倍政権の「未解決」という主張には、事実関係としても大きな隔たりがある。いや、安倍政権の「虚偽」による事実関係の錯綜があるのは、あまり知られていないようだ。じつは北朝鮮の「調査報告」を、安倍政権が受け取らないまま推移してしまい、その結果「調査報告が延期され、履行されていない」ことになっているのだ。この「調査報告」とは、言うまでもなく2014年のストックホルム合意(再調査と制裁解除)によるものだ。「未解決」か「解決済み」かは、そもそも前提がちがうのである。

北朝鮮の宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使は、2015年9月9日に日本の共同通信の取材に応じて、調査結果の報告書が「ほぼ完成した」と語っている。発表しない理由として「調査結果を日本側と共有できていないため」と主張したという。「共有できていない」とは、どういう意味だろう。事実関係は、調査結果を見た外務省の幹部が「これではダメだ」と、受け取りを拒否したのである。

この事実は宋日昊が浅野健一同志社大学大学院教授に漏らしたことから、大手新聞でも報じられた経緯がある。外務省(安倍政権)によれば「北朝鮮が調査を履行していない」となっているものが、じつは「調査報告」が上がってきているにもかかわらず、その内容が期待通りのものではなかったがゆえに、受け取らなかったというのだ。この事実は国民には知らされていない。その後、2016年にいたって北朝鮮の水爆実験と長距離ミサイル発射によって、拉致問題の交渉が国連レベルでの経済制裁に飲み込まれていくのは周知のとおりだ。

宋日昊大使を取材した浅野健一教授によると、さらに外務省の担当者が二度にわたって訪朝滞在し、追加の調査をした結果、芳しい結果は得られなかったという。最後は不衛生な生活環境の滞在に耐えられず、外務省の職員は逃げ出すように帰国したという。つまり拉致問題は「未解決」ではなく「調査が終了」してしまっているのだ。再調査を行なった北朝鮮の「特別調査委員会」には国家安全保衛部、人民保安部など治安・特殊機関も加わっていたとされている。北朝鮮による過去の調査のときとは違う強力な布陣であり、これ以上の調査は不可能と考えられる。

そうであるがゆえに、安倍政権は解決不能におちいった拉致問題での交渉結果を封印し、ひたすら北朝鮮を「拉致問題は未解決」と批判することで拉致問題そのものからの逃避を行なっているのではないか。おそらく全員が死亡、もしくは入国の事実がないという北朝鮮の「調査報告」を、家族会や国民に知らせることをためらったすえに、北朝鮮が調査を怠っている。つまり拉致問題は「未解決」だと強弁するしかないのであろう。

米朝会談を契機として日朝会談が実現すれば、拉致問題はその全容が明らかになる可能性はある。その場合にも、日朝双方が胸襟をひらいて過去の歴史にも向き合い、相互に誠意を尽くすのでなければ、またぞろ政治家と官僚・右翼勢力に利用されるだけではないか。日朝の過去の精算を訴えるのは、冒頭に紹介した蓮池透氏である。その蓮池透氏を招いてのイベントが、5月29日に東京・水道橋のたんぽぽ舎で開かれる。

朝鮮半島情勢と拉致被害者:元「家族会」事務局長・蓮池透さんに聞く!(5月29日 18:30開場 参加費:800円 会場:千代田区神田三崎町2-6-2ダイナミックビル4階 スペースたんぽぽ Tel.03-3238-9035)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など多数。医療関係の仕事に『新ガン治療のウソと10 年寿命を長くする本当のガン治療』(双葉社)、『日本語で受診できる海外のお医者さん』(保健同人社)、『ホントに効くのか!? アガリクス』(鹿砦社)、など。

『紙の爆弾』6月号 安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

開港阻止闘争から40年目の成田(三里塚)空港〈7〉二期凍結をめぐる政治戦

出直し開港の5月20日(1978年)を前に、戸村一作委員長が福永運輸大臣と会談したことで、財界首脳の休戦協定案は棚ざらしにされた。そしてそのまま、事実上の消失だった。政府運輸省は、戸村委員長と「対話」したことで、誠意を尽くした格好を得たのである。

◆清廉な政治と裏の政治

閣僚や自民党有力者(中曾根康弘ほか)は「機関銃で過激派を掃討しろ」とか、暴力には暴力で応じるとばかりに気色ばんでいたが、冷静だったのは千葉県自民党だったということになる。その意味で、財界との合意(休戦協定案)が反故になる政府との「対話」に応じた戸村委員長は、裏の政治がわかっていなかった。いや、空港絶対反対という原則をつらぬく清廉な政治が、反対運動の力の源泉だったのだから、裏の政治がわからないのは仕方がない。誰もが納得できる、闘争の原点でもある原則なのだから。やがてその原則は、時間の推移とともに、いわゆる「脱落」や「条件派」への転向が相次ぎ、反対同盟の組織の脆さを浮き彫りにしてゆく。

そもそも空港建設反対は農民の営農と生活を否定するものに対する闘争だったのだから、営農と生活の原点から考えれば、空港が開港した以上、単なる反対闘争だけで良かったのかどうか。この時期から農作物の共同出荷や有機農業など、新しい農業のあり方が検討されるいっぽう、農業を十分にやっていけない個別の農民への視座がもとめられたのだ。さもなければ、高額の移転費用と代替え地に屈するよりない。

三里塚関連年表(1977年~1979年)

80年前後には、空港反対運動を騒音に対する条件闘争とする代わりに、二期工事の凍結という担保が反対同盟内部で語られていた。まだ反対同盟内には絶対反対派もいたが、それは建前にすぎなかったはずだ。なぜならば、最大党派の中核派に「信頼」されていた北原鉱治事務局長においてすら、政府要人との密会の場を活写されている(本人は合成写真だとして、密会の事実を否定)。

政府要人と反対同盟幹部の密会を斡旋したのは、旧ブント系のグループ(旧情況派幹部)だった。のちにわたしは、稲川会二代目・石井進(稼業名は石井隆匡)の遺族を取材することで、石井の北祥産業ビルが交渉の舞台になっていたことを知る。竹下政権時代の裏総理こと石井進が交渉を斡旋したのは、80年代なかばのことである。

◆反対同盟の内部分裂と空港公団による執拗な切り崩し

83年には、反対同盟は大地共有化をめぐって、内部分裂の危機に至る。土地の共有化は強制執行の手続きを煩雑にし、闘争資金を獲得すると同時に空港反対闘争を全国化する狙いがあった。これに対して、土地を売り渡す運動ではないかという疑問が農民の中に生まれる。

中核派が大地共有化に反対したこと(一説には革マル派との内ゲバ戦争のなかで、住所を特定される共有化に参加できないからだとされている)もあって、反対同盟は混乱した。混乱に拍車をかけたのは、やはり中核派の青年行動隊に対する批判だった。批判をこえて、政治的な統制にまでおよんだ時、青年行動隊のほうから「もう、おれらはキモいった」(おれたちは腹を立てた)と、決別宣言がなされた。北原派と熱田派への分裂である。支援党派も連帯する会(廃港宣言の会・第四インターなど)と中核派などに分裂した。中核派が第四インターの活動家を襲撃するなど、深刻な事態も起きた。そしてなおも、空港公団による反対同盟の切り崩しは執拗だった。

三里塚関連年表(1979年~1983年)

◆1985年10.20闘争の意味

その80年代のなかばに、3.26の再版をねらった大闘争が準備された。3.26では第四インターの後塵を拝し、横堀要塞鉄塔に4人を上げることしかできなかった中核派、および社青同解放派(主流派)、共産同戦旗派(反主流派)が三里塚交差点で機動隊と大規模な衝突をしたのだ。85年10月20日のことである。別動隊(解放派)が消防車を装って空港内に進入し、3.26管制塔破壊の再版を実現しようとしたが、空港機能を停止できなかったという点で、作戦は最終的には失敗だった。中核派は67年10.8闘争の再現として位置付けていたが、内ゲバで血塗られた左翼運動が再生するわけはなかった。

とはいえ、この85年10.20闘争は大きな意味を持っている。空港絶対反対の旗を降ろし、条件派に転じかけていた反対同盟青年行動隊(当時は中年世代)が、この大闘争を見学し、帰趨を見つめていたのである。つまり、この先も実力闘争で行けるのか、それともやはり条件闘争で収拾をはかるべきなのか、である。ある意味で、大衆的実力闘争の限界を指し示すものだった。ぎゃくに11月に行われた、中核派による多発ゲリラ(国電ケーブル切断)の有効性がしめされたのである(この日は大半のサラリーマンが臨時休日だった)。

そしてこれ以降、成田治安立法(78年施行)にもとづく団結小屋の撤去が相次いだ。徹底抗戦でいくつかの団結小屋・要塞化した拠点が撤去されたが、そのなかで熱田派反対同盟の幹部は「闘いには敬意を表するが、空港を壊すわけでもなく、徹底抗戦は玉砕ではないか。玉砕した兵隊から『こう戦えば勝てる』と言われても同調できるわけではない」と語ったものだ。まさに正論であって、新左翼の革命的敗北主義は実際の戦争(日中戦争)を体験している幹部にとって、容れられるものではなかった。こうして、反対闘争は目的をどこに据えるのか、混迷を深めていく。(つづく)

三里塚関連年表(1983年~1986年)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

最新『紙の爆弾』6月号安倍晋三“6月解散”の目論見/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”
〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号