核兵器使用を明言した妄執の独裁者、ウラジーミル・プーチンとは何者なのか? ── 個人が世界史を変える可能性 横山茂彦

◆どういう人物なのか?

ウクライナのNATO加盟阻止。および東ウクライナの独立承認をもって、東西の緩衝地帯獲得をねらった侵略戦争の動機は、プーチンの個人的な体験にあるという。

ウラジーミル・プーチンはレニングラード国立大学を卒業後、KGBに就職して情報将校として16年間勤務している。そのかん対外情報アカデミー(赤旗大学)で諜報活動をまなび、東ドイツのドレスデンに派遣されている。

東ドイツでの勤務中は、情報機関・秘密警察である国家保安省(シュタージ)の身分証を持っていたことが、2018年になって明らかになっている。

ソ連邦共産党員でありKBG情報将校、同時に東ドイツの秘密警察だったのだ。この筋金入りの諜報員あがりの政治家は、ソ連邦時代を理想にしているという。

自身のトラウマになっているのは東ドイツの崩壊のとき、民衆が政権を崩壊させるために立ち上がった「壁の崩壊」だったというのだ。秘密警察の事務所で、勤務後にドイツビールを飲むのが楽しみだった男は、民衆の行動に驚愕し、恐怖したという。これがプーチンのトラウマとなった。

1991年8月の共産党解体までは共産党を離党せず、本人曰く党員証は今も持っているという(ロシアビヨンド)。


◎[参考動画]プーチン氏、ウクライナ2地域の独立を承認 軍派遣を命令(BBC News Japan 2022年2月22日)

共産党崩壊後はロシア大統領府総務局次長として、旧共産党資産の市場移行の管理を行ない、エリツイン政権の中枢に地位を築いてきた。そこから先は、チェチェン紛争(爆弾テロ)の鎮圧に辣腕をふるい、記者会見では「テロリストはどこまでも追跡する。便所にいてもぶち殺す」と発言して物議をかもした。いや、つよいロシアを待望する国民の拍手喝さいを浴びたのだった。エリツインによる禅譲後は、中央政権の権限の強化をはかりつつ大統領職を独占してきた。メドヴェージェフと大統領を交代しながらの、すでに20年にわたる長期専権となっている。

大統領権力の基盤が確立されたのは、エリツイン時代のオリガルヒ(新興財閥)との対決を通じてであった。

生産性の低下を小手先の国債乱発で乗り切ろうとしたエリツイン政権は、ハイパーインフレと軍の崩壊を招いていたが、プーチンはオリガルヒの脱税を取り締まることで、財閥の一部を取り込むことに成功したのである。もともとロシア経済の基幹産業は、豊富な天然資源と軍事産業である。警察と軍を再建することで、国家資本主義モデルともいうべき新体制を回復したのである。

◆民族主義と愛国主義

警察と軍、軍需産業を基軸にした国家である以上、民主主義は形がい化している。今回、ロシア国内ではウクライナ侵攻に反対する行動をした1700人が、治安当局によって拘束されたという。まさにKGB・シュタージの手法で民主主義を弾圧しているのだ。

プーチンが理想とするソ連邦の再来はしかし、共産主義ではなくロシアショービニズムともいうべき、民族主義的・愛国主義的な貌をしている。

20世紀がイデオロギーの時代だったと総括するならば、21世紀は宗教と民族主義・愛国主義(一国主義)の時代なのであろうか。民族主義と愛国主義には、じつはイデオロギーがない。誰もが民族の繁栄と国益を大義名分に、あるいは愛国者であることを誇る。プーチンにとってそれは、壁の崩壊というトラウマを払しょくし、共産主義に代わる大義名分となった。

ウクライナ侵攻を皮切りに東欧圏のロシア化を段階的にすすめ、西側ヨーロッパとアメリカ中心の世界を変える。その野望のためには、核兵器の使用すらいとわない。いやすでに、チェルノブイリ原発を制圧下におくことで、核を人質にしているのだ(実際に職員が拘留されているという)。

われわれは80年数年前を思い起こす。ヒトラーとその政権が、誰も思わなかった世界大戦を引き起こしたことを。そのとば口はオーストリア併合であり、ズデーデン地方の割譲によるチェコスロバキアの解体だった。アドルフ・ヒトラーもトラウマは、ウイーン時代の貧困とユダヤ人たちの裕福さへの羨望だった。個人のトラウマが歴史を動かす。われわれは、いまそれを現認しようとしているのかもしれない。
NATO諸国と交戦した場合は、ただちに第三次世界大戦に突入する危険があることだけは、今の段階で指摘しておかなければならないであろう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

風雲急を告げる、ウクライナ戦争の本質 ── 戦争をもとめる国家・産業システム 横山茂彦

「平和の祭典(休戦期間)」オリンピックの終了とともに、事実上ウクライナ戦争(ロシアの侵攻)が始まった。

一部の報道によれば、プーチン大統領は21日、ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の一部地域の独立を承認し、「平和維持」を目的として、この地域に対し、軍を派遣する命令書に署名した。

すなわち、ロシアのプーチン大統領が、親ロシア派が支配するウクライナ東部の一部地域の独立を承認し、同地域への軍の派遣を命令したというのだ。動員された規模は19万人で、第二次世界大戦いらいの規模だとされている。

ドネツク州とルガンスク州の一部地域は、2014年に人民共和国として一方的に親ロシア派が独立を宣言していたが、国際的には承認されておらず、独立を承認するよう今月21日にプーチン大統領に要請したものだ。

これに先立つ20日、アメリカのバイデン大統領は「プーチン大統領がウクライナ侵攻を決意した」と、記者会見していた。まるでバイデンがプーチンの決意を代弁し、それにプーチンが正面から応えたかたちで、戦争の火ぶたが切られようとしている。


◎[参考動画]Moscow Orders Troops To Ukraine’s Separatist Regions(MSNBC2022年2月22日)

◆地域覇権主義と軍産複合体

単純に言えば、ロシアの伝統的な拡張主義とアメリカの軍産複合体が、ウクライナ内戦の延長に軍隊を動かした、ということになる。

ロシアの拡張主義(地域覇権主義)は、それ自体は国家の本質的意志であり、旧共産党政権、プーチンなど独裁的な政権をこのむ国民性に支えられた強権外交である。

いっぽう、ロシアのウクライナ軍事侵攻をことさら過剰に喧伝し、みずからも数千人単位の兵員を周辺地域に動員したアメリカには、10年に1度は戦争をしないと、軍需商品が回転しない事情がある。したがって、国民の3000万人におよぶ軍産複合体の構成員たちの要望によるものだ。

そして、戦争発動の大義名分は東ヨーロッパ特有の、多民族の混住という特性において、自民族住民の保護を名目としている。この事情は、ナチスドイツの30年代後半の併呑主義の例をあげて、19世紀・20世紀いらいの国家と民族の矛盾にあると指摘してきた。

『平和の祭典』北京冬季五輪とウクライナの危機(2022年2月4日)
 
オリンピックが武器を持たない国家間の競争であるのとパラレルに、戦争は民族の防衛を名目とした国家間の闘争である。したがって、時期的にふたつのイベントが重なったのは、まったく偶然というわけではない。西側(米日・EU)が北京五輪を外交ボイコットするなか、プーチンは習近平との会談で合意を取り付けつつ、西側への圧力をつよめてきた。

そしてこの侵攻は二度目であり、前回とまったく同じ構造である。

北京オリンピックが閉幕したことで、現地メディアのなかでは、2014年のクリミア併合が、ソチオリンピック・パラリンピックの直後に行われたことを挙げて、歴史は繰り返されると予測されていた。まさにその通りになろうとしているのだ。

◆国境のない国

ここ数日間に、確認されているだけで1500件以上の「停戦合意違反」が生起し、ロシア系ウクライナ国民の大半が国境をこえているという。いや、事実上の国境は東ウクライナと首都キエフの中間にあって、武力制圧が国境線を決めることになる、いわば内戦下の国なのだ。

正規軍(ウクライナ軍)とロシア軍の衝突が、どのくらいの規模で起きるかは不明だが、ロシア軍が平和維持を名目に大軍でドネツク州とルガンスク州を制圧し、東ウクライナの事実上の支配権を確立することになるだろう。

ウクライナの全人口のうち、ロシア人は17.3%を占める。ほかに少数民族としてクリミア・タタール人、モルドヴァ人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ユダヤ人、高麗人(ロシア系朝鮮人)が4.6%。ウクライナ人は77.8%である。そして困難なのは、ロシア人の3分の1がロシア国籍(二重国籍)を持っていることだ。

このあたりが、われわれ日本人にはピンとこないところかもしれない。わが国の在留・在住外国人は280万人とされているが、帰化申請者は年間数千人(中国人・韓国人・朝鮮人など)におよぶが、国籍取得者は毎年千人前後である。

基本的に国籍条項で二重国籍が禁じられている(罰則なし)ので、積極的な二重国籍取得者はいない。

つまり、出生地主義の国(アメリカなど)で生まれた帰国子女、協定永住権取得者(在日韓国・朝鮮人)が帰化したさいに母国国籍を離脱しない場合など、特殊なケースを除いては二重国籍は発生しない。これがじつは島国の特性なのである。

ヨーロッパの、とくに東欧においてはたび重なる国境の書き替え(ウクライナの場合は、第一次大戦後のブレスト・リトウスク条約)によって、混住地域に国境線が引かれてきた。これが内戦の主要因であり、それに生じて大国間の地域覇権の争奪の大義名分となるわけだ。

いずれにしても、ウクライナが欧米に支援をもとめたことで、アメリカの軍事介入が日程に上りそうな勢いだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈8〉あさま山荘事件から50年 なぜ地獄の「暴力的総括要求」から逃げなかったのか? 横山茂彦

◆50年前の今日2月19日に始まったあさま山荘事件

あさま山荘事件(1972年2月19日)から50年である。当初から具体的な要求もなく、何が目的なのかも、さっぱりわからなかった事件だった。日本じゅうを注目させた、9日間にわたる山荘立てこもっての銃撃戦は、2名の警官の殉職と民間人1名の死、警備と報道にも27名の重軽傷者を出した。そして、のちに明らかになる同志殺しの山岳ベース事件(暴力的総括要求による殺害)。

これらの事件で、いまも不思議なことが「謎」として残されている。

◆ふたつの謎

そのひとつは、山荘で「人質」になった管理人の妻が、連合赤軍に同情的だったことだ。

これはのちに「ストックホルム症候群」※と呼ばれるもので、管理人の妻はメディアが希望する「怖かった」「犯人がゆるせない」などの想定問答に応じようとはせず、むしろ連合赤軍のメンバーへの同情を示したのだった。これは視聴率80%とも言われた視聴者の期待を裏切り、警備当局を困惑させた。じっさいに連合赤軍は管理人の妻を人質扱いしていなかった。

そしてもうひとつは、12人もの同志が殺された惨劇にもかかわらず、どうして逃げなかったのか、という「謎」である。

なぜ「人殺しはやめよう」と言えなかったのか、という疑問とともに、初めてこの事件を見聞する人々が感じる、大きな「謎」であろう。

いや、正確に言えば複数のメンバーが、山岳ベースから逃げていた。このうち、前澤辰昌と岩田平治のインタビューが『2022年の連合赤軍』(深笛義也、清談社)に収録されている。

ストックホルム症候群=1973年8月にストックホルムで起きた銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)。のちの捜査で、人質が犯人が寝ている間に警察に銃を向けるなど、警察に敵対する行動を取っていたことが判明した。解放後も人質は犯人をかばい警察に非協力的な証言を行なっている。ハイジャック事件の乗客などでも、しばしば同じ行動(犯人への同調)が見られる。

◆逃げた者と逃げなかった者

それでは、山岳ベースから逃げて生き残った者たちと、最後まで逃げずに殺された者たちを分かったものは何なのだろうか。

裁判では「革命運動とは縁もゆかりもない」と断じられたが、まぎれもなく革命運動という大義、革命戦士になりたいという志によってこそ、かれら彼女らの死は説明がつくのだ。

この点を、単に「狂気の集団」と簡単に片づけるならば、政治運動や宗教の大半は同じ位相であり、事件の深層が理解できない。問題は総括要求に暴力が用いられたことなのであって、その淵源が旧軍の暴力制裁を継承した戦後教育にあったと、ここまで連載で明らかにしてきた。

さてもうひとつ、さきに論を進めよう。逃げた者たちによって明らかにされた、山岳ベースと一般社会の落差をもって、はじめて明白になる事柄だ。それは革命を志す者にとって、共同体的な意識と個人的な意識の落差ということになる。組織と個人という古典的な命題だが、その先に思想的な呪縛が立ちはだかる。

簡単にいえば、山岳ベースの連合赤軍に結集しなくても、革命運動はできると思うかどうか、なのだ。

前述した岩田平治は、森恒夫をして「おれの若い頃によく似ている」と評価されていた人物である。森に山岳ベースでの展望を感じさせたものがあるとすれば、岩田のような若々しいエネルギーであったのだろう。

その岩田が山を下りて、都会の空気にもどった時。山岳ベースと一般社会の落差に初めて気付く。そして預かっていた連合赤軍のカネを女性同志に託して、組織から離脱を決意するのだ。

前澤辰昌の場合は、じつは初期の山岳ベースの段階で見切りをつけていた。男女の別もなく小屋で雑魚寝して、用を足すのも野っぱらという生活である。最初はキャンプ気分で参加できても、ずっとそれが続くのだ。前澤が離脱するだろうという空気は、植垣康博も気付いていたという。

ではなぜ、植垣康博は離脱しなかったのだろうか。彼自身の言葉で「目の前の困難(革命運動の困難)に負けられないという意識があった」という。その「負けられない意識」とは何なのか?

 
『情況』2022年1月号

◆共同幻想

岩田は連合赤軍の生活・軍事訓練・総括を、吉本隆明の『共同幻想論』から振り返っている(前掲書)。

これは慧眼というべきであろう。山岳ベースの党組織・軍隊的な規律から生じる集団的な意思に、自分も同調するというものだ。

赤軍派には7.6事件の初期から「(暴力への)集団的な同調圧力があった」(大谷行雄『情況』連合赤軍特集号)という証言もある。

吉本の「共同幻想」は、意識領域での国家・社会・集団への共同意識と措定できる。いっぽうで人間は自己幻想(自意識)・対幻想(恋愛感情)を持っていると、吉本は「幻想」を定義する。簡単にいえば、幻想とは意識のことなのである。

フッサールの間主観性、メルロ・ポンティの間主体性、廣松渉の共同主観性など、ほぼ同じ概念と考えてよい。

古典的な認識論では、デカルトの「われ思うがゆえに、われあり」と、主体が対象を自由に考えられるというものだ。しかしわれわれの認識は、他者との関係で成立している。他者とは社会であり、国家をふくむ共同体のことである。したがって、その他者を離れて自由に考えることなどありえず、たとえば文章を書くことひとつも、言語を媒介に共同幻想のなかで生起する。

これが身近な共同体である家族や地域、任意の集団においても個人の意識を束縛する。革命組織もまた政治的な共同体であり、その基盤が共同生活に根ざすものだとしたら、集団の共同幻想はほとんど個人を呑み込んでしまうことなる。

もはや「逃げなかった」者たちの意識は明らかであろう。革命組織連合赤軍のなかで、かれらは競うように共産主義化という幻の思想を獲得するために、個人ではなく共同幻想に支配されていたのだ。これが植垣の「負けられない」意識にほかならない。

したがって、山岳ベースと一般社会を相対化できた者たちだけが、地獄の組織からの離脱を果たせたのである。それでもなお、党(建党・建軍)という共同幻想は、かれらを縛るのであろうか。そうであるならば、党という幻想を地獄に追いやるほかにないのだ。(つづく)

連合赤軍略年譜

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈7〉指導者の資質 横山茂彦

◆山岳ベースの魔女に仕立てられた永田洋子

8日間にわたる、あさま山荘銃撃戦のあとに同志殺しが発覚し、日本じゅうが驚愕の渦に叩き込まれた。そのとき、メディアが書き立てたのは森恒夫と永田洋子という、ふたりの指導者像についてだった。とりわけ、女性指導者という話題性から、永田洋子の個人的な資質について週刊誌は詮索したものだ。

おりしも日本社会はウーマンリブの台頭期であった。いまの若い人は知らないBG(ビジネスガール=売春婦を想起させる)という言葉がOLに改められ、女性の社会進出が世情を騒がしていた。

マスメディアの俎上に上げられた永田洋子はすこぶる悪評で、まるで殺戮の魔女のような扱いだった。そして法廷でもその資質が問題にされ、事件の本質が彼女と森恒夫の資質にあったかのごとく評されたのである。

1982年6月18日の一審判決(中野武雄裁判長)から見てゆこう。

「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」

「他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である」

「被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである」

事件が革命運動とは無縁の、指導者個人の資質的欠陥によるものだったと、いわばとるに足らない凶悪事件と断じたのである。これ自体は、裁判官による永田と森への皮肉をこめた悪罵に近いものがある。

いっぽう、森は裁判の開始を待たずに獄中で自殺した(1973年1月1日)。そのとき永田は「森君、ずるい」と思わず口にしている。世間の非難を一手に引き受けることになった永田に、左翼陣営は同情的だった。

とくに、山岳ベースにおける処刑が革命運動自体に由来するものではなく、永田の個人的資質の欠陥、および森の木量不足に起因するという判決には、事件を個人的なものにしていると批判的なものが多かった。あくまでも、革命運動上の問題としてとらえるべきだという、ある意味では真っ当な批判といえる。

しかしながら、個人の資質に還元すべきではない、という論調のあまり、指導者の資質問題が軽視されてきたのも否めない。森恒夫が発議した体育会的な、暴力による総括援助がなければ、同志殺しが起きていないのは明らかである。そして永田洋子の総括発議と告発がなければ、共産主義化のための総括が始まらなかった可能性は高い。独裁的な指導部として、ふたりが事件の責めを一身に負わなければならないのは言うまでもない。

◆森恒夫の実像とは

判決で「実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家」と評された森恒夫は、しかしマスメディアでは「臆病者」と評されていた。

事件発覚から初期の段階で、明大和泉校舎事件(69年7.6)から「逃亡した」とされていたからだ(複数の週刊誌報道)。森が7.6事件の現場にいなかったのは事実だが、逃げたというのは事実の歪曲である。

森恒夫が行方をくらましたのは、7.6事件に先立つ6月27日の全逓合理化反対集会の司会役でありながら、現場に現れなかったというものだ。これが事実である(重信房子・花園紀男らの証言)。その後、森は大阪の工場で旋盤工として働いていたという。

それより前に、森恒夫はブントの千葉県委員長として三里塚の現地闘争責任者を務めている。のちに連合赤軍事件を知った反対同盟農民は「森がそんなこと(同志殺し)をするとは思えない」と感想を述べたという。

上記の「逃亡説」に基づいてか、週刊誌は「関東派のリンチに遭って、森はテロらないでくれと哀訴した」と報じている(角間隆の『赤い雪』に採録)。

アスパック粉砕闘争の過程で、赤軍フラクが「関東派」からリンチを受けたのは事実である(『世界革命戦争への飛翔』赤軍派編)。しかし「藤本敏夫といっしょにリンチを受け、藤本は古武士の風格で対応したが、森は自己批判した」(週刊誌報道)というのは誤報である。藤本は単独で毎日新聞記者を名乗る何者かに渋谷で拉致され、数日後に解放されている。そのかんの記憶があいまいで、生前もこの事件について何も語らなかったという(加藤登紀子)。

元赤軍派のS氏に聞いた、森恒夫の人物評を紹介しておこう。相手に対しては、きわめて厳格な物言いをしたという。「お前はどうなんだ?」が口癖だったとは、山岳ベースでの執拗な総括要求を思わせる。

そのいっぽうで、年下の者たちには「親父さん」と慕われていたことは、つとに知られるところだ。理論的には突出力があり、連合赤軍で森に対等の議論ができたのは、塩見孝也の秘書役だった山田孝しかいなかった。

◆残された謎

相互批判・自己批判が「銃と兵士の高次な結合」という「共産主義化論」に応用され、森の体育会的な「総括援助」が暴力の発動となったこと。その思想闘争は際限のない「総括地獄」へと堕ちていった。これらが連合赤軍事件の概略である。

だがそれにしても、犠牲になった「同志たち」がなぜ、山岳ベースから逃げなかったのか。修羅場と化していた「処刑場」から、なぜ逃避しなかったのか、という疑問が残るのだ。じっさいには下山(逃亡)したメンバーがいるので、逃げられなかったという解釈は成り立たない。次回はこれを考察していこう。(つづく)

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈6〉なぜ暴力が用いられたのか? 横山茂彦

◆共産主義化とは何か?

森恒夫によれば、各自の革命運動へのかかわりを問い質し、みずからの活動の総括(反省)をもとめる。その「総括」を達成することで、銃と高次な結合(共産主義化)が果たせるのだという。

これが、連合赤軍の指導者森恒夫の「共産主義化論」である。もともと赤軍派は、組織的に「相互批判・自己批判」を行なってこなかった。

この「相互批判・自己批判」は、中国共産党が延安への「長征中」に行なった、整風運動の方法である。お互いに批判し合い、自己批判することで政治的態度を改める。それを通じて党員の思想傾向を改め、党風を整頓する。いわば党内の思想闘争である。

 
『情況』2022年1月号

この思想闘争はもともと、赤軍派にはないものだった。思想闘争にもとづいた、精緻な組織活動。その違いは、両派が遭遇した「同志の処刑」で露呈したものだ。

革命左派が呻吟ののちに「処刑」を実行したのに対して、赤軍派は曖昧なまま実行できない組織だったのである。

植垣康博はその違いを「真面目な革命左派にたいして、われわれはいい加減だった。その違いだった」と語っている(『情況』2022年1月発売号)。

だからこそ、森は「革命左派は進んでいる」と感じたのだ。そして森は、革命左派の「進んでいる部分」を巧みに摂取する。

森はこう記している。

「赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化(共産主義化=引用者注)の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では『革命戦士の共産主義化』が中心軸として出されてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判・自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えた」(逮捕後の「自己批判書」)。

ところで、森の理論的な卓抜さに対抗できる指導者は、革命左派にはいなかった。

その結果、森の「共産主義化」の理論をそのまま受け容れることになるのだ。森は革命左派の組織内の相互批判を、上記の「共産主義化のための総括」に適用したのだった。
そこまでならば、山岳ベースで大量の死者が出ることはなかった。

いかに過酷な相互批判・自己批判であっても、討論をしているだけで人が死ぬことはない。同志たちが死んだのは、総括の「援助」として殴ったからなのである。食事を与えず縛り上げ、死ぬほど殴ったから死んだのだ。極寒の中で放置されたからこそ、かれら彼女らは死んだのである。

◆森の総括体験

その暴力は、どこからやって来たのだろうか。この連載の前回で、連合赤軍の「処刑」がどこから発想されたのは、いまも流布している「連合赤軍服務規律」(ニセ文書)を参考にしたのではないか、という公安当局の推測を批判してきた。それが共産主義政党の綱領的な部分に抵触するがゆえに、政治的な「服務規律」足りえないことも明らかにした。したがって、「処刑」は規約によるものではない。だがまぎれもなく、連合赤軍は「処刑」を実行したのだ。当初の「敗北死(総括をしきれずに、敗北することで死んだ)」から始まり、12名の同志が殺されたのである。

その「暴力的な総括支援」の思いつきは、じつは森恒夫の高校時代の体験にあった。高校時代の森恒夫は、剣道部の主将だったのだ。かれは剣道の稽古のさなか、転倒して後頭部を打ったことがある。脳震盪で意識をうしない、その後覚醒して「生まれ変わった気分だった」という。

剣道協会によれば、つばぜり合いのときに後ろ頭から倒れて脳震盪を起こす事故があるという。それを避けるために、倒れるときは腰を落として倒れるのが、事故防止のためには良いとされている。森はこの脳震盪を体験したのである。読者諸賢はいかがであろう、脳震盪の「意識喪失」の体験はありますか? 

ボクシングでダウンするのは、グローブでの打撃が脳を揺さぶり、脳震盪を起こすからだ。ラグビーもタックルで何度か、頭からぶつかるうちに脳震盪を起こす。かつては「魔法のヤカン」で頭に水を垂らすと、倒れていた選手が蘇生するシーンを見たものだ。あれはしかし、きわめて危険である。脳震盪をくり返すうちに、それがパーキンソー病の因子になる。

ともあれ、森恒夫は高校剣道部時代の体験から、気絶する(脳震盪を起こす)ことで、人間が生まれ変わると信じていたのだ。永田もそれを信じていた(『あさま山荘1972』坂口弘)。

◆「同志」を殺した戦後教育の体罰

じつは森恒夫をして、気絶させて蘇生させる「総括援助=体罰」は、戦後教育の遺産なのである。けっして戦前のものではない、戦後民主主義教育の体罰なのだ。

現在、60歳以上の男性なら記憶にあるはずだ。教室で早弁(お弁当を早めに食べる)しては、教師から往復ビンタを喰らい、野球部の部活では「ケツバット」の罰をお見舞いされた。昭和50年代までの日本では、体罰はふつうに行なわれていたのだ。

家庭でも同じだった。戦争(軍隊)を生き残った父親はすこぶる厳しく、ことあるごとに息子を殴ったものだ。筆者も同年齢を前後する3歳ほどの同輩の証言で「親父を殺したいと思ったことがある」というのを聞いたことがある。ちなみに、小学生のわたしを殴った父親は、片耳が聴こえなかった。予科練で教官に殴られたときに、鼓膜を失ったのである。

もともと野球やラグビー、サッカーなどの「外来競技」は、きわめて民主的でスポーツマンシップにあふれたものだった。少なくとも、戦前のスポーツはリベラルアーツ(教養主義)を体現したものであって、体罰などとは無縁のものだったのだ。

ところが、近代の市民革命を経なかった日本の軍隊は、上からの暴力的な畏怖をもって、農民兵(当時の国民の大半)を統制する必要があった。スパルタ式という体罰教育も、じつは旧軍由来のものなのだ。

陸軍における内務班暴力(公認された私的制裁)、海軍における精神注入棒。最も先進的とされた海軍兵学校ですら、上級生による問答無用の鉄拳制裁が容認されていたのである。

こうした旧軍における暴力が徴兵された男たちに叩き込まれ、戦後になって日本全国に伝えられたのだ。

それは息子を鍛える父親の家庭における教育、部活動の指導者の暴力的な指導であり、教室内でも教師の暴力制裁は行なわれた。運動会における軍隊式の行進、スポ根アニメの流行、応援団のシゴキ(内部リンチ)、そしてその暴力は左翼運動にも持ち込まれていた。
森恒夫の体育会的な「総括援助」はまさに、戦後教育がもたらしたものだったのだ。殴って教える、殴って総括させる……。

この森の総括援助は過酷な厳しさを求め、やがて食事を与えずに縛りあげ、極寒の山中で同志たちを死に至らしめたのである。連合赤軍の「同志」たちは、左翼の共産主義理論ではなく、旧軍隊ゆらいの暴力によって殺されたのだ。(つづく)

連合赤軍略年譜

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《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈4〉7.6事件の謎(ミステリー)──求められる全容の解明

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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「平和の祭典」北京冬季五輪とウクライナの危機 横山茂彦

2月2日に先行する競技(カーリング)が始まり、3日にはフリースタイルスキーをはじめとする協議が開始。4日には開会式が行われる。北京冬季五輪である。

クリスマスと五輪開催中は、全世界で戦火がやむ。これが様々な批判を浴びつつも、現在のオリンピックが「平和の祭典」と呼ばれるゆえんだ。

というのも、年初いらい緊張の度を高めてきたウクライナ情勢が、ひとまず本格的な銃火をまじえる危機を回避したかにみえるからだ。北京大会閉会後にも予想される、東ウクライナ騒乱をどのように捉えるべきか。危機がいったん回避されたいまこそ、その詳細を解説しておきたい。


◎[参考動画]【コロナ禍五輪】開催国・中国の選手団ら「防護服」で選手村入り 北京オリンピック(日テレNEWS 2022年2月2日)

◆ドンバス戦争は内戦なのか?

おもてむきは「ウクライナのNATO加盟に対する防衛的な圧力」とされるロシア軍の国境集結は、いっぽうでウクライナのクリミア奪還という陣地戦を背景にしている。その意味では、2014年のウクライナ騒乱とロシアによるクリミア自治共和国の併合いらい、ウクライナ国内ではドンバス戦争(東部紛争)といわれる内戦がその核心部分なのである。

今回の「危機」も、単に米ロ対立を政治的な軸にした、ウクライナのNATO加盟問題ではないのだ。ウクライナ国内のドネツク人民共和国およびルガンスク人民共和国を自称する分離主義勢力とウクライナ政府側との武力衝突。これが現在も継続していることを、世界のメディアは報じてこなかった。

クリミア騒乱(2014年)のときは、国章をつけていない軍服を着てバラクラバ(覆面)を着けた兵士たちが「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」と、西側のメディアでも報じられていた。その後、内戦を装いながら、ロシア軍の侵攻が行なわれていたことが明らかになっている。

これらの実態がよくわからないまま、ロシア軍の侵攻で半月後には、クリミア自治共和国最高会議とセヴァストポリ市議会によるクリミア独立宣言(2014年3月)が採択されたのだった。契機となったのは、親ロシア派のヤヌコーヴィッチ政権の崩壊だった。

その後、2014年6月には大統領選挙によってペトロ・ポロシェンコ(親欧米派)が大統領に就任したが、東ウクライナでは親欧米の政権側と親ロの分離独立派が上記のドンバス戦争をくり広げてきたのだ。その犠牲者は5000人以上とされ、旧ユーゴ内戦いらいの激戦といわれている。

島国に育ったわれわれには想像しにくい感覚だが、東ヨーロッパは民族の混住が戦争の原因となる。たびかさなる戦争の結果としての国境線と、住民(民族)の居住地域が一致しない、混住化しているからだ。たとえばナチスドイツのオーストリア併合、ズデーデン併合によるチェコスロバキアの解体は、ドイツ系住民の民族自決権がその論拠だった。

◆なぜロシアは「東側」なのか?

それにしても、なぜロシアはウクライナのNATO加盟を問題にするのか。ソ連崩壊後、ロシアは資本主義国家(自由主義)になったのではなかったのか。という疑問が、極東の島国に暮らすわれわれの疑問を惹起する。

その意味では中国も資本主義(市場経済)化し、政治こそ共産党独裁だが、国家資本主義と呼べるものに開放されたのではなかったか。政治が共産主義で、経済が資本主義という政治経済体制を、社会主義国と呼ぶべきかそれとも資本主義国と呼ぶべきか、従来の政治観では解釈できないところまできている。

いや、逆にいえば日本も戦後成長を経る中で、国家独占資本主義(金融資本主義)として、社会的には大いに社会主義化(古典的な意味での、王権主義に対する社会主義)されてきた。ヨーロッパ諸国はもともと、19世紀的な社会主義(社会民主主義)である。経済面だけでいえば、国民皆保険制度のないアメリカだけが、社会形態的には純粋な資本主義国家といえるのだろう。メディアはあいかわらず「西側諸国」と対立する「東側」とロシアとその同盟国を報じている。


◎[参考動画]「真の目的はロシアの発展阻止」プーチン氏・米側の回答に“不快感”(ANN 2022年2月3日)

◆民主主義と人権

ロシアに限って言えば、プーチンという独裁者(国民が選挙で選んだ専制者)が君臨し、大統領令という強大な統制力で独占企業体をコントロールする。そこに社会主義時代にはなかった国家独占資本主義(レーニンの帝国主義論における規定)が、イノベーションと致富欲動を源泉に、新たな社会主義体制を構築してきたとはいえないだろうか。

その体制は人的な資源をもとにした中国型の官僚制国家資本主義と、領土および天然資源をもとにしたロシア型の違いはあれ、国家独占資本主義=高度な社会主義体制と定義することが可能だ。

残されたものは「民主主義」ということになるが、高度なアメリカ型民主主義を導入したとされる日本においても、民主主義はかなりレベルが低い(選挙の投票率の低さに集約される)のだから、あとは「人権」ということになるのだろう。人権問題が大いに問題視され、「西側諸国」が外交的ボイコットを発動した北京五輪を通じて、その片鱗を見せてもらいたいものだ。オリンピックと戦争、そして人権。それが当面の注目すべきテーマである。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈5〉処刑はどこから来たのか? 横山茂彦

革命左派において、連合赤軍以前に二人の同志が「処刑」されていたことは、この連載の〈4〉に記し、その淵源がまたそれ以前の「スパイ問題(冤罪)」にあったことを明らかにしてきた。

だがその「処刑」は、どこから誰が発想したものなのだろうか。じつは革命左派は上記の二人を処刑する前に、山岳ベースで座敷牢の設置を検討していた。そこまでかれらは迷っていたのである。

赤軍派において、指令された「処刑」が行なわれず、そのまま曖昧になったのも前述したとおり。処刑に踏みきるには、それ相応の決断をもとめられたのである。

ある意味で、処刑は軍隊に特有の命令権の担保である。

命令に従わない者は、指揮権において処罰する。その最高の処罰が「処刑」なのである。旧軍においても、陸軍刑法は一般の刑法とは別個に、敵前逃亡や私兵的指揮権発動への刑罰として「処刑」が設けられていた。現在の自衛隊でも、敵前逃亡には死刑の規定が必要だと議論されている(石破茂ら)。

その意味では、永田洋子らの相談に、森が「脱落者は処刑するべきやないか」と返したのは、軍事の常識でもあったのだ。

しかし、そのいっぽうで、党内で処刑を行なうということは「反革命」の烙印を押すことであり、そのことによって警察権力の弾圧(殺人罪)を招きかねない。

さらには革命党派である以上、綱領的な内容にもかかわってくる問題である。すなわち人間の変革をあきらめ、処刑を行なうことで将来の社会も「死刑を存置した」社会であることを明確にしてしまうのだ。

過去に内ゲバで殺人を冒してきた党派が、まがりなりにも「死刑反対」を云々するのはおかしい。革命党派の立ち居振る舞いは、まぎれもなく目指すべき革命、樹立すべき社会の将来像を顕わすからだ。その意味で「天皇を処刑に」などという天皇廃絶論者のスローガンは、死刑廃止運動と真っ向から対立するものと指摘しておこう。

◆「処刑」を推奨した地下文書

どこから「処刑」が出てきたのか、じつは公安当局をしてそれを「推察」させるものがあったのだ。

72年3月に連合赤軍の「粛清(同志殺し)」が明らかになったとき、警察(公安当局)はある文書に注目した。この文書をもとに、処刑が行なわれたのではないかと。

※遊撃インターネット(dti.ne.jp) http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/sekigun.htm

現在は「連合赤軍服務規律」として流布している「怪文書」のたぐいである。

出所不明、文責も不明の「服務規約」である。文面に「党員」とあることから、72年の公安当局は「連合赤軍に似た某党派」と、報道陣にコメントしたのであろう。

おそらく実体は、地下活動を奨励するグループ、あるいは個人の地下文章なのであろう。のちに有名になる「腹腹時計」(東アジア反日武装戦線)と同様、自主流通ルートで流布したものと思われる。この怪しい文書を連合赤軍が参考にしたのではないか、という公安当局の推察(談話)をもとにして、何者かが「連合赤軍服務規約」なる名称を付けたのであろう。原本(3節16章)と流通判(5節17章)は、若干構成が改変されている。

※↓当時の「週刊朝日」に記事化されている「服務規約」。
http://0a2b3c.sakura.ne.jp/renseki-b4bc.pdf

いずれにしても、この「服務規約」には「処分は最高死刑」という記述があり、そのいっぽうで、大会や中央委員会の運営規定がない。革命党の軍の服務規定である以上、政治委員(指導)の規定があってしかるべきだが、それも見られない。

たとえば中国の人民解放軍の「三大規律八項注意」のごとき、人民の財産を奪ってはならない、人を罵倒するな、などの原則的な禁止事項もない。下級は上級にしたがう担保としての「少数は全体(大会)に従う」民主集中制の原則すらない「規律」なのである。

この「連合赤軍服務規約」を批判して、連合赤軍の組織的限界を云々する者も少なくない。だがじっさいには、もともと捏造の「処刑」規程なのである。この点は連赤事件50年を期に、明確にしておくべきであろう。

当時の週刊誌に掲載された、連合赤軍事件の「処刑」シーン

ともあれ、赤軍派の女性活動家の指輪問題を機に、各人の革命運動へのかかわり方が問題にされる。総括(この場合は反省)をすることで、各員の共産主義化を成し遂げる。銃と兵士の高次な結合によってこそ、銃によるせん滅戦が準備されるというものだ。

このときの森恒夫の発言が、連合赤軍の方向性を決めた。

「作風・規律の問題こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題」「各個人の革命運動に対するかかわりあい方を問題にしなければならない」(森恒夫の発言『十六の墓標』永田洋子)

爾後、12名の同志がとるに足らない理由で「総括」を要求され、暴力的な「総括支援」によって、飢えと極寒のなかで命を落としていくのである。

このシリーズでは、怖いもの見たさの興味をみたすがごとき、残虐シーンを再現することは敢えてしない。

その代わりに、なぜ革命集団が「狂気の同志殺し」に手を染め、12名(14名)もの犠牲者が出たのか。その理論的・実践的な誤りの解明を披歴していこう。そのことこそが、志なかばで斃れた「同志たち」の供養になるであろう。

そしてまた、現実の組織や運動に教訓が供されるのではないか。それは社会運動にかぎらず、一般の会社組織や任意団体にも共通するテーマをはらんでいる。(つづく)

連合赤軍略年譜

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈4〉脱落者・離脱者をどうするか? 横山茂彦

連合赤軍が凄惨な同志殺しに至った原因として、革命左派による離脱者処刑が挙げられる。赤軍派と革命左派が合同する以前に、革命左派は山岳ベースから離脱した男女ふたりを処刑しているのだ(印旛沼事件)。

その処刑に当たって、永田洋子(革命左派)は森恒夫(赤軍派)に相談をしていた。そのとき、おなじ問題(坂東隊に帯同していた女性が不安材料だった)を抱えていた森は、永田に「脱落者は処刑するべきやないか」と答えている。

これが永田洋子と坂口弘ら革命左派指導部の尻を押した。両派は「脱落した同志の処刑」という、きわめて高次な党内矛盾の解決をめざしたのである。この高次な党内矛盾の解決が、やがて党の組織的頽廃をもたらすことには、まだ誰も気付いていなかった。

◆いいかげんな赤軍派・真面目な革命左派

ところが、二名の処刑を実行した革命左派にたいして、赤軍派は処刑を実行できなかった。「行動をともにする中で解決していこう」という坂東國男のあいまいな方針のまま、ついに彼女を隊から追い出すことで「解決」したのである。処刑を「解決」方法と考えていた森は、しょうがないなぁという反応であったという。森は殺さなかったことで、明らかに「ホッとしていた」のである。

そうであれば、まだ「処刑」によって生起される深刻さ、組織的な頽廃を森は予見していた可能性がある。

いっぽう、革命左派は森の提案どおり処刑を実行した。この違いを、植垣康博は「いいかげんな赤軍派にたいして、革命左派は生真面目だった。その違いだった」と語っている(『情況』2022年1月発売号)。

◆印旛沼事件が最初ではなかった

連合赤軍事件(同志殺し)の呼び水が印旛沼事件だったとして、二人の処刑がアッサリと決まった。というのも、じっさいには事実ではない。

革命左派においては、この事件の前にも「処刑」を検討していたのだ。永田洋子のゲリラ路線に対して、公然と反対する同志がいたのだ。

この同志は職場で労働争議を抱えた女性で、労働運動を基盤とした党建設の立場から、党の戦術をゲリラ闘争に限定するのに反対していたのだ。もともと革命左派は、地道な労働運動を基盤にした組織である。川島豪-永田洋子ラインのゲリラ路線は、70年安保の敗北をうけた新左翼の過激化にうながされたものであって、従来の組織路線とのギャップが生じていたのだ。

この女性同志の原則的な異見に、永田洋子は「権力のスパイではないか」との疑念を持つのである。

前回の記事で、筆者は瀬戸内寂聴の言葉を引いて「可愛らしい女性だった」という評価を紹介した。そのいっぽうで、他人の心情を察する能力が彼女の特性でもあった。この「心情を察する能力」はオルグする能力であるとともに、相手を見抜く力、すなわち猜疑心が豊富であることを意味している。

のちに永田洋子は、夫である坂口弘を見捨てて、妻子のある森恒夫と結婚する。そのほうが「政治的に正しい」という理由を公然と表明して。これは猜疑心ではなく、するどい嗅覚をもった政治的判断である。元革命左派のY氏は、この永田の乗り移り主義を、指導者の川島豪から同輩同志の坂口弘へ、新しい指導者森恒夫へと、権力にすがっていく嗅覚であったと語っている。われわれは永田のこの変遷に、指導者の権力維持が粛清を生むという、連合赤軍事件のもうひとつの面を見せられる思いだ。

ともあれ、永田の猜疑心は女性同志がスパイではないかと、疑いを持たせることになる。坂口もこれに同調し、ひそかに処刑が検討されるのだ。

けっきょく、処刑の結論が出ないまま推移し、革命左派は真岡銃砲店猟銃奪取事件の弾圧で逃亡を余儀なくされる。のちにこの女性同志は、連合赤軍事件の公判を傍聴し、みずからへの「スパイ冤罪」と、当時の革命左派指導部の混乱を確認することになる。彼女もまた、きわめて真面目な革命左派らしい活動家だった。

◆森恒夫の動揺

じっさいに革命左派が二名の処刑を実行すると、森恒夫は動揺した。側近の坂東國男に「革命左派が同志殺しをやった。あいつらは、もう革命家じゃない」と語ったという。

くり返しておこう。革命左派においてスパイ疑惑が発生し、処刑を検討していた。革命左派も赤軍派も脱落者と不安分子を抱え、森が「処刑すべきではないか」と意見する。革命左派が二名の殺害を決行し、赤軍派は処刑を果たせなかった。

ここで森に革命左派への負い目、気おくれが生まれたのである。革命左派は進んでいるが、赤軍派は立ち遅れている。という意識である。

◆両派の組織的な交流

71年の秋から、赤軍派と革命左派の組織的な交流がはじまる。

婦人解放運動を組織のひとつの基盤にしていることから、革命左派には女性が多かった。家族的な団結を党風にしていたかれら彼女らは、山岳ベース(当初はキャンプ地のバンガローなどを使用)でも和気あいあいの雰囲気だったという。

爆弾製造に精通した赤軍派の植垣康博(弘前大学理学部)らが爆弾製造の講習をおこない、革命左派の女性活動家たちがそれを習う。しかしこのとき、キャンプに宿泊した植垣は、つい女性の体に手を伸ばしてしまう。のちに生活レベルの総括を要求され、男女の問題から個人の弱さが批判される素地がここにある。若い男女が狭い場所に、身体を押し合いながら寝泊まりしているのだ。性的な問題が起きない方が不思議というものだ。70年代後半に三里塚の団結小屋でも、この痴漢・女性差別問題は頻発している。

71年の12月に、両派は山岳ベースで本格的に合流する。当初は軍事部門だけの合同(合同軍事演習)だけだったが、森恒夫も永田洋子も銃を前提とした「せん滅戦のための建軍」をめざし、そのためには建党が課題としてされたのである。

ここにわれわれは、ひとつの岐路を見出すことができる。軍事を優先したがゆえに、組織的な統合をはからねばならない。そもそも軍事は高次な政治レベルにあり、そうであれば赤軍派でもなく革命左派でもない「新党」が必要とされるのだ。

その組織名はしかし、なぜか「連合赤軍」であった。理由は簡明である。世界革命路線の赤軍派と、反米愛国路線の革命左派は、そもそも政治路線の異なる組織の「連合」だったからだ。

後年、この「路線的野合」が、党の統合のための「思想闘争」を必要とし、なおかつ両派の主導権争いから粛清(同志殺し)が行なわれた。と、獄中指導部は批判(総括)したものだ。野合組織の路線的な破産であると。

たしかに、理論家の総括としてはこれでいいのかもしれない。しかし路線の不一致が解決されていたとしても、山に逃げるしかなかった指名手配犯だらけの組織は、脱落者を防止する「思想闘争」を必要としていたのである。

◆水筒問題

まず最初に、両派の合同段階で対立が生じた。赤軍派が新しい山岳ベースに革命左派を迎えたとき、かれらは水筒を持参していなかったのだ。山登りには水筒が必須である。

水筒が必要なのは山登りだけではない。もう10年以上も前になるが、洞爺湖サミットに自転車キャラバンで環境問題を訴える「ツーリング洞爺湖」を準備したおりのことだ。水筒(ボトル)を忘れてきた仲間に「連合赤軍は水筒問題から同志殺しの総括になったんだぞ」と笑い合ったことがある。長距離走やラグビーなどの球技でも、水分補給は勝敗にかかわる。

じつは革命左派が水筒を持参していなかったのは、かれらが沢登りを得意としていたからだ。沢を登っているかぎり、水に不自由することはない。だがこの水筒問題は、革命左派から主導権を奪う赤軍派(森恒夫)の格好の材料にされたのだった。

◆総括要求

数の上では少数の赤軍派(森恒夫)が、M作戦と爆弾闘争でつちかった力量をしめし、家族的で和気あいあいとした革命左派を、まるごと糾合してしまおうとする野心があったと、語られることが多い。

半分は当たっているが、のこりの半分は森の負い目にあったというべきであろう。脱落者を処刑できなかった赤軍派とはちがって、革命左派はすでに二人の同志を殺しているのだ。
いっぽう、水筒問題で批判された革命左派が逆襲する。

赤軍派の女性が指輪をしてきたことを「武装闘争の訓練をする山に、指輪は必要ない」と批判するのだ。その批判はエスカレートし、そもそも「どういうつもりで山に来たのか」という難詰に発展する。これが「総括要求」となったのだ。(つづく)

連合赤軍略年譜

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈3〉森恒夫と永田洋子 横山茂彦

◆国際根拠地論

三島由紀夫も落胆した69年の10.21(国際反戦デー)の不発のあと、赤軍派中央委員会では、塩見孝也による「国際根拠地論」が提案される。キューバへの渡航、アメリカの左派勢力との合流。要するに、海外亡命である。そのための手土産として、首相官邸を数十名で占拠する方針が採られた。この計画の準備が、大菩薩峠の福ちゃん荘での軍事合宿だったのだ(53名逮捕)。

国内での武装闘争の行き詰まりが、海外渡航の準備をうながしたのである。そしてそれは、よど号ハイジャック事件(北朝鮮渡航)として決行される。田宮孝麿らの幹部が北朝鮮に渡る(本来の目的はキューバだった)いっぽう、大衆運動としても海外渡航がはかられた。

すなわち、元赤軍フラクの藤本敏夫が事務局長をつとめるキューバ文化交流研究所を媒介に、赤軍派系・ブント系の学生をふくめた「サトウキビ刈り隊」が組織され、数十人単位がキューバに渡航したのである。この事実は、あまり知られていない。のちに「サトウキビ刈り隊」は公安当局の「スパイ説」流布により、キューバ当局から強制送還された。

◆あいつぐ弾圧と指導部の逮捕

こうした派手な闘いは、公安当局の猛烈な弾圧をまねいた。塩見孝也、高原浩之ら赤軍派の指導部があいついで逮捕されたのだ。赤軍フラクから脱落していた森恒夫が、この時期に台頭してくることになる。

国内指導部では、古参の堂山道生だけが健在だったが、森とは反りが合わない。やがて堂山は組織を去っていく。森に言わせれば「俺が論争に勝ったから、堂山が去っていった」ということになるが、重信房子がそうは考えなかったという。その重信房子は唯一、森に批判的なことを言える立場だったが、アラブ行きの準備で、国内残留組の指導には関われなかった。

こうして森恒夫が組織の中枢で、とくに中央軍を私兵的に統括するようになるのだ。大会が開かれないという理由で、中央委員会も開かれなくなる。森の独裁的な指導のもとで、ペガサス作戦(獄中指導部の奪還)、ブロンコ作戦(日米同時蜂起)は実現できなかったものの、マフィア作戦(銀行強盗)だけが実現されていく。

革命左派においても、苛烈な弾圧は組織が身動き取れないところまで来ていた(69年12月に川島豪が逮捕される)。70年の12月18日に交番を襲撃して、柴野春彦が警官に射殺され、翌71年2月に真岡の銃砲店で猟銃を奪取。この事件が、公安当局の猛弾圧を招くことになるのだ。

◆獄中指導部奪還作戦の挫折

赤軍派においても、ペガサス作戦として検討された獄中指導部奪還は、革命左派においてはかなり現実的なものとして計画されていた。獄中の川島豪が転向を装ったり、銃砲店での猟銃奪取は具体的な計画に沿ったものだった。

キューバを目的地に海外渡航を実行した赤軍派にたいして、毛沢東主義の革命左派は中国を念頭に、海外渡航作戦を検討していた。それは50年代に、朝鮮戦争の関係で共産党がレッドパージに遭った際、徳田球一(書記長)が中国に渡航・潜伏したのをモデルに考えられたものだった。

それにしても、猟銃を奪取したのはよいとして、どうやって獄中指導部を奪還するつもりだったのだろうか。まったく現実性がなかったわけではない。外国の領事館の要人、皇族の誘拐が検討されていたのだ。最終的には、横浜拘置所から裁判所まで護送されるのを狙ってという作戦に落ち着いたが、猟銃奪取後の猛烈な弾圧はそんな計画が具体化するのを許さなかった。

その国外脱出論は、国内での活動の困難を感じた永田洋子によって、自分たちの中国渡航案として組織に提案される。日本国内では、禁猟期に猟銃を撃っただけでも通報されて、軍事訓練も行なえないからというものだった。この案は、のちに赤軍派にアジト網を提供されることで、国内での活動の見通しが立つとともに立ち消えになる。

◆両派の初会合

前述した交番襲撃事件(1名射殺される)は、革命左派を新左翼界隈のステージに押し上げた。赤軍派の獄中幹部から称賛が送られ、殺された柴野春彦は武装闘争の英雄とされたのだった。

これを受けて、赤軍派と革命左派の最初の会合がひらかれた。赤軍派からは森恒夫・坂東國男、革命左派は永田洋子・坂口弘・寺内恒一である。のちの連合赤軍の指導部である。このさい、森恒夫が永田の海外渡航案を批判することで、革命左派の中国行きはなくなった。

このとき、森恒夫は革命左派の指導者が永田洋子なのか坂口弘なのか、それとも寺内恒一なのか、わからなかったと後に述べている。革命左派の幹部三人が、ともに理論的な突出力がなかったことを、この森の感想は言い当てている。

河北三男が組織を去り、川島豪および古参党員が身動きができなくなっていた革命左派は、トコロテン式に、指導力の未熟な永田をトップにしたのである(幹部による党内選挙)。

森恒夫という人物については、元赤軍派の関博明氏から聞いたことがある。何ごとも「お前はどうなんだ?」と追及するタイプで、その一方では年下の者たちには「親父さん」と、好かれていたという。のちに森が獄中自殺したとき、かれらは権力による謀殺を疑ったという。

永田洋子は、自殺した森よりも悪辣に表現されることが多いが、のちに交流のあった瀬戸内寂聴によれば、可愛らしい女性だったという。相手のことをよく観察し、心理を読むのに長けていたというのは、当時のメンバーの証言である。

◆銃と爆弾

革命左派が銃砲店を襲い、猟銃を奪取するのは初会合の翌年の2月17日である。この革命左派の銃器奪取が、じつは森の戦術思想に大きな影響を与えることになるのだ。

赤軍派は梅内恒夫という、爆弾の神様の異名をとるメンバーを軸に、植垣康博らが爆弾製造の専門班として武装化をはかっていたが、銃器を手に入れることは出来ていなかった。そのいっぽうで、M作戦だけが順調にいき、赤軍派の兵站を豊かにしていた。

森の戦術思想を変えたのは、はからずも爆弾闘争の成功だった。

すなわち、71年6月17日(沖縄闘争)で、中核派のデモ隊の背後から赤軍派が爆弾を投擲し、爆弾闘争に成功したのだ。機動隊員に多数の負傷者が出ている。この爆弾闘争が71年には、ノンセクトをふくむ新左翼各派の爆弾闘争の爆発につながる。

この爆弾闘争はしかし、無関係の一般市民をも巻き込みかねない。無政府主義の武装闘争ではないかという疑問が、森の脳裡に生じたのだ。目標が不正確な爆弾闘争ではなく、殺し殺される情勢のもとで、勝ち抜けるのは銃と兵士の結合であると。この銃物神化の思想は、永田洋子のものでもあった。

やがて、関東でM作戦の成果を挙げていた坂東隊いがいの赤軍派中央軍は、軒並みに逮捕されてしまう。赤軍派の戦力の低下は、革命左派との距離を縮めた。カネと銃器を交換する案が、両派を緊密な関係にさせるのだ。

そしてもうひとつ、両派を急接近させる事態が起きる。両派ともに、組織内部に脱落者や不安分子(不満分子ではない)を抱えていたのである。死という壁が、両派にせまっていた。(つづく)

連合赤軍略年譜

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号!

天皇制はどこからやって来たのか〈43〉どうなる女性天皇容認議論 横山茂彦

◆愛子内親王が成人し、高まる皇位継承の可能性

昨年暮れに、皇室のあり方を議論する政府の有識者会議(清家篤元慶応義塾長座長)が政府に報告書(最終答申)を上げた。※関連記事(2021年回顧【拾遺編】)

答申それ自体は、女性天皇や女系天皇といった、国民の関心事には触れることなく、女性皇族が結婚後も身分上皇室にとどまる。旧宮家の男性を皇室の養子として皇族化するという、きわめて実務機能に即したものだった。

「国民の関心事」とわざわざテーマを挙げたのは、いうまでもなく愛子内親王が成人し、皇位継承の可能性に関心が高まっているからにほかならない。

女性天皇を認めるか否か。この問題は国民の関心事であるとともに、反天皇制運動にも大きな影をおよぼしてきた。すなわち、天皇制を批判しつつも女性天皇の誕生に期待する、フェミニズム陣営の議論である。天皇制の是非はともかく、明治以降の男性優位が継続されているのは、女帝が君臨した皇統史に照らしてもおかしいではないか。というものだ。


◎[参考動画]愛子さま成年行事 ティアラ姿を披露 今月1日 二十歳に(TBS 2021/12/5)

じつは上記の有識者会議でも、女性天皇を容認する発言は多かったのだ。

「政府は(2021年4月)21日、安定的な皇位継承策を議論する有識者会議(座長・清家篤前慶応義塾長)の第3回会合を開き、歴史の専門家ら4人からヒアリングを実施した。女性天皇を認めるべきだとの意見が多数出たほか、女性皇族が結婚後も皇室に残る『女性宮家』の創設を求める声も上がった。」(毎日新聞(共同)2021年4月21日)

そして議論は、女性天皇容認にとどまるものではなかった。女系天皇の容認も議論されてきたのだ。

「今谷明・国際日本文化研究センター名誉教授(日本中世史)は、女性宮家に関し『早く創設しなければならない』との考えを示した。父方が天皇の血筋を引く男系の男子に限定する継承資格を、女系や男系女子に広げるかどうかの結論を出すのは時期尚早とした。
 所功・京都産業大名誉教授(日本法制文化史)は男系男子を優先しつつ、一代限りで男系女子まで認めるのは『可能であり必要だ』と訴えた。
 古川隆久・日大教授(日本近現代史)は、母方に血筋がある女系天皇に賛成した。女性天皇は安定的な継承策の『抜本的な解決策とならない』と指摘しつつ、女系容認とセットなら賛同できるとした。
 本郷恵子・東大史料編纂所所長(日本中世史)は女系、女性天皇いずれにも賛意を示した。『近年の女性の社会進出などを考えれば、継承資格を男子のみに限ることは違和感を禁じ得ない』と主張した。(共同)

◆自民党内でも女性天皇容認論という保守分裂の構造──「超タカ派」高市早苗の場合

女系天皇・女性天皇容認の動きは、研究者の議論にとどまらない。いまのところ、保守系の運動として公然化しているのが下記の団体である。

◎女性天皇を支持する国民の会 https://blog.goo.ne.jp/jyoteisiji2017

ここにわれわれは、明らかな保守分裂の構造を見てとれる。保守系の動きは「ブルジョア女権主義」、あるいは単純な意味での皇室アイドル化の延長とみていいだろう。いっぽうで、男系男子のみが皇位を継承すべきという保守系世論は根強い。

そんな中で、自民党内から女性天皇容認論が脚光を浴びている。超タカ派と目される、高市早苗である。

「高市 私は女性天皇に反対しているわけではありません。女系天皇に反対しています。女性天皇は過去にも推古天皇をはじめ八方(人)いらっしゃいましたが、すべて男系の女性天皇(天皇が父)です。在位中にはご結婚もなさらず、次の男系男子に皇位を譲られた歴史があります。男系による皇位の継承は、大変な工夫と努力を重ねて連綿と続けられてきたものであり、その歴史と伝統に日本人は畏敬の念を抱いてきました。」(2021年12月10日=文藝春秋2022年1月号)

◆皇統の危機は、女系においてこそ避けされてきた

本通信のこのシリーズでは、女系天皇の存在を古代女帝の母娘(元明・元正)相続、王朝交代(応神・継体)において解説してきた。じつは女系においてこそ、皇統の危機は避けされてきたのだ。

◎[関連記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈09〉古代女帝論-1 保守系論者の『皇統は歴史的に男系男子』説は本当か?」2020年5月5日 

◎[関連記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈14〉古代女帝論-6 皇統は女性の血脈において継承された」2020年8月16日 

管見のかぎり、この立論に正面から応える歴史研究は存在しない。つまり、男系論者は「定説」「通説」の上にあぐらをかき、まともな議論をしていないのだ。いや、歴史上の女帝の数すら間違えている。高市の云う「八方」ではなく「9人」なのだ。

◎[関連記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈17〉古代女帝論-9「八人・十代」のほかにも女帝がいた!」2020年9月27日 

ところで、冒頭にあげた「女性天皇容認論」を具体的に言えば、保守系の「愛子さまを天皇に」という運動と交差しつつ、いわゆるブルジョア的女権論であるとともに、天皇制の「民主化」を結果的にもとめるものとなる。

天皇制廃絶を主張する左派からは「天皇制を容認した議論」と批判されるが、沖縄基地を本土で引き受けて沖縄の負担を軽減する、オルタナティブ選択と同じ発想である。沖縄米軍基地を本土誘致することが、基地を容認した運動だと批判されているのは周知のとおりだ。

しかしながら、天皇制廃絶論が具体的なプロセスを示し得ないように、辺野古基地建設(海底地盤の軟弱性)の可能が乏しくても、反対運動が建設を阻止しえていない。したがって、基地建設阻止の展望を切り拓けないのである。そこで本土誘致という、新たな選択が提案されてきたのだ。

「天皇制廃絶」や「米軍基地撤去」は、残念ながらそれを念仏のように唱えているだけでは実現しない。対する「女性天皇容認」や「基地を本土へ」は、微動だにしない現状を、少しでも動かす可能性があるといえよう。

女性天皇容認もまた、天皇制の「民主化」によってこそ、天皇制の持っている矛盾を拡大させ、天皇制不要論に至る可能性がひらけるといえよう。

その現実性は、ほかならぬ高市の発言にも顕われている。

「よく『男女平等だから』といった価値観で議論をなさる方がいらっしゃいますが、私は別の問題だと思っています。男系の祖先も女系の祖先も民間人ですという方が天皇に即位されたら、『ご皇室不要論』に繋がるのではないかと危惧しています。『じゃあ、なぜご皇族が特別なの?』という意見も出てきてしまうかもしれません。そういう恐れを私はとても強く持っています。」

そのとおり、女系・女帝を現代に持ち込むことは、なぜ皇室が存在するのかという問題に逢着するのだ。それは天皇制の崩壊に道をひらく可能性が高い、と指摘したい。
愛子天皇の賛否について、世論調査を様々な角度からとらえたサイトを紹介して、いまこそ国民的な議論に付すべきと指摘しておこう。(つづく)

『愛子さま 皇太子への道』製作委員会「世論調査に見る女性天皇・女系天皇への支持率」

◎連載「天皇制はどこからやって来たのか」http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=84

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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