連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈2〉その前史 横山茂彦

連合赤軍は共産主義者同盟赤軍派(第二次)と日本共産党革命左派が合同した組織である。71年12月の「新党結成」からわずか2カ月ほどで、同志12人を暴力的な「総括要求」で殺害し、2月19日から9日間にわたる銃撃戦(あさま山荘事件)で死者3名を出し、ほぼ全員が逮捕されることで壊滅した。とくに同志殺しは社会運動史上、稀にみる内ゲバ事件と言えよう。

◆12人を死に至らしめた「総括」とは何なのか?

当初は誰にも、銃撃戦と山岳ベースの目的がわからなかった(じつはほぼ全員が指名手配されていたので、容疑者の逃亡劇にすぎなかった)こと、同志殺しの陰惨さゆえに「狂気の沙汰」「集団ヒステリー」などと、メディアは口をきわめて批判したものだ。

たしかに「狂気」としか思えない結果だが、一部のメディアが「狂人集団」とこれまたヒステリックに非難することにも、冷静なメディアからは批判が上ったものだ。事件の本質を「異常な狂気」としてしまえば、事件の動機を不問に付し、事件から何も教訓が得られないことになる。

たとえば、オウム事件で麻原彰光教祖が黙したこと(精神疾患を装った?)で、被害者遺族に事件の真相が明らかにならなかった(との印象を抱いた)のは、記憶に新しいところだ。連合赤軍事件は動機において「政治犯罪」であり、のちに理論的な誤謬や明らかになることによって、それなりに真相が究明されてきた。

しかしながら、その理論的総括は新左翼特有の難解な語彙や文体によるもので、いかにもわかりにくい。とくに赤軍派系の文章は、まるでレジュメか内部文書を読んでいるように図式的で不可解である。現代の若い人たちにも理解できる、平易な解説が必要なのである。

まず、この「総括」という言葉から解説していこう。国会での与野党の討議を「総括質問」と称するように、総括とは文字通り全体を統括、ないしは包含したという意味である。学生運動や労働運動では、大会議案書が「情勢分析」「総括」「方針」という具合に分類される。したがって「反省」という意味合いがつよいといえよう。

その「総括(反省)」が連合赤軍においては「共産主義化」のためとして、個々人につよく求められたのである。

◆人間の尊厳を否定しておいて、反省を迫る「総括」

では、つぎに共産主義化とは何だろうか。森恒夫が語るところを聴こう。

「作風・規律の問題こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題」「各個人の革命運動に対するかかわりあい方を問題にしなければならない(『十六の墓標』)。

この「作風」「規律」をめぐって、じっさいに諸個人が「総括」をもとめられ、それに答えられないことで、暴力で「総括を援助」する事態が発生するのだ。この「援助」は食事を与えない、縛り付ける、自分で自分を殴るなどで、総括の対象者を死に至らしめるものとなった。

およそ人間の尊厳を否定しておいて、反省を迫るというのが間違っている。その誤りに、連合赤軍は気づかなかったのである。

そのような事態に至った、さまざまな要因は後述するとして、まずは連合赤軍の前史である赤軍派と革命左派の生成から解説していこう。じつは赤軍派の結成とそれへの森恒夫のかかわり方、革命左派の結成とその変遷における永田洋子の立場に、連合赤軍の淵源があるのだ。

◆ブント7.6事件

赤軍派がブント(共産主義者同盟)から分立する過程で起きたのが、7.6事件である。その事実関係は「7.6事件の謎」として、中島慎介が提起した問題(『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』収録)を、本通信も書評として解説してきた。

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈4〉7.6事件の謎(ミステリー)──求められる全容の解明(2021年11月30日)

この事件をさらにさかのぼれば、68年12月のブント8回大会で関西派(のちに赤軍派となる部分をふくむ)が執行部(中央委員会政治局・学対)から排除されたことが挙げられる(人事問題)。

さらに69年1月の東大闘争安田講堂攻防戦をめぐって、政治局が責任を負わない態度を取ったことから、荒岱介(のちに戦旗派指導者)と高原浩之(赤軍派指導者)が反発した(闘争指導問題)。※『破天荒伝』(荒岱介著・横山編集、太田出版)

そして4.28沖縄デー闘争で、共産主義突撃隊(RG)が組織され、その敗北が赤軍フラクの結成へとつながるのだ(軍事組織改編問題)。その指導者が塩見孝也(のちの赤軍派議長)である。

7.6事件に至るまでの過程(6月のアスパック粉砕闘争・郵便局自動化反対闘争)で、ブント内右派から赤軍フラクへの「リンチ」があったとされる(『世界革命戦争への飛翔』赤軍派編)。

◆権力(スパイ)の謀略か?

そして、問題の7.6事件である。赤軍フラクの排除に抗議しようとしたところ、なぜかリンチ事件になった。その結果、赤軍フラクはさらぎ議長を逮捕させる結果となり、ブントを組織的混乱に陥らせたのである。

中島慎介が提起した「事件の謎(事件を準備した者がおもてに出ないまま所在不明)」を概括すれば、森恒夫の失踪(テロによるとされている)と藤本敏夫拉致事件(数日間行方不明)と併せて、謀略の気配がきわめて濃厚である。

運動体の内部にスパイを送り込み、運動の過激化をうながして組織を崩壊に導く。あるいは権力の謀略部隊が、直接的に運動体を叩く。

「権力の謀略」といえば、革マル派が74年の夏以降、独自に唱えてきたものがある。

「われわれは敵対党派(中核派や社青同解放派など)に対する闘争に勝利したが、国家権力は敵対党派の指導部にスパイを潜入させて操り、内ゲバを装った謀略を仕掛けている」というものだ。

すべてがそうだと言えないまでも、国家権力が内ゲバを装って謀略を仕掛けることは少なくない。

70年当時の新聞記者の証言として、警察署からヘルメット姿に身をやつした男女の警官が出てきたり、機動隊との攻防の現場で逮捕に協力しているヘルメット姿の学生風の警官が写真に撮られてもいる(『過激派壊滅作戦』三一書房) 。映画監督の大島渚は終生「学生運動が内ゲバで鎮静化したのは、警察のスパイが行なったことだ」と発言していたものだ。

中島慎介が問題視している、7.6事件で赤軍フラクが明大和泉校舎に入った時間は、始発電車(または次発)で御茶ノ水から明大前に行ったことが、当事者の新たな証言として、1月21日発売の「情況」(連合赤軍50年特集号)に掲載予定である。

またそこでの、さらぎ議長リンチが偶発的なものだったこと。その後、東京医科歯科大に引き揚げた赤軍フラクに逆襲したのが、中大ブントだけではなく情況派(医学連指導部、明大生協理事)が加わっていたことから、ブント内左右の派閥抗争の延長だったことまで判明している(重信房子の手記、『聞き書きブント一代記』)。7.6事件については、さらなる事実関係の究明が課題であろう。

8月にはブント中央委員会で赤軍派の「7.6事件の自己批判」が認められず、9回大会で塩見以下の指導部がブントを除名となる。ここに赤軍派は、ブントの分派として、共産同赤軍派を結成することになるのだ。

◆革命左派の前史

さて、新左翼オタクや共産趣味者にとって、よくわからないのが日本共産党革命左派(神奈川県委員会)という組織の系譜であろう。

日本共産党の毛沢東支持派から分裂した、というのが一般的な説明である。全くはずれてはいないが、組織の歴史を正確に顕わしているとはいいがたい。じつは革命左派もブントの系譜なのである。

革命左派の前身は、警鐘グループと言われるブント系の一派である。すなわち、マルクス主義戦線派の川島豪、社学同ML派議長だった河北三男が「これからは学生運動主体ではなく、青年労働者を組織すべき」として結成されたのが警鐘グループだった。

《図表》日本共産党革命左派(神奈川県委員会)という組織の系譜

この警鐘グループが日中友好運動を媒介に、接触をはかったのが日本共産党左派神奈川県委員会なのである。日共左派は山口県委員会(現在の「長周新聞」)が有名だが、中国のプロレタリア文化大革命を背景に、共産党から分立した組織で、全国的に自立的に存在していた(日中友好協会正統派)。

じつはその前に、マルクス主義戦線派(のちに前衛派・レーニン主義協会など)や社学同ML派(のちに日本マルクス・レーニン主義者同盟、マルクス主義青年同盟、日本労働党など)を解説しなければならないが、長くなるので別枠(ブントの分派)で解説することにしたい。※図表参照。

ともあれ、日本共産党左派神奈川県委員会に合流することで、川島豪と河北三男の一派は、横浜国大と東京水産大学(現・東京海洋大学)を拠点に組織を伸長させる。

かれらにとって、戦中派で戦後革命期を経験してきたベテランの元共産党員と合流したことは、政治的にも組織的にも新たな地平だった。すなわち、新左翼の粗雑な作風・体質からはなれて、労働者・労働組合運動に基盤を持つ革命組織の確立である。

とはいえ、横浜国大の自治会を拠点にする学生メンバーは、ML派から執拗に付け狙われる。河北三男がML派時代に突然いなくなり、分派として立ち顕われた、とML派は判断したのである。分派をゆるさない、レーニン主義の組織論の悪弊が、まずここに見出せる。

横国大自治会に出入りするメンバーが拉致され、ML派の拠点である明治大学の学生会館に監禁されるなど、党派闘争・分派闘争としての大義名分でテロリンチが行なわれたという。

このとき、元共産党員で日共左派神奈川県委員会の指導者(望月登=一部の本では小林)は、果敢にも「人民内部の矛盾であるから、暴力に暴力では返さない」と、明大学館に単身のりこんだ。顔が倍に腫れ上がるほど殴られながらも、横国大のメンバーを奪還したのだった。

じつに毅然とした勇気を必要とする行動で、指導者の範をしめしたというべきであろう。この望月登は海軍兵学校(幹部養成学校)の出身者だったという。

◆神奈川県委員会の分裂

しかしながら、68・69年の新左翼(三派全学連・全共闘運動)の運動的な高揚と先鋭化は、日共左派神奈川県委員会にも影響をおよぼした。元共産党員の指導者たちの、地道な労働運動による組織建設は、いかにも時代の趨勢に付いて行けないものだった。

69年春の党会議において、河北と川島が望月に指導責任を問い質し、会議は紛糾した。指導方針を示せない望月を罷免することで、日共左派神奈川県委員会は事実上の分裂。日共革命左派神奈川県委員会の結成となったのだ。

新左翼系としては、ML派につぐ毛沢東主義の党派結成で、その路線は「反米愛国」である。

ちょうど赤軍派が大阪戦争・東京戦争をくり広げ、大菩薩峠で53名の逮捕者(武装訓練合宿)を出していた69年秋、革命左派も米軍基地へのダイナマイト闘争を実行(すべてが不発)していた。両者の歩みは、ほとんど軌を一にしていたといえよう。(つづく)

連合赤軍略年譜

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《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈4〉7.6事件の謎(ミステリー)──求められる全容の解明

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈1〉「シラケの時代」がやってきていた 横山茂彦

1971~72年という時代は、どのような時代だったのだろうか。鹿砦社から刊行された『抵抗と絶望の狭間──一九七一年から連合赤軍へ』の書評でも取り上げた、連合赤軍事件50年の今日的な捉え返しである。

15年安保(6年前の安保法制反対運動を、若い世代はこう呼ぶ)以降、新しい世代が反戦運動や反原発運動に加わり、ある意味でまっさらな世代が登場した。

彼ら彼女らは、長らく日本社会を覆ってきたアパシーとは無縁で、全共闘世代と内ゲバの時代すら相対化している。清新な感性で、社会運動の歴史に学んでいるかのようだ。

しかし反ヘイト運動内部にリンチ事件が発生するなど、日本の社会運動に「伝統的な」内ゲバの病根が見られるとき、連合赤軍事件など負の過去を検証する作業は無駄ではないだろう。

まず71~72年という時代は、どういう時代だったのだろうか。72年元旦のお茶の間の風景から再現しよう。

木枯し紋次郎

◆「木枯し紋次郎」のニヒリズム

現在六十歳前後の方なら、この時代にご記憶にあるだろうか。ドラマ「木枯し紋次郎」がブラウン管に登場したのは、1972年1月1日のことだった。

シラケ世代を象徴する「あっしには、かかわりのないこって」という台詞は、単なるニヒリズムではなかった。

物語の展開のなかで「放ってはおけない」紋次郎の優しさが、事件の真実にふれさせ、哀しさとみずみずしい余韻をのこす。それは単純な義侠心や正義ではなない。ありのままの現実を直視する目撃者の視点、やさしさの希求、あるいはそれが果たせない末の諦観であろう。

そんな71~72年はおそらく、熱意と正義が失われた時代であった。ニーチェ風にいえば「善悪の彼岸」、キリスト教権力の「真理」が失われたときに「超人」の意志が求められたが、それすらも挫折する傲岸な権力の発動がそこにあった。

70年安闘争の敗北は、71年に爆弾闘争という副産物(60件以上)を生み、反体制運動は分散と混迷を深めていた。

ちょうどそのころ、群馬の山間では革命集団に凄惨な最期が訪れていることを、「木枯し紋次郎」に共感しているわれわれは知らなかった。

「木枯し紋次郎」のニヒリズムは、全共闘運動と70年安保の敗北をうけたものだ。正義はどこにもないし、闘っても何も意味がなかった。危ういことに関わり合いになると、ろくなことにはならない。政治なんて変わらないし、関わらない方がいい、という諦めへの共感だった。それはまた烈しい闘争のはてに、傷ついた心をいやす受け皿だったのかもしれない。

◆目的がわからなかった山荘占拠

紋次郎の口癖が話題になり、札幌オリンピックが閉会してから一週間後、その事件は、いきなりお茶の間のブラウン管に飛び込んできた。

赤軍派らしいグループが2月19日に、あさま山荘を占拠したのである。われわれ視聴者はもとより、捜査当局もその目的が何なのか、まったくわからなかった。山荘管理人の妻を人質に取っている以上、何らかの要求があるものと思われたが、電話線はたてこもったグループの手で早々に切られた。

やがて10日以上におよぶ「銃撃戦」が行なわれ、警官2名が死亡、民間人1人が死亡、20数名が重軽傷を負った。

山荘事件後、事前に逮捕されたメンバーの中から、自供に応じる者が出はじめた。そして捜査当局は、尋常ではないことが起きていたことを察知するのだ。12名のリンチ殺害、別件で2名の処刑という、同志殺し事件である。

われわれの知らないところで行なわれていた内部リンチ、やがてはブラウン管を独占する銃撃戦にいたる連合赤軍の闘いは、この時代のニヒリズムをいっそう拡大した。

◆分裂と内ゲバの時代

パリの5月革命をはじめとする、68年革命と称される世界的なスチューデントパワーは、69年には終息に向かっていた。

69年にブント(共産主義者同盟)が分裂し、70年には海老原君事件(中核派による革マル派学生殺害=中核vs革マル戦争の勃発)が起きている。日本中を驚愕させた、赤軍派のハイジャック事件(北朝鮮へ)。そして71年には、爆弾闘争が「流行」する。

◆狂気だったのか?

リンチ事件が発覚したとき、メディアは口をきわめて、事件を「孤立した革命集団」が」起こした「狂気の惨劇」「凶悪そのもの」「発狂寸前で行なわれた」と報じた。だが「狂気」ではなく、それが一途な思いで行なわれたところに、事態の深刻さがあるのだ。

この連載では「怖いもの見たさ」で、酸鼻を極めたリンチ事件を再現することはひかえ、連合赤軍が生まれなければならなかった必然性。その組織的・理論的な根拠を明らかにすることで、かれら彼女らの行動が「狂気」ではなく、社会運動に固有の問題であることを提示していこう。

そのことはたとえば、パワハラやモラハラが社会運動の中でこそ頻繁に発生し、運動の頽廃をもたらすことに逢着させるはずだ。

なお、略年譜をこの記事の最後に添付しますので、連載中もフィードバックして参照してください。(つづく)

連合赤軍略年譜

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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2021年回顧【拾遺編】天皇制・工藤會・三里塚…そして1971年の記憶 横山茂彦

◆天皇制と皇室はどう変わってゆくのか?

眞子内親王が小室氏と結婚し、晴れて平民となった。小室氏が司法試験に失敗し、物価の高いニューヨークでは苦しい生活だと伝えられるが、それでも自由を謳歌していることだろう。

小室氏の母親の「借金」が暴露されて以来、小室氏側に一方的な批判が行なわれてきた。いや、批判ではなく中傷・罵倒といった種類のものだった。これらは従来、美智子妃や雅子妃など、平民出身の女性に向けられてきた保守封建的なものだったが、今回は小室氏を攻撃することで、暗に「プリンセスらしくしろ」と、眞子内親王を包囲・攻撃するものだった。

ところが、これらの論難は小室氏の一連の行動が眞子内親王(当時)と二人三脚だったことが明らかになるや、またたくまに鎮静化した。眞子内親王の行動力、積極性に驚愕したというのが実相ではないだろうか。

さて、こうした皇族の「わがまま」がまかり通るようになると、皇室それ自体の「民主化」によって、天皇制そのものが変化し、あるいは崩壊への道をたどるのではないか。保守封建派の危機感こそ、事態を正確に見つめているといえよう。

年末にいたって、今後の皇室のあり方を議論する政府の有識者会議(清家篤元慶応義塾長座長)の動きがあった。

有識者会議は12月22日に第13回会合を開催し、減少する皇族数の確保策として、女性皇族が結婚後も皇室に残る案と、戦後に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子が養子縁組して皇籍に復帰する案の2案を軸とした最終答申を取りまとめ、岸田文雄首相に提出したというものだ。

女性皇族の皇籍はともかく、旧宮家の男系男子が養子縁組して皇籍に復帰という構想は、大いに議論を呼ぶことだろう。

それよりも、皇族に振り当てられている各種団体の名誉総裁、名誉会長が本当に必要なのかどうか。皇族の活動それ自体に議論が及ぶのでなければ、単なる数合わせの無内容な者になると指摘しておこう。

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◆工藤會最高幹部に極刑

工藤會裁判に一審判決がくだった。野村悟総裁に死刑、田上不三夫会長に無期懲役であった。弁護団は「死刑はないだろう」の予測で、工藤會幹部は「無罪」「出所用にスーツを準備」だったが、これは想定された判決だった。

過去の使用者責任裁判における、五代目山口組(当時)、住吉会への判決を知っている者には、ここで流れに逆行する穏当な判決はないだろうと思われていた。

福岡県警の元暴対部長が新刊を出すなど、工藤會を食い扶持にしている現状では、警察は「生かさず殺さず」をくり返しながら、裁判所はそれに追随して厳罰化をたどるのが既定コースなのである。

いわゆる頂上作戦は、昭和30年代後半にすでに警察庁の方針として、華々しく掲げられてきたものだ。いらい、半世紀以上も「暴力団壊滅」は警察組織の規模温存のための錦の御旗になってきたのである。

たとえば70年代の「過激派壊滅作戦」は、警備当局によるものではなく、もっぱら新左翼の事情(内部ゲバルト・ポストモダン・高齢化)によって、じっさいにほぼ壊滅してしまった。この事態に公安当局が慌ててしまった(予算削減)ように、ヤクザ組織の壊滅は警察組織の危機にほかならないのだ。

いっぽう、工藤會の代替わりはありそうにない。運営費をめぐって田上会長の意向で人事が動くなど、獄中指導がつづきそうな気配だ。

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◆三里塚空港・歳月の流れ

個人的なことで恐縮だが、われわれがかつて「占拠・破壊」をめざした成田空港の管制塔が取り壊された。歳月の流れを感じさせるばかりだ。

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◆続く金融緩和・財政再建議論

今年もリフレに関する論争は、散発的ながら世の中をにぎわした。ケインズ主義者が多い経産省(旧経済企画庁・通産省)から、財務相(旧大蔵省)に政権ブレーンがシフトする関係で、来年も金融緩和・財政再建の議論には事欠かないであろう。

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◆渾身の書評『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』

年末に当たり、力をこめて書いた書評を再録しておきたい。

他の雑誌で特集を組む関係で、連合赤軍事件については再勉強させられた。本通信の新年からは、やや重苦しいテーマで申し訳ないが、頭にズーンとくる連載を予定している。連合赤軍の軌跡である。請うご期待!

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年1月号!

2021年回顧【政治編3】「開かれた国民政党」の真価を発揮した自民党の逆襲 横山茂彦

◆すべては自民党総裁選挙にかかっていた

今年の回顧(【政治編1】)で見たとおり、9月までは「自民党の総選挙敗北」「12年ぶり、三度目の政権交代」も政治日程に上っていた。ポンコツ菅政権継続であれば、である。

すべては自民党総裁選挙にかかっていた。安倍(細田派)と麻生派が支持しているかぎり、自民党は派閥の論理で政権を明け渡すはずだった。本通信ではそれを、「今後の10年を分ける」と表現してきた。

はたして、それは現実のものとなった。立民党は総得票数こそ伸ばしたものの、当選者数では激減。野党共闘を組んだ共産党も議席を減らした。そして維新の会の大躍進、わずかにれいわ新選組が3議席を獲得して大方の見方をくつがえした。

その最大の原因こそ、自民党総裁選挙であったと総括することができる。自民党は男女2人の有力候補を看板に、国民の目に焼き付けるように総裁選挙を演じきったのである。まさに国民政党とは、このような姿であると。

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◆仕掛けたのは岸田文雄だった

いや、その前に菅義偉の電撃的な退陣劇に触れておかなければならない。仕掛けたのは岸田文雄だった。まず岸田は、菅政権を実質的に支えている二階俊博の追い落としを謀った。党の執行部任期を限定しようという、至極まっとうな提案である。

これに対して、菅が対応を誤る。政局の争点にしないために、二階切りで争点潰しに出たのである。二階ははらわたが煮えくりかえる思いで、しかしこれを承諾する。ここから隠然たる菅おろしが始まった。

自民党の独自調査では、この段階で60議席を失うという結果が出ていた。単独過半数割れどころか、政権交代の目が出てしまったのだ。この岸田の妙手は、はたして彼自身の発案だっただろうか。宏池会の政治的な奥行きの深さを感じさせる政局だった。

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◆維新の政権批判に期待した国民

総選挙は「政権交代」を掲げる野党共闘に、国民の深刻な判決を言い渡すものになった。自民党批判は政権の受け皿としての立民・共産・社民には行かず、維新の政権批判に国民は期待したのである。

もっとも、この選挙結果については400人近い地方議員を抱える維新の、当然の勝利であるとの見方がつよい。ちなみに立民は地方議員774人、共産は2660、公明党が2916人、自民党は3418人である。

400人近くの維新地方議員は過重なノルマを課されながらも、伝統的なドブ板選挙をやりきるだけの体力(若さ)があるというのだ(『紙の爆弾』1月号「西谷文和の「維新一人勝ちの謎を解く」参照)。

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自民党の単独過半数確保が意味すること ── 総選挙を総括する 2021年11月2日

◆今のままの野党共闘が政権の受け皿になる可能性は、ほとんどない

この先10年を決める自民党総裁選と書いた手前、これを言うわけではない。しかし、今回の野党共闘から見えてきたのは、立憲民主党と共産党が55年体制の体質・国民の受け止め方に変わりがなかったという事実だ。とりわけ共産党においては、党首が21年も変らない現実がある。

いま、連合の新会長の芳野友子はことあるごとに「立民党は共産党と手を切れ」と演説しているという。選挙戦術としては自公も行なっていることであって、野党共闘がただちにダメだと批評する気はない。

が、日本共産党の保守的な体質はまさに、日本の諸制度に改革をもたらさない守旧派である。維新の会が改革派として自民党批判の受け皿になっているのとは好対照といえよう。この先、今のままの野党共闘が政権の受け皿になる可能性は、ほとんどないと指摘しておきたい。

[関連記事]
代表選挙が孕む立憲民主党の正念場 ── 党首が長年同じ日本共産党の『一党独裁』と公明党の『政教一致』は変わらないのか 2021年11月19日


◎[参考動画]「立民 共産との共闘あり得ず」芳野連合会長(テレ東BIZ 2021年11月28日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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2021年回顧 ── 東京五輪2021から北京五輪2022へと受け継がれる強者の権益 「平和の祭典」とは、利権と政商のスポーツショーである 横山茂彦

東京オリンピックが招致された数年前から、反対運動は活発だった。本通信も開催反対の論陣を張ってきたが、オリンピックにかかる利権の深さを知るにつれて、何があっても開催が強行されることを確かめないわけにはいかなかった。

やむなく開催時には思いきって開き直り、酷暑のなか現地報告をしたものだ。

そこでは、あまり報じられなかった自衛隊の警備出動が、かなり過剰なものだったと判明した。追いかけ記事で、自衛隊の警備出動を報道したのは、「紙の爆弾」と「週刊金曜日」だけではなかったか。それはともかく、暑かった夏のメモリーを再読していただければと思う。

[関連記事]
《現地報告》猛暑の中で始まった呪われた東京オリンピック・パラリンピック[前編]スポーツを賛美しつつ、戒厳令的交通規制を見学してきた 2021年7月26日

《現地報告》猛暑の中で始まった呪われた東京オリンピック・パラリンピック[後編]警備費用こそが大会開催費の大部分ではないか 2021年7月27日
 
大きな成果もあった。ぼったくり男爵こと、バッハIOC会長のえげつない態度が、今回のオリンピックを通じて全世界に伝えられたことだ。これはオリンピックの将来に向けて、ひとつの指標になったのではないか。「平和の祭典」は利権と政商のスポーツショーである、と。


◎[参考動画]IOCバッハ会長「ガンバリマショウ」 五輪組織委を表敬訪問(2021年7月13日)


◎[参考動画]バッハ会長歓迎会に波紋 与党幹部「世論がおかしい」(2021年7月19日)

来年の北京オリンピックにむけて、ふたたびバッハ会長の振る舞いが問題視されている。何があっても、オリンピック開催という利権は失いたくない。もはや政商そのものというべきであろう。

すなわち、中国の女子テニスのトッププレーヤー・彭帥(ポン・シュアイ)選手の告白とされる文章がネット上に公開され、そのニュースが連日高い関心を集めている一件だ。

その内容は、「中国の前副首相から性的関係を強要された」というもので、選手の安否や北京オリンピック開催の是非、外交ボイコットをめぐる問題にも発展している。中国共産党の権力闘争と考えられる面もあるが、女性の「MeToo」であることに変わりはない。

激しい批判を前に、バッハ会長が中国当局を擁護するパフォーマンス(彭帥選手とのPC会談)を行なって、批判をかわそうとしたのである。

WTA(女子テニス協会)のスティーブ・サイモンCEOは、適切な調査が行われなければ、中国での大会の開催などを見送ることも辞さないという考えを示し、躊躇わずにそれを断行した。

もともとWTAは、大会賞金の男女格差是正を契機に立ち上げられた団体であり、女子選手の立場を護るのに積極的である。北京大会への影響(女子テニスが行なわれない)が注目されるところだ。

もしもこのまま紛糾して、女子テニスが大会からはずれるようなことがあれば、バッハはとんだピエロということになる。

さて、オリンピックが利権であり批判に値するとはいえ、スポーツそのものを否定するような批判の論調は少々危うい。身体を動かすことが健康を保つのは、狩猟・採取時代から濃厚時代に至っても、それが人類の本源的な行為であるからだ。

自動車が戦車や戦闘機の代替え行為である、という大戦後の消費スタイルとともに、スポーツも戦闘行為の代償として存在してきた。読売球団が「巨人軍」などという戦闘集団の名称を頂くのも、スポーツを戦闘と見做しているからにほかならないのだ。


◎[参考動画]「彭帥さん本人」IOCバッハ会長 別人の可能性否定(2021年12月10日)


◎[参考動画]CNN speaks to WTA chief on decision to pull tournaments from China(CNN 2021年12月2日)

◆国家的育成スポーツが、国民を疎外する

そこで、スポーツの祭典を否定するのではなく、将来の在り方を検討していかなければならない。そこで考えられるのは、近代オリンピックが、そもそも個人およびチーム単位での参加から始まった事実なのである。なるほど国家単位でしか資金は得られなかったし、国別対抗競技であるからこそ、オリンピックは戦争に代わる「戦闘行為」たりえている。

そして、国の代表になるためにはある意味で特別な資格、すなわち強化選手になる必要があるのだ。その強化選手になってこそ、育成が遅れていた日本でも味の素オリンピック強化センターなどの施設に入れるし、スポーツに専念できる育成費も支給される。海外派遣費も支給されるので、自前で海外に行く必要がなくなる。

問題なのは、このスポーツのエリート化である。かつて、ソ連および東欧諸国で行なわれていた、サイボーグ的な国家レベルでの強化策ばかりになってしまうと、国民はスポーツを観る人たち、選手は国家的プロジェクトで育成されたエリートということになる。エリートがいてはダメだ、と言うのではない。観る者と演じる者の断絶、スポーツの底辺が形成されない、国民のスポーツからの乖離がそこに発生するのである。


◎[参考動画]Tokyo 2020’ye hazır(Al Jazeera Turk 2016年8月22日)

[関連記事]
床屋政談的オリンピック改革論 ── 国単位ではなく、チーム・個人参加がよいのではないか? 2021年8月10日

それにしても振り返ってみれば、おびただしいオリンピック利権の数々である。利権に付きものの犠牲者(自殺者)も出ている。政商竹中平蔵、スポーツ界に君臨してきたドン・森喜朗、そして国民をコロナ禍に危機にさらした菅義偉。
オリンピックへの幻想が明白となった、2021年であった。

[関連記事]
嘉納治五郎財団の闇 犠牲者があばく収賄劇 ── 追い詰められた菅義偉の東京オリンピック 2021年6月15日 
東京五輪強行開催で引き起こされる事態 ── 国民の生命危機への責任が菅政権を襲う 2021年7月14日 
やはり竹中平蔵は『政商』である──東京五輪に寄生するパソナのトンデモ中抜き 2021年6月5日 
森喜朗=東京オリ・パラ大会組織委員会会長の辞任劇 何が問われていたのか 2021年2月13日 


◎[参考動画]滝川クリステルさんのプレゼンテーション IOC総会(ANNnewsCH 2013年9月8日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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《書評》選挙を徹底総括『紙の爆弾』1月号 ── 維新の会・躍進の秘密、野党共闘が勝つ方法、安倍晋三の終わり、公明党の危機とは? 横山茂彦

◆維新の会が躍進した「秘密」にせまる

年末ということもあり、総選挙を総括する記事が重なった。とくに維新の会の躍進をどう分析するか。

これはもっぱら、大阪に足のある評者にお願いしたいと思っていたところ、西谷文和の「維新一人勝ちの謎を解く」が掲載された。まさに時宜にかなった、しかも正鵠を得た内容だった。最新号のキャッチは「維新“一人勝ち”の謎を解く」である。

西谷文和は、総選挙全体の野党共闘の「敗北」の原因を、①1万票以内で競り負けた31選挙区、②立民枝野代表の「また裂き」、③自民党総裁選挙のメディア過剰、であるとする。これらは要点を得て、うなずけるものがある。

それ以上に、唸らされたのは維新の会の組織力の分析である。大阪府の過去2回の住民投票、19年の参院選挙の選挙結果。このふたつの投票率と得票数をもとに、維新の会が持っているのが140万票。および140万票を、70万票に二分する組織力が分析できる。その分析手法はあざやかで、一読にあたいする。

さらには、200におよぶ維新の地方議員のドブ板選挙。この記事で維新の会の躍進の「謎」「秘密」が解明するのである。お見事! 西谷文和は吹田市役所勤務経験のあるジャーナリストだ。

◆野党共闘が勝つ「方法」とは?

西谷文和は自・公・維新を倒す方法として、「5:3:2」の法則を挙げ、棄権5割のうち2割が投票行動をすれば、選挙には勝てるという。それを可能にするのは、野党共闘がさらに3%の得票率を獲得できるよう、ドブ板的な活動量、有権者にひびく言葉を投げかけることだと。

横田一も「野党共闘の成果と課題――岸田文雄『長老忖度政権』と闘う方法」において、東京8区の教訓を挙げている。周知のとおり、東京8区は野党候補が錯綜し、山本太郎(れいわ新選組代表)がいったん出馬を表明しながら撤回するという事態があった。

その後の山本のパフォーマンスが、吉田晴美候補の当選につながったと評価する。北海道4区、大阪10区では自民が最終段階でひっくり返し、ぎゃくに神奈川13区では野党共闘が甘利明自民党幹事長を敗北させた。れいわは5議席を獲得し、NHK出演の政党要件(5名)を満たしたのである。これら選挙パフォーマンスにおいて、立民党の枝野代表の動き、発信はいかにも緩慢であり、有権者に届かないものだった、と横田は批判する。けだし当然であろう。立民の新しい執行部が、山本太郎並みの発信力を身につけ、本気の野党共闘をつくり出すことが、勝つ「方法」の核心だとする。

◆安倍晋三に何が起こっているのか

山田厚俊は「大安倍派誕生も 自民党の変容と安倍晋三の終わり」として、安倍晋三が早期に引退するのではないかと指摘する。というのも、キングメーカーとして君臨するつもりだったが、急速に求心力が低下しているというのだ。安倍晋三に何が起こっているのか? その原因は、派閥のいびつな構造にあるという。

清和会(安部派)93名は、自民党の圧倒的多数はである。にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、一枚岩ではないのだ。福田閥、安倍晋太郎閥、小泉閥、晋三閥を抱えている。それゆえに、総裁候補を出しにくい構造にあり、それが自民党全体のなかでは派閥のバランスに配慮しなければならない主流派ゆえに、派閥内には不満が渦巻いているという。

そして、徐々にカタチを顕わしつつある「対安倍包囲網」。それは山口3区で衆院入りした林芳正の外相抜擢にあらわれていると、山田は指摘する。林が安倍を仇敵であり、外相抜擢が将来の総理候補であるからだ。

このあたりは、やや視点は違うが本通信の記事を参照して欲しい。安倍派の内部抗争に注目だ。

[関連記事]「安倍派の誕生 ── 息づく「院政」という伝統」2021年11月12日

◆公明党の危機とは?

大山友樹「『10万円給付』の裏に公明・創価の狙い」NEWSレスQが、葛飾区区議選での公明党議席減に、公明党の危機を指摘している。前々回(11議席)から3つの議席をうしなったことになる。公明党にとって、参院東京区と地方議員は絶対当選の要件である。得票率は700万票(09年は805万票)を切るか切らないかに低減している。大山が指摘するのは連立政権の中で、自民党抜きには選挙にも勝てなくなっている現実、そして自民党並みの腐敗。すなわち遠山清彦元代議士の「闇献金」問題によって、大波が押し寄せていることだ。

すこし横道に逸れるが、NEWSレスQには気になる情報が載っている。マリエの「枕営業」(相手は島田紳助)と日大理事藪本(被告)の愛人情報だ。このあたりのスキャンダルを、もっとワイドかつディープに取り組むジャーナリストはいないものか。

◆メディアの「選挙協力」

浅野健一は「『反共』『壊憲』扇動の大本営発表」として、朝日新聞をはじめとする記者クラブ、内閣記者会の問題点を指摘する。

立民党の代表選挙が、自民党総裁選挙よりも「知性・品格もはるかに優れていると感じた。経歴・党歴も様々で、今後、日本をこう変えたいという理念や情念がよく伝わった」(記者クラブ主催の討論会)にもかかわらず、「キシャクラブ」の報道は「共産党との共闘の今後」が争点になったと、勝手に報じたと批判する。

朝日「天声人語」の筆者を山中季広論説委員と特定して、そのバランスを欠いた書き飛ばしを批判する。その歯に衣着せぬ批判は、いつもながら痛快である。問題なのは「岸田演説に日当五千円動員」(茨城6区、国光文乃議員選挙)である。告発のゆくえが注目される。

◆選挙制度の欠陥

「権力の腐敗はなぜチェックされないのか――総選挙と西東京市長選に見る選挙制度の悪用」(青木泰)は、虚偽事項を満載した怪文書が「法定ビラ」として大量に撒かれた事件のその後である。東京高裁は違法性(公選法違反)を指摘しつつ、当選無効の判断はしなかった。現在の司法には無理であろう。

青木は今回の総選挙で、森友事件を追及してきた立民の川内博史(鹿児島1区)、辻元清美(大阪10区)、今井雅人(岐阜4区)、黒岩宇洋(新潟3区)らが、ことごとく落選した背景に、自民党が長期間をかけて落選させる準備をしてきたと指摘する。だとすれば、自民党の周到な計画がどのようなものなのか。そんなレポートを期待したい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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2021年回顧【政治編2】小池劇場の衝撃とその挫折 横山茂彦

パンデミックが始まっていらい、彼女の刻苦奮闘は国民の中にある種の感動を呼んでいた。毎日欠かさず、新たなキャッチ(標語)を考案しつつ、ていねいに都民へのお願いをする。

暗い表情の宰相がつっけんどんに、いかにも素っ気ない「安全、安心」をくり返すのとは好対照であった。

だがそのいっぽうでは、その政治的な野心が、やや強権的な処断によって警戒され、批判も浴びてきた。


◎[参考動画]東京 過去最多5773人感染発表、小池知事「私たちの意思で・・・」(TBS 2021年8月13日放送)

◆都の女帝が仕掛けたこと

思い起こしてみれば、彼女が都知事に転じようとしたとき、自民党のボスたちはまことに古い手法でそれを妨害したのだった。そのいかにも陰険な方法(応援した者を処分する)が、思想信条をこえて女性政治家の健気さにシンパシーを集めた。2016年の小池百合子都知事誕生とは、まさに政治が劇場と化すのをまざまざと見せつけたのである。


◎[参考動画]小池百合子氏が当選 初の女性都知事に」(ANN 2016年7月31日放送)

2017年の「希望の党」の頓挫もまた、劇場的な転落として印象に深い。彼女自身の「排除の論理」で、政権交代の千載一遇の機会は失われたのだった。浮動票のいかに敏感なことか。同情すべき女から、イッキに嫌な女に転落したのだ。彼女に同伴した「民進党のプリンス」は、いまや自民党の同伴者となり果てた。

だがしかし、2020年の都知事選挙に、史上2番目の得票数となる366万1371票で再選。希望の党の崩壊にもかかわらず、自身は国政政権と対等な政治的ポジションを維持したのだった。


◎[参考動画]東京都知事選 小池百合子氏再選 投票率は前回下回る(FNN 2020年7月6日)

はたして、第3の劇場が幕をあけるとは、誰も予想しえなかっただろう。わずかに、都議会選挙直前の「入院」がどう作用するのか。おそらく選挙の帰趨は、その一点だった。くり返すが、どのメディアも都民ファーストの大敗を予想していた。

※[関連記事]「小池都知事「入院」の真相と7月4日都議会選挙・混沌の行方」(2021年6月28日) 

◆悲運のヒロインにはならなかった

しかし、結果は戦前の予想をくつがえす、都民ファーストの善戦だった。自民党は2016年の大敗を回復できずに、小池都政は安泰となったのである。それもほんの「一日」のことだった。彼女は最後の一日に出てきたのだ。病院から――。

わずか一日、10カ所あまりの選挙現場を支援しただけで、大敗をまぬがれたばかりか、神がかり的な選挙での強さを再現してみせたのだ。おそるべし、小池百合子、である。

おそらく彼女の「健在」を確かめたのは、12カ所の応援で数百人にも満たなかったであろう。しかしメディアでそれを知ったのは、数百万におよぶであろう。メディア選挙を十分に意識した「入院」→「退院」「選挙応援」→「浮動票の獲得」だったのだ。

2017年の快挙いらい、あまりにも良すぎる政治的なタイミングの見計らい。自民党およびメディアは驚嘆した。都民と国民は、留飲を下げたのではないか。


◎[参考動画]東京都議選 僅差で自民党が第1党に(ANN 2021年7月5日放送)

※[関連記事]「《速報》2021年都議会選挙 都民ファーストの善戦、自民党の復活は不十分に」(2021年7月5日)

※[関連記事]「この秋、政権交代は起きるのか? ── 『紙の爆弾』最新号を参考に、都議選後の政局を俯瞰する」(2021年7月8日) 

かくして、菅政権は風前のともし火となった。

コロナ禍のもとのオリンピック開催という、およそ常軌を逸した既定方針の踏襲。ただひとつオリンピックだけが、他のイベントに優先されるという政治的な決断は、国民に「オリンピック不信」を植え付けた。

IOC会長トーマス・バッハ(Baron Von Ripper-off=ぼったくり男爵)への嫌悪感とともに、国民は菅政権への忌避を隠さなかった。そこで浮上してきたのが、福田康夫政権時いらいの、ひそかな「大連立構想」だった。政権を失いたくない自民党にとって、それは緊急避難にちかい選択肢であっただろう。

※[関連記事]「五輪強行開催後に始まる「ポスト菅」政局 ── 二階俊博が仕掛ける大連立政権」(2021年7月21日) 

さらに菅義偉の自身の地元である、横浜での市長選挙の敗北。これで命脈は尽きていた。もうボロボロである。二階が仕掛けようとした保守大連立は、小池の国政復帰を見越してのことだった。

※[関連記事]「【速報】横浜市長選挙 野党候補が勝つ! 菅総理の命脈が尽きた日」(2021年8月23日)

※[関連記事]「岸田内閣の二階派排除と衆院選の波乱 小池新党は第三極になれるか」(2021年10月6日)

だが政局がいったん無風となった夏季に、小池百合子および都民ファーストは何も準備できなかった。地域政党「都民ファーストの会」の荒木千陽代表が10月3日に都内で会見し、国政新党「ファーストの会」を設立すると発表したものの、ついに彼女らの出馬はなかった。

◆とん挫した政治構想

総選挙後のこと、「やっぱり、我々も候補者を立てていれば……」都民ファーストの会の関係者は悔しげな表情でそう漏らしたという。いうまでもなく、衆院選で日本維新の会が議席を4倍近くに増やした勢いを、肌で感じたからにほかならない。それどころか、都民ファーストは身動きをとれないほどの問題を抱え込んでいた。木下富美子都議(当時)の問題である。

木下元都議は7月の都議選中に無免許運転で当て逃げ事故を起こし、書類送検されていた。2度にわたる都議会の辞職勧告からも、逃げ続けるという醜態を晒している。9日に都議会に現れ説明を求められたが、事実上のゼロ回答だった。この問題児の「生みの親」こそ、ほかならぬ小池知事だったのだ。

「小池さんの環境相時代、木下さんは広告代理店社員として小池さん肝いりの『クールビズ』のキャンペーンを手掛けました。いらい関係性を深め、2017年の都議選で都ファ候補に抜擢。小池知事の『お気に入り』だからこそ都議になれたのです」(広告業界関係者)。
好事魔多しという言葉を、これほど体現する政治家も少ないであろう。政治的な絶頂期に、わずかな言葉づかいで党は失墜し、身内の不祥事で政治構想がとん挫したのである。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
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2021年回顧【政治編1】はじめからボロボロだった菅政権を振り返る 横山茂彦

2021年の年初は、1日あたり数千人の新型コロナ感染者を出した。後手に回った政府の緊急事態宣言をうながすために、小池東京都知事の動きから始まったのは記憶に新しい。そして感染症下の政治は、従来からの政治のあり方を変えた。

すなわち、生活の外にあると思われていた政治が直接、国民諸個人に向かい合うことになったのである。それはコロナ禍を媒介に、「生政治(せいせいじ Bio-politics)=M・フーコー」として立ち顕われてきたのだといえよう。

政治が国民の生命を左右し、それゆえにかぎりなく身近なものになったのである。


◎[参考動画]小池知事 政府に“緊急事態宣言”要請へ(日テレNEWS 2021年1月2日)

◆自公時代の終わりを思わせた上半期の政治情勢

その結果、上半期の菅自民党政権にたいする批判は厳しいものになった。

北九州市議選挙、山形県知事選挙、千葉県知事選挙で自民党が敗北し、4月25日に行なわれた衆議院北海道第2区、参議院長野県選挙区、同広島県選挙区(広島は再選挙)は、いずれも野党共闘の勝利に終わった。

そして都議選挙はおおかたの予測をくつがえし、都民ファーストの善戦、自民党の復活ならずという結果に終わった。

その流れはオリンピック後の8月に行なわれた横浜市長選挙(立民の推薦候補が圧勝)までつづき、菅義偉総理の「選挙の顔」としてのショボさが、決定的に数字で顕われたのだった。


◎[参考動画]自民党「菅首相では戦えない」 横浜市長選 惨敗で(FNN 2021年8月23日)

※[関連記事]「選挙0勝4敗の菅自民党 政権交代の危機に、菅おろしが始まるぞ」(2021年4月26日)
※[関連記事]「先走って頓死か、引き延ばしてジリ貧解散か? 解散に踏み切れない自民党」(2021年4月5日) 

思い起こしてみれば、日本学術会議の任用問題で、政治と学問の独自性を理解できず、世論の猛批判をあびた菅政権は、その出発点から菅義偉個人の政治家としての資質に疑いが生じるものだった。

菅政権の成果といえるものがあるとすれば、携帯電話の料金低減ぐらいではないか。デジタル化も国民マイナンバーも、いまだ掛け声にすぎない。いやむしろ、日本がアナログ的な非効率で健全な社会であることを立証している。

無理撃ちで、内容がよくわからない「安全・安心なオリンピック」強行も、国民の分断を顕わにするものだった。

さて、人間は歳を重ねるごとに、自分の振る舞いばかりか顔にも責任を持たなければならないという。古い言葉では「男子たるもの、30になったら顔に責任を持て」などという。

けっして、生まれついての容貌を言っているのではない。いやしくも政治家たるもの、一国を導くにふさわしいパフォーマンスが必要なのだ。そこであえて、ルッキズムに踏み込まざるをえなかったものだ。


◎[参考動画]菅首相「安全安心な大会」呼びかけ 五輪開幕まであと3日(TBS 2021年7月20日)

◆政治家の風貌ではなかった菅義偉

背が低い、髪が薄い、印象が地味。などというネガティブな要素も、たとえば麻生太郎はそれを感じさせない堂々たるふてぶてしさを持っているではないか。安倍晋三は植毛とヘアマニュキアで、豊かな黒髪を見せつけているではないか。

少なくとも、菅義偉のあの死んだような目、見る人を暗くするような表情のなさ、そして自信のない者にかぎってする、内容のない激昂。たんなる美醜ではない、いずれも一国の宰相にふさわしいものではなかった。政治家らしいパフォーマンスがないのである。

それもあってか、強権的なふるまいが目立った。自分の力量に自信のない者、その責任ある立場に慣れていない者にありがちな、無法と強権である。

※[関連記事]「無法と強権の末期政権 ── 菅義偉という政治家は、もはや憐れむべき惨状なのではないか」(2021年7月16日)

このあまりにもトホホな総理の存在ゆえに、春の段階では、もはや政権交代の可能性が云々されるまでになっていた。

小沢一郎と山本太郎の動きに、その現実性が高まっていた。その意味では、安倍が菅に政権を譲った(総裁選はあったが、派閥論理で終始した)段階で、自民党も政権を奪われる可能性を感じていたにちがいない。

もはや、コロナ禍にあえて宰相となった立場に、同情すら感じられたものだ。政権批判者に「憐憫」を語らせるほど、菅政権は地に堕ちていたといえよう。

※[関連記事]「三度目の政権交代はあるのか? 小沢一郎と山本太郎の動向にみる菅政権の危機」(2021年3月9日)

わが『紙の爆弾』も政権交代の可能性を展望していた。しかるに、メディア露出戦略で、いわば政策と国民向け発信の主導権をにぎっていた小池百合子都知事への、雪崩をうった批判が生じてきた。

小池百合子を批判したのが悪いのではない。並みいる評者たちが批判の矛先を誤るほど、選挙情勢と政局は混とんとしていたのである。

※[関連記事]「《書評》『紙の爆弾』4月号 政権交代へ 山は動くのか?」(2021年3月14日)

そして政治が筋書きの見えない劇場であることを国民が知るのは、都議会選挙を待たなければならなかった。けっして筋書きがないのではない。見えないだけなのである。(つづく)

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7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年1月号!

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈4〉7.6事件の謎(ミステリー)──求められる全容の解明 横山茂彦

◆7.6事件 ブントの分裂

7.6事件といっても、一般の方には何のことなのか、ほとんどわからないであろう。新左翼の一派(第二次共産主義者同盟)の分裂騒動にすぎないのだが、のちの赤軍派および連合赤軍事件、日本赤軍の原点がここにあるといえば、その影響力の大きさが計り知れるかもしれない。

ブント(共産主義者同盟)の分裂という意味では、日本の学生運動のみならず、社会運動全体の混乱がここに発生し、集約されているのだともいえる。

なぜならば、死者100人以上を殺した内ゲバの中核派や革マル派も、その指導部の多くがブント(第一次共産主義者同盟)の出身であり、その他の新左翼党派も安保ブント、二次ブントに大きな影響を受けているからだ。

尊大な言いかただが、日本階級闘争の混乱は、ブントの混乱なのである。などと、70年代のブント系の活動家たちは云いなしたものだ。逆にいえば、その責任は大きいものがある。

そのブントの末裔の一員であり、7.6事件の舞台となった明大の出身者であるわたしに、7.6事件の謎解きの入り口までご案内させていただきたい。社会運動史研究である以上に、それがミステリーの世界であるからだ。

望月さんの死を伝える当時の新聞記事

◆記憶の迷宮

7.6事件は、今日もその全容が不明瞭な「謎の事件」である。

昨年の『一九七〇 端境期の時代』に掲載された「7.6事件に思うこと」(中島慎介)について、重信房子さんが書評をリベラシオン社のサイトに寄稿し、中島さんの「記憶違い」を指摘した。今回はそれへの反論となっている。※重信さんの当該の書評も収録されている。

その要点は、重信さんが7.6まで中島氏と面識がなかったこと。したがって、現場で言葉を交わすはずがない。この事件後に望月上史さんが中大に拉致された時間帯の違い、あるいは事件後に重信さんが京都に行ったとき、遠山美枝子さんを同道していたかどうか。重信さんと中島氏の主張(記憶)は大きく食い違っている。

重信さんも中島さんも、意図的に嘘をつくような人物ではない。どこかで記憶違いが生じたのであろう。

 
掲載されなかった『追想にあらず』

そればかりでない。中島慎介さんは、旧赤軍派の人たちが一昨年に発行した本に寄稿しようとしたところ、編集サイドが彼の原稿を「ズタズタにしたり、削除した」というのである。これも事件の事実関係をめぐってであろう。

謎はまず、事件が起きた時間帯である。

当時の新聞によると、赤軍派フラクがブントの会議が行なわれる明大和泉校舎に殴り込みをかけた(衝突)のは、9時25分頃で、その後二度目の衝突が1時間後に起きた、とされている。

対する中島氏の主張は、深夜に偵察行動をおこない、6時頃に侵入したというものだ。この時間差が「誰の創作か分かりませんが、警察か『7.2ブント通達』を発行したグループではないか」と、中島氏は指摘するのだ。

※9時半ごろといえば、明大和泉校舎を撤収した赤軍派フラクが、御茶ノ水の東京医科歯科大で中大ブントの逆襲をうけ、主要部隊が拉致されている時間帯である。この衝突を、記者が誤認して書いた可能性があるかもしれない。

そしてここが重要なのだが、そもそも赤軍派フラクの明大侵入は、自分たちを除名するかもしれない会議を開かせないように、明大学館を内側からバリケード封鎖するというものだったのだ(中島氏)。それが仏議長をはじめとする中間左派へのリンチ事件になってしまった。これは果たして偶発的なものか、何者かが意図したものか。

いっぽう、赤軍派の公式記録ともいえる2冊の本『赤軍派始末記』(塩見孝也)『世界革命戦争への飛翔』(共産主義者同盟赤軍派編)は、2時頃の明大和泉校舎侵入である。

中島氏は「この『四時間の空白』が、その後、赤軍派を含めたブント内各派の“秘め事”を生み出している」「研究中でもあります」と云う。なぜ事実関係がいい加減なのか、隠されていることがあるとすれば何なのか? 事件はミステリー、それも陰謀的な謎に覆われているかのようだ。

『毎日新聞』1969年7月7日朝刊

◆指は潰されていたのか?

論点となった「謎」はもうひとつある。

『遥かなる一九七〇年代──京都』において、松岡利康編集長が7.6事件(新左翼最初の内ゲバによる死者)に触れたところ、中大ブントを「代表する」神津陽さんらによって「リンチはなかった」「指は潰していない」という批判が起きた。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に掲載された「死者を出した『7.6事件』は内ゲバではないのか?『7.6事件』考」をもって、鹿砦社編集部のこの謎にたいする検証が始まったのである。

監禁された中大本館(法学部)4階からの転落事故が原因で、亡くなった望月上史さんをはじめ、赤軍派の4人は本当に「指を潰されていた」のか。

この「指を潰された」は通説となっていたが、中島氏によれば塩見さんが「生爪を剥がされていた」ということになる。上記のごとく、中大派(叛旗派)は、「リンチはなかった」という立場である。

塩見さんの『赤軍派始末記』によれば、中大の地下室で素っ裸にされて殴られた。とあるので、リンチ(暴行)はあったのだろう。そもそも、暴行抜きで拉致・監禁できるはずがない。

指を痛めつけられていた、というのは殴り合いではよく起きるものだ。相手を殴るだけで拳を痛めるので、単3電池を握れとか、50円玉(エッヂが丸っこい)を握って、しっかりした拳で殴れ、などとゲバルトの時にはよく「指導」されたものだ。

『聞書き〈ブント〉一代 』(石井英禧・市田良彦)には、赤軍派フラクを拉致したのは、情況派系の医学連指導部だったとある。ここでも「指を潰す」ようなリンチはなかった、という証言である。

※中島氏は『情況』2008年6月号(130~131頁)に「指を潰した」とある、としているが、神津陽さんの当該の文章は、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』に描かれた指を潰すエピソードが「嘘である」との批判なのである。ここは明らかに中島氏の誤読である。しかし、塩見さんの生爪が「回復は順調のようで、薄いけど新しいツメが生えて来ていました」(中島氏『端境期』)と現認しているので、こちらも説得力がある。真実はどっちなのだろう。

 
1969年9・5全国全共闘結成集会にてブント連合派とゲバルト

◆事件をめぐる暗い影

さて、今回『世界革命戦争への飛翔』が部分的に再録されたので、気づいたことがある。4.28(沖縄デー)から6.9のアスパック闘争の過程で、赤軍派フラクが形成されたわけだが、とくに右派からの「リンチ事件」があったという記述に注目しておきたい。

二次ブントは統一ブントとも呼ばれ、統一した集会の後のデモ出発では、党内各派が竹竿でゲバルトをするという、連合党だったのである。7個師団とも呼ばれたものだ。それぞれが地区委員会ごとに機関紙を出し、フラクションとして活動していた。党内派閥や党内党が、公然と存在していたのである。まるでかつての自民党みたいだ(笑)。

●最左派  赤軍派フラク(京大・同志社)
●左派   関西地方委員会(烽火編集委員会)
●中間左派 神奈川・東京南部・専修大(鉄の戦線編集委員会)
●中間右派 戦旗編集部・主流派(早大・明大・北海道・九州)
●右派   叛旗派(中大・三多摩地区)・情況派(明大)

したがって赤軍派フラクからの7.6事件までの経緯は、いわば反右派闘争(ブントの党内闘争)なのである。分派闘争になったのは、その後のブント中央委員会での赤軍フラク除名決議によるものだ。8回大会(68年12月)で主導権を握れなかった関西派が、69年4月以降党内闘争に打って出たのが、7.6事件の全体的な位置づけといえよう。

だが、その前後には、じつに奇怪な事件が起きている。

 
赤軍派結成後の政治集会

6月末に赤軍フラクの藤本敏夫(加藤登紀子と獄中結婚)が何者かに拉致され、数日間行方不明だったのだ。この事件は藤本さんが何も語らなかったことから、いまも「謎の失踪」とされている。おなじく赤軍派フラクの森恒夫(のちに連合赤軍の委員長)が、6月末にテロられているという(大阪市大の西浦隆雄氏の証言)。

定説では森恒夫(故人)が7.6前に赤軍派フラクから脱落し、負い目を感じていた事件であるとされている。花園紀男(早稲田の赤軍派)の証言では、森が「黒ヘルに追いかけられたので」ブントの集会に参加できなかった、と言い訳をしたが、ありえないとしている(『連合赤軍とオウム』)。だが、この「ありえない」は推論にすぎないであろう。藤本と森を襲ったのは何者なのか?

「当日の技術的・軍事的作業を遂行した人物が、一度も表面に出ることなく、消えてしまった」(中島氏)のは、なぜか?

神田氏が中島氏に語った「同日・同時刻・同じ場所で」「もうひとつの7.6事件」があったこと。そして「聞かなかったことにしてください」という言葉が気になる。何としても当事者たちによる、全容の解明が必要である。(おわり)

赤軍派結成直後の大弾圧、1969年11・5大菩薩峠事件

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈3〉連合赤軍と内ゲバを生んだ「党派至上主義」 横山茂彦

◆重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」

『抵抗と絶望の狭間』には、重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」が収録されている。書下ろしの力作である。

手紙のあてさきの遠山美枝子さんは、連合赤軍事件で亡くなられた女性活動家で、重信さんの明治大学での親友でもあった。いい文章だと思う。わたしは明るく華やかな、そして内省のある重信さんの文体が好きだ。今回の文章にもその一端はあるものの、やはり哀しみをもって読むしかない。

 
日活花の十代3人娘(別冊『近代映画』1964年6月上旬号)

あまり知られていないことだが、当時の明大の二部文学部には女優の松原智恵子さんが在籍していて、やはり学生運動に参加していた。

その松原智恵子は、吉永小百合、和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、中でもブロマイドの売り上げは1位だったという。明治大学では重信房子、遠山美枝子とあわせて「明大ブント三人娘」ということになるが、ビラの受け取りも断トツだったという(重信さんの友人談)。学生運動に参加していたのは、おそらく西郷輝彦と交際していた時期とかさなる。

亡くなった人はどこか美化されるもので、遠山美枝子も美人活動家だったと言われている。一般に流布しているのは、バセドー氏病が持病の永田洋子に責め殺されたというイメージがつよい。それも山に指輪(夫のT氏からではなく、母親から渡されたもので、困ったときはそれをおカネに替えて帰宅できるように着けていた)をしてきたことを批判されたことで、美人だから殺されたという印象になっているのではないか。

じっさいには「素敵な女性だったけど、重信房子の引き立て役みたいなものだった」というのが、加藤登紀子事務所の女性秘書の個人的な感想だ。今回、彼女の学生時代の写真(一般にネットで拾えるものは、警察の逮捕写真)を見て、素敵な女性という印象がえられた。

◆共産同赤軍派と日本共産党革命左派

さて、その連合赤軍である。今年で結成から50年となる。結論的な部分から、簡単に解説しておこう。まずは赤軍派である。本書の副読本として予習的に読んでいただければ幸いである。

69年7月6日の明大和泉校舎で起きたブント(共産主義者同盟)の党内クーデターによって、赤軍フラクは中央委員会で除名処分を受けた。※この7.6事件については、書評(その4)で詳しく触れることにしたい。

除名されて共産同の分派となった赤軍派は、秋の大阪戦争・東京戦争の不発後、公安当局の猛烈な弾圧をうける。そこで、国際根拠地論(政治亡命)が検討されるいっぽう、本格的な武装闘争(爆弾闘争)に着手する。幹部の一部が70年3月に日航機(よど号)をハイジャックして北朝鮮に、その他の幹部もあいついで逮捕される。そして71年2月に、重信房子がアラブへ飛ぶ。

じつはこれも、あまり知られていないことだが、赤軍派の国際根拠地はキューバへの渡航、およびアメリカでブラックパンサーなどの左翼と合流して、世界革命戦争を「攻撃的につくり出す」ことだった。じっさいキューバには、ボランティアをふくむ多くの学生が渡っている(のちに強制送還)。元赤軍フラクの藤本敏夫が関与していたキューバ協会がその窓口だった。

主要な活動家が海外に出て、獄中に捕らわれるか指名手配となった赤軍派は、日共革命左派(京浜安保共闘)と接触するようになる。そのとき、赤軍派の指導者は森恒夫、革命左派の指導者は永田洋子となっていた。二人とも、組織の指導経験はきわめて浅い。

革命左派は、ブントML派とマル戦派の元幹部がつくった「警鐘」グループが、日本共産党左派神奈川県委員会(毛沢東派)と合同し、その後分裂した組織である。革命左派は70年12月に交番を襲撃し、一名が射殺されている。その後、銃砲店に押し入って猟銃を強奪する(71年2月)。

いっぽう、赤軍派は複数の銀行強盗によって、多額の資金を獲得していた。銃を手に入れた革命左派、資金を手にした赤軍派は、相互の利害から武装闘争という一点で、結びつきを強めることになるのだ。

そして革命左派が、山岳ベースからの脱落者2名を処刑する。これもあまり知られていないことだが、それ以前に革命左派は内部の論争からスパイではないかとされる女性労働者(実際にはスパイではなかった)の処刑を検討していた。脱落者2名の処刑は、ある意味で必然的な成りゆきだったのだ。

いっぽう、赤軍派はM作戦の部隊に帯同していた女性シンパの処刑を決定したものの、成し遂げないまま組織から追放するにとどまっていた。この時点では指導者の森恒夫は、女性シンパを殺さなかったことにホッとし、革命左派の処刑に憤っていた。だが、それが彼の負い目となるのだ。

◆山岳ベース事件

ほぼ全員が指名手配され、山岳を拠点にするしかなくなった赤軍派と革命左派は、獄中指導部の反対を押し切って組織合同をはかる。ここに赤軍派の爆弾と資金、革命左派の銃が結びついた。連合赤軍の結成である。

山を拠点に武装訓練をかさね、爆弾闘争では果たせない「敵を銃でせん滅する」戦いをめざす。

だが、その訓練の過程で「兵士と銃の高次な結合」すなわち「共産主義化」が課題とされた。その方法は、自分の活動を総括(反省)し、共産主義の兵士へと高めるというものだった。しかし総括は告白(告解)であり、総括が成しとげられる規準は、指導者の森恒夫と永田洋子による恣意的なものにすぎないのだ。

ある者は総括の態度を批判され、ささいな過去の瑕疵を「総括できていない」と批判された。そして「総括を支援」する暴力が行使される。

もちろん疑問を抱く者もいた。
「こんなことをやってもいいのか?」(植垣康博)
「党建設のためだ。しかたがないだろう」(坂東国男)
この党建設、軍建設という呪縛が、連合赤軍を奈落へと導くのだ。

リンチのすえに、酷寒のなかで食事を与えられず、餓死もしくは凍死した者は「敗北死」とされた。殺人ではなく「総括できずに敗北した」と、政治的に評価された。かくして、12名の同志が山中で殺されたのである。その後の銃撃戦(あさま山荘事件)は国民の注目を集め、平均視聴率50%(最大90%)を記録した。銃撃戦によって、警官に2名の殉職者、民間人1名が犠牲となった。

毎日新聞(1972年2月28日夕刊)

 

毎日新聞(1972年3月10日夕刊)

◆長崎浩さんの視点──左翼反対派からの脱却

この連合赤軍問題を、ふたつの論攷から読み解いていこう。

「『何が何だかわからないうちに(小熊英二)』彼ら全員を追い立てていたものがあった。私はここであえて連合赤軍と事件の政治的な過去物語を提示しておきたい。彼らの上に跳梁していたのは党という観念であった」

連合赤軍を呪縛したものが「党」であると、「連合赤軍事件──何が何だか分からないうちに」で長崎浩さんは云う。

まずは、長崎さんの妖艶なともいうべき文体を愉しみながら、政治的論理の山脈に分け入るのがよい。

上記の「過去物語」とは、共産主義者同盟(再建準備委員会=情況派)の自己批判にまつわることである。その自己批判とは「連合赤軍派事件に対する共産主義者同盟の自己批判──暴力・党・粛清について」(ローテ第14号)なのだ。当時、ブント右派とされた情況派が、その機関紙上で連合赤軍事件を「自己批判」したのだ。これが「党の態度」なのであろうか。

その要旨は、大衆の暴力に依拠する事業である革命を、連合赤軍は武器と兵士の問題に矮小化した。党と革命を二重写し(混同)する組織論・革命論の伝統が、リンチ(共産党・革マル派・連合赤軍)をもたらした。というものだ。

唯銃主義・党共同体主義と批判された論調の、きわめてラディカルなものであろう。そして新左翼運動の終焉を告げるものでもあったとする。ほどなく、長崎浩とその同志たちは、ブントを解消して地方党へと越境する(「遠方から」)。

私党論をベースにした長崎さんの党概念は、初めて読む人には難解かもしれないので、簡単に解説しておこう。

新左翼(ブント)は、共産党と社民にたいする左翼反対派であるとともに、大衆運動の担い手であった。この左翼反対派とは、社共に代わる革命党建設である。いっぽう、大衆運動の担い手としてのブントは、組織建設に拘泥しない。いわば大衆運動がすべて、ということになる。このブントの伝統が掘り崩された(大衆を裏切った)以上、新左翼は終焉しなければならないというのである。

いっぽう、社共に対する左翼反対派だった新左翼が、唯一の党として立ち現れてくるのが70・71年だった。内ゲバの時代の始まりである。長崎さん流にいえば、多重の左翼反対派の「革命の独占と孤独」である。いまなお革命(批評)家である長崎さんは、その出口をもしめしている。

「左翼反対派の革命の独占と孤独とを、叛乱の大衆政治同盟の同志たちを媒介にして、叛乱へと解放しなければならない」この「大衆政治同盟」とは、任意の固有の党であり、「同志たち」とは大衆のことである。フロイトの『文化への不満』からの引用(連赤事件への適用)がじつに秀逸なのだが、本書を買ってからのお楽しみにしてください。

◆党至上主義と批判の自由

「破防法から五十年、いま、思うこと」の松尾眞さんは、わたしが大学に入った当時の中核派の全学連委員長である。

すでに全共闘世代としてベテランの活動家で、71年の沖縄決戦で「機動隊の命はあと三日!」と劇画的なアジテーションをして、破防法で逮捕されたのは有名な話だ。当時の風貌は黒縁メガネに端正な顔で、いまの白井聡さんによく似ていた。白井さんと初めて会ったとき、おっ、松尾眞さん。と思ったものだ。

とにかくアジテーションがうまくて、全学連委員長の座を堀内日出光さんに譲ったあとは、北小路敏さんに代わって、革共同代表として演説をすることが多かった。破防法で下獄の後、学究活動に入られ、大学教員をへて現在は地方議員である。

ちなみに、当時の革マル派全学連委員長は長谷さんという東大の方で、こちらも指導者としては迫力があった。京大同学会の委員長が市田良彦(神戸大教授)、浅田彰(ニューアカの先駆者)と、優秀な人たちが学生運動の指導部にいた時代である。

さてその松尾さんが、自分の経歴と共に「党組織至上性」を、内ゲバが発生する問題点として抽出されている。もともと無党派の活動家で、京大全共闘の指導部になっていたことは、森毅さんの『ボクの京大物語』で知っていたが、中核派にオルグされる経緯は意外だった。一本釣りなのである。

その松尾さんが、獄中で何を考え、どういう契機から学究活動に入られたのかは知らない。京都精華大学の人文修士課程の論文は「非権力志向連帯社会」だったという。

山村暮らしから得られたエコロジーと地域復興へのこころみ。そして議員活動をつうじて痛感した、批判の自由・言論の自由。じつに面白く読んだ。

関西の革共同の分派のひとたちが、レーニン主義(本多延嘉さん=中核派書記長)の路線から決別したという。ブント系では荒岱介さんの系譜の組織が、ネットワークとして存続しつつも、事実上の党派解散をしている。党に代わる何ものかの組織形態を、発見する世紀に入っているのだといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

いよいよ29日(月曜日)発売!

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687