《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈2〉SM小説とポルノ映画の淵源 横山茂彦

『抵抗と絶望の狭間』(鹿砦社)の書評の第二弾である。

71年は学園闘争の残り火、爆弾闘争の季節であると同時に、東映と日活がポルノ路線へと舵を切った年でもあった。

高部務さんの「一九七一年 新宿」(作家・ノンフィクションライター。著書に『馬鹿な奴ら──ベトナム戦争と新宿』)によれば、東映が7月に『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)でピンク映画へ路線転換した。主演女優は、のちに東映スケバン映画で一世を風靡する池玲子である。

それから四カ月遅れて、日活がロマンポルノ路線をスタートさせる。第一弾は『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)と『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)である。

左から『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、主演女優池玲子)、『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)、『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)

高部さんの記事には、70年代のピンク映画、ポルノ映画の裏舞台があますところなく紹介されている。

爾来、ポルノ映画はレンタルのアダルトビデオが普及する80年代初期まで、エロス文化の王道として君臨したものだ。やはり71年は戦後文化の転換点だったといえるのだろう。

わたしの記憶では、『イージー・ライダー』の日本公開が70年で、その洋画ブームの時期にスクリーンでバストの露出がOKになったと思う。ついでフランス製の性風俗ドキュメント映画『パリエロチカNo.1』の公開があって、思春期のわれわれはフランスのエロスに驚いたものだ。そして海外ポルノの浸食。

その意味では海外作品によって、71年のポルノ路線は道がひらけていたというべきであろう。68年公開の『卒業』(ダスティン・ホフマン主演)では、アン・バンクロフト(恋人の母親)の色っぽいシーンがコラージュのようになっていたものだ。

引用したのはDVDのパッケージだが、映画館のポスターや看板(手描き)はバスト露出がなく、公序良俗が守られていたようだ。

◆SM小説の黎明

板坂剛さんの「一九七一年の転換」によれば、三島由紀夫が団鬼六の『花と蛇』を絶賛したという。覆面作家沼昭三の『家畜人ヤプー』を激賞した三島なら、当然の評価であろう。羞恥と悦楽に苦悶する美女、緊縛という肉刑は三島にとってど真ん中の素材であっただろう。

 
団鬼六『花と蛇』(主演女優谷ナオミ)

その団鬼六は教員時代に、63年ごろからSM小説を書きはじめ、70年には芳賀書店から『天保女草紙耽美館』を、71年には同じく芳賀書店から『団鬼六SM映画作品集 1-2 耽美館』を出版している。ちなみに芳賀書店は、小山弘健やいいだもも、滝田修ら新左翼系の書籍を出版していた版元で、新左翼とエロスの親和性の高さを、何となく反映しているような気がする。

したがって団鬼六は、もう71年には谷ナオミ主演映画の原作者として、確固たる地位を占めていたことになる。じつは谷ナオミのデビュー前から、彼女を買っていたという。

その谷ナオミと吉永小百合を、板坂さんは「この時代の二大女優」だと評している。わたしもそれには賛成だ。ちなみに、谷ナオミの芸名は、谷崎潤一郎の「谷」と彼の作品『痴人の愛』のヒロイン「ナオミ」との組み合わせとされる。いかにも60・70年代らしい、文芸エロスである。

板坂さんによれば、全共闘世代の大半がサユリスト(吉永小百合ファン)だったという。三島は『潮騒』に出演した吉永小百合を「清純なピチピチした生活美の発見」と評し、戦前の薄幸な肺病型の美人との対比を強調している(本文での引用)。ここに板坂さんは「一九七一年の転換」をみるのだが、非常に興味深いのは、吉永小百合と谷ナオミの類似点である。それは女優としては陽と陰でありながら、純真無垢な目つき顔つきだという。

 
吉永小百合

なるほど、吉永小百合の清廉な健康美にたいして、谷ナオミは大きな乳房に象徴される肉体美であろう。そして純真無垢というのはおそらく「穢される美」なのではないだろうか。

吉永小百合を穢すものは、スクリーンに描かれる社会的かつ日常生活の困難であり、谷ナオミを穢すのはサディズムとマゾヒズムの凌辱である。

とくに谷ナオミの場合、高貴な財閥夫人が凌辱される被虐の美は、いかにも戦後的なロマンだが、そこに若々しい戦後日本の欲望と活力を見ることができる。ハードなSM小説が読まれなくなり、男たちがむき出しの欲望をなくした今は、日本の衰退期なのかもしれない。むしろコロナ禍の不況は吉永小百合的な、日常生活の困難があたらしい女優をもとめるのかもしれない。

ところで、吉永小百合と谷ナオミの両者を分けるのは、バストの大きさだと板坂さんは指摘する(笑)。女優でありながら早稲田の文学部を卒業した知性派の吉永小百合と、肉体派という表現が最もふさわしい谷ナオミのどちらが、みなさんは記憶に残っているでありましょうか。また、若い人たちはどう感じますか?

◆炸裂する板坂節

前回の書評が長くなりすぎた関係で、扱えなかった板坂剛さんの対談シリーズは今回も健在だ。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の日大闘争左右対決は、両者が高校時代の同窓生だったこともあって「話はもういいから、外に出て決着をつけようか」など、とくに秀逸だったが、今回は相手が民青だった人である。面白さ爆裂にならないはずがない。

この元民青氏は6.11(最初の右翼との激突)の現場にいて、全共闘のバリケードづくりをともに担いながら、なぜか闘争の渦中に民青に転じるという異例の経歴をもっている。しかも父親の会社を継いで、社長として人生を乗りきってきたという。

マジメな話もしている。ちょっと引用しよう。

S 「僕の価値観からすれば、日大全共闘は正しいと評価するけど、東大全共闘は間違っていたと評価する。従って日大が東大に行ったことは間違っていたという方程式が、僕の頭の中では成立しているんだ」
板坂「一応筋は通っているね。もう今後は日大も東大もひっくるめて『全共闘運動はああだったこうだった』っていう論じ方はやめて欲しい」

視点はともかく、これはわたしも正しいと思う。雑誌で日大闘争の特集をやったさいに、元日大生から言われたものだ。「三派系の学生は六大学が主流だから、地方出身者が多いでしょう。日大全共闘は、そうじゃないんです。日大は東京の学生が多いですからね、慶応や一橋、東京四大学の入試で落ちた人たちが、日大全共闘には多いんですよ」

おそらく地方出身者(六大学+中大)には、この「東京四大学」が何のことなのか、わからないであろう。旧制7年制高校、もしくは財閥系の大学。ということになる。具体的には、武蔵大学(東武財閥)、成蹊大学(三菱財閥)、成城大学(地元財閥)、そして学習院大学(旧華族系)の四大学である。この四大学は野球にかぎらず、年に一度の体育会の対抗戦をやっている。※関西では甲南大学が旧制7年制で、東京四大学と提携した学生募集活動を行なっている。

この四大学には入れなかったが、すこし裕福な家庭の子弟が入学したのが日本大学なのである。そして、そのあまりにもマスプロで劣悪な教育施設(教室に募集人員が入りきれない)に愕き、憤懣をかかえていたところに、不正問題(使途不明金)が発覚したのだ。

最初はひとにぎりの活動家たちの蹶起に、ふつうの学生が賛同してこれに参加した。どちらかというと、秩序派のむしろ右翼的な発想を持っていた学生たちが参加したからこそ、地をゆるがす巨万のデモが実現されたのである。

いっぽう、東大闘争の発端は医学部の処分問題であり、医学部の主流派はブント(社学同)。駒場はフロント(社会主義学生戦線)が教養部自治会の執行部、そして文学部自治会が革マル派。駒場反帝学評(社青同解放派)も勢力を持っていた。ようするに、最初から党派活動家による闘いだったのだ。

全共闘運動は全国に波及したが、バリケード闘争は日大闘争と東大闘争の真似事にすぎない。したがって、雑誌のキャッチを「全共闘運動とは日大闘争のことである」に決めたのだった。その位相は、板坂さんとSさんの論調にも顕われているといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈1〉71年が残した傷と記憶と 横山茂彦

◆シラケ世代

71年に思春期や青春時代を迎えた世代は、総称して「シラケ世代」と呼ばれたものだ。ほかにも三無主義・四無主義という呼称があった。

 
『木枯し紋次郎』(中村敦夫事務所提供)

つまり、無気力・無責任・無感動・無関心というわけである。わたしもその一人だった。

無感動や無関心には、それなりの理由がある。少年期に戦後復興の象徴であるオリンピックや高度経済成長を体感し、努力すれば成功するという勤勉な日本人像を抱いていた。にもかかわらず、60年代後半の価値観の変転が、その神話を打ち崩したのである。

一所懸命努力しても、成功するとは限らない。背広を着た大人の言うことは信用するな。正義が勝つとはかぎらない。へたに政治運動に首を突っ込むと、とんでもないことに巻き込まれる。闘っても、負ければ惨めだ。巨人の星飛雄馬は挫折したし、力石徹も死んでしまった。若者たちは政治の汚さや正義の危うさを知ってしまったのだ。

前ふりはここまでにしておこう。そんなシラケ世代のど真ん中に、突如として現れたのが「木枯し紋次郎」だった。

『抵抗と絶望の狭間』の巻頭は、その木枯し紋次郎を演じた中村敦夫さんのインタビューである。

胡散臭いことを「ウソだろう」という感性は、まさに演じた紋次郎のものだ。アメリカ留学の件は、あまり知られていない個体史ではないか。中村さんのシンプルな発想は、いまの若い人たちにも参考になるはずだ。

俳優座への叛乱を報じる朝日新聞(1971年10月28日朝刊)

◆その時代が刻印した「傷」と「誇り」

シラケ世代は68・69年の学生叛乱の延長で、それを追体験する世代でもあった。シラケていても、いやだからこそ叛乱には意味があった。もはや戦後的な進歩や正義ではない、世界が変わらなくても自分たちが主張を変えることはない。

 
「俺を倒してから世界を動かせ!」1972年2月1日早朝 封鎖解除 同志社大学明徳館砦陥落

松岡利康さんら同大全学闘の「俺を倒してから世界を動かせ!」という スローガンにそれは象徴されている「私にとって〈一九七一年〉とはいかなる意味を持つのか」(松岡利康)。

革命的敗北主義とは妥協や日和見を排し、最後まで闘争をやりきることで禍根を残さない。そこにあるのは学生ならではの潔癖さであろう。

善悪の彼岸において、革命的(超人的)な意志だけが世界を変え得る(ニーチェ)。

学費値上げ阻止の個別闘争といえども、革命の階級形成に向けた陣地戦(ヘゲモニー)である(グラムシ)。

71年から数年後、松岡さんたちの『季節』誌を通してそれを追体験したわたしたちの世代も、ささやかながら共感したものだ。その「傷」の英雄性であろうか、それともやむなき蹶起への共感だったのだろうか。いずれにしても、進歩性や正義という、戦後の価値観をこえたところにあったと思う。

松岡さんの記事には、ともに闘った仲間の印象も刻印されている。

◆抵抗の記憶

71年を前後する学生反乱の体験は、文章が個人を体現するように多様である。掲載された記事ごとに紹介しよう。

眞志喜朝一さんはコザ暴動のきっかけとなった「糸満女性轢死事件」からベ平連運動に入ったことを語っている(聞き手は椎野礼仁さん)。沖縄戦で「日本国の盾にされてウチナンチュが死ぬ」のを、二度と繰り返さないために、馬毛島から与那国島まで要塞化するのは許せない。そのいっぽうで、日本国民(ヤマトンチュにあらず)として、中国が沖縄の地にやってきたらレジスタンスとして戦うというアンビバレンツなものを抱えざるを得ない。そしてB52が出撃した基地として、ベトナムにたいする加害者である意識を否定できないという。

田所敏夫さんが書いた「佐藤栄作とヒロシマ――一九七一年八月六日の抵抗に思う」にある抗議行動は、当日のニュースで見た記憶がある。

この女性が「糾弾」ではなく「佐藤首相、帰ってください」という訴え方をしたので、視ているほうも親身になったのではないかと思う。すくなくとも、わたしはそう感じた記憶がある。

被爆二世としての田所さんの思いのたけは、ここ三年間の8月6日のデジタル鹿砦社通信の記事として収録されている。

山口研一郎さんの「地方大学の一九七一年――個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い」も貴重な証言である。被災した長崎天主堂が、本来ならば原爆の悲劇の象徴として保存されるべきところ、当時の田川市長によって取り壊された。被爆者でもある田川市長が訪米後のこと、アメリカの核戦略に従ったものといえよう。

長崎には大村収容所もあり、山口さんの問題意識は被爆者問題にとどまらず、入管問題、沖縄返還問題、狭山差別裁判、三里塚闘争へとひろがる。そして長崎大学では、右翼学生との攻防がそれらの問題とかさなってくるのだ。周知のとおり、長崎大学の学生協議会は、現在の日本会議の中軸の活動家を輩出している。

◆内ゲバの前哨戦と機動隊の壁を突破

眞志喜朝一さんをインタビューした、椎野礼仁さんの闘争録「ある党派活動家の一九七一」は前述した「文章が個人を体現する」がピッタリ当てはまる。

もうこれは、学生の運動部の体験記に近い。党派というスポーツクラブに所属した体験記みたいだ。しかし実際には「通っていた大学に退学届けを出して、シコシコと、集会やデモ、その情宣活動を中心とした“学生運動”に勤しんでいた」のだ。

その学生運動の党派とは、「悪魔の第三次ブント」を標榜した戦旗派である。

第二次ブント分裂後のブント系最大党派で、その組織リゴリズムから「ブント革マル派」と悪評が高かった。ようするに「前衛ショービニズム」(荒岱介)で、ゲバルトがすこぶる強かった。分派後のブント系は、反戦集会などがあれば、かならず内ゲバが前哨戦として行なわれていた。その内ゲバの様子が、まさに「運動部の体験」のごとく活写されている。戦記ものとして読めばたのしい。

叛旗派には13戦全勝だったというが、判官びいきもあって、デモに参加する群衆の人気は、圧倒的に叛旗派だった。

当時を知る人によれば「叛旗がんばれー!」という歓声があがったという。

その叛旗派は、吉本隆明がゆいいつ「ブント」として評価していた党派である。吉本の人気とゲバルト闘争にはいまひとつ参加できない、新左翼シンパ層の支持にささえられていた。そして12.18ブントや赤軍派とのゲバルト。荒岱介さんによれば、キャッチマスクを着けたゲバルト訓練は、九十九里海岸の合宿で行なわれたはずだ。

71年6.17の全国全共闘分裂のデモでは、上京した同志社全学闘(松岡さんら)の闘いと交錯する。こちらは内ゲバではなく、機動隊に押し込まれて「もうアカン」(松岡さん)という状態のときに、背後から火炎瓶が投げられて機動隊が後退。「同大全学闘の諸君と共にここを突破したいと思います」(戦旗派)というアジテーションがあり、スクラムを組んで突破したのである。

内ゲバもするが、機動隊を前にしたときは共闘する。そこがブント系らしくていい。

そして72年5月の神田武装遊撃戦、ふたたびの組織分裂と困惑。まさに華々しく駆け抜けた青春のいっぽうで、ひそかに行なわれた非合法活動。語りつくせないことが多いのではないか。

よく太平洋戦争の戦記もので、書き手によっては悲惨な戦いも牧歌的に感じられるものがある。椎野さんには改めて、闘争記を書いてほしいものだ。

『戦旗』(1972年5月15日)
『戦旗』(1972年5月15日)

◆新左翼のお兄ちゃん

芝田勝茂さんの「或ル若者ノ一九七一」は、当時のノートをもとに回顧した文章である。現在の上品な児童文学者の風貌からは想像もできなかった、新左翼のお兄ちゃん然とした芝田さんにビックリさせられる。

文章も主語が「俺」なので、当時の雰囲気をほうふつとさせる。長い髪とギターを抱えた姿は、まさにフォークソングを鼻歌にしそうな、当時の新左翼のお兄ちゃんなのだ。

だが、内容は牧歌的ではない。芝田さんや松岡さんが参加した同志社大学全学闘は赤ヘルノンセクトだが、いわば独立社学同である。

東京では中大ブント、明大ブントが第一次ブント崩壊後(60年代前半)の独立社学同で、その当時は関西は地方委員会がそっくり残っていた。

 
キリン部隊

そして二次ブント分裂後、同志社学友会を構成する部分が全学闘であり、対抗馬的な存在が京大同学会(C戦線)であった。

芝田さんの記事では、同大全学闘と京大C戦線、立命館L戦線の三大学共闘が、並み居る新左翼党派に伍して独自集会を行なうシーンが出てくる。

「同志社のキリン部隊や!」「やる気なん?」と参加者から歓声が上がり、解放派から「こいつら無党派じゃない! 党派だ!」という声が出るのも当然なのである。

※キリン部隊 ゲバルト用の竹竿の先端に、小さな旗を付けたもの。折れにくい青竹が主流で、竹竿だけだと凶器準備集合罪を適用されかねないので、先端に申し訳ていどに付ける。

◆三里塚9.16闘争

松岡さんと芝田さんの手記にも三里塚闘争への参加(京学連現闘団)と逮捕の話は出てくるが、当時高校生だった小林達志さんが「三里塚幻野祭」と第二次強制代執行阻止闘争のことを書いている。

激闘となった、71年9.16闘争である。このとき、八派共闘の分裂によって、三里塚現地の支援党派も分裂していた。中核派と第4インターが駒井野と天浪の砦(団結小屋)で徹底抗戦。椎野さんたちの戦旗派もそれに対抗して砦戦だった。

いっぽう、解放派と叛旗派、情況派、日中友好協会(正統)、黒ヘル(ノンセクト)、京学連などが反対同盟青年行動隊の指導の下、ゲリラ戦で機動隊を捕捉・せん滅する計画を練っていた。

おそらく9.16闘争の手記が活字になるのは、初めてのことではないだろうか。それだけに読む者には、生々しいレポートに感じられる。

すでに裁判は86年に終わり(第一審)、無罪(証拠不十分)をふくむ執行猶予付きの判決で終結している。つまり9.16闘争とは、上記のゲリラ部隊が機動隊を急襲し、警官3名の殉職者を出した東峰十字路事件なのだ。※東峰十字路事件(Wikipedia)

同志社大学では当日の実況中継を計画していたが、さすがに機動隊員が死んだという知らせをうけて急遽中止したという。

70年代は「第二、第三の9.16を」というスローガンが流行ったものだが、この事件では三ノ宮文男さんがたび重なる別件逮捕のすえに自殺している。警官の殉職者もふくめて、いまは哀悼の意を表すしかない。

硬派なタイトルの紹介ばかりとなったが、この書評は連載となることを予告しておこう。71年は日活ロマンポルノ元年でもあり、銀幕にバスト露出が始まった年である。そのあたりは元官能小説作家として、たっぷりと紹介したい。(つづく)

朝日新聞(1971年9月16日夕刊)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

代表選挙が孕む立憲民主党の正念場 ── 党首が長年同じ日本共産党の「一党独裁」と公明党の「政教一致」は変わらないのか 横山茂彦

総選挙の総括として、自民党の総裁選パフォーマンスによるメディア露出の効果とともに、共産党との野党共闘が立民・共産両党の独自性を毀損した。あるいは自民党に比して立民の党内選挙の不活発、共産党においては党内選挙がないことを、その理由に挙げた。選挙の顔が「飽きられている」のである。

◎「自民党の単独過半数確保が意味すること ── 総選挙を総括する」2021年11月2日

11月16日、立憲民主党の泉健太政調会長(47)、逢坂誠二元首相補佐官(62)は、枝野幸男前代表の後任を決める代表選に立候補する意向を表明した。19日告示、30日投開票である。

逢坂誠二は16日夜、党内最大グループ「サンクチュアリ」(所属議員27人)の会合に出席。同グループから立候補を求められ、「今の党や日本の状況を総合的に考え、出馬を決意した。我が党が正念場なだけでなく政治そのものが曲がり角にある」と述べた。同グループはリベラル系議員が多い。所属する小川淳也元総務政務官(50)の立候補は流動的とされている。

いっぽう、泉政調会長は16日午後、国会内でみずから率いるグループ会合で立候補の意向を表明した。会合後、記者団に「非常に厳しい環境だが、誰かがこの党を引っ張らなければいけない」と述べている。

党内から立候補を求める声がある江田憲司代表代行(65)は16日、自身のグループ会合で不出馬を表明した。「自民党総裁選で2人の女性が立候補したのはすばらしい」と、西村智奈美(元厚生労働副大臣・54)が立候補表明したものの、自民党に比べて知名度も低く、やや寂しい代表選挙になりそうだ。これが立民党の現状なのであろう。

◆一党独裁と政教一致

さて、維新の会の大躍進(11議席→41議席)は、大阪における反中央気質(阪神タイガース)。自民党批判の受け皿(改革志向)とみてきたが、ではなぜ野党共闘が受け皿足り得なかったのか、という問題に拘泥しないわけにはいかない。それは上に挙げた立民党の代表選挙の地味さ、ショボさにそれは表象されている。

だがそのいっぽうで、共産党の議席減(-2)に注目しておくべきであろう。党内選挙のない党の衰退という意味である。党の代表がほとんど変わらないという意味では公明党も同様で、無選挙で代表が交代する(池田大作の意向を反映)。

党首選出選挙については、「公明党規約第20条」で規定されているが、1964年(昭和39年)の結党以来(2名以上の)複数の候補者による党首選挙が行われておらず、無投票での党首選出が続いている。

こちらは「政教一致」の憲法違反の政党であることを指摘しておこう。ちなみに、67年(初めての選挙)の25議席、69年の47議席から、200年代の30議席前後が、支持団体創価学会の持てる力なのであろう。中央幹事会代表になってからは、神崎武法が8年間、太田昭宏が3年間、山口那津男が12年(~)といった任期である。

戦後の共産党は、徳田球一がレッドパージ下をふくむ書記長として8年間、野坂参三が3年間。その後は、宮本顕治が24年間(書記長・委員長)、不破哲三が村上弘の2年間をはさんで16年間、志位和夫の委員長はすでに21年間におよんでいる。

いずれも党内選挙のない、一党独裁と政教一致の政党なのである。共産党が政権を取れば、中国や北朝鮮のように党首が変わらない政権になる。公明党が政権を取れば、宗派の教主が政治を決める、イランのような政体になるであろう。いわば日本社会から分離された、特殊な政党であることを有権者は知っているのだ。

◆共産党とレーニン主義

じつは筆者の連れ合いの両親が共産党員で、初めて岳父・岳母と会ったのは赤旗祭であった。まだ右翼の街宣車が押し掛ける時代で、会場周辺はすこぶる緊張感があったものだ。このときの呼び物は、ソ連からきたピアニストのブーニンだった。赤旗祭はいわば物産展などを出し物にした党の文化、歌声喫茶などの出店、総じて党員たちの愉しみを演出するものだった。

さて、その共産党が「中立・自衛」という国防上の立場をひるがえしたのは、2000年前後である。「武装・中立」とも言い換えられる国防論は、マルクスの「フランスの内乱」レーニンの「4月テーゼ」に由来する。常備軍に代わる全人民武装、全国家権力を労働者代表ソヴィエト(コミューン)に移す必要、議会制共和国ではなく、労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止といった内容である。

このうち、軍隊(常備軍)をコミューン(自治組織)の武装に置き換えるという、ジャコバン革命当時、ロシア革命当時の原則を突き出せば、党が軍隊を持つことになる。この問題を共産党指導部は、ひそかに取り下げ、「非武装・中立」という旧社会党のスローガンに置き換えたのである。

わたしとの討論で、岳母が「武装をするとまでは言ってないんだよ」と漏らしたことがある。つまり共産党は国防政策の転換にさいして、全党を動員した議論をしないまま、看板を掛け変えたのであろう。この問題について、共産党中央委員会幹部会に取材を申し入れたところ、媒体が「情況」であることをもって「将来にわたって、君たちとの討論はあり得ない」という回答だった。明言こそしなかったが「君たちはトロツキスト暴力集団だから」、あるいは「ニセ左翼集団」。いや、分派(ブント)であることを論拠にしたのであろう。

開かれた国民政党どころか、レーニンの1921年の分派禁止令(フラクションの禁止)を固持しているからなのだ。

いま、若い人たちのなかに「共産党支持」が、わずかながら増えているという。国会論戦での原則的な主張、それなりに説得力のある政府批判を見ていれば、共産党議員団を支持するのはうなずける。社民党も頑張ってはいるが、なにしろ質問時間が短すぎて、福島みずほがスローガンを唱えるだけの質疑では、とうてい支持は得られないのではないか。

とはいえ、マルクス・レーニン主義を墨守するあまり共産党という党名を変えられず、党員の構成比がかぎりなく老人党となりつつある現状を変えられないかぎり、真の国民政党になる日は来ないと断言しておこう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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安倍派の誕生 ── 息づく「院政」という伝統 横山茂彦

自民党の最大派閥清和会は、細田博之が衆院議長に就任することにともない、安倍晋三元総理が会長に就任することになった。安倍派の誕生である。

清和会(清和政策研究会)は岸信介の派閥を源流に、福田赳夫の派閥として田中角栄派(七日会→木曜会)支配の時代には、保守傍流に甘んじてきた。

のちに竹下派(経世会)の分裂によって、森喜朗・三塚博らが合流することで、党内最大派閥となったものだ。衆参議員89人をかかえる最大派閥であるとともに、政策的には党内最右派でもある。

派閥の原理とは「寄らば大樹の陰」であり、党の公認や大臣への近道、選挙資金の提供など、いわばカネとコネである。そのうえで、政治信条が近い者たちが集まる、群れの原理ともいえよう。

そのいっぽうで、わが国にしかない「院政」という政治システムを体現したものでもあるのだ。その「院政」は国会でもメディアからも直接的な批判を受けない、巧妙な政治システムである。


◎[参考動画]安倍元総理が派閥復帰 “安倍派”誕生へ(TBS 2021年11月08日)

◆わが国にしかない政治システム

その巧妙な政治システムは、平安時代の摂関政治に由来するものだ。政治のイロハもわからないうちに帝に即位させられ、壮年期になって摂関家から「操りにくくなった」と判断されるや、若い皇子に譲位させられる。平安初期の帝は、藤原家の操り人形だったのである。

摂関家が帝を操り人形にしておきたかったのは、荘園という権益をまもるためだった。荘園は「公領」である建前のいっぽうで、貴族たちは国司・郡司の不入(ふにゅう)を決め込み、配下の者たちを荘官に任じることで蓄財をしていたのだ。地方の有力者が、開拓した荘園を貴族に寄進し、その荘官となるなることで正当性を得る。寄進領も平安期に増大した。

この不正蓄財は、友人や配下の者たちに特権をあたえ、政治資金として還流させてきた旧安倍政権の構造によく似ている。

◆政治の矢面に立たない政治

荘園に公正な税を課し、あるいは公地公民制を掘り崩す荘園の拡大を阻止したのが、後三条天皇であった。

34歳と、当時では「高齢」で即位した後三条は、荘園整理令で貴族たちに徴税を課した。藤原氏をはじめとする貴族が「記録が残っていないのでわからない」と抗弁すると、天皇は記録荘園券契所を設けて調査をはじめた。

さらには新たに延久宣旨枡を用いて、私升による徴税のごまかしを禁止する。こうして天皇執政の熱意に満ちていた後三条天皇だが、譲位後に四十歳の若さで亡くなってしまう。

後三条天皇を後継した嫡子貞仁親王が、本格的な院政を始めた白河天皇である。帝が退位して院(上皇)となり、院宣という勅命をもって若い帝をあやつる。この院政のメリットは、仙洞御所という役人が立ち入れない場所に逼塞したまま、その意味では政争を起こさないかたちで政治を行ない、身の安全を確保したことであろう。

◆安倍晋三の院政を占う

冒頭に言ったとおり、院政は巧妙な政治システムである。前総理が国会(答弁)に出ることなく、また記者会見を行なうことなく政局をにぎり議会政治を左右する。日本の院政の原型こそ、平安期の上皇という制度だといえよう。

政治権力の源泉は第一に資金力であり、第二に党組織の掌握(総理と幹事長を頂点とした執行部)、そして第三に官僚組織の人脈である。

かつて田中角栄は党外にありながら、多数派閥をカネで掌握することによってキングメーカーとなった。闇将軍、影の総理と呼ばれたものだ。

中選挙区制の金権選挙から、小選挙区制の党の統制力(公認)が強化されたいま、多数派閥の掌握こそが「院政」の力の源泉である。このことを、みずからの長期政権で知り尽くした安倍晋三は、安倍派を形成することで「院政」を敷こうとしているのだ。

◆田中派と同じ道をたどれば

かつて最大派閥の田中派を率いた田中角栄は、総裁選では自分の派閥から総裁候補を出さず、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘らを順番に首相に据えることで、院政を敷いた。これによって派内の不満がたまり、最後は子分だった竹下登にクーデターを起こされた。じつは安倍さんも同じ道を辿ろうとしているのではないか、という指摘がある(自民党関係者)

安倍晋三は前回の総裁選で、無派閥の菅義偉・首相を支持している。今回もわざわざ、無派閥の高市氏を担ぎ出した。細田派では安倍側近の下村博文が出馬を希望していたにもかかわらず、安倍は後押ししようとはしなかったのだ。細田派から総裁候補が出馬すれば、派内の世代交代が進んで実権を失うからだ。派閥の後継者をつくらないのは、自民党院政の常套手段でもあるのだ。

そうした手法は細田派内に大きな不満を生み、総裁選前に若手議員の蹶起をまねいた。福田康夫元総理の長男で「細田派のプリンス」と呼ばれる福田達夫が「長老支配打破」を掲げ、派閥横断的な若手グループ「党風一新の会」(約90人)を旗揚げした。細田派からも1~3回生議員16人が参加している。

福田達夫氏は衆院当選3回だが、54歳の中堅政治家である。安倍にとってはキングメーカーの地位を脅かす存在といえよう。細田派は達夫の祖父の福田赳夫元総理がつくった福田派がルーツで、いわば派閥のオーナー家とも言えるのだ。3代目の達夫も、祖父と父に続く「将来の総理・総裁候補」の呼び声が高い。党内では、小泉進次郎環境相の「兄貴分」としても知られる。

◆3代にわたる安倍家と福田家の確執

そして安倍家と福田家には3代にわたる確執がある。派閥の創立者である福田赳夫は、安倍の晋太郎が初めて総裁選に出馬したとき、子飼いの中川一郎氏を出馬させて、わざと晋太郎さんの票を削ったのだ。晋太郎に後継者として力をつけさせないためだった。2代目の康夫も安倍晋三も肌が合わず、小泉政権時代に官房長官と副長官として、北朝鮮政策をめぐって激しく対立した。

因果はめぐる。いまは攻守所を変えて、安倍が派の実権を握っているが、派閥を奪い返されないために福田家の3代目に絶対に力をつけさせたくないはずだ。

福田達夫は安倍が派閥に君臨している限り、自分の出番を邪魔されることが分かっている。この機会に若手を結集して、安倍に世代間闘争を仕掛けたのである。

福田達夫の旗揚げを聞いて、安倍の目の色が変わったという。それまで総裁選は高みの見物だったが、自分の力を見せつけようと、高市早苗を支援して総裁選に深く介入していったのだ。

内容のなさを露呈しているものの、「将来の首相」ともてはやされている小泉進次郎環境相と組み、「小泉進次郎内閣が誕生すれば福田官房長官」と言われている。安倍晋三の「院政」開始が、その基盤である安倍派そのものの分解につながる可能性が高いと、まずは占っておこう。

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《書評》『紙の爆弾』12月号 注目すべき論考 野田正彰「旭川『発達障害』殺人事件 雪の少女の哀しみ」 横山茂彦

最新号紹介の続編である。

◆精神医療現場の「子供たちを虐待する」現実 ── 野田正彰「旭川『発達障害』殺人事件 雪の少女の哀しみ」

 
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精神科医の野田正彰さんによる「旭川『発達障害』殺人事件 ── 雪の少女の哀しみ」に注目したい。

この論考は『娘の遺体は凍っていた 旭川女子中学生イジメ凍死事件』(文春オンライン特集班、文藝春秋)をもとに、事件の背景にひそむ問題点を考察したものだ。その問題点とは、「発達障害のラベルで苦しめられていたこと」への弁護士と編集部の無知ではないかという。

少女は「発達障害」「自閉症スペクトラム症」とされ、本人の言動の多くが「障害の症状」とみなされてしまう。発達障害という認定で、本人の意志や快不快にかかわらず薬漬けにされるのだ。「ひたむきな子どもが発達障害とラベルされ、向精神薬を飲まされ、周囲の子どもから脳に障害のある子としていじめられ、引きこもりと自殺増となって着実に顕現している」

さらには、「いじめ自殺のたびに、各教育委員会は発達障害の学習と支援学級の充足を主張する負のスパイラルが進行している」と、野田は指摘する。

そしてそれは、子どもたちを「病名でグループ化」する。そこに「個の尊重」がないのは自明であろう。

学校での過酷なイジメのはてに、被害者が精神病院に隔離される。そこもまた、医療とは名ばかりの虐待としか言いようのない場所だった。

現場で苦闘する現役医師ならではの、実感がつたわる文章での問題提起をご一読いただきたい。

◆滋賀県警の「セカンドレイプ」 ── 田所敏夫「日本の冤罪 続・湖東記念病院事件」

シリーズ日本の冤罪「続・湖東記念病院事件」(田所敏夫)は、無罪が確定した冤罪被害者への、滋賀県警の「セカンドレイプ」を取り上げている。

その「セカンドレイプ」とは、冤罪被害者の国賠訴訟に対して、県(県警)は準備書面で「原告は犯人だ」としてきたのだ。無罪判決が下りているのに、警察が「お前は犯人だ」というのだ。冤罪を犯した者たちが居直る、前代未聞の事態というほかない。

県側はいったん謝罪し、県警本部長も警察庁へ転勤という、事実上の更迭となるが、それだけではなかった。書き改められた県側の準備書面は、原告を犯人とみなすに「相当の理由があった」という居直りのくり返しだったのだ。

誤りを認めない捜査当局に、冤罪をなくしていく能力はないと断じるほかないであろう。井戸謙一弁護士のインタビューで、非常に簡潔でわかりやすい記事に仕上がっている。

◆機動隊の県外派遣は違憲と、画期的判決 ── 小林蓮実「沖縄とヤマトの連帯が勝利をもたらす」

名古屋高裁(一審敗訴)で争われていた、機動隊の県外派遣に違憲判決が下りた。この、じつに画期的な住民訴訟での判決を解説した記事「沖縄とヤマトの連帯が勝利をもたらす」(小林蓮実)は、半永久保存版であろう。

原告の具志堅邦子は18歳で沖縄をはなれ、名古屋で結婚して30年になるという。1995年の少女暴行事件に大きな衝撃をうけ、愛知で「命どぅ宝の会」に参加した。そして辺野古にも行くようになった。

県警の県外派遣という問題点を衝き、沖縄の闘いを孤立させない。その意味ではヤマトでも可能な闘いに道をひらいたというべきであろう。

◆教員統制のうごきが顕在化 ── 永野厚男「岸田文雄・文科副大臣(当時)の教員統制・いじめ政策」

精神医療現場の問題点、冤罪を生んだ県警の無反省、そして住民訴訟の勝利と、現場を舐めるような取材と見識の最後は、中教審のうごきである。

タイトルは「岸田文雄・文科副大臣(当時=引用者注)の教員統制・いじめ政策」(永野厚男)だ。

中教審「教師の在り方特別部会」の「審議まとめ案」が提出され、レポーターの永野厚男によれば、国家権力の思い通りの教員づくりに道をひらくものだ。

10月31日までにパブリックコメントを終え、教育免許法の改悪が行なわれようとしているのだ。

今回の審議案の問題点を、いくつかピックアップしておこう。

・小学校一年生から道徳・愛国心を教化、君が代を歌えるように指導する。
・社会科で小学校4年から「自衛隊が役立っている」を教える。
・小学校6年では「天皇への崇敬の念」を教える。

そして上からの教員管理、研修の義務化、密室での校長と教職員の「対話」すなわち、自由闊達な議論の封殺、などである。

永野は「教特法」にある自由研修こそが、教育現場に必要だとする。制服や規則問題など、教育現場ががんじがらめである。いまこそ、学校に自由を!である。(文中敬称略)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
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6日発売『紙の爆弾』12月号 ! 総裁選・総選挙でわかった岸田文雄「安倍傀儡」政権の内実暴露! 謎発掘の歴史ジャンルで晩秋を愉しむ! 横山茂彦

10日からの国会を前に、岸田政権の基本性格をあますところなく暴露した。本日6日発売の『紙の爆弾』最新号である。

 
7日発売!月刊『紙の爆弾』12月号!

◆岸田政権の求心力低下を予告

岸田政権の特徴は、総裁選挙における安部晋三元総理のうごきに象徴される、国民政党としての押し出しと派閥的な収束。すなわち河野太郎・高市早苗の派手なパフォーマンスのいっぽうで、政敵(河野太郎・石破茂ら)を排除しつつ党内主流派の挙党体制を演出する。そんなまとめかたの仕上がりで、総選挙に「負けなかった」といえよう。

横田一の「岸田文雄政権は安部傀儡」は、まさにこの点を衝いている。総裁選挙をつうじて、岸田がいかに自分のポリシーを骨抜きにされてきたか。党内主流派に操られるがゆえに、菅義偉ほどの独自性も出せないまま、政治家にとっての肝である求心力を失っていくといえよう。

同じく「やはり菅義偉以下だった岸田政権の実相」(山田厚俊)も、株価下落にその求心力のなさを指摘する。山田はさらに、立憲民主党の枝野代表の、党内不祥事にたいする責任と向かい合わない態度を批判する。記事が書かれたのは総選挙よりもずっと前であろうから、この点の指摘は慧眼である。

足立昌勝は「矛盾だらけの岸田政権」を象徴するものとして「甘利幹事長がすがる不起訴処分の言い訳」を暴露する。あにはからんや、甘利明は落選することで国民の厳しい審判をうけ、幹事長辞任に追い込まれた。民主主義が機能したことに、わずかながら留飲を下げた方は多いのではないか。

◆自民党のメディア操作を暴露

「自民党世論操作の全貌」(浅野健一)は、メディアが選挙前に岸田の外遊スケジュールを報道することで選挙結果を先取り宣伝する、ルール違反の民主主義否定を指摘する。なるほど、つぶさに見てゆけば総裁選における自民党のメディア独占、一連の政治的なパフォーマンスは菅義偉の「ポンコツ」かつ「発信力のなさ」を挽回するかのような勢いだった。

そしてネットにおける自民党と公安警察官僚の「世論操作」について、浅野は「Dappi」の虚偽報道疑惑を暴露する。この事件は立民党の議員が、森友事件で自殺した赤木氏を「1時間以上つるしあげた翌日に自殺」などと、虚偽の投稿をしたものだ。名誉棄損の損害賠償事件に発展しているこの一件は、続報を待ちたい。

時事コラムの「NEWSレスQ」では、高市早苗の「やりすぎたネトウヨ扇動で残る後遺症」が注目を引く。高市には「選挙で落ちたら天皇陛下が」という皇室の政治利用疑惑もあり、自民党のメディアおよびネット活用が墓穴を掘る可能性をひらいている。

ほかに「自民党が歪曲する公共の福祉とは何か」(広岡裕児)は、憲法解釈から福祉の概念を説き起こす好論攷である。

◆宗教と巨大組織の闇

自民党の病根をあばく「権力者の妻を取り込む歴史の闇――自民ゾンビ政治の正体とゲシュタルト崩壊の日本」(藤原肇)は、宗教団体の政治的な闇を暴露する。

「裁判所が二度認めた神社本庁・田中恆清総長の背任疑惑」(本誌編集部)は、例の宿舎売却・土地転がし事件を認定した判決である。田中恆清(つねきよ)と内田文博神道政治連盟会長の「タナカ・ウチダ体制」が、日大の田中英壽理事長と内田正人理事の「タナカ・ウチダ体制」の相似性を指摘する。そして、日本会議をつうじた安倍晋三との結びつきである。

◆秘められた歴史をたどる

「権力者たちのバトルロワイヤル」(西本頑司)は「アフター・メルケルのEU」である。EUを生きた政治経済共同体に高め、ドイツ軍と原発の廃止を実現したメルケルの退陣後に、ヨーロッパの古い政治グループがうごめいているというのだ。ハプスブルク家を中心とした貴族である。

西本によれば「政府の政策に影響を与えるメジャー(企業)を押さえているだけでなく、とりわけ欧州貴族の一族たちは、十九世紀から二十世紀の帝国主義時代に築いたアジア・アフリカの利権を握り続けており、それによって世界経済や国際情勢にも十分な影響力を保持している」

「『世界の富の99%を握る1%』は、欧州貴族の一族たちと言っても過言ではない」というのだ。

政治的にも貴族は、じつは健在なのである。フランス革命で王政廃止されてからも、ビクトリア女王の婚姻政策でヨーロッパの王族は結びついてきた。そしてエリザベス2世の職権で大きなものが、英連邦と枢密院の二つの議長職である。旧植民地の政策および世界を裏で支配する「300人委員会」とは、この枢密院のことだと、西本は云う。

そして、欧州貴族の頂点に君臨するのが、カール・フォン・ハプスブルクであるという。カールは「金毛羊騎士団」の団長であり、その騎士団には明治・昭和・平成の歴代天皇も加盟していたのだ。カールが第一次世界大戦の引き金と

なったオーストリア皇太子の甥だといえば、なんだか時代錯誤的な印象だが、これは現代の事実なのだ。欧州帝国の復活に注目したい。

「世界を裏から見てみよう」(マッド・アマノ)は、「ユダヤの支援なしでは勝てなかった日露戦争」である。セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で、ユダヤ金融資本が資金援助したという一件である。当時、ロシアではユダヤ人が迫害され(ポグロム)、国外脱出が相次いでいたという。ロシア革命の主要な指導者たちがユダヤ人だったことも、いずれ触れられるであろうか。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
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自民党の単独過半数確保が意味すること ── 総選挙を総括する 横山茂彦

与党(自公)で安定過半数233議席をクリアし、自民党は単独過半数も確保した。自民党の40前後と予想された議席減は15、公明党は3議席増やすという「快挙」である。総じて、苦戦を噂されていた与党の圧勝といえるのではないだろうか。

野党共闘は小選挙区で機能したものの、立民党の比例区での大幅減に象徴されるように、肝心の政党選択では、ほぼ完全に敗北というしかない。立民党は14議席減、共産党も2議席をうしなった。社民党も1議席にとどまり、来年の参院選挙では「政党要件」を失いかねない崖っぷちである。

これで「政権選択の役割をはたした」と言っているようでは、安倍晋三なみの「虚言」「見当はずれ」ではないだろうか。唯一、議席を伸ばしたのは、れいわ新選組だけだった。

さて、注目すべきは維新の会の「大躍進」であろう。自民党批判の大半は、この党に流れたとみるべきである。政権批判の受け皿は、野党共闘ではなく維新の会が果たしたのだ。

党派別当選者数

下記のリンクは、ほぼ完全に予想をはずした本通信(横山の記事)である。読者のみなさん、すいませんでした。

「総選挙展望 ── 政権交代は起きるか〈前編〉自民単独過半数は無理」(2021年10月23日)
「総選挙展望 ── 政権交代は起きるか〈後編〉静岡補選の衝撃と安倍晋三長期政権による政治的凋落への審判」(2021年10月26日)

◆清新さのない野党共闘

ではなぜ、立民党と共産党は党勢が伸びないのだろうか。共闘の名による独自性の喪失、といった批評がテレビのワイドショーでは語られている。

野党共闘に与しなかった国民民主党の3議席増加が、党の独自性をうしなわなかったからか。だがそれは、単に党のイメージだけではない。

そう、支持層のうち固めという、選挙運動にとって基本的なことが、今回の野党共闘にはなおざりにされてきた。華やかな相互の選挙応援、派手なパフォーマンスで風が起こせなかったのは、むしろ党の基礎単位で動ききれなかったからではないか。

もうひとつ、党の顔の清新さのなさ。ではないだろうか。政治評論家の田崎史郎によれば、永田町には政治家の「賞味期限」があるという。世間を驚かせる言動や新鮮な印象で登場する政治家たちも、やがて「飽きられる」のだ。パフォーマンスがマンネリ化することで「もう古い」と言われるのだ。そして活躍が冴えなければ「終わった人」とされるものだ。

自民党総裁選で躍進中の河野太郎を支援し、まるごと敗退することで「総理の芽はなくなった」とされる石破茂、おなじく人気だけでは通用しないことを証明してみせた小泉進次郎。これらの人びとと同じく、今回の選挙は大物があいついで落選した。

小沢一郎、石原伸晃、甘利明(比例復活)、辻本清美……。立民党の枝野代表もかろうじて逃げ切ったが、約6000票差のまさに辛勝である。

◆党首選挙の重要性

選挙の顔(党首)も、やがて飽きられてしまう。

維新の会の躍進がその意味では、かつての橋下徹・松井一郎(大阪市長)から吉村洋文(大阪府知事)へと党の看板が変わり、首長であるがゆえに発信力が増加していたのは、今回の勝利と無関係ではないだろう。

この点は、名古屋の減税日本(河村たかし)や都民ファーストの会(小池百合子)が国政に進出できないのは、蓄積や力量の差だけではなく、維新の会の「大阪発」という特性があってのことだ。大阪人の中央(東京)にたいするパワーは、阪神タイガースそのものといえる。

それにしても、共産党との共闘が野党共闘の成否のネックであり、小選挙区での一定の勝利と、それを掘り崩す比例区での惨敗。共産党が「反共シフト」と呼ぶ者だが、それには彼らが気づいても変えられない理由がある。これはひとつには、共産党の党内選挙なき、中国や北朝鮮の指導部をほうふつとさせる組織の性格である。

レーニンの「何をなすべきか」(1902年)は、非合法化されたロシア社会民主党の立て直しのために書かれた記事をまとめたものだが、そこでレーニンは選挙ができないツアーリの弾圧とともに、同志的信頼にもとづいた「民主主義以上のあるもの」が指導部を選出すると説いている。

日本共産党もふくめて、レーニンの民主集中制を採る共産主義政党は、ことごとく党内選挙を経ずに指導部を「党大会で選出している」のだ。下級は上級に従い、上級は全体(党大会)に従う。この原則はしかし、党大会に提出される議案が、中央委員会およびその上級機関である政治局(日共は常任幹部会)によって決められていることが前提だ。そして肝心の人事案も、最初から決まっているものを承認するにすぎない。

共産党の場合、最初から「飽きられ」「賞味期限」がとっくに切れている委員長志位和夫が、明日も明後日も、来年も再来年も選挙の顔であるところに、その致命的な弱点があると指摘しておこう。このままでは、野党共闘は来年の参院選挙でも自民・公明・維新の会の後塵を拝すと断言できる。

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天皇制はどこからやって来たのか〈42〉「愛国」的な国民とマスメディアの結託による皇室批判・皇族女性バッシングの猛威が孕む〈天皇制の否定〉というパラドックス 横山茂彦

10月26日、眞子内親王と小室圭氏が結婚された。内親王が複雑性PTSDになるまで、メディアは小室バッシングに興じてきたが、いままた芸能スキャンダル的な扱いでバッシングが加速している。本シリーズで紹介してきたとおり、これは初めてのことではない。

ほかならぬ戦後象徴天皇制が、皇室のアイドル化を基調としてきたからである。それゆえに、戦後天皇制はスキャンダラスに報じられてきた。平民から皇室に入った正田美智子(現上皇后)には、猛烈なバッシングが行なわれてきた。御簾の中の皇室が、庶民に開かれたことへの反発であり、いわば殿上から平場に降りてきたがゆえの芸能人化が、その理由である。(※本連載〈40〉平成の皇后バッシング)


◎[参考動画]小室眞子さん・圭さん結婚会見(TBS 2021年10月26日)

◆ふたたび天皇制の廃絶について

アイドルとは、その一挙手一投足をふくめて監視・報道され、皇族はその行動の大半が警備で秘匿されている。ゆえに、芸能人のプライバシーを暴露する(覗き見る)のと同じように、バッシングに晒される。いや、崇敬とバッシングという、表裏の関係にある「好奇心」を消費されるのだ。

また、歴史的もそうすることで、王権が存続できる側面があったとも言えるだろう。たとえばフランスの王室は、まさに人気がなくなったから廃絶されたのである。イギリス王室は英連邦という旧植民地が、ともに王室を元首にいただく歴史的背景を持ちながら、国民のあいだで不要論が公然と論じられている。

日本の天皇制はどうだろう。その問題点が、身分格差および位階と叙勲による特権的な名誉、それによる貴賤の創出と固定化にあるとしても、政治権力とむすび付かなければ単なる栄誉にすぎない。

その栄誉を剥奪できるとしても、皇室にかかる伝統的な御物や神社仏閣、日本の伝統美と呼ばれるもの全般にまで批判を及ばせる内実を、われわれの現代社会が持っているかどうか、であろう。たぶんそれは無理である。

したがって、徹底的に天皇制および皇室文化を政治と切り離し、民主化することでその矛盾を拡大させ、存続できる内実をなくしてしまう。そのような方向でしか、天皇制を空洞化することは無理であろうと思う。

よく研究会に招かれて、皇室の民主化(自由恋愛や女性宮家、女系・女性天皇の積極推進など)で天皇制を空洞化できる、などと解説すると「横山さんは天皇制廃絶ではないのですか?」という批判を浴びる。そう、廃絶は無理であろう。「天皇制廃絶」をいくら叫んでも、国民的な議論を抜きに事態は一歩も進まないのだ。

学生時代から40年以上、天皇制廃絶を唱えてきた、それがわたしの結論である。

天皇制廃絶を云う人たちに、それでは廃絶に至るロードマップを提示してほしいと投げ掛けると、何も具体的な内容は返って来ない。プロレタリア革命の過程で廃絶できると考えている人々に、その具体性を訊いても「革命への決意」しか返って来ないのは自明である。決意で革命ができるのなら、世界は共産主義を実現できているはずだ。これら空論的な議論は、真夏の熱がうしなわれた秋風のようで、ひたぶるに悲しい。

さて、皇室アイドル化の位相である。それは極めて下賤な井戸端噺であり、床屋政談にすらならない、レベルの低いものかもしれない。その大半が、冒頭に挙げたように、芸能人的なスキャンダルとしてのバッシングであるからだ。

◆女性攻撃を好む社会が雅子妃の人格を否定した

そしてそのバッシングが、女性皇族にかぎられているところに、この国の文化のいやらしさが滲み出ている。

美智子妃、雅子妃、そして眞子内親王というかたちで噴出した皇族女性へのバッシングは、そのいずれもがアイドル化された国民的な人気を背景に、芸能人としてのスキャンダルを叩くというものだ。黒田清子さん(元紀宮)がバッシングを受けなかったのは、彼女がそれほどアイドル化されなかったことに所以するというのは、失礼ながら事実であろう。

雅子妃へのバッシングをふり返ってみよう。

平成皇太子(令和天皇)が人格否定発言と呼ばれるように発言をしたのは、2004年5月、欧州歴訪を前にした記者会見の場だった。

「雅子にはこの10年、自分を一生懸命皇室の環境に適応させようと思いつつ、努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れて切ってしまっているように見えます。

それまでの雅子のキャリアやそのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。」

雅子妃(当時)は、ハーバード大学を卒業後、東京大学法学部に3年生として編入。東京大学を中途退学後、外務省に入省し、外交官として活躍していた。

父親も外交官だったため、幼い頃からロシア(当時はソビエト連邦)、アメリカなど海外生活も長く、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語に堪能だという。

外務省幹部も将来を嘱望する才媛、エリート中のエリートである。彼女はすぐさまその美貌をフォーカスされ、またたく間にアイドル化された。

だからこそ、宮内庁の幹部の中には、雅子妃のキャリアを踏まえ、「雅子妃は外国に行きたがってばかりで、お世継ぎ問題を真剣に考えていない」と歪んだ見方をする人が少なくなかった。この時期の宮内庁長官は鎌倉節(かまくらさだめ)であり、上記の発言は皇室記者を通じてとはいえ、公然となされていたものだ。

雅子妃が流産と不妊治療を経て、結婚から8年後の2001年にようやく愛子内親王を出産した後も、男の子でなかったことで、世継ぎ問題に対するプレッシャーは強くなる一方だった。

2003年6月10日、宮内庁長官湯浅利夫は、記者会見で皇太子様ご夫妻のお子様について「やはりもう一人欲しい」「多くの国民もそう考えているのではないか」と発言。ストレスを抱えた雅子妃は2003年12月に帯状疱疹を発症して療養生活に入るが、そのときも「雅子妃は体調が悪いと訴えて、やりがいがないと思われている国内公務に消極的なのだろう」と言う宮内庁職員もいたと言われている。

さらに同年12月には「秋篠宮様のお考えはあると思うが、皇室と秋篠宮一家の繁栄を考えると、3人目を強く希望したい」と発言するなど、無神経な発言を繰り返してきたのだ。子を生む権利、生まない権利が個人に属していることを、かれらは一顧だにしない。

これら人格否定、恋愛や思想など人間としての自由の否定、そして様々なバッシング(批判)に、公然と反論できない立場を知った上でのメディアの猛威は、それ自体が天皇制の否定へとつながるパラドックスではないか。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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総選挙展望 ── 政権交代は起きるか〈後編〉静岡補選の衝撃と安倍晋三長期政権による政治的凋落への審判 横山茂彦

◆野党共闘が奏功した静岡補選

132におよぶ与野党一騎打ちの小選挙区で60前後が激戦になり、その大半が野党共闘の有利に進んでいる。その実態を裏付けたのが、10月24日の参院補選静岡選挙区である。

無所属新人の山崎真之輔を立憲民主と国民民主が推薦し、自民党の新人を1万6000票あまりで破った(56万票)。共産党候補も10万票を獲得し、もともと革新系が強い静岡とはいえ、野党共闘の効力が証明された格好だ。

いっぽう、自民党王国の参院山口選挙区では、共産党候補が7万3000票、N党候補5000票と、自民候補の21万票に大差をつけられ、野党一党単独候補では太刀打ちできないことが、あらためて立証された。

一騎打ちの選挙区で相手に10ポイント以上の差をつけ、当選が有力な候補は43人(自公37、立憲16)である。「自公」「立憲」候補が10ポイント差の範囲で競り合っているのは57選挙区にのぼる。そのうち、前回野党候補が敗れた選挙区は39もあり、与野党逆転のオセロゲームの可能性も十分あり得るのだ。

◆一騎打ちでの激戦区

上記の静岡で、ことに話題となっているのは民主党(民進党)から希望の党(集団移行)の旗振り役だった細野豪志であろう。

ここは立憲民主の小野のりかず、無所属で出馬の細野豪志、自民党の吉川たけるの三つ巴となった。

周知のとおり、細野は希望の党崩壊後は自民党(二階派)入党に転じ、支持母体だった連合を裏切るという破天荒な動きに出ていた。だが、反共産党的な言辞いがいに大義名分のない移行は、地元の怒りを誘いこそしても、自民党の一部からしか歓迎されていない。まだ50歳と政治家としては若手の細野が、単なる風見鶏に終わるのか、自民党政治家として大成するのか、注目に値すると提言しておこう。

さらに他の選挙区の情勢を見てゆこう。

小選挙区制導入以降、8回の選挙で自民が議席を独占してきた東京25区は、前回は自民の井上信治がダブルスコアで圧勝したが、野党一本化で状況は一変している。井上と立憲の島田幸成氏横一線で並ぶ展開になっているのだ。

福島4区は前回選挙では、希望・共産・社民と野党候補が乱立していた。希望の小熊慎司はわずか1200票差で自民菅家一郎に敗れたが、今回は立憲から出馬の小熊氏に一本化され、菅家氏とは10ポイント以上の差をつけて優位に立っている。

自民の桜田義孝が3連勝中の千葉8区も、野党統一候補の本庄知史(立憲新人)が桜田に大差をつけている。桜田義孝は五輪担当大臣でありながら「パラピック」発言、サイバーセキュリティ戦略副本部長でありながら「パソコンは打ったことがない」「(USBを)使う場合は穴を入れるらしいが、細かいことは、私はよくわからないので、もしあれ(必要)だったら私より詳しい専門家に答えさせるが、いかがでしょう」などと言う無能政治家だが、無能であることと選挙で強いのは別問題で、2009年の与野党逆転選挙以外は、すべて選挙に勝ってきた7期目のベテラン議員である。

与野党一騎打ちが激戦となっている証左として、野党有力候補の圧勝という情勢がそれを裏付けてもいる。

与野党一騎打ちとなった香川2区の玉木雄一郎(国民民主)は圧勝の情勢、沖縄1区も赤嶺政賢(共産)が当選圏である。立憲が57選挙区を次々と制すれば、まさかの政権交代も夢ではなくなる。

◆維新の三倍増は、自民党への忌避か

野党共闘を「選挙談合」と批判している維新の会が、専門家の分析では三倍増(公示前の11から30前後へ)となりそうだ。小選挙区では大阪いがいは苦戦しているものの、比例で得票を伸ばすと見られている。明らかに保守層の自民忌避であろう。

久々に候補者4名という総裁選挙で求心力を回復したかにみえたが、自民党らしい収束の仕方、すなわち派閥とキングメーカーの争闘と妥協で、岸田新政権は難破寸前といえよう。従来の枠組みを取り払い、清新な印象の公約もことごとく覆し、政権自体の人気は急落している。何を喋っているのか、よくわからない。野党党首との討論のさいにも基本的な事実を間違える(立憲と共産党の公約をちゃんと読んでいない)のポンコツぶり、いっぽうでは意味不明の饒舌さに、岸田の政治能力が疑われはじめているのだ。

◆一掃される安倍チルドレン

日に日に、自民凋落の気配が濃厚となるなかで、危機感を強めているのが安倍元総理である。当落線上にある細田派の18人のうち、安倍チルドレンが6人もいるのだ。

子飼いの政治家が一掃されかねない情勢なのだ。まさに驕れる者も久しからず、である。岸田自民党の敗北というよりも、安倍晋三長期政権の政治的凋落こそが、国民の審判になるのかもしれない。(了)

当落線上にある細田派18人のうち、安倍チルドレンが6人(名前色付き)を占める

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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総選挙展望 ── 政権交代は起きるか〈前編〉自民単独過半数は無理 横山茂彦

菅義偉の総理降板で、与野党の政権交代はほぼない。という結論で、それではどのくらいの自民敗北になるのかが、今回の総選挙の見どころとなっていた。自民党幹部は単独過半数は大丈夫、という見方であると報じられている。

ところが、である。各報道機関の世論調査、および調査機関の選挙分析によれば、自民単独過半数どころか、与党(自公)の過半数すら危ういのではないかという数字が出ているのだ。

小選挙区289のうち、自公候補と野党共闘の「一騎打ち」となったのが132。自民党は公示前勢力(276議席)から30~40議席を減らすとみられている(自民党関係者)。じつに63選挙区で接戦となっているのだ。

公明党も9選挙区のうち2選挙区が接戦で、比例区をふくめて公示前勢力の29議席確保が微妙であるという。

つまり与党の過半数(233)確保がギリギリではないかと、大半のメディア・調査機関が選挙予測をはじき出しているのだ。派手に政策論争をかわし、メディアを独占したかの様相だった総裁選挙の勢いはどこへ行ったのだろうか。

たしかに自民党は、比例代表投票先の調査(共同通信、10月16・17日)で29.6%を占めている。2位以下、立憲民主党は9.7%、共産党が4.8%、維新の会3.9%、国民民主0.7%、れいわ新選組0.5%、社民党0.5%で、野党共闘(4党)の15.5ポイントを大きく引き離している。公明党の4.7%と合わせれば、安定多数は確実視されても不思議ではない。

しかるに、同調査ではじつに39.4%の回答が「まだ決めてない」のである。

◆自民党の「選挙の神様」が予測する30~40減

元自民党事務局長で「選挙の神様」と呼ばれる久米晃氏によると、自民党30~40減の根拠はこうだ。

「4年前の総選挙を基準に考えています。野党は、立憲民主党と希望の党に割れて、共産党からも維新からも候補者が出た。あの時、マスコミの何社かが、仮に野党が統一候補を組んでいたら、あるいは立憲、希望が割れなかったらどうなるかシミュレーションして、自民党はマイナス64になったんです。そこから私は、『野党が統一候補を組んだら1+1=2にならないが、1+1=1.5くらいにはなる。そうすると野党協力が進むという前提で自民党はマイナス30くらいになる』と。それを目算にして判断するという考え方です。マイナス30のベースからどれだけプラスにできるのか、あるいはさらにマイナスが増えるのか。うまくいけばマイナス20や10で済む。ただ、国民の期待と不満がどの程度なのか、まだ分からない。最悪マイナス40もある。これからの戦い方次第です」(日刊ゲンダイ)。

久米氏が言う「野党統一候補」は、10月13日に共産党が126人の候補者のうち、一本化のために22人を取り下げることで決着した。社民党関係者によると、「ほぼ90%は一本化が果たせたので、自公をギリギリまで追い詰めることができる」という。

とくに自民党では金田勝年、桜田義孝、石原伸晃、下村博文、松島みどり、後藤田正純、原田義昭、江藤征十郎といった閣僚経験者が当落線上にあるという。公明党も北側一雄 斎藤鉄夫らが危ないという。

与野党逆転の政権交代までは行かないものの、自民党の単独過半数割れが現実のものとなれば、これまでの独善的・強権的な国会運営は続かないであろう。

その現実性を、個別の選挙区でみていこう。

◆石原伸晃と下村博文がピンチ?

もしこの人が落ちたら自民支持者だけではなく、ちょっと国民的なショックではないかと考えられるのが、東京8区(杉並区)の石原伸晃である。

この選挙区は、れいわ新選組の山本太郎代表が出馬表明した直後に撤回したことで、全国的な注目を集めてもいる。最終的に立憲民主党の新人吉田晴美氏が野党統一候補に落ち着いたが、ドタバタ劇で注目度がアップしたかたちだ。日本維新の会の新人笠谷圭司も出馬しており、まさに激戦区として注目をあびる。

前回(2017年)の総選挙では、立憲民主の吉田晴美が石原に約2万3000票差と迫る健闘だった。この時に出馬した共産党候補と得票を合計すれば、石原に約1108票差まで肉薄する計算となる。

その石原伸晃は出陣式の演説でマイクを握った瞬間、最前列の歩道から「何もやってないじゃないか!」と、絶叫して批判を繰り返した女性がいたため、演説を中断する事態となった。

杉並はもともと、新左翼の中核派系の区議・都議が長年議席を得る(現在は区議に二会派5名)ほど、いわゆる革新系の土地柄である。区議レベルでは、自民15人、公明7人、共産6人、立憲4人、新左翼系5人、自民反主流派(維新含む)4人、その他革新系無所属6人。ようするに、自公22人に対して、反自民が25人という構造なのだ。

東京11区(板橋区)の下村博文はどうだろう。前回、下村は104612票だったが、立憲民主の候補が60291票、希望の党が42668票、共産党候補が25426票だった。今回、立民と共産は統一候補とならなかったが、それでも前回票を参考にすれば、下村は1653票差という薄氷の勝利なのだ。

自民党総裁選挙出たことのある石原はもとより、危ない筋からの献金を居直った元文科相の下村博文を、知らない有権者は少ないことだろう。この二人が落選でもしたら、岸田政権の求心力は確実に落ちると断言しておこう。

ふり返ってみれば、8月ごろには自民党の独自調査で、64議席減という数字があったのだ。菅ポンコツ政権がこのまま続けば、確実に政権交代が起きると、この通信でも報じてきたとおりだ。

さらに個別の選挙区情勢に肉薄して、自民単独過半数割れの「危機」を予測していこう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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