【カウンター大学院生リンチ事件(別称「しばき隊リンチ事件」)検証のための覚書4】闘いはまだ終わってはいない!(2)私は血の通った一人の人間としてM君リンチ事件(被害者救済・支援と真相究明)に関わってきた 鹿砦社代表 松岡利康

◆M君リンチ事件に対する私の基本的スタンス
 
李信恵らが関わった集団リンチ事件を偶々知った時、リンチ直後の被害者M君の顔写真を見、リンチの最中さんざんM君が殴られる音声データを聴いて、正直仰天しました。

そして、社会運動、反差別運動において、こんな酷い暴力沙汰が、いまだにこの民主社会日本で行われていたこと、にもかかわらずメディアがなぜか報じず隠蔽され闇に葬られようとしていることに義憤を感じました。

私なりにリスペクトし、なかには講演に招いてきた「知識人」や「ジャーナリスト」らが、この野蛮なリンチ事件の加害者を叱責するのではなく、逆に、あたかも「反差別運動の旗手」として李信恵を祀り上げていることに違和感、嫌悪感を覚えました。いやしくも老出版人として、この事件の実態と真実を世に知らしめ被害者救済・支援をしなければならないと素朴に感じました。

私たちの世代、つまり1970年前後に学生時代を過ごした者は、学生運動内の内ゲバや連合赤軍のリンチ殺人事件などを、いやがおうでも見てきました。私が知っている人や、尊敬する先輩(現在ニューヨーク州立大学教授)の親友もリンチの犠牲になり亡くなっています。私もノンセクトの学生運動の末席を汚しましたが、早朝ビラ撒き中に、武装した連中に襲われ重傷を負い入院した経験がありましたし、私の1年先輩でノーベル賞作家の甥のSさんは、酷寒12月の早朝襲撃され激しいリンチを受け瞳孔が開き一時は医者も見放した事件もありました(奇跡的に一命は取り止めました)。

有田芳生参議院議員

ちなみに、李信恵と昵懇で、このリンチ事件直後に来阪し、以後隠蔽活動の一端を担っているとされる有田芳生参議院議員は、大学は違いますが私と同期で、私やSさんらを襲撃した組織(神原・上瀧弁護士が支持する政党の学生組織)に属し、この中心的活動家でしたが(襲撃事件に直接関わっていたかどうかは不明ですが、彼の大学は当時、私の大学の近くに在り全国屈指の拠点で、毎週2、3度多勢で情宣に登場し、時に集団で暴力的に襲撃してきましたので、何らかの関わりがあると推察するのが普通でしょう)、今回のリンチ事件で李信恵を擁護し嘘をついて隠蔽活動の一端を担っているのを見、さらには脅迫目的で四国の自動車販売会社・合田夏樹社長の自宅を訪問しようとした(訪問したが家人留守とされる)事件で、宣伝カーを貸し出したりして蠢いていることから、「相変わらずだな」と感じた次第です。

合田夏樹脅迫事件を追った寺澤有作成のイラスト(『反差別と暴力の正体』巻頭グラビア)
合田夏樹脅迫事件資料(伊藤大介のツイート)

その後、そうした反省から、この国の社会運動や反差別運動内で暴力による制裁やリンチなどなくなっていったはずだと思っていました。かつての悪夢が甦ってきました。幸いにM君が学生時代にラクビーをやっていたということで死に至ることはありませんでしたが、死に至っても不思議ではありません。上記のSさんと同じケースです。ひ弱な私だったら死んでいるでしょう。

私も今年69歳、来年には70歳です。出版人としてのみならず人間としても老境にありますが、それなりに名の有る「知識人」や「ジャーナリスト」らの体たらくを叱責しなければ死んでも死に切れません。

私は偶々知ったこの集団リンチ事件に対して、学生時代に体験し見聞きした内ゲバやリンチ事件と重ね合わせ、みずからの問題として追究してきましたし、リンチ被害者M君の苦しみには到底及ばないものの、私なりに思慮してきました。M君が李信恵らを訴えた訴訟は、一応全て終結しましたが、鹿砦社関係の訴訟もありますし、この国の社会運動内においてなぜ暴力が発生するのか、その根絶は可能なのか?──このリンチ問題への関わりを契機に、もうしばらく思慮していきたいと考えています。

◆鹿砦社の出版活動への信頼度

この通信の読者のみなさんならご存知のように、鹿砦社は創業して昨年で50周年でした。東京と西宮双方で開いた記念集会には多くの方々がお祝いに駆けつけてくださいました。

さらに、鹿砦社の100パーセント子会社(株式会社エスエル出版会)に編集・発行を委嘱し被告が発売する月刊社会時評誌『紙の爆弾』誌が、この4月発行号で創刊15週年を迎えました。また、同誌の増刊号として季刊で発行する反原発雑誌『NO NUKES voice』も6月発行号で24号に至り6年が経とうとしています。こちらにも多氏斉々の著名な方々が寄稿やインタビューに応じてくださっています。鹿砦社が創業50周年を迎えることができたのも、月刊社会時評誌『紙の爆弾』が創刊15周年を迎えることができたのも、『NO NUKES voice』が多くの著名人も寄稿・インタビューに応じてくださり創刊6周年を迎えることができるのも、鹿砦社の出版活動への信頼があるからこそだと信じています。

また、私も、出版の仕事に携わって40年が過ぎました。あっというまに、もうすぐフェイドアウトする時期になろうとしています。

鹿砦社、及びこの代表の私は、そうした長い歴史を踏まえ、M君リンチ事件の問題について一人の血の通った人間として関わってきましたし、今も〈社会運動と、リンチという内部暴力〉に対して思索を続けています。やはり健全な社会運動、とりわけ李信恵が関わるとされる反差別運動に、李信恵らが連座したリンチなど不要で害悪でしかないということだけは断言できます。この点、李信恵はどう考えるのでしょうか? 

◆李信恵や神原弁護士らは私たちを口汚く罵るのではなく、真摯に反省し被害者の身になって考えてあげてください──屁理屈はどうでもよい、このことが先決です

私は血の通った人間として、李信恵みずからが連座したリンチ事件に、なんら反省もなく開き直る李信恵と、彼女を守るため必死に論を張る神原、上瀧両弁護士を弾劾し反省を求めます。まずは被害者の身になって考えていただきたいと申し述べるのはおかしいですか? 神原弁護士に至っては、私(たち)に対して「私怨と妄想に取りつかれた極左の悪事」とまで詰っています。「極左」とは公安用語だと聞いてきましたが、まがりなりにも「左派」を自認する神原弁護士が使う言葉ではありません。

さらに、それが「手が込んでるだけに、右翼のそれより質が悪いね。売名と集金が動機に加わればなおのこと。文字通り、魑魅魍魎だね、こいつら」とまで詰っています。「売名と集金」だって? いやしくも私は「売名と集金」でM君救済・支援をやってきたわけでは断じてありません。失礼な物言いです。支援会に集まったカンパについては、大川弁護士が厳密に管理し私たちは1円のお金にも触れていませんし公明正大に公に報告しています。「売名と集金」──どういうことか説明してください。M君関係の2件の訴訟以外には心ある皆様がカンパしてくださった浄財を使ってはいませんし、李信恵らとの鹿砦社の訴訟は、鹿砦社自身の資金で賄っているということも明言しておきます。

また、弁護士たる者が使うには不適当な「こいつら」とは誰のことを言っているんですか? いい加減にしていただきたいものです。

ちなみに「集金」云々を言うのであれば、李信恵の裁判支援会の会計報告はなされた形跡がありませんが、どうなっているのでしょうか? 李信恵や、この裁判の代理人を務めた上瀧弁護士らは明確に答えるべきです。(文中敬称略)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

【カウンター大学院生リンチ事件(別称「しばき隊リンチ事件」)検証のための覚書3】闘いはまだ終わってはいない!「唾棄すべき低劣さは反差別の倫理を損なう」! 鹿砦社代表 松岡利康

私たちが「カウンター大学院生リンチ事件(別称「しばき隊リンチ事件」)について第5弾本を発行したのは、ちょうど2年前の2018年5月28日でした。以降2年間、出版物を出さず、わずかにこの「通信」で時折節目節目でコメントをする程度でした。このかんにリンチ事件被害者M君が加害者5人を訴えた民事訴訟は、控訴審、最高裁も終わり、満足のいく内容ではありませんでしたが、M君勝訴で終結しました。

また、鹿砦社がリンチ事件の中心人物・李信恵による誹謗中傷、暴言に対し訴えた民事訴訟も、李信恵の不法行為を大阪地裁‐高裁も認め鹿砦社勝訴で終結しました。

さらに、対李信恵訴訟は、結審を前にして李信恵が「反訴」を起こし、これが反訴とされず「別訴」として現在も大阪地裁で審理中です。もう一つ、“隠れしばき隊”として業務時間の大半を使いこっそりと業務外のツイッターや私的メールを繰り返していた鹿砦社元社員・藤井正美に対する訴訟も係争中で、これも反訴してきて、今後も続いていきます。M君の訴訟にしろ対李信恵、対藤井正美の訴訟にしろ、しばき隊の守護神・神原元弁護士が代理人に就いており、どうやら反訴という手法は神原弁護士の戦術のようです。

この2年間、私たちは手を拱いていたわけではありません。本を出せなかったのは、2018年後半は私の重篤な目の疾患により編集作業ができない状態だったこと、2019年になると鹿砦社創業50周年記念行事(東京と関西双方で)と記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』刊行、後輩の書家・龍一郎講演などに追われたことによります。2020年の本年も、私たちが10年来応援している女性デュオ「Paix2(ぺぺ)」の「プリズン・コンサート」と称する獄内ライブ活動500回記念出版の作業に追われて来ました。

決して、くだんのリンチ事件を忘れていたわけではありませんが、不器用な私たちは、並行して複数の仕事を遂行することが十分にできないことで、あっというまに、気づいたら出版物を出していませんでした。

このGWを挟んでPaix2のプリズン・コンサート500回記念出版も一段落し、さらには、くだんの対李信恵第2訴訟もさらなる陳述書を執筆する必要に迫られ、次の本(第6弾)の準備もあり、これまでの資料を整理し5冊の本を再読し、思いつくまま書き綴ってきました。

私たちの力不足もあって、くだんのリンチ事件、及びこれから派生した諸問題は、なんら本質的に解決がついておらず、このままでは、同種同類の事件が起きることを懸念しています。加害者らや、この支持者らに真摯な反省などありませんから。

この問題について、いわゆる「ジャーナリスト」や「知識人」といわれる徒輩の体たらくを見るにつれ、放置しておけない! と、取材、検証作業を再開することにしました。

幸い、この2年間、対李信恵、対藤井正美との訴訟を進めながらも(これらの訴訟があったお蔭で問題意識は持続できました)、いささか距離を置いて思索してきました。そうして、リンチ事件の被害者救済・支援と真相究明に関わり始めてから5冊の本を出す過程では気づかなかったことがありましたが、この2年間で気づいたことも少なからずありました。

そうして思いつくまま文章を書き綴ってきました。言いたいことが堰を切ったように出てきて長大なものになりました。ここでは、もちろん一挙に掲載できませんので、分載していきます。(本文中、M君を除いては基本的には敬称は省かせていただきましたが、他意はありません)

◆李信恵らに、血の通った人間の心があるのか!? みずからの「被害」なるものを強弁するのではなく、まずは真摯に反省せよ!

李信恵が関わり連座した集団リンチ事件、みずからが中心になって惹き起こした、この事件に、彼女はいまだに何の反省もなく、開き直っている感が私には否めません。このかんの相次ぐ訴訟や社会的批判で少しは反省したかと思っていましたが、そうではなかったようです。これは、最近提出された彼女の2020年4月8日付け「陳述書」を一読しても、反省や人間としての誠実さなどは感じられません。あたかも自分が鹿砦社の出版物の「被害者」であるかの態度を強弁し、李信恵らによる暴虐の被害者=M君への謝罪の気持ちが、ただの一言もないのは彼女の人間性故でしょうか。自分が鹿砦社の出版物で「被害」を受けたというのであれば、まずはM君への謝罪が最優先になされるべきではないでしょうか。

李信恵は鹿砦社の出版物やこの通信の記事による「自分の受けた被害」で、「苦しい気持ちになりました。」「不安と苦痛でいたたまれません。」「恐怖に苛まれました。」「恐怖心でいっぱいになりました。」「これら記事を読んで泣き崩れました。」「非常に不安になりました。」「不安感や苦痛はとうてい言葉にできません。」「怒りと悲しみでいたたまれなくなります。」「私に対する強い悪意を感じ、非常に恐ろしいと感じています。」等々言いたい放題です。いい加減にしろ! 集団リンチの被害者M君が言うのであれば判りますが、集団リンチ事件に連座した彼女が言うのには違和感があります。

李信恵らは「リンチ」という言葉が嫌いのようですので、集団暴行傷害事件と言い換えてもいいですが、いずれにしても大の大人が5人で深夜に大学院生M君を呼び出し、集団で(うち2人を直接の暴力行使役として)暴行を加え、まさに半殺しともいうべき瀕死の重傷を与え、何の介抱もせず、救急車やタクシーも呼ばず師走の寒空の下に放置し立ち去った事実には変わりはありません。5人の中には、あまり注目されていませんが、格闘技の達人(松本英一)もいました。強面(こわもて)で鳴る伊藤大介と共に、いわば“用心棒”的な役割を果たしたといえるでしょう。

そもそも李信恵らが嫌う言葉「リンチ(linch)」とは何なのでしょうか? 『広辞苑』(第七版。2018年)には「法によらない私的制裁。私刑」とあります。ですから、李信恵ら5人が連座した暴行傷害事件は、まさしく〈私刑=リンチ〉です。〈私刑=リンチ〉以外の何物でもありません。

私は、全く白紙の状態で、この事件の被害者M君の救済・支援と真相究明に携わって頂度4年、あらためて李信恵の人間としての不誠実さを感じています。

李信恵「謝罪文」の1ページ目(全7枚)

事件直後、李信恵はM君に署名と捺印のある手書きの「謝罪文」を出し活動自粛も約束しています。曲がりなりにも謝罪と反省の気持ちはあったものと察します。ところが、しばらくすると、これを撤回し、「リンチなどなかった」「自分は無関係だ」等々と翻意しています。ならばなぜ「謝罪文」を出したのでしょうか? 李信恵さん、なぜですか?

李信恵さん、リンチ事件から一夜明け酔いが覚めた時、「しまった!」と思いませんでしたか? 自筆で書かれた「謝罪文」に嘘はないものと信じます。人間として、天地神明に誓って、どうですか? 自分は暴力を振るっていないとかを言い張ることも、あなたにとって重要でしょうが(少なくとも到着したM君に最初に「なんやねん、おまえ!」と詰め寄り胸倉を掴んだことは李信恵自身も認め、これがリンチの口火を切ったことは確かでしょう)、リンチの現場に李信恵ら5人が居て、M君が殴られ続けているのを止めもせず、悠然とワインをたしなみ、さらには、あろうことか、それをSNSで流しています(『カウンターと暴力の病理』の巻頭グラビア参照)。まともな人間がやることではありません。

さらには、重傷を負った被害者M君を師走の寒空の下に放置して立ち去っています。なぜ救急車を呼ばなかったのですか? 偶然ながら、私は、リンチ現場の隣のビルに同郷の知人が飲食店を出していて、同郷人や同窓会の集まりなどで時折行っていたのですが、すぐ近くにタクシー会社の営業所があります。電車がなくなるまで遅くなったら私も利用していました(1年に1、2度ですが)。にもかかわらず、李信恵らはなぜタクシーに乗せようともしなかったのでしょうか? これだけの瀕死の重傷を負った被害者を見て、なぜ救急車を呼んだりタクシーに乗せなかったのでしょうか? 李信恵さん、ぜひお答えください。

こうしたことを見るだけでも、李信恵らに血の通った人間の心、人権や良心があるとは、私には到底思えません。

◆私李信恵らは、私たちがリンチ被害者M君を救済・支援してきた意味と想いを誤認しています

辛淑玉書簡の1ページ目(全7枚)

また、李信恵の、いわば姉御分の辛淑玉は事件直後、「Mさんリンチ事件に関わった友人たちへ」という長文の書簡を書き配布しました。ここで辛淑玉は「これはリンチです。まごうことなき犯罪です」と李信恵らを強く叱責しています。これは自らの若い頃の体験に基づいた、いわば魂の叫びといったもので、読む者を感動させます。私も胸打たれました。重要なので裁判の書証として提出予定です。しかし、遺憾ながら、これものちに撤回されます。

このように、辛淑玉はじめ李信恵の周囲の人たち、「カウンター」といわれる人たち、「反差別」運動に関わる人たちも、事件直後は「なんということをやってくれたんだ」と思ったということは容易に想像できます。裁判所が好んで使う「一般読者の普通の注目と読み方」をすれば、そうではないですか?

おそらく事件直後は、李信恵にも謝罪や反省の気持ちは多少なりともあっただろうし、李信恵の周囲の人たちにも、辛淑玉の書簡のように良心の欠片はあったものと思われます。

しかし、M君は、一部の知人を除き彼を応援する者は皆無に近く、私たちと知り合うまでの1年余り孤立しさらなるセカンド・リンチ(ネット・リンチ)を受けたり村八分状態にありました。おそらくこれを見透かして李信恵らは「謝罪文」や活動自粛の約束を撤回したり開き直ったものと推認されます。卑怯極まりありません。今の世の中に村八分は許されません。村八分は差別ではないんですか?

李信恵らは日頃から頻繁に「人権」という言葉をあまりにも軽々しく使っていますが、前述の如き行為は、逆に一人の人間の人権を蔑ろにするもので、そこには血の通った人間としての真摯さや誠実さといったものは感じられません。それはそうでしょう、あれだけの暴虐をやっておきながら(あるいは連座しておきながら)、自己弁護や弁解ばかりで、人間としての真摯さや誠実さを見ることができないからです。いかがですか、李信恵さん!

私たちは、原則的にいかなる差別に反対し、たった一人の人間の人権をも尊重するというスタンスを堅持し、このように日頃から努めてきました。差別に反対し人権を尊重するという崇高な営みに関わる人には尊敬の念を持ってきましたし、これは今も変わりはありません。だがしかし、かつて「エセ同和」といった言葉があったように、世の中にはエセや偽物があることも見極めなければなりません。美辞麗句やキレイ事に惑わされてはなりません(が、けっこう騙されたり誤認します)。

私は、李信恵が真に人権を大事にするというのならば、まずは「謝罪文」の地点に立ち返って欲しいと願っています。これは私が繰り返し述べていることです。私たちは、私たちが言っていることや出版物などに書き連ねていることに間違いはないのかと自問自答しつつ、謙虚にこの問題に関わってきましたし、綿密な取材と調査を行い事実を積み上げてきました。もし間違いなどがあれば指摘してほしいとも幾度となく申し述べていますが、5冊も本を出しても、事実関係などについて、きちんとした批判や反論などは皆無です。李信恵や彼女の訴訟代理人の神原、上瀧両弁護士には著書も複数あり、出版ができる環境にあるにもかかわらず、なぜ「言論には言論で」批判、反論されないのでしょうか?

反論らしき反論は、鹿砦社が李信恵による誹謗中傷、暴言に対して起した訴訟の反訴(→別訴)でようやくなされました。この時点ですでに4冊の本が出版されていました。

しかし、これはあくまでも、裁判所という限られた場での議論にすぎず(それも、ずっと非公開で進められてきました)、公の議論ではありませんし、4冊の本が既に出版された後で時期的にも遅いんじゃないでしょうか。鹿砦社による訴訟の対抗上反論したものといえます。

さらに私は李信恵が「謝罪文」の地点に立ち返り李信恵らが和解のテーブルに就くのであれば、このために汗を流すのを厭わないことも、何度となく申し述べています。いたずらに諍い合っても社会運動、なかんずく反差別運動にとっては決して有益ではない、むしろ無益だと考えるからです。一例を挙げれば、―

松岡 もう今年いっぱいで、事件から三年が経つわけでしょう。やはり『このまま裁判を続けていっていいのかな』と思うのは一つです。M君本人は、『裁判を続ける』という気持ちがあるんだろうけど、一定のところで何らかの手打ちをしないとね。
 清(義明)松岡さんがそういうことを言うとは思わなかったな。
 松岡 僕はそう思うし、そういうことを本にも書いているじゃないですか。
   いや、僕も手打ちさせたほうがいいと思う。
 木下(ちがや) いや、俺もそう思う、絶対そう。
 松岡 なぜかというと、これヤクザの抗争じゃないんですよ。やはり社会運動の中でのトラブルなわけだから、そうしないと絶対『反差別運動』に良いことはない、と思うんですよね。
 木下 まったくないです。」(『真実と暴力の隠蔽』170ページ)

リンチ被害者のM君は瀕死の重傷を負ったわけですから李信恵らリンチ現場に同座した5人に対して多かれ少なかれ恨みつらみなどがあることは致し方ないとしても、私、および私の呼びかけで取材などに協力してくれた者らには最初から私怨や遺恨などありません。ましてや、私たちはリンチ事件に対する被害者救援と真相究明に携わるまで李信恵を知らなかったわけですから彼女に私怨や遺恨などあるわけがありません。

こうしたことを李信恵らは全く理解していないようです。

◆李信恵の「唾棄すべき低劣さは反差別の倫理を損なう」!

私は、このリンチ事件に対しては、李信恵はじめリンチ現場に同座した5人全員に〈連帯責任〉があると考えています。常識的に見、「一般読者の普通の注意と読み方」をすれば共謀関係もあったものと推認できますし、私たちはそう確信しました。M君が起こした民事訴訟や刑事事件で、確かに李信恵(と伊藤大介、松本英一)は損害賠償や罪を免れていますし共謀関係も認められませんでした。

だからといって、法的云々以前に人間としての責任を免れることはありませんし、この点は裁判所や検察庁は判断を誤っていると私は思います。法律とは、あくまでも人間の幸福追求のためにその行為の是非を公正に判断するためのものであり、一人の暴力の被害者を救済するための一つの手段として法律があり裁判所があるのではないでしょうか? 裁判所の法的判断で罪を逃れたからといって、人間としての言動が全て判断されたり放免されたわけではないのです。

こうした意味で、一部の識者も指摘するように(一例として前田朗東京造形大学教授執筆「反差別運動における暴力(二)」参照)、リンチ被害者M君が李信恵を訴えた一審大阪地裁(及び上級審)判決は「不自然な事実認定」「結論を先取りするために強引な認定」と批判される由です。

この論文において前田教授は李信恵(本文では「C」と表記)に対して「唾棄すべき低劣さは反差別の倫理を損なう」とまで非難されています。

前田朗論文「反差別運動における暴力(二)」(『救援』2018年5月10日号)

李信恵が在特会らのヘイト行為を訴えた訴訟で上瀧弁護士らは弁護団を結成し、前田教授は上瀧弁護士ら弁護団から依頼を受けて裁判所に「意見書」を提出するほど強く関わりましたが、「それだけに、本件訴訟(注:M君が李信恵を被告として訴えた民事訴訟)の経緯と内容を見ると脱力感に襲われる」と記し、「被告(注:この場合、李信恵)らの弁護人には知り合いが多い。かねてより敬愛してきた弁護士たちであるが、彼らはいったい何のために何をやっているのだろうか。依頼人のために仕事をしただけかもしれないが、あまりにも情けないという自覚を有しているだろうか。差別と暴力に反対し、人権侵害を許さない職業倫理をどう考えるのか。」と上瀧弁護士らを強く叱責しています。

それでいながら前田教授は、東京在住の故か本件リンチ事件の実態をほとんどご存知なかったようで、私が3冊の本を送って初めて実態を知り、そのショックは文面に表われている通りです。おそらく本音でしょう。李信恵の周囲の人たちや弁護士らをよく知っていながら、件のリンチ事件をご存知なかったというのも、上瀧弁護士らが「意見書」まで書いてくれた前田教授にリンチ事件の存在を言わず、李信恵らによる、事件をなかったことにしようとする隠蔽活動がうまくいっていたのでしょうが、悪いことは必ずバレます。(尚、この論文は「三」まであり、私とのやり取りで質問に答えず途中で逃げたり、のちのち態度が豹変しますが、少なくとも「二」までは真っ当な意見だといえます。)

◆李信恵は、まずは「謝罪文」に立ち返れ!

李信恵さん、あなたの「陳述書」には反省の念が感じられません。あなたに一片の良心があれば、今からでも「謝罪文」の地点に立ち返り、血の通った人間として真に反省されることを強く望みます。先の前田教授に「唾棄すべき低劣さは反差別の倫理を損なう」とまで叱責された李信恵さん、あなたが、真に差別に反対し、一人の将来ある若き大学院生の人権を尊重するというのであれば、今からでもやるべきことは歴然です。李信恵さん、あなたは鹿砦社の本で「被害」を受けたとか「不安や苦痛」「恐怖心」でいたたまれなくなったなどと被害者然としていますが、最大の被害者はM君です。このことを決して忘れないでください。

神原元弁護士のツイート

みなさん方も、第4弾本『カウンターと暴力の病理』の巻頭グラビアに掲載されているリンチ直後の顔写真をご覧になり、CDにして付けている音声データをお聴きください。まさに地獄絵、阿鼻叫喚です。みなさんも人間なら、これらを見聞きして何も感じないのなら人間ではありません。判決文でよく使われる「一般読者の普通の注意と読み方」をされたらいいだけの話です。

李信恵らはこのCDについても、あろうことか、これが李信恵の無実や、リンチ事件の首謀者でないこと等々を証明する証拠だと論理をすり替えています。狡知に長けた神原弁護士の智恵かもしれませんが、李信恵らはどこまで神経が腐っているのでしょうか、常人には到底理解できません。おそらくこの音声データがリンチの証拠として世の中に公開されたので、逆にリンチがなかったことの証拠と言い張ることで、形勢逆転を狙ったものと思われます。

私たちは、李信恵らが関わった、M君に対する集団リンチ事件について、リンチ被害者M君の救済・支援、そしてこの集団リンチ事件を負の遺産として主体的に反省し今後の社会運動のために活かすために、この事件の真相究明をするという、シンプルな想いこそ、この事件に関わる私(たち)の目的で、李信恵を貶めようとかいうような邪悪な政治的目的はありません。神原先生、あなたは私たちに対し、「私怨と妄想にとりつかれた極左の悪事」などとツィートしておられます。傷つき孤立した青年の魂の叫びを聞き、治療費はじめなんの弁済もなされず村八分にされていたことについて、救済・支援をし、真相究明をすることが「私怨と妄想にとりつかれた極左の悪事」ですか? 取材班や支援会で、多少なりとも学生運動に関わった者は私だけですから、おそらく私に対して詰(なじ)っておられるものと思わざるをえませんが、これはどういうことでしょうか? ぜひ私の面前で説明してください。

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

【カウンター大学院生リンチ事件(別称「しばき隊リンチ事件」)検証のための覚書2】みんなグルだった!? 鹿砦社代表 松岡利康

直近の大きなニュースの一つは、東京高検トップ・黒川弘務(元)検事長の賭けマージャンスキャンダルでしょうか。そしてその賭けマージャンに産経新聞記者2人と朝日新聞社員(元検察担当記者)が同席していて、これが常習化していたそうです――また朝日新聞か! 

朝日といえば、先立って阿久沢悦子記者(大阪社会部から現在静岡総局)にまつわることを報じたばかりです。特段朝日を嫌いではありませんし、自宅で購読しているのは朝日ですが、15年前の「名誉毀損」出版弾圧事件での官製スクープ以来、くだんのリンチ事件での司法記者クラブ所属記者や朝日本社広報の対応(詳しくはリンチ本第4弾『カウンターと暴力の病理』を参照してください)など、なにかと因縁があります。そのどちらも私が悪いわけではありませんが、阿久沢記者、それに大阪社会部記者らには、とても日本でトップクラスの大新聞の「ジャーナリスト」とは思えない振る舞いに煮え湯を飲まされてきましたが、「またか」という思いが尽きません。

ちなみに、こういう大手新聞社・通信社の記者や社員が起こした事件を報じる場合、なぜか実名を出しませんが、いつも疑問に思っています。マスコミは「第四の権力」ですから、「第四の権力」者は(準)公人と言ってもよく、こんな大スキャンダルですから実名を出すべきでしょう。一般市民がささいな事件を起したら簡単に実名や住所(さすがに番地までは出しませんが)など掲載するのに、です。逆じゃないでしょうか?

さて、私が阿久沢記者を許せないのは、村八分状態にあったリンチ被害者M君が孤立していたさなか、あたかも味方のように近づき精神的にも弱っていたM君を弄んだからです。阿久沢記者は、自称「浪花の歌う巨人」ミュージシャン趙博をM君に紹介し、挙句趙博は、当時まだ公にされていなかったリンチ事件の貴重な資料を入手し、その後M君や、M君支援に関わり始めたばかりの私たちを裏切りました。私たちは趙博に直接裏切られましたので、彼がいろいろな運動や組織に近づき、いかがわしい動きをしていることに不信感を抱かざるをえません。私たちは彼に直接裏切られたのでハッキリ言いますが、「趙博に気をつけろ!」

 

阿久沢記者について、調べていくと、「ん、っ!?」と思わざるを得ない写真が出てきました。阿久沢記者の隣にはリンチ事件隠蔽のA級戦犯の一人・北原みのり、そしてリンチ事件隠蔽の表には登場しませんが、取材により関与が疑われた谷口真由美、また井戸まさえ(元衆議院議員)、らが写っています。

「石原燃さんの『白い花を隠す』の再演を池袋に観に行きましたら、井戸さん、谷口さん、北原さん、中安さん、なつきちゃん……知り合いがぞろぞろと客席に……いやー、びっくりしました」ということです。「いやー、びっくり」したのは私のほうです。なあんだ、みんなグルだったのでしょうか。極めて不愉快です。

谷口真由美が、リンチ事件について、あちこちで嗅ぎまわっているという噂がありましたので、「なぜだろう?」と思っていましたが、この写真で合点がいきました。

4月28日は、対李信恵第2訴訟、対藤井正美訴訟の期日でしたが、コロナウイルスによる非常事態宣言で延期になりました。どちらも代理人は神原元弁護士ですが、これらの裁判のために東京からやって来る神原弁護士のために、私たちなりに配慮して同日に開くことに同意しています。べつに配慮してやらなくてもいいんでしょうが、余裕です(笑)。他にも李信恵が高島章弁護士を訴えた訴訟も神原弁護士が代理人を務めていますが、これも同日で、神原弁護士は1日にダブルヘッダーならぬトリプルヘッダーで大車輪のご活躍です。

 

次のリンチ関連書籍や陳述書の準備のために、静かで長かったGW中にこれまでの資料などを整理していくと、新たに分かったこともありました。

M君の“元上司”に高橋直輝こと添田充啓という男がいましたが、不審な亡くなり方をして、もうどれほどになるのでしょうか。添田は「しばき隊」の中でもゲバルト部隊の感のある「男組」のトップで「組長」といわれていました。M君は添田の部下でしたので、添田への直撃取材も敢行しようとしていました。

添田と一緒に親しげに写っている著名人の写真が出てきました。あれっ、佐高信、社民党党首・福島みずほさんではないですか? 

 

福島が関わった集会のフライヤーも出てきました。この集会の司会は池田幸代(元福島みずほ秘書)、出席者に辛淑玉、金平茂紀、福島みずほらがいましたが、この集会の直後、執行猶予中でありながら、添田は、いわば“鉄砲玉”として沖縄に派遣され逮捕、のちに有罪判決を受けます。

その後、精神的に病んだという噂も耳に入ってきていたところ、謎の死を遂げます。しかし、死亡の報も、実際になくなってからずいぶん経ってからしばき隊の中心人物の一部から漏らされましたが、死の真相は公にならないまま現在に至っています。3回忌とか弔いの儀式などやったのでしょうか? 本当にこれでいいのでしょうか? 添田の死は「死人に口なし」でM君リンチ事件真相究明のためにマイナスになりました。

口封じのために殺られたとか精神的に追い詰められ自殺したとか……あれこれ噂が耳に入ってきていましたが、常識的に言って、添田を死に追い詰めたものは何だったのか、解明しないといけないのではないでしょうか? 

また、彼をやんややんやと煽り立て沖縄に派遣した辛淑玉、金平茂紀、福島みずほらは何を考えているのか、所信を表明すべきではないでしょうか? そうではないですか? 私の言っていることは間違っていますか?

 

その後、しばき隊は沖縄にはどう関わっているのか、これもどうなっているのでしょうか?

くだんのM君リンチ事件それ自体にも、その添田死亡のようにリンチ事件周辺にも不思議なことが少なくありません。

私たちが全く白紙の状態からこのリンチ事件の被害者支援と真相究明に関わってきて、多くのことを反面教師的に学んできました。一番疑問に思ったのは、朝日の記者ら「ジャーナリスト」らの醜態、かつては講演などにも招いたこともある池田香代子ら「知識人」のでたらめさです。

池田香代子は、ご存知のようにアウシュヴィッツの実態を記述したフランクルの『夜と霧』の新訳を出しています。学生時代に旧版を読んで衝撃を受けました。私よりも上の世代にとっては必読本でした。この頃、必読本は多く、一知半解ながら読み、このことが今になっても活きていると思います。

池田にとってアウシュヴィッツとは何なのか? アウシュヴィッツとは、ナチスによるユダヤ人大虐殺があった強制収容所ですが、これはもちろん他人事ではありません。われわれの心の中にも潜在的にアウシュヴィッツ的なものはあり、これと不断に対決していかなければなりません。池田さん、あなたは『夜と霧』を翻訳する過程でアウシュヴィッツがどのようなものか理解されたと思いますが、アウシュヴィッツ的なものはあなたの心の中にもあることを自覚すべきでしょう。

収容所の中で虐殺が行われていたことはドイツの国民や周囲の住民らは知っていたかうすうす感じていたとされますが、これをくだんのリンチ事件に当てはめると、池田らしばき隊に近い者たちは知っていたと推認され、だからこそ真相をたずねようとすると逃げ出したり沈黙したり、逆に開き直ったりするのでしょう。ここにアウシュヴィッツ的なものを感じますが、逃げ出すことなく事実を見つめアウシュヴィッツ的なものやリンチの思想と主体的に対決していかなければなりません。特に池田香代子にはその責任があります。

このかん資料を整理し書き連ねてきたことを、今後数回にわたり分載していきます。(文中敬称略)

◎松岡利康【「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)検証のための覚書1】朝日新聞・阿久沢悦子記者の蠢きと、「浪花の歌う巨人」趙博の突然の裏切りについて(2020年4月27日)

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【「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)検証のための覚書1】朝日新聞・阿久沢悦子記者の蠢きと、「浪花の歌う巨人」趙博の突然の裏切りについて 鹿砦社代表 松岡利康

4月22日の本通信で、朝日新聞・阿久沢悦子記者が「浪花の歌う巨人」こと歌手・趙博をリンチ被害者M君に紹介し、2人とも、あたかも親身になってM君の味方であるかのように振る舞い、趙博に至っては、当時まだ公になっていなかった貴重な資料を入手するや、突然にM君、そして私たちを裏切りました。阿久沢記者は、いつのまにかM君から離れていったそうです。かの橋下徹に勇ましく喧嘩を売るほどの御仁ですが、リンチ事件について説明責任があることは明らかです。

阿久沢記者の記事の訂正の告知。朝日新聞4月25日夕刊

阿久沢記者は、今は問題を起こしたTwitterはやっていないようですが、facebookはやっていて、直近の書き込みで、これみよがしにみずからの朝日の石井紀子さん追悼記事を上げていましたので、「この件について私も本日の『デジタル鹿砦社通信』で書いてみました。ご一読いただければ幸いです」と投稿したところ、みずからの書き込みもろとも速攻で削除されました。

その後、4月25日夕刊に訂正の告知が掲載されていました。あっ、そうか、私が投稿したから削除したのではなくて、記事に間違いがあったから削除したのでしょうか?(笑) 高い給料もらってんだから、しっかりした記事を書け!

◆裏切りは突然行われました

さて、趙博が裏切る数日前、M君や私たちは大阪・堂山の居酒屋で一献を傾け、今後、リンチ事件の真相究明とM君支援を約束したのでした。

先の拙稿で、趙博の裏切りについて何人かの方から「よくわからないので説明が欲しい」旨要請がありましたので、まずは趙博の裏切りについて書き記したリンチ本の部分をアップしておきます。

リンチ本第1弾『ヘイトと暴力の連鎖』と第4弾『カウンターと暴力の病理』の該当部分をアップします。今、あらためて読むと怒りが込み上げてきます。

私が阿久沢記者と趙博に対して許せないのは、孤立し追い詰められたM君に心から寄り添うのではなく、逆に寄り添うように見せかけながら若いM君の気持ちを弄んだことです。

リンチ被害者M君が、リンチ現場に居合わせた李信恵ら5人を訴えた訴訟は(内容には不満が残るとはいえ)M君勝訴で終結しましたが、関連訴訟2件が係争中です。これらも含め、日本の反差別運動に汚点を残した、このリンチ事件の検証と総括が問われています。特に、隠蔽に加担し私たちの追及に逃げ回ったり沈黙するメディア関係者や「知識人」らの責任は厳しく問われるべきです。

このかん私たちは、鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』や記念行事(昨年12月、東京と関西で盛況裡に行われました)、先に全国の矯正施設(刑務所や少年院など)を回るプリズン・コンサート500回を達成したPaix2(ぺぺ)の記念出版『塀の中のジャンヌ・ダルク』(仮)の編集作業に追われ中断していましたが、決して忘れていたわけではありません。それらが一段落した今、リンチ本第6弾の編集作業を再開いたします。

◆阿久沢記者と趙博の責任は大きい!

朝日新聞・阿久沢悦子記者が書いた記事の署名が私の足を踏んでしまったようで、くだんのM君リンチ事件を思い出してしまいました。

阿久沢記者がM君に引き合わせた趙博の裏切りは、私たちが本件に関わり出して、わずか2カ月ほどの時点で起きました。関わり始めてすぐだったのでショックでした。私の人生で、人に裏切られたことは少なからずありましたが、こういう裏切りはありません。

趙博と私たちが大阪・堂山の居酒屋で会談を持った直後に『週刊実話』の記事が出て、しばき隊メンバーらからの激しい攻撃に『実話』は謝罪と記事撤回に追い込まれた事件がありましたので、このことも何らか作用しているのかもしれません。この頃のしばき隊/カウンターの勢いは凄まじかったようです。趙博も、まさかこれに怖気づいたわけではないでしょうが……。

阿久沢記者と趙博の責任は大きいと言わざるをえません。(文中敬称略)

『ヘイトと暴力の連鎖』(P74-P75)より
『ヘイトと暴力の連鎖』(P76-P77)より
『ヘイトと暴力の連鎖』(P78-P79)より
『カウンターと暴力の病理』(P100-P101)より
『カウンターと暴力の病理』(P100-P101)より
『カウンターと暴力の病理』(P104-P105)より
『カウンターと暴力の病理』(P106と表紙)より

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朝日新聞・阿久沢悦子記者は「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)と被害者M君に真摯に向き合え! 鹿砦社代表 松岡利康

去る4月18日朝日新聞夕刊に三里塚に住む女性・石井紀子さんの追悼記事が掲載されました。訃報記事をすべて目を通しているわけではありませんが、三里塚については、私の闘いの出発点の一つでもありますので、どうしても読んでしまいます。石井さんは私より一歳下の1952年生まれ、1971年法政大学に入学されました。70年安保闘争や学園闘争の波が引いた時期に大学に入った私たちの世代の大きな政治課題は三里塚闘争(第一次―第二次強制収容阻止闘争)と沖縄闘争(返還協定調印-批准阻止闘争)でした。

私が三里塚に関わり始めた1971年、天王山だった第二次強制収容阻止闘争を闘い、かの機動隊3人が亡くなった9・16にも現地にいました。その後、諸事情で三里塚を離れながらも、遠くから熱い眼差しで見てきました。こうしたことは、この「通信」でもたびたび述べています(最近では2月4日、同8日付け)。

聞くところによれば、石井さんは法政のノンセクトで学生運動に関わり、彼女が本格的に三里塚に入ったのはその後ということです。関西にいる私たちは、首都圏で集会やデモをやる時には法政大学のグループと連携することもたびたびありました。実際、法大に泊まらせてもらったこともありました(そこでバッタリ高校の同級生のHM君に会ったのを思い出します)。ノンセクトは組織動員できる党派と違い、どこもさほど人数も多くなく、一緒に部隊を組んだこともありました。三里塚で結婚し子どもを生み育て、土地に根づいて生きるということは、よほどの決意がなければできることではありません。時々報道されていましたので、知ってはいました。

記事の内容は石井さんの生き様について淡々と記述し、これ自体は特に問題ありません。熱っぽいものを感じる筆致ではありませんが……。三里塚を自らの生きた軌跡と重ね合わせる私と、取材対象としか見ない新聞記者との決定的な違いがあるように思います。まずは、三里塚の土地で生涯を全うされた石井紀子さんに頭(こうべ)を垂れて合掌。

朝日新聞4月18日夕刊

◆「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)で蠢いた阿久沢悦子記者の名を発見!

……とっ、記事の末尾に「阿久沢悦子」の署名が目に入りました。

去る4月1日の湖東記念病院冤罪事件の記事に、15年前の私の「名誉毀損」逮捕事件の官製スクープ記事を書いた平賀拓哉記者の名がありましたが、今度はリンチ事件に関係しつつも私たちの取材からひたすら逃げている記者の名があるとは……因果なものです。

このかん私たちはプリズン・コンサート500回を達成したPaix2(ぺぺ)の記念本編集作業に追われ、リンチ本続刊の作業が止まっていましたが、ようやくすべての原稿がそろい整理済みDTPに回しましたので、GW明けからはリンチ本第6弾の準備に取り掛かろうと思っていた矢先です。具体的には手の内は明かせませんが、今回も“隠し玉”があります。「弾はまだ残っとるぞ」ってなもんです。

◆リンチ被害者M君やわれわれを裏切った趙博を紹介

阿久沢悦子記者は、平賀拓哉記者同様、朝日新聞大阪本社社会部所属、リンチ事件で蠢動した時は、かの阪神支局に勤務していました。平賀記者はあたかも私たちの出版を理解しているかのように近づきましたが、阿久沢記者も、あたかも味方であるかのようにM君に接触し、M君もまだ私たちと知り合う前で孤立を強いられていた時期でしたので、藁をも掴む想いで阿久沢記者に対応したそうです。

また、これも味方のようにM君に近づいた趙博を引き合わせたのも阿久沢記者でした。趙博は言葉巧みにM君から、当時はまだ公になっていなかった多くの資料を入手しています。その後、急に掌を返したことはすでにリンチ本でも2度、記述し弾劾しています(第1弾『ヘイトと暴力の連鎖』の「『浪速の歌う巨人』趙博の裏切り」、第4弾『カウンターと暴力の病理』の「われわれを裏切った“浪速の歌うユダ”趙博に気をつけろ!」参照)。資料を返却もしていません。まさにS(スパイ)行為です。趙博は、多くの運動に顔を出したり近づいていますが、用心されたほうがいいでしょう。直接掌を返されたM君や私たちが言うのですから間違いありません。趙博よ、恥を知れ!

◆われわれの取材から逃げ回る阿久沢記者

阿久沢記者には、本を出すたびにその本を付けて何度も質問状(あるいは取材依頼)を行い、遂には電話取材も行いましたが、拒否されました。リンチ本第5弾『真実と暴力の隠蔽』に報告していますので、ぜひご一読ください。

『真実と暴力の隠蔽』文中の阿久沢記者電話取材の様子
『真実と暴力の隠蔽』同上 続き

阿久沢記者について、彼女をよく知る関係者が証言してくれました。──

「阿久沢さんはいろいろとトラブルメーカーでかねてから会社から睨まれていました。阿久沢さんが引き起こしたトラブルは具体的には、2012年、当時の夫の不倫相手が阿久沢さんの職場まで直談判に来たこと(当時阿久沢さんは大阪本社社会部)。

橋下徹へ喧嘩を打ったツイッター

同じ年に阿久沢さんはTwitterで橋下徹大阪市長(当時)を誹謗中傷して逆襲され(会社に正式に抗議が来たそうです)謝罪、休職に追い込まれたこと。復職後、大阪本社社会部から阪神支局に転勤になりました。2017年、韓国に行って慰安婦像に『朝日新聞、阿久沢悦子』の名前で『謝罪文』をあちらに残してきたことが、いわゆる『ネット右翼』に見つかり騒ぎになったこと。この後阿久沢さんは静岡総局に転勤になりました」

かの橋下徹に喧嘩売るとは凄い! しかし、さすがに橋下、「ふざけんな出てこいとはどういうことですか? 記者ってそんなに偉いんですか?」といなされ、あえなく撃沈するとは、ヘタレやね。「朝日」の看板をバックにすれば、何も怖くないと勘違いされたのでしょうか!? 橋下徹のような稀代の三百代言を駆使する権力者に喧嘩売る時は、思いつきではなく全知全能、全身全霊、性根を入れてやらないと対峙できません。

◆因果はめぐるのか──

以前のこの「通信」でも記述しましたが、71年当時「全京都学生連合会」を結成し共闘、共に三里塚に現闘小屋を設置し活動していた京大「C(教養部)戦線」というグループにM君の父親がいました。これもなにかの因縁です。因果はめぐるのか──。

それはともかく、「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)に対して、なぜか朝日新聞は、メディアの責任を忘れ、頑なに取材を拒否してきました。もちろん報道もしません。まずは阿久沢さん、あなたの言葉を借りれば、「人間として怒りが抑えられません。ふざけんな。出て来い!」と言いたいですね。

さらにもう一つ申し述べておきたいと思います。阿久沢記者のFBでの石井紀子さん訃報記事について「いいね!」している人が多くいます。私の知っている方の名も少なからず目にしました。皆さんは、阿久沢記者のリンチ事件に対する、決して真摯とは言えない態度を知った上でのことでしょうか? 表面上の美辞麗句に騙されてはいけません。喝!

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なんの因縁か ──「カウンター大学院生リンチ事件」被害者M君の父親と、学生時代に共に闘っていた! 鹿砦社代表 松岡利康

会場には、若き頃と最近の佐野さんの遺影が掲げられた

佐野茂樹という古い伝説的な革命家が亡くなり、偲ぶ会(3月22日)に出席してきました。会場は京都・キエフで、ここは歌手・加藤登紀子さんの実家が経営され、今はお兄さんが社長です。

登紀子さんのお連れ合いは、ご存知、藤本敏夫(元反帝全学連委員長)さんで、寮(同志社大学此春〔ししゅん〕寮)の大先輩です。この方も伝説的な方です(蛇足ながら、藤本さんはここ甲子園出身で、鳴尾高校から同志社の新聞学専攻に進まれました。この界隈出身の著名人としては、芦田愛菜、あいみょんらがいます。そうそう、私に手錠を掛けた神戸地検の宮本健志検事もこのあたりの出身)。

久し振りに本宅的なロシア料理を味わった

キエフは、寮関係の集まりや、同志社関係の集まりにもよく使われてきました。私のいた寮の学生も、藤本さんや、藤本さんの片腕で店長を務めていた寮の先輩の村上正和さんの縁で、よくアルバイトしていました。

佐野さんは、60年安保闘争で国会前で亡くなった樺(かんば)美智子さんと、神戸高校の同級生とのこと、佐野さんは京大、樺さんは東大(1浪して1957年入学)ですが、共に新左翼の始まりといわれる「ブント」を起ち上げたメンバーです。

1956年に京大入学ということで、すぐに学生運動に飛び込み、60年安保闘争の際の全学連主流派、これを支えたブントの幹部として歴史的な闘いの先頭に立ちます。佐野さんは58年には全学連副委員長に就き、樺さんは東大文学部学友会副委員長という要職にありました。

佐野さんの著書『帝国主義を攻囲せよ!』

樺さんが佐野さんに淡い恋心を抱いていたということは、当時のブントのトップ・島成郎(故人。精神科医。沖縄に渡り離島医療の先駆け)さんの著書にも記され、“公然の秘密”のようでした。この世代の方々が、ずいぶん出席されていました。

その後、ブント再建(第2次ブント)で議長に就任、60年代後半の学園闘争、70年安保―沖縄闘争を指導しました。

第2次ブントは、70年を前に分裂するのですが、京都では、同志社、京大を中心に、いわば“赤ヘルノンセクト”の学生運動は健在で、私たち同志社大学全学闘は京大C戦線(レーニン研。70年末に結成)と共闘し、「全京都学生連合会」(京学連)の旗の下、70年代初頭の沖縄―三里塚―学費闘争を闘いました。

数としては同大8、京大1、その他1という按配でした。人数としては同大が圧倒的に多かったのですが、京大は、まさに少数精鋭で、リーダーの吉国恒夫(故人。専修大学教授)さん、行動隊長にしてオルガナイザーの片岡卓三(現在医者)さんを中心に、理論的にも他の追随を許しませんでした。同大には卓越した理論家はいなくて(苦笑)、C戦線の機関誌から“密輸入”したりしていました。

同じく『佐藤政府を倒せ!』

吉国さんは、矢谷暢一郎さんと共に68年御堂筋突破デモを指導し共に逮捕・起訴されています(当時裁判官として、この判決文〔かなりの寛刑!〕を書かれた方で現在弁護士のA先生が、今、カウンターメンバーとの裁判で当社の代理人として神原元弁護士と一戦を交えています)。

このC戦線をバックで支えたのが佐野さんで、C戦線こそがブント解体後の学生運動や革命運動の未来を担うと考えられていた、と思います。吉国さんや片岡さん、他のメンバーらと交流し私もそう感じました。『帝国主義を攻囲せよ!』とか『佐藤政府を倒せ!』など佐野さんの著書やパンフレットも一知半解ながら熟読しました。

ところで、この通信をご覧の方には馴染み深い「カウンター大学院生リンチ事件」の被害者M君の父親がC戦線の当時のメンバーだということをM君から聞いていたのですが、複数の証言を得ることはできませんでしたので、確証がありませんでした。

その集会の呼びかけ人を務められた片岡卓三さんの号令一下、当時のC戦線のメンバーが数多く出席されていました。大体私と同じ70年入学でした。

樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑えまん』(三一新書)。われわれの世代の必読書だった

彼らにたずねると、みなさんM君の父親をご存知でした。「私たちはリンチされた息子の救済と支援活動をやって来た」と言うと、みなさん驚いていました。

C戦線(レーニン研)は、毛派(中国派)のグループと合体し全国党派を目指しマルクス主義青年同盟(マル青同)を結成しますが、これはあえなく崩壊します。片岡さんらは、この過程で離脱し、結成後すぐに内部抗争が起き、トップの吉国さんは「死刑宣告」を受け放逐されます(彼はその後、矢谷さん同様日本を離れ、アメリカ西海岸やジンバブエの大学に入学し、日本のジンバブエ研究の第一人者になります)。

他のメンバーも離脱し、各々の人生を歩み始めます。しかし、そこは“腐っても京大”、私たちと一緒に同大学費決戦で逮捕・起訴され、一念発起して一級建築士になったB君同様、弁護士になったりしています。組織が解体して司法試験を目指したCさんは、たった1科目しか取得しておらず再入学し30歳になって司法試験に合格、今は弁護士になっておられます。

また、もう一人のD弁護士は、15年前の私の逮捕事件で「憲法21条に則った、公正で慎重な審理を求める署名」に賛同人として署名をしてくれていました。あらためてお礼を申し上げました。

それにしても、まさか私たちが支援したリンチ被害者M君の父親が、学生時代に共闘していたとはビックリ仰天でした!

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(1/3)
60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(2/3)
60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(3/3)

1970年代初頭の京都の学生運動を記録した『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

《鹿砦社特別取材班座談会》「カウンター大学院生リンチ事件」の「終結」について

 
リンチ直後の被害者大学院生M君

松岡 ご苦労様です。われわれが「カウンター大学院生リンチ事件」と呼び、巷間では「しばき隊リンチ事件」と呼ばれる、大学院生M君に対するリンチ事件で、ようやく確定判決で認められた賠償金が、金良平氏の代理人に就任した神原元弁護士からM君の代理人大川弁護士に振り込まれました。当初の代理人は別の弁護士でしたが、今年になり、なぜか代理人が交替しましたけど、まずはこの事件の一つの区切りといえるでしょうから、きょうは皆さんの意見や感想も聞かせてください。

A  ともかく、お疲れさまでした、が正直なところですわ。判決内容はともかく賠償金が支払われへんのちゃうか、って本気で心配しよりましたよってに。

B  難しいですよね。これで法的には一応終わったわけですよね? 私は本質的なところでは何も終わってはいないと思っていますが……。

C  M君の事件はね。でも鹿砦社は対李信恵第2訴訟(李信恵氏が原告となった進行中の裁判、第1訴訟は鹿砦社が原告、李信恵氏が被告で既に鹿砦社の勝訴が確定。第2訴訟は第1訴訟の反訴として提起されたが、取り下げ、あらためて別訴として提訴された)と、対藤井正美訴訟を抱えているから、終わりとはいえないよ。

D  長かったですよね。誰が管理してるのか知らないけど「支援会」の活動には頭が下がりました。

松岡 支援会は私が責任を持つ形で、少人数で運営しています。口座は既に閉鎖しましたので、遠からず会計報告ができるでしょう。

B  結局「支援会」のメンバーは最後まで僕らにも秘密でしたね。

松岡 秘密主義じゃないですよ。最低限の人数で動かしただけです。お金が絡む問題でもあり、口座は大川弁護士に管理していただいていたことをTwitterでも公表していました。いまだに会計報告をしないで少なからずの方々から首を傾げられている、どこぞの支援会と違い、私たちは1円のお金も飲食には使っていませんし、厳密に管理してきました。また、鹿砦社はM君裁判とは別に、李信恵氏や藤井正美らと訴訟を行っていますが、こちらにはもちろんですが、1円も使っていません。鹿砦社関係は鹿砦社の資金から裁判費用を出しています。

リンチ直後に出された金良平(エル金)[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

C  これまで5冊だったっけ? この事件に関して出した本。最後にまとめみたいなことは必要だと思うな。

松岡 そうですね。今は緊急出版をいくつか抱えてきましたので後手になりましたが、早い時期に取り掛かりたいところです。

A  何年になるんやろ? まだ最初の頃、僕30歳やったもん。

B  もうすぐ4年やね。Aは突撃で下手ばかり打ってた(笑)。

A  そんなん、いきなり「国会議員Aのコメントとって来い!」言われても、東京の地理も知らん大阪人にできるもんちゃいますよ。

C  30歳超えてなにを甘っちょろいこと言ってるんだ!って怒ったよな、俺。

B  新聞や出版の経験があるのにね。たしかにAの詰めはいまだに甘いわ。

A  ……。

D  結局、僕らが問いたかったことが世の中に訴求したかどうか、その点は気になりますね。

C  最後はいつもそこで頭悩ますよね。でも、事実関係は確実でどこのマスコミも切り込まないアングルを維持したから、それは重要なことだったと思うね。おそらく、われわれがやらなかったら闇に葬られていたんじゃないかな。だってそうだろう、われわれが知ったのは事件から1年余り経っていたからね。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

B  そうですよね。不思議なのは後追いがまったくなかったことですね。世間で「リベラル」と言われている人で応援してくれた人といえば……?

A  元読売新聞記者の山口正紀さんくらい違います? あとは黒藪哲哉さんくらいやろか? 先頃亡くなった、『週刊金曜日』発行人だった北村肇さんら、ほんの一握りの方々ですよね。山口さんにしろ黒藪さんにしろ、当初はご存知なく、関心持たれたのは、われわれが資料を添えて説明してからですよね。『週刊金曜日』内部ではささやかれていて、北村さんは少しご存知のようでしたが、事件が起きた大阪と、遠く離れている東京では、事件に対するスタンスも温度差があって、われわれが事件を知って深刻になったのとはまた違う感じだったようです。

D  逆に想定外の「義絶」が相次ぎました。

C  そうそう。田所さんの「辛淑玉への決別」(田所敏夫「辛淑玉さんへの決別状」)にはじまり、社長の鈴木邦男への義絶(松岡利康「【公開書簡】鈴木邦男さんへの手紙」)へと。

A  社長の鈴木さんとの仲違いは、業界では話題になりました。

C  ちゃんと言葉をつかえ!「仲違い」じゃない!「義絶」だ、A!

A  あっ、すいません。

B  相変わらず詰め甘いな。

D  「踏み絵を踏ますな」という人もいたけど、そうじゃなかったですよね。「これ見てどうも思いませんか?」が僕らの原点。

松岡 最初に事件直後のM君の写真を見た時、単純に「これは酷い」と思いました。これが私の出発点でした。すぐに田所さんに連絡し、「これは黙っていたらアカン」と一致しました。まさか、こんなにたくさんのライターさんにお世話になって、5冊も出版することになろうとは思いませんでした。

B  社長を動かしてる動機ってなんなんでしょうか?

松岡 今も言ったように「これは酷いな」という単純なことですよ。もう少し込み入った事情もないわけではありませんが、そのあたりに興味のある人は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』を読んでください。

A  読みました。ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の死体洗いの話、びっくりでしたわ。

松岡 Aさんは私の原稿も読んでくれましたか?

A  はぁ。読んだんですけど、ちょっと難しくて……。

C  しっかりしろよ!

松岡 私は学生運動や社会運動内部で繰り返されてきた暴力の問題、いわゆる内ゲバやね。それを長年考えてきていて、かつて作家の高橋和巳先生らが警鐘を鳴らしたのに軽視され、多くの犠牲者を出しました。「まだこんなことやってるんだ!」という義憤もあったね。いわゆる内ゲバでは、私の行った大学では2人亡くなっていますし、亡くなりはしませんでしたが、あるノーベル賞作家の甥っ子の先輩が、一時意識不明になったり。なによりも私も「ゲバ民」と言われた共産党の集団に襲撃され病院送りになったことなどが悪夢のように甦ってきたりしてね。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の後のほうに掲載している長文の拙稿(草稿)は、そうしたことについて、私なりに考え、書き連ねたわけです。

B  ともかく最後にまとめの、もう一本出すということですね。

D  新たな取材予定があるんだったら、社長早めにお願いします。

松岡 それは秘密です。

一同  えっ! まだあるんですか!

松岡 当たり前じゃないか。冒頭に述べたように、賠償金が払われ訴訟実務としては終結しただけで、本質的な問題は、まだ何も終わっていないんでね。特に、普段は元気がいいのに、この事件について質問したり取材すると、沈黙したり逃げたり開き直ったり隠蔽に加担したり豹変したり……「人間としてどうなの?」と言わざるをえない、いわゆる「知識人」の狡さに対しては徹底的に追及、弾劾しなくてはなりません。私のことを「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」と侮辱した徒輩がいましたが、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」にも意地がありまっせ!

D  社長、若手使ってくださいね。俺もうフットワーク効かないし。

松岡 心配しないでください。無理は言いますから(笑)。この件だけでなく数々の直撃取材を成功させたHT君のような根性が欲しいよね。

B  これだから鹿砦社は……。

C  そうそう、忘れないように。M君から取材班にも「くれぐれもよろしく」ってメッセージありましたよね。

C  M君もこれを区切りに新しい未来を切り開いてほしいね。

B  きっといいことありますよ。

松岡 そう思います。自分で言うのも僭越ですが、何度も地獄に落とされたながらも浮上した私のように、人生、悪いことばかりではなく、きっと良いことがあるよ。M君も、国立大学の博士課程まで進んだ秀才だし、研究課題も、日本では珍しい分野なので、彼が必要とされることがきっと来ると私は信じています。アントニオ猪木じゃないけど、「苦しみの中から立ち上がれ!」と言いたいね。皆さん、あと少しよろしくお願いします。

A  社長、次あるんだったら、ちょっと前借りできまへんやろか?

松岡 それではAさんにはもうお願いしません。

A  キツー。

B  Aよ、HT君のように前借りできるくらいに仕事しろよ。

A  あっ忘れとった。こんなんあるんですけど。

C  お前なんで今まで出さなかったんだ! これ超ド級の資料じゃないか!

B  おいおい! また大騒ぎだぞ!

松岡 これはびっくりしました。使えますね。

(鹿砦社特別取材班)

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M君リンチ事件の賠償金を払わない金良平(エル金)の悪質

《6月12日、リンチ被害者M君が5名を訴えた上告について、却下の連絡が代理人の大川伸郎弁護士へあった。賠償を命じられた李普鉉氏からは「賠償金を支払いたいので口座を教えてくれ」と代理人から連絡があった。一方金良平からは何の連絡もないので、大川弁護士は金良平の代理人に「賠償金の支払い」を求める旨と、大川弁護士の銀行口座明細を記載したFAXを送付したが、7月2日現在大川弁護士には、金良平の代理人から何の連絡もないという》

上記の文章は本通信に本年8月14日掲載した内容である。その後、「一部40万円余りを払う。残りは分割にしてほしい」と代理人姜永守弁護士を通じて金良平(狼藉が度を超えるので、敬称は用いない)が申し出てきた。身勝手極まりない内容にM君並びに弁護団、支援会は対応を検討したが、金良平の申し出を受け入れ、一部金の支払いを待った。

ところが判決確定から半年たっても、金良平は自身が申し出た「身勝手な」支払い方法すら反故にして、いまだに一円たりともM君に対して支払いを行っていない。この間の経緯についてM君代理人の大川伸郎弁護士に確認したところ、「姜永守弁護士に電話で『支払いはどうなっているのか』と尋ねたところ、申し訳なさそうに『すいません。本人に伝えておきます』と切れ味の悪い回答があっただけです」とのことである。

代理人を通じて「分割払い」を申し出てきたのは繰り返すが、金良平だ。最高裁判所で支払い命令が確定した判決を無視し続ければ、時間を経るにしたがって支払い命令金額に利息が加わり、ますます支払いは困難になろう。

ここへきて、取材班は重大な疑念を抱かざるを得ない。

金良平、ならびに周辺で彼と行動をともにしている関係者は「賠償金を支払う」(金良平に支払わせる)意図がまったくないのではないか。口先ではきれいごとを並べて「人権」だの「反差別」だのといきがっていても、最高裁で確定した判決で命じられた賠償金の支払いすら「無視」しようとしているのではないか。この申し出は姜永守弁護士を通じてM君側に伝えられたのであるから、姜永守弁護士にも責任はある。このような事態を予測して、M君、弁護団、支援会は「姜永守弁護士が連帯保証人に就任する」ことを条件として求めたが、姜永守弁護士はそれを受け入れなかった。

リンチ直後に出された金良平(エル金)[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)
 
辛淑玉氏による2015年1月27日付け文書「Mさんリンチ事件に関わった友人たちへ」(1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

無責任で済む問題であろうか。M君が被害回復を求めた裁判に際しては、「M君の裁判を支援する会」に多くのかたがたからの支援(カンパ)が寄せられ、M君は裁判を闘い抜くことができた。しかし金良平がこのまま110万円を超える賠償金を踏み倒せば、M君は李普鉉氏から受け取った2万円に満たないお金しか受け取ることができなくなる。

冗談ではない!

彼らの悪質さはこれまでことあるごとに批判してきたが、あれだけの重傷を負わせた被害者に対して「賠償金を踏み倒す」?

これまで取材班は事実を紹介しながら、論評を行ってきたが、金良平と彼の取り巻きが取っている態度は、断じて許されるものではない。判決違反は不法行為と同義であるが「払う金がない」と金良平を逃げ切らせるつもりなのだろう。

こういった非道な行為を前田朗東京造形大学教授はどう評するであろうか?

彼はこの事件につきカメレオン的に、態度を変えた人物であるが、『救援』紙上で公式な見解を開陳した人物である。ことの成り行きについて今どう考えるのかを述べる道義的責任があろう。そして「リンチはなかった」、「あれは喧嘩だった」と散々嘘デタラメを吹聴した中沢けいや、本来関係ないのに横車を入れてきた香山リカ。終始加害者擁護にて徹した安田浩一らは、この事態をどう考えるのだ。

さらに許しがたいのは弁護士神原元の発信だ。この男はこれまで幾度も印象操作や、虚構の発信を続けてきたが、「しばき隊がリンチ事件を起こしたというのは虚偽の風説です」。この書き込みこそ「完全な虚偽の風説流布」ではないか。

神原弁護士のツイッターより

神原は「M君リンチ事件」の刑事記録を見ているだろうが! 罰金が課されたのは李普鉉と金良平の2名ではないか。そこに同席した李信恵に処分はくだらなかったが、上記3名はM君に謝罪文を書いているのはなぜだ? なにも問題がなかったらどうして謝罪文を書く必要があったのだ。

M君リンチ事件の賠償金を払わない金良平

さらに「現在、別途、名誉毀損訴訟が進行中です」との記載は鹿砦社が李信恵を提訴し、勝訴が確定した名誉毀損裁判に対する、反訴が認められず提訴に踏み切った李信恵原告、鹿砦社被告の裁判を示しているのかもしれないが、この係争では、鹿砦社が原告の訴訟で既に鹿砦社勝訴判決が確定していることを(神原がこのような印象操作をまだ続けているので)再度強く強調しておかなければならない。

取材を進める途中から取材班は、この事件の加害者及びその関係者の「悪質性」を認識していた。よって、このような異常事態も「連中」ならやりかねないだろうとも認識する。しかし、司法の判断も「無視」して被害者への賠償を「踏み倒す」連中を座視しているわけにはゆかない。このような行為が横行すれば「司法」の権威は失墜し、被害者は泣き寝入りするしかなくなってしまう。

そういった勢力をわれわれは、放置するつもりはない。


◎[参考動画]日本第一党 第七回神奈川県本部 川崎駅前東口街頭演説活動 2019年10月19日

(鹿砦社特別取材班)

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対李信恵第1訴訟、李信恵氏が上告を取り下げ! 鹿砦社の勝利が確定!

10月28日、鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の発売を翌日に控え、予想外の大ニュースが飛び込んできた。

 
「反差別」運動のリーダー・李信恵氏が批判者に対して言い放ったツイート

鹿砦社は、Twitter上で李信恵氏から度重なる誹謗中傷を受け、弁護士を通じて「警告書」を送るなど、手を尽くしていた。だが、李信恵氏による鹿砦社に対する罵倒や虚言はいっこうに収まる気配がなかった。そこでやむなく鹿砦社は李信恵氏を相手取り、名誉毀損による損害賠償を求める民事訴訟を大阪地裁に起こした(その後李信恵氏も対抗上別訴を起こしてきたので、便宜上鹿砦社原告の裁判を「第1訴訟」、李信恵氏原告の裁判を「第2訴訟」と呼ぶこととする)。

「第1訴訟」の一審判決では、ほぼ完全に鹿砦社の主張が認められ、勝訴。大阪地裁は李信恵氏の悪口雑言を不法行為と認定したのである。原告、被告双方が控訴した大阪高裁では棄却(一審判決=鹿砦社勝利が維持された)。被告・李信恵氏側は判決を不服として、最高裁に上告していたが、10月25日付け(最高裁の受理は27日)で李信恵氏側は上告を取り下げ、李信恵氏代理人の神原元弁護士は鹿砦社の代理人・大川伸郎弁護士にその旨伝えてきた。

その連絡を28日(月)に受け、ようやくわれわれの主張が裁判の判決として確定したことを知るに至ったわけである。

再度、このかんわれわれの裁判闘争を、陰に陽に支援してくださった皆様方に、ご報告申し上げる!

鹿砦社は、対李信恵裁判闘争において、完全勝利した! と。

この勝利の意味は極めて重い。まず、本件訴訟でわれわれが主張した内容、つまり李信恵氏による鹿砦社への誹謗中傷が名誉毀損に当たり不法行為であることが全面的に認められたこと(逆に李信恵氏の主張はほぼ棄却されたこと)である。

別掲の書き込みをご覧いただければ、お分かりいただけるだろうが、こういった明らかな誹謗中傷を李信恵氏側は「論評」と主張していた。「クソ」という表現が論評に当たるか当たらないかは「常識的」に判断すれば、誰にでもわかることだ。

「李信恵という人格の不可思議」(『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアより)
 

さらには(この点も非常に重要であるが)鹿砦社代表・松岡が、あたかも喫茶店で、会ったこともない李信恵氏に嫌がらせをしたかのような「まったくの虚偽」記述もあった。本人が一番よく知っているのであるから、こういった「虚偽発信」がどれほど、発信者の信用を貶めるものかを、自身も物書きである李信恵氏は知っているであろうに。

Twitterで李信恵氏が発信すると、支援者や仲の良い人々がすかさずリツイートなどで広める(最近はその影響力もかなり低下していると聞くが)。

 

まったくの虚偽事実であっても、かつては強大な影響力を保持した李信恵氏の発信はどんどん拡散されてゆき、「なかったこと」があたかも「あったこと」のように既成事実化に近い認識が形成される。まことに悪質な印象操作であると言わねばならない。そしてそのような印象操作に、神原弁護士や上瀧浩子弁護士も加担していた事実は見逃せない。

 

法廷内で荒唐無稽な主張を展開するにとどまらず、法定外、ことに拡散が容易なTwitter上で極めて無責任で名誉毀損に該当するような書き込みを、弁護士が行ってもよいものであろうか。

裁判の進行報告や支援の呼びかけなどは理解できるが、いくら係争中、あるいは終結した争いの相手であっても、「法の専門家」である弁護士が、一般市民を相手に感情に任せた乱暴な文章や、事実と異なる発信をしてもいいはずはないだろう。それも日頃「人権」がどうのこうの口にしている者が。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(2018年3月19日付け神原弁護士のツイッターより)
 

そして、再度確認しておかなければならないのは、このように著名人である李信恵氏が最終的に敗訴しても、一切のマスメディアはその事実を報道しはしない、という歪な状態である。

鹿砦社は、この係争に先立って争われた「M君リンチ事件」提訴以来、M君や松岡が何度大阪司法記者クラブ(大阪地裁・高裁内にある記者クラブ)に記者会見の実施の申し入れをしても、ことごとく拒絶された様子を近くで見てきた。

そして鹿砦社が原告となり(第1訴訟)、李信恵氏を提訴した際にも記者会見開催の申し込みは受け入れられることはなく、さらに、一審で勝訴した際にも記者会見を申し入れたが、開かせてはもらえなかった。

このどうみても「不公平」な扱いを、記者クラブに所属しているマスメディア各社はどのように弁明ができるのであろう。在特会を相手取り損害賠償請求事件を争った李信恵氏には毎回記者会見を用意し(そして記者会見に李信恵氏の仲間らの入場は許可しながら鹿砦社の社員が入ることを拒絶して)、M君や鹿砦社には記者会見の機会を与えない。「差別と闘った」として著名人になった李信恵氏が、このほど鹿砦社に対して、名誉毀損を犯したことが確定した。これはニュースではないのか?

鹿砦社はこれまで、刑事裁判を含め、数えきれないほどの裁判を闘ってきている。裁判闘争史の初期は大物(ジャニーズ事務所、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会など)が多かったので、負けを覚悟での猪突猛進をしていた時期もあった。しかし鹿砦社とて成長するのだ。

ことに言論に関わる争いや係争には近年むしろ慎重に取り組むようになっている。法定外でも情報収集を幅広く行い、「どうすれば勝てるか」を学習もした。また弁護士だけでなくアドバイスを送ってくださる方々の存在も頼もしい。

 

李信恵氏側も、マスメディアも鹿砦社を見下していた印象は否定できないが、このままの姿勢を続けてもよいものであろうか。

「第1訴訟」の判決が確定した。繰り返すがわれわれの〈 完全勝利!〉であった。しかし、この裁判一審の後半になり、李信恵氏側が突如「反訴をしたい」と我が儘にも主張しはじめ、裁判所に認められなかったことから、李信恵氏は別の裁判を起こした(「第2訴訟」はそのような中で発生したものだ)。

その裁判では鹿砦社に損害賠償を迫っているだけではなく、「M君リンチ事件」に関連して出版した書籍の販売差し止めまでもを求めてきている。

とんでもない請求であるが、現在「第2訴訟」は大阪地裁で進行中である。「争点準備手続き」という一般の方が傍聴できない形式を裁判所は採っており、証人尋問までは、基本非公開の法廷で弁論が進む。

当初の裁判長は、李信恵氏が在特会らを訴えた訴訟で李信恵氏勝訴の判決を出した裁判官だった。あまりにも不公平なので裁判官忌避請求を出そうと、準備していたしたその日に、何かあったのか担当裁判長が急に交替した。

李信恵氏との間ではいまだに係争が継続中であるので、「第1訴訟」の完全勝利を喜びながら、気を緩めることなく、「第2訴訟」も完勝し、対李信恵氏裁判〈完全勝利!〉を勝ち取るべく、勝って兜の緒を締めて、さらに闘いは続く。読者の皆様方には引き続きのご支援をお願いしたい。

◆李信恵氏の仲間・金良平氏は直ちにM君に賠償金を支払え!

ところで「M君リンチ事件」で損害賠償110万円超の支払いが言い渡された金良平氏が、代理人を通して「総額のうち40万円余りを支払い、残金は月5万円の分割にしてほしい」と判決確定後に願い出てきた。

M君、弁護団と支援会が相談し、「40万円余りは受け取るが、残金の分割払いには連帯保証人を付けるように」と回答したところ、相手方は難色を示した。仕方なくM君並びに弁護団、支援会は譲歩し、40万円の受け取りを承諾した。そして金良平氏の代理人も「支払う」と回答してきた。

それから少なくとも3週間が経過しているが、いまだに、金良平氏(若しくは代理人)からの支払いはない。

金良平氏は一審の法廷でM君に謝罪したが、これは体のいい猿芝居だったのか!?

リンチ直後に出された金良平(エル金)氏[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)


◎[参考音声]日本第一党 第七回神奈川県本部 川崎駅前東口街頭演説活動 2019年10月19日

 

このことには金良平氏の良心が問われているのだ。「反差別」運動に関わり「人権」という言葉を口にする金氏に良心の一欠片があれば、今すぐにM君に賠償金を支払うべきである。

それどころか、金良平氏は、10月19日川崎で行われた日本第一党の街宣活動に対する抗議行動に赴き、両手をポケットに入れながらも明らかに何者かに、体をぶつけ、その後も聞くに堪えない罵声を、日本第一党関係者に浴びせている。

周囲に金良平氏同様抗議活動へ参加している人の姿が10余名ほど確認できるが、体をぶつけ(相手が警察であれば確実に公務執行妨害で現行犯逮捕だろう。そうでなくとも体をぶつけられた本人が申し出れば金良平氏は何らかの罰則を受ける可能性があろう)汚い罵声を飛ばしたりしているのは、金良平氏ひとりだ。

 

繰り返すが、金良平氏は大阪地裁の法廷で、M君に芝居がかった謝罪のポーズを演じて見せたが、あれはなんだったのだ?

集会結社・言論の自由は、憲法で誰にでも認められているから、どこへ行こうが、何をしようが基本的にはその人の自由である。しかし、金良平氏には損害賠償の支払いが命じられており、その義務をまだ一切履行していないではないか。

M君への110万円余りの支払いを「一時金40万円で、あとは分割にしてくれ」と身勝手な申し出をしておきながら、川崎まで出かけて行ってこんなことをしている場合か?

金良平氏の代理人及び、「M君リンチ事件」一審判決当日、敗訴にもかかわらず「勝訴」とまったく事実と異なる発信を写真入りで行った神原元弁護士も金良平氏を正しく指導する義務があるのではないか!?

鹿砦社は本年創業から50年を迎えた。記念出版物において、これまでの歩みを振り返り、いいところはさらに拡大し、反省すべきは反省しつつ、今後も、われわれが精査し、正しいと判断した道を粛々と進んでゆく。偽物や偽善者に対しては言論戦において容赦はしない。

(鹿砦社特別取材班)

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鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか ──『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈3〉

権力闘争、あるいは権力奪取闘争のなかで、意見の対立から、元は同志として同じ目的に向かっていた勢力が、分裂を起こすと近親感が憎悪へ変わり、激烈なぶつかり合いから、果ては殺し合いにまで行き着く。

この歴史は何度も教科書の上にすら登場させられることを忘れはしなかった。人間史の深く悲しい惨事の繰り返し。地層のように世界史、闘争史どの断面を切り取っても、対立→分裂→衝突→潰し合いは、人間が保持する克服しがたい、特質のように悲嘆に暮れるしかないのであろうか。

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

そんな疑問や問題提起が、引き金になっているのかどうかはわからない。松岡利康はかねてより、日本の左翼(新左翼)運動内で発生した「内ゲバ」に、人一倍反応し、同志や弱者に向けられる「暴力」に対して、極めて敏感に反応を続けてきた。現在まで5冊の書籍を上梓する結果になった(最初はこれほど多数の出版を、松岡自身が想定してはいなかったであろう)「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」へ取り組む松岡の姿勢が、まさにその証左である。

松岡はどうして「内ゲバ」あるいは、同志や弱者に向けられる暴力に対して、黙していることができないのか。共に取材を進め方針を議論する中でも、この質問を、直接松岡にぶつけたことはない。なんらか、かなり大きな経験なり、思索が「確信」にまで高まり、この種の問題から目を逸らせることを、松岡は無意識に自身に禁じさせている。わたしにはそうであろうとしか推測できない。

そこにはもちろん松岡が学生時代、日本共産党=民青のゲバルト部隊に暴行を受け入院させられた、肉体的苦痛を伴う個人史が作用してもいよう。しかし、そういった経験のある個人は、日本にも世界にも相当数存命中であるはずであり、その点において松岡の体験がことさら特別のものかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

◆リンチ事件への怒りと異議申し立て

4年ほど前になるであろうか「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」が複数筋から鹿砦社に持ち込まれた日(あるいは翌日だったかもしれない)松岡から受信した電話口での語り口調は、明らかに通常時通話のトーンと異なるものであった。あれ以来鹿砦社は自身も血を流す(比喩的な意味である)ことになる、「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」の解明と支援に向かい合うことになる。

松岡はリンチ事件を論じる際に、感情が高じると「常識的に考えて」という文言を繰り返し使う、としばしば感じた。「常識的」は穏やかな一般に共有される概念を指す言葉であるが、松岡が使う「常識的」には、一般的ではない複雑な思いが込められている、と感じたことが少なくない。

それは先に述べた通り、人間史で繰り返されてきた「人間の悪性」ともいうべき、近親憎悪が衝突→潰し合いへと向かうことが、当たり前であるかのような解釈に対する、怒りと異議申し立てではないだろうか。極言すれば松岡は、彼の人生史のなか、とりわけ学生運動に関わった時代の個的経験だけではなく、同時代に発生した幾つもの「内ゲバ」事件を「他人事」と呑気に過ごしていることができず、自身に向けられた「解決策を見出すべき至上命題」として受け取っていたのではないか。

◆高橋和巳と重なる松岡のベクトル

学生当時の松岡が、彼の周辺にさえ「反内ゲバ」を感情ではなく、論理として構成し説き伏せることなど、できようはずはない。しかし『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の最後の原稿として松岡が著した長文「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の冒頭で松岡は、一貫して「内ゲバ」に反対の意思を苦悶しながら表明し続けた高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」から引いている。高橋和巳は苦悩する小説家として著名なとおり、内ゲバに対する論考も、常に原則的な否定論を維持しながら、しかし、ならば「いかなる論や行動が有効であるか」を示し尽くすことができないことに、重ねて苦悶する中で、人生を終えたのではないか……と、またこれも想像する。

おそらく、松岡を突き動かす原動力は、表現方法や行動において同一性は見られないかもしれないが、高橋和巳と重なる方向性とベクトルにあるのではないかと、わたしは感じている。

活動家ではなく研究者だった高橋と、一活動家だった松岡の反応とでは、当然大きな違いもある。そして、松岡が学生時代に生活していた学生寮が、卒業後に某悪質セクトに深夜襲撃され寮生が監禁・リンチされた際、松岡は即寮生支援に向かっている。まだ若かった松岡にとって「内ゲバ」あるいは同志、弱者に対する暴力は、許容できるものではなく、それへの怒りと反撃に激高するのは当然の生理的反応であったと理解する。その経験を松岡は否定はしまい。けれども、会社員から鹿砦社代表へ就任し、多くの出会いと出版物を編纂し、「暴露本」路線に一方では邁進しながら、突然の逮捕-勾留192日という辛酸を経て70歳近くの老境に至り、ふたたび松岡は彼特有の感性である「反内ゲバ」に立ち返ったのではないだろうか。

学生寮が襲撃された連絡を寮母さんから電話で受けた松岡の激高は、年月を経て「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」に初めて接したときの「落胆を伴う驚愕」(これまた推測である)へと質的な変化を遂げていたのではないだろうか。2つの事件に共通するのは表層的な反応の違いではなく、「内ゲバ」=同志、弱者への暴力を「生来徹底的に嫌悪する」松岡の人間性である。

◆「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」

歴史と現状は、そのほとんどが闘争の歴史であることを証明している。闘争は必ずしも崇高なものではなく、私利や権力欲に由来する行為がむしろ主流であり、そこで振るわれる策謀、裏切りや寝返り、そして暴力や殺戮はそれこそ歴史的「常識」である。

ところが、松岡は本人が意識しているかどうか、まったく判然とはしないが歴史的「常識」に行動と言論で「異議あり!」との抗いを続けているように、私には思えて仕方がない。この壮大な作業に簡単な回答など準備されているはずもなく、したがって「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の最後にも「(草稿)」が付されているのではないだろうか。

本原稿は同志社大学の中心的活動家だった望月上史さんが1969年7月6日に、会議襲撃の報復として拉致され、約20日も監禁(軟禁)された末、脱出を試みた際に落下して、のちに死亡した事件を、関係者5名の証言(発言)を紹介しながら松岡が問題提起を行う形で構成されている。5名の証言(発言)をほぼカットなしで引用していることもあり長文となっているが、結論として「内ゲバ」について松岡がどう論を昇華させているかは、読者諸氏がお読みになって確認していただきたい。

人類史と必ず伴走する、闘争史。そしてそこに宿命的に付随するかのような「内ゲバ」と「排除の論理」への挑戦。無謀とも思われるが、人間にとっての一大命題への取り組みは松岡のライフワークなのかもしれない。

この他にも寄稿いただいた原稿はどれも力作の連続だ。松岡は(ストレスのためだろうと推測する)重篤な目の疾患の治療で、昨年秋から全く編集実務から遠ざかっていた。それにもかかわらず、片目1回4万5千円の注射を何度も打ちながら、ほぼ単独で編集した『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は、明日10月29日発売だ。(つづく)

「望月君死ぬ」(1969年9月29日付け読売新聞夕刊)
「また内ゲバの学生死ぬ」(1969年9月29日付け朝日新聞夕刊)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!