学生が観念的で、頭デッカチなのは仕方がないことである。その大半が気分だからだ。どんな雰囲気で闘いに参加するのかは、二木啓孝さんのインタビューを参照(『NO NUKES Voice』最新16号)されたい。もちろん学生にも学生としての生活があり、大学の単位を取れなければ、卒業と就職はおぼつかない。だがその現実を感じさせない、自由な時間が学生生活なのであろう。かく言うわたしは、8年間も大学に在籍した。二度も逮捕されたが処分は受けなかったし、保釈の身柄引受人は在籍する大学の教授だった。学内の主流派の党派とは対立していたが、三里塚の英雄ということで敬意を表されていたように思う。いわく「あれは要塞戦戦士の横山」であると。学生革命家などお気楽なものだといえば、たしかにそうかもしれない。お気楽ではあったが、ずいぶんと犠牲を強いられた記憶はある。「滅私奉公」を「滅資奉紅」と呼び換えても、費やした時間はかけがいのないものだ。ふつうの若者が愉しんだ甘い青春とは、あまり縁がなかったと思う。

ところで、かくもお気楽な学生活動家にたいして、労働者の場合はそうはいかない。78年の開港阻止闘争では逮捕者の6割以上が労働者で、その多くが公務員だったことに、政府自民党は衝撃を受けていた。逮捕された労働者の場合は三里塚の裁判闘争とともに、多くの場合に解雇撤回闘争を強いられた。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

◆クビを覚悟の生産点の闘争とは?

ところで、労働者の場合は、職場・生産点での闘いが、その試金石になる場合がある。三里塚闘争における鉄道労働者の場合がそれだった。空港および航空機にはジェット燃料が不可欠で、三里塚空港の場合はそれを運ぶのが動労千葉の鉄道労働者たち。つまり支援の最大勢力である中核派が虎の子にしている労働組合なのである。

ここに大きなジレンマが発生する。空港反対運動に参加しながら、空港に不可欠のジェット燃料を運ぶ。だったら、空港の命脈を握っているのだから、空港を機能させないカギになるではないか。と考えるのは単純すぎる。当時はまだスト権のない国鉄(公務員)である。違法なストをやれば必ず処分が待っている。すでにスト権ストや順法闘争などで、大量の処分者を抱えている労組にとって、組合が潰れてでもジョット燃料を運ばないのか、という問題である。わたしの弁護人だったH弁護士は隠れ中核派とも公然たる幹部党員ともいわれた人だったが「動労千葉がジェット燃料を止める? そりゃあ、組織が吹っ飛ぶねぇ」と笑っていたものだ。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

軍艦を修理する反戦労働者

生産点の労働者というのは、かようにジレンマを抱え持っている。たとえば米海軍の横須賀の母港化に反対している造船労働者も、ドックで米艦船の修理をすることになる。海上自衛隊に反対している労働者も、自衛隊艦船の部品をつくることがある。軍艦を修理しない闘い、すなわち職場生産点での反戦闘争をするのであれば、就業を拒否してしまうか? それは無理な注文であろう。横須賀の修理ドックは、そのほとんどが自衛隊の艦船を受け入れていたのだから。同志がいたので、その言葉を紹介しておこう。「ぼくらは自衛隊の護衛艦も修理してるからね。能書きだけで、組合の活動なんてできないんだよ」機関紙の編集部として、彼を取材したときのことである。

三里塚に話をもどすと、反対同盟の農民たちは「動労千葉はジェット燃料を運んでいるじゃないか」「ちっとも、われわれの支援になっていない」と、ことあるごとに指摘したものだ。それに対する、支援党派の動きもあった。社青同解放派がジェット燃料を積んだ貨物車両を襲撃したのである。もちろん鉄道労働者に危害を加えたわけではないが、中核派にとっては労働者の職場を襲撃した、ということになる。この件では現地集会で両派がゲバルト寸前になった。じっさいにジェット燃料輸送を拒否する動労千葉のストライキ支援で、津田沼電車区に行ったことがある。ただし一日だけのストであって、組織を賭けた政治ストができたわけではない。

◆勝利をめぐる戦術とは?

 

レーニン『なにをなすべきか?』

およそ革命運動にとって、最後の勝利(武装蜂起による権力奪取)いがいは、運動の目的は陣地戦である。組織的な地平を獲得する以外には、闘争それ自体はほとんどが敗北であろう。しかし、やがて軍隊のなかに作られた革命細胞が部隊の大半を掌握し、工場がゼネラルストライキで操業を停止する。そしていよいよ、政治危機にさいして革命党本部が蜂起を支持する(レーニン「何をなすべきか」)。もはや警察力では革命の側に組織された軍隊を抑えられず、街頭では政府打倒お民衆蜂起がはじまる。と、ここまで来なければ、おそらく労働者は生産点で政治ストを行なうことはできない。いや、形だけの政治ストなら日本の労働者も経験してきたが、合法的なスト権の行使にすぎない。三里塚闘争は少なくとも、組合の存亡をかけた闘いへの選択肢を提起したという意味で、やはり歴史的な闘いだったのであろう。そこでは、具体的な勝敗をめぐる戦術が明白だったのだ。そのリアルさに、夢みがちな新左翼の活動家たちは魅せられたのではないか。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

最新『紙の爆弾』9月号!「人命よりダム」が生んだ人災 西日本豪雨露呈した”売国”土建政治ほか

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

 

『戦旗派コレクション』より

わたしは理論誌とも思想誌ともいわれる雑誌の編集をやっていますが、理論や思想が世の中を変えるなどと思ったことは、じつはあまりない。人を動かすのは感情であり、魅力のある物事だと思うからです。その物事の原因や拠って立つ構造を解明することにこそ、理論や思想はあるのではないでしょうか。

とはいえ「理論派」「知性派」と呼ばれることに人は憧れ、その対極にある、やや侮蔑的な評価が「肉体派」ではないか。学生時代には、よく「君たちは肉体派だな」と言われたものです。この「君たち」とは、わたしの出身大学(けっこう受験生に人気はありまずが、一流とは言えますまい)の意味であって、わたしたちを評したのは、東京大学から「指導」に来ていた理論派の学生でした。どうせ俺たちは肉体派だという自虐が顕れるのは、三里塚現地で肉体労働に従事するときでしたね。団結小屋の改修や風車をつくるための穴掘り、要塞建設などなど。とにかくあてにされる。

ところがいちど、内ゲバで他党派と揉み合いになったとき、かの東大生は言ったものでした。「いいよな、君たちみたいに身長のある人は。相手に掴まれても、パッと突き放せるだろ」。このときに判ったものです。ああ、この人が「君たちは肉体派」と言うときには、背が低いことへのコンプレックスがあったんだな、と。

学生活動家というのは、大きな人か小さな人の両極端がなぜか多くて、昨年亡くなられた塩見孝也さんなどは巨漢系。塩見さんに早稲田でオルグされた故荒岱介さんも180センチの身長でした。いっぽう塩見さんと袂を分かつ赤軍派の指導者・高原浩之さんは小柄な方です。意外なことに、小柄な人のほうが頼りになると、よく言われたものです。

ヤクザも同じで、大柄な人と小柄な人がなぜか多くて、中肉中背という親分はあまりいない。たとえば工藤會の三代目・溝下秀男さん、山口組の五代目・渡辺芳則さん、太田興業の太田守正さんなど、小柄だが胸や腕は筋肉隆々という方が多かった。たぶん小柄だと、そのハンディを乗りこえるために鍛えるんでしょうね。大きい人だなと思ったのは、広島挟道会のM氏くらいのものだった。ヤクザは知性派とか理論派と呼ばれるのは評価が低い証しで、もっぱら「武闘派」が名誉ある親分ということになる。

◆「肉体派」という呼称に違和感がなくなった40代

わたしが「肉体派」という呼称に違和感がなくなったのは、40歳をこえるあたりからでしょうか。左翼活動家にしろヤクザの親分衆にしろ、付き合っている方々がひと回り年上なものですから、その中にいると話題が健康と病気の話ばかりだと気づいた。まだロードバイクはやっていませんでしたが、けっきょく左翼もヤクザも健康のことばかりになってしまうんだなと。だったら、今後は健康と環境問題が人類のテーマだと。

そこできっぱり、煙草をやめました。親父が肺ガンで死んだというのもありましたが、喫煙癖は病気だと思うと、意外に簡単にやめられたものです。いったんやめて、それでも家内が吸っていたので、もらい煙草をしているうちに「やっぱり、これって病気なのかな」と。そのうちに家内が怪我(浴衣で外出したときに、下駄を滑らせて脚の指を骨折)をして、じゃあ一緒に煙草をやめようとなったわけです。いらい、運動はもっぱらサイクリング、楽しみはお酒だけという生活です。さて、肉体派というテーマにもどりましょう。

 

『戦旗派コレクション』より

本格的にロードバイクに乗りようになってからは、肉体派という実感がむしろ誇らしく感じられたものです。もう50歳台になっていましたが、隆々たる大腿筋に盛り上ったハムストリングス。腕も硬く太くなっていきます。もうひとつ「肉体派」といえば肉体美をもって「演技派」に対置されるわけですが、肉体美という意味ではもう完全に、知性派とか理論派なんかというものを打ち負かす魅力があります(女優じゃないけど)。2008年の洞爺湖サミットにさいして、自転車ツーリングを呼びかけて「肉体派は集まれ!」というキャッチを同行するグループに提案したところ「せめて知的肉体派」にして欲しいと異論があった。単なる「肉体派」はダメらしい(苦笑)。

三里塚の横堀要塞にろう城が決まったとき、鉄の入った安全靴やぶ厚い作業着、フルフェイスのヘルメットに身を固めながら思ったものです。もっとスマートな都市ゲリラのほうが性にあってると。しかし逮捕されて3畳一間の独房にいると、三里塚の大地に身を躍らせたいと、そればかり考えていました。

もう還暦をこえたいまは、ひたすら健康のために自転車に乗り、健康な食材と美味しい料理が生きがいです。それと、やっぱりお酒なのですね。もう完全な肉体派。いまちょうど、五木寛之先生と廣松渉先生の対談本の復刻(抄録)を編集していますが、60歳で身まかられた大哲学者よりも、86歳にならんとする国民的作家のほうが肉体派だったということになります。肉体派万歳! (この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

三里塚闘争は土地所有をめぐる空港反対運動だったのか、それとも農民闘争だったのか。社会運動の観点からは、そんな命題が残されたように思う。実態は農民が主体の住民運動であって、土地を奪おう(強制収容しよう)とする国家との闘いだった。農民が主体である以上、営農の問題は運動の原動力でもあった。農民にとって営農とはつまり、土地と共生して行くということにほかならないからだ。

◆資本主義における農民問題とは何か?

あのころ、わたしたちは社会主義論の立場から、農業の集団化というテーマが問題意識にあった。戦争反対や政策反対闘争の延長に革命を措定するのではなく、運動そのものが社会主義の要求を内包するものと提起するべきだと。そこで単なる空港反対運動ではなく、農民を社会主義に動員する萌芽があるはずだと考えていた。当時はオルタナティブ(政策選択)という言葉が流行していたが、あえて社会主義革命の準備という表現に執着したものだ。これは関西ブントと合流したゆえの党派性であろうか。当時、わたしが属した情況派の流れを汲む組織は、赤軍派の一派と合流していた。

一般的な定義をしておこう。マルクスの時代、農民は共同体を通じても自然の力(天変地異)に抗することができず、神や絶対的な権力(君主)に頼らざるを得ない(『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』)したがって、没落するか体制に組み込まれる存在だと考えられた。もっともマルクスは、ロシア革命の黎明期にベラ・ザスーリッチ(ナロードニキ・メンシェビキの女性革命家)に宛てた手紙では、ロシアのミール(農村共同体)の革命的な可能性を予言している。

いっぽう、帝国主義段階の資本主義の下では、農産物は国際競争の中で、商品として安価な地域に淘汰される。したがって農業は大工業化されるしかないので、農民の大半はかならず零落する。これが近代の農業・農民問題である。そこから、土地の共同所有・全人民的な所有のよって、農業の集団化が計られることで、農民は零落することなく生産性を上げることができる。と、レーニンおよびロシア社会民主党(ボ)を継承したコミンテルンは問題意識を持った(わたしの理解です)。したがって、農民は労働者階級と連帯して、社会主義に向かうべきである。そうしなければ、零落する小ブルジョアジーとなるしかないのだと。かなり教条的だが、新左翼の大半はこう考えていたはずだ。じっさいには、ソ連邦のコルフォーズ・ソフォーズ(国営農場と集団農場)は農民の営農意欲を刺激できず、資本主義的な工業化すらできなった。

 

二木啓孝さんインタビュー「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」(『NO NUKES voice』Vol.16より)

 

二木啓孝さんインタビュー「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」(『NO NUKES voice』Vol.16より)

◆共同出荷と有機農法

三里塚における農業の集団化は、東峰部落で行なわれたワンパック、共同出荷場の作業にその具体性があると思った。そこで現地集会の前夜には青年行動隊を呼んで、農業の集団化について討論会を持ったことがある。「どうせ闘うのなら、農業もいろんな方法でやってみっぺ。いろんなことを試してみる。そういう問題意識だな」と語ってくれたものだ。三里塚の運動が生協をはじめとする全国に広がっているから、流通も全国に拡大できる。じっさいに、わたしは藤本敏夫さん(加藤登紀子さんのお連れ合い)の「大地を守る会」のアルバイトをしていたから、三里塚の野菜(根菜類が多かった)の需要は実感していた。それでものちに、同じ東峰部落の堀越さんが朝採り野菜を団地などで直販したほうが、野菜の美味さは格段に上だったと思う。ぎゃくに言えば、三里塚の野菜は「三里塚闘争」というだけで、ありがたがられる存在だったのだ。

有機農法については、かなり早い段階で取り入れられていた。冬場の援農で、「堆肥を取ってきてくれ」と言われて、山積みになっている乾燥堆肥の温度におどろいたことがある。見えない微生物が繁殖して、そこだけ熱を持っているのだ。農学部の学生も「無農薬・有機農法(微生物農法)」に興味を持っていて、それを見るために三里塚闘争に参加するケースもみられた。

◆成田用水問題

三里塚闘争に農業農民問題としての側面が厳然たるかたちで浮上したのは、80年代なかばの成田用水問題だった。成田用水は高地(北総台地)である三里塚に、はやくから計画されていた。それが土壌整備(深田の底上げ)などと一体化して、空港建設の見返り事業として立ちあらわれてきたのである。支援党派の多くは、これを空港建設の一部と見なして反対した。用水建設反対運動も実力闘争となったが、これがのちに反対同盟の分裂にいたるひとつの契機だった。常東農民運動で名高い山口武秀さんの言うところを、伝聞だが記しておこう。共産党も新左翼も、農民運動としての三里塚闘争を政治闘争にしてきた。政治的に利用してきた、というニュアンスである。農業基盤整備を行わない農民運動は、営農とかけ離れたところで闘っていることになるのではないか。そういう意見だったと思う。肝に命じるべし。

◆農への志向

それにしても、三里塚闘争にかかわった学生たちは農業というものを体感することで、人生観が変わったのではないだろうか。少なくともわたしはそうである。わたしの先輩の二木啓孝さんも同様だ。最新号の『NO NUKES voice』(Vol.16)に「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」というインタビューにまとめてみた。ぜひ読んでいただきたい。明大農学部出身の二木さんは、鴨川の棚田で農に接している。

わたしの場合は連れ合いに誘われてだが、松戸の市民農園でささやかな「営農」をしている。年間9000円で3メートル×5メートルの畑に、ホウレンソウや小松菜、ミニトマトにナス、ピーマン、獅子唐辛子、トウモロコシ、キャベツなど。マンションでやってみたプランター農業とは、まったく地力がちがうので愕いた。週末だけの農業とはいえ、スーパーで野菜を買う機会が減った。みなさんも是非!(この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

月刊『紙の爆弾』8月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

このたびの集中豪雨によって被災された方々に、お見舞い申し上げます。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

◆くり返された水面下の話し合い

1978年5月の出直し開港の前に、財界首脳が労働界を介して反対同盟との話し合いを行なったのは前述したとおり 。政府の無為無策に対して、財界が音頭をとることで休戦協定を結ぼうというものだった。ところが千葉県自民党と千葉日報の暗躍で、戸村一作委員長が福永運輸大臣と会談することになり、財界首脳の「和解調停」はついえた。政府運輸省としては、戸村委員長と話し合うことで誠意は尽くした、ということになったわけだ。

これが結果的にはどうだったのか。たとえ財界が音頭をとったところで、おそらく政府当局者(福田政権)は休戦協定を結ぶことはなかっただろう。反対同盟が財界首脳との協議で要求していた「逮捕者の即時釈放」(超法規的措置)を、司法当局はもとより行政府が肯(がえ)んじるはずがない。反対同盟の総意もまた、中途半端な和平ではなく「空港絶対反対」だった。じっさいに労働者学生の血が流され、獄中には捕らわれた若者たちがいるのだ。そして死者が出ている以上、安易な妥協策を講じるのは、即座に「裏切り」と言われかねない。

とはいえ、日本人同士が血を流し合う空港反対闘争の終結、あるいは円満な解決を、反対同盟農民も望んでいた。秋葉哲さん(救援対策部長)は「政府が二期工事を断念すれば、こっちも闘争の矛をおさめる準備がある」と語っていたものだ。これは初期の財界調停案でもあって、第三の首都圏空港を千葉県船橋の沖に海洋空港として建設する。都心からのアクセスが悪い三里塚空港は、貨物便用途の空港とする。そんな構想は現実的に感じられていたものだ。そのための水面下の交渉が、何度となく繰り返された。

80年代の全般を通して、反対同盟の幹部が政治ブローカー(農本系右翼や新左翼の元幹部)の手引きで、自民党政治家に接触した。そしてそのたびに、写真入りですっぱ抜かれてしまい、交渉は頓挫するのだった。すっぱ抜かれたものは氷山の一角で、表面化しない交渉もおびただしくあったのだろう。あるいは、反対同盟の幹部がひそかに自分の土地を空港公団に売ってしまい、それが露顕することもあった。その幹部にとっては、背に腹は替えられない事情があったはずだ。何も食わずに闘えと言うほうが、そもそも無責任ではないか。土地を奪われては食べていけないという原点から、空港反対運動は出発したのである。反対運動をやっているがために、食えなくなったのでは原点にもとるといえよう。


◎[参考動画]三里塚 大地の乱 前編(newleft1984 2009/09/19 に公開)

◆都市ゲリラ化した反対闘争

いっぽう、話し合いが模索されるなかで、支援勢力(新左翼)はどんな動きをしていたか。開港後の80年代は、飛び道具をつかったゲリラの時代だった。それも自動発火装置や金属弾、そして70年闘争いらいの爆発物も登場した。空港敷地内や建造物への攻撃、ジェット燃料のパイプラインへの攻撃。そして90年代に入ると、個人へのテロが急増した。千葉県の土地収用委員へのテロ、空港関連事業を請け負った企業の個人をねらったもの、その家屋を爆破するなどである。

あえて運動の一環としてのゲリラ闘争とは書かない。それが敵の弱い環をねらう戦争の基本戦術であったとしても、運動から孤立したテロリズムは空港を廃港にするという目的からは大きく逸れているとわたしは思う。空港を廃港にするというのならば、国民的な議論を経なければありえないはずだった。三里塚に臨時革命政府(労働者権力)ができるのならともかく、廃港は政府の決断をもとめることになる。ということは、政権交代や政治危機(政権が立ち行かない事態)をつくるよりないのだ。

開港を阻止したとき、国民の4分の1が空港よりも緑の大地を取りもどすべきだと、空港建設に反対だったのだから、大衆運動と国民的な議論による廃港の可能性はないわけではなかった。よしんば武装闘争が政治革命を目的にしたものであったとしても、物理的に政治権力を倒すには国民(人民)の圧倒的多数が政府を追い詰め、いっぽうで警察や軍隊の一部が革命の側に来るのでなければ成立しない。それは歴史上の革命が教えるところだ。先進国における革命とは帝国主義支配下の民族解放戦争ではなく、人と社会の変革なのだから――。

具体的にしめしておこう。空港の施設建設を請け負った企業の寮が放火され、労働者2名が殉職している。やはり空港関連企業の幹部宅が爆破され、無関係の父親が死亡している。公団職員の自宅が焼かれ、土地収容委員がテロで重傷を負った。三里塚闘争は大衆運動からかけ離れた、テロリズムになってしまったのだ。

◆円卓会議という名の懐柔策

90年代に入ると、宇沢弘文・隅谷三喜男といった学者が調査団を立ち上げて、三里塚闘争の収拾策をはかるようになる。宇沢にしても隅谷にしても、研究者としての人生の仕上げに三里塚空港問題という難題をクリアすることで足跡を残したい。そんな気配が感じられたものだが、善意の第三者が紛糾した事態を収拾するのは、悪いことではないだろう。調査団はシンポジウムを開催して、これは円卓会議と呼ばれた。誰も上位ではなく、下位でもない。対等の立場で話し合い、そこで得られた結論には従う。やれるものなら、やってみてくださいというのが、わたしたち熱田派支援の気分だった。もちろん、中核派に指導された北原派は不参加である。この時点で、シンポジウムは半分しか意味がないことになる。もしも北原派を会議の席に着かせていたら、このシンポジウム(円卓会議)は歴史的な偉業として歴史に名を残したであろう。

円卓会議では政府・空港公団側から一方的な建設計画と強権的な土地収用についての反省が表明され、事実上の「謝罪」が行なわれた。隅谷調査団およびシンポジウム(円卓会議)の、それは政府に対するスタンスであったから、政府・空港公団は消極的にではあれ建設方法の問題点を「謝罪」るのには、やぶさかではなかったはずだ。いや、それ以前に江藤隆美運輸大臣が反対同盟に謝罪を表明していたのだから、いまさら頭を下げるのをためらうことはなかったはずだ。

その意味では、学者たちが主導した円卓会議は形式的なものにすぎなかった。事実、その後の空港建設は機動隊を前面に出した「強制措置」こそ採られなかったものの、法的な手段で反対派農民を追い詰めるものだった。日々の生活を圧迫する騒音と莫大な移転費用の補償が現実の問題となった。それを準備した円卓会議は、かたちを変えた政府の「懐柔策」にすぎなかったのである。

◆三里塚闘争が残したもの

それでもわたしは、政府の「謝罪」をもって、三里塚闘争は終焉したのだと思う。いまも騒音下で苦しみを余儀なくされている人びと、あきらめずに「空港絶対反対」を闘っておられる人びとには敬意を表しながらも、闘争をやめる権利は農民たちにはあったのだと思う。不遜ながら思うことがある。膨大なエネルギーをもって相互に攻防した敵味方をこえて考えるに、国家的なプロジェクトを誤れば取り返しのつかないことになる。そんな貴重な教訓が残ればいいのではないか。いまは原発再稼動の問題および電力計画に、その教訓が生かされるのかどうかだ。そして思いを馳せるのは、戦争ゴッコのなかにも愉しいことは多かったという懐旧であろうか。私的なことも長々と連載しましたが、ご精読ありがとうございました。

今年はあまり盛り上がっていませんが、いわゆる「1968革命」から50年です。全世界が苛烈なまでにイデオロギーと政治的な地歩をかけて争った風景から、50年もの時が過ぎたのです。そのことが残した意味・意義・内省すべきことを、遅れてきた世代も追体験したのだとわたしは思います。いまもそれは続いているかもしれないし、これから負の遺産を払しょくした社会運動が生まれるのかもしれない。そのきざしは確かに、78年のわたしたちにはあったのですから。(この連載は随時掲載します)


◎[参考動画]三里塚 大地の乱 後編(newleft1984 2008/06/16 に公開)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

最新刊!月刊『紙の爆弾』8月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆援農という政治工作

膝づめで親しく話をして、酒を酌みかわしながら信頼関係を築いてゆく。そして政治的な課題を共有して、ともに行動計画を練る。そんなのが三里塚における、理想的な「政治工作」というものだったのだろう。まだ二十歳になったばかりのわたしは、現闘キャップが言う「政治工作」という意味があまりよくわからなかった。とは言いながらも、援農をすることで反対同盟農民への「政治工作」を、わたしも果たしていたのだ。三里塚における「政治工作」とまちがいなく、農民たちに恩義を売るという意味だったに違いない。農民たちにとってわたしたち支援学生は、使いやすい労働力だったのである。予期せぬ援農の朝は、こんな感じで始まったものだ。朝もはやくから、現闘小屋の電話がリーンと鳴る。

 

映画『三里塚のイカロス』

「はい、もしもし。○○団結小屋です」
「いま、そっちに学生さん、いるのかい?」
「は?」(現闘のキャップ)
「援農な、頼めないべぇか?」

電話を掛けてくるのは、決まって「おっ母ぁ」である。家父長である当主が掛けてくることは、めったになかった。親父たちは面倒なことはすべて、おっ母たちに任せたものだ。

「どうなんだべ?」
「はぁ……」

 現闘キャップ、ここで寝起きのわたしの顔を見ていますね。
「援農、来てくれない? 学生さんいるんだべ?」
「ええ、ひとりいますけどね」
「頼むわぁ。来させてよ!」

ややあって、現闘のキャップがわたしに問う。
「政治工作、いや援農、行けるかい?」
「は、はぁ」
「頼んだぞ。よろしくね」
「は、はい!」

かくして、その日のわたしの活動が決まったのである。本当は前日の夜まで鉄塔(岩山鉄塔)当番で、今日はオフだったはずなのに。現闘のキャップはクルマの修理に行かなければならないので、わたしが援農をすることになったのだ。こういう緊急呼び出しの援農というのは、きまって待遇が悪い。そもそもボランティアの援農に「待遇」の良し悪しもなかろうと思われるかもしれないが、貧乏学生にとって昼飯と晩御飯の「待遇」はきわめて重要なのである。若い身に三里塚の地は何の楽しみもなく、ひたすら食べることだけが生きがいだった、ような記憶がある。思い返してみると、現闘団が二名ほどの党派で、しかも実働部隊が学生なのに、反対同盟の方針を左右する「政治工作」など行なえるはずもない。援農で恩義を売ってはその恩義をもとに、自分たちのイベント(当時は「総決起集会」などと呼ばれた)に参加してもらう。そんなことだった。

◆ケチだった援農先、豪華だった晩餐

農作業に慣れない学生にとって、援農は大変だった。大変なのは、その対価である食事だった。関西から援農に入った学生が言ったものだ。

「あそこ、昼飯がひどかったやん。サトイモの煮ッころがしだけやろ。なんじゃいこら、で、僕らは納屋で寝てましたよ。ベタベタに疲れてたし」

なんと、昼飯が気に入らなかったから、作業をサボって納屋で寝ていたというのだ。たぶんその時は、援農の人数が多かったのだろう。2~3人しかいない場合は、そうはいかない。朝の9時ごろから始まって、夕方6時を過ぎるまでひたすら働いたものだ。

その代わりに、青年行動隊の若手の農民がその大半だったが、農作業後の食卓は豪勢だった。すきやき・焼き肉・寿司の店屋物、お酒も出て三里塚闘争の将来を語り合いながら、という具合だった。援農土産に「持っていきなさい」と言われて持ち帰る採りたての野菜、とくに真冬のニンジンや大根は美味しかった。シャキッと歯ごたえのあるみずみずしさは、都会のスーパーで買ったものでは味わえない。採りたての野菜が美味しいのだという記憶は、いま市民農園を借りた野菜づくりに生きている。

◆反対同盟の人々

反対同盟の人々についても、印象を記しておこう。東峰部落の石井武さんは、わたしたちの団結小屋の庇護者であるとともに、横堀要塞戦ではわたしの相被告だった。石井という名前は三里塚・芝山地区には多い名前で、例の「731部隊」は石井部隊とも呼ばれていた。石井武さんは731部隊ではなかったが、満州で活躍された関東軍の陸軍将校である。「おれは匪賊を何人××したか知れない」が酒を飲んでの口ぐせだった。元将校だけに、戦略的な視点や戦術的な判断は卓抜だった。

三里塚闘争の軍師といえば、岩沢吉井さんをおいて他にない。ほかならぬ3・26管制塔占拠の作戦立案は、この人が空港建設説明会の混乱のさいに公団事務所から手に入れていた図面がもとになっている。それは地下水道の精緻な見取り図であり、空港の地下構造の全容である。すなわち、空港を裸にしたようなものだったという。この山林の向こうを掘れば、空港中枢に通じるマンホールがあるはずだ、という感じだったらしい(映画「三里塚のイカロス」)。


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

とくに名前は控えますが、戸村一作委員長亡きあと、反対同盟の顔として活躍されたK氏は、そのオモテ向けの顔と、裏側の顔が乖離する人物だった。とは言っても、他の幹部たちのようにウラ金づくりに走ったりしたわけではない。「他の幹部」というワードが気になる方にはI副委員長など、善意でありながら自分の土地をひそかに売ってしまったり、闘争の資金を私的に流用した方々のこととしておきます。

さて、そのK氏は凛とした演説の風情とはまったく逆に、宴席(全国集会の会場係の慰労会)になると、へらへらとした顔になる。若い女性が大好きだったのだ。何かといえば、「こっちに来なさい」と、若い女性活動家に言葉をかけては、身体を押し付けるように、にじり寄る。ああ、見た目は立派な人なんだけど、こういう面があるのだなぁと、わたしはその光景を眺めていたものだ。ただし身体を押し付けようとしても、直接には触れなかったように記憶している。その意味では、けっしてセクハラではなかった。

わたしの相被告で、秋葉哲救対部長は温厚な人格者だった。わたしたちと要塞に立てこもった反対同盟幹部のなかでは唯一煙草を嗜まれない方で、最初の意志統一の会議で「嫌煙権を主張しますぞ」などと、みんなを笑わせたものだ。地下道(脱出用トンネル)では最後までわたしたちと一緒にあり、最後は「上に掘って酸素を入れなさい」と指示してくれた。酸欠寸前だったわれわれは、秋葉さんに生命を救われたと言っても過言ではない。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき『紙の爆弾』7月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆78年はニューミュージックとディスコサウンドの時代だった

わたしの未決拘留の一年間は、ラジオを通じて音楽に親しんだ一年でもあった。音楽通になるのは、拘置者の特権というべきか宿命というべきか。クルマを使って出版社で集配業務をやっていた時期もラジオは身近な存在だったが、90年代の音楽はそれほど印象に残っていない。千葉拘置所ですごした1978年を、わたしはひそかに78年革命と呼びたいと思ってきた。68年革命という世界史的な革命とはややちがう、しかし明らかに68年革命を否定する文化とミュージックシーンがそこにあったと思うからだ。まず、ニューミュージックの勃興による、四畳半フォークという60年代後期の若者文化の否定があった。まったく別のベクトルからは、ディスコミュージックが日本に到来していた。これら音楽シーンから歴史の思想的回路を取り出してみよう。


◎[参考動画]Bee Gees Stayin Alive (Extended Remaster)

映画「サタデーナイトフィーバー」を起点にしたディスコブーム。最近復活したABBAが多数の楽曲を仕掛け、ディスコの女王ドナ・サマーが次々に新曲を発表。60年代に日本人のアイドルだったシルビィ・バルタンも「ディスコクィーン」という曲をリリースしている。荒井由実・中島みゆき・ハイファイセット・サーカス(この年デビュー)を中心にしたニューミュージックには、渡辺真知子(カモメが翔んだ日)、庄野真代(飛んでイスタンブール)ら、本来なら歌謡系であるべき新人歌手が参入した。このニューミュージックは、60年代のフォーク文化を継承しながら否定する、アメリカ西海岸ミュージックとフォークのクロスオーバーなどと言われたものだ。

ロックではイーグルス(ホテルカリフォルニア)、ソウル系のスタイリスティックス(愛がすべて)が際立っていたと思う。「ホテルカリフォルニア」は言うまでもなく、アメリカという国家の疲弊と思想的な限界をバラードにしたものだ。ベトナム戦争に傷ついたアメリカは、ホテルカリフォルニアというホスピスに癒されているのだ。ここには68年いらい、スピリット(革命的な精神)は置いていないと、その叙情的なフレーズが語る。日本では矢沢永吉であろう。「時間よ止まれ」がミリオンセラーのヒットで、この年にハンク・アーロンの世界記録を塗り替えた王貞治に次いで「ヒーローと呼べる男」になった。最近亡くなった西城秀樹も、YMCAをはじめとするゲイミュージックを別のかたちで伝えて、一世を風靡したものだ。そういえば、ふつうの女の子にもどりたいキャンディーズが後楽園球場で4万人を集め、ピンクレディはラスベガスに進出した。かぐや姫(みなみこうせつら)の復活はあったものの、総じて60年代フォークが引導を渡されたのが78年だったと、わたしは思う。

◆78年革命から80年代ポストモダニズムへ

68年を否定した時代を、かりに文化における革命と措定してみる。78年革命があったとしたら、68年(70年)革命の遺産を払しょくし、若者たちはひたすら新しい時代を求めていたというテーマの設定はどうだろう。新しい時代が峻拒したかったものとはおそらく、68年革命と内ゲバに象徴される敗北の歴史であるはずだ。

不遜を承知で言おう。小熊英二が『1968』で2011年の3.11以降、社会運動は組織参加から個人参加の時代に変ったという、恣意的で皮相な見識とはちがって、68年いらい組織から個へと参加方法を移行させてきたにもかかわらず、運動を閉塞させてきたものからの自由。つまりマルクス主義やレーニン主義などの枠組みからの脱出を、70年代後半のわたしたちは希求していた。別の言いかたをすれば、運動と組織におけるポストモダン(近代合理主義批判)が始まっていたのだと、強引に理屈づけてしまおう。そうでなければ、80年代初頭からのニューアカデミズムとポストモダニズムの台頭が、どうにも説明できないのである。

ポストモダンという言葉が、大きな物語の終焉として語られるようになったのは、ジャン・リオタールの『ポストモダンの条件』が最初であろう。それより前には、建築家(チャールズ・ジェンクス)から発せられた『ポストモダニズムの建築用語』(77年)があり、世間一般にはポストモダンは建築様式として、磯崎新の建築作品群などで知られてきた。脱構築(デコンストラクション)という言葉が用いられたが、これは解体的止揚と訳したほうが適切であろう。その意味では、78年のニューミュージックは68年革命の成果であるフォークソングを解体的に止揚し、78年のディスコブームは60年代末期のゴーゴー喫茶(モンキーダンス)を解体的に止揚するものだった。

しかしながら、ニューアカデミズムとポストモダン現象が90年代には早くも失速するように、ニューミュージックとディスコブームも一過性のものにすぎなかった。ニューアカとポストモダン(この場合は思想としての)が一過性のものだったのは、そのあまりにも難解なレトリックと概念、わざと難しく書くことが偉いかのようなスタイルによって、誰もそのステージに上がれなくなった(単に本を読み通せなかった)からだ。

ニューミュージックとディスコ音楽が難解だったとは思えないが、この場合は楽曲の幅の狭さがその原因だったのではないか。あまりにもワンパターンだった。ニューミュージック系の流れでは、最近は本格的な声楽の歌い手をグループでプロデュースする手法が流行り、それなりに成功しているようだ(FORESTAなど)。とはいえ、歌唱力ではアイドルグループを凌駕できても、オリジナル曲とサラ・ブライトマンのような歌手が出てこなければ、本物の歌でアイドル文化を越えることはできないだろう。

◆本物の思想とは何なのだろう?

 

グループサウンズやフォーク、そしてポップスと呼ばれた欧米の楽曲、さらにはビートルズやストーンズ、ショッキングブルーなど。これら70年を前後するミュージックシーンを超える、本物のミュージシャンは、まだ日本には出てきていないと思う。坂本龍一教授にしても、そこは超えられなかったと思う。

いっぽう本物の思想といえば、階級ならぬ階層社会のなかで見直されるのは、やはりマルクス主義ではないだろうか。ヘーゲルいらいの大きな物語の終焉については同意しよう。革命というマルクスの物語も潰えたと思う。にもかかわらず、ニューアカとポストモダンの死骸のなかで、けっきょく残ったのはマルクスの方法論、すなわち経済的な与件に決定されるわれわれの存在と、それゆえに求められる共同体論の模索ではないか。すぐる5月5日はカール・マルクス生誕200年記念日だった。

映画「マルクス・エンゲルス」が上映され、反貧困運動いらいマルクスがもう一度見直されようとしている。わたしにとっては資本論読破40周年だが、そのガイストはもはや記憶にない。わたしたちの生きる術も労働や生産といった、資本の本源的な運動にはないと思う。78年革命が三里塚闘争によるものだとしたら、それはすでに経済的な与件ではなく、環境と共同体にこそ活路を見出そうとしていたはずだからだ。具体的には労働や生産点よりも流通と消費に、わたしたちは意識を移してきたのだ。どちらが本物なのかは、よくわからない。(つづく)


◎[参考動画]映画『マルクス・エンゲルス』予告編

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

横堀要塞の抜け穴トンネルが警備陣に気づかれていたのは、すでに書いたとおりだ。場所までは特定できなかったものの、その存在は知られていた。あるいは推定されていた。そして検察官が抜け穴トンネルから脱出した者がいなかったことを、立証しないというドジを踏んだのも前述したとおりだ。ために刑事裁判を厭う裁判長は、殺人未遂被告にも執行猶予を与えてくれた。

抜け穴トンネルが予期されていたのは、交通課の刑事たちのレベルでも「過去の例(第一次・第二次強制収用阻止闘争)をみれば、すぐにわかるじゃないか」「あそこから、外に出た者はいないんだ。君たちが『自分たちは逃げなかったが、ほかに逃げた者がいる』とか言っても通用しないぞ」と事態は判明していたのに、検事はあえてトンネルからの脱出の有無を立証しなかった。ぎゃくに言うと、警察と検察の連携のなさは明らかだった。そして「逃げられなかったのは、指導者が悪いからだぞ」(取り調べの刑事)というのは半分は当たっているが、半分は「前日に脱出しなかった」のは、党派間の政治の問題なのである。

◆名作『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

獄中で読んでおもしろかったのは、漫画『男組』の物語の展開のなかに、関東少年刑務所の脱出用トンネルが登場したことだ(78年5月「少年サンデー」連載分)。あきらかに、わたしたちの横堀要塞の脱出用トンネルをヒントに描かれたものだ。その証拠に要塞化した少年刑務所の上空には、三里塚の地を思わせる飛行機が描かれている。わたしたちへの「応援しているぞ」というメッセージであろう。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

原作者の雁屋哲は東大時代に教養部自治会の役員をやっていた元活動家で、代表作『美味しんぼう』で知られるとおり、反米・反TPP・反原発の思想の持ち主である。『男組』は1974年の4月連載開始で、当時高校生のわたしは、受験勉強のかたわら読んでいた。大学に入って、アルバイト先の暇な時間にコミック化した『男組』を読んでいると、いつもは大学の教科書を読んでいると、にこやかな表情をする英語の堪能な女性事務員は、何となく軽蔑した視線を寄越したものだ。まだマンガが市民権を得ていない、それはいまでも同じかもしれないが、知的な層からみれば上から目線で見られていた。

そうであったとしても、『男組』は読み返してみるに、じつに政治的で扇動的なマンガだと思う。闘わなくなった若者に「闘え」と何度もアジる。アジるのは主人公の流全次郎だけではなく、ライバル(もうひとりの主人公)の神竜剛次もだ。剛次は「ブタのように奴隷労働の対価をむさぼる父親たちを乗り越えて、俺の理想の国家づくりに協力しろ」と、高校生たちを扇動する。そして闘わない大衆をも「ブタ」とののしる。その神竜剛次の危険な野望である独裁国家づくりを阻止するために、流全次郎も「いま神竜と闘わないで、いつ闘うのだ?」と、同級生たちの覚悟のなさを批判する。わたしたちは「三無派」(無関心・無責任・無気力)とも四無派(+無感動)とも呼ばれた世代で、雁屋にしてみれば「喝」を入れたいのはよくわかる。雁屋のメッセージを少なくとも、わたしは正面から受け止めた人間のひとりだと自負する。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

◆あらゆる政治的計画は破綻する

けれども、そのあまりにも過剰なボルテージは、池上遼一の巧みでダイナミックな描画によって、抜き差しならないところまで物語を引っぱってしまう。後段、流全次郎とその盟友である堀田正盛と倉本は「機動隊をせんめつせよ!」と呼号する。どこかで聞いたスローガンではないか。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

特命機動隊なる非合法としか思えない警察集団が、殺人の許可をえて取り締まりに当たっているのだから、高校生番長グループが「機動隊をせんめつせよ!」と叫ぶのも不思議ではないが、これは70年闘争の中核派の主張である。物語全体に、たとえば影の総理を児玉誉士夫や岸信介、あるいは田中角栄、三島由紀夫をダブらせてみせる人物設定が巧みで、読む者を政治のリアリイズムのなかに誘う。それゆえに、ボルテージを上げすぎても破綻しないギリギリのシナリオが成立している。とはいえ、政治のアジテーターがけっして政治的な結末まで準備できないのと同じで、物語はアジテーションで終るしかない。なぜならば史実をなぞる物語でないかぎり、政治的計画は第一の命題である「政治は結果がすべて」であることによって、かならず裏切られる運命にあるからだ。

それでは、三里塚芝山連合空港反対同盟とわれわれ支援の政治的な計画は、どこで何に裏切られ、あるいはどの地点で僥倖に遭遇したのだろうか。それは陥穽に落ちたと評価されるべきものなのだろうか。80年代に複数の回路で行なわれた「話し合い」は、90年代にいたって学識者の調査団、さらには円卓会議(上下のない立場での会話)として形になってゆく。(つづく)

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

千葉刑務所(千葉拘置所)

 

千葉刑務所(千葉拘置所)

◆明治以来の獄房・千葉刑務所(千葉拘置所)

いまの刑務所はテレビも観られるのだという。ヤクザの取材で知ったことだが、時間と選局は決められているものの、かなり自由に観られるそうだ。時間は所によって違い、18時から21時、19時から21時だという。わたしが入っていた頃の千葉拘置所(千葉刑務所内)は、18時からラジオ放送が始まり、21時に消灯。その後、22時か23時までラジオが聴けたと記憶する。昼は12時から13時だったか、休日(刑務所的には免業日)は終日聴けたと思う。

いま、北海道の旭川刑務所の独房が評判で、まるでワンルームマンションだと言われている。旭川刑務所はLB級、つまりロング(長期刑)で再犯(B分類)の重刑犯の刑務所である。千葉刑務所もLB級で、わたしが入っていた頃は狭山事件の石川一雄さんが居たところだ。建物は明治時代のもので、古色蒼然とした赤レンガ造り。独房の扉はぶ厚い一枚板で、トイレは肥溜め式。唯一の救いは、頑丈なレンガとコンクリートなので、夏の熱さがそれほど感じられなかったことだろうか。冬も寒いとは感じなかった。

いま、東京拘置所は建物全体に冷房があり、個室にもその冷気がくるので夏も快適だという。密閉性が高いので、冬も寒くないという。いずれにしても、堅牢に造られた建物は夏も冬もそこそこに快適だということだろうか。いまはレンガ造りの門だけ保存されている千葉刑務所(千葉拘置所)は、明治時代の建物だった。独房のなかには朝鮮人(おそらく共産主義者)の落書きが記され、戦前の日付が残されていたりした。

◆左翼学生にとって拘置所が革命の学校なら、ヤクザにとって刑務所は大学

 

千葉刑務所(千葉拘置所)

拘禁されているのだから、それが苦痛と思えばキリがないけれども、拘置所のなかで21歳になったわたしはシャバでは意識しなかった向学心で、それなりに充実した「獄中生活」を送ったと思う。時間をかけて資本論を読むのは初めてだった。「相対的価値形態と等価形態は相互に従属し制約し合う二要素であると同時に、相互に排斥する両極であり、換言すれば同一なる価値表象の両極である」という価値形態論のフレーズをいま読んでも、何のことかさっぱり理解できないが、若いわたしは解かったような気になっていた。

小説もよく読んだ。高橋和巳の小説は「こんなの、獄中で読まないほうがいいよ」と差し入れ担当の仲間が言っていた『憂鬱なる党派』もふくめて、ほとんど読破したと思う。やはり『悲の器』と『邪宗門』がダントツにおもしろく、そしてテーマがズーンと重たい。『悲の器』が文化人論・恋愛論・法と国家論を詰め込んだ重厚な問題作なら、『邪宗門』は宗門の悲劇を通じて描いた壮大な現代史であろう。何度も読み返せる小説作品としては、三島由紀夫の『豊饒の海』四部作とともに、わたしはこの二作品を挙げたい。

未決の「舎房雑役」は既決の模範囚が行なうのだが、その中に高橋和巳を読んでいる人がいて、本(領置品)の出し入れのさいに話になった。「高橋和巳はおもしろいよな。ちょっと硬いけどな」と、彼はかなりのインテリで、ドストエフスキーの話もした記憶がある。のちにヤクザの取材をすることで、ヤクザにとって「刑務所は大学」だということだった。担当さん(看守=刑務官)を「先生」と呼ばされ、イヤでも本を読むしかないのだから――――。

 

千葉刑務所(千葉拘置所)

◆獄メシ 麦6割・白米4割の健康食

ネットで検索すると、いまも獄メシは、麦6割・白米4割の健康食らしい。それが美味いかどうかは、お正月に出る白米100パーセントを食べてみればわかる。白米(銀シャリ)はまるで、上質なもち米を味わうかのごとき美味さで、麦飯の不味さを実感させたものだ。カレーとモツ煮込みがわたしには極メシの御馳走で、たまに薄いトンカツが出ると狂喜乱舞であった。このトンカツ定食が夜に出るのは、決まって死刑相当の被告が千葉刑に滞在する時だった。というのも、某党派の長期刑相当の被告は、東京地裁と千葉地裁に被告事件を抱えていたから、たまに千葉刑に移送されてきたのだと思われる。

そしてなぜトンカツなのかといえば、これは新聞でも暴露されたことだが、千葉刑務所は刑務官たちがコッソリと養豚をしていたのだ。もちろん自分たちで餌をやるわけではなく、懲役囚に育てさせていたのである。刑務所はいわば工場であり、キャピックという組織を通じて製品を一般に販売している。懲役囚にわずかな報奨金を与えて、木工工場からは箪笥やテーブル、印刷工場ではチラシや文庫本の印刷、金属工場ではネジや釘といった部品類、そして独房では封筒・紙細工など、シャバでは主婦の内職みたいなものが行なわれている。たまにデパートで刑務所作業販売会という催しが行なわれることがある。販売されているのは木工製品が主流で、それはそれは職人が造ったとしか思えない逸品ばかりが並んでいるものだ。

トンカツも楽しみだったが、自弁でお菓子は買える。獄中にいると不安がつのり、ついつい食べすぎになる。白アンパンが好物なので、毎日一個は食べていたような気がする。甘い物は注文できるのだが、ポテトチップスとかジャンクフードは少なかったように思う。それにしても、1日15分の運動では食べた量を消費できるはずもなく、逮捕された時に50キロほどだったわつぃの体重は、1年間で63キロまで増えていた。これは懲役囚でも同じらしく、みなさんふっくらとしている。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

この連載も10回目になります。闘争の歴史を記述するのは、あくまでもわたし個人の視点によるものであって、100人がいれば100の史実と真実がある。という歴史観から自由ではありません。とはいえ、歴史関連の著書もある史家のひとりとして、なるべく事実に即したものを書き残しておきたい真摯さは持っているつもりです。

そこで、書ける範囲で三里塚闘争の実相を記しておきたいと思う。三里塚闘争において闘争の実効性の大半を占めたのは、実力闘争がもっぱらであった。機動隊を前面に立てて空港建設が行なわれたかぎりで、それは共産主義革命をめざす政治党派が意図した以上に、農民の怒りを根源にした、自主的で必然的な判断・意志によるものだった。三派全学連をはじめとする新左翼の闘争の先鋭化はしたがって、三里塚芝山連合空港反対同盟の実力闘争によって培われたものだ。

以下はゲリラ闘争の記録である。自慢げに華々しい戦記物を書くつもりはない。ふつうの人間が戦場に置かれたとき、どんな行動をするものか。すくなくともわたしたちは、三里塚の地で疑似戦場を体験していたのだ。人が命を落とす戦争というものの怖さを、わたしも掠(かす)るように体験した。その意味では、戦争体験と言えるかもしれない。じっさいに複数の仲間が三里塚で死に(自殺をふくむ)、敵であった機動隊員も4名が殉職しているのだから――。


◎[参考動画]映画『三里塚に生きる』特報(第一弾予告編)(Kobo Sukoburu 2014年7月7日公開)

◆都市ゲリラ

ゲリラ行動の原則は敵の弱い環を叩く、戦術の基本から準備される。たとえば空港公団の設備の警備が手薄な場所。ビジネスビルの一角に、たまたま空港公団に関連する事業所の事務所があったなら、その事業所があるフロアのトイレなどが狙い目だった。なにくわぬ顔をしてエレベーターに乗ってフロアに降り立ち、ガソリンが入ったビール瓶にウエスを浸したものに、火の点いた蝋燭を立ててくる。時限発火装置などという技術開発はなかったから、ガソリンに火が付くかどうかはわからない。翌日、夕刊紙に「トイレでボヤ」という記事を見つけたゲリラ実行者は、ひそかに成功を快哉するというわけです。ただ、見出しの「過激派のイタズラか?」に少々傷つく。これはしかし、典型的な都市ゲリラだ。監視カメラが設置されているいまは、もう使えない戦術だろう。念のために付記しておきますが、わたしがやったゲリラではありません。

◆死者の出る野戦

77年5月の岩山大鉄塔破壊のときは、大学のサークル連合の合宿からもどったばかりで、仲間から「おまえ、やっと来たか」と言われた記憶がある。鉄塔の跡地では旗竿を構えたまま隊列を組んで、機動隊に迫ろうとすると猛烈な放水を浴びた。お腹にまともに受けた瞬間、身体がふわっと浮くような感じだ。ウィーンというモーターの音がして、暑いと感じられる5月の日差しのなか、放水のしぶきが肩にはじける。ちょっとシャワーを浴びたような快感と、戦場にいる臨場感。つぎに盾を持った機動隊員が前進してきて、そのまま追い立てられるように道路から排除された。

翌日は朝から千代田農協の構内で、鉄塔撤去への抗議集会だった。と同時に、周辺で機動隊との衝突がはじまった。集会をしている買う場内にもガス弾が飛来して、たまたまそれに当たった労働者が昏倒する。機動隊と対峙するデモ隊の脇から、突如として走り出てきた赤ヘルが火炎瓶を投擲する。機動隊のジュラルミンの盾が、サーッと後退する。随所で竹槍で機動隊と激闘が繰り広げられる。投石もすさまじかった。そんな攻防が昼過ぎまでくり返されたのだった。その日、臨時野戦病院に防衛線を張っていた東山薫さんが、ガス弾の直撃をうけて死亡したのは、連載の初期に書いたとおりだ。その翌日、ゲリラの襲撃をうけた機動隊員が殉職した。相互に犠牲者が出て痛み分けの様相だが、三里塚闘争が「戦死者」をともなう闘いなのだという実感で気分が重なった記憶がある。

◆トラックで乗り付けて、火炎瓶をフェンスに投げつける

開港前のゲリラ闘争は、集会の開催などとは関係なく行われていた。夜半にトラックで警備の手薄なフェンスに乗り付け、鉄柵に火焔瓶を叩きつける。ボッと燃え上がる炎を背に、トラックに飛び乗って逃走する。現地集会がひらかれる時以外は、ヘリコプターが動員されるのは稀で、空港の中からパトカーや警備車両が出動することもない。いわば三里塚の闇の中をやりたい放題のゲリラだった。

その様子を、警察無線の傍受で何度も聴いたことがある。「第5ゲート付近、火炎瓶事件が発生」「トラックで逃走の模様」「警備出動の可否を上申」などいう会話が聴こえてくる。じっさいに、警備車両が出動して、某党派の団結小屋を捜索したこともあった。「トラックのエンジンが熱いかどうか、確認せよ。エンジンを確認せよ」という警備本部からの指令で、現場班から「エンジンは……、冷えています」の応答があった。

ゲリラに使った車両を、そのまま団結小屋まで回送するゲリラはありえない。その夜の内に、空港の警備圏外に脱出しているはずだ。だがそれも、まだNシステムがない時代だからこそ可能だったゲリラであって、90年代にはいると物資の搬入も幹線道路を避けなければならなかった。後年、自転車ツーリングで元ゲリラ要員といっしょに利根川サイクリングロードを走ったとき、河川敷の道路経由で物資を搬入したと聞かされたものだ。

警察無線を盗聴していて、よくわかったのは現場の最高指揮官が「参事官」ということだった。参事官(本庁課長・警視長クラス)は本庁のキャリア組で、派遣された各県警の本部長を歴任したあとに、本庁にもどって警視庁長官レース(審議官・警視監クラス)に臨む。したがって自分よりも年上の県警幹部を叱咤しまくり「ヘリを飛ばせろ!」と叫ぶ。その下命をうけた県警幹部が「〇〇参事官から、かさねてヘリ出動の要請あり」などと連絡が入る。そんなやり取りは滑稽で、しかし迫真のものだった。

昼日なかにトラックではなく、徒歩で山野を逃げたこともある。もう開港していたから、飛行阻止闘争という意味合いで滑走路の延長上で黒煙を炊くというものだった。山林火災にはならないよう、古タイヤや灯油をつかった大きな焚火である。黒煙が上がれば、飛行機の離着陸に影響があるだろうというものだが、近くにいるわたしたちが煙たい思いをするだけだったかもしれない。もうもうと黒煙があがると、機動隊が大挙してそれを消しに来る。そこを待ち伏せして襲撃するというわけではなく、なにしろ少人数だから逃げる。無許可で大きな焚火をしただけだから、刑事犯罪ではないと思われるが、とにかくゲリラ闘争らしく逃げる。田んぼの畔を走り、小川を飛び越えて山林に隠れる。逃走地点は決めてあって、3時間ほど逃げた地点に迎えのクルマがやってくる。この場合はクルマをゲリラに使ったわけではないので、そのまま団結小屋にもどって夕食ということになるのだった。

やはり飛行阻止闘争で、凧をつかったことがある。凧にアルミ箔を貼って、それで管制室のレーダーが妨害されるのかどうかはわからないが、凧揚げで飛行を阻止するのだ(笑い)。小さいころに凧揚げをやった経験のない学生はダメで、うまく揚げた学生が賞賛されたものだ。(つづく)


◎[参考動画]東峰地区(mogusaen 2016年5月28日公開)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆第四インター日本支部の栄光

3.26開港阻止闘争で全国にその名を知らしめたのは、第四インター日本支部(革命的共産主義者同盟)だった。管制塔占拠にさいしても「管制官には危害を加えない」という方針が確認されていたことから、非暴力直接行動であるとの評価も浮上した。もっとも、これはベトナム反戦運動のころに起きた、ベトナム戦争反対行動委員会の日特金属工業(米軍や自衛隊に機関銃を供給)への抗議行動(機械などを破壊)になぞらえて評価されたものだと思われるが、ちょっと的外れである。開港阻止闘争では機動隊に火炎瓶を投げつけたし、鉄パイプを機動隊員に打ち下ろしてもいる。だが、内ゲバはしないという組織路線が、革共同両派の内ゲバ戦争に辟易していた人々には、清廉なものに見えたはずである。左派労働運動のご意見番的な存在である長崎造船労組は「いま、君たち(第四インター)は好感をもって労働者たちに受け入れられている」と評したものだ。

当時、第四インターの実働部隊である青年学生共闘は逮捕された200人ほどをふくめて、600ほどか。政治集会で1000人ぐらいではなかっただろうか。当時、中核派が1500人ほど、社青同解放派が600~700、ブント系では戦旗(荒派)が150、戦旗(西田派)が100、ほかに大きなところでは立志社(のちにMPD)が130、第四インターとともに管制塔占拠をになったプロ青同(共労党)は80ほどにすぎなかった。わたしがいたグループといえば、60人もいたのだろうか。三里塚闘争全体では、警察発表で9000人、主催者(反対同盟)発表で20000人と言われていた時代である。いずれにしても、史上初めて学生と労働者が警察に勝ったということで、第四インターはいわゆる人民大衆に期待され、その活動は受け入れられた。まるで60年代の三派全学連(第四インターも三派全学連には参加している)の再来のように、かれらの人気は高まった。

が、思わぬことからその栄光の赤旗(鎌トンカチ)は、地に堕ちることになったのだ。それはレイプという女性差別が、ほかならぬ三里塚現地闘争団の内部に起きていたのである。

◆現地闘争団のレイプ事件

最近、当時の女性活動家から当時のことを聞く機会があった。レイプ事件そのものは、調べてみれば他党派もふくめて芋づる式に露見したという。わたしのいたグループでもレイプこそなかったものの、就寝中に女性の身体を触るなどの行為はあった。その問題については、「女性の政治的決起を抑圧するもの」と指導部から評価が説明されたかと思う。痴漢、あるいわセクハラ行為なのに、左翼はヘンな理屈をこねるものだと思った記憶がある。※第四インターでは、女性が嫌がる性的接触をすべてレイプと規定したという。

最近、わたしが話を訊いた元第四インターの女性も、「レイプ問題も、マルクス主義から説明しなければならない女性指導部に、ちょっと厭きれた」「女性が嫌なことをされたわけだから、そこを具体的に問題にしなければ解決しないのに」と語ってくれたが、そのいっぽうで当時は解放感にあふれた雰囲気で、三里塚の地はすばらしく楽しかったとも言う。若い男女が狭い小屋で寝泊まりしているのだから、問題が起きないほうがおかしいと、わたしは思う。とはいえ、女性が嫌がることをしていたのだから、徹底して指弾されてしかるべきである。かく言うわたしも、最初に街頭デモで密集したとき、女性活動家と身体を密着させることにアソコが驚いたものだ。左翼ってすごい、と思った。

◆フェミニズムの勃興は女性差別から

ともあれ、この事件(複数)によって第四インターは組織的な混乱に陥った。レイプを糾弾する女性グループが形成され、のちに分派して第四インター国際書記局から正統派と認められる(正確には組織としてではなく、このグループのメンバーを国際書記局が受け容れた)。女性差別と言えば、60年代末の全共闘運動のバリケードのなかで、レイプ事件や女性が嫌がる事件は頻発していたという。上野千鶴子は、男子活動家から『共同便所』という言葉が出たのがショックだった、とその当時を語っている(朝日新聞の連載記事)。いわば全共闘運動における女性差別こそ、リブ(フェミニズム)が生まれ出る契機だったのだ。

 

『三里塚闘争50年の集い7・17東京集会報告集』(2017年1月15日三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人・柳川秀夫)発行/定価500円)※画像をクリックすると模索舎ストアにリンクします。

70年の全学連大会で議長が気軽に女性活動家に書記を依頼したことから、その大会は女性差別糾弾がテーマとなったのはよく知られている。第四インターという組織はおそらく、そういう組織的な矛盾を経ることがなかったのではないか。わたしは学生時代に障がい者介護をやっていたが、その当該(障がい者)が第四インターを批判して、ぼくの部屋を勝手に解放空間にしてしまったと語ったのを知っている。その解放空間とは、彼に言わせれば若い男女の乱れた関係、いや、セックスが解放されてしまった空間だったようだ。

上野千鶴子は「同志である男性活動家に裏切られた」と語っているが、差別の実際こそ男女の関係をつくりかえる契機になるのだろう。しかるに、三里塚闘争の主体である反対同盟農民の家庭において、その女性差別は顕著だった。若い男女の関係ではなく、封建的な家父長制において、嫁たちは苦しんでいたのだ。しかもその嫁たちはリブ運動に目覚め、反権力闘争の中に女性解放の展望を見出そうとしていた、新左翼の支援嫁たちなのである。このテーマについて、本稿ではこれ以上は掘り下げない。じつは支援嫁たちの三里塚闘争として、ある気鋭の女性ライターに書くことを勧めているからだ。乞うご期待! そのエッセンスは、支援嫁のひとりである石井紀子さんの発言で触れられる 。紀子さんによれば、おっかぁ(家父長の妻=婦人行動隊)たちは「共同経営者」であり、農家で妻の立場はけっして弱くはない。彼女たちの賛同を抜きには、家父長といえども何もできないからだ。支援嫁はしかし、ほとんど家内奴隷だった。ようやく共同経営者になろうとしたとき、夫たちは空港との共存に走り、支援嫁たちは立ち尽くすしかなかった。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、最新刊は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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