元気で快活だった母の異変に気付き、認知症が進行していく中での様々な出来事と娘の思いをこれまで一人語りでお伝えしてきました。認知症を患ってもなお元気で心の強い母でしたので、当たり前に100歳まで生きられると思っていました。ところが昨年の暮れ、その母があっけなく89歳で亡くなりました。グループホームに入所した日の事故によってです。少しずつ心の整理がついてきましたので、母の最期をお話ししようと思います。
私の言葉を不快に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、懺悔と冥福の祈りを込めて、ありのままを告白させていただきます。
その日、以前申し込んでおいたグループホームから電話がありました。「空きができました」施設長Yさんです。そろそろ順番の進み具合を聞いてみようと思っていた矢先のことでしたが、予想よりもはるかに早く、まだ本人に一言も相談していません。しかし先方は急いでいる様子です。すぐに姉と相談し、とにかく一度本人に聞いてみることにしました。
翌日Yさんへ「近日中に母に話をして、もしも本人がその気になった場合は、そのまま見学に伺います。」と連絡しました。「納得というのは難しいですけれど、理解して入っていただく方が溶け込みやすいので、お願いします。」とのことでした。なるほど。
デイサービスのない日、私は民江さんの家へ行きました。まだ10時半だというのに、民江さんは真っ赤なコートの上に、鞄を斜めにさげ、すぐに出かけられるよう準備万端整えて、背筋を伸ばしてソファーに座り私を待っていました。私は一通り部屋の片付けをしてから、内心ドキドキしながら明るく話しかけました。
「実は、相談があるんだけど・・・お母さんはこの先ずっと一人で生活するのは大変だと思うの。私の家に来てもらうといいけど、それはちょっと無理なの。」
「無理じゃない。」
「うーん、私は昼間家にいないでしょ。お母さんが慣れない家に一人で居ても、何もすることがないし、困るでしょう。それでね、グループホームっていう9人で生活するおうちがあるんだって。そこへお引越しするというのはどうだろう。スタッフが24時間居てくれて、ご飯も三食出してもらえて、掃除や洗濯なんかの身の回りのことは全部お任せできるんだよ。家賃を払って、お母さん一人の部屋があって、他に共同の食堂やリビングやお風呂やトイレがあるんだよ。」
「どこ?」
「T町、私の仕事場から5分もかからないし、私の家にも近くなるでしょ。実はお姉ちゃんと一緒にいくつか見学に行ったんだけど、そこが一番きれいで広くて、重症の人はいなかったの。そこがね、一部屋空きができたんだって。見に行ってみる?」
そんな私の説明に、母はすんなり「行ってみようか。」と言いました。微笑んでいました。
駐車場からグループホームの玄関まで、急な階段と段差のあるスロープをすたすた一人で歩き、出迎えのYさんへ丁寧に挨拶をして中に入りました。ところが、すぐに足が止まります。案内された居間には、女性スタッフが3人、折り紙をしている方が1人、週刊誌を読んでいる方が1人、ただ座っている方が2人。私に続いて挨拶をして説明を受けますが、再び足が止まりました。
ゲージにウサギがいます。「動物はお嫌いですか?」と聞かれた母は「嫌いです!」そしてうつむいたかと思うと涙を流しながら小さな声で「住み慣れたところが・・・」と。お部屋も見に行こうと促され、エレベーターで2階に上がりました。
歩みは極端に遅くなっていました。一通り見せていただいたあと、事務室へ案内され、椅子に腰かけた途端「慣れたところがいい」と、再び涙と鼻水を流して泣き始めました。
そんな民江さんに対して、私とYさんは穏やかに説得を始めました。「すぐに決めなくてもいいけど、今なら空いてるの。他の人に入ってもらうと、また空くまで待たないといけなくなっちゃう。ずっと一人で暮らしていけるわけじゃないから、今のうちにお引越しするのはどうだろう。お母さんより若い人がほとんどだよ。デイサービスも気が進まなかったけど、行ってみたら案外よかったでしょ。ここはきれいだし、私の家にも近くなるし、私の職場からもすぐだよ。」
Yさんは「ここに変わられたら、他の家族も皆さん安心されると思いますよ。民江さんみたいに女学校を卒業されたかたが何人もいらっしゃいますから、お話も合うんじゃないでしょうか。」と。
こんな調子で10分ほど話をしたあと、資料を受け取り、その日はそれで引き上げることにしました。民江さんの好きな豆腐料理の店へ行きましたが、この件に触れることはできず、昔話をしながら穏やかに昼食を食べました。
隣の席の同年配の女性を見て「ああはなりたくない」と言うなど、民江さんの失礼な発言は普段通りでした。買い物をして家へ送り、翌日のデイサービスの準備を済ませ、「じゃあね」と帰りかけた私に「今日の所のこと、決めなきゃいけないんでしょ。」と民江さんの方から切り出してきました。
「そうだけど、今日聞いて、今日見て、今日決めなくてもいいよ。」と答える私に「でも、他の人に取られちゃうかもしれないから。長く住んだここがいいけど、変わろうか。なっちゃんがいいと思うようにするわ。」と。
私は「ありがとう。でももう少し考えようね。」と言って別れました。ここ最近、会話が成り立たなくなっていた民江さんとは思えない言葉遣いに、私はたいへん驚きました。
民江さんがこんなに我慢をして決断してくれるとは思っていませんでした。もう少し言えば、こんなに我慢ができるとは思っていませんでした。この日の民江さんの様子、泣いて嫌だと言った時の姿、「なっちゃんの家に少しでも近くなって、なっちゃんがいいと思うなら・・・」と言ったこと、そしてYさんの「少しでも理解して入所する方がいい。急に悪化して早く入れたいとなった時に空きがないと、どこでもいいから入れてしまうことになる」という言葉、私のやれることとやれないこと、これから先のこと、などなどいろいろ考えているうちに私も涙がこぼれてきました。
それからも私はいつものように毎朝民江さんに電話をしますが、あきらかに民江さんに変化がありました。明るくなり、会話が繋がるようになりました。例えば私が「おはよう。今日”も“元気だね」と言うと「”も”ね」と言って笑います。こんな小さな言葉に反応するということは、ここ数年ではありませんでした。
また、夕方かかってきていた電話がかかってこなくなりました。我慢しているのか、必要を感じていないのか、そのように見せているのか、理由ははっきりしませんが、グループホームへの引越しを勧められたことが原因であることだけは確かです。
見学から数日後、顔を見ながらもう一度聞いてみますと、「老いては子に従えだから、寂しいけど100歳まで生きるかもしれないからね。」と笑っています。こんなに我慢をさせていいのだろうかとか、私のせいで認知症が悪化してしまわないか、とても不安になりました。けれども私は母の様子をYさんに伝え、三週間後の年末に入所させてもらうようお願いをしました。
翌朝、まだ暗いうちに電話が鳴りました。「毎月なっちゃんにお車代を渡すから、このままここに住むことを考えて」と、か細い声です。私は「お母さんが我慢してることはわかってるよ。ただ、安全が心配なの。何食べたか、何着てるか、暑くないか、寒くないか、何してるかってね。三食出してくれて、お世話してくれて、夜中もいつも誰かがいてくれると安心だよ。誰かそばにいてくれたら心強いでしょ。寂しくないでしょ。」
それでも母は「もう一度考えて」と言うので、「うん、私も考える。お母さんも考えてね。」と言って電話を切りました。
数日後、民江さんを訪ね「あの話・・・やっぱりお引越しした方がいいと思うんだけど」と言うと、民江さんも「老いては子に従えだからね」と言いました。「ちょうどぴったりの諺だね」と言って二人で笑い、ケアマネージャーさんに「さすが、民江さん。そう言える人はなかなかいないわよ」と言われて、いい表情でしたので、それなりに納得してくれたのだと思いました。
それから入所までは2週間、私は書類を整えたり、持ち物の準備に追われました。無事に落ち着けるかどうか半信半疑でしたので、いつ戻ることになってもいいように、生活できる物を残しつつ、使い慣れた大切なもの、衣類、家具、寝具などをまとめ、足りないものを買い足し、一つ一つに名前を付けるなど、やらなくてはいけないことはたくさんありました。お世話になっているデイサービスへお礼の手紙も書きました。その手紙がデイサービスに届いた日、スタッフの方から「さすが民江さんの育てた娘さん」と言われたと、嬉しそうに何度も電話がかかってきました。「それ、私が褒められたんじゃなくて、お母さんが褒められたって話ね」と言って一緒に笑いました。
この頃、不思議と二人で笑って話すことが増えました。ここ数年来、負担が増えて限界を感じ、笑顔がなくなり、優しい言葉をかけてあげることができなくなっていたことを自覚していた私です。それがこの数週間は、なぜか二人とも明るくなりました。母が笑顔を見せるので、私も自然に優しい気持ちになり、優しくなれた自分がとても嬉しかったです。食事をしながら冗談を言い、目を合わせて笑いました。施設に入りたくないはずの母が笑っている理由を深く考えず、これなら続けられるのに・・・と思わないようにして、グループホームを終の棲家に選んだことを信じ、とうとう引越しの日を迎えました。
その日は、珍しく雪が積もっていました。私と、息子と、姉と姉の息子は、民江さんの家へ行きました。荷物は三台の車で十分運べるほどしかありません。古いアルバムを開き、思い出の写真を孫たちとおしゃべりしながら選び出し、きれいにレイアウトして額に収めました。顔なじみのいつもの洋食屋で大好きなカキフライとカニクリームコロッケのランチをぺろりと平らげ、記念に撮った写真は、5人ともいい笑顔でした。
そこから施設までは車で10分程度、到着して車と部屋を行ったり来たりして荷物を運び入れる様子を、民江さんはベッドに腰かけてじっと眺めていました。額を壁に掛ける金具を買いに行ったり、忘れたテレビのアンテナコードを取りに戻ったり、どうしても別の靴に変えたいとか、どうしても飾りたい絵があると言うので取りに戻ったり、バタバタしている私たちに「私はここに泊まるの?」と不機嫌な顔で何度も何度も聞いてきます。翌日は我が家に泊まり、いつものように一緒に新年を迎えることにしていましたので、まず今夜一泊だけ頑張ってほしいと優しく励ますばかりでした。
姉たちが帰り、民江さんの夕食の時間になり、私たちもいよいよ帰らなくてはいけません。食卓で皆さんに挨拶をしている姿を見とどけた後、「明日は迎えに来るからね」ともう一度声を掛けて別れました。
気が気ではありませんでした。8時半頃民江さんから電話が入ります。「どっちみち私は一人なんだから。なんでこんな所で寝なあかんの。おやすみ!」一方的に怒鳴って切れました。
眠れないのでしょう。入所してから慣れるまでに一か月ぐらいかかるのは普通だと聞いていましたし、怒って電話をかけてくることにも慣れていましたので、さほど驚くことではありませんでした。
次は10時頃でした。今度は「帰る!ここから出して!」という声と共に、ガンガンと激しく金属を叩く音が聞こえてきます。玄関のドアを叩いているようです。「警察を呼ぶ!」「帰る!」「帰してよ!」「ガラス割るよ!」と叫んでいます。
「お母さん、お母さん、落ち着いて。Yさんは? Yさん居るんでしょ」私が声をかけても返答はなく、電話は切れました。10分ほどして二度目の電話がかかります。「どうせ私は一人なんだから!」「帰る!」「出して!」「こんな所イヤだ!」
そしてやっとYさんの「民江さん、民江さん、明日は夏さんが迎えに来てくれるから」という声が聞こえてきました。私は「お母さん落ち着いて! 落ち着いて! 怪我するよ!」「警察に電話するならしてもいいよ!」「お母さんお願い! 落ち着いて」
電話が切れたので、私は急いで車に飛び乗り、民江さんの元へ向かいました。施設の方から来てくださいと言われない以上、迎えに行くべきではないと思いながら、とにかく車を走らせました。もう一度電話が鳴ります。「早く迎えに来てよ! どうして来てくれないの!」私はそれでも「お母さん、落ち着いて」と言いました。
それからほんの3分ほどで私はグループホームの玄関前に到着しました。車を飛び降り、中の様子を伺いますが、玄関ドアのガラス越しに人影はありませんし、激しい音も声も聞こえません。落ち着いてくれたのだと思い、車に戻って待つことにしました。まず姉に電話をかけて事情を説明しました。その後やっとYさんから電話が入り、玄関前に車を止めていると伝えた時のことでした。受話器からYさんの叫び声がしました。
私は車を降り、フェンスを乗り越えて真っ暗な建物の横へ駆け寄りました。小さな明かりがほんのり照らすコンクリートの上に横たわる人影。女性スタッフが寄り添い声を掛けています。母の部屋の真下、母です。スーツを着て、鞄を斜めにさげています。頭から血が流れているように見えます。息子が初任給でプレゼントしたマフラーが頭のすぐ横にあります。私は母の肩をさすり「お母さん、お母さん」と声を掛けることしかできなかったように記憶しています。
救急車は大学病院へ向かいました。それから母は静かに眠り続け、46時間後に息を引き取りました。ベッドの周りを家族みんなで囲み、見送ることができました。
警察から、施設の人に対して何か思うことはあるかと聞かれたので、「強いて言えば、窓に補助鍵があればよかったのにと思います」と答えましたが、私以上の罪は、他の誰にもありません。私が「すぐ迎えに行くから、そのまま待ってて」とさえ言っていればよかったのです。または、それ以前に私がもう少し我慢をするか、もう少し手を抜いていればよかったのです。私は母に入所を勧め、母は私に従いました。死亡診断書には「自殺」と記されていましたが、母は家に帰りたくて帰りたくて、自分の足で帰ろうと出口を探して窓から出たに過ぎません。手すりはうまく乗り越えたのに、着地に失敗しただけなのです。落下しながら私の車は見えたでしょうか。「あれ、来てくれてたの?」と思ったかもしれません。ごめんなさい。
母は昔から延命処置を嫌っていました。保険証と一緒に尊厳死協会の会員証を持ち歩いてくれていたおかげで、私たちは迷わずに済みました。病院で治療方針の決定を委ねられた時、いよいよ血圧が下がってきた時、息子が「やっぱり何かしてもらうわけにはいかないの?」と言った時、一枚の会員証に託した母の思いを揺らぐことなく貫くことができました。私の母は、最期まで自分の思いを活かし、誰にも迷惑をかけず、望む姿で旅立っていきました。母らしく凛として生きていました。最も母らしい生き方でした。
訃報を伝えたマンション管理会社や新聞販売店や郵便局、晩年ご迷惑をおかけしたと思う方々ばかりですが、その方々が涙を流してくださったことで、母のこの家での生活ぶりがどんなに尊いものであったか、あらためて感じました。
引越しの荷造りをしながら孫に昔の話しをしたおかげで、BGMは東海林太郎や藤山一郎、ビング・クロスビーやグレン・ミラーオーケストラ、チゴイネルワイゼンなど大好きな曲のオンパレードでしたね。10歳で死に別れた最愛のお母さん、尊敬するお父さん、戦争で亡くなったお兄さん、母親代わりに世話をしてくれたお姉さんには再会できましたか。長い間ほんとうにお疲れさまでした。「私は、運動神経抜群で、『おてんば民ちゃん』だからね」という声が聞こえてきます。
これで「老いの風景」は終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。(了)
◎老いの風景〈1〉~〈15〉 https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=67
▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦
創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号