記憶力が悪いと自覚しながらも、人との出会いのきっかけや出来事はほとんど記憶しているのに、なぜか山口正紀さんと最初にお会いしたのが、いつ、どこでなのかを思い出すことが出来ない。身勝手な立場から想像すれば、それほど自然な成り行きの中で、いつしか親しくしていただき、お付き合いの度合いが深まっていたということであろうか。

フリージャーナリストで元読売新聞記者、山口正紀さんが逝去されたとの報にふれた。2022年12月7日にお亡くなりになったと伺った。

山口正紀(やまぐち まさのり)さん。1949年大阪府堺市生まれ。大阪市立大学経済学部卒業。1973年読売新聞に入社し、2003年12月末に退社。以後、フリージャーナリストとして活動。2022年12月7日逝去。

山口正紀さんのお名前は、一定程度ジャーナリズムの世界に足を踏み込んだ者、あるいは日本の報道界の悪癖「顕名報道」や「記者クラブ」、「冤罪に便乗する報道界の醜態」を知るものにとっては、いわば常識的に知られている。読売新聞記者として通常の記者同様「サツ廻り」から出発したものの、事件報道やマスコミのあり方、果ては日本社会の在り方の根本にまで問題意識を広げ、そしてそのように発言した結果、山口さんは読売新聞で記事を書くことができなくなり、不本意にも定年前に退職された。しかし、その判断はむしろ僥倖であったともいえる。会社の縛りがなくなった山口さんは、冤罪、壊憲(この言葉は山口さんが作り上げた造語である)、折々の日本の右傾化や政府の暴走に、反論を許す余地なく緻密な論を構成し鋭い批判の矢を向け、同時に民事で争われる事件の多くについても裁判官や弁護士以上に細部にわたる事実分析や論評を多数行ってこられた。

冤罪被害者に寄り添い、現在進行形の不当な行政・司法の横暴にもできうる限りご自身が現場に出向き取材なさっていた。ジャーナリストとして「現場で取材する」ことは基本中の基本であるが、山口さんはご健康を崩しても、無理に無理を重ね、最後まで「不当」、「不正義」について緻密かつ正確に批判の筆鋒を向けられた。

数多く手がけられた事件の中で、結果的には最後の大事件として山口さんが結実させたのが「滋賀医科大病院問題」であろう。本通信でたびたび取り上げたが(http://www.rokusaisha.com/wp/?m=20180802)、病院の不正に怒った患者会の皆さんが、毎週滋賀医科大病院前で抗議のスタンディングを行い、2度にわたるデモ行進を草津市で敢行するに至ったのは、山口さんのアドバイスがあってのことである。

「滋賀医科大病院問題」は井戸謙一弁護士を弁護団長として滋賀地裁に2018年8月1日、4名の患者及びその遺族が、滋賀医科大附属病院泌尿器科の河内明宏科長(当時)と成田充弘医師を相手取り、440万円の支払いを求める損害賠償請求を大津地裁に起こした(事件番号平成30わ第381号)事件であるが、短期間でここまでの動きを牽引したのは社会活動豊富な山口さんと、たまたま滋賀医科大病院で追放の危機にあった、岡本圭生医師に前立腺がんの治療を受けた三国ケ丘高校時代の同級生、そして奇遇にもその後輩にあたる井戸謙一弁護士のチームワークが成立したからだ。

2018年8月1日、山口さんは既にステージⅣの肺がんに罹患していたが、ご自身に自覚症状はなかったし、周辺の我々誰一人として山口さんが重篤ながんに罹患しているなどとは思えなかった。

「滋賀医科大病院問題」は京都新聞の裏切りをはじめ、多くのマスコミが無視する中、MBSが鋭い視点で着目し1時間のドキュメンタリーとして放送するに至る。そしてフリージャーナリストの黒藪哲哉さんが『名医の追放』(緑風出版)を世に出し、静かながらも大きな波を引き起こした。

裁判闘争が幕を切って間もないころ、山口さんはご自身の体調変化に気が付き、診察を受けた先の病院で、肺がん罹患を知らされる。じつは同年の春に山口さんは健康診断を受診しており、肺のレントゲン撮影も受けていた。「健康診断では問題なかったのにどうしてですか」との山口さんの問いに医師は「健康診断のエックス線撮影ではがんが解らないこともあるのです」と答えたという。当該医師に責任はないが、健康診断を受けていながらそう長くも経っていない時期に重度の肺がんを宣告された理不尽を、山口さんは「じゃあ何のための健康診断なのかってね。いいたかったけど言いませんでした」と筆者には語っておられた。

そうなのだ。山口さんはよほどのことがあっても口調や文体を乱すことなく、つねに冷静な立脚点から他者や対象を観察し分析することが身についている、「紳士」でもあった。ご本人にとって絶対に承服しがたい理不尽や不当な扱いがあっても、自分の内側にしまい込み耐え忍ぶ。優しさの裏側には命を削ってしまった「忍従」の重さがあったのかもしれない。

山口さんの生涯にわたる業績や社会的なお仕事をこのコラム1本で紹介するのは到底不可能だ。筆者は山口さんが読売新聞の記者時代からの活躍を知っているが、ここでは、偉大な先輩が最後に命がけで取り組んだ「滋賀医科大病院問題」でのお姿を紹介するにとどめる。山口さんのお仕事を包括的にご紹介する資格や能力など筆者には備わっていないと自覚する故である。

2019年1月12日JR草津駅前を出発点にして250余名によるデモ行進がおこなわれた。この時期山口さんは嚥下(食べ物を飲み込む)に困難があり、体重も相当減ったご様子であったが、東京からわざわざ駆け付け、デモとその後の集会まですべてを取材なさった。既にご自身の病状については関係者に明かしておられたものの、旧知の仲である筆者としては文字通りジャーナリストとして「鬼気迫る」精神を感じさせられた。

山口さんはマスクを装着されているが2019年1月はコロナ禍の前だ。ご自身の呼吸が乾燥すると苦しいことと、インフルエンザの罹患を注意してマスクをされていた。

 

舗道から俯瞰したり、デモ隊の中に入って体感を取材する山口さん

「滋賀医科大小線源患者会」は発足から数か月で会員数が千人を超え、いわば社会現象化したのだが地元も大手もほとんどのメディアが報道しない。大手メディアでは朝日新聞(出河記者)と前述のMBSが取材報道しただけで、日頃静かな草津駅前で行われた、異例のデモ行進にはNHKすら取材に来なかった。

このような状態にご自身が重篤ながんを患っていらっしゃる山口さんの闘志は、逆に掻き立てられた。国会議員(議員会館)と厚労省に患者会のメンバーが陳情に出向いた際のことである。本来は取材者であるはずの山口さんが、紳士的な口調ながらも「患者の立場」からあまりにも行政の姿勢がおかしいのではないか、と理路整然とした発言を始められたのだ。

後に筆者に向けた私信で、山口さんは「横で聞いていて官僚のあまりにも表面をなぞっただけの回答に堪忍袋の緒が切れて、ついつい発言してしまいました」と回想なさっていた。

滋賀医科大病院前では、毎週患者会のメンバーにより「スタンディング」抗議が続けられていた。これは滋賀医科大が不当にも岡本医師を追放しようと画策していることに対して、同病院の関係者や患者さんたちにわかりやすい形で訴える方法として、山口さんが提案されたものでもある。「スタンディング」の現場にも山口さんは取材兼激励に訪れ、参加者に笑顔で声をかけておられた。

裁判期日の開廷前集会では「私もがん患者になってしまいました。皆さんは治療法があるけれども、私の場合はまだ見つかっていない。ある意味で羨ましいんですけど……。それとこれとは問題が違います」とご自分の健康状態を二の次にしても社会的不正を許さない言葉と、態度で原告をはじめとする患者会のメンバーを支援し続けておられた。

そして新聞記者であれば当然なのかもしれないが、山口さんは自分が発言しないときは、つねにノートにペンを走らせていた。会議でも山口さんに記録をお願いすると、2、3時間の議事録は会議が終わったころには完成している。というのが山口さんのジャーナリストとしての基礎だった。少々の喧噪でも録音に頼らず自分の耳と記録で記事を構成する。記者として当たり前のことかもしれないが、実行できる現役記者がどれくらいいるだろうか。

肺がんに罹患されて以来、治療方法や治療病院をめぐっても想像を絶する苦難と痛みに山口さんは見舞われた。全身麻酔で開腹手術をしている最中に麻酔が切れ「気を失いそうに痛かった」ことすらあったが、いつもメールの最後には「元気になってまた皆さんと楽しく食事できる日を」と読む者への配慮を忘れない優しさが添えられていた。

12月7日山口さんはご家族がお揃いの中、闘いを終えられた。

優しい山口さんに対して、彼が生きた最後の20年はあまりにも激烈で、冷酷な時代だった。そのことを常々彼と話していたが、山口さんは筆者と異なり、いつもユーモアや希望を持ち続けていた。

こんな時代だからこそ、豊かな人間性と鋭い批判精神、そして行動力が備わったひとは、筆者にとっては宝物だった。宝箱が空っぽになりそうで弱気になる筆者に、きっと山口さんは、「田所さん、僕は田所さんやみなさんだったら、きっとうまくやれると思います。敵の攻撃がどんなに厳しくても。みなさんの力を信じます」

そうお声をかけてくださるような気がする。優しい激励に応える自信はない、などと泣き言を言ってはいられない。

山口正紀さん、ありがとうございました。御恩は決して忘れません。微力ですが私も死ぬまで闘います。

追伸:山口さんには筆者だけではなく、鹿砦社も筆舌に尽くしがたいお世話になった。2005年に社長松岡が名誉毀損で逮捕勾留されて以来、公判を毎回傍聴してくださり、報告記事を『週刊金曜日』に掲載していただいた。また近年では、多くの人が関心を向けない中「大学院生リンチ事件」について鋭敏に反応頂き、重篤な体調の中、裁判所へ提出する重厚な意見書を書いていただいた。鹿砦社にとって、これ以上ない恩人である。社長松岡のショックは大きく、まとまった文章を書くにはいましばらく時間が必要なようなので、僭越ながらここでその旨を紹介させていただき、山口正紀さんへの深い感謝の意を表したい。


◎[参考動画]山口正紀・元読売新聞記者渾身のスタンダップトーク『山口敬之を記者と呼ばせない』(2019年12月24日 憲法寄席)

◎《レイバーネット不定期コラム》山口正紀の「言いたいことは山ほどある」
第18回(2022年1月17日)ジャーナリズムを放棄した「監視対象との癒着」宣言――『読売新聞』が大阪府(=維新)と「包括連携協定」締結

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

赤色に錆び付いた人事制度の弊害。人脈社会の腐敗。それを彷彿させる事件が、琵琶湖湖畔の滋賀県大津市で進行している。

 

新理事長に就任する河内明宏医師(出典:九州医事新報)

大津市の佐藤健司市長は、9月9日、大津市民病院の次期理事長の名前をウェブサイトで公表した。新理事長に任命されるのは、滋賀医科大付属病院の泌尿器科長・河内明宏教授である。河内教授の理事長就任は、今年の6月に既に内定していたが、今回、任命予定者として公開されたことで、近々、公式に理事長に就任することが確実になった。任期は、2022年10月1日から25年3月31日である。

デジタル鹿砦社通信でも報じてきたように、河内教授は滋賀医科大病院の小線源治療をめぐる事件に関与した当事者である。はたして公立病院の理事長に座る資質があるのか、事件を知る人々から疑問の声が上がっている。

佐藤市長に対して、新理事長選任のプロセスを公開するように求める情報公開請求も提出されている。

◆滋賀医科大付事件の闇

小線源治療は、前立腺がんに対する治療法のひとつである。放射性物質を包み込んだシード線源と呼ばれるカプセルを前立腺に埋め込んで、そこから放出される放射線でがん細胞を死滅させる治療法だ。1970年代に米国で始まり、その後、日本でも今世紀に入るころから実施されるようになった。この療法を滋賀医科大の岡本圭生医師が進化させ「岡本メソッド」と呼ばれる高度な小線源治療を確立した。

【参考記事】前立腺癌の革命的な療法「岡本メソッド」が京都の宇治病院で再開、1年半の中断の背景に潜む大学病院の社会病理

この岡本メソッドに着目したのが、放射性医薬品の開発・販売を手掛けるNMP社だった。NMP社は、岡本メソッドを普及させるために2015年、滋賀医科大付属病院に寄付講座を開設した。講座の指揮を執るのは、岡本医師だった。

ところがこれを快く思わない医師がいた。泌尿器科長の河内明宏教授である。河内教授は、寄付講座とは別に泌尿器科独自の小線源治療の窓口を開設し、前立腺がんの患者を次々に囲い込んだ。そして部下の成田充弘准教授に患者を担当させたのである。

 

滋賀医科大事件を記録した『名医の追及』(黒薮哲哉著、緑風出版)

しかし、成田准教授には、小線源治療の実績がない。専門は前立腺がんのダビンチ手術で、小線源治療は未経験だった。それを憂慮した岡本医師が、成田医師による手術を止めた。幸いに塩田学長も未経験者による手術のリスクを察して、河内教授らの計画を中止させた。

河内教授は計画がとん挫したことに憤慨したのか、岡本医師を滋賀医科大から追放するために動き始める。水面下で河内教授が取った行動は不明だが、松末病院長と塩田学長は、なぜか小線源治療の寄付講座の閉鎖を決めた。その結果、岡本医師の治療の順番待ちをしていた98名の前立腺がん患者が混乱に陥ったのである。

寄付講座の開設に際して、河内医師には関連する公文書を偽造した疑惑がある。寄付講座の人事を決める際に、みずからの息がかかった成田医師を幹部として送り込むことを企て、「岡本」の三文判を使って、人事関連書類を偽造したのである。岡本医師が成田准教授の寄付講座への抜擢を承諾したかのように工作したのである。

書類の偽造に気付いた岡本医師は、弁護士を通じて河内教授を大津警察署へ刑事告訴した。大津警察署は、2020年8月21日に河内教授を大津地検へ書類送検した。地検の取り調べを受けた河内教授は、公文書偽造の責任を部下の2人の女性に押し付けたらしく不起訴となった。地検は、2人の女性に非があると結論づけたようだが、不自然きわまりない。

さらに河内教授は、岡本医師の医療過誤を探すために、無断で岡本医師の患者の診療録を閲覧していたことも分かっている。

◆佐藤市長、「地域医療に精通している方であると判断」

滋賀医科大病院の事件を知る大津市民からは、河内教授の理事長就任について、人選に問題があるのではないかとの声があがっている。

「有印公文書偽造という汚点を持つ医者は、全国を探してもそんなにいないと思います。市役所でも、他人のハンコを使って文書を偽造したとなれば、処分を受けます。しかし、河内教授は、何のお咎めを受けることもなく、理事長に就任するわけです。その合理的な理由がまったく分かりません」

大津市のウェブサイトに掲載された「任命理由」は次のようになっている。

地方独立行政法人市立大津市民病院(以下「市民病院」という。)は、平成29年4月から地方独立行政法人として病院運営を開始し、現在、第2期中期目標期間(令和3年度から6年度までの4年間)において中期計画に掲げる目標達成に向けて取組を進める一方で、新型コロナウイルス感染症に対応する病院として、大津保健医療圏域のみならず滋賀県下の多くの重症例に対応するなど、公立病院としての責務を果たしながら病院運営を行っています。

河内明宏氏は、平成25年から滋賀医科大学の教授として医師の人材育成や研究などで長く滋賀県内の医療に携わってこられました。理事長の選任を進める中で、県内の複数の医療関係者から河内氏の名前が挙がったことから、滋賀医科大学をはじめ医療機関等と信頼関係を醸成され、地域医療に精通している方であると判断しました。

これまでの経歴を生かし、院内外における調整能力を発揮するとともに、自身の専門である泌尿器科をはじめとする医師確保を図っていただけることを期待して、理事長として任命するものです。

◆人脈重視の社会

河内教授の理事長就任の件でも明らかなように、要職にある人物は、不祥事を起こしても、負の影響を受けないことがままある。そして再び平気な顔で要職に就く。それは医療界だけではなく、政治界でも、学術研究界でも同じである。論文を盗用しても学者として生きられる。仲間から批判されることもない。お互いにかばい合う。実績よりも、人脈で世渡りを続ける土壌が日本にはあるのだ。

大津市民病院の人事騒動は、日本社会の前近代的な実態を露呈している。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
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黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

滋賀県大津市は、大津市民病院の新理事長に、滋賀医科大泌尿器科長の河内明宏教授(63)を内定した。同病院では、今年の2月ごろから次々と医師が退職に追い込まれる事態が続いている。

 

理事長内定を報じたNHKの記事。滋賀医科大事件と河内教授のかかわりには一切踏み込んでいない

『京都新聞』(6月6日)によると、「これまでに京都大から派遣された」「医師ら計22人が退職意向、またはすでに退職したことが明らかになっている」。自主退職なのか、退職強要なのかは不明だが、大津市民病院から京都大学人脈を排除する意図があるとする見方もある。

現理事長の北脇城氏は、「女性ホルモンの研究と手術にあこがれて産婦人科医を志した」経歴の持ち主である。京都府立医科大の出身で、新理事長の河内医師とは同門である。

わたしは大津市の地域医療政策課に、今回の理事長人選の経緯を問い合わせた。これに対して副参事の職員は、次のように回答した。

「選任の経緯を記録した文書は存在しません。選任にあたり会議は開いていません」

誰かが独断で、河内医師を新理事長に決めた公算が高い。

◆岡本メソッドをめぐる滋賀医科大の攻防

わたしは2019年の冬から秋にかけて、滋賀医科大病院を舞台とするある事件を取材した。河内医師の名前を知ったのは、事件の関係資料を読んでいるときだった。事件のキーパーソンとして何度も「河内」に赤マーカーを付けた。河内医師の部下である成田充弘医師にも、赤マーカーを付けた。この師弟は後日、大津地裁の民事法廷に立たされることになる。河内医師は、患者からの刑事告発で書類送検もされている。

事件は、2014年にさかのぼる。放射性医薬品の開発・販売会社であるNMP社は、滋賀医科大に、小線源治療の寄付講座を設置したいと打診した。小線源治療は、前立腺がんに対する治療法のひとつである。放射性物質を包み込んだシード線源と呼ばれるカプセルを前立腺に埋め込んで、そこから放出される放射線でがん細胞を死滅させる治療法だ。1970年代に米国で始まった。その後、改良を重ねて日本でも今世紀に入るころから実施されるようになった。さらに滋賀医科大の岡本圭生医師がそれを進化させ「岡本メソッド」と呼ばれる高度な小線源治療を確立した。NMP社は、岡本メソッドに着目したのである。

【参考記事】前立腺がん、手術後の非再発率99%の小線源治療、画期的な「岡本メソッド」確立(ビジネスジャーナル)

NMP社は、寄付講座を泌尿器科から完全に独立させた形で運営することを希望していた。と、言うのも河内医師を科長とする泌尿器科は、ダビンチ手術に重点を置いていたからだ。医療技術の開発という寄付講座の性質上、縦の人間関係はむしろ障害になる。

NMP社は、岡本医師をリーダーとする体制を希望していた。塩田浩平学長もそれを承諾していた。

ところがこの方向性に難色を示した人物がいた。それが泌尿器科長の河内医師だった。しかし、河内教授の意向は受け入れられず、2015年1月に岡本医師を最高責任者として寄付講座が動き始めた。岡本医師は、泌尿器科から除籍となり、寄付講座の特任教授に就任した。滋賀医科大は、日本における小線源治療の本拠地を目指す構想をスターさせたのである。

だだ、塩田学長は、河内医師の心情にも配慮して、同医師を寄付講座の兼任教授に任命した。円満な大学運営を希望した結果のようだ。

 

大津市郊外にある滋賀医科大付属病院

◆同じ病院で小線源治療の窓口が2つに

河内教授は、自分の手腕で寄付講座を主導できないことがはっきりすると、新たな動きに出た。寄付講座の「岡本外来」とは別に、泌尿器科に小線源治療の窓口を設置したのだ。その結果、同じ病院内に小線源治療の窓口が2つ存在する状況が生まれたのだ。病院が来院患者にそのことを説明した上で、患者が窓口を選択する制度であれば医療倫理上の問題はないが、病院はそのような措置を取らなかった。

そのために窓口が2つになってから1年の間に、23人の患者が、秘密裡に泌尿器科の小線源治療に誘導された。その中には、手術は岡本医師が担当すると勘違いしていた人も含まれていた。

しかし、泌尿器科には小線源治療の専門医がひとりもいない。そこで河内教授は、部下の成田准教授に患者を担当させた。成田医師の専門はダビンチ手術で、小線源治療の経験はなかった。

成田医師は、シード線源を「第1号患者」の前立腺に挿入する手術の直前になって、岡本医師に支援を求めてきた。河内医師も、岡本医師に向かって成田医師を補助するように命じた。岡本医師は、この命令には従わずに、手術そのものを中止するように強く進言した。未経験の成田医師の施術が医療事故につながるリスクがあったからだ。

さらに岡本医師は、塩田学長に泌尿器科の小線源治療で患者が手術訓練に使われかねない事態が起きていることをメールで知らせた。

翌日、岡本医師は塩田学長から2通の返信メールを受け取った。

「(9:15分)先生からいただいた内容は、松末院長、村田教授にも知らせてあります。先生にはストレスがかかっていると心配しますが、必要以上に悩まれないようにしてください。山田(注:仮名)先生からも、心配してメールをいただいています。」

「(18:45分)今日、私は外出していましたので、私の懸念を伝えて、松末病院長に河内教授と話してもらいました。その報告を先程うけましたが、「泌尿器科は小線源治療には関わらない」ことで話がついた、とのことです。寄付講座の位置付けをはっきりさせること、現在泌尿器科に予約している患者への説明をいつするか、などについて、年明けに詳しく相談します。」

◆モルモットにされかけた23人の患者

泌尿器科による小線源治療が中止になったあと、泌尿器科に誘導された患者を岡本医師が担当することになった。被害者は23人。岡本医師が診察したところ、すさんな医療措置を施されていた事例が浮上した。たとえばシード線源を前立腺に挿入する手術の前段で、不要なホルモン療法を受けさせられた患者が見つかった。ホルモン療法により前立腺が委縮し過ぎて、手術するためには、もとの状態に戻るのを待つ必要が生じたのだ。

また、直腸がんの病歴があったために、もともと手術の適用ができない患者を通院させていた事実も明らかになった。この患者は、片道3時間の距離を8か月間、通院した。

被害にあった患者らは、患者会を結成して病院に抗議した。病院は医療過誤をもみ消そうとしたが、被害者らは謝罪を求め続けた。岡本医師は病院と患者の板挟みになったが、患者に寄り添う姿勢を示した。病院当局に対して被害者らに謝罪するように進言したのである。

このころから岡本医師と大学病院の間で亀裂が生じ始めていたようだ。病院にとって、患者会と岡本医師は、威風になびかない目障りな存在となったのだろう。2017年12月末をもって、寄付講座を終了すると一方的に宣言した。それに伴い手術後の経過観察のために通院していた患者らは、診療予約が取れなくなった。手術の順番を待っていた待機患者は、行き場を失った。あまりにも混乱の広がりが大きかったので、病院は寄付講座の終了時期を2019年12月末までの2年間延長した。ただし、手術はその半年前で終了とした。

岡本医師は、寄付講座が終了すれば失職する。寄付講座が始まった時点から所属が滋賀医科大ではなく、NMP社の寄付講座になっていたので、寄付講座が閉鎖されれば、どの組織とも雇用関係がなくなる。「岡本メソッド」消滅の赤信号が点滅し始めたのである。

◆カルテの不正閲覧から私文書偽造まで汚点の山

大学病院の強硬な姿勢に対して岡本医師の患者らは、反発を強めた。泌尿器科に囲いこまれた4人の被害患者が、河内医師と成田医師に対して説明義務違反を理由に損害賠償を求める裁判を起こした。同時に、患者会は寄付講座の存続を求める運動を本格化させた。JR大津駅のロータリーや滋賀医科大病院前で幟を立て街宣活動や署名活動を展開するようになった。

マスコミも徐々にこの事件を報じるようになり、滋賀医大は医療事件の表舞台へ浮上してきたのである。

こうした情況の中で大学病院は、岡本メソッドを誹謗中傷する方向へ走る。それは同時に、患者らが起こした裁判の抗弁対策だった可能性もある。

たとえば岡本医師がこれまで治療した1000人を超える患者のカルテ(電子)を閲覧して、医療ミスを探そうと試みた。この策略が取られていること分かったのは、カルテに閲覧歴が残っていたからだ。そいう電子カルテはそういうシステムになっているのだ。

閲覧者の中には、河内教授や成田准教授の名前は言うまでなく、病院の事務スタッフの名前もあった。彼らは、深夜や休日にも閲覧作業を行っていた。

しかし、法的な観点から言えば、カルテ閲覧に際しては、患者本人の承諾を得なければなれない。主治医は別として、第三者が勝手にカルテを閲覧することは禁じられている。しかも、「疑惑」がありそうなカルテ何通かを、病院外の医療関係者に送付して意見を求めていたのである。

また、病院が患者に対する記入調査を実施した際に所定の手続を取っていなかったことも分かった。この記入調査は、米国のFACT協会が版権を持つ「FACT-P」と呼ばれる前立腺患者を対象としたものである。患者会によると、病院はこの記入調査を寄付講座が始まった直後から、約3年に渡って実施していた。

しかし、実施に際しては、患者に対して事前説明を行い、同意を得なければならない。ところが患者らは、入院時と退院時に一種の義務のように記入を求められたという。

この点に関して患者のひとりが、河内医師に対して書面で問い合わせたところ回答があった。河内医師は、「記入していただいた調査票はカルテより削除させていただきます。以後、このようなことのないように各部署に徹底をいたします」と謝罪した。これを受けて、23名の患者が、病院に対して自分の調査票の開示を求めた。その結果、「退院時のものについては、23名全て、自署ではなく、他人が記名」(患者会のプレスリリース)していたことが分かった。また、「5名については、退院時調査票に、本人の考えとは異なることが記載されていた」ことが分かった。

このようなかたちで記入調査が実施された時期が、寄付講座が進んでいた時期と一致しているので、「患者は岡本医師の治療に満足していない」という証拠を集めることが目的だった可能性もある。

情報公開請求をした患者のうち5人が、この件を被疑者不詳で大津警察署に刑事告発した。罪名は私文書偽造だった。

大津警察署はこの事件を捜査した後、地検へ書類送検した。ところが不思議なことに地検から呼び出されて取り調べを受けたのは派遣会社の社員と非常勤の看護師だった。泌尿器科長の河内医師は何の責任も問われなかった。「被疑者不詳」で告訴したために、このような展開になった可能性が高い。

 

事件の全容は、『名医の追放』(黒薮哲哉著、緑風出版)に記録されている

◆滋賀医科大から大津市民病院へ

大津市民病院の理事長に内定した河内医師は、滋賀医科大で起きた事件の中枢にいた。河内医師と成田医師を被告とした裁判は、原告患者の訴えが棄却されたが、判決は成田医師について「訴訟態度に影響された供述態度は、真摯に事実を述べる姿勢に欠けるものとして、その信用性全体を減殺する」と認定するなど、原告の主張をかなり認定した。岡本医師による「医療ミス」もまったく認定しなかった。

詳細には踏み込まないが、判決は河内医師が「岡本」の三文判を使って、文書を偽造したことも認定した。

原告の井戸謙一弁護士によると、原告敗訴の理由は、裁判所が「医師の説明義務の範囲を狭く限定」したことである。

岡本医師は2019年の12月末に滋賀医科大を離れた。その後、宇治病院(京都府宇治市)へ移籍し、1年半の準備期間を経て、2021年8月から小線源治療を再開した。岡本メソッドが蘇ったのである。

大津市は、河内医師が理事長に内定した経緯を調査すべきではないか。とりわけ滋賀医科大事件のグレーソーンは、再検証しなければならない。大津市民病院の理事長ポストをめぐる京都府立医科大の同門同士のタスキリレーも検証する必要がある。それはまたジャーナリズムの役割でもある。

※滋賀医科大事件については、拙著『名医の追放』に詳しい。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

最新刊! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

大学病院から追放された非凡な医師が医療現場に復活を果たした。前立腺癌治療のエキスパートとして知られる岡本圭生医師が、治療の舞台を滋賀医科大付属病院(大津市)から、宇治病院(京都市宇治市)に移して治療を再開したのだ。

この治療法は、岡本メソッドと呼ばれる小線源治療で、前立腺癌の治療で卓越した成果をあげてきた。しかし、後述する滋賀医科大病院の泌尿器科が起こしたある事件が原因で、1年7カ月にわたって治療の中断を余儀なくされていた。岡本医師が言う。

「8月から月に10件のペースで治療を再開しました。年間で120件の計画です。関東や九州、東北からもコロナ禍にもかかわらず受診される患者さんが大勢います」

名医が治療の舞台を移さなければならなかった背景になにがあったのか。

 

治療中の岡本圭生医師

◆中間リスクの前立腺癌、根治率は99%

小線源治療は、放射性物質を包み込んだカプセル状のシード線源を前立腺に埋め込んで、そこから放出される放射線でがん細胞を死滅させる治療法だ。1970年代に米国で誕生した。

その後、改良を重ねて日本でも今世紀に入るころから実施されるようになった。岡本医師は、従来の小線源治療に改良を加えて、独自の高精度治療を確立し、癌の根治を可能にした。放射線治療の国際的ガイドラインを掲載している『ジャーナル・オプ・アプライド・クリニカル・メディカル・フィイジックス』誌(Journal of Applied Clinical Medical Physics)[2021年5月](URLリンク)は、その岡本メソッドの詳細を紹介している。

前立腺癌の5年後生存率は100%と言われているが、最も標準的な治療である全摘手術の場合、再発率は予想外に高い。また合併症も克服されていない。最新のロボット機器の補助による全摘出手術を受けた場合でも、術後、高度の尿失禁で社会復帰できないことも珍しくない。生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)が大きく低下するといった課題が残されている。

岡本メソッドはこれらの問題を解決したのである。進行した癌でも、大きな副作用なく、前立腺癌を根治することに成功した。科学に裏打ちされた療法で、特に海外で評価が高い。

岡本医師が前出の医学誌『ジャーナル・オブ・コンテンポラリー・ブラキセラピー』(Journal of Contemporary Brachytherapy)[2020年1月]に発表した論文(URLリンク)によると、岡本メソッドの治療を受けた中間リスクの前立腺癌患者の手術後7年の非再発率は99.1%だった。

この論文は、2005年から2016年の期間に、岡本医師が中間リスクの前立腺がん患者397人に対して実施した小線源治療の成績を報告したものである。岡本メソッドでは、中間リスクの患者に対しては、ホルモン療法も外部照射療法も併用する必要がない。これも従来の小線源治療とは異なる治療法の革命だ。

今年の2月にも、岡本医師は同医学誌に新しい論文(URLリンク)を発表した。それは膀胱に浸潤した前立腺癌を完治させた医療記録で、世界に前例のない報告である。

最新の『メディカルレポート・アンド・ケーススタディーズ』(Medical Report and Case studies)[2021年9月]に掲載した総説論文(URLリンク)では、現在の前立腺癌治療の問題点を論理的かつ明確に指摘しつつ、中間リスク・高リスクの患者に対する岡本メソッドの利点を紹介している。そこにはリンパへ移転した「超高リスク前立腺癌」治療の論文もとりあげている。

この原著論文は2017年に『ジャーナル・オブ・コンテンポラリー・ブラキセラピー』誌に公表されたものだ。それによると被膜外浸潤や精嚢浸潤、リンパ節転移など症例を含む難治性前立腺癌の成績で、5年の非再発率は95.2%だった。

 

モルモット未遂事件を報じる朝日新聞の記事(2018年7月29日付け)

◆「術中患者が苦しみだしたら助けてくれ」

岡本医師は、宇治病院へ移籍する前は、滋賀医科大附属病院に勤務していた。2005年から2019年までの15年の間に、約1200件の小線源治療を実施している。2014年には、医薬品販売会社が岡本メソッドの実績に着目して、寄付講座の開設を求めてきた。滋賀医科大の塩田平学長もそれを歓迎して、滋賀医科大を日本における小線源治療の拠点にする方向で動きはじめた。

ところが予想もしない横やりが入った。日本で旧来からある「村社会」が大学病院にも蔓延していたのだ。岡本医師の元上司にあたる泌尿器科・河内明宏科長が、小線源治療の専門家である岡本医師を差し置き、自らしゃしゃり出て寄付講座の主導権を握ろうとしたのである。

しかし、塩田学長らの支援が得られなかった。そこで河内科長は、独自に寄付講座とは別に小線源治療の窓口を設けて、泌尿器科独自の小線源治療を計画したのだ。とはいえ小線源治療の経験はなかった。それを知らないままこの別窓口に誘導された患者は20名を超えた。

患者の中には、岡本医師を頼って滋賀医科大までやってきたのに、何を知らずに河内科長が設けた別の窓口に引きずり込まれた人もいた。

河内科長が最初の小線源治療を行うように命じたのは、部下の成田充弘准教授だった。この医師も小線源治療は未経験だった。成田准教授は、岡本医師に、

「術中患者が苦しみだしたら助けてくれ」 

と、岡本医師に要求した。

岡本医師は、塩田学長に対して患者をモルモットにした治療計画そのものを中止するように告げた。松末吉隆病院長に対しても患者に対する重大な人権侵害であるとして計画中止を進言した。

ところが、岡本医師は思わぬ報復を受ける。病院が寄付講座を2019年末で閉鎖する方向で動きはじめたのだ。泌尿器科による不正行為が公になることを恐れ、病院の幹部は、岡本医師さえ追放してしまえばそれを隠蔽できると考えたらしい。そして寄付講座を閉鎖すると宣言したのだ。治療は閉鎖の半年前に打ち切ると告知した。岡本医師は寄付講座の特任教授だったので、講座の閉鎖と共に除籍になる。大学病院を去らなければならない。

この緊急事態に対して 待機患者らが患者会の支援を受け、治療の実施期間を延長するように求めて裁判所に仮処分の申し立てた。大津市内や草津市内で200名にも及ぶ人員を動員して街宣活動も展開した。

幸いに大津地裁は、大学病院による治療妨害を禁止する命令を下した。治療の実施期間を5カ月間、延長するように命じた。しかし、それでも治療が受けられない待機患者が発生してしまった。

仮処分命令が認められた直後の待機患者、大津地裁前

◆内弁慶がはびこる日本社会の縮図

滋賀医科大の寄付講座が閉鎖された後、岡本医師の進退が注目されていたが、宇治病院へ移籍した。それから小線源治療のインフラを整え、スタッフを招聘して訓練し、岡本医師はこの8月に治療の再開にこぎつけたのである。

わたしがこの事件を取材したのは、寄付講座の最後の年、2019年に入ってからである。取材を通じて、過去に滋賀医科大病院が優秀な心臓外科医を追放したことがあるのを知った。この病院は、優秀な人材を活用できない。

その背景に前近代的な「村社会」の存在が垣間見える。内弁慶がはびこる日本社会の縮図が現れている。患者の生命がかかっていても、この体質は変わらない。

事件には始まりがあり終わりがある。そして終わりは、新たな始まりでもある。今後、岡本医師と患者会が、滋賀医科大事件の「戦後処理」をどう進めるかに注目したい。

※この事件の詳細は、『名医の追放』(緑風出版)に詳しい。http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-1918-8n.html

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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4名の患者及びその遺族が、滋賀医大附属病院泌尿器科の河内明宏科長と成田充弘医師を相手取り、440万円の支払いを求める損害賠償請求を大津地裁に起こした(事件番号平成30わ第381号)事件の判決言い渡しが、14日大津地裁で15時からおこなわれた。

西岡前裁判長の転勤にともない、裁判長となった堀部亮一裁判長は「主文、原告らの請求をいずれも却下する」と飄々と短時間で判決言い渡しを終えた。退廷しようとする裁判官に向かい傍聴席から「ナンセンス!」の声が飛んだ。

この事件の期日には、これまで「患者会」のメンバーが裁判前に集合し、大津駅前で集会を行ったのち傍聴を埋めるのが常であったが、判決日は折からの「新型コロナウイルス」への配慮から、「患者会」は集会や傍聴の呼びかけをおこなわなかった。したがって本来であれば判決を裁判所の外で待ち受けていたであろう、約100名(毎回裁判期日には100人ほどの人が集まっていた)の姿はなく、静かな法廷のなかで冷酷無比な判決言い渡しの声が響いた。

判決言い渡し後、滋賀弁護士会館で記者会見がおこなわれた。当初は16時開始予定であったが、諸事情で開始が16時半過ぎへとずれこんだ。井戸謙一弁護団長が判決を解説した。

この日の判決を解説する井戸謙一弁護団長

「今回の判決は現実に起こった人権侵害を救済しなかった点で、不当な判決であると考えています。判決を30分ほどで読んだばかりで、弁護団としての見解は定まっていませんが、私の評価を申し上げさせていただきます。この事件は説明義務違反を理由とする損害賠償請求事件で、実際に施術しようとした成田医師が小線源治療の経験がなかった。そして同じ病院内で大ベテランである岡本医師の治療をうけることができる、と説明しなかった。説明義務違反が違法であると、その損害の賠償を求めた事件です。一般的に成田医師が小線源治療をしようとした患者に対して、同じ病院内で別のベテラン医師の治療を受けることができる。ということについて説明する義務があるかどうかということについて、裁判所の判断は『すべての患者に対して、一律に他の選択可能な治療として、岡本医師による小線源治療を説明しなければ、説明義務違反になるとはいえない。あくまで患者の意向、症状、適応などを踏まえ、個別に診療計画上の説明義務の存否を判断する』というのが判断です。一律に説明しなくともよい、個別の事情によっては説明する必要がある、そういう判断です。

なぜそういう判断になったのかについては、かなり細かい事実を認定し、かつああでもない、こうでもないといろんなことを検討しています。その中で『一律に他の選択可能な治療として説明の必要がない』を導いた理由としては、成田医師が行おうとした手術方法。これは成田医師と放射線科の河野医師がペアで行います。成田医師は小線源治療の経験がないとしても前立腺癌についてはベテラン医師である。河野医師は放射線医師として多数の症例を持っているということで、この二人が行おうとした治療は『大学病院での小線源治療の医療水準を満たしている』という判断をしています。彼ら行おうとしていた手術が、医療水準を満たしていたのかどうか、という問題提起を(原告は)していなかったのですが、裁判所は『医療水準を満たしている』と判断しています。

補助参加人として判決を傍聴した岡本圭生医師

一方で岡本医師による岡本メソッドは、『成田医師たちが行おうとしていた治療とは質的に異なる治療である』と述べています。岡本メソッドにについて被告側は、裁判の中でその評価を貶めて、誹謗しようとしてきたわけですが、それについて裁判所は採用していません。河野医師は小線源治療は『放射線医がしっかりしていればいいんだ。泌尿器科医が放射線医の指示通り針を刺すだけでよいので、泌尿器科医の役割は小さなものだ』との趣旨の証言をしましたが、それについても裁判所はその考え方を採用していません。

ただ成田医師が行おうとしていた治療と、岡本医師が実施していた治療は同一病院内の選択可能な治療、という位置づけになっており、ここの理屈がわかりません。『質的に違う』と言っているわけです。

そのあとに4名の原告の方の判断ですが、お二人の方は『岡本医師の治療を受けたい』ということで滋賀医大にかかられたかたです。しかし岡本医師にまわされないで、成田医師が治療をしようとしていたのですが、このお二人については『説明義務はあった』と認めています。ただそれでも請求が棄却されているのは、結果的に岡本医師の治療を受けることができた。これにはいろんな経緯があったわけですけども。結果的に岡本医師の治療を受けることができたのだから、損害はないでしょうという評価のようです。

あとのお二人については『法的な説明義務違反までは認められない』という判断です。ただ『道義的にはともかく』という言葉がついているので、医師の倫理上は説明すべきであったと、暗に裁判所としては言いたいようです。

非常に残念なのは、この判決の『説明義務』のとらえ方が非常に狭いことです。質的に異なる治療方法が同一病院内であるわけですから、説明して患者が選択する機会を与えるべきである。それが患者の自己決定権を保証する医師の責務であると考えます。裁判例でも説明義務の範囲は、どんどん拡張される流れにある中で、説明義務違反の範囲を非常に狭くとらえたのは、大変残念な判決だと思います。

もう一点は、説明義務違反を認めていながら、結果的に岡本医師の治療をうけることができたから、損害はないだろうという判断です。結果的に岡本医師の治療が受けられたといっても、岡本医師の問題提起があったから岡本医師の治療を受けることができた。それがなければ岡本医師の治療を受けることができなかった可能性が高いわけで、原告の精神的・心理的な苦痛が法的保護に値しない、ということです。しかしそれは、精神的損害のとらえ方を非常に狭く評価するものであって、この判断も承服しがたいものがあります。

判決全体としては、被告が一番力を入れていたのは『治療ユニット論』というもので、成田医師が行おうとしていた治療は、岡本医師をリーダーとするチーム医療、医療ユニットとして計画されていたのだから、成田医師が自分が未経験だと説明する義務はなかった。これが一番被告が力を入れていた主張です。しかし、それについて裁判所は、その主張は採用していません。岡本メソッドの評価を低からしめようとした主張にも、裁判所は乗っていません。ですから主な事実認定についてはこちらの主張が取り入れられています。成田医師が『小線源治療をあまりやる気がない』と発言した事実も取り上げられています。いろんなところでこちらの主張は取り上げられているのですが、結論として説明義務違反のとらえ方が狭く、かつ損害のとらえ方が狭い。請求棄却との判断になった。そのことにより中身的にはこちらの主張を取り入れたにしても、患者の人権救済の役割を果たさなかった。極めて残念です。」

ついで、この日法廷で判決を聞いたAさんが感想を述べた。

法廷で判決を聞いたAさん

「意外な判決だと感じました。この裁判で私は3つ課題があり社会に訴えたいと考えております。一つ目は(成田医師が)未経験であって施術しようとしたこと。私が知らないことをいいことに、モルモット扱いしているという点です。こういうことが許されてよいのか。これが説明義務違反です。医師の育て方に問題があるのではないか。二つ目はその事実を私が知ったのは、岡本先生の内部告発によってです。それによって救われました。しかし日本の社会ではまだ人権が守られない。権力の暴走を止められない。三つめは岡本医師が、職を賭して阻止してくれ、23人の手術をしてくれ、(仮処分勝利により)待機患者50数名の命を救ったことです。敬意と感謝の念に堪えません。ありがとうございました」

その後に、補助参加人としてこの日も判決を傍聴した岡本圭生医師からのコメントがあった。

わたしはこの裁判を提訴から判決まですべて傍聴してきた。この原稿も予定稿では原告勝利を前提としたものを準備していた。

14日大津地裁に早めに到着し、裁判長が変更になっている(転勤はあらかじめ告げられてはいたが)担当表を見て、嫌な予感が浮かんだ。法廷で「原告の請求を原告らの請求をいずれも却下する」との裁判長の声をきいたとき、思わず「えっつ!」と声を出してしまった。

井戸弁護士の解説にある通り原告側の主張が、かなり取り入れられているとはいえ、法廷での証言内容や態度を考えると被告たちには、主文にしか注意を向けないだろう。民事の裁判では法律家には理解できても、一般市民感覚では「訳の分からない」文章や判断が横行する。そういった判決や裁判官に当たるたびに、裁判所や司法への信頼は薄れ、司法への期待も希薄になる。そういった意味では、結果ゼロ回答の判決を出した、この裁判の合議体はわたしにとって、「また司法への信頼を限りなく低減した」裁判官たちであった。判決言い渡し後に法廷に響いた傍聴者の声に、私も同意する。

ナンセンス!

◎カテゴリーリンク《滋賀医科大学附属病院問題》

▼田所敏夫(たどころ としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

2014年から、大晦日の本通信を担当させていただいている。2014年を除けば、いずれの年も、けっして明るく楽しい結びの文章を書くことができていない。社会に向かいあう、わたしの基本姿勢を維持して、正直な感想や一年の総括を述べるとすれば、2014年から今年にかけて、大局において好ましい変化や予兆などはない。

ただし、昨年から取材をはじめた滋賀医大病院問題では、病院を相手とした市民運動史上、まちがいなく歴史的な場面になんども直面させていただいた。

JR草津駅前広場を埋め尽くした患者会のメンバー

宮内さんは待機患者の苦悩を訴えた

「岡本圭生医師に治療を受けた」この一点しか共通項のない方々が、滋賀医大病院前で毎週抗議のスタンディングを行い、草津市内では2度にわたるデモ行進も敢行した。参加者は北海道から沖縄まで、みなさん交通費、宿泊費自腹でデモのためだけに集結された。

この運動には、既成の政治勢力が一切かかわりを持たなかったことも、爽やかさを維持できた一因であろう。デモ行進でシュプレヒコールを上げる役割のかたも、参加者の9割5分以上もデモは初参加の方であった。

何十人もの患者さんに経験談を伺った。岡本医師に治療を受けた患者さんは、取り戻した健康を享受して、穏やかな日々を送っていればよさそうなものの、多くの方はその選択肢を捨てた。署名集め、チラシ配り、デモ、集会参加、裁判傍聴などそれぞれのメンバーが参加可能な方法で、「岡本医師の治療継続」を求める行動に参加した。

目立つメッセージを工夫して集会に参加したメンバー

デモ出発前、決意が眼光に現れる

「私たちは治療を受けて快適に生活できています。でも岡本先生にお会いするまでは、不安で不安で生きた心地がしませんでした」

同様のコメントを異口同音に何人もの方々から伺った。岡本医師の治療でなくとも命に別条のない患者さんもいたが、高リスク前立腺癌の患者さんのなかには、岡本医師でなければ完治が見込めない患者さんも多数含まれていた。前立腺癌には多くの場合自覚症状がない。自覚症状を感じたときには周辺臓器や骨への転移が進んでいるケースが多いそうだ。だから前立腺癌は怖いのだ。自覚症状なしに進行し、ある日検査を受けたら、いきなり「癌」の告知を受ける。

そんな経験をして、しかし、わずか3泊4日の入院で主たる治療が終了し、「癌」の恐怖から解放された経験を皆さん、本当にきれいな目で語ってくださった。職業も年齢も、収入も居住地も異なるひとびとが、「自分が受けられた、岡本医師の治療を無くしてはならない」のただ一点で終結し、厚労省へ迫り、2万8千筆の署名を集め、治療を待っている患者さんのために行動する姿は、完全に「無私」で貫かれていた。

滋賀医大病院前抗議活動で初夏の風を受けたのぼり

患者会での「頑張ろう!」

「命を守るぞ!」

せっかく定年退職されたのに、現役中のように実務をこなすひとの姿、毎週始発電車に乗り遠路滋賀医大の正門に向かうひと、滋賀医大関係者が多く居住する地域に、くまなく問題を指摘したビラを配布するひと……。

岡本医師は滋賀医大(病院)から「本年5月末で治療を打ち切れ」と迫られていたが、雇用期間は12月末まで残っていた。6月から12月まで無為に過ごすことはない、手術を行っても経過観察期間は1月もあれば充分だ(病院側は経過観察期間が6月必要だと主張していた)。

治療を待っている患者さんたちをどうする? 弁護団と患者さん、岡本医師が協議し、大津地裁に「病院による治療妨害禁止」の決定を求める仮処分の申し立てをおこなった。

厚労省への申し入れ。短期間で患者会が集めた「岡本医師治療継続」を求める署名は2万8千筆にもなった

2019年5月20日、日本の司法界と医療界は歴史的な日を迎える。

大津地裁は岡本医師の主張を全面的に認め(病院の主張を全面的に却下し)11月26日まで岡本医師の治療延長を認め、「病院による岡本医師の治療妨害禁止」を内容とする決定を下したのだ。5月20日の決定により、本来であれば岡本医師の治療を受けることができなかった、52名もの患者さんが治療を受けることができた。

岡本医師は本日をもって滋賀医大病院との雇用契約が終了した。しかし、岡本医師と患者会の皆さんの壮絶な闘いは、勝利だった。

4名の患者さんが河内明宏・成田充弘両医師を相手取り「説明義務違反」による損害賠償を求めた裁判をわたしは、昨年の第一回期日からすべて傍聴してきた。争いの「正邪」は裁判の進行にしたがい、さらに明確化した。

5月20日仮処分決定が出された大津地裁前

JR草津駅前でのデモ行進は2回敢行された

病院からの通報で到着したパトカー

滋賀医大は学長・病院長を筆頭に組織ぐるみで、岡本医師排除のためには「公文書偽造・行使」、「患者カルテの不正閲覧」、「カルテ不正閲覧正当化のために岡本医師によるインシデントのでっちあげ」と次々に信じられない行為を連発した。

「患者のくせに」、「どうせ患者」という言葉を平気で使う関係者は、患者さんを完全に見くびっていた。まさか毎週病院前で抗議行動が恒例化するとは思いもよらなかったに違いない。

最初のうち滋賀医大病院は、毎回のように(あたかも被害者であるかのように)警察に連絡し幾度かパトカーがやってきたが、患者会の皆さんは「道路使用許可」をしっかりとっていた。市民運動の経験がまったくない皆さんがである。

警察への対応もそつのない、患者会メンバー

雨の日も猛暑の日も、毎週滋賀医大前では抗議活動が続けられた

もちろん、今後、岡本医師が治療をどこで続けるのか、続けられるのかという最大の懸念はまだ解決はしていない。しかし、岡本医師は17日裁判後の記者会見で断言した。

「この闘いは、医療を市民の手に取り戻すことができるかどうか、いわば革命です。若手や学生がモノがいえないようないまの滋賀医大の体質は変えなければならない。そのためにメディアの方々も是非しっかり取材していただきたいと思います。私も滋賀の田舎に引っ込んで隠居するのではなく、一日も早く患者さんを治療できるよう、来年も頑張りますからご支援よろしくお願いいたします」

まだ物語は終わっていない。現在進行形のドキュメンタリーは再び岡本医師が手術室で患者治療に向き合う日が再来するまで完結しない。

岡本圭生医師。大津地裁前にて

井戸謙一弁護団長

今日、大きな力を前にしてそれを覆す、ダイナミックなストーリーは物語の中にだけ封じ込められている感がある。だからこんなにも時代は息苦しいのだ。しかし、岡本医師と患者会の行動は「革命」を予感させる。

忘れてはならない。この問題は、フリージャーナリストの先輩である、山口正紀さんが、最初に患者さんの相談を受けたところからはじまっていることだ。山口さんは、この問題にかかわっているあいだに、ご自身も肺がんに罹患され、闘病しながらいまだに取材を続けていただいている。黒藪哲哉さんにも協力をお願いしたところ御快諾頂き、きめ細やかな取材の結晶として、緑風出版社から『名医の追放』を出版していただいた。わたしがお願いしたわけではないが、MBS(毎日放送)は1時間にも及ぶドキュメンタリー『閉じた病棟』を放送していただいた。

患者会のメンバー、弁護団、取材にかかわる組織メディアのメンバーや、われわれフリーのライター。滋賀医大問題で顔をあわせるひとびとはみな個性豊かだ。この多様性が、大きな相手に対する闘いを可能にせしめたのだろう。

来年も遅れることなく取材を続けたい。「革命」の萌芽を取材し、可能であれば私も参加したい。

本年もデジタル鹿砦社通信を、ご愛読いただきまして誠にありがとうございました。皆様にとって来る年が幸多き1年となりますよう祈念いたします。そして来年も鹿砦社ならびにデジタル鹿砦社通信をよろしくお願いいたします。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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前立腺癌治療の過程で、主治医が治療方針を十分に説明しなかったとして、4人の患者が滋賀医科大病院の2人の医師を訴えた裁判の本人尋問が、17日、大津地裁で行われた。

この日、出廷したのは原告の4患者と彼らの主治医だった被告.成田充弘准教授、それに成田医師の上司にあたる被告.河内明宏教授である。これら6人の本人尋問を通じて、成田.河内の両医師に説明義務違反があったとする原告らの主張が改めて裏付けられた。裁判はこの日で結審して、判決は来年の4月14日に言い渡される。2018年8月に提訴された滋賀医科大事件の裁判は終盤に入ったのである。

裁判前(2019年12月17日)

裁判所に入る前の岡本医師(2019年12月17日)

◆事件の経緯

事件の発端は、滋賀医科大が放射性医薬品会社の支援を得て、小線源治療の研究と普及を目的とした寄付講座を設けた時点にさかのぼる。2015年1月のことである。寄付講座の特任教授には、この分野で卓越した治療成績を残している岡本圭生医師が就任し、泌尿器科から完全に独立したかたちで小線源治療を継続することになったのだ。

これに対して一部の医師らによる不穏な動きが浮上してくる。泌尿器科の科長.河内教授と、彼の部下.成田准教授が岡本医師の寄付講座とはまったく別に、新たに小線源治療の窓口を開設し、泌尿器科独自の小線源治療を計画したのである。この裁判の原告となった4人は、医師の紹介や滋賀医科大病院の総合受付窓口を通じて成田医師らによる「泌尿器科独自」の小線源治療計画へ「案内」された。大学病院の闇を知らないまま被告.成田医師の治療を受けるようになったのである。

だが、成田医師には小線源治療の臨床経験がまったくなかった。手術の見学も1件しかなかった。当然、インフォームドコンセントで、成田医師のそのような履歴を知らされなかった原告らにすれば、自分たちが手術の手技訓練のモルモットにされかけていたことになる。

4人の癌患者は本来であれば寄付講座の方へ「案内」され、小線源治療のエキスパートである岡本医師の担当下におかれるべき人々であった。少なくとも成田医師らには、4人が岡本医師の治療を受ける権利と選択肢を持っていることを説明する義務があった。それを成田医師らが怠り、しかも、この点を批判された後も謝罪しなかったことが患者らを怒らせ、提訴を決意させたのだ。

原告の主張に対して被告は、「泌尿器科独自」の小線源治療は、岡本医師を指導医とする医療ユニット(チーム医療)として位置づけられていたから、岡本医師の治療を受けるオプションを患者に提示しなかったことをもって説明義務違反に該当するとは言えないというものだ。

◆泌尿器科への誘導と独立した治療

2015年1月に「泌尿器科独自」の小線源治療の窓口を、寄付講座の窓口とは別に河内医師らが開設した合理的な理由について、原告の井戸謙一弁護士は、河内医師を尋問した。裁判長も職権を行使して、河内医師があえて窓口を2つにした理由について説明を求めた。しかし、河内医師は明快な回答を避けた。

岡本医師自身がチーム医療の観点から「泌尿器科独自」の小線源治療に関わっていたかどうかという点については、竹下育男弁護士が成田医師を尋問した。これに対して成田医師は、いずれの患者ケースにおいても、治療方針の決定に岡本医師の指示を受けたことはなかったことを認めた。

尋問を通じて岡本医師は泌尿器科独自の小線源治療からは基本的には除外されており、2つの窓口と体制は、相互に依存したチーム医療と断定できるだけの接点がないことが判明した。メールでのやりとりは若干あったが、かえってそれらの証拠は、岡本医師を「外部の人」として認識していた成田医師の立ち位置を明確にした。

ちなみに成田医師はみずからが小線源治療の未経験医師であることを患者に伝える義務に関して、第1例目の手術を施す患者については未経験の事実を伝えなければならないが、2例目以降は伝える必要はないとも証言した。

◆刑事事件についての尋問も

繰り返しになるが、この裁判の争点は4人の患者に対する説明義務違反の有無である。争点としては単純だ。ところが裁判進行の過程で被告側は、争点とはあまり関係のない主張を延々と繰り広げた。岡本医師に対する人格攻撃や岡本メソッドそのものの優位性を否定する主張を繰り返したのである。

それにより岡本医師による治療についての説明責任を果たさなかったことを正当化しようとしたようだ。この論法の裏付けを探すために被告らが起こした事件についても、井戸弁護士は尋問した。たとえば河内医師が岡本医師の患者らのカルテを無断で閲覧し、岡本メソッドによる合併症の例をしらみつぶしに探そうとした件である。

これについて河内医師は、みずからが泌尿器科の科長職にあるので、前立腺癌患者のカルテ閲覧が許されるとの見解を示した。しかし、法律上はそのような権限は認められていない。カルテを閲覧できるのは主治医と患者本人だけである。

また、成田医師を併任准教授として、寄付講座へ送り込むために作成された公文書に、岡本医師の承諾印(三文判)が本人の承諾を得ずに押されていた件(既に刑事告発受理済み)に関して、井戸弁護士は河内医師の関与を問うたが、河内医師はそれを否定した。そのうえで、この公文書は秘書らにより無断で作成されたものである可能性を証言した。河内氏の証言に、傍聴席からは失笑がもれた。
 
◆記者会見

尋問が終了した後、原告団は記者会見を開いた。発言の趣旨は次のようなものである。

記者会見での井戸弁護士(2019年12月17日)

【井戸謙一弁護士】

この訴訟で被告側は、岡本医師が特異なキャラクターの人物であり、岡本メソッドももとより存在せず、むしろ問題のある治療なんだという主張を前に押し出す戦略で臨んできています。この点をどう崩していくかが鍵です。相手は自分が嘘を言っていましたとは認めません。ですから言っていることの整合性の無さを浮彫にすることが大切です。

いくら岡本先生のキャラクターがトラブルの原因だと主張しても、構造的に主張がかみ合わないところが出てきます。それが最も露骨に分かるのは、泌尿器科へ患者を誘導した問題です。 岡本先生に成田医師を指導させるチーム医療の枠組みであれば、岡本先生が全患者の症例を見て、 初心者には簡単な症例の患者を担当させて治療させるのが道理です。治療方法の適用についても、互いにディスカッションしながら決めていく。それが一番自然なチーム医療であるはずなのに、実際には河内医師が成田医師の担当患者を決めていました。こうした枠組みが被告の主張に整合性がないことを浮き彫りにしています。

岡本メソッドの優位性を否定する被告の主張に関しては、3つのポイントから問題点を指摘しました。まずカルテの不正閲覧問題です。医療安全管理部がカルテ閲覧をすると決める前の時期に、河内氏がすでにカルテの閲覧をはじめていた事実を確認しました。 

次に、松末院長が前回の尋問で2次発癌で死亡した例があると証言したことを受けて、それが不正確な認識であることを指摘しました。病院の事例調査検討委員会では、この患者のケースを因果関係不明と認定しています。それにもかかわらずこの死亡例を裁判で持ち出してきて、岡本メソッドの攻撃に使ったのです。

さらに病院のホームページで公開された医療機関別の前立腺癌非再発率比較表の問題。このデータを根拠に河内氏は、岡本メソッドの優位性を否定しています。これについては、松末院長は、比較対象患者のリスクレベルが大きく異なるのに単純に比較するのは適切ではないことを最終的に認めました。この問題についても河内医師を追及しました。

偽造文書の問題も取り上げました。これは成田医師を併任准教授にするために必要な文書で、河内医師と岡本医師の三文判が押してありますが、岡本医師は押していないと言っています。いま、この文書が公文書偽造だということで問題になっています。わたしは河内医師が、そのハンコは自分で押した、あるいは秘書に押させたと答えると思っていましたが、それも否定しました。秘書が勝手に作成したことにして、自分は関知していないということで押し通しました。この弁解には、驚きました。これについて被告の代理人は、定型的な文書はそういうこともあると念押ししていましたが、裁判所はその不自然さを認識したと思います。

【竹下育男弁護士】

成田医師の反対尋問を担当しました。反対尋問は簡単に成功しないことがままあります。相手が嘘を言ったときに、嘘を言っている証拠を示すことができるとは限らないからです。この裁判では、成田医師と塩田学長に関する裏付け証拠が多くあるので、それを有効に活用できるかどうかプレッシャーがありました。

成田医師と岡本医師の間で交わされていたメールは、有力な証拠になるものが多い。たとえば岡本先生が成田医師に対して、外来で治療方法の適応を検討するものだと思っていたという趣旨のメールを送ったところ、成田医師はそれは必要ないという返事を返しています。積極的に岡本医師のチーム医療への関与を拒んでいるようなメールが他にも何通かありました。

これについて成田医師は、言い訳をしていますが、どれも不自然です。その不自然さをアピールできれば戦略としては成功です。

また原告の治療方法の検討にあたって、岡本先生の意見を求めたことがないことも明らかになりました。

記者会見での岡本医師(2019年12月17日)

【岡本圭生医師】

本日、最後に提出しました河野陳述に対する弾劾陳述について説明しておきます。ありがたいことに裁判所はそれを受理してくれました。河野医師は、滋賀医大の小線源治療は、90%以上が河野医師の実力によってやっているとか、岡本などいなくても大丈夫だとか、だれがやっても同じだという陳述をしていますが、それほど単純なものではありません。

小線源治療では、テンプレートという網の目の奥にある前立腺に針を刺すのですが、その際、ミリ単位の調整を必要とします。 針を器具で微妙に触って1ミリ、あるいは2ミリの調整をするのです。きれいに会陰に針をさす必要があります。針を刺すことで前立腺が変形したり出血したり、動いたりすればダメです。いわばリンゴの皮を片手でむくような作業が必要なのです。河野医師はそれをやっているわけではありません。画面上で見ているだけで、微調整しているのはわたしです。 ですから河野医師が言うように、おおざっぱなことをやっているわけではありません。

河野医師は岡本メソッドなるものは存在しないと言いますが、「10のステップ」という冊子があります。これに従って2013年からずっと小線源治療をやってきたわけです。これには特別ことは書いていないと成田医師は言っていますが、そうであるなら、全国から医師が見学に来るはずがありません。

患者会の皆さんには、朝からスタンディングをやっていただき、弁護団は素晴らしい追及をしていただきました。この裁判では、医療や病院の内側を知っている人間がいるから、相手を追い詰めるチャンスが生まれたわけです。 一般の人が、医療過誤で戦っても勝ち目はないでしょう。わたしはこうした状況を変えたいと思います。

治療の未経験を患者に告げるべきかどうかよりも大切なことは、説明できることは、全部説明するという善意の姿勢です。意図的に情報を隠すようなことあれば、医療は成り立ちません。この裁判では、人が死亡した事例は扱っていませんが、重要な意味を持っています。ここで負けては医療が成り立たなくなります。市民の手、患者さんの手に医療を戻したいものです。

ちなみにわたしが執筆した中間リスクの前立腺癌に対する小線源治療についての論文が1月に掲載されます。10年間で397例のうち、再発は3例。7年の非再発率は、99.1%です。100人にひとり再発しないことになります。この論文では、中間リスクの症例は、小線源単独療法でやるべきだと結論づけています。論文が掲載されるということは、査読者によって内容が認められたということです。

わたしは12月をもって滋賀医大を去ります。しかし、これは終わりではなく、次のステージの始まりだと思っています。

【原告A】

岡本先生と接するようになって4年になります。先生の治療は革命的だとわたしは思っています。わたしは副作用もなく、いまも元気に働いています。76歳で、いまでも納税しています。これも岡本先生による手術が成功したからです。なぜ、わたしが裁判で戦ったのかといえば、岡本メソッドが革命的な医療であるからです。

これはなくしてはいけない医療です。河内教授がやろうとしているのは、岡本先生の医療を横取りすることです。これが問題の原点です。横取りして、自分の手柄にして、岡本医師を追い出そうという魂胆のようです。こうした状況を許してはいけないということで、裁判を起こし、そして今日の尋問を終えることができました。

【原告B】

わたしは河内医師は、好き放題なことを言っているという印象を受けています。今回、わたしが最も訴えたかったのは、被告が岡本医師の人格攻撃に徹していることについて、それが的外れであるということです。滋賀医科は全人的医療をうたっていますが、これは患者ファーストの意味です。この全人的医療の理念を掲げているのであれば 、患者の命を脅かしたことに対して謝罪し、反省すべきです。

反対尋問の最後の方で、この裁判を岡本医師が扇動したかのような被告側の言動がありましたが、われわれ原告を子ども扱いする発想です。訴訟を進めるうえで、家族や近所の目もあるので、参加できなかったひともおられます。 わたしも、最初は家内が裁判に賛成していませんでしたが、今日は傍聴に来てくれました。裁判を続けられたのも、応援があったからです。

記者会見(2019年12月17日)

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▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
フリーランスライター。メディア黒書(MEDIA KOKUSYO)の主宰者。「押し紙」問題、電磁波問題などを取材している。

月刊『紙の爆弾』2020年1月号 はびこる「ベネッセ」「上智大学」人脈 “アベ友政治”の食い物にされる教育行政他

11月29日大津地裁で滋賀医大病院の患者であった4名が、同病院泌尿器科の河内明宏、成田充弘両医師を相手取った「説明義務による損害賠償請求訴訟」の証人調べが行われ、河野直明医師(放射線科)、塩田浩平学長、松末吉隆病院長が証人として出廷した。大学病医院を舞台とした裁判で学長、病院長、そして焦点となった治療を手術室内で一定程度担当してきた医師が証人として同じ日に顔をそろえるのは、かなり珍しいことであろう。

 

 

集会前チラシ配を配る患者さんのお連れ合い

◆「滋賀医大のやっていることは医療テロだ」

開廷を前に11時から大津駅前で集会が開かれた。好転には恵まれたが、手がかじかむ寒さの中、最初に不運にも滋賀医大で岡本医師の治療を受けることができなかった患者さんが発言した「滋賀医大のやっていることは医療テロだ」と強く病院の姿勢を指弾した。集会では仮処分により治療を受けられた患者さんら4名の方が発言した。この日の集会には女性の姿が目立った。

そのなかには、26日(滋賀医大における岡本医師治療の一応の最終日)に治療を受けることができた患者さんのお連れ合いの姿もあった。

この日は37席の傍聴席を求めて80名以上が、抽選に臨んだがそのほぼすべてが患者会のメンバーだった。

原告席には原告のお二人、弁護団の9名が、被告席には、2名の弁護士と被告である、河内、成田両被告の姿もあった。病院長・学長を証人として引っ張り出した手前、両被告が知らんぷりというわけにはいかなかったということであろうか。事件の中心人物が全員揃い、法廷撮影が行われたのち開廷が宣言された。記者席にも7名の記者が着席している。

◆不可思議な内容が際立っていた河野医師の証言

最初に証言に立ったのは河野医師だ。河野氏は岡本圭生医師とともに手術を担当してきた立場の人物であるが、この日の証言では不可思議な内容が際立っていた。河野氏の主たる主張は「小線源療法は(シードを挿入する)泌尿器科医よりも、手術計画を立案する放射線医の役割が大きく、泌尿器科の知識のある医師は(経験がなくとも)早い時期に経験を積むべきで、むしろ放射線科医師が熟練に時間を要する」との趣旨であった。

泌尿器科医は5ミリごとに区切られた、器具を利用してシードを挿入・留置するので、「泌尿器科医に特別な技術が必要だとは思わない」と何度も証言し「この術式のクオリティーは熟練した放射線治療医の計画による」とも証言した。

河野氏は、被告である成田医師が担当しても「全く問題なかった」と証言した。一方で「滋賀医大では若い先生がやっていますので」とも発言している。この日までに滋賀医大病院で岡本医師以外による小線源治療を行った泌尿器科医は1人だけのはずだ(この日の河野証言で「1人としやっていない」を繰り返していた)。その1人は河野氏が実名を挙げた成田氏ではなかったのか? 成田氏は准教授であり河野氏は講師だ。河野氏が成田氏を「若手の医師」と表現するのは不自然だ。法廷では深く議論されなかったが、河野氏のこの発言はわたしには極めて大きな違和感を残した。

つまるところ河野氏の証言は「小線源治療は放射線医が計画を立てるので、(シードを挿入・留置する)泌尿器科医には熟練を要しない」との内容であった。

河野氏の証言を野球に例えれば「キャッチャーが優れていれば、ピッチャーは誰でも構わない」と主張していたように感じる。そうだろうか。そうであれば患者は泌尿器科医ではなく放射線医の優秀な病院を探して病院選びをするだろう。

河野氏は「岡本メソッド」という言葉を「そんな言葉はない」と何度も否定した。しかし呼称の如何によらず、滋賀医大の岡本医師(そこにパートナーで河野氏がいた)治療を求めて全国から患者が殺到した事実をどう解説するつもりだろうか。彼の証言は原点が「自己矛盾と自己否定」に満ちており、退廷の際に見せた苦渋の表情は、その内心の現れだろう。

◆岡本医師攻撃に証言が終始し、患者さんに与えた苦痛についての反省の弁は一切聞かれなかった

次いで塩田学長が証言に立った。塩田氏とその後登場する松末病院長に共通するのは、質問の冒頭で被告側弁護士の質問が、岡本医師の性格的な問題に言及し、「岡本医師の人間性が問題の中心だ」との意識付けを狙っていた、との印象を受けた。

塩田氏は大学の学長らしく、泰然と振舞おうとしていたが、反対尋問に対する態度では落ち着きを失っていた。原告並びに補助参加人である岡本医師の代理人は岡本医師と塩田氏とのあいだでやり取りされたメールを多数証拠として提出していた。被告側代理人はそのメールに綴られた文言を、通常と異なる理解へ導こうと質問を重ねたが、反対尋問ではその矛盾が突かれた。

塩田氏はあくまで「岡本医師をなだめるため」、「岡本医師が厳しくいってくるので」と岡本医師をひたすら「困った人物」として描こうと腐心した。だが、わたしが取材した限りにおいて、塩田氏は当初少なくとも中立の立場であって、岡本医師を攻撃する立場にはなかった。それがいつのまに河内氏を中心とする勢力にからめとられてしまったようだ。したがって、証拠として提出された岡本医師と塩田氏の間で交わされたメールは文字通り読めばよいだけのことなのである。けれども完全に「岡本追放」に舵を切った塩田氏にとっては、当時岡本医師に送ったメールをすべて否定しておかないと辻褄を合わせられない。

そして「私は学長なので個々の事案には関与しない」といいながら、「松末院長を味方につけておいてください」など岡本医師にメールで具体的なアドバイスや指示と思われる文章を何度も送っている矛盾が幾度も露呈した。

そして決定的であったのは、「2013年1月頃京大医学部出身の重鎮医師が滋賀医大で岡本医師の治療を受ける」ことを京大出身の泌尿器科医師3氏と塩田氏の協議の結果決定し、その術後岡本医師に感謝の意を伝達するメールが塩田氏から岡本医師送られていたことが明らかにされたことである。

塩田氏は証言で、岡本医師の治療成績については「詳しくは知らない」と述べ、人格についてはボロクソといって差し支えないような攻撃に終始した。そんな「不安な人格」の岡本医師にどうして、京大出身の重鎮医師の治療を委ねたのだろうか。そんな不安な人物に大切な人の治療を任せるだろうか。

国立大学の学長として、また人間として非常に恥ずかしい、言を弄する塩田氏の姿が印象的であった。

最後に証言に立った松末病院長も、冒頭岡本医師の人格問題にふれたあと、被告弁護人からの主尋問に答えた。これまでの3証人に共通しているのは、いずれも「岡本メソッド」及び岡本医師攻撃に証言が終始し、患者さんに対して与えた、身体的、精神的苦痛についての反省の弁は一切聞かれなかったことである。

◆井戸謙一弁護団長による反対尋問

反対尋問は井戸謙一弁護団長が担当した。井戸弁護士は「責任教授」が規則で決められた役職かどうか。松末氏が「岡本メソッド」を寄付講座設立当時も評価していたこと。その後「岡本メソッド」への評価が変わったのはどうしてか、その時期はいつか。との質問がなされた。

松末氏は「まだこれからエビデンスが出てくるので」と明確な回答を避けた。さらに6月11日に滋賀医大がホームページで「前立腺がんの治療についての情報提供」を公開した件につき詳細な質問がなされた。

滋賀医大が6月11日HPで公開した「前立腺がんの治療についての情報提供」

松末氏はこの情報を掲載した理由を「全国から非常にたくさんの患者さんが来ているが、やりすぎであるということで、冷静に皆さんに事実を知ってもらわなければいかんということで…。たしかにバックグラウンドは全部違います。総合的に見たらどういう結果が得られるか、データ論文が出てきた。それを皆さんに知らせた方が国民のためになると考えた」と述べた。井戸弁護士は「内容をチェックされましたか」と聞くと「もちろんです」と松末氏は回答した。

井戸弁護士はそこに掲載された、弘前大学、群馬大学、放射線医学総合研究所病院、京都府立医大が根拠としている論文における対象患者が、岡本医師の論文が示した前提と異なる(岡本医師が論文で対象とした患者よりもいずれも、軽度の患者を対象とした論文である)ことを一つ一つの論文とその該当箇所を示しながら確認をおこなった。

この問題については、本通信でも黒藪哲哉氏が問題を指摘している。

「このような情報はかえって患者の誤解を招くのではないか」との井戸弁護士の質問に、松末氏は「臨床的には前提をそろえるのは至難の業。総合的に見て判断していただくしかない」と回答。井戸弁護士は「専門家は判断できるかもしれないけれども、ホームページを見た患者は最終的な数だけを見るのだから、適切ではないとお思いにならないか」と聞いた。「そういうみかたもあるかもしれません」と松末氏は答えた。

無責任だ。この情報を掲載したのは先に松末氏が述べた通り、「全国から非常にたくさんの患者さんが来ている」状態を面白くないと考えたからではないのか。「国民のため」というのであれば、5年後の非再発率だけでなく、各病院が論文の前提としている対象患者データを簡潔に示すことくらいできたであろう。

さらに、井戸弁護士は、「岡本医師の医療安全上」とされる案件を取り上げた滋賀医大の学内手続きからの逸脱について学内規定を示しながら、松末氏の見解を質した。回答の中で松末氏は、岡本医師が治療した患者さん全員のカルテを10名以上の医師が閲覧したことを認めた。松末氏は「1人でやっておられて(著者注:河野医師の証言によれば小線源治療の中心は放射線医であるので、この証言と矛盾する)ブラックボックスのなかにあるような状態ではいけないので」と回答した。

◆「手続きが無茶苦茶に行われたと、浮き彫りにすることができた」(井戸謙一弁護団長)

井戸謙一弁護団長

閉廷後弁護士会館で記者会見が行われた。河野、塩田両証人に質問を担当した弁護士が、法廷でのやり取りの要点を説明したあと、井戸弁護団長が報告をした。

「松末さんは重要人物です。滋賀医大がどこかの時点で、岡本医師の評判をとにかく落とすと。そのための資料つくり、1つは『ほかの大学病院の治療結果とそんなに変わらないんだ』というための資料作り。それから合併症や安全管理上の問題があるのではないかということについての資料作り。これを徹底的にやるようになった。そのあたりの事実をあぶり出したい、というのが私の反対尋問の目的でした。
 優位性の問題については6月に滋賀医大病院がホームページで群馬大や弘前大、京都府立医大の高リスク前立腺がん患者の治療実績と大差はないじゃないか、という情報が発表されました。その元データを全部洗いだしました。(質問時間が)30分しかないというのは非常につらくて、元データについて指摘できることはほかにもありましたが、とにかくわかりやすい、それぞれの1点だけ確認しました。
 証拠は本来尋問前にすべて裁判所に提出しなければなりません。ただ、ホームページの元データなどを提出したら『こういうことを聞いてくる』と丸わかりですから、事前には出せない。当日その場で出さなければいけないのですが、それが可能なのは『弾劾証拠』と決められていて、向こうが話したことが『嘘でしょう』ということを裏付けるための証拠は当日出せる、となっています。
 傍聴されていた方は、まどろっこしい印象を持たれたと思いますが、なんとか証拠として提出することを認めさせることはできました。(中略)岡本先生は高リスクの中でも非常にレベルの高い高リスクが多いの。ほかの機関は岡本先生より軽い症例が多い。こういうものを並べて『一緒』というのはおかしいでしょ、と。結局『岡本先生の業績に傷をつけるためにやっていた』のではないか、を浮き彫りにしたい。『適切ではなかったかもしれませんね』という証言を引っ張り出すことはできました。
 もう一点は医療安全委員会の問題です。去年の9月頃からカルテの不正閲覧の問題が生じました。岡本先生の症例、全カルテを(今になったら)医療安全員会の決定に基づいて、見ていたと説明をしていました。それを見てあら探しをしてして、結局13件について問題があると、8月に最終的な事例調査検討委員会の結論を出したわけです。ところが医療安全などの委員会については、滋賀医大内で規定があるわけですが、それに則っていない。外部委員も含めて委嘱して事例調査検討委員会を開き、全員一致で結論を出す、と規定で定められているのに、会議は開かれていない。このことは最近朝日新聞デジタルの報道で明らかになりました。
 外部委員の先生は資料が送られてきて、意見を書いて送り返したけれども、それがどのようにまとめられたのか知らない。委員同士で議論をしていないから、結論が正しいのかどうかもわからない。それを『一定の結論が出た』と取りまとめて、『回答しろ』と岡本先生に迫ったというのがいきさつです。それについて岡本先生は既に『全部言いがかりだ』という回答を出していているわけです。
 本当は1例1例について『これはおかしいじゃないか』と議論できれば良いのですが、30分ではとてもそこまではできないので、手続きが無茶苦茶に行われたと、浮き彫りにすることができたと思います」

そのあとに原告のお二人が感想を述べた。質疑に移った。記者からは熱心な質問が相次いだ。

12月17日は原告4名と被告、河内・成田両氏の尋問が行われ、この係争の証人調べは終わる。判決はいよいよ来年3月に出される予定だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆岡本医師の診察を受けに滋賀医大附属病院へ向かう

2週間後にわたしは滋賀医大附属病院へ向かった。東京から京都までは新幹線、京都から東海道線に乗り換えて最寄りの瀬田駅で下車。瀬田駅からは帝産バスに乗った。京都には何度も足を運んだことがあったが、滋賀県に目的地を定めるのは初めてで、滋賀医大附属病院は自然豊かな環境に恵まれていた。都心の喧噪との対比が印象深い。

岡本医師の受診待ち患者さんの数は壮絶だった。こればかりは都心の病院と変わりがない。ようやく名前が呼ばれ診察室に入った。挨拶をしようとすると、岡本医師はすでに送ってあったわたしの検査データを注視していた。体調や既往症などの質問に答えた後、少し息をついた岡本医師は、

「あなたのがんは中間リスクです。小線源単独で対応可能でしょう。手術の詳細な予定を立てるためにもう一度、そのあと『プレプラン』とが必要です。遠いですが手術前に受診していただく必要があります。よろしいでしょうか?」

と次のステップを明確に提示してくださった。わたしに異議のあろうはずはない。2月後再診を受け、翌月に「プレプラン」のため再度滋賀医大附属病院への来訪が決まり、予約票を手に帰路に就いた。まだ日没までかなり時間があったから京都で観光をしようかとも思ったが、気持ちの高揚感があり、それを早く家族に伝えたかったので、寄り道することなく新幹線に乗った。車内販売で「ビール」の声をきくと思わず販売員を止めてしまい、缶ビールを1本だけ飲んだ。そのあとは気が抜けたためか、寝込んでしまい、気が付いたのは品川駅到着のアナウンスだった。

◆2泊3日で「死の恐怖」から解放される?

岡本医師の診察を受けただけで、まだ治療を受けていないのに、滋賀に出かけた日以来、わたしの体調は見違えるほどに好転した。初診の翌朝には久々に6キロの早朝ジョギングを再開した。食欲も戻った。体重が10キロ近くも落ちていたので、昼食時など「もう治療は終わったのですか」といわれるほどに、体がカロリーを欲していた。

いよいよ入院の日を迎えた。月曜日に入院して火曜日には手術を受けた。麻酔は部分麻酔で、手術中も岡本医師と放射線科の医師との声を聴きながら手術室に流れる音楽を聴いているうちに「はい、終わりました」。予想よりも早く岡本医師から声をかけられた。

水曜日は放射線の関係で一日外部と最低限の接触に限られる部屋で過ごし、木曜日には早くも退院できた。2泊3日で「死の恐怖」から解放される?信じがたいとは感じなかった。「もう大丈夫」岡本医師の言葉ではないが、自分の内部深いところがそう確信していた。

◆「迷っている場合じゃないでしょ! 誰のおかげでお父さん回復できたの?」と娘の声

初診以降滋賀医大附属病院では、岡本医師に対する嫌がらせの類が発生していることは、おなじ時期に入院していた患者さんから聞いていた。医学の世界ではひいでた医師の足を引っ張ることは、ありうることだろう、程度にしかわたしは考えていなかった。わたしにもビジネスの世界でも同様の経験があったから。

半年に一度の検診だけで、前立腺の状態は落ち着きが確実になったころ「患者会」を結成すると、知り合いの患者さんから連絡を受けた。岡本医師が滋賀医大附属病院から「追放」される危機にあるといわれた。いくら医学界が旧態依然としていたとしても、世界屈指の治療成績を残し続けている医師を、病院から放逐することなど、企業経営者の端くれにあるわたしには信じられなかった。メーカーにあっては商品開発とR&D(研究開発)の重要性は、基本中の基本。病院にあっては治療成績と評判こそが資産と、わたしのような人間は感じるからだ。

しかし、滋賀医大附属病院は予想外に、着実に岡本医師追放に向けて手を打ってくる。寒い時期に患者会から「JR草津駅でデモ行進をする」との連絡が入った。連絡をしてきたのはわたしと同じ日に手術を受けた、九州の患者さんだった。なにかしたい。なんでもしたい。と思いながらも、市民運動に縁のなかったわたしは、正直とまどい、夕食時「こういうことがある」と家族の前で話題にした。

「お父さん迷っている場合じゃないでしょ!誰のおかげでお父さん回復できたの?行くべきよ。ねえお母さん、私たちも行こうよ!」

わたしの優柔不断は、娘と女房の即決の前で完全に無力だった。

◆わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともにスタンディングに参加した

寒い季節にしては暖かい日だった。JR草津駅前には目算で200名近くのひとびとが集まっていた。デモなどに参加したことのないわたしには、この光景もまた驚きだった。こんなにたくさんの人が自分になんの「利益」もないのに集まっている。でも幹部の方々の運営には無駄がなく、家族で参加したわたしたちを皆さん暖かく迎えてくださった。

集会で待機患者の方が切実な訴えをはじめると、数年前の記憶がよみがえった。

「死」。もう、わたしには「死」しかないのか、と不眠に陥り、食欲を失い、自暴自棄になりかけたあの日々。わたしは岡本医師の治療により回復するチャンスを得たことに、謙虚さを失いかけている自分を恥じた。いま話している患者さんはあのときの、わたしとまったく同じことを訴えている!

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会(2019年1月12日)

病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

2019年11月26日。わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともに、スタンディングに参加していた。この日は岡本医師が滋賀医大附属病院で手術を行うことができる最終日にあたった。最初にデモに参加して以来、滋賀には10回以上足を運んだ。「なにか社会に貢献したい」とわたしは思うようになっていた。前立腺がんが治癒しただけでなく、なにかが私の中であきらかに変わった。この日わたしは病院内には入らなかったが、岡本医師は淡々と、いつもどおり滋賀医大附属病院における、一応の区切りとなる患者さんの手術を終えたことだろう。

死の恐怖におびえる経験をしたかたであれば、理解できるだろう。あの恐怖から解放された瞬間を。そして事実「死」の恐怖を迫った前立腺がんが岡本医師により治癒したことにより取り戻せた、日常のありがたさを。岡本医師はこの先どうなる?いや、岡本医師の治療を待っている患者さんは?

患者会と岡本医師の闘いは、「仮処分」での勝利をえて、本来であれば治療ができなかった50名近い患者さんの治療を可能にした。努力と行動が「不可能」を「可能」にした。滋賀医大附属病院なのか、ほかの場所なのか、患者会の末席を濁しているだけのわたしに、岡本医師の将来はわからない。でも滋賀医大附属病院正門で夕刻、「岡本医師の治療継続を! 岡本医師、待機患者が待っています!」 なかまの誰かが低い小声ではっきりと病院に向かって宣言した。わたしも小声で彼に続いた。(了)

◎前立腺がんになった──患者たちが語る滋賀医大附属病院「小線源治療の名医」岡本圭生医師との出会いの物語
[前編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33021
[後編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33027

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
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《関連過去記事カテゴリー》
滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆前立腺がんになった。治療が必要な状態だといわれた……

前立腺がんになった。治療が必要な状態だといわれた。どうしよう、もう余命は短いのか? 「日本人の二人に一人はがんになる」と聞いてからタバコはすぐやめた。食事もなるべく化学調味料や保存料のはいっていないものを選ぶよう女房に意見した。内臓を冷やすとよくないといわれたので、爾来暖かい飲み物を採るように心がけ、下着も厚めにしてきた。胃カメラ、大腸内視鏡検査も1年ごとに受けている。どの値も正常値から飛び越えることはなかった。血圧や脈拍も。

ことしの健康診断の血液検査で「PSAが高い」といわれた。PSA? なにを示す値であるのかすら知らなかった。産業医からPSAは前立腺肥大や前立腺がんが起きると値が高まる指標だと教わった。いまから振り返れば、当時のわたしは、「お気楽」だった。前立腺がんの理解不足はもちろんのこと、前立腺の機能自体に対して、まったく知識がなかった。産業医はロボット手術を勧めた。

「前立腺の全摘出は難しい手術ではありません。取ってすっきりしましょう」

肌の上にできた「デキモノ」を取るような簡単な手術のような説明だった。入院と手術の日をそこで決めようとされたので「家族に相談させてください」と断って帰ってきた。インターネットで本気で調べだしたのは、あの産業医が気楽に説明してくれたから、逆に怖さを感じたのだ。

◆「月におむつ代にかかる4万円の負担が大きく、年金生活の身では苦渋しております」

調べだすとますます怖くなった。前立腺を全摘出しても再発率がかなり高いことを知った。再発しなくとも、排尿障害に苦しむ人の声をきいた。たしかに前立腺がんの治療はうまくいっているようだ。だけれども排尿障害があり、常時おむつを着用していないと普通に生活できない。その人は「手術も大切だけど、そのあとの生活も考えて治療法を選ぶべきでした」とメールでアドバイスしてくれた。

「恥ずかしながら小生、月におむつ代にかかる4万円の負担が大きく、年金生活の身では苦渋しております」厳しいことばでメールは結ばれていた。

小線源治療は前立腺全摘出よりも、術後の負荷が少ないとは聞いていた。だが、前立腺に小さいとはいえ放射能を埋め込む治療法に、なんとなく不安を覚え選択肢の中から早期に排除してしまっていた。さいわいわたしのがんは、一刻をあらそう進行の早い病気ではないらしい。だからといって悠長に構えてはいられない。ほおっておけば、いずれ骨やリンパなどに転移することは確実と忠告されていた。

◆このままでは、わたしが考えていたよりも、かなり早く「死」はやってくる

この頃から、おぼろげだった「死」を現実に考えるようになった。このままでは、わたしが考えていたよりも、かなり早く「死」はやってくる。まだ定年まで何年もある家族を養う身で、早々に人生から「退場」しなければいけないのか。怖い。怖い以上にわたしはまだ「死ねない」。まだわたしの収入に依存している家族はわたしがいなくなったらどうする? 生命保険の死亡給付金は、保険金が高いから一昨年4分の1以下に契約をみなおしたばかりだ。目先の支出にとらわれたのが間違いだったのか……? いや、お金の問題ではないだろう。わたしは平均寿命まで、干支一回り以上の年月が残っている。

家族の面倒はもちろんだが、わたしだって定年退職後にやりたいことがある。退職金が出たら女房と世界一周旅行をしてみたい。女房には話したことはないけれども、きっとこの申し出は歓迎されるだろう。転勤と残業ばかりで、迷惑をかけてきた女房へのねぎらいに、贅沢ではなくとも「世界一周旅行」に出かけるのは、わたしのようなものにとって「身の程知らず」ということなのであろうか。

そんなことはないだろう。けっしてエリートではなかったが、入社以来わたしは、精一杯に会社に尽くしてきたし、そのことはいまの職位が証明してくれるだろう。同期入社で取締役の席に座っているのはわたしひとりである(けっしてそのことを披歴したいわけではない)のだから。バブルのあとの不況時にも、今世紀に入ってからの市場の変化にも、わたしはわたしなりに全力で取り組み、会社にはいくばくかの貢献をできたのではないか、と手ごたえは感じている。

いまは、そういったわたし社会的な経歴ではなく、「存在」としてのわたしがどうなるか、を決めなければならないのだ。いずれやってくる「死」に無謀な抵抗をしようとは思わない。だれにでも訪れるその瞬間は蕭々と受け入れよう、と昔から考えてきた。しかし、事故でもない限り、子供が一人前になってからだろうとしかその時のことは描けなかった。肺がんで40代の若さで亡くなった後輩の葬儀に立ちあったときも、わたし自身の「死」についての現実感はなかった。

焦りと恐怖が日ごとにました。食欲も失い半年で10キロ近く体重が落ちた。調べれば、調べるほど「悪い想像」しかできなくなっていた。日課のジョギングを欠かすようになって何か月が過ぎただろうか。晩酌などする気にもならない。

◆ベテランの看護師さんが岡本医師を教えてくれた

岡本圭生医師

滋賀医大附属病院の岡本医師の情報を知らせてくれたのは、わたしの会社の健康診断を請け負っている会社の看護師さんだった。産業医とわたしの会話に同席していたベテランの看護師さんが「一度コンタクトしてみてください」と連絡をくれた(わたしの会社の健康診断には、産業医だけでなく看護師さんからのアドバイスも受けられるサービスがついていた)。

岡本医師の情報を調べて驚いた。わたしのような中間リスクだけではなくハイリスクの患者さんまで受け入れている。それだけではなく超ハイリスクの治療でも95%以上再発させていない。本当か? 滋賀医大附属病院のサイトにアクセスすると、岡本医師のメールアドレスが掲載されている。「大学病院で自分のメールアドレスを公開するお医者さんがいるのか」このことはわたしの焦りを増すことになった。「ほかの患者に先を越されてわたしの手術が遅れたら困る!」利己的であるけれども、わたしは他者に対する配慮ができる状態ではなかった。早速岡本医師にメールを送った。

返信があったのは次の日の夕刻だった。会社のメールアドレス宛に「詳しい情報を送ってください」と。びっくりした。忙しいであろう大学病院のドクターが見知らぬものからのメールに1日もたたず返信をくれたことに。わたしは検査結果の詳細を再度岡本医師にメールで送信した「一度私の診察を受けてください」と短いが診察を受けてくださるメッセージが返ってきた!

その晩久しぶりに日本酒が飲みたくなった。美味かった。まだ診察も受けていないのに半年以上ぶりに気持ちが楽になった。(つづく)

2019年1月12日草津駅前集会

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

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滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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