司法の独立・裁判官の独立について〈2〉アメリカによる日本の司法破壊

江上武幸(弁護士 福岡・佐賀押し紙弁護団)

戦後80年にわたって日本がアメリカの事実上の支配下におかれてきたことは、ネット情報により国民に広く知れわたるようになりました。前回述べたとおり、司法の世界(裁判所・検察庁)もアメリカ支配のもとにおかれてきました。

*元外交官孫崎享氏の『アメリカに潰された政治家たち』(河出文庫)をご一読ください。

*グーグルで「日米合同委員会」・「年次改革要望書」を検索して下さい。

日米合同委員会は、在日米軍将校と中央省庁の官僚とで構成する政治家抜きの秘密会議です。日本側参加者の肩書をみると、軍事・外交・防衛問題のみならず立法・司法・行政の国政全般について継続的に協議が行われていることがわかります。

日米合同委員会は月2回程度開催されているとのことで、これまでの開催数は2000回におよぶとの指摘もあります。

そこでの協議内容は、国会に報告されることも国民に公表されることもありません。

* グーグルで「日米合同委員会議事録公開訴訟」を検索ください。

日本のエリート官僚は、戦前は天皇支配のために、戦後はアメリカ支配のために生涯を捧げているといっても過言ではありません。日米合同委員会に各省庁を代表して出席できる地位につくことが官僚としての出世コースの最終ゴールであると考えて日常業務に従事しているとしても不思議ではありません。

大臣や国会議員が短い期間で国政の場から退場していくのに比べると、各省庁の官僚は大学卒業後、定年退官まで人生のすべてをかけて国政の中枢に座り続けるのですから、国を動かしているのは自分たち官僚であると自負するのもあながち無理からぬことかもしれません。しかも、在職中「つつがなく」上司の指示・命令に従って業務を遂行すれば、出世につながり、職を辞したあとは優雅な天下り生活が待っています。

しかし、国家権力が最終的に帰着するところは、最大の暴力装置である軍隊であることは歴史の証明するところです。アメリカの支配下におかれている我が国においては、国家権力は最終的には駐留米軍と自衛隊に帰属します。この点は、冷静に見ておく必要があります。自衛隊の文民統制も究極においては絵に描いた餅になることが必至です。

近時、自衛隊は陸・海・空を問わず米軍との共同訓練を拡大しています。実際に戦争が始まった場合、自衛隊が米軍の指揮下にはいることは避けられません。共同訓練の積み重ねによって、自衛隊員があたかも世界最大の核保有国であるアメリカの軍隊の一員であるかのように錯覚し、米軍に先んじて無謀な軍事行動に出る可能性も否定できません。

防衛大学生が入学直後、大量に退学している情報がネット上散見されます。退学の理由はともかくとして、早々に防衛大学での生活をあきらめ退学を選択した学生達と違い、残った学生は軍事大国としての復活を目指す思想に染まりやすいのではないかと懸念します。

日々、猛烈な軍事訓練に耐えてきた防衛大学卒業の自衛隊幹部が、文民統制という名で上位に立つ同世代の一般大学卒業の文官を内心で軽くみたとして不思議ではありません。

防大生の職業軍人としての自尊心・おごりたかぶりの萌芽は、戦前の帝国陸・海軍人の姿をみるまでもなく、制服姿で靖国神社の参道を行進する姿をみれば容易に想像がつきます。

災害時に被災者を救護した経験のある自衛隊員はともかく、日夜、日本の防衛のためということで人殺しのために厳しい訓練に耐えている血気盛んな若者が、いつしか世界最強の米軍と共に戦場に立つ日が来ることを夢見たとしても不思議ではありません。

◆最高裁と検察庁中枢のアメリカ支配

次に、年次改革要望書は、アメリカ政府の日本政府に対する規制緩和や市場開放を求める要望事項(実際は命令に等しい)を記載した文書です。日本政府はこれを受けて関係省庁の官僚に検討と実行を指示し、官僚は進捗状況をアメリカに定期的に報告する仕組みになっています。鳩山民主党政権時代にいったん終了しますが、その後も形を変えて継続しています。

そこに書かれた要望事項は、建築基準法・独占禁止法・著作権法・労働者派遣法などの基本法の改正や郵政民営化・法曹人口の大幅増加などの具体的かつ詳細で、広範にわたっています。

司法にもアメリカ支配が及んでいることは、米軍立川基地違憲判決(伊達判決)を最高裁判決で取消すための方策を田中耕太郎最高裁長官とアメリカ大使が密談で決めたことを紹介したとおりです。

* 検察庁については、戦後、GHQによる東京地検特捜部の誕生秘話を検索ください。

* 歴史に仮という言葉が許されるならば、当初予定されていた田中二郎氏が最高裁長官に指名されておれば、我が国の司法の歴史はもっと違ったものになっていたことでしょう(岡口基一元裁判官のSNSでの発言)。

司法の独立と裁判官の独立を守るのは裁判官の責任だけではありません。検察官・弁護士を含む法曹三者全体の責任です。

最高裁と検察庁の中枢はアメリカ支配を積極的に受け入れてきた戦前の司法官僚とその後継者たちによって占められてきました。従って、アメリカが裁判所・検察庁については、直接間接に影響力を及ばすことは可能です。

ちなみに、京都大学法学部卒業で検事になった同期の友人は、「就任して6年目に将来同期の誰がどの程度まで出世するかが分かるようになった。」と述懐してくれました。裁判官の世界も同じです。

しかし、弁護士の場合、単位弁護士会と日本弁護士連合会の会長は会員の選挙によって選ばれますし、そもそも民間組織であるためアメリカの支配はおよびません。

弁護士は治安維持法に基づく検察局・裁判所による思想弾圧事件を弁護してきた戦前の歴史から、新憲法のもとで認められた三権分立・司法の独立・裁判官の独立を守ることの重要性を最も強く感じていました。

新憲法施行に伴い「司法研修所」が設置され、司法研修所を卒業するときに裁判官・検事・弁護士のいずれかの道を選択する制度に変わりました。

司法研修所の2年間の生活で法曹の卵たちは法曹三者の一体感を醸成してきました。私達世代は、裁判官・検察官・弁護士の立場の違いを超えて、司法の独立・裁判官の独立を一致協力して擁護しようとする気持ちは同じでした。しかし、アメリカの支配を甘んじて受け入れた戦前の裁判官・検察官は、戦後の司法研修所で培われた次世代の法曹三者の一体感を理解することも尊重することもできませんでした。

石田最高裁長官らによる青法協所属裁判官の脱会工作や再任拒否、修習生の任官拒否による思想統制については、結局、外部の日本弁護士連合会が中心になって反対するほかありませんでした。

1969年 定期総会 司法権の独立に関する宣言
1970年 臨時総会 平賀・福島裁判官に対する訴追委員会決定に関する決議
1971年 臨時総会 裁判官の再任拒否に関する決議
1971年 臨時総会 司法修習生の罷免に関する決議
1971年 定期総会 司法の独立に関する宣言
1972年 定期総会 裁判官の再任・新任拒否に関する決議
1973年 定期総会 最高裁判所裁判官の任命に関する決議
1973年 臨時総会 裁判官の再・新任に関する決議
1975年 定期総会 司法研修所弁護教官の選任および新任拒否に関する決議
1976年 定期総会 司法研修所における法曹教育に関する決議
1977年 定期総会 裁判官新任拒否に関する決議
1978年 定期総会 裁判官新任拒否に関する決議
1979年 定期総会 裁判官新任拒否に関する決議

最高裁の裁判官の思想統制に真っ向から反対する弁護士や日本弁護士会の存在がアメリカや最高裁にとって目障りだったことは疑いようがありません。

アメリカは1997年の年次改革要望書に「日本政府は、1998年(平成10年)4月1日から、最高裁判所の司法研修所の修習生受け入れ数を年間1500人以上に増やすことによって、日本弁護士の数を大幅に増やすべきである。」と記載しました。

翌1998年の要望書には「日本政府は、最高裁判所司法研修所の修習生受け入れ数を可及的速やかに、遅くとも2000年(平成12年)4月1日以降に入所する修習生クラスから年間1500名以上に増やすべきである。」と記載しました。

1999年の要望書には「日本政府はできる限り速やかに、しかし遅くとも2001年(平成13年)4月1日に開始される研修までに、最高裁判所司法研修所による修習生の受け入れ数を年間2000名以上に増やす必要がある。」と記載しました。

2000年の要望書には「米国は、自由民主党司法制度調査会が2000年5月に提言した目標(ある一定期間内にフランスのレベルに到達する)のように、弁護士数をある一定数、大幅に増加させることをもとめる。」と記載しました。

(注):フランスのレベルとは、年間3000人程度の数を意味します。

アメリカ政府が日本政府に司法試験合格者の大幅増員を求めた背景には、日本の弁護士の経済的・社会的地位の低下、裁判官・検察官に対する弁護士の相対的地位の低下、ひいては日本弁護士連合会の政治的影響力の低下を実現する意図が隠されていたと考えざるを得ません。

法曹人口の増大と法科大学院の導入が完全な失敗であったことは誰の目にも明らかになっています。しかし、日本の司法の破壊を目的としたアメリカにとっては大成功だと評価することが出来ます。郵政民営化の成功体験と同じです。

◆法科大学院導入と法曹人口増員が日本の司法をいかに破壊してきたか

次回の投稿は、法科大学院の導入と法曹人口の増員が日本の司法をいかに破壊しているか、その現状を個人的感想を交えて述べさせていただきたいと思います。

(追記)現在の司法の状態をどのように立て直していけば良いのか考えると気が遠くなります。なお、参考のために以下の動画と書籍をご覧頂ければ幸いです。

れいわ新選組の山本太郎氏の参議院文教委員会における質疑(2019年6月18日開催)
「アメリカ様の要求通りは、学問の世界も?
」(ユーチューブ動画)

◎前法務大臣河井克行氏著「司法の崩壊-新任弁護士の大量発生が日本を蝕む」(PHP研究社刊)

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年10月12日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

◎「司法の独立・裁判官の独立」について〈1〉

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

六ヶ所再処理工場と大間原発が建設中の青森県こそ反戦反核の拠点に! 12月1日大阪での中道雅史さんの報告集会にご参加を!

尾﨑美代子

去年、大阪で開催された老朽原発再稼働阻止集会で、青森県から参加された中道雅史さんにお会いした。集会での中道さんのアピールをお聞きして、青森県の原発、核関連施設について、私が余りに知ってないことに驚かされた。その中道さんが来週祝島、広島を講演会で回るそうだ。最後の日曜日は、高浜の現地行動へ行くという。以前、店に来られた際、少しお話をお聞きしたが、もっとじっくりお話をお聞きしたいと思ってた。なので、来週いっぱいスケジュールが入ってるようなので、大阪で話して貰うのはまた今度と考えていた。そんな時中道さんから提案された。

「尾崎さん、月曜日でもいいからぜひ皆さんに報告させて下さい」と。私は311以後作った「西成青い空カンパ」の仲間に聞いたら、みなさん、「やろう!やろう!」「お話が聞きたい!」となった。

ということで、12月1日(月曜日)大国町ピースクラブで中道雅史さん緊急報告会をやります。ぜひぜひお集まりを!!

《追記》先日来店された女性2人のお客様、知っている方の女性はキリスト教団体の反原発の催しなどやっていて、数年前、小出さんの講演会に参加させて頂いた。

お二人にチラシを渡すと、もう1人の釜ヶ崎初めての女性が、「私の故郷は青森県です」というのだ。あらま、びっくり。彼女の母親は現在65歳、高校卒業後「集団就職」で関東に出てきたという。えっ集団就職? それってもっと古い昔じゃないの?と思ったが、事実だった(これが最後だったらしい)。

それほど地元で仕事がない。結局彼女のお母さんは千葉で割の良い仕事が探せ、そこで知り合った男性と結婚し、彼の転勤で青森県に戻り、それからずっと反原発を闘ってると。

彼女の地元十和田市は、パチンコ店が乱立しているらしい。山ほどある原発関連施設で働く作業員らが楽しむためだろう。もちろん歓楽街、風俗店も。

青森県にはぜひ行って見たい。中道さんが案内して下さるという。この目で見てみたい。どんな光景が広がっているのだろうか?

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

3・11の彼方から──『季節』セレクション集 Vol.1
https://www.amazon.co.jp/dp/4846315878

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

「万博」「都構想」「身を切る改革」そして……維新と吉村洋文は何度でもウソをつく

西谷文和(紙の爆弾2025年12月号掲載)

タブーなき月刊誌『紙の爆弾』の最新号記事がnoteで一部公開・購読可能となりました。独自視点のレポートや人気連載の詰まった「紙の爆弾」は全国書店で発売中です(毎月7日発売。定価700円)。書店でもぜひチェックしてください。

◆安倍晋三に学んだ政治家としての処世術

「大阪の男」と「奈良の女」。高市早苗首相と吉村洋文大阪府知事・日本維新の会代表(以下、敬称略)に共通するものは何か? それは平気でウソをつけること、しかも、そのウソを追及されても開き直って責任をとらないという「強靭なメンタル」を持っていることだ。

2023年8月6日、吉村は被爆地・広島には行かず、京セラドーム大阪で開かれた「関西コレクション2023A/W」というファッションショーにモデルとして出演した。その後、女性司会者とのやりとりの中で「大阪万博の上空では空飛ぶ車が自転車のようにぐるぐる回る」「万博には3000万人、主に外国の方が来る。国際交流の場になる」と断言した。しかし、空飛ぶ車は開催中にデモ飛行が実施されたものの、観客の乗車体験は断念。そのデモ飛行も、「ぐるぐる回る」どころか、プロペラの一部が折れて飛行中止。

万博の入場者数は想定以下の2500万人で、来場者は外国人でいっぱいにはならなかった。地方の参加者は少なく、地元の関西人が主だったのも周知のとおり。それでも閉幕後は「黒字になった。大成功だ」とはしゃいでいる。しかしそれは運営費で黒字になっただけで、約2倍に膨れ上がった建設費2350億円や9.7兆円に上る巨額のインフラ整備費を全く考慮に入れない大ウソだ。

実際の収支は大赤字なので、これから巨額の血税が注ぎ込まれていくのだが、「大阪の男」はそんなことお構いなしに、大阪都構想の是非を問う3度目の住民投票に突き進んでいる。ちなみに2020年に2回目の住民投票で敗れた際には「もう僕自身は政治家として都構想にチャレンジしません」と述べていた。この矛盾を突かれると「このままではできない、なので信を問う」との主旨を述べた。つまり辞職して知事選挙と3回目の住民投票を同時に行なうつもりだ。

ウソにウソを重ねて、「勝つまでジャンケン」を繰り返す吉村。冗談ではなく、この人物が知事である限り4度目、5度目があるかもしれない。

一方「奈良の女」は自民党総裁選で「奈良公園の鹿を蹴っているのが外国人旅行者とすれば」と仮定法で、言い逃れが可能なヘイトスピーチを披露した。この発言の直後から「迷惑系ユーチューバーの、へずまりゅう(奈良市議)と同じだ」「総裁候補としてありえないヘイト発言」と批判の声が湧き上がった。実際の奈良公園の動画を見れば、外国人旅行者は鹿に優しく接しているし、一部蹴り上げている過去動画はあるものの、それが外国人かどうかは判別できない。このことを問われた高市は「せんべいをあげようとして焦らすと、鹿は足を踏んで来る。それに怒った英語圏の人が蹴り上げた」と、証拠も示さずに自身の経験談を語るのみ。

注目すべきはいったん「外国人旅行者」と決めつけておきながら、釈明会見では「英語圏の人」と言い換えていることだろう。高市は参政党が進めた「日本人ファースト」にあやかって極右の票を獲得しようとする一方、外国人排斥・排外主義者というレッテルを貼られたくないので、外国人を「英語圏の人」と言い換えて「ヘイト度」を薄めようとしたのだ。

高市は経済安全保障担当相だった2年前にも、安倍政権下の総務相時代、マスコミへの電波停止発言に関する自身の発言を暴いた総務省の内部文書を「捏造だ」と決めつけた。立憲民主党の小西洋之参院議員に「捏造でなければ議員を辞めるか?」と詰め寄られると、「結構ですわよ」と開き直った。後日この文書は捏造されたものではなく本物であったことが判明したが、高市は大臣・議員を辞めるどころか、吉村と組んで今や総理大臣になってしまった。

高市早苗と吉村洋文の2人は第2次安倍政権時代に「政治家の処世術」を学んだのだった。安倍晋三首相が森友学園事件で「私や私の妻が関係していたら総理も国会議員も辞めます」とタンカを切ったものの、本当に関係していたので部下が公文書を改竄して守ってくれた。桜を見る会前夜祭で地元山口県下関市の後援会員を格安で接待したことがバレても、全責任を会計担当者と秘書、領収書を出さないホテルになすりつけて逃げ通した。権力を握れば、つまり「トップに上り詰めればウソも開き直りも許される」ことを学んだわけである。

◆大阪での成功体験

ではこの2人が連立合意した条件、まずは衆議院議員の1割削減について考察してみよう。

これは「企業団体献金の禁止」を求める維新に対し、自民が応じなかったので、それに代わる改革ネタ(馬場伸幸・前代表談)が必要だと感じたのがそもそもの目的である。裏金議員に対する国民の怒りを定数削減にすり替えるという維新お得意の「騙しの手口」なのだが、なぜ唐突に定数削減を言い出したかというと、維新には「大阪での成功体験」があるからだ。

※記事全文はhttps://note.com/famous_ruff900/n/nb65dca79b73b

植草一秀 「政治とカネ」を闇に葬る最悪連立 自民・維新金権腐敗政権

植草一秀 文責・本誌編集部(紙の爆弾2025年12月号掲載)

タブーなき月刊誌『紙の爆弾』の最新号記事がnoteで一部公開・購読可能となりました。独自視点のレポートや人気連載の詰まった「紙の爆弾」は全国書店で発売中です(毎月7日発売。定価700円)。書店でもぜひチェックしてください。

◆空費された2年間

2025年10月21日、第104代内閣総理大臣に高市早苗衆院議員が就任し、高市内閣が発足しました。

様々な紆余曲折がありましたが、振り返ると2024年の年初から国民生活は極めて厳しい状態に置かれ、政治は何ら措置も取らないまま、ほぼ2年間が空費されました。この現実をまず直視すべきです。

この2年間、日本の政治を2つの事象が支配してきました。1つは自民党内の「政治とカネ」の問題、史上空前の巨大裏金不正事件です。1000万円超の不正を行なった議員が21名いたにもかかわらず、刑事事件として立件された議員は数名に留まった。これは刑事司法の腐敗も示しています。

もう1つは、深刻なインフレが進行して労働者の実質賃金が減り続け、国民生活が一段と冷え込む状態が続いたことです。2013年~23年の10年間、日銀総裁を担った黒田東彦氏はインフレ誘導政策を推進しました。不幸中の幸いでその目論見は失敗したものの、コロナ融資を契機に2022年~25年までの4年間で目標の2%を大幅に上回るインフレが発生しました。生鮮食品については2022年以降、年間8%ペースで上昇が続き、2021年を基準にすれば物価は3割も上昇しました。

一方で、賃金が上昇しているのは大企業だけ。しかも、それ以上にインフレが進み、実質賃金は減少が続いています。厚生労働省の統計では2022年4月から25年8月までの41カ月間で、1人あたりの実質賃金指数が前年比プラスになった月は4回のみ。それ以外の37カ月は前年比マイナスの有り様です。同時に日本円が暴落し、いまや円は1970年水準よりも弱いという状況です。これは、日本国民の所得や資産のドル換算での金額が激減したことを意味します。円の暴落は国民に甚大な損害を与えています。

こうした事態に日本国民は選挙で明確に意思表示をしてきました。その1つは昨年10月の衆議院総選挙で自公の議席が過半数割れに転落したことです。この時、野党がその気になれば、政権刷新も可能な状況が生まれていました。今年7月の参院選でも自公が歴史的な大惨敗を喫し、与党は参議院でも過半数割れに転落しました。

昨年10月の総選挙では裏金事件が大きな争点となりました。その主犯が旧安倍派だったため、石破茂内閣は、敗北の責任は旧安倍派にあるとしましたが、今年7月の参院選で石破内閣に明確な退場通告が突きつけられます。

政治腐敗の根源が企業・団体献金です。したがって今年1月からの通常国会は、その全面禁止を法定化する千載一遇のチャンスでした。しかし、石破首相は国会答弁で、禁止には反対だと明確な意思表示をしました。

とはいえ、自公政権は衆院で過半数割れしています。ここで野党が結束して企業・団体献金禁止の法定化を実現しようとすれば、少なくとも衆院では可決できたはずです。しかし、その機会を自民とともに潰した犯人が国民民主党です。国民民主はこの問題について全会一致が必要だと主張。自民党の反対を踏まえて全会一致を求めることは、法定化を妨げることにほかなりません。昨年の総選挙後に、自民党にすり寄る行動をとって政権交代の芽を摘み取ったのも国民民主でした。

また税の問題では、衆院選で消費税率を5%に下げるという主張を中心に、複数の野党が減税提案を示しました。しかし通常国会で決定されたのは、所得税の「103万円の壁」引き上げのみ。その減税規模はわずか0.7兆円にすぎません。しかも、所得税は岸田文雄内閣が2024年に1年限りの2.3兆円定額減税(総額3・3兆円)を実施しています。これが終わったことで、2025年度の所得税は、差し引きで前年度比1.6兆円増税となっています。これは財務省の資料によって簡単に確認できる事実ですが、メディアは1行も伝えていません。

加えて、社会保険料負担が発生する「106万円・130万円の壁」の撤廃がどさくさにまぎれて決定されました。結果、週20時間以上働く人の手取り収入が、16万円や27万円も減ることになりました。

◆議員定数削減の不埒な狙い

この2年間の政治背景を踏まえれば、改革の一丁目一番地が「政治とカネ」であることは誰の目にも明らかです。しかも、自民党と連立を組んだ日本維新の会は企業・団体献金廃止を提案してきたのですから、連立樹立の条件にこれを掲げるのが順当です。ところが維新はこの問題を放棄し、代わりに提示したのが社会保険料の引き下げと副首都構想、そして議員定数削減でした。社会保険料引き下げは若者を中心とした人気取り政策、副首都構想は大阪利権そのものです。

さらに議員定数削減とは比例代表の削減で、その真意は少数政党の殲滅です。そもそも日本の国会議員数は人口比において、G7諸国の中でも米国に次いで2番目に少ないものです。一方で、議員報酬は国際比較で突出して高い。それゆえ「身を切る改革」というのであれば、議員定数ではなく議員報酬を削減すべきです。

日本の国会議員の本給である歳費とボーナス(期末手当)だけで約2200万円。

※記事全文はhttps://note.com/famous_ruff900/n/nc1a93e4fae3f

「公安警察」とは何か

足立昌勝(紙の爆弾2025年11月号掲載)

タブーなき月刊誌『紙の爆弾』の最新号記事がnoteで一部公開・購読可能となりました。独自視点のレポートや人気連載の詰まった「紙の爆弾」は全国書店で発売中です(毎月7日発売。定価700円)。書店でもぜひチェックしてください。

◆相次ぐ警察不祥事と謝罪

9月5日、警察庁の楠芳伸長官は、都道府県警の本部長を集め臨時の全国会議を開いた。被害者の訴えを黙殺した「川崎ストーカー殺人事件」における神奈川県警の不適切対応や、立件ありきの「大川原化工機事件」における警視庁公安部の捜査が違法と認定された不祥事を受けてのものである。

川崎事件では、9月4日に神奈川県警本部が「神奈川県川崎市内におけるストーカー事案等に関する警察の対応についての検証結果」を公表した。そこでは、署や本部における対処体制の形骸化や機能不全を取り上げ、今後、人身安全関連事案における被害者やその親族等の安全確保を最優先とした対処を徹底するという。ここで指摘されている内容は、現状の体制内における教育等に終始している。問題の本質が異なっているのではないか。今まで言ってきた言葉を繰り返しただけで、再発防止になるはずがない。根本的解決を図るならば、警察に批判的な人物を含め、第三者で構成する委員会に諮問すべきだ。

また、大川原化工機事件について、警視庁は8月7日、「国家賠償請求訴訟判決を受けた警察捜査の問題点と再発防止策について」を公表した。そこでは、訴訟指揮に関連して次の5つの問題点を指摘している。これらは組織内部の問題であり、公安部が抱える問題の大きさを物語っている。

①捜査機関解釈に対し経産省が疑問点を示していたにもかかわらずその合理性を再考することなく捜査を進めたこと
②温度測定実験に関する消極要素の精査の不徹底
③取調べ官に対する指導の不徹底
④捜査班運営の問題
⑤公安部長ら幹部への報告の形骸化と実質的な捜査指揮の不存在

これらを踏まえ、「公安部の捜査指揮系統の機能不全によって、公安部において組織として捜査の基本に欠けるところがあり、本件において関係者を逮捕したことが国賠法上違法であるとされる結果となったと考えられる」と結論付けた。今後は「業務の性質上現場の捜査員が声を上げにくいと言われる公安部の組織風土を十分認識した上でそれによる弊害を減らし、上司、部下が立場にとらわれず必要な意見を交わすことができる環境づくりを進めるとともに、公安部全体の捜査指揮能力の向上につなげていかなければならない」という。

大川原加工機事件で問われるべきは、公安警察の在り方そのものである。主権者である国民に見えないところで秘密の捜査を行ない、国民を監視してきたのが公安警察だ。この組織そのものにメスを入れない限り、根本的解決にはならない。

◆公安警察とは何か

1945年10月6日、GHQ(連合国総司令部)が発した人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件」に基づき、国民を弾圧し続けた悪名高き特別高等警察(特高警察)は廃止された。

しかし、戦後の社会情勢に不安を感じていた内務官僚は、これに代わる組織の必要性を考えた。そして同年12月19日、内務省警保局に「公安課」を置き、各都道府県警察に「警備課」を設けた。その後、内務省は解体され、警察の在り方も根本的に改正されたが、そのどさくさ紛れに忍び込ませたのが公安警察で、その後も解体されることなく、大きな組織へと発展していった。

さらに特徴的なことは、公職追放されていた旧特高警察の警察官の多くが公安警察に復帰し、特高警察での経験・ノウハウを活かしているといわれていることだ。
 昨年5月21日、警視庁150年を記念した特集で産経新聞は、「過激派、外国による工作…国内唯一の『公安部』誕生」を掲載した。同紙は公安警察の役割について次のように書いている(一部要約。以下同)。

〈「国事犯を隠密中に探索警防する事」。警視庁は明治7(1874)年の発足直後から、国家の秩序を乱す活動を事前に察知して防止することを、主要任務の1つとして掲げてきた。戦前では主に「特別高等警察(特高)」が対応に当たったが、GHQから「秘密警察」とされ廃止に。戦後、デモや大衆運動が活発化し、過激派による襲撃事件も発生する中、警視庁は警備課や捜査2課に置かれた係で対処する状態だった。「このような分散された弱い体制では(中略)国内の治安情勢に対処することはできない」(『警視庁史昭和中編上』)として昭和27(1952)年、公安1~3課を擁する警備2部が発足。1932年には「公安部」に改称され、日本で唯一公安部を持つ警察本部となる。東大紛争やあさま山荘事件、オウム真理教事件など、極左や右翼、カルト宗教を受け持つ「国内公安」に加え、外国機関の情報収集、対日有害活動に対応する「外事」も担う。外事は現在、主にロシアを担当する外事1課、中国の外事2課、北朝鮮の外事3課、国際テロの外事4課という態勢に。また、テロの疑いがある事案の初動捜査などに対応する公安機動捜査隊やサイバー攻撃対策センターも擁する。〉

この記事には、同紙の極右的特徴がそのまま出ている。まず、特高警察について触れながら、その悪行への批判はない。戦後のどさくさ紛れに設置された公安警察を無批判に受け入れ、旧内務省警保局への反省もない。このような治安重視の姿勢が、どれだけの善良な国民を監視し、投獄してきたのか。その事実を抜きにして、警察史を語ることはできない。

※記事全文はhttps://note.com/famous_ruff900/n/n208373083019

矢島祥子さんがいた頃の釜ヶ崎と貧困ビジネス

尾﨑美代子

11月16日(日)、大国町ピースクラブで、16年前に殺害された釜ヶ崎の女医・矢島祥子さんを偲ぶ会があった。例年以上に大勢の人が集まった。初めての方も多かった。私が冤罪問題で何かやるとき必ず遠方から来て下さる方が、名古屋と和歌山からきてくださった。広島から駆け付けた方もいたとか。

初めての方が参加されることは事前に知っていたので、ぜひパワポを使って「あの日、矢島祥子さんに何がおこったか」の解説をしたかった。とりあえずやったのだが、考えたら会場を暗くするので、手元が見えない。近くにいた方が携帯で照らしてくれたが、字が小さくて読みにくい。頭に入っている範囲でお話したが言い忘れたこともあった。ぜひレジュメを読みなおしてね。

当日の様子はほかの方の投稿で確認してください。私が一つ気になったこの、こういう会で必ず「犯人はわかってますからね」と発言される方がおられることだ。そのたび私は「知りませんけど」と言いたくなる。遺族だってそう思っていると思う。私たちの活動は犯人逮捕のために捜査機関に動いてもらうこと、そのためメディアを動かすこと、そのため支援の輪を広げることだ。憶測で「あの人が犯人に違いない」と決めつけ、新たな冤罪を作ったら元も子もないではないか。

ただ、私は事件の背景には当時から今まで延々と続く貧困ビジネスの問題があると思う。先日、釜ヶ崎で火災が発生し、共同住宅に住む4人の方が犠牲になった。非常階段のドアが開かずに部屋に閉じ込められた住民もさぞかし恐ろしかったろう。火災の原因は未だに明らかにされてないが、寝煙草の人が多かったともいわれるから、それが原因かもしれない。にしても、車いすや寝たきりの人も多い50人ほどの住宅で、深夜常駐のヘルパーさんが1人だったとか、施設側の問題も大いにあるようだ(しかもそのヘルパーさんも犠牲になった)。

就労支援事業などを手広く展開するこの業社は、近年この界隈で多くのビルを建てている。お洒落な白いビルの壁面には業社の頭文字のCが書かれ、火災が起きたビルはC5、その近くで1階に地ビール工場が入るビルはC6だ。

火災が発生、5階に住む3人が死亡したコレクティブハウス

私は以前このCとちょっとした出会いがあった。「あれは甘く切ない思い出」ではなく、ちょっと恐怖を感じたものだ。客のNさんが腰痛なので週1回ほどヘルパーに入って貰おうとした。三角公園で連れに紹介されたのがCだった。CはNさんに役所が来たら、万年床にして入口に杖を置いてと指示したそうだ。布団も上げれない、杖なしで歩けない大変な身体だから、ヘルパーを毎日付ける必要ありとしたいのだろう。しかし、元ヤクザだが超真面目なNさん「俺はそんな嘘はつけない」ときっぱり断わり、週1回入ってもらうことになった。

私はこのいきさつを当時のTwitterに投稿した。もちろんNさん、C、三角公園などの名称はださずに。ところがだ、数日後Nさんに入った若い女性ヘルパーがNさんに「Nさん、はなままという人を知ってますか?」と聞いてきたそうだ。Nさんは「最後に逮捕されたとき、世話になった」と言ったそうだ。ヘルパーはまた「Nさんは元ヤクザなのですか」と聞いたという。小指欠損状態をみればわかるだろうと言いたいが、私の投稿で知ったのだろう。若いヘルパーが見たのではない。Cがエゴサーチしたのだろう。しかし、前述したが、三角公園もNもCも書いていない。しかもTwitterはたかが400文字だ。凄いエゴサーチ力だ。ていうか、どんなエゴサーチをするのだろう。「杖」「万年床」あたりか? ヘルパーが私のことをしつこく聞くと、後にNさんが私に話してくれて、ちょっと怖くなったものだ。

萩ノ茶屋駅近くの無料炊き出し(11月19日撮影)
長い行列を作る無料炊き出し(11月19日朝8時)

話を戻すと、祥子さんがいた2008~2009年当時の貧困ビジネスは今とちょっと違っていた。2008年リーマンショック後、釜ヶ崎に流れてきた困窮者を狙う業者がどっと増えた。が、彼らはまだ雑だった。店の近くの相談所には、開く9時前には長蛇の列ができ、相談後に彼らを狙う連中が、私の店の前で勧誘をはじめ、その光景はまるでミナミのひっかけ橋で黒服が客をキャッチするような状態だった。ヤクザ、反グレが慣れない手つきで炊き出しを行い、集まった困窮者を自社ビルに入れる。生活保護制度自体を理解してないのか「今なら部屋も食事もついてて、おまけにお小遣いまでもらえるよ」などと通帳、カード取り上げ、囲い込む気満々の業者も多かった。

奈良の山本病院事件で院長らが摘発されたのは2009年だ。しかし、山本病院が大阪市内から野宿者や生活保護者を病院に入院させ、不適切、不必要な手術を行い死亡させはじめたのは、10年前からだった。山本病院に患者を送り込んでた福祉病院は釜ヶ崎周辺でも多かったはずだ。祥子医師は自身が診た患者の入院先に見舞いに行きながら、治療方法や処方された薬を確認し、おかしいと思ったら、病院側に忠告していたという。そんな祥子医師が疎んじられたのか、事件の少し前、ある福祉病院の事務局長から名刺を渡され、「もう来ないでくれ」と言われていたらしい。生活保護者を囲い込んで儲けようとする連中にとって、祥子さんはじゃまだったのかもしれない。

『病院ビジネスの闇』(宝島新書)。NHK奈良支局取材班によるこの本は釜ヶ崎周辺で当時展開されていた貧困ビジネスを刑事のように追跡している。「コトリバス」(コジキをとるバス)や、福祉マンションから福祉病院に利用者を送るタクシーを追跡する様子などはまさにヒヤヒヤしながら読んだものだ。

あの当時は、役所の窓口には刺青見せた大男が「はよ、保護出してやらんかい」と怒鳴りこみ、逮捕されるようなことも続出した。本当にやることが雑だった。もちろん今でもそのような業者はいる。しかし、Cのようにメディアで取り上げられるような、ある意味洗練された業者も増えた。噂だが、Cには次々と元役人が天下るという。何かあったら責任をとらされる代表者も次々と変わるという。噂がどこまで事実かわからんが、事実だったのは、あの小綺麗な白いビルの中では、かつてと変わらないエグい貧困ビジネスが続いていたということだ。

ちなみに知り合いがCのホームページを見たら、火災についての「お詫び」あるいは「ご報告」が全くなかったという。

被ばく労働者同様、単身者の釜のおっちゃんが亡くなっても、誰も抗議しないと考えているのだろうか。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか? ──市民運動の狭間から

高橋幸子(市民運動家)

堀さん、吉田さんたちが尽力されてきた同志社大学学友倶楽部がこのたび松岡さんの裁量で再び起き上がる日にカンパイを重ねます。参加がかなわず残念ですが、自分にとっても力強い支えをいただく思いでいます。在宅参加の気分で松岡さんにお便りしますが、雑な走り書きです。お時間がなければ読み飛ばしてください。

私は1963年度生。60年安保と70年安保のハザマにあたる「谷間の世代」です。入学当初は、自主管理を勝ち取る「学館闘争」の最中、大詰めでした。新館に入って学友会は向かいのボックス、私はDSB(同志社学生放送局)の報道課に属していました。

今、目に焼き付くのはなんたってデモだ!! 昨今、観光ブームで祇園祭の四条河原町とか八坂さんの石段下がテレビに映るとチラチラあの風景、ジグザグデモの元気が蘇ります。ついでながら若い頃、何かで読んだ「古代都市は観光ブームと健康ブームで崩壊した」という幻の一文が思い浮かびます。最近アメリカ大統領が来日会談。カメラを向ける野次馬?の報道で、まず耳に聞こえたのは「日韓会談反対」の声。反対といえば、「産学共同」「エンタープライズ原潜寄港」「家族帝国主義」「市電・市営バスの値上げ」などに反対が続きました。ジグザグデモは(とうに承知の松岡さんに言うのもなんですが、(笑))、路上蛇行するヘビのうねりからスネーク・ダンスとも呼ばれたようで、歩く、走る、広がる、集結してつながるなど、いわば自由の象徴の一つ。問題意識はそれぞれに多種多様、同時に問題の根は一つ、という連帯を感じます。そしてあの四条河原町の交差点で、がっちりとスクラムを組んで前に突入する、激しいジグザグがありました。

学友会OBの集まりで挨拶する高橋幸子さん

卒業したあと、学生運動にはいろいろな方向があったことを知り、さまざまな活動をした人と追々知り合いました。ハンセン病回復者とともに「交流(むすび)の家」建設から始まった運動は、同じゼミの人も多く参加して、60年近く今も続いています。公教育の「君が代」強制に反対する裁判では、学生のころ釜ヶ崎に通って闘争した人、労働組合の活動家たちとも組みました。公害の浮上で「水俣」へ向かう友、「三里塚」の闘い(強制撤去の問題は今も続きます)、「狭山裁判」や「べ平連」に参加する人、暮らしを問う「婦人民主クラブ」や「ウーマン・リブ」の闘い、21世紀に入って特に潮目が変わった其地問題で沖縄に行って移住した友もいます。が、いずれも若い頃、根拠の一つは学生運動が確かな火種となり、燃えていると感じます(もちろん壮年期に突然迫った問題がふりかかり、当事者になった人が起ち上がる力強さは凄いと思いますが)。学生時代から、みかんの農薬問題に取り組んだ人がのちに起ち上げた「市民環境研究所」活動に私は今、属しています(ただいま参加がほぼできず心苦しいのですが)。思えば古代より!?日本神話やギリシャ神話にも出てくる人間の問題として、その根は一つ。とどのつまり私、自分への問いかけを思います。

1992年、自衛隊がカンボジアへ初の海外派遣に行くという大きな曲がり角を迎え、「自衛官人権ホットライン」という電話相談運動の呼びかけ人の一人になりました。自衛官を自衛隊というかたまりで見るのではなく、釣りが好きな人とか二人の子どもがいる、とか暮らしから同じ市民として見る、それが土壌の基本です。「企業戦士の方がもっときついのに、なぜ自衛官なんだ」と当時、からかうような抗議の電話も入りました。旧日本軍隊と今の自衛隊はどこが違って、どこが同じなのか、及ばぬながら考え合いました。

同時期もう一つ、情報公開運動を発足して、先細りながら35年近く、今も続いています。発足当時は「官官接待」など見た目も派手な不法公金。全国集会も盛り上がりましたが、いま問題は絶妙に隠れて、ますます埋もれたりして、「メディアを通じて成り立つ社会」の急速な発展、その誘導、向かう先を案じます。

そうだ、同志社学館ホールにジェーン・フォンダが見えた日、かぶりつきの席で見たというか、目の前で会いました。小柄で華奢な人、でもその迫力・魅力の残像は今も新鮮です。しかし当時、ベトナム戦争の現状はアメリカでも報道されながら、反戦の世論は盛り上がらず、世論とは何か?を考え続けてきました。

私は新聞学専攻です(今はメディア学科?)。「新聞学原稿」や「放送概論」、「社会思想史」や「社会統計(アンケート)論」などの授業があったかと思いますが、強く残るのは「世論・宣伝」です。世論には必ず虚像が入る。私たちは虚像の現実から免れない。国家が「反共」を作って「文明進歩」の旗の下に現実を屈折させ、虚像のモデルを作っていかに市民に押し付けてくるか。屈折を知れば、実態に近寄れるが、それも丸っぽい私たちの考え、一人一人の暮らし、生の声の実態ではない、という問いかけです。

百貨店の労働ストライキが1、2年前ニュースになり、「街の声」として「こんな暴力行為は過激なテロです。すぐ取り締まってほしい」といった(ストライキを知らない?)若い人の声が取り上げられ、驚きました。報道記者一人一人は現場で踏ん張る人もいると思いつつ、選択された「街の声」の奥向こう、その行方を考えます。このたびアメリカNYにマムダム市政が誕生しましたが、今後の世論、その行方も気になります。

「同時代の日本には“ピンとこない一方幕末期には“ピンとくる”ものを感じる」という若い友人から先日、新刊『列島哲学史』(野口良平著)が届きました。中国、インド、ヨーロッパ、米国という強大文明、その辺境にある日本列島で幕末期の世界像はたぶん最大級に揺らいだだろう。幕末の密教(優等生)と顕教(劣等生)が現在は逆転している例題も追跡されて、ただいまノロノロゆっくり読んでいるところですが、日本のメディアでは今、クマ出没の被害が大きなニュースになっています。その折々、同じゼミだった藤本敏夫さんの「自然王国」里山文化の重要性を訴え、壮大にして具体的な「里山運動」の提唱、構想が思い重なりました。

テレビで大谷選手などの米リーグを見れば、ふと、60年安保の首相の姿が思い浮かびます。集結した抗議デモに向かって「野球観戦に大勢が一体して集まっている。あの“声なき声”が安保に賛成している」といったような発言をしました。だから今も野球観戦に惑うのではなく、見るのは私の自由ですが、いま「自由ほど高くつく」時代を思います。旅行も与えられたパックで行くと便利で安い。自由は当時、高値にして買う時代です(家で観るテレビ観戦はひとまずタダ?いや「タダほど高いものはない」とも言いますが)。ともあれ岸首相の「声なき声」にピンと来て、60年安保から生まれたのが「声なき声の会」のデモでした。

65年を経て戦争もさらに文明化、言葉(政治用語)のすり替えも進歩しています。「平和」とは防衛(費)、「抑止力」を宣伝して武器を作る、売る、買う競争。武器を売り歩いた首相が「わが法治国家は~」を連発しました。数々の「戦争法」に取り囲まれる今を思います。(コロナまでですが)あの四条河原町コースをデモると、歩道の観光客(?)からカメラがパチパチ向けられ、デモが風物詩みた~い!! でも自分と同じ市民として誘ってみたら、デモの輪へ面白そうに若い人が二人三人寄って入り、ふと一瞬、現代版「声なき声の会」かと妄想がちらつきました。

先を歩いた人がどこでつまずいたか、どこで弾圧されたか。あるいはどんな虚像を見たか、どう「転向」したか。しないで立ったのか。前の時代は、次の時代がどう闘うか?によって位置づけられ、先人の転んだ地点が次の世代の出発点ともいいます。しかし私は転んだ覚えもないのに「いつのまにか骨折」。老いて圧迫骨折。イテテテ~と背中をさすりながらお便りしました。ご勘弁ください。

筆者がかつてのライバルを挑んだ擁立 広島県知事選挙 奮闘記〈1〉

さとうしゅういち

広島県知事選挙は2025年11月9日執行されました。
投票率は30.09%で、2005年に次ぐ過去ワースト2の投票率となりました。

【当選】横田美香 無新 54歳 推薦:自民・立民・国民・公明 前広島県副知事 552,614(83.4%)

猪原真弓 無新 64歳 推薦:共産 共産党広島県東部地区常任委員 75,468(11.4%)

大山 宏 無新 77歳 元電気機器メーカー社員 34,333(5.2%)

4期16年を務めた湯崎英彦知事がご勇退表明された後、事実上後継指名した前副知事の横田さんが与野党の応援を受けて当選。ただし、前回2021年に湯崎英彦知事が取られた707,371票からは15万票減らしました。

共産党が推薦した猪原さんは、共産党系候補としては2013年以来、久しぶりに10%を超えました。

筆者が政党の枠を超えた県民ファーストの「庶民革命ひろしま」として擁立した大山候補は、34333票。

地元最大手の「中国新聞」などによる政党中心の報道で、大山さんは無視される(日々の記事で陣営の主張も、写真も載せてもらえない)中で、5.2%という票を獲得しました。大山候補は2021年参院選再選挙で筆者とはライバル関係にありましたが、それを超えて筆者が大山さんを擁立した形になり、2021年参院選再選挙の票での両社の合計票を投票率が低下する中で上回る形になりました。

以下は、開票日に筆者が出したコメントです。

◆2025年広島県知事選挙を終えてのご報告と御礼

このたびの広島県知事選挙において、「庶民革命ひろしま」推薦の大山宏候補は34,333票(得票率5.2%)を獲得し、当選には至りませんでした。ご支援くださった皆様に、心より感謝申し上げます。

今回の選挙は、湯崎英彦知事が事実上後継指名した前副知事・横田美香氏が、与野党相乗りの支援を受けて当選するという構図でした。私たちは、既成政党の枠を超え、市民の手でつくる新しい県政を目指し、大山宏氏を擁立して挑みました。

もともと私は「庶民革命ひろしま」を立ち上げ、知事候補を公募していましたが難航。県選管の説明会で大山氏と再会し、2021年参院選再選挙でのライバル関係を超えて、共に挑戦する決意を固めました。

マスコミ報道が既成政党の候補に偏る中でも、私たちは前回の参院選再選挙での大山宏票13,363票+佐藤周一票20,848票=34,211票を122票上回る結果を得ました。これは、草の根の力で積み上げた一票一票の重みの証です。

大山候補のポスターと選挙カー
呉駅前で大山候補の応援演説をする筆者

特筆すべきは、呉市での躍進です。得票数は2,926票→5,412票と倍増に近く、得票率も7.2%と突出しました。呉日鐵跡地への防災省・防災科学アカデミー誘致という具体的な代案や、PFAS、産廃、カキの大量死といった地元課題への訴えが、現地の皆様に届いた結果だと実感しています。

また、大山候補の地元・東広島市でも2,907票、6.5%と、前回の合計票を上回る結果となりました。ポスター掲示やチラシ配布にご尽力くださった支援者の皆様の奮闘に、心から敬意を表します。「政策が良いから手伝いたい」と申し出てくださった有権者の声にも、希望を感じました。

一方で、選挙運動を担う人手の絶対的不足や、「自民か共産か」という二項対立に偏った報道には苦しめられました。多様な選択肢があることを示すには、まだまだ力が足りませんでした。

それでも、私たちは一歩を踏み出しました。草の根から、現場から、倫理を軸にした政治文化を広げていく挑戦は、これからも続きます。

最後に、今回の挑戦を支えてくださったすべての皆様に、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

※本コメントはネット上での発信に限らせていただきます。

今後、広島県知事選挙2025について取り上げる記事を出させていただきます。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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11月16日(日)追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」にお集りを!

尾﨑美代子

追悼集会「矢島祥子と時間を共有する集い」
11月16日(日)14時開演 
社会福祉法人「ピースクラブ」4階ホール
(大阪メトロ「大国町駅)5番出口南へ6分)
参加費 無料
冤罪「和歌山カレー事件」を題材にしたドキュメンタリー映画
「マミー」の二村真弘監督にお話して頂きます。

以下、釜ヶ崎のこの事件について、あまり知らない方に、当時何が起こったかを知って頂くために、事件前後に起こったことを時系列でまとめてみました。ご遺族、関係者に確認しつつやっております。訂正があった場合には速やかに訂正致します。ご一読を!! そして是非ご参集を!!

◆あの日、矢島祥子さんに何がおこったのか?

2009年11月16日(月)午前1時20分、大阪市西成区木津川河口の千本松渡船場で釣りをしていた男性2人が、女性の遺体を発見した。女性は14日早朝から同区内のK診療所から行方不明になっていた女医の矢島祥子さん(当時34歳)だった。遺体から発見されたカードケース付の財布に診察券、カード類、運転免許証などが入っており、祥子さんと判明した。

11月13日(金)祥子さんが最後の患者を診終えたのは19時45分頃、20時過ぎにはB看護師が、22時頃にk所長と職員Cさんが診療所を退出。Cさんによれば、祥子さんは奥の部屋でパソコンで作業をしていたという。

23時18分~37分の間、祥子さんが退出・入室していることが、祥子さん名義の警備会社ALSOKのセキュリティカードの履歴から判明している。

11月14日(土)4時15分頃、電子カルテがバックアップされ、同48分に退出が記録。しかし、最後にカードを使用した際、誤作動が生じ、警備会社が祥子さんに電話を架けていた。それまでも祥子さんは誤作動が生じると、自ら警備会社に「間違いでした」と連絡したり、警備会社からの電話にでていた。しかし、その日、祥子さんが電話にでることはなかった。そこで警備会社が緊急出動したが、すでに30分も経過していたため、診療所に問題なしと報告されている(天候は強い雨、しかし、鶴見橋商店街の監視カメラに祥子さんの姿は映っていなかった)。

同じ頃、祥子さんの携帯電話から翌日15日(日)会う約束だった友人Ⅹさんに予定をキャンセルするメールが送られていた。のちに、Xさんが遺族と診療所へ報告した祥子さんからのメールの着信時刻が違っていたため、遺族が正確な時刻を確認したいとⅩさんに申し出た。しかし、携帯が壊れたとの理由で確認は出来なかった。

14日10時過ぎ、出勤しない祥子さんを心配して、看護師Dさんが徒歩10分ほどの祥子さんの部屋を訪ねた。祥子さんは不在で、施錠されていなかったため中を覗くと、室内は整然としていた。なお、アパートに祥子さんの自転車もなかった。その後も職員らが何度か祥子さんの携帯に連絡をいれたものの繋がらず、午後13時10分過ぎには、K所長とD看護師が再び祥子さんの部屋を訪ねたが変わりはなかった。

翌15日(日)祥子さんと連絡が取れないままだったため、彼女の身に何かあったのではと危惧し、K所長らが西成署に相談。警察からは捜索願は親族から提出する必要があるといわれた。それを受けて、10時26分、K所長は初めて群馬の祥子さんの実家に電話をかけた。電話でK所長は、父・祥吉さんに「祥子さんが行方不明になりました。高崎警察署に行って捜索願を出してください」といった。電話の直後、これまでの経緯が書かれたメモがFAXで送られてきた。

【注】敏さん「父から送られてきたFAXを見たとき激昂しました。”なんでこんなもん作ってんだよ”そのFAXには祥子が行方不明になってから、その行方を知るために、誰とどういう行動をとったかが時系列と共に事細かに書いてあり、極めつけは祥子に最悪のことが起こった場合の対処まで書いてあったのです。これを制作する前、もしくは途中でも、何故家族に1本の電話もくれなかったのか?」と。

【注】父・祥吉さんが2010年1月11日、診療所でK所長と面談した。そのなかで、k所長から「2009年11月14日釜ヶ崎の一部に人たちに集まってもらい、対策を行った」ことが明かされた。しかし、翌日15日、K所長から届いたFAXに、その対策会議については書かれていなかった。

両親は地元の警察署に捜索願を提出。病院の事務局長を務めていた次男・洋(ひろし)さんを大阪へ向かわせた。

洋さんは西成に到着後、診療所でK所長と面談、その後ホテルで警察の連絡を待っていた。日が変わった16日深夜、洋さんは茅ケ崎に住む長男の敏さんに電話で報告を行った。

敏さんの携帯に再び洋さんからの連絡が入ったのは、それから1時間ほど経った時。その時の心境を敏さんはこう振り返る。「洋との電話を切り、少し横になっていたら電話が鳴った。いつでもとれるように着信音を最大にしていたんです。もう嫌な予感しかありませんでした」。

洋さんの電話は、祥子さんらしい遺体が見つかったことを知らせるものだった。群馬の両親には直接知らせる必要があるということで、敏さんが車で群馬へ向かう。知らせを聞いた両親は泣き崩れた。そのまま両親、敏さんは始発の新幹線で大阪に向かう。

警察からの知らせを受けた洋さんは西成署に向かい霊安室で祥子さんの遺体と対面。昼前には両親と敏さんが西成署に到着、霊安室で祥子さんと対面。その際、祥子さんの両首に赤黒い傷(頸部圧迫痕)があるのを見つけ、医師である母・晶子さんに告げた。祥子さんの遺体を司法解剖の結果をうけて西成署は、死因を「溺死」とし「過労による自殺の可能性が高い」と遺族に説明した。

【注】祥子さんが亡くなる直前、祥子さんからハガキを受け取った男性Mさんが、絵ハガキを西成警察に届けた。ハガキには「出会えたことを心から感謝しています。釜のおじさんたちのために元気で長生きしてください」とあった。男性(当時60歳)は当時釜ヶ崎の労働組合の組合員であり、K診療所の患者でもあった。なお群馬で執り行われた葬儀の席で、釜ヶ崎のNPO団体の女性(当時)から、「祥子さんには交際していた男性がいた」と告げられた。それがMさんだった。

【注】2018年ジャーナリスト寺澤有氏が「尾崎さん、矢島祥子さんの事件を取材しますよ」と来阪、2日目にMさんをアポなし取材し、難波屋横の喫茶店「ミチ」で2時間ほど話を聞いていた。その際、Mさんは、ハガキについて「警察に見せたが、それが遺書で自殺の根拠だと主張したわけではない。こういうハガキが届いていたと見せておかないと、あとで警察が知ったとき、『どうして隠していたんだ』と追及されるからだ」、自殺、他殺どちらだと思うかとの質問に「自殺だと確信しているが、とくに根拠はない」と述べていた。

遺体がみつかった16日の夜、釜ヶ崎「社会福祉法人聖フランシスコ会ふるさとの家」で「お別れの会」が開催された。「ふるさとの家」は敬虔なクリスチャンだった祥子さんがミサに通っていた場所で、彼女を知る多くの人が集まったが、祥子さんの死を「自死」という人が多く、それを遺族に告げる人までいた。

遺族は、祥子さんの自死説には到底納得いかなかった。クリスチャンの祥子さんは「死にたい」という患者らに常々「死んではだめ」と強く諭していたこともあるが、遺族がその目で祥子さんの首の傷を確認しているからだった。そのため遺族は祥子さんの母校・群馬大学医学部付属病院に再度司法解剖を依頼した。

祥子さんの死からひと月後の2009年12月11日、遺族は西成署の捜査担当者と面談。捜査員は、祥子さんの遺体には「頭血腫」(ずけっしゅ)と「頸部圧迫痕」(けいぶあっぱくこん)があり、2つの傷は、第一発見者の釣り人が遺体を引き上げる際、誤って遺体を落とし、できたものと説明した。「鑑定書」に納得いかない遺族は、解剖医に説明を聞きたいと申し出、捜査員と医師、遺族の3者での面談。医師からは「頭血腫は平らな鈍体よって出来たこと、生活反応があったこと(生きていた時にしかできない)、それによって脳震盪(のうしんとう)を起こしたと説明をうけた。警察が説明した、釣り人が遺体を引き上げるとき誤って落として出来たものは噓だったことがわかった。

【注】遺族によれば、現時点においても、誰が遺体を引き上げたかはわかっていないという。

遺族は、自分たちで不審点を調査し、「被疑者不詳」のまま、殺人と死体遺棄での疑いで西成署に告訴状を提出。祥子さんの死から3年目の2012年8月22日、告発状は受理され、再捜査が行われることとなった。

その後も闘いは続いております。ご支援をよろしくお願いいたします。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?──ニューヨークから 

矢谷暢一郎(アルフレッド州立大学〔ニューヨーク州立大学機構アルフレッド校〕心理学名誉教授)

◎このかん連続して記述してきた11・9同志社大学ホームカミングデーの集いにお二人の先輩からメッセージが寄せられましたので掲載いたします。一人目は元学友会委員長・矢谷暢一郎さんです。(松岡)

左から矢谷暢一郎さん、加藤登紀子さん、松岡鹿砦社代表

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第二期第一回目の「同志社大学学友会倶楽部ホーム・カミングデーの集い」に主催者の松岡利康さんから、この「集い」にアピールを頼まれてニューヨークからこのメールを送っている矢谷暢一郎です。50年以上も前の同志社の学生運動やサークル運動に活躍された人々も招いて、「60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?」をテーマに昔の話をしようじゃないか、という趣旨です。「昔の話をしよう」というのは、歌手の加藤登紀子さんの『時には昔の話を』の題名から来ていると推測しますが、彼女が歌い始めたのは1980年代の後半でした。40年近くも前の古い歌です。日本人で加藤登紀子さんを知らない人はそんなの多いとは思いませんが、歌を知っている人たちはもちろん今日の「集い」に刺激され歌を聴いてみたくなった、とりわけ若い人たちがこの古い歌を聴けば、80才を越した登紀子さんが、激動の1960年代ご自分を重ねた主人公が後に彼女の夫となるかつてのボーイフレンドと共に、貧しいながらもたくましく生き抜いてきた昔のことを思い出すような内容となっているのが判ります。

加藤登紀子さんの夫は2002年の夏7月31日肝臓ガンで倒れた藤本敏夫さんです。

藤本敏夫さんは1963年同志社大学文学部新聞学専攻に入学。新聞記者になる目標があって同志社の新聞学専攻に入ったのですが卒業していません。グーグって(グーグルして)みると中退となっています。彼は「鶴俊のゼミ」(鶴見俊輔の新聞学ゼミ)に入っていましたが、60年代後半京都府学生自治会連合(府学連)書記長としてアメリカのヴェトナム戦争に反対、日本政府の戦争加担政策に抗議する過激な学生運動を指導しました。新聞学卒業証書で身を立てたわけではありませんが、鶴見俊輔教授は藤本敏夫さんの思想、実績そして人物的価値を高く評価していました。

1922年生まれの鶴俊は日本の高校を卒業せず、中退です。16才の時リベラル派の衆議院議員・政治家だった明治18年生まれの父・鶴見祐輔の計らいでアメリカ留学、18歳の時アメリカの大学共通入学試験にパスして、ハーヴァード大学入学、1941年日本軍のアメリカ真珠湾攻撃で日米開戦、アメリカ在住の日本人は鶴見俊輔も含めてアメリカ政府・FBIによる逮捕・拘留となります。捕虜としてメリーランド州の拘置所に拘留されていたハーヴァード大学三回生の鶴俊は授業に出ることができず拘置所で後期の哲学の試験を受けますが不合格。しかし拘置所内で書き上げた卒業論文とそれまでの学業成績が良かったことで教授会の特例で卒業が認められた。多分政治家の父の計らいもあったでしょう、1942年6月に日米捕虜交換船グリップスホルム号に乗船、大西洋を南下、モザンピーク経由で8月に日本に帰国。第二次大戦中の軍属としての仕事やカリエスや結核にまつわる病気に苦しめられた私生活を説明するのは省きますが、戦後の進歩的な思想家たちや知識人たちの「転向」問題研究、丸山眞男、都留重人、鶴見和子、武田清子等7人と 思想の科学研究会創設や『思想の科学』創刊。1948年桑原武夫の推薦で京都大学の嘱託講師、1949年に京都大学人文科学研究所の助教授、1954年東京工業大学の助教授、60年日米安保条約の強行採決に抗議して東京都立大学人文学部の竹内好教授が辞職、竹内の大学人・知識人の心意気に賛同し、鶴俊も東京工業大学を辞職。翌年同志社大学文学部社会学科教授に就任。長くなった感じがしますが、「60年代同志社ラジカリズム」の前置き、イントロダクションを話し始めたところです。

「同志社のラジカリズム」は同志社のリベラリズムが長年存在していて、60年代後半の運動の中で生まれたものだというのが、わたしはの考えです。それ抜きにしては存在しようがありません。リベラリズムというのは、簡単に言えば、伝統的な権威や規範にとらわれず、進歩的で、個人の自由や権利を尊重する考えで、寛大で心が広く、他人の多様な意見や行動を受け入れ、偏見のない態度を示します。リベラルな同志社が臨済宗禅寺の総本山である相国寺と神道の皇居の御所の間に挟まれ位置していることに、日本海の隠岐の島の崎村から出てきた18歳の田舎者のわたしは、浄土真宗の家に生まれ育てられてきたこともあって驚嘆させられました。毎週水曜日のチャペル・アワーで、「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書)と神学教授から説教されると、大学入学前に言われてきた高等教育(higher education)の目的の「真理探究」が、キリスト教を土台にしイエス・キリストの言葉を通した神の教えが真理であると聴き、古い都の京都での新しい大学生活は新入生にとって誇り高くもあり、緊張に満ちたものでもありました。

わたしが1965年に同志社に入学した時、社会学科新聞学専攻には鶴俊がおり、神学部には笠原芳光や竹中正夫が講義をし、わたしの専攻文学部英文科には斎藤勇教授、アーモスト大学で修士課程を終えたばかりの「三山」-岩山太次郎、秋山健、北山- 三人がアメリカから帰国したばかりで英語だけで授業を行う若手教授の「国際主義的」な華やかさがあり、翌66年には日本にカミュ、サルトルの実存主義を紹介した矢内原伊作が助教授として就任。秋には20世紀最大の思想・哲学・文学の実存主義を展開したサルトル、ボーヴォアールが訪日し、同志社での二人の講演で矢内原伊作が通訳を担当した。法学部には憲法学の第一人者で護憲活動を進める田畑忍、同志社卒での後に社会党の委員長を務める土井たか子、政治学科には岡本清一、数え上げれば時間が足らないほどの錚々たる教授達が同志社のキャンパスを自由・自治・平等・平和・護憲・民主主義擁護のリベラルで革新的な文化・校風を形成し、その環境の中で我々学生は大学生活を繰り広げたわけです。勿論、これらのリベラルな同志社精神や教育方針が、「一国の良心」たる人物を要請する目的で、1864年(元治元年)国禁を破って鎖国の日本を脱出し、アメリカのアーモスト大学で日本人初の理学士の学位を収得し、100年前の明治8年、京都に同志社英学校を創設した新島襄の歴史が基礎に在ります。

ヴェトナム反戦運動に参加したのは、ちょっとした事件がきっかけでした。二回生の春、小、中、高校と運動会のフォークダンス以外手も握ったこともないのに、誘われて女子学生とダンスパーテイに行くことになりました。今出川河原町から四条まで、市内何処まで乗っても15円の市電に乗って 四条河原町まで向かいました。すると、市電の横を学生100人ばかりの反戦デモが通りました。後でわかるのですが、鶴俊と作家の小田実が始めた「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」だった、らしい。二列か三列のデモ隊を警備する京都府警の機動隊が、大人しく整列してヴェトナム戦争と日本政府の戦争加担に抗議するデモ隊の学生達にちょっかいだし、ちょっとしたイザコザを電車の中から見物していました。ところが、よく観ると学生たちに対してちょっかいだしているのは機動隊の方。「卑怯やないか」とカチンときて、文句言ってやろうと彼女を残して突然電車をおりました。機動隊をそばで見ると怖くなって、何も言えなくなり、引き返そうと電車を見ると彼女を積んだまま走り去っていた…。それから2、3週間して、明徳館前の反戦集会に行きヴェトナム反戦・日本政府戦争加担抗議デモに参加した。しばらくして、此春寮の藤本敏夫さんの部屋に呼ばれ、学友会・自治委員選挙に出るよう説得されました。アジテーションなどしたこともなかったが、英文科の上級生の横山たかこさんに付き添って選挙活動。当選して文学部自治委員。それまで執行部を握っていた共産党の学生組織、民主青年同盟(民青)の文学部自治委員数を抜き、「反民青」の新しい執行部となりました。60年安保闘争敗北で日本共産党や社会党から袂を分かった、後の三派全学連を指導する社学同、社青同、中核派などの事ですが、複雑でわたし自身にも解らないことばかりですから省きます。新しい執行部でわたしは文学部自治会書記長に選出されました。

ヴェトナム反戦運動がどんどん先鋭化する中、1967年10月8日、佐藤栄作首相のヴェトナム訪問を阻止する「羽田闘争」があり、そこで京都大学生の山﨑博昭さんは機動隊に撲殺され命を落とし、それは60年安保闘争の樺美智子さんの死と重なり、先鋭化した学生運動の参加者たちは党派ごとに赤ヘルメット、青ヘルメット、白ヘメットを被り、それは抵抗と防衛の象徴することになりますが、以来「平和と護憲」の先鋭化したラジカルな私達は「暴力学生」として否定的な取り扱いを受けるようになりました。因みに、誰が選んだのか知りませんが、同志社の学生運動は赤いヘルメットになっていました。

すぐ1968年1月アメリカ原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保寄港反対闘争に継続されます。佐世保に行く前に、神戸のアメリカ領事館への抗議行動があり、わたしは生まれて初めて逮捕され、三日間の留置所拘留となりました。出所の時に迎えに来たのは同志社大学学生課の田淵正孝(故人)さん一人でしたが、京都の北白川のレストランで、「出所祝い」(?)と美味い飯を食わせてくれました。田淵さんはそのあと同志社大学の総務部長となりましたが、同志社のリベラリズムを象徴している一例のようにも思います。

1968年は10月21日の国際反戦運動に象徴されるように、ヨーロッパ、北アメリカ、日本を含むアジアで、ヴェトナム反戦運動が燃えさかりました。この年の春の新学期に行われた全学部自治会選挙では、わたしは学友会中央委員長に選ばれ、全学学生大会で、10月21日同志社は全学ストライキを決議し、ヴェトナム反戦・国際反戦運動に加わりました。ヴェトナム反戦・国際反戦運動の盛り上がりは、翌69年の東大・日大を頂点とする各地の学園闘争に引き継がれていきましたが、それは権力との対決に於けるダイナミックで過激な「ラジカリズム」として変化・展開されました。羽田、佐世保、新宿、各地の街頭で、キャンパス内で、機動隊との対立、解体が進み、学生運動の終焉へと向かいました。

同時に学生運動の急進性・ラジカリズムは「革命運動」とそれを指導する革命党の建設を巡る学生運動の指導者たちの論争、いわゆる党派・党内、三派セクトの学生運動の指導権争いともなったわけです。そして、60年安保後の日本共産党の指導部から離れた新左翼・三派全学連の指導部内の内ゲバを伴う党派闘争が起こったのは皆さんが承知している通りです。党派・党内闘争は、同志社の学生運動の「学友会委員長」としてどのように捉えるのか、今日のわたしには判らないとしか言いようがありません。

そもそも、70年安保闘争が三派の言う、「日本の労働者の社会主義・共産主義革命」の成熟があって方針を叫んでいるのか、わたしは疑問視していました。この革命論から、同志社のラジカリズムを語ることはわたしにはできません。

実は11年前に「学友会倶楽部のホームカミングデーの集い」がもたれました。主催者はわたしの前の1967年学友会中央委員長だった堀清明さんで、講演者に呼ばれたわたしはニューヨークから飛んできました。講演の後、質疑応答の際に、若い出席者から、「今日の学生運動が低調で活発でないのは,60年代終わりごろの内ゲバを伴ったあなた方世代の党派・党内闘争で、一般大衆を無視した行動ではなかったか?」というような発言でした。ズバリ的を射た質問だと直感したわたしは、沈黙したまま答えることができませんでした。沈み返った「良心館」のこの同じ会場で、「その通りです…」とぼそぼそ声を出すのが精一杯でした。「大学解体!」を叫んだ学園闘争末期のスローガンは、極めて「自己否定」的ではありましたが、哲学的な深さに対応したわたしが取り得た唯一の行動は、同志社を卒業しない、ことでした。

この辺のわたしの個人的な考え、行動は鹿砦社が出版してくれた『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(2014年)と『ヤタニ・ケース:アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』(2023年)に載せてあります。

卒業証書を持たずに大きな青年が仕事を探すと、高度成長期の日本に在ってもなかなか大変な境遇でした。たまたま見つかって翌日出社すると、「先ほど、警察の人がいらっしゃって話を聞いたが、君を雇うわけにはいかんわ」と。運よく拾われて仕事に励んだら、学生時代に無理したことで結核と腎臓病に侵され、一年半の入院。退院したが、肉体労働は無理だと医者に言われ、受験生用にと部屋を借りて「私塾」を開くと、そこの家主が大阪府警の警察官だったり…。

日本で仕事をするのは無理だと、決心して日本脱出。1977年アメリカはユタ州の州立大学に「海外留学」しました。日本の大学は無理でも、まだ「解体されてないアメリカの大学に入るのは許される」と詭弁を弄してでした。わたし達の同志社創設者・新島襄の日本脱出ほど危険は無かったけれども。生まれ育てられた日本に31年間、アメリカで48年間暮らしてきました。同志社のリベラリズムに育てられたけれど、そのリベラリズムを纏ってアメリカに遣って来たわたしだったが、アメリカ政府から「undesirable alien」(アメリカに好ましくない異邦人)として今日でも「ブラックリスト」に載ったままです。とりわけ、トランプ大統領のアメリカではグリーンカード(Green Card:永住権を持つ労働許可証)持った外国人でも保証のない排外主義が2025年の今日吹き荒れています。

Ж下の写真は2013年のホームカミングデーで来日した際、講演がが終わった後、ライブで京都に来ていた加藤登紀子さんが祝ってくださった時のもの。左から矢谷、加藤、松岡。京都四条・キエフにて。

【筆者について】
1946年生まれ。島根県隠岐の島出身。1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指揮。1年半の病気療養などのため同大中退。77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得。85年以降、ニューヨーク州立大学等で教鞭を執る。86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。