「私はあなたの意見には反対だ。 だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(ヴォルテール)

『週刊金曜日』6月16日号掲載広告問題続報 ── たった1冊の本の広告で10数年続いた鹿砦社広告掲載を打ち切り! 

創業50年余の苦闘の歴史で培った〈タブーなき言論〉に立脚し、芸能から社会問題まで左右硬軟織り交ぜて多種多様に出版するという鹿砦社の出版スタンスが理解されず、左翼教条主義に凝り固まった『金曜日』を乗り越え、月刊『紙の爆弾』はじめ多種多様な出版をさらに推し進めます! 株式会社 鹿砦社代表 松岡利康

6月29日付けの本通信に関連しますが、『週刊金曜日』6月16日号掲載の鹿砦社広告(別掲)ついての続報です。

7月7日に『週刊金曜日』発行人兼株式会社金曜日社長の植村隆氏が鹿砦社本社を訪れ、10数年続いた鹿砦社広告を今後は打ち切ることを告げられました。6月16日号が最後の鹿砦社広告となりました。

『週刊金曜日』6月16日号掲載鹿砦社広告

◆『週刊金曜日』への広告掲載について

問題とされる、5月23日発売の『人権と利権──「多様性」と排他性』(紙の爆弾6月増刊号)は、総じて評価も高く、発売直後から売行きは快調です。元々フォロワーが多い編者の森奈津子さんがTwitterで積極的に発信されたことで、発売直後Amazonから700冊余の発注があり、その後在庫切れの状態が続くや、私たちの意に反しAmazonでは2倍以上の高値を付けて出品されているほどです。

ところが、発売後1カ月近く沈黙していたColabo仁藤夢乃代表が6月19日突然、その表紙とグラビアに対し言い掛かりをつけてきました。Colabo問題について言及した須田慎一郎さんと森奈津子さんの対談に対してはまったく批判も言及もしていませんが、せっかくならそこまで批判、言及していただきたかったものです。

仁藤夢乃Colabo代表の6月19日付けツイート

この仁藤代表のツイートを合図に、仁藤代表とつながりの強いColabo弁護団・太田啓子弁護士や影書房らが先頭になりColabo支持者らによって、対談者の一人、加賀奈々恵(ななえ)埼玉県富士見市議に対してネットリンチをするに至り炎上した感があります。

さすがに、こうしたことで長年の有力な支援者がColaboへのカンパを停止するに至ったといいます。加賀市議は、その直後コロナに罹り療養されていますが、彼女への激しいバッシングを私に向けるために6月23日付けの「緊急アピール!」を発信した次第です。

Colabo支持者、特に影書房や太田啓子弁護士らによる加賀市議に対するネットリンチを植村社長はどう思われるか、あらためて明らかにされたい。

さらに『週刊金曜日』6月16日号に掲載した鹿砦社広告の4分の1のスペースにすぎない『人権と利権』の部分に対しクレームが殺到し、あろうことか『金曜日』の植村隆社長(慰安婦訴訟の代理人かつ事務局長はColabo弁護団の一人でもある神原元弁護士)が、広告主や編者を飛び越して、編集長ともども仁藤代表を訪ね謝罪しています。株式会社対株式会社間の取引に於いて、商習慣上、道義上、信義上、長年有料広告を出広してきた鹿砦社を先に訪問し協議するのが筋でしょう。順序が逆です。植村社長はビジネス経験が皆無の中、社長職に就かれたことで世事に疎い方のようです。

世事に疎いといえば、植村氏が『金曜日』の社長に就任された直後、鹿砦社は歓迎の食事会を東京ドームホテルの高級日本料理店の個室で準備しながらも、待てど暮らせど現われず、来られたのは約束の時間から40分ほど後でした。お店の方も料理の準備があり渋い表情をされていました。常識的にこれはない!さらには、私たちが友好の気持ちを込めて歓迎会を催したのですから当然料金は私たち鹿砦社が全額支払うべきで、そのつもりだったのですが、何を思われたのか、割り勘にしてくれと言われ、とんだ大恥をかきました。ビジネス上の常識がわからない人とは付き合えないな、と思った次第です。

ここで、ちょっとした行き違いがあったことを申し述べておきます。

6月23日(金)夕方、植村社長からお電話があり、『人権と利権』が載った広告で抗議が殺到し困っているという主旨でした。午後にもあったそうですが、私は神戸にちょっと大事な取材に行っており、帰社してから2度目の電話で話しました。この際、植村社長は、「謝罪文を出す」旨言われたということでした。私にこの記憶がなく、おそらく「言われた」というのであれば言われたのでしょうが、私は取材から戻って疲れていたこと、来客中だったこと、あるいはまさかすぐに謝罪文を出すとは商習慣上も道義上も信義上も思ってもみなかったことなどで、それを聞き逃がしていたかもしれません。

週が明けた6月27日(火)午後15時29分、私のほうから植村社長に、
「せっかくおみえになるのですから、議論を密なものにするために、
(1)どこがどう問題なのか具体的にご指摘ください。事前に(前々日ぐらい前までに)メールで送ってください。
(2)抗議のメールやファックス等をお示しください。当日コピーをご準備いただければ幸いです。」
とメールしました。植村社長が当地に来られて諸々「議論」するのかと思い込んでいましたので、(1)のような文言となったのです。

すると、同日18時19分に植村社長から、
「メールありがとうございます。
お電話で先日説明しました通り、『週刊金曜日』6月30日号『おわびの社告』を出します。本日、同号が刷り上りましたので、『おわび』の部分のコピーを添付で送らせていただきます。」
との返信メールが届きました。

一気に「おわびの社告」を『週刊金曜日』6月30日を掲載することを聞き逃していて、同誌6月30日号に「おわびの社告」が掲載するとあり驚いた次第です。

そして、もっと驚いたのは、仁藤代表と植村社長の2ショット画像が仁藤代表のツイッターに掲載され、仁藤代表の“勝利宣言”ともいえる一文が27日夜に発信されていたことです。これは知らず、翌28日、ある方が教えてくれて知った次第です。当初から、広告主の鹿砦社とは話し合うつもりはなかったのですね。本社訪問は善後策を話し合うのではなく、広告掲載打ち切り(取引停止)を伝えに来られたということでしょうか。

[左]『週刊金曜日』6月30日号掲載「おわび」。[右]Colabo仁藤夢乃代表の『週刊金曜日』に関する6月27日付けツイート

とはいえ、植村社長が、電話一本、メール一本で通告するのではなく、わざわざ東京から関西の鹿砦社本社を訪問され誠意を示さたことには敬意を表します。

植村社長は、前社長の北村肇さん(故人。私と同学年)の指名で社長に就任されたと認識していますが、北村さんと私との合意で開始した『金曜日』への広告出広が、こういう形で今後なくなるというのは遺憾です。広告出広をどちらから持ち掛けたか、確たる記憶がありませんが、定期購読者が減ったり200万部の超ベストセラー『買ってはいけない』で得た“備蓄米”(資本蓄積)も底が見えてきたような時期でしたので、北村さんからの提案だったのではないかと思います。そうでないと、私から敷居の高い『金曜日』に広告を出させていただくという話にはならないでしょう。

北村さんは、『サンデー毎日』編集長時代、「芸能界のドン」といわれたバーニングプロダクションと、この創業者社長・周防郁雄追及キャンペーンを張り、『週刊文春』の告発以前の1990年代半ばからジャニーズ事務所と、この創業者社長・ジャニー喜多川の未成年性的虐待を追及してきた私たち鹿砦社のスタンスを理解され、学年も同期ということもあり懇意にさせていただきました。つまり、お互いに芸能界のメディア・タブーを追及したことへの共感です。

そうして、死期が近づいていた頃、私が上京した折、長く時間を割いていただき、これが生前お会いした最後となりました。北村さんからは「私がいなくなっても『金曜日』をこれからもよろしく」と言われ、「勿論です。広告もこれまで通り続けます」と返したことを覚えています。

北村さん、御意に添えないことになりましたよ。『金曜日』にはもう広告を出せず残念でなりません。

『金曜日』前社長・北村肇さん(故人)

◆『人権と利権』への評価と誤読・誤解

本書『人権と利権』は、ちょうど「LGBT理解増進法案」の国会審議に入る時期とも重なり、永田町界隈ではよく読まれていたようです。このことにより、編者の森奈津子さんが突然、参議院内閣委員会参考人質疑前日朝に電話で依頼があり参考人として呼ばれ発言しています(この評価についてはここでは述べません)。

そういうことが複合的に次々と起こり話題を呼んでいて、結果売上に貢献したようで皮肉なものです。

さて、植村社長が仰るように果たして『人権と利権』は「差別、プライバシーの侵害など基本的人権を侵害するおそれのあるもの」でしょうか? 私はそう思いません。各々の世界でそれなりの経験も名もある何人もの方の力を借りて一所懸命作った本をそう詰(なじ)られると力が抜けます。

私や森さん、その他の対談者、寄稿者らは、きのうきょう出てきた編集者や作家、研究者、ジャーナリストではありませんから、「差別」や「プライバシーの侵害」のイロハぐらいは周知しています。私は1970年代、狭山裁判が盛り上がり、同時に糾弾闘争や八鹿(ようか)高校事件以来差別問題については私なりに長年思慮してきました。八鹿高校事件では私の大学の先輩が暴行を受けたことで尚更です。

また、グラビアページで仁藤代表の顔写真を撮影し掲載したことを「肖像権の侵害」だとおっしゃっていますが、これは(仁藤代表のような)著名人や公人は、自らが大衆の強い関心の対象となる結果として、必然的にその人格、日常生活、日々の行動等を含めた全人格的な事項がマスメディアや大衆等による紹介、批判、論評等の対象をなることを免れませんから、そして表現の自由や言論・出版の自由が優先し、それを「肖像権」の名の下に拒絶、統制したりすることが許されない場合がありえます。これには確立した判例もありますが、おそらく植村社長が過去に在籍した朝日新聞でも、あるいはAERAや他社の週刊誌なども、そうした考えを元に、時に隠し撮りを行ったりし、紙面での写真掲載をなされていると思われます。そうでないと、写真一枚一枚被写体の人に許諾を取らないといけなくなります。無名の市井人ならいざしらず著名人や公人にとっては受忍の範囲内です。『人権と利権』に限らず、これまでこうした取材やグラビア、本文構成など行ってきました。植村社長にはお見せしましたが、ある本では、東電の勝俣会長が早朝、孫と自宅周辺を散歩しているところを隠し撮りし直撃取材を行っています。こうした取材はどこの雑誌も行っています。植村社長のような海千山千の新聞記者を経験された方が何を仰ってるんですかね。

思い返せば、これまで創業50年余の鹿砦社(関連会社のエスエル出版会含め)が出版した書籍・雑誌は年間100点として(50年余の社史の中で前半はさほど多くありませんでしたので)単純計算で3千点ほどになるでしょうか。そのうち『人権と利権』のように私が直接的に手がけた本もそれなりの数になります。芸能から社会問題まで、まさに多種多様、玉石混交で、内容的に良い本もあれば、そうでない本もありました。それでいいんじゃないでしょうか。忘れている本はほとんどなく、一冊一冊に想い出があります。出版差し止め(5回!)や訴訟になった本も何点かありますが、それがどうしたというのでしょうか。『金曜日』も敗訴した事件もありました。植村社長自身も、いわゆる慰安婦訴訟では敗訴が最高裁で確定していますよね。来社された際に対李信恵訴訟で敗訴したことを仰っていたので一応記しておきます。裁判所(官)と市民感覚が乖離する現今の司法にあって、敗訴は恥ずべきことではありません。

長年多くの訴訟を争いましたが、時に裁判所は市民感覚とずれている場合が往々にしてあり、裁判所の判断がすべて正しいとはいえず、冤罪や「報告事件」(植村社長、ご存知ですか?)もあります。18年前のちょうど今頃の7月12日に「名誉毀損」容疑で私が逮捕された際の対象の『アルゼ王国はスキャンダルの総合商社』という本もありました。一時ある大学の非常勤講師を拝命され、学生全員にこれを配布し後日意見を聞いたところ、問題はないという意見がほとんどでしたが、裁判所では刑事で懲役1年2カ月(執行猶予付き)の有罪、民事では賠償金600万円の判決が下され確定しました。

『人権と利権』が特段問題になるとは思えません。

本書について、ある方は次のようなメールを送ってこられました。

「わたしは、『人権と利権』はLGBT問題を提起した優れた本だと考えています。
 もちろん全ての発言や記述に同意するということではありませんが、ひとそれぞれに異なった読後感や受け止め方があるわけですから、細部にまで強いこだわりを持てば、出版企画そのものが成立しなくなります。多様な言論を尊重するのが、鹿砦社のスタンスですから、今回の企画も何の問題もないと思います。」
 
こういう評価もあるのですから、一方的に自身の価値観=左翼教条主義で「差別、プライバシーの侵害など基本的人権を侵害するおそれのあるもの」と本書『人権と利権』を断じられることには賛同できません。『週刊金曜日』という雑誌、植村隆という言論人は、そんなに度量が浅かったのでしょうか!? 太っ腹だった北村さんとは大違いです。

一昨年末の『抵抗と挫折の狭間──一九七一年から連合赤軍へ』(『人権と利権』と同じ「紙の爆弾増刊」)以来久し振りに企画から原稿や対談を依頼し、一時は失明の危機にあった目の疾患をおして編集実務まで関わり、多くの方々の力を借りて完成させることができました。売行きも快調、多くの方々の評価も悪くない中で、皆様方には素直に受け入れていただき、その上で喧々諤々議論して欲しかったところです。

言論人、出版人であれば誰でも知っているヴォルテールの有名な言葉、「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を、あらためて『金曜日』と植村社長に捧げます。今回の『金曜日』の処置〈排除の論理〉は、ヴォルテールの精神に反し、今後禍根を残すことでしょう。

後日、問題箇所を書面で送っていただけるということですのでお待ちしたいと思います。

◆『人権と利権』出版の経緯

以下、本書を出版するに至る経緯を申し述べます。

① 昨年11月、対藤井正美訴訟(藤井は元鹿砦社社員でカウンター/しばき隊の中心的活動家。ここでは詳しく述べませんが、本通信バックナンバーや大学院生リンチ事件関連書を参照してください)が終結し、すべてのM君リンチ事件関係の訴訟が終わり、ホッとしていたところに、M君リンチの加害者側に立って弁護した神原元弁護士らが元ゲームクリエーター暇空茜(仮名)さんに対し、有名になった「リーガル・ハラスメント」だとして訴訟を起こしたと記者会見、「Colaboと仁藤夢乃さんを支える会」が結成され、その賛同人に李信恵、辛淑玉、北原みのりらМ君リンチ事件加害者とこれに連がる者たちが名を連ねていることで自然と注目しました。

それまでColaboについては、その活動舞台が東京だったこともあり、詳しくは知らなかったのですが、私なりに調べたら1千万円単位の大金(補助金)が毎年どんどん入っていることに驚きました(問題になった2021年度は2600万円。22年度は4000万円余とされますが、この会計問題は不明)。他のボランティア団体やグループは、自己負担で慎ましくやっているところがほとんどで、なんでColaboや、Colaboと連携する「ぱっぷす」「若草プロジェクト」「BONDプロジェクト」ら一部の団体だけが優遇されるのか、疑問を覚えました。

また、ちょうどコロナで猶予されていた国税の納税に四苦八苦し(零細企業の鹿砦社の規模で毎月最低150万円、時に250万円納付)、これがあと1回でようやく終わりに近づいていたところで、苦しんで税金を払ったのに、一方で簡単に公金を手にし杜撰な使途と管理をしていることに怒りさえ覚えました。暇空さんが公金の使い道に疑問を持ち、この住民監査請求を行ったことは理解できました。おそらく神原弁護士や李信恵らが関わっていなければ注目することもなかったかもしれません。

② 年が明けると「LGBT理解増進法」の成立がリアリティを帯びて来ました。LGBT問題と同法について、Colabo同様、それまでほとんど真剣に考えてきませんでしたし、同法の内容にも無知でした。今でもまだ十分に理解しえていないところがありますが、「性の多様性」「マイノリティの人権」などの美名に惑わされ、この裏を知るにつけ、疑問は沸くばかりでした。ここでも利権が発生しています。ColaboにしろLGBTにしろ裏では利権だらけではないか。この法律が利権団体の集まり「LGBT法連合会」+野党案で成立すれば、世の中、大変なことになると思いました。加えて、中核派の区議が反対した東京杉並区のように地方・地域行政では先行してLGBT条例がどんどん成立したり利権団体が侵食しつつあり、公教育への進出や女性トイレの廃止などの現実も知りました。果たしてこれでいいのか? まだコロナで落ち込んだ会社立て直しに四苦八苦しているさなかでしたが、疑問がどんどん煮詰まり居ても立ってもおれませんでした。

「LGBT理解増進法」は、利権団体の集まり「LGBT法連合会」、超党派の国会議員の集まり「LGBT議員連盟」(岩屋毅会長=自民党、稲田朋美副会長=自民党)らが右、左関係なく蠢き、国民的な議論も合意もなく短期間の審議で通ろうとしていました。岸田首相の側近の失言や首相謝罪、駐日米大使のプッシュなどで「LGBT法連合会」などはみずからが盛り込んだ法案で、首相側近の失言と首相謝罪をいいことに与党も抱き込み国民にあまり知られる前に成立させたかったとさえいわれています。

③ この「LGBT理解増進法」の野党案は「LGBT法連合会」の意向を100%丸飲みした「性自認至上主義」(トランスジェンダリズム)に基づく極端なもので、これまでの日本の文化や規範などを全否定し、女性トイレの廃止(ジェンダーレストイレへ)、女子更衣室、女湯の問題など女性・女児の人権、安心・安全を保障せず、さらに男女の肉体的性差を顧みず同等に争わせる女子スポーツの問題……こうした問題を曖昧なまま成立されようとしていました。この私の疑問は、最近意見を明らかにされた白井聡、倉田真由美らと似ていて、人間考えることは同じだと思いました。

結局、自民、公明、維新、国民4党の「与党案」が成立しました。議員連盟がどう動き幹部の岩屋、稲田議員らがどちらに投票したかは不明です。「性自認至上主義」に歯止めを掛けたことには一定の評価ができるかもしれませんが、上記したように短期間に決めるべきではなかったと今でも思っています。しかし「野党案」と「与党案」の2択しかなく、もっと時間を取り議論を尽くし女性・女児の不安を払拭し内容豊かなものにすべきだったのではないでしょうか。政治的妥協で2択しかない中で「与党案」が成立してしまいました。今後は、この「与党案」を元に成立した法律をどう改善していくべきか、もっと広く周知させ国民的議論を尽くすべきだと考えます。女性トイレにしろ更衣室にしろ女子スポーツにしろ身近な問題なのですから。少なくとも『人権と利権』は、そのために賛否はあれど問題提起したと自己評価しています。

④ 本年初めからColabo問題とLGBT問題が切迫化してきつつある中で、こうした問題に真正面から取り組んだ本もほとんでないことから、本年2月から動き出しました。当初、企画から寄稿、対談の交渉まで私が行い、『季節』春号校了後からは同誌編集者のK君にも手伝ってもらい、さらに「虎の威」を借りようと、著名な作家でLGBT問題にも詳しく、これまで多少の面識があった森奈津子さんにも参画いただき「編者」として協力していただきました。森さんとは、これまで小さな仕事しかやってもらってはおらず、さほど親しい付き合いでもなく、丸々一冊やってもらうのは『人権と利権』が最初でした。

私たちは手当たり次第に対談や寄稿の依頼を行い、年度末の慌ただしい時期もあったりして、ことごとく断られました。こうした中で、Colabo問題を追及していた須田慎一郎さんが対談を承諾され、そうこうしているところで必死に女性・女児の人権、安心・安全、女性トイレ廃止などの問題を訴えていた加賀奈々恵市議の動画を偶然見て感銘を受け当たってみたところOKをいただきました。

さらに、三浦俊彦東大教授が寄稿を、橋本久美元豊島区議が対談を引き受けてくださいました。

他にも入ってほしかった方もいますが、欲を言えば切りがありません。森さんはじめ皆さん方に、頑張っていただき「短期間でよくやった」と自己評価しています。

以上が、私が『人権と利権』を出版するに至る経緯です。ともかく、前記したようにColabo問題が社会問題化し「LGBT理解増進法」が成立しようということに対して問題提起することが目的でしたし、たとえ不十分ではあったにせよ、少なくともそれは果たすことができたと、認識しています。

⑤ 『人権と利権』の対談等を開始した当初、「LGBT理解増進法案」は「連合会+野党案」が脚光を浴び、与党や議員連盟もこれに乗り決まるのかと思っていました。それは「性自認至上主義」(トランスジェンダリズム)そのもので到底支持できるものではありませんでした。

野党3党(立憲、共産、社民)がなぜ「性自認至上主義」(トランスジェンダリズム)に毒され、これ以外の案を出せなかったのか、理解できません。野党がもっと女性の意見を聞き、これを法案に反映させていたならば、もっと支持を得たでしょうが、そうではなくLGBT利権団体の主張を100%丸飲みしてしまったところも問題です。マスメディア総体、なかんずく『金曜日』や植村社長らも「LGBT当事者」と表現されますが、私から見れば「LGBT利権団体」としか思えません。「LGBT当事者」といえば森さんらもそうで、他にもたくさんいますが、「LGBT利権団体」の一部エリートが無名無数の「LGBT当事者」の声や想いを代表しているとは言い難いと私は思います。

さすがにこれではいかんだろうと出てきたのが、のちに決まる与党+維新・国民案です。このあたりは政治的思惑も入り乱れて、複雑で、すんなりと理解できません。ここにも私たち国民総体の理解がなされない一因があるようです。

先の国会で「LGBT理解増進法」が成立した事実は事実として認め、今後国民的な議論を尽くし、より良い法律に改変、豊富化されていくことを望みます。この場合でも、一部団体への利権は排していかなければなりません。

◆とりあえずのまとめとして──

長く書き連ねてまいりました。そろそろまとめに入りましょうか。

『人権と利権』に於いて私たちは、これまで〈聖域〉とされメディア・タブーとなっていたColaboとLGBTの問題に触れ、時に厳しい批判を行っています。私たちは「攻撃」(「ヒラ社長が行く)など行っておらず、あくまでも批判、公正な論評を行ったつもりです。それを「攻撃」と詰られれば、何とも言えませんが、『週刊金曜日』や書籍・ブックレットなどで丸ごと反論していただくことを望みます。

『週刊金曜日』7月7日掲載「ヒラ社長が行く」

植村社長らは、ColaboやLGBTが絶対善として思い込み、これらをちょっとでも批判することは許さない、たとえ小さな広告でも許さない ── まるで言論統制です(広告も言論です)。

『人権と利権』という本が『週刊金曜日』という、権威あるオールド左翼雑誌によって事実上「ヘイト本」「差別本」認定され、編者の森奈津子さんも「ヘイト本作家」、鹿砦社も「ヘイト出版社」の汚名を着せられました。遺憾なことです。逆の評価もありますから救われますが、定期購読1万人(植村社長談)の影響力ある老舗雑誌にそう認定されたのですから、影響は決して小さくありません。「ヘイト出版社」には「ヘイト出版社」の意地があります。不当な〈排除の論理〉に抗し、創業50年余の苦難の歴史で培ってきた意志を持って、私たちは私たちの道を突き進み汚名を払い除けねばなりません。

さて、編者の森奈津子さんについて少し触れておきます。

森さんといつ出会ったか記憶にありませんが、2018年に「デジタル鹿砦社通信」にて6回インタビュー記事を掲載していますので、この前だと思います。その後、「デジタル鹿砦社通信」に11回連載し、これは『人権と利権』に再録されています。また、大学院生リンチ事件関連本『暴力・暴言型社会運動の終焉』に9ページほど寄稿いただいています。『人権と利権』まではそれぐらいですで、『人権と利権』が当社では初めてのまとまった仕事になります。

森さんもみずからカミングアウトされていますが、森さんのお連れ合いは難病で森さんが24時間介護をやっておられることと、森さん自身乳がんで片方の乳房を切除していながら、このような困難な情況にも負けず頑張っておられます。しかし、森さんの言論活動をよく思わない一部の者が、こうしたことを揶揄し非難しているツイートを見かけます(特に共産党党員、及び同党支持者)。「人権」を嘯くなら、これはいただけませんし、即刻やめるべきです。

昨今亡くなりましたが、現在、鈴木邦男氏は、右左関係なく評価されています。私たちが氏の代表作『がんばれ!新左翼──「わが敵・わが友」過激派再起へのエール』(1989年)を出版した頃は、(特に新左翼周辺から)かなりバッシングされました。理解者や味方はほとんどいませんでした(リベラル/左派系で理解者といえば遠藤誠弁護士、筑紫哲也、田原総一朗氏ぐらいでしょうか。遠藤、筑紫氏は故人)。ちょっと似たケースです。

『人権と利権』、そしてこの編者・森さんは、しばき隊系は無論、いわゆる「リベラル」「左派」「野党」系からもバッシングの嵐にありますが、いつか「リベラル」「左派」「野党」系の方々の中から理解される日が来るものと信じています。今でも一部理解されている方はいますがごく少数です。

最後にもうひと言──。「顰蹙は金を出してでも買え」とは、カリスマ編集者の幻冬舎・見城徹社長の有名な言葉ですが、『人権と利権』がオールド左翼雑誌と左翼教条主義者らに「顰蹙」を買ったのであれば、まさに言いえて妙だといえるでしょう。(本文中、一部を除いて敬称略)

※読者の皆様へ。長い文章となりました。一所懸命書きました。最後までお読みくださり有り難うございました。事実誤認の箇所など発見されましたらご指摘ください。また、誹謗中傷ではなく、前向きなご意見、ご批判もお寄せください。

送り先:matsuoka@rokusaisha.com ファックス 0798(49)5309 です。

植村社長へ。7月7日の面談で、6月23日のような記憶違いや誤認などがございましたら、ご指摘ください。
 
株式会社 鹿砦社 代表
松岡利康

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)。最寄りの書店でお買い求めください

◆「解散・総選挙」騒動

昨年7月、参院選での圧勝により、自民党は、「黄金の三年」を迎えた。向こう三年間、国政選挙なしに好きに政治ができると言うことだ。

一方、長期に渡り続いて来た自民、公明の選挙協力には、ひびが入って来た。自民側の選挙での協力拒否に怒った公明側が東京都での自民との選挙協力について破棄を言い渡してきたのだ。

岸田首相の口から「解散・総選挙」の話が漏れたのは、そうした中でのことだった。

「寝耳に水」とはこのこと。誰もがこの報には耳を疑った。特に慌てたのは、当の自民党だったのではないのか。「こんな時に総選挙をなぜやるのか。敗北必至だ」という声が挙がる一方、親米派第一人者、麻生太郎氏からは、「一人でできない奴は資格がない」という声が挙がるなど、党内は右往左往だ。

自民党、そして全政界を巻き込んだすったもんだの末、「今国会中は選挙はやらない」の岸田首相の言により、ひとまず一件落着。「選挙は秋の臨時国会終了後」ということで収まっているかに見える。

だが、火はまだ完全に消えたわけではない。それより何より岸田首相は、なぜあんなことを言ったのか、疑問はくすぶったままだ。

◆今なぜ「解散・総選挙」なのか

「解散・総選挙」。この岸田発言をめぐって考えられるのは、「様子見」だ。そのように言えば、政界はどう動くか。反応を見ることに目的があったのではないのか。

もちろん、岸田首相自身、「様子見」をすることは有り得る。だが、その場合の、政界、自民党内、あるいは国民の間での反響など、首相にとってのマイナス面は小さくない。

では誰か。岸田氏でないとすれば、誰の意図、誰の要求から、あの発言はなされたのか。そう考えた場合、考えられるのは、やはり「米国」しかない。米国側の何らかの示唆により、岸田首相が「解散」を口にしてみた。これは十分に有り得ることだ。

この辺りから、話は完全に、私個人の独断と偏見になっていくのだが、もし仮にそのようなことがあったとしたなら、米国は一体なぜ、何のためにそうしたのだろうか。

そこで考慮すべきは、今、米国がその覇権回復戦略として、「米対中ロ新冷戦」を敢行して来ており、日本をその最前線に押し立てて来ているという事実だ。

この「新冷戦」にあって、米国は、「民主主義陣営」と「専制主義陣営」、二つに世界を分断し、後者を包囲する一方、前者に属する同盟国、友好国を米国の下に統合することにより闘いを有利に進めようとしている。中でも日本との統合は、あらゆる意味で、その模範として決定的な意味を持つ。駐日米大使に「剛腕」で知られる元大統領首席補佐官、ラーム・エマニュエル氏を据えて来たのもそのためではないのか。

今、鳴り物入りで宣伝されたウクライナによる「5月反転攻勢」が行き詰まり、戦争がロシアペースで長期化の様相を強める一方、「新冷戦」で米国が中ロとの二正面作戦に耐えられず、中国との和解に出ざるを得ず、G7でのインドやブラジルなど、グローバルサウスの国々の引きつけにも失敗して、非米主権国家群が米国との距離をさらに大きくしている今、米国にとって、日本との統合は、一層急を要する切実なものになっている。

こうした時の「解散・総選挙」は、当然、それを促進するものになるはずだ。だが、執権党、自民党にとって、当面の「解散・総選挙」は、先述したように、決して有利ではない。むしろマイナスの面が大きい。自民党内から懸念の声が挙がったのはそのためだ。ではなぜ、米国は「示唆」をしたのだろうか。

◆狙われる「政界再編」

今、「解散・総選挙」があった場合、一番有利だと目されているのは日本維新の会だ。一挙にその議席数は、倍増するのではないか。一方、他の諸党はよくて微増。自民党に至っては、公明党との不調の中、下手をすると大幅に議席を減らす可能性すらある。

こうした中、岸田首相に「解散」を示唆したとするなら、米国の狙いは何か。

それについて、この間、見えてくるものがある。それは、「政界再編」への動きだ。

小沢一郎氏が立憲民主党、国民民主党、そして自民党などの国会議員に呼びかけてつくった「一清会」(15人)、前原誠司氏が国民民主党、日本維新の会、立憲民主党、そして自民党など超党派で募った台湾行きの代表団、この立て続けに現れた政党、党派を超えた動きは何か。これと「解散・総選挙」は連動しているのではないか。

元来、この数年、国政、地方政治を通じて、その選挙をめぐり自民党内の分裂は甚だしいものになっていた。党中央と地元の対立、派閥間の抗争、それが中央の統制を聞かず激化し、党内分裂選挙が常態化してきていた。

こうした中、自公の選挙協力が破綻したらどうなるか。自民党の分裂、さらには立憲民主党や国民民主党の分裂までそれが波及して大きな政界再編にまで発展する可能性はすでに十分すぎるほど熟している。

そこで考慮すべきは、その政界再編が何をめぐって推し進められるようになるかだ。

先述したように、今、日本に提起されている最大の問題は、日本が「米対中ロ新冷戦」の最前線に押し立てられ、それとの連関で「日米統合」が要求されてきていることだ。それを置いて他にない。実際、安保防衛から経済、教育、地方地域、社会保障とあらゆる部門、領域にわたって、日米の統合に向け、各種改革が要求され、敢行されてきている。新設された自衛隊統合司令部やデジタル庁だけではない。すべての大手企業や大学、地方自治体に至るまで、指揮と開発の日米統合が強行されてきている。

それが日米間の激しい摩擦を陰に陽に生み出さないはずがない。事実、トヨタなどで会長職の人選をめぐり、米助言会社の方から豊田章男会長をはずせとの「助言」が入り、それにともなう米系株主の動きが見られるなど、熾烈な日米の攻防が繰り広げられてきている。

この全国、全領域に及ぶ攻防が今起きている政界再編への動きと無関係であるはずがない。

◆内外情勢発展と「解散・総選挙」の早期強行

日本内外の情勢発展にあって米国は、「解散・総選挙」の早期強行とそれにともなう日本政界の根本的な再編を求めている。もはや、これまでの自民党体制では、安保防衛、経済、教育など、日本のあり方をその根本から変える改革など、激動する内外の情勢発展に対応することはできないということだ。そこから、自民党内改革派や「改革」の旗を掲げる日本維新の会、そして立憲民主党、国民民主党内改革派などを結集しての日米統合・改革新党や連合の早期結成、形成が狙われているのは、容易に予測されることだ。

これに対し、中ロと対決する「米対中ロ新冷戦」にはとてもついていけず、米国の下に日本が統合される改革である日米統合の改革にも賛成できない自民党をはじめ各政党内の勢力は、いまだその自覚と目的意識性が明確でなく、その結集軸も定まらず、結集力も弱く未熟な情況にある。この有様で「解散・総選挙」に直面したらどうなるか。彼らがとてもそれに対応できないのは目に見えている。米国が求める日本の政界再編を実現する好機ではないのか。

その上、目を外に転じれば、米英メディアによる「大本営」発表にあっても隠し果せないほど、あのウクライナ戦争の帰趨はますますロシアに有利に転じており、「新冷戦」の趨勢も中ロなど非米の自国第一、国民第一の優勢が一層明確になり、米国内にあっても「米国第一(アメリカファースト)」のトランプの勢いが数々の妨害を乗り越え、それを力にして、増大してきている。

この内外情勢の進展が、日本の「解散・総選挙」のできるだけ早期の実施を要求して来ているのは十分に予測可能なことではないだろうか。

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

小西隆裕さん

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年によど号赤軍として渡朝。現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

国民の大多数から「無実なのに死刑囚にされた冤罪被害者」と認識されている袴田巌さんの再審がついに行われることになった。袴田さんは1966年の逮捕から現在まで57年にわたり、殺人犯の汚名を着せられてきたが、無事に再審が行われれば、無罪判決を受けることは確実だとみられている。

 

内山梨枝子氏。現在は長野地家裁松本支部長をしている

このような状況の中、過去に袴田さんに対し、無実の訴えを退ける判決や決定を下した裁判官たちはどのような思いで、どのように過ごしているのだろうか。当連載では、該当する裁判官たちの中から存命であることが確認できた人たちに対し、公開質問を行っていく。

5人目は内山梨枝子氏。静岡地裁の裁判官だった1994年8月8日 、鈴木勝利裁判長、伊東一廣裁判官と共に袴田さんの第一次再審請求審を担当し、再審請求を棄却する決定を出した人だ。

◆「内山氏の略歴」と「内山氏への質問」

内山氏は1960年8月12日生まれ、北海道出身。1989年4月に千葉地裁で裁判官人生をスタートさせ、その次に勤務した静岡地裁で鈴木裁判長らと共に袴田さんの再審請求を棄却した。

その後は1995年4月に静岡家地裁浜松支部、1999年4月に名古屋地裁、2003年4月に静岡家地裁、2007年4月に静岡家地裁富士支部、2009年4月に静岡地家裁富士支部長、2012年4月に大阪高裁、2015年4月に静岡家地裁、2018年4月に横浜地家裁小田原支部──という異動を重ね、2022年4月より長野地家裁松本支部長を務めている。

見ておわかりの通り、内山氏の勤務地は、袴田事件が起きた静岡県もしくはその隣県がほとんどだ。

そんな内山氏に対しては、以下のような質問を書面にまとめ、郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒を同封のうえ、長野地裁松本支部に特定記録郵便で郵送し、取材を申し込んだ。

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【質問1】

袴田巌さんは再審が決まり、無罪判決を受けることが確実な状況となりました。内山様はこの状況をどのように受け止めておられますか?

【質問2】

内山様がこれまで裁判官として勤務された地は、静岡県もしくはその隣県がほとんどです。袴田事件が起きた県であり、釈放後の袴田巌さんやその姉・ひで子さんらが暮らしている静岡県もしくはその隣県の裁判所で勤務されることについて、心理的な抵抗はなかったのでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この質問に対して、内山氏からは以下のような回答が郵便で届いた。なお、内山氏に郵送した「郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒」は、回答と一緒に返送されてきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

令和5年6月19日

片岡健殿

長野地方裁判所松本支部庶務課

5月22日付けの当支部所属裁判官宛ての取材依頼に対する回答について

標記取材には応じません
なお、返信用切手は返還します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

内山氏については、追加取材をすることを検討している。

※内山氏の生年月日と出身地、異動履歴は『司法大観 平成二十八年版』と『新日本法規WEBサイト』の情報を参考にした。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ─冤罪死刑囚八人の書画集─』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ─冤罪死刑囚八人の書画集─」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

携帯電話の基地局設置をめぐる電話会社と住民のトラブルが絶えない。この1年間で、わたしは40~50件の相談を受けている。今月に入ってからも2件の相談を受けた。両方とも、問題を起こしている電話会社は楽天モバイルである。相談者はいずれも、知らないうちに基地局が設置されていたと訴えている。

5Gの基地局

宮城県丸森町のケースでは、町が所有する土地に楽天が基地局を設置した。工事中はシートで工事現場が覆われていたので、その内側で工事が行われていることには気づかなかったという。筆者は、工事を請け負った業者に事情を聞くために何度も電話したが、一度も応答することはなかった。

わたしに情報を提供した町民によると、地方都市に特有の閉鎖的な空気があり、町役場の方針に反旗を翻しにくいという。町会議員に相談するようにアドバイスした。裁判所に調停を申し立てる方法があることも伝えておいた。

◆東京都大田区のケース

東京都大田区東矢口では、俗にいう「電磁波過敏症」に罹患したAさん(女性)が苦情を訴えている。自宅マンションから100メートルほどの近距離にあるマンションに楽天が基地局を設置したという。近くには別の基地局もあり、Aさんとっては日常生活に困難を来たす状況だ。基地局と自宅の間には、障害物がないので、電磁波が住居を直撃する。

Aさんの自宅近くに設置された基地局

Aさんは2014年まで米国に生活の基盤を持っていた。米国に多いオール電化のマンションに住み、Wi-Fiを設置するなど、後から考えると「電磁波過敏症」を発症しやすい環境で生活していた。香料の類いも必需品として日常的に使っていた。

「電磁波過敏症」と化学物質過敏症は併発することが多い。いずれも電磁波や化学物質により神経が攪乱され、脳が誤作動してさまざまな症状を発現させる。Aさんの場合は、化学物質過敏症を先に発症した。

ある日、電車に乗っているとき、香水の匂で気を失いそうになり、つり革につかまった。これを機に身体が化学物質に敏感に反応するようになった。その後、電磁波にも体が反応するようになったのである。

現在では電子レンジもスマホも使えない。職場にいるときよりも、自宅にいる時のほうが顕著な症状がでるという。

◆朝霞第2小学校の正門前の楽天基地局

わたしの自宅の近くにも楽天モバイルの基地局が立っている。埼玉県朝霞市の朝霞第2小学校の正門から、50メートルほどの距離である。簡易の測定器で電磁波の密度を測定したところ7.35μW/c㎡という数値(2022年6月)がでた。欧州評議会の勧告値が0.1μW/c㎡だから73.5倍の強度である。危険な領域だ。

楽天モバイルに対して撤去を申し入れて1年になるが、何の措置も取っていない。児童の安全よりも、電話事業を優先しているのである。

また、やはりわたしの自宅近くにある城山公園の敷地内に、KDDIが2020年8月、基地局を設置しトラブルになったが、放置されたままである。公有地の賃借料が月額360円程度である。ただ同然で朝霞市が提供しているのだ。

電話会社が基地局問題の対策を取らない背景には、ビジネスを優先するメンタリティーと、電磁波による人体影響を正しく理解していない事情があるようだ。

◆電磁波による人体影響は客観的な事実

電磁波や化学物質による身体の不調は、心因性のものもかなりあるが、一定の割り合いで「電磁波過敏症」の患者が存在する。罹患すると生活に支障を来たし、重症になると電磁波の「圏外」に逃げなければ生活できなくなる。事実、わたしの知人で、電磁波の届かない長野県の山中に住居を移した人もいる。患者本人にとっては非常に厄介な病気なのだ。

たとえ頭痛や吐き気、目まいといった症状がなくても、基地局の近くでは、癌が多発していることが、海外の疫学調査(ドイツ、ブラジル、イスラエル)で明らかなっている。5Gで使われる電磁波の安全性に関しては、現時点では確定的な評価をするだけの十分なデータが揃っていないが、電磁波にはエネルギーの大小にかかわらず遺伝子毒性があることが判明しており、当然、5Gの電磁波にも高いリスクがある。

しかし、電話会社は、「総務省の規制値を厳守している」の一言で、住民の迷惑をかえりみずに、電話ビジネスを拡大している。基地局の設置は、自分たちの権利でもあるかのように振舞っている。

わたしは楽天に対して、次の2点を問い合わせた。

【質問事項】

基地局設置をめぐるトラブルについて、貴社の見解をお尋ねします。

現在、わたしは次の3件の係争を取材しています。

① 宮城県丸森町の町有地に貴社が基地局を設置しようとしている問題。
② 大田区東矢田のマンションに貴社が基地局を設置した問題。
③ 埼玉県朝霞市の朝霞第2小学校の正門から50メートルの地点に貴社が基地局を設置した問題。

①~③のケースでは、住民に対していずれも事前に十分な説明をしなかったと聞いております。

今後、住民の健康状態をどのようにして確認されるのでしょうか。

22日の夕方までにご回答ください。

【楽天モバイルの回答】

お問い合わせいただいている件につきまして、
ご連絡までお時間をいただき恐縮ですが、以下の通り回答申し上げます。

①~③への回答:
「お問い合わせいただいている件でございますが、個別の事案については回答を控えさせていただきます。」

以上、ご確認の程、よろしくお願いいたします。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

黒薮哲哉のタブーなき最新刊!『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』

6月29日、広島市の松井市長はエマニュエル駐日米国大使と会談し、平和記念公園とパールハーバー国立記念公園とが姉妹公園協定を結ぶことを発表しました。筆者は呆れるとともに「来るべきものが来たか」という感想も抱いています。

◆「姉妹都市協定」との違い 米国政府相手の協定

姉妹都市協定と今回の姉妹協定は違います。姉妹都市協定は自治体同士の協定で、例えば広島市とホノルル市は姉妹都市です。これは大昔、広島から多くの移民がホノルルを中心としたハワイに移住したご縁によります。

今回の協定は、平和記念公園を管理する広島市とパールハーバー記念公園を管理する米国政府の間で結ばれる協定です。言うなれば、1945年8月6日に広島市を核兵器で攻撃した米国政府と組む、ということです。

広島平和記念公園

◆日本政府と広島市のスタンスの違い

日本政府は、ご承知の通り、米国政府と日米安全保障条約や日米FTAなどを結んでいます。アメリカを盟主とする従属的な同盟を日本政府は結んでいると言えます。日本政府は核兵器禁止条約には反対しており、米国政府がかつて核兵器先制不使用を打ち出そうとしたときにこれを止めたこともあるくらいです。2023年5月開催のG7広島サミットで岸田総理が発表した広島ビジョンも上記日本政府の立場を一歩も出るものではなく、それどころか、2000年のNPT再検討会議での核兵器廃絶の明確な約束にすら触れぬ核兵器有用論です。

しかし、広島市は世界で初めて戦争により被爆した街として、世界に対して核兵器の惨禍を二度と繰りかえさぬよう、誰も被爆者が二度と同じような思いをすることがないよう、核兵器廃絶と恒久平和を訴えてきました。

明確に日本政府とはスタンスの差があります。

◆ヒロシマとパールハーバーを「おあいこ」にしかねない

だが、今回、広島市は米国政府と協定を直接結ぶことになりました。米国政府は、ヒロシマ・ナガサキで核兵器を使用したことについてこの78年間まったく反省はありません。ヒロシマ・ナガサキへの核攻撃は必要だったというスタンスを堅持しています。

そして、パールハーバー記念公園は平和記念公園と性格が異なります。平和記念公園は、原爆と言う無差別殺戮で犠牲になった方々を悼み、世界恒久平和を願う公園です。パールハーバー国立記念公園は、当時の大日本帝国が米帝国主義に攻撃を仕掛けた、いわば帝国主義国の軍隊同士の戦闘の地です。そして、米国政府の視点で戦死者を顕彰するものです。これは、ヒロシマへの核攻撃を正当化することと地続きです。

この二つにどういう共通点があるのか? 無理に組んだとしても、結局は、ヒロシマへの原爆投下とパールハーバーをおあいこにすることにつながるのではないでしょうか?
 
◆アメリカの戦争責任は追及されていない
 

もちろん、大日本帝国陸海軍がアジア太平洋で行ったことの中には国際法に反することもたくさんありました。評価は分かれるところですが、これらの日本の行為については東京裁判などで裁かれています。

また、不十分な点はあるにせよ、日本政府は第二次世界大戦で被害を与えてしまった国々に対して一定のお詫びは表明しています。

他方でアメリカの戦争責任は全く追及されていません。勝ったからと言ってしまえばそれまでかもしれない。あるいは、日本の先制攻撃に反撃しただけ、と言われればそれまでかもしれない。しかし、いざ戦争が始まったら、侵略側(日本)はもちろん、防衛側(米国)も国際人道法は守らなければ、犯罪を構成することになります。

アメリカが原爆投下でやったことは、日本政府が直後にスイス政府経由で提出した以下の抗議文の通り違法です。

「抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり」

違法だけれども、世界最強の国であるアメリカを誰も裁くことができないだけなのです。

◆被爆者は謝罪を求めていないというが

「被爆者は謝罪を求めてはいない。だれにも自分のような思いはさせたくないのだ。」

というのが広島では主流とされていることは、筆者も平和運動の中でも学びました。

しかし、米国政府の側から今回のように「過去を水に流そうぜ」と言わんばかりに握手を求めてくるのは違うでしょう。被害者から握手を差し伸べるのと、加害者から差し伸べるのでは意味が違います。

◆「反省しなくていい」お墨付きを米国政府に与える広島市長

そして、謝罪は求めていないが、当然、反省は求めているわけです。しかし、今回の協定は、米国政府に対して、反省もしなくていいというお墨付きを与えたということになりかねません。

すでに、G7広島サミットにおいて、「広島で核兵器は有用」という趣旨の岸田総理提案の広島ビジョンが採択されてしまいました。そして、今回の広島市長が当事者の協定で米国政府は核兵器使用を反省しなくていいというメッセージが強化されてしまったのではないでしょうか?もっと厳しい方をすれば米国政府の核戦略に広島は利用されてしまいました。

◆広島が与えた「反省しなくていいお墨付き」で核保有国の暴走加速の恐れ

今回の協定は、いわば、広島市が永遠に米国政府に反省しなくていいというお墨付きを与えたということになりかねません。

「アメリカは広島の許しを得たので、もう、原爆投下を反省しなくていい。」

こうなれば、それこそ米国政府の行動も今までよりは抑えが効かなくなるでしょう。

米国政府が今まで以上に開き直るなら、ロシアのプーチン大統領も、中国の習近平国家主席も、朝鮮の金正恩総書記も、インドのモディ首相も、イスラエルのネタニヤフ首相も今まで以上に行動に抑えが効かなくなりかねません。巡り巡って恐ろしいことになりかねません。

◆加速した「米国忖度都市」HIROSHIMA

すでに、広島市教委の平和教育の教材から「はだしのゲン」や「第五福竜丸」などが削除されています。G7サミットを前にバイデン大統領に忖度したと言われても仕方がありません。そして、サミット前後には宮島への法的根拠なき「渡航禁止」(実際はできるけれどもできないかのような報道をマスコミにもさせた)、過剰警備など、米国に忖度して市民の人権や企業活動を過剰に抑制しました。

戦前の広島は脱亜入欧の旧白人帝国主義国家に追随してアジアに派兵する軍都廣島。

そして、原爆投下と、日本国憲法制定に象徴される一定の戦争への反省を経て平和都市ヒロシマへ。

そして、G7広島サミットを経て、米国政府に忖度し、米国政府の核戦略にお墨付きを与える「HIROSHIMA」への変質が今、急速に進んでいます。

◆自民から共産まで県議がサミット誘致評価 広島政治の大政翼賛化に断固抵抗

一方で、このようなサミットの狙いを見抜けずに、統一地方選2023では自民、公明はもちろん、立憲、共産の既成政党の県議候補はことごとくG7広島サミット誘致を評価する、期待する、という趣旨の回答をマスコミや市民団体のアンケートにされていました。筆者と議席を争った共産党県議などは広島ビジョンを見て慌てて批判に転じられましたが、それまでサミット誘致を評価していた事実は消えません。

もちろん、筆者は本稿でも申し上げた理由により「評価しない」「期待しない」と回答しました。今後とも、胸を張って広島政治の大政翼賛化に筆者は断固抵抗する先頭に立ちます。

さて、6月29日は奇しくも広島大水害1999で20人が広島市で犠牲になってから24年です。

「松井市長さん。そんな協定で浮かれている場合じゃない。あなたには平和を考えるセンスはない。〈平和の架け橋〉なんて浮かれて変な協定を結ぶくらいなら、防災対策、きちっとやりましょうよ。あの大水害を思い出す日にしましょうよ。」
こう一市民として申し上げるものです。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

私たちは唯一の脱原発雑誌『季節』を応援しています!

◆声を上げ始めた市民 「モニタリングポストの当面の存続」

岸田政権が原発回帰を決定した。「東京電力福島第一原子力発電所で事故が起き、この国も世界中も震撼していた時に、一体あなたは日本にいなかったのか! なぜ、あの過酷事故から何も学ばないのか!」と、飛びかかりたくなるほどの怒りが心を渦巻く。

12年間、怒り続ける私たちの心は大丈夫なのか……と思うこともあるが、原子力を手放さない権力者たちは、そんなことはお構いなしに、オンボロ原発を稼働させようとしている。

この余りにも横暴な力の前に、私たちは立ちすくむ思いを何度も経験してきた。私たちは何もできないのか……と顔を伏せたくなる思いにもなる。

しかし、そのような時、「いや、まだまだやれることがあるはずだ……」と、自分を奮い立たせるために思い出すのは、2019年5月29日、第10回原子力規制委員会が決定した「モニタリングポストの当面の存続」だ。

福島第一原発事故後、福島県内に住み続ける子どもの生活環境の空間放射線量を測定し、可視化するために3千台のリアルタイム線量測定システム(通称モニタリングポスト)が設置された。

しかし、2018年3月20日、原子力規制委員会は2020年度末を目途に約2400基を撤去すると発表した。理由は除染により、環境放射線量が低くなったから。そしてもう一つの理由は、2020年度末で復興庁が終了するから。つまり予算がなくなることで、子どもの生活環境の空間線量を計測するモニタリングポストは撤去というわけだ。

私たちは直ちに「モニタリングポストの継続配置を求める市民の会」(以下市民の会)を立ち上げ、4月16日、参議院議員会館で第1回目の原子力規制庁交渉に臨み、原発事故後を生きる福島県民にとってモニタリングポストは、日常的に空間放射線量を目視できる唯一の情報源として最低限度の「知る権利」を保障するものであり、撤去または存続の「決定する権利」は、無用な被ばくを強いられている住民側にある。よって福島県民に問うことなく一方的に撤去することは、私たちの権利を蔑ろにする行為である。また原発事故を起こした国は、廃炉になるまで子どもの生活環境のモニタリングは続ける責任があると繰り返し主張した。

しかし、武山松次原子力規制庁監視情報課課長(当時)は、避難指示区域外の地域の空間線量は十分に低くなっていることから、モニタリングポストによる連続的な測定は科学的に役割を終えていると断言し、私たちの訴えは伝わらないままに、第1回の交渉は終わった。

◆約5週間で7市町の首長に面会し、継続配置を訴えた母親たち

市民の会は県内各自治体に対しても要請行動を開始。その際、市民の会が最も意識したのは、撤去方針に違和感を持った市民、特に母親たちが自らの意志で行動し声を上げられるようにサポートすることだった。

5月14日、会津若松市役所前に集まった母親たちには政治参加の経験はなく、緊張した面持ちだった。しかし、市長室のソファーにニコニコしながら座っている我が子の傍らで、「会津若松は他の地域と比較すれば線量は低いと言われている。しかし、絶対起きないと信じ込まされていた原発事故が起きた今、人工放射性物質が確実に私たちの回りに存在するようになってしまった。だからこそ、モニタリングポストは必要不可欠な装置なのだ。登園途中で毎日数値を確認している。街角にあれば必ず数値を確認する。その時の不安な気持もぜひ理解してもらいたい」と、時には声を詰まらせながら訴えた。ある町では幼子をおんぶした母親が首長に継続配置を求める要請書を手渡すなど、母親たちが声を上げ始め、約5週間で7市町の首長に面会し、継続配置を訴えた。

この動きと連動したのが、各地の住民説明会に参加した市民だ。原子力規制庁は「丁寧な説明で撤去方針を理解していただくこと」を目的として、同年7月から11月まで15市町村18会場で住民説明会を開催。しかし、全ての会場で子育て世代から高齢者までが撤去に反対し、継続を求める声が上がった。そして、市民の会は第3回交渉(2018年12月7日)で原子力規制庁から「目的を住民の声を聞くことに変更した」との言質を取った。

◆モニタリングポストは継続配置へ

市民の会は4回の原子力規制庁交渉を行った。噛み合わないやり取りにジリジリとした思いを抱き、時折飛び出す国の本音に驚いた。緊急事態が起きた際、モニタリングポストの数値を確認して避難するかしないかの判断をするのだと伝えると、「再びの緊急時は無用な被ばくを避けるためにもモニタリングポストを見に行かないでほしい。自分の判断で、勝手に逃げないでほしい」と回答。また「3・11前の福島県はとても空間放射線量が低かった。だから、事故後少しぐらい上がっても問題ない」と発言。私たちは息を呑み、「え? 今、何て言ったの?」と顔を見合わせ、我に返って「それは被害者との危機感と余りにも乖離している」と訴え続けた。

そして先述の通り、2019年5月末、原子力規制委員会は「モニタリングポストの当面の存続」を決定。これは原発核事故被害の当事者である市民の訴えが国に方針の変更をさせた、まさに民主的な決定だった。しかし同時に「当面とはいつまでだろう……」との不安も拭えなかった。

それから2年半後の2021年9月1日、第28回原子力規制委員会は、2022年度の国の予算にモニタリングポストの維持経費の概算を要求し、2021年から10年かけて、毎年300基のペースで線量検出器や電源などの部品交換を行い、部品供給ができなくなった450基については2022年度に新しい機器に取り替える計画が公表された。

これを受けて市民の会は菅義偉首相、更田豊志原子力規制委員会委員長(共に当時)に2019年の当面の存続の決定が具体的に動き出したこと、2021年度からの維持計画を高く評価するとの書簡を送り、今後も注視していくことを伝えた。

さらに2022年12月に閣議決定された2023年度予算案に維持・更新の予算16.6億円が盛り込まれ、部品供給ができなくなる71台が全面更新され、24年度以降、残りの主要部品は交換されていく。

今春、私は福島県猪苗代町の山間部で、色は茶色に変わり、少しコンパクトになった新しいモニタリングポストを見つけた。私たちの声がこの機器の存続を実現させたのだと思うと、ちょっとだけ誇らしかった。

◆間近に迫る放射能汚染水の海洋投棄

そして今、福島第一原発敷地内に保管されている放射能汚染水の海洋投棄が強行されようとしている。高濃度汚染水の流出事故が相次いだ2013年より活動を続けている「これ以上海を汚すな!市民会議」(以下、これ海)はその名の通り、放射能汚染水の海洋投棄を阻止するため、ありとあらゆる行動を続けている。

2020年4月13日、菅政権(当時)が2年後の海洋放出を決定したことに抗議する毎月の「13日スタンディング」は2年間続いている。2年後となった今年4月13日はグローバルアクションとして国内外の市民にスタンディングを呼びかけた。北海道から沖縄、ヨーロッパやアメリカ、カナダ、太平洋諸国、ニュージーランド、そしてアジア諸国の市民がこのアクションに参加し、汚染水の海洋投棄は自分たちの問題でもあると声を上げた。

国が喧伝する「ALPS処理水」の危険性を学ぶ学習会は福島県内各地で行われ、また海外の科学者らを招いたオンライン講演には、海外からの参加者も多く、終了と同時に、仲間と共有するため早くYouTube配信をしてほしいと声が届いた。

内堀福島県知事、伊沢双葉町長、吉田大熊町長に、市民一人ひとりが海洋投棄に反対の声を届ける「ハガキ作戦」は、民の声新聞の報道によれば、5月末現在、約3500通が届いているらしい。

これ海は2020年9月、21年6月、11月と経産省エネルギー庁や東電との交渉を続けてきた。噛み合わない議論の中、毎回要望し続けているのが政府主催の県民公聴会だ。しかし一度も実現していない。なぜ開催しないのか……。私はその理由は2018年のモニタリングポスト撤去を巡る住民説明会での手痛い経験だと考える。原子力規制庁自らが開いた説明会で撤去反対の声が湧き上がり、結果的に存続となった。「当面の存続」が決定された日、河北新報は「市民の声が国を動かした」と速報を出した。

恐らく国は汚染水の海洋投棄を強行するだろう。復興庁が終了する2031年には再びモニタリングポストの大量撤去方針が出されるかもしれない。その度に「やっぱり……」とか「またか……」と落胆もするだろう。でも、それでも私たちは立ち上がり、声を上げ始める。それは、あとから来るいのちのために私たちが果たすべき、せめてもの責任だから、そしてそうできるのは、仲間がいるからだ。汚染水の海洋投棄に反対する声は今日も世界中から届いている。私たち市民は自分の力を信じ、声を上げ続けよう!
 

5.16東京行動 東電本社前での筆者(ウネリウネラ提供)

▼片岡輝美(かたおかてるみ)
モニタリングポストの継続配置を求める市民の会。これ以上海を汚すな!市民会議。1961年福島県郡山市に生まれる。1985年、夫の片岡謁也牧師と共に日本基督教団若松栄教会へ。放射能から子どものいのちを守る会・会津代表、会津放射能情報センター代表。主著に『今、いのちを守る(TOMOセレクト 3.11後を生きる)』(2012年日本キリスト教団出版局)、『クリスチャンとして「憲法」を考える』(2014年いのちのことば社/共著)等。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

龍一郎揮毫

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◆綾瀬警察署留置の「ズンム天皇」

1969年1月19日午後、東大安田講堂バリケードを破壊し内部に突入してきた機動隊に私たちはたいした抵抗もすることなく全員逮捕された。それは闘いのあっけない幕切れだった。一列に立たされ怒気に満ちた若い機動隊員に集団リンチを受けた。私も観念したがタオルで覆面の長い髪の私を女の子と見たのかヘルメットの上をポコンと鉄パイプで叩かれる程度ですんだ。

そして夕闇迫る頃、手錠をかけられた私たちは装甲車に乗せられた。「闘いは終わったのだ」という虚脱感、「囚われの身」の敗北感のようなものがひしひしと胸に迫った。手錠につながれた仲間達もみな押し黙ったまま、二日間に渡る攻防戦の疲労感もあったのだろう。私たちは精いっぱい闘ったのだ。

 

「よど号ハイジャック犯・若林容疑者」手配写真(綾瀬警察署撮影)

私は綾瀬警察署に留置された。

写真を撮られ指紋をとられた。「犯罪者」にされた侮辱を感じた。このとき撮られた写真は「よど号ハイジャック犯」手配写真に後に使用されたが、それはとても人相の悪いもの、いかにも「凶悪犯」、おそらくふて腐れてカメラをにらみつけていたからだろう。

翌日から取り調べが始まった、担当刑事は少年課の小太りの中年男と「タタキ専門」という若手、「逮捕学生が多くて臨時動員された」と言っていた。完全黙秘が意思統一されていたので私は「黙して語らず」と宣言した、すると刑事はその言葉を調書にそのまま書いた。少年課刑事はなだめすかす役、「タタキ専門」は強面(こわおもて)役、なるほど取り調べとはそうやるのかと思った。

「おい、ズンム天皇、取り調べだ」! 

看守というか留置場担当の警官に東北出身者がいて、私をいつも「ズンム天皇」と呼んだ。真ん中分け長髪に淡いまばらなあご髭の私は彼に言わせれば「神武天皇」、東北のズ~ズ~弁では「ズンム天皇」になる、ちょっと太った人の良さそうな看守で「おい、ズンム天皇」の呼びかけになんとなく親愛感を感じたものだ。

同房のおっちゃんは「下場木(げばぎ)一家の親分」と自分を紹介した。刑務所で服役中に余罪がばれてまた警察に送られてきたのだそうだ。「弱っちゃうよな~、詐欺罪だなんてみっともなくてみんなに言えねえよ。せめて暴行とか傷害だったらいいんだけどね~」とよくぼやいたが、あの世界では詐欺は「恥ずべきこと」らしい。ヤクザ世界の名誉と恥、ちょっと社会勉強をした。この親分とは仲良くなって「学生、出たらウチを訪ねてこいや」とも言ってくれた。下場木一家は栃木あたりのヤクザらしく親分の口調はズ~ズ~弁っぽい愛嬌のある訛(なま)りがあって人がよさそうに見えた。同房の法政の学生とも親しくなったが互いに完全黙秘の身、自分のことは話せないからいつも「親分」が会話の中心になった。

留置場の弁当は極度に量がなく常時、飢えていた。飢餓感とはこういうものかと思うほどで毎晩くらいなにかを食べる夢を見た。食事時間が近づくと自然に唾が出てきて壁の時計ばかりを見た、秒針が妙に遅いとイライラしたものだ。取調室では所持金で店屋物をとって食べられる、空腹にカツ丼はとてもおいしかった。だから取り調べがいつの間にか待ち遠しくなるから不思議だ。他の学生らも「お座敷(取り調べ)まだですか~」と看守に言ったものだ。飢えさせるのも警察の「犯人を落とす」手法の一つかもしれないとも思った。

◆取り調べの怖さ ── いちばん怖いのは自分自身の心の弱さ

留置期限の23日間が終わりに近づくと釈放される学生も出てきて「釈放か起訴か」が気になり始める。「起訴覚悟」とは言え、やはり「早く娑婆に出たい」「出れるかも」という気持ちも芽生える。この時が危ない。担当刑事が「おまえ釈放されたら着替えとか要るし、誰かに迎えに来てもろわなきゃならんだろう」などと話しながら「せめて名前と住所くらい言えや、親か親戚に連絡してやる」と誘いを入れてくる。こうなると「釈放」の二文字が大きく頭の中で踊り始める。「名前と住所くらいはいいか、心証も悪くしない方がいいかも」という甘い幻想が芽生え始める。

「東京には姉が居るし」と私はつい名前と出身地を話した。すると急に刑事の態度が一変、「講堂のどこに居た? 指揮者は誰だ」と突っ込んできた。これで私の目が覚めた。「それは黙秘します」と答えた。すると少年課の刑事は「今頃の琵琶湖は……」とかなんとか郷愁を呼ぶような話をした、タタキ専門の若手は「黙ってたら出れないぞ」と脅しに出た。取り調べも闘争なのだ! そのことを実感した。

姉が東京にいることも話したので姉が面会に来た。私は姉の持ってきたおまんじゅうを一箱ぺろりとたいらげた、そんな私の姿を見て姉はぽろぽろ涙をこぼしていた。

完全黙秘はできなかったけれど最後の一線で踏みとどまることができた。

私は「取り調べの怖さ」を体験した。いちばん怖いのは自分自身、心の弱さであるということ、自分自身との闘争なのだ、と。一言でいって、「起訴を免れたい」「早く出たい」という自分の心の弱さとの葛藤にうち勝つことだが、案外、これが難しいということを身を以て体験した。

当然ながら私は起訴と決まった。留置場を出るとき、仲間の学生達から「がんばれよ!」といっせいに声をかけられた。なにか熱いものがこみあげ、「さあ、これから新しい闘争が始まるのだ」と気を引き締めた。

◆無知からの脱却 ── 資本論に挑戦

私は小菅刑務所(現在の東京拘置所)拘置区に収監された。起訴が決まり私は裁判を控えた「未決囚」になったのだ。

収監前に身体検査があって素っ裸になって肛門の中まで調べられたが、それはとても屈辱的な場面だった。囚人服に着替えると一人前の「囚人」になった。カッコ悪いことこの上ない姿、「世界でいちばんカッコイイ」元ラリーズとかはもう関係のない「囚人No.1115」でしかない人間になる。私は単なる「お尋ね者」になった。

独房は小さな布団を敷ける程度の狭い空間、窓際に小さな机と椅子があって、机の蓋を開けると蛇口付きの洗面台、椅子の蓋を開ければ水洗トイレ、合理的な生活空間になっていた。窓には鉄格子、初めての監獄生活がこれから始まるのだと思った。壁にはペンキで塗りつぶされたなにかで彫った「民族独立行動隊」の落書きが見えた。どういう種類の人間が収容されるのか、よくわかった。

食事は三食を決められた時間にとり、起床、就寝時間も規則的、30分の運動時間もあって、久しぶりに経験する「健全な生活」、かつてのドラッグや不規則な生活でボロボロの肉体が拘置所生活が続く中で肉付きもよくなり健康体を取り戻した。

時間はたっぷりあったので「政治無知」克服のためのいまは学習期間と定めた。いつも政治的無知を痛感していたし、「何のために何をめざして闘うのか」? その解答がほしかった。

 

K.マルクス『資本論』1(岩波文庫1969年1月16日刊)

私はマルクスやレーニンの著作も読んだことがなかったので各党派の機関誌にある指定学習文献を参考にML主義学習を始めた。

マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』『賃労働と資本』『資本論』、そしてレーニンの『国家と革命』『帝国主義論』『何をなすべきか』等々。

レーニンからは、国家の本質が暴力であること、帝国主義の経済的基礎は独占資本にあること、その独占資本の経済活動が植民地獲得要求となり、各国独占資本の不均等発展により植民地再分割戦から帝国主義間戦争が起きること、レーニンはこれを内乱、革命へとしていることを初歩的に学んだ。党派の機関紙が言ってることも、こういうことを根拠にしているのだろう程度にはわかった。

いちばん苦労したのは『資本論』だ。克明丹念に読み込まないととても理解が難しい、ノートにとりながら一日に数頁しか進まないこともあった。なんとか頑張って、搾取の本質が剰余価値生産、剰余労働時間の搾取にあることがなんとなく理解できた。生産力と生産関係間の矛盾が資本主義から社会主義への必然性の根拠であることなど史的唯物論についても学んだ。

これまでの私は17歳の「ならあっちに行ってやる」以降、理知の世界から離れ多分に感性的衝動で考え動いてきた。でも政治は理知を知らずにではできない、だから「理」を学ぼうと思った。理詰めで考えることの大切さ、理知がわかれば社会と革命がわかる、やるべきこともわかる、その妙味も学んだ。まだ「真理に目覚めた」にはほど遠かったが……。

安田講堂逮捕以前から政治的無知、「野次馬」から脱しようと必死の私だったが、やっと獄中生活で学びの機会を得た。それは逮捕、起訴、未決囚となることによって覚悟が据わったからだと思う。もう自分にはこの道以外にはないと腹を据えたら、学習にも精力が注げたのだろう。その意味では東大安田講堂籠城戦に志願したのは正解だった。

「革命家の卵からの孵化」、成長途上の時間、獄中はまさに私の革命の学校になった。22歳になったこの年、生涯で初めて自分の目標を持って学ぶということを知った。

「ならあっちに行ってやる」── 進学校、受験勉強からのドロップアウト以降のLike A Rolling Stone 人生、暗中模索の5年を経て私は「革命の学校」に入学した、そんな感じだったと思う。

「戦後日本はおかしい」から「戦後日本の革命」へ! その帰結が「目的を持って学ぶ」ことだった、いまはそう思える。

もちろんML主義を学習したからといって、革命がわかるわけではない。でもそれは後日の問題、この時は「無知からの脱却」「理知を知る」が先決問題だった。

◆「卵からの孵化」── 赤軍派から勧誘

獄中生活は学習だけが全てだったわけではない。

まさかこうなるとは思ってなかったので、菫(すみれ)ちゃんには何も言わないで上京した。住所も聞いてなかったから手紙も出せなかった。でもきっと「Bちゃんは安田講堂に行ったはず」と考えるだろうと信じた。「やっとここまで来たよ」と“True Colors”の恩人に伝えたかった。留置場で食べ物の夢を見たとき、菫ちゃんとどこかの木の下でおにぎりを食べてる夢も見た。きっと「頑張るんだよ」と激励してくれてるだろう、彼女は舞台女優ステップアップの道を着実に進んでいるはずだ-菫ちゃんには負けられない! そう思って気を引き締めた。ここにいる時間を無駄にしてはいけないと思った。 

私は出所してからの自分の政治生活も考えた。組織のない自分はどうすべきか? 当時、労働者の中に反戦青年委員会をつくる運動があって、牛乳配達労組とか新聞配達労組とかがあったので、まずはその辺からでも始めてみるかとか、いろいろ夢想した。

各党派の機関紙も読んだ。この年の4・28沖縄闘争では大規模な首都決戦が叫ばれたが、警察力によって封殺、大量逮捕者を出しただけで闘いが不発に終わったことを巡って総括論争が起きていることも知った。革命の後退局面打開のため武装闘争を掲げる赤軍派が生まれたことも知った。それはブンド(共産主義者同盟)内部の分派闘争になって同志社の望月上史が反赤軍派に拉致されて脱出途上の建物から落下して命を落としたことを知った。

望月は同志社の活動家で私が一目置いている存在だった。なにか思い詰めたような顔をして迫力あるアジテーションをやる栄養不良気味のちっちゃな姿に「こいつは本気だな」と認めていたからだ。そんな彼が選んだ赤軍派に私は関心を持った。活動家に冷淡だった自分は先達である望月の遺志を無駄にしてはいけない、とも思った。

内ゲバで不遇の死を遂げた望月上史さん

機関誌「赤軍No.4」を読んだが、防御から対峙、そして攻撃へという論法に何か主体的な闘争観を感じたものだ。その武装闘争路線にも「ゲバ棒とヘルメット」からの飛躍意欲を感じたし、何よりも「命がけ」の本気度を感じた。世界革命戦争というスローガンもいまでこそ超主観主義そのものだがフランス5月革命、欧米のベトナム反戦闘争、民族解放武装闘争の世界的高揚の中では決して実現不可能なものとは思えなかった。

9月初めの全国全共闘結成集会での赤軍派の登場が「とってもカッコよかったわよ」と面会に訪れた理知的な東大大学院の素敵なお姉さんのお言葉の信用力もあって、入るなら赤軍派かなと漠然と考えていた。

そして9月30日、私たち同志社「東大組」は全員保釈釈放された。翌日、みなが集まった場で同志社のSからのオルグ、赤軍派参加への勧誘があった。私には願ってもないこと、一も二もなくその場で快諾した。

ついに私は組織に巡り会えた、菫ちゃんに遅れること一年、ようやく「卵からの孵化」へと一歩踏み出せた。もう「一匹狼」、「野次馬」じゃない! 私には同志と組織がある! このことが何より嬉しかった。

いま考えれば、「東大保釈組」の私たちには非転向で獄中8ヶ月、闘争で鍛錬された人間、そんな「革命ブランド」が付けられていたのだろう。でもそれはどうでもいいこと。私に組織と同志ができた、そのことが重要なことだった。

11月に上京し赤軍派に合流することになった。求めよ、さらば道は開かれん! そんな気分だった。

◆ささやかな「出所祝い」

保釈後、しばらくは東京在住の姉の家で過ごした。小菅での差し入れや面会では姉夫婦には世話をかけたからお礼もかねての訪問、そして私は懐かしの本拠地、京都に向かった。

「ロックと革命in京都」── 私を育んでくれた恩人達との「出会いの地」京都、私はその京都を離れ新しい活動舞台に移る。私には「最後の京都」となる1969年の10月の日々、それはとてもありがたい感謝でいっぱいの至福の時間になった、そのことを記しておこうと思う。辛い別れを共に越え晴れやかに送り出してくれた最後の恩人への感謝と感傷を込めながら……。

10月初旬、私は京都に帰還した。

イの一番に菫ちゃんに連絡を入れた。「卵からの孵化」を果たしたいま、誰よりもそのことを報告したい人だった。音信不通の獄中8ヶ月を経て思いの外、意気揚々と帰ってきた姿を見て彼女はとても喜んでくれた。逮捕された私がボロボロになって帰ってくるんじゃないかと心配していたようだった。

その日の夜、菫ちゃんと私はささやかな「出所祝い」をやった。

「お酒飲もか」ということで最新のロックが聴けるというスナックバーに行った。私もこんな日はロックが聴きたいと思った。店は意外に広かった。私たちはカウンター席を避けて二人で横並びに座れる壁際の落ち着いた席に着いた。二人だけの「出所祝い」を誰からも邪魔されたくなかった。

何を話したか「記憶は遠い」。この8ヶ月は自分自身との闘いだったこと、とても貴重な体験になったことを話したと思う。そして何よりもやっと「アホやなあ」を卒業、政治組織の一員になれたこと、「卵からの孵化」を果たしたこと、その「勝利の報告」を! “True Colors”「あなたの色はきっと輝く」を歌ってくれた「よきライバル」への感謝の気持ちを込めて。

「ほんま今日はBちゃんのお祝いの日やね」と言って菫ちゃんは私に乾杯してくれた。私はジン・オンザロック、彼女はジンフィーズかなにか。 

「アホやなあ」から一年以上も経て「Bちゃんよかったね」の祝杯。もう僕たちは卵じゃない、温め合ってきた道はほのかだけれど見えてきた。ほどよいアルコールと店に流れるロックに私たちは酔った。こんなときに喜びを分かち合える人のいることがとても素敵な気持ちにさせてくれた。

薄暗い照明は二人だけの時間を過ごす濃密な空間をつくってくれていた。もう言葉は要らなかった。あの時、流れていた音楽、ブラスロックバンド Blood, Sweat&Tears(血と汗と涙)の“Spinning Wheel”(糸車)、そして壁に掛かっていたAl Kooperのレコードジャケット……あの光景はいまも鮮やかに思い浮かべることができる。

「今日はお祝いの日やね」は、私たちにとって新しい門出、祝祭のドラマチックな夜になった。


◎[参考動画]Blood Sweat & Tears – Spinning wheel

ある日の夜、菫ちゃんが「あしたお休みやから遠足に行こか? 私のおにぎり弁当食べさせたげる」と言った。おそらく留置場での夢の話を私がしたのだと思う、「それええなあ」!で決まり。

翌朝、二人で京都駅を出発した。目的地は私の故郷、草津線沿線の野洲川河原。

国鉄東海道線に乗ってキオスクで買ったお茶を飲みながら草津に向かった。この電車に乗って高校や大学に通ったと話した、「へ~、これに乗ってたんや、懐かしいやろ」── 遠足というのは大人でも気分を浮き立たせる。互いの子供時代の話題になって「“若ちゃん”って呼ばれてたんや、昔は可愛かったんやね」──「ほな、いまはどうなんや」!──「ぜ~んぜん」…… こんなたわいのない話に笑い転げるような無邪気で陽気な気分、こんなのはいったい何年ぶりのことやろ?

草津線は草津駅を始点とし関西線につながるローカルな単線、通退勤時間以外は1、2時間に一本程度のディーゼル単線、次の電車までまだ時間があったので、私の家に行って休憩。彼女は私の父母に挨拶をしたと思うが、OK以外の女性は彼らには初めて、「この子は誰や?」と思ったことだろう。発車時間まで懐かしいわが家の苔の庭を眺めながらボブ・ディランか何かのロック系レコードを二人で聴いた。私の歴史を見てほしくて私のレコード・コレクションも説明しながら彼女に見せた。

のどかなディーゼル車に乗って石部駅で降り、野洲川河原でお弁当を広げた。広い河原には一面、葦(あし)がほどよく茂っていてとてもいい感じ、遠足地には申し分なし。京都育ちの菫ちゃんには鄙(ひな)びた田舎風景は清々しい開放感を与えたことだろう。

河原で彼女の心尽くしのおにぎり弁当を開いた。「この握り方はなんや」とか悪態はついたが、彼女のお弁当はとてもおいしかった。「菫ちゃんの料理はおいしいね」と私は素直に誉めながらおにぎりをほうばり、弁当のおかずに舌鼓をうった。留置所で見た夢は正夢になった。

子供時代のように川に石を投げあったり、おっかけっこをしたりで少女時代に戻ったように彼女もはしゃいだ。二人で遊んだ広々とした河原での遠足の一日、久々に心身共に穏やかでのびのびと、こんな一日を楽しむことのできたのは菫ちゃんのおかげ。

草津駅に着いたのは、もう暗くなってから。駅近くの食堂で夕食をとった。二人の楽しい遠足の一日は終了。でもこれからがまた新しい一日の始まりだった。

◆夜の相乗りサイクリング

夕食後、彼女を駅に見送ろうとしたら、菫ちゃんは私にこう仰せになった ──「京都まで自転車に乗せて行って」! 一瞬「ん?」と思ったが、「エエよ」と私は快諾した。

冷静に考えれば、京都までは国電で30分の距離、滋賀と京都の境には逢坂山越えという難所がある。私は高校時代に三段変速のサイクリング車で京都までツーリングしたりしたものだがけっこう時間がかかった。相乗りで行けばどれくらい大変か、しかも夜道、まともに計算すればちょっと考えものの事態。京都に着くのは深夜? 夜明け? 菫ちゃんはなんでこんな「駄々をこねた」のか?? 私はよく考えもしないで彼女が「乗せて行って」と言うから「エエよ」と答えただけ。いま思えば不可思議このうえないこと、たぶん恋時間というのは計算度外視で成り立つものなのだろう。

私の家に戻り三段変速付きサイクリング車に彼女を乗せた。しばらく行くと「お尻が痛くて京都までもちそうにないよ」と彼女が訴えた。サイクリング車の荷台は狭くて相乗り用にはできていない、仕方なく魚屋の友人から荷台の広い営業用の自転車を借りた。荷物を運ぶには便利だが変速機もない重い自転車、でも彼女のお尻が痛くならないならそれでよし、ただそれだけで再出発した。

そのうえこのとき、便利な国道一号線は味気ない、琵琶湖沿岸沿いの道を行こうとなった。これはこれでまた遠回りの夜の田舎道でもっと大変な道中、いや無謀なコース。でもそんなことは考えなかった。菫ちゃんのために少しでもいい景色を走る、が重要だった。

こうして夜の相乗り京都行が始まった。ひんやりした風を受け背中に彼女の体温を感じながら走る相乗り旅路は快適そのものだった。でもやはりこの自転車はしんどかった。何回か休憩しながら瀬田川河口付近まで来ると目の前には夜の琵琶湖が広がっていた。「ちょっと夜景を見ていこか」と道路脇の土手の草むらに座った。夜は人気のない二人で落ち着ける所だった。

相乗り旅の余韻にひたりながら見る夜景は素晴らしかった。浜大津付近の華麗な光のきらめき、星明かりに浮かぶ比叡山の黒々とした山容、中腹には比叡山国際観光ホテルの灯火も見える。湖面は月の光を帯びて揺らめいていた。琵琶湖はとてもロマンチックな夜の魔力に満ちている。「ほんま綺麗やね」とか二言三言、言葉を交わし、しばらくは無言で私たちは夜景に見惚れた。

このように穏やかな気持ちで故郷の景色を眺めたり、恋時間をもつようなことは、もうこれからはないだろう! そんな思いに私はとらわれた。そう思うと琵琶湖と菫ちゃんに「ありがとう」という気持ちで胸がいっぱいになった。涙がこぼれそうでぐいっと夜空をにらんだ。気配を察したのか菫ちゃんはそっと肩を寄せてきてくれた。ありがとう、私は感謝と愛しさでいっぱい、私と菫ちゃんは時の経つのも忘れてそんな切ない時間を共にした。そこだけは時計の針の止まった空間、二人だけの「時のない」世界。

結局、夜の相乗りサイクリング行は体力的に限界、膳所(ぜぜ)の町まで来て自転車を乗り捨て錦織(にしごおり)駅で京阪電車に乗り換え京都に向かった。京阪三条に着いたとき時計の針はもう10時をはるかに過ぎている……。

「京都まで自転車に乗せて行って」の菫ちゃんも、「エエよ」と即答した私も、あの日は頭がおかしくなっていた。ボブ・ディラン初恋の人スーズの言葉を借りるなら「あのとき二人は離れるのがもう嫌になっていた」、たぶん菫ちゃんの「駄々こね」も私の「エエよ」もそういうことだったんだろう。本当に「離れるのがもう嫌になる」一日になった。

◆“Fields Of Gold”── 軽々しい約束はしない、でも僕たちは……

京都最後の日々── それは二つの卵がやっと孵化を果たした幸福の絶頂、互いに温め合った恋時間がその頂点に達した時、しかしそれが同時に二人の時間の終焉をも意味するという時。

赤軍派加入は私が京都からいなくなるということを意味する。彼女は彼女で京都での演劇女優への道が開けたばかり、ましてや軍事の領域に踏み込んだ赤軍派に参加するとは恋時間の入る余地もない非日常の生活に入るということ、私たち二人の共有する時間が互いの志や夢に向かうためのものである以上、「最後の京都」は辛くても避けられない別れの時。

Stingのつくった素敵なラブソングがある。それは“Fields Of Gold”! 

「軽々しい約束はしない(できない)が でも残された日々 僕たちは……」!

Sting“Fields Of Gold”

この歌詞が京都最後の出来事をそのまま語ってくれている。ちょっと美化しすぎかもしれないけれど、でも心は同じ……

軽々しい約束はしないが

誓いを破ったこともある

でも残された日々 僕たちは

黄金の世界を歩もう

これだけは誓おう

……

きっと君は僕を想う

風が大麦をなでるとき

嫉妬する空の太陽に言うんだ

黄金の世界を歩んだと

輝く世界に生きたと

二人の黄金の世界

11月初め、私は京都を離れ、東京に向かった。

最後の京都は“Fields Of Gold”── 胸は痛む、でももう悔いはない、晴れやかな気持ちで心機一新、新しい門出へと旅立った。(つづく)


◎[参考動画]Sting – Fields Of Gold

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

『週刊金曜日』6月16日号に掲載した小社広告(別掲①)について、広告を出広した鹿砦社に抗議するのではなく、『金曜日』に抗議が殺到し困ったと同誌発行人(社長)の植村隆氏(別掲②)から先週末の6月23日にお電話がありました。何を抗議したのか分かりませんが『金曜日』に抗議した人たちに抗議します。文句があるなら広告元の鹿砦社に言え!

①『週刊金曜日』6月16日号に掲載した小社広告

②『週刊金曜日』発行人兼社長の植村隆氏(2019年12月7日、鹿砦社創業50周年の集いにて)

さて植村社長、来週(つまり6月26日~30日の週)に小社を訪問したいということでした。どこの中小企業でもそうでしょうが(『金曜日』は違う?)、月末は支払いなどで慌ただしく月明け(7月第1週)にしていただきました。

なので、商取引の常識においても、あるいは道義上、信義上、植村社長と話し合うまでは、本件を伏せておき発言も控えておくつもりでした。

しかし、植村社長は小社を差し置いて先行的にColabo仁藤夢乃代表を訪問し一方的に謝罪し「おわび」文(別掲③)を同誌6月30日号に掲載されたということです。これを植村社長から聞いたわけではなく、仁藤代表のSNS(別掲④)で知りました。まずは、商習慣上、あるいは道義上、信義上、まずは長年の取引先で出広元の小社と協議すべきではなかったのではないでしょうか。

[左]③『週刊金曜日』6月30日号に掲載されたという植村隆発行人兼社長による「おわび」文。[右]④Colabo仁藤夢乃代表のSNS(2023年6月27日付)

『金曜日』には前発行人(社長)の北村肇さん(故人)の時代から10年以上にわたり広告を出広してきました。北村さんとは同期(1970年大学入学)で、世代が同じということもあり妙にウマが合い懇意にさせていただきました。亡くなる直前には上京した私のために無理を押して長い時間を割いていただきました。当地(兵庫県西宮市)での講演や市民向けのゼミなどにも複数回お越しいただきました。

今、『金曜日』には小社以外に有料広告は入っていません(見過ごしであればご指摘ください)。「広告に依存しない」と言っておられるようですが、「依存」するもなにも広告が入らないのですから、やせ我慢でそう言っているにすぎません。

当事者(広告主)である小社と話し合う前に一方的に、Colabo仁藤代表に勝手に謝罪し「おわび」文を掲載することは道義上、信義上、いかがなものでしょうか?

月が明けて植村社長と協議し、本件についてあらためてご報告いたしますが、とりあえず本日の報告は手短にとどめておきます。

広告の上部に記しているように私たちの出版活動のモットーは「タブーなき言論」です。これを基本に創業から50年余り出版活動に勤しんでまいりました。本年創刊18年を迎えた月刊『紙の爆弾』もその具体的な営為です。『金曜日』には及ばないかもしれませんが、長年多くの読者に支えられてきました。ですから、2005年の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で壊滅的打撃を受けた際も、また近年新型コロナで苦境に落とされた際も、少なからずの方々にご支援いただき「命拾い」(ある方の言葉)することができました。

また、『金曜日』と重なる読者もおられます。なので一方的に「差別、プライバシーの侵害など基本的人権を侵害するおそれのあるもの」(「おわび」文より。内規にもあるそうです)と断じられると小社への信用を毀損することにもなりかねません。おわかりですか?

くだんの『人権と利権』は、これまでメディアタブーとされてきた「Colabo」「LGBT」に対してタブーなしに採り上げ思い切った誌面づくりをいたしました。しばき隊界隈で飛び交う誹謗中傷や汚い言葉は排し、真正面から問題に向き合い公正な論評に努めたつもりです。私たちなりに自信を持って世に送り、左右問わず多方面の方々にお読みいただき大きな反響があり多くの方々のご賛同も得ることができました。

かつて『金曜日』には、「大学院生リンチ事件」(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)関係の出版物の広告を発行ごとに掲載させていただきました。そうした際に、『金曜日』編集部から咎められることも掲載拒否されることもありませんでした。さすがに『金曜日』、度量があることに感心した次第です。

ところが『金曜日』とあろうものが、今回は一体どうしたんですか!? あまりにも偏狭、北村肇さんも草葉の陰で泣いてますよ! メディアとしての自律性や主体性があれば、尚急に一方に謝罪するのではなく、意を尽くし公正に判断すべきではなかったでしょうか。

月末の慌ただしいさなか、こんなことに時間を割いている場合ではないのでしょうが、黙っているわけにはいかず一言呈させていただいた次第です。

株式会社 鹿砦社 代表
松岡利康

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)。最寄りの書店でお買い求めください

プリゴジンのバフムト撤退および国防相批判、参謀総長批判が、プーチンに粛清の「長いナイフの夜」を招来させるのではないかと、ちょうど一カ月前にわれわれは指摘してきた。

◎「勇者たちは地獄に堕ちるのか? ロシアの民間軍事企業『ワグネル』創設者プリゴジンはプーチンに粛清されるかもしれない」(2023年5月27日)

◆政変をめざしたのは明らかだったが……

その後、ワグネルの宿営地がロシア正規軍のミサイル攻撃を受け、プリゴジンは報復としてロシアのヘリコプターを撃墜して13名を殺害した。

そしてプリゴジンは軍幹部の粛清をもとめて、モスクワ進軍を開始したのだった。その過程でプリゴジンは地方で小政治集会をひらき、国民の支持を取り付ける行動に余念がなかった。さらには南部の大都市ロストフ・ナ・ドヌーの軍事拠点を占拠し、市民の大歓迎を受けたのである。この大歓迎は、メディアやネットでは有名だが、じっさいにワグネルを観たのは初めてだった市民の「大歓迎」であったとされる。伝説のヒーローたちが、手際よく軍司令部を占拠したことへの愕きでもあった。

このワグネルの「行進」がムッソリーニのローマ進軍(国王エマニエーレ3世による総理指名)、ヒトラーのミュンヘン一揆(失敗・投獄)に倣い、政変をめざしたのは明らかだったが、プーチンに「裏切り」と断じられ、検察当局が捜査を開始した段階で、部下に撤退を命じた。クーデターは未遂におわり、プリゴジンはベラルーシに「亡命」したと伝えられている。

この「亡命」劇は、ただちに粛清に乗り出せないプーチンが、盟友ルカシェンコ(ベラルーシ大統領)と相談の上、収拾策に出たものだ。プーチンの政治力の低下を指摘する声は多い(西側首脳)が、軍事衝突を回避した手腕は独裁者の冷徹を感じさせる。プーチンは政治危機を脱したのだ。


◎[参考動画]プリゴジン氏 反乱収束以来初めて声明発表(2023年6月27日)

◆スターリン流の粛清劇が待っている

ナチスドイツの「長いナイフの夜」は、独自の指揮系統と武器供与をもとめたナチス党突撃隊(党の軍隊)とプロイセンいらいの国防軍の矛盾だった。ナチスの党内対立(権力の強化をめざすゲーリング、ヒムラーらとエルンスト・レーム)もあった。ヒトラーは盟友レームと国防軍の矛盾に悩み、しかし最後はみずから親衛隊を率いて粛清を断行したのである。「裏切りは許さない」と。

これは法に拠らない虐殺・死刑執行であり、西欧諸国はヒトラーの無法を批判したものだった。しかし唯一、この粛清劇を称賛したのが、ソ連の独裁者スターリンだった。政治局会議で、スターリンはこう発言した。

「諸君はドイツからのニュースを聞いたか? 何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男はすごい奴だ! 奴は政敵をどう扱えばいいかを我々に見せてくれた!」(スターリンの通訳だったヴァレンティン・ベレシコフの証言)。

この発言から5ヶ月後の1934年12月に、スターリンの有力な後継者かつ潜在的なライバルと目されていたセルゲイ・キーロフが暗殺された。キーロフ暗殺を契機に、スターリンはソ連全土で大粛清を展開していくことになるのだ。

このスターリンを「偉大な指導者」と評価してきたプーチンは、レーニンの「分離(独立)をふくむ連邦制」を批判して、今回のウクライナ侵攻に踏み切ったのだった。レーニンが批判した「スターリンの粗暴さ」を体現しているのが、プーチンその人なのである。

おそらくプリゴジンは、密かに粛清されるであろう。だからいったん国外に退去させ、ロシア国民との接点をなくしてから、人々がプリゴジンの名を忘れかけた時期に「窓から転落させる」か、毒物で密殺すると予告しておこう。すでに昨年らい、10人をこえるプーチンに批判的なオリガルヒや政治家が、プーチンの命で密殺(不審死)されているという。

ウクライナ戦争が軍幹部による陰謀(プーチンへの嘘の進言)であり、不正義の軍事行動であると断じたプリゴジンは「正義の行進」をモスクワまで続けるべきだった。まさに「侵略戦争を内戦へ」(レーニン)と転化することで、かれの「正義」は実現されるべきだったのだ。なぜならば、国民の多くは彼の「正義」を支持していたのだから。


◎[参考動画]夢の亡国共産主義④スターリンの大粛清

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2023年7月号

原発の火力代替性を主張するならば、現在問題視されている石炭火力の電力をすべて原発で置き換えるほどのインパクトが必要だ。それがウラン資源からみて可能か、という問題になる。原発が石炭を代替できるほど普及しなければ、二酸化炭素排出量の引き下げに寄与できたなどとは言えないからだ。

現在世界の石炭火力は、全電力生産の約40%(*)ほど。一方、原発は過去最大の時でも10%程度。つまり石炭との代替とは、世界の電力生産の半分程度を原発にすることを意味する。

そのためには100万キロワット級原発を年間80基ペースで20年にわたり追加
で建て続けなければならない。

(*)全世界の発電電力量は約27000TWh(27兆kWh)、 石炭火力は約10000TWh(10兆kWh)の発電電力量で約40%、原発は約3000TWh(3兆kWh)で約10%。

原発と石炭火力の電力をすべて原発で発電する場合、設備利用率70%で100万キロワット級原発が約2000基必要になる。

一般に原発の建設には立地点を探して許認可手続を経て完成までには十5年くらいはかかる。民主的手続きなど不要な国ならば十年以下で可能かもしれない。

しかし、このペースで原発の資機材を調達するのは不可能だ。人材育成となるとさらに困難だ。原発は自動運転も出来ないし、メンテナンスでも多くの人手が必要だ。1基あたり年間、運転員クラスで20から30人、メンテナンス要因は1000人以上、何基も集中立地して合理化し、ロボットなどで検査、監視を補助しても、半分にも減らせない。そのため運転員を年間数千人、メンテナンス要員を数万人ずつ養成し続けなければならない。それに対して天然ガス火力は年間数十人の要員で100万キロワット級の発電所を動かせる。

もっと重大な問題がある。現在の核燃料サイクル、燃料生産の規模は、世界で400基あまりの原発を稼働させる程度にしか稼働していない。これが2000基に増加した場合、現在の余力を投じても追いつかない。具体的にはウラニウム採掘量を3倍程度に増加させ、核燃料生産量も同様に増やす必要がある。

しかし世界の鉱山開発はほとんど止まっている。また、高品位のものは残り少ない。原発が増えると予測したら、低品位でも開発をするだろうが、汚染もさらに拡大する。

増産をすれば可採年数は急激に減り、おそらく現在の品位の鉱石は十年程度でなくなる。低品位のものを使っても原発の運転年数40年が終わる頃には採算ベースのウラニウムは枯渇するだろう。

残されるのは再処理ウランや濃縮残渣で出た低濃度のウラン(減損ウランや劣化ウラン)である。これらは使えないことはないが、汚染があったり再濃縮に莫大な電力と費用がかかることで採算が合わないだけでなく、様々な汚染事故リスクが急激に増大する。

それが資源的に見た原発の限界点だ。このことを理解するには、小学校の算数の問題を解く程度の知識で十分だ。

なお、これに対しては高速増殖炉を開発すれば良いとの意見が聞こえてきそうだが、何十年も国策として巨額の税金を投入していたもんじゅやスーパーフェニクスさえ、まともに運営できなかったことを忘れてはならない。(つづく)

本稿は『季節』2022年春号(2022年3月11日発売号)掲載の「原発は「気候変動」の解決策にはならない」を本ブログ用に再編集した全3回の連載記事です。

▼山崎久隆(やまざき・ひさたか)
たんぽぽ舎共同代表。1959年富山県生まれ。脱原発東電株主運動、東電株主代表訴訟に参加。反原発運動のひろば「たんぽぽ舎」設立時からのメンバー。湾岸戦争時、米英軍が使った劣化ウラン弾による健康被害や劣化ウラン廃絶の運動に参加。福島第一原発事故に対し、全原発の停止と廃炉、原子力からの撤退を求める活動に参加。著書に『隠して核武装する日本』(影書房 2007年/増補新版 2013年)、『福島原発多重人災 東電の責任を問う』(日本評論社 2012年)、『原発を再稼働させてはいけない4つの理由』(合同出版 2012年)、『核時代の神話と虚像』(明石書店 2015年)等多数。

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      大阪から高浜原発まで歩く13日間230Kmリレーデモ(写真=須藤光男

野田正彰(精神病理学者)
《コラム》原子炉との深夜の対話

小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
《コラム》核のゴミを過疎地に押し付ける心の貧しさ

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《報告》司法の危機 南海トラフ地震181ガル問題の重要性
《インタビュー》最高裁がやっていることは「憲法違反」だ 元裁判官樋口氏の静かな怒り

菅 直人(元内閣総理大臣)
《アピール》GX法に断固反対を表明した菅直人元首相の反対討論全文

鮫島 浩(ジャーナリスト)
《講演》マイノリティたちの多数派をつくる
 原発事故の被害者たちが孤立しないために

コリン・コバヤシ(ジャーナリスト)
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 アトミック・マフィアと原子力ムラ

下本節子(「ビキニ被ばく訴訟」原告団長)
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 一九五四年の「ビキニ水爆被ばく」を私たちが提訴した理由

木原省治(上関原発反対運動)
《報告》唯一の「新設」計画地、上関原発建設反対運動の41年

伊藤延由(飯舘村「いいたてふぁーむ」元管理人)
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 300年の歳月を要する復興とは?

山崎隆敏(元越前市議)
《報告》原発GX法と福井の原発
 稲田朋美議員らを当選させた原発立地県の責任

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山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)
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原田弘三(翻訳者)
《報告》「気候危機」論についての一考察

井筒和幸(映画監督)×板坂 剛(作家)
《対談》戦後日本の大衆心理【後編】

細谷修平(美術・メディア研究者)
《映画評》シュウくんの反核・反戦映画日誌〈3〉
 わすれてはならない技術者とその思想 ──『Winny』を観る

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《報告》今、僕らが思案していること

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 ~近頃“邪班(ジャパン)”に逸(はや)るもの
  三重水素、原発企業犯罪、それから人工痴能~

山田悦子(甲山事件冤罪被害者)
《報告》山田悦子の語る世界〈20〉
 グローバリズムとインターナショナリズムの考察

再稼働阻止全国ネットワーク
原発の全力推進・再稼働に怒る全国の行動!
福島、茨城、東京、浜岡、志賀、関西、九州、全国各地から

《福島》古川好子(原発事故避難者)
福島県富岡町広報紙、福島第一廃炉情報誌、共に現地の危険性が過小に伝えられ……
事故の検証と今後の日本の方向を望んでいるのは被害者で避難者です!
《東電汚染水》佐内 朱(たんぽぽ舎ボランティア)
電力需給予備率見通し3.0%は間違い! 経産省と東電は石油火力電力7.6%分を隠している! 
汚染水の海洋放出すべきでない!
《東海第二》志田文広(とめよう!東海第二原発首都圏連絡会)
運動も常に情報を受信してすぐに発信することが大事
4月5日定例の日本原電本店行動のできごと
《浜岡原発》沖 基幸(浜岡原発を考える静岡ネットワーク)
中電が越えなければならない「適合性審査」と「行政指導」
《志賀原発》藤岡彰弘(「命のネットワーク」事務局)
団結小屋からメッセージ付き風船を10年余飛ばし続けて
《高浜原発》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
「関電本店~高浜原発230kmリレーデモ」に延べ900人、
「関電よ 老朽原発うごかすな!高浜全国集会」に320人が結集
《川内原発》鳥原良子(川内原発建設反対連絡協議会)
「川内原発1・2号機の九電による特別点検を検証した分科会」まるで九州電力が書いた報告書のよう
《規制委》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
原発延命策を強硬する山中原子力規制委員会委員長・片山規制庁長官
《読書案内》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)
『3・11 大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦・青志社)

反原発川柳(乱鬼龍選)

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