重信房子『はたちの時代』編集後記 ── 読書子への感謝に代えて 横山茂彦

デジタル鹿砦社通信の小島卓編集長から、太田出版刊行の『はたちの時代 60年代と私』の編集後記を書いてほしいとの依頼をいただきました。小島編集長の話では、武蔵小金井駅北口のくまざわ書店で、平積みになっている本をめくったら、横山の企画・編集であることを知ったとのこと。

力をこめて編集した本が、思いのほか好評を博していることもあり、このお話はありがたくお受けしたいと思います。と、いつになく丁寧語で書き始めました。

 
重信房子『はたちの時代 60年代と私』(太田出版)

◆元気な出所姿に感激

12年前に東京拘置所で重信さんと面会したとき、これが最後になるかもしれないからと周囲の人を誘った記憶があります。彼女のことは明大土曜会でもしばしば話題になり、芸能関係にかこつけて慰問訪問をすることは可能ではないか、などと話をしたこともありました。

その明大土曜会そのものが、重信房子を支えるために発足した会合なのですから、昨年6月の出所には参加者みんな感慨深いものがありました。多少は歳をとったとはいえ、人への気づかいがあふれる重信さんの輝くような笑顔が、初夏のマロニエ通りのいろどりに映えていたのを思い出します。

誰にも好かれるひとがら、彼女が結果的にシャバに軟着陸した理由を知ったような気がしたものです。とはいえ、10回以上のガン手術をへての現在なのです。ともに生きる喜びと、健康への祈念を忘るべからず……。

◆学生運動の端境期を描く

さて『はたちの時代』です。

当時のままを書き残して若い世代に伝えたい、事実を書いておきたいという重信さんの発意で、「オリーブの樹」「さわさわ」「野次馬雑記」などに連載された原稿、および新たに書き起こしていた赤軍派時代をまとめて、一冊にしたものです。

新左翼の活動家・理論家にありがちな政治論文で事実を粉飾してしまうのではない、まことに等身大の評伝・史実になっていると思います。

とくに、学生運動にとって三派全学連のつまづきとなった「2.2協定」について、ここまで詳述した公刊本は初めてでしょう(宮崎繁樹教授の私家版『風雲乱れ飛ぶ』・『明治大学新聞』が原資料)。

この「2.2協定」は、1966~1967年の明大学費闘争で、最終的に学内の混乱を収拾する策として、値上げ分はプールしたままいったん妥結する、というものでした。学生たちの大衆討議に付さないまま、いわゆる「暁の妥結」「深夜のボス交」と呼ばれてきました。しかし闘争の過程は、きわめて誠実に自治会民主主義の手続きを履行し、大衆的な議論を尽くしています。その議論の結果、夜間部の学費は値上げをせずに凍結という、いわば「改良の果実」もあったのでした。

そのいっぽうで三派全学連の結成は、同じ年の10.8羽田闘争(初めてヘルメットとゲバ棒が登場し、機動隊を敗走させる)をはじめ、実力闘争と革命的敗北主義にひた走るのです。したがって、社学同をふくむ三派は明大自治会の執行部(社学同)をつるし上げ、斎藤全学連委員長の罷免へと事態が発展したのです。これが、戦後学生運動(民主主義)から全共闘運動(革命的敗北主義)への転機でした。ここを丹念に記述したところに、重信さんの『はたちの時代』の画期性があると申せましょう。

重信房子さん

◆ブント分裂の秘密

もうひとつ、重信さんはブントの分裂「7.6事件」も、実況中継のように詳述しています。その前段にある不可思議な「藤本敏夫拉致事件」も詳しく書いています。

赤軍派の武装闘争路線がもたらしたブントの分裂劇は、もっぱら政治思想路線の分岐として分析されてきました。思想的には「唯銃主義」への批判として、解決したのかもしれません。

しかし、この事件の背後には、いまだに謎が多いのです(この点については『情況』2022年春号の「特集解説」を参照)。事件の事実関係として、権力の謀略があったのかどうか(たとえば中島慎介さんは『抵抗と絶望の狭間に』鹿砦社刊において、当日の軍事的作業を遂行した人物が消えてしまったと述べています)。

本書にも触れられていますが、当時の赤軍フラクの高校生活動家が、ブント幹部を殴るよう強要された事実も、最近になって明らかになりました。関係諸氏の事実との向かい合いを期待したいものです。

◆なぜ太田出版だったのか

小島編集長からは、太田出版からの発行になった経緯を知りたいとの御所望もありました。デジタル鹿砦社通信の読者は関西の方が多いと思いますので、出版社が多い東京の事情(疑問)が、たぶんこれに重なります。

太田出版という版元は、当初、たけし軍団などで知られる太田プロの出版部でした。歴史はまだ浅く、いわゆる老舗大手ではありません(情況出版や鹿砦社のほうがよっぽど老舗です)。

北野武や東国原英夫らの本を皮切りに『完全自殺マニュアル』や『バトルロワイヤル』、雑誌では『クイック・ジャパン』『エロティクス』など、90年代サブカルチャーを代表する出版社だとされています。柄谷行人が『批評空間』の発売元を移管したのも、太田出版の勢いに依拠したいというものだったと思います。

当時、わたしは『情況』第二期編集部にいて、太田出版の奔放かつダイナミックな出版事業を羨ましく眺めていたものです。というのも、当時の情況出版の営業担当に元社青同解放派の方がいらして、同じ解放派出身の高瀬社長と懇意にしていたのです。

ここまで読まれた方で、新左翼の事情に詳しい方はピンときたことでしょう。新左翼(三派)はそれぞれ、党派の機関誌(『共産主義』『共産主義者』など)に準じる商業雑誌を持っていました。ブント系では『情況』のほかに京大出版会の『序章』があり、解放派が『新地平』、中核派は『破防法研究』。やや遅れて80年代に共労党系(いいだもも他)が『季刊クライシス』を、同志社出身のブント系ノンセクト松岡利康さんが『季節』(エスエル出版会)を発行し、わたしの世代の必携書になったものです。

それらの中で、岩波の『思想』や青土社の『現代思想』に伍して、学術的論壇を形成しえたのは、太田出版の『批評空間』およびそれを継承した『at』(連載陣に大澤真幸さん・上野千鶴子さんら)でした。われわれの『情況』は、第三期にいたって運動誌と学術誌の境目の曖昧さ、実践と理論をいまひとつ結び付けられないジレンマの中で低迷していきました。

時代を驚かすベストセラーを出しつつ、ニューアカ後のポストモダン状況を、正面から引き受けたのが、2000年代の太田出版だったといえましょう。わたしが太田出版の扉を叩き、ふたつの路線で企画を提案したのはそんな時期でした。ちょうどアソシエ21(御茶の水書房・情況出版などが母体)から柄谷行人さんが離脱し、NAMを立ち上げた時期だったので「なぜ、横山はNAMの太田出版に与しているのか」と疑念を持たれたこともありました。

◆『アウトロー・ジャパン』の頃

じつは思想界の動向とは、あまり関係がありません。わたしが持ち込んだのは、ヤクザ路線と新左翼路線だったのです。

ヤクザのほうは宮崎学さん(キツネ目の男)を媒介に北九州の工藤會、新左翼は荒岱介さんの実録ものでした。じつはこの時期、早稲田の学生たちがアソシエ21を自分たちのバックボーンにしたいと訪ねてきたので、わたしが彼らを出版の仕事(テープ起こしなど)でフォローすることにしたのでした。のちに彼らは、出版社の取締役、編集プロの社長、業界紙の記者、通信社の記者になりました。

工藤會の溝下秀男さんは当時、洋泉社(宝島社系)から出版した著書『極道一番搾り』などが文庫本化され、『実話時代』を舞台に現役親分論客として一世を風靡していました。いっぽうの荒岱介さんは、ワークショップ(昔の政治集会)を開けば700人を動員する全盛期で、故廣松渉さんも注目していた理論家でした。

溝下さんと宮崎さんの『任侠事始め』『小倉の極道謀略裁判』、荒さんの『破天荒伝』『大逆のゲリラ』など、確実に2万部近くは重版するので、高瀬さんから「横山さん、これを機に雑誌をやってみませんか」と提案されたのが『アウトロー・ジャパン』でした。

これは個人的には思い切った冒険で、官能小説作家として軌道に乗っていた仕事量の半分以上を、雑誌の編集作業に割くことになりましたが、このとき助けてくれたのが、今回の『はたちの時代』の版元編集者・村上清さんなのです。今回、10年ぶりのタッグとなりました。こういう人脈は、出版業界の記録として書き記しておくべきでしょう。

◆出版界はけっこう人脈で成り立っている

太田出版の高瀬社長は一昨年に亡くなられましたが、幻冬舎の社外役員も務められていました。見城徹さんとご昵懇だったのです。

その見城さんといえば、重信房子さんの歌集やアラブ関係の本(近著では『戦士たちの記録』2022年刊)を多数出されています。学生運動での挫折や奥平剛士さんの闘い(リッダ闘争)が、生き方として強い影響を及ぼしているということのようです。

その幻冬舎は、宮崎学さんの本を文庫化していた関係で『アウトロー・ジャパン』に広告出稿をしてくれたものです。付言すれば、鹿砦社(松岡さん)も広告を出してくれました(スキャンダル大戦争)。いまも鹿砦社は『情況』の貴重な広告スポンサーです。

高瀬さんも東アジア反日武装戦線の大道寺将司さんの支援、句集の発行などをされていました。出版文化のこころざしというものは、けっきょく伝えたい記録と史実、ゆるがせにできない証言を活字化すること、なのだと思います。

という思いを綴りながら、本をお読みいただいているすべての読書子のみなさんに、心から感謝いたします。活字の道しるべが心の癒しに、あるいは明日の指針になりますように。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年9月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

読売新聞大阪本社の辣腕ジャーナリストに公開質問所を送付、「押し紙」問題についてジャーナリスト個人としての見解を求める 黒薮哲哉

筆者は、8月10日、読売新聞大阪本社の柴田岳社長宛てに公開質問状を送付した。柴田社長は日経新聞によると、アメリカ総局長、国際部長、東京本社取締役編集局長、常務論説委員長などを務めた辣腕ジャーナリストである。

公開質問状の全文を読者に公開する前に、事件の概要を手短に説明しておこう。

新聞拡販で使用される景品

発端は今年の4月20日にさかのぼる。大阪地裁は、読売新聞を被告とする「押し紙」裁判の判決を下した。判決は、原告(元販売店主)の請求を棄却する内容だったが、読売新聞の取引方法の一部が独禁法違反に該当することを認定した。「押し紙」の存在を認めたのである。

このニュースを筆者は、デジタル鹿砦社と筆者の個人サイトで公表した。その際に、判決文もPDFで公開した。ところが6月1日に読売新聞大阪本社の神原康之氏(役員室法務部部長)から、判決文の公開を取り下げるよう求める「申し入れ書」が届いた。それによると判決文の削除を求める理由は、文中に読売社員のプライバシーや社の営業方針などにかかわる箇所が含まれていることに加えて、同社が裁判所に対して判決文の閲覧制限を申し立てているからというものだった。他の裁判資料の一部についても、読売新聞は同じ申し立てを行っていた。

確かに民事訴訟法92条2項は、閲覧制限の申し立てがあった場合は、「その申立てについての裁判が確定するまで、第三者は、秘密記載部分の閲覧等の請求をすることができない」と規定している。

そこで筆者は判決文を一旦削除した上で、裁判所の判決を待った。しかし、裁判所は読売新聞の申し立てを認めた。公開を制限する記述を黒塗りにして提示した。

筆者は、黒塗りになった判決文を公開することを検討した。そこで念のために神原部長に、この点に関する読売新聞の見解を示すように求めたが、明快で具体的な回答がない。「貴殿自身にて、弊社の営業秘密や個人のプライバシーを侵害しないように十分にご留意頂き、ご判断ください」(6月28日付けメール)などと述べている。読売側の真意がよく分からなかった。

そこで筆者は、読売新聞大阪本社の柴田岳社長に公開質問状を送付(EメールによるPDFの送付)したのである。公開質問状の全文は次の通りである。

《公開質問状の全文》

2023年8月10日

公開質問状

大阪府大阪市北区野崎町5-9
読売新聞大阪本社
柴田岳社長
CC: 読売新聞グループ本社広報部

発信者:黒薮哲哉(フリーランス・ジャーナリスト)
    電話:048-464-1413
    Eメール:xxxmwg240@ybb.ne.jp

貴社が2023年の4月21日、大阪地裁で手続きを行った訴訟記録の閲覧制限申し立て事件についてお尋ねします。

貴社から訴訟記録の閲覧制限の申立を受けた大阪地裁は、同年6月5日付で、当事者以外の者が、判決文を含む28通に及ぶ文書の内、貴社が公開を望まない部分についての閲覧・謄写、正本、謄本若しくは抄本の交付又はその複製を請求することを禁止する決定を言い渡しました。貴社が閲覧制限を求めたのは、貴社の残紙の規模を示す購読者数と仕入れ部数(定数)との誤差がわかる部数や、押し紙行為の実態が判明する取引現場における原告と販売局幹部や担当との生々しいやり取りが記録された箇所がメインです。

そこで、以下の点について質問させていただきます。

1,まず、判決理由中に、「実配数を2倍近く上回る定数」の新聞を貴社が原告対し注文部数として指示した事実が認められています。つまり、原告が経営していたYCでは、搬入される新聞の約50%が残紙であったことを裁判所が認めました。新聞ジャーナリズムの信用にかかわるこのような重大な司法の判断が下されたことに対し、貴社はどのように考えておられるでしょうか。読売新聞社としての見解と、ジャーナリストとしての貴殿個人の見解を回答ください。

2,「押し紙」問題は1980年ごろから、その深刻な実態がクローズアップされてきました。販売店の残紙の性質が「押し紙」なのか、それとも「積み紙」なのかの議論は差し置き、貴社の発行部数の中には、膨大な量の残紙が存在してきたことは紛れもない事実です。貴社が閲覧制限の対象とした判決文にも、2012年4月時点で、定数の内、約半分が購読者のいない残紙であることが記載されています。わたしが、このような押し紙裁判史上画期的な司法判断を示した大阪地裁判決を、判断の資料となった当事者双方の主張書面や書証、引いては公開の法廷における証人尋問調書等を含めて公開することにより、貴社に、どのような不利益が生じるのかを具体的に教えてください。抽象論ではなく、具体的に教えてください。

3,わたしが、大阪地裁の画期的な司法判断を広く社会に報じるにあたり、裁判官の判断の裏付けとなった当事者の主張書面や証拠や判決文全部を読者に示す必要があります。つまりこの問題を報じる側に身を置かれた場合、貴社や貴殿は、黒塗りされた判決文と閲覧謄写が禁止された訴訟記録で、どのようにして読者に対し真実を正確に伝えることが出来るとお考えですか。読売新聞社としての見解と、ジャーナリストとしての貴殿個人の見解を教えてください。

4,判決文を含む訴訟記録に閲覧制限をかけた場合、ジャーナリズムの取材活動や学術研究活動にも重大な支障が生じますが、押し紙裁判資料の公共性・歴史的意義についてどのようにお考えでしょうか。読売新聞社としての見解と、ジャーナリストとしての貴殿個人の見解を教えてください。

5,貴社は今後、「押し紙」裁判の訴訟記録を閲覧制限が認められた箇所を含め、全部公開する意思がおありでしょうか。公開する予定があるとすれば、その時期を教えてください。それとも閲覧制限が認められた箇所は、永久に封印する方針なのでしょうか。

以上の5点をお尋ねします。回答は、2023年8月21日までにお願いします。

●公開質問状のPDF版
http://www.kokusyo.jp/wp-content/uploads/2023/08/cd7b0d845b82503a98a0b4d51deb4d18.pdf

●参考記事:読売新聞が「押し紙」裁判の判決文の閲覧制限を請求、筆者、「御社が削除を求める箇所を黒塗りに」

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉のタブーなき最新刊!『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』
黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

【緊急報告!】『週刊金曜日』植村隆社長による、再三にわたる鹿砦社に対する村八分、排除の論理の行使に断固抗議します! 言論の多様性をみずから棄て教条主義的に森奈津子編『人権と利権』を「差別本」扱いすることの危険性 鹿砦社代表 松岡利康

『週刊金曜日』発行人にして株式会社金曜日社長の植村隆氏がまたしても鹿砦社に対し執拗に“決別宣言”し、鹿砦社の出版活動を非難されています。

植村社長は、同誌最新号1435号(8月4日/11日合併号)に「さようなら、鹿砦社! 長い付き合いに感謝」なる、人を食ったようなコラムを掲載され、言葉は表向き丁寧で、まさに“真綿で首を絞め”ようとするかのような表現で、あらためて森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』を「差別本」として規定して詰り、この本を製作・発行した鹿砦社の広告を、今後掲載しないことを内外に公言し、まさに鹿砦社を「ヘイト出版社」扱いし排除、出版メディアの世界において村八分に努めています。まるで『週刊金曜日』は良い雑誌、これを発行する株式会社金曜日は良い出版社で、一方鹿砦社の本『人権と利権』は「差別本」であり鹿砦社は悪い出版社であるかのような口ぶりで、それを判断するのは『金曜日』でありボスの植村社長と言わんばかりです。実際にこう触れ回っている徒輩もいます。

植村社長のコラムが掲載された『週刊金曜日』1435号(2023年8/4、8/11合併号)
問題となった広告 『金曜日』1450号(6月16日号)

この際、植村社長が基にするのが同社の2019年6月20日制定の「『週刊金曜日』広告掲載基準(内規)」なるもので、ここに記載された「差別、プライバシーの侵害など基本的人権を侵害するおそれがあるもの」は「掲載できません」としています。さらには「本誌の編集方針に合致しない企業は掲載しない」とも記載されています。

制定の日付からして、これは植村氏が社長就任してから制定されたものと推察できます。これに基づき、何をもって「差別」とするかの規定、基準を明らかにもせず(『金曜日』と植村社長が「差別」と言えば「差別」?)、『人権や利権』を「差別本」、鹿砦社を「ヘイト出版社」とするのでしょうか? その「内規」で教条主義的に「差別本」「ヘイト出版社」と判断されてはたまったものではありません。そういう「内規」というものは〈死んだ教条〉ではなく、〈生きた現実〉の中で、その時々で検討され改善されていくものではないでしょうか。『金曜日』の体質としてよくいわれるのは教条主義的ということですが、まさに〈左翼教条主義〉といえるでしょう。

人の世には、人それぞれ多様な意見や生き方があります。私たちは多様な言論を尊重し最大限それらを汲んで雑誌や書籍を編集・発行しているつもりです。『金曜日』や植村社長はこのことを自ら否定し、異論を排除せんとしています。異論や多様な言論を主張する私たち鹿砦社を、いわゆる「リベラル」「左派」界隈において村八分にしようとしています。排除はやめろ! 村八分はやめろ! 

植村隆社長(2019年12月7日の鹿砦社50周年の集いにて)

◆鹿砦社の広告をめぐる問題

長いこと(創業54年)出版社をやっていれば広告が問題となることは何度かありました。いい機会ですので、2件ほど挙げてみます。

一つは、古い話ですが、鹿砦社第二次黄金時代(第一次は1969年の創業から70年代前半、第三次は2010年代前半)の1995年、毎日新聞との訴訟です。別掲の記事の上部の広告ですが、毎日新聞に念願の全面広告を出すことになり、代金(内金)300万円も代理店を通じ支払い、版下も送り、東京本社版、大阪本社版ともに日程も決まっていたのに、その数日前にドタキャンになりました。これも毎日新聞の内規に触れ「品位を汚す」ということでした。やむなく東京地裁に提訴、高裁まで争いましたが、結果は敗訴。勝ち負けの問題ではなく、異議申し立てが目的の提訴でした。

『週刊現代』2018年5月15/12日合併号 この左上の広告が毎日新聞社により掲載拒否された

もうひとつは、『金曜日』です。これは鹿砦社の広告の掲載日が、偶然に映画監督・原一男とSEALDs奥田愛基との対談の号とバッティングし、これに原一男監督が激怒、当時の北村肇社長を何度も呼び出し理不尽な抗議を行い、すでに病に冒されていた北村社長の死期を早める結果となりました。われわれの世代にとってカリスマだった原監督が実は器の小さい人間だったことがわかり私(たち)を落胆させました。

この件では、鹿砦社になんの非もありません。また、『金曜日』についても、広告掲載の号を前週か次週にするなどの工夫はしたほうがよかったかもしれませんが、それは結果論で『金曜日』にも非はありません。原監督の子どもじみた“抗議”こそ批判されるべきでしょう。

『週刊金曜日』1100号(2016年8月19日号)

そして、今回の問題、これは『金曜日』が鹿砦社の広告をしっかりチェックせず掲載したことが問題ではなく、広告主の鹿砦社や、くだんの本の編者・森奈津子になんの打診もなく、Colabo仁藤代表や取り巻きらの抗議にあわてふためき、安易にColabo仁藤代表に謝罪し、さらには、あろうことかイエローカードを飛び越して一気にレッドカードへ、今後の鹿砦社の広告を掲載しないことを決定したことが問題ではないでしょうか。

今よく使われる言葉に「多様性」という言葉がありますが、これはどこの世界でも尊重されねばなりません。「釈迦に説法」かもしれませんが、多様な言論は、創刊30年、本多勝一という著名な記者になよって設立された『週刊金曜日』こそが大事にすべきではないんじゃないですか? 『金曜日』に比べ歴史が浅い創刊18年の『紙の爆弾』は、松岡利康と中川志大という無名の二流編集者によって創刊されましたが、そんな私たちに“説教”されるようではダメですよね。

◆私たちの危惧

『週刊金曜日』やブックレット/書籍などの出版物と、『紙の爆弾』をはじめとする鹿砦社の出版物の読者は重なっている部分があります。かつて北村肇さんに聞いた話ですが、『金曜日』の読者は、①共産党支持者、②社民党支持者、③無党派の3つに分けられるとのことです。このうち①共産党支持者が「極左」とする鹿砦社の出版物を支持するわけはありませんから、②の社民党支持の一部と③の無党派の方々が『紙の爆弾』や鹿砦社出版物の読者と重なると思われます。

この意味で、植村社長による、このかんの再三にわたる鹿砦社非難は、とりわけ無党派の方々へ鹿砦社があたかも「ヘイト出版社」であるかのような強い印象を与え、打撃が大きいです。

さらには、寄稿者や著者も『金曜日』と重なっている方々もおられます。『金曜日』の編集者や関係者が、『紙の爆弾』、反原発情報誌『季節』の寄稿者らに、本件のことをたずねられたら、どう答えるのか? 多様な言論を自ら棄てた人たちの物言いがみものです。

鹿砦社は創業50数年、独立独歩、自律した小出版社として、芸能から社会問題までの中で大手メディアが報じない領域の出版物を数多く世に送り出してきました。今20年遅れで大手メディアが取り組んでいるジャニー喜多川未成年性虐待問題も、文春報道・訴訟の以前の95年から取り組んでいます(なので英BBC放送は逸早く鹿砦社に連絡してきたわけで私たちは多くの書籍や資料を提供したわけです)。また、「名誉毀損」に名を借りた逮捕・勾留によって壊滅的打撃を被ったこともありました。しかし、それでも挫けず這い上がってきました。

『週刊金曜日』というカリスマ雑誌のトップに詰られると、『金曜日』と重なる無党派の読者や寄稿者の方々にマイナスイメージを与え、これこそ名誉毀損で被害も決して小さくありません。

昨今よくいわれる、マジョリティ、マイノリティの物差しで言えば、『金曜日』は圧倒的にマジョリティであり、鹿砦社は遙かにマイノリティです。しかし、真理が常にマジョリティに在るのではなく、時にマイノリティに在ることもあります。この点、心ある読者や寄稿者、著者の皆様方のご判断に委ねたいと思います。

◆『金曜日』は他人を詰る前に自らを律せよ! 脚下照顧、内部矛盾を解消してこそ他人を批判できる!

 
中島岳志編集員辞退の言 『週刊金曜日』1453号(2023年7月7日号)

長年『金曜日』の編集委員を務めてこられた中島岳志氏が、時を同じくして編集委員を辞退されました。鹿砦社の問題とは直接関係はないとは思いますが、まずは『金曜日』は自らの足元や内部を反省し改善することが先決ではないでしょうか。

中島氏は「保守派」を自認されていますが、多数いる編集委員の中で『金曜日』でこの立場を堅持することは大変です。「リベラル」、あるいは「左派」を自称する人たちが多い『金曜日』の編集委員の中では調整役として中島氏の存在は貴重だったと思われます。

そうした中島氏がいなくなり、一時は親密だった鹿砦社を排除した『金曜日』がますます「しばき隊」化し、偏狭化していくことが懸念されます。他人の家の中のことにあれこれ口出すわけではありませんが……。

偶然かもしれませんが、鹿砦社広告掲載拒否、中島岳志編集委員辞退は、『金曜日』の今後の行方にとってターニング・ポイントになるかもしれません。

◆「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)について植村社長の見解を問う!

2016年以来、私たち鹿砦社が、会社の業績に影響があることを承知で関わってきた事件が、「しばき隊リンチ事件」ともいわれる「カウンター大学院生リンチ事件」です。事件から来年で10年が経とうとしています。激しいリンチを受けたM君はいまだにPTSDに苦しんでいます。

私と植村社長に共通するのは、「慰安婦訴訟」の植村社長の代理人と、「大学院生リンチ事件」関係訴訟の加害者側代理人に神原元弁護士が中心的に関わっていることでしょうか。神原元弁護士は大学院生M君リンチ事件を「でっちあげ」と強弁していますが、2014年師走に大阪北新地で、李信恵ら5人によって集団リンチが行われたことは厳とした事実であり、これは一連の訴訟の最後になって大阪高裁がリンチがあったこと、李信恵らが連座し、被害者の大学院生が瀕死の重傷を負っているのに放置して立ち去ったこと等を認定し、訴訟の骨格ともいえるこの部分が鹿砦社の逆転勝訴となりました。

被害者の大学院生(その後博士課程修了)の訴訟も併せ、被害の程度からすると遙かに低額の賠償金を加害者5人のうち2人に課しながらも「勝訴」とはいえ決して納得のいくものではありませんでしたし、裁判所は、決して被害者や市民の側に立って判断しないことを、あらためて思い知りましたが、このことは「慰安婦訴訟」で敗訴が確定した植村社長なら同じ想いを持たれることでしょう。

私見ながら、植村社長の「慰安婦訴訟」も、この大学院生リンチ事件に関する一連の訴訟も、黒薮哲哉氏が指摘されるように「報告事件」(詳しくは生田暉雄元大阪高裁判事著『最高裁に「安保法」意見判決を出させる方法』を参照してください)だと思っています。

『金曜日』や植村社長が「人権」を口にするのであれば、神原弁護士はじめリンチ事件(と、この隠蔽)に直接、間接に関わった人たちが『金曜日』の誌面に何人も登場していること、一時は毎回鹿砦社の『金曜日』広告には、一連のリンチ事件関係書(6点)の広告を出広していたことなどから、この事件について植村社長の見解をぜひお聞かせいただきたいと要請し拙稿を閉じたいと思います。

株式会社 鹿砦社 代表
松岡利康

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)

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「冤罪被害者」袴田巌さんの無実の訴えを退けた存命の裁判官たちに公開質問〈10〉第一次再審請求を「棄却」で確定させた最高裁の裁判官・津野修氏(現在は弁護士) 片岡 健

国民の大多数から「無実なのに死刑囚にされた冤罪被害者」と認識されている袴田巌さんの再審がついに行われることになった。袴田さんは1966年の逮捕から現在まで57年にわたり、殺人犯の汚名を着せられてきたが、無事に再審が行われれば、無罪判決を受けることは確実だとみられている。

 
津野修氏。現在は弁護士をしている

このような状況の中、過去に袴田さんに対し、無実の訴えを退ける判決や決定を下した裁判官たちはどのような思いで、どのように過ごしているのだろうか。当連載では、該当する裁判官たちの中から存命であることが確認できた人たちに対し、公開質問を行っていく。

10人目は津野修氏。2008年3月24日、袴田さんに対して特別抗告を棄却する決定を出し、袴田さんの第一次再審請求を「棄却」で確定させた最高裁第二小法廷の裁判官の一人だ。

◆「津野氏の略歴」と「津野氏への質問」

津野氏は1938年10月20日生まれ、愛媛県出身。大学卒業後は大蔵省に入省し、内閣法制局長官まで出世した。2003年に弁護士登録。翌2004年に最高裁の裁判官に就任し、袴田さんの第一次再審請求を「棄却」で確定させたのち、2008年10月20日付けで定年退官。現在は弁護士になり、東京都港区虎ノ門にある『原・植松法律事務所』に所属。関東地区に在住の松山市にゆかりのある人たちが集う『松山愛郷会』の会長を務めている。
この間、2009年11月に旭日大綬章を受章。その際、読売新聞東京本社版2009年11月3日朝刊では、津野氏のことが以下のように紹介されている。

最高裁判事として司法制度の発展に貢献した。

そんな津野氏に対しては、以下のような質問を書面にまとめ、郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒を同封のうえ、『原・植松法律事務所』に特定記録郵便で郵送し、取材を申し込んだ。回答が届けば、紹介したい。

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【質問1】

袴田巌さんは再審が決まり、無罪判決を受けることが確実な状況となりました。津野様はこの状況をどのように受け止めておられますか?

【質問2】

津野様が旭日大綬章を受章された際、読売新聞東京本社版2009年11月3日朝刊では、津野様のことが以下のように紹介されています。

〈最高裁判事として司法制度の発展に貢献した。〉

津野様は、これがご自身に相応しい評価だと思われますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※津野氏の生年月日と出身地、異動履歴は『司法大観 平成十九年版』と『新日本法規WEBサイト』の情報を参考にした。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

8.6広島の一日 平和記念式典で拍手が一番大きかったのは?  さとうしゅういち

2023年の8月6日。78回目の原爆の日です。この日は、日曜日で、快晴でした。

 
平和記念公園

筆者は、自宅前からバスで広島市中区の平和記念公園近くの終点まで乗車。ただ、疲労しきっていたため乗り過ごして運転手さんにたたき起こされる不覚を取りました。

気を取り直して、平和公園へ向かうと、原爆ドーム前では左派の集会を機動隊が取り囲み、その周りから右派の方々が大声で挑発されているのを拝見しました。左派がうるさいとおっしゃる右派の方々ですが、右派のアジテーションの方が音量は大きかったようにも見えました。右派の弁士は「左派に対抗しなければいけないからだ。」と弁解されていたのが印象に残ります。

◆手荷物検査を経て入場 G7で過剰警備常態化?

原爆ドームの脇を抜けると「自民解体」というプラカードを置いている男性がおられました。

そして、平和記念公園に入り、平和記念式典会場へ向かいました。

2019年以前、すなわちコロナ前に今年から規模を回復させた平和記念式典。しかし、安倍晋三さん暗殺事件、岸田総理暗殺未遂などが相次ぐ中で手荷物検査も行われるようになりました。なるべくなら、人々の不満が高まらないような適切な政治を心掛けていただきたいものですが、現実に襲撃事件が起きている状況があるのも事実です。

とはいえ、G7広島サミットを契機に過剰警備・過剰規制に慣らされてしまうのも怖いものがあります。また、警察車両はわかるのですが、なぜか消防車がたくさん止まっていました。まさか、爆弾テロによる火災にでも備えていたのでしょうか?

[左]「自民解体」というプラカード[中央]多数の消防車が並ぶ[右]「警備・手荷物検査にご協力ください」というプラカード

◆広島市長の平和宣言 核抑止否定は良いが「平和文化」とは?

黙とう後、今年で就任後13回目となる松井一実・広島市長が平和宣言を読み上げました。

松井市長の平和宣言は秋葉忠利前市長時代よりも長いのが特徴です。これは、東京から当初は落下傘的に戻ってこられた松井市長が、被爆者らから意見をつのり、その意見を盛り込むようにしたことがあります。松井市長は初期には311福島原発事故を受けて、エネルギー政策の転換を求めるなど、国に対してガツンと物申す面もありましたが、そういう面は最近、薄れています。

松井市長は、G7広島サミットでの広島ビジョンについて事実関係に触れたうえで、「しかし、核による威嚇を行う為政者がいるという現実を踏まえるならば、世界中の指導者は、核抑止論は破綻しているということを直視し、私たちを厳しい現実から理想へと導くための具体的な取組を早急に始める必要があるのではないでしょうか。」と核抑止論を批判。その上で平和文化の重要性を強調しました。

それはそれでいいのですが、松井市長と言えば、どうしても中央図書館をデパートの上層階に移す計画など、文化をあまり大事にしないイメージがあります。ご自身の市政の足元を見つめなおしていただきたいものです。

◆子どもたちの「平和への誓い」最も拍手大きく

子どもたちの平和への誓い。今年も小学六年生二人が読み上げました。すべてのあいさつの中で最も拍手が大きく、かつ長いのはこの「平和への誓い」です。河井事件や深刻な県内の産業廃棄物問題などを背景に他の挨拶している大人の政治家たちへの広島県民の根強い不信感をも感じました。

◆岸田総理、まったく内容が頭に入ってこない

岸田総理の挨拶。正直、全く内容が頭に入ってきませんでした。周りの人の中には総理の挨拶終了を待たずに立ち上がって帰られる方も数人いらっしゃいました。

筆者は筆者で岸田さんの顔を拝見してついうっかり、「勘弁してくださいよ、増税」と思わず言葉が出てしまいましたが、誰にも咎められませんでした。

◆広島県知事 総理を目の前に核抑止論を厳しく批判は良いが、「本業」を真面目に!

岸田総理を目の前に、「核抑止論者は核抑止論が破綻したとき、全人類の命、地球上のすべての命に対して責任を負えるのか」と問い、「核兵器は存在する限り、人類滅亡の可能性をはらんでいるのがまぎれもない現実。その可能性をゼロにするためには、廃絶しかないのが現実なのです」と強く訴えました。毎回の平和記念式典で核抑止論者は厳しく批判する湯崎知事。それはそれでいいのですが、今年に限っては、筆者は複雑な思いです。

特に三原・本郷町の産業廃棄物処理場問題では、知事が許可した処分場から汚染水が出ています。田んぼに水が引けずに困窮している県民がいますが、県は再稼働を容認し、困っている県民には何もしていません。そんなふうに湯崎知事が「本業」をおろそかにしていると、湯崎知事がおっしゃる正論まで、説得力を持たなくなってしまうのではないか、と懸念されます。

 
「反戦タイガース」を名乗る男性が、「六甲おろし」を「原発下ろし」に変えた替え歌を披露

◆中満国連事務次長 さすがの演説

中満泉・国連事務次長は、事務総長自ら出席された年を除き、ほぼ毎年、近年では平和記念式典に参加されます。核兵器禁止条約にも触れられ、100点満点の演説でした。国際公務員を目指される日本人の多くが実は女性。中満さんはそうした優秀な日本人女性の代表的な方でもあります。

ただ、一方で、日本という国があまりにも若い女性にとっては魅力に欠けるから、国際公務員を目指される方も多いということもあるかと思います。広島自体が若い女性を中心に人口流出が多い中で、筆者は複雑な思いで、中満さんによる演説を聞かせていただいています。

◆中国電力前で汚染水放出・核のゴミ持ち込み・岸田自称GXにNO

その後、筆者は、中国電力前で【8.6ヒロシマ平和へのつどい】主催の集会に合流しました。福島の汚染水海洋放出ノーの訴え。そして、上関に核のゴミ=死の灰の貯蔵施設をつくろうとする中国電力と関西電力の暴挙への怒りの声。そして、岸田政権の自称GXによる、老朽原発再稼働にNOの声。

この日は日曜日でしたが怒りの声が上がりました。そうした中で、「反戦タイガース」を名乗る男性が、「六甲おろし」を「原発下ろし」に変えた替え歌を披露し、一座を和ませました。

◆原爆小頭症をご存じですか?

午後は、8.6ヒロシマ平和の夕べに参加。平尾直政さんのご講演が最も印象に残りました。

平尾さんはきのこ会(原爆小頭症被爆者と家族の会)事務局長、でRCC社員を長年務め、現在は大学院生でもいらっしゃいます。

 
原爆小頭症とは?

原爆小頭症は胎児として近距離被爆した方で、被爆が原因で、知的障害やその他の症状が発生した方です。広島で48人、長崎で15人いらっしゃったそうです。意外に少ないと思われる方もおられるでしょうが、そもそも、近距離でお母さんが被爆した場合、即死してしまう場合が多いので、数としてはこれくらいだそうです。しかし、数が少ないがゆえに、実態が伝わらず、当事者や親御さんが苦しんでこられたのです。被爆二世と勘違いされることもあったそうです。

旧ABCC(現・放射線影響研究所)は、原爆小頭症の存在を把握していたが表沙汰にしてきませんでした。戦後二十年、救いの手が差し伸べられず、成育不良は栄養失調ということにされて原爆症に認定されない状態が続いてきたのです。

そして、1965年に親たちが集まり、きのこ会が発足しました。会の名前には親たちの強い思いがあったそうです。きのこ雲の下で生まれた小さな命だがきのこのように元気に育ってほしい。というものです。

会の目標は
1.原爆症認定。
2.終身補償
3.核兵器廃絶
で、1と2が一定程度実現した現在では、核兵器の廃絶が一番の目標です。

原爆小頭症会員は2023年7月末で11人おられます。(厚労省によると当事者は12人です。一人の未加入の方は個人情報保護法により会としてアクセスできない状況です)

きのこ会をジャーナリスト3人が支えたそうで、その一人は、昭和帝に『原爆についてどう思うか』聞いた中国新聞の秋信記者です。親たちは1966年、分裂した平和運動やマスコミの報道に傷ついていた中で、ジャーナリスト3人が窓口になり「盾」になったものです。

原爆小頭症児には地域の厳しい目が向けられてきました。幼女がいたずらをされそうになった事件があった際には、根拠のないうわさで犯人扱いさたそうです。また、善意で縁談を持ち込んだ人に対して、お断りしたところ、「お宅は贅沢言えないでしょう」と言われて傷つく、ということも起きています。

平尾さんは「原爆投下はアメリカがやった。しかし、原爆小頭症の子供と家族に「冷たいまなざし」を向けたのは悪気のない周囲の人たち-私達だ。」と指摘しました。

ヨシカズさんという男性のケースでは、50歳で人工透析により入院し、そのころ、母親も母親は脳梗塞に倒れ入院。母親の願いは息子と一緒に暮らすことでしたが、ヨシカズさんは1998年に死去。納骨を終えた日に母親も死去し、生前に夢はかないませんでした。

2013年67歳で亡くなった女性の場合、戦後すぐに、母親も兄も出て行ってしまい、家族がバラバラになりました。この女性は瀬戸内海の島で父親と二人くらしで、父親が亡くなってから家がゴミ屋敷状態になっていました。

兄が施設入居を薦めるも島の暮らしになれていたので結局、拒んだそうです。お父さんは生前、娘について「自分より早く死んでほしい。」とこぼしておられたそうです。それは娘の将来を心配してのことで重苦しさが伝わってきます。こういうことを繰り返させないためにも核兵器は廃絶しなければならない。それがきのこ会の今の目標だそうです。

最後に平尾さんは「ローソクはいつか燃え尽きるがほかのローソクに火を移せば燃え続ける。わたしはその別のローソクになりたい」と決意を表明し、大きな拍手を浴びました。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年9月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

ゆっさゆっさ揺れる時代 ── 広島原爆から78年目の8月6日に想う 田所敏夫

「ゆっさゆっさ」時代は揺れている。昨年よりも、一昨年よりも、もちろん10年前より40年前よりも気味悪く、不吉な方向にむかって。げんなりする。黙したくなる誘惑が襲う。

Long time ago 44年前
原子爆弾が落ちてきて
何十万人もの人が
死んでいったのさ

Long time ago 44年前
8月6日の朝 8時15分
何の罪も無い人が
殺されちまったのさ


◎[参考動画]LONG TIME AGO【THE TIMERS】Hiroshima 1989

Timers でZERRYこと忌野清志郎が「原子爆弾ブルース」を歌ってから34年、清志郎が逝ってから14年、広島原爆から78年目。

わたしの祖父は九州の生まれで、造船を学んだ後、造船技術者の職に就いた。複数の造船会社で働いたようだが、三菱造船に籍を置いたこともある。そういえば三菱のことを「ダイヤモンド」と呼んだ人たちがいた。美しさ幸せの象徴として名付けられたわけではないではない、ダイヤモンド。

彼は所用で出かけた東京で今から数えること100年前、1923年9月1日11時、予期せぬ大震災の最中に身を置く。酒が入らなければ多弁ではない彼が、関東大震災に驚嘆した体験は何度か自ら語りはじめ聞かせてくれた。

「ゆっさゆっさ、と揺れるんじゃのう。5分以上じゃったんじゃないかのう。長い揺れじゃった。長い。旅館の二階におった。ゆっさゆっさ揺れるんじゃのう。気持ち悪うてな」

そうか、大地震は「ゆっさゆっさ」揺れるものなのか。そう了解していたけれども、「ゆっさゆっさ」は彼の個性的な語彙選択による描写であった。大地震は「ゆっさ、ゆっさ」どころか「ドカーン」や「ゴー」であることを後年わたしは、阪神大震災と東日本大震災で二回、体験する。でも再び暗渠に時代が落ちてゆく今日を表す擬態語としてこそ「ゆっさゆっさ」がふさわしい気がする。

彼が九州大学の工学部で造船を学びだした時代、日本の国家的「ゆっさゆっさ」はすでに口火を切っていた。朝鮮半島を併合して中国大陸へも武力侵攻を続け、やがて太平洋戦争の破滅へと突っ込んでゆく前段階。「大正デモクラシー」との評価もあるけれども、外に向けてに日本は侵略と強奪の階段を上り始めたのではなく、すでに二階へあゆみを向ける「踊り場」にいたのだ。

大学で造船を勉強し当然造船業の技術者の職に就いた彼に、時代はどのように映ったのだろうか。彼にはマルキシズムやアナーキズムの風を受けた形跡はまったくないから、わたしが問えば過去の話はしてくれたのだと思う。そういえば退職後、テレビの国会中継を見ていて「今は、共産党しかまともなことは言えんね。もうほかの政党はダメじゃね」と頷き独り言のように話しかけられてちょっと驚いた記憶がある。まだ消費税が導入される前、社会党もあった時代だ。思考が混濁していたわけでもないのに、彼はどうして急に1980年代中盤に「今は、共産党しかまともなことは言えんね。もうほかの政党はダメじゃね」と発語したのだろう。

「天皇よりは長生きしたい」

あれはわたしの聞き違えだったのか。天皇ヒロヒトと同年に生まれた彼は、苦労はしただろうが社会的には明らかに成功者の範疇に入る。かといって軍国主義でも回顧の癖もなかった。まさか「虹をかけたい」などと思ったわけではあるまいに、「天皇(ヒロヒト)より長生きしたい」の真意はなにか。

Long time ago 44年前
人間の歴史で 初めてのことさ
この日本の国に
原子爆弾が落ちたのさ

知ってるだろ?
美少女も美男子も たった一発
顔は焼けただれ 髪の毛ぬけ
血を吐きながら
死んでいくのさ Oh


◎[参考動画]昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」

1945年8月6日、彼は広島市内にいた。市内中心近くにあった家にいたのか、造船所に近い別の場所に住居を求めていたのかはわからない。彼だけでなく息子数人はさらに爆心地近くに下宿していた。

Long time ago 44年前
原子爆弾が 落ちてきたことを
この国のお偉い人は
一体どう考えているんだろう?

Long time ago 44年経った今
原子爆弾と 同じようなものが
おんなじこの国に
つぎつぎと出来ている

8月6日や8月15日、それをはさむ戦中戦後についての記憶を彼から聞いたことはない。彼の記憶の中で歴史はどのように整理されていたのだろう。なにより、どこから「天皇よりは長生きしたい」思いが立ち上がったのだろうか。

ダイヤモンドが虹をかけたいと空を見上げるだろうか。そんなことはないだろう。

原爆はダイヤモンドめがけて落とされたとの解釈も象徴的に不可能ではないだろう。そしてダイヤモンドは「国防費2倍」の岸田政権独断決定に、表情を変えずに時代を超えて、歓喜しているに違いない。

「ゆっさゆっさ揺れる」関東大震災の話をしてくれたとき、彼に聞いておくべきだった。ダイヤモンドを始末しえたのか、そうではないのか、ひょっとして虹をかけたかったのか、あれは錯覚だったのか。


◎[参考動画]アニメ映画『はだしのゲン』(1983年/原作・脚本・製作者:中沢啓治/監督:真崎守/設定:丸山正雄)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。著書に『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社)がある。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

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ピョンヤンから感じる時代の風〈27〉周到に準備された日米韓“核”協議体創設 ── キャンプデービッド日米韓首脳会談 若林盛亮

◆キャンプデービッド日米韓首脳会談の目的-日米韓“核”協議体の創設

8月6日は「原爆投下の日」、8月15日は「敗戦の日」(一般には「終戦の日」)としてわが国で全民族的、全国民的な「歴史の記憶」が刻まれた日、その悲惨な記憶の教訓から「非戦非核の誓い」が生まれた日だ。敗戦後の日本はいわゆる「一億総懺悔」と言われるが、これは決して懺悔ではない。そういう意味で8月はわれわれ日本人にとって大切な民族的良心、国民的良心の象徴、「非戦非核の誓い」の月間だと言える。

その8月の「歴史の記憶」の日々直後の8月18日、岸田首相は訪米する。日米韓首脳会談に臨むためだ。それは「非戦非核の誓い」を愚弄するものになるだろう。

今回の3ヶ国首脳会談のためにバイデン大統領は合衆国大統領別荘キャンプデービッドで会談を行うと表明した。キャンプデービッドでの首脳会談はこれまで数々の外国首脳との重要会談が行われ、わざわざ「キャンプデービッド会談」と特別扱いで呼称される。そのキャンプデービッドで行う今回の日米韓首脳会談をいかに米側が重視しているかを象徴するものだ。

主要議題について「“核の傘”を含む米国の拡大抑止の強化も議論するとみられる」とすでに報道にあるように、日米韓“核”協議体創設について何らかの合意をめざす、これが米バイデン政権の狙いであろう。

すでに米韓の間には米韓“核”協議グループ(NCG)創設がG7広島サミットを前にした4月末の尹錫悦(ユン・ソクヨル)「国賓」訪米時に合意されている。このNCGの狙いは広島サミット時の日米韓首脳会談でこれに日本を引き込むことだった。ところがこれはバイデンの国内政治混乱で急遽、帰国という「突発事故」で実現しなかった。8月の派手に演出されたキャンプデービッド会談は広島サミット時にできなかった日米韓“核”協議体創設合意を日本に飲ませること、これがバイデン米国の狙いであろうことは明らかだ。

日米韓“核”協議体、それはNATOのような核使用に関する協議システム、NATO並みの米国と日本との「核共有」システム、有事には自衛隊も米国の核使用を可能にする「拡大抑止」協議システムの創設が米国の狙いだ。

その究極の狙いは、日本の対中(朝)代理“核”戦争国化にある。これが現在の米国の日本への要求、戦後日本の非戦非核の国是放棄を迫る「同盟義務」遂行要求だ。

具体的には、米国の戦術核を自衛隊の地上発射型の中距離ミサイルに搭載可能にすることだ。なぜかと言えば、米国は自国から発射するICBM(大陸間弾道弾)は使わない、相手国の核報復攻撃で自国が壊滅的被害を受けるからだ。だから日本列島を対中(朝)・中距離“核”ミサイル基地化して「拡大抑止力強化」を図る。言葉を換えれば、自分を後方の安全地帯に置いて日本に対中(朝)代理“核”戦争の最前線を担わせる、これが米国の隠された陰険かつ邪悪な企図だ。

対ロシアで米国がウクライナでやっていること、それを対中国で「同盟義務」として日本にやらせる卑劣で危険なこの米国の企図を知ってか知らずか野党もマスコミも誰も問題にしていない。とても危険なことだ。だからこの通信の場を借りて強くその危険を訴えたいと思う。

◆周到に準備された日米韓“核”協議体創設

「日本の代理“核”戦争国化」などというと「ピョンヤンからの極端な見解」「杞憂」と思われるかもしれない。でも現実はそのように動いて来たし、今その実現段階にまで迫っている。そのことを以下、述べたい。

これまで米国は用意周到かつ注意深く推し進めてきた。それだけ日本人の「非戦非核」意識を警戒し、いかに細やかな注意を払ってきたかということ、それは逆に米国の本気度を表しているということではないだろうか。

起源は、2017年末に行われた米国家安全保障戦略(NSS)改訂にまで遡(さかのぼ)る。トランプ政権下で改訂された米NSSの基本内容は以下の二点に集約される。

① 主敵を中ロ修正主義勢力としたこと。

「現国際秩序(米覇権秩序)を力で変更しようとする危険な修正主義勢力」として中国とロシアを「強力な競争相手」、主敵と規定した。ここから今日の対中ロ新冷戦体制づくりが始まったと言える。

②「米軍の(抑止力)劣化」を認め、これ補う「同盟国との協力強化」を打ち出したこと。

このNSS改訂に基づき「同盟国」日本への「同盟義務」圧力を米国は加え始めた。

その「同盟義務」とは、「米軍の劣化」を補う自衛隊の抑止力化(攻撃武力化)、専守防衛という「盾」から「矛」への転換であった。

これはすでに昨年末の岸田政権の国家安全保障戦略改訂、「安保3文書改訂」の要である「反撃能力(敵基地攻撃能力)保有」で現実のものとなった。

しかし単なる「自衛隊の矛化」、反撃能力保有だけが米国の目的ではない、より本質的な狙いは「日本列島の中距離“核”ミサイル基地化」、具体的には「核共有」論に基づく自衛隊の核武装化による日本の代理“核”戦争国化にある。

以下、このためにいかに米国が周到な準備を進めてきたかを見たい。

その先駆けは2021年、米インド太平洋軍が「対中ミサイル網計画」として、日本列島から沖縄、台湾、フィリッピンを結ぶいわゆる対中包囲の「第一列島線」に中距離ミサイルを配備する方針を打ち出したことだ。米軍の本音は日本列島への配備であり、しかも計画では米軍は自身のミサイル配備と共に自衛隊がこの地上発射型の中距離ミサイルを保有することも暗に求めた。

 
2023年1月23日付読売新聞

その2年後の今年、1月23日の読売新聞は大見出しにこう伝えた。

「日本に中距離弾、米見送り」(読売朝刊)と。

その記事はこう続く。

「米政府が日本列島からフィリピンにつながる“第一列島線”上への配備を計画している地上発射型中距離ミサイルについて、在日米軍への配備を見送る方針を固めたことが分かった」

その理由はこう説明された。

「日本が“反撃能力”導入で長射程ミサイルを保有すれば、中国の中距離ミサイルに対する抑止力は強化されるため不要と判断した」と。

「安保3文書」で「反撃能力の保有」、長射程ミサイル保有を決めた日本が米軍の肩代わりをしてくれるなら「在日米軍への中距離ミサイル配備は不要」という論法だ。

「安保3文書」では「反撃能力保有」の要として「陸自にスタンドオフミサイル部隊の新設」が盛り込まれた。この陸上自衛隊の新設部隊が「中国の中距離ミサイルに対する抑止力」として米軍の肩代わりをする役目を帯びることになるということだ。スタンドオフミサイルとは敵の射程外から発射できるミサイル、わかりやすく言えば長射程の中距離ミサイルのことだ。「中距離ミサイル」と言わずにわざわざ日本人にわかりづらい英語表記を使うところにも、国民にわからないように事を進めていくことにいかに神経を使っているかを示すものだ。

なんのことはない、「日本に中距離弾、米見送り」の真意は米軍に代わって自衛隊が対中ミサイル攻撃をやれ! ということだ。

そして次には自衛隊のミサイルへの“核”搭載問題を解決することだが、これは非核三原則など非核意識の高い日本に強要するのは難題と米国は見ており、注意深く巧妙に「拡大抑止力」提供という形で議論を進めてきた。

昨年5月、バイデン訪日時の日米首脳会談で米国が日本への核による「拡大抑止」提供を保証したが、この時、河野克俊・元統合幕僚長は「米国から核抑止100%の保証を得るべき」だが、「それはただですみませんよ」と日本の見返り措置、その内容を示した。

「いずれ核弾頭搭載可能な中距離ミサイル配備を米国は求めてくる、これを受け入れることです」と。

この時点では米軍基地への核搭載可能な中距離ミサイル配備だが、先に述べたように陸自新設のスタンドオフミサイル部隊がこれを肩代わりすることになる。

自衛隊ミサイルへの核搭載を可能にするためには、「米国の核」提供、「核共有」の合意が必要だ。

この頃から安倍元首相が、米国との「核共有」の必要性を執拗に主張し始めた。この主張を実現するのがNATOのような核使用に関する協議システム、「日米核協議の枠組み」、日米“核”協議体の創設が必要となる。

ここで登場したのが、「北朝鮮の核に対抗」に積極的な尹錫悦韓国大統領だ。

尹大統領は「土下座外交」の非難を受ける政治的リスクを伴う元徴用工問題で大幅に譲歩してまで今年4月の日韓首脳会談実現を主導した。

尹大統領の「勇気ある政治的決断」(バイデンの評価)で日韓首脳会談開催が決まるや、即米国は動いた。

 
2023年3月8日付読売新聞

読売新聞(3月8日朝刊)は一面トップ記事で日韓正常化の動きを受け米政府が「“核の傘”日米韓協議体」創設を日韓に打診していることをワシントン特派員がリークした。

この読売記事では、「韓国は有事に備えた核使用の協議に関心を示している」が問題は日本政府だとして岸田首相に「有事に備えた核使用の協議」、すなわち日米「核共有」の議論に踏み込むことを暗に求めた。

この記事を裏付けるように4月末、尹錫悦大統領「国賓」訪米時に日本に先駆けて米韓“核”協議グループ(NCG)創設が合意された。これは7月G7広島サミット時の日米韓首脳会談を念頭に置いたものだったが、上述のような経緯からこの8月のキャンプデービッド会談で日米韓“核”協議体創設が話し合われ合意されることになった。

以上、見てきたように、NATO並みの「核使用に関する協議体」設置を日本との間で合意するために米国は周到に準備し、韓国大統領まで動員してその実現にこぎつけたことがわかると思う。

日本列島の中距離“核”ミサイル基地化、日本の対中(朝)代理“核”戦争国化、それは極論でも杞憂でもない、米国は本気だ。そのことを強調したい。

◆米国の最大の障害は「核に無知な日本人」

バイデンは尹錫悦大統領や岸田首相は容易に操ることはできるだろうが、日本国民の「非戦非核」意識はそう簡単に揺らぐものでないことを知っている。だからこそ米国は「核に無知な日本人」に対する宣伝攻勢を今後、かけてくるだろう。

それはすでに始まっている。

これについてはデジタル鹿砦社通信5月4日号「対日“核”世論工作の開始-G7広島サミット」で詳しく述べたので、ここでは概略のみ述べるに留める。

「日本の最大の弱点は、核に対する無知だ」!

「安全保障問題の第一人者」とされる兼原信克元内閣官房副長官補(同志社大学特別客員教授)が読売新聞主催のG7広島サミット開催記念シンポジウム(4月15日)でこう断言した。

このシンポジウムへのメッセージで川野徳幸・広島大平和センター長は、「今後、核廃絶の理想と、米国の“核の傘”に守られている現実の隔たりが深刻化するかもしれない。それでも、その葛藤から逃げずに議論するべきだ」と現実の核の脅威から「逃げずに核抑止を議論」すべきことを訴えた。これを読売新聞は「広島の声」として掲載した。

こうした議論がすでに起こっているという事態は尋常ではない。

キャンプデービッド会談で日米韓“核”協議体創設の合意は、おそらく日本人の「非核意識」を刺激する「核共有」までは踏み込まない穏便な形でなされるだろう。

しかしその後は「ロシアのウクライナでの核使用の危険」「中国や北朝鮮の核軍拡の危険」という「核の脅威」を煽り、米国からの「核の傘の保証」を得るためには「核抑止力強化の議論」から逃げてはいけないという議論が起こされるものと思われる。

おそらく「非核三原則」を守れ! 式のこれまで通りの受動的な反対論だけでは、米国の本気度には対抗できないと思う。

日本を対中対決の最前線にするのか否か、中ロ(朝)を脅威と見てこれに対抗するという選択肢が日本にとっていいのか否か、究極的には日本の安保防衛政策はどうあるべきか、日米安保基軸を続けていくの否か、非戦非核基軸の安保防衛政策はどのようであるべきか、こうした議論が問われてくると思う。

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『一九七〇年 端境期の時代』
『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』

8.6前にヒロシマが試される! 中国電力が関西電力と共同で山口県上関町に使用済み核燃料中間貯蔵施設建設計画の暴挙! さとうしゅういち

8.6を控えた広島にとんでもないニュースが飛び込んできました。

広島市中区に本店のある中国電力が8月1日、山口県上関町の原発予定地の敷地の一部に原発から出た『死の灰』(核のゴミ)の中間貯蔵施設を建設することが可能か、調査するということが各社により報道されました。そして、中国電力は2日に上関町役場を訪問し、関西電力と共同でこの中間貯蔵施設をつくるための調査開始を通告しました。


◎[参考動画]山口県上関町に使用済み核燃料中間貯蔵施設建設を提案 中国電力 会見(テレビ山口)

 
広島市中区の中国電力本店(筆者撮影)

◆上関原発建設は311と住民の力でストップ中

上関町には原発計画が持ち上がって40年余りです。中国電力は上関町の本土側南部の沿岸部を埋め立て、原発をつくる計画です。

しかし、上関町内でも祝島の漁民は反対派が圧倒的に多くなっています。この祝島島民の会を中心とする皆様の反対運動により、計画は進んでいません。また、町長選挙や町議選では賛成派 vs 反対派の得票の比率はほぼ3:2ですが、2003年の県議選で反対派の議員が当選したり、国政選挙でも原発反対を掲げた平岡秀夫さんが2023衆院補選で健闘したりするなどしています。

こうした中、東電福島原発事故があった2011年以降は埋め立て工事が中断しています。中国電力の原子炉設置許可申請に対して10年以上、原子力規制員会は審査会を開いていませんし、今後も開かれる予定がありません。最近では、中国電力側が『祝島島民の会』を訴えるいわゆるスラップ訴訟を提起するなどしています。中国電力側の焦りも垣間見えます。

そもそも、東京電力管内と違い、中国電力管内は、電力の需給には一定の余裕もあります。従って、新規原発建設自体には中国電力単体では大義名分は薄いのです。正直、島根原発すら不要です。

(※なお、筆者は、もちろん、東京電力管内でも例えばスマートグリッドの推進、蓄電技術の推進などで、原発がいらない状態を実現することは可能とみています。東電管内の電力需給のひっ迫は3.11以降12年間の日本政府の無策のつけです。)

◆岸田政権の自称GX法が引き金か?

こうした中で、原発ではなく、中間貯蔵施設の話が持ち上がりました。第一に、前述のとおり、上関原発をつくれる見込みがほぼまったくないからです。

その上で、第二に、安倍政権時になかった要素として以下のようなことも考えられます。すなわち岸田政権による自称GX法で島根原発由来の核のゴミが増える可能性です。いまのところ、中国電力に原発は島根原発しかありません。1号機は2015年4月30日に法的には廃炉(もちろん、現在も廃炉作業中)、2号機が再稼働へ知事のゴーサインも出て向けて準備中、3号機が建設中です。したがって、中間貯蔵施設には当面は島根原発の死の灰=核のゴミが運び込まれることになります。

岸田政権は、2023年の通常国会において、自称GX(グリーントランスフォーメーション)法を強行しました。気候変動対策と称して、実際には60年超の原発も運転可能にする、そのために公費を投入するというものです。これにより、島根原発の運転期間も延長する。そうなると、当然、死の灰・核のゴミも増えます。島根原発内の死の灰の中間貯蔵をしているプールも満杯になってしまう。だから、中国電力としては、原発建設に苦戦している上関に死の灰=核のゴミを押しつけてしまえ、ということなのでしょう。

また、共同で中間貯蔵施設計画を進めている関西電力は美浜原発など福井県に多数の原発を抱えています。したがって、岸田政権の政策転換でさらに死の灰=核のゴミは増え、にっちもさっちもいかなくなります。そこで、原発建設の見込みがなくなった上関に関西電力も目を付けた、ということでしょう。

第三に、過去の経緯から「上関町の原発推進派を納得させるため、ほぼ実現が不可能な上関原発にかわる「地域振興策」(という名のばらまき)の大義名分を中国電力としても得たい。そこで関西電力からも死の灰=核のゴミを受け入れる中間貯蔵施設が進められた」(上関町の事情に詳しい『原発はごめんだヒロシマ市民の会』の木原省治さんによる3日(木)の中国電力前での演説要旨)ということです。

◆最終処分も決まらぬ死の灰

しかし、そもそも、死の灰=核のゴミの最終処分自体が決まっていません。日本は活断層もたくさんあります。正直、安全な場所などどこにもない。そもそも、死の灰=核のゴミが安全なレベルに放射線の発生が提言する何十万年か後に日本政府というものが存在するか、否、人類そのものが今の形で存在するかどうかも怪しいでしょう。

日本政府はいわゆる核燃サイクルを試みてきました。すなわち、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出し、それをウランと混ぜてMOX燃料として再利用する計画です。だが、フランスに頼んで作ってもらったMOX燃料は、ウラン燃料と比べてもはるかに高価です。日本が独自に青森県六ヶ所村に建設中の再処理施設もいまだ稼働していません。あまりにも高コストなのです。結局、六ケ所村に半永久的に死の灰・核のゴミが山積みになりかねない。それを避けるには、各地に中間処理施設をつくる必要がある、というのがいわゆる原子力村側の言い分です。

しかし、最終処分が決まらない以上、各地に分散したところで、そこが中途半端な形で半永久的な処分場になりかねない。これはこれで危険すぎます。正直、死の灰・核のゴミは発生した場所で、国が責任をもって最終的に保管するのが現時点では最もリスクが低いのではないでしょうか。国が国策で推進しておきながら、電力会社に席に責任を押し付けるのはいかがなものかと思います。

◆『山口に核のゴミ』=旧民主党がブラックジョーク的に提言も真面目な議論はなし

山口県内では、死の灰・核のゴミの中間貯蔵については真面目な議論はなんらされていません。ただし、2014年2月の旧民主党(現・立憲民主党)の党大会で、核のゴミの最終処分場は安倍総理(当時の地元)である山口県にすればいいという趣旨の提言を決めました。しかし、世論の批判により撤回しました。あくまで、当時、絶頂期にあった安倍晋三さんへの当てつけとして、守勢に立たされていた野党によるブラックジョークの域は出ていません。

◆中電・関電に上関中間貯蔵施設NO、地元選出の総理に自称GX法撤回の声を!

 
左が中国電力の吉岡様、右が上関原発止めよう広島ネットワークの溝田さん。奥がマスコミ陣。筆者撮影

山口県はたしかに安倍晋三さんを輩出しましたが、しかし、核のゴミをさらに増やすような自称GXを決めたのは広島の岸田さんです。今回は、広島が山口にご迷惑をおかけしています。この8月6日へ向けた広島に住むものとして、すべきことは中国電力に対しては中間貯蔵施設を上関につくるなどと言う暴挙は止めること、上関原発絡みでのスラップ訴訟は止めること、そして島根原発の再稼働を止めることを求めていくことです。そして、平和記念式典にも出席される岸田総理に対してはガツンと自称GX撤回を求めることです。

8月3日には『上関原発止めよう広島ネットワーク』が中国電力に申し入れを行いました。

また8月6日には市民団体が毎年恒例ですが中国電力前へデモを行います。筆者も、最大限、こうした動きに連帯・参加していきます。

それとともに、原発は電力会社任せではなく国が国有化で責任をもって廃止すべきこと、また、早急に送電網の公営化とスマートグリッド、蓄電技術の普及に国が責任をもって投資し、原発が不要な状態を東電管内の真冬や真夏の繁忙期でも実現することを改めて主張します。

被爆地・広島の周辺の瀬戸内地方が、何度もご報告しているように産業廃棄物のゴミ箱になろうとしている上に、今度は死の灰=核のゴミのゴミ箱になろうとしている2023年の8.6。筆者も含めて正念場です。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)


〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌
季節 2023年夏号
NO NUKES voice改題 通巻36号 紙の爆弾 2023年7月増刊

《グラビア》原発建設を止め続けてきた山口県・上関の41年(写真=木原省治
      大阪から高浜原発まで歩く13日間230Kmリレーデモ(写真=須藤光男

野田正彰(精神病理学者)
《コラム》原子炉との深夜の対話

小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
《コラム》核のゴミを過疎地に押し付ける心の貧しさ

樋口英明(元福井地裁裁判長)
《報告》司法の危機 南海トラフ地震181ガル問題の重要性
《インタビュー》最高裁がやっていることは「憲法違反」だ 元裁判官樋口氏の静かな怒り

菅 直人(元内閣総理大臣)
《アピール》GX法に断固反対を表明した菅直人元首相の反対討論全文

鮫島 浩(ジャーナリスト)
《講演》マイノリティたちの多数派をつくる
 原発事故の被害者たちが孤立しないために

コリン・コバヤシ(ジャーナリスト)
《講演》福島12年後 ── 原発大回帰に抗して【前編】
 アトミック・マフィアと原子力ムラ

下本節子(「ビキニ被ばく訴訟」原告団長)
《報告》魚は調べたけれど、自分は調べられなかった
 一九五四年の「ビキニ水爆被ばく」を私たちが提訴した理由

木原省治(上関原発反対運動)
《報告》唯一の「新設」計画地、上関原発建設反対運動の41年

伊藤延由(飯舘村「いいたてふぁーむ」元管理人)
《報告》飯舘村のセシウム汚染を測り続けて
 300年の歳月を要する復興とは?

山崎隆敏(元越前市議)
《報告》原発GX法と福井の原発
 稲田朋美議員らを当選させた原発立地県の責任

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山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)
《報告》原発利用促進のためのGX脱炭素電源法案の問題点

原田弘三(翻訳者)
《報告》「気候危機」論についての一考察

井筒和幸(映画監督)×板坂 剛(作家)
《対談》戦後日本の大衆心理【後編】

細谷修平(美術・メディア研究者)
《映画評》シュウくんの反核・反戦映画日誌〈3〉
 わすれてはならない技術者とその思想 ──『Winny』を観る

三上 治(「経産省前テントひろば」スタッフ)
《報告》今、僕らが思案していること

佐藤雅彦(ジャーナリスト/翻訳家)
《報告》亡国三題噺
 ~近頃“邪班(ジャパン)”に逸(はや)るもの
  三重水素、原発企業犯罪、それから人工痴能~

山田悦子(甲山事件冤罪被害者)
《報告》山田悦子の語る世界〈20〉
 グローバリズムとインターナショナリズムの考察

再稼働阻止全国ネットワーク
原発の全力推進・再稼働に怒る全国の行動!
福島、茨城、東京、浜岡、志賀、関西、九州、全国各地から

《福島》古川好子(原発事故避難者)
福島県富岡町広報紙、福島第一廃炉情報誌、共に現地の危険性が過小に伝えられ……
事故の検証と今後の日本の方向を望んでいるのは被害者で避難者です!
《東電汚染水》佐内 朱(たんぽぽ舎ボランティア)
電力需給予備率見通し3.0%は間違い! 経産省と東電は石油火力電力七・六%分を隠している! 汚染水の海洋放出すべきでない! ── 4・5東電本店合同抗議に参加して
《東海第二》志田文広(とめよう!東海第二原発首都圏連絡会)
運動も常に情報を受信してすぐに発信することが大事
4月5日定例の日本原電本店行動のできごと
《浜岡原発》沖 基幸(浜岡原発を考える静岡ネットワーク)
中電が越えなければならない「適合性審査」と「行政指導」
《志賀原発》藤岡彰弘(「命のネットワーク」事務局)
団結小屋からメッセージ付き風船を10年余飛ばし続けて
《高浜原発》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
「関電本店~高浜原発230kmリレーデモ」に延べ900人、
「関電よ 老朽原発うごかすな!高浜全国集会」に320人が結集
《川内原発》鳥原良子(川内原発建設反対連絡協議会)
「川内原発1・2号機の九電による特別点検を検証した分科会」まるで九州電力が書いた報告書のよう
《規制委》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
原発延命策を強硬する山中原子力規制委員会委員長・片山規制庁長官
《読書案内》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)
『3・11 大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦・青志社)

反原発川柳(乱鬼龍選)

私たちは唯一の脱原発雑誌『季節』を応援しています!

市民運動に対するタブー 『週刊金曜日』と『人権と利権』の書籍広告をめぐる事件 黒薮哲哉

株式会社金曜日の植村隆社長が鹿砦社の『人権と利権』に「差別本」のレッテルを張った事件からひと月が過ぎた。7月の初旬、両者は決別した。事件は早くも忘却の途に就いている。重大な言論抑圧事件が曖昧になり始めている。

事件の背景に、市民運動に依存した『週刊金曜日』の体質がある。ジャーナリズムの視点から市民運動の在り方を客観的に検証する姿勢の欠落がある。

この点について自論を展開する前に事件を概略しておこう。

◆Colaboの仁藤氏らによるSNS攻撃

Colaboは、仁藤夢乃氏が代表を務める市民運動体である。「中高生世代の10代女性を支える活動」を展開してきた。日本最大の歓楽街・東京の歌舞伎町などで、売春などに走る少女を保護・啓蒙する活動を続けてきた。そのための公的資金の援助も受けていた。

事件の発端は、鹿砦社が『人権と利権』の書籍広告を『週刊金曜日』に掲載したことである。この中にColaboの不正経理疑惑に関する記述も含まれていた。

これに反発した仁藤氏らが、SNSなどで、『人権と利権』の書籍広告を掲載した『週刊金曜日』を激しく非難した。仁藤氏も、『週刊金曜日』を指して「最悪」と投稿したという。

謝罪に訪れた植村社長(左)、右はColaboの仁藤氏

こうした動きに動揺した『週刊金曜日』の植村社長は、文聖姫編集長と共に仁藤氏のもとを訪れ、『人権と利権』の広告掲載を掲載した事に対して謝罪したあげく、『週刊金曜日』誌上で謝罪告知を行った。植村社長らは、『人権と利権』の編著者である森奈津子氏と鹿砦社に対する聞き取り調査は行っていない。『人権と利権』を一方的に差別本と決めつけ、その旨を公表したのである。

さらに植村社長が鹿砦社を訪れ、今後は鹿砦社の広告を『週刊金曜日』に掲載しない旨を申し入れた。

事件を総括すると、植村社長がSNSの激しい攻撃に屈して、鹿砦社との決別を宣言したということになる。反戦映画を上映する映画館に対して、右翼が街宣車などで妨害し、それに屈して映画館が上映を中止するのと同じ構図が、「ネット民」と『週刊金曜日』の間で起きたのだ。ある意味ではSNSの社会病理が露呈したのである。

わたしは、自著『新聞と公権力の暗部』(鹿砦社)の書籍広告が問題となった『人権と利権』の書籍広告と同じ枠に掲載されていたこともあって、植村社長に質問状を送った。そして植村社長からの回答を待って、「週刊金曜日による『差別本』認定事件、謝罪告知の背景にツイッターの社会病理」と題する記事を、みずからのウェブサイトに掲載した。

この記事は、フェイスブックの「FB『週刊金曜日』読者会」にも投稿したが、公表の承認を得ることはできなった。

◆公的資金の検証は納税者に許される当然の権利

さて、この事件を通じてわたしは、市民運動とジャーナリズムのあり方を再考した。市民運動を無条件に「正義」と決めつけていいのかという問題である。やはりちゃんと取材して、市民運動のやり方に問題があれば、それを指摘すべきだというのが、わたしの考えだ。

鹿砦社が『人権と利権』の企画を通じてColaboを検証対象にした背景には、この市民運動体が東京都から多額の公金を得ていた事情がある。しかも、その公金に対する住民監査請求が通った。最終的に東京都は、不正経理は無かったと結論づけたが、都の発表が真実とは限らない。住民の視点から公的資金の使途を再点検するのは納税者に許される当然の権利である。

ところが植村社長は、当事者を取材せずに、一方的に謝罪告知を行ったのである。市民運動体=正義という偏見と、『週刊金曜日』が多くの市民運動体に支えられている事情が背景にあるようだ。

◆過去のしばき隊の問題でもトラブル

実は、今回の事件と類似した出来事が過去にも起きている。これについて植村社長は、鹿砦社の松岡社長に送付した書面の中で次のように述べている。

2016年8月19日号の弊誌でも、今回と似たようなトラブルがありました。同号はSEALDs の解散特集でした。代表の奥田愛基さんと映画監督の原一男さんとの対談がメインで、表紙は両氏が並んでいる写真でした。その裏表紙には『ヘイトと暴力の連鎖 反原連─SEALDs─しばき隊─カウンター』と題する貴社の書籍の広告が掲載されていました。

「SEALDs を特集しておいて、SEALDs を叩く本の広告を載せている」などと、弊社は様々な批判を受けました。北村肇前社長時代のトラブルですが、その記憶は、弊誌の読者に強く残っており、私が社長になった後も、「鹿砦社の広告を出すべきではない」という批判の手紙などが私の手元や編集部に送られてくることもありました。

『週刊金曜日』に、鹿砦社の『ヘイトと暴力の連鎖 反原連─SEALDs─しばき隊─カウンター』の書籍広告を掲載した際に、同社に市民運動の関係者から批判が殺到し、それが今回の植村社長の方針にも影響しているというのだ。ただし、北村前社長は植村社長と異なり、外圧には屈しなかったが。

◆市民運動に対するタブー

『週刊金曜日』が創刊されたのは1993年だった。本多勝一氏らが中心になり、最初は日刊紙を創刊する方向で可能性を探っていたのだが、その壁は高く、前段として週刊誌を立ち上げたのである。当時は、広告に頼らないタブーなきメディアを目指す方針を打ち出していた。実際、既存のメディアが取り上げない事件を扱うようになった。ジャーナリズムとして一定の役割を果たすようになっていたのである。

(左)しばき隊、(右)反核運動の闘士。いずれも健全な社会運動の足を引っ張っている

記事の内容について抗議があった場合、反論を掲載する方針もあったように記憶している。「FB『週刊金曜日』読者会」が、わたしの投稿を受け付けなかったことからも明白なように、現在は、反論権の尊重という考えも捨てたようだ。

しかし、市民運動はそれほど崇高なものなのだろうか。もちろん模範となる市民運動が存在することも紛れない事実である。だが、問題を孕んでいる運動体があることも否定できない。たとえばしばき隊である。

周知のようにこの市民運動体は、2014年12月に大阪市の北新地で暴力事件を起こした。ニセ左翼という評価もある。被害者の大学院生は、鼻骨を砕かれるなど瀕死の重傷を負った。事件現場の酒場にいたリーダー格の女は、自分は暴行には加わっていないと逃げとおしたが、大阪高裁の判決で次のような事実認定を受けた。

被控訴人(リーダー格の女)は、Mが本件店舗に到着した際、最初にその胸倉を掴み、AとMが本件店舗の外に出た後、聞こえてきた物音から喧嘩になっている可能性を認識しながら、飲酒を続け、本件店舗に戻ってきたMがAからの暴行を受けて相当程度負傷していることを確認した後、「殺されるなら入ったらいいんちゃう。」と述べただけで、警察への通報や医者への連絡等をしないまま、最後は負傷しているMを放置して立ち去ったことが認められる。

被控訴人(リーダー格の女)は、本件傷害事件の当日、本件店舗において、最初にMに対し胸倉を掴む暴行を加えた上、その後、仲間であるAがMに暴行を加えている事実を認識していながら、これを制止することもなく飲酒を続け、最後は、負傷したMの側を通り過ぎながら、その状態を気遣うこともなく放置して立ち去ったことが認められる。

ところが『週刊金曜日』はこの事件をタブー視していて、事件の概要すらも報じていない。同誌の支援者にしばき隊の関係者が多いこともその原因かも知れない。

この事件を扱った『ヘイトと暴力の連鎖 反原連─SEALDs─しばき隊─カウンター』の書籍広告を『週刊金曜日』に掲載したところ、抗議が殺到したことは、先に植村社長の書面を引用して説明した通りである。

しばき隊の他にも、過激な市民運動は存在する。たとえば「喫煙撲滅運動」を推進している人々である。彼らは喫煙者に対して憎悪に近い感情を持っていて、自宅で窓を閉めて煙草を吸った住民に対して、4500万円の損害賠償を求める裁判を支援した。支援の具体的な方法として、たとえば市民運動のリーダーである医師が裁判の原告のために偽診断書を作成した。この診断書交付は、「裁判の中で医師法20条違反の認定を受けている。この事件については、拙著『禁煙ファシズム』に詳しい。

電磁波問題に取り組んでいる市民運動体の中にも、首をかしげたくなる運動体がある。たとえばAという団体は、体の不調の原因を全て電磁波のせいにする。本当の「電磁波過敏症」と精神疾患の区別もしない。誰でも自分たちの運動に巻き込んで、会員を増やして、会費(機関紙代)収入を増やす意図があるからだ。科学的根拠に基づいた情報発信とは無縁と言っても過言ではない。情報の信憑性という点でも鵜呑みにするのは危険なのだ。

わたしが観察する範囲では、有益な市民運動体がある反面、反社会的な性質をした市民運動体もかなり多い。となれば市民運動も当然ジャーナリズムの監視対象にしなければならない。

『週刊金曜日』は、創刊の原点に立ち返って、あらゆるものに対するタブーを排除すべきではないか。

【付記】

上記に触れられている、過去の広告問題について、当時の「デジタル鹿砦社通信」(2016年9月10日号)の記事を以下再録しておきます。この通信のコピーは植村社長来社の際に手渡ししています。(松岡利康 鹿砦社代表)

原一男監督のブログ記事について──松岡利康(鹿砦社代表)

2016年9月10日 付け「デジタル鹿砦社通信」再録

伝説的な映画『ゆきゆきて、神軍』の原一男監督がそのブログ(2016年9月8日付)で「週刊金曜日『鹿砦社広告問題』に触れて」と題して執筆しておられます。私たちにとって原監督は雲の上の存在です。こういう形ではありますが採り上げていただいて、ある意味、感慨深いものがあります。

同時に、いってしまえば、たかが広告如きで、原一男ともあろう名監督が不快感を覚えられ、『金曜日』と激しくやり合われている様に驚くと共に忸怩たる想いです。

原監督は今後、『金曜日』に連載されるということですが、その連載と当社の広告が再びがち合うこともあるやと思われます。その際も、いちいち『金曜日』とやり合われるのでしょうか?

くだんの広告は、もう数年前から毎月1度(2度の時期もあったり、毎週文中に出広していた時期もありましたが)定期出広していて、SEALDs解散特集とがち合ったのは偶然で、掲載誌が送られてきて私たちも初めて知り驚いた次第です。

もし、SEALDs解散特集とがち合うことが予め判っていたならば、右上の広告は『SEALDsの真実』にしたでしょうし、また掲載をずらして欲しい旨打診があれば、これは契約違反で、私どもが『金曜日』に抗議したことでしょう。

これまで新聞などでは内容を検閲されて広告掲載を拒否されたことは何度かありますが、『金曜日』は比較的自由で拒否されたことはありません。だからといって、内容については私たちなりに考慮し、“金曜日向け”に版下を作成しているつもりです。

当社が7月に刊行した『ヘイトと暴力の連鎖』は、一読されたら判りますが(原監督は当然すでにお読みになっているものと察しますが)、タイトルに「ヘイト」の文字を付けているとはいえ、決して、俗に言う「ヘイト本」ではありません。

私たちは、知人を介して当社に相談があった集団リンチ事件に対して、被害者の大学院生は、弁護士やマスコミなどにも相談しても相手にされず、「反差別」の名の下にこんなことをやったらいかんという素朴な感情から取り組んでいるものです。
ネット上では本も読まずに非難の言説が横行しておりますが、全く遺憾です。

SEALDsにつきましては、当初は「新しい学生運動」という印象で好意的に見ていましたが、徐々に疑問を感じるようになりました。実際に奥田愛基君にも話を聞き(『NO NUKES voice』6号掲載)、次第に否定的になっていきました。これも同誌に書き連ねている通りです。

SEALDsにしろ、リンチ事件を起こした「カウンター」にしろ、バックに「しばき隊」とか「あざらし防衛隊」なる黒百人組的暴力装置を控えて、やっていることには疑問を覚えます。作家の辺見庸が喝破した通りです(が、しばき隊や、SEALDs支持者らからの激しいバッシングに遭い、そのブログ記事は削除に追い込まれました)。「しばき隊」の暴力を象徴しているのが集団リンチ事件です。これでいいのでしょうか? 原監督は、しばき隊やあざらし防衛隊の暴力の実態を知った上で発言されておられるのでしょうか?

原監督には本日(9月9日)、上記の内容で手紙と『ヘイトと暴力の連鎖』等関連出版物を送りました。これらをしっかり読まれ、認識を新たにされることを心より願っています。

問題になった『週刊金曜日』(2016年8月19日号)表紙と、裏面の鹿砦社広告

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉のタブーなき最新刊!『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』
黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

ロックと革命in京都1964-1970〈10〉「端境期の時代」挑戦の赤軍派 ──「長髪よ、さらば」よど号赤軍「革命家になる」 若林盛亮

◆「端境期の時代」挑戦の赤軍派

「最後の京都」は“Fields Of Gold”-「辛い別れの時」を敢えて明るく、「晴れやかに送り出す時」、「“黄金の世界を歩む”時」にしてくれた最後の恩人の心遣いを胸に私の上京は幸せな旅立ちとなった-ありがとう! ただ前を向いて進もう、互いに! この思いを胸に私は京都を離れた。

列車は午前0時前の京都始発「東京行き」各駅停車鈍行、大学時代からよく東京遠征に利用した懐かしい古い車体、私は数々の青春の記憶を刻む硬い座席に新天地に向かう身を委ねた。何が待っているかは想像できない、でも自分は組織と同志を得てこれから革命の舞台に立つのだ。心配よりも期待に胸膨らむ、そんな感じの旅立ちだった。

東京到着は翌朝正午前、連絡先に電話を入れた、ただならぬ声がして「すぐに新聞を買って読んでから来い」と指示された。朝刊トップにはその日の未明、「大菩薩峠で軍事訓練中の赤軍派全員逮捕!」の見出しが躍っていた。奇しくも赤軍派にとって一大事変のあった11月5日に私は東京に到着することになった。この日の事変が後の「国際根拠地建設」のためのよど号ハイジャック闘争-朝鮮への飛翔、私の今日につながる運命の分岐点、その契機になることになる。私の上京の日が自分の人生を決める契機となる日とは! いま思えば不思議な運命の悪戯??

大菩薩峠事件。警察に急襲され逮捕される赤軍派のメンバー(1969年11月5日)

指定の場所に行くと「そういう事情だからまず救援をやってもらう」と指示を受けた。

赤軍派の救援事務所は王子にあった。「アポロ」と呼ばれていた一軒家の事務所にその日から詰めることになった。当初は電話の応対が基本だった。指導的幹部らはほぼ逮捕状が出ていたので地下に潜行、主立った活動家も同じだった。しかも大菩薩峠で大量逮捕者を出した軍事行動直後だけに警察の追求、監視は厳しく、相互の電話での連絡がいわば生命線、警察の盗聴を前提に連絡先の電話番号は暗号で伝え、逮捕状のある幹部、活動家はみな偽名を使った。初っぱなから「地下活動」の異様な空気の中で私の政治活動が始まった。外出時は常に尾行を警戒した。地下鉄に乗るときはドアの閉まる直前に飛び乗るとか……赤軍派の活動モードは予期通りまさに非日常の生活だった。

ある時、「○○高校の××です。渋谷さんにこれから全校ストライキに突入すると伝えてください」との連絡を受けた。凄くせっぱ詰まった高校生の声、戦場からの報告だった。東京は常時戦場、高校生までが闘っている、そんな強烈な印象を受けた。「渋谷」とは当時の田宮の偽名、山手線各駅の名前を使い分けていたのだ。

後にアポロは西新宿の柏木町に移ったが、そこにも高校生がよく来た。別の高校に通う恋人が大菩薩で逮捕され「救援を手伝う」という女子高生が来た。貝津女子校の生徒とか言っていた。大人しそうで清純な「良家のお嬢さん」風の女子高生だった。私の「ならあっちに行ってやる」時代を想起させる東京の早熟な十代を目にした私はなんとか彼女たちを応援したいと思ったものだ。ミニスカートにブーツという超カッコイイ姉御肌の女子高生もいた。救援事務所は男子高校生には縁のない所だから来るのは女子高生。赤軍派は高校生に人気があると聞いてはいたが女子高生までいて、その現実を目の当たりにした思いだった。新しい世代に人気があるということはとてもいいことだ。これは私の赤軍派への信頼を高めるものだった。

後に小西(隆裕)から聞いた逸話だが、大菩薩峠での軍事訓練対象者を募るオルグ時、大学生は躊躇するものが多かったが高校生はちがったという。赤軍派の方針では、その軍事訓練部隊はそのまま「70年安保決戦」の先陣を切る首相官邸占拠・前段階武装蜂起を担う戦闘部隊になる、だから大菩薩に行くかどうかは「命がけの軍」に入るかどうかの決心を各人に問う性格を帯びた。

その時、ある高校生が躊躇する大学生たちにこう言ったそうだ。「気にしないでください、僕たちがやりますから」と。躊躇する大学生たちを責めるのではなく、むしろ彼らを気遣い慰める態度に出たことに驚きとても感動した、そう小西は話してくれた。「自己犠牲という花」はいつもこのように美しい。

この高校生は1年生、まだ15歳だったという。どうしてこんな高校生が生まれてきたのだろう?

「端境期(はざかいき)の時代」は「1970年」を象徴する言葉として鹿砦社が本のタイトルにしたものだが、革命の端境期は‘69年中盤以降にすでに始まっていた。

端境期とは、毎年3、4月の春期になると前年秋収穫の新米が古米に代わって出回る時期だが、もし前年度が不作や凶作で新米が提供されなければ、古米を食べ尽くした後には飢えと餓死が待つという時期を指す言葉だ。

1970年は「70年安保決戦」の年、しかし「古米が尽きて新米が出なければ餓死が待つ」、そんな革命の端境期だった。

1967年秋の「ジュッパチ-山﨑博昭の死」を契機とし‘68年に熱い政治の季節の始まった革命は、‘69年東大安田講堂死守戦敗退以降、日を重ねる毎に全国大学のバリ解除で学生運動は活動拠点を失い後退局面に入る。そして‘70年には既存の革命勢力は力を失い新しい革命勢力が出なければ「安保決戦など夢のまた夢」どころか「革命の餓死」が待っている、そんな端境期の様相を呈するようになった。このままではいけない! 誰もがそれを感じていた。

こんな時期に革命の舞台に立った私や高校生が赤軍派に求めたのは端境期に現れるべき「古米」に代わる「新米」、革命を餓死から救う新しい革命勢力の逞しい生命力だった。これまでと同じ「ゲバ棒とヘルメット」では餓死が待つだけ、赤軍派の攻撃的路線、「軍」による武装闘争を端境期突破の「新米出現」と期待を寄せ、赤軍派の闘いに一縷の望みを託しこれに全てをかける、そのようなものだったと思う。もちろん何か確信があってのものではなかった、でも少なくとも黙って餓死を待つよりは挑戦すべき価値があると思ったのは確かだ。いまでは想像もつかないだろうが当時はそのような切迫した現実があったのは確かだ。

幕末維新の思想家、革命家、吉田松陰は次のような言葉をわれわれに遺している。長いが引用する。

やろう、とひらめく。

そのとき「いまやろう」と腰を上げるか、「そのうちに」といったん忘れるか。

やろうと思ったときに、なにかきっかけとなる行動を起こす。それができない人は、いつになっても始めることができない。むしろ次第に「まだ準備ができていない」という思いこみの方が強くなっていく。

いつの日か、十分な知識、道具、技術、資金、やろうという気力、いけるという予感、やりきれる体力、そのすべてが完璧にそろう時期が来ると、信じてしまうのだ。

だがいくら準備をしても、それらが事の成否を決めることはない。

いかに素早く一歩を踏み出せるか。いかに多くの問題点に気づけるか。いかに丁寧に改善できるか。少しでも成功に近づけるために、できることはその工夫でしかない。

(「超訳 吉田松陰-覚悟の磨き方」:サンクチュアリ出版)

まだ革命は死んではいない、至る所に残り火は燻っている、この火をかきおこすものは何か? 新たな次元の闘いの勝利でみなに勇気を与えること、それが赤軍派だ、そんな風に考えたと思う。少なくとも私はそんな感じだった。いずれにせよ「新米」をめさす挑戦者が出るべき時期だったことは確かだ。その「新米」創出の一翼を担う、それは光栄なことだ、そんな心意気だった。

しかしながら赤軍派の闘いは「新米」を提供するに至らなかった。2年後の「連合赤軍事件」とその後、世を覆った革命運動への失望と幻滅を招くという「結果」を見てもわれわれ赤軍派の闘いは多くの問題点を含んでいた、その挑戦は失敗だったことは明らかだ。

でも誤解を恐れずに言えば、あの時、赤軍派で闘ったこと自体には何の後悔もない。少なくとも私はそう考えている。龍一郎さん式に言えば、「人生に 無駄なものなど なにひとつない」。

なぜこんなことを言うのかと言えば、当時、赤軍派に結集した若い高校生などの心には端境期特有の「新米を産み出す」という「挑戦者の魂」、松陰の言う「やろう、とひらめく」があったことだけは語っておきたいと思うからだ。事を成すに当たって「挑戦者の魂」はとても重要なことだ。

でも結果的には、この「挑戦者の魂」を活かす力が赤軍派にはなかった、だから赤軍派や当時の革命運動にあった「多くの問題点に気づけるか」「いかに丁寧に改善できるか」、これを休みなく続けていくこと、これが私たちには重要なことだと思う。

かなり先走って総括的な話になったが、ここで言いたかったことは私が上京当時の赤軍派に結集した若者たちの空気感はそのようなものだったということだ。一言でいって、とても前向きな挑戦者精神に満ちていた。これが私の実感であり、赤軍派に加入できたことが喜びだったことはまぎれもない事実だ。

これを若さ故の経験不足、無知故の若気の軽挙妄動と言うこともできるだろう、でもそれでは当時の革命運動の「問題点に気づき」「改善点を見いだす」ことには役立たないと思う。

◆「ベトコンのやった“あれ”だよ」

年が明けて翌1970年初頭、私は「軍」への参加を求められた。「いよいよ来たか」とちょっと緊張したが赤軍に入った以上、私には願ってもないこと、その場で快諾した。具体的には「国際根拠地建設」闘争を担う「軍」への参加だった。

「国際根拠地建設」という新たな方針は、大菩薩峠での軍事訓練失敗、大量逮捕の教訓から国内では「軍」建設には限界がある、ならば国外に「軍」建設、及び軍事訓練拠点を設けるというものだった。軍事委員長の重責にあった田宮が自ら「国際根拠地建設」闘争を率いるとしたのは、この闘いに組織の命運を賭けるという当時の赤軍派の切迫した事情を反映したものだ。私の上京の日が大菩薩事件の日だったことが私の運命を決める契機になったと先に書いたが、それは赤軍派のこのような事情から来るものだった。

国際根拠地建設の「軍」のことを平たく言えば、労働者国家(「社会主義国」と認めないからこう呼んだ)を国際根拠地とし、そこで軍事訓練を受けて帰国、秋の「70年安保決戦」で首相官邸占拠、前段階武装蜂起を貫徹する「軍」ということだ。

「前段階武装蜂起」とはロシア革命のような全人民的武装蜂起に至る前段階、その呼び水となる武装蜂起、いわば先駆け的な武装蜂起のことだと赤軍派は位置づけ、「前段階武装蜂起」を次の革命の高揚を開く決定的闘争、当面の最大目標としていた。

いまいち具体的イメージを持てない私は、行動を一緒にしたある時、中央委員だった中大の前田佑一さんに「前段階武装蜂起ってどういうことをやるんですか?」と訊いた。すると前田さんは「(旧正月テト攻勢で)ベトコンがやった“あれ”だよ」と言って、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)の決死隊が首都サイゴンの米大使館を武装占拠、最後の一兵まで戦って全員戦死した戦いのことを話した。結果的にその戦い以降はベトナム全土が解放戦線側の攻勢に沸き立ち圧倒された米軍の敗色が濃くなったというのが、前田さんの言う「“あれ”だよ」なのだと教えられた。

印象的だったのは、米大使館占拠の際「ベトコンは岩に鎖で自分をくくりつけ撃たれて死ぬまでその場を離れられないようにしたんだ」という前田さんの言葉だった。自分たちがやるのは、そんな壮絶な闘い方、それを「“あれ”だよ」とさらっと言う前田さんに私は「凄いことを平然とよく言えるなあ」と感嘆したことを覚えている。俗に言えば「カッコイイ」と思った。同時に自分に果たしてそんなことができるのかなあ、と漠然と思った。いまいち現実感がなかったが、でもとにかくそういう「軍」に入ったのだということだけはわかった。頭ではわかったけれどどれだけ覚悟が伴ったかははっきり言って自信はない。そんな覚悟の必要性だけは理解した。

 

◆「さらば、長髪」よど号ハイジャック闘争へ

3月頃になって赤軍派委員長の塩見さん、軍事委員長の田宮それぞれと個別に面談を受けた。当初は「武装して船でキューバに行く」という話だった。ゲバラもやったキューバ革命は魅力的だったが、太平洋を越えて船で行くとはちょっと私の想像を超えていた。しばらくして「飛行機をハイジャックして北鮮(当時はそう呼んだ)へ」と変わった。後に小西に聞いたことだが、赤軍派が接触を持った在日キューバ大使館員から「もっと近くにいい国があるじゃないか」と助言されての「北鮮行き」決定だということらしい。

こうして「軍」加入のわれわれは「北鮮」へのハイジャック闘争を決行することを最終的に皆で確認した。私は「船でキューバへ」というよりは実行可能性があるだろうと思った。当初は数十人(候補者がそれだけいたということだろう)が各飛行場から分散して飛び立ち編隊飛行で行くという誇大気味の話まであったが、最終メンバーには9人が残り、羽田からの単独ハイジャックとなった。

ハイジャック決行を前にして私は長髪と「おさらば」した。目立ってはならないという活動上の理由からだったが、私には青春期のアイデンティティそのものだった長髪を切るというのはちょっとした決心だった。でもなぜか躊躇はなかった。京都での恩人たちとの縁結びでもあった私の長髪、でも彼らの恩に報いるためにも越えねばならない一線、「革命家になる」ための決意表明、と言えばカッコよすぎるが、まあそんなものだった。理髪師の方が「ホントに切って大丈夫なんですか」とためらった、私は「けっこうですよ」と答えバサバサ髪の切られていくのを淡々と鏡で見ていた。別に惜しいとは思わなかったが、仕上がりの短髪姿を見て「自分は案外、平凡な顔なんや」とちょっとがっかりした。

この日以降、私はサラリーマン風のヘアスタイルに合う背広とステンコートに着替え、その恰好のまま決行当日の「よど号」に搭乗した。余談だが、このコートは今も大事にわが家に保管されている。あの時の「青春の血気」を思い起こさせる「記念品」だ。

ハイジャック闘争を語ると単なる武勇伝になりかねないので、ここでは触れない。金浦空港での緊迫の三泊四日、韓国当局や機内の乗客とのやりとりなどの逸話に関しては、『追想にあらず』(講談社エディトリアル)に書いたので興味のある方はこちらをお読み頂ければと思う。

ハイジャック決行直前、各自に決意文の提出を求められた。政治文章に不慣れの私だったが、その時の赤軍派理論の知識を総動員して書いた。いま読むと稚拙かつ観念的、主観的で粗雑な抽象論でお恥ずかしい限りのものだ。でもハイジャック闘争決行を間近に控え、気分が高揚していたので、当時の高揚感が反映されているのは事実だ。そういう意味で当時の素直な感情が見える文章、「こんなこと考えてたんや」と23歳に成り立てほやほやの自分を懐かしく想起させる文章ではある。そういう意味で当時の赤軍派の冊子から私の決意文の感情部分、最後の結語だけを記そうと思う。それは「京都青春記」の最後にたどり着いた結語でもある。

我々は断じて生きる。たとえそれが人類の生活史の一片であっても……。生きて生きて生き抜く。たとえ吾が個的生は破壊されても……。私の生が人民に転化、吾が生の炎が人民の深き怨念に点火し人民の生と一体化したとき、私の生はより大きな「愛」、「人類史の創造」という「愛」に育まれ、生き抜くことだろう。寂滅と隣りあわせのチッポケな「愛」なそ糞食らえ! 私は断じて生き抜く、断じて!

「世界赤軍として生き抜く」と題した私の決意文、しつこいくらい「断じて生き抜く」で一貫された結語だが、「吾が個的生は破壊されても」、つまり自分が死んでも人民の「より大きな愛」の中で「生きるのだ」ということを言いたかったのだと思う。別に誰かに習った言葉じゃない、人生にも政治にも未熟な23歳の頭から出てきた言葉だ。おそらく「ベトコンのやった“あれ”だよ」と前田さんから聞いていたこともあって、ハイジャック闘争、あるいは前段階武装蜂起の闘いは「命がけ」になる、漠然とではあれ「死」を意識したとき「自分の死の意義」を考えざるを得なかったのだろう。その結論が「人民の大きな愛の中で生きる」ことなのだということだった。たぶん人間、そういう状況に身を置いたとき誰もが考えることなのだろう。この部分だけは「よくぞ言った」と23歳ほやほやの若林君を誉めてあげたい気になる。下手をすれば自己満足だが、いま自分がこのように生きているかの自省にもなる。

(ただ最後の“チッポケな「愛」なぞ糞食らえ!”だけはいただけない、こう言っちゃいけないと思う。愛に大きいも小さいもないのだから。これは未練たらたらの私情がついぽろり出てしまったのかも。)

田宮は出発宣言を「最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである!」で締めくくった。

後に「よど号赤軍」を象徴する言葉になったが、皆の気持ちを代弁する名文句だと思う。私自身は当時、『少年マガジン』を読んでなかったので、ジョーのことは何も知らなかったけれど……。

こういう心理状態の中、1970年3月31日、私たちは「よど号」に搭乗、早朝の羽田を飛び立った。福岡板付を経て韓国金浦空港での三泊四日の厳しい攻防を経て4月3日、「よど号」は夕闇迫るピョンヤン郊外の美林飛行場に着陸した。ついにわれわれは勝利したのだ。私が闘争で味わった最初の勝利感、その達成感だった。どっと疲れが出て一時宿泊先のピョンヤン・ホテルで三日間ほぼ一日中爆睡した。朝鮮の案内人が「アイヤ~」と驚いていた。

私の「ロックと革命in京都 1964-70」、この「京都青春記」はここで物語としては終わる。このまま終わるのは、なんか尻切れトンボみたいなので、「終章」のような結語、“「端境期の時代」の闘いは終わってはいない“的なものを次回に書いて「京都青春記」を締めくくりたいと思う。(つづく)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”
〈10〉「端境期の時代」挑戦の赤軍派 ──「長髪よ、さらば」よど号赤軍「革命家になる」

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』