《5月のことば》やわらかい五月の風を胸いっぱいすいこんで……(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

5月になりました──。
今年も早3分の1が過ぎたことになります。

本来5月は1年で一番過ごしやすい月ですが、今年は、新型コロナは相変わらず留まっていて、これだけでも大変なのに、ロシアがウクライナ侵略戦争を始め、泥沼化の様相を呈しています。

この煽りで、早速円安になり、物価も上がり続け、そのうちさらに不景気となることでしょう。ただでさえコロナ不景気で苦労しているのに、本当に絶望的になります。

しかし、それでも私たちは創意工夫し支え合い生き続けなければなりません。

閉じ篭ってばかりいても暗くなるばかり、「やわらかい五月の風を胸いっぱいすいこんで背のびをして」気分転換し心機一転、前を見て歩み続けましょう!

5月3日 朝日新聞阪神支局銃撃事件35年(1997年) 
*同支局は鹿砦社と同じ西宮に在ります。甲山事件、グリコ・森永事件と共に私にとってこれからも探究すべく三大事件です。

5月15日 沖縄「返還」(併合)50年(1972年)
あっというまでしたが、記憶の糸を辿りながら、その意味を考えましょう!

(松岡利康)

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《4月のことば》ゆっくりでいい 一歩一歩大地を踏みしめて(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

コロナ禍が続く中、新年度4月になりました。

新たなスタートの月です。

本来なら明るく行きたいところですが、国内ではコロナ禍が続き、国際的にはロシアがウクライナを侵略(侵攻ではなく侵略だ)し、ウクライナの必死の抵抗で長期化し停戦の見込みも立っていません。かつてのスターリニズムが生きていたことを実感させます。戦争は対岸の火事ではなく、明日は我が身、強い危機感があります。

国内外で混迷を極める中で、私たちはどう歩んでいったらいいのでしょうか。

そう、今月の言葉にあるように、「ゆっくりでいい 一歩一歩大地を踏みしめて」歩んでいくしかありません。

(松岡利康)

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《3月のことば》花も虫も動物たちも……(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

3月になりました。今年もあっというまに2ヵ月が過ぎました。新型コロナ第6波急拡大と、例年にない厳寒の中で気づいたら、もう3月――。

「冬の寒さに耐えて生きていたんだね」

コロナ禍で、多くの方々が、それまでの生活のペースが狂いました。みな「冬の寒さに耐えて」います。かく言う私(たち)も例外ではありません。昨年の今頃と現在とでは見える風景が全く違っています。それでも、まさに「冬の寒さに耐えて生きて」きました。

しかし、春は一歩一歩確実に近づいています。もうすぐコートを脱げる時がやって来るでしょう。

(松岡利康)

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《1月のことば》越えてゆけ 今を 少しだけ前へ ちょっとだけ前へ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

2022年を迎えました。
新たな年、皆様、いかがお過ごしでしょうか?

コロナ禍が2年も続き、社会は疲弊しています。
1年ならまだしも2年となると私たちの会社も大きな影響を受けました。
昨年、とりわけ後半は大変でしたが、皆様方のご支援により、なんとか年を越せました。

本年、まだコロナの動向は不透明ですが、コロナなどに負けず、この困難を越えてゆかねばなりません。

「少しだけ前へ ちょっとだけ前へ」。

本年も、魂の書家・龍一郎の言葉と力強い筆致に力をもらい頑張っていきましょう!
昨年は私たちもコロナに負けそうになり少しへたりましたが、本年は心機一転、反転攻勢に打って出ます!
旧に倍するご支援をお願いいたします!(松岡利康)

新年1月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号!

 

《12月のことば》縁 出会いは人生を豊かにする 別れは人生を深くする (鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

2021年のカレンダーも最後の1枚になりました。

本当に1年経つのは速いものですね。

今年は当社もコロナの影響をもろに受けました。

顕在化しなかっただけで、危機は昨年から水面下で進行していたようです。そりゃそうでしょう、コロナが何波も襲来し、そのたびに書店さんがクローズを余儀なくされ売上ゼロになった月もあったりで、のちのち出版社に逆流することは判り切ったことです。

出版は取次会社の精算が遅いので、気づくのも遅れてしまいました。

昨年はまだなんとか売上微減でしたが、今年は急激に落ち込み青息吐息です。

しかし、私たちはこれまで何度も危機を乗り越えてきましたので、ここはなんとしても乗り越える決意です。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

11月29日に『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を発行いたしました。

1971年は、私がちょうど19歳から20歳になる頃で、一所懸命に闘った年でした。50年前の出来事、そうして、なにがしかの〈縁〉があって出会った人たち、別れた人たち……出会いと別れを繰り返しつつ齢を重ねてきました。走馬灯のように過ぎります。

この本には、そうした思い入れもあって目の疾患で難儀しつつも(ゲラを拡大コピーしたり、さらにルーペを使ったりして)多くの方々の寄稿と協力を得て心血を注ぎました。

ちょっとスケジュールをゆったりめに取って編集に当たりました。特に詳細に記された年表には苦労しましたが、こういう仕事も残しておくこともけっして無意味ではないでしょう。

1971年は地味な年で、あまり論じられることもありませんが、政治、文化、多くの面で転換期にありました。

政治的には、「返還」前の沖縄問題、開港前の三里塚問題を中心に、今とは比較にならないほど、まだ抵抗運動は続いていました。しかし、それも翌年早々起きた連合赤軍事件が私たちを絶望のどん底に落としました。

文化面では、そのインパクトでこの通信でも悪評でしたが、映画が、カラーテレビの登場等で斜陽を迎えます。

これを東映、日活はポルノ路線で乗り切りました。これには驚きましたが、経営陣の、この判断は、多くの批判が浴びせられながらも、生き延びるために賢明だったと思います。一方、ポルノ路線に乗らなかった大映は倒産してしまいました。

この問題を板坂剛さんと高部務さんが採り上げました。

板坂さんは日大全共闘(芸闘委)、高部さんも一時赤軍派で活動されていて、けっして軟派な方ではなく、むしろ硬派な方です。

詰まるところ、エロも革命も〈等価〉で、同じ位相で見ないといけないということでしょう。

◎「鹿砦社カレンダー2022」が完成いたしました! 12月7日発売の『紙の爆弾』1月号、同11日発売の『NO NUKES voice』30号の定期購読の方々に雑誌と一緒に発送いたします。好評で毎年不足しますので、今年は1700部(昨年は1500部、10年前に開始した時は1000部)と少し増やしました。それでもギリギリかと思います。これを機会に両誌の定期購読をお願いいたします!(松岡利康)

《11月のことば》上を向いて歩こう(2021鹿砦社カレンダーより/龍一郎・揮毫)

喜怒哀楽というように人にはいろいろな感情や表情があります。

人生には嬉しいことばかりではなく悲しいことも多々あります。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」とは誰もが知る有名な歌の歌詞です。

悲しい時にはこらえても涙が出ることはありますが、それでも笑顔で前を向いて歩いていきたいものです。

秋も深まり肌寒くなってきました。今年のカレンダーもあと2枚、来年2022年のカレンダーも校了し印刷に入っています。例年通り12月発行の『紙の爆弾』『NO NUKES voice』の定期購読の皆様方には一緒にお送りいたします。

定期購読まだの方は今すぐお申し込みお願いいたします。

(松岡利康)

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《10月のことば》一隅を照らす(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

10月の言葉は難しい。揮毫した龍一郎本人に解説してもらいました。

〈「一隅を照らす(いちぐうをてらす)」は空海と並ぶ比叡山の最澄の言葉です。
中村哲先生はご色紙を頼まれるとこの言葉を書いておられました。

各人は小さな力しか持たぬささやかな存在である。
しかし、それぞれが生きる場で小さな灯りを灯せば世の中は明るくなる。

この言葉は心に沁みます。〉

もはやこれ以上の解説は不要でしょう。

今年のカレンダーも残り少なくなりました。来年のカレンダーも龍一郎の揮毫が済み、着々と制作中です。11月末には完成し、まずは12月7日発行の『紙の爆弾』(同4日発送)、同11日発行の『NO NUKES voice』(同8日発送)の定期購読の方に同封(贈呈)させていただきます。

これを機会に両誌の定期購読(新規、継続)をお願いいたします。

(松岡利康)

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《9月のことば》満月に 君を想う(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

9月になりました──。

私事ながら、今月私は70歳になります。すでに黄泉の国に旅立った友人や、若い頃に出会い、今はどうしているか気になる人も少なからずいます。

あいつ、こいつ、あの人、この人……想い出とともに懐かしい顔が過(よ)ぎります。

いろいろな人たちに迷惑をかけて私は生きてきました。これから老い支度に入ります。後先さほど長くはありません。同世代ですでに亡くなった人もいるのに、これまで生き長らえてきたのが不思議です。

コロナ禍で思ったように身動きできず、故郷の友人はじめ会いたい人にも会いに行けず満月に想いをいたすしかありませんが。残りわずかとなったわが人生、これからもダメなことはダメと言い続ける、恥じない生き方をしたいと思っています。(松岡利康)

【管理人よりのお知らせ】
9月よりこの「デジタル鹿砦社通信」も新たな寄稿者を迎え、これまで以上に読み応えのあるものになると思います。新たな寄稿者は、森奈津子、黒薮哲哉、さとうしゅういち各氏です。ご期待ください!

『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)

今こそ鹿砦社の雑誌!

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